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中沢けいコラム「豆の葉」
   
 

「助けてと言えない 30代に今何が」

2010年10月31日(日)

「助けてと言えない 30代に今何が」(文芸春秋社)を読みました。なぜ読んだかと言うと、あることで思い当たるふしがあったからです。

 まず思い当たるふしというのは「今の30代は頑張っても良いことがなかった」と言う話を身の回りの30代の人からよく聞いていたことです。確かにそうです。ただ「助けてと言えない」という標題になっているような状態については、頑張っても良いことがなかったからではなさそうな気がしていました。

 本間洋平の「家族ゲーム」がすばる新人賞をとったのは調べてみると1981年のことでした。森田芳光監督で映画化されたのは、1983年。今の30代の人が生まれた少しあとのことです。私の息子は1982年生まれ。娘は1983年生まれ。ついでに私の家族のことに触れておくと、1983年に脳梗塞の大発作を起こして母が寝たきりになりました。それで亡くなったのが1985年のお正月。私自身にとっては印象の深い時期なのです。「助けてと言えない」を読んでみようと思ったのは雇用問題や貧困問題を社会保障の観点から考えようとするのではなく、その裏にある心情や心境を探ろうとしているらしいことが、ツイッターの書込みで解ったためでした。本間洋平の「家族ゲーム」はかなり話題になった作品で、映画化されると家族が横並びになって食事をとっているスチール写真をよく見かけました。

 家族がばらばらになっている、家族が解体していることの象徴として映画「家族ゲーム」のスチール写真が使われていました。ここで私は家族のきずなを取り戻すべきだと言いたいわけではありません。ただ、この30年を思い出しただけです。私自身もその当時、ちょうど家族を持ったばかりだったわけで「助けてと言えない」30代は、他人事ではないのです。卓袱台を囲んだホームドラマから横並びの個食の時代と言われたのも、ちょうどその頃でした。

 その頃、何を考えていたかと言えば、一番、考え込んでいたのは「内面の問題を話す人がいない」と言うことでした。それまでの卓袱台家族が横並びカウンター家族になって行くときに、心の中のことを打ち明けられる相手がいないという気がしきりにしました。孤独じゃなくって孤立している感じです。これは、その後、私自身だけの悩みではなく、そういう悩みを持った人に次々と遭遇して行くことになります。
 
 私は東京郊外の集合住宅で子どもを育てたのですけれども「他人に迷惑をかけない」という徳目が教育の一番の徳目になっている場合が多いのにも当惑しました。「他人に迷惑をかけない」の裏側には「他人には干渉しない」主義があって、それは多様な事情を持っている人が住んでいる集合住宅では仕方がないことなのかと、受け止めてはいました。ただ、徳目としては不寛容で、なんと言うかちょっと狭量な感じがしました。これは昔、エッセイに書いています。「困っているときはお互い様」とか「ある時払いの催促なし」とか「出世払い」とか、そういう寛容を示す徳目はほとんど聞いたことがありませんでした。

 あと割り勘勘定の徹底。これもけっこう大事に守られていたルールでしたけれども、いささか窮屈に感じられることも多々ありました。割り勘で貸し借りなしにするのは気持ちが良いのですけれども、それが気持ちよく成り立つのは、みんなが同じくらいの給料をもらっているときだけです。懐が寂しいときは「ドンブリ勘定」にしてもらって、なんとなく面子を立ててもらうほうが楽なのですけど、そういうのは駄目でした。なんなら出世払いにしてもらってもいいんですけど、そんな冗談も言えないようなかたくなな雰囲気がありました。時間の感覚が前へと伸びずに、その場で終わってしまうのです。

