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トピックス「豆の実」
   
 

台湾キャラバンノート

2006年01月07日(土)



「日台文学キャラバン」の概況を書きます。はじめにキャラバンという変わった名称ですが、これはアジアの作家との交流のことをいつのまにか参加者がそう呼ぶようになっていました。もともとは韓国との文学者会議が始まりでしたが、その後、中国女性作家との会議、インドの作家との会議などがありそのたびに自前で事務局をつくり参加者相互に協力するというやり方をしてきました。その結果がなんとなく「キャラバン」という呼び方になりました。今回の台湾の場合は、それが正式名称に近いものになってしまいました。で「台湾キャラバンノート」です。交流の詳しい様子は日本では「すばる」誌06年4月号に台湾では同時期の「INK」(印刻)誌に同時に紹介される予定です。ここでは初めての台湾旅行の印象も含めて概略を書きます。

東呉大学の呉先生といけばなの先生
+ 日本側

 川村湊、芽野裕城子、津島佑子、星野智幸、松浦理英子、リービ英雄、清水賢一郎、藤井久子事務局長、水野好太郎(集英社)、高橋至(集英社) 滝川修(集英社)、待田晋哉(読売新聞)、山口和人(講談社)

+ 台湾側
 (たくさんの人に会ったので主だった人だけ)

* 朱天文
 1956年生まれ、候孝賢監督のシナリオを担当。朱天心さんのお姉さん。
 ご本人は本来は小説書きなどで、仕事でシナリオが増えたと言っています。
 今回は候孝賢監督にもお目にかかる予定でしたが、たまたま東京映画祭で黒澤賞を受賞されて東京にお出かけになっていました。

* 朱天心
 1958年生まれ、小説家。眼の大きな人。お姉さんよりも活発で明朗な性格が容姿に表れているかのような感じがする。
 代表作に「古都」(日本語では清水賢一郎訳で国書刊行会から2000年に出版されてます。この訳がすばらしく良い)

* 唐諾
 自称「専業読者」つまり批評家です。朱天心さんの夫。
 余談ですがソウルの申京淑さんの夫も文芸評論家で、川村湊さんはタイプが似ていると言ってました。ただし、申京淑さんの夫はどちらかと言えば紅顔の美少年の面影が残っているけど、唐諾さんは髭面。でも優しい笑い方をする。

対談中の朱天心さんと舞鶴さん

* 舞鶴
 1951年生まれ、小説家。天才肌。独特の作風。96年発表の「余生」は霧社事件を巡って狂気、暴力、性、諧謔が複雑に入り組んだ実験小説となっている。
 ブ・ハーもしくはウ・ハーと読む名前だそうだが、日本側は中国文学者の清水賢一郎さを除いてほとんど発音できず。「まいづる」のほうが読みやすいし覚えやすい。
 サングラスをかけているが、サングラスの下では眼がよく動く。とくに興味のある話題の時には、らんらんとした輝きがサングラスごしにも伝ってくる。髪は東洋人らしい黒くて細いしかも艶のない髪だが、眼がらんらんと輝くとこの髪がすごく魅力的に見えた。おでこから中央部がはげているので、兜をとった武者という感じがした。
 余談だが、時々、外国の作家の名前で覚えられないあるいは発音できないという名前にであうが、それ以上に厄介なのが舞鶴氏のように日本語式で覚えれてしま名前。インドのキャラバンのときはサララーエという女性作家の名前を「皿洗い」と覚えてしまい(参加者が便宜的に打ち合わせ段階で使っていた愛称みたいなもの)で、本人の前で「皿洗い」と発音しないように苦労した。

