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伊藤製作所「豆畑支所」
   
 

ルイ

2012年04月24日(火)

ずっとルイといっしょにいた。今日はあんまり暑くて、まっ昼間銀行に行ったときには家においていったが、あとはずっと。そして待たせたら外に出してちょっと歩いてやり、水をやり、家に帰ったらミルクをやり。うちで犬たちと暮らしているまんまの生活である。ルイはこんな生活ははじめてするはずなのに、ちゃんと適応しておる。待つときは運転席の上、ダッシュボードというのか、あそこが好きで、ぬいぐるみを並べている人がいるが、あんな感じでねそべっている。なんだか父の家にいたときよりいきなりぴったりとこっちに寄り添って生きている感じがある。

清盛とお香とお花

2012年04月22日(日)

清盛をみた。もう従弟たちもM子も帰ってしまってひとりであった。見終わって帰ってきたら、うちの中に新しいお花が見知らぬ台の上に飾られていた。いつもあけっぱなしなのを熟知している女友だちたちが、いない間に来て飾っていってくれたようだ。いろんな人からお花をいっぱいいただいた。部屋がお花で埋まっておる。お棺の中も花で埋まっていた。母方の従弟たちがきのう帰らずに一泊してくれた(父の家に泊まったのだが、ルイ臭かったそうだ)。そして今日は父の油絵の具だらけのワゴンと母の古ぼけた鏡台と母のお骨が長い間置いてあった違い棚をこっちの家に運んでくれた。生活している男たちは実に手際がよかった。かれらと別れて、ルイを引き取りにいったら、汚れてしまったのであしたちゃんときれいにしてお返ししますということで顔だけみて帰ってきた。部屋が父の家の物のにおいと花のにおいといままでたいていたお香とはちがうお香のにおいで充満している。父方の6歳下の従弟と30年ぶりくらいに会った。子どもの頃よく行き来していた従弟だ。サラリーマンしながらずっとバンドをやってるそうだ。中2のときあたしの部屋でパティ・スミスの「ラジオ・エチオピア」を聞いた、衝撃だった、あれから音楽をききはじめたといっていた。なんかちょっといい話だった。

寂心さんのクスノキ

2012年04月19日(木)

カノコたちを阿蘇に連れて行く予定であった。火口と草波と温泉と田楽と大杉を見せようと思っていた。しかしできなくなったので、寂心さんのクスノキに連れて行った。カノコたちは手をつないで歩きまわっていたから、あたしはクスノキの下でベンチに寝転がった。上を見て、木を見て、自分の手を見て、空を見た。しわだらけの大きい大きい木であった。1つ大きなまちがいをしていたのに気づいた。この時期のクスノキが赤いのは新芽だとばかり思っていた。ちがうのである。古い葉が赤くなり、それが新芽の緑と入り交じっているのである。赤い葉が、風に吹かれて、葉桜になりかけたときの花びらのように、降りそそいだ。

あ、そうだ

2012年04月18日(水)

そういうわけでくそ忙しいので、どうか個人的なおみまいメールはくださらぬようにお願いいたします。関係者は近くにも立ち寄らぬようにしてくださいますとたいへんありがたいのです。親戚の相手だけでいっぱいいっぱいですので、あしからず。その上以前の住所はもう使っていません。住所不定とあいなりました。仕事の場にはちゃんといきます。あしたは数寄和で朗読します。あさってもジュンク堂で朗読します。

納棺師さん

2012年04月18日(水)

二人組の女の納棺師さんたちがやってきた。手順はマニュアルどおりで、ついこないだも、あたしはマニュアルどおりに訓練される日本の若いものたちや企業をさんざん批判していたのだが、このマニュアルらしさは死者や遺族に対する距離がよく取れて、なかなか心地のよいマニュアルであった。ひとりがさかんに動く間、もうひとりが手伝いながら、共感をこめた笑顔をみせてくれて、いろいろ話しかけてくれ、またこちらの問いにも答えてくれ、そこはマニュアルではなく臨機応変の人間らしさがあふれていた。
前日の父はまだ人間の父であった。しかし病院に行く直前の父は、おどろくほど老い衰えた、顔だちも、表情も、人格さえもかわってしまった父であった。死ぬときは顔色が悪く、死ぬちょっと前から死体の顔色をしていた。息をふたつした。それであたしには息がとまったのが見えた。あれ、と思ったらときにK先生が駆け込んできて、伊藤さん息してらっしゃいませんよ、心臓は動いてますけど、といって、脈をみた。その日朝入院したときに、延命のための手段は一切しないと話し合ってあったから、そういうことは何もなかった。ひろみさん、手をにぎってと先生にいわれた。にぎると脈うっているのがわかった。そして先生もあたしも、ただ脈を感じて、機械の音をききつづけた。先生のうしろにTさんがいた。「とげ抜き」に出てきた、母に巣鴨の話をよくしてくれた婦長さん(むかしでいえば)だ。三人で父をみつめた。やがて機械の音が単調になった。先生が目の中をのぞきこんで時計をみた。そのときにはもう手の中の脈はなくなっていた。そのときはただ父がそこにいた。先生とTさんがあたしを父とふたりにしてくれた。「おとうさんありがとう」というのが、ほんとに陳腐ではあるが、まず口に出たことばだった。「ほんとにありがとう」と。理由はいろいろある。なにしろあたしはしめきりがあって、それをまず終えてきますといって病院を出てうちで仕事していたのだ。何時間もかかって、夕方になってやっと終わって、病院にかけもどった。そのほんの10分後である。先生といろんなことを相談して病室にもどった2分後のことである。死んだ父はしずかで動かなかったが、体温があった。いつものままだった。
つぎの日になると、口があいた。いわゆる死に顔になっていた。そこで話は納棺師さんにもどる。かれらが口に綿をつめたり化粧をしてくれたりしている間に、だんだん父がもどってきた。父の顔色も、表情ももどってきたし、そしたら、あのここ数週間の、機嫌のわるい、かなきり声をあげる、頭の働きも心の働きも後退した父が、どんどん遠ざかっていくような気がした。

