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中沢けいコラム「豆の葉」
   
 

築地場外を歩いた

2019年05月19日(日)

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 13日(月)18日(土)と築地場外を歩いた。
 築地市場の建物がかなり撤去されたので、場外も空間的にガランとした感じ。なんだか寂しいような貧弱になったような。外国人観光客の姿は多い。干物屋さんにいたロシア人のおじさん二人組。ロシア語で何か尋ねているけど、干物屋さんは知らんぷり。すると大柄なおじさんはめざしの串をつまんで匂いを嗅ぎ始めた。あららと見ていると二人組は大きなため息をつき、どこかにいっちゃった。で、その外人さんが匂いを嗅いでいためざしをちょうだいと干物屋のおじさんに注文。ロシア人さんは「焼いてある?」って聞いていたみたいと言うと「分かんないからほっとくの」とおじさん。「匂い嗅いでたやつでいいの?じゃ、500円にしてあげるよ」とおまけしてくれました。これがねえ、すばらしくすてきな鰯でした。
これが火曜日の話。この日は豊洲から仕入れてきたばかりというホワイトアスパラも買った。
 土曜日は築地市場の営業権を主張する「築地お買い物ツァー」の日。築地市場正門前にお店を張っている仲卸さんのところへ。海苔の佃煮の瓶詰が欲しかったから、大急ぎで行ったのだけど、もうお店を閉めるところだった。海苔の佃煮はないかしら?と聞くと箱の中からさがしてくれた。1瓶200円。1瓶買おうとしたら「あら、1瓶でいいの」とおねえさん。「じゃ2瓶下さい」と2瓶買いました。

202年前に譲位した光格天皇の時代

2019年04月30日(火)

 202年前に譲位した光格天皇は明治天皇の曾祖父なのか。後の尊皇思想に多大な影響を与えたと。1840年(天保11年)崩御。私の4代前(母方)の権四郎お祖父さんは天保4年生まれだから、光格天皇と同じ時代に生きていたのね。天保と言えば「天保水滸伝」。笹川繁蔵、飯岡助五郎、平手造酒の名前は知っているし、利根の川風〜♪の歌も知っているけど読んだことはない。読んでみようかな。
天保と言えば「天保水滸伝」。笹川繁蔵、飯岡助五郎、平手造酒の名前は知っているし、利根の川風〜♪の歌も知っているけど読んだことはない。読んでみようかな。光格天皇(1771年 明和8年〜 1840年 天保11年)と同時代の人に国定忠治(1810年 文化7年〜 1851年 嘉永3年)がいる。清水次郎長とあわせて幕末の侠客のひとり。元祖育メン。違うかぁ〜(笑 
 ほう。こんどお札になる渋澤栄一は光格天皇崩御の年の生まれだ。1840年天保11年生まれ。武蔵国榛沢郡血洗島村生まれ。今の深谷市。藍玉の製造販売と養蚕の家に生まれたけど、尊皇攘夷の志士になったんだって。ちょっと生まれるのが早かったら侠客になっていたかしら?

牛島の藤

2019年04月29日(月)

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 牛島の藤を見てきた。藤花園の藤。牛島の藤と言えば、藤花園の藤だけど、周囲の民家の庭先にも藤が植えられているおうちが多い。
 東武野田線の駅名は「藤の牛島」。甘い香りが時おりふあっと鼻先をかすめる。午後なので香りは少なくなっているけれども、それでもかなり香っていた。
 牛島は春日部市内。東武野田線、春日部駅の隣が「藤の牛島」駅。あたりはいかにも関東平野という景色。
 牛島の藤は樹齢1200年だとか。天然記念物に指定。1200年前と言えば、中国には「唐」があり、朝鮮半島は「新羅、渤海」の南北朝時代。どうして牛島に藤が植えられたのかはわかりませんけれども、朝鮮半島、中国大陸との縁があるものが点在しています。牛島の藤もなにか、そうした朝鮮半島、中国大陸との関連があるのかもしれません。
 東武野田線は、大宮から岩槻、春日部を通って柏に至る私鉄。大宮は「関東の首都」を自認する都市で、埼玉県庁がある浦和よりも大きな駅です。浦和は県庁、裁判所などがありますが、特急が停車しない珍しい県庁所在地の駅。なんでも大宮、川口、熊谷などで、どこに県庁を置くのかを争った挙句に仮に浦和に県庁を置いたのがそのままになったとか。それから幾星霜、こんどは大宮、与野、浦和が合併し、「大宮市」になるかと思いきや、それは約束が違うとばかりに「大宮市」を名乗れなかったとか。結局「さいたま市」の名称を使うことになりました。
 

市場はなくなるのかな。

2019年04月11日(木)