* シャマン・ラポガン
 1957年生まれ。小説家。ランユウ島紅頭村生まれ。台東高級中学を卒業後、原住民子弟枠での大学推薦入学を拒み、台北に出る。80年淡紅大学仏語科入学。その後、原住民運動に参加する。89年ランユウに戻り、小中学校で講師を務めながら伝統文化を学ぶ。98年に国立精華大学人類学研究所修士過程入学 05年成功大学博士課程に進む。代表作「黒い胸びれ」(日本語訳あり)
 台湾ではもともと台湾島に住んでいた少数民族を原住民と呼び、これは原住民自身が誇りを持ってこの名称を使っている。
 シャマンさんはランユウ島の飛び魚を採って暮らす民族の出身。おもしろかったのは飛び魚料について実際に知っている私は「黒い胸びれ」とおもしろく読めたのだが、星野さんと松浦さんはこれを読むのに苦労していたこと。「読む」というのはどういう行為なのかを物語るような感じがした。
 後日談だが、12月になってからシャマンさんが日本に来ている時のことだが、突然「富士山にいる」という連絡がキャラバンのメンバーにあったそうだ。
 で、いったい富士山のどこにいるのだろうと、メンバーの間で首をひねりながらシャマンさんが東京に現れるのを待つことになった。残念ながら、私はこのときお目にかかることはできなかったが、なんとなく漁師らしいなあと感じた。自分で漁もすれば潜水もするし、船も作るという屈強な身体の持ち主。私としては文学の話よりも釣舟屋をしている叔父もしくは従兄弟を同道して、漁の話や船の話を聞いてみたかった。シャマンというのは日本語に直訳すると「お父さん」でシャマン・ラポガンは「ラポガンのお父さん」ということになる。原住民の伝統的な名乗り方だという。

* ザン・ツァー
 1954年生まれ。詩人。子どもの時に一家で台東に移り住んだ。農民運動に加わり、台湾農民連盟副主席。農業改良指導員でもある。詩集に「手的歴史」 「海岸燈火」「海浪和河流的隊伍」などがある。
台東に行く自強号の車中


+ 日程

 05年10月30日から11月8日まで(私が参加したのは6日まで)

10月30日 出国 台北着
10月31日 台北芸術村で台湾作家との顔合わせのお茶会
11月01日 台北 東呉大学で日本語学科の学生院生対象のシンポジウム
 →川村湊、津島佑子、松浦理英子、星野智幸、中沢けい
11月02日  台北芸術村での座談会
 →台湾側 朱天心、舞鶴
   日本側 松浦理英子、星野智幸
11月03日 列車で台東へ移動 (台北からおよそ5時間)
11月04日 台東 国立台湾史前文化博物館で座談会
 →台湾側 シャマン・ラポガン、ザン・チェー
  日本側 芽野裕城子、リービ英雄
11月05日 ランユウ島ヘ行くグループと台北に戻るグループに分かれる
 →中沢は台北へ
11月06日 中沢帰国
11月08日 ランユウ島グループ帰国

台東に行く自強号の車中
国立台湾史前文化博物館

+ 台北の作家たち
 座談会の様子は「すばる」と「INK」誌に掲載されます。ここでは印象に残ったことをいくつか拾って書くことにします。
 まず朱天心さんについて、ですが、上海の女性作家の王安億さんと親しいと知ってうれしくなりました。その朱天心さんが最初のお茶の会で話題にしたのは村上春樹をどう考えるかというものでした。ちなみに朱天心さんのお母さんは日本文学の翻訳者で松浦理英子さんの「親指Pの修行時代」の翻訳者であり、村上春樹の作品の翻訳者です。
 台湾は日本の植民地の時代がありましたが、その複雑な政治的変転のために日本に対する悪感情はあまり表には出ていません。日本のあとから来た蒋介石の国民党軍に比べて比較優位な感情を持っている様子も見受けられます。ですから日本の文化もかなり自由に台湾に入っています。で村上春樹ですが、この作家について朱天心さんはかなり批判的もしくは挑発的な発言をしていました。なぜかその発言を聞いていた私は「ああ、アジアの国々にとって1980年代から90年代は輝かしくすばらしい時代だったんだなあ」という方向違いな感想を抱きました。この話題は朱天心さんが出席された座談会に持ち込まれたのですが、その座談会を傍聴していても、その印象はより深められました。これについては、もう少しゆっくり考えたいと思います。一昔前には日本は欧米の文化は輸入超過だといわれたものですが、アジアに限って言えば日本の文化は輸出超過で、輸入のほうが少ない状況になっています。
 もっとももう一人の台湾側の座談会出席者である舞鶴氏の作品は翻訳不可能と言われるくらい言語の特性を縦横に使用した作品だそうです。こうした翻訳できないものを書いてみたくなる作家の気持ちは、その作品を読むことができなくても想像できるところがあります。村上春樹作品がどこの国でも翻訳して受け入れられものであるとすれば、翻訳不可能な世界も存在していることを強調したくなるという側面も生まれてくるものです。


