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中沢けいコラム「豆の葉」
   
 

一夜明ければ雨

2005年10月31日(月)

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 昨日の夜景とほぼ同じ方向を翌日の朝に撮影したものです。大阪の北や中ノ島の高層ビル群がなんだか雲がいたずらして作った蜃気楼のように見えました。

箕面温泉

2005年10月30日(日)

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 大阪のシンポジウムのあと箕面温泉に泊まりました。
 以前、同じマンションに住んでいた人が大阪の箕面に越したので「箕面温泉」と聞いた時にはにわかに信じがたい感じがしました。住宅地を想像していたからです。
 淀川の流れる平野がゆっくりと山地に登って行く箕面は昔は別荘地だということでした。夜景を写真に撮ったのですがぼけぼけになりました。説明なしではなんだかわかりせん。説明があってもなんだかわからないかしら。
 とほほほ。

豆蔵さんお留守番をお願いします。

2005年10月29日(土)

 今日、成田の図書館で講演をします。それから成田に一泊して明日の昼の便で台湾に出かけます。豆蔵さんに留守中の「豆の葉」のアップをお願いしました。豆蔵さん、お留守番よろしく!

 台湾といえば台湾バナナなんてね。子どもの時、幼稚園に入る前のことですが、週末にバナナを一本買ってもらうのが楽しみでした。台湾バナナです。昭和30年代の日本では輸入が自由化されている果物で一般に親しみがあるのは台湾バナナくらいでした。けっこう高かったので弟と私で一本のバナナを半分づつにして食べてました。それでは行ってきます。

台湾に行きます。

2005年10月28日(金)

 10月30日から11月6日まで台湾に行ってきます。台湾は初めてです。その間「豆の葉」のアップは豆蔵さんにお願いします。なんだかちょっとここのところ忙しかったのですが、「豆の葉」のアップを休まない日が多かったのでお留守番をお願いする豆蔵さんだよりでちょっとずつアップしておこうと思っています。

 でもまだ、ぜんぜん、「豆の葉」の原稿を作ってませんから、少々、予定原稿が足りないなんてこともおきるかもしれません。その時はごめんなさい。

 もともと、ものを書くのは好きでしたが、なんといったらいいのか「気楽にものを書く時期がすごく少なかったなあ」とHPに「豆の葉」は書き始めてから感じていることがあります。すごい緊張して文章を書いてきたんだなあと、そんなことをたまに思います。まあ、それにしてもすごいタイピングミスのある「豆の葉」です。「ばかざわ」(NとBを打ち間違えた)に至ってはもう伝説的ですが、これからもどうぞよろしくお願いします。

 今夜、これから留守中の予定原稿を作ります。

外は雨。

2005年10月27日(木)

 土曜日、日曜日と大阪に行っている間、東京は良いお天気だったようです。大阪は雨が降ってました。もっとも晴れ女の津島佑子さんと一緒だったので、表を出歩く時間帯は雨がやんでいるという都合の良さです。ほんとうに晴れ女とか雨男っているんですね。

 きょうは雨。昨日から微妙な降り方をしています。いささか冷えた雨で、家から見える雑木林の樹木がしだいしだいに色づいて行きます。これで雨が上がって気温が冷えたら、もう色とりどりに染まるのでしょう。

 昨日、市谷の土手を歩いていたら、小雨の中、土手の植栽の手入れをしていました。生い茂った葛の葉や蔓をかったあとのかぐわしい匂いが湿った空気の中を漂っていました。

カラフル

2005年10月26日(水)

