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中沢けいコラム「豆の葉」
   
 

ニクソンショックから40年

2011年08月18日(木)

 今年の8月15日はニクソン・ショックから40年だそうです。ニクソン・ショックは1971年。連合赤軍による浅間山荘事件は1972年冬のことですから、ニクソン・ショックの頃の日本では、全共闘の学生運動が下火になり、極端に突出した運動家が、多くの人を驚かすような事件を起こすようになっていました。淀号のハイジャック事件は1970年の春ですから、ニクソン・ショックはちょうどその二つの事件の間で起きています。

 さて、ニクソン・ショックですが、アメリカのドルと金の交換停止をニクソン大統領が突然に発表したものです。そこからドルの興亡が始るのでした。長い目で見ればドルの凋落かもしれませんが、ただ落ちる一方ではなかったようです。今から振り返るとドルは、金という縛りから自由になって行った40年だったわけです。正式に変動相場制に移行したのは1976年。昭和で言うと51年で、私は高校生になっていました。1985年にはプラザ合意で、金融自由化が始ります。日本でバブル景気が本格化するのは、これ以降だったと思います。1985年の3月に、私はロンドンに3日間ほどいて、金融街のシティを歩いています。日曜日だったので、ひっそりとした金融街でした。たった3日間しかいないロンドンで金融街のシティに行ってみようと思ったのは、飛行機の中のガイド・ブックでちょっと興味を持ったからに過ぎません。でも、興味を持つからには、何か理由があったはずなのですが、その理由が今はもう思い出せなくなっています。

 ウィンブルドン効果という単語は1985年3月の段階ではまた知らなかった、というより、単語がそもそもなかったかもしれません。ロンドンのシティに世界中からの金融取引を集めて、イギリスを繁栄させる政策をそう呼ぶのだと聞いたのはだいぶ後からです。テニスのウィンブルドンのように、金融取引の勝者はどこの国の人でも良い、しかしその取引の場所がロンドンのシティであれば良いという理屈でした。NYはこれをより大規模に展開していたようです。これでドルはその基軸通貨としての地位を守ります。日本では株式市場の値上がりはもちろん、土地の値段がべらぼうに上がりました。私が今、住んでいるマンションを購入したのは、この値上がりの最中でした。だから高い買物をしたのかもしれませんが、その頃は銀行も気前が良くって、お金を借りてくれと頼むようなことさえありました。

 金融自由化による好景気は額面上の財産を増やすことで、経済を活性化して行くという方法です。額面上の財産を増やすというのは、投資家の投資を誘うのですが、投資したからには利益が出なければなりません。簡単に言えば未来にお金を投じるわけですから、そのお金が何か利益を生む必要があるのです。で、ここで1970年頃から日本で原発が盛んに作られるようになってことを重ねてみたくなります。何をするにも先立つものはお金と、よく言われますが、お金と同じくらい「電気」がなければ、何もできません。

 内需拡大はプラザ合意後の日本でよく聞いた言葉ですが、内需拡大も先立つものは電気であったと今更ながらに呆れます。小学生だったうちの子どもたちと「バック・トゥ・ザ・フューチャー」を繰り返し見て楽しんだのは1990年前後。PART2では悪ガキのビフが未来のスポーツ年鑑を手に入れ、スポーツ賭博で大金持ちになって、街が電飾ギンギンのラスベガスのようになっているという場面がありました。PART2の公開は1989年。NYの株式市場が大暴落したブラック・マンデーは1987年10月でした。が、日本では株式市場は値上がりを続け1989年12月に史上最高値の38915円89銭をつけました。ブラック・マンデーを経験したアメリカは、グリーンスパン氏がFRB議長に就任したばかり。その後、グリーンスパンマジックという手法を展開してゆくようになります。
 映画の「バッグ・トゥ・ザ・フィーチャー」PART3の結末と違って、アメリカは世界を巻き込みながら、大量に電気を喰うギンギンのラスベガス街道を驀進して行くというわけです。実態なき経済成長と言ってもいいかもしれません。

