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中沢けいコラム「豆の葉」
   
 

まだ雪をかぶっている八甲田山

2007年05月31日(木)

 青森の八甲田山はまだ白い雪をかぶっていました。今年は平地では雪が少なかったのですが、山の雪は多かったとのことでした。7月のはじめころまで、八甲田山は雪をかぶっているという話です。

 27日の日曜日、八戸は冷たい雨が降っていました。気温は8度もしくは7度という発表でしたが、体感温度はそれ以下の感じです。身体が暑さになじんでしまっているので、とても寒く感じま。青森県の太平洋側では「やませ」と言って夏の寒さがひどいのです。「やませ」を体験するのが二度目ですけど、やあ、寒い、寒い。翌日はよく晴れました。晴れると陽のあたっているところは真夏です。でも木陰などに入ると、ひんやりして、この冷たさは独特です。青森側から見る八甲田山もいいものですが、八戸側から見る八甲田山もなかなかです。山ってみる角度でぜんぜん表情が違います。

 八甲田山の中腹あたりでは、もう新緑が燃えていることでしょう。今週、法政大学の客員研究員として日本にご滞在中の姜英淑さんを青森にご案内するつもりです。
韓国では紅葉狩りを楽しむ習慣があり「丹楓観光」(タンプンカンジュ)と言います。青紅葉という言葉をうまく韓国語でも、英語でも伝えられなかったの「タンプンのこども」という言い方をしたら姜英淑さんが大笑いをしていました。八甲田山のぶなの林は世界遺産になっていますが、新緑の季節に訪れるのは久しぶりです。

情報機器

2007年05月27日(日)

 最初にパソコンを購入したのが95年でした。まだ日本語のヤフーのサイトもありませんでした。なんとなく便利そうな、でもどんな実用性があるのかわからない玩具みたいな道具という印象でした。携帯電話を持つようになってから8年目。カメラ付きなんていらないや!と思っていたのに、そろそろカメラの機能が高い携帯を欲しくなってます。もしパソコンがなければ、カメラ付き携帯が欲しいなんて思わなかったかもしれません。

 木曜日から、それらの情報機器が大活躍。と言いたいところですが、ちょっと機械に振り回されている感じです。地下鉄で移動中に大庭みな子さんが亡くなられたことを知らせてもらったのは木曜日の昼頃。3コマの授業をして、法政の80年館の受付で「休校措置ですね」と受付の人が電話応対をしているのを小耳に挟んだのが夕方でした。一緒にいた深野女史と「あれはきっと多摩キャンパスが休講になったんだ」と話しながら富士見坂を下って、軽子坂の軍鶏料理屋へ。姜英淑さんと韓国から来た5人の女性作家に安宇植さんを交えて会食中に「やっぱり多摩キャンパスは休講でした」という携帯メールが深野女史からありました。で、その間にもいくつかの新聞社からの電話があったのですが、「はしか」休講と大庭さんの件が入り乱れて、だんだんわけがわからなくなってきました。

 金曜日の午前中、静岡新聞の志賀さんから携帯に電話。「大庭さんの追悼文を書くんでしょ?」という質問で「いや、いまやってます」と大慌て。共同通信に約束した原稿でした。で、なんとか午前中にこの原稿を仕上げ、共同の金子さんとのやりとりは急いでいるので家デン(家の固定電話を子どもたちはそう呼んでいます)とパソコンと携帯を駆使しました。なんとなく「市ヶ谷もなあ……」という感じで学校に出てみると、とりあえずは無事。帰りはなぜかぶらぶら歩いていた坂本先生と出っくわして、ちょっと一杯。

 土曜日の朝、家を飛び出して羽田から青森に飛びました。深野女史からは「慶応が休講になりました」の情報が携帯のメールに入ってました。もし法政が休講になったら深野さんに知らせてもらうことになっていました。月曜日の授業がある長谷川先生には、休講措置が出たら私からお知らせするお約束になっていました。青森で空港を出てみると、長谷川先生の伝言が携帯に入ってました。「法政が休講になったそうです」そこで深野女史にメールをしてみると、まだ法政の休講の連絡は入っていませんでした。約束していた手はずとちょうど逆になったかたちです。で、それから、携帯メールが大活躍。授業以外の予定をどうするかという相談メールがあっちこっちに飛び交いました。最後は八戸のホテルでノートブックパソコンをネットにつないで予定の再確認。やれやれ。もし情報機器がない時代だったら、月曜日の飛行機で東京に戻って、学校の正門で「へえ、休講になってたんだ」と驚いていたことでしょう。

 いいんだか。悪いんだか。ちょっと複雑な気分。いずれにしてもくたくた。

日芸も全学休講だって

2007年05月21日(月)