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 大阪のシンポジウムは盛況でした。そしてなぜかカラフル! 特別に打ち合わせをしたわけではありません。時々、司会者の人やほかの出席者(女優さんなどがいる場合にとくに)着る服の色を問い合せてきたりするのですが、今回はそんなこともなく、でもカラフルってことになりました。
 テーマは「女が書く 女が読む」でしたが、実際はどうやって原稿を書いているのか?という話題が多くて、大笑いの連続でした。「夜書くのか? 昼書くのか?」そういう質問から始まりました。この質問はよく聞かれる質問のひとつです。でも女性の書き手にとっては原稿を書く時間をどこで確保するのかはかなり切実な命題でもあることは確かです。「原稿を書く時はなにを着ているのか」これは質問ではなくて話の自然な流れで出た話題ですが、「パジャマで」というのはどういうわけか四人とも一致してました。「書けないときはないのか?」という質問に小川さんは「一字でもいいから書くと先が開けてくる」というお答え。これも同感でした。
 しかし、なんで一番太っている私が膨張色を選んじゃったんだろう? ううん、これって何も考えていない証拠ですね。

今夜は少し冷えます

2005年10月25日(火)

 軽井沢に旅行に行っていた娘が帰ってきました。軽井沢でも今年はまだ紅葉が見られないようです。でも、今夜の東京は少し冷え込んでいます。
 
 だんだんと春や秋が少なくなって、やたら暑い夏とぼんやり寒い冬ばかりになってしまうのでしょうか?

 帰り道にある花屋さんで綿の実を売ってました。ドライフラワーです。棘がある綿の実の殻はじけて、中から真っ白な綿が覗いていました。

 いつだったか「豆の葉」で紹介して江古田の駅前のプラタナスですが、今日その樹の前を通りかかったらものすい勢いで芽を伸ばしていました。びっくり芽に近いひょろひょろと長く伸びた枝には、不似合いに大きな葉っぱがついていました。樹も必死なのでしょう。

 

野球の話二題

2005年10月24日(月)

 大阪女性文芸協会のシンポジウムでご一緒した小川洋子さんは阪神ファンだと知りました。で、対ロッテの日本シリーズ第一戦の結果は10対1のまま濃霧のためにコールド試合になりました。ファンというのはあんなに落胆するものかと感心するくらい小川さんは落胆してました。優しい小川さんの落胆を見ていると、慰めの言葉もないくらいです。

「千葉ってそんなに霧が出るところなんですか?」
 と小川洋子さん。
「まれに、ごくまれに冬の早朝などに濃霧が発生して羽田空港が閉鎖になったりはしますけど・・・」
 そうめったにないことです。秋の夜に濃霧なんて。しかし、土曜日午前中の新幹線で「今夜、日本列島上空に寒気が流れこむ」の電光文字が光ってました。それが濃霧を生むなんて思っても見なかったのですが。

 小川さんには申し訳ないのですが、帰りの新幹線で近くの席の人が読んでいたスポーツ新聞には「虎 悪霧」の文字が、そして一面トップの写真は朦朧とした霧でした。ああ、せっかく大阪にいたんだから、大阪駅で阪神よりのスポーツ新聞を買うんだったとちょっと後悔。あの濃霧の写真だけでも、新聞を買って保存しておく価値がありそうでした。

 電光掲示板のニュースは「法政 秋季リーグ完全優勝」の文字が流れてました。関係している学校が優勝するとやっぱりうれしいです。法政応援団の虎ちゃんはきっと優勝パレードの準備で忙しいんだろうなと、喜んでいる顔を想像しました。

 喜ぶ人もあれば落胆する人もあり。でも、家に帰って日本シリーズ第二戦の10対0の記録を見た時には、我が目を疑ってしまいました。

石割さくら

2005年10月23日(日)

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盛岡といえば裁判所前の石割ざくらが有名なようで、ホテルでもらったパンフレットにも記述がありました。今年は紅葉が遅いようでまだ青々としていました。この石割ざくらが満開になったところをみたいものです。

立派なつげの樹

2005年10月22日(土)



 盛岡の県民ホールの前で立派なつげの樹を見つけました。こんなに大きくてしかも丸く刈り込まれているつげの樹は初めてみました。赤い実がたくさんついていて、ちょっと変わったクリスマス・ツリーみたい。

終わって初めて解ること

2005年10月21日(金)

 フランス自然主義を矮小化して受容した日本の自然主義ですが、これが私小説を生み出します。私小説にはいろいろな議論があるのですが、結局のところ、近代的な文章で語られる叙情を生み出すという役割を大きく果たしたのではないでしょうか?

