夢の中のバルタバス
2005年04月16日(土)
ジンガロ座のバルタバスは想像したよりも小柄な人でした。というより、最初に馬場の外周に登場した時には馬上豊かな人物に見えました。ジンガロ座ではアルゼンチンのクリオロ種という馬を多く使っているそうです。が、バルタバスの乗っていた馬はまた違う種類のようでした。かなり肉付きの良い大型の乗用馬です。外周馬場に登場したバルタバスは、そこで馬を後ずさりさせたのです。これだけでも、かなりな驚きを呼ぶはずなのですが、乗馬の愛好者の少ない日本では、馬が後ずさりが苦手なことを知っている人が少ないので、ちょっと残念でした。それでもバルタバスは馬上豊かに見えました。
今度、ジンガロ座の公演を見て、私は初めて「馬上豊か」という言葉の意味を知りました。バルタバスは馬から下りてしまうとほんとに小柄です。ところが馬の上にいるときは大柄に見えるのです。馬からエネルギーをもたっらいるようです。さらに、目前で見ている時よりもあとから思い返すほうがもっと大きく思い出されるのです。古典の文章に登場する「馬上豊か」という表現はきっとこんな感じを言うのだろうと思いました。
バルタバスは公演の中で何頭かの馬の乗り変えて使っていましたが、どの馬ともひとつになっていて、その動きは思い出の中で(と言ってもまだ5日くらいしかたっていませんが)ますます優雅に、ますます量感を持って思い返されるのです。
中国の反日デモ
2005年04月15日(金)
かなり深刻の様相と呈してきている様子が各種のニュースが伝えています。韓国とは事情が異なるようです。日本の問題でもあるのですが、ここ数年の間に中国国内にたまっていた不満が膨らんでいるのではないでしょうか?中国政府にコントロールされたデモとは思えません。
パソコンを使う学生だから、それほど貧しい階層ではないという意見を時々耳にします。しかし、パソコンやネットを使う学生の中には、親族一同の期待を背負っている内陸部出身の学生もたくさんいるはずです。そういうことを考えてみました。「愛国無罪」のスローガンの後ろに「革命無罪」が隠れてはいないでしょうか?
この週末はどういう展開になるのでしょうか?
ジンガロ公演
2005年04月14日(木)
木場公園にテントを張っているジンガロ座の公演を見てきました。ジンガロ座見たさに本拠地のオーヴェルヴィリエに行きたいなと思っていたので、日本公演を見ることができてとてもラッキーでした。
ジンガロ座は単なる馬のサーカス、曲馬団ではないと言われます。なぜなら、馬の曲乗りだけではないからです。主催者バルタバスは自在に馬を操り、馬に様々な歩調をとらせることができます。ふつうの曲乗りは、馬を走らせた上で、人が逆立ちをしたり、組体操のような仕草をしたりします。体操にあるあん馬や跳馬の動きもあります。それらは、走る馬の上で人が演技をしているのですが、バルタバスは馬に演技させます。馬場馬術が盛んなフランスならではのジンガロ座だと思いました。
スローモーションと言ってもいような駆け足。右前足あるいは左前足だけを高く上げるすスペイン並足。並足での後方への移動(バック)斜めに足を交錯させながらの横移動。前足を固定したままの回転。後ろ足だけでリズムを取る動き。次から次へと見たこともない馬の歩様が登場しました。ぜひ馬場馬術に詳しい人の感想を聞きたいものだと思いました。
しかも、それらの歩様を取らせるためにほとんど手綱を用いないのです。身体の重心の移動と鐙だけで指示を出しています。足まで隠れる衣装を着ていましたから、鐙が見えなかったのですが、ちらりと見えた鐙はこれまで見たこともない変わった鐙でした。日本の履き鐙のような感じで鐙で、西洋馬術の鐙ではありませんでした。 やっぱり、オーヴェルヴィリエに行きたくなってしまいました。
右翼の定義
2005年04月13日(水)
ご承知のように右翼、左翼はイギリス議会で保守派が右、革新派が左に座席をとったことから起こった名称です。いつの時代にも進歩的な人と保守的な人がいますから、そういう意味では、右翼、左翼という政治的な色分けはなくなるということはないでしょう。
が、その内実となると時代とともに変化しています。日本で右翼という場合は、共産主義、社会主義の考え方に対しての自由主義、資本主義の考え方をする人々あるいは民族主義的、国家主義的な立場に立つ人をさしてきました。さらには単に暴力団の呼び変えの場合もあります。実際、対暴法で暴力団の看板を出せなくなったので右翼団体を名乗っている組もあると聞いています。
で、ソビエトが崩壊し、冷戦が終結した時点で、それまでの右翼左翼という分け方にも変化が生じてきています。さらに「進歩」という考え方もかなり疑念をもたれるものになってきました。例えば、科学技術の進歩は果たして人間を幸せにするのだろうか?という疑問が、身近なところに登場することも多くなりました。