+ 東呉大学のシンポジウム 
 台湾では新学期が9月から始まるのだそうですが、新学期が始まるのと同時にシンポジウムの準備をしていただいていたようです。シンポジウムは通訳なしの日本語で行われました。
 会場では東京へアートの勉強に行きたいという学生さんとも少しお話しました。
 このシンポジウムのあと、東呉大学の院生の皆さんに士林市場を案内してもらいました。食堂がたくさん並ぶ市場です。ここで「恋のマイアヒ」が流れていて「のまネコ」の話になりました。学生の皆さんの日本への関心はサブカルチャー、ポップス、アニメなどの分野に集中しています。そうした日本の大衆文化が生み出される背景にある社会的な豊かさの維持するためのさまざまな苦痛や絶望あるいは不安などを現代文学に触れることで知ってただければいいなと思いました。そこまで進めなくとも何か印象を持っていただければ幸いです。サブカルとポップスとアニメだけだと、日本はサンリオピューロランドみたいな国というイメージが出来上がってしまいそうですから。
 朱天心さんの村上春樹批判を聞きながら、私の中に湧いてきたイメージというのは、欧米の文化が日本を含むアジアの大衆社会に投げ込まれて、しだいに変形してゆく時のプロセスのイメージです。まだそれをうまく言葉にできませんが、この件については例えば上海の王安億さんやソウルの申京淑さんとも意見を交換してみたい気がしました。「それでその時の通訳はどうするの!」という事務局長の悲鳴が聞こえてくるようなプランではありますが……。これは「かわいいもの大好き」という女の子の気持ちが理解できる(共感できるかどうかは別ですが)女性の作家の感覚を通して考えてみたいテーマです。申京淑さんも朱天心さんも同い年で、どちらも経済発展を遂げたあとに受け入れられた女性作家です。日常生活の中で夢を見ることが可能になった経済力が生まれてきたときに受け入れられる作家という点では日本の村上春樹をよく似ていながら、なぜか村上春樹に違和感を抱いているところが興味深かったのです。上海の王安億さんは文化大革命の下放も経験しているので、朱天心さんや申京淑さんよりも幾らか年上です。

+ 台北から台東へ
 これは列車の旅でした。その様子は「豆の葉」にも少し書きました。夏に下見に訪れた津島さんの話では、退屈な列車の旅で車内販売もないという話でした。 INKの編集部の皆さんには「どうして飛行機を利用しないの?」といささか呆れらました。が、結果としては列車が正解だったと思います。本音を言えば台湾キャラバンで個人的にもっとも印象に残ったのが、この列車の旅でした。
 台北駅は清潔でよく管理されています。オリンピック開催を控えた北京よりも台北のほうが以前の共産主義国のように管理されているような転倒した印象を持ちました。「車内販売もない」という津島さんのアドバイスに従って、ここでお弁当を購入。なぜか台湾の駅弁は鶏の胸肉を揚げてから煮たものがご飯の上にどんと載っているものばかりでした。列車の隣の席はリービ英雄さん。子どものときは台湾にお住まいだったそうで、全体に豊かになっているとおしゃっていました。そのリービさんは煮卵を購入。日本で列車の旅といえばゆで卵が定番という時代がありましたが、台湾ではこれが茶色い煮卵になるようでした。台湾に駅弁があるのは日本が植民地時代に持ち込んだ習慣だそうです。私の買った駅弁は「新国民弁当」と包み紙に印刷してありました。
 3000メートル級、つまり富士山みたいな山が連なる下はすぐ砂浜でその先にある海は太平洋という地形の中を列車が進みます。山と山の間を流れる川はほとんど枯れ川でした。川原は青い石灰色の石、そのどれもこれもが、まんまるくなった石ばかりです。ひとたび、雨が降ればこの川にどうっと水が流れ込むのが想像できる景色です。華連から海岸を離れた列車は内陸部に入って行きます。
 内陸に入ると水田が広がり、あぜ道には椰子の木が立っていました。駅名は日本の殖民地時代のままで「瑞穂」とか「豊国」なんてのがありました。確かのその景色は「とよあしはらみずほのくに」という文句を思い出させるものがあります。椰子やサトウキビなども鹿児島や沖縄よりものびのびと育っている感じがしました。寒い思いもせず、やたらに台風の潮風に凪ぎ倒されもしない伸びやかさを見ていると植民地支配の是非はさておき、この景色を見た日本人はその気候がもたらす豊かさに感嘆したことだろうと思いました。水田では稲刈りを終わったところもあれば、田植えが始まっているところもあり、どうやら二期作のようです。あとで農民詩人ザン・チェーさんから伺うと、確かに稲作は二期作なのですが、政府があまり農業を保護していないのでだんだんと二期作ができなくなっているとのことでした。
 水田地帯に入る少しまえに川原に銀色の葦の穂がたくさんそよいでいる場所がいくつかありました。子どもの時に次郎物語を読んでいて「白鳥蘆花に入る」という言葉がたびたび出てきてのを思い出しました。日本の葦は茶色くなってしまって、たとえ白鳥が葦の花の中に入ってもその白さが目立つだろうと変に思っていたのですが、台湾の葦の群生地なら白鳥が入ればその姿は隠れてしまうでしょう。で、その話をちょっと川村湊さんにすると「次郎物語」の下村湖人は台湾にいたことがあるんだよと教えてくれました。この葦原は今回の旅行でいちばん印象に残っていて、眼をつぶると思い出すことができます。

