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中沢けいコラム「豆の葉」
   
 

神田川のほとり、枇杷の実とたばこ

2010年06月16日(水)

 御茶ノ水駅の近く、神田川を見下ろす喫煙所で煙草を吸っていたときのことです。額や頬に生傷のある、どこか凶悪な感じと憎めない人なつっこさが同居した顔の男の人が近づいてきました。顔の生傷が目立ったので、つい、うっかりまじまじと見詰めてしまいました。すると
男の人も、にっと笑ったのです。
「おや?」と思ったところ
「煙草を1本下さい」と言うのです。
 私にではなく、私の隣で煙草を吸っていたお婆さんに。ほっそりとやせた身体に黒いカーディガンが似合うお婆さんでした。ちょっと見た感じを率直に言うと、飲み屋さんかバーのママという印象。で、お婆さんはポケットからマールボロの箱を取り出して一本、煙草を差出しました。お婆さんが低い声で言いました。
「あんた、医者からたばこを止められているんでしょう」
 神田川が流れるそのあたりは、大学病院が並んでいます。マールボロを一本もらった男は
「ライターは持ってます」
 と自分のポケットから出したライターで煙草に火をつけました。
「お酒もたばこも駄目だって言われているんだけどね」
 一服吸って、そう言いながらにこやかに笑いました。
「私が煙草を上げたからって、あとで、病気が悪くなったなんて言わないでよ」
 お婆さんは念を押す調子でそう言ってから
「だけど、止められないようね」
 と煙を吐き出しました。
「ああ、止めたのは刑務所に入っていたときぐらいだねえ。出てきたら、一日3箱はすっちゃうもんなあ」
 おやおや、最初に顔を見たとき、不思議な雰囲気の男の人だなあと感じたのはそういうわけだったかと、つい聞き耳を立ててしまいました。
「お酒はね、あるんですよ。へんてこな薬が。その薬を飲んでお酒を飲むとね、顔は真っ赤になるし、心臓はばくばくするしで、救急車呼ばなくちゃならないの。医者がそういう薬をくれるの」
 へえ、そんな薬があるんだと内心、びっくり。お婆さんは煙草をふかしながら「ふうん」と気のない返事で男の人の話を聞いてました。このあたりで、私の吸っていた煙草が短くなったので、吸殻を設置された灰皿に捨てて、その場を離れました。自分の好奇心をややもてあました感じでした。御茶ノ水の駅のほうへ歩いて行くと御茶ノ水橋のたもとに、枇杷の実がいっぱい生っていました。誰も手入れをすることがない枇杷の実ですから、ひとつひとつは小さいのですが、日当たりが良いので、きれいなオレンジ色(枇杷色)に染まっていました。その枇杷の実を携帯で写真に撮ろうかどうか、しばらく立ち止まって考えていました。写真を撮るよりも、覚えているだけのほうが楽しい時があるので、迷います。
 すると後ろから声がしました。
「こんなに枇杷の実が生っているの」
 あのマールボロを差し出したお婆さんでした。背筋がぴんと伸びたお婆さんとふたりでしばらく枇杷の実を眺めていました。結局、写真は撮らずに眺めるだけにしました。

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