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中沢けいコラム「豆の葉」
   
 

「方の会」のこと。

2012年06月14日(木)

 「虚実の皮膜」という文芸の批評用語を最近はめっきり聞かなくなりました。リアリズムの退潮という現象に伴って、現実と虚構の狭間を扱うということも少なくなったからでしょうか。小説よりも演劇のほうが、虚構の要素は高いのに、実際にそこに演者がいて、観客がいるという現実を伴っています。いや、難しいことを言いだそうとしたのではなくって、京都の南座、浅草の平成中村座、それから銀座のみゆき館劇場と立て続けにお芝居を見て、そう言えば「虚実の皮膜」という批評用語が飛び交った頃もあったのを思い出したのです。

 銀座みゆき館劇場の方の会の御案内は前々からいただいていたのですが、なにしろ公明新聞で日刊の連載を持っているので、予定を立てるという心境になれずに、予約をとるのをのびのびにしていたら、初日の幕が開いてしまいました。それで劇場に電話をして、無理を言って席をとっていただきました。無理を言いましてまことに申し訳ありませんでした。でも、今年はサバティカルで学校がないので「ここが空いています」という日に飛び出して行けます。学校がないのって、ほんとにいいなあでした。

 「学校時代の同級生で女優さんになった人がいる」と母から市川夏江さんのことを教えてもらったのは、まだ高校生の頃でした。母は横浜の関東学院の卒業生で、学校の話を聞くと、田舎の高校生でいるのがつまらなく思えたものでした。都会の高校生と言うのは、田舎の高校生よりもずっと大人だと、母も言っていました。私は高校進学率100%に近い時代の高校生ですが、母の時代の高校進学率は今の大学進学率よりもずっと低かったのですので、そのあたりの事情も関係している事柄ですが。ともかく高校を卒業する頃には、それぞれが生き方を選んでいるというのが母の時代であったと言えるでしょう。いつの頃からか、母の縁で「方の会」主催の市川夏江さんからお芝居の案内をいただくようになりました。

 「泣いて笑った私の人生〜清川虹子のこと〜」は、冒頭に書いた「虚実の皮膜」へ観客を誘い込むお芝居でした。清川虹子というと、私は声に特徴のある女優さんとして記憶しています。低い声で、その低い響きのなかに縮緬皺が寄ったような感じのする声でした。清川虹子を演じた矢野康子の声は、生前の清川虹子の声とは質を異にする声ですが、お芝居を見ているうちに清川虹子の声が耳の底にありありと蘇るので、驚きました。
 もっとも私が知っている清川虹子は晩年で、毎月、2本も3本も映画を撮影していたという時代ではありません。昭和10年にPCLと専属契約したという清川虹子の経歴を紹介する市川房江の台詞に「私が生まれた年であります」と一言付け加えがありましたが、私の母は市川さんと同級生なのですから、私の母の生まれた年でもあります。昭和16年から昭和22年までは、大沢清治(PCLが東宝となったあとの東宝の御重役だったらしい)と家庭を持ち映画に出演しなかった清川虹子は、昭和22年の大沢清治が亡くなったあと再び映画女優に復帰します。
「あんた、映画に出たらいいと言ったけど、一年に23本も出演しろとは言わなかったわ」
 と言う山本五十鈴(白石奈緒美)の感嘆の声は、とうていお芝居の中の台詞とは思えず、なんだか清川虹子邸に居合わせていたような気がしました。虚実の皮膜が破れ、現在の時間の流れの中に溶け出す瞬間でした。

 それにしても市川夏江さんが清川虹子さんと親しかったというのは意外でした。お芝居の中でに喜劇役者の弟子になったのに、なんで新劇の役者の指導を受けなくっちゃならないだとぼやく若い人が出てきましたが、映画と芝居というだけでも別世界のような気がするのに、新劇(シリアス)と喜劇(コメディ)はひどく対立していたような気がします。純文学と娯楽小説という対立の激しい世界に私がいたせいで、そう感じるのでしょうか。

