1120 20120208 奈良美智 
青森美術館に行ったら、犬に逢ってくればいいと言われました。「?」だったので、「探してみます」と答えると「探さなくってもわかるから(笑)」で、ますます「?」でした。青森美術館で「犬が見たい」と言ったら今度は「今は帽子かぶってます」と。ますます「?」でした。
残念なことに帽子を被った巨大犬の写真を撮ってきませんでした。惜しいことしました。美術館の中庭にいたのは奈良美智作の巨大犬でした。いったいどのくらいの大きさがあるのでしょう。かなりの大きさでした。春から秋は犬のいる中庭に出ることができるそうです。今は冬なので中庭は閉鎖。美術館の中から犬を眺めることはできます。つるりとした頭に雪がふんわりと積もって、積もって雪が凍り、凍った雪がちょっと融けてを繰り返して、今は犬が白いハンチングをかぶっているに見えます。この帽子がよく似合うこと。写真を撮ってこなかったのがすこぶる残念でした。
奈良美智は弘前出身とのこと。NYのイメージが強かったのですが、雪の中でみるあの上目使いの女の子の絵もなかなかよかったです。都会だとなにか不満げな感じがする上目使いが、雪の中だと「負けないぞ」という感じに見えてくるから不思議でした。
ミュージアムショップで奈良美智のぬいぐるみの女の子を見つけました。
1119 20120207 青森美術館 
12月9日に東京で小雪が舞いました。こういう年は年明けから大雪になることが多いなあと思っていたら、やっぱり記録的な豪雪になりました。
青森美術館で佐伯一麦さんと自作を読んできました。青森では暮れから雪が降りっぱなしとのことでした。正月三ヶ日は晴れたものの、それからまた雪、雪、雪の毎日。除雪はされているものの、トラックが被災地の仕事に回っているので、雪を運び出すことができないそうです。市街地でも道路の両脇に雪の壁が出来ていました。
青森美術館に到着したのは、日暮れ時。新青森から乗ったタクシーの運転手さんに「ここが青森美術館です」と言われても、見渡す限り真っ白な雪がぼんやりと光っているだけ。不安ととおり越してほんのちょっぴり恐怖を感じました。どこにも美術館が見当たらないのに、タクシーにいなくなられたら、どうしたらいいのでしょう! と。美術館がまっしろな建物だったので、日暮れの光では見分けることができなかったのです。よくよく見てやっと解りました。あれが美術館だと。それからは、街灯、これも雪に埋もれてましたが、街灯の明かりをたよりに美術館まで辿りつきました。
翌日のパフォーミングアーツにご出演の皆さんはリハーサルの真っ最中。佐伯一麦さんも岡山から青森まで8時間も新幹線に乗って到着していました。
これが1月20日のこと。下北の横浜町やむつ市で多くの車が吹雪に巻き込まれて立ち往生したのは、2月3日のことでした。日本列島は猛烈な寒気団に包まれて、東北、北陸各地から吹雪のニュースが伝わってきてました。下北では、夜半過ぎに自衛隊に災害派遣要請が出たと聞いてはらはらしました。幸いことなきを得たようですから、まだまだ油断できません。
2月に入るとばかに暖かな陽気の日も出てきます。そういう日はなだれや落雪が怖いとのこと。で、また寒気が来ると、融けた雪が氷になり、そこに雪が降り積もるわけで、その怖さは想像にあまります。
青森の皆様、どうぞこの冬をご無事でお過ごしになれますように。
1118 20120103 マーケティングと宣伝広告の手法 50歳を過ぎるとめっきり集中力がなくなると、以前、人から言われたことがあります。で、ちょっと前までは怒りっぽくなってたけど、この頃は、集中力がなくなったのに慣れて怒りもしなくなったし(ため息)。というわけで、のろくさと机の上を片付けていました。途中でTBSが出している「調査情報」の最新号をちょこっと読んだり。この途中で何かを読み始めるというのは小学生の頃からちっとも変わってませんが。
テレビドラマにマーケティングの手法が使われたり、原発の広報に広告宣伝の手法が使われていることはこれまでも指摘されてきました。共通しているのは、それがどちらもビジネスの手法だということです。それで思い出したのが昨年見た映画の「イブ・サンローラン」。「ファションはアートだったのに、ビジネスになってしまった」という台詞。アートがビジネスになるというのは、ファッションに限らず、ジャーナリストの世界でも同じことが言えそうですし、テレビドラマ制作でも、お笑い芸人の世界でも、それから文学の世界でも言えそうです。と、これも今まで耳にたこができるくらい聞かされてきた話とそう変わりはないのですが……。
つまりは「規模」の問題なのだと、そんなことを夜中に考えてました。
マス・メディアがマス・メディアで有る限り、マスとしての規模を維持し、さらに規模拡大を図るとうことで、ビジネスとして成立つなら、アートの場合は、その希少性を重視して、規模をいかに小さく抑えるかが重要になると、そう考えてみました。
デジタル技術とネットは、システム自体はグローバルな巨大システムです。が、個人の使用の状態から言えば、パーソナルなもので、これまではテレビ局しかできなかったような情報発信が個人で出来たり、映画会社しかできたかった映画製作が個人の力を集めてできたりするという機能を持っています。
ええとね、IT技術はシステムそのものはグローバルで巨大な「ビジネス」というこころが注意ポイントのひとつ。もうひとつはIT技術はこれまでのマス・メディとはことなるパーソナルなメディアとなったことで、こっちは「アート」というわけなのが、注意点の2点目。つまり「ビジネス」の上に「アート」が載っているという状態だということになるわけですが。
つまりは規模の問題なんだとまた考え込むという始末。やれやれ集中力がほんとになくなっています。
IT技術の「ビジネス」の部分には、肥大化した金融市場がくっついて、まだ実用化されていない試験的な事業にも大きな投資がされるし、「アート」の部分はものすごく多種多様な大衆化した「アート」が経済的価値判断から乖離した状態で増殖していると、そういうふうに見ることもできるのではないでしょうか。
「ビジネス」と「アート」の間になにか、もうひとつ人間の身体的能力と釣りあった仲介役が必要なのではないかなと、そういうことを考えるのでありました。
1117 20120102 フォークリフトの走る街 小説は「紙に印刷された本」と不可分の文芸じゃないのかと、この頃、ずっと考えています。もちろん、ネット配信で読む小説というものもあるでしょう。携帯小説というものもあるでしょう。それらを否定はしませんが、また、それらが私が知っている小説と同じものだとも思えません。源氏物語は手による写本から活版印刷の本になったら、中身が変わったと言えるのかと聞かれると「さあ」と首を傾げざるをえないのですが、中身はさておいて、その鑑賞の仕方は大きく変わったと言えるでしょう。紙の本とデジタルデータの作品の間には、それくらいか、またはそれ以上の違いがあると予想されます。
昨年から家内制手工業と本というテーマがまとまりなく頭に浮かぶのも、にわかに近代史がおもしろくなりだしたのも、震災後の東京の変貌を想像して、東京都心をうろうろしているのも、根っこではみんな、どこかで繋がっているんだなあと、考えています。どこがどう繋がるのかは、まだ私自身にも解っていませんが。
神田の須田町それから秋葉原の万世橋あたりにかけては小さな会社が多いビジネス街です。西へ移動して九段下が近いあたりの神保町は本の街。裏通りに入ると以前は製本屋さんのフォークリストが走り回っていました。九段下から飯田橋のほうへ行く道にも、けっこう、製本屋さん、印刷屋さんが多く、飯田橋の五差路を江戸川橋の方向へ神田川にそって行くと、取次ぎのトーハン、凸版印刷があります。そうそう、飯田橋の五差路には「モリサワ写植」の大きな看板が立ってました。市ヶ谷の大日本印刷、御茶ノ水の日販を加えれば、だいたいめぼしいところになるのではないでしょうか。
手にとることができる、目で見ることができる、歩き回れる範囲にめぼしいところが集中している。そういうところで本はできていたのだなあと、ちょっと思い出しているところです。
食物ならスローフードとか地産地消とか、着るもの、日常の道具ならクラフトとか手作りとか、個別にそういう単語で主張されている事柄をなんとかもう少しまとまりのある考えにすることはできないのでしょうか。同時に「本」についても同じような、膨張ではなく縮小の考え方が生み出せはしないかしら? と思っています。つまりそれは規模の問題なのだと。イメージとしてはある特定の規模のものが、ネットワークで繋がるような、そんな感じです。エネルギーならスマートグリットに近いような、そういうイメージを統合するような哲学を、うまく考えだせはしないかしら。
あいかわらずとりとめがありません。
1116 20120101 年があらたまりました。 年が明けました。なにはともあれ、年があらたまったということで、気分も一新と行きたいところですが、元旦から地震。震度4との発表です。揺れとしては物が落ちなかったので、4ぐらいでしょうけれども、小さな揺れから大きな揺れへと変わってゆく地震でした。揺れの時間もながく、新年早々、とんだお年始でした。
暮れの27日に神田須田町の「藪そば」であられそばを食べているとき、歯痛発生。そのまま、歯痛に悩まされている新年でもあります。
なにはともあれ、年は改まりました。今年は良いことが少しずつ重なりますように。皆様どうぞよろしくお願い申し上げます。
1115 20111231 神田神保町 ようやく大晦日にたどりついたという気もするし、もう大晦日かという気もする今年の大晦日です。2011年は3月11日より前がなくなっちゃったという感じ。それから3月11日から2、3ヶ月はしょっちゅう地震で揺れていましたから、なんだか、思い返すといろんなことがぼんやりしてます。
仙台へ行った時に佐伯一麦さんと「人の顔がけわしいねえ」という話をしました。東にいるときはあまり感じないのですが、大阪など西へ行くと、ああ、東の人の顔はけわしいなあと感じます。ただ、不満げな顔をした人はあまり見なくなりました。不満げだったり、かったるそうだったり、そういう顔の人をあまり見かけなくなったかわりに、えらくすっきりとしたお洒落をしている若い男の人が目を引くようになりました。「渇」が入ったっていうところでしょうか。
地震の日以来、東京を歩き回りたくって仕方がないのは私のセンチメンタル。
で、神田神保町です。すずらん通りにも白山通りにも靖国通りにもアーケードがかかっていたのは何時ごろまででしたでしょうか? アーケードがあり、舗道に商店の品物や看板がたくさん出ていました。全体にわんわんするような人の密度があったのを覚えています。
ネットが出来たので、神保町の古本屋には「荷」があまり入って来なくなったと聞きました。以前は日本じゅうの古本屋さんが「荷」を神保町に送って、本を売ってもらっていたとのことです。そこへまた本を探す人が集まって来たのが神保町でした。
本はマニュファクチャーの産物なんだと、この頃、しきりにそれを思います。あと、高級ブランドもマニュファクチャーの産物だと。「それがどうした」と聞かれるとなんともまだ言えないのですけど。考えはそこでぐるぐると回っているばかりです。例えば、いろいろな食物がどうしたって工業化に馴染まないところがあるように、本という品物も、工業化(たぶんITと言ったほうがいいのかもしれませんが)に馴染まないところがあるのではないかと、そういうことを考えているわけですが。
まあ、とぼとぼとした考えです。公方さまがいた江戸の町、東京を名乗りだした明治の東京、世界の1等国に踊りだした大正から昭和初期の東京、そういう東京はけっこう惜しまれたり愛されたりしているのに、とぼとぼ歩きながらぼんやり思い出している私の東京は、昭和中期の忘れられるだけの東京のような気がしてます。そんなことを考えていたら映画「3丁目の夕日」のポスターが張ってありました。
なにはともあれ大晦日にたどりつきました。
1114 20111229 神田駿河台下 考えてみると、学生の頃、うろうろしていたエリアってそう広いものではありませんでした。
西側はお茶の水の駅から線路沿いに坂を下って(雁木坂って言ったと思います)水道橋の駅あたりまで。線路を挟んで向こう側は、神田明神や湯島聖堂まで行くことも珍しいくらいでした。東側は聖橋まで。中央大学が八王子に引っ越して、ニッパンのビルが出来てからは、ニコライ堂のあたりに行くことも少なくなりました。今は明大通りと言われている坂を下って神田駿河台下の交差点は、左へ行くことは滅多にありませんでした。
だいたいうろうろしていたのは、すずらん通りと白山通り、それに明大通りの内側です。それでも、大勢の人が行き交って目が回るような広い世界に放り出されている気がしたものでした。駿河台下の交差点は大きい交差点ですが、明治大学の裏側あたりには、路地がたくさんあって、それを猫のように路地から路地へ歩き回っていました。製本屋さんがけっこうあって紙の匂いがしてました。あと、揚げ物の匂い。それからコーヒーの匂いとカレーの匂い。
靖国通りにガラス張りのタキイのビルが出来たときは、あれができてからちょっと雰囲気が変わったねと言ったともだちがいました。が、そのタキイのビルがすっかり取り壊されていました。あとにはきっと大きな建物が建つのでしょう。震災のあと、4月の半ばにこのあたりを歩いたときには、なんだかがらんとした感じがしたものでした。
この頃、家内制工業(マニュファクチャー)と本というようなことをぽつぽつ考えるのですが、考えていると明治大学の裏の路地をフォークリフトが走り回っているのが目に浮かんできたり、大きな封筒を持ったメッセンジャーボーイさんが急いで走り回っていたりするのが浮かんできて、なんだかあんまりまとまった考えになりません。御用納めのあとの神田あたりはきっとひっそりと人気もなくなっていることでしょう。
1112 20111228 神田須田町 今年ももうすぐお終いです。夕方、御茶ノ水から神田須田町を歩いてきました。ニコライ堂の前から靖国通りにかけては、しばらく歩いたことがなかったのですが、通りがきれいになっていました。というか、あっちこっちに昭和30年代の建物が取り残されている感じでした。この感じは御茶ノ水、神田界隈だけでなく、飯田橋あたりにもあります。昭和30年代から40年代、つまり日本の高度成長期の建物が取り残されているのは、なんだか寂しそうな感じがします。
今年はどうも夕方、何を食べようかなと考えているとセンチメントになるようで、昔行ったことあるお店へでかけてみたくなります。で、神田須田町の鳥鍋「ぼたん」へ行ってみました。飯田橋の牛込見付の石垣の上に一番星が出る頃に出かけてました。冬至を過ぎたばかりの日は暮れかけていましたが、時刻は5時を過ぎたばかり。ところが「ぼたん」は大賑わいでした。1時間ほど待たなくってはならないとのことでしたので、諦めて「藪そば」へ。こちらも大賑わいでした
今年は忘年会もほどほど、そこそこということが多い東京ですが、こんな古いお店は流行るようです。須田町の「ぼたん」「いせ源」「竹むら」「藪そば」などがある一画は、空襲で焼け残ったのでしょう。この一画だけ古いつくりのお店が並んでいます。
今年ももうすぐお終い。
1113 20111228 神田小川町 テレビをぼうっと見てました。今年のニュースを振り返るNHKと、テレビ朝日の原発事故検証番組。ああ、なんだか3月11日よりも前の2011年はなかったことになっているみたいな感じがしました。実感としても今年は長かったような、短かったような、2ヶ月くらい足りないような、時間感覚が自他ともにゆらいでいるみたいな感じがします。
池袋に買物へ行くつもりが、笹巻きのけぬきすしが食べたくなって丸の内線で淡路町まで出ました。須田町、淡路町、小川町と駿河台下からはそう遠くない街ですが、明治大学へ行っていたころは、明大通りを挟んで東側はなんとなく馴染みがありませんでした。ちょうど中央大学が八王子に引っ越した頃、明治に通っていましたが、まだ引っ越したばかりだったので、明大通りの東側は中央大学の勢力圏みたいな感じというか、思い込みみたいなものがありました。あとから考えてみると神保町というのは神田のはずれで、ちょっと神田とは雰囲気の違う街だったのだなあと、歩いていて納得。
28日をさかいに神田界隈は、ひっそりとします。笹巻きのけぬきすしを12個買って、それから「ささま」で最中を16個、さらに東京堂で、本をあれこれと買い込んで、これは重いので、発送してもらいました。で、ラーメンを食べて「さぼうる」でコーヒーを飲み、煙草を吸って、なんだか若い男の子たちがおしゃれになったなあと、となりのカップルを眺めていました。ちょっと深刻な話をしていたみたい。グレーがかった薄茶色の革ジャケットをセーターの上に着ていた青年。任地が遠い会社の内定をとっちゃったみたいで、彼女のほうはたいへん不満げな様子。なんだかぎくしゃくしたカップルのぽそぽそした会話を聞いてました。これがちょっとコーヒーの苦さにあっていて微笑。なんて、ヒトゴトだから微苦笑もしてられるわけですが。
タイトルの小川町から、馴染みの神保町へ移動しちゃいましたけれども、今日はまだせわしげな人も多い神田小川町でした。
馬に乗っとる伊藤さんがうらやましい。伊藤さ〜ん。いいなあ。馬。ぽこぽことまた乗りたいなあ。
1111 20111020 ハン・ガン「菜食主義者」(クオン刊) 韓国文学感想文コンテストの締め切りが近づいてきました。課題図書はハン・ガン「菜食主義者」(クオン刊)です。
ある晩、血みどろの夢を見て以来、肉が食べられなくなるという女性の主人公。肉が食べられないという主人公を巡って家族の中に波紋が広がって行きます。
肉が食べられなくなるという発想はどこから生まれたのだろう?おもしろい発想をする作者だなあと、この本を読んだときから、気になっていました。で、思い出したのが孔子が悲しみのあまり肉を口にしなかったという話です。3日ほど肉を食べなかったという話があったはずだと、おぼろげな記憶。
韓国ではお葬式、それから結婚式も儒教式で行われることが多いようですから、特別に「論語」などを読んでいなくっても、孔子の様々な言動などは、きっと日常の会話などに出て来るのでしょう。そういうものが作者の発想の原点にあっても不思議ではないなあと思いました。私の記憶が曖昧だったので、孔子が肉を食べなかった話をググってみました。
出てきたのは弟子の子路が戦死して、遺骸を塩漬けにされたと聞いた孔子が、子路の死を惜しんで家じゅうのシシビシオ(肉の塩漬け)を捨てさせたという話でした。子路のことは中嶋敦も「弟子」という小説で描いています。勇猛果敢な子路は、孔子がもっとも愛した弟子で、その性格から「畳の上では死ねない」と孔子に予想させた男でした。
で、これをググる時に目についたのが、孔子が捨てさせたシシビシオを人肉だと曲解する言辞。食肉を塩漬けにして貯蔵するのは珍しいことではなく、いたるところで用いている方法です。それをわざわざ人肉とするのは悪意としか思えません。なんだかため息でした。
話がハン・ガン「菜食主義者」から離れてしまいましたが、この小説すごく現代的で、すきっりとした構成を持っています。野菜しか食べなくなった義妹に恋する男(主人公の姉の夫)はビデオアーティストなのですが、
裸体の義妹には欲情しないけれども、服を着ると欲情するという転倒にも微苦笑させらました。このアーティストが義妹の裸体に興味を持ったのは、義妹のお尻に蒙古斑が残っていると聞いたときから。そう、あのアジア人の赤ちゃんが持って生まれてくる特徴の蒙古斑です。こうしたディテールからも、この小説が、もともとの持っていて生活の中に溶け込んでいる儒教の思想を、現代的な感受性の表現として造形したものに思えてくるのです。
私は韓国文学感想文コンテストの審査委員をつとめてます。みなさんのすてきな感想をお待ちしてます。10月25日が締め切りです。
1110 20110926 苦瓜 
鵜の目、鷹の目と言いますが、ほんとうに鳥はよく見ているものだと関心します。うちのベランダに実っていた苦瓜が鳥に食べられてしまいました。
風船蔓と苦瓜をベランダに植えたのは5月のこと。よく育って茂りました。しかし、台風12号の運んできた潮風には勝てず、茶色く枯れ始めたところで、緑色の苦瓜がなっていることに気付きました。それまで茂った葉に隠れていて、おおきな実がなっていることに気付かなかったのです。苦瓜のほうも、うまく隠れていたというところでしょう。
苦瓜は黄色く熟しました。そして、台風15号がどうやら我が家の近辺を通過。黄色く熟した苦瓜が見事に鳥に食べられているのを発見したのは、台風15号が通過した翌日でした。黄色い皮の中には赤くなった種が。鳥さん、さあ食べて、おいしくなりましたよと言わんばかりの苦瓜でした。でも、鳥って苦瓜を食べても苦くないのかしら。
1109 20110925 新幹線遅延 
9月21日(水曜日)の東京は台風15号の通過のために交通機関が大混乱しました。台風15号は浜松へ上陸。そのあとは陸上を進んだのですが、勢力はさして衰えませんでした。東京付近を通貨したのは、夕刻の帰宅時間で、どこの駅も大勢の乗客で大混乱したそうです。
23日は久しぶりの大阪行き。東京駅の切符の切符売り場は閑散としてました。「今日は静かですねえ」と駅員さんと話をして、乗り込んだのはいつもの20時50分の大阪行き「のぞみ」。この時刻の「のぞみ」に乗ると、大阪には23時20分頃に到着して、日付が変わらないうちにホテルへ入ることができます。いや、できるはずでした。
「のぞみ」が臨時に停車したのは浜松駅。「豊橋駅付近で新幹線と人が接触しました」のアナウンスがありました。1本前を走っていた新幹線が、豊橋駅から3キロ付近で停車しているとのことでした。「警察がまだ現場へ到着していません」のアナウンスもありました。新幹線が人と接触したという以外に詳しいことは判りません。ふっと気付くと、私が乗っていた車両の隣りに、もう一本、新幹線が停車していました。これは、けっこう時間がかかるかもしれないと、予感しました。
先駆車両の車体の検査は済んでいますが、警察の現場検証が続いています。そういうアナウンスがあって1時間半ほどは何もアナウンスはなし。通路では車掌を捕まえて事情を聞く人も出てきました。外を見ていると、浜松駅へ、さらに3本目の新幹線が入ってきました。これがけっこうなスピードで、一瞬、追い抜かれるのかと思えるほどでした。いささか「むっ」としたのですが、この3本目の新幹線も減速して停車。深夜の浜松駅に3両の新幹線が並らびました。23時を過ぎていました。
それからも何度か「警察の許可を待ってます」というアナウンス。新幹線と人が接触したというアナウンスの段階で「ああ、人身事故かな」と思っていたのですが、なんだか奇妙です。東京の電車で「人身事故」と言えばたいてい飛び込み自殺を意味しているのですが、「人と接触」という表現は聞いたことがありません。
あとで判ったことですが、豊橋駅の防犯カメラに線路へ降りる男の人の姿が映っていたとのことでした。どうやら、走行中の新幹線に接触した人は、性別の判断もつきかねるほどの状態になってしまったようです。ニュースには類推的な書き方がされていました。
警察の検証が長引いたのは、ひょっとすると新幹線の線路内へ何か危険物でも持ち込まれたというような疑いもあったからなのかもしれません。
2時間19分ほど遅れた新幹線がようやく動き出しました。豊橋駅は徐行して通過。駅を過ぎてもしばらくはゆっくりと進んでいました。名古屋駅に到着したのは午前1時。すでに在来線は運行していませんから、名古屋駅には休憩用の車両が用意されているとのことでした。名古屋から意外なほどたくさんのお客さんが乗り込んできました。名古屋からは各駅停車になるとのことで、岐阜羽島、前原、京都と停車しました。大阪駅到着は午前2時前。大阪駅にも休憩用の車両が用意されていました。「朝5時まで御休憩いただけます」のアナウンス。5時になれば各方面への始発が動き出すのでしょう。
改札口は大混雑。「特急料金の払い戻しがされます。改札付近の係員から、遅延証明をお受け取り下さい」と繰り返しアナウンスされていますが、改札付近には、それらしい係員の姿は見当たりません。あるのは自動改札だけ。うっかり自動改札に切符を入れて、切符がそのまま機械の中へおさまっては困ると思ったのは私だけではないようです。おかげで改札を滞った人でごった返していました。で、通りがかった駅員に事情を聞いた人がいて、自動改札へ切符を入れると「遅延払い戻し」の印字がされるのがわかりました。そうなら、そうと言ってくれればいいのになあと、ぼやく人も。果たして自動改札へ切符を入れて、ちゃんと切符が出てくるのかしらと、少し疑いながら切符を入れたところ、出てきたのが冒頭の写真の切符です。赤い字で遅延の印字がされていました。
1108 20110920 四万温泉 
群馬県は温泉の宝庫です。草津温泉、伊香保温泉と回ったので、四万温泉へもおまけで足を伸ばしてみました。台風12号の影響が出てないか、それもちょっと気になっていました。伊香保温泉が山の斜面に開けた温泉なら、四万温泉は谷あいの温泉です。
渋川あたりでは茶色い濁流だった川の流れも四万温泉まで山あいに入ると、清冽な水がごうごうと流れていました。四万温泉といえば積善館のお風呂が有名です。ガイドブックを見ると積善館の湯殿の写真が出ています。積善館は古い旅館ですが、男湯も女湯も同じように作ってあります。このごろでは、時間によって男湯と女湯を交代させる旅館も珍しくありませんが、私が大学生であっちこっちをうろうろしていた頃は、圧倒的に豪華な男湯に、つけたしみたいな女湯と言う温泉が多かったのです。考えてみると、こんなに山深いところに立派な湯殿を備えた旅館があるのも不思議なことです。
伊香保温泉にも草津温泉にも温泉療法を研究したベルツ博士の名前が残っています。けれども、私はベルツ博士のことをよく知りません。軽井沢は保養地として開けるまえは追分と呼ばれていたというのは、室生犀星の随筆で読んだ記憶があります。保養地の軽井沢と伊香保、草津のベルツ博士はなにか関係があるのかしら? それと四万温泉の積善館のモダンな湯殿は、なにか関係があるのかしら? そんな疑問がちょっと頭に浮かびました。
台風12号のもたらした雨はここでもすごいものだった様子で、積善館のお湯をくみ上げるポンプがいかれてしまったそうです。それでお風呂はお湯を抜かれてました。なんでもなければ。日帰り温泉としてお風呂にだけ入るということも可能だそうです。ちょうど積善館に泊まっていたお客さんが
「すっごい雨でしたよ。雨音がすごかった」
と話してくれました。お湯が抜いてあったので湯殿を見学させてもらうことができました。
さて、また台風です。沖縄でうろうろして、そのまま西へ抜けてしまうはずだった台風15号が関東に近づいてきています。
1107 20110919 伊香保温泉 
草津温泉から2日おいて、今度は伊香保温泉へ。快晴。すてきに良いお天気。もちろん関越は全線問題なく通行できました。で、伊香保まで2時間。草津への8時間はいったい何だったのだろうと呆気にとられる速さでした。こういう便利さになれているから、ちょっと台風が来ると、大慌てしてしまうのですけど。
伊香保は山の斜面に温泉宿が並ぶ温泉街です。中心部の石段街は、少しずつ改修工事が進んでいるところでした。共同温泉の石段の湯は以前の場所から、県道よりへ移動していました。大型観光バスの入れそうな駐車場もふえていました。射的屋があるのは昔どうり。でもお土産屋さんは、おしゃれな店になっているところも。石段街を登って伊香保神社を通り過ぎ、元湯の露天風呂に入ってきました。記憶していたよりも小さい露天風呂でした。このごろ、自分の記憶はたいへん怪しいです。露天風呂では、ツーリングの途中のライダーの姿もありました。
台風12号では利根川もどうどうとにごった水が流れていましたから、渋川駅から程近い落合簗はどうなったことやら、と気になっていました。ホテルから簗に電話を入れてもらうと、営業中とのこと。簗は補強してあったので、流されずに済んだとのこと。で、簗に出かけました。お腹に子がいっぱい入った落ち鮎の塩焼きを食べてきました。利根川の向こうに榛名山を見ながら、初ノンアルコールビール。ビールというよりも麦ジュースでした。甘いし。でも、運転をすることを考えると、なんとなく心理的不安が。「騙されているんじゃないだろうなあ」と疑り深くなってしまいます。
伊香保温泉のホテル前に朝取りの野菜を売りに来ていた農家のおばさんと少しおしゃべりをしました。台風でりんごの実がこすれて傷だらけになったこと。今年は天候不順で野菜の出来がおかしいとのこと。そのほか諸々。おしゃべりをしているうちに、たくさんおまけをしてもらいました。丸なすと梅干を買ったら、胡瓜、みょうが、りんご、生姜をおまけしてくれました。丸なすは実がしっかりしていたおいしいなすでした、
1106 20110916 草津温泉 草津温泉の入り口に、路面に特殊な舗装を施して車で40キロ走行すると「草津良いとこ、一度はお出で」のメロディーが聞こえるという道路があります。この舗装は群馬県内の温泉入り口などには、それぞれの土地にちなんだ曲の舗装がされているそうです。
草津に行った日は、南の海上を台風12号がのろのろと進んでいました。紀伊半島に甚大な被害をもたらしたあの台風です。関東でも群馬県の山沿いは大雨。おかげで関越は本庄児玉から渋川伊香保までが通行止め。旧中山道の国道17号は大渋滞。で、草津まで車で8時間もかかってしまいました。ようやく草津に入ったと、くたくたの耳の響いてきたのが、道路の舗装の奏でる「草津良いとこ〜、一度はおいで〜」の響き。まるで地の底から響く悪霊の声のように聞こえました。いまいましいこと限りなし。
台風はのろのろで、翌日も四国を自転車なみ、どうかすると歩く速度で進みました。良かったことと言えば、ふだんは観光客で大混雑する草津の湯畑をゆっくり見物できたことでした。おおきな源泉がぽっかりと口をあけているという眺めはやはり壮観でした。
硫黄を採取する木の樋。黄色い粉の硫黄を買って帰ったこともありました。草津のお湯は、強いお湯で、金属の装身具がたちまち黒くなってしまうこともあります。
お湯が落ちるところに石が緑色になっているのも印象的な眺めでした。伊香保あたりまでは山の湯という感じがしますが、標高1600メートルの草津は山さえ突き抜けた感じです。
1105 20110912 伊勢うどん 
おうどんのしたに、甘辛いたれが入っている伊勢うどんを久しぶりに食べました。鳥羽、伊勢、名古屋、草津、伊香保と回った合宿旅行。隠れたテーマは「うどん」だったかもしれません。
伊勢神宮のおはらい通りで、伊勢うどん。鳥羽でも伊勢うどん。名古屋へ出てきしめん。きしめんは関東風に言えばひもかわうどんです。草津で鍋焼きうどん。伊香保では水沢うどん。こんなにうどんばかり食べるのも珍しい。どちらかと言えば蕎麦喰いで、お昼はお蕎麦と言うこともよくあります。東京では滅多にうどんを食べません。時折、鍋焼きうどんを食べるくらい。これが大阪になると逆になって駅そばのきざみうどんを食べるのが楽しみ。なんと言っても大阪のうどんはお汁がおいしいのです。
でも伊勢うどんにお汁はありません。あるのはたれ。たれを白いうどんにまぶすようにして食べます。感触としては、甘辛団子のおうどんバージョン。最初はちょっとびっくりしました。おうどんと言えば、お汁を楽しむものとばかり思っていましたので、あれ?あれ?あれ?でした。今度は2回目。これは、これはちょっといいかなあと、伊勢うどんを食べました。
名古屋のきしめん。お正月に味噌煮込みを食べてたいへんに美味しかった。私の育った家はお祖父さんが名古屋から出てきた人だったので、きしめんの乾麺を、親戚からお土産にもらいました。ひもかわという言い方ときしめんという言い方の両方を使っていました。今度は冷やしきしめんを食べました。でもせっかく名古屋にいたのだからやっぱり味噌煮込みを食べればよかったかなあと少々後悔。ひどく暑い日でなければ、迷わず味噌煮込みを選んでいたと思います。
草津の鍋焼きうどん。台風12号がのろのろと四国に近づいていたのです。標高1600メートルの草津の町は雨。寒いくらいでした。こんな時はやっぱり暖ったかな鍋焼きうどん。草津だったらお蕎麦を食べようという気になってもよさそうなものなのに。なぜか鍋焼きうどんが食べたくなりました。
伊香保で水沢うどん。うどん、蕎麦、ラーメンなどがあるお店に入ったのですが、突然、大勢さんのお客さんに入ってこられたお店のほうが猛烈に水沢うどんをプッシュ。ご主人一人でてんでん勝手に注文されたら、対応不可能というわけです。で、水沢うどん。これがすこぶるおいしいうどんでした。腰の強いうどん。それから摺り降ろしたゴマの入ったお汁。汁をつけて食べる冷やしうどん。ゴマの入った付け汁がさっぱりとしておいしいうどんでした。店主が「うどんになさいよ」と猛烈プッシュするだけのことはありました。
1104 20110910 御塩殿神社 
夫婦岩がある二見ヶ浦には何度も行っています。伊勢神宮に参拝する人が旅装をといて禊をするのが二見ヶ浦だったそうです。ということは、今度の旅行でゼミ生の皆さんに説明するために知りました。子どもの頃はあのカエルがいっぱいいるところは「なんなのだろう?」と不思議に思っていました。子どもの頃に住んでいた家の池のそばに二見ヶ浦のお土産のカエルが座っていましたから。で、みつけましたHP管理人豆蔵君そっくりのかえる。二見ヶ浦興玉神社の入り口にいたカエル君。しかし、どっかにでかけるとなんとなく豆蔵君そっくりのなにかがいるってのは、もしかして豆蔵君はなにかの神様のお使いなのかな。ちなみにカエルは猿田彦命のおつかいなのだそうです。
伊勢神宮の御塩殿神社が近いことも、今度初めてしりました。地元の人は、たんに「御塩殿」と呼んでいるそうです。御塩殿神社は伊勢神宮のお塩を作っている塩田があります。お天気も良かったので、御塩殿神社に回ってみることにしました。野や山、それに浜には、なぜかとっても清浄感にあふれる場所があります。陽の光のさしかた、風の通りかた、植物の育ち方などが、とても心地よい場所です。子どもの頃は野山や浜で遊んでいて、そういう場所を見つけては、そこを「秘密の場所」にしていましたが、神社もそういう「秘密の場所」っぽいとことにあることが多いです。御塩殿神社もやはり、自然の清浄感のある場所にありました。
清浄と清潔ってちょっと違う感じがします。清潔ってのは、がんがん消毒しても得られるけど、清浄ってのはそもそも消毒薬さえ拒否しちゃうようなところがある。そんなふうに思うことがあります。
お社の入り口で椿の木がたくさん丸い実をつけていました。茂った樹木のつくる陰が心地よい参道を通って簡素なお社の前へでました。製塩のための小屋はこのお社を海岸のほうへ回りこんだ松林の中にひっそりと立っていました。どこか、この近くに塩田もあるはずですが、見つけることはできませんでした。塩田で、濃度を濃くした塩水を、釜で煮詰めて塩を作るのです。伊勢神宮の製塩は年に2度行われると私が読んだ本には書かれていました。そもそも伊勢神宮がこの地に鎮座するようになったのは、海の幸、山の幸に恵まれた土地だったからだそうです。
御塩殿神社を見て、それから海岸を二見興玉神社まで歩きました。入り口で向かえてくれたのが、例の豆蔵君似のカエルですが、陶器のカエル、あの懐かしい我が家の池のふちにいたカエルがいなくなっていました。以前はおびただしいほどあちらこちらに置かれていたのですけど。なにかカエルを片付ける季節とか行事があるのでしょうか?それともこのごろはカエルの置物を奉納するという習慣がなくなってしまったのでしょうか? 目立ったのは写真のコンクリートのカエルだけでした。
近鉄鳥羽駅で岩やの塩羊羹というお土産を見つけました。塩羊羹は江ノ島のお土産にもあるのですが、岩やの塩羊羹のすきっりとした塩味がすっかり気に言ってしまいました。もちろん羊羹ですから、甘いのですが、塩味がその甘さと良い塩梅に調和していて、ああ、また食べたいという気になっています。御塩殿神社に行ったせいかもしれません。
1103 20110909 鳥羽伊勢名古屋・草津・伊香保 鳥羽、伊勢、名古屋それから草津、伊香保と旅行が続きました。
鳥羽に出かけたのは5歳のときでしたから、実に45年ぶりでした。水中翼船に乗ったのをぼんやりと覚えている程度。タクシーの運転手さんに聞くと「昭和40年代が観光の黄金期だったねえ」というお話でした。千葉で暮らしているという運転手さんの娘さんも、震災後しばらくはお孫さんと一緒に鳥羽へ避難してきていたとのこと。今年は震災後、観光客もめっきり少なくなったようです。宿泊したのは鳥羽の駅から山を越えた相差という町。山超えの道に白い百合がたくさん咲いてました。
百合といえば初夏と思っていたので、不思議に感じて調べてみたら外来種のタカサゴユリと日本のテッポウユリの交雑種のシンテッポウユリらしいとわかりました。鳥羽に2泊して二見ヶ浦、伊勢神宮と回り、帰りは名古屋によりました。二見ヶ浦では、伊勢神宮のお塩を作っている御塩殿神社にも行ってきました。地元では「御塩殿」と呼んでいるとのこと。御塩殿神社から二見ヶ浦の夫婦岩まで、海岸を歩きました。すばらしいお天気。が、この時はもう、紀伊半島に大打撃を与える台風12号が南の海の上に発生していました。
草津は台風12号が四国に上陸するかしないかという日に出かけて行きました。群馬県の山沿いでは記録的な豪雨が降っていて、関越自動車道は本庄児玉から渋川伊香保までが通行止め。国道17号は大渋滞。さらに山越えをして長野原に出て、草津にたどり着くまでに8時間もかかりました。四国に上陸するはずの台風は、時速10キロののろのろ状態。上陸してからも速度は上がらなかったのは皆さんご承知のとおりです。草津の宿に到着した晩は、落雷もあり、一時、非常用の電気を使いました。翌日も時折叩きつけるような雨でしたが、湯畑だけはゆっくり見物してきました。
草津から伊香保へ。台風が通り過ぎて、山はすっかり秋の気配でした。日陰も涼しく、夕方になれば肌寒いくらい。ホテルの前へ朝取りの野菜を売りにきていた農家のおばさんに聞くと、台風の風で、収穫直前の林檎が枝にこすれて傷だらけになってしまったそうです。
伊香保の石段街は、再整備の途中らしく、自動車用の道路に面して広場が出来ていました。石段もすっかり新しくした様子。共同浴場の石段の湯は、以前よりも少し自動車道に近い場所に新築されていました。
1102 20110818 ニクソンショックから40年 今年の8月15日はニクソン・ショックから40年だそうです。ニクソン・ショックは1971年。連合赤軍による浅間山荘事件は1972年冬のことですから、ニクソン・ショックの頃の日本では、全共闘の学生運動が下火になり、極端に突出した運動家が、多くの人を驚かすような事件を起こすようになっていました。淀号のハイジャック事件は1970年の春ですから、ニクソン・ショックはちょうどその二つの事件の間で起きています。
さて、ニクソン・ショックですが、アメリカのドルと金の交換停止をニクソン大統領が突然に発表したものです。そこからドルの興亡が始るのでした。長い目で見ればドルの凋落かもしれませんが、ただ落ちる一方ではなかったようです。今から振り返るとドルは、金という縛りから自由になって行った40年だったわけです。正式に変動相場制に移行したのは1976年。昭和で言うと51年で、私は高校生になっていました。1985年にはプラザ合意で、金融自由化が始ります。日本でバブル景気が本格化するのは、これ以降だったと思います。1985年の3月に、私はロンドンに3日間ほどいて、金融街のシティを歩いています。日曜日だったので、ひっそりとした金融街でした。たった3日間しかいないロンドンで金融街のシティに行ってみようと思ったのは、飛行機の中のガイド・ブックでちょっと興味を持ったからに過ぎません。でも、興味を持つからには、何か理由があったはずなのですが、その理由が今はもう思い出せなくなっています。
ウィンブルドン効果という単語は1985年3月の段階ではまた知らなかった、というより、単語がそもそもなかったかもしれません。ロンドンのシティに世界中からの金融取引を集めて、イギリスを繁栄させる政策をそう呼ぶのだと聞いたのはだいぶ後からです。テニスのウィンブルドンのように、金融取引の勝者はどこの国の人でも良い、しかしその取引の場所がロンドンのシティであれば良いという理屈でした。NYはこれをより大規模に展開していたようです。これでドルはその基軸通貨としての地位を守ります。日本では株式市場の値上がりはもちろん、土地の値段がべらぼうに上がりました。私が今、住んでいるマンションを購入したのは、この値上がりの最中でした。だから高い買物をしたのかもしれませんが、その頃は銀行も気前が良くって、お金を借りてくれと頼むようなことさえありました。
金融自由化による好景気は額面上の財産を増やすことで、経済を活性化して行くという方法です。額面上の財産を増やすというのは、投資家の投資を誘うのですが、投資したからには利益が出なければなりません。簡単に言えば未来にお金を投じるわけですから、そのお金が何か利益を生む必要があるのです。で、ここで1970年頃から日本で原発が盛んに作られるようになってことを重ねてみたくなります。何をするにも先立つものはお金と、よく言われますが、お金と同じくらい「電気」がなければ、何もできません。