父が死んで

2012年04月18日(水)

涙がとまらないのである。べそべそ泣いている。母のときはぜんぜんへいきで何も感じないかのようだったのに、父はだめだ。葬儀社に父のカラダはあり、忙しいのであちこち走りまわっていてときどき見に行く。きょうは午後、行って、だれもいないとこでごろんとしてべそべそしていたら葬儀社の人が入ってきてきまりが悪かった。用もないのにS村さんに電話したりした。朝、納棺がすんだあとにいったんですが、また夕方みんなでいきます、と。そしてヘルパーさんたちとケアマネさんがきてくれた。そのときはべそべそしないで済んだ。朝、納棺師さんがプロのわざで手入れをしてくれたとき、ヘルパーさんのKさんが移転先の沖縄から電話してくれて、電話口でべそべそした。たいへん気恥ずかしいがとめられない。悲しいというのはない。悲しくない。後悔もしてない。早すぎたとは思わない。意外でもなかった。悲しいというのではない。ただたんに父の死に顔やからだを見ていると、子どもだった頃の父が思い出されてきてやたらとなつかしいのである。なつかしさのあまりに涙が出る。涙を出し過ぎて、顔ははれて疲れはてている。なつかしいから、うれしいかというとそうではない。人ひとり、あたしにとってはすごく意味のある人がひとりいなくなって、ぽかんと空いておる。そこに自然に流れ込むように、ただ、ただ、涙がこぼれていくような感じである。

父と夜中

2012年04月17日(火)

2時ごろ電話があった、といっても何も話せないのだが、緊急の呼び出しである。携帯を見たら、何回も電話がかかっていた。目がさめなかったのだ、かわいそうなことをした。とにかく行ってみた。父はベッドの上におきあがってうなだれていて「トイレにいく」と。「でも遠いから行かれない」と。2歩くらいの距離なのである。抱えて連れて行ってまた抱えあげてまたベッドに。くるしい、くるしいとのたうちまわった。呼吸もくるしい、と。腸が癒着したとこがいたい、と。さすったり、おなかを押したりした。もっと強く押して、もっと、といった。「マラソン選手なんかが使うような酸素があればいい」といった。ルイがベッドの上にのって、さすっているあたしをひしとみつめて自分も足をだしてきた。それから父によりかかり、父のまくらの上にねそべった。「なんだよ、おまえは、どけよ」と父はいうが、追い払うわけではない。

父マジでやばい

2012年04月16日(月)

父がたてなくなり、声が出なくなり、食欲がなんにもなくなり、トイレにいくといっておきあがってはベッドの上でうなだれているのであった。トイレにいくのも、けっきょくあたしがズボンごと抱えてつれていき、パンツおむつをひきはがし、おしりをきれいにあらって、またパンツおむつをはかせて、ベッドにつれもどすのであった。一動作ごとにうなだれて10分ほど考え込まねば次の動作にうつれないのであった。ついに本人が、あんたがいなくなったら入院する、と。それでS村さんに連絡すると、K先生に相談してみましょうということで、K先生に連絡をとると、本人が入院するっておっしゃってるんならもうこちらは大賛成、とすぐ明日の迎えを手配してくれた。ルイは獣医のT田さんにあさってから預けることになった。そんなさなかにカノコが来た。パートナーのPも来た。父はよれよれだったがPに「ないすとぅみーちゅー」といっておった。むかし、つれあいが日本に来たとき、母はじまんの婿と離婚してよその男と子どもをつくった娘を許せなくて勘当状態だったが、父は母に内緒で家を抜け出してつれあいに会いにやってきて、「はろー、ないすとぅみーちゅー」と屈託なくあいさつし「ゆあ、びっぐ、ばっと、あい、るっく、やんがー」とひょうきんなことを言ったっけ。ルイは1日、父をみつめて父のそばにすわりこんでおった。ベッドにすわりこんだ状態からなかなかたちあがらせることができなくて工夫していたら、大きなおなかのカノコがきて、「おじいちゃん、カノコがやってあげるよ、プロだもん」といってやってくれた。「プロだなあ」と父はカノコに笑顔をみせていた、これはさぞかしうれしかったと思う。

