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N宅と飛行機と百合ダス
2011年10月22日(土)
N宅。東京は湿っている。窓から雨の匂いが強烈に入ってくる。twitterにも書いたが、やはり深夜のような早朝、暗闇の中で、一人で、Nの冷蔵庫を開けて食べ物を探すのはすごい経験であった。逆オオゲツヒメというか逆食わず女房というか、民話神話にのみこまれていくようであった。ゆうべ、コンブチャの話をしたが、発酵好きのNがこの話に食いつかぬワケはなく、さっそくtwitterに書いておった。こんどはコンブチャの瓶入りをおみやげにもってくることにした。 飛行機のなかでは、仏教の本をいろいろ読みちらしながら、やりかけの和讃をバッテリーの続くかぎり(あんまり続かない)やっていたのだ。数独をやりかけたが10分くらいでやめた。依存はすっかり断ち切れた。映画は新作はつまらなそうなのばっかりだったが、旧作で「Se7en」(どう書けばいいのか)、やってた。見た。この監督好きなんである。好きな監督といえば、ユーロスペースで浜野監督の「百合子、ダズヴィダーニャ」やっている。今回の来日つか上京目的のひとつはこれだ。
ヤモリと野生動物
2011年10月20日(木)
ヤモリシッターをしておるのだが、えさはこおろぎである。さっきころおぎがりーりーりーりーと鳴いているのを聞いた。なつかしい声であった。 あした日本行きの飛行機にのるのでこんなことをしている場合じゃないのだが、親鸞の和讃を読み解きつつ、ネットで新聞を読みまくっていた。オハイオの野生動物の事件である。日本語の新聞じゃらちがあかないので、しかたがない、読まないことにしている英語の新聞をかたっぱしから読みあさった。いたましい。ほんとにいたましい。Zanesvilleのシェリフの手伝いをして捕獲にあたっていたなんとかハナという野生動物の専門家の声が、abcニュースにのっていた。ほんとに胸がつぶれる思いであった。それでゲルの解体はぜんぜんはかどってないけれども、胸がつぶれすぎたのと、今日やってきたインフルエンザの予防注射でなんだかとっても疲れたので、ゲルの解体とゲルの梱包と家畜のまとめは明日の朝することにして今日はもう寝る。
死体のようなタケとお経と人生相談
2011年10月19日(水)
タケの寝方がどんどん死体っぽくなっていっておる。遠目で見て、死んでるんじゃないかと近寄ってみるとほんとに死んでるみたいなので、じっと観察してみても、生きてるというシルシがなかったりする。おなかは動いてないし、顔もぴくぴくしていないし。で、そっとさわっても起きなかったりする。何回かさわってると「はっ」とあわてて目をさましたりする。昔は、寝てるふりをしてるだけで寝てなかった。こっちが動けば、さっと立ち上がってついてきたものだ。しかしこの寝方、どっかで見たなと思うとうちの父だ。よく寝る老人なのだが、寝てるときに行ってみると、死体みたいな顔で寝ている。何で死体にみえるのかというと、たぶん脱力した姿勢だ。父はあごがはずれたみたいになって寝ているので、昔の洞窟でみいらになろうとしている年取った坊さんのような感じだし、タケは宮崎学の動物の死体写真みたいに四肢を脱力させて、頭なんか犬用ベッドからずり落ちておる。一日に何回もタケの前に立って生きてるのかと確かめてみたくなってるのは、あたしだけじゃない。 あさって日本行きなのでゲルの解体をはじめてみたが、コンブチャを飲むのに忙しくてなかなかはかどらない。全身が発酵しておる。25日に久留米でお経の話、30日に荒尾で、ライブ万事OKをやる。これはその場に人生相談もってきてもらってそこで答えるのだ。H田にいわれるまでもなく、なんかだんだん寂聴先生路線になっていくようだ。
コンブチャと10月22日の「言葉を信じる秋」
2011年10月18日(火)