 鴎外は「ウィタセクスアリス」を書いた翌年に「青年」を書いています。このニ作品を読むと、鴎外は自然主義が科学主義的態度で社会を観察して書くという自然主義の方法を理解していたようです。で、その限界にも気付いていて、「青年」以降は歴史小説を書くようになります。

 ところが、フランス自然主義文学を矮小化して捉えた日本の近代文学は告白と描写を組み合わせることによって、近代的叙情を切り開いて行きます。これは日本の発明でした。たぶんそういいきってかまわないと思います。言語改良運動は、どうしたって旧来の叙情を殺してしまうものですが、観察という方法論は告白と言う主観表現を呼び込むことによって、叙情の再構築を可能にしたと言えるでしょう。

 近代文学は終わったというのは90年代に入ってからの文芸評論家の意見でした。気短な批評家は文学さえ終わってしまったかのような極論さえ唱えましたが、終わって初めて理解できることというものがあると思います。今、鴎外の「青年」を読むと、近代文学の終焉の時の諸相が早くも鴎外が予想するところになっているのに驚かされます。が、その鴎外の自然主義が私小説を生み、それが近代の散文的叙情を構築するという展開は予想できなかったようです。韻文あるいは韻は踏んでいたくても詩的な叙情についてはこれとは別な展開があったようですが、そのあたりは詳しくないので、今度、詩人の城戸朱理さんにあったら聞いてみたいと思います。

 そうそう城戸朱理さんのブログを見つけました。骨董市の買い物日記がおもしろいです。

ゾラ・バルザック・フローベール

2005年10月20日(木)

 文芸評論家の秋山駿さんが「歳をとると中学生頃までに読んだものをくりかえし読むようになるんだ」とお話してたことがあります。秋山さんはドストエフスキーでした。ドストエフスキーは大事に思っている読者が大勢いるようで、うちの娘の「ガンバッテ」読んでいました。私の場合はドストエフスキーはやや苦手で、ロシア文学ならチェーホフでした。

 若いときってよくもわるくも「本気」で読んでしまうのですね。その「本気」が歳をとってからくりかえし読む原動力になると言うことがこの頃わかってきました。
で、鴎外の「青年」を読んでいると、やはり自分が馴染んだのはゾラであり、バルザックであり、フローベールだったんだなあと思いました。そんなに研究したというわけではありません。大人の本が読めるようになったばかりの頃に、なじみを感じて読んだのがそういうフランスの自然主義作家の作品だったのです。それが日本文学にも影響を与えて私小説を生んで行く道筋が、目に見えるような感じがこの頃してきました。高い丘の上に上って歩いてきた道を眺めているような気分です。

森鴎外の「青年」

2005年10月19日(水)

 森鴎外の「青年」を読んでいます。以前、読んだ時にはこの小説が日本の自然主義批判だとはまった気付ませんでした。が、読み返してみると、この小説が書かれた当時のフランスの様子なども視野に入れた自然主義批判なのです。フランスではフローベールもバルザックもゾラも登場してしまって自然主義はいささかの行き詰まりを見せているのに、日本では盛んに自然主義を唱えているという状況の中で話はすすんで行きます。そういう視点で読み返すとおもしろことがたくさんあります。

 日本の自然主義は「観察して写生する」つまり描写という方法を文学に根付かせました。そこから私小説も生まれてくるのです。私小説は近代の叙情を生み出す上で大きな役割を果たすことになったというのが、私の考えです。鴎外はこうした発展は予想してなかった様子なのも「青年」の読みどころです。私小説が生み出した叙情が形式を備えるのは1950年代なのではないかという仮説をたててます。そして、その叙情の形が大きく崩れて行くのが1980年代だとするという仮説を立ててみています。こうした仮説を考えるうえで、鴎外の「青年」には示唆的なものがたくさんあります。

