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中沢けいコラム「豆の葉」
   
 

外濠土手の雀

2011年01月26日(水)

 雀もこのごろは核家族化現象なのだそうです。かつては1シーズンに5、6羽の雛を育てていた雀がこのごろは1羽だけ育てるというもの珍しくないとどこかで読みました。なぜ、雛が1羽になってしまったのかは、覚えてないのですけど。へえって思って。

 外濠の土手を歩いていたらどこかで雀の声。おやと探してみると、金木犀の木にいっぱい雀がいました。どうやら、最近の核家族育ちの雀たちのようです。地面に降りて餌をついばむのに余念がないといったおおらかな行動には出ないのでしょうか?金木犀の枝から枝を雀が飛び回っていました。自分が生きている間に、雀が核家族になったり、4月の入学式に咲いていた桜が3月の卒業式に咲くようになったり、そんなことが起きるなんて夢にも思いませんでした。

 金木犀の枝から枝に飛び回る雀の写真を撮りました。でも、あろうことか、管理人の豆蔵君が新型インフルエンザでダウン。タミフルを飲んで寝込んでいるそうです。残念。去年だったら大ニュースになったのに。ってまあ、こんなことでニュースになんかなりたくないだろうと、思うのですけど。豆蔵君、どうぞお大事に!

「魚の目」不定期連載「象の鼻毛」

2011年01月25日(火)

 魚住昭さんのウェッブマガジン「魚の目」で不定期の連載始めました。タイトルは「象の鼻毛」です。象って鼻毛あるのか?って。たぶんあります。なかったらたいへん。でも、ふだんはあんまり意識しないし、あってもなくってもいいような感じがするのが象の鼻毛なかというわけで、あってもなくってもいいような気がするけど、なかったらたいへんな感じのあれこれを書いて行くつもりです。不定期だから、次が何時になるのやら。

 なにしろ魚住さんにお会いしてじゃあやりましょうってお話をしたのは2010年4月だから、もう忘れちゃってかもしれないって、少々不安になってくらいです。なまじフォルムのしっかりしたエッセイを書いてみたいなんて言ちゃったものだから、なかなか、かけなかったのです。

 「象の鼻毛」は「〜です、〜ます」という敬体じゃなくって「〜だ、〜だった」という常体を使うつもりです。ネットは紙の媒体よりも読者に近い感じがして、言うなれば映画じゃなくってテレビみたいな軽さがあるのはおもしろいところですが、常体を使わないと言えないことがあるのではないでしょうか。逆に言えば常体で、日常的に話す人はそんなにいないでしょう。よほどのいばりん坊以外は。だから話す姿勢が、常体は書き言葉の姿勢なのではないでしょうか。で「象の鼻毛」は常体を使うことにしました。

ダメダメな一日。

2011年01月18日(火)

 あ〜。ダメだ。お金を振り込まなくっちゃいけなかったんだけど、銀行の前を通っていたのに、忘れた。あ〜ダメだ。出席予定の会合を明日だと1日勘違いしていた。というわけで欠席。ひょえぇ。ダメダメな一日だった。

 でもそのわりに幸せ。と言うか幸せだったから、用事は全部忘れたって感じ。

 ええと、朝起きたときに手を見たら、お婆さんの手になっていた。掌のほうじゃなくって、手の甲のほうが。空気が乾燥しているから、どうしても細かい皺が寄っちゃった、ああああああ〜お婆さんの手になってら〜って感じで寝床の中で眺めとりました。あんまり悪い気はしない。中学生の時は大人の女の人のほっそりした手と指に憧れたんだけど、なんかそういう感じが楽しく思い出せるお婆さんの手になったぞしめしめって感じかな。そうだ、幼稚園のときには狼がばけた赤頭巾ちゃんのお婆さんになりたかったのだと、ついでに思い出す。

 で、すっかり幸せになって、用事は忘れたり勘違いしたりでダメダメな一日。夜は、まっしろな蕪を昆布でことこと煮て食べた。ほっこりしたおいしかった。それからテレビで昨晩のサッカーの試合のダイジェスト見て、やっぱり岡崎は好きだな〜って、なんかゴン中山を優しくした雰囲気。でも、いなきゃいけないところにチャンといる目の良さ。すごいじゃん!あ〜ダメダメな一日だ。この手を見よ、お婆さんの手だぞとか言ってみようかな〜。