 日芸の夫馬先生のMIXIを見ていたら日芸も全学休講ななのだそうです。にわかには信じがたくて、日芸のHPを覗いてら、ちゃんと休講のお知らせがありました。日大の文理が休講になっていたのは知ってましたが、場所は世田谷の桜ヶ丘なので、江古田とは離れているから「まさか」でした。

 ええと人間と一緒にしてしまってはまずいかもしれませんが、昨日、東京競馬場へオークスを観戦しに行ってきました。毎年恒例になっている中央競馬会のご招待です。で、オークスでも桜花賞の一着馬と二着馬が発熱のためにレースに出られず、混戦模様でした。それだけレースそのものはおもしろかったのですが、ううん?これはいったいどうしたことでしょうか?

 吉行和子さんと初めて御話をしました。オークス懇親会のおなじテーブルに吉行さんがいらっしゃったのです。私はこれまでパーティなどでお姿は何度も見ているのですが、御話したことはありませんでした。私が幼稚園の頃、NHKのお話のお姉さんをしていて、その頃からの憧れの女優さんなので「恐れおおくて」お話もできなかったのですが、吉行さんから御挨拶されて、びっくり。あと高橋洋子さんは一年に一度、このオークスの懇親会でお目にかかるのですが、ぜんぜん変わらないのです。女優さんと政治家ってのは、近くでみるといつも不思議だなあと思います。

 それで「はしか」なんですけど、法政大学はどうなっているんでしょうかねえ?私が知っている限りみんな元気で「はしか」の「は」の字も見える様子がないんですけど。

横須賀美術館

2007年05月19日(土)

 浦賀水道は世界でももっとも交通量の多い海域と言われていますが、横須賀美術館は、その浦賀水道を見下ろす走水にあります。観音崎とすぐ下と言ってもいいかもしれません。07年(つまり今年)4月28日にオープンしました。道路からなだらかな芝生の斜面があり、そこに新しい建材を多様した白い平屋の美術館があります。空と海との間にある美術館という感じです。平屋と書きましたが、実は地下は3階まで広がっていて、館内に入るとかなり広々とした空間が広がっています。
 景観のじゃまにならない建物。あるいは景観を一体になる建物という設計です。開館記念の展覧会は「生きる」をテーマにした現代作家のグループ展です。

 グループ展の出品者のお一人で、「うさぎとトランペット」の新聞連載時の挿絵を描いてもらった小林宣孝さんのアーティストトークを聞きに行きました。日本にいるときは潜水艦を書いていた小林さんは、バンコックへの留学をきに「お皿」を書き始めます。それから「枕」を書き始めます。お話を伺っていると人の気配が感じられるものから、しだいに人そのものを描くようになってゆくプロセスがよくわかりました。「うさぎとトランペット」のころには「眠っている人」を描いていて「私を夢見る私」や「小さな死」というタイトルが絵についていました。「うさぎとトランペット」の連載一回目で宇佐子がぱっちり目を覚ますところを描いていただいたのを思い出しました。最近の個展では髭おじさんを正面から描いたポトーレイトが印象に残っています。

 アーティストトークが終わったあと、横須賀美術館の館長の原田さんも交えて、テラスでしばらく御話をしました。浦賀水道を行くタンカー、貨物船、客船、などなどさまざまな船を眺めながらのお茶でした。レストランは六本木に本店があるイタリアンレストランだそうです。おなじテラスで犬のバグを連れた人がお茶を飲んでいました。バグは暑さでちょっとお疲れぎみでしたが、レストランのボーイさんから、タッパーに水を入れたものをもらって満足そうにしていました。ボーイさんがテーブルのお客さんに水を持ってくるついでに、犬にも水を持って来てくれたのでした。ちょっといい感じの眺めでした。でも夏になったら、ものすごく混雑しそうな美術館でもあります。

方の会 市川夏江さん

2007年05月14日(月)

 銀座のみゆき館劇場で方の会の「文の屋の女たち」を見てきました。昭和の初期の遊郭の物語です。10歳になるかならないかの女の子が、郷里の親からお金を無心される場面で、主人から「一度、田舎に帰って家の様子をみてきてはどう?」と進められる場面で、家に帰らずに借金を増やすことを承諾する場面は、なぜか、今この時代でもああいうことはあるよなあという気がしました。もちろん、娘の身売りなんてことはないのですが(表向きないことになっているとも言えますが)子どもは親のむたいな要求に黙って応じてしまうことがあります。昭和の初期の遊郭なら、それが親のむたいな要求だと誰にでも判りやすいのですが、今の時代では、ちょっと判りにくいかたちで、そういうことがありそうです。例えば「良い私立中学に入れ」というような要求だったりと言うと、お金の無心するのとは違うと言われそうですが、無条件で頷く子どもの心根はあまり変わりがないところがありそうです。