父と混乱

2012年04月15日(日)

今朝は泗水の図書館で仕事だったので(楽しかった!)父の朝食はヘルパーさんにまかせてあった。夕方5時ごろに電話して、夕食の注文をとろうと思ったら寝ていたらしく寝ぼけていた。行ってみると食卓にすわっているが、文句モードで「なんであんたはこんなに朝早いんだ」と。それで、馬があるから5時ごろ起きてちょっと仕事するくせがついちゃってさ、などと答えていたが、なんだかおかしい。「新聞は?」というから、きょうないよ、というと「なんで?」と怒り出しそうないきおいで。「コーヒーいれてくれよ」というので気がついた、父が朝と晩をとりちがえていた。それでコーヒーいれて渡すと、「これやって」といつも母のために卵立てにコーヒーついで砂糖入れて写真の前にそなえるのである。だからそれもやった。するとまた「新聞は?」という。きょうないよ、とまた答えると、「なんで?」とくってかかるのである。それできょうの朝刊を探して渡すと、「これ朝刊だろう」とむっとしている。それでしかたなく、おとうさん今は夕方なのよ、というと、さらにむっとして「あんたおかしいよ」という。それで、じゃテレビつけてみよう、といって、わかりやすいちびまる子ちゃんにあわせて、ほら、今ちびまる子ちゃんで次はさざえさんだよ、というと、むうっとして黙った。そこでルイのさんぽに行って帰ってくるとテーブルの前で頭をかかえてぼーっとしていた。「おれ頭のなかがおかしくなっちゃった」と。夕食はほとんど食べずにやめてしまって、「おれ頭がくらくらするから寝る」といったが「立てないから手をかして」と。ベッドへ転がりこむように入ってすぐ眠った。
とにかくここ一週間朝食を残す、きょうのも残してあった。風邪気味といって風邪薬を朝食後にのみ、またのんでいた。ずっとむくみがひどくて、脚などぱんぱんになっている。帰ってきたときは顔もまんまるだったが、それはややひいた。ときどきめまいがするといい、息がどきどきするという。立てなくなり、歩けなくなっている。しかしまたそれは、気のせい甘えのせいと考えられなくもない。気のせいではなくて甘えのせいでもないと考えられなくもない。

父と新幹線

2012年04月15日(日)

博多には新幹線。以前はみんなから電車で来た方がと言われても言われても、車で行き来していた博多熊本であったが(行商用の本がはこべるし、電車の時間気にしなくていいし)この頃はどうしても新幹線。やはり3〜40分でついちゃうというのは魅力すぎる。好信楽に寄れる、寄って酒が飲めるというのも魅力だし。しかしきのうは好信楽には寄れなかった。疲れはてておった。乗ってる時間が短くなったのはほんとに便利だが、新幹線の中で仕事しようと思ってラップトップ持って行ったのにそれどころではなく、すぐについた。そもそも仕事なんかしていたら乗り過ごすということに気づいた。以前、帰りについ寝込んで、駅員さんに、つきましたよと起こされたことがある。そのときは熊本止まりの新幹線だったから助かった。寝過ごして鹿児島まで行っちゃった人の話も聞いた。で、ゆうべ、帰りの新幹線の中で、父から電話がかかり、「心臓どきどきしてるから、来てくんねえかな」と。おとうさん、いま、新幹線だから、あとで行くからとなだめて、帰りに寄ると、まだ生きていて熟睡していた。ルイがあどけない顔で走りよってきた。

きのうの反省と番頭さん

2012年04月15日(日)

きのうはうんこネタ下ネタやりすぎて、大きなハコで高齢者相手のまともな講演会なのに、失敗であった。とずっと落ち込んでいたら、心配せんでよか(ばってん荒川から声をお借りしました)みたいな反応をtwitterに書き込んでくれた人がいて、すごくありがたかった。きょうは泗水図書館、地元だし、小さいとこだし、まじめに地道に絵本でも読んでくる。ところでこのブログを書くと、熊本文学隊のHP(http://d.hatena.ne.jp/kumamotoband/)で番頭さんがリンクはってくれる。中に書名を出すとamazonに、音楽を出すとYou Tubeにという具合だ。きのうのはシャーロット、もちろん元ネタはアメリカの児童文学Charlotte's web、日本ではそんなに有名じゃないと思うのだが、それもちゃんと。こないだも「おばけみたいな桜」と間違って引用したのに(そのあとまちがいに気づいてなおした。正しくは「おばけのような桜」だった)ちゃんと出典が。「綿の国星」の第一回なのである。番頭さん、マジすげーとしばしば思う。

シャーロット

2012年04月14日(土)