寄り道中央線 おまけ3

2011年01月17日(月)

 大阪から近鉄大阪線で名古屋。名古屋から中央本線で木曽福島。木曽福島で1泊。大学生の頃はこんなほっつき歩き方をすると、泊まる旅館で困ったものです。女性ひとりって旅館のほうがちょっと困惑します。それから、まだ団体旅行の名残が残っていて、あまり一人客用のお部屋とかがありませんでした。あと、お風呂。だいたい男性の団体用ということが多くって、女性用はつけたしみたいな貧素なお風呂っていう宿もありました。とことこ出かけて、気持ちの良い旅館に泊まれるのは、たいへんな変化です。

 朝はマイナス17度と聞いた宿で「露天風呂があります」って言われても「大丈夫かな」とやや心配。が心配御無用でした。ぬるいお風呂にゆっくり浸かって、外に出ると、まるで夏のデパートに入ったような心地よさ。それからお風呂に再び浸かると、今度は炬燵にもぐりこんだような幸せ。で、露天風呂にゆっくり入っている女性のお客さんがいました。家族連れが多かったのですが、この人はひとりで泊まっている様子です。この頃はどこに行っても、こういう一人でゆっくりお風呂に入っている女の人に出会います。家族連れが多いのは、きっと年末年始が忙しいご商売のお家なのでしょう。

 木曽福島から新宿へ。列車は「塩尻」で乗り換えます。特急「しなの」から特急「あずさ」への乗り換えです。JRもJR東海からJR東日本へ。西国と東国の境界というのは、こんなところに残っているのです。木曽福島から塩尻までは特急の停車駅だとひと駅。
 今度はだんだん下って行く線路です。右、左に迫っていた山の斜面が左右ともに遠ざかって行きます。山はうっすら雪をかぶっていました。常緑の赤松が目立つ山で、松の緑と白い雪のコントラストが軽やかな色彩を放っていました。空は晴れて、これまた青。列車が雪を舞い上がらせ、舞い上がった雪は金と銀とに輝きます。平地にならぶ冬枯れの葡萄畑が見えてきたら、もう塩尻。

 塩尻の駅で乗り換え。若い旅行者の姿が目立ちました。旅行者というより、東京に戻って試験を受ける大学生とか、入試のために東京にでる高校生とか、そんな感じの乗客がホームにずいぶんいました。塩尻の駅では、ホームにトイレがあったことと、そのトイレが暖房されていたばかりか、便座が暖かだったのにちょっと感激。
「あずさ」がホームに入っていると、なんだかもう新宿にいるような気がしました。窓の外に富士山が見えたのは、どのあたりだったか。写真に撮れるかなとカメラを向けてみましたけれど、走っている列車の中からはどうもうまく撮影できそうにありません。そのうち車内は大混雑し始めて、寝てしまいました。



 今日の写真は、あてずっぽうにシャッターをおしたら撮影できていた富士山の写真です。これは家に帰ってから「おや、富士山ちゃんと写っているじゃないの」と気伝いものです。あと、法政のボアソナードタワーで撮影した日暮れ。陽が沈むところを撮ろうとしたので、富士山の姿は画面に入っていませんが、茜色の西の空には富士山の姿がありました。

寄り道中央線 おまけ2

2011年01月16日(日)

 大阪から近鉄大阪線で名古屋に出て、中央本線の特急「しなの」で木曽福島まで行った話はツイッターのほうに書いてしまったので、こちらが「おまけ」になります。ツイッターだと簡単に写真が載せられるのですけど、こちらは管理人の豆蔵君の手を煩わせなくちゃならないので。



 名古屋から特急「しなの」で、木曽へ入って行くわけですが、中津川の手前あたりから、トンネルへ入ると耳が詰まるような感じがしてきました。ゆっくりと山を登るのです。もうこのあたりは中山道と平行して線路が走っています。家の感じが近鉄の沿線と少し変わりました。どっしりした瓦屋根が減って、軽い感じの屋根の家が目だってきます。それから、玄関が家の正面ではなく、右の端にある家が目立ちます。玄関わきに長い縁側があるのです。東海道だと、大井川を渡った頃に、家の感じが変わったなあと思うのですが、山を登っているせいか、大井川よりも手前で、家の造作が変わったなと列車の窓のそとを見ていました。