外堀土手の枳殻の実

2005年10月18日(火)

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 法政大学の前にある外堀の土手はいつ歩いても気持ちが良い道です。この土手にはいろいろな樹が茂っています。枳殻の木も何本も生えています。そのなかで毎年黄色い実をつけるのは飯田橋寄りの一叢です。たぶん日当たりの関係なのではないかと思うのですが、この一叢だけはたわわな実りがあるのに、ほかの繁みはとげとげの枳殻の木で、ほとんど実はついていません。

 枳殻の実がたくさん生っていたでしょうと言っても気がついている人はほとんどいません。あら、そう?っていう返事が帰ってくるだけです。誰も見ていなくても枳殻は毎年ちゃんと実をつけています。

先生こんにちは

2005年10月17日(月)

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 盛岡に行く前に、法政大学の前の外堀の土手の上でちょっと休息中の勝又先生に出会いました。カメラを取り出すと「おや、また、なんでそんなものを持っているの。ああ旅行なの」と、おっしゃっている間にパチリ。こういう場所で出会うと文芸評論家の勝又浩氏というよりも「先生、こんにちは」と言いたくなります。「旅行」と言われても、盛岡に行って帰って合計18時間の移動なので「なんだかなあ」という感じでした。

こんなお天気の良い秋の日は、新幹線や飛行機で飛び回ったり、空調のあるビルの中で会議や講義をするよりも、土手の上でおしゃべりをしているほうが人生にとって有意義な気がするので、困ったものです。

最低気温9度・盛岡

2005年10月16日(日)

 13日夜、新幹線で盛岡に行きました。翌日、盛岡市内で講演をして、その日に夕方には法政大学で講義をしているというとんぼ返りの日程でした。

 盛岡の最低気温は9度。最高気温32度の那覇から比べるとその差は23度。こんな温度差に堪えられるかしら?とやや不安だったのですが、今のところ風邪も引いていないようです。なんだか「ばかは風邪をひかない」という声が聞こえてくるようですが。

 盛岡でも山では紅葉が始まっているということですが、平地はまだ赤く色づいている樹木は数えるほどしかありませんでした。今年は全国的に紅葉の時期が遅いようです。

ズームのおけいこ

2005年10月15日(土)

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 近づいてくるゆいレールの車両はズームで撮影しました。3倍ズーム機能がついているカメラを持っているのですが、これまでどうやってズームを使ったらいいのか解らなかったのです。どうも機械のマニュアルが苦手で、使いながら、少しずつ必要なところを読んで行くというやり方で慣れて行くしかないような付き合い方をしています。今日の赤い花は、ゆいレールのしたの往来に咲いていた花です。
 沖縄はまだ真夏でした。

ゆいレール

2005年10月14日(金)

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 沖縄には戦前、軽便鉄道があったそうです。戦後は鉄道はまったくなく、自動車社会でした。その沖縄に那覇空港から首里までモノレールが走りました。ゆいレールと呼んでいます。空港から県庁前を通り、牧志から新都心のおもろまちを抜け、終点は首里です。おととしから
開業しています。これに乗れば空港から首里まで那覇周辺の主要な観光地を歩くことができます。なかなか便利で快適。写真は県庁前駅から空港方面を撮影しました。こうしてみると沖縄も変わったなあと感じます。

気温32度に戸惑う。

2005年10月13日(木)

 昨日、一昨日の那覇の最高気温は32度でした。一応出かけるまえに、ネットで最高気温と最低気温は調べていたのですが、なんだかぴんときません。那覇に到着したとたんにストッキングに革靴を履いていることが愚かしいと気付きました。それに帽子もサングラスも持参していませんでした。

