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本音
2011年12月20日(火)
マジで、飛行機のりたくない。
12月22日朗読のご案内
2011年12月20日(火)
「詩人の聲」第700回12月22日(木) 場所: ギャルリー東京ユマニテ 開場: 18:30 開演: 19:00 予約: 大人2,700円
当日: 大人3,000円
予約はギャラリーへ電話かE-mailでお申し込み下さい。
ギャルリー東京ユマニテ(京橋) 104-0031中央区京橋2-8-18昭和ビルB1
Tel: 03-3562-1305
E-mail: humanite@js8.so-net.ne.jp
くしくもそれは「詩人の聲」の詩人たちをずっと撮ってきた吉原洋一さんの個展「詩人・声・肖像」
の初日であり、それを祝して、渾身の朗読いたします。前からつねづねいっておることですが、吉原さんのシャッターを切るチャンスはどうしてああも快いのだろうと思えるほどで、微妙なかつ的確な瞬間に、シターッ、シターッと入り、それはまるで「たぁやっ」みたいに大向こうからいわれる感じで、朗読してるあたしがリードギターとすれば、ベースギターのように、リズムを作っていくのである。
humanité lab vol. 44
吉原洋一展「詩人・声・肖像」
2011年12月22日(木)〜28日(水)
父の機嫌とゲルの解体
2011年12月19日(月)
ゲルの解体でものすごくばたばたしている上に気持ちが焦っておるのは締切が終わらないからだ。父はきのうもおとといもその前もその前も、おそろしく機嫌が悪く、機嫌がわるいから、電話をするのがおっくうで、後に後に伸ばしていて、電話したときには、夕方になっていて(日本の)、さらに機嫌が悪くなるという悪循環である。仕事していて、とちゅうで心を切り替えて父に電話する気にならないというのもある。それで遅くなって、また機嫌が以下同文。
雨上がり
2011年12月14日(水)
雨はあがった。5時半ごろフリーウエイから海(ここではかならず真西である)を見ると、海の上に大きくて軽そうな雲がひとつ浮かんでいた。奇妙な雲だった。そしてその下、水平線の上にもこもこした雲が起っていた。それは、一瞬、森かと思った。もちろん西に、森があるわけないのである。西じゃなくても、あんな黒ぐろとした森は、このあたりにはないのである。雨雲が、西に、海の向こうに、いってしまったようだ。森みたいな雨雲も、浮かぶ雲も、影絵のように黒ぐろとして、背景の空は、赤色系のグラデーションだった。深くて、静かで、「終わり」感のある色だった。影絵といったが、たしかに光源は向こう側にあるのだ。
今日も雨
2011年12月14日(水)
予報によると今日も雨。このまま止まないとすごいことになる。あたりいちめんもうもうと植物が繁り栄える。セージだらけの荒れ地も岩だらけの山も苔むして緑になる。シアトルとか、オレゴンとか、いや、熊本みたいになる。
雨
2011年12月13日(火)
雨だ。きっちりと降っておる。ひさしぶりに植物たちを外に出した。みんな濡れた。
大石犬
2011年12月12日(月)
昔むかし、高校の裏手に、一匹の犬がいた。その名も「大石犬(おおいしいぬ)」。体育の大石先生にそっくりだとうわさになり、世界七不思議の一みたいな感じで広まっていき、「大石犬、またいた」「大石犬、見た」というのが朝の挨拶になり、とうとうあたしもおそるおそる見に行った。そしたら驚いたのなんの、あのときの「ぎょっ」は一生忘れられない。大石先生の顔をそのまま犬のからだにはめこんだような、茶色くてむくむくした犬が、つながれて道端にねそべっていたのである。そんなものは見たことがなかった。何かの呪いと思われた。大石先生、若めの(というのは、体育のもう一人の先生はベルリンオリンピックに出たという80歳くらいの老人だったから)先生で、おだやかでおもしろくて好かれていた。犬に顔をうつされるようなことをしたとは思えなかった。まるで楳図かずおか古賀新一の世界だと思った。何年かのち、もう少しものをわかってきた頃、チャウチャウの写真を見て、大石犬じゃん、と思ったときの驚きもまた忘れられない。つまり、あれはただのチャウチャウで、無知な高校生はそれを知らなかった。あたしだけじゃなくみんな知らずに、ただ驚いていたのである。てなことをふと今朝、チャウチャウをみかけて思いだし、「あのころ先生がいた」に書きゃよかったと思ったが、あとの祭りであった。
大学
2011年12月12日(月)
おおっバークリーにも佛教大学院というのがある。これなら−、通えないか、やっぱり。HP見てみたら、マジで英語だし。S子に、おかあさん、いやだからね、レポート提出のたびに「ねー翻訳してー」って頼まれるのは、と(入る前から)きっぱり言われてしまった。やはりレポートは日本語でないと、それから漢文ペースでないと、何の役にも立たないような気がする。サンスクリットやチベット語を今からやるつもりはないのだ。時間があるならやりたいけど。そういえば数年前、いやもう十数年前になるかも、クラシックにはまり抜いたときも、音楽の理論みたいなのを習いたくて習いたくて、本買ってきたけどちんぷんかんぷんで、それはもう、本覚思想批判とか涅槃経とかよりちんぷんかんぷんで、困った記憶がある。あのときは大学に行こうなんざー考えなかったから、今のほうが必然性も熱心度も強いのだ。
タケと散歩
2011年12月11日(日)
タケ、ついに散歩をシカトした。仕事が一区切りついたので、11時ごろ、さーいこうかあ、というと、飛び上がったのはニコだけ。昔は「さー」といっただけで、あるいは立ち上がっただけで、「さんぽさんぽさんぽ」とさわいだものだが、きょうのタケは、寝たままぴくりとも動かないのであった。ニコだけがあたしの足にぶつかりながらはしゃぎ、台所で、ニコのリーシつけたりうんこ袋もったりごそごそやっていても、タケはいっこうに起きてこなかったのである。耳が遠くてさわぎが聞こえないという可能性もあるが、かったるくて行きたくなかったという可能性のほうが大きい。うなぎ食べにいこうようと誘っても立ち上がらない父みたい。ここ数日のタケはマジでかったるそうにしていて、外に連れ出すときにも、車のドアをあけても、そこで5分間くらい、「うーー、入れるかな」と考えているのであった。で、タケの飛び乗るべき鋭角の方向をさししめしてやると、決意して、飛び乗る。そのとき「よいしょ」と声をかけると、やりやすいようだ。後足が半分くらいずり落っこちそうになるけど、まあ、まだ乗り込める。とにかく今日は、ついてこなかったので、ニコといつものルートを歩いて、帰ったら、のそのそと出てきて、散歩のあとにはかならずもらう牛乳をいつもどおりがつがつと飲み干した。
ズンバとぷるぷる
2011年12月11日(日)
きょうズンバの先生に、どうやったらおなかをぷるぶる動かせるのですか、あたしのおなかはほとんど脂肪ばっかりで動かせないのですがと単刀直入にきいてみた。そしたら、まず骨盤に集中して、肛門をひっこめて持ち上げる感じでぐるりと回すのだと。最初はゆっくりゆっくりやって、そのうちにそれを早くすると、あの動きになる、と。つまりあれは脂肪をぷるぷるさせるのではなくて骨盤回しの技術であったのだ。そして先生がいうことには、デスクワークの人(つまりあたしのような)は長時間すわってることでそこの筋肉が固くなってるから、ときほぐすのに時間がかかるそうだ。おなかのぷるぷる、きっとものにしてやる。きょうのズンバは体力を消耗しすぎて死ぬかと思った。
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