内需拡大はプラザ合意後の日本でよく聞いた言葉ですが、内需拡大も先立つものは電気であったと今更ながらに呆れます。小学生だったうちの子どもたちと「バック・トゥ・ザ・フューチャー」を繰り返し見て楽しんだのは1990年前後。PART2では悪ガキのビフが未来のスポーツ年鑑を手に入れ、スポーツ賭博で大金持ちになって、街が電飾ギンギンのラスベガスのようになっているという場面がありました。PART2の公開は1989年。NYの株式市場が大暴落したブラック・マンデーは1987年10月でした。が、日本では株式市場は値上がりを続け1989年12月に史上最高値の38915円89銭をつけました。ブラック・マンデーを経験したアメリカは、グリーンスパン氏がFRB議長に就任したばかり。その後、グリーンスパンマジックという手法を展開してゆくようになります。
映画の「バッグ・トゥ・ザ・フィーチャー」PART3の結末と違って、アメリカは世界を巻き込みながら、大量に電気を喰うギンギンのラスベガス街道を驀進して行くというわけです。実態なき経済成長と言ってもいいかもしれません。
しかし、ほんとに実態がなかったわけではなく、実態を後からくっつけたわけで、やはり電気が必要だったのです。戦後の高度成長期の経済成長と、後からむりやりにくっつけた経済成長では、感触が違うのはむりからぬことだと思います。だって額面上の会計の帳尻合わせのために、むりやりに遊んだり、食べたり、飲んだり、着慣れないものを着たり。そういうむりやりな生き方をする親の苦悶の表情を見ていた子どもたち、つまり今の青年たちが草食動物と揶揄されるような存在になったのも理由があることでしょう。彼らは時代が成熟を促した思慮深いヨーダみたいな存在かもしれません。「スター・ウォーズ」のヨーダです。
ニクソン・ショックからの40年を振り返ってみると、そこに日本の原発開発が重なります。1944年のブレトンウッズ会議からニクソン・ショックまでが25年。ニクソン・ショックから24年後の1995年の日本では、阪神大震災とオウム事件。2011年から先の10年。つまりニクソン・ショックから50年になるときには、電気をやたらに喰う金融資本主義はどのように変化しているのでしょうか。「スター・ウォーズ」ではヨーダも最後には剣を取って闘うのでしたっけ。
1101 20110815 飯田橋 深夜の投げ銭男 思い返せば5ヶ月前。震災直後の2週間ばかりは家からほとんど外へ出ませんでした。買物も近所で済ませていました。初めて池袋まで出た日は、運悪く、東京が大停電になるかもしれないという発表があり、帰りの電車は大混雑。知り合いといやにひっそりした街を歩いたのはいつのことだったか? もう4月になってました。外濠の土手に桜がいっぱい咲いていました。
4月半ばに大阪へ行った時は、大阪の空気がゆるいので、ほっとしたものでした。飲み屋で人の悪い冗談を大きな声で言っているおじさんがいるというだけでも、街の空気の違いを感じることができました。神保町でシャツを1枚買ったのは5月の初め。「震災直後よりもだんだん人が戻っていますねえ」とシャツ屋さん。震災から1ヶ月ほどは、神保町の人通りもまばらだったとのことでした。
そういう直後の緊張がほどけないまま夏に。なんだか夏になった気がしない東京です。浮かれて歩く人を見かけません。人の身なりもどこか遠慮ぎみ。リゾートじゃないぞ! というようなカッコウの人をほとんど見かけません。緊張気味だった人の顔は、だんだんちょっと険悪だなあと感じるような極端な人も見かけるようになりました。
さてとタイトルにした飯田橋の投げ銭男。見かけたのは7月末頃。その日は大学院の前期の講義が終わったので、飯田橋の東口のイタリア風居酒屋のテラスで院生諸君とワインを飲んでいました。電車の時間があるので、一人抜け、二人抜け。それでも話し込んでいて、残ったメンバーでカラオケにでも行こうかということになりました。だから12時半は回っていたでしょう。
飯田橋西口の五差路の交差点を新宿方向へ入ったところ、向こうから中年のカップルがやってきました。なにやら言い争っている様子。すたこらと歩く中肉中背の男。小走りに追いつきながら、首を傾げつつなにか言い募る女性は。かりっと痩せた身体で、女の人としては長身の部類。ほっそりとした首が印象的な女の人でした。ああ、けんかしているなあとぼんやり眺めていたところ、ポケットに手を突っ込んでいた男の人が、やにわにばらばらとお金を路上に撒きました。
一緒にいた院生が「あ、お金が落ちましたよ」と言いながら拾い集めようとするのを、ちょっと手で制してしまいました。落としたのではなく、あきらかにお金を撒いたのでしたから。10円玉、100円玉、それから500円玉。コインとはいえ拾い集めれば、けっこうな額になりそうです。案の定、男の人は「金拾って来いよ」と女の人に命令口調。言われた女の人は、やや躊躇。だって、お金を拾っている間に逃げられそうなのは見物していた私にも解るのですから。築地の市場に仕入れに行く料理屋さんが持っているような四角い籠を下げていた女の人は、躊躇はしたものの、路上にばら撒かれたお金が惜しくって、大急ぎで拾い集めだしました。
なんたる卑怯者なのだ。と、憤慨。でも、まあ、人様の喧嘩に首を突っ込むのも、いかがなものかで、通り過ぎるそぶりで見ていると、すたこらさっさと逃げ出すかと思った男の人は、ゆっくりとした足取りで遠ざかっていきます。で。道の角を曲がろうとしたところで、女の人が全速力で追いつきました。きっと道を曲がったところで走り出すつもりだったのでしょう。女の人のほうもそんなことお見通し。東洋人のカップルであることは間違いないのですが、どちらも日本人だったようなそうでないような、夜目には判断がつきかねる二人でした。
カラオケで遊んで明るくなってから同じ道に出てみると10円玉がひとつ落ちてました。あの男の人がポケットから撒いた10円玉だったかどうかはわかりません。なんだか言い争いの原因はお金のことだったような気がします。それにしても玉銭ばかりよくあんなにポケットに溜め込んでいたものです。
1100 20110809 米国債 格下げ 米国債がS&Pによって格下げされました。米国債が格下げされたことが、世界の経済へ、日本の経済へ、どのように影響するのかという一般的な関心とは別の関心を私は持っています。その関心を一言で言えば、米国経済の衰退は世界の文化と芸術をどう変化させるのかという関心です。
デジタル技術とネット文化の発展は時代の趨勢だと多くの人が感じているはずです。確かにそれはそうなのですが、気になっているのは、デジタル技術とネット文化は、コンテンツ(音楽、美術、文学、漫画、アニメーション、写真それから報道などなど)の価値を安く見積もる傾向があります。時には安くではなく無料の場合もあります。コンテンツが無料というのは、すでにテレビ、ラジオで経験済みのやり方で、テレビ、ラジオはコマーシャルの利益によって運営されてきました。ネット配信はそれをより強力に推し進めたもののように見えます。でも、このコンテンツを楽しむ人と、コンテンツの制作費用を負担する人の間に、おおきなズレがあることが問題でした。コンテンツは無料で楽しめるものという意識が生まれてしまうところにも問題がありました。
今日、CDショップのWAVEの破産というニュースを見つけました。ネット配信が進んで、CDの売り上げが落ちたからというのが破産の原因だと思います。アメリカではアーティストが楽曲の配信では利益が上げられないので、グッズ販売に力を入れているとも聞いています。ネット配信の利点は、データなので倉庫代や運送費、それから店舗にかかる諸費用がいらないので「安く」なるというものでした。しかし、それはほんとうなのでしょうか? 私は首をかしげています。
私はおもに電子ブック関連で、上記のようなネット配信の利点の説明を聞いてきました。そのさいに感じたことを率直に書くと、そういう説明をする人は、本というものの紙代や輸送費は問題にしても、かんじんの本の中身の価値がどのように捻出されているのかは、ほとんど無知である場合が多かったのです。つまりコンテンツの価値を「本」という物品の値段にどう含ませているのかについて知っている人はいませんでした。これは、音楽や映画などでも同じことが言えると考えています。ネット配信の説明では、コンテンツの価値は著しく無視されていることが多いのです。
さて、一方で、ネット配信はそんなに安いものなのでしょうか? 配信を受けるための情報機器の値段はピンからキリまでありますが、その機器を数年おきに買い換えることを考えると、トータルでそれほど安くなったと私には思えないのです。情報機器だけでなく、情報を再現するためのソフトの必要もあわせるとよし割高に感じられます。私は30万円あったら、死ぬまでに読みきれないほどの本を買い込むことができますし、お天気がよければ電気代もかけずに繰り返しその本を読めますし、なんなら、繰り返し読んだ本から、新しい物語を自分で作ることもできます。いや、これは脱線。
ここからが偏見。現在のネットはもともとアメリカが軍用で持っていたネットワークを民間用に開放したことから始まっています。なぜ民間用に開放したかと言えば、新しい産業を興して、アメリカ経済を活性化するためでした。考えてみれば、第二次世界大戦に勝利して以来、アメリカはすっきりと勝利した戦争はありません。朝鮮戦争、ベトナム戦争。いずれも「勝てなかった」戦争です。第一次世界大戦、第二次世界大戦で国力を伸ばしたアメリカの力はベトナム戦争が終結する頃に、すでに成長の源泉を失っていたという見方もできなくはないのです。ニクソン・ショックはそれを物語っていました。しかし、アメリカは世界の覇者であることにまちがいはありませんでした。今、グローバル化と呼ばれている諸々の現象は、アメリカのやり方である場合が多いと聞いています。それが広まって行くのが1980年代以降です。で、ソビエトが崩壊。90年代に入ってすぐに、イラク戦争。インターネットが登場したのはこの頃です。
インターネットは最初から「革命」だとか「第3」あるいは「第4」の産業革命だと宣伝されました。裏を返せば最初から、かなり観念的に「産業革命」のイメージを喧伝されていたのです。そのことによって、株式市場でネット関連の企業の株価があがったり、ネット関連会社の間の買収活動が盛んになったりました。これが私には成長力の源泉を失ったアメリカの、むりやりな成長政策、観念先行の経済振興策に思えるのです。ここが私の偏見。
もともと雑誌(マガジン)新聞(ニュースペーパー)映画、ラジオ、テレビと言った大衆文化を中心に発展してきたアメリカ文化は、コンテンツに対する評価は「数」の評価を重要視するところがあります。薄利多売を美徳とするところも多いにあります。そうしたアメリカ文化の性質がネット配信の世界で生かされています。が、根がややムリな経済振興策、成長政策の理論から出発していると思っているので、私はそれを自然な時代に変化と感じることができないのです。ネット関連企業とデジタル技術関連企業の帳簿上の利益(株価の値上がりなどを含む)を上げるために、アーティスト(歌手や作家)、小売業者(CDショップや本屋さん)劇場、それからそれに関連したさまざまな業種(紙屋さんとか、歌手のマネージャーとか)などの得ていた利益を、吸い上げてしまっているのではないでしょうか? 結果として小さなビジネスの利益を、大きなビジネスの利益へと搾取するような現象がおきているとは言えないでしょうか? それはアメリカ文化の華であった映画やポピュラー音楽、ミュージカルそれからジャーナリズムさえも衰退させてしまうような現象だと言えます。蛸が蛸の足を食べているような、そんな現象なのではないでしょうか。
話は米国債の格下げに戻ります。ここまで来たら、ニクソン・ショックから続く大きな歴史の物語もいよいよ大詰めの段を迎えつつあると考えてもいいでしょう。そしてその大詰めは、いったいいかなる結末を迎えるのかは、まだ誰にもわかりませんが、アメリカがむりやりに推し進めてきた「ネット革命」なるものが、大きく変化する可能性はあります。私はそれが「幻」あるいは「神話」や「伝説」として崩れて行くのではないかと、そちらの方向に、期待を持ってしまうのです。いや、ますます強力に「ネット革命」を推し進めて行くことも、想像できないわけではありません。いったい、どちらに世界は進んで行くのでしょうか。
1099 20110801 梅鉢の衣装 天神祭りの衣装はとにかく梅鉢、梅鉢、梅鉢でした。梅鉢を細かく散らしたもの、格子の中に配置したもの、大きな梅鉢が裾から肩へ飛んでいるもの。おそろいの浴衣に、いろいろな梅鉢の意匠がありました。そのほかにも目を引く意匠がたくさん。
お祭りは願人(がんじ)が太鼓を叩く願人太鼓から始まるのだそうですが、その願人と同じ赤い垂れの長い烏帽子(投げ帽子というのだそうです)を被った男の子が太鼓を叩いて天満の商店街を練り歩いていました。
天満宮繁盛亭の前では、美しい髪飾りの女性たちとすれ違いました。赤い半襟も梅鉢です。
笠踊りで商店街を練り歩くお嬢さんたち。だんだら模様の袴? がすてき。で、メイクはばっちり現代風。
同じ横じまの袴でも紺色と白のものもありました。こちらは、天満宮裏手の公園に引き上げてきたところ。男の子も女の子も、小さい子もかなり年配の人も皆々、同じ衣装をつけていました。なかには、この衣装のまま地下鉄に乗っている人もいました。
そういうわけで、今日もまた写真のアップ豆蔵君お願いします。
1098 20110729 お迎え人形 
天満宮のお社の一画にお迎え人形を並べてあるところがありました。やじろべえの豆蔵がいたのは、そのお迎え人形の末席? いや、末席かどうかは別にして、豆蔵はお迎え人形の中ではちょっと変わった存在でした。お迎え人形はかなりな大きさで、見た感じでは、大人一人と同じくらいか、それより大きな感じです。顔はまちがいなく、生身の人の顔よりも大きい。全部で16体あるのだそうですが、毎年、交代で展示されるそうです。やじろべえの豆蔵は、一番最後に大阪府民俗文化財に指定されたとのこと。英雄豪傑、芝居の登場人物とはちょっと違った雰囲気の豆蔵ですが、どうももともとは天満宮で子どものお土産として売られていたやじろべえを、お迎え人形のひとつに加えたということのようです。
今年出ていたのは、まず八幡太郎義家。山形の酒田では、この八幡太郎義家のお人形が、蔵から出たがって、持ち主の家の人の夢に出たという話を聞いたことがありますが、お迎え人形の義家さんもなかなか意志の強そうなお顔をしていました。
迫力満点なのは「胡蝶の舞」眺めているだけでぐぐっと迫ってきそうなお人形でした。
かわいい顔というか、どこか、とぼけているのか大らかなのかわからないのがスサオノノミコト(ほんとは漢字なのですけど省略)英雄豪傑というよりも、ねえちゃんのアマテラスオオミカミを困らせた末っ子の感じが出ていました。
で、お迎え人形が展示してあるところの頭上には、蜆貝で作った藤棚が。確かに藤に見えます。貝の内側がほんのりと紫色ですから。藤には見えるけれども、じっと見ていると、なんだか皆でひしひしと蜆のお汁で、ご飯を食べている光景が浮かんできます。「二日酔いにはやっぱり蜆汁だよ」なんて呟きながらご飯を食べていた人もいるかもしれないなんて、余計な想像までしてしまいました。
と言うわけで、この項は、また例によって「豆畑の友」の管理人の豆蔵君が写真をアップしてくれる手筈になっています。豆蔵君、どうぞ、よろしく。
それぞれの人形と本文があっているかドキドキです(豆)
1097 20110728 天神祭で見つけたもの。 
梅雨明けの頃から、夏を挟んで、秋まで、いったい日本中でどのくらいのお祭りがあるのでしょうか? ちょっと有名なものを思い浮かべただけでも、次から次へときりがなく浮かんできます。「内需拡大」なんて経済学の言葉を知らない昔の人は、神様と遊んで愉快に過ごして、友人知人が遠方から訪ねてきたり、贈り物をしたりして、いつのまにか暑い盛りが過ぎて行くと、そういうふうになっていたようです。
「こんな暑い時に」
稲垣さんとの待ち合わせより少し早い時間に天満に出て、いつも覗く天満3丁目の古本屋さんの矢野書房に顔を出しました。すると「暑い時に」というご挨拶。ほんとに暑かったのですが、これは天神祭りの頃の決まり文句の挨拶でもあるようです。店主一人の古本屋さんですから、お祭りのときは役員に出てお店を閉めているかもしれないと思いつつも、覗いてみたのでした。
天1、天2、天3と続く天満の商店街は、聞くところによると日本一長い商店街だそうです。ずっとアーケードが繋がっています。アーケードの中にはシャッターを閉じたままのお店もちらほら。なんだか賑わいからは遠い感じがする天満の商店街です。個人経営のお店はどこも苦しいようです。お祭りで大勢の人が出て、子ども神輿や笠踊りなどが繰り出していますが、やっぱり、日頃の寂しさは残っていました。シャッターを下ろしたお店の前に「亀すくい」の露天がありました。金魚すくいはいたるところで見かけましたが、「亀すくい」はここだけ。男の子が器用に緑色の小さな亀を掬っていました。
矢野書房さんは「今年はお祭りの役員は勘弁してもらって店を開きました」とのこと。そんな四方山話をしているうちの、表では賑やかにお神輿を担ぐ声や、お囃子の音が聞こえてました。古本屋さん、喫茶店、レストランや食堂、それから八百屋さんに魚屋さんなど、個人経営のお店は、よそから来る人間には、その土地に知っている人を作るためのよいきっかけになってくれます。それでいろいろなことを教えてもらったりもします。しかし、コンビニやスーパーそれかチェーン店のコーヒーショップなどは、そういう気の合う知り合いができるということはあまりありません。どこに行っても同じサービスを受けられるけれども、いつまでたっても「どこかに知らない人」でしかないということが多いです。
「あのお神輿が走るから、危なくって」
「え、お神輿が走るのですか」
なんて言っているうちに、わぁと声が上がってお神輿がお店の前を走り抜けました。
「ほんと。走っている」
唖然とする私に
「だから、役員で出ているときは子どもに怪我をさせないように、気が気じゃありません」
アーケードの中を走るお神輿のあとを、小さな子どもがこれまた全速力で走って追いかけていました。
矢野書房で東京へ送ってもらう本を幾つか選んで、それからしばらく天満の商店街を歩きました。で、天満宮へ。天満宮の大門にはびっくりするほどの大きな茅(ちがや)の輪がありました。この大門はお神輿が出入りするために、一般の出入りは止められていたので、わきから天満宮へ入りました。お社の前には立派な鳳神輿と玉神輿、それに地車があり、それぞれの「講」の人たちが集まっていました。「講」というのは、それぞれの役割を負った氏子の集まりみたいだなあと、眺めていて、気付いたことがあります。それぞれの「講」でいろいろな品物を売っているのです。扇子とかストラップとか、グッズを売って、そのお金がお祭りの資金になると、そういう仕組みらしいのに気付きました。なんか大阪らしい方法だなあと、ミュージシャンのライブなどでは珍しくない方法ですが、お祭りだとひどく珍しい感じがしました。
幾つもある「講」の中に生きた牛を連れてきている「講」があります。天神様のお祭りだから牛が出てくるのは納得ですが、この牛がおとなしいこと。鼻面を人が撫ぜても、大きな目を見開いてじっとしています。「3歳の女の子の牛だからおとなしいよ」とおじさんが見物の人に話していました。
やじろべいの「豆蔵」を見つけました。「お迎え人形」という特大の人形が並んでいる中に、なぜか遠くを見ている「豆蔵」が。これは、さっそくここのHPの管理人の豆蔵君に見せなくっちゃと、お写真をぱちり。
八軒屋浜へ出てみると、お化け屋敷が。靖国神社のみたま祭りに出ていたお化け屋敷を外から眺めましたが、同じお化け屋敷か、違うお化け屋敷かどうかはわかりませんでした。でも呼び込みは、靖国神社とはまったく違ってました。
「はい。おもしろいよ。笑えますよ。お話の種に見て行ってちょうだい。絶対に笑えます。笑えること保障します」
大阪では「笑い」はとても価値があるのだと、大阪女性文学会の尾川さんから聞いたがありましたが、お化け屋敷まで「笑い」が売り物とは。お化けも大阪ではコメディアンのようです。そう言えば天満宮のそばに評判の寄席の「繁盛亭」がありましたっけ。
飴細工屋さんが露天の店を出しているのは初めてみました。次から次へと注文だ殺到して、手を休める閑もない飴細工屋さんでした。
氏子の集まりの「講」は町内会と同じと、関東者の私などはそう思い込んでいるのですが、どうも天満宮の「講」は町内の集まりのほかに、料理人の集まりとか、市場で作っている「講」とか落語家の「講」など職業的な集団の「講」もあることに、あっちこっち見て歩いているうちに気がつきました。隣近所のお付き合いのほかに同業者の結びつきも強い商人の町の大阪の面目がそれぞれの「講」にあるようでした。
1096 20110725 チャンチャカチャンチャカ ちょっと時計を見て、ああ、大阪ではそろそろ天神祭りのクライマックス、陸渡御、船渡御、それから花火が終わるころだなあと、見られなかったその華やかだという水陸の行列を想像してみました。25日つまり今日がその日です。天神祭の陸渡御、船渡御は太閤秀吉の頃の大阪を想像できるのではないかと思い、なんとしても見てみたいのですが、これは来年のお楽しみにして、天神祭の宵宮を見物してきました。
伊藤さんから「案内してくれるって人がいるよ」とメールを頂いたのは先週の木曜日夜。あいにく私は朝帰り(つまり金曜日)でした。朝帰りと言うか、飯田橋で法政大学の1限の講義に出るという学生とすれ違うという話で、頭は朦朧。夕方、再び飯田橋へ這い出して法政で授業に出て、最終の新幹線で大阪に滑り込むという例によって例による日程でした。うまく案内してくれる人と連絡がとれるかな? とちょっと不安。なにしろ前の週は群集を怖れて、京都の祇園祭りのクライマックスをすごく遠くから眺めるという残念な結果だったのですから。コンコンチキ、コンチキチンからチャンチャカチャン、チャンチャカチャンヘ、2週続けてのお祭り見物でした。そして、今度はうまく大阪の稲垣さんと落ち合うことができました。待ち合わせは、いろいろな出し物で賑わう天満の商店街近くのスーパーマーケットでした。
お祭りは地元の人に案内してもらうのが一番。大阪天満宮を見て、それから裏手の公園へ。さらに八軒屋浜へと歩きました。川を上り下りする船を見るのは、諦めていたのですが、どんどこ船を見ることができました。これは本祭りの先触れなのだそうです。これだけでもなかなか見事。大川の縁にはかがり火も焚かれていました。
どんどこ船のほかに、なにやら世話しなく動き回っているモーターボートがあり、烏帽子や袴をつけたお祭りの関係者とおぼしき人が乗っていました。ちょっと笑ったのは、忙しく動き回るモーターボートから、何か四角い箱のような物が、川に落ちたときでした。「あ、何か落ちた」と稲垣さん。川面には、船から落ちた荷物がぷかりぷかり。「どうするのだろう」と私。すると川面を突っ走っていたモーターボートが、つつっと止まり、くるりと方向転換して、荷物のところまで戻ってきました。で、船上の袴を着けた男性は、タモ網を繰り出して浮いている荷物を拾い集めていました。ああ、こんなこともあるんだと妙に感心してしまいました。
こちらに秀吉の頃の合戦へ出発する船団の様子を想像してみたいという下心があるせいか、どんどこ船から聞こえるチャンチャカチャンのお囃子の音が、なぜか鬨の声に聞こえます。京都の祇園祭りではあまり合戦を想像しなかったのですが、大阪の天神祭は「これは昔の軍事演習じゃないかしら」と思いたくなるくらい合戦を想像したくなります。
天満橋から、京阪天満駅の駅ビル屋上へ。ちょうど大川の向こうに陽が沈んでゆく時刻でした。陽が沈むと、入れ替わりに、大川端で焚かれていたかがり火の色が冴えてきました。
1095 20110721 コンコンチキ コンチキチン 「楽隊のうさぎ」で小倉の祇園祭りを取材した時、京都の祇園会の系統のお祭りですから、お囃子はみやびですよと教えてもらいました。小倉のお祭りといえば「無法松の一生」。歌謡曲で歌われた太鼓の乱れ打ちというのは作家の岩下俊作の創作なのだそうです。でも、そのイメージが定着しているので、お祭りのお囃子とは別に今は和太鼓のコンクールが開かれています。
九州の小倉から潮待ちの赤間ヶ関と通って瀬戸内海へ、瀬戸内海を東に進んで、淀川を遡り、伏見へという海から川へのルートがあったことをお祭りのお囃子は伝えているようです。祇園祭りの鉾に、異国的な図柄が見られるのも、そうした海上と河川のルートがあったことと無関係ではないでしょう。川端康成の「古都」の冒頭にはキリシタン燈籠が出てきます。それから西洋的な図柄を帯の図にしようとするちょっと変わった問屋の主人。祇園祭りの宵宮で、離ればなれに育った双子の姉妹が出会うこの小説では、当初、古い都と西洋の出会いがモチーフになる予定があったのかもしれないと思わせる幾つかのデティールがあります。笛と鉦と太鼓で奏でられるお囃子にも、どこか、遠い昔に忍び込んだ西洋音楽の面影があるのかもしれません。
淀屋橋から京阪電車で三条まで。三条大橋を渡り河原町通りにでると、ちょうど山鉾が御池通りを目指しているところでした。並んで進む山鉾を追いかけはしましたが、なにしろ人ごみが苦手。あとで聞いたら、河原町通りと御池通りの交差点でいしいしんじさんも山鉾の巡航を見物していたそうですから、人ごみを億劫がらずにいたら、出会えたかもしれず、ちょっと惜しいことをしました。なにしろ暑い日だったので、人ごみに突入する気力がありませんでした。
それから八坂神社へ。四条大橋を渡っているときに見知らぬ御婦人から、小さいな保冷剤のパックを「うちから持ってきたものですから使ってください」と手渡されました。あとで、鏡をみたら鬼のような真っ赤な顔をしていました。熱中症寸前だったかもしれません。

浅黄色の裃姿の人を八坂神社で見ました。きれいな色です。裃って、スーツに似ている感じがしますが、丸の内あたりで見かけるスーツよりもずっときれいな色をしています。お神輿は八坂神社を出発する寸前で、準備が始っていました。でも、いよいよ怪しくなっていたのです。気温と人手で、なんだか頭がくらくら、これはたまらんと、まずペットボトルのお茶を買い、それから「清浄歓喜団」を売っている亀屋清永に逃げ込ませてもらいました。このお菓子は古いお菓子で、お寺のお供物になるのだそうです。ごま油で揚げた硬い皮の中に、香料の入った餡子が詰まってます。
それでも火照りは引かず、四条大橋のたもとから鴨川の岸におりてしばらく休みました。橋の向こうから、お神輿を担ぐ用意をした人がぽつぽつ集まってくる時刻でした。いやはや、人ごみは苦手です。
1094 20110719 鴨川の流れ 
淀屋橋のベローチェで土佐堀川の水の満ち干きを少し眺めて京阪電車の特急で、京都の三条まで出ました。40分くらい。電車が地下から地上へ出るのは、京橋のあたり。何度か大阪と京都の間を往復して、電車の窓の外の川の流れを、家々が建てこんだ景色の中から「あのあたりだろう」と追うことができるようになりました。
淀とか伏見とか、たぶんそのあたりまでは、船で荷物が運ばれたのでしょう。で、伏見を過ぎると京阪電車は再び地下へ。今度は、祇園祭りの山鉾巡航を見物しようと思っていたので三条でおりました。
三条大橋を渡って河原町通りの方向へ。鴨川にはびっくりするほどきれいな水が流れていました。こんなに水が澄んでいる日があるんだと、ちょっと見とれてしまいました。
家と家が軒を接していて、その間に細い路地があり、路地の奥にもまた別の家があるという京都の町で、鴨川にかかる橋の上にでると、視界が遠く北山のほうまで開けてほっとします。京都の橋を渡るときは独特の開放感があります。水の流れと空と山と。河原が憩いの場所として生きているのが解ります。
八坂神社に行った帰りにあんまり暑いので、四条大橋のたもとから、河原に降りてみました。すると、橋の下で若いお嬢さんたちがおしゃべりをしています。向こう岸では川の流れに足をつけて涼む人も、石を投げて水切りをする人も。こんなに大勢の人が河原で涼んでいるのに。白鷺がなんでもない様子でひらりと舞い降りてきました。
3枚目の写真は四条大橋の下から三条大橋の方向を眺めたところです。歴史の本を読んでいると三条河原に首をさらしたとか。三条河原に引き出して処刑したとか、血なまぐさい記述が出てきます。河原というので、なんとなく町外れのような気がしてましたが、四条大橋の下からその方向を望むと、京のお公家さんや町衆でいちばん賑わう場所を選んでいたのかと、嘆息しました。
1093 20110718 淀川の眺め 
日曜日、淀屋橋から京阪電車で京都の三条まで出て祇園祭りを覗いてきました。来週は大阪の天神祭りを眺めてこようと思っています。
写真は京阪電車が出る淀屋橋のベローチェ2階から日本銀行大阪支店方面の眺め。下を土佐堀川が流れています。淀川の流れもここまで海に近づくと、潮の満ち干きがあります。古くは堺、新しくは神戸という外国の玄関口としての港があるので、大阪はあまり港町という感じがしません。横浜港がある東京と同じです。が、潮の満ち干きを見るとここも港であったことを思い出します。
来週の天神祭りは船渡御が見ものを聞いていますが、残念ながら25日は東京で用事があるので、24日の宵宮を見物しようと考えています。
17日(日曜日)は京都の祇園祭りの山鉾巡航。土佐堀川の流れをしばし眺めてから、京阪電車で京都の三条まで行きました。ちょっと特急がきていたので、京都三条まではあっというまでした。
1092 20110718 城戸朱里さんのハワイ土産 城戸朱里さんからもらったハワイ土産のことを書こうと思いながら、とうとう7月も半ばを過ぎてしまいました。今年は時間の流れが速いのだか、遅いのだか、感覚で上手くつかめません。
で、城戸朱里さんからいただいたハワイ土産です。LILIKOI BUTTERとピンク色のお塩。リリコイバターはパッションフルーツのジャムに蜂蜜とバターを加えたものだそうです。甘くって酸っぱくって、そして濃厚な舌触りと香りを持っています。これをパンにつけて一切れか二切れ食べればもう、おなかがよくなります。そのくらい濃厚な味と香りなのに、なぜか、暑いときにも食べたくなる味。さすがハワイのお土産だけのことはあります。城戸さんはハワイの朝市で素人の人が作った手作りのジャムだと言っていました。
それからピンク色のお塩。こっちはちょっともったいない感じがしてまだ食べていません。ゆで卵にちょこっとかけるとか、そんな感じで食べようと思っているだけ。袋ごと眺めて楽しんでいます。
震災後、お塩が値上がりを始めているそうです。「この世でいちばんおいしい物はお塩だ」と家康の愛妾だったお梶の方が言ったという逸話を聞いたことがありますけれども、味噌でも醤油でも、調味料にはお塩が必ず入っていますから。お塩の値上がりはなんだかただならぬ気がします。
1091 20110613 建築現場に夏が来る 今のマンションを買うときに不動産屋さんに「マンションってどのくらいの耐用年数なのですか?」と尋ねました。「査定では50年となっていますけど……」とのお答え。その頃、今のマンションは築8年というところでした。それからもう24年。我が家も築30年を超えました。
ところで日本のコンクリート建造物はだいたい築30年くらいで立て直されているそうです。それはどこで聞いた話なのか、それとも新聞で読んだ話だったのか?よく記憶していないのですが、そう言えば、戦後すぐに建てられた建物が姿を消して新しくなったのは、私が大学へ通っていた頃でした。それから子どもの時に昭和30年代40年代の建物が順次に姿を消して行きました。
飯田橋の警察病院や郵便局があった一画の再開発が始るという掲示を発見したのは、昨年(2010年)秋でした。警察病院はもう閉鎖されていました。3月11日の地震のときにはまだ、建物の取り壊しは始っていませんでしたが、工事のための囲いは出来ていました。通りがかりの女の人が「え、郵便局も地震で崩れちゃったの!」と驚いていたのは4月のはじめだったか。思わず「いいえ、再開発です」と声をかけそうになりました。
それから見る見るうちに取り壊しが始りました。今ではもう、すっかり地上の部分は取り壊され、地下の構造物の撤去まで進んでいます。写真は外濠側から解体の様子を写したものですが、富士見側からみると、外濠土手がくっきりと姿を現して、幕末の写真で見るような景色を見ることができます。
工事現場にカメラを向けていたら、年配の男性、たぶん70代半ばくらいでしょうか? そのくらいのお年の方から声をかけられました。
「ああ、なんて乱暴な工事でしょう。埃がもうもうとたっている。音もひどい。もっと、きれいに取り壊せるのにねえ」
と憤慨していました。確かに住宅密集地での工事に比べる大胆で乱暴な工事の進め方です。そういうお仕事をしていた人なのでしょうか。少し御返事に困りました。
取り壊した跡地には、40階建ての建物が2棟できるそうです。まさかそんな巨大な建物も50年余りで取り壊すなんてことになるのかしら。そんなことはないだろうと、自問自答。どうなるものやら、わかりませんが、そろそろ30年サイクルで景色が変わるということも終わりだろうなという気だけはします。
そうすると幕末の写真にみるような外濠土手の眺めを楽しめるのは、これからほんの数週間ということになりそうです。富士見側からの写真を撮りたいと思いつつ、なかなかそれが出来ずにいます。写真を撮るならお天気の良い日の、光がちょうど上手い具合に差し込む時間がいいなあと、へたくそなくせに高望みをしてしまうからますます写真を撮るタイミングを逸しています。
1090 20110611 さくらの実の熟するころ。 
外濠の土手の桜。毎年、小さな実をつけます。今年は例年にもましてたくさんの実がなっているような。そんな気がするのは、いつもの年よりも注意深く、外濠のさくらの変化を、こちらが見ているせいかもしれません。
桜の実は小指の頭よりも小さい。黄色い実が赤くなり、それから赤黒くなるとヒヨドリがやって来て実をついばみます。だから外濠の石畳はヒヨドリの黒い糞でまだら模様になっています。うまくしたもので、雨がふればヒヨドリの黒い糞はみな洗い流され、あとには桜の種が無数に残っています。目の良いヒヨドリは、桜の実が食べごろになるのをほんとによく見つけるものです。
ヒヨドリの大宴会が終わる頃には、泰山木の花がぽっかりと開きます。いつもの年は泰山木の花が突然開いて驚くのですが、今年は細い花芽がついたときから、目がいっているということは、やっぱり注意を特別に払っているということでしょう。人間の世界はなかなかうまくいかない事も多いのですが、自然の世界はちゃんと地球は公転して、冬が過ぎれば春が来て、行く春を惜しんでいる間にも夏の支度は整うようになっているようです。
1089 20110610 鎌倉 鶴岡八幡宮の大銀杏ひこばえ 
鎌倉の鶴岡八幡宮は懐かしいお社です。子どもの時のなじみのお社は金沢八景の瀬戸神社。館山へ移ってからは船形の崖観音と那古観音。鎌倉の鶴岡八幡宮は、子ども時代に境内で遊んだお社とはちょっと違って、なんだか晴れがましくなつかしいところがあります。
小学校の修学旅行は金谷から東京湾フェリーに乗って鎌倉、小田原というものでした。鎌倉の八幡様の石段で撮影した集合写真を持っています。でも私はそのなかに写っていません。風邪を引いて熱を出したものだから修学旅行に行けなかったのです。で、翌年のお正月、母と叔母に鎌倉へ連れて行ってもらいました。鶴岡八幡宮へ行ったのはその時が初めてでした。金沢八景育ちの母や叔母はもちろんもう何度も出かけているお社です。鎌倉に行くなら駅前の豊島屋の喫茶室に寄ろうと、母と叔母が相談していたのを覚えています。このお社が、なんだか晴れがましく懐かしいのは、そんなことも関係しているのかもしれません。それから、30代の頃は、鎌倉在住の富岡幸一郎さんたちに誘われて、夏に鎌倉の飲み会をやってました。そいうことも懐かしさにきらびやかさを加えている理由になっているのでしょう。
城戸朱里さんに芸術選奨新人賞を受賞されたお祝いを差し上げたいと言ったら「鎌倉の宴会!」という御返事が来て、それが震災やら原発事故でのびのびになっていました。で、約束を果たしに鎌倉へ。藤沢周さん、八木寧子さんも加わってささやかな祝宴を楽しんできました。
八幡様の大銀杏が強風のために倒れたのは、1昨年の秋のことでした。一度、様子を見に行きたかったので、城戸朱里さんとは大銀杏の前で待ち合わせました。紗の覆いで保護された大銀杏の株からひこばえが出ているというニュースは聞いてました。
紗の覆いをどれどれと覗き込んでみると、おおきな株の中からにょきにょき。出ているではありませんか、幾つものひこばえが。いや、もうひこばえと言うにはやや大きくなりすぎていて、若木と呼べそうな大きさに育っていました。一本の大木が倒れて、そのあとに、若い木の林が生まれつつあるのを見てきました。
地上の幹は折れて倒れても根はまだ生きているのです。生きている根は、もう一仕事もふた仕事もしてから、だんだんとこの世を去ってゆく様子です。根を張るというのはそういうことなのでしょう。大木が倒れたあとに若木の林が出来て、若木の林の中から強い木が、ほかの木々を圧倒してまた大木になる。その間に100年ぐらいが過ぎて行く。紗の覆いの中を覗きながら、そんなことを考えました。もっとも、紗の覆いに注連縄が張られた大切な木ですから、ひこばえの根本には栄養剤が注入されていて、たくましさよりはやや過保護? な様子も見て取れました。
1088 20110605 復興書店に本がならびました。 たいへん遅くなりましたが、復興書店に本が並びました。絶版になっている新潮社「楽隊のうさぎ」単行本。新潮社「うさぎとトランペット」単行本。それから新刊の「書評 時評 本の話」集英社文庫「豊海と育海の物語」新潮文庫「うさぎとトランペット」などを提供しました。いずれもサインと入れました。
昨晩アップされたのですが講談社文芸文庫「女ともだち」は早くもSold Outの表示になっていました。お買い上げく下さった皆様、どうもありがとうございます。また、ほかの本もお早めにお買い上げいただければ、うれしいです。どうぞよろしくお願いします。
1087 20110603 青い森鉄道からJR八戸線 台風と梅雨前線の隙間に広がった青空の一日。青い森鉄道とJR八戸線に乗ってきました。新幹線の新青森延伸で、今年の新緑の季節は観光客がたくさん来るはずだたのにと、新幹線が来ても、震災のために観光客が減ってしまった青森です。
青い森鉄道は旧東北本線。東北本線だった頃に何度か野辺地や八戸まで特急に乗ったことがあります.青森の駅には、青い森鉄道の案内所が出来ていました。案内所前に立っていた女性と、八戸からのJR八戸線の連絡について尋ねるとついでに地震の話をしました。青森もゆら〜りゆら〜りと、大きくゆっくりとした揺れがしばらく続いたそうです。
青森駅ホームに入ってきた青い森鉄道は2両編成のロングシートの列車。ボックスシートの特急とは様子が違って、なんとなくのんびりムード。ただし、青森市内を出たあたりから。飛ばすこと飛ばすこと。こんなにすっ飛んでいいたのしらと、驚くほどの速さで、浅虫温泉あたりの海岸へ出て、青い海を左手に、輝く緑の山を右手に進んでいきました。黒い帽子、黒いコートに青いスカーフそれに黒いスラックスのお婆さんが、シートにゆったり腰をかけて列車の窓の外を眺めていました。太平洋側は寒いのです。「やませ」と呼ばれる寒冷な気候で、まだストーブを使っているお家もだいぶあります。だからお婆さんは冷えないように完全防備。
さすがに青森には、大阪や名古屋で見かけるようなロリータファッションのお嬢さんはいないなあと思ったやさきに、黒っぽいリボンに白いレース黒い編み上げのコルセットに白いレースのストッキングというスタイルのお嬢さんが列車に乗ってきました。やっぱりロリータというのか、バロックと言うのかデコラティブなファッションは日本全国で流行中の様子。野辺地でした。
このデコラティブお嬢さんと一緒に観光客らしい女性も数人乗ってきました。50代60代くらい。お洒落してます。2、3人と連れ立っていました。それから一人旅の人も。座席に座ってキャリーケースの上に足を乗せていた女性は、年はたぶん60代前半。旅なれた様子から見ると、きっと若い頃から一人旅になれているのでしょう。というわけで八戸に到着。
JR八戸線は八戸から岩手県の久慈まで、風光明媚な海岸線を走る列車です。しかし、現在は青森県と岩手県の境の階上(はしかみ)駅までしか列車は走っていません。階上から久慈までの線路や鉄橋が津波で流されてしまったのだそうです。現在は列車の代わりにバスが運転されています。

ボックスシートの車両で2両編成。八戸駅から鮫(さめ)駅までは市街地を走ります。八戸セメントの大きな工場が見えました。鮫駅で列車に乗り込んできたお婆さんが、乗客の中に知り合いの顔をみつけてうれしそうに声をかけ、二人で手を取り合って喜んでいました。
市街地を出るとすぐに、ウミネコが巣を作っている蕪島が見えます。列車は少し高いところを走っているのですが、太平洋の荒い波が打ち寄せる海岸線は津波の被害を受けています。