 ファミリーレストランで、けわしい顔をした家族がまずそうにご飯を食べているのを見かけたのも、よく覚えています。バブルの頃です。あの頃、景気がよくって世の中の人の機嫌が良かったかというと、そうではありませんでした。なぜなのかは解りませんが、家族でそろって不機嫌になっているという場面によく遭遇しました。貧しかったときのほうが、家族の絆は強かったなんて話をたびたび聞かされたものです。私が自動車免許をとったばかりの頃、郊外にファミリーレストランがどんどんと建って、あっちこっちへ出かけたものですけど、そのたびにそういう不機嫌な家族に遭遇しました。もう、忘れた人も多いかもしれませんが、そういう不機嫌な家族の様子を描いたCMさえありました。ある焼肉のたれのCMで母親がヒステリックにバーベキューを焼いているというものがあり、それはリアルなCMとして話題になっていました。私はそのCMがリアルであればリアルであるほど苦い思いをしました。思い描いたような「楽しい場面」が演出できなかったためにヒステリックになっちゃう母親のひとりでしたから。家族の解体というよりも、心情の解体の証拠を突きつけられるような苦味がありました。

 弱者救済ということがよく言われていました。あまりにも弱者救済が言われすぎて、自己責任という言葉が出てきたのはその後です。「助けてと言えない いま30代に何が」を読むとその自己責任という言葉は一人歩きをしている様子が伺えます。今の30代の人が自己責任という言葉で、自己防御をしている様子は「助けてと言えない」の中で取材を通して描かれています。それを読みながら、心情の解体の後に世界的に不況に襲われるという時代の流れを思い出したのでした。

 思い出したからどうってことはないんですけど、そういうことです。そのほかにも、思い出すことはいろいろとあってきりがないくらいです。絆なんて言葉では語れないような、心情の解体の30年を生きてきたんだなあという感慨のようなものがそこにあります。だって家族のしがらみから逃れて自由になりたいって希求が30年前にはあって、不機嫌な家族が、機嫌を直さなくってもなんとか経済破綻しないで生きていけるという現実もそこにあったことをあまりにも鮮明に覚えているのですから。言いたいことは何もありません。ただ、思い出すだけです。問題を解決するのではなくって、ただ思い出すだけということがひどく大事なことだと、そう感じられるのです。

すってんころりん

2010年10月29日(金)

 台風が近づいています。東京でも、早々と木枯らしが吹いたと言うのに、今度は南から台風です。昨日は終日冷たい雨が降っていました。

 法政大学の55年館、58年館は一見するとなんの変哲もない古いビルディングですが、コンクリート建築では名建築とされているそうです。大江宏の設計で1958年に建築学会賞と芸術選奨をとっています。建築にも少し興味を持っていたときにそれを知りました。使われているコンクリートの質はすばらしく、またコンクリートを固めるさいにつかった木枠の跡が残っていますが、これも良い材を用いたようで、コンクリートの打ちっぱなしの建築でも初期の丁寧な仕事が見られます。

 55年館58年館を外濠校舎から眺めると、太い大きな柱が1階から7階(55年館は6階まで)までダイナミックに走っているのが一望できます。いつだったか入学試験の時、学校へ詰めていて、このすばらしい眺めに気付きました。太い柱と丈夫な床。この二つだけで構成されたシンプルな建物です。外壁や内壁は、取替え可能なパネルが用いられています。内壁にブロックが積まれているのは、創建当時の建材としては、ほかに良いものがなかったからでしょう。この建物から、何の変哲もなさそうな老朽化したビルの中にある価値を、自分の目で発見して行くという楽しみをもらいました。建物の重要な構造部分だけを作り、あとは順次、取り替えて行くというのは、建築思想としても、先進的で、かつ、環境への配慮が求められる現代性を失っていません。取替え可能な部分に、強化プラスチックなどの新しい建材を用いれば、それはそれは見事な建物になることは間違いありません。美しいだけでなく、建築と建材の流れというか変化を見ることも可能でしょう。昭和30年代初頭の法政大学のある種の理想主義も建築から感じ取ることができます。

 学校にとっては宝物みたいな建物と、私には思えるのですけれども、残念ながら、取り壊し計画が進んでいます。取り壊しについては、デザイン工学部から反対がでました。私がショックだったのは、取り壊し反対の意見を「情緒的な反応」と受け止める人が多かったことです。場合によってはOB、OGのノスタルジーという受け止めかたもありました。そのような受け止め方がでるのは、コンクリート建築についての一般的な知識が乏しいからなのでしょう。それは仕方がないとしても「情緒的な反応」の中身を知ろうという気持ちが乏しいのに、ショックを受けました。

