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中沢けいコラム「豆の葉」
   
 

日本海に沈む夕日

2010年09月06日(月)

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 日本海に沈む夕日の写真を山形の佐藤先生から送っていただきました。佐藤先生、お返事ができなくって申し訳ありません。携帯でメールを打つのが苦手なんです。ごめんなさい。

 今日から10日まで箱根です。私も何かきれいな写真を撮ってきたいのですけど、またいつもの癖でぼうっと眺めているだけで写真を撮るのを忘れるかもしれません。

大阪に行ってきました。

2010年09月05日(日)

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 東京も暑いけれども大阪も暑い。

 日本の大都市は、たいてい空襲を受けています。それで古い建物も焼けています。それに、建物自体が木造建築なので、時代とともに立て替えられ、街の様子も変わっています。が、もともとの地形は、けっこう残っていることに、あるとき、気づきました。東京も、江戸時代の初期の頃からの地図から順番に地図を眺めて行くと、おおよその市街地の展開の様子が飲み込めます。高い場所から実際の都市の眺めを見ると、土地の高低差がはっきり見えて来て、古い街の様子を想像することができます。大阪は、そこまでつぶさに見てはいないので、まだ飲み込めていないところもあります。古い地図を集めているところです。レプリカですけど。

 2日ばかり、大阪を歩き回って、少しですが、感覚的に大阪の市街地の全体を掴むことができました。まず大阪城。ここは石山本願寺があったところだと、2年ほど前に訪れたときに知ったのですけれども、本を読んでいるときには、具体的な場所ってほとんど考えずに読んでいるものなんだなあと、自分で驚きました。大阪城から水上バスに乗り、淀屋橋まで行って、今回は大阪城まで戻りました。暑くてくたびれていたから、その日は鶴橋の市場で焼く肉を食べて終わり。昨年もお世話になった今里の旅館に今年もお世話になりました。鶴橋は、中の島図書館で見た版画だと、鶴が集まるので鶴橋と言ったようです。もろこ汁が名物だったと、版画の解説に書かれていました。鶴橋から近鉄に乗って今里に出ようとして、方向を間違え上本町に行ってしまいました。
 なるほど、上本町というのは鶴橋の隣の駅なわけねと、大阪城から天王寺にかけての台地が大阪でもっとも古い土地だと、教えてもらったことが、身体の感覚としてもやや理解できました。

 翌日は四天王寺夕陽丘から出発。夕陽丘って、新しく出来た団地の名前のような感じがしてましたが、そのあたりから見る夕日の景色が絶景だということで、古くからそう呼ばれていたようです。湿地と海が交じり合っているような場所に突き出した台地の先端に、朱塗りの伽藍が立ち並んでいる様子はさぞ見事なものだったのでしょう。昨年の春、四天王寺で演じられる雅楽と舞楽を見たとき、石の舞台のかなたへ陽が沈んで行くのを見ました。赤い夕陽が沈み切るか、切らないかの頃合に、かがり火に火が入り、火の粉が舞い飛びました。天地と繋がる芸能のスケールに驚きました。

 さて、ここからは歌謡曲ツァー。まず「王将」の新世界へ。動物園前で地下鉄を降り、立ち飲み屋さんや碁や将棋を指す人を見ながらジャンジャン横丁を通り抜け、通天閣へ。初代通天閣は明治45年に立ったのを「へえ、そうなんだ」と説明を読んで、意外に思いました。今の通天閣は2代目。登るのは今度が初めてでした。ここの見晴らしの良さは、絶品。ふっと気付いたのですけれども、通天閣から見る景色って、もしかしたら、四天王寺が、大伽藍を誇って海上からやってくる船に乗った人々に「ああ、難波津に着いた」と安心させていた時代の面影を残しているのかもしれません。西に六甲山、東に生駒山をはっきり見ることもできました。街並みの向くには大阪城の天守閣も。