蕪島でも、大きなコンクリートの防波堤の一部が津波に打ち砕かれていました。島のかげになっている駐車場の東屋は無事。しかし、並んでいたお土産屋さんは跡形もないということでした。蕪島から種差海岸のあたりの松林の中には、切りそろえられた松の材が積み重なっていましたが、これもどうやら、津波で倒された松を片付けたものの様子。すっかり片付いてはいますが、ところどころにコンクリートの土台だけになった建物もありました。
気がつくと列車の中はお婆さんたちの話し声でいっぱい。なんだかウミネコが鳴き交わしていた蕪島を思い出させます。お婆さんたちは穏やかな声でなにやら楽しそうにお喋りをしていました。お爺さんよりお婆さんが目立ったのは昼過ぎという列車の時刻のためでしょう。鮫駅までは何本も列車が出ていますが階上まで行く列車は朝、昼、夕方の3本です。
階上のひとつ手前に大蛇(おおじゃ)駅から山のほうへ登ったところに大きなトチノキとウツギがあるのは知っていたのですが、その木を見に行くと、八戸の戻れるのは夜になってしまい東京行きの新幹線には間に合わなくなるので、今度はよしました。ウツギは白い花を咲かせている季節なので、ちょっと惜しかったのですけど。階上駅で列車の車掌さんに聞くと、乗ってきた列車がまた八戸に引き返すとのこと。
駅前のお店でパンを買って停車中の列車の中で食べることにしました。
パンを買った駅前のお店のおばさんは「ほら、あれだから。あれで八戸はずいぶんひどかったみたい」でと話してくれました。地震とか津波という言葉を口に出したくないみたいです。だから「あれで」「あれだから」と。忌み言葉という習慣がありますが、恐ろしかったのでしょう。しぜんと「あれ」を指す言葉が忌み言葉になっていました。階上のパン屋さんだけでなく、ちょっと「津波」や「地震」という言葉を避ける感覚は、八戸の八食センターの八百屋さんや、青森の新鮮市場の魚屋さんにもありました。
停車中の列車に戻ってパンを食べていると、若い車掌さんが暖房を入れてくれました。空は青く、光は初夏の光ですが、空気はひどく冷たいのです。寒いというよりも冷たい空気があたり一面を包んでいました。
1086 20110602 八戸 蕪島のウミネコ 
桜前線が過ぎたあと、東北は今が花盛りです。目立つのは白い水木。黄色いさまざまな野の花。藤にライラック、桐といった紫の花。それから新緑。青い空。八戸に新幹線「はやて」を使って行ってきました。
仙台の水田は田植えが終わり、稲が伸び始めていました。駅周辺では屋根瓦が落ちたのか、青いビニールシートで屋根を覆う家もちらほら見えました。それから斜め45度に傾いたままの電柱も。まだまだ災害の片付けは途中の様子が列車の窓からも見受けられました。
青森に入ると田植えをしている水田もありました。
八戸。津波の被害を受けたあとは、ほとんど片付けられていましたが、あっちこっちにベニヤ板で窓や出入り口を覆った建物がありました。それでも瓦礫の撤去は早く済んだとのこと。ウミネコの繁殖地の蕪島へも、車で行けるようになっていました。
蕪島はみどりの三角錐の山と黒い岩礁がくっついたひょうたん型の島です。昔は海の中に孤立していたそうですが、今は陸続きになっています。2、3月に飛来したウミネコが巣を作り、5月から6月にかけて雛が孵るのです。津波のときはまだ営巣が始っていなかったとのこと。津波で蕪島周辺のお土産屋さんは流され、防波堤も砕かれていましたが、ウミネコは無事に巣を作って雛が育っていました。三角錐の山の頂上の神社も無事。
神社の境内、参道、駐車場などなどいたるところウミネコだらけ。雛にカメラを向けると親鳥は大きな声で鳴いて怒りますが、さりとて、攻撃的態度に出ることもなく写真を撮らせてくれました。親鳥が怒ると、雛鳥も一緒になって怒り出りだします。その顔がなんだか一人前なのが、おかしいやらかわいいやら。
神社参道入り口には、ビニールの置き傘がありました。ウミネコの糞避けの傘です。なにしろ、あっちを見てもウミネコ、こっちを見てもウミネコ。ウミネコの巣はいたって簡単なもので、木の枝や草をちょこっと集めただけの巣でした。
1085 20110523 もしかしたら、もしかしたら。 「もしかしたら、もしかしたら、そうなのかしら」はピンクレディーの「UFO」のサビの部分ですが、3月の末頃から気になっていることがひとつあります。
正確には記憶していないのですが、3月の20日過ぎに顎のところに妙な傷ができました。顎に違和感があったので、最初はにきびのような吹き出物だろうと思って、指先で弄っていました。ところが鏡に映してみると、細い切り傷のような傷なのです。長さは1センチよりやや短いくらい。紙ですっと指先を切った時のような傷。改めて調べてみると、手の甲や足のふくらはぎにも似たような傷が複数ありました。
顎の傷は、弄繰り回したせいか、それからだんだんと痒みがましてゆき、傷の周辺がただれました。治るまでにしばらくかかりましたし、まだ、よく見ると爛れた跡が残っています。最初に「もしかしたら もしかしたら」と書いたのは、顎と、それから手の甲や足のふくらはぎに現れた細い切り傷のような傷は、軽い放射線被曝があったために出たものなのかもしれないと、考えているからです。そう考えるようになった理由はインターネットで偶然見た放射線被曝の傷の写真でした。
「あ、似ている」
そう思ったのです。人にそれを言うとたぶん医者に行けと進められるでしょう。それで医者に行くと今度は「春先ですからアレルギーか何かでしょう」と診断されるか、もしくは「よくわかりませんが、たいしたことはありません」と言われそうです。だってそうそう放射線被曝からくる傷を見たことがある医者なんているとは思えませんから。
自然に治ってしまったので、もうそれでいいのです。ただ、東京周辺でも下水処理所の汚泥や茶葉から放射性物質が見つかっているということは、それだけの放射性物質が降り注いだということですし、最近、次々に明らかになってくる資料では3月12日から15日にかけてはかなり高い濃度の放射性物質が降り注いでいたことがわかってきました。だから私の「もしかしたら、もしかしたら」もちょっと御報告しようという気になりました。ただのアレルギーとかそういうものなのかもしれません。よくわかりませんが、気にはなっています。
1084 20110520 あかしあほろほろ 薔薇の花の季節です。家のベランダの薔薇もたくさん咲きました。近代文学館の理事会があって、駒場を稲葉真弓さんと歩いたのですが、あのあたりのお屋敷町の薔薇も見事に咲いていました。気になるのは、表札が取り外された空き家を1件見つけたことです。どちらかへお引越しかしら。
卯の花というのは今時分に咲くしろい花の総称だそうです。まずミズキが傘を広げたような花を咲かせ、それからウツギの花が開きます。もちろんウツギは卯の花。エゴの木も卯の花。そのほかにも野いちごなども白い花を咲かせます。野面を白い卯の花が飾る頃になると関東は初夏。江戸時代には所沢の三富(上富、中富、下富)あたりが卯の花見物の名所だったそうです。家から見える斜面には、エゴの木がたくさんあります。斜面の上にマンションが建ったとき、だいぶ斜面の雑木を切ってしまったので、もうエゴの木の花も見られないかと諦めていたところ、今年はほんとうに見事に咲きました。昨年の春の天候不順がうそのような今年の初夏です。
あかしあは外来植物ですから、卯の花には数えないでしょうけれども、これも豆科の白い花をたくさんつけます。藤の花に似ています。もう盛りは過ぎて、高い木のうえには実がなっています。数日前、散歩のとき、良い匂いがしたので、見上げるとあかしあの花が風にほろほろ散っていました。あかしあの蜂蜜の匂いです。
1083 20110510 復興書店のこと 「豆の葉」を書こうとおもったら、豆蔵君、作業中でした。トップページに大きく復興書店とあったのでびっくりしました。
伊藤比呂美さんも私も復興書店に参加しています。御知らせが遅くなってすみませんでした。
復興書店は島田雅彦さんがツイッターで呟いたのがきっかけで被災地支援のために作られたネット書店です。(これでいいのかなあ?島田店長)あっと言うまにできてしまいました。それに驚いたのが私。あれよ、あれよという間に出来たのはいいのですが、島田雅彦店長からメールで指示がくるのに、頭の螺旋が緩んでいる私はついていけませんでした。そうそう、復興書店と同時にいしいしんじさん編集によるウェッブマガジン「W&B」もできました。で、そちらにも早速に賛成の手を挙げたのですけど。これもなかなか原稿が書けず。
ようやく、復興書店に本を送ることができたのは連休前でした。送ったのは「書評 時評 本の話」(河出書房新社)「楽隊のうさぎ」(新潮社 文庫ではなく絶版になっている単行本です)「うさぎとトランペット」(新潮社 こちらの文庫ではなく絶版の単行本です)「豊海と育海の物語」(集英社文庫)「うさぎとトランペット」(新潮文庫)などです。いずれも書名と落款を入れました。お値段は定価の一割増しにさせていただいきました。本を売ったり送ったりするための経費がかかりますから、そのぶんを一割増で賄わせていただくためです。ご理解下さい。まだ復興書店の店頭には出ていません。もうすぐ出ると思います。
伊藤比呂美さんの本はすでに復興書店の店頭に並んでいます。
それからいしいしんじさん編集の「W&B」の原稿もようやく入稿できました。エッセイを書きました。
おかげさまで復興書店は売り切れ続出。常時品薄状態が続いています。皆様、どうぞ復興書店で本を買ってください。
1082 20110509 うちの晩御飯 今年度2度目の大阪に行ってきました。帰りに近鉄デパートの地下食品売り場を駆け抜けてきました。家のお土産に食べ物を買うのは、子どもが小さかった時の習慣。お土産兼食料調達。おなかがすいたよぉって言われたらすぐに「はい、ごはん」となるようにやっていたことです。今じゃ、ちょっと贅沢のためのお買物になっていますが。

で、今回は鰆の西京漬け。西京漬けは関西がおいしいです。白味噌が良いから。それから、くぎ煮。昨年は不漁だったいかなごですが、今年は豊漁だとのことです。はしりの水茄子。まだ小さい水茄子ですが、皮が薄いから旨いとお店では言ってました。大阪で乗ったタクシーの運転手さんが、水茄子の油炒めは旨いよと教えてくれましたけど、高価なので、油炒めなんて……であります。水茄子の漬物は手で裂くとおいしい。で、手裂きにしてあります。
万願寺唐辛子だと勘違いして買ったのは大甘長唐辛子(宮崎産)でした。安かったの。で、袋をあけるとちょっとピーマンに似た香りがしたので、間違いに気付きました。ピーマンほど強いにおいはしません。だからほそく切って牛肉を巻き、肉巻きにしてみました。それからたけのこと長いもを炙ったものに、わかめとたけのこの穂先のすまし汁。これが我が家の晩ご飯です。山椒の葉でもあれば、もうちょっと見栄えがよくなるのですが、ま、いいことにしました。
1081 20110505 中沢ゼミ同窓会 
中沢ゼミ同窓会を開いてもらいました。今年は地震で日本武道館の卒業式が中止になったので、OBOGによる卒業を祝う会と兼ねました。数えてみると、もう6回の卒業生が出ています。
飯田橋アグネスホテルのバー。「服装はどうしますか」とお世話役をやってくれたジャックさんが聞いてきたので、平服でもいいし、お洒落をしたい人はお洒落をしてきてもいいということにしましょうと答えておきました。そういうわけで、私もず〜っと前に作った琉球絣の着物を着ることにしました。
考えてみると07年8月に「おたあジュリア異聞」の連載を静岡新聞、熊本日日新聞に始めて、08年はかなりしんどいなあとすぎ(この年はいろいろ細かいことがありました)終わったら、一息つくぞと終了目前の09年1月に心筋梗塞で入院しました。退院してすぐに卒論面接。学校のほうはそれでもなんとかしましたが、驚いたのは、住居の改修。老朽化した配管の交換工事をすると管理組合から聞かされて慌てました。本音を言うと、病み上がりには、家の改修はしんどかったのです。配管の工事で壁をぶち抜いたので、ついでに家のリフォームで09年は終わってしまいました。で、リフォームの片付けができないまま10年夏にこれまたマンション外壁の大規模改修。とてもじゃないけど、箪笥から着物を取り出すなんて気にはなれませんでした。
09年の心筋梗塞で退院してから、すぐに卒論の面接も入試の採点もしていたので、けろっとしているとか元気だとか言われましたが、それは誰か他の人と居るときだけで、一人になるとぐったりしていました。何よりも物を片付けたり、捨てたりができなくなっていました。ふわふわと遊びに行きたがる魂のあとを追いかけているような状態でした。家を片付ける。研究室を片付ける。それが一番できないのです。人の都合に合わせるのが嫌で嫌で仕方がありませんでした。ほかの人といると元気なのに、片付けだけはマイペースじゃなけりゃできないと。そんなアンバランスな状態でした。で、極め付きは地震。あ〜、どうしたらいいんだ! で、ようやくなんとか家の片付けをする目処がたってきました。ついでに研究室も。なにしろ地震でいろいろ崩れちゃったものだから。着物を着る気になったのはそんなタイミングでした。おかげで少し片付けの目処が立ちました。
卒業以来始めて会う人もいた同窓会でした。いつものとおり、なんとなくみんな集まって、なんとなく気の会う人どうしがお話をするという、それだけの同窓会。「うちのゼミの同窓会にしちゃあ、珍しく定刻でみんな集まったなあ」とこれは、某氏の感想。「だって先生が定刻でいたんだぞ」とこれは初代夜ゼミのゼミ長の感想。いつもどうもすみません。あらゆることをマイペースでやりたい私です。
職場の人とのお喋りとは一味違うお話ができるのが同窓会の良いところだと思います。またやりましょう。タイガーさんから「今度は名札をつけましょう」という提案をいただきました。そうしましょう。同窓会をする時には「豆畑の友」のトップページに告知を出すようにします。卒業以来連絡がとれない卒業生の皆さん、それからゼミ関係のみなさん(必ずしも卒業生でなくってもいいです。)今回は都合がつかなかった皆さん、告知を見たらお出かけ下さい。
卒業文集が地震で出てきました。それぞれの年代全てありました。欲しい方はお問い合わせフォームからメールを下さい。
1080 20110502 菜種ができました。紅葉もそろそろみどり色になります。 
外濠の土手に咲いていた菜の花に菜種ができ始めました。菜種油の菜種です。油がとれるくらいなので、たいへんに土地の養分を使うそうで、畑では2年と続けて同じ畑を使うことができないと聞いています。畑を休ませなくっちゃいけないと。
そのせいか、放射能で汚染された土地を除染するために菜種やひまわりを植えるという方法が試みられているということです。なんだか長く手間のかかる大仕事です。外濠土手の菜種は自然に生えてきたもので、やがて種が飛び散って、来年は別の場所で花が咲くことでしょう。
連休。ようやく何かをする気になって、桐箪笥の整理をしました。母の着物。私や弟が赤ちゃんのときに着た熨斗目。弟の七五三の羽織袴に、私の振袖。そういうものを箪笥から出して衣装箱に詰めました。母の着物よりも少し古いものもあります。こういうものはゆくゆくはどうなるのだろう? と思わないでもないのですが、ごみには、どうしてもする気になれません。もうちょっと年をとったら裁縫でもやってみるかな? と殊勝に思うのはきっと衣装箱を開けるときだけで、すぐに忘れてしまうでしょう。
なんだかうまく時間の流れについて行けてないので、あっちこっちご挨拶が遅れるやら、お届け物が届いてないやら、お詫びしなくちゃならないところがあるようですが、お許しを。そうそう、伊藤比呂美さんが伊藤製作所豆畑支所に戻ってきてくださいました。伊藤さんこんにちは。
秋に赤く色付く紅葉は、芽が吹いたときにも、赤々としています。この紅葉もそろそろみどり色に変わる時がきました。昨日今日の東京は暑いくらいです。
1079 20110430 鶴岡梅澤菓子舗のお菓子 あ〜。もう4月も終わりです。いったい何をしていたんだろう?ず〜っと地震だ、地震だと、そのたびにテレビをつけて、震源地と震度を見ていたような気がします。なんだか予定とかスケジュールというものに、興味を持てなくなっています。あとは、あ、映画を久しぶりでみました。有楽町のイトシアで。再開発する前にも映画館があったのですが(名前が思い出せないけど、有名)そのあと、新しいビルが建ちそこにも映画館が入っているとは知れませんでした。
「イブ・サンローラン」を見ました。劇映画じゃなくって、芸術的にドキュメンタリー。映像の組み合わせがきれいでリズミカルで見ていた楽しかった。映画館の向かいにはテラス付きのイタリア料理屋が。雨が降っていなければテラスから有楽町駅を見下ろすのも良さそうです。
螺旋が抜けちゃっているのを察知して、山形の佐藤先生が梅澤菓子舗のお菓子をたくさん送ってくださいました。見事なお雛菓子を作るお菓子屋さんです。3月は地震で過ぎてしまったので、と送ってくださったお菓子の数々。そのなかでも、うさぎの麦焦がしは絶品。ほろほろと口の中で崩れると香ばしい香りがします。同じ麦焦がしの狐面も美味しかったのですが、うさぎはかわいい。
のらくろも、なかなかです。パンなのかな。甘さ控えめ。でも、これを見てのらくろって解るのは、私や佐藤先生くらいまでじゃあないかしら?
塩釜はお決まりのタイ。ひらめ。海老も、蛸もありました。おすもうさんと兵隊さんがなんだかかわいくってピンクと白とクリーム色とみどり色でそろっています。ピンクと白の2種類があるキューピーさんも。見た目の美しい3色の飴も。ついつい並べてしまいました。
でもまだ佐藤先生に御礼を書いていないのです。今夜、書きます。絶対書きます。御礼遅くなってごめんなさい。許してください。
1078 20110426 災い転じて……… 
外濠の桜がすっかり花を散らせて若葉になりました。靖国通りを歩いていたら、福島、三春の滝桜の子孫だという枝垂桜を見つけました。この桜ももう葉桜になっていました。
「災い転じて」のあとは「福となる」と続くのですが、福島の原発事故は一向に収束の気配はなく、少し様子が変わったなと思うのは、幾らか事故処理の見通しがついてきたくらいのところでしょうか。目に見えない事故の広がりをどう感じたら良いのかわからないという話をよくします。推移を見守るしかなく、まだまだ「災い転じて」のあとを、常識的に「福となす」とは繋げ難いものを感じます。
だから、この先のことを言うのはまだ早いかもしれません。しかし、日本のエネルギー政策は人類のために原発異存から新エネルギーへと転換して欲しいなあと願います。日本のためではなく、世界のために。日本人のためではなく人類のために、いや、人類のためにではなく地球上のありとあらゆる生物、生きとし生きるもののために脱原発のエネルギー政策をとって欲しいものです。そのために、日本へ「人、物、金」を集めてもらいたい。「人、物、金」という三つは経済政策の話によく出てくる表現です。
「人」はこの場合、脱原発のエネルギー研究や放射線医学、省エネ型の技術などなど、さまざまな分野の英知を日本に集めればいいのです。理系だけではなく、心理学や社会学などの分野の人も必要です。メディア研究、映画製作、ジャーナリズムの分野でも、いろいろと知恵を出してもらう必要があるでしょう。研究者、留学生、商社マン、ジャーナリスト、そのほかにも日本に来たい人にはどんどん来てもらう。
「物」は脱原発エネルギーを研究開発するための施設、放射性廃棄物の処理技術開発のための施設、放射線障害の予防と治療のための施設などを作ることですが、零から始めるというわけではありません。日本にはもうそうした「物」はすでにあるはずですから、それをさらに充実させることは可能なのではないでしょうか。
最後に「金」。お金が足りなければ集めればいいのです。どこの家でもお金が足りないときには、出費を抑えるか、もしくはよりたくさん稼ぐかの二つのやり方で対応します。が、もうひとつの道は「借りる」があります。さらに未来のために「集める」という方法もあります。「出費を抑える」「稼ぎをふやす」「借りる」「集める」のうち、脱原発社会を作るのに良い方法は「集める」でしょう。近代社会はこのお金を「集める」という方法を発達させてきました。世の中を変えて行くための、未来のためのお金を「集める」のです。人類のため、地球のための研究開発にお金を出す人はもう現れています。お金を「集める」ための仕組みを整えるのは政治の力です。
人を集め、物を充実させ、お金を集めれれば、きっと「災い転じて……」のあとに「オンリー・ワンの日本」を作ることができるのではないでしょうか。世界のために役立つことができるオンリー・ワンなら大歓迎です。そういうビジョンを持った若い政治家に登場してもらいたいなあという夢想でした。人は自分が生きてゆく時代のためにしか働けないのです。未来は未来を生きる人が作り出すべきです。この夢想は、夢物語ではなく、今ここの現実に対応するための理想です。日本にしかできないことがあるはずです。
八重桜が若葉の中に埋もれるように咲いていました。写真を撮りながらも、時間の流れをうまく感じ取れていない自分がそこにいることを意識しました。3月から4月というのは、なんでもないときでも、時間の流れに乗り損ねてしまうことが多い季節ですが、今年はいつもにもまして、それを感じています。地震と津波だけなら「ああ、春になった」と季候が良くなったことをうれしく感じられるのでしょうけれども、原発事故の推移を見ながら息を詰めているのは私だけではないでしょう。何も言わないけれどもひっそりと、原発事故の成り行きを見ている人が大勢いることでしょう。
1077 20110423 詩歌と園芸と庭仕事 宗教とか信仰という話になると、仏教やキリスト教あるいは神道という宗教か、もしくは、民俗学的な民間信仰のことがテーマになっています。で、そういう宗教のイメージを持っている人に日本人の宗教心、信仰心は俳句や短歌、それに現代詩も含めて詩歌と、庭いじりや鉢植えを作る園芸の中に隠れているのだと言うときっとへんな顔をされるか、もしくは、激しい罵倒をされるか、そんなことがおきそうです。なにかを論議しようとした時、相手を激しく罵倒して声の大きさで勝つという習慣は、どうも昭和20年代の荒んだ世相の中から生まれてきたらしいということをなんとなく掴でいますが、それはまた何か機会があったら書くことにします。
それで、詩歌と園芸と庭仕事の中に日本人の信仰心や宗教心が隠れているという話ですが、宗教史などにつなげようとすれば、繋がらないこともありません。日本に大きな影響を与えた儒教は、祖先信仰を大事にしていますが、祖先の魂を慰めるものは歌です。死者の魂を慰めるものもまた歌です。また、中国で発達した仏教、禅宗では歌(この場合は漢詩ですが)を大事にします。禅寺では膨大な漢詩が書かれています。禅に興味を持っていた夏目漱石も漢詩を書き、俳句を詠んでいます。それから枯山水などの庭は禅寺によく見られることは衆知されています。枯山水の庭から盆景、盆栽までの変化はそう遠くないものです。盆栽から鉢植えの園芸趣味も、ごく近いところにあるでしょう。江戸時代に入ると園芸趣味は、庶民にまで広がり、変わった花を咲かせる朝顔などに夢中になったそうです。
今の中村勘三郎、つまり以前の勘九朗さんですが、その中村勘三郎の本を読んでいたら、舞台の上でお父さんから「その朝顔の鉢植えはどこで買ったきた」とざんざん聞かれて困ったという話が出てきました。芝居の筋とは関係がないアドリブの質問だそうです。で、適当に答えるとお父さんは怒り出す。芝居の進行はストップしてしまう。これが毎日続いたという、ちょっと想像してみるとおもしろいお話ですが、芝居の中には出てこないけれども、背景になっている江戸の町の習俗をちゃんと知っていれば答えられる質問だというようなお話だったと記憶しています。結局、勘九朗さんは誰かベテランの俳優さんのところへ行って答えを教えてもらったということでした。江戸の町では、朝顔ならこれこれの場所の市というふうに商う場所が決まっていたようです。
そんなあれやこれやを調べて論文など書こうとしたら、どえらいことになるので、それは止めて、日本人の信仰心は詩歌と園芸と庭仕事の中に隠れているという話に戻します。汎神的な信仰心と言うのが、詩歌の中に隠れていると感じたのも、園芸と庭仕事の中に溶け込んでいると感じたのも、考えてみると、すごく子どもの頃だったのではないかと思います。感じているけれども、言えない、感じているけれども認識できないという感じ方です。寺社のお縁日の眺めとか、お正月やお盆の支度のときなどに、子ども心に感じたかそけきもの。大学生くらいになると、それを意識はできるようになりましたが、文化史などをやった偉い先生に、馬鹿にされたら最後、もう見えなくなってしまう程度のか細い意識の仕方でした。誰がどんなふうに怒鳴りだしても馬鹿にしても、あまり揺らがないなあという意識をしたのは、四季を歌う月並みな俳句や、四季の章立てに分かれている古今集をよくよく読んだ20代の後半でした。
自然の変化を歌に詠むことによって、歪みがちな時間意識を整えているのではないかと、まず最初にそう感じました。そういう感じ方や考え方も深めたり磨いたりすることができればよかったのですけど、よほど注意深く話さないと、通俗的な楽天主義と勘違いされしまいますから、残念ですけど、人に自分の考えを話して感じ方や考え方を深めたり磨いたりはできませんでした。
詩歌と園芸と庭仕事の中に日本人の信仰心は、薄く広く、しかし、時には強い直感をもたらす形で隠れていると、このごろはやや確信めいた考えを持ち始めています。学問の言葉で語ってしまったとたんに死んでしまうような、生きている信仰心。西洋哲学の翻訳語で語ると色あせてつまらないもののように見えてしまうけれども、詩歌の中に溶け込ませたとたんに、息を吹き返す信仰心、そのように見ています。古事記の冒頭に、大八島はくらげのように漂っていたという意味の記述があります。それを、70年代に中等教育を受けた私は、神話が非科学的であることの証拠だと教えられました。でも、あれは地球のプレートの動きの歌だったのではないか?と毎日、地震に揺さぶられているうちに、そう思えてきました。まだ、まとまりのない考えですが、子ども心に感じてきたことが、だんだん、シオコウロコウロとまとまりに生り始めているようです。
1076 20110421 桜吹雪から苗物が並ぶまで 3ヶ月ぶりに大阪に行きました。中央線経由で東京に帰ってきて以来です。今年は寄り道や道草をしたいなあと、お正月にはそんなことを考えていましたが、鬼はさぞかし笑っていたことでしょう。いや、笑っていたのは鯰のほうかしら。東京はちょっとした冗談を言うにも神経を使うようなところがあります。久しぶりの大阪でそれを改めて実感。東京のぴりぴりした空気から、しばし抜け出すことができた大阪でした。
いつもの大阪でしばらくのんびりしていたいなあという願望と、早く関東に戻らないと何が起きるか解らないという不安がまだら模様になっていました。大阪の桜もそろそろお終いの季節。京都の八重桜はそろそろ咲き始めるか? 仁和寺の桜は? と寄り道道草にはことかかない季節ですが、照明がちょっと暗めの関東に駆け戻ってきました。大阪芸術大学の大学院の諸君と、花吹雪を眺めたのがめっけもの。花吹雪が見事なのをぼんやり眺めていたら、みんなの頭にも桜の花びらが降り注いで、花びらだらけ。それから宮城に御実家があるという学生から地震のときの様子を聞きました。

苗物が出回る季節になりました。昨年は連休前になっても、朝顔や茄子、胡瓜といった当たり前の苗物が少しも出てこない寒いいやな春でしたが、今年は天候のほうはまともで、ちゃんと苗物が出回っています。地震と津波だけなら、こうした季節の恵みをありがたく感じられるのですが、原発事故が、そういう気持ちにさせてくれません。あんまり苦く、皮肉な気持ちにならないようにしていますが。
イサク・ディネセンの『アフリカの日々』を読み出しました。晶文社からディネセン・コレクションが出た時にはたいへん評判になっていた本です。私が今読んでいるのは河出書房新社の世界文学全集。チュツオーラの「やし酒飲み」と一緒の巻に収録されています。欧米偏重であった文学紹介がアフリカや南米の文学も翻訳されるようになった80年代からの成果がひとまとめになっている全集です。高樹のぶ子編アジア文学ベストセレクション『天国の風』(新潮社)は地震の前に読書人から書評を書くように依頼されていた本ですが、こちらもなかなか楽しい本です。ベトナム、フィリピン、台湾、韓国、中国、インドネシア、モンゴル、タイ、インド、マレーシア。とこう書くだけで、アジアはなんと広く多様であるのだろうと感嘆したくなります。それにしても、欧米からアフリカ、南米へと広がった関心がアジアへと繋がるまでの30年間のことを考えてしまいます。近くのアジアではなく、遠くのアフリカと南米へとまず関心が向かったのはなぜなのでしょう。
『書評 時評 本の話』はいろんな方からお手紙で感想をいただいたり、お電話をいただいたりしています。

ベランダでは化学肥料を使わなければならないので、パセリやピーマンを植えるのは、心理的に抵抗があります。昨年、叔母の家でゴーヤを観賞用に育てているのを見せてもらったら、小さな実がたくさんついてました。お土産屋さんで売っているキーホルダーか携帯ストラップくらいの大きさの実。今年は観賞用にゴーヤを植えましょう。それから、なんだかとぼけた風船蔓もいいかな。聖書に、夕べに炉に投げ込まれる野のゆりも、美しく咲いているという話がありましたが、それが妙に切実に感じられる東京郊外です。
1075 20110415 散り行く桜。 これから3ヶ月ぶりに大阪に行きます。今年は寄り道や道草をしたいなあとお正月に考えていたのに、震災以降、すっかり家を離れたくなくなっています。関東を離れたくなくなっています。うちにいれば大丈夫ってわけではないのですが、臆病で殻に閉じこもるタイプだから(うそだろうって声が遠くのほうから聞こえているけど)こういうことになると、どうしても遠くへ行きたくないなあという心境になります。
外濠の桜は満開を過ぎて散り始めました。夜は節電のために、街灯のあかりも少ないのですが、暗闇の中でもお花見を楽しんでいるグループがけっこうあります。飲めや歌えではなくって、ひっそり語らっているようなお花見。でも、泥酔してのびてしまった静かな人もちらちほらり。お壕のカナル・カフェは満員でした。やっぱりお花見の頃に入るのは無理なのね。夏になったらデッキでビールを飲みましょう。
若い人に誇らしい東京の姿を見せておきたいような気がしているのは、たぶんちょっと過剰な感傷です。東京は悪口を言われっぱなしみたいな気がするのは、やや被害感情旺盛かしら。誇れるものも、素敵なものもたくさんある町なのに、文句ばかり言われてきたような、そんな気がしています。東京の桜といえばソメイヨシノ。ソメイヨシノの寿命は50年くらと、樹木としては短いのだそうです。1945年戦争が終わったあと植えられたソメイヨシノはそろそろ寿命。靖国神社の桜はそれぞれに樹を寄付した団体や人の名のプレートが入っているのですが、ひとつひとつ見ていると昭和40年代に植えられたものが多いようです。戦争が終わって20年過ぎたころ。その桜もそろそろ老木になり始めています。そう考えると、戦争が終わって14年目に生まれた私は東京の桜がもっとも華やかに威勢を誇った頃を生きてきたのでした。
最近の桜の流行は枝垂桜のようで、法政大学のボアソナードタワーの前にも1本新しい樹が植えられて花をつけています。まだ細い若木。枝垂桜はソメイヨシノよりも成長は遅いけれども寿命は長いのだそうです。だから、枝垂桜が華やかな東京を、私が見るためには想像力を駆使しなくちゃいけないようです。長生きをするって手もあるけど、想像力で眺めたほうが楽しいような気がします。
昨年の春、寒い春で、咲いた桜が散りかねていました。今年の桜はここ20年ばかりの間では遅い開花だそうですが、80年代までは、4月7日8日の入学式の頃に満開になっていました。地球温暖化とは言え、3月下旬と4月下旬では夜の気温が大幅に違いますから、今年くらいのタイミングで満開になってくれるほうが夜桜見物には都合が良いわけで。昨年とはうって変わってなんだか昔の幻を見るような爛漫の春でした。その桜も花の脇から新芽が芽吹いて散り始めました。
1074 20110407 昨日の桜、今日の桜 東京の桜が満開になったというニュースが出ていました。管理人の豆蔵君も都心でお花見の様子。家に帰ってきたら、例によって写真をアップしてくれるでしょう。
まだ蕾の写真は3月30日。飯田橋の駅近くで撮影しました。蕾は膨らみだした様子を写真にとっている人が大勢いました。
牛込見附の交番の前に救急車が停車していて、不思議に感じたのは、たぶん3月30日のことだと思います。日付の記憶がやや曖昧なのですけど。さほど緊急という様子もなく救急車が停車していたので、これはいったいどうしたことだろう?と不思議に感じたのでした。結局理由はわかりませんでした。
2枚目の写真は4月5日。同じ場所で撮影しました。もうすぐ満開というちょっとだけ手前。外濠の桜は見事に咲いて、お天気も上天気。この20年ではかなり遅い開花だというお話を聞きましたが、私が小学校に入学した頃、もう45年も前ですが、その頃、桜が満開になると言えば、4月7日前後が当たり前でした。東京近郊の話です。桜の花の開花はだんだん早まって、卒業式の頃に咲くのも珍しくないようになりました。入学式に咲く桜が珍しがられるってのも、気候の変化を感じるとともに、年齢によって感じ方が変わるのだなあと思わせられました。4月になってから満開になったほうが、空気が暖かくなっているので、お花見にはぴったりです。3月と4月では夜の冷え方が違いますから。法政大学の前の外濠の桜も満開です。
さて4月5日。こんどはボアソナードタワーのほうの交差点に消防のはしご車とパトカーが停車していました。これも救急車のときと同じで、急いだ様子はみられません。ただ、止まっているだけ。昼過ぎのことです。
翌日、4月6日、昼過ぎに地下鉄成増駅の階段を下りていると、突然、ウィ〜ンウィ〜ンパォォンパォォンと警報と思しき音が鳴り響きました。「はて」と思っていたら「緊急用放送の試験中です」のアナウンスがありました。壁に新しい茶色いスピーカーが取り付けられてました。地下鉄サリン事件の時にも、こんなことはありませんでした。
原発事故はまだ進行中で、表面的には小康状態に見えますが、原子炉の格納容器の損傷が伝えられたり、格納容器内部の水素爆発が起きる可能性が伝えられたりと、報道の推移に注意してみると、より深刻な事態が進んでいるのを、なんとか食い止めている様子です。TVの報道でも、再臨界が起きているのではないという推測が、流れ始めています。地下鉄のスピーカーや停車している救急車、消防のはしご車などが、原発事故による緊急事態に備えたものでないと、良いのですけど。どうも、それとなく、緊急事態の準備が進められているように思えてなりません。
1073 20110407 法政大学のゼミ生諸君へ 4月12日 ゼミの2年生対象のガイダンスが行われます。詳しくは法政大学HPの日文科の項目を見てください。2年生は必ず出席して下さい。新ゼミ生にお目にかかるのを楽しみにしています。
3、4、年生について。5月6日(金曜日)から講義が始まります。この日は金曜日なので、通常なら夜ゼミが開かれる日ですが、昼ゼミの諸君も6限の夜ゼミに出席して下さい。今後のゼミの運営についてお話します。
4年生は卒論指導願いの提出についてのお話をいたします。今年は変則的な学事日程になったために卒論指導願いの提出期限までの時間が限られています。4年生は昼、夜を問わず必ず5月12日6限のゼミに出席して下さい。
そのほか、ご質問、御連絡などありましたら、いつでも私のほうへメールを下さい。
1072 20110404 いろいろ咲いてます。 

駒場公園の近くでローズマリーの花がこぼれるように咲いているのを見つけました。駒場公園では馬酔木の花も鈴のような花をつけていました。馬がこの花を食べると酔うのだと聞いているのですが。ほんとうでしょうか? 酔っ払った馬って、手に負えないだろうな? って、馬酔木を見るたびに想像してみますけど。
外濠の土手には花大根。紫色のこの花にはもうひとつ名前があったような? でも、それがどうしても思い出せません。中国から入ってきた花だそうです。戦争が終わってから、日本のあっちこっちに紫色の花をさかせるようになったとのこと。近くでは黄色い菜の花も群をなして咲いています。土手下を行く電車は、行き先表示の灯りを駅に入る寸前で点し、駅は離れると消すという器用な節電をしています。電車もこまめにスイッチを切るっていうわけです。
外濠土手に大きな山桜の木があったのですが、枯死しかけていて、3月のはじめに切り倒されました。この山桜は、毎年、ほかの木よりも花をつけるのが早くって、卒業式というと、もう白く花の咲いている枝が1、2本ありました。今は切り株だけが残っています。その切り株の前を通りかかったら、おじさん3人が、切り株に腰掛けて缶ビールを飲んでいました。切り株はおじさん3人が腰掛けるのに充分な大きさがあったのです。それでどのくらい大きな山桜の木だったか想像してもらえると思います。へえ、こんな使い方があったのかと感心。土手の柵の下にはたんぽぽも咲いていました。桜ばかりが花じゃない。
1071 20110329 靖国神社のさくらが咲きました。 
昨日、東京で桜が咲いたというニュースが出ました。東京の桜の標準になる木は靖国神社にあることが知られていますが、ちょうど通りかかったので、写真を撮影してきました。標準の木じゃなくって、たくさん咲いているやつにしました。
電力不足の影響から、桜の開花中の夜間の照明は中止というこころも多いです。千鳥ヶ淵でも今年は夜間照明はないそうです。ひどいところだと、お花見そのものを自粛して下さいという張り紙が出た公園などもあると聞いています。しかし、外濠はさにあらず。ちゃんと臨時のゴミ捨て場が用意されて、桜見物のお客さんが来ることに備えています。これもぱっちりと撮ってきました。派手などんちゃん騒ぎもいいけど、ほろ酔いくらいで、お散歩をしながら、桜見物もよろしいのではないでしょうか。そぞろ歩きをすれば、思いがけず懐かしい人に出会ったりすることもあるかもしれません。
ちょっと笑ったのは、外濠沿いで、飯田橋の郵便局から逓信病院にかけての再開発工事現場で聞いた女の人の一言。工事用シートのかけられた飯田橋の郵便局を見て「まあ、郵便局まで崩れちゃったの」と息を呑んでました。思わず「違います。違います。再開発の取り壊し工事です」って言いたかったのをぐっと我慢しました。世の中には早とちりな人もいるものです。
1070 20110329 地震関連18 皆さんからのおたより 地震、原発事故と続いて、どこの被災地もたいへん悲惨な状況です。ここでは私が皆さんからいただいたおたよりから、余り大きなメディアが伝えない忘れられがちな被災地のことや、身近な見聞に基づくことをお伝えしたいと思います。
まず長野。ツイッターで長野の様子をお知らせいただいたところによりますと、長野ではまだまだ春の気配は遠いようです。地震被害の大きかった山間地は雪に埋もれているそうです。被害の大きかった長野県栄村に対する義捐金募集のHPを見つけました。
http://www.pref.nagano.jp/kaikei/kaikei/gienkin.htm
山形の佐藤先生はガソリン不足で、学校へ自転車で通っているとのおたよりをいただいています。自動車がなければ暮らして行けないところがいっぱいあるのですね。早くガソリンが通常通りに出回ることを願ってやみません。雪道や凍った道でお怪我をなさいませんように。春が早くくるといいですねえ。
宮城一関からはハヤサカさんからも御様子をお知らせいただきました。地震から一週間は連絡がとれなかったそうです。電気やガスが復旧したのは10日後。被災したお祖父様は畑のビニールハウスに入って寒さをしのいだとのことでした。どこもどこも、手が回りかねている様子がよくわかります。
皆さん、口をそろえて言われるのは「東北の津波に襲われた地域にくれべたら、これくらいは我慢しないと」です。うちの娘も「会社でもみんなそう言っている」と言ってました。そう思うのはたいへんけっこうですが、そのために身近な被害状況を知らないということも、珍しくないようです。
麹町のインド布を扱っているGAYAさんに寄って、浦安の様子を聞きました。浦安では、砂が徐々に競りあがってきているのだそうです。液状化は地震当日だけでなく、その後もさまざまに変化するのですね。土地が浮き上がっているので、水道管の修理もままならないとのことです。
yuuichi0731さんが浦安の状況を写真にとってくださいました。その一部をご紹介します。液状化は浦安だけではなく、埋め立てで出来ている東京湾沿岸の土地ではかなり広くいろいろな被害が出ていると予想できます。
1069 20110328 地震関連17 法政大学関連 3月25日に学位記の交付がありました。皆さんの元気な顔を見て、和気藹々のひと時を過ごすことができました。卒業式は中止になりましたが、日本文学科では、卒業式の祝辞、卒業生挨拶、在校生挨拶などの動画を用意したHPを尾谷先生が制作してくれています。詳しくはメーリングリストでお知らせしますので、メールに御注意下さい。