おふろばに蜘蛛が一匹住んでおる。あたしはごきぶりやむかではなんの躊躇もなく殺すが、蜘蛛は殺さない。うちのS子は蜘蛛を殺すがそれは別の理由だ。学生のとき研究をしていたので、あっかわいいとかいってつかまえて、アルコールに漬け込むのだ。S子が残していった蜘蛛焼酎があたしの部屋のどこかにある。蜘蛛は生物学的に何も悪いことをせず悪意もなく生きているのだから殺してはいけないと、S子が言っておった。トメは典型的な蜘蛛フォビアで、どこで蜘蛛に遭遇しても金切り声をあげて硬直する。ほかの生きものは何でもOKなので、世の中にはなんとかフォビアというものがほんとにあるのだと知った。だからトメが叫べば行って蜘蛛をつかまえて遠ざけてやる。この蜘蛛フォビアはたぶん遺伝で、死んだ母もそうだった。母は攻撃性の強い人間だったので、蜘蛛をみかけるや叩き殺さずにはいなかったが、その行動を見ているとたんなる衝動や嫌悪感というよりなにか、前世からの因縁みたいなものがあるのかもしれぬと感じられたものだ。トメは食卓でピーマンフォビアも主張しているが、そっちはてきとうにあしらっておる。で、蜘蛛だが。たいていはつかまえて外に出す。ここ数回みかけたが、トメがいないのでそのままほうっておいた。トメが来るまでには(いつになるか)外に出しておいてやろうと思って。ところがゆうべお風呂に入ってるときに蜘蛛が出てきて壁を這ったので、つい「お、シャーロットだ」と心で思い、瞬時にマチガイを悟ったのである。名前をつけてしまった。そしたらもうあの蜘蛛は人格をもってこの家に居着いてしまったも同然である。それからも数度みかけたが、もはやただの蜘蛛にあらず、同居人ないしはペットのシャーロットである。シャーロット、いつか子を産み、やがて死に、子どもたちがシャーロットを襲名する。この家は蜘蛛だらけになる。

ルイとタケと白内障

2012年04月13日(金)

めまいがするの、つばがのみこめないの、咳き込むのと老いを訴える父のそばでこっちをひしとみつめるルイの目が白く濁っている。白内障か。タケの目もこうだ。もっと白い。そしてタケはたぶんなんにも見えてない。ルイももう10歳になる。

めしばなとランチパック

2012年04月12日(木)

「七夕の国」を読み尽くしたので、今はぐーたらしたくてお風呂のなかで「めしばな」を読む。3巻かったら、ランチパックとカップ焼きそばについてであった。しかしやはりおじさんはランチパックには溺れぬようだ。ふふふ、おばさんは溺れる。きのう町中のデイリーストアで「きなこもち」「うれしの茶クリームと小倉」「ダブルクリーム」を買い占めたのである。こないだNちゃんに、ランチパックってしってるか?ときいたら、よく知らないようだった。プロは食べないものかも。で、カップ焼きそばであるが、あたしは若い頃大好きだったのに(袋入りのが常食だった、まだカップが出てないか出たばかりかの頃)もうおばさんになってしまった、今は食べない。

命日と父

2012年04月12日(木)

母の命日が終わったので、父は生き延びた。お迎えを待っていたかもしれないけど、来なかった。きょうつれあいに電話で父の状態を話していて、アルツハイマーじゃないけど、ボーダーラインな感じ、何も理解しないし、すぐ怒るし、と説明していたら、「ディメンシアにもアルツハイマーだけじゃなくていろいろある」といわれ、はっと気づいた。いやわかっていたんだけど。父はディメンシアだ。5年くらい前に主治医の先生にカルテに書かれた。Dementiaと。まだまだと思っていたけど、いつまのにか押しも押されもせぬそれそのものだ。きのう父は心配そうにおなかを見せた。そこがぷっくりふくらんでいて、腸があるのが感じられる。しらべたらそけいヘルニア、脱腸だ。そして脚と顔はむくんでいる。30分に一回くらいひどく咳き込む。食べていても咳き込む。嚥下ができなくなっている。表情がとぼしく、話しかけても答えない。わからないのか答える気がないのかわからない。

くさむら2

2012年04月12日(木)

調べたところ、ハコベが2種類あるらしいと思っていたのは、1つはふつうのハコベ(しかしこれがコハコベかミドリハコベか判然としない)とオランダミミナグサであった。ともにナデシコ科。そして毎年気になって毎年名前不明でおわるものは、なんと、あの名前だけはゆうめいな、ヤエムグラ(アカネ科)であったのがついに判明。アカネ科といえば幼なじみである(←あたしの)ヘクソカズラもそうだ。こないだT浜さんに、中世の女の名が「おにくそ」とか「おつくそ」とか「犬の子」とかだったという話をきいたが、現代の植物名もかなりなもんだ、ヘクソカズラとかヤブガラシとかボロギクとか。それから、こないだみつけた青い花、しかし小さすぎて老眼ではよくみえないやつは、タチイヌノフグリ(ゴマノハグサ科)と判明、これでほとんど名前がわかった。タチイヌノフグリにしてもノヂシャにしても、いったい何のためにこれだけ小さいのか。わからぬ。

ルイの脱走

2012年04月12日(木)