 「動物園前」から「淀屋橋」に出て「中の島ブルース」の中の島へ。府立中の島図書館へ。明治37年に開館した建物です。今の天王寺公園のところで第5回内国勧業博覧会が開かれたのが明治36年。初代通天閣は明治45年に立っているのですから、明治の末年の大阪は好景気に沸いていたはずですが「はて、それはどうしてなのだろう? どのような政策が功を奏したのだろう?」とふつふつ疑問が湧いてきました。蔵屋敷の集まった近世の大阪から糸偏(繊維産業)の取引で賑わう大阪の間について、私は何も知らないのです。
 午後の陽盛りの時間を図書館で潰して、夕刻に「道頓堀ラブソディー」の道頓堀へ。絵葉書には必ず出てくるグリコの看板はまだ点灯していない時間でした。道頓堀から「月の法善寺横町」の水掛け不動へ。上司小剣の「鱧の河」とか織田作之助「夫婦善哉」などは大正から昭和初期にかけての、なんばが舞台です。今の大阪城が出来たのは昭和4年だとのことでした。

 明治末年に賑わいだした大阪が、それが大正から昭和初期に小説に描かれるようになり、第二次世界大戦で空襲を受けた大阪が復興して歌謡曲に歌われたのが1960年代。昭和の中期と考えてみると、なんとなく時代の流れがイメージできてきました。

 3日目は今里から大阪港に出ました。天保山は新しい大阪だと聞いていましたが、私は昨年の春、別府から船に乗って朝焼けの大阪に到着して以来です。その時は、早々に地下鉄に乗って市街へ出てしまったので、天保山は車窓から見ただけ。ジンベイ鮫が2匹もいる海遊館に行きました。大きな(5階建てか? 4階建てか?)がまるごと巨大水槽になっている水族館にびっくり。
 この道程は法政大学のゼミ生諸君が一緒だったのですが、その中のひとりが
「先生、これはなんですか?」
 と質問した先を見れば、岡本太郎作「太陽の塔」の模型がありました。1970年の大阪万国博覧会のシンボルだった太陽の塔は、今でも千里に行けば立っているはずです。

もうひとつカンボジアのすいか

2010年08月29日(日)

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 西瓜の写真を送ってくれたのは、法政大学の留学生セタリンさんだそうです。

 朝、晩はようやく涼しくなってきました。ここのところ、夜になるときれいに澄んだ月が出てきます。昨晩は少し遅い時刻に兄ちゃんがやってきたので、二人で晩御飯を食べに出かけました。ブラジル料理。焼きたてのお肉が10種類出てくるというワイルドなお料理。

 丘の上の花屋さんのお店が閉まったままになったのは7月頃でした。シャッターがなくって、ネットで店先を覆っただけなので、店の中の花が枯れて行くのを通りかかるたびに、不思議に思ってました。しばらくすると「当分お休みさせてもらいます」の張り紙が。枯れた花は片付けられていました。そのまま、8月になり、昨夜も兄ちゃんとご飯を食べたあとで、お店の前を通りかかりましたが、がらんとした店に残っていたサボテンや観葉植物の植木鉢もかさかさに乾きだしていました。花屋さんのご主人が病気でもしているんじゃないかしら?と覗き込む店の中に、月の光が差し込んでいました。

自家製電子書籍

2010年08月28日(土)

 知り合いでのデザイナーのところで性能が良くなったスキャナーを見せてもらったのは5月のことでした。事務所にはコピー機がなく、全てスキャンしてPCから出力しているとのことでした。
「ふつうの本も表紙をとって、読み込めば、データにして置くことができますよ」
 と教えてもらいました。そんなこと、本を作っている人が聞いたら怒るねえと、その時は笑っていました。

 文芸家協会の理事会で、書籍をデータに読み込む作業を請け負う会社があって、著作権から考えると問題があるという話を聞いたのは7月でした。で、これは協会から抗議をしたことが後で新聞記事になってました。自宅やら研究室やらが本であふれかえっているなんて人は「そんな会社があったら頼みたいなあ」とぼやくのも、むりからぬところはあるんだけどと、苦笑い。

