中沢けい公式サイト 豆畑の友
ホーム プロフィール・著作リスト 中沢けいへの100の質問 中沢けいコラム「豆の葉」 お問い合わせ
中沢けいコラム「豆の葉」
   
 

小林孝亘さんからメールをいただきました

2004年12月31日(金)

 「うさぎとトランペット」の挿絵を描いていただいた小林孝亘さんからメールを頂戴しました。バンコックにお住まいですが、今年の年末は日本にお帰りになっていたそうです。ご無事でなによりでした。


「津波のニュースには本当にびっくりしました。被害の大きかったタイ南部のプーケットという島は、毎年このシーズンには行っていたところで、今年はたまたま帰国していましたが、やはり他人事とは思えませんでした。タイでは全くといっていいほど地震がなく、人々にはそれに対する構えもないので、地震がもしバンコクであったらと思うとぞっとします。」

 というわけでほんとうに多事多難な今年もあと数時間で終わりです。来年が良い年になりますように。

雪です。

2004年12月29日(水)

 新幹線に乗る日っていうと、どうしてこんなお天気になるのでしょうか?東京は雪です。それもちらちら舞う程度ではなくて、もしかすると積もるかもというくらいに白い雪が振っています。私は今日こらから静岡です。

 12月4日に熱海に行ったときは朝方、台風崩れみたいな低気圧の通過があって、電車は止まるわ、気温は25度まであがるわで、とんでもない天気でした。それにくらべれば12月の雪は正常だとも言えるのですが。

 インド洋の大津波はどんどん被害が広がっています。これで今年も終わって悪いことも終わりというわけにも行きそうもない気配です。例年だと今日あたりからお正月を海外で過ごす人で、成田空港も賑わうのですが、今年は出発を取りやめる人も多いことでしょう。

鴨川から見る太平洋

2004年12月28日(火)

 房総の鴨川に行って来ました。花屋さんが話していたとおり、鴨川の水仙はもう花盛りを過ぎていて、ここ数日の寒さでいささか咲き疲れた様子さえ見えました。

 天気予報では大晦日は大荒れのお天気になると言っていますが、昨日はたいへん穏やかな日でした。海もよく凪いでいて、冬の太平洋とは思えない穏やかさでした。
同じ海でもインド洋では大津波が発生しているなんて信じられない眺めでした。

 今年はほんとうに災害の多い年でした。台風が多かったのは日本ばかりではなく、アメリカもたびたび巨大ハリケーンに襲われていました。12月に入ってからこの「豆の葉」もなにか楽しいことを書きたいと思いつつも、目に付くのはドンキ・ホーテの放火だったり陰惨な誘拐事件が未解決のままだったりと、愉快な話題が見つかりにくいのに困ってしまいました。

 中学生の時、小松左京の「日本沈没」なんて小説を一生懸命読みすぎた後遺症でしょうか?穏やかな鴨川の海を見ていても、ついつい、余計な想像をしてしまいます。今日になってぽつぽつ東南アジアにいる知り合いから無事だという情報が入って来ています。

お腹にフォークとナイフを刺した七面鳥

2004年12月26日(日)

 「マッチ売りの少女」。野坂昭如の短編小説ではなくて、ほんとうの「マッチ売りの少女」のほうですが、私はこのお話の絵本を何冊か持っていました。一番、印象が強いの祖母の家の納戸の中から見つけた本です。

 小学館の本で、子どもの本なのに、ちゃんと大人の本のような体裁を持っていて、本そのものの厚みもありました。この本の中にお腹にフォークとナイフを刺した七面鳥の絵がありました。七面鳥はフォークとナイフを刺したまま、よたよたとこちらに向かって歩いてくるのです。クリスマスになると必ずこの七面鳥の夢を見ます。高校生くらいまでは恐ろしかったのですが、それ以上になると、サンタクロースを同じくらいにお馴染みの存在になってしまいました。

 お腹にフォークとナイフをさした七面鳥が出てこないと寂しいくらいです。今年は出てこないなあと思っていたら昨夜でました。ちょっと焼けすぎのようなやつが。

 納戸に入っていた小学館の本はもともと叔母の持ち物だったみたいです。ある日、叔母と話していたら、叔母が「お腹にフォークとナイフを刺した七面鳥の丸焼きの絵があって、あれが怖かったの」と言ったので、同じ本だと解ったのです。叔母がずっと七面鳥の夢を見ているかどうかは解りません。

