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大鴉とSage
2011年12月03日(土)
昼間はitunesでルー・リードを買いながら聞きながら仕事をしていたのである。いっぱい買ったのは、たぶん午前中におまわりさんにチケット切られた余韻でやけくそだったのだ。ルー・リードは73年にベルリンにはまった。当時友人たちはみんな西海岸の音楽を聞いていた頃だ。きょう買った中では、Animalというライブアルバムのなかに入っている「The Raven」がものすごくよかった。声をきく上で、何かほしいもの、聞き出したいものが「××」だとすると、ルー・リードはそれを持ってることがある。××、何かな。わかればいいんだが。ところで、今日は、一年ぶりにSageのさつまいものプディングを食べた。すべてをつつみこむような淡々とした印象のケーキなのにもかかわらず、スプーンが、底のカラメルに到達するや、過激な苦さと黒さに、どん!どん!とどつき倒される感じがある。そのギャップが快感でたまらない。この頃またSageのケーキにうつつを抜かしておる。
おなかほっぺおしり完全版とヒストリエ
2011年12月03日(土)
中公のM浦さんから、完全版「おなかほっぺおしり」が届いた。赤いおしりがかわいすぎる。それから「ヒストリエ」7巻ーーーー。ってtwitterじゃないんだから、こんなふうに刻々書かなくても。
チケットと歳末助け合い
2011年12月03日(土)
きょうはズンバがなくて、エアロビなのでつまらんと思いつつ、朝のクラスに行こうとしたら、いつもかけてるクラシックチャンネルがジャズみたいのをえんえんとやっていて、へんだな、チャンネルまちがえたかと思ったりしていたのがいけなかった。この優良ドライバーが(すっとばすし、がくがくやるけど、基本はとっても優良ドライバーなんです、あたしは)赤信号で左折(こっちは赤信号でも一時停止したあとは左折できる、気をつけながら)、前の車につづいてつい一時停止せずにちゃっちゃとやっちゃって、おまわりにとめられて、免許証不携帯とライセンスカードが期限切れで、大量なチケット切られちゃって、うんざりし、食い下がったら、ライセンスカード期限切れは消してくれて、免許証不携帯は今日中におまわりさんだれでもいいからみつけたら免許証とこのチケットみせれば20ドル払って不問に処すといわれ、町のおまわりさんどこにいるかわからないから、家にとって返し免許証持ってシェリフステイションに飛んでいって手続きしたら、17ドルで不問に処すにしてくれた。赤信号一時停止せずに左折の罪は消えないので、数百ドルの罰金払って教習所に行かなきゃならないが、裁判所にいかなくてよくなったはず。つれあいに報告したら、いつもは天を仰ぎ見て生きてるのがいやになっちゃうくらいに嫌みな反応をするのであるが、きょうはおだやかだ。というのもほとんど同じ時刻に、彼も左折か右折かをしておまわりさんに停められ、チケットはもらわなかったが、注意されたらしい。まあこの時期だ。歳末助け合いでお金が市に行くのだと思えば。思わないと。思え。思った。思うもん。
コンブチャと自問
2011年12月02日(金)
コンブチャ、もう1本あけてみたらこっちはぜんぜんしゅわしゅわになってなくて、しかしまろやかな飲み物になっていた。白ワインにまぜて飲んでいる。うまし。 きょう読んでいたのは「仏性とは何か」という本で、以前もさんざん読んでフセンがいっぱいついてるのだが、ちっともわかった気がしない。というかここ数週間これを読まなきゃはじまらないだろうと思ってずっと抱えて歩いていたのだが、きょうはたまたまつれあいを病院の救急医療のとこにつれていって、四時間もそこで待っていたので(風邪をこじらせた)、とうとう読み切ることができた(といっても2回目か3回目)。しかしぜんぜんわかった気がしない。頭のなかにスが入っているような気分である。頭わるかったんだなあとイジイジする。でもこの本はましなほうで、もっとぜんぜんわからなくて投げ出した本はまだ何冊もあるのだ。こんなにわかんなくていいのかというくらいわからないのである。続けるのか? と自問しておる。続けなければならないのだ。そしたらいつかわかるのか? と自問しておる。