 実際、本をばらして自家製電子書籍にしていますと、これは、知り合いの某先生。ご自分の研究の専門書から愛読の漫画まで、順次、自家製電子書籍化しているそうです。「へえ」と画面を覗き込みながら、私の頭に浮かんだのは、いったいこの夏の間に何冊の本が、ばらばらに解体されて、電子データになっちゃったのかしら?ということでした。東京で、日本中で、世界中でと、考えてみるとそら恐ろしくなるくらいのたくさんの本が、ばらばらになって、紙くずになって、燃やされたり、埋め立ての材料になったり、想像してみるとすごいなあと、びっくりしたしだいです。

子どもと老人 そのほか もろもろ

2010年08月26日(木)

 近代的な個人。そういう硬い言葉で言っていいならば、近代的な個人と言うと、たいていは成人した男性を意味をしていることが多いなあと感じたのは、20歳くらいの時でした。女性は大人でも入っていないの。で、その女性の自立というテーマでエッセイなどを頼まれるたびに、近代的な個人というのは成人した男性がモデルになって組み立てられている観念だなあと感じていました。女の人は、実際は成人した男性と老人、子どもの間に立って大忙しで、どっちの面倒もみなくちゃいけないのに(肝っ玉母さんというテレビの人気番組がありました)保護されている存在ということになっていて、その辺の矛盾をほんとう言ってどう考えたらいいのか解りませんでした。

 小さな子どもの虐待死とか、行方不明の高齢老人とかが出ても、もう昔の家族主義を唱える人がいないのは、後戻りできないところまで来ていることを、おおかたの人が知っているからでしょう。それで、社会保障という話になるのですけれども、社会保障が整備された国って例えば北欧などをすぐに思い出すのですけれども、そういう国の宗教とか信仰ってどうなっているのかしら?もっと率直に言えば、みんな、教会に通っているのかしら? 北欧の映画で、ほとんどの人がどこかの教会に通っている場面を見たことがあるような気がしています。
 社会保障って、そういう信仰と両輪になっているのではないでしょうか? 信仰が同じ人、もっと日常的に言えば同じ教会に通っている人どうしの繋がりがあって、初めて世俗的な社会保障が機能するんじゃないかと、このごろ、考えています。
 そういう研究って誰か、している人がいるのかしら? なんか学問の世界にも管轄みたいなものがあって、管轄が違うと、誰の目にも明らかなことが、ちっとも調べられていないってことがあります。と言うか、宗教と社会保障の相互補完関係って言う視点の言論すら聞いたことがないような気がします。

 伊藤さん、お連れ合い様 無事ご退院おめでとうございます。アメリカの病院ってすぐ患者を退院させるのね。びっくりしました。お大事に。

 田原総一朗ノンフィクション賞佳作の「にくのひと」の上映会に、出かけていったら、なんと賞の受賞者、満若監督自身が「スタッフ」のカードを首から提げて暑い中でお客さんの誘導をしていました。思わず「ありゃま!」って笑っちゃいました。好青年です。

 実は司会をするはずの二木さんが欠席で、前の晩に、突然、司会をお願いしますって、事務局から連絡がありました。私は都内某所で「涼しい顔で下界を見下ろす会」の最中。ただの飲み会です。高層ビルの最上階から東京湾を見下ろしてワインを飲んでいました。

 で、司会って大丈夫かいな!? という具合にトークを始めたので、開場を見る余裕なし。ニコニコ動画のカメラも無視。そろそろ終わるぞって頃に、ちらりと会場を見たら、なんと、私の助手の深野女史がちゃっかり彼氏と座っているではありませんか。気がつくのが遅くって良かった。早くに気づいていたら、しっちゃかめっちゃかになっていたところでした。

カンボジアのスイカと瓜 2

2010年08月23日(月)

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 カンボジアのスイカ細工です。このほかにもいろいろ。ゴッホの絵をスイカに刻んだものなども、勝又さんから送ってもらった写真にはありました。