 ううん。数字で理解しているということと、実際は「ああ、帽子をかぶらなっくちゃ」とか「サングラスがほしいなあ」と思うのはなにか、違います。もともとあまり用心深いほうではないので、いつもこの違いに面食らって、なんて学習効果がないんだと我ながら呆れています。でも空港にいる人っておおかれ少なかれ、どこかちぐはぐなかっこうをしていますね。用心が足りないのは私ばかりではないかって、なんとなく、安心。

沖縄からただいま。

2005年10月12日(水)

 沖縄の那覇を21時に出発する飛行機で東京に帰ってきました。で、羽田到着は11時30分。キャビン・アテンダントの女性が飛行機の扉をいかにも重そうに開けて、扉の向こう側にいた地上整備員の人に「こんばんは」ときれいな声で言っていたのが印象的でした。そばらく「こんばんは」って挨拶を聞いていなかったような気がしました。

 那覇は最高気温32度。那覇祭りの大綱引きが終わったばかりだそうです。最低気温のほうもまだ26度ありました。夜は幾らか涼しくなったと、沖縄タイムスの友利さんは言ってましたが、東京から飛行機で飛んだ感覚からすると、まだ真夏です。ああ、帽子とサングラスを持ってくるんだったなあと後悔することしきりでした。

 カタアメ(方雨もしくは片雨でしょうか?)という言葉を教えてもらいました。空のかなたは晴れているのに、一部分だけ降る雨のことをカタアメというのだそうです。那覇ではここのところ、毎日、カタアメが降っているとのことでした。

うちののま猫

2005年10月09日(日)

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 娘の部屋ののま猫が一匹増えていました。「米」とかいた酒瓶を持っているほうが新しくきたのま猫。そういえば昔「なめ猫」というのもいました。学生服を着た猫でした。酒飲みの歌がはやりだすと景気がよくなっているというのですが、「恋のマイアヒ」は酒飲みの歌なんでしょうか?金曜日の夜の終電に近い電車はこの頃、ずいぶん混雑しています。

もしもバトン

2005年10月08日(土)

 性懲りもなく、と言ってはまずいかもしれませんが豆蔵さんから「もしもバトン」というのが回ってきました。どうもこういうの苦手なんだなあ。質問は以下のとおりです。

1:理想の女(男)が記憶喪失で落ちている。
2:歩いていたらサインを求められた。
3:引き出しからドラえもんが出て来た。
4:殺し屋に「死に方くらい選ばせてやるよ」と言われた。
5:見知らぬ大富豪に遺産を遺された。
6:初対面で「B型?」と聞かれた。
7:預金残高が増えていた。
8:カモシカの様な脚にされた。
9:前に並んでる人に「俺の背後に立つんじゃねぇ!」と言われた。
10:「犯人はあなたです!」と言われた。
11:鏡を見たら目がヤギ目になっていた。
12:尻の割れ目が消えた。
13:偶然手に取った本の主人公が、明らかに自分だった。
14:モナリザがこっちを見ている気がする。

1:理想の女(男)が記憶喪失で落ちている。
  落ちているって、どこに?道端かな?だとして、どうしてそれが理想の相手と解るのだろう?あ、そうか記憶を取り戻すお手伝いをしているうちに、だんだん理想の相手に見えてくるって(なんか、そんなの昔の映画に
ありました)

2:歩いていたらサインを求められた。
 もしも、ではなくて、時々、ほんとにある。喜んでサインします。でも、私に著書以外の本を出すのは困ります。なんだか、本来の著者に怒られそうな気がする。

3:引き出しからドラえもんが出て来た。
 とりあえず握手をする。

4:殺し屋に「死に方くらい選ばせてやるよ」と言われた。
 そんなもん選びたくない。それって殺し屋の職務怠慢なのじゃないかな?そうだ、ものすごくめんどくさい方法を提示する。糖尿病で死んじゃうまでおいしいものを食べさせてくれとか。まずいものはパス。

5:見知らぬ大富豪に遺産を遺された。
 喜ぶ。

6:初対面で「B型?」と聞かれた。
 「A型」と答える。
7:預金残高が増えていた。
 先週、実際にあった。狼狽した。よく考えてみたいら、原因がわかった。内緒。

8:カモシカの様な脚にされた。
 嫌だ。だって上体が支えきれないじゃない。

9:前に並んでる人に「俺の背後に立つんじゃねぇ!」と言われた。
 「順番を譲って下さい。どうもありがとう」と言う。
えっ、そういう話じゃないの?