そこで残っているのが、民族主義、国家主義的な右翼という考え方です。しかし民族主義も国家主義ももともとは近代化の流れの中で生まれてきたものですから、おそらく、これからその内容が大きく変わって行くでしょう。
私は家は川越街道沿いにあります。もう25年もここに住んでいますが、自衛隊の朝霞基地と練馬駐屯地があるので、越してきたばかりのころは休日というと、右翼が軍歌をがんがん流しながら街宣車で走り抜けて行きました。それがいつ頃からか?まったく通らなくなりました。昭和が平成に変わって数年後に、久しぶりに右翼の街宣車が来たと思ったら、なぜか松田聖子のヒットメロディーをがんがん流していました。
ノ・ムヒョン大統領が来日した時に麹町で出会った右翼の街宣車は韓国語でしきりに「ウリガナラ」を繰り返しえました。日本語の「わが国」ですが、その「ウリガナラ」はいったいどっちの「わが国」なんだと「?」でした。韓国語の演説が全部聞き取れるほど私には語学力がなかったので。
もしブッシュ大統領が来たら、アメリカ南部なまりの英語で演説したり、プーチン大統領の時はロシア語で、シラク大統領の時はフランス語で街宣なんて右翼が現れたら、自然に民族主義、国家主義も変化したものになって行くに違いありません。それにしても、ライブドアのニッポン放送買収騒動の時も六本木ヒルズを右翼の街宣車が取り囲んだそうですから、金と人が集まっていることは確かです。松田聖子のヒットメロディーを流していた時の右翼はきっと人材不足だったのでしょう。そこにまた人とお金が集まりだしているのです。が、人とお金が集まるほど、本来、保守主義であるはずの右翼も変貌せざるおえない状況が生まれてくるというジレンマを抱えることになりそうです。
20世紀の後姿
2005年04月12日(火)
夏目漱石はロンドンでヴィクトリア女王の葬列を見送っています。それが漱石の見た19世紀の後姿であったと、何かの本で読んだのを覚えています。
そんなことを思い出したのは、ひょっとするとあれが私の見た日本の20世紀の後姿であったのかもしれないというデモを思い出したからです。5年くらい前の冬の初めのことでした。法政大学の門を出ようとすると、デモ隊がいました。 デモ隊と言っても7、8人の若者がいるだけです。それで、先頭の若者が「シュプレキコール」と言ってから何事かを唱えると、後ろに続いた数人がまるで小学校の一年生が教科書を読むように同じ文句を唱えます。異様だったのは、この小さな、そして、どうもデモ初心者まるみえの団体のあとを10人ほどの新聞記者がついて歩いていることでした。その後ろには10人くらいの警官が歩いていました。
デモ隊よりも取材記者と警官の多いへんな行列でしたから、夕闇にまぎれるまで、その行列を見物していました。話に聞くデモというものをやってみようとしているようでした。デモのためのデモです。そうした試みのデモに新聞記者も警察官も付き合っているようでした。
こうした奇妙なデモが20世紀の後姿に見えてきたのは、先日、朝日新聞の周囲をぐるぐる回っていた右翼が「シュプレキコール」型の街宣をやっていたからです。先頭車両のスピーカーが何事かを叫ぶと、野太い声で後続車両のスピーカーを通して同じ文句を唱和します。あんまり音量が大きすぎて何を言っているのかはわかりませんでしたが、ともかく左翼のデモのやり方にそっくりでした。そして、法政大学の周囲でデモを試みた若者よりもこっちのほうが堂に入っていました。
街宣車は昔の右翼が使っていたような装甲車型ではなく、選挙の候補者が使っているのにそっくりな白いバンでした。いろんなところから様式を学ぶのですね。ソビエトの崩壊いらい、右翼とか左翼の定義も日々変化していますが、街頭活動の様式にもそうしたものが現れるのかとへんな関心を持ってしまいました。
馬鹿にならない
2005年04月11日(月)
中国での反日デモが広がっています。第一次天安門事件が1976年、第二次天安門事件が1989年、中国はおよそ10年おきにおおきくゆらいできました。
昨年、夏ごろから中国内陸部では10万人規模のおおきなデモや暴動が繰り返されています。理由はさまざまです。サッカーの時の観客の反応も含めて、反日デモもそうしたデモや暴動の一部でしょう。
こうしたことで日本人の中国に対する感情が悪化するのはある程度止む終えないのかもしれませんが、相手方の事情はもっと複雑です。日本も1960年代に反米闘争を含む安保反対闘争でおおきなデモがありました。中国は現在そうした時期にさしかかっているにちがいありません。
日本人が幾ら反米デモを繰り返しても、アメリカ人はさしたる関心をもたなかったようです。が、中国人が反日デモを繰り返すことで、日本人はかなり感情を悪化させそうです。なにしろ、けなされるのが苦手という国民性がありますから。早くに経済的な豊かさを達成した国の余裕を見せることができるかどうかが試されているのではないでしょうか?
