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中沢けいコラム「豆の葉」
   
 

広島の平和記念公園

2018年08月25日(土)

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 アダムさんと尾道から広島へ。林芙美子が門司で生まれた1903年(明治36年)の前年1902年には北九州に八幡製作所ができている。明治政府のスローガンと言えば富国強兵が有名だが、「富国」を作ったのが明治政府のもうひとつのスローガン「殖産興業」。官営八幡製鉄の始業は「殖産興業」政策の達成のひとつ。中国のアヘン戦争に危機感を持った江戸幕府が伊豆の韮山に鉄砲制作のために製鉄の目的で韮山反射炉を作ったのが1857年(安政4年)。八幡製鉄所創業はそれから数えて45年目の創業だった。門司に生まれ、尾道で女学校を卒業した芙美子の歩いた道は明治政府の殖産興業の道でもあった。やがて殖産興業は軍艦造船へとつながる。
 一般的には第一次世界大戦で自動玉送りの銃や戦車の登場、それから飛行船による空襲などで戦争の様相が変わったと言われるが、日本が実際に近代的戦争を体験したのは1937年(昭和12年)に始まる日中戦争から太平洋戦争だった。1,937年から太平洋戦争終結の1945年までの8年間に戦争に使われる武器は第一次世界大戦とは比べものにならないくらいに多種多様なものが研究された。毒ガス、生物兵器の研究。瀬戸内海の大久野島では毒ガス研究と製造がおこなわれている。兵器研究の結果が原子爆弾を生み出す。
 アダムさんは林芙美子の従軍紀を博士論文のテーマにしているので、1937年から1945年の間に戦争に使われて兵器が格段に変化した(進歩と言いたいところだけど、なんか進歩と言いたくない)ことを意識してもらいたかったので、長崎、広島に案内したかった。春に北九州に出かけた時は、なんと私が羽田で共同運航便の搭乗ゲートを間違え、飛行機に乗り遅れたおかげで、長崎はカットした。ご、ご、ご、ごめんなさい。これ広島も行きそびれちゃたいへんと新尾道から広島へ新幹線で移動。山陽本線は7月の西日本豪雨のために広島県内と山口県内であちこちが寸断している。東広島から広島へは山陽本線寸断のため新幹線を使う人も多かった。新幹線の窓から西日本豪雨の爪跡が見えた。
 広島駅で地図をもらうために旅行案内書へ。外国語の案内地図もそろっている広島駅の案内書だった。簡体字の中国版、繁体字の中国版、ハングルの案内地図、と並んだ多言語の案内地図を見ていいたら、英語、フランス語に並んでドイツ語があった。「イタリア語はないなあ」とちょっと笑った。
 路面電車で原爆ドーム前へ。原爆ドームを半周してから平和記念公園へ。原爆の子の像からとことこと歩いて慰霊碑へ。外国人観光客の姿も多い。慰霊碑の前にいた人たちの話している言葉に耳を傾けたが、ちょっと何語か分からないなと首を傾げたらアダムさんが「イタリア語ですね」と教えてくれた。
 資料館は耐震工事のため閉鎖中。資料館わきの建物におもな展示物が展示されていた。ここにはちゃんとイタリア語のパンフレットも備え付けられていた。

8月17日 シネマ尾道

2018年08月24日(金)

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8月17日、アダムさんと広島まで足を延ばすつもりだったけど、例によって私が遅れ、広島はムリってことで尾道に直行。シネマ尾道でウーマンラッシュアワーの村本さんの独演会があった。なんだかラッキー。当日券はありますか?と聞いたら8時に来てみてくださいとのお返事。8時にシネマ尾道に行くと長蛇の列。これはダメかなとおそるおそる尋ねてみたら、行列は前売り券を買った人の席とりの行列でした。「チケットはありませんけど」と言われ、またまた落胆。「手に判子を押します」と。バンザ〜〜〜。無事、会場に入れました。2時間たっぷりの独演会。最新のネタから御当地ネタに、定番まで、たっぷり楽しめました。

 シネマ尾道のウーマンラッシュアワー村本独演会。予告では60分だったけど。あと5分というところで、なぜか燃えて、またたくまに22時半近くになってました。遠いところでは佐世保から来たお客さんも新潟から来たというお客さんもいたので、アダムさんに「スロバキアから来たって言えばよかったのに」とあとで言ってみたけど(笑