 本州中央部の山々を日本の屋根と表現することがありますが、中山道というのはまさにその屋根の上を伝って行くような道です。ただ、大きな川の河口付近を渡らなければいけない東海道よりも、中山道のほうが川止めなどが少なく、旅程が読める道だったそうです。京都から江戸へおこし入れした和宮様も、この中山道を通ったそうですし、朝廷から日光の東照宮へのお使いもこの中山道を通ったと聞いていましたが、想像していたよりも、険しい谷あいの道でした。

 中津川の次の特急停車駅は「木曽福島」ですが、中津川を出てしばらくすると、川と道路と線路は併走するようになりました。列車の窓の外を眺めながら、なぜか不快な人物や不快な出来事をぼんやりと思い出したのはこのあたりでした。すごく不快というのではなくって、漢文調で「余を不快にせし人物の顔浮かび来る」みたいな思い出し方。身体が感じた気圧の変化が、そんな心持になって現れたのかもしれません。トンネルをくぐるたびに霧が深くなりました。つい、うとうととして、目が覚めたら、窓の外はうっすらと白い雪が積もっていました。寒そうな山の景色です。

 木曽発電所を過ぎると、車内放送が入りました。谷底の川の中央に見える「目覚めの床」の説明の放送でした。川の中央に青みがかった白い長方形の石が何本も立ち上がり、石の上には松の木に囲まれたお堂が見えました。そこで竜宮城から帰ってきた浦島太郎が暮らしていたというのが、車内放送の説明でした。丹後とか丹波に浦島伝説があると聞いた記憶はばんやりとあるのですが、どうしてその浦島太郎は木曽の山の中までやってきたのでしょうか? 竜宮城から帰った浦島太郎の道中はいったいどんなものだったのでしょう? そっちのほうが気にかかりました。前方に真っ白に雪を被った高い山が見えました。どうやらそれが木曽の御嶽山のようでした。そういうわけで、日が暮れないうちに木曽福島到着。私の座席のうしろで、ふくよかなお母さんが、お腹の上に、赤いほっぺの赤ちゃんをだっこして幸せそうにすやすやと寝ていました。



 東海道で、関東への入り口は箱根の関所ですが、木曽福島の関所は中山道のちょうど中間なのだそうです、もちろん、関所はいまはもうありません。木曽の御嶽山参りをする人は、木曽福島を足場にしているようでした。V字谷の左右の斜面に代官屋敷と旧関所跡があるというのが木曽福島です。宿へついて女中さんと少し話をしてみると、伊勢神宮の建て替えのときには、木材の切り出しのために大勢の人が集まってたいそう賑やかだったということでした。昔は川へ筏を流して材木は運んだと、それが木曽のなかのりさんと、小学生の頃、覚えた歌の意味をようやく「そうか」と悟ったしだい。秀吉が一夜城を作ったというのも、川上から用意した材木を流して、川下で受け取ったのだと言うのですが、どうも秀吉の独創的な考えだというよりも、日常的な材木の輸送に一工夫加えたものだったみたいだなと、そんなことを考えました。秀吉は川上で、材木をすぐに砦が出来るように加工して川に流したのだと言います。「今朝はマイナス17度でした」と女中さんに教えてもらいました。翌日の朝は少し暖かくって、それでもマイナス10度。10時を過ぎる頃でも、日陰の雪はじゃりじゃりと凍っていました。

 木曽福島の町があるV字の谷は朝日が当たる斜面は午前中からけっこう暖かなのですが、日の当たらない斜面もおっそろしい寒さでした。同じ町でこうも違うかとびっくりするくらいの違いでした。

 では豆蔵君ご苦労様ですが、写真よろしくお願いします。

寄り道中央線・おまけ1

2011年01月14日(金)

