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綿矢りさの「地図」


綿矢りさ著『夢を与える』(河出書房新社)を中心として


  綿矢りさがまだ京都で高校生活を送っていたと思われる頃、私は同じ京都でちょうど彼女と同年輩の高校生に勉強を教えていたことがある。駅のプラットホー ムやショッピングモールで、私はしばしば、私の知らぬ人と連れ立っている彼らに出くわした。彼らははにかんで挨拶をする。授業のある日、私は尋ねてみるこ とがあった。「あの時の子は、友達?」何気ない雑談である。ところが、彼らの多くは口籠ってしまう。正直だ。「あの時の子」と仲が悪いわけではない。た だ、「友達」とか「恋人」とか、そういうふうに定義していいものかどうか、彼らの内心にちょっとした葛藤があったのだと思う。

 そういう彼らが、綿矢のデビュー作『インストール』を抱えている、その二年後、今度は『蹴りたい背中』を机に突っ伏しながら読んでいる。そして「すごいですよね」と口走るわけだ。単に「話題性」だけが理由ではなかった。彼らは素直に向き合っていたのだ。

  前出二作品は、浮きこぼれた者の物語である。主人公はクラスメイトのおしゃべりを眺めながら呟く。「平和? 違う、みんな騙しあいっこをしている(『イ ンストール』)」「私は、余り者も嫌だけど、グループはもっと嫌だ。できた瞬間から繕わなければいけない、不毛なものだから(『蹴りたい背中』)」主人公が嫌悪しているのは、要するに「仲間」とか「友達」とか(あるいは「恋人」とか)、そういった規格の中に回収されてしまう、こわばった人間関係である。そ れを「嘘」によって成り立つ関係と言っても構わない。

 かといって、そのような人間関係から距離を置いていることに満足しているわけではない。少しばかり冷めた「ポーズ」「スタンス」をとってみても、結局アンチは同じ地平でしか存在しないのを、主人公たちは知っているからだ。彼らには居場所がない。主人公たちは、名づけえぬ個的な関係性を希求しているのであ る。たとえば、『蹴りたい背中』には印象的な場面がある。はぐれ者になった主人公は、中学時代からの「友達」である絹代に「二人でやっていこう」と呼びか けるのだが、その申し出は「遠慮しとく」という一言によって見事に拒否されている。

 これらに続く短編『You can keep it.』においても、こうした問題系は維持されている。この作品の主人公・城島は、浮きこぼれないための知恵を身につけた男である。彼のいささか変わった 処世術、それは「あげること、そしてすぐ去ること」だった。さりげなく他人にモノを贈与することで、その場の空気が柔らかくなる。そして、それが再び悪意に侵食される前に立ち去るのだ。

 そうした身振りを彼は気に入っている。言ってしまえば、こちらは既成の枠組に与することをあえて厭わぬ、突き抜けた人物だった。しかし、彼は大学入学後しばらくして、虚ろになっていく自分を発見している。この空虚は『インストール』や『蹴りたい背中』の主人公が作品の冒頭から抱いている感覚に近接しているように見える。彼もまた個的な関係性を求め始める。

 正確に言うと、彼らの個的な関係性への希求はまだ自覚的なものではない。そこに至るまでには少し変わった体験の通過や、媒介者となる人間との出逢いが必要である。だが、彼らはその直前の環境に身をおいた存在であり、ひりひりする肌の感覚にはすでに敏感になっていた。触覚が、身体がもう反応を始めている。

 私が、ストーリー展開の鳥羽口に立ったままこだわり続けるのは、もちろんはじめに述べたように綿矢が同世代の読者と直に繋がっていることを強調するためでもある。現代性という言葉は軽々しいのでできれば避けたいのだが、真っ当な同世代の読み手にその声が届いているという意味では、紛れもなくこの作家は 「現代」にいる。