きのうルイが逃げた。管理人さんが、あれ、人間じゃないものが自動ドアを、と思ったときには遅かった。連絡が入って、とるものもとりあえず父の家に駆けつけて、管理人さんが近いところは探してくれたが、みつからず、あたしはリードをもっていつもの公園、いつもの細道、それから国道に出て、死骸がないか確認し、国道沿いで歩いていたチワワ連れの人にきいたら見ていないといわれ、行くが行くと、遊水池公園、土手にあがったところで済々こうの生徒がマラソンをしており、二人の女子高生にきいたところ「あっそれならあっちへ」と。土手の上を行くが行くと、柴犬連れの夫婦に出会い、きいたところ「橋のほうにいた、ついてきよった」と。それで土手の下を駆け抜けて、橋のたもとにたどりつき、ミニプードル連れの女に出会い、きいたところ、「リードだけ持ってるからそんなことかと思ったところだ。あっちからきたが見なかった、こっちにいくからさがしてあげる」と。親切に涙する思いで携帯を交換し、名前を交換し(O田さん)、さらに行くと、車のよくとおる道に出た。ここをわたるか(家からとおざかる)わたるまいか(家から離れない)考えて、ルイの性格を考えると後者だと。行くが行くと、土手が2つに別れておる。一方からきた男子高校生にきくと、「こっちでは見ませんでした」と。そこでもう1つのほうを行くが行くと、土手から見下ろした道の向こう側に女子高生が10人ばかりわらわらと群れているのがみえ、目をこらすとその足下に白いものが。ルイだと確信し、もしやはねられて重傷をおってるところを助けられたかとどきどきしながら土手を走りおり、道を押しわたり、手をふりながら走り寄ると、そこにルイが。あたしの顔を見て、おっと、こりゃまた、しつれいしました、みたいな顔で頭を下げてすりよってきた。聞けば、道のまんなかをうろうろしていたのでつかまえて歩道につれてきたと。首のタグから電話してみたが、おじいさんが出て何がなんだかわからなかった(父である)と。必由館と熊高の生徒たちであった。それでありがとう、ほんとうに助かりましたと何遍もおれいをいいつつそこを離れ、O田さんに電話して「みつかりましたー」と報告し、家に連れて帰ったのであった。ふと万歩計をみたら、一万歩ちかく加算されてあった。遊水池の桜が満開だった。

ムラサキ科と法華経

2012年04月11日(水)

水道町の交差点の花壇の植え込みに、なんとっっ、ワスレナグサ(ムラサキ科)が咲いておる。というか、植えられているのだ。熊本市民には、それを見て、それから身の回りのくさむらをじっくり見てもらいたい。その中にキュウリグサ(ムラサキ科)がある。その2つの植物の類似性におどろいて、また美しさ可愛らしさにうっとりするはずだ。そして法華経薬草喩品にでてくる「中茎小茎」はこういうことだったのだなと(大茎は寂心さんのクスノキや一心行の桜のこと)思いあたる。法華経といえば、ここ数日、うちの駐車場の裏の竹藪から成長したウグイスの声が聞こえる。法華経だなあと思いながら聞いている。「ちんちん千鳥のなく声は」という本でこの聞きなしを知って、とてもとても納得した。

くさむら

2012年04月10日(火)

キュウリグサ(ムラサキ科…うっとりするほどきれいだが小さすぎて老眼ではみえない、名前が実態負けしておる)ノヂシャ(オミナエシ科…さらに小さい。はじめて名前わかった。うちでよく食べてるサラダ野菜だった、食べてみた。同じ味がしたけど、こっちのは小さくてたぶん犬のおしっこにまみれている)カラスノエンドウ(マメ科…もうおしまい)スズメノエンドウ(マメ科…いまものすごい、すべてをおおっている)ハコベ(ナデシコ科…でも2種類あるように見える、背が高くてきりきりしているのと、柔らかめのと)ホトケノザ(シソ科…もうほとんどない)オドリコソウ(シソ科…一カ所だけ)オオイヌノフグリ(ゴマノハグサ科…でも大きいのと小さいのと2種類あるように見える)スズメノカタビラ(イネ科)ニワホコリ(イネ科…じつはよく区別がついてない。株になってるほうがスズメノカタビラ?)クローバー(マメ科…これから太る)アメリカフウロ(フウロソウ科…いかにもゼラニウムの葉)スイバ(タデ科)まだある。まだいっぱいある。

父とぴざ

2012年04月10日(火)

しかしどういう扱いをされてもへいぜんとしてまた関わっていくあたしってすごいと思う。とにかくうんざりして前の「期待と恐怖」の項を書いたあと、そうだ父が今日お風呂入るといってたと思い出し、電話して、おとうさん今日お風呂入る?ときくと、「今トイレにいくところ」といわれ、あ、そ、となったがめげず、そしたら向こうから電話かかってきて、お風呂にはいるというから、仕事道具もっていったのである。仕事する気になれず、掃除をし、そしたら、何か叫ぶのでいってみたら、湯船につかった父が、こわれたしまりのない声で、「あれが起こった、あれが起こった」と。れいのどきどきが起こったらしい。それでお風呂からあがらせて、そのあとルイを洗った。父は寝てしまった。しばらくして夜、どうするというと、ぴざ食べたいというので、注文していったん家に帰り、洗濯をし、スクワットし、また父のところに帰ってサラダを作った。ぴざはまるで「よつばと」に出てくるような感じであった。そして父はよつばのようにぴざを食べた。前から広告をみて、食べたがっていたのである。シーフードとは名ばかりの、少しのエビとツナがだんごになっていてコーンが入ってマヨネーズがきつかった。でもおいしかった。コーン入り和風ぴざ食べたかったので。