潮を被った水田に最初に芽を出した稗

2018年08月23日(木)

 仙台へ戻る電車の中で、佐伯さんと話をした。「津波を被った土地に最初に生えてくる植物はなんだろう?って前に聞いたでしょう」と佐伯さん。覚えてる。閖上を案内してもらった時だ。「分かったんだけど、ええと今思い出せない」もうみんなそういう歳になっているんです。遠い山に日が落ちました。

 佐伯一麦さんからメールをいただきました。津波で潮を被った水田に最初に生えてきたのは稗だったとか。稗が目立ち始めたと農民文学賞の受賞者の遠藤源一郎さんから聞いたと。仙台沿岸部で農業を営んでいる遠藤さんにもまたお目にかかりたいだけど。それで3年ほどするとコナギの紫色の花やミズオアイの花を見ることもできたと。稗が最初に芽を出したのは意外な気がしたのだけど、稗は寒冷に強い植物で、東北地方では縄文時代から常食されたそうだ


 小高の柳美里さんのところへ行った時は帰りを急いでいたから行きそびれたけど、小高には埴谷島尾記念文学資料館もあったけ。こんど行こうっと。
 小川国夫さんが08年4月に亡くなる直前に「南相馬に行きたい」とおしゃっていたのは小高の資料館を含む地域だったみたいだ。柳美里さんと佐伯一麦さん、それに私の3人で顏をそろえるのは川村二郎さんのお葬式以来だって話になったけど、あの時、小川国夫さんは新横浜まで来ていたのに「お葬式はイヤだなあ」って、なかなか妙連寺まで現れなかった。それからすぐにものを召し上がらなくなり、4月には亡くなられたのだけど、その前に南相馬に行きたいとおしゃっていた。
 

フルハウスの朗読会

2018年08月23日(木)

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 朗読会で朗読をする佐伯一麦さんは1本前の電車で到着していた。黒いTシャツの丸襟にちょこんとアマガエルのピンブローチをつけていた。あれ?って思ったら「これ中沢さんにもらったんだよ」って。ああ、それ奥様に差し上げました。思い出した。まさかTシャツの襟に止めてくるなんて(笑)
 柳美里さんが開いた本屋さん「フルハウス」はもとは水道屋さんのおうちだったそうで、立派なお蔵が母屋の後ろにあった。このあたりは新しい家でもお蔵を作っている家もけっこうあるみたい。大きなお家が多いですねと言ったら、地元の人が「これ普通サイズです」と。
 お蔵の後ろが元は作業場だったようだけど、朗読会などはその作業場を会場にしている。柳美里さんのおうちのお隣は石の家。お蔵と同じ石を使っていた。房総の鋸山の房州石よりずっと色が白い。栃木の大谷石よりキメが細かい。どこか近くに石の産地があるのかもしれない。
 佐伯一麦さんが自作朗読で読んだのは「空にみずうみ」。7月に中公文庫に入ったばかりの本。震災後に読売新聞に連載された小説。雨音と水琴窟の音に耳を澄ますくだりから、最後にまた水琴窟が出てくるところを佐伯さんが読んだ。周囲の自然な音が聞こえてくることと、日常生活の豊かさに目が向く。その関係の話を佐伯さんがしてから、柳美里さんが作品の中に出てくる「スモール・トーク」の話をした。スモール・トークは「雑談」という意味。作中で染色教室に通ってくる耳の不自由な受講生が染色の要旨だけではなく、みんなの無駄話も知りたいというくだりがある。
 スモール・トークの魅力について。それから、柳美里さんの本屋さんのためにいろんな人からおすすめの本を推薦してもらったけど、絶版になっている本も多く、改めて本の推薦を頼むこともあるという話になった。
 「暑い」と私も扇子をぱたぱたやっていたけど、エアコンなしでも自然な風が通すので、「暑い」のをおもしろがることができる程度の暑さ。休憩時間に裏へ出てみたら、向かいのおうちの庭で青い柿の実がたくさんなっていた。これが色づく頃はこのあたりは冬景色の気配かしら。

旧弊打破と冷笑主義

2018年08月22日(水)