きのうはいっぱい映画をみた。「Buck」という馬映画を近所の映画館で見て、夜は「Encounters at the end of the world」という南極の映画をうちで見た。どっちもドキュメンタリーだった。どっちも好きな世界であった。それからコンブチャをいっぱい飲んだ。「漢である」に書いていたので、ここ2、3日、いろんなとこで買い集めて飲みまくっていたのだが、やはり樽出し生を飲まねばと思いつき、朝の8時にWhole Foodsにいって樽出し生コンブチャ(つまり樽出し生紅茶キノコ)を買ってきて飲んだ。思いがけず飲みやすくしてあったので、午後にMみさんと会ったとき、また行って飲んだ。Mみさんはもうこの正体が紅茶キノコだということを知っていたただけでなく愛飲していた。つまり何ガロン飲んだかわからない。そのあいまに、やはり発酵飲料であるアマザケとビールもがぶ飲みしてるし。う。心なしかきょうはからだ中に酵素がたぎっておるような気が。
ところで再びお知らせ。もうすぐなので気づいてあわてている。Tカントクに、詩人の聲もやらないかと言われたが、この10月はただひたすら「言葉を信じる」に集中したかったので、ほかの予定は何もいれなかった(朗読は、ですよ。トークみたいなのは入れましたよ)。渾身の朗読いたします。
「言葉を信じる」秋 【とき】10月22日13時〜 【ところ】日本近代文学館ホール 【お代】3000円(予約)3500円(当日) 【出演】池澤夏樹・伊藤比呂美・稲葉真弓・白石かずこ・高橋睦郎・天童大人 【といあわせ】kotoba.20110311@gmail.com
タケと老い
2011年10月15日(土)
タケが散歩に行きたがらない。でも散歩のあとの牛乳はのみたがる。ニコの牛乳ものみたがる。ごはんは食べたがる。ニコのごはんも食べたがる。ちょっと(1、2週間?)前まではどこか行くのになんとなくいっしょにいきたそうなそぶりを見せたのに、もうぜんぜん興味もしめさない。だからニコだけ連れて行くことに、ニコも慣れてしまった。ここ2日ばかりでめっきり老いたとS子も観察している。
ジクジ
2011年10月14日(金)
きょうカリフォルニア大学サンディエゴ校(UCSD)であった文学のコンフェレンスのなかのパネルに、サンディエゴサークルという詩人仲間の一人として出ろというから、へい、と。サークルなんかないけど(と出席者のひとりもいっておった)みんなUCSDかカリフォルニア州立大学かで教えてる人たちで、Rセンバーグの家のディナーで、しょっちゅう顔をあわせておる。でも、あたしなんか英語もろくにしゃべれない日本人の詩人なので、顔をあわせるだけでおつきあいもろくになかったわけだ。たまにうちによんでも、ごはん作るだけで、会話なんかしたこともなかったのだ。最初はたしかに英語できなかったけど、この20年のうちに英語ぺらぺらになってるのをみんな知らないのであった。パネルと朗読であったが、パネルではなんだか言わなくていいいことまでいっちゃって挑発しちゃったような気がして、ジクジたる思いである。きっと20年間のディナーの席で、会話についていけなくて無視されてたその恨みが吹き出したんだな。今はついていけるけど、つまんない話してるのがわかってきて、ついていきたくもなくなっておるのだ。
リターンズといえば
2011年10月13日(木)
「あかるく拒食ゲンキに過食リターンズ」再刊中! オリジナルは1993年だから気鬱でぼろぼろだったころだ。ゲラみるのもしんどくて編集のO川さんにさんざんフォローしてもらったりした。今回は斎藤先生とひさしぶりの対談をつけ足したが、それがとてもよかった(あたしのために)。ふふふ、斎藤先生のセラピーをタダでじっくり受けられたようなものであった。やってよかった(あたしのために)。平凡社。表紙は渡辺ペコさんのイラスト。ちょーかわいい。
歎異抄リターンズ
2011年10月13日(木)
あーずっとずっとずっと歎異抄にかかりきり。最初にやったときにはすごくかんたんにできて、いやーどうしたんだろう、唯円さんと気が合うのかなと思っちゃったけど、何回かやりなおしてやり直すたんびにむずかしくなっていくのである。間をおいてやり直しているから、その間に、いろんなもの読みあさっており、前わかると思ってたことが今はわからなくなってたりするのである。つまり前もわかってなかったということだ。だいたい仏教ってどれもこれも漢字をこれでもかというくらい使ってあって、しかも今でも使ってる漢字が(熟語も)多いのだが、じゃ今と同じ使い方で昔も使ってたかというと、微妙にずれておる。その上、意味はわからなくとも聞き慣れたことばなので、わかったつもりになって、あるいは初めからわからないから無視して、読み飛ばしているのだ。それじゃいかんと思って、漢字の熟語をいちいちひらいてみようとしているが、できてんだかできてないんだが。へたするとずるりと滑って意味を間違ってしまうのである。眠くなるから、モンスターという気つけドリンクをつい飲んでしまって、娘どもに中毒といわれておる。