 壺井栄の「二十四の瞳」には、かぼちゃの提灯を作る場面がありました。主人公の大石先生が、自分の子どもを亡くしたときの場面です。戦争末期のことで、食料不足なのですけど、大石先生は「かぼちゃは子どもが遊ぶものだった」と言って、死んだ子の枕元に備えられていたかぼちゃに包丁を入れるのです。そして、かぼちゃに目と口をつけ、中身を刳り貫き、火を点して提灯にするという場面があります。大石先生の怒りが現れている場面ですが、壺井栄が描く「怒り」は切ない「怒り」でした。この場面を最初に読んだ時の、胸に包丁を突きつけられたような感じと言うのは、時間が過ぎても消えません。

 昨日、法政の尾谷先生からiパッドを見せてもらいました。へぇと感心したのは「トイストーリー」の宣伝版。アニメーションの画像を触ると、動いたり、音が出たりしますし、英文を音声で読み上げながら、読んでいる単語の色が変わったりします。電子デバイス用の表現が出てくるだろうとは、前々から思っていたのですけれども、もう、ちゃんと、そういうものが出てきているのですね。これで、漢文の素読をやってくれるものができないかしら?語学には便利な道具だし、漢文の訓読文みたいなものは音で聞きたいから、そういうものがあるといいなあと、尾谷先生とお話しました。
 あと、尾谷先生が写真や動画の整理にiパッドを使っているのも見せてもらいました。これもいいなあと思った機能。PCで整理するよりも、iパッドのほうが気分的によさそうでした。前々から、なんでもかんでもパソコンで処理するのではなくって、道具を分けたいと思っていましたから。

 息子と息子の彼女(こういう言い方でいいのかな?どうも適切な言い方が思いつかない)と3人で銀座を散歩したのは今月の初めでした。その時、初めてiパッドに触りました。銀座3丁目のアップルショップを覗きたいと息子たちが言うので、つきあったのですけど、ズームインしたりズームアップすることができる地図があって「これはいいなあ」と思いました。ちょっとづつ、電子デバイスが、私のほうへ近づいて来ているって感じです。

カンボジアのスイカと瓜 1

2010年08月21日(土)

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 勝又浩さんから、カンボジアのお祭りで使われるスイカや瓜の細工の写真を送ってもらいました。

また工事。

2010年08月19日(木)

 こんどはマンションの大規模修繕です。外側に足場を組んで、外壁の塗り替え、ベランダの床の塗装する、ほかいろいろ。息子が小学校低学年のときに近所の人と散歩に行って買ってもらってきた桜の木も移動させなくちゃいけないのですけど、どうしたらいいんだろう?
ベランダで大きく育っているのです。やっぱり枝を切るしかないのかな?

 講談社文芸文庫から出る「女ともだち」のゲラを見ています。それから河出書房新社から評論集を出すことになっています。評論集は当初の計画通りだと、2段組にして800ページになりそうなので、300ページほど削ることにしました。今朝、ゲラが届きました。昨日、河出書房新社に行って打ち合わせをしましたが、持って帰ると熱中症になりそうだったから、宅急便で送ってもらいました。

 今朝から、足場を組む工事の音が聞こえてきます。

 このごろ、ゆっくりとしか物事をやれなくなっています。それから、物を捨てる決断が遅くなっています。時々、物があふれかえったゴミ屋敷が話題になりますけれども、ああいうゴミ屋敷ができる理由がわかる気がしてきました。元気で落ち着いていないと物を捨てることができないのです。そういうことが解っているから、まあ、それほど焦りもしないでいるのですが、ちょっとペースを上げないと、いけないかもしれないなあと、やや矛盾したのんびりモード。

 そんなわけで、今年後半は工事と家の片付けと、ゲラの手入れで、終わりそうです。大規模修繕は12月初旬まで続くということでした。去年みたいに家の中へ工事が入るわけではないので、ま、家の中も少しは片付くでしょう。

九州の列車

2010年08月18日(水)

