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中沢けいコラム「豆の葉」
   
 

千代本の話1

2018年12月03日(月)

 久しぶりの金沢八景。駅前の再開発で、瀬戸神社の一画だけが時間の流れから取り残されたように見えた。帰りは能見台から京浜急行品川行き最終の電車に乗った。隣の席で男性が百田尚樹「日本国紀」を読んでいた。ただいま。
 千代本の伯父に築地の話をして欲しいと頼んだ。伯父は昭和5年(1930年)生まれ。もうすぐ90歳。よもやま話になるから、きっとこんども話はあっちへこっちへといろいろ昔のことが出てくるにちがいない。築地の場内へ入ったことがないと言ったら連れていってあげればよかったと。
 店は閉めてしまったけど、伯母は今でも長靴を履いて築地場外に買い物に行っていると。「だって、スーパーで売っているお魚はつまらないんですもの」と。築地場外の仲卸さんが並ぶ「築地魚河岸」は9時以降にならないと素人さんは入れないのじゃないのか?と質問したら「入れるよ」と。築地場外「築地魚河岸」は長靴を履いていけば9時前でも誰でも入れると伯母の話。ま、伯母の場合は元玄人衆ですからね。「玄人と素人の区別をどうやってするのよ」と伯母が笑ったいた。なるほどね。店を閉める前は伯父に連れられて築地に仕入れに行くようになっていた。
 市場に仕入れに行った最初はいつですか?って伯父に聞いたら、先代(伯父の父)と横浜の中央市場へ行った話をしてくれた。千代本の先代は三島出身の人(お婿さんで千代本へ来た)で調整検査の時、何かの手続きをとり少尉任官したそうだ。で、市場へ少尉の長靴を履いて出かけたと。
 「朝日新聞社のところにさ、まだ貨物の線路が少し残っていたいるよ」と。そんな具合に話は転々。聞いていて「あ、そうか」と気づいたのは新橋界隈の新喜楽や金田中などのお料理屋さんは築地市場ができる前からあのあたりのあったってこと。 そういえば森鴎外の「豆まき」という短編に新喜楽が出てきたと記憶しているが、あれは市場が日本橋にあった時代の話だった。築地に市場が出来たのは昭和10年(1930年)。お料理屋さんのほうが先に出来ていたわけか。
 話はそれからそれへで、新橋の芸者衆の話になった。伯父は古いことはよく覚えている。豊洲市場にサイドがあくトラックが荷下ろし場に入れないなんて新しいこともよく知っている。なぜか真ん中が抜け落ちている。今年のうちにまた話をしたもらう約束をして帰ってきた。

戦後政治の総決算

2018年12月03日(月)

 戦争が終わって生まれた団塊の世代(S22、23、24年生まれ)が70歳を超えた。もうすぐ後期高齢者。人口のボリュームゾーンであることに変わりはない。団塊の世代というと全共闘世代と重なり、大学進学した全共闘世代のほうが目立つが、中卒の集団就職を経験した世代でもある。人数から言えば、受験戦争をくぐった大学進学組よりも、中卒で集団就職をした人のほうが圧倒的に多い。64年(S39)の東京オリンピック前の都市に働きに出た少年たちと、オリンピック後に都市部の大学に進学した青年の見た光景は、まったく違うものだったことだろう。経済の高度成長期だ。
 戦後政治の総決算と安倍総理は言う。本気で戦後政治の総決算をするなら、この終戦直後に生まれ、少年として高度成長期を担った人々の晩年が安らかに過ごせるような社会制度を作るのが、実際的な意味での戦後政治の総決算だ。15歳から税金を払い続けた人々にどう報いるのかが大事だろう。未成年でさまざまな制約を受け、選挙権もないくても収入があれば税金の支払い義務は生じる。集団就職で職につき15歳から税金を払い続けた人々を無視するような政策を打つ安倍政権は忘恩の徒の集団だ。

SNS内戦

2018年09月22日(土)