築地市場から豊洲市場への移転のみならず、全国で市場の改修が進んでいいる。
一方で民営化という言葉で語られるのは「企業化」を意味していることが多い。これまで会社経営に馴染まないとされた農業、漁業も「企業化」され、企業は金融市場で株式などを取引される。儲からなければ撤退するのが企業。儲からなくってもそこに生きる人たちがいる業種で企業化していいのか。
 個人経営の農家、漁師と繋がっているのが卸売市場。卸売市場と繋がっているのが個人経営の料理屋、小売店。街から八百屋が消える。魚屋が消える。顔なじみになれる料理屋、レストランが消える。残るのはマニュアル化した接客の大型店舗とコンビニ、それからチェーン店。街の眺めはすでにそうなっている。
 個人経営者を潰して、企業化を図り、株式市場で取引されるような大企業を作るという流れ。それで、ちゃんと人の暮らしが立ち行くのか。まともに賃金の支払いがされるのか。極端に言えば金融市場が物品の市場を呑み込む過程を見せられているわけだ。
 日本は世界でいちばん成功した社会主義と揶揄された時代があるけど、東西冷戦終結のあとで、世界でもっとも破綻した資本主義って言われないといいんだけどなあ。

「ソウル1964冬」の作者 金承トさん

2019年03月31日(日)

 神田のチェッコリで金承トさんのお話を聞く。御病気をなさって、今は筆談でお話をしている。お土産にコーヒーをいただいた。金承トさんからいただいたドリップコーヒーは、1杯づつ、お湯を注ぐタイプ。
 以前のソウルではハワイアン・コナなどのフレーバーコーヒーが多く、フレーバーのないコーヒーを出してくれる喫茶店を探し回ったのを微笑とともに思い出した。10年くらい前かな。
 1983年に中上健次がソウルを訪れた時の写真も見せていただいた。その後、金承トさんは東京を中上健次に案内してもらったと。韓国は全斗煥大統領の軍事政権下、日本はまだ昭和で、中曽根康弘首相が韓国を訪問し、全斗煥大統領と会見したのは1983年1月のこと。中川一郎氏が自殺したのは1月9日。
 「ソウル1964冬」(日本語の翻訳は三一書房刊)の作者、金承トさんは若い作家に何か言いたいことはあるかという質問に「明るい作品を書いてもらいたい」と答えた。自分たちの時代には書けなかった明るく豊かな作品を書いて欲しいと。韓国の年配の作家は同じ趣旨の発言をよくする。80年代初頭、中上健次がソウルを訪れた頃の日本では「冷めた雑炊が喰えるか」の開高健の発言に代表されるような高度成長後の繁栄を否定し、繁栄から「文学は生まれない」式の発言があっちこっちから出ていたのを思い出す。どうして、そんなに戦後社会が繁栄の時代を迎えたことを否定的にとらえなければならないのか不可解なくらいだった。

卒業式

2019年03月25日(月)

桜が三部咲き。昨日は卒業式でした。御卒業の皆さまの人生が豊かなものになりますように祈念いたします。御卒業おめでとうございます。

豊洲へ行く

2019年03月24日(日)

昨日は豊洲へ。築地おかみさん会が主催した集会に。成増から地下鉄有楽町線で「豊洲」まで。「豊洲」からゆりかもめに乗り換え「市場前」へ。
 「豊洲」で降りて、湾岸地域の変貌ぶりに目を見張る。高層住宅が林立。建築物の色彩と花曇りの空の色が競い合う光景。豊洲一帯はオリンピックの選手村も含め、まだまだ建築工事が進んでいる。高校の頃からの知人が豊洲に住んでいて、「僕、豊洲が好きなんだ」と言っていたのを思い出す。新開発のすっきりした街だから、その魅力を感じている人も多いだろう。
 豊洲市場の飲食店街は大行列。お掃除担当のおばちゃんと立ち話をした。「土日は混んでますよ。平日はすいているから平日に来たらいいのに」と。実は集会がある管理棟の3階から1階に降りる手段が分からなくって、掃除の人に聞いたの。
 築地おかみさん会主催の集会は大勢の人が集まって、席が足りなくなるくらい。市場法改正のお話や近代建築としての築地市場建築の価値についてのお話。「豊洲をどうする。築地はどうなる」と。共産党の都議さんがスピーチの中で「市場会計の付け替え(市場の土地を東京都に売り、一般家計に繰り込む)では共産党と自民党が反対しました」と報告した場面では会場からくすくすと笑いがもれた。今年度いっぱいで都庁を辞めるという知人は「もうめちゃくちゃなの」ってボヤいていたのを思い出す。
 集会終了後、中澤誠さんと宇都宮健児さんにちょっとご挨拶。豊洲に移った銀鱗文庫にも行きたいし、豊洲市場の様子も見たいし、茂助だんごも欲しいから、また来ようと、千客万来施設建設予定地を横切る。伊勢神宮にあるような、江戸時代風の観光施設ができるという絵看板が掲示してあった。豊洲から四谷のしんみち通りへ。しんみち通りの秋田料理のお店で知人と待ち合わせ。未来都市から過去の街にワープ(うちの子どもたちがこの言葉が好きだったのを思い出す)した感じ。