国立台湾史前文化博物館での対談前の風景


+ リービさんの煙草好き 
 台東の国立台湾史前文化博物館での座談会の様子は「すばる」誌に出ることになっています。座談会の内容はそちらに譲るとして、ここでは禁煙文化がいかにグローバルに広がっているかという話。いや、リービさんの煙草好きの話を書きます。私も煙草好きですが、リービさんも煙草好き。禁煙の列車の中でも苦労しましたが、博物館ももちろん禁煙。で「禁煙の会議室では座談会をしたくない」いや「できない!」というリービさんの主張で、座談会の場所は急遽、会議室から博物館のテラスに移動することになりました。こういうアメリカ人がたくさんいてくれるとほんとうれしいのですが、ご本人に聞いても少数派です。
 座談会の内容を録音するには雑音がないほうがいいのは言うまでもありません。そのために博物館の噴水を止めてもらいました。人間の話す声よりも噴水のような単純な水の音を機械は拾ってしまうことが多いのです。すると、なぜか博物館の芝生の上に小型のショベルカーが出て来て穴を掘り出しました。何の工事かわかりませんが、これもお願いして中断していただくことになりました。さあ、これで安心して座談会ができるぞと(このときはもう時間の関係で座談会は始まっていたのですが)思うや否な、頭上はヘリコプターが飛び始めました。博物館からは見渡す限り山と山が連なる景色なのですが、山陰に軍用地があるのです。夕方になって軍用地に戻ってくるヘリコプターが何台もあるのでした。これはさすがに「止めろ」と言えません。さらに、戦闘機までが基地をめざして帰ってきたのです。こちらの音もヘリコプターよりもすさまじい。極めつけは、列車が汽笛を鳴らしながら通過する音が山裾から響いてきました。もし、リービさんの煙草好きがなければ、見渡す限り山また山という景色の広がりの中に立つ国立台湾史前文化博物館が、これだけの騒音に囲まれていることにはまったく気付かなかったでしょう。

国立台湾史前文化博物館テラスからの眺め

 騒音の話のついでに、音の話をもうひとつ。台北へ戻る日の朝、私は地響きのようなドラムの音とともに沸きあがった男女の混声合唱、それも大合唱の声で目覚めました。台湾の選挙は派手と聞いていましたが、こんな大合唱と猛烈な太鼓の響きは初めて聞くものでした。そう選挙運動のための集会が大通りで開かれていて、その音がホテルの部屋まで聞こえてくるのでした。しかもそれは1時間以上続いたのです。もし選挙があると知らなければ、大昔の戦か何かに突然巻き込まれたような妄想を膨らませるところでした。
 さて、煙草好きのリービさんですが、飛行機の機内用に噛み煙草をお持ちで「もし必要があれば差し上げます。奥歯でかみ締めるとおいしいニコチンのジュースが流れてくるのです」と帰国便を待つ空港で、日本では買うことのできない上等な噛み煙草を見せていただきました。貴重なものなのでいただくのはどうかと遠慮しましたが、たばこ好きもここまでくると立派です。私は飛行機の中では気絶したように眠ることができるので、たばこをそれほど必要としません。でも、空港に降り立ったらまっさきに煙草を吸いに駆出すほうです。帰国の飛行機が成田に着陸してすぐに煙草をおいしく吸いました。


+ キャラバンノートのおまけ

ランユウ島

 ランユウ島まで入った皆さんの勇姿です。撮影は芽野裕城子さん。芽野裕城子さんは「ランユウなんじゃもんじゃ軍団」と名づけてました。

 台湾キャラバンについては「すばる」2006年4月号(3月6日発売)をご覧下さい。

   
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