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帰れない二人


絲山秋子『ばかもの』(新潮社)書評

 

 ネユキはあまり大学に顔を出さない。それは自分が「眠り病」にかかっているからだと彼女は言う。ヒデは、ネユキのことを「深く思ったことはない」が、いつも気にかけていた。彼女の持つ「ゆるやかさ」が好きだった。言い換えれば、存在としてのやさしさが彼女には備わっていて、たとえ瞬間的にではあっても、ヒデに身の置き所を与えたのである。おそらくネユキにとってのヒデも同じだっただろう。ネユキは彼の隣に座ることが心地よかった。大学という社会のなかで彼のそばだけが安心できるのだった。

 ネユキにはヒデを部屋に入れても何もないことが分かっていたし、彼にだけ自分の秘密も告白する。通学可能な位置に実家があるのに一人暮らしをしているのは、実家が建て替えをして「なんだか居心地が悪く」なったからであること、彼女が自活していけるのはデイトレーダーをやっているからであること。イエスの曲がいつもネユキの部屋で流れていることを知っているのも、たぶんヒデだけだ。

 ひきこもり気味ではあるものの、デイトレードなどという危ない橋を渡ってまで自活しているのだから、ネユキは一見、のんべんだらりと毎日を過ごすヒデとはまるで違う人種に思えてしまう。けれど、それは表向きだけだ。カネだろうが人だろうが、ちょっとしたことで姿を消してしまう。本当は頼りにすることなんかできない。結局世の中はそんなもので、自分の「行き場」なんかどこにもないのだ。二人はそうした思いをそれぞれの環境で味わっている似たもの同士なのである。

 だが、最終的に二人は互いの「行き場」にはならなかった。そうなるためには弱すぎた。彼らはどこにも帰れない。やがてネユキは大学を中退し、東京へと去ってしまう。その別れをどれほどヒデが惜しんだか。それは「この瞬間が捨てがたい、懐かしいものに感じられてならなかった」というヒデの述懐に表れている。引越しの手伝いを終えて帰途につくヒデを襲うのは「自分の家に帰る道でさえ、よそよそしく感じられ」るほどの寂しさだった。ヒデが自分の部屋で毎日酒を飲むようになったのは、彼女と離れて間もなくである。

 実を言うと、絲山秋子の『ばかもの』において、ネユキは形としては副次的な登場人物だ。小説は、ヒデの愚かな十数年を追うことがメインであり、額子という強気な年上の女とのかかわりを描くことのほうが前景化している。しかし、読者はこのネユキの存在を忘れて読み進めることができない。ヒデは、アルコール依存症に苦しみ、多くを失いながら、「俺はまだ廃駅にはなっていない、俺の前にきっと電車は止まる」とつぶやいて、何とか立ち上がろうとする。読者はその光景を目の当たりにしながら、彼との強い親和性ゆえに、東京で独りカルト宗教に溺れていくネユキの、影のストーリーを追ってしまう。

 おめでたいハッピーエンドというわけではない。だが、ヒデに訪れる、僥倖とでも言うしかない落としどころで我々は何とか息をつく。反面、そういうものに恵まれなかったらしいネユキの結末に刺し込まれるのも事実だ。ほんの、ちょっとしたこと。もちろん、ヒデは、イエスの4thアルバム『こわれもの』の一曲目、「ラウンドアバウト」の歌詞そのままに、彼女のことを決して忘れないだろう。しかし、それでもなおつかえたものがとれることはない。甘やかさと苦味が揺曳して、読者の胸に迫る一作である。

週刊読書人 2008年11月14日(第2763号)掲載


絲山秋子

『ばかもの』

新潮社、1,365円

ISBN-10:4104669032

ISBN-13:978-4104669035


   
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