馬鹿
2005年04月10日(日)
昨日、朝日ニュースターの「パック・イン・ジャーナル」に出演しました。番組の最中に北京での反日デモのニュースが入ってきました。中国の反日デモはアメリカの意図が働いているという田岡説に、いささか面食らっているところに、スタジオまで大きな音が流れ込んで来ました。朝日新聞社を取り囲んだ右翼の街宣車の音でした。こんなにたくさんの街宣車を見たのは初めてです。
番組が終わってから有楽町へ。出光美術館で長谷川等伯の展覧会を見て、桜田門付近の桜を遠見の見物で楽しみ、それから北海道のアンテナショップへ。出光美術館のあたりはこのごろ、すごく賑やかになりました。
北海道のアンテナショップで鹿のソーセージを発見。「でもなあ」この間、サクラ鍋を食べたから・・・。お腹の中に馬鹿が発生なんてね!しばし考え込みましたが、結局、買ってみました。鹿の肉もおいしいのを知っていましたから。朝日新聞社の周辺をぐるぐる回っていた右翼の街宣車は有楽町の交通会館前に移動してきて、これから街頭演説に入ろうというところでした。きっとどこかでお昼でも食べていたんじゃないかな?
デジカメのお稽古
2005年04月09日(土)
  夜桜は皇居のしだれ桜 昼間のはうちの桜です。 画像をクリックすると大きくなりますので、壁紙に使ってください。
さっそくデジカメのお稽古してみました。撮ったのはうちの桜です。正確にはうちの裏を流れている川の岸に咲いた桜です。
7日の夕方、都内で散歩がてら津島佑子さんとお花見をしました。靖国神社では読売新聞文化部の皆さんをばったり出会って、待ち合わせをしてもはぐれるのに、こんなことがあるのだねと「ややや」と驚きました。それから千鳥が淵へ。
千鳥が淵は朝の埼京線の電車の中のような大混雑!で、千鳥が淵をあきらめ、田安門から日本武道館の前をぬけて北の丸公園で小休憩。ここで読売新聞文化部の皆さんとお別れして、皇居の北詰め門の方向へ。ここはしだれ桜が見事でした。
でも、うちの桜もみごとですよ。ぜんぜん負けていません。この花びらが散って川面に流れるのを見るのも毎年の楽しみです。以上、デジカメ使用のおけいこでした。
昼の暗がり
2005年04月08日(金)
三信ビルのアーケードは昼でもしっとりと暗くて、賑やかな日比谷の街から足を踏み入れるとほっとしました。それでいてアーケードは宝塚劇場のある通りから日比谷公園のあると通りへ突き抜けているので、前方の光が美しく感じられるのです。
私は瞳が茶色くて、戸外の光には弱いので、昼の光を一番美しく感じるのは、こうした陰になった場所から戸外を見るときです。まぶしさに悩まされることなく、まぶしい光を見詰めていることができます。
光は写真にとることができるかもしれませんが、建築物の中にたまった柔らかい翳(かげ)までは写真にとることはできないのではないでしょうか?でもそれは確かにあって、言葉にすることはできます。
日比谷三信ビル
2005年04月07日(木)
「東京人」で日比谷の三信ビルが取り壊されることを知りました。日比谷シャンテという映画館の向かい側にあるビルです。ここには大韓旅行社が入っているので、時々、旅行の手配に行きました。
中央通路には様々な装飾があり、階段の手すりには艶の出た木材が使われていて、なかなか堂々としています。19世紀末から20世紀のはじめに建てられて建物は「劇的な空間」に満ちています。ここのエレベーターも装飾い富んだ扉を持っています。
ビルを管理する会社が取り壊しをホームページで発表したそうで、きっと訪れる人も多いのでしょう。入り口には利用者の迷惑になるので写真撮影ご遠慮下さいの張り紙がありました。三脚なんかつかったおおがかりな撮影をする人がいたんでしょう。
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