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伊藤製作所「豆畑支所」
   
 

馬5

2011年10月28日(金)

9鞍め、ホースウィスパラーについて。ナチュラルホースマンシップについて。少しからだを傾けて常歩を活発にする練習。10鞍め、「とまれ」のときに声で合図しつつ、なめらかに確実にとまる練習。「行け」のときに舌鼓で合図しつつ迅速に出る練習。11鞍め、まきのりの練習。手のうごかし方、馬への伝え方。右に行かせたいばかりに左手も右寄りになり、馬に左へいけの合図をしてしまっている。鐙に立って両手をはなす。速歩のとき、「おしりをねばっこく」の気持ちでいるとむやみにはずまない。呼吸について。

東京から熊本

2011年10月24日(月)

東京くそ暑かった。でも熊本もっとだ。

N宅と飛行機と百合ダス

2011年10月22日(土)

N宅。東京は湿っている。窓から雨の匂いが強烈に入ってくる。twitterにも書いたが、やはり深夜のような早朝、暗闇の中で、一人で、Nの冷蔵庫を開けて食べ物を探すのはすごい経験であった。逆オオゲツヒメというか逆食わず女房というか、民話神話にのみこまれていくようであった。ゆうべ、コンブチャの話をしたが、発酵好きのNがこの話に食いつかぬワケはなく、さっそくtwitterに書いておった。こんどはコンブチャの瓶入りをおみやげにもってくることにした。
飛行機のなかでは、仏教の本をいろいろ読みちらしながら、やりかけの和讃をバッテリーの続くかぎり(あんまり続かない)やっていたのだ。数独をやりかけたが10分くらいでやめた。依存はすっかり断ち切れた。映画は新作はつまらなそうなのばっかりだったが、旧作で「Se7en」(どう書けばいいのか)、やってた。見た。この監督好きなんである。好きな監督といえば、ユーロスペースで浜野監督の「百合子、ダズヴィダーニャ」やっている。今回の来日つか上京目的のひとつはこれだ。

ヤモリと野生動物

2011年10月20日(木)

ヤモリシッターをしておるのだが、えさはこおろぎである。さっきころおぎがりーりーりーりーと鳴いているのを聞いた。なつかしい声であった。
あした日本行きの飛行機にのるのでこんなことをしている場合じゃないのだが、親鸞の和讃を読み解きつつ、ネットで新聞を読みまくっていた。オハイオの野生動物の事件である。日本語の新聞じゃらちがあかないので、しかたがない、読まないことにしている英語の新聞をかたっぱしから読みあさった。いたましい。ほんとにいたましい。Zanesvilleのシェリフの手伝いをして捕獲にあたっていたなんとかハナという野生動物の専門家の声が、abcニュースにのっていた。ほんとに胸がつぶれる思いであった。それでゲルの解体はぜんぜんはかどってないけれども、胸がつぶれすぎたのと、今日やってきたインフルエンザの予防注射でなんだかとっても疲れたので、ゲルの解体とゲルの梱包と家畜のまとめは明日の朝することにして今日はもう寝る。

死体のようなタケとお経と人生相談

2011年10月19日(水)

タケの寝方がどんどん死体っぽくなっていっておる。遠目で見て、死んでるんじゃないかと近寄ってみるとほんとに死んでるみたいなので、じっと観察してみても、生きてるというシルシがなかったりする。おなかは動いてないし、顔もぴくぴくしていないし。で、そっとさわっても起きなかったりする。何回かさわってると「はっ」とあわてて目をさましたりする。昔は、寝てるふりをしてるだけで寝てなかった。こっちが動けば、さっと立ち上がってついてきたものだ。しかしこの寝方、どっかで見たなと思うとうちの父だ。よく寝る老人なのだが、寝てるときに行ってみると、死体みたいな顔で寝ている。何で死体にみえるのかというと、たぶん脱力した姿勢だ。父はあごがはずれたみたいになって寝ているので、昔の洞窟でみいらになろうとしている年取った坊さんのような感じだし、タケは宮崎学の動物の死体写真みたいに四肢を脱力させて、頭なんか犬用ベッドからずり落ちておる。一日に何回もタケの前に立って生きてるのかと確かめてみたくなってるのは、あたしだけじゃない。
あさって日本行きなのでゲルの解体をはじめてみたが、コンブチャを飲むのに忙しくてなかなかはかどらない。全身が発酵しておる。25日に久留米でお経の話、30日に荒尾で、ライブ万事OKをやる。これはその場に人生相談もってきてもらってそこで答えるのだ。H田にいわれるまでもなく、なんかだんだん寂聴先生路線になっていくようだ。