 もともと私が建築に興味を持ったのも、建物の細部の名前を知らないと、小説が書けないという理由からでした。空間についての名辞が乏しいと物語のための空間を広げることができないのです。木造の建物は、そこに使われた技術を惜しまれて愛されますし、レンガ作りの建物は近代化のシンボルとして喜ばれるのに、コンクリート建築だけは、見るべきものも見てもらえずに、取り壊されるのでしょうか? コンクリートこそ、私たちのふるさとだと言うのに。今、生きている人の大半はコンクリートの病院で生まれているはずですから(笑)

 胸の中に小さな棘が刺さっています。話をすり替えると言われそうですが、小さな子どもが何かにおびえて泣いていても「情緒的反応」として軽くあしらうのでしょうか? そういう比喩を思いつくのは、理由が二つあります。ひとつは情緒の軽視という姿勢への反発。もうひとつは「情緒的反応」の裏に、たいへんに現実的なものが潜んでいることへの注意力の乏しさ。そのふたつを私は感じました。で、そんなことを考えながら、58年館と55年館の間を繋ぐスロープを歩いていたら、すってんころりん。後頭部をしたたか打ち付けてしまいました。頭蓋骨がゴンと鳴りました。

伊藤さん お帰りなさい。

2010年10月24日(日)

 伊藤さん、熊本に戻られたそうで、おかえりなさい。熊本は秋らしくなっていましたか?橙大学、楽しそうでうらやましいです。私も聴講に行きたいなあ。A番頭さんにどうぞよろしく言っておいてください。

 そうだ。伊藤さんが来月大阪に行く(来る?)時にお目にかかれますね。それを楽しみにしています。大阪もいつまでも暑かったのですが、昨日はやや気温が下がっていました。金曜日の夜11時23分に新大阪駅に到着した時の気温は19度でした。

 「暑い」とか「涼しい」「肌寒い」「冷え込む」なんて言葉はそれぞれに季節感が籠もるので、今年は使いくくなっています。季節感というか、時間感覚みたいなものがありますから、なんとなくどの単語を使っても現在の気温の具合にそぐわないのです。法政大学の前じゃあ、今頃になってコスモスの花が元気良く咲いていますし、きのこは夏のきのこと秋のきのこが同時に収穫されているって話です。いろんな人が「今年の冬はすごく寒くなる」って言ってましたが、もしかすると「そうなって欲しい」という願望も入っているかもしれません。せめて冬らしい冬が訪れて欲しいという願望ですね。
 「夏をあきらめて」っていうサザンの曲がありましたが「秋をあきらめて」ですね。今年の夏は暑すぎて、夏らしい夏どころか、あまりの暑さに海水浴場の人も少なかったといいます。

 伊藤さんが大阪へ来る(行く?)ころには、きっと河豚も美味しくなっていますよ。河豚食べましょう。では、では。熊本文学隊、橙大学の皆さんにどうぞよろしく。

自動車免許の更新

2010年10月21日(木)

 「11月6日までに自動車免許の更新をするように」という案内が来ていた。なんだか忘れそうな気がする。なんとか免許の更新に行かなくっちゃ。そこであっちこっちに自動車免許の更新と書き付けることにした。

 忘れませんように。忘れませんように。忘れませんように。

大規模修繕、いよいよ。

2010年10月18日(月)

 マンション全体をシートで覆った大規模修繕がいよいよクライマックス!って、つまりベランダの床の塗装が始まるってことです。ベランダのものをすべて、片付けなければなりません。

 もっとも巨大化した佐藤錦の木とヒイラギの木は、息子がやって来て、マンションの裏庭に移動させてくれました。佐藤錦はベランダで巨大化していたので、枝を切らなければ家に外に出すことはできませんでした。ヒイラギのほうも、呆れるくらいに大きくなっていました。
 それや、これやは、すでに片付けてあったので、最後に残っていたのは、物干し竿とジョウロ、それに金物のゴミ箱。そういう品々を家の中へ入れました。

