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中沢けいコラム「豆の葉」
   
 

英雄の作り方2

2010年09月24日(金)

 イギリス小説だと「シャーロック・ホームズ」が有名ですが、フランスだと「怪盗ルパン」。この二つの国の人気小説が、探偵と怪盗になっているところは、国民性を感じさせておもしろいと思います。で、島国日本はイギリスぽいのかなと思いつつ、考えてみると、歌舞伎の世界には「ねずみ小僧」とか「石川五右衛門」など大泥棒が大活躍。文楽では、近松門左衛門の心中物があり、こちらは横領犯など。「名探偵明智小五郎」が登場するのは近代になってからですが。江戸川乱歩も怪盗、怪人はたくさん書いています。

 さて、「秋葉原無差別殺傷事件」の犯人を英雄視する視線は、かならずしもマスメディアの拙速で作り出されただけでなく、なんとなく、世の中の人の心がそのような英雄を求めていたという側面があることを「英雄の作り方1」で書きました。「ネットでは加藤智大被告は神」とか「神」の一字を分解して「加藤は ネ 申す」とか「加藤を神格化しろ」などの書込みが見られることをフォーラム神保町の聴講者の方から教えてもらいました。通常、犯罪報道などの勉強会や検討会では、虚構を排除して事実を見詰めようとするという方向で思考を重ねて行きます。が、私は秋葉原無差別殺人事件に、事件の周辺にいる人々が「虚構」を求めていることを感じとりました。フィクションの作者としての直感です。

 この直観力がもっと強ければ、今頃、大勢の人に楽しんでもらえるエンターテイメント(娯楽作品)を大急ぎで書いているところなのですが、残念ながら、そういう資質には恵まれていなかったようです。娯楽作品を書く資質には恵まれませんでしたが、フィクションそのものを否定する気はさらさらありません。人間の精神にとってフィクションは重要な役割を果たしていると信じています。それで今回の秋葉原無差別殺傷事件の周辺にいる人々を見ているとフィクション、つまり虚構に飢えているという側面があるように思えました。「アエラ」の記事はそのあたりの雰囲気を報じていますが、まだ、虚構に飢える人々の気持ちというスジに絞りきれていなかったのかもしれません。だって、これは通常のジャーナリストの態度とは逆に虚構そのものを肯定しなけば、見えてこない現象なのですから。講師の中島さんを混乱させたのも、私がそのあたりの指摘で突然、ベクトルの向きを逆転させたためだと反省しています。時々、思考のベクトルを逆向きにしてみるのが好きなんです。だからノンフィクションの作家にならずに、フィクションを選んだのでしょう。

 で、そのフィクションを求める力と言うか、エネルギーが微弱な感じがしています。微弱陣痛という言葉が浮かびました。お産の時、陣痛は来るのだけれども、微弱なまま、長時間にわたって続き、陣痛のクライマックスが来ない症状を言います。微弱な陣痛が長時間続くと母体は疲労しきってしまいますし、ひどいときには、母子ともに死に至ることもあるそうです。現代では陣痛促進剤などを使いますから、微弱陣痛で死亡なんてことはめったにないでしょう。
 お産はそういう手当てがあるのですけれども、虚構を求める社会的心理が微弱陣痛状態のままになったら、どういう現象が起きるのか? それが私の興味でした。

 ピカレスク・ロマンの虚構が作れない社会というのは裏を返すと、例えば、優れた為政者も生み出せない社会ということになりはしないでしょうか? 英雄の作り方を忘れてしまった社会。いや、英雄の作り方を思い出そうとして、なかなか思い出せない社会。そんなイメージです。もっとも村上春樹の「1Q84」の青豆は殺人者なのだから、ピカレスク・ロマンはとうに成立しているとも言えなくもないのだけれど? あの小説はなんとなく、ピカレスク・ロマンという感じがしないのは、なぜだろう?

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