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 東京は「Suica」大阪は「ICOCA」九州は「SUGOCA」だったけ? ICカードの名前がJRの地区ごとに違うのに、ちょっと笑えます。

 ソニック特急に乗ったのは、二度目です。福岡の別府(べふ)と大分の別府(べっぷ)を勘違いして熊本文学隊の皆さんを大騒ぎさせて以来です。ソニック特急のインテリアは未来的といったらいいのか、車体が小さく感じられるわけに窓が大きく開き、座席は人間の背中に合わせた形をしています。つまり外の景色がよく見える設計になっているようです。

 小倉は「楽隊のうさぎ」の取材で出かけて以来だったと書きましたが、その時は旦過市場には行ってません。けれども、再開発された小倉駅よりも、変わらない旦過市場のほうが、なんとなく記憶にある小倉に近い感じがしました。東アジア文学フォーラムの北九州市での打ち合わせを終えて、旦過市場で島田雅彦さんたちと昼ご飯を食べました。島田さんはカクウチがお気に入りで、ちょっと立ち寄ろうかという話も出ました。それは今度にと言うことで、お昼ご飯を食べてから、旦過市場で買い物をしました。なんと言ってもお魚が安い。それはそれは魅力的です。が、私はそれから由布院に回る予定だったので、お魚には手が出せません。でも何か買いたいというので、大きな苦瓜を買い、スーツケースに詰めました。
「たいへん安上がりな購買欲の満たし方だ」
 というのは島田さんの台詞。道楽の買物に経済学風な解説をつけるところが、島田さんらしい。島田雅彦さんが何を買ったのか思い出せないんですが、魚屋の買物で、きっとその日のうちに東京へ戻って、得意のお料理をしているのでしょう。

 北九州空港までバスに乗るという島田さんに、新しくなった小倉駅まで送ってもらいました。小倉駅で
「じゃあね」
 と別れてから、ソニック特急で大分へ。関門海峡から豊後灘へ、海の景色をキレギレに眺めながらの列車の旅でした。小倉では、あれほどかんかん照りだったのに宇佐のあたりで猛烈な雨に降られました。大分で、由布院に行くために乗り換えた電車は、かわいらしい赤の電車。私が乗車した時は2両編成でしたが、時には1両で走ることもあるようでした。小さくて真っ赤な電車で、阿蘇に続く山々の間へ分け入って行くのはなかなか心地良いものでした。

4年分の紙類と格闘しています。

2010年08月15日(日)

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 豆蔵君、そうか伊藤さんの豆畑支所を作った記念メルマガ以来なのね。それが06年。なるほどねえ、じゃあ、今度はツイッター開始記念になるのかしら? あ、そうじゃなくって、メールフォーム故障記念かしら?
 いずれにしても今年のうちには、お家の中は片付かないんじゃないかという気がしてきました。
 だめじゃ、こりゃ。

 木曜日に紙バッグを持って家を出て、郵便局でお金を振り込み、地下鉄に乗って、飯田橋で降り、雨が降っていたから薬局で傘を買いました。それから理科大裏のお菓子屋さんまで歩いて、マシュマロとオレンジ入りのケーキを買い、とことこ、法政大学まで歩き、入り口のコンビニでカップ焼きそば(これがモーレツに食べたかったの)とフライドチキンを買って、研究室に入ったところで「あっ」と気づきました。
 紙バッグがない、どうしよう。
 で、コンビニに忘れたかもしれないと、室内スリッパのまま、急行。
「紙バッグのお忘れ物はありません」
 はあ、そうですかとばかりに、もしかしたら、土手の上で煙草を吸ったときに忘れたかもしれないと、土手に戻ってみました。ただ、煙草を吸ったかどうかの記憶があやしい。で、土手の上の喫煙所にも紙バッグはなし。

 紙バックの中身は日芸で開催された「同人雑誌の変遷」展の図録と、自宅の机の上に散乱していた紙類をクリアファイルにまとめたもので、一般的な意味で価値のあるものは入っていません。だから持ち去られたという心配はなし。