 しかし、それ以上に私が注目したいのは、綿矢りさという一人の作家が、近代小説がそうと呼ばれる以前の記憶に接続していることである。かつて小説は、個的な関係性の宝庫であった。しかし、その広がりに対してたとえば「友情」や「恋愛」といった鋳型を当てはめることで、私たちはずいぶん多くのものを見失っ てきた気がする。歴史が成立した瞬間に、そこから見捨てられてしまうものが数多に存在した。そのようなシーンの中で、この作家はみずからの実存を契機にし て、記憶に手を伸ばしたのである。これを私たちは貴重な出来事としてとらえなければならない。本当の意味での「新しさ」の扉は、このようなやり方で実存と 記憶が重なり合った時、初めて開かれるはずだからだ。

 そしてもうひとつ、私が鳥羽口に立って動かない訳がある。最新作『夢を与える』が目の前にある。これまでの作品は、個的な関係性への飢えを不意に抱きうる 位置から始まった。だが、『夢を与える』は、その飢えに辿りつくまでの少女の、長い十八年を追っている。『夢を与える』という長編はなぜ書かれねばならな かったのか。それは、これ以前の三作品の背後に何が潜んでいるのか、ということを明示する必要が出来したからである。

 なぜ、そんなにまで損なわれねば、個的な関係性の存在に気づくことさえ許されないのか。一見自由に見えて、その実、何をやっても制度に絡め取られてしま う現代のもどかしさと哀しみが、この作品には色濃く滲み出ている。そして、それ以前の綿矢作品もまた同じ問題系の上にある、ということを浮き彫りにするた めに、この長編は書かれた。言い換えれば、綿矢はみずからの作品に向かう「地図」を描いて、後方からこれを支えたのである。

 『夢を与える』の主人公・夕子は半ば、死産された子供として誕生する。母親の幹子がこの子を身ごもったのは、冬馬を「結婚」という規格の中に絡めとるた めであった。夕子はまず、その道具であった。夕子の背負った十字架は予想以上に重い。彼女が幼くして芸能界入りし、国民的アイドルに仕立て上げられていく のは、けだし必然なのだ。彼女は偽りの、こわばった生をその後、ずっと歩かねばならない。テレビの向こう側にいる視聴者と「信頼の手」を結んだといって も、それはテレビの仕掛けた虚飾に塗れている。

 ところが、夕子はそれしか知らないのだ。私は「健やか」であることの不幸というものを感じずにはいられない。もちろん、みずからの居場所について物思う瞬間がないわけではない。

「じゃあ夢っていっても本当の夢じゃなくない? 嘘ばっかりじゃない?」

 こうした疑念は始終頭をもたげるのだが、夕子には対処のしようがない。そして、彼女は次第に忙しさの中で自分を見失っていく。

 テレビの作為、視聴者とのあいだに結ばれた偽りの信頼に疲れていた彼女は、正晃という少年に出会って恋に落ちる。夕子は、自分の人生を初めて生きたつもりだった。そこに落とし穴があった。彼はテレビに媚びることさえできない人間だったのだ。真相は藪の中だが、おそらくは彼とその仲間の仕業であろう、ネット上に正晃と夕子の情事が映像として流出する。つまり、夕子は正晃との関係においても芸能人として扱われ、「嘘」そのものであることを強いられる。夕子は「これ以上のことはない」という声ならぬ声とともに崩れ落ち、彼女の失墜が始まる。

 長々と説明をしたのは、この少女の痛切な思いを少しでも伝える必要があったからである。夕子は最終章(第十四章)の直前で呟く。「分かったことがありすぎて脳みそが追いつかないくらいだ。頭より先に私の皮膚が理解するだろう。私の皮膚は他の女の子たちよりも早く老けるだろう。そしてすべて分かるということは、ほとんど一度死んだのと同じことだ」いや、より正確に言えば、彼女は二度死んだのである。死児として生まれ、十八年かけてそれが自覚されたのだ。この自覚の先に夕子の声が作品全体を振動させるように響いてくる。