スマホと父
2011年10月12日(水)
こないだ父が、新聞の切り抜きを持ってるから、何かほしいものがあるの? ときくと、いや、こういうのだ、といって見せてくれたのが「女性向けのスマホ」という記事であった。「これ、あんたの誕生日にどうかなと思って」というのだ。で、「おとうさん、たぶん、あたし買ってもらっても使えないし、今のauってとこを替える気もないから、うれしいけど」とていねいに断ったのだが、なんか寂しそうな顔をしていたのが気にかかっていたのだ。そしたらiPhone4Sが売り出され、auからも出るというのを知って、appleなら別である。iPhoneもiPadも、友人が使ってるのを見て、いいなあと思わないでもなかったから、父に電話で(もうこっちに帰ってきていた)「おとうさん、スマホの欲しいのが出たから、誕生日に買ってくれる?」といったら、うれしそうな声で「いいよ」といった。やっぱ、衰えたりといえども父だから、ときどき心配させてやったり、ときどきなんかねだったりするのも必要だなと考えたしだいである。寝たきりの母にはいろんな悩みを話したら寝たきりながらイキイキと相談にのってくれた(役には立たなかった)。父は相談事よりおねだりのほうがうれしがるようだ。その後も父には何回も「まだかい」と催促されたけど、とにかく、ここにいちゃ何にもできない。こんど帰ってから申し込みにいこうと思っていたら、ものすごい予約の数らしい。いったいあたしの分まであるのかどうか、不安である。
母のびん(紅茶キノコ)と父の虫
2011年10月11日(火)
このあたりで、Kombucha なるものがボトル入りで売られておる。それにしてはあの昆布茶ではないので、まーたまた日本文化を誤解しちゃってーとバカにしつつ無視しておったのだが、昨日wikiで調べてみたら、なんと「紅茶キノコ」だという。これにはぶったまげた。紅茶キノコ。70年代に生きてた人は覚えがあろう。あのびんの中で、どこの家でも培養していたアレである。あたしはもう子どもという年頃じゃなくでもおとなでもなく、まーたおかーさんがへんなものにはまって、と(当時「はまる」ということばは無かったのにもかかわらずそう考え)バカにしつつ無視しておったのだ。あれがこんなとこまで来て、製品化されて、南カリフォルニアの健康自然志向の人々に愛飲されておったとは。ここにはAmazake というものもある。それもまた甘酒とはぜんぜん、まったく、似てもにつかぬもので、同じような店で売ってて同じような人々に飲まれておる。ブルーベリーとかアーモンドミルクとかオートミール粉とかバニラフレーバーとか入っているのだ。そっちのほうが先なので、Kombucha が出てきたとき正体をみきわめずに無視してしまったのだ。母が紅茶キノコにはまる数年前に、父がへんな、さらにへんなものにはまっておった。それは小さい黒っぽい虫で、米ぬかに入れて飼うのである。そしてそれを一日に1匹とか2匹とか、父がゴクリと薬粒みたいに丸呑みするのである。あれはなんだったのだろう。紅茶キノコのびんを母がだいていたときには、あの虫はすでにいなかった、ような気がする。 (で、報告)さっき近所の自然食品系の店へいったS子が1本買ってきてくれたが、すっぱいではないか。そして炭酸ではないか。でもほの甘くてけっこううまいではないか。むかし、ミランというイタリアの北端の町で飲んだ「モスト」という白ワインのできかけ、まだふつふつと発酵中であったが、あれを思い出した。フランクフルトで、名物だとすすめられたりんご酒、酒というより酢に近い落ち着いた味だったが、酸っぱさ的にはあれも。
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