日本武道館での入学式も中止になりました。それにともないが学事日程が変更になっています。詳細は法政大学HPで確認して下さい。今年の授業開始は5月6日になりましたが、それ以前にいろいろ日程がありますので御注意下さい。
大学院は予定どうりの学事日程です。詳しくは法政大学大学院HPで確認して下さい。
80年館中沢研究室はまだぐちゃぐちゃ状態です。3月25日は研究室の復旧よりも、きれいな袴姿の卒業生とお茶を飲むほうを選びました。これから研究室を訪れる学生はどなたでも、歓迎いたしますが、復旧作業を命じられるおそれありと覚悟しておいてください。軍手を用意しました。というか、軍手を買いにいったら20枚198円だったので、しかたなく20枚買いました。
そのほか、例年にない変更が次々と出ていますので、法政大学HPは、繰り返しチェックして下さい。
1068 20110326 御卒業おめでとうございます。 昨日は学位記の交付で、卒業するみなさんの元気な御顔をみることができました。御卒業おめでとうございます。
皆さんはこれから、狭い学校の中よりもずっと広い世界に出て行かれるのです。世界は広く、そして多様で、さまざまな可能性に満ちています。もちろん困難もあることでしょう。そのことは今年、卒業される皆さんは充分に承知されていることと思います。就職が内定した企業の職場で、地震で被災された家庭で、すでにいろいろな立場から、困難に立ち向かいながら、学位記の受け取りに駆けつけてくれた卒業生とお話をすることもできました。皆さんに、時々、思い出してもらいたことがあります。それは皆さんが直面する困難は、豊かで、多様で、広い世界の一部分、要素のひとつだということです。そして、困難の中には必ず、良きものの種が隠れているということを忘れてもらいたくありません。新しい智恵、美しい魂、それから何を付け加えたらいいのでしょうか?ともかく困難と言うものの中には、必ずよきものの小さな種子が隠れていることだけは、間違いのない事実だと私は信じています。そのよきものの小さな種子を見つけ出すのは、皆さんの目であり、皆さんの耳であり、皆さんの手です。
どのような困難な時にも日月はその運行を止めず、日はまた昇ります。どうぞ、若い皆さんのお力で、良きものの小さな種子を見つけ出し、芽吹かせ、みずみずしい枝葉を持った木に育てあげてください。幸い昨日の東京は暖かで穏やかな日でした。皆様の門出を静かに祝福しているような、春を予感される日でした。ここからはじまる新生活は、大学での学生生活で得た知識や体験に魂を入れるための冒険です。どうぞ、皆様、おひとりおひとりが、心豊かにお過ごしになりますように祈念します。またお会いしましょう。そして、皆様のおもしろい冒険譚をお聞きするのを楽しみにいたしております。
1067 20110323 地震関連16 研究室の惨状 地震以来、初めて学校へ行ってきました。先生方の中には、すぐに学校へ出られて研究室をすっかり片付けてらっしゃる方もいました。書棚をT字に作って、地震の被害が少なかったという方も。が、おおむね、どこの研究室もめちゃくちゃ。お互いに覗き込んでは「こりゃ、ひどい」と嘆息したあとで、「笑っちゃあいけないけど、これは笑うしかないなあ」と、へんてこりんな具合の研究室を覗いてはみんな、なぜか笑ってました。
日本文学科共同研究室の本も全て棚から落ちたそうです。助手の高橋さんは、ちょうど研究室にいて、机の下に避難して難を免れたとのことでした。共同研究室は昨日はもうきれいに何事のなかったかのように片付いていました。さて、そのお隣は私の部屋。
扉をあけたとたんに、目の前にスピーカーがぶるさがっていました。床はお茶碗やコップが割れた破片が散らばり、散乱したお菓子と混じり合っていました。冷蔵庫は前に進み出ているし、ファックスは棚から転げおちているわ、PCのモニターは仰向けにひっくり返っていました。先生方がかわるがわる覗き込みにきて「わぉ」と驚き、HA・HA・HA・HAと笑ってました。この笑い声はネルソン先生ではありません。みんなで顔を見合わせて笑ってしまいました。
かなりの本が床に落ちていたのは予想通りでしたが、扉から向かって左の棚にあった分厚い辞書類が、右の本棚の下まで飛んでいたのには驚きました。どうやら、本は崩れ落ちたのではなく、棚から飛び出して、遠くまで飛んだようです。「これはどうしょうもないなあ」と私があきれていると、箒と塵取りを持った黒田先生が
「ガラスや瀬戸物の破片だけでも片付けてしまいましょう」
と床を掃いてくださいました。へんな感想ですが、こういうときの行動の素早さって、学校の成績の良い人はちがうなあと、なぜか感心。学問ってのは、整理整頓の別名じゃないかなあと、日文の研究室にいると、考えさせられるときがあります。
で、反省したかと言うと、そんなことはなくって、とりあえず川端康成全集や川上徹太郎全集を棚に戻して、あとはゆっくりやることにしました。
靖国神社では大灯篭が二つとも、損壊していました。大灯篭は、白い覆いで囲われて「危険なので近づかないで下さい」の張り紙がありました。境内の桜のつぼみはふくらみはじめています。注文してあったお皿が届いていると連絡を受けていたので、器の「花田」さんへ。幸い花田さんでは、器が棚から落ちるという被害もほとんどなかったそうです。今年は節電の影響で、千鳥ヶ淵のライトアップは中止とのこと。灯りがなくっちゃ夜桜見物はできません。せめて見事に花が咲いて欲しいと祈るばかりです。
1066 20110321 地震関連15 皆さんからのおたより 千葉の市原のコスモ石油の火災が20日になってようやく鎮火したとのこと。9日間も燃え続けていたのかと唖然としました。常磐線の被害はひどいようで、水戸駅ではようやく駅の通路が通れるようになったと言うニュースがありました。駅構内と駅ビルはまだ閉鎖されているとのことでした。
山形の佐藤先生から、ガソリンが足りず、被災地へ物資が届けられないというお便りをいただいたのは2日前です。首都圏でもガソリン不足は深刻です。病人や高齢の方の介護をしている人など、どうしても車が必要な人も多く、早くガソリン不足が解消されることを願っています。福島の白川にご実家のあるやさぐれプーさんからも「豆畑の友」の談話室におたよりをいただきました。
はやくガソリンが届いて物資が行き渡るようになることを願ってやみません。東北地方のガソリンの準備はまだ平常の6割とニュースで言っていましたから、いましばらくはガソリンは大事にして、無駄にしないようにしなければならないようです。
舞浜の様子はツイッターで教えていただいたのは、yuuichi0731さんです。地震のとき、舞浜においでだったそうです。東北の被災地の惨状があまりにすさまじいので、つい足元の茨城、千葉、それから東京、埼玉などは、忘れがちというか、自分の足元を見失いがちなので、なるべく、思い出していただくように、したと思っています。
===以下 やさぐれプーさんのおたよりから==
(2011年3月20日)
私の実家は県南ですし、被災したといっても瓦や壁が多少落ちたくらいです。断水は一応復旧しましたが、ガソリンがなく母は通勤できずに在宅しております。食糧不足は相変わらずです。県内では放射線量がテロップで放送されているようで、いわきより白河の方が量が多いそうです。風向き等もあるようですが。原発付近の住民の方が中通りに避難をしてきております。原発付近はゴーストタウンのようになっているようです。
正直実家の様子を聴いていると、都心の買いだめ・放射線への過敏な反応は腹立たしいです。本当に必要なところへ回っていないのですから。都心にいる私の同世代のみんなは、しきりと地元に戻りたいと言っています。私も、もし必要ならば将来地元に戻ろうと思い始めています。周りの友人たちのつぶやきを見ていると、買いだめやガソリンを入れるために奔走しているのが、一慨にある年齢層とは言えませんが、自分たちより年上の人々がそうやっているのを見ていると、寂しくなります。
やさぐれプーさん(3月16日のおたより)
私の実家がある福島県白河市は、断水等が発生しておりましたが本日一部復旧したようです。飲料には使えませんが、母は泣いたと言っていました。
ガソリンは底をついて車は出せません。食糧不足もあります。ですが、家族・地元の友人たちは浜通り・宮城・岩手に比べたら…と頑張っております。被災地でありながら、別の被災地の心配をして頑張っています。
原発付近からは、中通りに避難してくる方々が大勢いらっしゃるようです。原発のある大熊町の避難住民を郡山高校や安積高校でも受け入れており、避難場所がいっぱいで、転々としていて、連絡のとれない方々もたくさんいらっしゃいます。
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==以下 yuuichi0731さんのおたより==
(ツイッターから 3月20日)
舞浜は報道で言われていたように、道路の液状化現象が著しかったです。舞浜駅北口と首都高舞浜入口に挟まれた歩道は一部は陥没し、一部は泥水が溢れるような状況でした。
舞浜駅は陸橋の上に作られている構造なので無事でした。しかし、浦安市運動公園前の道路や、リゾート第7駐車場は発生時は歩けないレベルで水浸し。ついでに、帰りに通った江戸川区宇喜田町あたりで水道管がダメになったらしく、マンホールから水が溢れていました。
(以下 3月21日)
うぅ•••昨日からトータル3時間以上かけて書いていた「TDRの液状化現象の人災の可能性を考える」というレポート間違えてすべて消しちゃいました。また、気力が沸いたら書いて見ます。 (追記中沢 それは残念でした。
要旨としては、舞浜近辺の道路は、地震の前から状態がかなり悪く、その目立って悪かった箇所が、隆起または、陥没したといったところです。
舞浜だけではありませんが、浦安市の一部が、断水しているらしく、東京ディズニーリゾートオフィシャルホテルの一部では、浦安市民に限り浴場を開放しているようです。また、新浦安にあるホテルエミオンでは、使用している井戸水を市民に向け提供している模様
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東京湾沿岸部の倉庫などにも被災しているところが多いようですが、週明けあたりから流通なども、復帰してきそうだという話を聞きました。
1065 20110321 地震関連14 法政大学関連 3月24日の学位授与式は中止になりました。それにともない各祝賀会も中止になりました。
学位記授与の方法については、法政大学のHPをご覧ください。文学部は3月24日と25日に授与します。私は授与の当日、会場に詰めているようにしますから、今年度卒業生は元気な顔を見せてください。お会いするのを楽しみにしています。
学内への入構制限は続いています。サークルなどで必要なものがある人は手続きをとれば入構できます。詳しいことは法政大学HPをご覧下さい。学校からの連絡は法政大学HPを利用してお知らせしていますが、ネット環境がない人には諸君で連絡をするようにお願いいたします。入学式も現在、検討中です。入学予定者の方も法政大学HPをご覧下さい。
3月22日学校に出講します。いろいろな先生からお話をうかがうにつけ、校舎の損壊は想像以上のようです。また、研究室もぐちゃぐちゃになっている模様。藤村先生は3日がかりで、研究室を一応片付けたとのことでした。が、スチールの書棚が曲がってしまっているというお話。さて、私の研究室はどうなっていることやら。(ふだんからぐちゃぐちゃだし)出講して様子がわかりましたら、ここに書き込むようにします。
中沢ゼミ(昼、夜)今年度卒業生の皆さん。中沢ゼミOBOGが「卒業を祝う会」を企画してくれています。前述のように学校の校舎の損壊などの被害もありますから、4月の末、もしくは5月の連休頃に開こうということでした。こんなときこそ、皆さんとの御縁を大切にしたいものです。詳しいことが決まりましたら、メーリングリストでお知らせしますので、メーリスに注意して下さい。
1064 20110317 地震関連13 もろもろ 「買占め」をやめろと言われていますが、家族の多い人、子どもを抱えている人、あるいは一人暮らしの人なども、現在の東京近郊の品物の状態では、ある程度、自分の家に必要なものは確保しておかなければ、買たくても買えない状態になっています。それほどスーパーや近所の小売店の棚はからっぽ状態。ガソリンも入手が難しくって、車を使って配達をしている花屋さんの話では、2時間並んで10リットルを手に入れるのがやっとだっととのこと(3月15日の話)かなり逼迫しています。
西武バスのバス停には「市原の製油所火災のため、ガソリンが不足しています。バスの運行を50パーセント削減」の説明書きが張り出されていました(3月15日)お米屋さんは、配達の注文と在庫のお米の精米で働き詰め。くたくたでものも言えないという状態だと話していました。陸上輸送用のトラックがかなりの東北へ回っていること、トラックそのものが被災したこと。各地の製油所が地震で製油できなくなっていること。広域に道路が寸断されていること。それから東京の場合は湾岸部が液状化などの被害を甚大に受けていることなどが重なって、ガソリン、日用品、食料品などが不足しているとのことでした。
ダイエーの売り場の店員さんも商品の補充ができずに困っている様子。棚はがらんとして隙間だらけ。なんでもないとき、ふつうのときに、これだけ商品が飛ぶように売れたら、商売をする人はうれしくって仕方がないだろうなと想像すると、なんだか哀しくなってきました。こんな売れ方をしてもちっともうれしくも楽しくもないでしょう。
製油所はしだいに回復してきているようです。品物も増産体制に入っているとのニュースがぽつぽつ伝わってきます。
山形の佐藤先生からは、日本海側の酒田などから荷物などが陸揚げされて、品物もガソリンも出回りだしていることをお伝えいただきました。原発の事故が深刻になってからは避難してくる人もあるとのことです。埼玉県にも避難してきた人たちがいます。
法政大学の校舎に損壊被害が出たことはすでにお伝えしました。それから学位授与式も中止になりました。入学式も検討中です。学生諸君は法政大学のHPを必ずチェックするようにして下さい。
福島の原発事故は今日3月17日が「山場」だそうです。そうそう、日本ミステリー大賞新人賞を受賞された望月諒子さんの授賞式は今日あるはずだったのですが、残念なことに中止になりました。
予定が全部キャンセルになってほんとうは「閑」なはずなのに、なぜか、気ぜわしいこと。困ったもんだ。
1063 20110317 地震関連12 千葉からのおたより2 高校のときの友人の宇山君が海浜幕張の様子を知らせてくれました。一昨日いただいていたおたよりです。東京湾の沿岸部はかなりの被害が出ている様子です。浦安市が「激甚災害」の申請をしたのには驚きました。また娘から聞いたところでは、船橋でも、土地の陥没などの被害があるとのこと。海浜幕張でも液状化現象が起きている様子が、宇山君が送ってくれた写真でわかります。写真はあとから豆蔵君に掲載してもらいます。
======以下 宇山君からのおたより===
(2011年3月15日 18時)
今日の海浜幕張駅北口バスロータリーです。
直後はあちこち砂が吹き出すはで、特にバスロータリーは砂が多くて路線バスが進入出来ないほどでした。土曜日は手前の停留所テクノガーデン折り返しで、ロータリー内は工事の車が行き交い土砂の搬出に大わらわでした。
この頃は、吹き出した砂からは潮の香りが! 海砂掘り出しての埋立地ですから砂と吹き出した水も海水に近いのでしょう。
しかし、月曜は砂が乾き砂ぼこり酷く、携帯使うと埃がすごかった!
さて、539は歩道の割れ目、
541は海浜幕張駅北口前、大きく段差ついたのが分かりますか?
542は歩道橋。一番下の段が一番低いステップのはずが…。
千葉ロッテマリーンズの本拠地、千葉マリンスタジアム改めQVCマリンフィールドの周りもヒドイらしいので、プロ野球開幕にも影響しそうです。
宇山@携帯から書くとめんどい
1062 20110316 地震関連11 ローカル情報@twitter編<110326 10:10更新> 各自治体を中心とした、現在の各地の様子がわかるアカウントを集めています。なお、震災関連の中沢けいリストはこちらです。
ほぼ50音順。
・東京電力
・茨城県
うまいもんどころ茨城
鹿嶋市
かすみがうら市ふるさと応援隊
神栖市観光協会
北茨城市観光協会
久慈郡大子町観光協会
古河市・古河の華むすめ
つくば市 情報システム課
つくば市災害通知メール[非公式]
つくば市![非公式]
取手かいわい
日立市(非公式)
常陸太田市
ひたちなか市_fake
・千葉県
我孫子市役所
いすみ市・地域プロモーション室
市川市情報bot(非公式)
市川市災害状況
柏市(非公式)
勝浦市
鴨川市大山支援村NEW!
君津市・きみぴょん
熊井@館山市商工観光課
千葉市広報課
千葉ニュータウンオンライン
流山市安心安全課
船橋市本町通り商店街
松戸っこ@千葉県松戸市大好き
南房総市
八千代市
・栃木県
足利市
朝日新聞宇都宮総局
大田原市役所
小山市
小山市観光協会
下野新聞
ラビットネット 栃木
栃木市観光協会ツイッター
那須ダイスキ
那須烏山市
・東京都
京王線運行情報
狛江市
中央区観光協会
e-town八王子管理人
三鷹市
(社)武蔵野青年会議所
・神奈川県
綾瀬市商工会
厚木市
伊勢原市商工会(商店会連合会担当)の職員
海老名市
海老名市観光協会
大磯町観光推進室
小田原市
川崎市
+麻生区民記者
+多摩区・麻生区のフリーペーパーOhana
+多摩区観光推進協議会
+武蔵小杉不定点観測隊
+川崎市@北部
+川崎市 緊急情報
(高座郡)寒川町商工会
逗子市観光協会
箱根温泉「箱ぴた」
【非公式】神奈川県平塚市の情報など
藤沢市市民活動推進センター
横浜市
+横浜市広報課New!
+ほぼ日刊〜都筑区日記
+すぎたん(磯子区杉田非公式マスコット)
+ハマっち!くん
+鶴見区(非公式)
横須賀市東部漁協 鴨居支所
スカレー・よこすか海軍カレーマスコットキャラクター
横浜消防なう 《横浜市災害情報》
東急大井町線運行情報
・埼玉県
朝霞青年会議所
ときがわ町
新座市
富士見市役所秘書広報課
和光市
1057 20110315 地震関連6 ローカルなニュースが取得できるところ<110317:21:00更新> ・Save IbarakiNew!!
・Yahoo! Japan地域ニュース
・47NEWS(よんななニュース)
全国47都道府県・52参加新聞社と共同通信の内外ニュース。
・房日新聞
・埼玉新聞
・茨城新聞
・カナコロ 神奈川新聞
・東日本大地震・自動車・通行実情マップ
・関東圏の運行状況に関するツイートをリアルタイムで見られるまとめサイト。
・日本透析医会災害ネットワーク
茨城、千葉などの透析医療の情報もあります
・和光市災害時ホームページ
東京電力の計画停電についての情報は各自治体のHPで調べるのが便利な様子です。
とりあえずローカルな情報が得られる新聞社などのサイトを集めました。随時、リンクを張ります。また気がついたものを増やしてゆきたいと思います。
1058 20110315 地震関連7 茨城からいただいたおたより 水戸の近くにお住まいのTigerさんから以下のようなおたよりをいただきました。(3月15日 正午)
現状をお知らせになりたい方、おたよりを下さい。
脱線したトーマスさんからもおたよりをいただきました。(2011年3月15日 午後5時45分)
===== 以下 Tigrさんのお便り ===
(2011年3月15日 正午)
震災においては、私の住む那珂市は道路の陥没隆起が多く、車での通行がかなり困難な状況です。瓦の落下、石垣の倒壊はもはや見慣れた光景です。
商店で生活用品を購入するのに長蛇の列ができています。
昨日、仕事で水戸の町まで出ました。那珂川をわたる橋もいくつか大きな段差ができ、通行が不安です。市内の陸橋はいくつか落下しているようです。
偕楽園近辺の陥没、水戸駅南側の市役所近隣の建物倒壊がひどいです。このエリアは元々沼地だったため、地盤がゆるいそうです。
駅の北口方面は一部塀や建物の崩壊が見られます。頭上注意の貼紙があちこちに貼られており、飲食街では炊き出しでお店の在庫を市民に還元する店舗、段ボール一杯の割れた食器や酒瓶の片付けに終われる店舗がある一方、被害の少ない店舗では地震に負けるな! あったかいメニューあります、という貼紙をして営業している店舗もありました。
水戸は水も電気も大多数のエリアで復旧しているようです。一部の温浴施設やスポーツクラブでは一般の方に開放を始めていました。
エリアを問わず住民が困っているのはガソリンです。10リットル手に入るか入らないかのガソリンスタンドに、1キロちかく車が並んでいます。
茨城は車社会で、車がなければどこにも行けませんので、どこの家庭でも確保に苦慮しています。
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===以下脱線したトーマスさんからのおたよりです=
(2011年3月15日 午後17時45分)
茨城も、建物の損傷がひどいようです。
工場で火災もありました。
その他、地面に亀裂が入っていたり、液状化や津波の被害もあるそうです。
1061 20110315 地震関連10 法政大学の状況 法政大学の損壊状況がわかりました。
市ヶ谷キャンパス:55・58年館3階以上、窓ガラスの破損等で使用不可。
511教室、構造上深刻な問題発生で使用不可。学生ホール、構造上の問題発生で使用不可。さったホール、天井照明装置崩落で使用不可。
想像以上の被害が出ているようです。卒業式、学位授与式などの日程については法政大学のHPをご覧下さい。また日程変更の可能性もあるので、HPは繰り返しチェックして下さい。
法政大学HP http://www.hosei.ac.jp/
1060 20110315 地震関連9 茨城、千葉以外の地域からのおたより 茨城、千葉以外の地域からいただいたおたよりを御紹介します。
山形県には福島県からの避難の人が多くいるとのことです。「地震関連6 ローカルなニュースが取得できるところ」のなか「自動車実情マップ」があります。実際に通行できた道路の情報があります。また川崎のお住まいのハリネズミさんからは仙台に住んでいる御親戚の安否を案じていたところ、なんと! 沖縄の西表島から「無事」の連絡が届いたと言ううれしいおたよりをいただきました。また、法政の尾谷先生は昨晩遅くに仙台を出発し、越後から越中、つまり富山にご家族ともども避難なさったとのことです。尾谷先生のツイートで知りました。
東日本全域で品物の不足がおきている様子です。私の娘は中卸の問屋さんに勤めています。娘から聞いた話ですと、日常用品を扱っている問屋さんの社員は会社に泊まり込みの覚悟で、仕事をして欲しいという激が飛んでいるとのことでした。問屋の皆様、仲卸の皆様、皆様のご経験と智恵で、いろんな品物がちゃんと行き渡るように、がんばってください。皆様の智恵と経験に期待しています。
山形の余目にお住まいの佐藤先生から以下のようなおたよりをいただいています。
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山形・余目の佐藤先生からのおたより
(2011年3月15日 正午)
庄内は、ガソリンや灯油が買えなくなりました。
我が店は灯油を売ることができなくなりました。
庄内でも学校には重油が供給されないので、本校はボイラーを停止しています。
東北は穀倉地帯ですので、今年のコメの収穫は激減するはずです。
これから作付する予定の種もみも、今回の津波被害で不足するのでは。
宮城は種苗もたくさん請け負っていますから。
ふくしま情報です。
郡山の友人からふくしま情報です。
原発から60キロの郡山には、のがれてきた被災者が、あさか黎明高校の体育館などに集められているという報道。
山形県のニュースでは、米沢市に沢山のふくしまからの避難者がぞくぞく。
これは、NHK山形の文字放送ニュースです。
山形県では、県が市町村に指示して避難民を受け入れる手配をするということになるようです。
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川崎のハリネズミさんからは以下のようなおたよりをいただきました。ほんとうに良かった! 良かった!
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川崎のハリネズミさんからのおたより
(2011年3月15日 午後1時30分)
わたしのほうは、仙台に住んでいる母方の親戚と連絡がとれず、無事が確認できた関東圏在住の親戚一同総出で安否確認やらなんやらをずっとしており、すこしバタバタしておりました。
そしてつい先々日、ひぃおばぁ(西表島在住)のところに、本人から「全員無事」との連絡が入ったそうで、まさかの西表島一番乗りという展開に脱力しつつも、ひとまず安心できました。
それでも、まだ避難所生活が続いているそうで、家もどうなっているかわからないし、なにより夜が辛いとの話なので、心配と不安はぬぐえません。
わたしのほうは全く問題はありません。しいていえば、わたしの部屋の本の山たちがいっせいに雪崩をおこし、ちょっとした惨事になった程度です(苦笑)
1059 20110315 地震関連8 千葉からのおたより 高校時代の友達、宇山君から千葉の様子を知らせてもらいました。(2011年3月15日 午前11時)
====以下 宇山君からのおたより======
(2011年3月15日 午前11時)
当日は旧丸山町に仕事で滞在中に遭遇しました。自分の周りでは被害らしい被害はありませんでしたが、房日新聞のサイトでは被害状況が掲載されています。
車で帰路、竹岡から上総湊にかけ走行中、海面の異常な低下を確認。湊川が低下した海面に流れ落ちる様には驚きました。
勤務先の海浜幕張周辺は液状化現象であちこち砂が吹き出すは路面ガタガタで、報道で聞くに浦安までの埋立地は場所により被害ヒドイかなと。
1056 20110315 地震関連5 関東地方のニュースを集めてみました。 関東地方のニュースを集めてみました。ニュースの発信時刻に御注意下さい。
「放射能監視体制強化 北茨城」
「ライフライン情報 茨城」
「茨城空港再開」
「千葉 浦安市激甚災害申請」
「千葉 災害救助法適用 旭 香取 山武 九十九里」
房州については房日新聞のサイトが詳しいと、高校時代の友達の宇山君が知らせてくれました。
房日新聞 → http://www.bonichi.com/
ローカルな情報の収集は思いついたばかりですが、もう少しやってみようと思います。くれぐれに情報発信の日時に気をつけてください。
上記のニュースは「ヤフー・ニュース」の「地域」という欄から探しました。「ヤフー・ニュースの「地域」」ではローカルなニュースを取得することができます。
1055 20110314 地震関連4 もろもろ 娘から聞いた話ですが、船橋あたりでは陥没や液状化で、倉庫から品物を出庫できないところがあるそうです。それで物流の滞りがおきているようです。
伊藤比呂美さんは無事に熊本到着。電話でお話をしました。
フランスに住んでいる知人から電話をもらいました。フランスでも大きく報道されている様子です。
近所の米屋さんに買物に行きました。お米の配達などが中心のお店で、買物のお客さんは少ないお店ですが、今日はレジに行列ができていました。20年ほど前の年末の買出しの光景を見るかのようでした。
12日に知人からもらったメールでは。上智大学のイグナチオ教会の十字架が折れて落ちていたとのこと。法政大学の校舎にも被害が出ているようです。
地震の被害が大きかった茨城、千葉、それから東京、神奈川、埼玉などの情報がひどく不足しています。
1054 20110314 地震関連3 法政の学生の皆さん、情報収集しています。 法政大学の昼ゼミ、夜ゼミ、4年生、大学院生の皆さん。
御無事かどうか確認のメールを出しました。メールが開けない人のためにここに書き込みします。
「みなさん御無事でしょうか? 学校行事については法政大学のHPを注意してみてください。またどなたか学生の被害情報をお持ちでしたらお知らせ下さい。無事な人の私宛に御一報下さい」
今のところ、御返事を下さった皆さんは全員無事です。
1053 20110314 地震関連2 そのほかもろもろ 法政大学のキャンパスは3月19日まで入構禁止になりました。詳しいことは法政大学のHPでご覧下さい。それから地震に関係した学生、職員の情報を求めています。これについても法政大学のHPで確認して下さい。
米屋さんに灯油とお米とお水を注文した。灯油とお米については問題なし。お水はもう売り切れたとのことだったが、たまたま、午後の入荷があり、都合をつけてもらった。(午後3時40分)
伊藤比呂美さんは今朝無事に成田に到着されたようです。朝早い時間にメールをくれたのですが、あいにく私は寝入ってました。
伊藤さんによると飛行機の中で、被災地へ行くというNGOのお医者さんとご一緒だったとのこと。ただ、こうした人が日本のどの行政機関に連絡をして、どこへいったらよいのか皆目わからないとのことでした。厚生労働省へ連絡をしたら、外務省へと言われ、外務省は、らちがあかない対応だったとのこと。
伊藤さんには総務省へ連絡をしてみてはどうかというメールを出しておきましたが、今のところ、そのあとの連絡はありません。
おそらく、国内、国外のボランティアなどの受付窓口はまだ設置されていない状態なのではないかと思います。もし、もう設置されていることをご存知の方がいましたら、御教示下さい。よろしくお願いします。
茨城県もかなり大きな被害が出ています。ゼミの卒業生がmixiに書き込んでいる様子を見ていると、家はめちゃくちゃだとのことでした。水戸駅も相当な被害が出ているらしい様子。常磐線沿線の被害もかなりだとのことでした。東北の被害が大きいのですが、茨城県のダメージもそうとうなようです。
千葉県の館山では布良で1メートル60センチの津波を記録したけれども、被害はないと、これはツイートをしている私の同級生が教えてくれました。どうもありがとう。被害がなかったこと、ほんとうに安心しました。「でもうちのお墓は崩れてるかも」って娘が言ってました。お墓はそんなに急がなくっても文句は言わないでしょうから、近々に様子を見に行くことにします。
外房の旭町では津波で亡くなった人も10人ほどいる様子です。コスモ石油の火災と津波の被害が千葉で出ているくらいですから茨城の惨状が想像されます。茨城の皆さん、どうぞ、がんばってください。くれぐれもお疲れが積もらないように。まずは御自分のお身体大事でお過ごし下さい。
アマゾンでも被害が出たみたいで、荷物の配達が遅れるという表示がトップページに出ていました。地震で、すっかり自分の本の見本が出る日だということを忘れていましたが、ちょっと前に河出書房新社の小池さんから電話をいただいて、思い出しました。「書評 時評 本の話」は品薄だそうです。もっとも、これは地震とは関係なし。もともと部数が少ないのです。
11日の地震直後に神田から成増の自宅に向けて歩き出し7時間かけて家に帰り着いた娘は、土日をテレビの前でぐったりした顔で過ごしていました。もう大の大人なのですけど、ぐったりしていると、赤ちゃんの頃の幸福が戻ってきているみたいな気になって、二人でおにぎりをつくったり、お茶を入れたりして、のんびり過ごしました。もっともその間も、けっこう余震でがたがた揺れていたのですが、なんだかミスマッチな気分の、長閑な休日でした。今朝は、お弁当を水を持って出勤しました。息子は時々、様子を知るために電話をしてきてくれます。
mixiやHPでお役にたつことがあればお引き受けします。お問い合わせフォームからメールを下さい。
1052 20110313 地震関連のお知らせ しばらくここを地震関連のお知らせに使おうと思います。なにか連絡の仲介を求める方はメールを下さい。とくに法政大学の学生諸君、何か御用があれば、お知らせ下さい。
まず、法政大学市ヶ谷キャンパスでも校舎に一部、地震の被害が出ている模様です。詳しいことは、明日(3月14日)に学校から連絡があるとのことでした。様子がわかりましたら、またお知らせします。
仙台のいらっしゃった尾谷先生はご家族ともに御無事だとのことでした。電気は使えるようになったそうですが、水道、ガスなどはまた使えないと昨日お知らせをいただきました。
うれしいお知らせをひとつ。昼ゼミ根本君が東京藝術大学に合格されたとのことです。おめでとう!
卒業文集作成はいささかの遅れが出ていますが、進んでいます。進行については御世話をしてくださっている路川さん、原田さんからのメーリングリストの連絡に注意して下さい。
そのほか、私でお役にたつことがあれば、お役にたちたいと思っています。お問い合わせフォームから御連絡を下さい。
ツイッターを使うことはしばらく控えますので、定期的にmixiの日記、および「豆の葉」を覗いていただければ幸いです。法政大学の学生以外の方でも、お役に立てることがあれば、おちからになりたいと思いますので御連絡をどうぞ。
そういうわけで、伊藤さん、無事に成田御到着をお祈りしています。関東地方はM7くらいの余震が予想されていますのでくれぐれもお気をつけて。
管理人の豆蔵君、そういうわけです。もろもろよろしくお願いします。
1051 20110305 北アフリカと中東が気になる 今はもう大昔。大学の教室に座っていた頃、東西冷戦をどう解消して行くのかという講義を受けました。そのなかで、ソビエトのテクノクラートをアメリカに留学させて、アメリカの価値感を学ぶだけでなく、幅広く身につけてもらうという政策がありました。1970年代後半のこと。ああ、なんて自信に満ち溢れた政策をとるのだろうと、講義を聴いていました。ベルリンの壁が崩壊するよりも10年も前の話です。ソビエトの崩壊なんてまだ誰も考えていませんでした。明治大学を囲む塀には左翼セクトのたて看板がびっしり並んでいましたし、同級生がセクトの領袖を間違えられて学内でぼこぼこに殴られ、血だらけになるなんていう事件もありました。終戦後の日本の学生もアメリカは留学生として受け入れました。私の身近にもフルブライト留学生だったという人がいました。
江藤淳が本多秋五と「無条件降伏論争」を群像の誌上で始めたのは1978年の5月号もしくは6月号だったと思います。これは群像のバック・ナンバーを調べれば解るのですが、それより、私が新人賞と取ったときの群像なので、そういう記憶をしているのです。「なんだろう、これは?」と首を傾げながらも真剣に読んだものでした。論争は大学の一年生が理解するには複雑過ぎるものでした。
30年後の智恵で江藤淳の主張を簡略に要約するとアメリカが占領政策として持ち込んだ価値感に、縛られすぎていないかというのが主張の骨子になっていたと私は思います。このことについて秋山駿さんとお話したときに「江藤さんはああ言うけれども、アメリカに無理矢理にというより、自分たちでそれがいいと思ったとこもあるんだよ」と言ってました。秋山さんの言うのも事実。江藤さんの指摘と発見も事実だと、私は考えています。折衷的な考えというよりも最初にソビエトのテクノクラートをアメリカに留学させて、価値感を体験体得してもらうというような政策をとるのですから、誘導と自主的な価値の獲とくの両面が現れるのは当然のことでしょう。江藤淳が「無条件降伏論争」に発展する指摘を始めた背景には、第二次世界大戦の経験をどう文学作品化するかというテーマがあったはずですが、これについてはもう少しよく研究してみたいと考えています。そして、「戦争は犯罪か?」という主題の提示があったことはよく記憶しています。
「勝てば官軍」「負ければ賊」と、戦争は勝敗によって優劣が決まり、優劣が決まることによって、正当性は勝ったほうに付与されるというのは、これまでの歴史の中で繰り返されたことです。が、勝ったほうが道徳的に善であり、負けたほうが道徳的な悪であるというようなことはないはずだという主張はなるほどなあと耳を傾けたくなりました。アメリカは戦争に道徳を持ち込んだのだと、これも江藤淳の主張にあったことでした。江藤淳は昭和53年の「無条件降伏論争」以降、アメリカの占領政策の実証的な研究を始めます。江藤淳「閉ざされた言語空間」には占領軍としてのアメリカが日本人の私信を検閲していたことなども資料をもとに描かれてました。考えてみるとアメリカも外国(日本ですが)を占領するのは初めてだったわけで、ずいぶんと慎重な政策をとった様子が「閉ざされた言語空間」から読み取ることができます。おそらくこの占領政策はアメリカが外国へかかわる時のひとつの原型的な経験になっているのでしょう。
北アフリカのチュニジアで起きた民主化運動と政権転覆は、ソーシャルネットワークによる市民革命と当初は報じられてました。当初の報道に接して私が感じたのは「ああ、30年前の江藤淳の指摘」と同じことが北アフリカで進行しているのではないかという疑念でした。単純に「革命は善」「民主化は善」という報道に対する反発も感じました。エジプトに飛び火すると、背景にあるアメリカのネット関連会社の姿がちらりと見えました。このあたりの感じ方は「ツイッター200日」に書いたとおりです。それからリビアの騒乱へ。
リビアは内戦状態へ向かいつつある様子が報道されています。カダフィ大佐は国際刑事裁判所が捜査を始めています。「武器を持たない市民対圧制者と」という構図なら圧制者が「犯罪者」として指弾されることに違和感を感じませんが、リビアの場合はほんとうのところ何が起きているのか、報道だけでは解りません。それから江藤淳の問題提起である「戦争は犯罪なのか」ということにも、それほど明確な答えや、衆知を集めた議論の成熟があるとは思えません。武器を持たない市民を大量に虐殺するのは、犯罪だといわれれば、頷けるところもあるのですが、では原爆を日本へ投下したアメリカはそれを犯罪だと考えているのでしょうか? 東京、名古屋、大阪など主要都市の非戦闘員を空襲で焼死させたのは「犯罪」に問われることはないのでしょうか?朝鮮半島で行われた戦闘については? インドシナ半島に散布された枯葉剤については? 湾岸戦争で使われた劣化ウラン弾は?と連ねて行けばきりがないのです。国際刑事裁判所規定起草に、アメリカは深くかかわりましたが、後に批准を回避しました。政治的に利用されるという理由です。
アメリカが悪いといいたいわけではありません。「戦争に犯罪という構図を持ち込んでよいのか」と疑念があると思っているだけなのです。日本の右翼が主張するような「日本は悪くなかった」と自国の正当化のためにそれを主張するのではなく、価値感の異なった国家が衝突した場合に「負けた国」の弁護ができるような、そういう歴史的経験の感覚を開いて欲しいなあと、そんなことを夢想しています。リビアのような内乱、内戦状態の場合は一方的にどちらかを悪と決めるけることが内政干渉にならないのか? という疑問も持っています。ちょっと短絡的な言い方をすれば、北アフリカから中東で起きていることは、戦後日本で起きたことの、より複雑に発展させながら反復しているように見えているのです。ソーシャルネットワークが出来て、例えば占領軍が私信の検閲を目立たないようにやったという世論操作は、さらにやりやすくなっているのではないでしょうか。しかも、それをやるのが政府というような公的な組織ではなく、クラウド・コンピュターを持っている私企業でも可能だというところが、新しい要素です。企業は国家と違ってインターナショナルな組織、つまりグローバルな組織も作ることができますし、国家のように議会に縛られることもありません。リビアの内戦状態で、カダフィタ大佐が政治的信頼を失ったために「刑事」責任を問われることはあっても、シリコン・バレーの誰かが騒乱を引き起こした責任を問われることは、おそらくありません。江藤淳の「わすれたこと わすれさせられたこと」を読み返してみたくなりましたが、アマゾンの中古では文春文庫で3,500円もの値がついていました。
1050 20110304 安宇植さんを偲ぶ会 先週の土曜日に安宇植さんを偲ぶ会がありました。スピーチをしろとのことでしたので、ちょっとお話をしました。で、「安宇植さん」と言うべきところをついうっかり「安宇植先生」と呼んでしまう場面が何度かありました。いつか、伊藤さんとのそのことを話し合ったことがあるのですが「文学者は先生という呼称をつかうべきではない」って教育されたのです。私や伊藤さんは。
なぜ「先生」を使うべきではないのかは諸説あります。おもしろい説もあるのですが、それはまたなにか機会があった時に。今回は話を早くするために、いちばんの公式見解を御紹介しておきます。
それは文学ではみんなが対等な立場に立つ必要があるからってことと、文学は人から教えてもらうものではなくって、自分から生み出すものだからだっていう理由だそうです。話が横へ飛びますが鎌倉文学館でやっていた「川端康成と三島由紀夫」展を見に行ったら、「川端は三島に川端さんと呼ぶことを許した〜うんぬん」というような説明があって、思わず「なに言っているんだ!」と怒りすら感じてしまいました。うっかり「先生」なんて呼んだら、どのくらい怒られるか解ったものじゃないってのが、文学者の世界だったのです。三島が川端に出合ったのは昭和20年頃ですが、その頃はもうそういう雰囲気はあったのではないかと推測するのですが、どうでしょうか?