 ずっと工事、工事、工事なので、ちょっとグレてます。

2年ぶりに東名高速を走る。

2010年10月13日(水)

 目を悪くしていたので、しばらく、自動車の運転を控えてました。昨年、夏に白内障の手術をしてからは視力も回復しているのですが、それでも、自動車は隣り近所を走るだけにしていました。息子や娘たちが運転をするようになったので、私が長距離を走らなくっても良いってこともあるし、自分ひとりの移動なら、居眠りのできる電車のほうが気楽だってこともありました。

 目が悪いと、突然、眠気に襲われることがあります。自動車の運転ではこれが怖い。そんなわけでしばらくハンドルを握りませんでした。

 ひさしぶりに東名自動車道を自分の運転で走りました。天気は曇天。風は心地よい温度。風の心地よさが貴重に感じられる今年の天候です。行き先はよこはまズーラシア。横浜市内には、ズーラシア、金沢園、野毛山と三つも動物園ができていたのを、昨日、改めて「へえ」と思いました。私がもっとも、親しいのは野毛山動物園。野毛山しかなかった頃でした。連れていってもらうのが楽しみでした。
 
 最近の動物園って、家族連れももちろんですけれども、カップルが目立ちます。子どものとき、親に連れてきてもらって、デートで動物園に出かけて、それで、また子どもができると動物園に行く。そんな感じでしょうか。公立の動物園なら入園料も安いし、お弁当も持ち込めるし、なんと言っても、すごくきれいに整えられているし、それから会話の種につきないし、ああ、なるほど、なるほどデート向きなのねと納得したのでありました。うちの娘も「ズーラシアはきれいな動物園だよ」って言ってましたけど、きっとデートで出かけたのね。言わないけど。

 で、帰りに横浜の中華街で、上海蟹を食べて、また東名で帰ってきました。

しちめんどくさい

2010年10月12日(火)

 伊藤さん おはようございます。

 昔の人はなんだって、ああ、うるさかったんだろうって思うことはありますね。だって、何でもかんでも「できてあたりまえ」で「できなきゃ馬鹿かアホ」だったから。料理でも裁縫でも編み物でも。すぐに怒るし、不機嫌だし。いったい「なんだったんだ?」って思い出してへんな気がすることがあります。

 それでもって「馬鹿」とか「あほ」って言われなければ、案外、出来ちゃったりするから。そんな感じ。で、お祝いの話ですけどねえ。昔風なやつも楽しいけれども、今風にアレンジしちゃってもいいなって思うのもあります。あたしが好きだったのは「一升餅」かな。赤ん坊が生まれて、100日目くらいに、一升のお米で御餅を作ってもらうの。その餅を赤ん坊に背負わせるんです。そうすると「一升餅」で「一生」食べるのに困らないんですって。「へえ」って感じで、上の息子に御餅を背負わせたら、真っ赤な顔でうんうん唸ってました。重かったんじゃないかな。

 お祝い事って、一人じゃ出来なくって、周囲の人が一緒に「おめでとう、おめでとう」って言ってくれないとそういう感じが出ないですねえ。「お祝い」が一番、人間が群で暮らしていたときの感覚が残っているんじゃないでしょうか? 学者はそういう祝い事の感覚が薄らいどでいるのを「共同体の空洞化」なんて言うんだけど、時々、「自分の言っていることが解っているのか」って言ってやりたくなることがあります。人間が猿より頭が悪いんじゃないかと思う瞬間ってのは、自分で自分の言っていることの意味が解らなくっても、喋れてしまう場面に遭遇した時ですね。自分も含めて。

犬印の腹帯

2010年10月10日(日)

 伊藤さんの「良いおっぱい、悪いおっぱい」の中公文庫版を読んでいたら、腹帯のことに加筆があった。微妙なこだわり方? っていうか、ああ、やっぱり腹帯には、簡単に割り切れない感情があるんだなあと同感。