コンブチャと10月22日の「言葉を信じる秋」

2011年10月18日(火)

きのうはいっぱい映画をみた。「Buck」という馬映画を近所の映画館で見て、夜は「Encounters at the end of the world」という南極の映画をうちで見た。どっちもドキュメンタリーだった。どっちも好きな世界であった。それからコンブチャをいっぱい飲んだ。「漢である」に書いていたので、ここ2、3日、いろんなとこで買い集めて飲みまくっていたのだが、やはり樽出し生を飲まねばと思いつき、朝の8時にWhole Foodsにいって樽出し生コンブチャ(つまり樽出し生紅茶キノコ)を買ってきて飲んだ。思いがけず飲みやすくしてあったので、午後にMみさんと会ったとき、また行って飲んだ。Mみさんはもうこの正体が紅茶キノコだということを知っていたただけでなく愛飲していた。つまり何ガロン飲んだかわからない。そのあいまに、やはり発酵飲料であるアマザケとビールもがぶ飲みしてるし。う。心なしかきょうはからだ中に酵素がたぎっておるような気が。

ところで再びお知らせ。もうすぐなので気づいてあわてている。Tカントクに、詩人の聲もやらないかと言われたが、この10月はただひたすら「言葉を信じる」に集中したかったので、ほかの予定は何もいれなかった(朗読は、ですよ。トークみたいなのは入れましたよ)。渾身の朗読いたします。

「言葉を信じる」秋 
【とき】10月22日13時〜
【ところ】日本近代文学館ホール
【お代】3000円(予約)3500円(当日)
【出演】池澤夏樹・伊藤比呂美・稲葉真弓・白石かずこ・高橋睦郎・天童大人
【といあわせ】kotoba.20110311@gmail.com

タケと老い

2011年10月15日(土)

タケが散歩に行きたがらない。でも散歩のあとの牛乳はのみたがる。ニコの牛乳ものみたがる。ごはんは食べたがる。ニコのごはんも食べたがる。ちょっと(1、2週間?)前まではどこか行くのになんとなくいっしょにいきたそうなそぶりを見せたのに、もうぜんぜん興味もしめさない。だからニコだけ連れて行くことに、ニコも慣れてしまった。ここ2日ばかりでめっきり老いたとS子も観察している。

ジクジ

2011年10月14日(金)

きょうカリフォルニア大学サンディエゴ校(UCSD)であった文学のコンフェレンスのなかのパネルに、サンディエゴサークルという詩人仲間の一人として出ろというから、へい、と。サークルなんかないけど(と出席者のひとりもいっておった)みんなUCSDかカリフォルニア州立大学かで教えてる人たちで、Rセンバーグの家のディナーで、しょっちゅう顔をあわせておる。でも、あたしなんか英語もろくにしゃべれない日本人の詩人なので、顔をあわせるだけでおつきあいもろくになかったわけだ。たまにうちによんでも、ごはん作るだけで、会話なんかしたこともなかったのだ。最初はたしかに英語できなかったけど、この20年のうちに英語ぺらぺらになってるのをみんな知らないのであった。パネルと朗読であったが、パネルではなんだか言わなくていいいことまでいっちゃって挑発しちゃったような気がして、ジクジたる思いである。きっと20年間のディナーの席で、会話についていけなくて無視されてたその恨みが吹き出したんだな。今はついていけるけど、つまんない話してるのがわかってきて、ついていきたくもなくなっておるのだ。

リターンズといえば

2011年10月13日(木)

「あかるく拒食ゲンキに過食リターンズ」再刊中! オリジナルは1993年だから気鬱でぼろぼろだったころだ。ゲラみるのもしんどくて編集のO川さんにさんざんフォローしてもらったりした。今回は斎藤先生とひさしぶりの対談をつけ足したが、それがとてもよかった(あたしのために)。ふふふ、斎藤先生のセラピーをタダでじっくり受けられたようなものであった。やってよかった(あたしのために)。平凡社。表紙は渡辺ペコさんのイラスト。ちょーかわいい。

歎異抄リターンズ

2011年10月13日(木)

