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伊藤製作所「豆畑支所」
   
 

二週間の休暇

2008年10月12日(日)

つれあいがロンドンに行っちっち、心おきなく二週間ぶっちぎりじゃ。空港の帰りにさっそく日本食屋に立ち寄って、さしみ各種とあじ(塩焼き用)と玄米と日本なすと日本きゅうりと、「Sage」の日本ケーキ買ってきた。それから日本ビデオ屋で、「ゆれる」と「SP」借りてきた。

秋の暮れ

2008年10月11日(土)

なんだかこの頃落ちていて、毎日が、だらあっでれえーとしている。と同い年の友人Bバリーにいったら、「みーつー、ざっつ、更年期のせい」と力をこめてうなずいたのであった。そういえば友人M子もいつも落ちていて、更年期のせいにしてるのであった。友人H田も、友人Nちゃんも、いつも落ちていて、以下省略。
Bバリーと二人で、喫茶店で、甘い上にもくそ甘いアメリカのケーキを食べていた。「わたしはかまいません、これから先、わたしたちが戻れるわけはない、娘たちのような体型に、わたしも昔はああだった、でも今はこのようなものだって気にせずに食べてやる」とBバリーは、潔く言い、お茶の上にこんもりとのっかった生クリームを、数十年間の恨みをはらすように、ばくりと食べた。秋の暮れであった。

Pathfinderも

2008年10月10日(金)

Pathfinderはトメがうまれる直前にかった車で、日本でいえば「テラノ」である。最初のロングドライブは、トメを産みに病院へ夜中に走ったときだ。大きくて四角くてパワフルで飾りがなんにもなくて車高が高くて、あたしはあんまり好きじゃなかった。これでカリフォルニアの免許試験を受けて、落ちた。落ちるわけないだろーとみんなに言われた。Pathfinderが乗りにくかったせいだと思った。長い間うちの第一車だった。グランドキャニオンにもいったし、モニュメントバレーにもいったし、ザイオンにもいったし、セコイアにも、メキシコにもいった。ベイエリアで、カノコが、あたしの小型車(日本でいうとサニーかなんか)を大破させたあと(でもカノコはぴんぴんしていた)あたしがこっちでRAV4をかって、娘たちがPathy(という愛称がそのときついた)をベイエリアに持って行った。S子ととともに帰ってくるまで、何十回、ベイエリアとサンディエゴを往復したことか。こんないい車はないと夫はいってたのに、RAV4をかったらすっかりそれに溺れ、Pathyは見捨てられた。数年してMINIをかったら、夫はたちまちそれに溺れ、RAV4を見捨て、S子がRAV4をのりまわすようになった。ガタはとうにきてたけど、たんねんに直していた。年取った車を棄てるという考えに、だれもが、年取った人間を棄てる(つまり夫)ことを連想して、棄てようと、考えてこなかった。それがとうとう、修復は可能だが、お金がかかりすぎるガタが来て、きょう、どこかのチャリティー協会が来て、持って行くことになった。昨日洗ってやった。最後の日々は、あたしが犬たちといっしょに乗ってたのである。

緒形拳も

2008年10月08日(水)

日本の役者でだれが好きと聞かれたら、今でこそ岡田准一とか浅野忠信とかいってるけど、長い間「緒形拳」だった。「太閤記」はあたしが10歳のとき。それから弁慶に梅安に。高校に入ったら、高校の先輩だったことがわかって、ますます憧れた。SイッチのA井さんの、緒形拳にあいにいった話は圧巻だった。連続殺人の榎津も、梅安も、三島も、緒形拳の顔と体が、とろーっとした色気のあるいい男に具現していた。まじで無常である。

アトスが死んだ

2008年10月07日(火)

タケの弟犬のアトスが死んだ。10歳である。心臓のまわりに腫瘍ができて、癌ではなかったが、心臓を圧迫し、いずれ呼吸が出来なくなると診断されたための安楽死。アメリカの獣医は決断が早い。一般の日本人よりはかなり情に流されず冷静きわまりなく冷酷とさえ思われているあたしでさえ早すぎると思うほど早い。なんだか親戚の死にあったような心持ち。いつだったかスーパーの駐車場で、車に向かって歩いていたら「わん」と呼びかけられた。あたりを見回したら見覚えのあるDリン(飼い主)の車があった。中をのぞくとアトスがいて、むさくるしい顔をにこにこさせてしっぽをふっていたのである。体は姉のタケより大きくてたくましいのに、タケにいつもいじめられていた。うちに来ると、よろこんで飛びはねながら車から降りてくるくせに、タケがこわくて、中になかなか入れないのだった。タケのいないところでは、あたしらの膝に、小さい木ぎれをぽんとおいて、投げてくれと要求した。投げてやると、また持ってきて、そこで、投げてやるまで、大きな図体で、大きな顔で、ずっと口をあけて、木ぎれをみつめているのだった。バカだバカだとみんなで笑った。愛くるしかった。

Jフリーと朗読

2008年10月05日(日)

WM大学で朗読をした。Jフリーが通訳しながら翻訳したものを読んでくれた。一行ずつ、日本語、英語と読んだりもした。どんなあたしの動きにも発言にもぴたとついてきてくれるJフリーのサポートで、とてもおもしろかった。このごろまた朗読楽しい期に入ったみたい。仕事が終わったので今日はJフリーの友人のDビッドと三人でミシガン湖を見にいった。向こう岸がみえなかった。太平洋に比べると、殺菌されたような静けさであった。

寒い

2008年10月03日(金)

寒くてうらやまの候補のディベートをJフリーと見た。うちで土地の古老たちと見ているときと同じ反応である。民主党の国に住んでるようなものである。アメリカのどこかには共和党の人がいて、ペイリン見て、かわいい、よくやった、と思い、バイデン見て、賢すぎる、とか思ったにちがいないんだが。WM大学ではJフリーの通訳でさんざんしゃべり、Jフリーの同僚の日本人教師のRかさんと話し込んだ。

ミシガン

2008年10月02日(木)

ミシガン州に来ている。寒い。Jフリーの家の二階に巣くっている。Jフリーは暖房を入れてくれた。カリフォルニアからわざわざあんか持参で来たのである。アメリカンエアラインに久しぶりに乗ったら、預ける手荷物一個につき15ドルとられるのには驚いた。二個目はもっと高い。三個めからは100ドル。

荒淫矢の如し

2008年09月29日(月)

おもしろいのでわざと直さなかった。あっという間に日本は9月29日だ。こっちはまだ28日。今日やっと、誕生日にもらったデジカメの写真をコンピュータにうつして、メールに添付しておくることができるようになった。

ディベートとディリート

2008年09月27日(土)

コンピュータの調子がまたまた悪く、一日つけたり消したりしていたら、なんとかなおったような感じである。調子が悪いのは画面で、かいてるとぱっと消えて、5秒後には戻る。それがひどいときには3分に一回起こるので、仕事にならない。モニターのせいかコンピュータの中のモニターとの接続部分が悪いのか、よくわからない。しかもキイボードの調子も最悪。いろんなキイがひっかかるが、とくに、deleteキイが強くひっかかる。deleteするのに、何十回も指さきで叩きのめさないと何も動かない。
夕方からは友人一同が食べ物を持ち寄って、テレビ討論会を見に集まってきた。みんな激しくオバマ寄りなので、オバマが何をいってもうなずき、マケインが何をいってもけなすのであった。

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