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再現という回路


角田光代著『八日目の蝉』(中央公論新社)書評


 『八日目の蝉』は、母になろうとする二人の女の物語である。
 物語は、一九八五年、野々宮希和子が他人の子を誘拐し、薫と名付けて逃亡するところから始まる。希和子は、中絶をきっかけに自分は中身のない「がらんどう」だという強迫観念を持つようになった女だ。だが、その埋め合わせに「この子」を連れ出したのではない。「この子」と共に在ることがあらゆる事柄に先立つ願いであり、祈りであった。小豆島で確保されるまで、様々な場所に身を寄せながらの四年にわたる逃避行において、彼女はそれを確信していく。犯罪者である希和子の願いは挫折した。だが、彼女はその行動を通してどうしようもなく「母」になった。

 事件から二十年後の二〇〇五年。実家に連れ戻されて成人した薫はこの事件と希和子を憎むことで生活のバランスを保っていた。危うい現在を肯定するために、彼女はすべてをあの事件のせいにしようとしていた。みずからの妊娠を知ったとき、彼女はほとんど希和子へのあてつけとして出産を決める。この決意には「母になる」ことへの意識はない。

 だが、「なんで私だったの?」という自己への問いの強さが、薫を過去への遡行に駆り立てる。自分の足で希和子と過した時間を辿り直すこと、自分自身の言葉で記憶を語り直すこと、そうした再現の作業は彼女に劇的な変化をもたらす。そして、かつて希和子とともに愛した瀬戸内の海を目の当たりに、薫は封印した思い出のすべてを取り戻すことになる。瞬間、彼女は自己への問い掛けの一切を超えて、「母になる」ということの本当の意味をも感じ取ることになるのだ。薫は、やっと希和子に追いつき、繋がったのである。この過程を描く角田光代の繊細で我慢強い筆致は特別なものだ。

 八〇年代から現代へ、私たちは身の上話さえ気軽に語れぬ時代を生きている。語ることが恥だった。聞く人間もいなかった。再現の回路が断ち切られたかに見える時代にあって「誘拐犯に育てられた子」という聖痕を背負った薫は、確かに母として「選ばれし者」なのかもしれない。誘拐されてよかったなどと言っているのではない。そんな特殊性を帯びねば、人は「母」に、いや、「人」にさえなれない可能性があるということだ。にもかかわらず、かすかな予感としての希望がこの作品に感じられるのはなぜか。それは、この作家がこれから少しずつ着実にかたちにしてくれるに違いない。なぜなら、角田光代はそういう作家だからだ。

すばる 2007年6月号 掲載



角田光代

『八日目の蝉』

中央公論新社、1680円

ISBN-10:4120038165

ISBN-13:978-4120038167


   
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