馬19

2012年04月10日(火)

2か月、間があいたが馬、のっけからマルコで縁起がよいのであった。マルコは半アラブで、やや小型で、反動が少なく、すべるような速歩ができる。しかもアラブなので速歩のときにしっぽをあげて行くそうだ(あたしには見えない)。今回先生はまるで別人になったかのように、基礎の基礎、常歩を執念深く、丹念にやり、巻乗り、半巻き、これはカササギ状の手でディメンションボールを作るように円を描けばウマくできるのだ(←冗談)。それから歩度をのばす、歩度をつめる、前回もこれはやったがよくわからなかった。今回しだいに感じるようになった。歩度を伸ばすときは、「うしろ脚が前に、前に、入るような心持ちで」やるのである。なぜかというと馬のうしろ脚がペースをきめて、前脚が方向だからだ、と先生の受け売り。そして自分のからだを動かさず、重心をぶらさずに、ゆっくりする、それが歩度をつめる。2日目もマルコで同じく歩度をのばす、歩度をつめる、駈歩、馬場をななめに横切る、馬の鼻を先に目指す位置にもっていくようなつもりで(つまり自分が行くのではなく)そこに至る。3日めのきょうはロカビリーで速歩、軽速歩。軽速歩のときの姿勢を、これまた先生は別人のように基礎の基礎から教えてくれた。前傾して背中はのばし(これがちょーーーむずかしい)かかとに力を入れずに、たちあがってすわる、馬の動きにあわせて。鐙に立ってかかとの力をぬいてたちあがり、また下りる、というのがインパセボー。ふくらはぎの筋肉が足りてないそうだ。そこで、うちでできる練習を教えてもらった。段差のあるところで、鐙をはいてるみたいに浅くつまさきをひっかけて、スクワットするそうだ。で、やっておる。靴をはいてないとできないので、家の中でも乗馬靴はきっぱなしである。基礎の基礎をやってるのはとてもおもしろい。ずっとこのままでもいい。もっと基礎がみっちり身についてから、木曾義仲みたいに馬に乗れるようになってから、駈歩とか障害とかやりたいのだ。馬場は春になり、いろんな花が周囲に咲いている。とくにキンポウゲのような黄色い花がはじっこにいちめんに咲いていて、初日の冒頭で、マルコといっしょに見に行った。そしたら鳥が飛び立って、マルコ驚いてぴょんと跳ね、あやうく落っこちかけたが、今回は踏みとどまったのである。

父と期待と恐怖

2012年04月10日(火)

やっぱ多少壊れてきているような気がする。声がまずしまりがない。やたらと怒りっぽい。すぐキレる。かなきり声をあげる。こみいったことを説明しても理解できない。常識というか論理が通じない。細かいお金にこだわる(預金を減らしたくないそうだ…すごく少ない預金である)。あたしの携帯にかけてきて、「聞こえないならいいや」と捨て台詞吐いて切った(こっちには聞こえておる)ので、行ってみたら、電話は2つとも通じている。通じるよといったら、「もういいよっそんなことばっかり」と怒ってキレた。今朝は8時すぎに呼ばれて、「ゆうべから具合が悪いから早く来て」と。行ってみたらまあふつうの顔色、ようす、しかし食欲はいまいちで朝食を残した。ルイを散歩につれていっている間に寝てしまったので帰ろうとしたら、寝ぼけ声で、「たばこ、ぜんぶ片付けちゃって、もう吸わない」というから、灰皿を洗って残りのタバコを隠した。さっき、おとうさんほんとにタバコやめるの、と確認しようとすると、「吸ってないだろ」とかなきり声をあげてキレた。いや、殺伐としてくるが、ここ数年間友人M子に、認知症のご母堂の話をさんざん聞いてきたので、耐性は多少できている。認知症というのではないと思うが。孤独による後退、それから明日は母の3年目なので、お迎えがくるんじゃないかという期待、あるいは恐怖。ここまで生きてきて、この期に及んで、こう変形ないしは変身してしまうのかなと思うと人生は無残だ。

父とカレーと飛行機

2012年04月10日(火)