 中央線と言えば、東京に住んでいる私は、新宿から吉祥寺、三鷹へと延びるまっすぐな線路のイメージがまっさきに浮かびます。立川、八王子あたりまで中央線かな。そこから先は何? と言われても、とくにこれと言ったイメージはありません。

 何というイメージはありませんが狩人の歌った「あずさ2号」があるので、信州へ行く電車というイメージも持っています。それが中仙道と結びつかないのは、新宿から甲府を抜ける甲州街道と重なるルートを通っているからでした。一方、中仙道と言えば、板橋宿。私が住んでいる場所からすぐ近くです。板橋宿から高崎、軽井沢を抜けて信州へ出る道であると、知ってはいましたが、東海道のように素直にそのまま京都へと続く電車があるというふうには考えていませんでした。

 東海道線には乗り飽きたから、ちょっと寄り道で中央線を通ってみようと考えたのは、もちろん、それを勧めてくださった方がいたからですが「名古屋から中央本線」と聞いたとたんに、木曽を抜けて信州へ出る中山道のイメージが浮かんだからです。これが新宿から信州経由で名古屋へ出るという「くだり」コースだったら「寄り道にしては遠すぎるなあ」と尻込みしたかもしれません。それが名古屋から木曽川のふちを上がって行くというコースだと、がぜん、それ行ってみたいという気持ちになりました。一日で新宿まで到達はちょっときつそうだったので、どこに泊まろうかと探してみると、中仙道の関所、木曽福島がちょうど良い場所にあったというのも魅力のひとつでした。

 大阪で「東海道線には飽きたから名古屋から中央線で帰る」と言ったら「新幹線に飽きたなら近鉄に乗ればいいじゃなかい」とこれまた知合いから言われ「それもそうね」と即座に納得。近鉄に乗るために、天王寺から環状線で鶴橋に出ました。駅のホームで名古屋までの特急券を購入。ホームに滑り込んできた特急は、ひたすら生駒山を目指して走り始めました。列車が高架から地上へおりたのは「近鉄八尾」駅を通り過ぎたあたり。生駒山の裾を信貴山の裾のほうへ回り込みでしばらくすると「耳成」という駅を通過したので、ああ、奈良を走っているんだと実感。驚いたのは、そのあとで、巨大な金色の仏像の手前にまっしろなギリシャ彫刻が二対(これもかなり巨大)が並ぶという景色が見えたのです。ぎょっとしました。3体のオブジェはどれも建物の屋根よりも高いのです。家に帰ってから、ツイッターで、これはお寺と美術館のモニュメントであると教えてもらいました。近くには榊原温泉もあるそうです。だとすると、あのモニュメントを目にした時は、もう名張を過ぎて、津をめざしていた頃です。



 長いトンネルから広野原へ。だんだら模様に塗られた高い煙突が目立つ四日市をすぎると、広野原を流れるおおきな川を幾つも渡って名古屋に到着。これだけでもけっこな寄り道でした。
 近鉄の名古屋駅を出て、さてこれから目的の中央本線で特急「しなの」に乗ろうという時、見つけたのです。おやつカンパニーの「いろいろベビーラーメン」。韓国のり味とか、黒胡椒味とか、復刻ベビーラーメンとかいろいろ入った大袋で500円。安い! 買おうかな? でも大きすぎる。と迷ったあげくに買っちゃいました。というのも、おやつカンパニーは三重県の津にある会社だと知っていたからです。だから近鉄の改札を出たらもう「ベビーラーメンいろいろ」は売ってないかもしれないと考えて買っちゃいました。そして巨大ベビーラーメンをむりやりキャリーバッグに詰め込んだのでした。
 写真は巨大ベビーラーメン詰め合わせのおまけに入っていたトランプ。けっこう気に入ってます(笑)それからもうJRのホームに入っていた特急「しなの」。昼を過ぎた頃だったので、お客さんが列車に乗り込んでお弁当を食べていました。



 豆蔵君、写真、お願いします。
 あがりましたー(豆)

水餅を作ってみた。

2011年01月12日(水)