 今現在が新しいコンフュージョンの時期に入っていることを、この演目を通して、私が過去と重ねあわせながら徐々に感じとりました。それにしても、市川夏江さんの役柄は「市川夏江」その人であります。小説家は自分自身のことを一人称で書くこともありますし、エッセイというスタイルで「自分のこと」を書くこともありますが、この演目では市川さんはさしずめ「エッセイ的な市川夏江」を演じているのです。昼の部、夜の部と毎日二回公演するのはどんな気持ちなのだろうと、しきりにそれが気になりました。というのも、そこに現在の時間と過去の時間が交錯しながら、美しいハーモニーを奏でる瞬間を何度も見たからです。人間は単調に刻まれる現在と言う瞬間の積み重ねを生きているわけではなく、過去から現在へかけての複雑で重層的な時間の和音の中に生きているのだということを、濃縮して見せてもらうようなお芝居でした。

 閉演後、劇場の階段で市川夏江さんに御挨拶しました。「米元綾子の娘です」と自然に母の学校時代の名前が出ました。そう、「方の会」のお芝居の時は母の変り、代参をしているような気が少ししています。

平成中村座

2012年06月10日(日)

 平成中村座の最初の公演は2000年11月でした。あの頃はまだちょっと暇もあって、富岡幸一郎さんたちを誘って出かけました。帰りは駒形どぜうに寄ったのを覚えています。11月でもう少し寒くなっていたので、炭火の匂いを嗅ぎたかったのです。お芝居のほうは、なんだか非常ベルが鳴り響くという騒ぎがあって、消防車が来たりとか、えらい騒ぎになったりと、そのあたりがおもしろい興業でした。出し物は「法界坊」。破天荒な芝居をこれまたもの慣れない様子で、なんだか、ばたばたさえひどくおもしろく感じました。駒形のどぜうのあとは、浅草の裏町でちょっと一杯。飲み屋のおばさんが「あたしはあの法界坊って芝居が嫌いでね」と言いだしたのも、おもしろい思い出のひとつになってます。

 翌年の「義経千本桜」の時は、やはり富岡幸一郎さんたちと見物にでかけて、帰りは米久へ。で、牛鍋を突っついていたら、なんだかヘン。米久の太鼓がお客さんの到来を告げて「どん」となるたびに頭がずきんと痛むという具合。こりゃ、いけないと皆さんより一足早く失礼して、タクシーの座席に転げ込みました。自宅に到着する頃には、えらい熱が出て、そのまま3日ばかり寝込んでしまいました。2003年の浅草寺本堂裏での「弁天娘」は一人で見に行き、ニューヨークのリンカーンセンター公演「夏祭浪速鑑」は見物に行くという編集者の話をうらやましく聞きながら、テレビでみました。これが2004年。そこから先は、ばたばたして、勘九郎が勘三郎を襲名したという歌舞伎座の看板を眺めるだけで、見物にもゆけず、なにがなんだか解らないうちに救急車で運ばれ、みなさんからは「あら、なんでもないじゃない」と言われはしたものの、なんだかぼけぼけ状態のまま2011年を迎え、ちょっと落ち着いたかなと一息ついたら、大地震でした。つまり、芝居見物どころではなかったのです。

 その間に勘九郎は勘三郎になり、平成中村座は初演の頃を思い出すと信じられないくらい立派になり、隅田川の向こうにはスカイツリーが建ってしまいましたとさ、となんだか昔話の口調になりそうなかわりぶり。京都の南座でお芝居を見たら、どうしても平成中村座へ出掛けたくなりました。切符はないだろうなと諦めるつもりでネットで探したところ、あきがあるではないですか! スカイツリーの開業初日に一枚だけ席があいていました。やった! とばかり、勘太郎から勘九郎になったばかりのすてきな三番叟を見てきました。ちょっと痩せた勘三郎さんの口上を聞いていたら、ああ、12年ってすごい歳月だなあと、なんだか奇妙な気持ちになりました。

有吉佐和子のお芝居

2012年06月09日(土)

 有吉佐和子さんの御嬢さんの有吉玉青さんとお話していたら、有吉佐和子さんは53歳で亡くなられたとのこと。意外でした。あの夥しい作品をそのお年までに書かれたのだと考えるとなおさら驚きでした。

 「和宮様御留」は有吉佐和子が「群像」に連載された作品です。私の最初の本が出た頃、「和宮様御留」はベストセラーになっていました。護国寺の講談社の前のウィンドーに私の最初の本と「和宮様御留」が並んでおいてありました。「和宮様御留」は舞台でも上演されていました。母と一緒に見に行った最初のお芝居は「和宮様御留」でした。園佳也子が演じた侍女が記憶に鮮明に残っています。日生劇場だったように覚えていますが、このごろ、自分の記憶に自信がありません。和宮様役は竹下景子。今でも再演されることが多い芝居です。時々、テレビドラマにもなっています。