 「新潮45」の小川榮太郎LGBT差別寄稿が話題になってます。一連の流れを振り返ってみました。
 嫌韓・反中本の氾濫。2015年シールズ選書を店頭から撤去の件。2017年ケント・ギルバード「儒教に支配された中国人と韓国人」(講談社α新書)ベストセラーに。同10月小川榮太郎『徹底検証「森友・加計事件」――朝日新聞による戦後最大級の報道犯罪』(飛鳥新社)後に朝日新聞が提訴。
 11月森友学園の小学校設立趣意書の表題「安倍晋三記念小学校ではなく開成小学校だった」と判明。朝日新聞が訂正を出す。同月、加計学園の獣医学部申請が認可。
 2018年1月号「新潮45」の特集記事が「WILL」「HANADA」と似たものになる。
 3月財務省の森友関係の書類改竄発覚。朝日のスクープ。
 4月杉田水脈氏が科研費攻撃を始める。和田宗政氏が安倍政権に批判的な人物の名前を挙げてツイート。5月和田氏が名前を挙げた教員のいる大学は爆破予告。(一人は私だったけど)。自民党が地方議員を集めて集会で小川榮太郎氏の著書を配布したと文芸春秋誌が報じたのもこの頃だった。
 7月「新潮45」8月号『特集 日本を不幸にする「朝日新聞」』で杉田水脈氏がLGBTに「生産性」がないと差別発言。もともと朝日新聞攻撃の一環だった。
 8月「will」「HANADA]などが主要新聞に下段ぶち抜きの広告を掲載。書店店頭には安倍礼賛本が並ぶ。
 9月「新潮45」10月号「野党百害」特集。「特別企画 そんなにおかしいか「杉田水脈」論文」として「政治は「生きづらさ」という主観を救えない 」小川榮太郎を掲載。当然、新聞各紙に広告が出る。内容は読まなくとも、広告だけで心象形成する人は多い。
 この動きは朝日新聞を従軍慰安婦問題と吉田調書問題でたたいたのと同じ構造を作り出そうとしていたように見える。また改憲をにらんで野党叩き、人文系の学者叩きを始めている。朝日を叩きNHKを人事で支配、民放は広告出稿で押さえつけた「茹でガエルクーデター」は書店を戦場にしてSNS内戦。

9月19日自民党総裁選安倍秋葉原街宣

2018年09月20日(木)

 昨日、秋葉原へ行ってきました。電気街口を出ると「アベやめろ」のコール。コールをしている集団が自民党ののぼり旗で囲まれていました。自民党ののぼり旗の中で「恥を知れ」の白い旗が1本すっくり。「自民党総裁選」のシールを貼っている人の姿もあり。でも目立つのは紺色のスーツのおじさんたち。どうも紺色のスーツのおじさんたちは自民党職員なのかしら。おなじようなスーツでもイアホンをしているのは公安警察さんかな。あとは警察官。安倍さんはまだ来ていませんでした。
 麻生さんが演説を始めたけど、声を聞こえるけれども、何を言っているのかは分かりませんでした。そうそう、日の丸の小旗を持った人もけっこういました。で、電気街の広場からエスカレターを登って、広場の上のデッキへ。人はそれほど多くはなく、なんとなく最前列へ出られました。大型のカメラで撮影をしていた人が「報道エリアでお願いします」と撮影を断られていました。スマホの撮影はOK。
 で、安倍さん登場。声はわかるけど、何を言っているのか分かりません。広場を見下ろすデッキでも「アベやめろ」のコールはそうと意識して聞けば、聞こえました。演説を終えた安倍さん。広場を半周。最前列の人と握手をした模様。あの位置だと「アベやめろ」のコールをまともに浴びているはず。最前列の人と握手をした安倍さんは黒塗りの車でお帰り。
 安倍さんがかえっても「アベやめろ」のコールが続く。背の高い白髪の男性が「日本から出ていけ」と怒鳴っていました。雰囲気は安倍応援団。でも主語がないので「アベやめろ」「日本から出て行け」と繋がっちゃう。最後は「恥を知れ」コール。
 近くの飲食店が入ったビルで晩御飯を食べようかと思ったのだけど、エレベーターの前は「自民党総裁選」のシールを貼った人で大混雑。ぞうぞう、駅前で甘利明さんとすれ違いました。秋葉原安倍街宣は17時からだったの。でも自民党総裁選の一般党員のはがきによる投票って、19日で締め切っているんじゃなかったかしら?違うのかな。17時以降に投函しても今日のうちには自民党本部に到着しないんじゃないかしら?