 考えてみると川越街道沿いに住んでもう30年になります。いちばん、長く住んでいるけれども、仕事は電車に乗って都心へ出てしまうし、親戚は金沢八景を中心にした横浜市内が多いし、高校までの学校友達は千葉の館山にいる人が多いといった具合で、自分が住んでいる場所とのつながりは30年も住んでいるという積み重ねはあまりないような、こころもとなさです。

 それでも、川越街道沿いのお店は、馴染みになった家具屋さん、花屋さん、お菓子屋さんといろいろあります。布団屋さんはいつの間にか店を閉めてしまいました。去年の夏ごろ、突然、休業して心配した花屋さんには、お正月の花が賑やかに並びました。今度は家具屋さんが「しばらくお休みします」の張り紙です。誰かご病人でも出たのでしょうか? 気にかかっています。

 水餅の作り方を、お供え餅を買ったお菓子屋さんで教えてもらいました。かびてしまったお供え餅でも、きれいなお水に漬けておくと良いと。7日から大阪へ出て、帰りはちょっと寄り道で、中央線を辿って東京に戻ってきたので、お供えを水餅にしたのは10日の夜。鏡開きの日ですから、ちょうど良いといえばちょうど良いのですけど。かなり黴ていて大丈夫かな?と水に沈んだお餅を眺めていました。今朝になると、黴は水に流れてきれいになっていました。お餅は、2センチ角くらいに割れていて、これを網であぶってみたら、おいしいこと。ちょっと香ばしくって、おせんべいほどには硬くなくって、なかなかでした。

 月に2回ほど大阪へ通いだして4月になるとまる3年になります。夜の東海道線を新幹線「のぞみ」でびゅっと飛んで行って、翌日、また「のぞみ」で大急ぎで戻ってくるっていう道中にもちょっと飽きが来てました。これまでも、「行き」はともかくも、「帰り」は時間があれば京阪で京都に出たりしていたのですが、もうちょっと遠走りがしてみたくなりました。中央本線を使うことを勧めてくださった方がいて「そりゃ、いいわい」とばかり寄り道道中で大阪から帰ってきました。

 「寄り道中央線」の話はツイッターのほうでどうぞ。

本屋さんに行く

2011年01月06日(木)

 しばらく行ってなかった近所の本屋さんに行きました。電車の時刻表が欲しかったのです。以前は毎月買っていた時期もあったのですが、目的地がはっきりしている場合は、ネットの検索で充分に間に合ってしまうので、いつか時刻表を買わなくなりました。

 今年は7日の週末から大阪です。その帰りに名古屋から木曽谷を辿って中央本線に乗ってみようという気になりました。電車に乗るだけなんてときには時刻表は1冊持っているとたいへん便利です。気紛れができるから。電子ブックのようなものとか、スマートフォン、あるいは携帯を使いこなせれば時刻表もいらないのかな。そうなのかもしれませんが、気紛れに電車に乗って行くのにそんなに便利じゃなくっても不自由はしません。

 本屋さんに行ったら、NHKの「無縁社会」の本が目につきました。ずいぶん前に、社会的地位は引退したら「ただの人に戻るのが理想」って話をしてくれた弁護士さんがいました。飲んでいる時の雑談ですから、ちょっとした理想論だったのですけど、その理想論で少し引っかかるところがあったのです。仕事は仕事、私的生活は私的生活って完全に割り切っちゃったいいのかなあ?っていう疑問です。たいていの人は、自分の仕事のために多くの時間をさいているのに、その仕事から退いたら何の人間関係の財産も築けていないとしたら、それはとっても「へんちくりんな」ことなんじゃないかと、その時に感じました。

 弁護士とか政治家とか大学教授とか、そういう職業の場合は、仕事と私的生活を分割しちゃっても、あとになんらかの職業上の人のつながりという財産が残るでしょう。そういう職業の人が考える「理想」と、そうではない人々が考える「幸福」って違うんじゃないでしょうか?あえて「理想」と「幸福」っていうふうに単語を置き換えてみたんですが。どんなものなのでしょうね?お正月に息子や娘たちと話す機会があったのですけれども、人間関係の作り方に工夫がいる時代になったなあと、それぞれに感じているようでした。
 「人間は生まれるときも一人だし、死ぬときもひとりだ」ってよくそう言う言葉を耳にしたこともあります。男の人はこの文句が好きなようですが、逆に言えば一人で人の手を煩わせることなく生まれることができる人はいませんし、死ぬときは一人でも、あとの始末は誰かにしてもらわなければならないってこともあります。
 生死(いきしに)の「世話をする」とか「面倒を見る」というのは職業的な仕事として割り切れないところがいっぱいあるように思えるのですが、どんなものでしょうか?このごろ、自分の感じていることをうまく言葉にできなくって少し困っています。