「信頼の手を離してしまったからです。信頼だけは、一度離せば、もう戻ってきません。でも……そうですね、別の手となら繋げるかもしれませんね」
 夕子がベッドから手を伸ばしてきて、記者の腕を妖しい手つきでなで、やさしくつかんだ。
「人間の水面下から生えている、生まれたての赤ん坊の皮膚のようにやわらかくて赤黒い、欲望にのみ動かされる手となら」

 これは後悔の弁ではない。「信頼」は作為の産物であった。夕子はこれを取りもどす気は毛頭ない。だからと言って、性欲によって担保されたにすぎぬ正晃との関係も「別の手」ではありえない。それもまた偽りである点では同じだった。夕子は、自分を取り巻く「嘘」と、「嘘」そのものであった自分に対する怒りを、これほどの目に遭わなければ「世界」を理解し得ないことへの憤りを、一気にぶつけている。そして、もし純粋な(生まれたての)欲望にしたがう、いまだ名づけえぬ個的な関係性が存在するというなら、その手を取ってみたいと語っているのである。彼女はそのとき、子供の頃大好きだった「近所の海」と、その海の匂いがする少年・多摩を思い浮かべていたかもしれない。

 夕子は、名づけえぬ個的な関係性への飢えを認識するまでに、満身創痍となった。彼女は自己の存在をも含めて、ほとんどすべてを失っている。翻って、『インストール』や『蹴りたい背中』、『You can keep it.』の主人公たちはどうだったか。巧みなストーリーテリングで包み隠されていても、少し気をつけて読めば彼らもまた、夕子ほどではないにしろ、それなりに大きな傷を負い、多くのものを失っていることに気付かされる。『夢を与える』は地図であり、コンパスである。この作品に指し示されて、切実な思いがあちこちから浮かび上がってくるだろう。

 浮きこぼれの憂鬱、親との根源的なディスコミュニケーション、すべての思い出の廃棄、親しい者との事実上の決別、個として見られない不安、不器用さへの苛立ち、確立したはずの方法の破綻……。そうした痛苦や困惑を通り抜けて彼らはそれぞれに、こんなことを思うのだ。

「ただ、私は人間に会いたいと感じている。昔からの私を知っていて、そしてすぐに行き過ぎてしまわない、生身の人間達に沢山会って、その人達を大切にしたいと思った。忘れていた真面目な本能が体の奥でくすぶっていた」(『インストール』)

「川の浅瀬に重い石を落とすと、川底の砂が立ち上って水を濁すように、”あの気持ち”が底から立ち上ってきて心を濁す。いためつけたい。蹴りたい。愛しさよりも、もっと強い気持ちで」(『蹴りたい背中』)

「遠いのに、まるですぐ側にいるみたいに近くで綾香と目が合う。まだ怒っている強い瞳の光、まぶしすぎて目を細めるがそらさずに、何とか見つめ返す。熱い国へ一緒に行きたい」(『You can keep it.』)

 だが、空っぽの部屋に机とか扇風機とかバガボンドとかを再導入しようとする野田朝子も、激しい気持ちで男の背中を蹴りたいと欲望する長谷川初美も、未知の熱さの中でまっさらの出会いを果たしたいと願う城島も、そしてもちろん、人間の水面下に何かを見出そうとする傷心のあの子も、その先にあるものが何なのかというところまでは見通せていない。ただ、それへの希求だけ、問いだけがあって、答えはないのである。

 この答えのない有様が持続する限り、綿矢りさは書き続けることができる、と私は考えている。そして読者たちは厚かましいことを承知で、いつもこう思いながら、この作家の作品を読むことになるだろう。ひょっとすると、この閉塞する世界の果てまで、あるいはその手前まで、私たちを導いてくれはしまいか。夢ではなく認識を。これは今の綿矢りさにとって決して重くはない期待である。

図書新聞 2007年3月3日(第2812号)・3月10日(第2813号)掲載


綿矢りさ

『夢を与える』

河出書房新社、1,365円

ISBN-10:4309018041

ISBN-13:978-4309018041


   
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