コンブチャとプラボトル
2011年12月02日(金)
こないだから培養中であったコンブチャ、大瓶のほうは蓋のしまりが悪くてなかなかできないでいた。味は、くさってるとかじゃないんだが、紅茶と酢の間みたいな感じで、しかし特有のしゅわわわわわわ感が出てないのである。それで先日、小瓶のきゅっとしまるのに移し替えた(もともとコンブチャの入っていた瓶である)が、ひとつだけ足りなくて、vitamin waterのプラボトルに移し替えたと思ってください。そしたら数日でそのプラボトルがぼこぼこになって、ちゃんと立たないほど、ゆがんできた。おかしいな、どこかにぶつけたのかなと思って、また別のプラボトルに移し替えた(その時点で、かなりしゅわわになっていた)ら、また同じことが。つまりこの変形は、発酵によるものだということが判明したのであった。発酵力、すごいもんである。で、今日やっと1本あけて飲み始めた。うまし。もう少し甘くしとけばよかった。しかしうまし。あと8本もある。
父とミタと買い物
2011年12月01日(木)
父に「家政婦のミタ」というのがすごく評判らしいけど、見てる? ときいたら、「毎週かかさず見てる、すごくおもしろい、『謎解きはディナーのあとで』よりおもしろい、夜遅いから『ミタ』のある日は6時ごろいったん寝て、かならず起きるようにしてるんだ」と熱烈な返事であった。そしてミタの素性をくわしく話してくれた。とても複雑だった。素性がわかっちゃったからもう終わっちゃうかもと心配しているので、wikiで得た情報(あと3回やる)を教えてあげた。けっこうテレビのドラマも見ている、というより、この頃そっちのほうをより多く見てるようだ。時代劇は(時代劇専門チャンネルで)字幕がつくときだけ見ているそうだ。テレビのドラマは、ミタもディナーも、みんな字幕がつくそうだ。うちのつれあいが、字幕のつかない映画はみたがらない(たいていのDVDにはついているが、ときについてないのもある)のと同じである。 「なんだか知らないけどね、きのうね、とつぜん補聴器かったんだよ」と。なにしろ外に出ないので、買い物もほとんどしない父である。ヘルパーさんに頼んで、電話ショッピングみたいなところに注文してもらったらしい。「一年がんばったから自分にごほうびだと思って」「お正月だし」「あんたも来るから、大きな音でテレビきいてなくてすむし」と、言い訳みたいなことも。それはよかった、やっぱたまには買いものしなくちゃとほめると、とても得意そうであった。
グラシとむかつく
2011年12月01日(木)
それというのも、こないだ、そうでなくても普段から文句の多いつれあいに、もう日本料理はたくさんだ、このごろずっと日本料理で、自分の文化はちっとも考慮されておらぬ、あきあきしたと言われたから、むかついて、ヤケになって、連日、非日本料理、肉料理、芋料理をつくっているのである。この頃S子と飯場担当を分担しているので、以前より日本(風)料理は多くなったが、それでも、考慮してないというのは、彼のひがみである。むかつく。しかも彼は口をひらけば日本料理が好き、ぜんぜん問題ないといつも言っておるのだ。その上彼に何が食べたいかときくと、いつだって「なんでもいい」としか言わず、ほかの家族にはいつだって明確なビジョンがある(まつたけごはん!とか、ズッキーニのはさみ揚げ、ぽん酢がけ!とか、肉じゃが!とか)ので、ついそっちを作るだけなのである。それでゆうべは牛肉のシチューとあいなったけど、ジュリアチャイルドのブッフブルギニヨンみたいな、正統せーーーおーーー料理はイジでも作りたくなかったので、好きなようにやって、赤ワインで煮込み、最後に大量にパプリカを投入したら東欧風グラシになった。うまかった。しかしむかつく。
父の感想とタケの骨
2011年12月01日(木)