あーずっとずっとずっと歎異抄にかかりきり。最初にやったときにはすごくかんたんにできて、いやーどうしたんだろう、唯円さんと気が合うのかなと思っちゃったけど、何回かやりなおしてやり直すたんびにむずかしくなっていくのである。間をおいてやり直しているから、その間に、いろんなもの読みあさっており、前わかると思ってたことが今はわからなくなってたりするのである。つまり前もわかってなかったということだ。だいたい仏教ってどれもこれも漢字をこれでもかというくらい使ってあって、しかも今でも使ってる漢字が(熟語も)多いのだが、じゃ今と同じ使い方で昔も使ってたかというと、微妙にずれておる。その上、意味はわからなくとも聞き慣れたことばなので、わかったつもりになって、あるいは初めからわからないから無視して、読み飛ばしているのだ。それじゃいかんと思って、漢字の熟語をいちいちひらいてみようとしているが、できてんだかできてないんだが。へたするとずるりと滑って意味を間違ってしまうのである。眠くなるから、モンスターという気つけドリンクをつい飲んでしまって、娘どもに中毒といわれておる。

スマホと父

2011年10月12日(水)

こないだ父が、新聞の切り抜きを持ってるから、何かほしいものがあるの? ときくと、いや、こういうのだ、といって見せてくれたのが「女性向けのスマホ」という記事であった。「これ、あんたの誕生日にどうかなと思って」というのだ。で、「おとうさん、たぶん、あたし買ってもらっても使えないし、今のauってとこを替える気もないから、うれしいけど」とていねいに断ったのだが、なんか寂しそうな顔をしていたのが気にかかっていたのだ。そしたらiPhone4Sが売り出され、auからも出るというのを知って、appleなら別である。iPhoneもiPadも、友人が使ってるのを見て、いいなあと思わないでもなかったから、父に電話で(もうこっちに帰ってきていた)「おとうさん、スマホの欲しいのが出たから、誕生日に買ってくれる?」といったら、うれしそうな声で「いいよ」といった。やっぱ、衰えたりといえども父だから、ときどき心配させてやったり、ときどきなんかねだったりするのも必要だなと考えたしだいである。寝たきりの母にはいろんな悩みを話したら寝たきりながらイキイキと相談にのってくれた(役には立たなかった)。父は相談事よりおねだりのほうがうれしがるようだ。その後も父には何回も「まだかい」と催促されたけど、とにかく、ここにいちゃ何にもできない。こんど帰ってから申し込みにいこうと思っていたら、ものすごい予約の数らしい。いったいあたしの分まであるのかどうか、不安である。

母のびん(紅茶キノコ)と父の虫

2011年10月11日(火)

このあたりで、Kombucha なるものがボトル入りで売られておる。それにしてはあの昆布茶ではないので、まーたまた日本文化を誤解しちゃってーとバカにしつつ無視しておったのだが、昨日wikiで調べてみたら、なんと「紅茶キノコ」だという。これにはぶったまげた。紅茶キノコ。70年代に生きてた人は覚えがあろう。あのびんの中で、どこの家でも培養していたアレである。あたしはもう子どもという年頃じゃなくでもおとなでもなく、まーたおかーさんがへんなものにはまって、と(当時「はまる」ということばは無かったのにもかかわらずそう考え)バカにしつつ無視しておったのだ。あれがこんなとこまで来て、製品化されて、南カリフォルニアの健康自然志向の人々に愛飲されておったとは。ここにはAmazake というものもある。それもまた甘酒とはぜんぜん、まったく、似てもにつかぬもので、同じような店で売ってて同じような人々に飲まれておる。ブルーベリーとかアーモンドミルクとかオートミール粉とかバニラフレーバーとか入っているのだ。そっちのほうが先なので、Kombucha が出てきたとき正体をみきわめずに無視してしまったのだ。母が紅茶キノコにはまる数年前に、父がへんな、さらにへんなものにはまっておった。それは小さい黒っぽい虫で、米ぬかに入れて飼うのである。そしてそれを一日に1匹とか2匹とか、父がゴクリと薬粒みたいに丸呑みするのである。あれはなんだったのだろう。紅茶キノコのびんを母がだいていたときには、あの虫はすでにいなかった、ような気がする。
(で、報告)さっき近所の自然食品系の店へいったS子が1本買ってきてくれたが、すっぱいではないか。そして炭酸ではないか。でもほの甘くてけっこううまいではないか。むかし、ミランというイタリアの北端の町で飲んだ「モスト」という白ワインのできかけ、まだふつふつと発酵中であったが、あれを思い出した。フランクフルトで、名物だとすすめられたりんご酒、酒というより酢に近い落ち着いた味だったが、酸っぱさ的にはあれも。