 1969年夏。青森の三沢高校と愛媛の松山商業が戦った甲子園決勝の試合を父とテレビで見た。野球のことを教えてもらった小学校4年生の夏。父は翌年の9月8日に亡くなった。突然死だった。昨日は三沢の太田幸司さん、松山商業の井上明さんがお元気で始球式に登場したのはうれしかった。
 1969年頃は甲子園の強豪校に公立高校がけっこうそろっていた。70年代の千葉県だと銚子商業や習志野高校が常連だった。今年の9月8日は土曜日にあたるから、父の50回忌の法事をやることになっている。甲子園の大阪桐蔭高校と金足農業の試合の間に「法事はどうしたらいいの」という問い合わせの電話とかメールとかが来た。50回忌だから、だいたい50年たっているのですが、50年たっても深紅の大優勝旗は白河の関を越えられない結果に。
 50年前よりも私立の強豪校と公立の学校の格差は広がっている。たくさん大会の経験者がいるのだから、より多くの学校が公平に参加できて、選手が過剰に負担を背負わなくってもいいルールを工夫すればいいのに。まじめにそう思う。
 それを言うのに何も甲子園の野球をバカにした調子で言わなくともいいんじゃないかな。どうも旧弊打破と話をするときに、頑固な旧弊家を小ばかにするスタイルが出来上がっていて、法事なんかもひどくばかばかしいことみたいに言われることもある。甲子園もほかのスポーツの大会もあるのに、甲子園だけ大騒ぎになるから小ばかにするとか冷笑的に見るスタイルが定着している。
 それが今日(こんにち)では旧弊打破の邪魔になっている感じがする。旧弊打破のまえに冷笑主義打破の障害が横たわっているんじゃないかしら。

小高についた。柳美里さんのフルハウスへ

2018年08月17日(金)

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 常磐線「原ノ町」駅から「浪江」行きに乗る。「磐城太田」「小高」で柳美里さんが開いた書店「フルハウス」のある小高につく。仙台から「浪江」行きがあれば2時間ほど。「中ノ原」駅で1時間ほど後続の電車を待ったので3時間ほどの旅だった。新幹線の3時間よりもずっと楽ちん。
 常磐線は「小高」「桃内」「浪江」まで。「浪江」から「富岡」までの「双葉」「大野」「夜の森」は現在も普通。2020年3月までに開通予定。原発事故のための寸断だ。
 小高駅を出たところに「パトロールをしています。」という警察の看板があった。道路を挟んで向かい側には放射線量の測定器。小さな旅館もあった。柳美里さんが開いた本屋さん「フルハウス」は駅から歩いてすぐの場所。近くで営業しているコンビニがあって変わった名前だったけど思い出せない。

アダムさんと小高へ行く 原ノ町まで

2018年08月16日(木)

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 金曜日の反原発抗議集会で、常磐線に乗ってご報告しますと言ったのに、ずっと常磐線に乗りに行けなかった。上野から北上するつもりだったけど、今回はアダムさんを案内して仙台から常磐線に乗車。
 柳美里さんが開いた本屋さん「フルハウス」がある小高に行くには仙台から常磐線に乗るのが便利。小高はもともと福島よりも仙台のほうが親しい町だとか。
 3・11で津波と原発事故の被害を受けている。浪江ー富岡の間は現在でも不通。東北の夏は海山の景色が色鮮やかで軽やかだ。常磐線の列車が仙台市内を出ると青い空、濃い緑の高い山、水田にすくすく伸びる稲の緑が広がる。光は透明。電車の車両に「津波警報が出た時の注意」のステッカーが貼ってあった。車両から降りるための梯子の使い方の説明書きもあった。 
 新地駅で駅舎が新しくなっているのに気付いた。その前の山下、坂元も新しい駅になっていたかもしれないけど、ぼんやり遠くの山を眺めて気付かなかった。このあたりは津波の大きな被害を受け、線路が内陸へ引きなおされたところだとあとで教えてもらった。
 電車は「原ノ町」で終点。「浪江」行きが来るまで1時間ほど間があったので、駅前でお蕎麦を食べた。「原ノ町」駅には相馬野馬追いの馬具が飾られていた。相馬野馬追いで着る甲冑の試着室というのも「原の町」駅構内にあり、着ることに関心が深いアダムさんは着てみたそうだった。「でも、時間がないでしょうねえ」と残念そう。

アダムさんと仙台へ行く

2018年08月15日(水)

