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東京を構成する小さな丘
2005年01月09日(日)
夏目漱石の小説を読んでいると崖下の家というのがたびたび出てきます。目白から早稲田あたりは神田川に沿うように高台と川岸の低地に別れています。
田中角栄邸がある目白は高台で、夏目坂を下ると早稲田ですが、今度、池袋から小石川を抜けて神田神保町まで歩いてみて、高台からだんだんと平地へと降りてゆく感じが実感できました。
東京は西北の方向が高台になっていて、なだからに海へと下って行く街です。お正月三が日は、晴れわたり、富士山まで見えましたが、そういう遠い山々の手前になだらかな岡があるという地形です。
30年前に東京に住むようになった時には、そういう土地の起伏が建物にすっかり隠れてしまっていたので、とりとめのない都市のように思えました。昔の小説を読んでいると、高低差の感覚があるのに驚くことが多かったのですが、実際、そういう景色を人が見ていたのでしょう。
池袋から神田まで歩いてきました。
2005年01月08日(土)
日本大学芸術学部大学院生の諸君と、池袋から御茶ノ水まで歩いてきました。今日はまた寒くなりましたが、昨日はぽかぽか陽気で歩くにはちょうど良い日でした。
池袋のジュンク堂で待ち合わせて、雑司が谷墓地から鬼子母神へ。そこから目白通りを抜けて忍ばす通りに入り護国寺へ出ました。護国寺では大熊重信のお墓を見物し、皇族墓地である豊島ヶ岡墓地の入り口を横目に見ながら春日通りへ出て小石川植物園に至りました。
小石川植物園は元小石川養生所です。ここの入場券の販売はちょっと変わっていて、正門向かいのたばこ屋さんで入場券を売っています(300円)。たばこ屋さんで入場券を買い、正門にいる守衛さんに半券を切ってもらってから、園内へ。梅がだいぶ咲いていました。
小石川植物園から伝通院へ。ここは徳川家康の生母の於大の方や家康の娘で豊臣秀頼に嫁いだ千姫のお墓があります。よく時代劇や時代小説に出てくるお寺です。徳川家にゆかりがあるのに、徳川家のお墓に入るのは少し差し障りがあった女性が葬られているところが、なんとくな親しみをもたれた理由かもしれません。実際、芝の増上寺や護国寺よりもやさしい感じのするお寺です。
伝通院から後楽園に降りて、神田神保町まで歩きました。江戸時代を研究するのが目的ではなくて、現代小説の空間の扱い方を研究するフェールドワークでした。電車(地下鉄を含む)に乗っている人と、足で歩いている人の都市における空間感覚の違いを実感してもらいまいた。
取材力の低下
2005年01月07日(金)
3番目の理由に挙げた取材力の低下という事柄ですが、取材力が低下する理由は多様です。昨日の新聞に50年ぶりに国語力の調査をするという記事がありましたが、読解力が弱くなれば、当然、取材力も弱くなるわけで、これは取材力以前の問題。
そういった取材力以前の問題もあります。テレビについてここ数年見聞きしたところから言うと、「下請け化」と言ったらいいのでしょうか?番組瀬作会社と放送局が分かれているというケースが多くなりました。放送局の時自社製作の番組ではなく、番組制作会社が製作した番組を放送しているのは、ドラマなどばかりではないのです。ワイドショーや報道番組でも番組製作会社は活躍しています。これが放送局に対して立場の弱い「下請け」になってしまうことも珍しくないようです。
番組制作会社が単なる「下請け」にならないためには視聴率をとるという対抗手段が一番です。ニュースのワイドショー化と言われる現象の背景には、こうした番組制作のシステムの変化があったと言えるでしょう。 また自社製作の報道番組の中でフリージャーナリストから提供されたニュースを使うこともあります。これもだんだん増えてきました。で、こうした「下請け」あるいは「外注」が増えると局内に現場を知らない管理者が出てきてしまいます。現場を知らない管理者というのは困ったことに新しい事態に対処できないことが多いのです。どなたか、こうした番組制作のシステムの変化について具体的に調べていただけるといいなと思います。これは放送局自体が自己検証することが望ましいのかもしれません。
今回のインド洋津波は今までにない経験だったと言えるでしょう。単に甚大な自然災害だというだけでなく、国内の災害報道ではカバーできない外国の災害だったこと。邦人の被災者がたいへんに多く、また安否確認が困難を極めたこと。中東から北朝鮮に至る「不安定な弧」と呼ばれる新しい外交上の重要地域の中心地で起きたこと。タイのバーツの暴落から始まったアジア経済危機に見られるように、経済関係が緊密化していることなどの事情が加わっていること。こうしたタイプの災害は今までテレビというメヂィアが体験して来なかったものでした。そういう未体験の災害について、その重大さの判断が少し遅れたというのが、テレビ報道の少なかった理由ではないでしょうか?
