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中沢けいコラム「豆の葉」
   
 

安宇植さんを偲ぶ会

2011年03月04日(金)

 先週の土曜日に安宇植さんを偲ぶ会がありました。スピーチをしろとのことでしたので、ちょっとお話をしました。で、「安宇植さん」と言うべきところをついうっかり「安宇植先生」と呼んでしまう場面が何度かありました。いつか、伊藤さんとのそのことを話し合ったことがあるのですが「文学者は先生という呼称をつかうべきではない」って教育されたのです。私や伊藤さんは。

 なぜ「先生」を使うべきではないのかは諸説あります。おもしろい説もあるのですが、それはまたなにか機会があった時に。今回は話を早くするために、いちばんの公式見解を御紹介しておきます。
 それは文学ではみんなが対等な立場に立つ必要があるからってことと、文学は人から教えてもらうものではなくって、自分から生み出すものだからだっていう理由だそうです。話が横へ飛びますが鎌倉文学館でやっていた「川端康成と三島由紀夫」展を見に行ったら、「川端は三島に川端さんと呼ぶことを許した〜うんぬん」というような説明があって、思わず「なに言っているんだ!」と怒りすら感じてしまいました。うっかり「先生」なんて呼んだら、どのくらい怒られるか解ったものじゃないってのが、文学者の世界だったのです。三島が川端に出合ったのは昭和20年頃ですが、その頃はもうそういう雰囲気はあったのではないかと推測するのですが、どうでしょうか?

 尾崎紅葉の硯友社のような師匠のところに弟子入りするという徒弟の時代は、先輩作家を「先生」と呼ぶのが当たり前で、それが同人誌の時代になると、「先生」と呼ばなくなるという歴史がありそうです。ことに「白樺派」の流れと志賀直哉の流れを汲む人は、絶対に「先生」と呼ばせないという傾向がありました。誰か物好きな人がいたら歴史を調べてもらいたいものです。まあ、そんななので三島が川端に出合った頃には、「先生と呼ぶな」という習慣はもう出来上がっていたのではないかと考えたわけです。

 吉行淳之介に初めてあったときも、私の本が出たお祝いに銀座のレンガ屋によんでくれたのですが編集者から「ぜったいに吉行先生と呼んではダメだよ。吉行さんと言いなさい」と耳打ちされて、それでも「吉行さん」とは発音できないので、いかに主語を抜いてしゃべるかで、えらい苦労をしました。きっと伊藤さんも、それに近い経験を持っているので、高校生が私や伊藤さんを「先生」と呼ぶことを止めようかどうか迷ったのだと思います。それから幾星霜。私はこのごろは「先生」とわりに楽に使うようになっています。学校では「先生」でいいやって思っています。文学者が「先生」を使わなくなったのは、徒弟から同人への変化などの歴史がありそうなのですが、それをまったく無視して、偉そうに「先生と呼ぶな」と怒ったエライ・センセを何人も見てきたからというのがひとつの理由です。あと、学校では顔を名前が一致しない「先生」がたくさんいて、この時は「先生」は便利な呼び方です。謙虚な、あるいは、真摯な理由から始った習慣も、その精神が失われて形骸化すると形無しになってしまいます。

 この習慣はわりあいに広がっていて、私が勤務する法政大学文学部日文科でも、教員と学生は相互に「さん」と呼び合うという伝統があります。小田切秀雄教室ではそれが徹底されていた様子を聞いています。まあ、でもそういう伝統も意義が見失われると、気安く「さん」付けになる場合もあれば、「ちゃん」になることもあり、形骸化というのは、どこにでも起きる現象のようです。そうは感じていても今でも私は学生に「先生」と呼ばれると小説家として軽んじられているという不快感をちらっと感じたりします。学生にあんまり気難しいことを言ってエライ・エンセになるよりも、自分の不快感を胃薬みたいに飲み込んでしまうほうを選びますが。

 安宇植さんは実に闊達な精神の持ち主で、先生と呼ばれることはお嫌いでした。東京の両国の生まれ。お祖父さんの代から両国にお住まいで「江戸っ子の朝鮮人」を自ら任じていました。そういう安宇植さんをうっかり「先生」なんて呼んだら、たいへんご機嫌を損じてしまうのではないかと想像されるのですが、でも口から「安宇植先生」という言葉が飛び出してしまいました。と言うのも、90年代の初め頃から、韓国に政治的イシューに縛られない叙情性を持った作家が次々と現れていることを教えてくださったのは安宇植さんだったからです。知識や情報として教えてくださったという側面もあるのですが、それ以上に、日頃の態度というか、言葉にしては言い難いところで教えていただいたという想いがあります。青森で廃止された連絡船の発着埠頭を黙って歩いたときのことは「偲ぶ会」でもちらりとお話しました。海も青く、空も青く、どちらにも溶け込めずにとぼとぼと歩きました。安宇植さんは海の向こう、空の向こうを眺めながら歩いていたのでした。韓国の女性作家呉貞姫さんと、和やかにお話していた姿も忘れられません。何と言うことのないよもやま話です。沈黙と雑談。そこから教えてもらったことは限りがありません。だから、自然に「先生」と呼びたくなるのです。

 ほんとうは故人の御冥福をお祈りしなければならないのが生きる者の役割ですが、私も一度は救急車で運ばれていますから、幽明の境界はもう淡くなったものとして、時々、安宇植先生のまたお散歩のお供をしたいものです。もうきっと「先生」とお呼びしても「うん、先に生きてたからね」と笑ってくださるような気がしてます。「先生」と言う呼び方に、こんなこだわりを持つのも、伊藤さんや私が最後のほうなのかもしれません。そう思いませんか?安先生。

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