 しかし、ほんとに実態がなかったわけではなく、実態を後からくっつけたわけで、やはり電気が必要だったのです。戦後の高度成長期の経済成長と、後からむりやりにくっつけた経済成長では、感触が違うのはむりからぬことだと思います。だって額面上の会計の帳尻合わせのために、むりやりに遊んだり、食べたり、飲んだり、着慣れないものを着たり。そういうむりやりな生き方をする親の苦悶の表情を見ていた子どもたち、つまり今の青年たちが草食動物と揶揄されるような存在になったのも理由があることでしょう。彼らは時代が成熟を促した思慮深いヨーダみたいな存在かもしれません。「スター・ウォーズ」のヨーダです。

 ニクソン・ショックからの40年を振り返ってみると、そこに日本の原発開発が重なります。1944年のブレトンウッズ会議からニクソン・ショックまでが25年。ニクソン・ショックから24年後の1995年の日本では、阪神大震災とオウム事件。2011年から先の10年。つまりニクソン・ショックから50年になるときには、電気をやたらに喰う金融資本主義はどのように変化しているのでしょうか。「スター・ウォーズ」ではヨーダも最後には剣を取って闘うのでしたっけ。

飯田橋 深夜の投げ銭男

2011年08月15日(月)

 思い返せば5ヶ月前。震災直後の2週間ばかりは家からほとんど外へ出ませんでした。買物も近所で済ませていました。初めて池袋まで出た日は、運悪く、東京が大停電になるかもしれないという発表があり、帰りの電車は大混雑。知り合いといやにひっそりした街を歩いたのはいつのことだったか? もう4月になってました。外濠の土手に桜がいっぱい咲いていました。

 4月半ばに大阪へ行った時は、大阪の空気がゆるいので、ほっとしたものでした。飲み屋で人の悪い冗談を大きな声で言っているおじさんがいるというだけでも、街の空気の違いを感じることができました。神保町でシャツを1枚買ったのは5月の初め。「震災直後よりもだんだん人が戻っていますねえ」とシャツ屋さん。震災から1ヶ月ほどは、神保町の人通りもまばらだったとのことでした。

 そういう直後の緊張がほどけないまま夏に。なんだか夏になった気がしない東京です。浮かれて歩く人を見かけません。人の身なりもどこか遠慮ぎみ。リゾートじゃないぞ! というようなカッコウの人をほとんど見かけません。緊張気味だった人の顔は、だんだんちょっと険悪だなあと感じるような極端な人も見かけるようになりました。

 さてとタイトルにした飯田橋の投げ銭男。見かけたのは7月末頃。その日は大学院の前期の講義が終わったので、飯田橋の東口のイタリア風居酒屋のテラスで院生諸君とワインを飲んでいました。電車の時間があるので、一人抜け、二人抜け。それでも話し込んでいて、残ったメンバーでカラオケにでも行こうかということになりました。だから12時半は回っていたでしょう。

 飯田橋西口の五差路の交差点を新宿方向へ入ったところ、向こうから中年のカップルがやってきました。なにやら言い争っている様子。すたこらと歩く中肉中背の男。小走りに追いつきながら、首を傾げつつなにか言い募る女性は。かりっと痩せた身体で、女の人としては長身の部類。ほっそりとした首が印象的な女の人でした。ああ、けんかしているなあとぼんやり眺めていたところ、ポケットに手を突っ込んでいた男の人が、やにわにばらばらとお金を路上に撒きました。

 一緒にいた院生が「あ、お金が落ちましたよ」と言いながら拾い集めようとするのを、ちょっと手で制してしまいました。落としたのではなく、あきらかにお金を撒いたのでしたから。10円玉、100円玉、それから500円玉。コインとはいえ拾い集めれば、けっこうな額になりそうです。案の定、男の人は「金拾って来いよ」と女の人に命令口調。言われた女の人は、やや躊躇。だって、お金を拾っている間に逃げられそうなのは見物していた私にも解るのですから。築地の市場に仕入れに行く料理屋さんが持っているような四角い籠を下げていた女の人は、躊躇はしたものの、路上にばら撒かれたお金が惜しくって、大急ぎで拾い集めだしました。