 私も不器用で、さらしの帯をきっちり巻くなんてのは苦手だったんだけど、腹帯には良い思い出がある。さらしの長い帯の巻き方を教えてくれたのは母で、伊藤さんが書いているとおり、母には「帯祝い」の喜びがあった。私が裁縫嫌いというか、裁縫が苦手なのは、母がひどいスパルタ式に裁縫を教えたことが原因のひとつになっている。だって、できないと物差しでぴしぴしひっぱたくし、「不器用だ」とか「雑な仕事だ」とか、その他もろもろ、よく罵られたので、今でも、なんだか血が逆流しそうな感覚がどこかに残っている。が、腹帯のときは違った。なんと言っても「おばあちゃん」になる喜びの日なのだから、あんなに丁寧に優しく巻き方を教えてもらったことはない。態度がぜんぜん違った。

 で、伊藤さんがスカートの下から腹帯がだらりと下がっていてあせった話を書いていたけれども、それも同じ経験がある。大学の4年生だったから、帯祝いが済んでからも、大学に通っていた。帯祝いって言っても、そんなに大げさなことじゃなくって、母と二人で、暖かい日の当たる座敷で腹帯の巻き方を教えてもらっただけなんだけど、それからも学校へ通っていたわけです。
 大学の400人くらい入る階段教室のスロープを歩いていたら、なんだか他の学生が合図をしているんだけど、その意味が理解できなかった。後ろを指指すから、後方の出入口を見たのだけど、別段、変わったことはない。なんだろうと不信そうにしていたら、いきなり、後ろへぐっと引っ張られて驚いた。スカートの裾から、垂れ下がっていた腹帯を、A君がぐっと握りしめていた。あまりの唐突な展開に大笑いをするしかなかった。

 あの時はそれからどうしたのだろう? 覚えてないけれども、階段教室で腹帯を締めなおすわけには行かないから、きっと、洗面所かどこかに行って腹帯を締めなおしたに違いない。みんなも私も大笑いしたところまでしか覚えていない。で、帯の裾をぐっと握ったA君はと言えば、その頃、もうすぐ、子どもが生まれることになっていた。もう結婚していたのだ。だから、かなり大胆な行動にでることもできたのだろう。
 二部(夜間部)の学生だったA君は、手の指が3本ばかり欠けているところがあった。指を詰めたんだと言って他の学生を怖がらせたりしていたが、実際は、事故で指を切断したそうだ。アメリカ製の特殊なカッターを輸入してビルの壁に穴を穿つ仕事を引き受ける会社を自分で設立していた。「設計図と違う場所に電気の配線があったり、ガス管が走っているのが怖い」と言っていた。「電気の線に触れて感電したり、カッターでガス管に触れてしまうこと」を考えれば、指の1本や2本はなんでもないとも言っていた。
 大学の1年生のとき、語学クラスの飲み会の世話役を5人決めて、その一人が私であり、A君だった。
 それで私に赤ん坊が生まれたときには、黄色い毛糸をたくさんにお祝いとしてくれた。
 所帯持ちのA君が大胆だったおかげで、スカートから尻尾みたいに腹帯を引きずっていたのが、恥ずかしいことは恥ずかしいけど、笑い話みたいになったのだった。

 腹帯には特別に保健上の合理的理由がないって言われるし、もしお腹を保護したいなら、ガードルなどもあるから、それが便利で、尻尾を引きずるような無様な騒ぎもおきなくって良い。でも「お祝い」の気持ちとか、お婆さんになる喜びとか、それはきっと、真っ白な木綿のさらしの帯のほうにあるに違いない。たぶん。