 帰宅後に分かったこと。「アベがんばれ」のブルーシートダンマクを広げた人がいて(安倍支持派)、このダンマクを「アベやめろ」ダンマクと勘違いした抗議者が集まって「アベやめろコール」。これを自民党ののぼり旗を持った党職員が取り囲むという展開だったそうで。のぼり旗を持った自民党職員も「アベがんばれ」ダンマクを「アベやめろ」ダンマクと勘違いしたみたいです。で、「アベがんばれ」ダンマクは、広場を囲むデッキへあがるエスカレーターからも文字は見えず、デッキからも文字は見えませんでした。結果として「アベやめろ」コールは街宣車の左手至近距離に集結することになったようです。1万人の動員をかけ、バスで秋葉原に来た自民党支持者もいたとニュースが報じていましたが、広場にはけっこう空間的余裕もあり1万人の動員はできなかったのじゃないでしょうか。

カフェ・ド・芙美子

2018年09月11日(火)

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手打ちは刃物の山崎清春商店がある尾道商店街の入り口に林芙美子が女学校時代に住んでいた旧居がある。しゃがみ込んだ林芙美子の銅像からすぐの場所だ。以前はカフェ・ド・芙美子という喫茶店があり、その裏の林芙美子旧居を見学できるようになっていた。今はカフェ・ド・芙美子は店を閉め、林芙美子記念館になっている。久しぶりに尋ねてみると、ガラス越しに林芙美子が住んだ家が中庭の向こうにある。ところが、私には中庭の記憶はなかった。狭い階段をあがったところの一間の記憶は鮮明なのに、中庭は記憶からすっぽり落ちていた。
 写真は林芙美子の旧居を外側から撮影したところ。尾道は東西を結ぶ西国街道と瀬戸内海の島々への渡し舟、それから山陰からの道の交差点に当たる町だ。
 ロープウェイで千光寺の山に登り、徒歩で降りる途中の文学記念室で、林芙美子の夫の手塚緑敏が書いたエッセイが展示されているのを見た。地元の高校の求めに応じて書かれたものだそうだ。尾道図書館には女学校時代のともだちが林芙美子へ宛てた手紙が展示されていた。このふたつはじっくり読んでみたい。やっぱりし〜ちゃんとめいタンの帽子を買いに、もう一度、尾道へ行こうかな。
 林芙美子の評伝を書けと言われてもう20年にもなる。それなりに資料は集めたのだけど。なかなか手がつかない。そうわけで、カフェ・ド・芙美子にあった林芙美子全集は、今、私の研究室にそろっている。懇意の古本屋さんに林芙美子全集を探してもらったら、カフェ・ド・芙美子の本が届いた。若い林芙美子研究家の野田敦子さんとは親しくなるし、遠いスロバキアから林芙美子の従軍紀をテーマに博士論文を書くというアダムさんが現れるし、やっぱり林芙美子の評伝を書かなくっちゃいけないかしら。

宮島へ

2018年09月02日(日)

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 広島の平和記念公園から徒歩でお好み焼き村まで歩く。途中、被爆した旧日本銀行の建物横を抜けると頼山陽史跡資料館があった。そうだ広島は頼山陽がいた。見延典子さんが頼山陽の評伝を書いている。本は持っているけどまだ積読状態。斉藤希史さんが頼山陽の「日本外史」が近代口語文成立の基礎にあることを指摘していた。頼山陽史跡資料館で宮島の展示会をやっていたのでアダムさんとちょっと眺める。従軍記ならぬ軍着物の代表としての「平家物語」の話をしながら江戸期の宮島を描いた絵や本を眺めた。
 夏休みの週末だというのに広島は人が少ない。平和記念公園や銀行には日の丸の半旗が掲げられている。お好み焼き村でも空席が目立った。お好み焼き村で入った店のおばさんは因島の人だった。お客は私とアダムさんのふたり。お好み焼きを焼いてもらってから半旗のことを聞いたら「気付てなかった。たぶん西日本豪雨だからじゃないかしら」と。それからちょっと言いにくそうにして「豪雨の日、オウムのあれがあったじゃない」「死刑執行ですね」「そう。祟りだなんて言うひともいるから」「広島拘置所でも一人執行されてますね」「早川紀代秀」と、名前がすっと出る。祟りとか呪いとか、そういう話はパブリックな場所では出ないけど、お好み焼きを食べながらビールを飲んでいる時には出やすい話だと聞いていた。
 「宮島の花火大会も今年は中止ですって。お客さんが少なって困っちゃう」
 広島の自粛ムードは客商売の人には痛い。
 路面電車で宮島口まで1時間。フェリーで宮島へ。厳島神社でアダムさんに学業成就のお守りを授与してもらう。尾道を案内してもらうことになっている林芙美子研究家の野田敦子さんには定番「もみじまんじゅう」を買う。