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ドイツのトーリア大学から資料収集のために日本に来ているアダムさんが、ウィーンで柳美里さんをアテンドしたことがあると言うので、柳さんが小高に開いた書店フルハウスへ案内する約束をしたのは4月のこと。
 それからあれやこれやで、とうとう行けるのは8月11日ってことになってしまった。で、柳美里さんへの連絡や準備はすっかりアダムさんまかせ。「その日は朗読会があるそうです」とアダムさん。そりゃあ、ちょうどいいやとは思ったものの詳しい話は聞かず。10日に仙台1泊で翌日、小高へ行くという計画。
 8月10日の東京駅がどれほどの混雑なのか想像もしてなかった。「お盆に入っているから」とアダムさんに説明「おぼん?」と言うアダムさんに「ご先祖様が帰ってくるから、みんな自分の生まれた家に帰る習慣があるの」と話ながら、以前、イタリア人の詩人にお盆の説明をしたら「ゾンビの日なのか」と問い返されびっくりしたのを思い出した。アダムさんは日本文学専攻でもうすぐ博士論文を書き上げるはずだから「お盆」は素直に納得してくれた。
 で、東北新幹線「やまびこ」自由席に飛び乗る。座席を確保できたのは幸い。栃木県は入ったあたりで、前方に大きな積乱雲が現れる。で、ものすごい雨の中へ新幹線が突っ込んでいっあとで分かったのだけど、那須から群馬にかけて記録的な豪雨だった。
 仙台に到着してから、駅で牛タンを食べようとしたんだけど、ここも行列。しかたなくホテルへ行ったら、隣が伊達の牛タンの本店だった。ラッキー!その「伊達の牛タン」で食べた海鞘がめちゃくちゃに美味しかった。磯の香と潮の香がほどよくミックスされた海鞘。翌朝、仙台の朝市へアダムさんをむりやり引っ張り出して、海鞘の塩辛を買いました。ほんとは海鞘が欲しかったんだけど、持って歩けないから仕方ない。
 朝市のおばさんがアダムさんをさして「お孫さんかしら?」って聞かれたの。う〜〜ん、孫はいるけど、こんなに大きくないんだなあ〜と。ちなみにアダムさん紅毛碧眼です。アダムさんは「仙台駅前は北九州に似てますね」と言う。駅前の歩行者用の大きな歩道橋を設置するのが、再開発の定番になっているから、そう見えるのだろう。朝市は再開発のビルの谷間に沈んでいた。キノコの水煮を売るキノコ屋さんの姿も見えなかった。大型商業施設に囲まれ市場が規模縮小したり、観光客相手の商売に変わったりしているのも、日本の至るところで見られる光景。せっかく仙台に来たのに、佐伯一麦さんに連絡するのを忘れたのが残念だった。出がけにあっちこっちにメールを書いたり、問い合わせをしたりして、佐伯さんに連絡できなかった。
 さあ、いよいよ小高を目指し常磐線に乗車しようという時、アダムさんが「今日、朗読会をなさるのはこの方です。なんと読みますか?」とスマホの画面を見せたらた。なんとそこには「佐伯一麦」と。思わず自分の迂闊に大笑いをしちゃいました。

サン=テグジュペリ「星の王子さま」のこと

2018年08月10日(金)