 そんなに高価なものじゃないし、下着の一種だから洗濯のための洗い代えも必要なんだから「帯祝い」を楽しんでもいいんじゃないでしょうかねえ? 伊藤さんが中公文庫のあとがきにニューアカ(ニュー・アカデミズム)のことを書いていたけど、ニューアカも含めて、学問ってやつは感情を無視するのが仕事の一部になっているけど、赤ん坊は観察されるために生まれてくるんじゃないし、年寄りも、ゆっくりこの世にいるのを楽しみたいんだから「お祝い」や「喜び」があったほうがいいんじゃないでしょうかねえ。もめんのさらしの長い帯は、お腹の赤ちゃんを保護するために巻くもんじゃなくって、お母さんの健康のためでもなくって、お祖母さんの喜びのために巻くんじゃないでしょうか? 学者は(医者も含めて、とくに男の学者は)そんなこと考えたこともないし、考えても、とるに足らないことのように思いますかもしれないけれど、こんな小さな喜びが人間には大事なものってこともある。私の母が亡くなったのは、それから三年ほどしてからでした。

ヘンじゃない?

2010年10月08日(金)

 台風でりんごの実が落ちたり、水稲が被害を受けたり、赤潮で養殖していた海苔が全滅したり、そういう風水害の被害は、なんらかの形で政府や行政から保障が出たり、融資の枠ができたりする。農林水産業に限らない。日航やそごうのような大きな会社が経営危機に陥れば、やはり公的の資金援助がされたりする。銀行だってかなり助けてもらったはず。もっと古くはエネルギーの構造転換のために炭鉱が閉鎖されたときにも、なんらかの公的な援助があったはず。

 そういうことを思い出したのは、急激の技術転換のために、店をたたまなければならなくなったレコード店(実際はCD店だったのだけど)や、デジタル化のために仕事が激減した写真屋さんカメラ店には、なんらの公的援助がされたという話は聞かない。「紙の本はなくなる」と官民上げてアナウンスされるだけでも死活問題がと考える書店にいたっては「配達された本を並べるだけの」怠け者扱いをされる始末。それでいて、デジタル技術関連のコンテンツ産業はさほど収益を上げているとは聞いていない。過去にはなかったパソコンの製造とか、パソコン周辺の消費財の製造流通といった新しい産業は育ってはいるけれども、トンと景気が良いとは聞かない。儲かっているけれども、ただ、黙っているだけなのでしょうか? なんかヘン。ヘンとしか言いようのないことが進行している気がしてならない。それは、私が万年筆で紙の原稿用紙に原稿を書き、紙で出来た本を町の本屋さんで売って暮らしてきたというアンシャン・レジーム側に属しているから、そう思えるだけなのでしょうか?

 何か観念的な急進性のために、現在ちゃんと機能しているものまで壊してしまっているということはないでしょうか? どうもそんな気がします。

 これまでの産業構造の転換期にあった政策と現在の政策の比較を、誰か試みてはもらえませんでしょうか?

書評・時評・本の話 1978〜2008

2010年10月06日(水)

 河出書房新社の小池さんと、今、編集している評論集の打ち合わせをしました。「書評・時評・本の話 1978〜2008」というタイトルになるはず。はずと言うのは、三つの単語の間にナカグロが入るか、入らないか、この語順で並べていいのかなど、これからの検討事項が含まれているからです。

 しかし、その前の「原稿を集める」という大仕事があります。すでに関係の皆様にはいろいろと御協力をいただいていまして、御礼申し上げます。自分でも不思議だと思うのだけど、記憶にちゃんと残っているような仕事が、どうしたわけか、スクラップには残っていないのです。理由のひとつは、たぶん、単行本や文庫本に収録された文章をとっておくときに、ある時期までコピーを使っていなかったことがあるでしょう。自宅の前にコンビニが出来て、そこでコピーを取れるようになってからは、コピーで保存しています。が、その前は「本」そのもので保存していたので、その「本」がどこかに紛れ込んでしまったのです。そういうわけで「原稿を集める」という大仕事で、あっちへうろうろ、こっちへうろうろしています。もちろん、助手の寧々ちゃんにも、あっちへうろうろ、こっちへうろうろしてもらっています。

 今日は装丁の話もしました。装丁については、また、改めて書くつもりです。

評論集の編集と講談社文芸文庫

2010年10月05日(火)

 評論集を編集しています。1978年から2008年までの、編年体になる予定。書名はまだ仮タイトルですが「書評、時評、本の話 1978〜2008」になる予定です。今年の12月に出る予定なのですけれども、手元にあったスクラップにかなり抜け落ちがあるので、原稿の収集に時間がかかるかもしれません。

