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伊藤製作所「豆畑支所」
   
 

鴎外の見た風景

2013年12月02日(月)

きのうは日没前に鴎外記念館のBと待ち合わせて、地下鉄で町中にいき、鴎外も見ただろうドイツ大聖堂や鴎外も見ただろうフランス大聖堂や鴎外も見ただろうシラーの像のある鴎外も歩いただろう広場にできている鴎外も見ただろうクリスマス用の屋台群をのぞいて、鴎外ものんだだろうホットワインを飲みながら、近くにある鴎外よりは前の世代の、ゲーテのころの文学サロンあとを見学し、という鴎外ツアーであった。Bはさいしょにあったとき(数年前にベルリンにいたとき、どうしても鴎外記念館にいきたくて、その前にベルリンにいたときは閉まっていていかれなかったので、今回はぜひと便宜を図ってもらって行ったのである)わたしは二十数年間鴎外一筋だった、男はいろいろ変えたけど、といっていた。そのときにした鴎外のつきあった女論は忘れられない。あたしはつねづね、鴎外というのは同じ女ばっかり繰り返し繰り返し描いておる、それはいかにも意志の強い、当時の日本的でないような女である、なんなんだろうと考えていたが、Bもそれを指摘して、エリスだけが例外だ、なぜみなエリスばかりに目をとられるのかと憤っていた、ほんとに同感であった。
クリスマス屋台のある広場は、鴎外の頃は日曜日になると市が立ったが、その頃、衛生上の問題で、市場の建物が建てられ、市場がその中に移動していったその過渡期だったそうだ。見学しながらものすごいいきおいで鴎外のことをしゃべりまくった(Bは日本語もあたし顔負けの早口)が、鴎外の子ども向けグリム童話の翻訳(長男といっしょにやった)と鴎外と飛行機少年とのかかわり(飛行機ということばも鴎外がつくったそうだ)、文学サロンの影響(鴎外の西洋文学の取捨選択はどういうふうにやっていたか)椋鳥通信がおわって(戦争の影響でシベリア鉄道が使えなくなりドイツ書が鴎外の手元に来なくなったのでつづけられなくなった)鴎外が日本の歴史人物にどーんとのめっていったという風が吹いて桶屋が的なこと、等々、日々の愚痴も体制に対する不満もぶちまけあい、Bは「わたしはエリスか阿部弥一右衛門か。こんど切腹しなくちゃ」といって笑ったのである。あたしは鴎外の香気漂う文章のくせやスタイリッシュで美しすぎるリズムについての熱い思いを語ったが、Bはさすがに自分には外国語でそこまでわからないのだと悔しそうであった。
ビールビールといってるあたしをビールののめるレストランにつれていってくれたが、Bはビールを飲まないので、ありついたビールはミュンヘン産のくせにへんにアメリカ風なPale Aleで残念だった。ベルリンも小醸造所ブームだそうで、そのセンのビールのようだ。そんなもの流行らせずに昔ながらのドイツビールのほうがずっとおいしいのに。
帰りの地下鉄のなかで、ある駅で大音量でアナウンスがあったが、なんだかよっぱらってるような声で、ドイツ語っていうのは、よっぱらって聞こえるのかなあと思いながら聞いていたら、ま後ろにいたよっぱらいがわめいていたのであった。そういえばあたりの空気が酒臭かった。地下鉄のる前はどきどきしたが、乗ってしまうとものすごく簡単だった。もうどこでも行ける。
地下鉄の中はあっとおどろくほど狭くて閉鎖的な空間になっている。そして思いがけず異文化の混ざり合いが少ない。少なくともアフリカ系やアジア系はあんまり見ない、北米の町みたいには。ポーランド人あたりはいっぱいいると思う。
帰ってきてやっとSkypeでつれあいと話せた。もう感謝祭で来ていた子どもらは全員帰ったといっていた。Trader Joe'sの冷凍食品をいっぱい買い込んできたといっていた。大好きなShepherd's pieもあった、といっていた。それからネットで検索したら近代文学ライブラリーというので鴎外とおと訳の「しあはせなハンス」が見つかった。でも文章的にはいまいちだった。

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