10:「犯人はあなたです!」と言われた。
 「?」でしょうね。たぶん。「私を虜にした犯人はあなたです」なんてことはなさそうだし。

11:鏡を見たら目がヤギ目になっていた。
 ヤギの目ってどんな目なんだろう?

12:尻の割れ目が消えた。
 きっと座りにくい。座りにくいから地下鉄で居眠りをしなくなる。

13:偶然手に取った本の主人公が、明らかに自分だった。
 記憶喪失を疑う。最近、自分の書いた本の内容を忘れるようになっているし。それとも即座に「名誉毀損で訴える」ような内容なのかしら?

14:モナリザがこっちを見ている気がする
 うん。前からそう思ってました。つい、「やあ」って挨拶をしてしまう。

 以上ですがバトンはどうも公開しているホームページがない人に渡しても意味がないらしいというのが前回わかったので、
1、柳川寧々さん2、やさぐれプーさん3M君4太平洋ポロジェクトさん5番目は誰にしようかな?ええと、あやこさんかな。うん、そんなとこです。

 バトンは回ってこなかったけど、柳川寧々さんのところにあった調味料バトンもおもしろかったです。けっこう調味料って個性があるものですね。

今年のお誕生日のプレゼントはシュレッダー

2005年10月06日(木)

 子どもたちがお誕生日のプレゼントをくれました。シュレッダーです。ごみの捨て方があまりにも無防備だと娘が言い出して、シュレッダーに決まったということでした。「クロスカットだからね」という四角い機械を買ってきました。

 お誕生日のプレゼントって、こういう実用的なものって・・・・なんだか・・・・とかなんとか言っているうちにウイイインと動き出して・・・・娘と息子と私で思わず書類が裁断されて行くのに見とれてしまいました。これって何か買った時に似ているなあと、思い返してみると、子どもたちが小さい頃にかき氷器を買ったときと同じでした。あのときも、氷が削れる様子を三人で見とれていたのでした。もっともかき氷器は手動だったのでハンドルを回している私は汗だくでしたが。シュレッダーは電動です。

「これってさあ、この細かく砕いた紙なんだけど、生ゴミのバケツの底に敷いておいたら、水分を吸い取るからちょうどいいんじゃないかなあ」ってなことを息子が言ってました。確かにそれは良い利用法かもしれません。

アメリカ製のブラジャー

2005年10月05日(水)

 通信販売のカタログ。これを見るのがひそかな楽しみです。もっとも、うちの子どもたちに言わせると夜中でも無駄使いができる悪癖のもとってことになるんだけど。で、みつけました。アメリカ製のブラジャー。さすがは肥満の国。胸の大きな人のための専門メーカーっていうのに引かれて買ってみたら、これがすこぶる気に入ってしまいました。写真撮りたいなあ。

 それで解ったのですが、日本のメーカーのブラジャーは胸の小さい人のための設計を、D80だとかF85まで同じつくりで作っているんですね。さらに最近は胸を大きく見せるのがはやりだから、そんなサイズには不必要なパッドまで入っています。
 なんだこりゃです。ブラジャーというよりは、「鎧だ、これは」(><;)てな感じになっています。

 通信販売で見つけたブラジャーはワイヤーで下部をしっかり支えてカップは薄手のレース。でもカッテングが正確なので、楽につけていられるんです。ま、ワイヤーの枠がついた網の中におっぱいが放り込んであるって状態です。しかし、これまでの経験だとこういうアメリカンサイズを探し出しても、すぐに「日本サイズに変更しました」なんて案内がきちゃうんです。