月下の棋士と昔のエロ劇画

2011年10月10日(月)

きょうはBookOffで「月下の棋士」の文庫の15と20を。これはむかーし連載の始まった頃にはまって読んでたがいつしか単行本を買わなくなってしまったのであった。こないだから読みたくてしかたがなかったのは、もちろん「三月のライオン」のせいである。あたし、大学出たての頃、つまり詩人としてデビューしてすぐの頃、某誌で漫画評論をやれといわれ、しばらく文学にかかりきりで漫画読んでなかったものだから(それで24年組の台頭も知らずにすごしていた)職場への行き帰りに必死で漫画雑誌を買いまくり読みあさりまくり知識の更新にあいこれつとめていたのであった。当時(というのは78年ごろかな?)エロ劇画がおもしろくて、三流劇画とよんでたかもしれない、能條純一とか宮西計三とか石井隆とかひさうちみちおとか、若い女が電車の中で読みふけるにはちょっとというような漫画だったが、なりふりかまわず持ち歩いて熱心に読んだ。たいへんおもしろかった。あの頃へーきでセックスだなんだと書けたのは、もしかしたらこういう読書歴の影響もあるかもと思わぬでもないのである。こないだ「3月のライオン」の第1巻に「月下の棋士」のパロディが出てきたときに、そういえばあれも将棋漫画だったと思い出したわけである。そしてそういえば、二階堂のモデル棋士をモデルにした棋士が、「月下の棋士」にも出てきてたっけなあと思い出していたのである。きょうの収穫は、あと、藤原英司のシートン動物記(ロボとちびすけ軍馬とワープとあばれ馬コーリベイ)、ヘルマン・ヘッセとジョルジュサンドとラブレー、中也の全訳詩集、道教の神々、ぜーんぶ1ドル、豊漁であった。月下の棋士だけ一冊5ドルもした。Convoyまでの行き来は、トメが運転したのであるが、まだ仮免で高速道路を運転できないので、おそろしく時間がかかった。

タケと散歩

2011年10月09日(日)

車に乗り込むのに失敗することが多くなったタケなので、このごろはちょっとそこまでが多い。うちの前の道を角の教会まで歩いて、教会の駐車場を横切って帰ってくる。むかしなら、あたしの留守のとき、トメに散歩にいかせるとき、「角まででいいから」と言い置いていったとこなのである。しかしタケはそれがいやでたまらない。なかなか歩かない上にときどき立ち止まって「もうかえる」のそぶりをするので、いつ頃からかあたしは犬クッキーを手にもって、小さくかち割ったのを与えながら歩くようになった。タケの口でがぶっとやられるととても痛い。クッキーを口先にもっていって「タケ、ゆっくりゆっくり」というと、 ゆっくりかみつく努力はしてくれる。ニコの口はふわふわしていて指先がそっくりつつみこまれるようで、気持ちがいいほどだ。これはたんに大きさの違いなのか、あたしの指が腕ほど大きければ、タケの口も、ニコの口みたいにほっくりとあたしの腕じみた指をつつみこんでくれて、よだれだらだらまみれになったりしないのであろうか、などと毎回考える。この距離を歩くときは、タケにはリードをつけないで歩く。そうするといやいやながらついてくる。リードをつけるとふんばって抵抗して動かなくなるときがある。あたしが見るからタケだけど、知らない人がみたら、ああすごく年取った犬がいやいや散歩しているなあ、と見えるであろう。タケ、と呼んでも、むかしは瞬時にそばに来たものを、今は耳が遠くなって聞こえないから、ぜんぜん動かない。それでリードはつけなくても、タケから目を離すことができない。この道は、教会の手前はずっと園芸植物をつくる農場だったから、だれもいない。ところがそれが数年前になくなって今は新しい分譲地がたちつつある。その手前に左奥にのぼっていく道があり、家が何軒もある。そのなかの一軒に、ひどく獰猛なラブとわけのわからない小犬がいて、ときどき家を抜け出している。それがこっちの2匹をみるや、うなり声をあげて遅いかかってくるのだ。遊びかと思ったらほんとに組み敷いてくるのでおどろいた。若い頃のタケならひとたまりもない(あっちが)。血まみれにして治療費請求されるなんてこともなりかねなかったが、この頃は腰が砕けるばかりなので、何があっても大丈夫だ。タケの訓練士が、犬がケンカしはじめたら、自分(飼い主)が向こうの犬の前に出て行ってかまれろ、そのほうがずっと安くつく、と冗談のような本気なようなことをいっていたが、今となってはすごくよくわかる。ニコはケンカ腰になって襲い返しているが、なにぶんこの大きさなのでたいした戦力にはならない。タケは、散歩から帰ると牛乳をもらえる。それが楽しみで散歩にいきたがるのである。それが楽しみで楽しみで、まだニコが家の前でちんたらにおいを嗅いでいてもさっさと家の中に入ろうとする。それが楽しみで楽しみで、帰ると、自分のお皿の前に立ち尽くしている。楽しみで楽しみで、ついでもらうのが待ちきれない。「タケ、口のみしないでよ」といつも叱られるが、何にも聞こえてないし、かまうこっちゃないのである。で、自分のを飲んだらすぐにニコのお皿の前にいって、それをじーっとみつめている(ニコはタケが怖くて自分の牛乳に口がつけられない)。