 古典を読んでいると社会保障なんてない時代ですから、登場人物はみんな個人的な人間関係を築くのにそれはそれは奮闘努力しています。テレビが出来ても映画が滅びなかったように、電子末端が発達してもたぶん本はなくならないって話と、古典の登場人物が人間関係を築くのに、それはそれは奮闘努力しているのはちょっと似ているかもしれません。充分に整備された社会保障が出来たとしても、古典の登場人物のような人間関係の財産を気付く奮闘努力がいらなくなってしまうっていうわけではないのでしょう。

ありゃ。ごまめ。

2011年01月05日(水)

 鯛の塩焼きを買いたいなと、探してはみたものの、いつもの年ならぞろぞろ売っている鯛の塩焼きがありませんでした。あれは、まずいものの代表みたいに言われることもありますが、硬い身を突っついて食べるのが好きです。それから3日の夜に大根、人参、小松菜(つまりお雑煮の具ですね)で鯛の鍋をやるのも好き。鯛の骨から良い出汁がでます。

 鯛を買い損ねたから、なんとなく、お正月の買い物に気合が入らず、ちょろぎも買い忘れました。鯛と同じでちょろぎもあっちこっちで売っていれば買い忘れることもなかったんだろうって気がします。ちょろぎは娘の大好物。ってなんかヘンだけど。好きなんです。うちの娘はちょろぎが。いつも「ああ、高い」と驚く野菜類は、春の寒さ、夏の暑さ、どちらも異常なほどだったので、それほど高価とは感じませんでした。相対的なものですけど。どれより野菜が豊富に出回っていることに安堵感がありました。もっとも、小松菜などは、いつもの年よりもにょきにょきと伸びた物ばかりでした。土の温度が高くなっているので、冬の野菜や花が必要以上に丈を伸ばしてしまうとのことでした。八百屋さんや花屋さんで「植物は正直なのねえ」とため息。

 さて、さて、そんなお正月も終わりですが、戸棚に見つけました。「ごまめ」。あのごまめの歯軋りのごまめです。お正月の買物は乾物→塩干類→練り物→野菜→生もの、お花という順番でして行くのですけど、「ごまめ」は黒豆と一緒に買っておいて、すっかり忘れてました。そのまま、戸棚の中に。

 しょうがない。まだ七草のおかゆもあるし、10日は小豆粥の日だから、ごまめを作っておこうっと。

 元日に遊びに来た甥っ子が「養命酒飲みたい」って、それはお屠蘇のことでした。同じようなものですけど、おばさんちで飲んだお屠蘇を覚えてくれていたので、ちょっとうれしくなりました。

莫言さんの字

2011年01月03日(月)

 揮毫。えっと、どうしよう。というのが正直なところで、墨だの筆だのが出てくるたびに「ややや。また、出た」と困惑するのは、私だけではなく、日本の作家や詩人はかなりの人が内心困ったなあという気分を味わっているようです。絵がちゃっちゃと描ける人はうらやましい。字も駄目だけど、絵も駄目。そのうえ気の利いた文句はとっさには出てこない。と、かなりの「困ったものだ」ものであります。

 そこへ行くと中国の作家はそろいもそろって見事な字を書きます。莫言(ばくげん 中国風の読みではもーやん)さんにいたっては、右手でも左手でも、字を書くことができるのです。急ぐときは両方同時! 2008年のソウルのときにも、それを見て「どうして、そんなことができるの」と感嘆したものでした。今回も。何度見ても「はあ」と感心するばかり。

 莫言さんは中国の参加者から「モウモウ」と呼ばれてました。親しみをこめた呼び方のようです。親しみがありしかも尊敬されていることが、そばで姿を見ていてもわかりました。