うちにものま猫がいました。

2005年10月04日(火)

 娘の部屋に入っていったら、ソファにちょこんと白い猫が座っていました。ははん。これがうわさののま猫だね。すぐ解りました。写真を撮ろうと思っていて、まだ撮ってません。二、三日中にお見せしますね。

 で、いったいどこでのま猫を手に入れたのだろうと娘に尋ねると「FUOキャッチャーだよ」という返事。なかなかかわいいです。それに手触りが微妙に癖になる感じ。ほっぺが赤いのもいいなあ。

 で、こののま猫を巡る騒動。なんだか釈然としません。著作権の問題でもなさそうです。ヤフーの掲示板をいくつか拾い読みしてみたのですが、たいへん感情的な感じで、うまく焦点がつかめませんでした。

小さいのが来た来た来た。

2005年10月03日(月)

 家の近所の熊野神社のお祭りがありました。我が家のマンションの前庭が子どもみこしの休憩所になっています。先頭はお囃子を載せた軽トラック、次は太鼓を乗せたリヤカーで、これに綱をつけて引いています。最後は小さいけれど立派なお神輿。

 最初に軽トラックが賑やかなお囃子を奏でながら敷地に入ってきました。それからややしばらくして、太鼓の乗ったリヤカーの一団。さらにこども神輿が来たときはさあ、たいへん。ジュースをお菓子を配るテーブルに、お祭りのハッピを着た小さな子どもたちが、来る、来る来る。もう押し寄せるという感じです。2歳くらいの子から5歳くらいの子まで。ほんとどんどん押し寄せてきます。

 「並んでください」とか「順番に」なんて言葉は通じない年齢の子たちで、目の色が変わっています。人間の狩猟本能はこんな小さな子の心にも勢い良く燃えることがあるんだなあと、押し寄せる身長70センチの軍勢にしばし呆然としている間にも、おててが次々と伸びて「お菓子ちょうだい」ともうてんやわんや。それにしても小さい人のエネルギーはすごいものでした。

 うちのマンションでは子どもの数が減っているのですが、周辺には新築のマンションが増えて次々と子どもが生まれているみたいです。ここでは少子化なんていったいどこの国の話かという感じです。お神輿を担ぐのも押し合いへし合いで、おしくらまんじゅう状態でした。嵐のように押し寄せてきた一団はのどかのお囃子の音とともに、次の休憩所へ出発してゆきました。

ソウルの清渓川(チョゲチョン)

2005年10月02日(日)

 ソウルの電気街の真ん中でどぶ川のようになり、あまりの汚さに暗渠となっていた清渓川の復元工事が終わりました。川の復元工事が始まる一年前に、私はたまたま近くのホテルに宿泊してました。そこは高架道路を一晩中、車が走り周り、周囲はこまごまとした電気の部品を売る商店が密集した街でした。半年後には高架道路がすっくり取り払われていたので、どぎもを抜かれました。

ずいぶん思い切った工事をするものです。今のソウル市長の考えだと聞いています。ソウル市長は次の大統領という呼び声もあるようです。

 東京も高層ビルを建てるだけじゃなくて、日本橋の上の高速道路をなんとかとって欲しいものですし、神田川の上を走る首都高そのものをなんとかして欲しいと思います。首都高はできてから30年を越えるので、そろそろ架け替えが必要ですが、その時には設計を考え直して欲しいのです。民営化された道路公団に期待したいところですが、残念なのはソウルのような採算無視の工事はあまり民間会社には期待できないとこがあります。


 復元された清渓川の写真は以下のあります。
          ↓
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20051001-04018398-jijp-int.view-001&kz=int

和光市の薔薇

2005年10月01日(土)

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 和光市には薔薇を栽培している農園があります。和光市の農協直販所でみつけた薔薇です。茎が細く、背丈も短いので安いのですが、立派な薔薇よりもこちらのほうが家に飾るには心安らかで楽しいです。そろそろ秋の薔薇の季節になりました。

   
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