ふしぎ系植物たちと保護者会とミーアキャット

2011年10月08日(土)

以前、クランベリーの収穫の写真を見た。それは湖みたいなところで、水面がいちめんクランベリーの赤い粒でおおわれてそれを人々がすくい取るようにして収穫しているところであった。それを昨日とつぜん思いだし、クランベリーのことをいろいろ調べたりしておった。ツツジ科だということがわかった。そしたら今日はSジさんからメールが来て、Welwitschiaという植物について書いてあった。前にその植物が近くの植物園にあるという話をSジさんがしていたので、それはなんという名前ですかと聞いた返事である。調べたら、和名を奇想天外ということがわかり、それなら「ふしぎな植物」みたいなコラムとか本とかで、スマトラオオコンニャクやラフレシアやオオオニバスなんかといっしょに書いてあるのを読んだことがある。おとといは、K森さんから8月末から9月初めの庭の周囲の植物について問い合わせがあり(あたしらは「なっちゃんとたぬき」という絵本を作っているのだ。たぶん来年刊。絵は「なっちゃんのなつ」にひきつづいて片山健さん)ネットで調べたり、植物友達のE藤さんに問い合わせたり、K森さんからもたくさんの植物の名前を聞いたりした。そういうわけで、すごく植物のことを考えているこの数日であった。今朝は、ズンバにいかず(でもちょうどふくらはぎを傷めたので、行くのやめようかと考えていたのだ)トメの学校に、受験生の情報交換のための保護者会にいってクラスのおかあさんたちとおおいにしゃべってきた。のんきそうに見える南カリフォルニアの人々もやっぱり受験が気がかりだ。でもほとんどはふつうの白人家庭で(う、なんかちょっと差別っぽい表現。ゴメンナサイ)「タイガーマム」といわれるアジア系の教育ママのようには振る舞えないからかえって気が揉めるという感じ。自分のことを「ヘリコプターマム」と自嘲している人もいた。でもって、あたしは「ミーアキャット・マム」。

帰国子女のレイとハーフのマコト

2011年10月07日(金)

「僕はビートルズ」の四人がついにイギリスにいったと在東京モーニング購読者であるK森さんから情報を入手した。うむむむ。肝心の英語はどうなっているのであろうか。エプスタインに会ったという話だけれども、彼はたしかユダヤ系イギリス人、ときたら、連想するのがうちのつれあいの英語である。あたしでさえこれだけ苦労してきたのだ。こんなに若くて純粋な男の子たちが、そんな英語に真っ向から太刀打ちできるわけないのである。ここは嘘でもいいから、レイかマコトを、帰国子女かハーフ枠に設定して、英語がじつはぺらぺらであったという流れにしておいてもらいたい。でないと、まず、マコトがあの茶髪を維持できている理由が説明できない(あの時代に同じような髪染め剤が手に入ったのか)、そしてレイの自作の曲が「Talk to me」であることの説明も(つまり歌詞は英語のようだから、その歌詞を構築するだけの英語力がほしい)。ああ、こんなにつっこんで楽しめる漫画がほかにあったろうか。