詰め物をした鳥

2004年12月24日(金)

 どうも老眼らしいと気付いたのは今年の秋口でした。昔から眼鏡がかけたくてしかたがなかったので、いよいよ念願がかなうようです。子どもの時、母の眼鏡をいたずらでかけたら「そんなに急いでかけなくても、今に絶対、眼鏡なしではいられなくなるんだから」と言われました。
 
 なんで眼鏡の話から始めたかと言えば、眼鏡とくれば次は「孫」。眼鏡と孫がそろえば立派なおばあさん。これもなりたかったもののひとつ。おばあさんになりたい。やっぱり言われました。「そんなに急いでおばあさんにならなくても、そのうちちゃんとおばあさんになれるよ」そうかな?なるべく体力のあるうちに、例えば孫と水泳ができたりするうちにおばあさんになりたいのですが、しかし無闇に「孫」を作られるのも考えものだし、これは眼鏡より難しい。

 で、眼鏡をかけたおばあさんと、クリスマスにお腹に詰め物をした七面鳥を食べたい。これこそ、私がこの世に生まれて初めて望んだ願いでした。ああ、ずいぶん時間がたってしまったけれども、どうやら一歩ずつ、その願いに近づいているようです。孫の立場とおばあさんの立場が違っちゃっているなんてことはどうでもよろしい。「マッチ売りの少女」の絵本を読んで以来、この念願がかなう時をずっと待っていました。

 お腹に詰め物をした七面鳥ですが、これが長い間、憧れの食べ物であり、同時に謎の食べ物でした。なにしろ日本で売ってくる七面鳥も鶏もお腹は空っぽでなにも入っていません。なまじの鶏の丸焼きよりも鶏のモモ肉のから揚げのほうがずっとおいしいということになっていました。外国の小説を読むと、鶏の丸焼きはごちそうなのに、なぜ日本だと小骨が多くて高価なばかりのつまらない食べ物になってしまうのか?謎をとく鍵はお腹の詰め物が「つまらない」ところにありそうです。で、昨年、ちゃんと詰め物をした鶏を発見しました。お米や栗が鶏のお腹に詰まっています。これが旨い。鶏で蒸し焼きにした穀物これこそごちそうの本体なのです。

 今日はそ詰め物をした鶏を売っている唯一の日。

うさトラと楽うさ

2004年12月22日(水)

 伊藤比呂美さんに「うさぎとトランペット」のすてきな書評を書いていただきました。来月の新潮社「波」に掲載されます。で、その書評のなかで、「うさぎとトランペット」を略して「うさトラ」と書いていますが、これは前々から我が家では「うさぎとトランペット」の略として使われていました。伊藤さんは「楽隊のうさぎ」も短縮して「楽うさ」にしてしましました。

 これからは「楽うさ」と「うさトラ」と呼ぶことにします。なんとなくいい感じ。

 その「うさトラ」ですが、昨日あたりから本屋さんに並んでいることろもあるそうです。堀込和利さんからお知らせいただきました。トピックスのほうに「うさトラ」の無口な女の子、宇佐子のことを書きたいと思っています。

100件目 お引越しました。

2004年12月21日(火)

 これで100件目のコラムになります。ちょうど100件目でお引越しになりました。これからもどうぞよろしくお願いします。

 これまでスタッフルームに集まられた皆さんは新しいスタッフルームへの入り方を管理人のながしろばんりさんに問い合わせて下さい。それほどむずかしくありません。また、スタッフルームでおしゃべりを楽しみたい方はキーをお渡ししますのでメールを下さい。

 祝!!!お引越し。新しいおうちは気持ちがいい。

お引越しです。

2004年12月20日(月)

 慣れ親しんだこのホームページももうすぐお引越しです。今、管理人のながしろばんりさんが一生懸命マニュアルを読んでいます。

 正式バージョンをアップしますと言ってからずいぶん長い道のりでした。夏の間にアップするつもりだったので、表紙の写真は夏服です。ちょっと細木数子風で、なんだか自分でも怖いのですが。

 というわけで、ここに雑記を書くのもあと少しの間です。来年は勘九郎も勘三郎になっちゃうし、なんとか今年のうちに我がホームページにお引越しも完了したいものです。えっ、勘九郎がどう関係あるのかって?あさって、勘九郎最後の舞台を歌舞伎座に見に行きます。渡辺えり子の演出の「桃太郎」が楽しみです。

街ががらんとしているので

2004年12月17日(金)