ニュースが少なかった3つの理由
2005年01月05日(水)
メディア対応の鈍さ遅さには年末年始であったことのほかに3つの原因が考えられます。
1、プライバシーへの配慮 2、誤報への恐れ 3、経済、政治、外交の取材力の衰え
この三つは関連しているように思われます。ジャーナリズムとりわけテレビの報道番組がワイドショー化したと言われるようになったのはおおよそ20年前です。
きっかけになった事件は「ロサンジェルス疑惑の銃弾」事件と呼ばれる保険金詐欺事件でした。また、それより少し遅れて消費税の導入や、リクルート事件はニュースとワイドショーが結びつきやすい要素を持っていました。
95年の阪神大震災のときにはまだそれほど激しいメディア批判はありませんでした。が、あとになってヘリコプター取材の危険や騒音による救助活動の阻害などが問題とされました。そして、同じ年のオウム事件ではテレビや活字メディアで流された情報に激しい批判が浴びせられました。
メディア批判がさらには激しく火を吹くのは97年です。この時はテレビ朝日の政治部長「自民党を潰す」という発言が国会で問題になってのですが、私の感覚では、金融危機などの表面化で、それまでの言論のミス・リードが一般の視聴者や読者にもかなり理解されるようになったのではないかと思います。この年はタイのバーツの暴落をきっかけとしてアジアの金融危機が起きた年でもあります。
メディア批判の声が高くなると共に左翼批判の声も高くなりました。が、どこにどのようなミス・リードがあったのかという検証はあまりされませんでした。むしろ批判はプライバシーの保護や誤報への非難という理解されやすいところで広がって行きました。メディアスクラムというものが報道被害の代表のように言われ始めたのは2000年前後であったと思います。
こうした雰囲気の中でメディア、とくにテレビはプライバシーの保護や誤報には神経質に気を使うようになってきています。この気の使いかたはどちらかといえば「問題をおこさない」というかたちで、消極的な方向へ流れがちなのも事実です。モザイクを使用した画面が圧倒的に増えたことからもそれが伺えます。
プライバシーの保護と報道の自由はバランスをとることが難しいふたつの概念です。取材力は弱くなっていることは、こうした批判のためにテレビ局がスポイルされたためとは言えないと思います。報道番組がワイド・シショー化した過程で、進行したもうひとつの現象があります。(この項、明日に続く)
スマトラ地震インド洋津波とテレビ
2005年01月04日(火)
スマトラで地震が起きたのは26日の日曜日でした。あいにくこの日からテレビも新聞も年末年始の進行になるところが多いのです。加えて地震があった現地からの情報は乏しいでしょうし、邦人の安否確認も難しい状況 であったにちがいありません。
それにしても、地震・津波関連のニュースがテレビ、新聞ともに少なすぎるように感じます。かなりの数の邦人の犠牲者が出ていると予想されているにもかかわらず、テレビは予定された年末年始の番組を放送していました。邦人犠牲者が500人以上と予想されるにもかかわらずです。もっともこの数字も1月3日になって外務省に安否不明と連絡があったものをまとめた数字です。
失われた人命から言えば阪神大震災以来の大災害となる可能性もあるのに、テレビ局のこの対応には首をかしげざるおえません。さらにこの災害は外交問題も含んでいて、より複雑な様相を持っています。
日本政府の対応はかなり早いものがありました。ちょうど任務を終えてインド洋を航行中の自衛隊の艦船が派遣され、医療チームが現地入りし1月1日には5臆ドルの援助を発表しています。また津波監視システムの構築などを1月6日にジャカルタで開かれる緊急首脳会談で提案するとしています。もっともメディアが通常の番組で、大騒ぎをしていたら、この反応さえ遅いと非難されたかもしれません。