父のお風呂と娘の洗濯

2011年10月06日(木)

友人の母がアルツハイマーで、きょうはお風呂入ったことを忘れたのだという一部始終を聞いていて、うちの場合は父がお風呂嫌いで一週間ほども入らないが、あたしはもちろん遠くにいるから何もいえないのだが、近くにいてたとえ臭ったとしても、父が今の父の意識で生きているかぎりは(友人のご母堂のように、世話してやらねばならなくなったら関係性もかわるであろうが)、お風呂に入れとも入るなとも言わないだろうし、言ったこともなかったなあと考えた。たぶんあたしは、頭のどこかでそれは個人的なことだから口出ししたらいけないと考えているフシがある。父娘なのになんとつれないではないか。しかし同じ理由で、あたしはつれあいのお風呂にも洗濯にも口を出さない。妻といえども、トイレにこもってうんこしてるときは見ちゃいけないというのと同じ理由で、立ち入るべきではないとも思うのだ。前の夫のときはけっこうがさがさやっていたので、このつれあいとの関係を作るときになにか戸を閉めて(メタファです)閉めっきりなのだ。そして実は、娘どもが大きくなってからは娘どものそれにも口を出してない。末っ子の洗濯はたまに請け負うが、あとはほったらかしてある。つれあいが洗濯機に自分のものを入れたまま忘れておれば、それを乾かしてたたんでしまうのはぜんぜんヤブサカじゃないのだが(それをしないと次に使えないし)。こんなやり方で、父ともこっちの家族とも、家族として穏やかに暮らしている。しかし父はしょっちゅうあたしにうんこでたの出ないのもらしたのもらさないのという話を聞かせたがるので、ほんとうはそこんとこをもっとつっこんでもらいたい、でないと家族って気がしないのではないかとなんとなく感じている。

漫画の買い方

2011年10月06日(木)

漫画の買い方がおかしいとよく娘どもから苦情が出る。何巻もでているものは1から順番に買えばいいのに、おかあさんは7とか13とか25とかてきとうに買うから読みにくい、と。しかしそうではない。あたしは何もかもを見透した上で、いちばん効果的な買い方をしておるのが、素人にはわからんのぢゃ。まず数巻目を買う。10巻出てれば5巻めとか。30巻なら7巻めとか。それが、連載になれて作家の力がのびのびとしてきた頃なのだ。そこがおもしろければ、1にもどる。最終刊が出ていればそれも買う。そうすればむだな労力とお金をかけずに漫画の全貌がわかるというものぢゃ。などといってて、おもしろかったときに、1からぜんぶ読みたくならずにすんだためしがない。しかしそのときも、別にじゅんじゅんに読みたいという欲望がないので、てきとうに穴埋めしていってやがてぜんぶ読み切るのである。

3月のライオンとネット接続の不便

2011年10月05日(水)

M子に頼んだ「3月のライオン」2巻がやっととどいたので、むさぼるように読んでおる。1巻と6巻は成田のTSUTAYAで「1巻と6巻ですが、よろしいですか」と言われながら買い、そしたらイイので、「ハチクロ」より断然いいので、BookOffにはしって3,4,5巻を買ったが、2巻だけなく、じだんだ踏んでいたのである。何がいいといって、橋だな、それから川や空だな、いや、たんなる風景なんだけど、それが実にいいのだ。下町の路地裏のしょぼくれたしもたやの風景もいい。すぐ「青春は」とか「若い」とか周囲の人間にいわせたがるくせがこの作家にはあって、「ハチクロ」のときはすごく鼻についたが、今回はぜんぜん鼻につかない。どういう原因かはわからないが、ネットに行きづらい。すぐSafariが閉じる。FireFoxも閉じる。GoogleChromeも閉じる。同じようなことはすでにラップトップにも起こりつつある。ちょー不便だがいい傾向である。

予告 10月10日澤田精一講演会

2011年10月03日(月)

澤田精一講演会
【とき】10月10日(月・祝)14時〜
【ところ】熊本市現代美術館ホームギャラリー(入場無料)

伝説の絵本編集者、あたしの、絵本における善知識のような(おっとつい仏教用語が……)澤田精一さんの講演会、もちろん、絵本についてです。CAMKの9周年記念の行事です。あたし? いえ、出ませんよ。出ませんけど、すごく行きたい、かぶりつきで話を聞きたいので。