「おまかせ」にすると「カレー」にされてしまうといって、父が不満を言う。何回も聞いたが(だから主任のS村さんに伝えて、対処してもらうようにしてあるが)また言っている。きのうごはんを食べながら(リクエストは生卵かけごはんと明太子。それになすの味噌汁と白菜の漬け物)「Nのじいさんがヘルパーさんとケンカしたっていうけど、わかるよな」と言い出して、何々してくださいと頼んだらあたしたちはプロですからちゃんと何々してありますといわれてむかっときた、それ以来「おまかせ」にしているが、そうするとカレーなのだと。「やっぱりむずかしいよ、人間関係は」と。カレーばっかりというのは同情するが、父のほうも昔どおりの父とはいいがたい。おそろしく短気に、狭い範囲しかみえなくなっておる。これとあれがぶつかるとむずかしいだろな、それは。
「この人はほんとによくやってくれた」とお気に入りのヘルパーKさんのくれた鏡を撫でて。Kさんはご主人の転勤で沖縄にいった。「今どきは転勤でたくさんもらえるのかな」と。「おれのときは500円もらった、満州に転属したとき。ふつうの給料が200円のときだから」「熊谷から飛行機でいった、松江でとまって、大連まで。二人乗りの飛行機に一人で乗っていった」。熊谷から松江までどのくらいかかるの?ときくと「1時間」。そんなわけないでしょう、飛行機も小さいし、遠いし、というと、むかっとしたようなので、そのまま話をつづけることにした。「一人だから下を見ながら飛んで、島があったら、見て来ようって寄り道して」「島の上をぐるーっと回って、戻ろうとしたらプロペラがとまっちゃった。ガソリンが切れちゃった。補助タンクに入ってるからそっちに切り替える」「落ちていくから、そこでぐいっと(機首をしゃくりあげるように旋回)やってプロペラが動いた」「そういうことはなかなかできない、おれだからできた」「だいたい1000メートルくらいのところを飛んで、1秒間に200メートルくらいずつ落っこちていく」「そういうことは本にはかいてあるけど教わらない、おれはほんとにそういう機転がきいたな、うまかったな、機転がきかないとおっこってそれまでだよ」「まああんたたちが車運転するのと同じようなもんだよ、こわくないよ」

父日和る

2012年04月08日(日)

きのうは朝の8時すぎに「おなかすいたよ、早く来ないかな」と電話があった。で、行って朝食を食べさせた。ゆうべの帰り際には「朝ごはんは9時だから」というから、いやおとうさん、今朝は電話があったから早く来たんで、と言いかけたが、言わずにやめて、OK、OK、と。それだけのことを説明しても、聞こえないし、聞きとってもたぶん伝わらないし。それで今日は9時にいくと、まだ部屋が暗い。父はまだ熟睡していた。カーテンをあけてごそごそしていると目を覚まして、「ゆうべ3時まで寝られなかった」と。そして「ゆうべあんたが帰ったらすぐすごく息が苦しくなって、まるで100メートル走やったあとみたいになって、もうだめかなと思ったけど、あんた帰ってすぐだったからすぐ呼ぶのも悪いと思ってそのままにしておいたら、なかなか寝られなかった」と。そして「これが気になって寝られなかったから起きてきて取った」と、壁に貼ってあった「救急車をよばないでください」の署名入り張り紙が壁からとってテーブルの上にあった。「これがあるとあとがめんどくさいと思って」「S村さんたちが警察にしらべられると思って」などという理由は何回も聞きただしてやっとわかった理由である。今日の朝刊に、どこかの老人ホームで孤独死した人の話が出ていた。

2012年04月07日(土)

飛行機から下を見たら阿蘇の山並みをすぎて、地上が近くなったあたりで、地表に白いかたまりがいくつも見えた。ススキの原かな、大きなパンパスグラスの株がならんでるのかな、もう4月だからすっかり枯れはてて白い穂がふわふわに出きってるんだなと思った。しかしそれにしちゃ1つ1つの株が大きいのである。で、気がついた。桜だった。桜の木が満開なのであった。それがこっちの敷地あっちの敷地をうずめつくしているのだった。「おばけのような桜」といったのは大島弓子だ。地上に降り立って、満開のあちこちを抜けていくたびに、いちいち「おばけのような」「おばけのような」と考えた。

4月25日 箱崎水族館でライブのお知らせ 

2012年04月02日(月)


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箏・ピアノ カノコ・ニシ
朗読 伊藤比呂美
ピアノ Megumi Shibata
きき手 藤枝守

4月25日19時〜
箱崎水族館喫茶室(福岡市東区箱崎1-37-21)092-986-4134
ドリンク付きで予約2000円、当日2500円

お問い合わせと予約は
Koro Planto Office 090-2968-0560

企画 藤枝守
製作 Koro Planto Office

4月29日 「百合子、ダスヴィダーニャ」トークのご案内

2012年04月02日(月)

浜野佐知監督作品「百合子、ダスヴィダーニャ」
4月28日から一週間限定公開
熊本Denkikan にて。096-352-2121
4月28日は11:40〜上映 そのあと監督の舞台挨拶。
4月29日は18:30〜上映 そのあと、監督と伊藤がトーク。
(上映は29日のみ18:30 あとの日は11:40〜)

熊本 Denkikan

4月28日 「仏教を語る」のご案内

2012年04月02日(月)

4月28日(土)開場14:30 開演15:00

第一部 山折哲雄 講演会
第二部 山折哲雄×伊藤比呂美 対談「現代社会と仏教」

熊本学園大学14号館高橋守雄記念ホール

入場無料

先生におききしたいことがいっぱいあります。質問ばっかりです。

再送 4月20日ジュンク堂のご案内

2012年04月02日(月)