 なんたる卑怯者なのだ。と、憤慨。でも、まあ、人様の喧嘩に首を突っ込むのも、いかがなものかで、通り過ぎるそぶりで見ていると、すたこらさっさと逃げ出すかと思った男の人は、ゆっくりとした足取りで遠ざかっていきます。で。道の角を曲がろうとしたところで、女の人が全速力で追いつきました。きっと道を曲がったところで走り出すつもりだったのでしょう。女の人のほうもそんなことお見通し。東洋人のカップルであることは間違いないのですが、どちらも日本人だったようなそうでないような、夜目には判断がつきかねる二人でした。

 カラオケで遊んで明るくなってから同じ道に出てみると10円玉がひとつ落ちてました。あの男の人がポケットから撒いた10円玉だったかどうかはわかりません。なんだか言い争いの原因はお金のことだったような気がします。それにしても玉銭ばかりよくあんなにポケットに溜め込んでいたものです。

米国債 格下げ

2011年08月09日(火)

 米国債がS&Pによって格下げされました。米国債が格下げされたことが、世界の経済へ、日本の経済へ、どのように影響するのかという一般的な関心とは別の関心を私は持っています。その関心を一言で言えば、米国経済の衰退は世界の文化と芸術をどう変化させるのかという関心です。

 デジタル技術とネット文化の発展は時代の趨勢だと多くの人が感じているはずです。確かにそれはそうなのですが、気になっているのは、デジタル技術とネット文化は、コンテンツ(音楽、美術、文学、漫画、アニメーション、写真それから報道などなど)の価値を安く見積もる傾向があります。時には安くではなく無料の場合もあります。コンテンツが無料というのは、すでにテレビ、ラジオで経験済みのやり方で、テレビ、ラジオはコマーシャルの利益によって運営されてきました。ネット配信はそれをより強力に推し進めたもののように見えます。でも、このコンテンツを楽しむ人と、コンテンツの制作費用を負担する人の間に、おおきなズレがあることが問題でした。コンテンツは無料で楽しめるものという意識が生まれてしまうところにも問題がありました。

 今日、CDショップのWAVEの破産というニュースを見つけました。ネット配信が進んで、CDの売り上げが落ちたからというのが破産の原因だと思います。アメリカではアーティストが楽曲の配信では利益が上げられないので、グッズ販売に力を入れているとも聞いています。ネット配信の利点は、データなので倉庫代や運送費、それから店舗にかかる諸費用がいらないので「安く」なるというものでした。しかし、それはほんとうなのでしょうか? 私は首をかしげています。

 私はおもに電子ブック関連で、上記のようなネット配信の利点の説明を聞いてきました。そのさいに感じたことを率直に書くと、そういう説明をする人は、本というものの紙代や輸送費は問題にしても、かんじんの本の中身の価値がどのように捻出されているのかは、ほとんど無知である場合が多かったのです。つまりコンテンツの価値を「本」という物品の値段にどう含ませているのかについて知っている人はいませんでした。これは、音楽や映画などでも同じことが言えると考えています。ネット配信の説明では、コンテンツの価値は著しく無視されていることが多いのです。

 さて、一方で、ネット配信はそんなに安いものなのでしょうか? 配信を受けるための情報機器の値段はピンからキリまでありますが、その機器を数年おきに買い換えることを考えると、トータルでそれほど安くなったと私には思えないのです。情報機器だけでなく、情報を再現するためのソフトの必要もあわせるとよし割高に感じられます。私は30万円あったら、死ぬまでに読みきれないほどの本を買い込むことができますし、お天気がよければ電気代もかけずに繰り返しその本を読めますし、なんなら、繰り返し読んだ本から、新しい物語を自分で作ることもできます。いや、これは脱線。

 ここからが偏見。現在のネットはもともとアメリカが軍用で持っていたネットワークを民間用に開放したことから始まっています。なぜ民間用に開放したかと言えば、新しい産業を興して、アメリカ経済を活性化するためでした。考えてみれば、第二次世界大戦に勝利して以来、アメリカはすっきりと勝利した戦争はありません。朝鮮戦争、ベトナム戦争。いずれも「勝てなかった」戦争です。第一次世界大戦、第二次世界大戦で国力を伸ばしたアメリカの力はベトナム戦争が終結する頃に、すでに成長の源泉を失っていたという見方もできなくはないのです。ニクソン・ショックはそれを物語っていました。しかし、アメリカは世界の覇者であることにまちがいはありませんでした。今、グローバル化と呼ばれている諸々の現象は、アメリカのやり方である場合が多いと聞いています。それが広まって行くのが1980年代以降です。で、ソビエトが崩壊。90年代に入ってすぐに、イラク戦争。インターネットが登場したのはこの頃です。