 目が覚めるとどあんどあんと風の音がしていました。冷たい北風のようです。

 街を歩いていると、暮れだというのにがらんと寂しい感じがします。あんまりがらんとした感じがするので、アルバイトをしている学生に聞いてみました。まず、スーパーでアルバイトをしている学生は「ぜんぜん、売れません、今年は赤字です。でもこしひかりは売れるんです」と言っていました。キャバレーでボーイをしている学生は「売り上げは去年の同時期の四割です。このまま行くと冬が越せずに、春になったら店が潰れて、僕は失業しちゃいますよ」とぼやいていました。

 台風、水害、地震、異常気象、こういうものが人の気持ちに与える影響は通常の経済指標には入ってきません。が、スーパーへキャバレーの売り上げには響いてくるものです。今年のクリスマスデコレーションは「青」が流行なのだそうですが、その「青」も溌剌とした色というよりもなんだか寒々しい印象をより倍加させているように見えます。きっと多くの人はおうちでおいしいお米でもごはんに炊いて静かにこの災難の多かった年が終わるのを待っているのでしょう。

爪のきり方

2004年12月15日(水)

 館山に住んでいたころ、ピアノを習っていました。ピアノの先生は苗字から類推するに、むかしの水軍いや海賊の末裔ではないかというお家の人でした。

 広いお屋敷で、敷地の中に5軒も家が建っていました。お屋敷の周囲には竹やぶとやぶ椿の林がありました。春はピアノのレッスンに行くたびに、竹やぶの筍がどのくらい背が伸びたかを確かめに行くのが楽しみでした。今頃の季節はやぶ椿の木に登って、蜂と一緒に花の蜜を吸うのが楽しみです。あるとき、椿の花のなかに蜂が入っていて、ちくりと刺されてしまいました。驚いたついでに、木から転げ落ちたのを、お手伝いさんが見ていて、助けてくれました。

 このピアノの先生はレッスンの途中でぱっと手を掴まれて「こんなに爪が伸びていたらピアノは弾けません」と言われました。以来、私の爪の切り方は極端なくらいに短く切るようになりました。もっとも、手を掴まれてから、数ヵ月後のレッスンでは「指から血が出るほど短く切らなくてもいいのに」とも言われたのですが、なぜか、最初のぱっと手を掴まれた瞬間の印象のほうが深いのです。

 今でも爪は短く切っていますが、マニュキュアを塗ると、あんまり爪が短すぎて、笑っちゃいそうな感じになっています。

ドンキホーテの火事

2004年12月14日(火)

 昨夜、さいたま市のドンキホーテで火事がありました。2件立て続けの火事です。どうやら放火らしいのですが。

 まだドンキホーテがそれほど支店を広げていないうちに渋谷の東急デパートの前にあるドンキ・ホーテへ知人の案内で行ったことがありました。その時、これは火事があったらこわいねと話たのを覚えています。雑然を積まれた品物の中には高級品も混じっていて宝探しのような感覚で人気が出ているのだと教えてもらいました。

 そのせいか、昨夜の火事のニュースを聞いてすぐにあの雑然とした売り場に悪意を持つ人間もいるのだなと思いました。

 今日はまた、昨年の12月18日に千葉県館山市であった放火事件の求刑公判が開かれたというニュースもありました。事件がおきた現場からすぐのところに空家になった私の実家がありました。放火事件は春先から頻発していて、これをきっかけに家を手放すことになりました。今日の求刑公判では、一家四人の死者を出した事件も含めて「死刑」の求刑があったそうです。

いろんな人から聞いた話

2004年12月13日(月)

 淡路島のタクシーの運転手さんに聞いた話
 
 地震に備えておくものって何かありますか?
「一週間分の生活費を現金で。カードが使えるとかクレジットがあるって言っても電気がこなくちゃどうもならないからね?