予告 10月22日 言葉を信じる 秋

2011年10月03日(月)

「言葉を信じる」秋 
【とき】10月22日13時〜
【ところ】日本近代文学館ホール
【お代】3000円(予約)3500円(当日)
【出演】池澤夏樹・伊藤比呂美・稲葉真弓・白石かずこ・高橋睦郎・天童大人
【といあわせ】kotoba.20110311@gmail.com

渾身の朗読をします……いつもの「詩人の聲」とはちがって、ほかの詩人たちの声に、おもいっきり、揺さぶられ、触発されるはずだ。
http://kotobawo.blogspot.com/

予告 10月28日「比呂美の部屋」

2011年10月03日(月)

「比呂美の部屋 学園ライブ」第五回高濱州賀子さんの巻
【とき】10月28日(金)17時30分〜
【ところ】熊本学園大学 14号館3F1432教室(入場無料)
【ゲスト】歴史家・高濱州賀子(永青文庫研究センター客員准教授)

テーマは「歴史のナゾ―史実と物語のあいだ―」
高濱さんはプロのレキ女であり、スジ金入りの漫画読み、気の置けない女子トークに、きっと歴史が見えてくる!

予告 10月29日野生の科学研究所

2011年10月03日(月)

現代詩手帖9月号につづいて、越川芳明さんとの対談、第2弾です。
【とき】10月29日15時〜17時
【ところ】明治大学リバティアカデミー(入場無料)
【申し込み】ホームページ、またはお電話にてお申込下さい。
TEL:03-3296-4423 WEB:https://academy.meiji.jp

予告 10月30日 荒尾でライブ万事OK!

2011年10月03日(月)

ライブ万事OK! 荒尾篇 
【とき】10月30日13時半〜(2時間)
【ところ】荒尾市緑が丘あらおシティモール「シティホール」
(入場無料)

九州各地で大好評の「ライブ万事OK!」、今回は荒尾市女性モニター連合会結成20周年事業として荒尾にいきます。どんどん相談してください。その場でばんばん答えていきます。
 荒尾っていうのはこんなところです。

 この暑い最中に、あたしはとうとう荒尾競馬に行ってきた。(中略)有明海は輝いていた。近くには鉛筆描きみたいな海苔の養殖場。遠くには佐賀の山々、雲仙の煙。そこへ馬が出走し、冷房に隠れていたおっちゃんたちがいっせいに馬場のきわまで出てきて、叫んだ。喚声が地響きをかき消した。競馬の後には万田坑に案内してもらった。もう閉まっていたが、外から見るだけでも、と。競馬場から町中を抜け、どんどん緑が多くなって、緑がおおいかぶさってきて、はっと気がついたらトンネルが目の前にぱっくりと口をあけており、その上にはぼうぼうと草々が繁りのたくっており、その向こうに、半円にふち取られた真っ青な空があった。その中に入っていくのが怖いくらいだった。トトロとか、千と千尋とか、そういう世界を体験しているようであった。トンネルを抜けたら万田坑だった。鉄筋の大きな装置があり、煉瓦の建物があり、おおきな煙突跡があった。周辺には雑草の空き地がひろがっていた。セイタカアワダチソウやアレチハナガサがわらわらと群れていた。夏草や。人馬。炭坑。夢のあと。荒尾は熊本市内からほんの一時間、田原坂の下を通り、新しい玉名のバイパスを走り抜けてぐんぐん行けた。知ってる世界がぐんぐんとフェイドアウトして、知らない世界に切り替わっていった。浮かび上がってきたのは、近代と現代。人の生きざまと馬の生きざま。どこにでもある町並みが一瞬にして異境になる。それが荒尾だった。(熊日・文学隊隊長日誌から抜粋)

予告 11月5日 鈴木志郎康「極私点360°」

2011年10月03日(月)

鈴木志郎康作品上映会「極私点360°」 で志郎康さんとゲストトーク。まず「比呂美毛を抜く話」の上映がある。

http://www.imageforum.co.jp/cinematheque/955/index.html

【とき】11月5日
【ところ】イメージフォーラム

ひさしぶりの志郎康さんなのですごく楽しみです。40年ぶりくらいかもしれない……。いやそんなことはないか。

車にのりこむタケと運転中のニコ

2011年10月03日(月)