 インターネットは最初から「革命」だとか「第3」あるいは「第4」の産業革命だと宣伝されました。裏を返せば最初から、かなり観念的に「産業革命」のイメージを喧伝されていたのです。そのことによって、株式市場でネット関連の企業の株価があがったり、ネット関連会社の間の買収活動が盛んになったりました。これが私には成長力の源泉を失ったアメリカの、むりやりな成長政策、観念先行の経済振興策に思えるのです。ここが私の偏見。

 もともと雑誌(マガジン)新聞(ニュースペーパー)映画、ラジオ、テレビと言った大衆文化を中心に発展してきたアメリカ文化は、コンテンツに対する評価は「数」の評価を重要視するところがあります。薄利多売を美徳とするところも多いにあります。そうしたアメリカ文化の性質がネット配信の世界で生かされています。が、根がややムリな経済振興策、成長政策の理論から出発していると思っているので、私はそれを自然な時代に変化と感じることができないのです。ネット関連企業とデジタル技術関連企業の帳簿上の利益(株価の値上がりなどを含む)を上げるために、アーティスト(歌手や作家)、小売業者(CDショップや本屋さん)劇場、それからそれに関連したさまざまな業種(紙屋さんとか、歌手のマネージャーとか)などの得ていた利益を、吸い上げてしまっているのではないでしょうか? 結果として小さなビジネスの利益を、大きなビジネスの利益へと搾取するような現象がおきているとは言えないでしょうか? それはアメリカ文化の華であった映画やポピュラー音楽、ミュージカルそれからジャーナリズムさえも衰退させてしまうような現象だと言えます。蛸が蛸の足を食べているような、そんな現象なのではないでしょうか。

 話は米国債の格下げに戻ります。ここまで来たら、ニクソン・ショックから続く大きな歴史の物語もいよいよ大詰めの段を迎えつつあると考えてもいいでしょう。そしてその大詰めは、いったいいかなる結末を迎えるのかは、まだ誰にもわかりませんが、アメリカがむりやりに推し進めてきた「ネット革命」なるものが、大きく変化する可能性はあります。私はそれが「幻」あるいは「神話」や「伝説」として崩れて行くのではないかと、そちらの方向に、期待を持ってしまうのです。いや、ますます強力に「ネット革命」を推し進めて行くことも、想像できないわけではありません。いったい、どちらに世界は進んで行くのでしょうか。

梅鉢の衣装

2011年08月01日(月)

 天神祭りの衣装はとにかく梅鉢、梅鉢、梅鉢でした。梅鉢を細かく散らしたもの、格子の中に配置したもの、大きな梅鉢が裾から肩へ飛んでいるもの。おそろいの浴衣に、いろいろな梅鉢の意匠がありました。そのほかにも目を引く意匠がたくさん。



 お祭りは願人(がんじ)が太鼓を叩く願人太鼓から始まるのだそうですが、その願人と同じ赤い垂れの長い烏帽子(投げ帽子というのだそうです)を被った男の子が太鼓を叩いて天満の商店街を練り歩いていました。



 天満宮繁盛亭の前では、美しい髪飾りの女性たちとすれ違いました。赤い半襟も梅鉢です。



 笠踊りで商店街を練り歩くお嬢さんたち。だんだら模様の袴? がすてき。で、メイクはばっちり現代風。



 同じ横じまの袴でも紺色と白のものもありました。こちらは、天満宮裏手の公園に引き上げてきたところ。男の子も女の子も、小さい子もかなり年配の人も皆々、同じ衣装をつけていました。なかには、この衣装のまま地下鉄に乗っている人もいました。

 そういうわけで、今日もまた写真のアップ豆蔵君お願いします。

   
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