 脚本は座長の市川夏江さん。舞台では文の屋のやり手婆を演じています。花魁が一人、殺されたのか、自殺したのか、ともかく部屋で死んでいるのが見つかったというところから始まり、死んだ花魁の身の上が徐々に明かされた行くという芝居です。最後にやり手婆の独白は前述の無言で頷いた少女の心理と響き合って、品の良い美しさが漂っていました。古い時代の物語ではあるけれども、最後の独白を聞いていると、時代の新しい古いでは分けられない人間のプライドについて聞かされているようでした。


 銀座のみゆき館劇場はビルの地下にある小さな劇場です。芝居が終わって階段を上っていると、舞台を終えたばかりの市川さんとばったり出会いました。
「あ、米元さん」
 顔を見て、私のことをすぐに思い出していただけたようです。米元は私の母の旧姓です。市川夏江さんと私の母は中学、高校の同級生でした。
「そうです。その米元の娘です」
 そうご挨拶しました。親族を除けば、母が生きてこの世にあったことを知っている人も少なくなりました。ましてや娘時代のことにまで遡って知ってい人はほんのわずかです。母が亡くなってからもう27年になります。生きていればと、ちょっと母の年齢を数えたりしました。いつもお芝居の案内をいただいても、なかなか伺えないのですが、行くだびに、なんだか若々しく、品良く、美しくなられる市川夏江さんです。

ややや、上智大学は全学休校だって

2007年05月12日(土)

 ネットで「はしか」のために、上智大学は全学休校に入っているというニュースを見つけました。上智大学と言えば、私が勤務している法政大学とは、お堀伝いにお隣どうしのようなものです。電車の駅も飯田橋・市ヶ谷と四谷は並んでいます。ということは……。

 前兆というのか、大学院生が次々とおたふく風邪とかはしかなどの子どもがかかる感染症にかかったと聞いて驚いたのは、昨年の夏休みのことでした。そのときの説明では、大学院生は学習塾や予備校など、若い人が多い場所でアルバイトをしているので、そういう場所には子どもがかかりやすい感染症の菌がいっぱいいるんだという話でした。菌の濃度が高いので、大人(この場合は大学院生)も感染しやすくなるっていう話だったのです。

 連休前にやはり大学院の講義の途中で「首都圏ではしかがはやっているみたいですよ」という話題が出ました。そのときは何気なく聞いていました。春から晩春、初夏にかけては感染症の季節で、子どもが保育園に通っていた時には、毎年、なにかしらの感染症で登園停止になっていました。そういうふうに病気をしないと免疫力がつかないのですが、それが判っていてもそのたびにあわてふためいていました。

 大学が「はしか」で全学休校になったなんて話は初めて聞きました。全体に免疫力が低下しているとか、あるいは、感染症の菌のほうが強力になっているとか、そいう変化があるのでしょうか?

びっくり、びっくり。

2007年05月10日(木)

 ここのところずっとパソコンをいじっていました。いや、私がいじっているのではなくて、ここ(豆畑の友)の管理人の豆蔵さんとうちの息子がいじってくれていました。で、これから始まる新聞連載に備えるという意味もありました。その新聞連載ですが、はじまりは8月頃にずれ込みそうです。

 で、ここ二日の間に、二度びっくり。最初は牛丼パソコンがネットにつながらなくなってしまいました。ああ、これはえらいことだ!うちの馬鹿息子はなにをやらかしたのだ!考えるよりも先に怒りがこみ上げてきました。なんか、私の頭の中では我が息子が中学生で成長を止めてしまって、(ほんとうはもうちょっと分別のある25歳なのですが)それで、きっと何かの作業を中途半端に投げ出したに違いないと腹を立てたのでした。
 結果は牛丼パソコンとモデムのラインがつながっていないという単純なもの。しかもよくよく思い出してみるとラインを切ったのは私でした。

 二度目のびっくりは、これまた牛丼パソコン。今度は電源が入らないのです。スイッチを押してもおしても真っ暗のまま。あの特徴的な唸りも聞こえてきません。うんともすんとも言わないのです。これまた、電源のコードが抜けていました。なぜ抜けたのか?その原因はわかりませんが、息子に言わせると、セットアップのために本体を動かしていたから、ゆるんだのではないかということでした。ううん。名前がなあ、名前が名前だけにあんまり信用していなくて、すぐ不安になっちゃうんだなあと。こう年中驚かせられるのは、ほんと心臓に悪いです。