 テレビなんかで地震の時、家族はどうしたこうした、娘がどこにいったなんてやっているけど、あれはうそ。地震が来たら自分のことだけでせいっぱいや。
 人間、生まれるときも一人なら、死んでいくときも一人って気になります」
 きっとそうなんでしょう。生まれるときも一人死ぬときもひとりなら、生きている間くらいは誰かのほかの人の心配をしてもいいなあという気もしますけど。

 小料理屋のご主人に最近聞いた話
「今年はなんでも、みんな急いでいます。いや、人間じゃなくて、魚とか野菜が。ぶりなってもう終わりかなっていうくらいに入荷も少ないし、味のほうもなんだか春先みたいにあぶらが落ちています。さんまもねえ、早くにたくさん出てきて、これはうまかったけど、10月もなかばになると市場でも姿を見なくなりました。へんなのは熊だけじゃないみたいです」

 駅からうちに帰る途中の坂道の花屋さん
「水仙はこのあたりに入ってくるのは房総のやつと三浦のが少しです。お正月に出回るのはたいてい房総のやつ。それから福井あたりから出てきます。今年は房総のが11月の末にはじゃんじゃん出回り始めて、こんな調子だとお正月には品薄になりそうです。路地物だから、花の咲く時期を調整できないんです。もうなくなっちゃうじゃあないかしら」

 海の中でも山でも畑でも地面の下でもいろんなことが起きているらしいです。

散り残る紅葉

2004年12月10日(金)

 光が丘公園の樹木がほとんど葉を落としたあとに、紅葉だけが散り残っていました。こんなに紅葉の木があったのかと感心するほど、あちらこちらに紅葉の木があります。

 光が丘公園は元はグラントハイツと言われていました。アメリカ軍の将校住宅です。グラントはそういう名前の将軍がいたと聞いています。ここから立川基地へ軽飛行機で通勤していた人もいるのだそうです。将校住宅になる以前は飛行場になる予定でした。飛行場が完成しないうちに終戦になってしまったのです。

 グラントハイツと呼ばれていたころを幾らか覚えています。もう米軍からは返還になっていましたが、公園として整備される前で、周囲は鉄条網で囲われていました。今の光が丘公園の樹木はグラントハイツの頃の樹木をそのまま利用しているところと、新しく植えた樹木でできています。

 まるでサバンナのようなと形容されるほど、光が丘公園の樹木は風変わりな剪定をされていました。アメリカ人は樹木の種類に関係なく一定の高さに剪定することを好むようです。沖縄のアメリカ軍基地もそんなふうな剪定をされています。が、今ではほとんどの木が日本風な姿に戻っています。密かに「前田さん」と名前をつけている椎の木だけは今でも横に枝を広げ、がっしりとした姿を保っています。

 紅葉はおそらく、公園として整備されてから植えた木です。どの木も若くて、木々に葉のあるうちはほかの樹齢の高い木に隠れていいます。あと10年もすればこれらの若い紅葉の木も立派な姿になって、秋の森で存在をつよく主張するようになることでしょう。

寒いとほっとする

2004年12月08日(水)

 寒いのも暑いのも嫌いなので、早く秋にならないかなと切実に願っていたのですが、秋にならないうちに冬になってもまだ生暖かいヘンな天気。12月に気温が25度を上回るなんて、今まで経験したことがありません。しかも一日の温度差は20度もあるなんて砂漠並みの気候。もう驚くことばかり。

 なぜか過ごしやすいという感じはしません。それよりも寒いとほっとします。とは言え、今朝もそれほどの寒さではありませんでした。

 11月も末になると房総でも霜が降りる日があって、咲いた菊の葉が赤く色づくのですが、今年はそれもなし。房総でも熱海でも野水仙は蕾を大きく膨らませていまのも花盛りになりそうな様子でした。今年の冬はこのへんな気候のまま、お正月になってしまうのでしょうか?天気図を眺めていると、ある日、突然、ものすごく寒くなりそうな様子です。こんな気候だと病気をしている人は辛いだろうなあと思います。

冬の花火とすごい夕焼け

2004年12月07日(火)

 熱海に行ってきました。毎年恒例の秋山駿さんを囲む会です。秋山さんの還暦のお祝いが最初だったというこの会ももう14回目になりました。

 日曜日(5日)早朝の低気圧のために下田行きの列車が運休になり、新幹線で熱海へ。
 熱海では思いがけず冬の花火を楽しみました。と、言っても昼間の気温は25度にも達するという奇妙な日でしたが。宿の屋上から見る花火は目の前で炸裂するという強烈なものでした。

 翌日は房総半島、真鶴岬から初島、そして伊豆の大島まで見えるという快晴。秋山さん、川村湊さん、富岡幸一郎さん、森詠さんらと、寛一、お宮の像を見物。川村さんが「金色夜叉」全編を読んだと言い、「でも、お宮は自分の美貌には寛一の貧しさは釣り合わないと考えたのだから悲恋じゃないよ」と説明。一同、一度は頷いたものの、よく考えたら「金色夜叉」はお宮ではなくて、寛一の悲恋の物語でした。明治の人は男の悲恋にこんなにも同情したんだなあと、納得。