 サン=テグジュペリ「星の王子さま」が改変された商品が売り出される件について調べていたら、以下のようなことが分かりました。FBからのコピペです。

 岩波の「星の王子さま」のオリジナルバージョンが届いた。サン=テグジュペリ作内藤濯訳 岩波書店。2000年3月10日発行 届いたのは2017年9月25日発行の第31刷。この本は多くの人に愛され、今も読み継がれている本です。
 サン・テグジュペリの妹の孫にあたるというフレデリック・ダグーさんが「まえがき」で「星の王子さま」はサン=テグジュペリが1941年から1943年の米国亡命中にニューヨークの出版社から出されたものだという事情を書いている。フランスは1940年6月からナチスに占領されていた。
 亡命先のニューヨークからフランス自由空軍に志願。1944年7月偵察飛行中に地中海上空で行方不明になる。1998年偶然サン=テグジュペリの名と妻の名、連絡先としてニューヨークの出版社レイナル&ヒッチコック社(「星の王子さま」の版元)が記されたブレスレッドが発見され、続いて機体も確認された。
 「星の王子さま」の背景にはこういう物語があるのですね。原題は「Le Petit Prince」で直訳すれば「小さな王子」。これを「星の王子さま」としたのは翻訳者の内藤濯(ないとうあろう)氏。この邦訳のタイトルがなければ三遊亭圓楽師匠(5代目)が「星の王子さまです」と名乗って笑いをとることもなければ、日本国内で多くの読者を得ることもなかったにちがいない。優れた邦題。タイトルには著作権はないが、岩波書店は「星の王子さま」が内藤濯氏のつけた邦題であることを表記するように後続の新訳を出す出版社に求めている。
 昨日は「ムーミンの日」だったけれども、ムーミンももともとはナチス占領に抵抗するためにフィンランドのトーベ・ヤンソンが描いていたトロールの絵だった。私が子どもの頃、買ってもらった本は、欧州の戦争が生み出した作品だったことに今頃になって気づいています。
 私は読書人8月3日号に吉野源三郎「君たちはどう生きるか」(岩波文庫)の書評を書いたのだけど、この長く読み継がれたコペル君のお話も言論が不自由になるなかで、少年たちのために作られたシリーズの1冊。最初に発行されたのは1937年(昭和12年)で盧溝橋事件の年。日中戦争勃発の年だった。
 子どものため、というよりも少年少女のための「哲学」の本、たぶん「星の王子さま」も「ムーミン」も「君たちはどう生きるか」も哲学の本と言ってよいと思うのだけど、それが言論の不自由な時代に書き記され読み継がれているのは偶然ではないだろう。

台風13号接近 首都圏直撃かな

2018年08月05日(日)

私の父は釣り船屋を営んでいた。だからNHKの7時のニュースの前の天気予報は「神聖にして侵すべからず」の時間。お父さんとお客さんの命がかかっているんだから静かにしなきゃダメだよと言われ、弟と二人でテレビの前でかしこまっていた。父は簡単な天気図の読み方を教えてくれた。父から簡単な天気図の読み方を教えてもらったのは幼稚園に通っていた頃のこと。だから、ごく一般的に天気図の読み方をみんなが知っているものだとずっと思っていた。でも、そうでもないってことを、ついこの間、知って「そうなの?」と小さな驚き。950hPaの台風って怖いですよ。

母子鷹 父子鷹

2018年08月03日(金)

夫婦と2、3人の子どもという家族を「伝統的な家族」と勘違いしている自民党議員。それ60年代から70年代には「核家族」と呼んだの。それ以前は祖父母、夫の弟妹など小舅、小姑を含む3世代家族。母子水入らずになりたいと思っていたお嫁さんも多かった。
 明治維新から150年夫婦、親子での水入らずの生活に憧れたのもつかのま、核家族の問題点が噴出したのは70年代から80年代。狭い住宅で、援助する人もなく母と乳幼児が暮らすと育児ノイローゼが続出。その当時は「保育園政策」は選挙の票にならないと言われた。
 新聞社でも政治部の仕事と言えば「政局」報道。で、「政局」と言えば誰が総理大臣になるのかを探り出すのが仕事。ロッキード事件以降、これに「政治と金」のスキャンダル報道が加わる。
 「保育園?それ学芸部の家庭婦人欄の仕事でしょう」「育児ノイローゼは社会部」って感じ。
 80年代に入るとベビーホテルが問題視され、盛んに報道された。社会部ネタだったように記憶しているんだけど。違ったかな。で、多少は行政への関心も生まれた。保育行政が政治・政策のテーマだと焦点があってくるのはいつ頃だったか。
 90年代でも「社会部」「家庭婦人欄」ネタだったような。今は大手新聞社の政治部長に女性もいるし、きっと新聞記者の中にも保育園利用者(0歳児からの利用者)がいるに違いない。 
 子母澤寛が勝海舟親子を描いた「父子鷹」というのがあるけど、それこそ、親と子の「母子鷹」「父子鷹」で保育、育児行政が政治・政策問題であることを認識させる道を切開いてきたわけ。だから「待機児童なんていません。いるのは預けたい親だけ」などと杉田水脈議員に放言されると「あんた、50過ぎまで何を見てきたんだ。黙れ。この劣化コピー」とどやしたくなる。
 0歳〜の保育園利用者つまり赤ちゃんや小さな子どもだって、親と協力して「赤ちゃんから保育園なんてかわいそうね」という世間の目を跳ね返してきたんだから。それで、うちの孫たちは毎日、激戦の入園競争を潜り抜けて、毎日楽しく保育園に通い、週末は児童館で遊んでいます。3代に渡って切開いた道。

   
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