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中沢けいコラム「豆の葉」
   
 

千代本の話2

2019年01月06日(日)

これもFBから転載です。(2018年12月24日)

 昨日は金沢八景へ。千代本の伯父から市場の話を聞いた。野島で魚を売っていたと。野島は一本釣の漁師。小柴は網を打つ漁師。久里浜にも漁師さんが市場を出していた。終戦後は食糧難の時代だけど、東京湾にたくさんお魚がいた時代でもありました。
 伯父は旧制中学の生徒の頃から横浜の中央市場へ仕入れに。父親に連れられていったというのは私の聞き違いでした。お婿さんだった御先代は市場の仕入れには向かなかったみたい。
 築地に注文を出したのは、大きな結婚式があったりしたとき。大きさを揃えた伊勢海老や鯛の折詰を注文したと。昭和中期(S20〜S40)には結婚式と言えば杉板の折詰で伊勢海老や鯛が配られた。思い出しました。鯛の塩焼きをもらってきたのことを。
 築地には伊勢海老専門の海老屋さんがいた。でその伊勢海老専門の海老屋さんは鎌倉に澄んでいて、帽子を被って築地に出勤していたんですって。
 伯父が築地に直接、仕入れに行くようになったのは東京の大学に通い始めた18歳の時。昭和5年生まれだから、昭和23年頃かな。小僧さんを連れ買い出しに行き、荷物は小僧さんに持たせて帰したと。小田原や熱海から仕入れに来ている人もいたという話。海産物の大きさと数がそろうのが築地の市場だった。
 この前、話を聞きに行った時に出た活けもの屋さんの話もおもしろかった。活けものの競りは遅い時間にたつから、その活けものの競りで売れ残ったお魚のごっそり買い込み、締めて氷の上に並べて売っているお店もあったと。後からなんで活けものの話になったのだろうと考えてみたら、豊洲市場が「ドライフロア」になるという話をしていた時に不意に思い出したみたい。「活けもの」は生きたお魚だから当然、海水の中にいる。その連想だったかもね。
 1964年(S39)の東京オリンピックまでは金沢八景の前の平潟湾でもアサリもとれたし、ハゼもつれた。海苔の養殖も盛んだった。海の埋め立てが始ったのもその頃。山の切り崩し始めたのもその頃。だんだん、話は金沢八景のもとの地形の話になり、横浜市大の体育館のたっているあたりに山が張り出していたと。私も幼稚園の通っていた頃の景色を思い出しながら聞いていた。なんの拍子か「西郷隆盛さんがうちに泊まっていた時の札が残っているけど」言い出された。それから幕末から明治にかけての話に。少し私の頭の中を整理しないと、150年くらいの時間がごちゃごちゃになっちゃったなあ。

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