 以前、伊藤さんに「あれを読んで私と同じことを考えている人っているんだと思ったの」と言われた朝日ジャーナルの「育児書」も収録しました。この「育児書」というエッセイの原型はクロワッサンに書いた記事です。クロワッサンの記事は、私からお願いして書かせてもらったものです。こうした育児書関係のエッセイが伊藤さんの「良いおっぱい悪いおっぱい」に繋がったかどうかはわかりませんが、ともかく育児書は小児科医などの専門家による啓蒙的な時代から、自分の手で子どもを育てる人、つまり、当事者の書くものへと変わっていったのでした。評論集では文芸評論に限らず、初期の頃の育児書などについて書いた文章も含め、本にかかわりのあることについて書いたものを広く集めました。

 同時並行的に進めていたのが講談社文芸文庫の「女ともだち」で、年表作成は東京女子大学の近藤裕子さんにお願いしました。近藤さんは那須にご滞在中で、年表のチェックはメールですることになりました。こういう仕事だとメールはすごく便利です。また文庫解説は角田光代さんにお願いしました。まだ角田さんの解説は読んでいませんが「良い原稿でした」と講談社の担当編集者の人から連絡をもらっています。今から角田光代さんの解説を読むのを楽しみにしています。

ぼやく。ささやく。つぶやく。

2010年10月03日(日)

 まだちょっと「ぼやきたい雲」が胸からお腹へかけてふわふわと浮いている感じ。「ぼやきたい雲」は近頃、出現した「雲」で、今までだったら、すぐに積乱雲に発達していたのだけど、雷を落とす元気もなくなったのか、それとも鈍くなったのか、どっちだろう。「ぼやきたい雲」は白くってふわふわしていて、あっちへ飛びこっちへ流れしている。

 しばらく「ささやく」ってのを忘れていたようだ。「ささやかれた」こともないし、「ささやいた」こともない。「ささやく」ってどんな感じでしたっけ?「ささやく」って「囁く」とか「私語く(ささやく)」って書くときがあるのだけど。口に耳が三つねえ。

 田原総一朗さんが出ていた「ガキの使い」を見ていたら、マイブームは「ツイッター」だと言っていた。ははんなるほど、と納得。そのツイッターって、なんか「つぶやく」って感じと違うなあと思っていたら、星野智幸さんに「さえずる」って意味だって教えてもらった。小鳥のさえずり。烏とか、鶴とか、鷲や、鷹は「さえずる」とは言わないのだろうなあと、嘆息。

ぼやきたい。

2010年10月01日(金)

 ぼやき漫才ってのがありました。なんかぼやきたい。たぶん一番の理由は、マンションの外壁塗装工事をしていること。建物全体に防護用の網が張り巡らされています。だから、ちょっとぼやきたいってわけ。三度目の大規模修繕です。一回目のときに比べたら、防護用の網もずいぶん改良されて、家の中もそれほど暗いわけじゃあないんですけど、やっぱりぼやきたい。

 二つ目はフォーラム神保町のメンバーの魚住昭さんからウェブマガジンの「魚の目」にエッセイを書くように依頼されているのに、まだ、書けないこと。「象の鼻毛」っていう通しタイトルまでは決めたのですけど、なまじ400字詰め原稿用紙7枚のきちんとしたフォルムのあるエッセイを書こうとしたために、なかなか着手できないでいます。ネットを使うようになって、全体のフォルムを考えずに書き出してしまう文章を書くことが多くなったので、逆にしっかりとしたフォルムの文章を書きたいと魚住さんには話したのですけど、ツイッターを始めたおかげで、現実には、輪郭やフォルムのない断片的な文章ばかり毎日、タイプするはめに。ウクレレ漫談をやっていた牧伸二なら「あ〜あ、やんなっちゃった。あ〜 驚いた。」って歌いたいような心境。

 ま、ぼやきたいんです。ぼやかしてよ。

   
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