尾崎紅葉の硯友社のような師匠のところに弟子入りするという徒弟の時代は、先輩作家を「先生」と呼ぶのが当たり前で、それが同人誌の時代になると、「先生」と呼ばなくなるという歴史がありそうです。ことに「白樺派」の流れと志賀直哉の流れを汲む人は、絶対に「先生」と呼ばせないという傾向がありました。誰か物好きな人がいたら歴史を調べてもらいたいものです。まあ、そんななので三島が川端に出合った頃には、「先生と呼ぶな」という習慣はもう出来上がっていたのではないかと考えたわけです。
吉行淳之介に初めてあったときも、私の本が出たお祝いに銀座のレンガ屋によんでくれたのですが編集者から「ぜったいに吉行先生と呼んではダメだよ。吉行さんと言いなさい」と耳打ちされて、それでも「吉行さん」とは発音できないので、いかに主語を抜いてしゃべるかで、えらい苦労をしました。きっと伊藤さんも、それに近い経験を持っているので、高校生が私や伊藤さんを「先生」と呼ぶことを止めようかどうか迷ったのだと思います。それから幾星霜。私はこのごろは「先生」とわりに楽に使うようになっています。学校では「先生」でいいやって思っています。文学者が「先生」を使わなくなったのは、徒弟から同人への変化などの歴史がありそうなのですが、それをまったく無視して、偉そうに「先生と呼ぶな」と怒ったエライ・センセを何人も見てきたからというのがひとつの理由です。あと、学校では顔を名前が一致しない「先生」がたくさんいて、この時は「先生」は便利な呼び方です。謙虚な、あるいは、真摯な理由から始った習慣も、その精神が失われて形骸化すると形無しになってしまいます。
この習慣はわりあいに広がっていて、私が勤務する法政大学文学部日文科でも、教員と学生は相互に「さん」と呼び合うという伝統があります。小田切秀雄教室ではそれが徹底されていた様子を聞いています。まあ、でもそういう伝統も意義が見失われると、気安く「さん」付けになる場合もあれば、「ちゃん」になることもあり、形骸化というのは、どこにでも起きる現象のようです。そうは感じていても今でも私は学生に「先生」と呼ばれると小説家として軽んじられているという不快感をちらっと感じたりします。学生にあんまり気難しいことを言ってエライ・エンセになるよりも、自分の不快感を胃薬みたいに飲み込んでしまうほうを選びますが。
安宇植さんは実に闊達な精神の持ち主で、先生と呼ばれることはお嫌いでした。東京の両国の生まれ。お祖父さんの代から両国にお住まいで「江戸っ子の朝鮮人」を自ら任じていました。そういう安宇植さんをうっかり「先生」なんて呼んだら、たいへんご機嫌を損じてしまうのではないかと想像されるのですが、でも口から「安宇植先生」という言葉が飛び出してしまいました。と言うのも、90年代の初め頃から、韓国に政治的イシューに縛られない叙情性を持った作家が次々と現れていることを教えてくださったのは安宇植さんだったからです。知識や情報として教えてくださったという側面もあるのですが、それ以上に、日頃の態度というか、言葉にしては言い難いところで教えていただいたという想いがあります。青森で廃止された連絡船の発着埠頭を黙って歩いたときのことは「偲ぶ会」でもちらりとお話しました。海も青く、空も青く、どちらにも溶け込めずにとぼとぼと歩きました。安宇植さんは海の向こう、空の向こうを眺めながら歩いていたのでした。韓国の女性作家呉貞姫さんと、和やかにお話していた姿も忘れられません。何と言うことのないよもやま話です。沈黙と雑談。そこから教えてもらったことは限りがありません。だから、自然に「先生」と呼びたくなるのです。
ほんとうは故人の御冥福をお祈りしなければならないのが生きる者の役割ですが、私も一度は救急車で運ばれていますから、幽明の境界はもう淡くなったものとして、時々、安宇植先生のまたお散歩のお供をしたいものです。もうきっと「先生」とお呼びしても「うん、先に生きてたからね」と笑ってくださるような気がしてます。「先生」と言う呼び方に、こんなこだわりを持つのも、伊藤さんや私が最後のほうなのかもしれません。そう思いませんか?安先生。
1049 20110301 ツイッター200日 ツイッターを始めて200日。いや、正確には201日目になった。なかなかおもしろい遊び道具であることは間違いない。個人で持てる小さなラジオ局みたいな感じだし、出入り自由なコミニケーション・サークルを作るのにも向いている。
で、この200日にあったことで、思い出すことを並べてみる。
最初は海上保安庁の尖閣諸島映像流出事件。ツイッターで動画が流されていることを知った。で、たぶんそのあとだと思うけど、ツイッターが不調になって、総務省までが出張ってきたということがあった。ツイッターのようなシステムは一見自由に見えるけれども、情報操作がしやすいことは、ツイッターが登場するずっと以前に話題になっていた。で、システムに異常が出たのはそのためじゃないのかと聞くと、たいていの人は「ツイッターは動作が不安定だから」という答え。確かにふだんでも、キャパシティ・オーバーの「鯨」がよく表示されるので、そうした日常的な不調なのかもしれない。
お次はなんだっけ? あ〜これは何だろう? と思うことが何度かあったが、印象だけ残っていて、事柄は記憶していない。北朝鮮が韓国の島を砲撃した時もちょうどツイッターをいじっていた。その時もなにか「あれ?」と思うような動作があったような、なかったような。
年が明けてから、チュニジアが不安定になっているというニュースがタイムラインに出てきて「あれっ」と思っているうちに、あれよあれよでジャスミン革命だってと、正直な感想としては「これはなんか胡散臭いなあ」というものだった。あまりにもスムーズに行過ぎている。ソーシャルネットワークによる市民革命というのが、なんだか簡単すぎる感じがした。ちょうど映画「フェイスブック」が話題になっていたし。
私の頭に浮かんでいたのは、ちょうど2年前のグーグルによる大学図書館の書籍のテキスト化計画と、それにともなう著作権者の権利問題、それから1年前の電子籍騒動というか、電子末端デバイスの売り出しの騒ぎなどと「流れ」が似ている気がした。最初は「理想とビジネスが肩を組んで」現れる。それから、実際の現場が戸惑いの声をあげたり、ことが理想的には進まないことがわかって、右往左往と言う流れ。あ〜、似ているなあと思っていたら、エジプトでムバラク政権が倒れると、これは素直には行かなくって、すったもんだ。グーグル社が電話回線でネットを利用できるように計らったり、ハッカーグループが登場したりと、なんだか舞台裏がちらりと見えるような、感触もあり。
この件に私が興味を持つのは、私がデビューした年1978年の群像6月号で、江藤淳と本多秋五による「無条件降伏論争」があったからだ。すご〜く大雑把に言えば、占領軍であるアメリカによる言論統制と世論誘導がどのくらい無意識に日本人の言語活動の中に入り込んでいるかを問いかける論争だったわけで。幾つもの文学論争と同じように、この論争も決着はついていないのだが、江藤淳が指摘した側面は、ネットの登場で、さらに進化し、巧妙になり、強行になっているのではないかと考えられるから、どうしても興味を持ってしまう。
反政府運動はエジプトから北アフリカ、中東全域に広がりを見せている。緊張する状態の中で、情報がどう伝わるのかは、ツイッターは、新聞、テレビ、ラジオにはない速度で、その事態を刻々と伝えてくるので、釘付けになってしまう。それにしても、誰が何をたくらんで仕掛けたのかは知らないけれども、北アフリカと中東を巻き込む騒乱状態を「指先の運動」で作り出してしまうなんて、こんな「けしからんことはない」という腹立ちがあった。そうこうするうちにリビアが内戦状態に入る。アラビア半島でも騒乱の気配はくすぶっている。
なぜか、北アフリカと中東について揶揄したツイートが消えた。で、「消えた」とツイートすると元のツイートも戻って表示された。北朝鮮で住民蜂起があったというニュースをツイートしようとすると、これができない。「これができない」とツイートしてみるとフォロワーの人から「雲のみえざる手」という御返事が。なるほどねえと頷くことしきり。記憶している限り、政治的なコメント以外は、あまり理解できないへんな動作はなかったように思える。
これが私のツイッター200日。
1048 20110216 やわらかい言葉がほしいなぁ。 ゲマインシャフトとゲゼルシャフトというドイツ語を30年前の大学の教室で教わりました。大学の1年生でした。へえ、そんな単語があるんだ、そんな単語で世の中の移り変わりを説明するんだと感心。ゲマインシャフトは日本語に訳せば共同体で、血縁、地縁、それから友情などで繋がっている集団。ゲゼルシャフトは利害関係、協同関係などで繋がっている集団。日本語の訳としては共同体もしくは協同体を使うこともあるのですが、社会という訳を当てる場合もあるらしいです。
英語だとゲマインシャフトの共同体はコミュニティ。ゲゼルシャフトの社会はソサエティということになるらしい。共同体は家族、村落、親睦団体、などがそれに当たり、社会のほうは学校、会社、目的を持った組織などの集団をさすと、たぶん、30年前に教えてもらったことを思い出しながら、説明するとそんなことになります。今の日本語では社会という言葉は、ゲゼルシャフトよりずっと意味を広げて使っているので、少しヘンな気のする人もいるかなと言う気がしますが、共同体との区別のために意味を狭めて使っているのだと思ってください。
それで30年前の大学の階段教室で教えてもらったことと言えば、世の中は共同体から社会へと変化して行くということでした。さて、ここからは私の考えたこと。共同体は感情の繋がりで出来ているからうっとうしい。社会は目的を持った繋がりで出来ているからすっきりしていて、素敵だ! 家族から離れて東京で一人暮らしを始めたばかりでしたから、なおさら、そう思いました。人目がうるさい田舎より(ゲマインシャフト)東京(ゲゼルシャフト)のほうがずっと生きやすいやって。
教室に座ってそんなことを考えていたのと同じ頃、30年後にミイラになって発見されて大騒ぎになるお爺さんが息を引き取っていたなんて、想像もしませんでした。事件はゆっくり進行していたのです。隣近所という共同体の力が弱くなっていなければ、起こり得ない事件です。それから、同じ30年前に、新興宗教の団体が、若い女性を集めて共同生活をして、親が娘を取り戻そうとするという事件? が幾つかありました。オウム真理教事件など起こるずっと前です。伝統的な血縁や地縁ではなく、意思を持って集団に入った人で構成されるコミュニティと、そこでの暮らしは、なかなか小説に書きにくいという話を担当編集者と交わしたのも、よく覚えています。「書いている人はいるんですけど、これが作品としてうまく行ってなくって」と担当編集者が教えてくれました。これはあとになると、現実の体験に取材した小説ではなくって、観念的に虚構を組み立てた小説となって描かれるようになります。現実の体験のほうは、ノンフィクションが、その表現を引き受けてゆくことになります。
目的がはっきりした団体ではなく、人間存在をまるごと受け入れてくれる団体。つまりコミュニティを欲するっていう意欲や望みは、「東京っていいなぁ」と大学の教室にぼんやり座っていた頃にすでに、ある種の事件として現れていました。また、自然食運動などの市民運動的な要素のあるものとしても現れていました。どういうわけか、ソサエティは社会という訳語が定着し、しかもその訳語はかなり広範な意味に使われていますけれども、コミュニティは現在もなおカタカナ語のままで、共同体という訳語は意識的に使うことがあってもなんだかむずがゆい感じがします。なぜなのだろう?
こんなことを思い出し思い出し、考えているのは無縁社会という言葉が出てきたためです。親族の遺体をともにひっそりと暮らしている人、30代の働き盛りなのに自宅で餓死した男性。人の生き死ににかかわる事件が社会的関心を集めているなかで、それは人事じゃないなあという体験を積み上げてきたからです。孤独死ということも、身近な出来事として起きています。脳梗塞の発作を起こして携帯電話を握り締めたまま息絶えていた高校の同級生もいたそうです。それを話してくれたのは、同じ脳梗塞の発作を起こして、ちゃんと携帯で119番できた同級生でした。
さてと、大昔の教室の記憶から、この話を掘り起こしたのは「人間はひとりで生まれてひとりで死ぬのだから無縁を恐れることはない」とか「無縁で死ぬ覚悟をすればいい」という意見を聞いて考えたことを書きたかったからです。たぶん、そういう発言はゲゼルシャフトな共同体で形成された場所で生きるための、最低限必要な心構えについて話しているのだと、そう思ったのです。ただ、言葉が硬くって惨い。惨いだけではなく、そこからなにかが失われて行くのです。直感的な喩えで言えば、「無縁でけっこう」と言ったとたんに、小さな穴があいて魂がぽたぽたっとゆるくもれて行くような感じです。
無縁社会という社会問題は、感情の問題と社会システムの問題というふうに一度は分けて考える必要があります。で、社会システムの問題は社会科学の言葉で考えてゆくことができるでしょう。しかし、感情の問題は、感情の言葉で、ゆっくり考えていかないと、何か間違うというか、必要のない悲惨さに墜ち込みそうな不安があります。やわらかい言葉がほしいなあ。歌になったり詩になったりするような、やわらかくって柔軟で、説明がいらないけれども、あんまり俗っぽくない言葉がほしいなあと考えています。壺井栄は「母のない子と子のない母」とをどんな言葉で書いていたのかしら? 今、手元に本がないので、読み返すことはできないのですが、あの小説は戦争の悲惨とその慰めを書いたものという思い込みで読んでしまいましたが(しかも中学生の時に)今のような、人の繋がりが薄くならざる終えないような時代の物語として読んだらどんなふうに読めるのでしょうか?読み返してみたいものです。
私個人は20代の半ばに母親の介護をしていた時に、口に出してはいいませんでしたが「無縁で死ぬのだな」と内心納得していました。で、「無縁で死ぬ」と納得したら「人の面倒は見られる限りみておかなくちゃいけないなあ」と嘆息しました。だって死んじゃったら、手も足もでなくって「自分のことは自分でする」なんてのも無理だし「人に迷惑をかけない」ってのも無理だからです。なんだか黙っていたことを、言葉にする時期が来ているような気がしないでもないです。
1047 20110215 「日本画の前衛」を竹橋近代美術館で見る。 竹橋の近代美術館で「日本画の前衛」展を見てきました。若い頃から、西洋文化と東洋文化が交じり合う過程に興味がありました。興味があったというより、50歳になっても20代初めの興味が持続しているってことです。なんといっても移り気で、気が多すぎるって年中叱られえていましたから、自分の興味を自分で信用できなかったのですが、30年たっても、それがまだ持続しているところを見ると、たぶん本物。それから、もうひとつは、私と同じような興味を持って、それを地道に研究に結び付けてきた人たちがいるのだなということを感じます。おかげで、ずいぶん「なるほど」とか「謎がとけた」とか、そういうふうにうなづける成果に出会うことができます。
「日本画の前衛」展は戦前の「歴程美術会」の出品作品を中心にした展示でした。ところで、この美術界の「暦程」は草野心平、高橋新吉、中原中也など8人の同人で発行された詩の雑誌の名前として、私の頭に入っています。また、暦程の会は戦後も持続して現在も歴程賞や歴程新鋭賞を出しています。この「歴程」と「歴程美術会」はどういう関係のあるのだろう? と不思議に思いながら、図録解説を読んでいますが、まだ、はっきりしたことはわかりません。暦程賞の授賞式には何度か出かけたことがありますし、晩年の草野心平さんをお見かけしたこともあります。
さて、展覧会ですが、第一次世界大戦が生み出したと言われるシュールリアリズムが、日本では伝統的美術観への反逆という側面が、強く意識されていたことが印象に残りました。さらに、戦争中に画家の視界がよりダイナミックに開かれることに圧倒されました。シュールリアリズムは第2次世界大戦で終焉したという説と、第二次世界大戦後にも引き継がれたという説があるそうですが、日本の場合は大雑把に言って、第二次世界大戦前はシュールリアリズムの光の部分をたくさんに浴び、戦争中にはその光を自ら発する寸前まで進み、敗戦後に欧州が戦場になることで生まれたシュールリアリズムの陰の部分を自らの命と魂と身体で理解したのではないかと言う仮説めいた流れを感じました。詩と絵画の関係も気になるところです。
船田玉樹の「花の夕」丸木位里の「馬」「駱駝」「鷺」「牛」などの絵は見ていて心楽しくなりました。もう一歩進むと装飾的、様式的になりそうな手前で、絵が躍動していて、見る側の想像力が自由に翼を広げることができる絵でした。この展覧会は、竹橋の近代美術館のあと、広島県立美術館に巡回するそうです。船田玉樹も丸木位里も広島出身だということを初めて知りました。もちろん丸木位里は原爆図で世界的な名声があることは以前から承知していましたが、私はその原爆図を見たことがなかったし、あまり見たいとも思っていませんでした。しかし、まだ原爆の惨禍を知らない丸木位里の動物の息使い、気配、存在の迫力をマチエールの中に閉じ込めている絵を見てから、無償に原爆図を見たくなりました。政治的な意味ではない美的な感覚がそこにありそうな気がしてきました。
1046 20110215 伊藤さん、東京は大雪。 伊藤さんが飛行機で青森へ飛び去って、東京は大雪。降り出してから5時間で、救急車で運ばれた人は10人以上。きっとコンビニでは、ホカロンが飛ぶように売れているでしょう。雪用の靴も必要。だって滑るんだもの。ここ、見てる? そんなこんなで、きっと明日の朝の東京は大混乱です。間違いなし。
1045 20110209 毒を仰ぐ もろい夢でした。夢と現の間の敷居が低い夢でした。だから、目が覚めてしまうと、夢の感触を充分に再現することができません。おおまかな筋が残っているだけ。
どんな筋かと言えば、錠剤の毒を飲む夢です。毎日飲んでいるふつうの薬のように、錠剤の毒を飲んで横たわっているのです。こう書くとなんだか神秘的な雰囲気も出てしまいますが、胃薬でも飲むように毒を飲んで横たわっていました。が、効き目がなかなか現れてきません。仕方がないので、効き目が出るまで、ボタン付けをすることにしました。針に糸を通して、糸の端に玉を作る。大きな玉が出来てしまい目立つほどですが、死んでしまえば、コートを使うこともないから、まあ、これでいいかと一人納得していました。
死ぬ間際までボタン付けをしていたのを、後で誰かが見つけたら、さぞかし驚くだろうとか、そんなことを考えながらボタン付けをしていました。
そのうちちょっと用事を思い出したのです。夢の中ですからどんな用意だったのかまでは覚えていません。あ、しまった。毒を飲むタイミングを間違っちゃった、どうしようかな? と迷っているうちに「これは夢ではないか」と疑りだしました。「どうも夢のようだ」と疑りが確信に変わる頃、ふっと「この夢は前にも1回見た」と気付いたのです。「これで2回目だ」と。ここもまだ夢の中。しきりに感心しながら夢から覚めました。
同じ夢を繰り返し見る癖がこのごろはなくなったなあと思っていたところでした。どうも夢の素は、一昨年の心筋梗塞で病院へ運びこまれたときの体験のようです。すーっと意識がなくなって行くときの感触を再現していました。この夢はバリエーションを変えてまた見るような予感がします。
1044 20110207 砂漠の駱駝とニクソン大統領 母がぽつっと「あれがなければ、あんたたちを私立大学へ入れるくらいの蓄えはあったのにね」と言ったことがあります。あれがなければと言うのは、オイルショック後の狂乱物価。インフレでした。そんなことを母が言ったのはいったい何時ごろだったか? 結局私は明治大学の2部へ滑り込みましたし、弟はもともと国立にしかない学部を志望していたから、そんな実害があったという話ではなかったのですが、親としては落胆の表明をしたかったみたいです。
私も弟ももう大学へ入っていたかもしれません。母の胸の中にそんな落胆の固まりがあったのかと、意外な気がして忘れられません。小学校(国民学校ですが)の苦く甘い思い出は学童疎開。苦いほうが先で、苦さをかみ締めていると甘くなるという様子。昭和10年(1935年)生まれの母でした。
オイルショックは何度かありますが、最初の1973年の第4次中東戦争のほうのオイルショックです。ドル・ショックのあとを追いかけるように勃発した原油の値上がりで、なぜかトイレットペーパーや洗剤の買占め騒ぎが起きました。トイレットペーパーを自転車に積んでいたおじさんが、強盗に襲われるなんて、笑いたくなるような事件まであった騒ぎでした。第二次世界大戦が終わって28年。戦争が終わっても物資の乏しい時代が数年は続きましたから、まだ、品物がなくなる恐怖を生々しく持っている人が大勢いたのだなと、振り返って、改めて想像することがあります。母は37、8歳だったわけで、「喉元過ぎれば熱さを忘れるは恥だ」が口癖がでした。
1979年のイラン革命の時のオイルショックの時にはもう大学へ入っていました。
カイロで始まったムバラク退陣運動のデモ隊の中で暴れる駱駝の映像を見ていて、冒頭の母の嘆息を思い出したのです。どこかアメリカのニクソン大統領が大統領支持派にベトナム戦争反戦運動のデモ隊を衝突させた時の様子に似ていました。
オイルショックの時のアメリカ大統領はニクソンでした。ニクソン大統領はアメリカ軍をベトナムから撤退させた大統領です。当時、ベトナム反戦運動が盛んで、これがベトナムからの撤退交渉の障害となると判断したニクソン大統領はテレビ演説で、反戦運動に加わっていない無言の支持者たちに支持を呼びかけます。大統領の呼びかけに応えた、ブルーカラーの人々が反戦運動の学生に襲い掛かるシーンの映像を、私が見たのはずいぶんあとになってからです。ヘルメットを被ったブルーカラーの人々の動きの素早いこと。実にシャープな動き方をして脆弱な学生をぼこぼこにしてしまいます。
エジプトのムバラク支持派とムバラク即時退陣派と衝突の映像で、駱駝を見たとき、このニクソン支持派のすばらしくシャープな動きを連想したのでした。砂漠の駱駝使いはアメリカの労働者よりも、なんだか笑いたくなるような感じもしました。
テレビを使って自身への支持を呼びかけたニクソン大統領は、結局、ウォーターゲート事件で退陣を余儀なくされてホワイト・ハウスを去ります。エジプトから流れてくる情報を断片的に受け取っていると、なぜか20世紀後半のさまざまな出来事が個人的な記憶と一緒によみがえってきます。ウォーター・ゲート事件のあと日本ではロッキード事件が起きます。ロッキード事件のあとはリクルート事件。報道は、しだいにパターン化しました。
中国とアメリカの国交を開いたのもニクソン大統領でした。日本と中国の国交を快復させたのはロッキード事件の田中角栄首相でした。
1043 20110206 雀の写真撮れてました。 飯田橋の外濠土手の雀の写真。撮れてるかな?って思っていたんですが、ちゃんと撮影できてました。このごろのカメラってすごい!
インフルエンザが治った豆蔵君が掲載してくれるはずです。 1043.jpg
1042 20110126 外濠土手の雀 雀もこのごろは核家族化現象なのだそうです。かつては1シーズンに5、6羽の雛を育てていた雀がこのごろは1羽だけ育てるというもの珍しくないとどこかで読みました。なぜ、雛が1羽になってしまったのかは、覚えてないのですけど。へえって思って。
外濠の土手を歩いていたらどこかで雀の声。おやと探してみると、金木犀の木にいっぱい雀がいました。どうやら、最近の核家族育ちの雀たちのようです。地面に降りて餌をついばむのに余念がないといったおおらかな行動には出ないのでしょうか?金木犀の枝から枝を雀が飛び回っていました。自分が生きている間に、雀が核家族になったり、4月の入学式に咲いていた桜が3月の卒業式に咲くようになったり、そんなことが起きるなんて夢にも思いませんでした。
金木犀の枝から枝に飛び回る雀の写真を撮りました。でも、あろうことか、管理人の豆蔵君が新型インフルエンザでダウン。タミフルを飲んで寝込んでいるそうです。残念。去年だったら大ニュースになったのに。ってまあ、こんなことでニュースになんかなりたくないだろうと、思うのですけど。豆蔵君、どうぞお大事に!
1041 20110125 「魚の目」不定期連載「象の鼻毛」 魚住昭さんのウェッブマガジン「魚の目」で不定期の連載始めました。タイトルは「象の鼻毛」です。象って鼻毛あるのか?って。たぶんあります。なかったらたいへん。でも、ふだんはあんまり意識しないし、あってもなくってもいいような感じがするのが象の鼻毛なかというわけで、あってもなくってもいいような気がするけど、なかったらたいへんな感じのあれこれを書いて行くつもりです。不定期だから、次が何時になるのやら。
なにしろ魚住さんにお会いしてじゃあやりましょうってお話をしたのは2010年4月だから、もう忘れちゃってかもしれないって、少々不安になってくらいです。なまじフォルムのしっかりしたエッセイを書いてみたいなんて言ちゃったものだから、なかなか、かけなかったのです。
「象の鼻毛」は「〜です、〜ます」という敬体じゃなくって「〜だ、〜だった」という常体を使うつもりです。ネットは紙の媒体よりも読者に近い感じがして、言うなれば映画じゃなくってテレビみたいな軽さがあるのはおもしろいところですが、常体を使わないと言えないことがあるのではないでしょうか。逆に言えば常体で、日常的に話す人はそんなにいないでしょう。よほどのいばりん坊以外は。だから話す姿勢が、常体は書き言葉の姿勢なのではないでしょうか。で「象の鼻毛」は常体を使うことにしました。
1040 20110118 ダメダメな一日。 あ〜。ダメだ。お金を振り込まなくっちゃいけなかったんだけど、銀行の前を通っていたのに、忘れた。あ〜ダメだ。出席予定の会合を明日だと1日勘違いしていた。というわけで欠席。ひょえぇ。ダメダメな一日だった。
でもそのわりに幸せ。と言うか幸せだったから、用事は全部忘れたって感じ。
ええと、朝起きたときに手を見たら、お婆さんの手になっていた。掌のほうじゃなくって、手の甲のほうが。空気が乾燥しているから、どうしても細かい皺が寄っちゃった、ああああああ〜お婆さんの手になってら〜って感じで寝床の中で眺めとりました。あんまり悪い気はしない。中学生の時は大人の女の人のほっそりした手と指に憧れたんだけど、なんかそういう感じが楽しく思い出せるお婆さんの手になったぞしめしめって感じかな。そうだ、幼稚園のときには狼がばけた赤頭巾ちゃんのお婆さんになりたかったのだと、ついでに思い出す。
で、すっかり幸せになって、用事は忘れたり勘違いしたりでダメダメな一日。夜は、まっしろな蕪を昆布でことこと煮て食べた。ほっこりしたおいしかった。それからテレビで昨晩のサッカーの試合のダイジェスト見て、やっぱり岡崎は好きだな〜って、なんかゴン中山を優しくした雰囲気。でも、いなきゃいけないところにチャンといる目の良さ。すごいじゃん!あ〜ダメダメな一日だ。この手を見よ、お婆さんの手だぞとか言ってみようかな〜。
1039 20110117 寄り道中央線 おまけ3 大阪から近鉄大阪線で名古屋。名古屋から中央本線で木曽福島。木曽福島で1泊。大学生の頃はこんなほっつき歩き方をすると、泊まる旅館で困ったものです。女性ひとりって旅館のほうがちょっと困惑します。それから、まだ団体旅行の名残が残っていて、あまり一人客用のお部屋とかがありませんでした。あと、お風呂。だいたい男性の団体用ということが多くって、女性用はつけたしみたいな貧素なお風呂っていう宿もありました。とことこ出かけて、気持ちの良い旅館に泊まれるのは、たいへんな変化です。
朝はマイナス17度と聞いた宿で「露天風呂があります」って言われても「大丈夫かな」とやや心配。が心配御無用でした。ぬるいお風呂にゆっくり浸かって、外に出ると、まるで夏のデパートに入ったような心地よさ。それからお風呂に再び浸かると、今度は炬燵にもぐりこんだような幸せ。で、露天風呂にゆっくり入っている女性のお客さんがいました。家族連れが多かったのですが、この人はひとりで泊まっている様子です。この頃はどこに行っても、こういう一人でゆっくりお風呂に入っている女の人に出会います。家族連れが多いのは、きっと年末年始が忙しいご商売のお家なのでしょう。
木曽福島から新宿へ。列車は「塩尻」で乗り換えます。特急「しなの」から特急「あずさ」への乗り換えです。JRもJR東海からJR東日本へ。西国と東国の境界というのは、こんなところに残っているのです。木曽福島から塩尻までは特急の停車駅だとひと駅。
今度はだんだん下って行く線路です。右、左に迫っていた山の斜面が左右ともに遠ざかって行きます。山はうっすら雪をかぶっていました。常緑の赤松が目立つ山で、松の緑と白い雪のコントラストが軽やかな色彩を放っていました。空は晴れて、これまた青。列車が雪を舞い上がらせ、舞い上がった雪は金と銀とに輝きます。平地にならぶ冬枯れの葡萄畑が見えてきたら、もう塩尻。
塩尻の駅で乗り換え。若い旅行者の姿が目立ちました。旅行者というより、東京に戻って試験を受ける大学生とか、入試のために東京にでる高校生とか、そんな感じの乗客がホームにずいぶんいました。塩尻の駅では、ホームにトイレがあったことと、そのトイレが暖房されていたばかりか、便座が暖かだったのにちょっと感激。
「あずさ」がホームに入っていると、なんだかもう新宿にいるような気がしました。窓の外に富士山が見えたのは、どのあたりだったか。写真に撮れるかなとカメラを向けてみましたけれど、走っている列車の中からはどうもうまく撮影できそうにありません。そのうち車内は大混雑し始めて、寝てしまいました。
今日の写真は、あてずっぽうにシャッターをおしたら撮影できていた富士山の写真です。これは家に帰ってから「おや、富士山ちゃんと写っているじゃないの」と気伝いものです。あと、法政のボアソナードタワーで撮影した日暮れ。陽が沈むところを撮ろうとしたので、富士山の姿は画面に入っていませんが、茜色の西の空には富士山の姿がありました。
1038 20110116 寄り道中央線 おまけ2 大阪から近鉄大阪線で名古屋に出て、中央本線の特急「しなの」で木曽福島まで行った話はツイッターのほうに書いてしまったので、こちらが「おまけ」になります。ツイッターだと簡単に写真が載せられるのですけど、こちらは管理人の豆蔵君の手を煩わせなくちゃならないので。
名古屋から特急「しなの」で、木曽へ入って行くわけですが、中津川の手前あたりから、トンネルへ入ると耳が詰まるような感じがしてきました。ゆっくりと山を登るのです。もうこのあたりは中山道と平行して線路が走っています。家の感じが近鉄の沿線と少し変わりました。どっしりした瓦屋根が減って、軽い感じの屋根の家が目だってきます。それから、玄関が家の正面ではなく、右の端にある家が目立ちます。玄関わきに長い縁側があるのです。東海道だと、大井川を渡った頃に、家の感じが変わったなあと思うのですが、山を登っているせいか、大井川よりも手前で、家の造作が変わったなと列車の窓のそとを見ていました。
本州中央部の山々を日本の屋根と表現することがありますが、中山道というのはまさにその屋根の上を伝って行くような道です。ただ、大きな川の河口付近を渡らなければいけない東海道よりも、中山道のほうが川止めなどが少なく、旅程が読める道だったそうです。京都から江戸へおこし入れした和宮様も、この中山道を通ったそうですし、朝廷から日光の東照宮へのお使いもこの中山道を通ったと聞いていましたが、想像していたよりも、険しい谷あいの道でした。
中津川の次の特急停車駅は「木曽福島」ですが、中津川を出てしばらくすると、川と道路と線路は併走するようになりました。列車の窓の外を眺めながら、なぜか不快な人物や不快な出来事をぼんやりと思い出したのはこのあたりでした。すごく不快というのではなくって、漢文調で「余を不快にせし人物の顔浮かび来る」みたいな思い出し方。身体が感じた気圧の変化が、そんな心持になって現れたのかもしれません。トンネルをくぐるたびに霧が深くなりました。つい、うとうととして、目が覚めたら、窓の外はうっすらと白い雪が積もっていました。寒そうな山の景色です。
木曽発電所を過ぎると、車内放送が入りました。谷底の川の中央に見える「目覚めの床」の説明の放送でした。川の中央に青みがかった白い長方形の石が何本も立ち上がり、石の上には松の木に囲まれたお堂が見えました。そこで竜宮城から帰ってきた浦島太郎が暮らしていたというのが、車内放送の説明でした。丹後とか丹波に浦島伝説があると聞いた記憶はばんやりとあるのですが、どうしてその浦島太郎は木曽の山の中までやってきたのでしょうか? 竜宮城から帰った浦島太郎の道中はいったいどんなものだったのでしょう? そっちのほうが気にかかりました。前方に真っ白に雪を被った高い山が見えました。どうやらそれが木曽の御嶽山のようでした。そういうわけで、日が暮れないうちに木曽福島到着。私の座席のうしろで、ふくよかなお母さんが、お腹の上に、赤いほっぺの赤ちゃんをだっこして幸せそうにすやすやと寝ていました。
東海道で、関東への入り口は箱根の関所ですが、木曽福島の関所は中山道のちょうど中間なのだそうです、もちろん、関所はいまはもうありません。木曽の御嶽山参りをする人は、木曽福島を足場にしているようでした。V字谷の左右の斜面に代官屋敷と旧関所跡があるというのが木曽福島です。宿へついて女中さんと少し話をしてみると、伊勢神宮の建て替えのときには、木材の切り出しのために大勢の人が集まってたいそう賑やかだったということでした。昔は川へ筏を流して材木は運んだと、それが木曽のなかのりさんと、小学生の頃、覚えた歌の意味をようやく「そうか」と悟ったしだい。秀吉が一夜城を作ったというのも、川上から用意した材木を流して、川下で受け取ったのだと言うのですが、どうも秀吉の独創的な考えだというよりも、日常的な材木の輸送に一工夫加えたものだったみたいだなと、そんなことを考えました。秀吉は川上で、材木をすぐに砦が出来るように加工して川に流したのだと言います。「今朝はマイナス17度でした」と女中さんに教えてもらいました。翌日の朝は少し暖かくって、それでもマイナス10度。10時を過ぎる頃でも、日陰の雪はじゃりじゃりと凍っていました。
木曽福島の町があるV字の谷は朝日が当たる斜面は午前中からけっこう暖かなのですが、日の当たらない斜面もおっそろしい寒さでした。同じ町でこうも違うかとびっくりするくらいの違いでした。
では豆蔵君ご苦労様ですが、写真よろしくお願いします。
1037 20110114 寄り道中央線・おまけ1 中央線と言えば、東京に住んでいる私は、新宿から吉祥寺、三鷹へと延びるまっすぐな線路のイメージがまっさきに浮かびます。立川、八王子あたりまで中央線かな。そこから先は何? と言われても、とくにこれと言ったイメージはありません。
何というイメージはありませんが狩人の歌った「あずさ2号」があるので、信州へ行く電車というイメージも持っています。それが中仙道と結びつかないのは、新宿から甲府を抜ける甲州街道と重なるルートを通っているからでした。一方、中仙道と言えば、板橋宿。私が住んでいる場所からすぐ近くです。板橋宿から高崎、軽井沢を抜けて信州へ出る道であると、知ってはいましたが、東海道のように素直にそのまま京都へと続く電車があるというふうには考えていませんでした。
東海道線には乗り飽きたから、ちょっと寄り道で中央線を通ってみようと考えたのは、もちろん、それを勧めてくださった方がいたからですが「名古屋から中央本線」と聞いたとたんに、木曽を抜けて信州へ出る中山道のイメージが浮かんだからです。これが新宿から信州経由で名古屋へ出るという「くだり」コースだったら「寄り道にしては遠すぎるなあ」と尻込みしたかもしれません。それが名古屋から木曽川のふちを上がって行くというコースだと、がぜん、それ行ってみたいという気持ちになりました。一日で新宿まで到達はちょっときつそうだったので、どこに泊まろうかと探してみると、中仙道の関所、木曽福島がちょうど良い場所にあったというのも魅力のひとつでした。
大阪で「東海道線には飽きたから名古屋から中央線で帰る」と言ったら「新幹線に飽きたなら近鉄に乗ればいいじゃなかい」とこれまた知合いから言われ「それもそうね」と即座に納得。近鉄に乗るために、天王寺から環状線で鶴橋に出ました。駅のホームで名古屋までの特急券を購入。ホームに滑り込んできた特急は、ひたすら生駒山を目指して走り始めました。列車が高架から地上へおりたのは「近鉄八尾」駅を通り過ぎたあたり。生駒山の裾を信貴山の裾のほうへ回り込みでしばらくすると「耳成」という駅を通過したので、ああ、奈良を走っているんだと実感。驚いたのは、そのあとで、巨大な金色の仏像の手前にまっしろなギリシャ彫刻が二対(これもかなり巨大)が並ぶという景色が見えたのです。ぎょっとしました。3体のオブジェはどれも建物の屋根よりも高いのです。家に帰ってから、ツイッターで、これはお寺と美術館のモニュメントであると教えてもらいました。近くには榊原温泉もあるそうです。だとすると、あのモニュメントを目にした時は、もう名張を過ぎて、津をめざしていた頃です。
長いトンネルから広野原へ。だんだら模様に塗られた高い煙突が目立つ四日市をすぎると、広野原を流れるおおきな川を幾つも渡って名古屋に到着。これだけでもけっこな寄り道でした。
近鉄の名古屋駅を出て、さてこれから目的の中央本線で特急「しなの」に乗ろうという時、見つけたのです。おやつカンパニーの「いろいろベビーラーメン」。韓国のり味とか、黒胡椒味とか、復刻ベビーラーメンとかいろいろ入った大袋で500円。安い! 買おうかな? でも大きすぎる。と迷ったあげくに買っちゃいました。というのも、おやつカンパニーは三重県の津にある会社だと知っていたからです。だから近鉄の改札を出たらもう「ベビーラーメンいろいろ」は売ってないかもしれないと考えて買っちゃいました。そして巨大ベビーラーメンをむりやりキャリーバッグに詰め込んだのでした。
写真は巨大ベビーラーメン詰め合わせのおまけに入っていたトランプ。けっこう気に入ってます(笑)それからもうJRのホームに入っていた特急「しなの」。昼を過ぎた頃だったので、お客さんが列車に乗り込んでお弁当を食べていました。
豆蔵君、写真、お願いします。
あがりましたー(豆)
1036 20110112 水餅を作ってみた。 考えてみると川越街道沿いに住んでもう30年になります。いちばん、長く住んでいるけれども、仕事は電車に乗って都心へ出てしまうし、親戚は金沢八景を中心にした横浜市内が多いし、高校までの学校友達は千葉の館山にいる人が多いといった具合で、自分が住んでいる場所とのつながりは30年も住んでいるという積み重ねはあまりないような、こころもとなさです。
それでも、川越街道沿いのお店は、馴染みになった家具屋さん、花屋さん、お菓子屋さんといろいろあります。布団屋さんはいつの間にか店を閉めてしまいました。去年の夏ごろ、突然、休業して心配した花屋さんには、お正月の花が賑やかに並びました。今度は家具屋さんが「しばらくお休みします」の張り紙です。誰かご病人でも出たのでしょうか? 気にかかっています。
水餅の作り方を、お供え餅を買ったお菓子屋さんで教えてもらいました。かびてしまったお供え餅でも、きれいなお水に漬けておくと良いと。7日から大阪へ出て、帰りはちょっと寄り道で、中央線を辿って東京に戻ってきたので、お供えを水餅にしたのは10日の夜。鏡開きの日ですから、ちょうど良いといえばちょうど良いのですけど。かなり黴ていて大丈夫かな?と水に沈んだお餅を眺めていました。今朝になると、黴は水に流れてきれいになっていました。お餅は、2センチ角くらいに割れていて、これを網であぶってみたら、おいしいこと。ちょっと香ばしくって、おせんべいほどには硬くなくって、なかなかでした。