謹賀新年

2011年01月02日(日)

あけましておめでとうございます。

 ウン・ヒギョンさんのしましま靴下の話を書こうと思っているうちに、年が明けてしまいました。山陰では大雪で、雪の中に車が閉じ込められたり、孤立した村があったりで、たいへんな様子です。

 北九州市での東アジア文学フォーラムの関連行事として、ウン・ヒギョンさんとは、市内の中学校へ、キム・インスクさんとは下関市の高校へお話をしに出かけました。どちらもおもしろい経験でした。

 ウン・ヒギョンさんとは2000年に青森で開かれた日韓文学者会議でご一緒したのが最初の出会いでした。それまでの韓国の女性作家とは違った雰囲気を最初に感じたのは、エレベーターの中で出会った時、お互いにカタコトの英語で「ベリー タイアッド」と、ほぼ同時に言って大笑いした時でした。で、お会いする度にだんだんスカートが短くなるウン・ヒギョンさんです。若返るっていう言葉がぴったり。でも息子さんとはだいの仲良し。腕を組んでいる後姿の写真を見せてもらいましたが、なんだか恋人どうしみたい。さて、今度はどんなファッションで現れるのだろう? と思っていたら、レセプションでは赤いストッキング、翌日はしましま靴下でした。「なるほど、そう来たか」でした。
 だってスカートはこれ以上短くはできないというところまで行っていたのですから。

 会議や宴席では、あまり個人の来歴を聞くことがないので、中学校でウン・ヒギョンさんにお話をしていただいて「30歳過ぎるまではごく平凡に生きてきて、子どもが出来てから小説を書き始めた」ということを知りました。そうか、ファッションが若返るのは、韓国社会の変化とウン・ヒギョンさんの変化が一致していたからなのかと納得。
 さすがに北九州市は韓国の釜山へのフェリーも発着している町だけあって、中学生の韓国や韓国語への関心は東京よりも高いくらいのものを感じました。「一目ぼれです」と言う文例を韓国語を覚えてきた男子生徒もいてウン・ヒギョンさんも大笑い。
 スカートの話をしたら「次にお目にかかるときにはビキニにしますね」というお返事。こういうウィットに富んだウン・ヒギョンさんだから息子さんとも仲良くやっていけるのでしょう。
最後に中学生の代表の生徒がお礼の言葉を述べてくれました。事前に用意した原稿を読むのではなく、私とウン・ヒギョンさんの話の内容を要約し、それに感想を加えてくれました。この挨拶にウン・ヒギョンさんはたいへん感心していました。

 同じ日の午後。関門海峡を渡って下関へ。関門海峡は狭いところで5キロくらいとのことで、橋を渡るときにちらりと瀬戸内海の眺めを見ることができました。高校へご一緒したのはキム・インスクさん。
 大学1年生の時から小説を書いているキム・インスクさんです。
「傲慢と言われるかもしれませんが、私は小説家になろうと思ったことはないのです。ジャーナリストになりたいと思っていました。大学の学部もそのつもりで選択しました」
 そういうキム・ヨンスクさんに私がびっくり。韓国の作家の率直さに驚かされるのは、これが初めてではありませんが、感じていることがまったく同じという人に出会ったのは初めてだったので、度肝を抜かれました。私も小説家になろうと思ったことはないのです。高校を卒業した時に自分の本を1冊作れればいいなと願望していただけです。何時だったか?たぶんまだ大学生の頃ですが、それを率直に話したら、こっぴどく叱られて、それ以来、そう言う気持ちは人前で話したことがありませんでした。思わず、率直で勇気のあるキム・ヨンスクさんの手を握り締めたくなるくらいでした。
 この学校では質問に立った生徒が美しい韓国語を喋ったので、拍手をすると
「留学生なんです」
とのお答え。韓国が近いので、高校から日本へ留学する人もいるとのことでした。やっぱり北九州それから下関は朝鮮半島を含むユーラシア大陸に近いのです。

 それにしても、以前の、つまり私が高校生や中学生だった頃には考えられないくらい、今の中学生や高校生は「話を聞いて、自分の意見を述べる」ということがうまくなりました。驚いてしまいます。感心してしまいます。

   
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