 「ふるあめりかに袖はぬらさじ」は「亀遊の死」という短編小説を有吉佐和子自身が戯曲化して、文学座の杉村春子主演で昭和47年に初演された芝居です。私はこの芝居を以前にも見たことがあって、なんとなく亀遊という遊女の自死が、世間の噂話や人の思惑で、現実の亀遊の思いや気持ちとはかけ離れて行ってしまう様子を描いたものだと思っていました。最初の一幕目で亀遊は死んでしまい、亀遊と親しかった芸者のお園さんが亀遊のことを語って行くという筋です。主役はもちろんお園さん。

 今度、京都の南座で坂東玉三郎のお園を見たのですが、「あれ」という感じがしました。自分の「あれ」と首を傾げた気持ちをうまく言葉にできなかったのですが、お園さんの「語りの芸」ができるプロセスを見せてもらったような気がしたのでした。それに気がついたのは芝居を見てから、すこしあとですが。

 芸者のお園さんが亀遊の自死をタネにした「語りの芸」ができるプロセスが描かれる一方で、お園さんの心の中には、生きていた亀遊の姿がいきいきと残っているというふたつの心情を、手にとるように見せてもらった気がしました。事実と虚構それに現実と美化。そういうものの絡み合いがおもしろく、それを一番、感じさせたのは、お園さんが三味線を弾いて小唄で亀遊の死を語り終える場面でした。亀遊の死は小唄となり、みごとに虚構として出来上がっているはずなのに、小唄の御終いで三味線の音を、玉三郎はわざと外すのです。最後まで見事に三味線を弾けば、劇場の玉三郎ファンのお客さんは、それが芝居であることを忘れて、玉三郎の三味線に盛大な拍手を送るかもしれない場面で、三味線の音が外れ、芝居の中で亀遊は虚構の中の人物ではなく、お園さんが親しかった思い出の中の生身の人へ戻るという「捻じれ」を興味深く見ました。

 芸は虚構で支えられているのだということを、はっきりと、しかもおもしろく浮かびあがらせながら、同時に芸の外側に漏れる心の秘密や心の宝物をも見せるというお芝居なんだなと、そう思う一方で、杉村春子だったらまたちがう印象になっただろうとも思うのでした。プログラムの上演記録を見ていたら、藤山直美主演という記録もありました。藤山直美だったら、また、別のお園さんが見られそうです。亀遊さんに憧れる友達としてのお園さんとか、そんな感じになるのでしょうか? プログラムを見ながらいろいろ想像するのも面白いです。

お芝居を見に行く。

2012年06月01日(金)

 5月はぼんやりしているうちに過ぎてしまいました。なんだか気が抜けたみたいです。しわしわの風船。もしくは昨晩、コップについだサイダー。なぜか、あっちこっちで怒っている人を見かけました。ぷんぷんって。

 京都の南座で坂東玉三郎の「ふるあめりかに袖はぬらさじ」を見ました。このお芝居、以前から見たかったお芝居です。で、それを見たら、今度は猛烈に浅草の平成中村座が見たくなりました。勘九郎さんが勘三郎さんになってから、まだ一度も見に行ってないなあと、残念に思っているうちに歌舞伎座のさようなら公演も終り、しばらくお芝居から足が遠ざかっていました。

 浅草の平成中村座の7か月のロングラン公演も5月で終り。勘太郎さんが勘九郎さんになって、いよいよ、新時代だなあって、平成中村座のHPを見たら、なんと1席あきがあるではありませんか。ちょうど東京スカイツリー開業の日。出かけました。雨がざんざん降っていて、スカイツリーは半分は雲の中でした。お芝居の最期で舞台後方が開き、隅田川の景色が見えるという趣向。雲に隠れたスカイツリーが偉容を誇っていました。

 お芝居の楽しみ。まず演目を調べたり、出演役者を調べたりなど切符を買う前が楽しい。それで切符を買ってわくわく。切符が好きで、半券をずっと持っています。それからすじがきやプログラムを劇場で買って、芝居を観終わったあと、こんどはとくとすじがきやプログラムを読むのが楽しい。そうか、そうだったのねえと頷きながら、あれを思い出し、これを思い出しするのが、なんとも言えない楽しみです。

 そういうわけで5月はお芝居へ行く楽しみを思いだしてしまいました。名高い芝居を片っ端から見たいものだと言う気になっています。

   
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