月に2回ほど大阪へ通いだして4月になるとまる3年になります。夜の東海道線を新幹線「のぞみ」でびゅっと飛んで行って、翌日、また「のぞみ」で大急ぎで戻ってくるっていう道中にもちょっと飽きが来てました。これまでも、「行き」はともかくも、「帰り」は時間があれば京阪で京都に出たりしていたのですが、もうちょっと遠走りがしてみたくなりました。中央本線を使うことを勧めてくださった方がいて「そりゃ、いいわい」とばかり寄り道道中で大阪から帰ってきました。
「寄り道中央線」の話はツイッターのほうでどうぞ。 1036.jpg
1035 20110106 本屋さんに行く しばらく行ってなかった近所の本屋さんに行きました。電車の時刻表が欲しかったのです。以前は毎月買っていた時期もあったのですが、目的地がはっきりしている場合は、ネットの検索で充分に間に合ってしまうので、いつか時刻表を買わなくなりました。
今年は7日の週末から大阪です。その帰りに名古屋から木曽谷を辿って中央本線に乗ってみようという気になりました。電車に乗るだけなんてときには時刻表は1冊持っているとたいへん便利です。気紛れができるから。電子ブックのようなものとか、スマートフォン、あるいは携帯を使いこなせれば時刻表もいらないのかな。そうなのかもしれませんが、気紛れに電車に乗って行くのにそんなに便利じゃなくっても不自由はしません。
本屋さんに行ったら、NHKの「無縁社会」の本が目につきました。ずいぶん前に、社会的地位は引退したら「ただの人に戻るのが理想」って話をしてくれた弁護士さんがいました。飲んでいる時の雑談ですから、ちょっとした理想論だったのですけど、その理想論で少し引っかかるところがあったのです。仕事は仕事、私的生活は私的生活って完全に割り切っちゃったいいのかなあ?っていう疑問です。たいていの人は、自分の仕事のために多くの時間をさいているのに、その仕事から退いたら何の人間関係の財産も築けていないとしたら、それはとっても「へんちくりんな」ことなんじゃないかと、その時に感じました。
弁護士とか政治家とか大学教授とか、そういう職業の場合は、仕事と私的生活を分割しちゃっても、あとになんらかの職業上の人のつながりという財産が残るでしょう。そういう職業の人が考える「理想」と、そうではない人々が考える「幸福」って違うんじゃないでしょうか?あえて「理想」と「幸福」っていうふうに単語を置き換えてみたんですが。どんなものなのでしょうね?お正月に息子や娘たちと話す機会があったのですけれども、人間関係の作り方に工夫がいる時代になったなあと、それぞれに感じているようでした。
「人間は生まれるときも一人だし、死ぬときもひとりだ」ってよくそう言う言葉を耳にしたこともあります。男の人はこの文句が好きなようですが、逆に言えば一人で人の手を煩わせることなく生まれることができる人はいませんし、死ぬときは一人でも、あとの始末は誰かにしてもらわなければならないってこともあります。
生死(いきしに)の「世話をする」とか「面倒を見る」というのは職業的な仕事として割り切れないところがいっぱいあるように思えるのですが、どんなものでしょうか?このごろ、自分の感じていることをうまく言葉にできなくって少し困っています。
古典を読んでいると社会保障なんてない時代ですから、登場人物はみんな個人的な人間関係を築くのにそれはそれは奮闘努力しています。テレビが出来ても映画が滅びなかったように、電子末端が発達してもたぶん本はなくならないって話と、古典の登場人物が人間関係を築くのに、それはそれは奮闘努力しているのはちょっと似ているかもしれません。充分に整備された社会保障が出来たとしても、古典の登場人物のような人間関係の財産を気付く奮闘努力がいらなくなってしまうっていうわけではないのでしょう。
1034 20110105 ありゃ。ごまめ。 鯛の塩焼きを買いたいなと、探してはみたものの、いつもの年ならぞろぞろ売っている鯛の塩焼きがありませんでした。あれは、まずいものの代表みたいに言われることもありますが、硬い身を突っついて食べるのが好きです。それから3日の夜に大根、人参、小松菜(つまりお雑煮の具ですね)で鯛の鍋をやるのも好き。鯛の骨から良い出汁がでます。
鯛を買い損ねたから、なんとなく、お正月の買い物に気合が入らず、ちょろぎも買い忘れました。鯛と同じでちょろぎもあっちこっちで売っていれば買い忘れることもなかったんだろうって気がします。ちょろぎは娘の大好物。ってなんかヘンだけど。好きなんです。うちの娘はちょろぎが。いつも「ああ、高い」と驚く野菜類は、春の寒さ、夏の暑さ、どちらも異常なほどだったので、それほど高価とは感じませんでした。相対的なものですけど。どれより野菜が豊富に出回っていることに安堵感がありました。もっとも、小松菜などは、いつもの年よりもにょきにょきと伸びた物ばかりでした。土の温度が高くなっているので、冬の野菜や花が必要以上に丈を伸ばしてしまうとのことでした。八百屋さんや花屋さんで「植物は正直なのねえ」とため息。
さて、さて、そんなお正月も終わりですが、戸棚に見つけました。「ごまめ」。あのごまめの歯軋りのごまめです。お正月の買物は乾物→塩干類→練り物→野菜→生もの、お花という順番でして行くのですけど、「ごまめ」は黒豆と一緒に買っておいて、すっかり忘れてました。そのまま、戸棚の中に。
しょうがない。まだ七草のおかゆもあるし、10日は小豆粥の日だから、ごまめを作っておこうっと。
元日に遊びに来た甥っ子が「養命酒飲みたい」って、それはお屠蘇のことでした。同じようなものですけど、おばさんちで飲んだお屠蘇を覚えてくれていたので、ちょっとうれしくなりました。
1033 20110103 莫言さんの字 揮毫。えっと、どうしよう。というのが正直なところで、墨だの筆だのが出てくるたびに「ややや。また、出た」と困惑するのは、私だけではなく、日本の作家や詩人はかなりの人が内心困ったなあという気分を味わっているようです。絵がちゃっちゃと描ける人はうらやましい。字も駄目だけど、絵も駄目。そのうえ気の利いた文句はとっさには出てこない。と、かなりの「困ったものだ」ものであります。
そこへ行くと中国の作家はそろいもそろって見事な字を書きます。莫言(ばくげん 中国風の読みではもーやん)さんにいたっては、右手でも左手でも、字を書くことができるのです。急ぐときは両方同時! 2008年のソウルのときにも、それを見て「どうして、そんなことができるの」と感嘆したものでした。今回も。何度見ても「はあ」と感心するばかり。
莫言さんは中国の参加者から「モウモウ」と呼ばれてました。親しみをこめた呼び方のようです。親しみがありしかも尊敬されていることが、そばで姿を見ていてもわかりました。 1033.jpg
1032 20110102 謹賀新年 あけましておめでとうございます。
ウン・ヒギョンさんのしましま靴下の話を書こうと思っているうちに、年が明けてしまいました。山陰では大雪で、雪の中に車が閉じ込められたり、孤立した村があったりで、たいへんな様子です。
北九州市での東アジア文学フォーラムの関連行事として、ウン・ヒギョンさんとは、市内の中学校へ、キム・インスクさんとは下関市の高校へお話をしに出かけました。どちらもおもしろい経験でした。
ウン・ヒギョンさんとは2000年に青森で開かれた日韓文学者会議でご一緒したのが最初の出会いでした。それまでの韓国の女性作家とは違った雰囲気を最初に感じたのは、エレベーターの中で出会った時、お互いにカタコトの英語で「ベリー タイアッド」と、ほぼ同時に言って大笑いした時でした。で、お会いする度にだんだんスカートが短くなるウン・ヒギョンさんです。若返るっていう言葉がぴったり。でも息子さんとはだいの仲良し。腕を組んでいる後姿の写真を見せてもらいましたが、なんだか恋人どうしみたい。さて、今度はどんなファッションで現れるのだろう? と思っていたら、レセプションでは赤いストッキング、翌日はしましま靴下でした。「なるほど、そう来たか」でした。
だってスカートはこれ以上短くはできないというところまで行っていたのですから。
会議や宴席では、あまり個人の来歴を聞くことがないので、中学校でウン・ヒギョンさんにお話をしていただいて「30歳過ぎるまではごく平凡に生きてきて、子どもが出来てから小説を書き始めた」ということを知りました。そうか、ファッションが若返るのは、韓国社会の変化とウン・ヒギョンさんの変化が一致していたからなのかと納得。
さすがに北九州市は韓国の釜山へのフェリーも発着している町だけあって、中学生の韓国や韓国語への関心は東京よりも高いくらいのものを感じました。「一目ぼれです」と言う文例を韓国語を覚えてきた男子生徒もいてウン・ヒギョンさんも大笑い。
スカートの話をしたら「次にお目にかかるときにはビキニにしますね」というお返事。こういうウィットに富んだウン・ヒギョンさんだから息子さんとも仲良くやっていけるのでしょう。
最後に中学生の代表の生徒がお礼の言葉を述べてくれました。事前に用意した原稿を読むのではなく、私とウン・ヒギョンさんの話の内容を要約し、それに感想を加えてくれました。この挨拶にウン・ヒギョンさんはたいへん感心していました。
同じ日の午後。関門海峡を渡って下関へ。関門海峡は狭いところで5キロくらいとのことで、橋を渡るときにちらりと瀬戸内海の眺めを見ることができました。高校へご一緒したのはキム・インスクさん。
大学1年生の時から小説を書いているキム・インスクさんです。
「傲慢と言われるかもしれませんが、私は小説家になろうと思ったことはないのです。ジャーナリストになりたいと思っていました。大学の学部もそのつもりで選択しました」
そういうキム・ヨンスクさんに私がびっくり。韓国の作家の率直さに驚かされるのは、これが初めてではありませんが、感じていることがまったく同じという人に出会ったのは初めてだったので、度肝を抜かれました。私も小説家になろうと思ったことはないのです。高校を卒業した時に自分の本を1冊作れればいいなと願望していただけです。何時だったか?たぶんまだ大学生の頃ですが、それを率直に話したら、こっぴどく叱られて、それ以来、そう言う気持ちは人前で話したことがありませんでした。思わず、率直で勇気のあるキム・ヨンスクさんの手を握り締めたくなるくらいでした。
この学校では質問に立った生徒が美しい韓国語を喋ったので、拍手をすると
「留学生なんです」
とのお答え。韓国が近いので、高校から日本へ留学する人もいるとのことでした。やっぱり北九州それから下関は朝鮮半島を含むユーラシア大陸に近いのです。
それにしても、以前の、つまり私が高校生や中学生だった頃には考えられないくらい、今の中学生や高校生は「話を聞いて、自分の意見を述べる」ということがうまくなりました。驚いてしまいます。感心してしまいます。 1032.jpg
1031 20101228 井上ひさしさんと安宇植さん 井上ひさしさんが亡くなられたのは今年4月でした。私は「ひょうたん島」を夢中になって見ていた世代です。井上さんが読売新聞に連載されていたモッキンポット師の話を読んだのは小学校だったか中学校だったか? 新聞連載というものを読み始めた最初の頃のことでした。そもその、その新聞連載を読み始めたのは、私の母が声を出して笑いながら井上さんの文章を読んでいたことに興味を持ったからでした。「ドン松五郎の生活」を連載される前のことでした。
井上ひさしさんの芝居によく誘ってくださったのは、明治大学のときにゼミを担当していただいた生方卓先生。生方先生は井上ひさしさんの大ファンと言っていいでしょう。新作のお芝居がかかると、よく誘っていただきました。
東アジア文学フォーラムでは、顧問をお引き受けいただき、08年にソウルへ御一緒させていただきました。
昨日、韓国文学の翻訳家であった安宇植さんの訃報をネットで発見しました。10月にウン・ヒギョンさんの作品の翻訳のことで、教えていただきたいことがあって御連絡を差し上げたのですが、入院中とのことで、てっきりもう御元気になられているかと思い込んでいました。東アジア文学フォーラムは、1991年からの日韓文学者会議の経験があって、そのうえで運営されているフォーラムです。安宇植さんは日韓文学者会議にはたいへん力を貸して下さいました。それから韓国の優れた作家を日本へ紹介してくださったのも安宇植さんです。
安宇植さんと、青森で、青函連絡船の埠頭を歩いたのはたぶん1999年の秋のことだったのではないかと、頭の中で指折り数えてみました。翌年の2000年に青森で、日韓文学者会議を開催するために、青森に打ち合わせに行ったときのことです。晩秋の良く晴れた午後でした。海が群青色、空は瑠璃色。いずれも北国特有の冴え冴えとした色をしていました。
井上ひさしさんと安宇植さんのご冥福をお祈りいたします。
1030 20101217 門司港ホテル 北九州では雪が降ったそうです。東アジア文学フォーラムの会期中のぽかぽか陽気がうそみたいな寒さになりました。
フォーラム参加者は門司港にある門司港ホテルに宿泊しました。設計者はアルド・ロッシです。リンク先に門司港ホテルの設計についての記事と夜景の写真があります。
写真は駅に向いている正面玄関です。港のほうは、鮫をイメージした設計だとのことです。私はこのホテルの窓の作りが気に入っています。やや大きめの四角い窓が左右に開きます。窓枠は水色に塗られていて、その窓に緑色のカウンターテーブルが作りつけになっています。窓から一日中でも港や海を見ていることができるような作りです。そして、そのちょっと大きめの窓は海を見るための額縁の役割を果たしているのでした。水色と緑の組み合わせは、日々刻々と変化する海の色を、どんな時刻のどんな色合いにも美しく見せる効果を持っています。
私は9階に宿泊していましたが、9階エレベーターホールの窓の向こうに群青色に澄んだ朝の海を見たときははっと胸を突かれたものでした。
豆蔵君、すみません。またリンクをお願いします。 1030.jpg
1029 20101201 中国と韓国の現代文学撰集 トップページで紹介した『中国現代文学撰集 イリーナの帽子』と『韓国現代文学撰集 いまは静かな時』の新刊案内が版元のトランスビューのHPに出ました。
【新刊のご案内1】12月1日発送開始『イリーナの帽子 中国現代文学選集』東アジア文学フォーラム日本委員会・編 本体2000円 5つの短編、1つのエッセイ、1つの詩篇を、作家別6分冊に収め、解説冊子を付す。
【新刊のご案内2】12月1日発送開始『いまは静かな時 韓国現代文学選集』東アジア文学フォーラム日本委員会・編 本体2800円 韓国の代表的現代作家の自選作品集。10の短篇と1つの詩篇を、作家別10分冊に収め、解説冊子を付す
中国は6分冊、韓国は10分冊がひとつの箱に収まるという装丁です。1作家1作品。それぞれ小冊子になっていますから、持ち歩くいて読むのにも便利です。また分冊単位の販売もトランスビューに直接申し込めば可能だとのことです。ただし、解説冊子は分売不可。中国は島田雅彦さんが、韓国は私が解説を書いています。
新しいスタイルの本のデザイナーは須山悠里さん。
こちらに須山さんのHPがあります。
須山さんには中国と韓国の現代文学撰集のデザインだけではなく東アジア文学フォーラム in 北九州のチラシ、ポスター、プログラム、資料集、朗読会テキストなど全てを関連性と統一性のあるデザインにしてもらいました。ちょっとたいへんだったみたいです。須山さんの日記を読むとそれが解って恐縮。
ポスターから始まり撰集までデザインの統一性を持たせるという態度も、撰集を小冊子の分冊にするというアイディアももとは詩人の平出隆さんが提案したものです。全体がそれぞれの個性を主張しながら、バランスの良いハーモニーになっているというデザインになっています。
あとで豆蔵君に写真を入れてもらうつもりです。豆蔵君、師走に入って忙しいでしょうけれども、どうぞよろしく。あと、アドレスにリンクを貼ってもらえるとうれしいんだけどなあ。
へぇーい。(豆) 1029.jpg
1028 20101130 このごろ食べた物。 大阪で伊藤比呂美さんと話していて「生ワインを飲んだ」と言ったら「それなんで書かないの」と言われてしまいました。
食べる物の話を書くとき、いつも、頭をよぎることがひとつあります。それは、有名な輸入食品を扱うお店のPR誌に原稿を書いたときのことです。まだ原稿は原稿用紙に手書きの時代で、出来上がった原稿を家まで取りに来てもらっていたころです。PR誌の原稿をとりきてくれたのは年配の女性の編集者でした。あれこれと話込むうちに
「私、ほんとうは食べ物の話が嫌いなんです」
と打ち明けられました。オリジナルな缶詰や瓶詰め、それからジャムなどで有名なお店ですから、これにはちょっとびっくり。でも、食べる物の話はやたらにするものではないという戒め、今の言葉で言えば教育があったのを、その人とお話しているうちに思い出しました。
食べ物の話は下品だという教育がある時代までは、それほど古い昔ではなく、存在していました。今でも、そういうお家はあるようです。
「食べ物の話は一番安全な話題なんだよ」と、これはもう、まったく逆の話になりますが、こういう知恵を授けてくれたのは吉行淳之介さんでした。私の家もどちらかといえば食べ物に「あれこれ言ってはいけない」「好き嫌いと言ってはいけない」「あれが食べたいこれが食べたいなどと言ってはいけない」という家でしたから、吉行さんの話を「へえ、そういうものか」と聞いたのでした。吉行さんの言う安全な話題というのは「政治」や「経済」や「宗教」などの意見が対立しやすい話題にくらべれば「食物」の話題は安全で、その場にいる人がみんな楽しめると、そういうことだったのでしょう。
吉行さんの授けてくれた知恵は、いろいろな立場の人と社交的におつきあいしなければいけない男の人の感覚。それにたいして「食物のことをあれこれ言うな」はお台所を預かる女の人の感覚。そんな感じなのでしょうか。
で、生ワイン。葡萄の実が入ったままのワインをその場で絞ってもらって飲みます。最初は白濁しているけれども、みるみるうちに透明になって行きます。母とドイツを旅行した時、ロマンチック街道にあったワイン・カーブで飲んでいらいの生ワインでした。最初は葡萄ジュースのようなさわやかな味。それからだんだんお酒らしさが舌の上を転がりだすのです。
伊藤さんたちとてっちりと串カツ。これは伊藤さんのコラムにあるとおり。フグはやっぱり大阪がおいしい。ワニの串揚げもちょっぴり食べさせてもらいました。弾力のある豚肉のような感じ。このごろ食べた物です。
1027 20101129 このごろ、会った人、このごろした雑談 11月21日にフォーラム神保町の世話人会で、元外交官の佐藤優さんと雑談しました。ロシア大統領の北方領土訪問を巡って、外務官僚の対応がたかを括ったものであったことなど、聞いているとなんとなく清朝末期の宦官みたいな感じだなあと私の感想。それから、「龍馬伝」と「坂の上の雲」が人気なのはその間の日清戦争の頃と状況がよく似ていることなどが話題に出ました。佐藤さんは日露戦争と言っていましたが、幕末と日露戦争の間なら日清戦争かなと、勝手に解釈。もっとも「坂の上の雲」は日清戦争も描いていますから、正確に言えば幕末と日清戦争の間に状況が似ているということになります。
とは言え、清朝末期の宦官のような役人がいるのが日本で、国を挙げて「坂の上の雲」を仰いでいるのが、中国では、100年前と攻守が逆転しています。この雑談、ちょっと気になっていました。それで、あとから思い出したのですが、今年の2月頃、ちょっと怪しい人物に会った時、この人はなにかのブローカーのような仕事をしているらしい日本人なのですが、しきりに「大清帝国の再来」ということを言っていたのです。自分の考えたというよりも、誰かの受け売りをしているようで、いったい何を言っているんだろうと、受け流してしまいましたが、佐藤さんと雑談しているうちに、誰かが「大清帝国の再来」なんていうことをイメージしていること自体が、何事かであるという気がしてきました。
最初にフォーラム神保町の世話人会の日付を入れたのは、11月23日に韓国の延坪島が北朝鮮から砲撃される以前の雑談だったことを示しておきたかったからです。私の身の回りでは、この件に関してはたいていの人の口は重くなっています。雑談の種にするには、深刻過ぎる事態が進行していますから。ソウルの姜英淑さんからは「ぜんぜん問題ない。。。話したい。。。よくわからない」というツイッターでのお返事を11月25日にもらいました。ソウルはいつもどおりに、日々の仕事に忙しく過ごしているのでしょう。私も姜英淑さんとはぜひお会いして、お話がしたいと思っています。こんな「わからない」要素がある時は、会って話すのが一番良いのですから。現在、行われている米韓の海上演習が終わる12月1日になれば、もう少し何か感触が判ってくるかもしれないと、考えています。でも、私の耳には首を傾げて「わからない」と小さく呟く姜英淑さんの声が聞こえています。
11月27日。大阪の新世界で久しぶりに大阪女性文学者協会の尾川さん、それから伊藤比呂美さん、それに伊藤さんのお友達と「てっちり」を楽しみました。伊藤さんはなぜか「新世界」を「新天地」と間違えるのです。まあ、アメリカに行ったり来たりしている伊藤さんにすれば「新世界」はすなわち「新天地」でしょうから。山形で食べた洋ナシのラ・フランスを「おふらんす」と間違って伊藤さんが覚えたときも、確かになんとなく「おふらんす」って感じがするなあと思ったものですが。伊藤さんから「豆の葉」をぜんぜん書かないじゃんって叱られました。確かに律儀に書いているのは伊藤さんばかり。それから私がツイッターのハッシュ・タグの「#kobuta3」を「#kobura3」とやっちゃった時、「コ、コ、コブラになっています」と至急報で教えてくれたGo-toさんは伊藤さんのお友達で、今度、新世界で初めてお会いしました。初対面でしたが、「コブラのGo-toです」って、すぐに解りました。(笑)みんなで屈託なく雑談したり、笑い話したりできる世の中ってしあわせです。
私(中沢)、平田俊子、伊藤比呂美の3人のリスト「三匹の子豚」は「豆の葉」の左のリンクから見ることができます。また「三匹の子豚」のハッシュ・タグは
#kobuta3
です。今朝ほど豆蔵君にハッシュ・タグの登録をしてもらいました。もっとも伊藤さんはまだハッシュ・タグの演習中であります。
1026 20101121 電子書籍 電子書籍に興味はありませんか?とよく聞かれます。電子書籍に興味はあります。でも、紙の本と同じものを電子書籍でやろうという気にはなれません。もし電子書籍で、何かをするなら、電子書籍の特性を生かした何かをしたいものです。
電子辞書は単独のデバイス、携帯からのアクセス、PCからのアクセスといろいろな形態で、すでに多くの利用者を得ています。それは検索機能が、まさに辞書にぴったりのものだったからでしょう。道具がその道具の持っている特性を発揮すれば、道具は単なる道具以上の働きをします。では、もし電子書籍をやるとすればどんなことができるか?どんなことがしたいか?を考えてみました。
さしあたりやりたいのは、インタビューです。今、一番、インタビューをしてみたいのはデザイナーのヨーガン・レールさんです。自分で自分の服を買うようになったのは中学生の頃からですけれども、それからずっと気紛れに、ときには衝動的に、いろんな服を買ってきました。それで解ったことは、私が着るものを買うときは、洋服のデザインも見ていますが、同時に生地に興味を持っているのです。天然素材にこだわるわけではありません。科学繊維も、長足の進歩を遂げていて、こんな生地ができるのかと驚くほどです。で、生地に注意を払っているデザイナーのものには自然に手が伸びます。あとデザイナーでインタビューをしてみたいのは、ヨージ・ヤマモトさんです。やはり生地の使い方が好きです。
インタビューはおもしろい言い回しがあったり、なんでもないことでも、それを言う時の表情がすばらしかったりしても、文字の原稿におこすときに、ずいぶん削らなければならないことが多いのです。電子書籍ならば、書籍といいながら、テレビのようにインタビューそのものを見せることが可能でしょう。それから話題になっている服や生地を画像で見せることも可能でしょう。テレビのように時間の制約にしばられることもなく、編集することもできるようです。生地を見せたい場合に、手で触った感触を伝えることはできないでしょうが、撮影を工夫することで、感触を想像してもらえるような画像は作れるかもしれません。五感のうちで、「観る」と「聞く」は紙の本よりもずっと、多様な表現ができそうです。
クラフトのマーケットなども、取材して電子書籍にしてみたら、おもしろいだろうと想像しています。クラフトのマーケットは以前から、出かけて行きたいと望んでいました。例によって、写真をとるのが苦手、ましては動画撮影なんて、絶対にできっこない私ですが、もし電子書籍のコンテンツを作るなら、写真や動画は誰かと協力してやれば良いなあと思っています。映画を撮るよりも、テレビ番組を作るよりも、ずっと軽やかに、映像撮影者との協力関係が築けるのではないでしょうか?
紙の本にも、映画にも、テレビにも、やれなかった新しいことができるなら電子書籍のコンテンツを作るのも楽しいでしょう。あ、そうだ。詩人の朗読会も電子書籍で制作するコンテンツのひとつとして興味深いものが作り出せるのではないでしょうか。
1025 20101118 かんぴょう巻き ツイッターで皆さんにかんぴょう巻きを食べますか? とお尋ねしてみた。
大阪へ行くようになって、東京と違うなあと感じたことは幾つもあるけれども、お寿司屋さんもそのひとつ。もっとも、東京の寿司屋は特別な感じがして、そっちのほうが珍しいのかもしれなと思わないでもない。岡本かの子が「鮨」で描いているすし屋は東京のすし屋だ。御常連さんが、大将から秘密の旨いものを御常連さんたちに出すようなすし屋だ。あまりたくさんの量を食べられなくなった大人が、贅沢と気ままとわがままをいう店。それが東京のすし屋。慣れない客にはちょっと気難しいところもあるのが東京のすし屋。それを岡本かの子は「鮨」でうまく描いている。
大阪はすし屋さんはもっとざっくばらんで、飲み屋に近い。飲み屋に、〆のお茶漬けや焼きおにぎりがあるような感じで、おすしも握っていますというところ。鯖の押し寿司や太巻きがあるのも、大阪のすし屋さんの特徴。太巻きの中には干瓢の煮たのも入っているところもある。なのになぜか、かんぴょうを細く巻いた巻き寿司がない。そこで、ツイッターで皆さんに「かんぴょうの巻き寿司を食べますか」とお尋ねしてみたのです。
東京、神奈川、茨城と首都圏、関東一帯では、かんぴょうの巻き寿司はあくありふれた当たり前の食べ物。もちろん栃木でも。栃木はかんぴょうの大産地。それから北海道と新潟からも「食べます」というお返事をいただきました。運動会と遠足にはかんぴょうのお寿司が決まりというのは、私が子どもの頃と同じでした。子どもには、かんぴょうの海苔巻きと玉子を持たせておけば良いという雰囲気もあって、それで、私は思春期の頃、かんぴょうの海苔巻きが嫌いになった。ご飯に甘い煮物が入っているなんて嫌だなと、あまり、かんぴょうの海苔巻きに手を出さなくなったのだけど、あれはひょっとしたら反抗期の現れだったのか? 海苔巻きと言えば、かんぴょうと胡瓜の入ったかっぱ巻きが定番。かっぱ巻きのほうは決して嫌いになることはなかった。
信州、尾張、三河、岐阜、富山と、かんぴょうの海苔巻きは良く食べますよとお返事をもらった。あまり食べませんねというのは長崎、それから愛媛。食べたということは思い出に繋がっているけれども、食べないということは「思い出しもしないし」「考えてもみない」ということになるので「食べません」というお返事は貴重でした。はやり西のほうではそれほどかんぴょうの海苔巻きは食べない様子。それでも鹿児島では食べましたというお返事もありました。
かんぴょう巻きにわさびを入れてもらって、ちょいちょいとつまむというオツな食べ方を教えてくださったのは戸矢学さん。戸矢さん、御元気そうでなによりです。思春期にご飯の中に甘い煮物を入れるなんて、とかんぴょうを敬遠した私も、どうやら、またかんぴょうの巻き寿司に回帰。大阪では珍しいと知ると、なにやら貴重に思えてきて、東京のかんぴょうの巻き寿司がおいしくなりました。今度、お寿司屋さんで「わさびを入れて巻いて」と頼んでみます。
御協力いただきました皆様どうもありがとうございました。
1024 20101116 装丁。造本。製本。 本の装丁の仕事をしている人から、紙や栞、のどぎれなどの資材の種類がしだいに少なくなっているという話を聞きます。また、印刷の歴史は良く調べられていて、その関係の本もたくさんあるのですが、造本の歴史となると、あまり本がありません。そうこうしているうちに、造本でなくって、製本で調べたところ、東京製本組合の組合史の本があることがわかりました。「造本」じゃなくって「製本」。実際に製本をしている人の立場から見れば「製本」です。
詩人の平出隆さんから、最近のお仕事の案内をいただきました。本を作っている。つまり造本です。詩人が本を作ると言えば、詩集を出すことをまず考えますが、「最近の仕事」「造本」という言葉で平出さんはご自分の仕事を説明しています。装丁家と詩人で「本」を「造る」ということをすごく意識しているのでしょう。
作品の出来上がりはいったい「何時なのか」ということを時々考えます。小説の場合は「最後の行を書き終えた時」とか、あるいは丁寧な人になると「完」の文字を書き終えた時ということで、一応の完成となるでしょう。でも、それはあくまで一応の完成に過ぎず、どんな場所に作品を発表するのか、どんな形の物に仕上げるのかということが、そのあとに残っています。私の場合は自分の作品はやはり「本」にしたいと思います。電子メディアではなくって、電子ブックではなくって、紙の本にしたいのです。紙の本にする時、もちろん印刷も重要な要素です。デザインも重要な要素です。が、もっとも重要なのは、それが本という形態になること、つまり製本されることなのではないでしょうか?そう思うと造本と言う言葉はおもしろい言葉です。
1023 20101115 私がデジカメだ。 以前、使っていたデジカメのバッテリーを入れたままにして、調子を狂わせてしまいました。2代目を買ったのだけど、これはあまり使わず、さらに3代目を購入。イギリスに持って行ったのは、この3代目です。ですが、それっきり、あまり写真を撮っていません。
写真が嫌いなんですか? って尋ねられることがあります。嫌いではないのですが、なんだか撮影しようという気になれない。たぶん、自分がいる場所で、撮影をすると「傍観者」的になるのが、ちょっと〜なのかもしれません。姜英淑さんが「k2旅行記」で書いていますが、撮影だけで満足してしまって、見るものも見ないという感じになることがあるからでしょうか?あと、もともと小説を書こうと思うような気質を持っていると、それそのものが傍観者的な要素を含んでいるということもあるでしょう。「私がデジカメだ」なんてね。
今日この頃は、その「私がデジカメだ」の私の頭が、あんまり記憶をしなくなっちゃたのです。5歳のときのことなら鮮明に覚えているんだけど、昨日のことはすぐ忘れてしまう。眼も、人工水晶体を入れたほうは、曇りなく見えるけど、生まれてからずっと使っている天然のほうは、セピア色に曇っているし、これがけっこう幸せなのです。ややはた迷惑だけど。なに、面倒さえ見てくれれば、なにもかも、デジカメのように記憶して、いつまでも執念深く怒っていたり、嘆いていたりするよりはずっと幸せってものです。それに、すごく昔の5歳くらいのときの光景が、今の世の中に2重写しで見えていたりするから、それはそれですこぶる楽しいのです。
それでもせっかく買ったカメラだから、今年の紅葉をちゃんと撮影しようと思っています。まず充電しなくっちゃね。
1022 20101114 伊藤さん お土産です。 
大阪芸術大学キャンパスの紅葉です。なんかこの写真じゃあ、よくはっきりしません。ごめんなさい。あとで黄色くなった銀杏の写真を豆蔵ちゃんに貼ってもらいます。お天気がよくって陽がさすと、赤くなった葉っぱが輝いてみえます。
大阪芸術大学へ行くときは近鉄「阿部野橋」駅から河内長野行きに乗るか、もしくは「吉野」行きや「橿原神宮」行きに乗って「古市」で乗り換えて、「喜志」でおります。でも昨日は電車で本を読んでいたら、「古市」での乗り換えを忘れて、次の「駒ヶ谷」まで行っちゃいました。畠の中の小さな駅でした。かすかに靄がかかっていて、靄の中に稲藁を焼く煙の匂いがしました。学校へ行きたくなくなちゃった。 1022.jpg
1021 20101112 靖国神社の紅葉 秋が深まってきました。と言いたいのですが、今年は「秋が深みにはまりました」とでも表現したくなるような具合に、いきなり、どぼんと寒くなりました。急激に気温が下がった年は紅葉が見事になります。
春はいつまでも寒く、夏はあまりにも暑いという極端な天候でしたから、今年の紅葉はどうかな? と危ぶんでいました。この急激な寒さは、木々を色づかせる力があったようです。靖国神社の森はしだいにその色を濃くしています。このまま行けば、見事な紅葉を見ることができそうです。突然、台風がやってくるなどの椿事がないとは限らない今日この頃のお天気ですが。
三島由紀夫の「仮面の告白」は、三島が書いた最初の長編です。24歳の時の作品です。「仮面の告白」のなかに誰にもめでられることがない桜の花が美しく咲いている場面があります。1945年の春、戦争末期の光景として描かれています。それで、同じ1945年の秋の紅葉を描いた作品は、何かあったかしらとちょっと考えてみました。1945年の夏は異様に暑かったという話は良く聞きます。それからあけて1946年のお正月はずいぶん雪が降ったと、これは、当時小学校4年だった母の昔話で聞かされていました。では秋はどうだったのか?
新潮に連載されていた島尾敏雄の終戦日記を読むと、1945年の11月末までは、日記をカタカナで記しています。カタカナ日記がひらがな漢字交じりの日記になるのは11月末から12月でした。手元に終戦日記がないので、正確な日付を書くことはできません。8月の終戦から3ヶ月。ようやく「生きた心地」が戻ってきたのだと、カタカナ日記がひらがな日記の変わるのを、そう思って読みました。内田百閧ヘ空襲のさなかに「あとから考えると今がいちばん暇な時期だと思い出されるかもしれない」という意味のことを書いていました。三島が誰にも見られることなく桜が満開に咲いている時期と重なります。きっと百閧フ言うとおり、1945年の秋の紅葉は、誰も気に留めることなく過ぎていってしまったのではないでしょうか? 自分の身の回りの眺める「活きた心地」が戻ってきた頃には、雪が降っていたというわけです。
1946年に入って雪の日が多かったことを私の母はよく記憶していました。降り積もった雪を教室の中へ持ち込んで雪山を作り、滑って遊んでいたら、先生にこっぴどく叱られたそうです。神奈川県の秦野に学童疎開していて、山形へ移動する直前に終戦になり、横浜市内の家に戻った小学校4年生でした。その母の話にも終戦の年の秋がどんな様子であったかは、聞いたことがありません。前後の気候の様子から類推すると、燃えるような紅葉が日本各地を覆っていたかもしれません。川端康成の随筆でも読んだら、そんな景色が描写されているかもしれません。そういう目で読んだことがないので、発見していないだけなのでしょうか。
65年前は靖国神社の森もまだ若かったことでしょう。
1020 20101109 高くてごめんなさい。文芸文庫「女ともだち」 講談社文芸文庫「女ともだち」発売です。1,400円。高くてごめなさい。短編「アジアンタム」も収録されています。角田光代さんがすごく良い解説を書いてくれました。東京女子大の近藤裕子さんによる詳細年譜も載っています。著書目録も入っています。あと、びっくりしている私の写真も(笑)若いって当たり前か。なんとなく自分でも「びっくり」(へへへ)
自作解説は苦手なので、角田光代さんに書いてもらった解説を一部引用します。( )内は私の補足。
〜〜〜以下 角田光代解説
押し流されない「今」から抜粋〜〜〜
(「女ともだち」は)まったく私たち自身の過ごすなんでもない時間に似た時間のなかにいる。それなのに、光景はときおりはっとするほどうつくしい。夜更けに忍びこんだ神社の枯れ葉や、寝転がって見る夜空。窓から見える木々、ぼそぼそと交わされる言葉、そうしたものが、小説のなかで光を放ちながら屹立しているように見える。それはたぶん、彼女たちのいる場所が、彼女たち自身が、明日には姿を消す「今」そのもであるからだろう。一年後には、いやもしかしたら明日には、もう跡形もないかもしれない場所に、跡形もないかもしれない関係のなか、彼女たちは立っている。そんな刹那の奇跡が、ピンで留められた蝶のように、小説のそこここに在る。
(「アジアンタム」について)それにしても、草をむしり、その草の山のわきに寝転がる江木の姿の、一連の描写の濃度は読むたびに圧倒される。濃い草いきれが文字のあいだから漂ってきて、酔いそうにすらなる。そこから浩一が江木を車に乗せる場面へと続くのだが、殺人も起こらないし濃厚なラブシーンもはじまらないのに、たじろぐくらいの緊迫感がある。描写の力強さに、打たれる。
先に、加齢と小説のかかわりを読む楽しみについて書いた。17歳だった私(角田さんです)はこの小説を読んで自身に失望したはずだ。そうして40歳を過ぎて今、私は素直にここに描かれた「今」のまぶしさを全身に浴びることができる。そのまぶしさは、私がこの先年齢を重ねるに従って、どんどん光を強めるような気がしてならない。
〜〜〜〜〜〜以上 抜粋終わり〜〜〜〜〜〜〜
角田光代さんどうもありがとうございました。
1019 20101108 ざらざら、ちくちく、 那覇のホテルで見たへんてこりんな夢。
東の空が白々として来ることに目が覚めました。夜が明けて行くのを窓越しに眺めて、7時ちょっと過ぎにダイニングへ。もうダイニングは旅行者でいっぱい。みんな早起きだなぁと食事。それからまた寝たのです。夢を見たのはこの二度寝の時。
最初はベッドの中で、「弟」とごろごろ遊んでいるんだと思っていました。無条件にベッドの中にいる男を「弟」だと思い込んでいるところは夢の中だから。ところがこの「弟」が少しエッチなのです。子どもがじゃれているのとは少し異なった行動に出る。で、「あら、誰だろう?」と疑問に感じると、その「?」的人物はすやすやと寝息を立てだしました。寝ちゃったのかと、「?」的人物の首筋や肩を撫でてみると、これがすべすべのお肌。男とは思えないきれいな肌をしているのです。ここはちゃんと感触があり「なんてきれいな肌なんだろう」と感心。感心しながらも、なぜ彼はここにいるのだろうと疑問が湧き、目を覚ますのです。ここが曲者で、私は夢の中で目を覚ますという夢をよく見ます。実にくたびれる夢で、なんだか損をした気になります。たぶん、目を覚ましてからっぽのベッドを眺めて、なんだ夢じゃないと納得したのも、夢の中だったに違いありません。ほんとうに目を覚ましたのは、それからしばらくしてからのことです。妙な夢を見たものですが、「?」的人物の首筋や肩の感触は目を覚ましてからもはっきり残っていました。ちゃんと目を覚ましてからのほうが、なんだか、そこに人がいたような気がしました。
那覇の国際通りに面したホテルなんですけれども、昨年、那覇を訪れたときに、国際通りの裏にはたくさんの門中墓があることを教えてもらい、お墓の間を歩きまわりました。今年、歩いてみると、牧志の市場の脇に立派な新しい道路が完成していましたし、墓地も改装になっているところが幾つもありました。二度寝の夢で、すっと「あ、弟だ」と思わせるところが、なんだか、自分の夢のような気がしません。ダイニングルームから、誰かついてきたような、そんな感じ。でも怖い夢ではないのです。へんてこりんな夢でした。
涼しい沖縄から東京に帰ってみると、なぜか、ざらざらごわごわの生地の感触が好きになっていました。夢のせいかどうかわかりませんけれども。ネパールで織ったという硬いウールの上着を一枚持っていたのですが、これまではそのざらざらとした感触にうまくなじめなかったのです。ざらざらだけではなく、ちくちくもします。で、このざらざら、ちくちくが気に入ってしまいました。なんだろう?