4月20日 19:30〜
ジュンク堂池袋 4F喫茶店 03-5956-6111

ドリンク付きで1000円

こんど、ぷねうま舎から本が出ます。その名も
『たどたどしく声に出して読む歎異抄』
そのおひろめと景気づけをかねて
親鸞の声を、恵信尼の声を、読みまくります。

再送 4月19日詩人の聲のご案内

2012年04月02日(月)

4月19日(木)18時30分開場 19時開演
数寄和 杉並区西荻窪北3-42-17 
tel: 03-3390-1155
email: contact@sukiwa.net
予約2700円 当日3000円 学割1500円

人ひとり

2012年04月02日(月)

人がひとり死ねずにいる。それを見守ろうとしておる。いつか死ぬ。それまで生きる。それをただ見守るだけである。でも重たい。人ひとり死ぬのを見守るには、生きている人ひとりぶんの力がいるようだ。

父とののしり

2012年04月02日(月)

父に電話してもうまくつながらないことがある。しかし独居する父に午後電話する人間はあたししかいないはず。なのに、つながらないと父は(つまり父には聞こえないらしいが、こっちは聞こえている)これみよがしに「なんだ、なんにもきこえないじゃないか」と不満をいいちらして電話を切る。かけなおし、「今のあたし」というと(こんどはつながった)「聞こえなかった」とまた不満をいう。それで、だっておとうさん、この時間にかけてくるのあたしなんだから、もうちょっと辛抱してよというと、「何も聞こえないのにおれにしゃべってろっていうのか」云々と口汚くののしられてしまった。そんな父の相手をするのはいやなので、早々に、じゃまたあした、と電話を切った。なにしろこのごろ受話器を取るときに、不満げな声で「はい?」というから、それだけでも、いやだなあと思って気が重い。その上こんな対応されたひにゃやってられないのはこっちだぜ。日本いきたくない。ずっとここにいたい。

またタケと下痢

2012年04月01日(日)

タケの下痢のあと、夕方の散歩だ散歩だということで、いつもどおり騒ぎ立てて外に出たのであるが、ちょっと歩いたところで、タケがまた歩きながらぽたぽたと下痢を。歩道の上であった。形がないので拾うに拾えず、トメに、家に帰ってトイレ紙を持っておいでと言いつけたら、走ってかえってトイレ紙とビニール袋を持ってきた。その後ろから、S子がバケツに水を入れて持ってきた。タケは、何も知らずに心配そうにトメを待っていたが、再会して喜んだのなんの(ニコはそこらのにおいを嗅いだりおしっこひっかけたり、自分の用事で忙しいのであった)。拭き取って水で流したが、まだ歩道の上にしみがある。雨が降るまでこのままだと思うがいつ雨が降るのか(いや降らない←反語法)と思っていたら、なんと、企んだかのように夜半、雨が降り出しておる。

タケとベッドと下痢

2012年04月01日(日)

タケがベッドでうっかりもらして「しらないわよ」というのは何回もあった。それはふつうのうんこで、つい出ちゃいましたという感じであった。こうならないようにするために、われわれはズンバなどで腰をまわしてそこらへんの筋肉をきたえておるのだが、効果のほどは年取ってみないとわからない。きょう、まっ昼間、仕事してたら、とつぜんぶりぶりぶりという音が聞こえて、足元をみると、寝そべったタケが平然とした顔で、尻尾の下に、泡立つ下痢を排出しておる。さいわいおしりはベッドからはみ出していのでベッドは汚れずにすんだ。出終わるまで待ったが、タケはいっこうに立ち上がる気配がない。もしかしたら気がついてなかったのかもしれない。それで、タケ、こっちおいでといい、外をさししめすと、のったらと起ちあがり、出て行って、居間のベッドにすわったが、しっぽに下痢便がついて、あちこちひきずってくっつけて、居間のベッドにもべったりと。それを片づけ、拭いて、しっぽもきれいに拭いてやったら、またあたしの部屋にもどってきた。おしりを拭くときは、ごしごし拭かないと取れないし、ごしごしやるとタケは腰が砕けてしまう。それでタケの腰を上から羽交いに抱えて、あたしの腕力でタケを支えながら、ごしごしと拭いた。その腰が、骨でごつごつしていて、そして最盛期の中年女としてのタケのあのむちむちした腰からは考えられないほど細く、弱々しくなっていた。あたしがズンバをどんなに踊ってもやせないのはたぶん今のあたしがあの頃のタケのような中年女の生理と体型を持ってるからだ。若い頃はいつも太っていた叔母(80歳)が、「この頃やせちゃったのよ」といくぶん得意そうに言ってたのを思い出す。叔母はそのとき、「80になればみんなやせるよ」とも言った。80まで待ちたくないなあと、そのときは思ったけれども、今そのことばを思い出し、タケのすがたをこうして見ていると、なんだかしみじみとする。叔母の言うとおりあたしも80になったらやせて、このようにごつごつになっていくのかもしれない。そしてまた、タケの腰を抱えたときにまず感じたことは、とうぜんながら、母の末期の姿や父の(胴体はそうでもないが)足腰の細々しさで、あはれといふもおろかなり。しかし自分の部屋ながら、じつに臭い。

   
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