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パパゲーノの詳細

2014年04月28日(月)

あいかわらずKeenlyside祭りが激しく続いていて、CDも買ったし、DVDも買った。そしてネットを探しまわるうちに、「魔笛」で、ROHで、同じMcVicarの演出で、知らない人が同じ服着てPapagenoやってるやつをみつけた。知らない人といってもあたしが知らないだけで知ってる人は知ってるのであろう。ところがなっちゃないのである。よそのバカっぽいパパゲーノをちょっと自然主義で味付けしただけの、生ぬるさ。同じ演出だが、Keenlysideが表現する、笛を咄嗟に双眼鏡にするおかしさや、やっと会えた興奮や、ベッドに飛び乗る楽しさや、女の子の顔にぶつからないように帽子を直す仕草や、子どもたちを引き受けるお父さんらしさは、ないのである。オペラというもの、こうしてあちこち見てみると、みんな演技が子どもだましで、もちろん演技以上の凄い能力があるから、みなさんああして舞台に立ってるわけだが、いちど宝塚というのを見たときにも演技が子どもだましで驚いたが、まああんな感じがした。つまり真に迫る演技と歌は別物で、子どもだましでもぜんぜんかまわないのだろう。むしろ語り物と同じで、おはなしの枠があるから、リアリティなんて必要ないのであろう。とくに「魔笛」は、どこのやつも子ども向けっぽく作られていて、「おかあさんといっしょ」みたいな子どもだましさが感じられるものばかり。しかしKeenlysideにかぎってはそうじゃない。絶望と恍惚をいったりきたりで、太宰みたい。荒唐無稽な話の、ちょー適当なキャラなのに、歌なんか歌わずに、歌えずに、普通に生きているあたしやあたしたちと同じ人間に思えて、切なくなるのである。手の動き、からだの動き、表情、視線、見ても見ても見飽きないが、この熱意は多分にKeenlysideだけじゃなくて、仕事においつめられているところから来ている、つまり逃避だということもよくわかってるのであります。

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