9月1日 横網町公園 朝鮮人犠牲者追悼式

2018年09月02日(日)

 横網町公園の朝鮮人犠牲者追悼式典へ。JR両国の駅から歩道には屋台がたくさん並んでいました。横網町公園で秋季大法要があるからかしら。お縁日の感じ。横網町公園は元陸軍被服廠跡地が公園となっていたが関東大震災の時、大量の犠牲者が出た場所。東京大空襲ではご遺体の仮安置所ともなった。朝鮮人犠牲者追悼式典の参加者は700名とのこと。これは記帳した人の人数かもしれない。もう少し多くの人が集まっていた。取材のNHKなどのテレビ、朝日新聞、毎日新聞などの記者の姿が見えた。東京都知事は朝鮮人犠牲者追悼式典に出席すべきだ。犠牲者を追悼することは加害者を出さないという姿勢を明瞭にすることになる。
  「星の王子さま」に「おとなというもの、は数字がすきです」という一節がある。数字を聞くと分かったような気になってしまうという現代人の気質をさしている。この性質を逆手にとっているのが、朝鮮人虐殺や南京大虐殺を否定しようとする人々。まず犠牲者の数字に疑義を挟む。数字が間違っていると、数字が誇張されていると主張する。犠牲者の数字に疑問があることから、出来事そのものが「捏造されたものだ」と主張するようになる。犠牲者の数がはっきりしないことが、出来事の悲惨さを物語っているとは考えない。こんなカラクリに数字のすきな大人が騙される。「星の王子さま」のひそみにならって言えば「おとなの人たちがよくないからです」ということになる。こんなカラクリに騙される政治家は、政治家としての見識がないわけだ。

広島の平和記念公園

2018年08月25日(土)

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 アダムさんと尾道から広島へ。林芙美子が門司で生まれた1903年(明治36年)の前年1902年には北九州に八幡製作所ができている。明治政府のスローガンと言えば富国強兵が有名だが、「富国」を作ったのが明治政府のもうひとつのスローガン「殖産興業」。官営八幡製鉄の始業は「殖産興業」政策の達成のひとつ。中国のアヘン戦争に危機感を持った江戸幕府が伊豆の韮山に鉄砲制作のために製鉄の目的で韮山反射炉を作ったのが1857年(安政4年)。八幡製鉄所創業はそれから数えて45年目の創業だった。門司に生まれ、尾道で女学校を卒業した芙美子の歩いた道は明治政府の殖産興業の道でもあった。やがて殖産興業は軍艦造船へとつながる。
 一般的には第一次世界大戦で自動玉送りの銃や戦車の登場、それから飛行船による空襲などで戦争の様相が変わったと言われるが、日本が実際に近代的戦争を体験したのは1937年(昭和12年)に始まる日中戦争から太平洋戦争だった。1,937年から太平洋戦争終結の1945年までの8年間に戦争に使われる武器は第一次世界大戦とは比べものにならないくらいに多種多様なものが研究された。毒ガス、生物兵器の研究。瀬戸内海の大久野島では毒ガス研究と製造がおこなわれている。兵器研究の結果が原子爆弾を生み出す。
 アダムさんは林芙美子の従軍紀を博士論文のテーマにしているので、1937年から1945年の間に戦争に使われて兵器が格段に変化した(進歩と言いたいところだけど、なんか進歩と言いたくない)ことを意識してもらいたかったので、長崎、広島に案内したかった。春に北九州に出かけた時は、なんと私が羽田で共同運航便の搭乗ゲートを間違え、飛行機に乗り遅れたおかげで、長崎はカットした。ご、ご、ご、ごめんなさい。これ広島も行きそびれちゃたいへんと新尾道から広島へ新幹線で移動。山陽本線は7月の西日本豪雨のために広島県内と山口県内であちこちが寸断している。東広島から広島へは山陽本線寸断のため新幹線を使う人も多かった。新幹線の窓から西日本豪雨の爪跡が見えた。
 広島駅で地図をもらうために旅行案内書へ。外国語の案内地図もそろっている広島駅の案内書だった。簡体字の中国版、繁体字の中国版、ハングルの案内地図、と並んだ多言語の案内地図を見ていいたら、英語、フランス語に並んでドイツ語があった。「イタリア語はないなあ」とちょっと笑った。
 路面電車で原爆ドーム前へ。原爆ドームを半周してから平和記念公園へ。原爆の子の像からとことこと歩いて慰霊碑へ。外国人観光客の姿も多い。慰霊碑の前にいた人たちの話している言葉に耳を傾けたが、ちょっと何語か分からないなと首を傾げたらアダムさんが「イタリア語ですね」と教えてくれた。
 資料館は耐震工事のため閉鎖中。資料館わきの建物におもな展示物が展示されていた。ここにはちゃんとイタリア語のパンフレットも備え付けられていた。