きのう買い物にいこうとしたらタケが車に入りそびれ、しょげていて再トライができなくなっており、しかたがないから、タケは置いていこうと思って、クッキーちらつかせて、ほらタケはこっちおいでといったら(つまりその時点で、もうニコは乗り込んでいてすっかり行く気まんまんであった)実に微妙な表情をした。いやよというか、なんで?というか、やめてよというか、ばかいってんじゃないというか。しかたがないので、クッキーを座席の上でちらつかせ、鋭角な感じで車に乗り込むようにしたところ、無事に乗り込めた。
買い物にいったって降りるわけじゃないが、店からもどったら、待っていたごほうびにクッキーをもらえることになっており、家に帰ったら散歩とおなじようにミルクももらえることになっており、タケとしてはそれが楽しみで行くのである。で、あたしが店から戻るとものすごい形相でよだれをたらしながら待っておる。ちょっとぐずぐずすると、うしろから前足をひじをつくコンパートメント(そこにクッキーが入っている)の上に、どんと置いて、うわう(ちょっと!)と催促する。クッキーをやろうとするとすごいいきおいでかみつくので、「ゆっくりよ」というとそーっと取るけれども、ときどき我を忘れてがぶりと取るので、とっても痛い。その上よだれまみれ。この頃目がわるくなってきたらしく、やみくもにクッキーにかぶりつくので、「ゆっくり」がなかなかできない。車のなかではタケは後ろの席に寝そべる。ニコはひじを乗せるコンパートメントの上にあぶなっかしく乗って、こっちに全身を寄りかからせてくる。ときどきこっちのハンドルをにぎる腕をひっかいて、あそべとねだる。ときどき腕に顔をちょこんとのせてくる。ときどきニコに手をくちゃくちゃかまれたり、ニコの口を押さえ込んでひいひいいわせたりして、あそんでやる。運転中のこういうことはぜったいにしないように、と運転見習い中のトメにいいながら、やっぱり自分はやっておる。

タケと「おみみ」

2011年10月01日(土)

タケの顔がかしいでいる。タケの耳(シェパードの耳は立っている)、とくに左耳がアレルギーによる耳だれで、それはもうほんとに幼い頃からタケをなやましてきた。今でこそ耳が遠くなって聞かないですんでいるが、昔は、「おみみ」ということばに「ボール」や「ぼう」や「どうしたの?」よりも反応したものだ(「ごはん」と「さんぽ」にはもちろんかなわない)。「ボール」と「ぼう」はもちろんテニスボールと棒っきれだが、「どうしたの?」はあたしらが心配そうに言う声音とあわせて覚えて、何をしていても、「どうしたの?」というと、すわりこんで足をあげて足のうらに何かささっていたい、みたいなフリをしてみせたものだ。だからこっちも、ときどき「どうしたの?」といって、用もないのにそのポーズをとらせて笑ったものだ。おっと話が長くなった。これだから年寄りは。「おみみ」というと、どこにいても、硬直して逃げたいが逃げちゃいけないというジレンマにもみくちゃになった。というのも、それは耳だれをきれいにするために、酢のにおいのする液を耳の中に入れて、ティッシュと綿棒でぐりぐりとこすられるということを意味しておった。「おみみ」というと、動作をやめて、逃げられない(逃げたい)になるので、トメなどはときどきそれを「やめろ」の意味に不正利用していたものだ。そういうわけで、タケの耳は耳だれだ。ときどきひどくなり、300ドルかけて、医者できれいにしてもらったりもした。ところが数年前、もう5年くらいになるかも。タケの左耳がふくらんだ。医者につれていったら、耳だれがひどくなってタケが耳をふるので空気がたまったということだった。悪性のものではないから、ほっといて大丈夫といわれて、ほっといた。やがて空気はぬけて耳が垂れた。なんでも、ハチ公もそうだったそうだ。それで左耳が垂れている。ああやっと本題に。かしいでいるのは、その垂れ耳のある左側だ。耳だけじゃなく、何をしていても、なんとなくかしいでいる。ニコのボールをうばいたいとき、愚連隊が顔をしゃくりながら相手に近づくように(漫画で見ただけで、本物をみたことはない)顔をかしげてニコに近づいていくが、それとも微妙に違う。タケの意思とは関係なくかしいでいる。不思議である。

   
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