 夕刻、東京に戻って明治大学の13階の喫煙所から夕日が沈んでゆくところを眺めました。前日のストームがうそみたいに、太平洋沿岸はかなり広い範囲で快晴だったようで、丹沢山塊の向こうに富士山がくっきりと見え、その裾には秩父から赤城の山々、さらには筑波山までがシルエットになっていました。一時間くらいかけて沈んで行く夕日と、陽が沈んだあとの茜色の空が、群青色に変わって行くのを眺めていました。こんなすばらしい夕焼けは、一年のうちにそう何度も眺められるものではないでしょう。


 江戸時代の人は大きな関東平野を囲む山々が茜色の空をバックに黒いシルエットになる景色を時々眺めていたにちがいありません。そのスケールの大きさを想像するだけで、ため息が出ます。世界はその頃と同じように豊かなのに、ほとんどの人はその豊かな世界を見ようともしないのではないでしょうか?

 今では、日の出も日の入りも見たことがないという小学生が、東京にはかなりいるのです。たとえ見事な夕焼けが広がっていても、ビルの谷間にはそれと気付かずに忙しく働いていた人も大勢いたことでしょう。寛一が曇らせてみせると言ったお月様さえ、もう何年も眺めたことがないという人がいるかもしれません。

淡路島 野島断層

2004年12月03日(金)

 幸田文の晩年の随筆集に「崩れ」があります。日本の山崩れ、がけ崩れなどを見て歩いた随筆です。どうしてこんなにも「崩れ」を見たいのか解らないけれども、こころ引かれる景色だと書いていました。

 その気持ちがちょっとだけわかるようになったのは、どこか身体の中に「崩れ」が起きているのでしょうか?「頭の中身だろうよ」というひそかな声も聞こえるような気もします。熊本から帰って淡路島に行きました。仕事の旅でしたが、どうして北淡町の野島断層が見たかったので、一日早く出かけました。野島断層はあの阪神大震災を引き起こした断層です。

 東西へ1・2メートルずれた断層が地表に現れた部分が樹脂加工されて保存されています。今では観光コースの一部になっていますが、やはり写真でみるのとはまったく違い迫力でした。大地は揺るがぬものの象徴とされることが多いのですが、その大地もまた生き物のように日夜動き続けている証拠を見た思いがします。それ以上にショックだったのは、地中に液状化した層があることを示すトレンチでした。

 つまり、足の下の地面がドロの体積した沼のような状態に突然なるということをそのトレンチの地層は現していました。激震は時間にすると10秒ほどだということでした。

ワイルドな食事

2004年12月01日(水)

 スタッフルームに遊びにくるとのくんの友人さんからとてもワイルドな食事のお話を聞きました。以下コピーです。

「仕事仲間の大工さんで、狩猟が好きな方がいました。
数年まえ、山で撃って来たばかりの鹿肉を使った焼肉バーティに招かれたのですが、まだ皮と毛が付いたままで 血が滴っている肉を 包丁で切り取りながら 焼いて食べさせてくださったのには参りました。
人間は、本来、肉を食べる生き物ではないのかもしれません。
あれをビールを飲みながら旨そうに食べる感覚はちょっと、どうも。。。」

 冬は狩猟好きにはたまらない季節なんですね。私もミュンヘンで鹿肉を焼くレストランに入ったことがありますが、「どこが食べたいのか?」と質問されても答えられないので、しかもドイツ語だったので、「皆が食べている場所」と答えたことがありました。するとドイツ人の給仕は奇妙な顔をして、「皆が食べているのはここだ」と店の床を指差しました。「場所」という単語しか浮かばなかったのですが、本当は「部位」と言わなければいけなかったみたいです。鹿肉の塊がぐるぐる回りながらあぶられていました。まあ、こういうへんな客は名物料理の店には珍しくないみたいで、あとはよきは計らってくれました。

 毛と皮がついているやつねえ。それは勇気がいるでしょう。「奥山に紅葉踏み分けなく鹿のこえ聞く時ぞ秋はかなしき」ではなくて「こえ聞く時ぞ、うまそうだな」なんて人もいるのでしょう。こういう私も波打ち際にころがった鯨を見ると旨そうだなと思うほうです。怒る人がいるかもしれないけど。

   
談話室 リンク集「豆の茎」 メルマガ「豆蔵通信」 サイトマップ