8月17日 シネマ尾道

2018年08月24日(金)

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8月17日、アダムさんと広島まで足を延ばすつもりだったけど、例によって私が遅れ、広島はムリってことで尾道に直行。シネマ尾道でウーマンラッシュアワーの村本さんの独演会があった。なんだかラッキー。当日券はありますか?と聞いたら8時に来てみてくださいとのお返事。8時にシネマ尾道に行くと長蛇の列。これはダメかなとおそるおそる尋ねてみたら、行列は前売り券を買った人の席とりの行列でした。「チケットはありませんけど」と言われ、またまた落胆。「手に判子を押します」と。バンザ〜〜〜。無事、会場に入れました。2時間たっぷりの独演会。最新のネタから御当地ネタに、定番まで、たっぷり楽しめました。

 シネマ尾道のウーマンラッシュアワー村本独演会。予告では60分だったけど。あと5分というところで、なぜか燃えて、またたくまに22時半近くになってました。遠いところでは佐世保から来たお客さんも新潟から来たというお客さんもいたので、アダムさんに「スロバキアから来たって言えばよかったのに」とあとで言ってみたけど(笑

潮を被った水田に最初に芽を出した稗

2018年08月23日(木)

 仙台へ戻る電車の中で、佐伯さんと話をした。「津波を被った土地に最初に生えてくる植物はなんだろう?って前に聞いたでしょう」と佐伯さん。覚えてる。閖上を案内してもらった時だ。「分かったんだけど、ええと今思い出せない」もうみんなそういう歳になっているんです。遠い山に日が落ちました。

 佐伯一麦さんからメールをいただきました。津波で潮を被った水田に最初に生えてきたのは稗だったとか。稗が目立ち始めたと農民文学賞の受賞者の遠藤源一郎さんから聞いたと。仙台沿岸部で農業を営んでいる遠藤さんにもまたお目にかかりたいだけど。それで3年ほどするとコナギの紫色の花やミズオアイの花を見ることもできたと。稗が最初に芽を出したのは意外な気がしたのだけど、稗は寒冷に強い植物で、東北地方では縄文時代から常食されたそうだ


 小高の柳美里さんのところへ行った時は帰りを急いでいたから行きそびれたけど、小高には埴谷島尾記念文学資料館もあったけ。こんど行こうっと。
 小川国夫さんが08年4月に亡くなる直前に「南相馬に行きたい」とおしゃっていたのは小高の資料館を含む地域だったみたいだ。柳美里さんと佐伯一麦さん、それに私の3人で顏をそろえるのは川村二郎さんのお葬式以来だって話になったけど、あの時、小川国夫さんは新横浜まで来ていたのに「お葬式はイヤだなあ」って、なかなか妙連寺まで現れなかった。それからすぐにものを召し上がらなくなり、4月には亡くなられたのだけど、その前に南相馬に行きたいとおしゃっていた。
 

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