柔道のUがセクハラというニュース、父が「ああいうのはいやだね、聞きたくないね」といっていた。「柔道はね(父は柔道二段)からだとからだとくっつけてやるだろ、だからしかたないんだよ、ついおかしな気持ちになっちゃうよ」と。「痴漢だって、最近はすぐ痴漢だーっていわれちゃうだろ」と。だっておとうさん、あたしも昔さんざん痴漢されたけど、あれはすごくいやなものなのよ、というと、「そうかー、じゃ痴漢とはちがうのかも」とすぐに意見をひっこめた(すなおなんである、あたしに似て)。父が憤慨しているのは、セクハラの問題じゃなく、いちどもてはやしたものを叩いてひきずりおろそうとするニュースの口調のようだ。斎藤という野球選手がデビューしたときにも、「こういう子にはほんとうにうまくいってほしい。こんなにさわがれて、だめだったなんて聞きたくないもん」といっていた。動物番組を見ながら「この頃は小さいものがほんとにかわいい、小さいものが死んだりするのは見たくない」といっていたが、あれとつながっている気持ちかも。 きのう大きな牛肉のかたまりを料理したら、中心に髄の入った大骨があり、またあぶらみやらスジやらがたくさん出たので、ゆでて、タケたちに。あたしが外から帰ると、タケがめずらしくはっきりした顔で、おかあさんおかあさん、みてみてといわんばかりに、みがいたみたいに白くなった骨(タケがかじってなめてみがいたわけだが)くわえて、見せに来た。ゆでて、肉も髄もついたやつをもらったときは大喜びで、その場でちょっとかじっていたが、そのあとがぶりとくわえていっさんに家の裏手に走り去っていき、しばらくして戻ってきたときはもう真っ白にみがきたててあったそうだ。骨は一個なのでとうぜんタケがもらったが(犬には民主主義は通用しない)タケが目を離すと、ニコがそれをくわえている。グライアイが一つの目をいったりきたりさせている感じ。
タケの排便と父の排便
2011年11月29日(火)
タケがまた、散歩にいこうと車に乗り込んで、すぐうんこをもらしたのである。下痢でもなんでもない、ふつうのいいうんこであった。もうこれで数回目になるからこっちも慣れてきた。タケが、散歩中に、ふつう犬がするようにおしりをすぼめてうんこするんじゃなくて、ただ歩きながらぽろぽろ落としていくようになってからだいぶ経つ。この頃はさらにすすんで、したというのも自覚ないようになったということだ。そしてそれは父の状態そのものである。父の大好きな話題のひとつは(ちょっと皮肉っぽい言い方。しかしそう言いたくなるほど、その話題について熱心に話す)、知らずにもらしてしまううんちのことで(うちの家族は、うんちと呼んでいた)ときどきトイレにいくとおむつパンツのなかにべったりと出ていて、みつけたときはすごいショックなんだそうだ。出るという感覚も、したいという感覚もないんだそうだ。「いやだなあ、年取るというのは」とそういうことのあったあとは、かならずしょげきってあたしに報告する。タケには「いやだなあ」という意識はないのである。だからへーきで、うんこを踏んづけながら、散歩散歩とさわいでいる。今日、タケの年齢を調べてみた。人間でいったら100歳くらいだ。機能の一つや二つ衰えてもしかたがないなあと思える年だ。
夜と父とタケその他
2011年11月28日(月)
ここのところ夜は、夜用咳止めと夜用風邪薬を複合ドウズして爆睡していたのだが、今は別にヤク中じゃないんだし、もっと落ち着いて咳対策をしようと思い、今日から薬物なしで寝ることにする。いや、年をとると、薬ひとつのむのも、このように必要量だけのむことができて、実に気楽だ。父に電話したら「だんしがしんだ」とテレビで聞いた回文をひとつおぼえのようにいっていた(昨日もいってた)「うたまろ」や「しんちょう」じゃこうはいかないもんなあ、と感慨深げであった。タケは今日、いつもの駐車場でサッカーやろうとしたら、こないだまでできてた「あ、右さん、あ、左さん」と顔を動かすのさえしなくなっていて、ただそこにぼーっとつったっているだけなのであった。でもこの頃はとっても気が短くなっていて、車の中でも、家の中でも、ちょっと待たせただけで、いらいらして、ニコに「うう」とこわい顔をするのである(くちびるをめくってみせる)。ニコはタケのいらいらにまったく責任がないので、面食らっておどおどしてしまうのである(まあ、これもいつもの反応なのだが)。タケの短気はいかにも年寄りじみていて、犬も人間もないものなんだなと思うと、つれあいの不条理さ(日々、そうなのであるが)も納得したくなるが、納得してたまるものか。
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