うなる牛丼パソコン

2007年05月08日(火)

 前のパソコンがだめになったのは確か二月の末か三月の初めでした。それから、ノートブックPCをしばらく使って牛丼パソコンを買ったのは4月1日。うそじゃないって。うそみたいな日に買ったせいでしょうか? これが唸るのです。牛丼だけに。いや、そんなことはないか。

 ぶいんん。ぶいんん。ぶいんんんん。ぶいんんんん。てな具合で、長時間使っているとだんだん音は大きくなってきます。やや不安。音そのものは、私はあまり気になりません。音がしていることが正常なら、なんとなくその音になじんでしまいます。前にぎゃってぎゃっていパラぎゃっていと般若心経を唱えるプリンターを使っていましたが、あれもちょっと好きでした。今のプリンターは静かです。ただ、その音が何かの不具合であることを恐れているのです。仕事の最中にもし「ばきっ」なんて音がして、PCが使えなくなるなんて悪夢以上ですから。今度も前のPCが使えなくなって、なんとか仕事がスムーズにできるようになるまでに、なんと3ヶ月かかりました。

 パソコンって早め早めに入れ替えを考えて行かなくちゃならない道具なのかもしれません。牛丼でちゃんと超漢字Vが使えるようになりました。印刷もできればメールも送ることもできます。超漢字の特徴であるたくさんの漢字表記ができるという点は、一年間、歴史小説を書いてみるといろいろな場面で威力を発揮してくれることと思います。もちろん不具合も出てくるわけで、それはそれでおもしろそうだなあって思っています。

 牛丼パソコンを買ったのは、もちろん安いということもありますが、ウィンドウズXPを使いたかったからです。家の近所の電気屋のPCはどれもウィンドウズビスタになってしまっていましたから。私にとってこれも何か納得のできない話で、使いやすいOSの使いやすいバージョンを選ぶことができないというのは、なんだか道具としては不親切だなあと感じています。単純な筆記具だともっといろんな品物をいろんなバージョンで選べるのにって、やや、不満を感じているところです。もっとも、その筆記具も最近ではモデルチェンジが早くなっていて目まぐるしい感じがしていますが。

ビロードのうさぎ

2007年05月02日(水)

 池袋のリブロの児童書の売り場の前を歩いていて、ショーウィンドに「ビロードのうさぎ」があるのを見つけました。「ビロードのうさぎ」ってあの「ビロードのうさぎ」かしら?と思わず店内に入ってしまいました。まさしくあのビロードのうさぎでした。クリスマスにプレゼントされたビロードのうさぎ。で、プレゼントされた男の子の良い友達になるのですが、男の子が熱病にかかって命を落としかけます。男の子は無事回復するのですが、ばい菌がたくさんついているだろうビロードのうさぎはそのほかの持ち物と一緒に焼き払われることになるという物語です。

 ブロンズ新社というところから出た本で、抄訳と絵は1966年生まれの酒井駒子さんという人です。だから私が持っていた「ビロードのうさぎ」とはまった違う本ですが、買ってしまいました。孫と読むぞ!いや、ちょっと気が早い感じもしますが。この本、うちの子供たちが小さい時に探したのですが、どこにもありませんでした。それから自分の持っていたはずの「ビロードのうさぎ」ですが、こっちは記憶が怪しいのです。どこの版元のどんな本だったか覚えていないにもかかわらず、絵柄の感じがぼんやりと頭の中に残っています。だから、自分の本ではなくてともだちの家で見た本なのかもしれません。あるいは幼稚園にあった本かな?とも考えてみるのですが、それも定かではないのです。どこで読んだのか場所の記憶が消えている本です。子どもの時い読んだ絵本で場所の記憶が消えている本というのは、私にとってはかなり珍しいものです。

 池袋へは共同通信から依頼されたコラムを書くために新潮文庫の「室生犀星詩集」を買いに言ったのです。25歳くらいの時に、中学生、高校生の時、読んだ本をいっぺんに処分してしまったことがあります。室生犀星詩集もその時に古本屋さんに売り払ってしまった一冊ですが(集英社のシリーズものの一冊の室生犀星集は売り払わずに今でも持っています)なんだかこのごろ、中学生の時高校生の時に読んだ本をまとめて読みたくなっているのです。ついでに新潮文庫で堀口大學訳の「青い麦」も買ってきました。これも中学生の時に読んだ本。というか、それで小説を書き出したという本です。こちらは週間新潮のコラムのため。表紙が昔と同じ緑色をしていました。それで帰りに「ビロードのうさぎ」に呼び止められたというわけです。この本は2007年の4月に出たばかりの本なのに、どうしたわけか慨視感があります。なんでだろう?

   
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