1018 20101107 いつもの年より少し遅く那覇へ 新沖縄文学賞の選考会で那覇へ行ってきました。いつもの年よりも2週間くらい遅い感じです。
青い海から吹き上げる風は涼しくって、東京では行方不明になった秋に沖縄で出会いました。
選考会の翌日、首里の金細工(くがにぜーく)の又吉健次郎さんお宅に案内していただきました。結指輪、房指輪、簪(かんざし ジーファー)などの工房を見せてもらいました。指輪の文化が沖縄にあったのは意外だったのですが、それで沖縄には女性が手を刺青で飾る習慣があったのを思い出しました。針突(ハジチ)と言うのだそうです。手の甲から手首にかけて入れる針突は一人一人異なる文様を持っていたということです。針突の写真をとっている人がいて、その人の写真を見たある人が、手の針突の柄から、ずいぶん昔に行方不明になった姉妹だと解ったという話を、そう、もう20数年前に聞きました。話してくださったのは写真家の比嘉靖雄だったと記憶していますが、記憶違いかもしれません。この頃、私の記憶は茫漠としています。その話を聞いた頃には、まだ針突を施しているオバアが那覇にもいました。
房指輪は葉、花、桃、扇、石榴、魚、蝶と7つの飾りが付いた指輪です。両手をこの房指輪が飾った花嫁さんの写真がありました。指輪はその衣装を用いて現代的なチョーカーなどを作ることができるのですが、又吉さんが大事に見せて下さったのは銀の簪(かんざし ジーファー)でした。「昔の女の人はこれを抱いて寝たといいます」という簪ですが、現在では使う人が少なく、琉球舞踏などで髷を結うときにも、銀細工の簪を使うことは少ないと、残念そうにお話になってました。
「これは女の人の姿になっているんですよ。ほらここが首筋で」
見せていただいた簪の背に細い筋が走っています。その筋がないものは、小さなスプーンのように見えますが、一本の筋がきりりと入るだけで、女の人の姿になるのです。
「昔ながらの職人仕事を残すことはできませんかね」
難しい質問をする又吉さんでした。オリジナルな創作を入れるクラフトではなく、同じものをずっと作り続ける職人仕事をどうして残したいと思うのか、もう少し詳しくお話を伺えばよかったなと後から少し悔やみました
。質問されたとたんに頭に「それは難しい」という考えが浮かんでしまって、質問まで気が及びませんでした。
銀細工は日本の輸出品の主力をなしていた時代がありました。幕末から明治の初期だそうです。精緻な細工が喜ばれたと言います。しかし、なぜか、伝統工芸の中で銀細工が注目されることは、少ないように思えます。なぜなのでしょう。
首里城からそう遠くない場所に、さまざまな職人さんたちが住んでいる職人町があったそうです。那覇は昔は海と小島が入り組んでいる場所だったそうですが、首里は高台にあります。首里のあたりは那覇よりも、落ち着いた感じがします。ちょうど首里城祭りで、王朝を再現したパレードを少しだけ覗いてきました。 1018.jpg
1017 20101103 ほ〜い。免許の更新しました。 伊藤さん、ご心配をおかけしましたが11月1日に免許の更新しました。一応優良運転手なので、講習30分。今一番の注目は「高齢運転手」ですって。まだちょっと間があるんですけどね。お声をかけていただきまして、どうもありがとうございます。
それで2日は沖縄へ。新沖縄文学賞の選考会。3日、首里祭りのパレードを見てきました。それから金細工の又吉さんのお家にもおじゃましました。沖縄に指輪の文化があったなんて初耳でした。沖縄のことはまた詳しく書きます。
ともあれ、伊藤さん、運転できます。車を運転してまたどっかに行きましょう。今度、熊本へ行くときは免許を忘れずに持って行きますから。
1016 20101031 「助けてと言えない 30代に今何が」 「助けてと言えない 30代に今何が」(文芸春秋社)を読みました。なぜ読んだかと言うと、あることで思い当たるふしがあったからです。
まず思い当たるふしというのは「今の30代は頑張っても良いことがなかった」と言う話を身の回りの30代の人からよく聞いていたことです。確かにそうです。ただ「助けてと言えない」という標題になっているような状態については、頑張っても良いことがなかったからではなさそうな気がしていました。
本間洋平の「家族ゲーム」がすばる新人賞をとったのは調べてみると1981年のことでした。森田芳光監督で映画化されたのは、1983年。今の30代の人が生まれた少しあとのことです。私の息子は1982年生まれ。娘は1983年生まれ。ついでに私の家族のことに触れておくと、1983年に脳梗塞の大発作を起こして母が寝たきりになりました。それで亡くなったのが1985年のお正月。私自身にとっては印象の深い時期なのです。「助けてと言えない」を読んでみようと思ったのは雇用問題や貧困問題を社会保障の観点から考えようとするのではなく、その裏にある心情や心境を探ろうとしているらしいことが、ツイッターの書込みで解ったためでした。本間洋平の「家族ゲーム」はかなり話題になった作品で、映画化されると家族が横並びになって食事をとっているスチール写真をよく見かけました。
家族がばらばらになっている、家族が解体していることの象徴として映画「家族ゲーム」のスチール写真が使われていました。ここで私は家族のきずなを取り戻すべきだと言いたいわけではありません。ただ、この30年を思い出しただけです。私自身もその当時、ちょうど家族を持ったばかりだったわけで「助けてと言えない」30代は、他人事ではないのです。卓袱台を囲んだホームドラマから横並びの個食の時代と言われたのも、ちょうどその頃でした。
その頃、何を考えていたかと言えば、一番、考え込んでいたのは「内面の問題を話す人がいない」と言うことでした。それまでの卓袱台家族が横並びカウンター家族になって行くときに、心の中のことを打ち明けられる相手がいないという気がしきりにしました。孤独じゃなくって孤立している感じです。これは、その後、私自身だけの悩みではなく、そういう悩みを持った人に次々と遭遇して行くことになります。
私は東京郊外の集合住宅で子どもを育てたのですけれども「他人に迷惑をかけない」という徳目が教育の一番の徳目になっている場合が多いのにも当惑しました。「他人に迷惑をかけない」の裏側には「他人には干渉しない」主義があって、それは多様な事情を持っている人が住んでいる集合住宅では仕方がないことなのかと、受け止めてはいました。ただ、徳目としては不寛容で、なんと言うかちょっと狭量な感じがしました。これは昔、エッセイに書いています。「困っているときはお互い様」とか「ある時払いの催促なし」とか「出世払い」とか、そういう寛容を示す徳目はほとんど聞いたことがありませんでした。
あと割り勘勘定の徹底。これもけっこう大事に守られていたルールでしたけれども、いささか窮屈に感じられることも多々ありました。割り勘で貸し借りなしにするのは気持ちが良いのですけれども、それが気持ちよく成り立つのは、みんなが同じくらいの給料をもらっているときだけです。懐が寂しいときは「ドンブリ勘定」にしてもらって、なんとなく面子を立ててもらうほうが楽なのですけど、そういうのは駄目でした。なんなら出世払いにしてもらってもいいんですけど、そんな冗談も言えないようなかたくなな雰囲気がありました。時間の感覚が前へと伸びずに、その場で終わってしまうのです。
ファミリーレストランで、けわしい顔をした家族がまずそうにご飯を食べているのを見かけたのも、よく覚えています。バブルの頃です。あの頃、景気がよくって世の中の人の機嫌が良かったかというと、そうではありませんでした。なぜなのかは解りませんが、家族でそろって不機嫌になっているという場面によく遭遇しました。貧しかったときのほうが、家族の絆は強かったなんて話をたびたび聞かされたものです。私が自動車免許をとったばかりの頃、郊外にファミリーレストランがどんどんと建って、あっちこっちへ出かけたものですけど、そのたびにそういう不機嫌な家族に遭遇しました。もう、忘れた人も多いかもしれませんが、そういう不機嫌な家族の様子を描いたCMさえありました。ある焼肉のたれのCMで母親がヒステリックにバーベキューを焼いているというものがあり、それはリアルなCMとして話題になっていました。私はそのCMがリアルであればリアルであるほど苦い思いをしました。思い描いたような「楽しい場面」が演出できなかったためにヒステリックになっちゃう母親のひとりでしたから。家族の解体というよりも、心情の解体の証拠を突きつけられるような苦味がありました。
弱者救済ということがよく言われていました。あまりにも弱者救済が言われすぎて、自己責任という言葉が出てきたのはその後です。「助けてと言えない いま30代に何が」を読むとその自己責任という言葉は一人歩きをしている様子が伺えます。今の30代の人が自己責任という言葉で、自己防御をしている様子は「助けてと言えない」の中で取材を通して描かれています。それを読みながら、心情の解体の後に世界的に不況に襲われるという時代の流れを思い出したのでした。
思い出したからどうってことはないんですけど、そういうことです。そのほかにも、思い出すことはいろいろとあってきりがないくらいです。絆なんて言葉では語れないような、心情の解体の30年を生きてきたんだなあという感慨のようなものがそこにあります。だって家族のしがらみから逃れて自由になりたいって希求が30年前にはあって、不機嫌な家族が、機嫌を直さなくってもなんとか経済破綻しないで生きていけるという現実もそこにあったことをあまりにも鮮明に覚えているのですから。言いたいことは何もありません。ただ、思い出すだけです。問題を解決するのではなくって、ただ思い出すだけということがひどく大事なことだと、そう感じられるのです。
1015 20101029 すってんころりん 台風が近づいています。東京でも、早々と木枯らしが吹いたと言うのに、今度は南から台風です。昨日は終日冷たい雨が降っていました。
法政大学の55年館、58年館は一見するとなんの変哲もない古いビルディングですが、コンクリート建築では名建築とされているそうです。大江宏の設計で1958年に建築学会賞と芸術選奨をとっています。建築にも少し興味を持っていたときにそれを知りました。使われているコンクリートの質はすばらしく、またコンクリートを固めるさいにつかった木枠の跡が残っていますが、これも良い材を用いたようで、コンクリートの打ちっぱなしの建築でも初期の丁寧な仕事が見られます。
55年館58年館を外濠校舎から眺めると、太い大きな柱が1階から7階(55年館は6階まで)までダイナミックに走っているのが一望できます。いつだったか入学試験の時、学校へ詰めていて、このすばらしい眺めに気付きました。太い柱と丈夫な床。この二つだけで構成されたシンプルな建物です。外壁や内壁は、取替え可能なパネルが用いられています。内壁にブロックが積まれているのは、創建当時の建材としては、ほかに良いものがなかったからでしょう。この建物から、何の変哲もなさそうな老朽化したビルの中にある価値を、自分の目で発見して行くという楽しみをもらいました。建物の重要な構造部分だけを作り、あとは順次、取り替えて行くというのは、建築思想としても、先進的で、かつ、環境への配慮が求められる現代性を失っていません。取替え可能な部分に、強化プラスチックなどの新しい建材を用いれば、それはそれは見事な建物になることは間違いありません。美しいだけでなく、建築と建材の流れというか変化を見ることも可能でしょう。昭和30年代初頭の法政大学のある種の理想主義も建築から感じ取ることができます。
学校にとっては宝物みたいな建物と、私には思えるのですけれども、残念ながら、取り壊し計画が進んでいます。取り壊しについては、デザイン工学部から反対がでました。私がショックだったのは、取り壊し反対の意見を「情緒的な反応」と受け止める人が多かったことです。場合によってはOB、OGのノスタルジーという受け止めかたもありました。そのような受け止め方がでるのは、コンクリート建築についての一般的な知識が乏しいからなのでしょう。それは仕方がないとしても「情緒的な反応」の中身を知ろうという気持ちが乏しいのに、ショックを受けました。
もともと私が建築に興味を持ったのも、建物の細部の名前を知らないと、小説が書けないという理由からでした。空間についての名辞が乏しいと物語のための空間を広げることができないのです。木造の建物は、そこに使われた技術を惜しまれて愛されますし、レンガ作りの建物は近代化のシンボルとして喜ばれるのに、コンクリート建築だけは、見るべきものも見てもらえずに、取り壊されるのでしょうか? コンクリートこそ、私たちのふるさとだと言うのに。今、生きている人の大半はコンクリートの病院で生まれているはずですから(笑)
胸の中に小さな棘が刺さっています。話をすり替えると言われそうですが、小さな子どもが何かにおびえて泣いていても「情緒的反応」として軽くあしらうのでしょうか? そういう比喩を思いつくのは、理由が二つあります。ひとつは情緒の軽視という姿勢への反発。もうひとつは「情緒的反応」の裏に、たいへんに現実的なものが潜んでいることへの注意力の乏しさ。そのふたつを私は感じました。で、そんなことを考えながら、58年館と55年館の間を繋ぐスロープを歩いていたら、すってんころりん。後頭部をしたたか打ち付けてしまいました。頭蓋骨がゴンと鳴りました。
1014 20101024 伊藤さん お帰りなさい。 伊藤さん、熊本に戻られたそうで、おかえりなさい。熊本は秋らしくなっていましたか?橙大学、楽しそうでうらやましいです。私も聴講に行きたいなあ。A番頭さんにどうぞよろしく言っておいてください。
そうだ。伊藤さんが来月大阪に行く(来る?)時にお目にかかれますね。それを楽しみにしています。大阪もいつまでも暑かったのですが、昨日はやや気温が下がっていました。金曜日の夜11時23分に新大阪駅に到着した時の気温は19度でした。
「暑い」とか「涼しい」「肌寒い」「冷え込む」なんて言葉はそれぞれに季節感が籠もるので、今年は使いくくなっています。季節感というか、時間感覚みたいなものがありますから、なんとなくどの単語を使っても現在の気温の具合にそぐわないのです。法政大学の前じゃあ、今頃になってコスモスの花が元気良く咲いていますし、きのこは夏のきのこと秋のきのこが同時に収穫されているって話です。いろんな人が「今年の冬はすごく寒くなる」って言ってましたが、もしかすると「そうなって欲しい」という願望も入っているかもしれません。せめて冬らしい冬が訪れて欲しいという願望ですね。
「夏をあきらめて」っていうサザンの曲がありましたが「秋をあきらめて」ですね。今年の夏は暑すぎて、夏らしい夏どころか、あまりの暑さに海水浴場の人も少なかったといいます。
伊藤さんが大阪へ来る(行く?)ころには、きっと河豚も美味しくなっていますよ。河豚食べましょう。では、では。熊本文学隊、橙大学の皆さんにどうぞよろしく。
1013 20101021 自動車免許の更新 「11月6日までに自動車免許の更新をするように」という案内が来ていた。なんだか忘れそうな気がする。なんとか免許の更新に行かなくっちゃ。そこであっちこっちに自動車免許の更新と書き付けることにした。
忘れませんように。忘れませんように。忘れませんように。
1012 20101018 大規模修繕、いよいよ。 マンション全体をシートで覆った大規模修繕がいよいよクライマックス!って、つまりベランダの床の塗装が始まるってことです。ベランダのものをすべて、片付けなければなりません。
もっとも巨大化した佐藤錦の木とヒイラギの木は、息子がやって来て、マンションの裏庭に移動させてくれました。佐藤錦はベランダで巨大化していたので、枝を切らなければ家に外に出すことはできませんでした。ヒイラギのほうも、呆れるくらいに大きくなっていました。
それや、これやは、すでに片付けてあったので、最後に残っていたのは、物干し竿とジョウロ、それに金物のゴミ箱。そういう品々を家の中へ入れました。
ずっと工事、工事、工事なので、ちょっとグレてます。
1011 20101013 2年ぶりに東名高速を走る。 目を悪くしていたので、しばらく、自動車の運転を控えてました。昨年、夏に白内障の手術をしてからは視力も回復しているのですが、それでも、自動車は隣り近所を走るだけにしていました。息子や娘たちが運転をするようになったので、私が長距離を走らなくっても良いってこともあるし、自分ひとりの移動なら、居眠りのできる電車のほうが気楽だってこともありました。
目が悪いと、突然、眠気に襲われることがあります。自動車の運転ではこれが怖い。そんなわけでしばらくハンドルを握りませんでした。
ひさしぶりに東名自動車道を自分の運転で走りました。天気は曇天。風は心地よい温度。風の心地よさが貴重に感じられる今年の天候です。行き先はよこはまズーラシア。横浜市内には、ズーラシア、金沢園、野毛山と三つも動物園ができていたのを、昨日、改めて「へえ」と思いました。私がもっとも、親しいのは野毛山動物園。野毛山しかなかった頃でした。連れていってもらうのが楽しみでした。
最近の動物園って、家族連れももちろんですけれども、カップルが目立ちます。子どものとき、親に連れてきてもらって、デートで動物園に出かけて、それで、また子どもができると動物園に行く。そんな感じでしょうか。公立の動物園なら入園料も安いし、お弁当も持ち込めるし、なんと言っても、すごくきれいに整えられているし、それから会話の種につきないし、ああ、なるほど、なるほどデート向きなのねと納得したのでありました。うちの娘も「ズーラシアはきれいな動物園だよ」って言ってましたけど、きっとデートで出かけたのね。言わないけど。
で、帰りに横浜の中華街で、上海蟹を食べて、また東名で帰ってきました。
1010 20101012 しちめんどくさい 伊藤さん おはようございます。
昔の人はなんだって、ああ、うるさかったんだろうって思うことはありますね。だって、何でもかんでも「できてあたりまえ」で「できなきゃ馬鹿かアホ」だったから。料理でも裁縫でも編み物でも。すぐに怒るし、不機嫌だし。いったい「なんだったんだ?」って思い出してへんな気がすることがあります。
それでもって「馬鹿」とか「あほ」って言われなければ、案外、出来ちゃったりするから。そんな感じ。で、お祝いの話ですけどねえ。昔風なやつも楽しいけれども、今風にアレンジしちゃってもいいなって思うのもあります。あたしが好きだったのは「一升餅」かな。赤ん坊が生まれて、100日目くらいに、一升のお米で御餅を作ってもらうの。その餅を赤ん坊に背負わせるんです。そうすると「一升餅」で「一生」食べるのに困らないんですって。「へえ」って感じで、上の息子に御餅を背負わせたら、真っ赤な顔でうんうん唸ってました。重かったんじゃないかな。
お祝い事って、一人じゃ出来なくって、周囲の人が一緒に「おめでとう、おめでとう」って言ってくれないとそういう感じが出ないですねえ。「お祝い」が一番、人間が群で暮らしていたときの感覚が残っているんじゃないでしょうか? 学者はそういう祝い事の感覚が薄らいどでいるのを「共同体の空洞化」なんて言うんだけど、時々、「自分の言っていることが解っているのか」って言ってやりたくなることがあります。人間が猿より頭が悪いんじゃないかと思う瞬間ってのは、自分で自分の言っていることの意味が解らなくっても、喋れてしまう場面に遭遇した時ですね。自分も含めて。
1009 20101010 犬印の腹帯 伊藤さんの「良いおっぱい、悪いおっぱい」の中公文庫版を読んでいたら、腹帯のことに加筆があった。微妙なこだわり方? っていうか、ああ、やっぱり腹帯には、簡単に割り切れない感情があるんだなあと同感。
私も不器用で、さらしの帯をきっちり巻くなんてのは苦手だったんだけど、腹帯には良い思い出がある。さらしの長い帯の巻き方を教えてくれたのは母で、伊藤さんが書いているとおり、母には「帯祝い」の喜びがあった。私が裁縫嫌いというか、裁縫が苦手なのは、母がひどいスパルタ式に裁縫を教えたことが原因のひとつになっている。だって、できないと物差しでぴしぴしひっぱたくし、「不器用だ」とか「雑な仕事だ」とか、その他もろもろ、よく罵られたので、今でも、なんだか血が逆流しそうな感覚がどこかに残っている。が、腹帯のときは違った。なんと言っても「おばあちゃん」になる喜びの日なのだから、あんなに丁寧に優しく巻き方を教えてもらったことはない。態度がぜんぜん違った。
で、伊藤さんがスカートの下から腹帯がだらりと下がっていてあせった話を書いていたけれども、それも同じ経験がある。大学の4年生だったから、帯祝いが済んでからも、大学に通っていた。帯祝いって言っても、そんなに大げさなことじゃなくって、母と二人で、暖かい日の当たる座敷で腹帯の巻き方を教えてもらっただけなんだけど、それからも学校へ通っていたわけです。
大学の400人くらい入る階段教室のスロープを歩いていたら、なんだか他の学生が合図をしているんだけど、その意味が理解できなかった。後ろを指指すから、後方の出入口を見たのだけど、別段、変わったことはない。なんだろうと不信そうにしていたら、いきなり、後ろへぐっと引っ張られて驚いた。スカートの裾から、垂れ下がっていた腹帯を、A君がぐっと握りしめていた。あまりの唐突な展開に大笑いをするしかなかった。
あの時はそれからどうしたのだろう? 覚えてないけれども、階段教室で腹帯を締めなおすわけには行かないから、きっと、洗面所かどこかに行って腹帯を締めなおしたに違いない。みんなも私も大笑いしたところまでしか覚えていない。で、帯の裾をぐっと握ったA君はと言えば、その頃、もうすぐ、子どもが生まれることになっていた。もう結婚していたのだ。だから、かなり大胆な行動にでることもできたのだろう。
二部(夜間部)の学生だったA君は、手の指が3本ばかり欠けているところがあった。指を詰めたんだと言って他の学生を怖がらせたりしていたが、実際は、事故で指を切断したそうだ。アメリカ製の特殊なカッターを輸入してビルの壁に穴を穿つ仕事を引き受ける会社を自分で設立していた。「設計図と違う場所に電気の配線があったり、ガス管が走っているのが怖い」と言っていた。「電気の線に触れて感電したり、カッターでガス管に触れてしまうこと」を考えれば、指の1本や2本はなんでもないとも言っていた。
大学の1年生のとき、語学クラスの飲み会の世話役を5人決めて、その一人が私であり、A君だった。
それで私に赤ん坊が生まれたときには、黄色い毛糸をたくさんにお祝いとしてくれた。
所帯持ちのA君が大胆だったおかげで、スカートから尻尾みたいに腹帯を引きずっていたのが、恥ずかしいことは恥ずかしいけど、笑い話みたいになったのだった。
腹帯には特別に保健上の合理的理由がないって言われるし、もしお腹を保護したいなら、ガードルなどもあるから、それが便利で、尻尾を引きずるような無様な騒ぎもおきなくって良い。でも「お祝い」の気持ちとか、お婆さんになる喜びとか、それはきっと、真っ白な木綿のさらしの帯のほうにあるに違いない。たぶん。
そんなに高価なものじゃないし、下着の一種だから洗濯のための洗い代えも必要なんだから「帯祝い」を楽しんでもいいんじゃないでしょうかねえ? 伊藤さんが中公文庫のあとがきにニューアカ(ニュー・アカデミズム)のことを書いていたけど、ニューアカも含めて、学問ってやつは感情を無視するのが仕事の一部になっているけど、赤ん坊は観察されるために生まれてくるんじゃないし、年寄りも、ゆっくりこの世にいるのを楽しみたいんだから「お祝い」や「喜び」があったほうがいいんじゃないでしょうかねえ。もめんのさらしの長い帯は、お腹の赤ちゃんを保護するために巻くもんじゃなくって、お母さんの健康のためでもなくって、お祖母さんの喜びのために巻くんじゃないでしょうか? 学者は(医者も含めて、とくに男の学者は)そんなこと考えたこともないし、考えても、とるに足らないことのように思いますかもしれないけれど、こんな小さな喜びが人間には大事なものってこともある。私の母が亡くなったのは、それから三年ほどしてからでした。
1008 20101008 ヘンじゃない? 台風でりんごの実が落ちたり、水稲が被害を受けたり、赤潮で養殖していた海苔が全滅したり、そういう風水害の被害は、なんらかの形で政府や行政から保障が出たり、融資の枠ができたりする。農林水産業に限らない。日航やそごうのような大きな会社が経営危機に陥れば、やはり公的の資金援助がされたりする。銀行だってかなり助けてもらったはず。もっと古くはエネルギーの構造転換のために炭鉱が閉鎖されたときにも、なんらかの公的な援助があったはず。
そういうことを思い出したのは、急激の技術転換のために、店をたたまなければならなくなったレコード店(実際はCD店だったのだけど)や、デジタル化のために仕事が激減した写真屋さんカメラ店には、なんらの公的援助がされたという話は聞かない。「紙の本はなくなる」と官民上げてアナウンスされるだけでも死活問題がと考える書店にいたっては「配達された本を並べるだけの」怠け者扱いをされる始末。それでいて、デジタル技術関連のコンテンツ産業はさほど収益を上げているとは聞いていない。過去にはなかったパソコンの製造とか、パソコン周辺の消費財の製造流通といった新しい産業は育ってはいるけれども、トンと景気が良いとは聞かない。儲かっているけれども、ただ、黙っているだけなのでしょうか? なんかヘン。ヘンとしか言いようのないことが進行している気がしてならない。それは、私が万年筆で紙の原稿用紙に原稿を書き、紙で出来た本を町の本屋さんで売って暮らしてきたというアンシャン・レジーム側に属しているから、そう思えるだけなのでしょうか?
何か観念的な急進性のために、現在ちゃんと機能しているものまで壊してしまっているということはないでしょうか? どうもそんな気がします。
これまでの産業構造の転換期にあった政策と現在の政策の比較を、誰か試みてはもらえませんでしょうか?
1007 20101006 書評・時評・本の話 1978〜2008 河出書房新社の小池さんと、今、編集している評論集の打ち合わせをしました。「書評・時評・本の話 1978〜2008」というタイトルになるはず。はずと言うのは、三つの単語の間にナカグロが入るか、入らないか、この語順で並べていいのかなど、これからの検討事項が含まれているからです。
しかし、その前の「原稿を集める」という大仕事があります。すでに関係の皆様にはいろいろと御協力をいただいていまして、御礼申し上げます。自分でも不思議だと思うのだけど、記憶にちゃんと残っているような仕事が、どうしたわけか、スクラップには残っていないのです。理由のひとつは、たぶん、単行本や文庫本に収録された文章をとっておくときに、ある時期までコピーを使っていなかったことがあるでしょう。自宅の前にコンビニが出来て、そこでコピーを取れるようになってからは、コピーで保存しています。が、その前は「本」そのもので保存していたので、その「本」がどこかに紛れ込んでしまったのです。そういうわけで「原稿を集める」という大仕事で、あっちへうろうろ、こっちへうろうろしています。もちろん、助手の寧々ちゃんにも、あっちへうろうろ、こっちへうろうろしてもらっています。
今日は装丁の話もしました。装丁については、また、改めて書くつもりです。
1006 20101005 評論集の編集と講談社文芸文庫 評論集を編集しています。1978年から2008年までの、編年体になる予定。書名はまだ仮タイトルですが「書評、時評、本の話 1978〜2008」になる予定です。今年の12月に出る予定なのですけれども、手元にあったスクラップにかなり抜け落ちがあるので、原稿の収集に時間がかかるかもしれません。
以前、伊藤さんに「あれを読んで私と同じことを考えている人っているんだと思ったの」と言われた朝日ジャーナルの「育児書」も収録しました。この「育児書」というエッセイの原型はクロワッサンに書いた記事です。クロワッサンの記事は、私からお願いして書かせてもらったものです。こうした育児書関係のエッセイが伊藤さんの「良いおっぱい悪いおっぱい」に繋がったかどうかはわかりませんが、ともかく育児書は小児科医などの専門家による啓蒙的な時代から、自分の手で子どもを育てる人、つまり、当事者の書くものへと変わっていったのでした。評論集では文芸評論に限らず、初期の頃の育児書などについて書いた文章も含め、本にかかわりのあることについて書いたものを広く集めました。
同時並行的に進めていたのが講談社文芸文庫の「女ともだち」で、年表作成は東京女子大学の近藤裕子さんにお願いしました。近藤さんは那須にご滞在中で、年表のチェックはメールですることになりました。こういう仕事だとメールはすごく便利です。また文庫解説は角田光代さんにお願いしました。まだ角田さんの解説は読んでいませんが「良い原稿でした」と講談社の担当編集者の人から連絡をもらっています。今から角田光代さんの解説を読むのを楽しみにしています。
1005 20101003 ぼやく。ささやく。つぶやく。 まだちょっと「ぼやきたい雲」が胸からお腹へかけてふわふわと浮いている感じ。「ぼやきたい雲」は近頃、出現した「雲」で、今までだったら、すぐに積乱雲に発達していたのだけど、雷を落とす元気もなくなったのか、それとも鈍くなったのか、どっちだろう。「ぼやきたい雲」は白くってふわふわしていて、あっちへ飛びこっちへ流れしている。
しばらく「ささやく」ってのを忘れていたようだ。「ささやかれた」こともないし、「ささやいた」こともない。「ささやく」ってどんな感じでしたっけ?「ささやく」って「囁く」とか「私語く(ささやく)」って書くときがあるのだけど。口に耳が三つねえ。
田原総一朗さんが出ていた「ガキの使い」を見ていたら、マイブームは「ツイッター」だと言っていた。ははんなるほど、と納得。そのツイッターって、なんか「つぶやく」って感じと違うなあと思っていたら、星野智幸さんに「さえずる」って意味だって教えてもらった。小鳥のさえずり。烏とか、鶴とか、鷲や、鷹は「さえずる」とは言わないのだろうなあと、嘆息。
1004 20101001 ぼやきたい。 ぼやき漫才ってのがありました。なんかぼやきたい。たぶん一番の理由は、マンションの外壁塗装工事をしていること。建物全体に防護用の網が張り巡らされています。だから、ちょっとぼやきたいってわけ。三度目の大規模修繕です。一回目のときに比べたら、防護用の網もずいぶん改良されて、家の中もそれほど暗いわけじゃあないんですけど、やっぱりぼやきたい。
二つ目はフォーラム神保町のメンバーの魚住昭さんからウェブマガジンの「魚の目」にエッセイを書くように依頼されているのに、まだ、書けないこと。「象の鼻毛」っていう通しタイトルまでは決めたのですけど、なまじ400字詰め原稿用紙7枚のきちんとしたフォルムのあるエッセイを書こうとしたために、なかなか着手できないでいます。ネットを使うようになって、全体のフォルムを考えずに書き出してしまう文章を書くことが多くなったので、逆にしっかりとしたフォルムの文章を書きたいと魚住さんには話したのですけど、ツイッターを始めたおかげで、現実には、輪郭やフォルムのない断片的な文章ばかり毎日、タイプするはめに。ウクレレ漫談をやっていた牧伸二なら「あ〜あ、やんなっちゃった。あ〜 驚いた。」って歌いたいような心境。
ま、ぼやきたいんです。ぼやかしてよ。
1003 20100928 伊藤さん、日本は急に寒くなりました。 東京だけじゃなくって熊本も寒くなっている様子です。こちらにお帰りになるときは、どうぞ気をつけてくださいね。だって、涼しいってのがなくって寒くなったのですから。くそ暑い→寒いなのです。
1002 20100928 ツイツイ ツイッター。 あれ? 豆蔵ちゃん留守なのかな?
※留守でした。(豆)
トップページに「文学界」10月号に姜英淑さんの「海岸のない海」の翻訳が載っていることをお知らせして下さいとお願いしたのだけど? 翻訳者は吉川凪さん。
ツイッターを始めたのは「豆畑の友」のお問い合わせフォームが故障して、それがきっかけでした。だいたい、PC関係の新しい機能とかシステムってのは、使い始めると、しばらくは「中毒」することになります。私はあまり機械好きではないんだけど、この「中毒」期間だけは、機械好きな人の気持ちが想像できます。で「わあ。」と驚いている姜英淑さんをツイッターで見つけたのは、いつだったか? 日本語もハングルも混在で表示できるのには、驚きました。中島京子さんが、姜英淑さんと英語でやりとりをしているのを見て、日本語の解る姜英淑さんなら、ローマ字でもいけるかと試みたところ「HA,HA,HA」のお返事が即座に来ました。さらに豆蔵ちゃんにグーグルの翻訳機能を教えてもらって、こちらの書込みを韓国語に翻訳可能になって(どんな韓国語だか解らないけど)そんな具合にやりとりができるようになりました。「へえ」の連続。
で、ついついツイッターを見ているとフォローした小説家、評論家が並んで「原稿が書けない」「原稿を書かなくちゃ」って、つぶやいているというよりも大連呼。そういう追い詰められた心境を知らないわけじゃあないから、「ああ、これはたいへん」と眺めているうちに、自分の原稿の締め切りを忘れる始末。なんだかなあ? なんだかなあ? これっていいような悪いような、不思議な1ヶ月でした。
1001 20100924 英雄の作り方2 イギリス小説だと「シャーロック・ホームズ」が有名ですが、フランスだと「怪盗ルパン」。この二つの国の人気小説が、探偵と怪盗になっているところは、国民性を感じさせておもしろいと思います。で、島国日本はイギリスぽいのかなと思いつつ、考えてみると、歌舞伎の世界には「ねずみ小僧」とか「石川五右衛門」など大泥棒が大活躍。文楽では、近松門左衛門の心中物があり、こちらは横領犯など。「名探偵明智小五郎」が登場するのは近代になってからですが。江戸川乱歩も怪盗、怪人はたくさん書いています。
さて、「秋葉原無差別殺傷事件」の犯人を英雄視する視線は、かならずしもマスメディアの拙速で作り出されただけでなく、なんとなく、世の中の人の心がそのような英雄を求めていたという側面があることを「英雄の作り方1」で書きました。「ネットでは加藤智大被告は神」とか「神」の一字を分解して「加藤は ネ 申す」とか「加藤を神格化しろ」などの書込みが見られることをフォーラム神保町の聴講者の方から教えてもらいました。通常、犯罪報道などの勉強会や検討会では、虚構を排除して事実を見詰めようとするという方向で思考を重ねて行きます。が、私は秋葉原無差別殺人事件に、事件の周辺にいる人々が「虚構」を求めていることを感じとりました。フィクションの作者としての直感です。
この直観力がもっと強ければ、今頃、大勢の人に楽しんでもらえるエンターテイメント(娯楽作品)を大急ぎで書いているところなのですが、残念ながら、そういう資質には恵まれていなかったようです。娯楽作品を書く資質には恵まれませんでしたが、フィクションそのものを否定する気はさらさらありません。人間の精神にとってフィクションは重要な役割を果たしていると信じています。それで今回の秋葉原無差別殺傷事件の周辺にいる人々を見ているとフィクション、つまり虚構に飢えているという側面があるように思えました。「アエラ」の記事はそのあたりの雰囲気を報じていますが、まだ、虚構に飢える人々の気持ちというスジに絞りきれていなかったのかもしれません。だって、これは通常のジャーナリストの態度とは逆に虚構そのものを肯定しなけば、見えてこない現象なのですから。講師の中島さんを混乱させたのも、私がそのあたりの指摘で突然、ベクトルの向きを逆転させたためだと反省しています。時々、思考のベクトルを逆向きにしてみるのが好きなんです。だからノンフィクションの作家にならずに、フィクションを選んだのでしょう。
で、そのフィクションを求める力と言うか、エネルギーが微弱な感じがしています。微弱陣痛という言葉が浮かびました。お産の時、陣痛は来るのだけれども、微弱なまま、長時間にわたって続き、陣痛のクライマックスが来ない症状を言います。微弱な陣痛が長時間続くと母体は疲労しきってしまいますし、ひどいときには、母子ともに死に至ることもあるそうです。現代では陣痛促進剤などを使いますから、微弱陣痛で死亡なんてことはめったにないでしょう。
お産はそういう手当てがあるのですけれども、虚構を求める社会的心理が微弱陣痛状態のままになったら、どういう現象が起きるのか? それが私の興味でした。
ピカレスク・ロマンの虚構が作れない社会というのは裏を返すと、例えば、優れた為政者も生み出せない社会ということになりはしないでしょうか? 英雄の作り方を忘れてしまった社会。いや、英雄の作り方を思い出そうとして、なかなか思い出せない社会。そんなイメージです。もっとも村上春樹の「1Q84」の青豆は殺人者なのだから、ピカレスク・ロマンはとうに成立しているとも言えなくもないのだけれど? あの小説はなんとなく、ピカレスク・ロマンという感じがしないのは、なぜだろう?