今回のメディア対応の遅さ鈍さは単に年末年始という時期であったためにおきたものでしょうか?どうもそれだけではなさそうです。(この項、明日に続く)
(番外)スマトラ地震募金
2005年01月03日(月)
アマゾン・コムで新年午前零時からスマトラ地震の募金を集めています。募金額は5ドル以上1万ドルまでです。募金先は日本赤十字です。
どうしたわけか、ドルでの募金になっています。おそくらアメリカのアマゾンのシステムを日本でも利用しているためでしょう。募金のページからアメリカのアマゾン・コムのホームページにジャンプすることができます。
年末年始の報道が手薄な時期と、現地の混乱で情報が入りにくいという事情が重なって、あまり強い印象はないかもしれませんが、邦人の犠牲者の数から言えば中越地震よりもはるかに大きな被害が出ています。 おそらく今日、明日あたりにはさらに深刻な被害の状況が明らかになってくるでしょう。
21年前の冬
2005年01月03日(月)
東京で大晦日に雪が積もったのは21年ぶりだそうですが、ある個人的な出来事のために私は21年前の冬についてよく記憶しています。
確かに大晦日に小雪が舞い、雪がうっすらと積もりました。夜に入ってからでした。で、その年が明けた翌年のお正月から3月まで、東京で雪が降った日は27日間もありました。おおよそ三日に一度は雪が降っていた計算になります。
ロッキード事件の判決がでそろったあとだったので、「これほどの降雪は新潟3区の恨みに違いない」なんて冗談がありました。いや、つまらないことを覚えているものです。
大晦日に降った雪は、北側の空き地ではつるつるに凍っています。さて、これから暖かい冬になるのやら、雪の多い冬になるのやら。関東で雪が振るのは、太平洋側を低気圧が通過する時ですから、暖かい冬と雪の多い冬はあまり矛盾なく出現したりします。
謹賀新年
2005年01月02日(日)
あけましておめでとうございます。今年が皆様にとって良い年となりますようにお祈りいたします。
小林孝亘さんからメールをいただきました
2004年12月31日(金)
「うさぎとトランペット」の挿絵を描いていただいた小林孝亘さんからメールを頂戴しました。バンコックにお住まいですが、今年の年末は日本にお帰りになっていたそうです。ご無事でなによりでした。
「津波のニュースには本当にびっくりしました。被害の大きかったタイ南部のプーケットという島は、毎年このシーズンには行っていたところで、今年はたまたま帰国していましたが、やはり他人事とは思えませんでした。タイでは全くといっていいほど地震がなく、人々にはそれに対する構えもないので、地震がもしバンコクであったらと思うとぞっとします。」
というわけでほんとうに多事多難な今年もあと数時間で終わりです。来年が良い年になりますように。
雪です。
2004年12月29日(水)
新幹線に乗る日っていうと、どうしてこんなお天気になるのでしょうか?東京は雪です。それもちらちら舞う程度ではなくて、もしかすると積もるかもというくらいに白い雪が振っています。私は今日こらから静岡です。
12月4日に熱海に行ったときは朝方、台風崩れみたいな低気圧の通過があって、電車は止まるわ、気温は25度まであがるわで、とんでもない天気でした。それにくらべれば12月の雪は正常だとも言えるのですが。
インド洋の大津波はどんどん被害が広がっています。これで今年も終わって悪いことも終わりというわけにも行きそうもない気配です。例年だと今日あたりからお正月を海外で過ごす人で、成田空港も賑わうのですが、今年は出発を取りやめる人も多いことでしょう。
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