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中沢けいコラム「豆の葉」
   
 

靖国神社の紅葉

2010年11月12日(金)

 秋が深まってきました。と言いたいのですが、今年は「秋が深みにはまりました」とでも表現したくなるような具合に、いきなり、どぼんと寒くなりました。急激に気温が下がった年は紅葉が見事になります。

 春はいつまでも寒く、夏はあまりにも暑いという極端な天候でしたから、今年の紅葉はどうかな? と危ぶんでいました。この急激な寒さは、木々を色づかせる力があったようです。靖国神社の森はしだいにその色を濃くしています。このまま行けば、見事な紅葉を見ることができそうです。突然、台風がやってくるなどの椿事がないとは限らない今日この頃のお天気ですが。

 三島由紀夫の「仮面の告白」は、三島が書いた最初の長編です。24歳の時の作品です。「仮面の告白」のなかに誰にもめでられることがない桜の花が美しく咲いている場面があります。1945年の春、戦争末期の光景として描かれています。それで、同じ1945年の秋の紅葉を描いた作品は、何かあったかしらとちょっと考えてみました。1945年の夏は異様に暑かったという話は良く聞きます。それからあけて1946年のお正月はずいぶん雪が降ったと、これは、当時小学校4年だった母の昔話で聞かされていました。では秋はどうだったのか?

 新潮に連載されていた島尾敏雄の終戦日記を読むと、1945年の11月末までは、日記をカタカナで記しています。カタカナ日記がひらがな漢字交じりの日記になるのは11月末から12月でした。手元に終戦日記がないので、正確な日付を書くことはできません。8月の終戦から3ヶ月。ようやく「生きた心地」が戻ってきたのだと、カタカナ日記がひらがな日記の変わるのを、そう思って読みました。内田百閧ヘ空襲のさなかに「あとから考えると今がいちばん暇な時期だと思い出されるかもしれない」という意味のことを書いていました。三島が誰にも見られることなく桜が満開に咲いている時期と重なります。きっと百閧フ言うとおり、1945年の秋の紅葉は、誰も気に留めることなく過ぎていってしまったのではないでしょうか? 自分の身の回りの眺める「活きた心地」が戻ってきた頃には、雪が降っていたというわけです。

 1946年に入って雪の日が多かったことを私の母はよく記憶していました。降り積もった雪を教室の中へ持ち込んで雪山を作り、滑って遊んでいたら、先生にこっぴどく叱られたそうです。神奈川県の秦野に学童疎開していて、山形へ移動する直前に終戦になり、横浜市内の家に戻った小学校4年生でした。その母の話にも終戦の年の秋がどんな様子であったかは、聞いたことがありません。前後の気候の様子から類推すると、燃えるような紅葉が日本各地を覆っていたかもしれません。川端康成の随筆でも読んだら、そんな景色が描写されているかもしれません。そういう目で読んだことがないので、発見していないだけなのでしょうか。

 65年前は靖国神社の森もまだ若かったことでしょう。

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