 ここに無いなら次は理科大裏のお菓子屋さんか? と、お堀の向こうの理科大がやけに遠く見えるのがうらめしい。アグネスホテルのパティシエの作るお菓子を売っている店で、ここのマシュマロが大好き。紙の山が散乱しているのは自宅の机の上だけじゃなくって、研究室も同じで、マシュマロを餌にそれを片付けるつもりだったのです。ま、馬の鼻面に人参をぶる下げるみたいなものですね。理科大裏まで歩こうかどうか、思案していたところへ、コバフミちゃんこと近世の小林先生。胸にシャーリングが入ったサマードレスで現れました。
「あら、中沢先生」
 二人で手に手をとって小学生みたいにぴょんぴょん。
「小林先生、夏休みモードですね」
「中沢先生も」
 私はピンクのランニングでした。これですっかり足元は室内スリッパだということを忘れて、ともかくも薬局までは行ってみようという気になりだすと、今度は、助手の深野女史が土手を歩いてきました。
 なんだかブレーメンの音楽隊みたいな展開。深野女史に「これこれ、うんぬん」と話すと
「じゃあ、先生、きっと薬局ですよ」
 とてきとうな返事。で、薬局に行きました。紙袋はありません。なぜか、ここまで来たのに理科大裏のお菓子屋さんには電話で問い合わせることにして、深野女史と法政へ引き返しました。今度は土手の上で日本音楽史のネルソン先生とばったり。もうすぐ、オーストラリアにお帰りだとのこと。
「気をつけてお帰りください」
 とご挨拶して、研究室に戻ってきました。で、お菓子屋さんに電話。1個90円のマシュマロを20個も買ったんだから覚えていてくれました。でも紙袋はありません。あとは郵便局。こっちも電話しました。紙袋はないというお返事。
「じゃあ、先生、ぜったい紙袋は地下鉄ですよ。それじゃなければ、お家に置いたままか」
 深野女史が言うのです。
「うちだといいんだけど。」
「東京メトロに電話かけてみますか?」
「そうねえ」
 なんとなく気が進まないのは、地下鉄に乗っていた時の記憶がきれいさっぱり抜けているからでした。いろいろ聞かれても、どこに乗っていたのか、ぜんぜん思い出せません。時々、そういう空白の時間があるのです。それが嫌なの。
「なんか東京メトロに電話するの嫌だ」
「先生、わがままなんだから」
 と深野女史が電話をしてくれましたが、これがさっぱり通じません。お話中のまま営業時間が終わってしまいました。
 
 夜になって娘から電話がありました。
「家の玄関の前に蝉が伸びていて、ばたばたやっているので怖くて家に入れない」
 という電話でした。難儀な娘じゃと「蝉は怖くないよ。弱っているだけだから」となだめすかして、家に入ってもらいました。そして、蝉をなんとかよけて家に入った娘に私の部屋を見てもらいましたが
「ざっと見たけど、紙袋はないよ」
 という返事でした。

 で、なぜか、土曜日になって急に呼ばれたような気がして東京メトロに電話してみました。すると、すぐに電話がつながって「紙袋の忘れ物ありますよ」というお返事が返ってきました。すぐに上野駅に忘れ物の紙袋をとりに行きました。東京メトロの本社って上野駅にあるのを初めて知りました。

 不忍の池では、蓮の花がたくさんに咲いていました。そうだ、いつだったか寒い冬の日に、まだ赤ん坊の息子を背負って、母とこの池の中の道を弁天様の方向へ歩いたなと、24、5年前のことが頭を過ぎりました。桜の花が咲き出して、あれよあれよという間に上野の山いっぱいが桜色に染まった日に、運よくめぐり合って、やはり忍ばすの池の中の道を歩いたのは06年の春だったような気がします。その日、会社をサボっているらしい新入社員とその先輩格のサラリーマンがボートを漕いでいました。あの二人のサラリーマンは今でも同じ会社に勤めているのでしょうか?

 紙袋の長い長い旅でした。

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