2月23日(土)

2019年02月14日(木)

銀座で安倍やめろデモがあります。詳細は明日2月15日に告知されるそうです。主催者が予告のツイートを打ったとたんにツイートアカウントを凍結されました。
邪魔が入ると燃える体質なの。

黄金町から中華街へ

2019年02月12日(火)

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この週末はまた雪になるとか。南岸低気圧が太平洋側を通過するのは春が近づいているしるしですね。今日は良いお天気。昨日、黄金町の病院へ弟の見舞いに行ってきました。なんでもあの寒かった土曜日に救急車で担ぎ込まれたとか。寒いのが身体にこたえる年になったのですね。
 病室で血栓防止の靴下を履いた弟とおしゃべり。なぜか血栓防止の靴下は親指だけが外に出るかたちでした。弟は小さい時、足の親指を怖がっていたのを思い出しました。足に座布団を被せ、親指だけを出して動かすと「怖いよ〜」と震え上がったと母が言ってました。
 「こんな親指だけがむき出しになる靴下なんて履いていたら、怖くって、怖くって、しょうがないだろうね」と大笑いになりました。
 黄金町から中華街へ。昔からある中華素材のお店を前にあおいザーサイの漬物が出ていました。ザーサイのコブだけではなく、葉っぱまでついている漬物。あら、珍しいと一袋買い求めました。お店の人の話では、この漬物を作っているのは日本人で、ここ2年ほどは御体調が優れず漬物も入荷しなかったと。でも、元気になられて、この冬はまた葉つきのザーサイの漬物を入れてくれるようになったと、ちょっと嬉しそうでした。葉っぱの部分はおにぎりを包んでも美味しいと教えてもらいました。あおい、いや、緑色のきれいなザーサイです。

千代本の話2

2019年01月06日(日)

これもFBから転載です。(2018年12月24日)

 昨日は金沢八景へ。千代本の伯父から市場の話を聞いた。野島で魚を売っていたと。野島は一本釣の漁師。小柴は網を打つ漁師。久里浜にも漁師さんが市場を出していた。終戦後は食糧難の時代だけど、東京湾にたくさんお魚がいた時代でもありました。
 伯父は旧制中学の生徒の頃から横浜の中央市場へ仕入れに。父親に連れられていったというのは私の聞き違いでした。お婿さんだった御先代は市場の仕入れには向かなかったみたい。
 築地に注文を出したのは、大きな結婚式があったりしたとき。大きさを揃えた伊勢海老や鯛の折詰を注文したと。昭和中期(S20〜S40)には結婚式と言えば杉板の折詰で伊勢海老や鯛が配られた。思い出しました。鯛の塩焼きをもらってきたのことを。
 築地には伊勢海老専門の海老屋さんがいた。でその伊勢海老専門の海老屋さんは鎌倉に澄んでいて、帽子を被って築地に出勤していたんですって。
 伯父が築地に直接、仕入れに行くようになったのは東京の大学に通い始めた18歳の時。昭和5年生まれだから、昭和23年頃かな。小僧さんを連れ買い出しに行き、荷物は小僧さんに持たせて帰したと。小田原や熱海から仕入れに来ている人もいたという話。海産物の大きさと数がそろうのが築地の市場だった。
 この前、話を聞きに行った時に出た活けもの屋さんの話もおもしろかった。活けものの競りは遅い時間にたつから、その活けものの競りで売れ残ったお魚のごっそり買い込み、締めて氷の上に並べて売っているお店もあったと。後からなんで活けものの話になったのだろうと考えてみたら、豊洲市場が「ドライフロア」になるという話をしていた時に不意に思い出したみたい。「活けもの」は生きたお魚だから当然、海水の中にいる。その連想だったかもね。
 1964年(S39)の東京オリンピックまでは金沢八景の前の平潟湾でもアサリもとれたし、ハゼもつれた。海苔の養殖も盛んだった。海の埋め立てが始ったのもその頃。山の切り崩し始めたのもその頃。だんだん、話は金沢八景のもとの地形の話になり、横浜市大の体育館のたっているあたりに山が張り出していたと。私も幼稚園の通っていた頃の景色を思い出しながら聞いていた。なんの拍子か「西郷隆盛さんがうちに泊まっていた時の札が残っているけど」言い出された。それから幕末から明治にかけての話に。少し私の頭の中を整理しないと、150年くらいの時間がごちゃごちゃになっちゃったなあ。

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