1000 20100922 なんなんだ。この騒ぎは! 「公文書偽造事件を調べていた主任検察官が、証拠偽造で逮捕された」って、理解しがいた事件というか、何というか、一番の疑問は「なぜそこまでして、事件を成立させたかったのか?」ということです。主任検察官によるFDデータ偽造が報じられたのが今朝。主任検察官が最高検に逮捕されたのが夜に入ってから。
まさか関連はないと思うけれども、21時過ぎ、つまりNHKのニュースが半分ほど過ぎた頃にツイッターにアクセスしようとすると、ホームに大きなhの文字が出てアクセス不能。10時過ぎに豆蔵君から「どうもツイッターにアクセスしないほうがいいですよ」というメールが来ました。豆蔵君情報によると、携帯などからは問題なくアクセスできるらしい。どんなことが起きているのか機械音痴の私にはわかりかねますが、ツイッターの脆弱な部分を攻撃されたとのことでした。最初はウィルスかと思ったのですけど、ウィルスではないってことで、なんだか奇妙なことがおきているらしいです。
今夜あたりツイッターで「検察官によるFDデータ偽造事件」の感想を、有名な人のものも、無名な人のものも聞いてみたいものだと思っていたのに。「まさか関連はないだろうけれども」と言うのは「もしかしたら関連があるの?」の意味の裏返し。
加藤陽子の『それでも、日本人は「戦争」を選んだ 』を読んでいたら、太平洋戦争中の戦死者の数は新聞の地方版には掲載されたけれども、全国版には載らなかったとありました。みんな大本営発表を信じ込まされたとは聞いていましたけれども、そんなふうに、情報を細かく分けてしまうという手段をとっていたなんてのは初めて知りました。情報操作として手が込んでいるし、現代でも使えそうな手段だなと感じました。さらに戦争末期になると民需に応じる会社の株価が上昇したともありました。情報操作、情報統制をしても「口コミ」は生きているのです。と言うよりも情報操作、情報統制をすればするほど「口コミ」はよく機能するものなのかもしれません。民需の株価が上がったと言うのは「長谷川巳之吉」を読んだときに、戦争末期に出版各社が空前の利益を上げていたと知ったときと同じ驚きがありました。
だから「たぶん関連はないだろうけれども」「もしかしたら関連はあるの」なのです。
999 20100921 英雄の作り方1 9月16日のフォーラム神保町のことで気になっていることをもうひとつ。
会場でコメントするときに資料の中にあったアエラの「加藤よ裏切ったな」という記事を少し悪く言いすぎたとあとから、やや思い直しました。この記事はネットにもあったもので、検索すればたぶん今でも読むことができます。秋葉原無差別殺傷事件の公判を傍聴した人が被告に裏切られたと感じていることを報道しているものです。記事そのものは、この事件を見詰める人の視点を切り取ったもので、良い記事だと思います。ただタイトルのつけ方が曖昧なので、私の印象がぶれてしまいました。
これまでの事件報道ですと、メディアが安易な解釈に走り、そのイメージが広がってしまうというパターンが多く、時にはメディアの安易な解釈が、読者や視聴者のメディアに対する軽蔑を招くことも多々ありました。10年くらい前に護国寺で起きた「お受験殺人事件」と呼ばれた事件も第一報から「あ、固定観念で報道している」と感じられた事件でした。メディアはお受験加熱のために、よその子を殺すという行動に出た母親の事件として報道しましたが、実際はお受験をする小学校は抽選で入学者を選んでいるのですから、そういうストーリーは成り立たないのです。この場合は情報の享受者のほうが事情をよく知っていて、報道に対して冷ややかな反応をしていました。
「秋葉原無差別殺傷事件」の場合は当初、メディアは派遣切りにあった青年の凶行という報道をしました。これは第一報の段階ではそう間違いではないと思います。しだいに詳細がわかってくると、当初にイメージされた事件とは異なるものがあることもわかってきます。
が、この事件ではメディアの情報の享受者の中に、最初のメディアが建てたイメージに添って犯人に英雄的な存在になって欲しいと願う人がいることです。アエラの記事はそうした現実を報道している記事としては良い記事だったと思います。私は、タイトルの中にこの記事は
「犯人」を問題としている記事ではなく「犯人に英雄を見ようとしている人」を取り上げているのだということを印象付ける何か一言が欲しいなあと、そう思いました。そうじゃないと、私は事件報道というと、すぐに犯人について書かれたものという思い込みで読んでしまいますから。(この項目 続く)
998 20100920 丘の上の花屋さん 丘の上の花屋さんの様子がおかしいなあと、覗いていたのは7月のはじめでした。最初は定休日でもないのにお店が閉まっていて「どうしたのだろう?」と不思議でした。そのうち、どんどん、花が枯れて行くのです。花屋さんのお店は小さくって、シャッターもないお店です。閉まっているときは、緑色のネットが張ってあるだけなので、お店の中をよく見ることができます。
最初は切花が枯れ、それから苗物の元気がなくなり、観葉植物さえかさかさし始めた頃には、お店全体が雑然とした枯れ色に染まりました。「しばらく休業します」の張り紙が出たのは、そうした頃でした。張り紙が出て2、3日すると、枯れた花が片付けられていました。
今年の夏の猛暑は、残っていた鉢物さえみんなダメになってしまいました。ネットの向こうのお店の中にお花はすっかりなくなって、がらんとしたまま8月が過ぎて行きました。前を通るたびにいったいどうなっちゃうんだろうと、心配になっていました。
花屋さんの御主人が、お店で鋸を使っている姿を見たのは先週のことでした。ご主人に何かあったのかと心配していましたから、ちょっとほっとしました。最初の日は熱心に鋸を使っているので、そのまま通りすぎました。どうやらお店の模様替えをするようです。次の日に通りかかると、ちょうどこちらを向いた時だったのでちょっと会釈しました。事情を聞いていいのか、悪いのか、少し迷いましたが「どうかなさったのですか?」と聞いてみると、お母さんのお加減が悪かったとのことでした。今日、通りかかると、今度はきれいなワンピースを着た女の人が花屋さんのご主人と立ち話をしていました。きっとお店の前を通る人は「どうしちゃったのだろう」と気になっていたに違いないのです。
買物に行った成増駅前の商店街で、お婆さんが二人で手をつないでシャッターに張られた張り紙を見ていました。シャッターの張り紙はひどく乱雑な張り方をされていて、いったい何の張り紙だろう?と不思議に思って近くに行ってみました。シャッターが下りていたのは日本振興銀行の支店でした。チェーン店の飲み屋さんやコンビニが並んでいる一画にそんな銀行が出来ているなんて初めて知りました。お婆さん二人は手をつないで張り紙を読んでいるのです。
ひとりのお婆さんが、債権者説明会が開かれる会場の名前を読み上げて「なんだかこれもニセモノみたいな名前ねえ」とつぶやくと、もうひとりのお婆さんは「全部ニセモノなのかしら」と嘆息していました。
張り紙は「支店閉鎖のお知らせ」「預金保護について」「債権者説明会の告知」など5枚ほど。こんな光景は映画でしか見たことがありませんでした。手をつないでいたお婆さんは、この銀行にお金を預けていたのかしら?小学生が手を繋いで初めて街に出てきたみたいな様子のお婆さんふたりでした。
買物を終えて、再び花屋さんの前をとおりかかると、ご主人がお店の扉にニスを塗っていました。どうも、今度はお店に扉がつくようです。
「きれいになりますね」
声をかけると
「明日からまた開きますから、どうぞ、よろしく」
というお返事でした。また、お花がたくさん並んだ花屋さんに戻るのかと思うとちょっとうれしくなりました。それにしても成増にあったお豆腐屋さんとか、魚屋さん、八百屋さん、小間物屋さんなど、顔なじみになったご主人や奥さんのいたお店は、いつのまにか、見なくなってしまいました。お店の人たちはどうしているのでしょう。
997 20100919 形而上学の不在 フォーラム神保町の中島岳志氏による「秋葉原無差別殺人事件」のリポートについて、ゆっくり考えています。後から反芻するように考えるのが癖なのですけれども。事件のディテールには考えさせられることが幾つもあるのですけれども、なによりも気になっているのは「形而上学の不在」という現象です。
形而上学と言ってもそう難しいことではなくって、例えば加藤被告が強く持っていた存在承認の欲求ですが、なぜそれが「存在とは何か?」という疑問の方向へ発展しなかったかというような事柄をさしています。一般の報道では、派遣の仕事を断られたために凶行へ及んだということになっていますが、実際はもう職場を辞めたくなっていたようです。一般に言われているような派遣切りが理由ではなく、むしろ職場を解雇されるのが、短期的に延期になったことが彼を苛立たせた様子も見てとれます。存在承認の欲求が大きい人は往々にして風来坊になるということを中島さんのリポートの帰りに聴講者の人とお話しましたが、そこで思い出すのは「フーテンの寅さん」でした。また加藤被告が掲示板を荒らされたことが一番の原因だと裁判に話していることを聞いて私は「寄席芸人の心理」という言葉を使って会場で感想を述べました。観客とともにセンス(趣味)と感覚を共有する空間を作り出すことを喜びとする演者によって、それは存在を否定されたにも等しいことになるのでしょう。言葉を変えれば「殺された」と感じうる現象です。
自分で気になっていたのは、この事件のレポートを聞いた感想に「フーテンの寅さん」や「寄席芸人」と言った喜劇の属する言葉が出てくることでした。事件の重大性に比べてあまりにもアンバランスな例えです。その理由が解らなかったのですが、「形而上学の不在」ということを考えてみると、なんとなく、自分の感じていたことが解りかけてきました。
掲示板上の「ネタ」がしだいに「ベタ」になって行くというのは中島さんのリポートにあった内容です。ところで「ネタ」はなぜ「ベタ」になって行くのでしょうか?「ネタ」は虚構、「ベタ」は実際と一般的な言葉に置き換えて考えてみると、「ネタ」が「ベタ」になる過程の手前に「ネタ」とは何か、つまり虚構とは何かという問いかけが現れても不思議ではないのです。実際的な行動の手前で現れることが予想される形而上学への入口が閉ざされていた、あるいは扉は開いていたのだが、形而上学が不在だったというイメージが湧いてきました。
喜劇は、形而上学への回路を一時的に塞いで、生真面目で硬い気分から人を救い出すという機能を持っているのですが、秋葉原事件でなぜか喜劇の比喩が頭に浮かぶのは「形而上学の不在」が逆説的な形で事件全体に介在しているからではないでしょうか? 事件全体というのは、加藤被告一人が、そうしたものを抱え込んでいたのではなく、あまり社会という言葉を使いたくないのですけれども、社会が広範に「形而上学の不在」という現象を抱え込んでいたことが凶行へ向かう遠因になっているという印象を持っています。
形而上学の入り口は「問い」でしょう。その「問い」に答える何かがなかったのです。「問い」に答えるのは「答え」ではなく「問いを承認すること」だとすると「問い」というのは、我々が日常の言葉では「生きる意欲」と呼んでいるものにたいへん近いのではないでしょうか?
996 20100917 昨日のフォーラム神保町 昨日はフォーラム神保町で中島岳志さんと御一緒させていただきました。中島さんありがとうございました。私はフォーラム神保町の世話人をやるのは初めてで不手際が多くて申し訳りませんでした。お許しを。
テーマは「秋葉原無差別殺傷事件」の加藤智大被告についての詳細なレポートでした。中島さんは裁判を傍聴し、被告の住んでいた土地も訪問して、この事件のデティールに沿って「何が起きたのか」を検証しようとしています。フォーラムは時間超過するくらいで、その様子は書ききれませんが、フォーラム神保町のHPに加藤被告の同僚であったと言う方が聴講したレポートを書いてくださるとのことでした。
私が感じたことを以下三点にまとめます。
まず第一番目は加藤被告のつかう「本音」と「本心」の違いです。ネットの掲示板に書いたブラックな発言やジョークは「本音」だといい、しかしそれは「本心」ではないと裁判で発言したと報道にありました。中島さんのお話でこの「本音」と「本心」の違いがよく理解できました。「本音」はどうやら、センス(趣味)や価値観
をさしている言葉のようです。本心のほうは意志を意味していると解してよさそうです。ネットの掲示板を被告は「本音」を吐露できる場所だと捉えていたことは報道されています。それがあたかも寄席芸人の心理に例えることができるようなものだと中島さんの報告で解りました。寄席芸人のたとえは事件の凄惨さとはアンバランスえですが、私が言いたかったのは、同じセンス(感覚)同じ価値観を共有できる空間を観客とともに楽しみいたい演者の心理ということです。寄席芸人の対極にイメージしていたのはテレビタレントでした。テレビの演者は直接に観客(視聴者)を見ることはありませんし、視聴者がどんなセンスと価値観を持っているのかを演じながら感じることはできません。
二つ目は被告が強い承認欲求を持っていたという点です。これは報道からも感じ取っていました。で、帰途、聴講者の人と話題にしたのですが「職場をやめることを望んでいた」という中島さんのご指摘は正しいだろうという話です。職場を首になって凶行に及んだのではないのです。人間は不思議なもので、存在している人は「空気のように」無視してしまうのに、不在の人は「不在によって存在を強く感じる」ということがあります。だからおうおうにして承認欲求の強い人は、風来坊になったりするものだというお話をしました。
三つ目は、この事件を見ている新聞なら読者、テレビなら視聴者にたいする私の興味です。今までなら報道が安易な解釈で拙速に走ったと感じられることが、この事件では報道を受ける側が、なにかそこに「英雄」を見たいという欲望を持っていることが感じられるというところに、関心が向きました。もっとも、この視点は、被告の行動に関心を向けていた中島岳志氏を面食らわせてしまったようです。いきなりの方向転換をしましてすみませんでした。
995 20100916 ほんもののビリケンさんに出会う。 ほんもののビリケンさんは通天閣の上にいました。奇妙は木の彫刻。なんでもアメリカの女性が夢にみたものを木像にしたのだそうです。
通天閣を訪れた人が足の裏をなぜるものだから、足の裏がV字谷のように磨り減っていました。これは写真にとっておけばよかったなあと、後悔。
994 20100915 観光地は俗悪? 観光地は俗悪って固定観念はいつできてしまったんだろう? だいぶ前だったような気がします。それこそ、第一次レジャーブームで、どこに行っても大勢の人がいて「押すな、押すな」状態だったとき。私は10歳以下です。親が嘆くことを耳で聞いて、素直にああそうなんだと思い込んだという感じです。それから、20歳前後になって、観光地はどこに行っても「かったるい」というポーズをとる人がかなり周りにいて、それも影響しているかしら。ただのポーズじゃなくって、実際、なんだか「かったるい」場所が多かったのも事実です。一時の熱気が去って、廃墟は目立つし、やる気のなさそうなドライブインの看板のペンキははげているし、せっかくの景色は、中途半端な工事のために台無しになっているしで、ろくなことはないってことになってました。
遊園地もどこか荒んでいたし、動物園は動物がノイローゼになっているし、植物園は枯れた植物が点在しているし、思い出してみるとオイルショックの頃でした。
で、観光地は俗悪って固定観念が揺らいだのは、東京ディズニーランドが出来たとき。東京ディズニーランドはお客さんにも、「おとぎの国の住人」になることを要求する遊園地で、ここで観光地は俗悪って冷めたポーズをとることは許されないというか、そういうポーズをとること自体が大人気ないというか、場合によってはほかのお客さんの気分を台無しにする醜悪な行為だと、大げさに言えば、そう思いました。
なんだろう? 人が集まって楽しむ場所を馬鹿にするとインテリっぽいというのか、そういうポーズが流行っていることに違和感を感じだしたのです。「東京ディズニーランド」が出来た頃の違和感を思い出すと、今でもご飯の中に小石が入っていたようにぎしぎしした嫌な感じがします。それは、上等なレストランに行ったのに「ここは気取っているからいやだ」とか、ひどいときには「無用な気取りだ」なんて偉そうに言い出されるみたいな場合に感じるそれと似ています。そういうぎしぎし感って私の親の世代(今の70代)よりも10歳くらい下の世代(今の60代)の人に感じることが多い感覚でした。
993 20100913 レジャーブーム レジャーブームを検索したら毎日新聞の1961年の記事が出てきました。スキーにいったり、海水浴に出かけたり、そういう人が多くなった時期はそんな頃から始まっていたんだと、改めて、新聞記事に添えられた写真を眺めてしまいました。
私の生まれた家は横浜の釣船屋でしたから、このレジャーブームの恩恵をまともに受けました。ただ、母はちょっと嘆いていました。なにを嘆いていたかというと「遊びと仕事の区別が付かないお客さんがふえちゃった」と言うのです。釣をしたら、釣船代以上の釣果が欲しいと言うお客さんが多くなったという嘆きです。漁師が自分の生業として釣をするんじゃないのだから、成果よりも海に出て魚を釣るという行為を楽しんで欲しいんですけど、そうも思いとおりの釣果がでないと文句がでるようになったそうです。ちょっとぼやいてみせるくらいなら、期待はずれの代償として笑えるんですけれども、他のお客さんが不愉快になるほど怒る人もいたりしたようです。時々「今まで遊んだことがない人は仕方がないかな」とつぶやいていました。
それで10年に一度は「お前なんかお客じゃない」というお怒り爆発があって、これは我が家の語り草。母の「お客じゃない」宣言が出るとそれまでお客さんとして扱っていた人が、ただのふつうの人になるというわけ。お客さん扱いをされていた御仁は「御代はいらない」かわりに、猛烈な怒りの攻撃にさらされることになるのです。当の御仁は言うまでもなく、巻き込まれる子ども、つまり私や弟それに父もたいへんな被害にあうわけです。ほんとうに恐ろしい。けれども、うちの息子や娘は、このお祖母さんの逸話を、伝説として私から聞いて、それぞれ、アルバイト先や職場でクレイマー対応に苦慮した経験を持っているので、おもしろいレジェンドになっています。就活をした学生からも面接でクレイマー対応ができるかどうかを、ずいぶん念入りに聞かれたという話を聞きます。世の中、無理難題を吹きかけるクレイマーって、多いのでしょうね。
「クレイマー、クレイマー」というメリル・ストリープが主演していた映画を見たのは、ちょうど息子が生まれた頃でした。はて? なんでレジャー・ブームの話がクレイマーの話になったのでしょうか? あ、野暮なお客の話からだった。
992 20100912 箱根細工 昭和天皇崩御の時は、バブル経済真っ只中でした。熱海はひどく寂れていて、レジャーブームの時に出来た大型ホテルが廃墟になっているところもありました。それに比べると芦の湯は、落ち着いた避暑地の雰囲気がありましたから、その頃の私には、やや敷居の高い感じがしなくもないところでした。松坂屋で泊めてもらったのは、獅子文六が好んで使ったというお部屋。お風呂付の離れでした。お風呂は檜の湯殿に檜の湯船。一人で入るにはちょうど良い大きさでした。今でこそ、部屋にお風呂が付いているという贅沢な温泉宿も珍しくなくなりましたが、その頃は、女性で一人のお客というだけで、気が引けました。「旅」という雑誌の取材だったのです。だから、こんなに良いお部屋に泊めてもらえるのだなと、一人合点していました。
獅子文六が好んだというだけあって、どこへも行かずに引きこもるに居心地の良い離れでした。で、テレビには何が映っていたかと言えば、昭和天皇が崩御したために、急にできた休日をスキーやスケートで楽しむ人々の姿です。歌舞音曲は遠慮ということで、テレビ放送は天皇崩御のニュース一色でしたけれども、スキー場やスケート場は大賑わい! ジュリアナ東京で、扇を振って踊っていた頃ですから、温泉なんて、もう時代遅れという雰囲気でした。日帰り温泉などが人気になるのは、バブル崩壊以降のことと記憶しています。
麻の葉の柄の箱根細工の葉書入れを買ったのは、この時のことでした。箱が好きなんです。葉書入れは今でも使っています。それから、一番安い秘密箱を二つ。これは子どものためのお土産。秘密箱はパズルのようなものですが、家の子はまだ小さくって、秘密箱をうまくあけられずに、そのうち壊して放り出してしまいました。箱根細工は古めかしい一時代前のお土産になっていました。そのまま時代の波にもまれて消えて行ってしまうのはおしいような細工で、それから箱根に行くたびに、あまり大きくない物を買い求めていました。
それがこのごろ、すこし様子が変わってきました。あれ!今までの箱根細工と様子が違うものが出来てきたなと、最初に感じたのは、箱根細工のマウスパッドを見つけた時でした。さて、それが何時のことかと聞かれるとあまりはっきり覚えていないのですけど、たぶん、ここ10年のうちです。模様も色も柄も、なんとなく、それまでの見慣れたものと違って、どこか今めかしくなった箱根細工が出てきました。箱根細工が出来たのは150年前、つまり幕末の頃のことだそうです。工芸品もまったく新しい意匠が生み出されずに、前例踏襲している時期と、新しい意匠が生み出される時期というものがあります。どうも箱根細工は、新しい意匠が生み出される時期にさしかかっているかのように見えます。
150年前には西洋人が箱根にやって来て、お土産用に作られた箱根細工を買い、ヨーロッパに送ったとのことでしたけれども、今、箱根に来ているのは、西洋人もいますが、中国や韓国などの東洋人も大勢います。箱根の山のいたるところに美術館が点在し、そこは洋の東西を問わずに大勢の観光客が歩き回るなんてことは、歴史上初めてのことでしょうから、そういう環境がどんな意匠を生み出すのかを、楽しみにしています。ご当地キティちゃんとは違う、新しい意匠がそこから登場してくることでしょう。
お土産好きな私としては、ご当地キティちゃんも悪くはないのですけれども、もう少し、大人の趣味と言うか、まあ、うまい言葉が見つからなくって困っていますけれども、自分の生きた時代の大人の趣味の意匠が出てくることを願っています。ご当地キティちゃんと、ご当地ハイチュウには、家の子どもが小学生だった時に、ずいぶんお世話になりましたが。
991 20100911 箱根行ってきました。 今週はずっと箱根にいました。芦の湯に2泊。塔ノ沢に1泊。それから桃源台に1泊しました。
芦の湯に行くのは、昭和天皇が崩御して以来。昭和天皇崩御の日、新幹線に乗って熱海で降り、バスで芦ノ湖まで行って箱根神社を見て、芦の湯に泊まりました。さびしい冬の日でした。霧に包まれて何も見えなかったのを覚えています。
芦の湯2日目にロープウェイを使って大涌谷へ。高いところは怖いから、飛行機もなるべく大きなやつに乗るのですけど、久々のロープウェイの怖いこと。怖いこと。途中で止まったらどうしようと想像するだけで、胸が苦しくなってしまいます。わずか8分がどきどきでした。大涌谷は初めて。ロープウェイが緑の尾根をひとつ越えると、そこは、なだれる土砂が黄色く染まった大涌谷でした。ロープウェイの中にも硫黄の匂いが流れ込んできました。あちらこちらから白い水蒸気が噴出しているところもあり、ああ、怖い、怖い。
でも、噴出した温泉で茹でた黒卵はおいしくいただきました。茹でたてはかすかに金属の味がしました。
同行した藤村先生と黒卵を剥いていたら、周囲を動画撮影の外人さんに囲まれていました。紅毛碧眼。何人なのか解りませんが、8人くらいがそろって黒卵を剥く手元を撮影していました。黒い殻から白い卵が出てきたところを、がぶりと噛んで「ほら、卵だよ」と見せるつもりが、どうしたわけか、白身の多い卵で、再度、がぶりとやって、黄身を見せました。手元を撮影した外人さんが頭を何度も上下させたのは、きっと「ありがとう」のつもりだったのでしょう。何も言わないシャイな感じは米国人でもなければ仏国人でもなし、ましてやおしゃべりなイタリア人でもなさそうだし、ドイツ人でもないとなると、いったいどこから来た人だったのでしょう?
大涌谷の駐車場には、エアポートリムジンも入っていました。
翌日は朝から土砂ぶり。どうも台風の影響らしいと気付きながら、ポーラ美術館からラリック美術館に回りました。
ポーラ美術館は展示換えのために割引料金。大雨なのにけっこうお客さんがいました。美術館前のバス停に透明な屋根があり、この屋根は三角形を二つ並べたような形をしていて、雨をよくよけるのに感心。箱根はいつの間にか美術館だらけになりましたが、昔は植物園がたくさんあったのを思い出しました。箱根だけじゃなくって観光地と言うと必ず植物園があったのはなぜでしょうか? 観光地の植物園が廃墟同然になっているのを時々見かけますけれども、美術館はそうはならないのかしら?
ラリック美術館へ行くと「今日は台風のため4時で閉館します」とのこと。せっかく来たのだから大急ぎで回ろうと、美術館に入りました。で、法政文芸の編集委員の女性二人が仲良くしゃべっている背後の窓の外で、大風に揺らぐ木々が滝のような雨に打たれているのを見て、内心、こりゃまずいかなと不安になったものでした。「嵐を呼ぶ女たち」というようなタイトルをつけたくなる光景でした。案の定と言うか、危機に気付くのが遅いというか、登山電車は運行停止。道路もあちらこちらで冠水。こりゃたいへんと、なんとか湯元まで戻ってくると小田急のロマンスカーも止まっていました。ローカルは運行していると言うので、法政文芸の編集委員諸君をローカルに乗せて、私は塔ノ沢の福住楼へ。6月に蛍を見に来た宿です。蛍が飛んでいた早川は、ごうごうと濁流が渦巻き、いまにも庭先に水が上がってきそうな勢いでした。
温泉の湯にも、泥水が入ってにごってしまったとのことで、お湯を汲みなおしている最中だと女中さんに教えてもらいました。
で、テレビをつけてみると、あふれ出しそうな酒匂川の中に取り残されたおじさんが、木に登って助けを待っている中継映像が目に飛び込んできて、びっくり。さらには台風が静岡県御殿場市付近で、熱帯低気圧になったと知って、さらに仰天。だって箱根は神奈川県ですが、御殿場市の隣なのですから。日本海側に抜けた台風は勢力が弱まるとタカを括っていたので、なおさらの驚きでした。静岡県は海側から台風に襲われることはあっても陸地側から台風が進入するなんてことは、想像を絶してました。思わず携帯をひっつかんで、法政文芸学生編集長を呼び出してみると「みんな、電車に乗って帰りましたよ」と言う返事。そう言う彼は、小田原泊まり。しばらくしたら、宿を見つけましたという電話をくれました。その頃には、止まっていた新幹線も走り出していました。と、ここまでは、法政文芸の編集委員諸君との合宿の話。
台風の翌日は、ゼミ合宿で桃源台へ移動。「桃源台集合」ってちょっとなあ、たいへんと思ってはいましたが、横浜市内に同じ名前の団地があるとは知らずにいました。私も以前、福岡の別府(べふ)と大分の別府(べっぷ)を取り違えて、熊本近代文学館の皆さんに大騒ぎをさせたことがありましたが、同じことが起きたのです。検索って、ふつう人が考えるのと違う答えを出しちゃうことがあるのですね。おまけに東名は前日の台風の影響が残っていて、高速バスの到着はいつになるのか解らないし、箱根の道路もあっちこっちで渋滞。そんなわけで、全員そろうまでにいろいろありましたが、午後から仙石原へ。すすき野原を歩きました。タクシーの運転手さんに聞いたところだと、今年のすすきは穂が出るのがいつもの年よりも早いのだそうです。こんなに暑いのにどうなっているのでしょう。
で、例によって、またまたノープランで、明日はどうしようと、宿に帰って相談しました。
「ロープウェイが怖いの」
そう言うと、なぜか幹事はかわいい顔をして
「じゃあ、ロープウェイに乗りましょう」
って、おいおいです。しょうがないなあ。
桃源台から大涌谷までのロープウェイは管理保守のために運転休止中なので、バスで大涌谷へ。大涌谷と早雲山を往復をロープウェイでしました。で、早雲山への行きは、男子学生と同じゴンドラ。怖がらせようとするのを「これ、これ、いけません」と静止して降り、帰りは全員で同じゴンドラに乗ることに。なぜか、女の子というか、女子学生のほうが怖い感じのツボを心得ていて、どきっとするような台詞を絶妙なタイミングで吐くのでした。ああ、怖いと思いながらも、こっちもだんだんやけくそになってくると、なぜか、周囲の景色が見えてきました。すると、2日前は、あんなに黄色かった大涌谷なのに、黄色い部分が少なくなっていました。土砂が流れ落ちたあとの、Vの字の谷のくっきりとした茶色をしていました。台風の大雨で、すっかり谷の硫黄が流されたようなのです。「れこはすごいや」と思わず見とれてしまいました。で、
「先生、あれは何ですか?」
と真下を指差されて、思わず
「なに? なに?」
と覗き込んだら、目がくらくら、胸はどきどき。ひどいや、学生といるときの教師の習性を利用するなんて。なんか答えなくちゃいえけないような気がしているものだから、思わず覗き込んじゃったのでした。困った、けれども、なかなか知恵者のおもしろいお嬢さんたちです。と、まあ、みんなで大笑い。またまた黒卵をみんなで食べました。1個食べると寿命が7年延びるそうです。そんなわけで箱根に5日もいました。ロマンスカーで新宿へ戻ると、都会の匂いが珍しくなっていて、まっすぐに家には帰らず、ちょっと新宿で遊んで帰りました。新宿も少しだけ秋になっていました。 991.jpg
990 20100906 日本海に沈む夕日 日本海に沈む夕日の写真を山形の佐藤先生から送っていただきました。佐藤先生、お返事ができなくって申し訳ありません。携帯でメールを打つのが苦手なんです。ごめんなさい。
今日から10日まで箱根です。私も何かきれいな写真を撮ってきたいのですけど、またいつもの癖でぼうっと眺めているだけで写真を撮るのを忘れるかもしれません。 990.jpg
989 20100905 大阪に行ってきました。 東京も暑いけれども大阪も暑い。
日本の大都市は、たいてい空襲を受けています。それで古い建物も焼けています。それに、建物自体が木造建築なので、時代とともに立て替えられ、街の様子も変わっています。が、もともとの地形は、けっこう残っていることに、あるとき、気づきました。東京も、江戸時代の初期の頃からの地図から順番に地図を眺めて行くと、おおよその市街地の展開の様子が飲み込めます。高い場所から実際の都市の眺めを見ると、土地の高低差がはっきり見えて来て、古い街の様子を想像することができます。大阪は、そこまでつぶさに見てはいないので、まだ飲み込めていないところもあります。古い地図を集めているところです。レプリカですけど。
2日ばかり、大阪を歩き回って、少しですが、感覚的に大阪の市街地の全体を掴むことができました。まず大阪城。ここは石山本願寺があったところだと、2年ほど前に訪れたときに知ったのですけれども、本を読んでいるときには、具体的な場所ってほとんど考えずに読んでいるものなんだなあと、自分で驚きました。大阪城から水上バスに乗り、淀屋橋まで行って、今回は大阪城まで戻りました。暑くてくたびれていたから、その日は鶴橋の市場で焼く肉を食べて終わり。昨年もお世話になった今里の旅館に今年もお世話になりました。鶴橋は、中の島図書館で見た版画だと、鶴が集まるので鶴橋と言ったようです。もろこ汁が名物だったと、版画の解説に書かれていました。鶴橋から近鉄に乗って今里に出ようとして、方向を間違え上本町に行ってしまいました。
なるほど、上本町というのは鶴橋の隣の駅なわけねと、大阪城から天王寺にかけての台地が大阪でもっとも古い土地だと、教えてもらったことが、身体の感覚としてもやや理解できました。
翌日は四天王寺夕陽丘から出発。夕陽丘って、新しく出来た団地の名前のような感じがしてましたが、そのあたりから見る夕日の景色が絶景だということで、古くからそう呼ばれていたようです。湿地と海が交じり合っているような場所に突き出した台地の先端に、朱塗りの伽藍が立ち並んでいる様子はさぞ見事なものだったのでしょう。昨年の春、四天王寺で演じられる雅楽と舞楽を見たとき、石の舞台のかなたへ陽が沈んで行くのを見ました。赤い夕陽が沈み切るか、切らないかの頃合に、かがり火に火が入り、火の粉が舞い飛びました。天地と繋がる芸能のスケールに驚きました。
さて、ここからは歌謡曲ツァー。まず「王将」の新世界へ。動物園前で地下鉄を降り、立ち飲み屋さんや碁や将棋を指す人を見ながらジャンジャン横丁を通り抜け、通天閣へ。初代通天閣は明治45年に立ったのを「へえ、そうなんだ」と説明を読んで、意外に思いました。今の通天閣は2代目。登るのは今度が初めてでした。ここの見晴らしの良さは、絶品。ふっと気付いたのですけれども、通天閣から見る景色って、もしかしたら、四天王寺が、大伽藍を誇って海上からやってくる船に乗った人々に「ああ、難波津に着いた」と安心させていた時代の面影を残しているのかもしれません。西に六甲山、東に生駒山をはっきり見ることもできました。街並みの向くには大阪城の天守閣も。
「動物園前」から「淀屋橋」に出て「中の島ブルース」の中の島へ。府立中の島図書館へ。明治37年に開館した建物です。今の天王寺公園のところで第5回内国勧業博覧会が開かれたのが明治36年。初代通天閣は明治45年に立っているのですから、明治の末年の大阪は好景気に沸いていたはずですが「はて、それはどうしてなのだろう? どのような政策が功を奏したのだろう?」とふつふつ疑問が湧いてきました。蔵屋敷の集まった近世の大阪から糸偏(繊維産業)の取引で賑わう大阪の間について、私は何も知らないのです。
午後の陽盛りの時間を図書館で潰して、夕刻に「道頓堀ラブソディー」の道頓堀へ。絵葉書には必ず出てくるグリコの看板はまだ点灯していない時間でした。道頓堀から「月の法善寺横町」の水掛け不動へ。上司小剣の「鱧の河」とか織田作之助「夫婦善哉」などは大正から昭和初期にかけての、なんばが舞台です。今の大阪城が出来たのは昭和4年だとのことでした。
明治末年に賑わいだした大阪が、それが大正から昭和初期に小説に描かれるようになり、第二次世界大戦で空襲を受けた大阪が復興して歌謡曲に歌われたのが1960年代。昭和の中期と考えてみると、なんとなく時代の流れがイメージできてきました。
3日目は今里から大阪港に出ました。天保山は新しい大阪だと聞いていましたが、私は昨年の春、別府から船に乗って朝焼けの大阪に到着して以来です。その時は、早々に地下鉄に乗って市街へ出てしまったので、天保山は車窓から見ただけ。ジンベイ鮫が2匹もいる海遊館に行きました。大きな(5階建てか? 4階建てか?)がまるごと巨大水槽になっている水族館にびっくり。
この道程は法政大学のゼミ生諸君が一緒だったのですが、その中のひとりが
「先生、これはなんですか?」
と質問した先を見れば、岡本太郎作「太陽の塔」の模型がありました。1970年の大阪万国博覧会のシンボルだった太陽の塔は、今でも千里に行けば立っているはずです。 989.jpg
988 20100829 もうひとつカンボジアのすいか 西瓜の写真を送ってくれたのは、法政大学の留学生セタリンさんだそうです。
朝、晩はようやく涼しくなってきました。ここのところ、夜になるときれいに澄んだ月が出てきます。昨晩は少し遅い時刻に兄ちゃんがやってきたので、二人で晩御飯を食べに出かけました。ブラジル料理。焼きたてのお肉が10種類出てくるというワイルドなお料理。
丘の上の花屋さんのお店が閉まったままになったのは7月頃でした。シャッターがなくって、ネットで店先を覆っただけなので、店の中の花が枯れて行くのを通りかかるたびに、不思議に思ってました。しばらくすると「当分お休みさせてもらいます」の張り紙が。枯れた花は片付けられていました。そのまま、8月になり、昨夜も兄ちゃんとご飯を食べたあとで、お店の前を通りかかりましたが、がらんとした店に残っていたサボテンや観葉植物の植木鉢もかさかさに乾きだしていました。花屋さんのご主人が病気でもしているんじゃないかしら?と覗き込む店の中に、月の光が差し込んでいました。 988.jpg
987 20100828 自家製電子書籍 知り合いでのデザイナーのところで性能が良くなったスキャナーを見せてもらったのは5月のことでした。事務所にはコピー機がなく、全てスキャンしてPCから出力しているとのことでした。
「ふつうの本も表紙をとって、読み込めば、データにして置くことができますよ」
と教えてもらいました。そんなこと、本を作っている人が聞いたら怒るねえと、その時は笑っていました。
文芸家協会の理事会で、書籍をデータに読み込む作業を請け負う会社があって、著作権から考えると問題があるという話を聞いたのは7月でした。で、これは協会から抗議をしたことが後で新聞記事になってました。自宅やら研究室やらが本であふれかえっているなんて人は「そんな会社があったら頼みたいなあ」とぼやくのも、むりからぬところはあるんだけどと、苦笑い。
実際、本をばらして自家製電子書籍にしていますと、これは、知り合いの某先生。ご自分の研究の専門書から愛読の漫画まで、順次、自家製電子書籍化しているそうです。「へえ」と画面を覗き込みながら、私の頭に浮かんだのは、いったいこの夏の間に何冊の本が、ばらばらに解体されて、電子データになっちゃったのかしら?ということでした。東京で、日本中で、世界中でと、考えてみるとそら恐ろしくなるくらいのたくさんの本が、ばらばらになって、紙くずになって、燃やされたり、埋め立ての材料になったり、想像してみるとすごいなあと、びっくりしたしだいです。
986 20100826 子どもと老人 そのほか もろもろ 近代的な個人。そういう硬い言葉で言っていいならば、近代的な個人と言うと、たいていは成人した男性を意味をしていることが多いなあと感じたのは、20歳くらいの時でした。女性は大人でも入っていないの。で、その女性の自立というテーマでエッセイなどを頼まれるたびに、近代的な個人というのは成人した男性がモデルになって組み立てられている観念だなあと感じていました。女の人は、実際は成人した男性と老人、子どもの間に立って大忙しで、どっちの面倒もみなくちゃいけないのに(肝っ玉母さんというテレビの人気番組がありました)保護されている存在ということになっていて、その辺の矛盾をほんとう言ってどう考えたらいいのか解りませんでした。
小さな子どもの虐待死とか、行方不明の高齢老人とかが出ても、もう昔の家族主義を唱える人がいないのは、後戻りできないところまで来ていることを、おおかたの人が知っているからでしょう。それで、社会保障という話になるのですけれども、社会保障が整備された国って例えば北欧などをすぐに思い出すのですけれども、そういう国の宗教とか信仰ってどうなっているのかしら?もっと率直に言えば、みんな、教会に通っているのかしら? 北欧の映画で、ほとんどの人がどこかの教会に通っている場面を見たことがあるような気がしています。
社会保障って、そういう信仰と両輪になっているのではないでしょうか? 信仰が同じ人、もっと日常的に言えば同じ教会に通っている人どうしの繋がりがあって、初めて世俗的な社会保障が機能するんじゃないかと、このごろ、考えています。
そういう研究って誰か、している人がいるのかしら? なんか学問の世界にも管轄みたいなものがあって、管轄が違うと、誰の目にも明らかなことが、ちっとも調べられていないってことがあります。と言うか、宗教と社会保障の相互補完関係って言う視点の言論すら聞いたことがないような気がします。
伊藤さん、お連れ合い様 無事ご退院おめでとうございます。アメリカの病院ってすぐ患者を退院させるのね。びっくりしました。お大事に。
田原総一朗ノンフィクション賞佳作の「にくのひと」の上映会に、出かけていったら、なんと賞の受賞者、満若監督自身が「スタッフ」のカードを首から提げて暑い中でお客さんの誘導をしていました。思わず「ありゃま!」って笑っちゃいました。好青年です。
実は司会をするはずの二木さんが欠席で、前の晩に、突然、司会をお願いしますって、事務局から連絡がありました。私は都内某所で「涼しい顔で下界を見下ろす会」の最中。ただの飲み会です。高層ビルの最上階から東京湾を見下ろしてワインを飲んでいました。
で、司会って大丈夫かいな!? という具合にトークを始めたので、開場を見る余裕なし。ニコニコ動画のカメラも無視。そろそろ終わるぞって頃に、ちらりと会場を見たら、なんと、私の助手の深野女史がちゃっかり彼氏と座っているではありませんか。気がつくのが遅くって良かった。早くに気づいていたら、しっちゃかめっちゃかになっていたところでした。
985 20100823 カンボジアのスイカと瓜 2 カンボジアのスイカ細工です。このほかにもいろいろ。ゴッホの絵をスイカに刻んだものなども、勝又さんから送ってもらった写真にはありました。
壺井栄の「二十四の瞳」には、かぼちゃの提灯を作る場面がありました。主人公の大石先生が、自分の子どもを亡くしたときの場面です。戦争末期のことで、食料不足なのですけど、大石先生は「かぼちゃは子どもが遊ぶものだった」と言って、死んだ子の枕元に備えられていたかぼちゃに包丁を入れるのです。そして、かぼちゃに目と口をつけ、中身を刳り貫き、火を点して提灯にするという場面があります。大石先生の怒りが現れている場面ですが、壺井栄が描く「怒り」は切ない「怒り」でした。この場面を最初に読んだ時の、胸に包丁を突きつけられたような感じと言うのは、時間が過ぎても消えません。
昨日、法政の尾谷先生からiパッドを見せてもらいました。へぇと感心したのは「トイストーリー」の宣伝版。アニメーションの画像を触ると、動いたり、音が出たりしますし、英文を音声で読み上げながら、読んでいる単語の色が変わったりします。電子デバイス用の表現が出てくるだろうとは、前々から思っていたのですけれども、もう、ちゃんと、そういうものが出てきているのですね。これで、漢文の素読をやってくれるものができないかしら?語学には便利な道具だし、漢文の訓読文みたいなものは音で聞きたいから、そういうものがあるといいなあと、尾谷先生とお話しました。
あと、尾谷先生が写真や動画の整理にiパッドを使っているのも見せてもらいました。これもいいなあと思った機能。PCで整理するよりも、iパッドのほうが気分的によさそうでした。前々から、なんでもかんでもパソコンで処理するのではなくって、道具を分けたいと思っていましたから。
息子と息子の彼女(こういう言い方でいいのかな?どうも適切な言い方が思いつかない)と3人で銀座を散歩したのは今月の初めでした。その時、初めてiパッドに触りました。銀座3丁目のアップルショップを覗きたいと息子たちが言うので、つきあったのですけど、ズームインしたりズームアップすることができる地図があって「これはいいなあ」と思いました。ちょっとづつ、電子デバイスが、私のほうへ近づいて来ているって感じです。 985.jpg
984 20100821 カンボジアのスイカと瓜 1 勝又浩さんから、カンボジアのお祭りで使われるスイカや瓜の細工の写真を送ってもらいました。 984.jpg
983 20100819 また工事。 こんどはマンションの大規模修繕です。外側に足場を組んで、外壁の塗り替え、ベランダの床の塗装する、ほかいろいろ。息子が小学校低学年のときに近所の人と散歩に行って買ってもらってきた桜の木も移動させなくちゃいけないのですけど、どうしたらいいんだろう?
ベランダで大きく育っているのです。やっぱり枝を切るしかないのかな?
講談社文芸文庫から出る「女ともだち」のゲラを見ています。それから河出書房新社から評論集を出すことになっています。評論集は当初の計画通りだと、2段組にして800ページになりそうなので、300ページほど削ることにしました。今朝、ゲラが届きました。昨日、河出書房新社に行って打ち合わせをしましたが、持って帰ると熱中症になりそうだったから、宅急便で送ってもらいました。
今朝から、足場を組む工事の音が聞こえてきます。
このごろ、ゆっくりとしか物事をやれなくなっています。それから、物を捨てる決断が遅くなっています。時々、物があふれかえったゴミ屋敷が話題になりますけれども、ああいうゴミ屋敷ができる理由がわかる気がしてきました。元気で落ち着いていないと物を捨てることができないのです。そういうことが解っているから、まあ、それほど焦りもしないでいるのですが、ちょっとペースを上げないと、いけないかもしれないなあと、やや矛盾したのんびりモード。
そんなわけで、今年後半は工事と家の片付けと、ゲラの手入れで、終わりそうです。大規模修繕は12月初旬まで続くということでした。去年みたいに家の中へ工事が入るわけではないので、ま、家の中も少しは片付くでしょう。
982 20100818 九州の列車 東京は「Suica」大阪は「ICOCA」九州は「SUGOCA」だったけ? ICカードの名前がJRの地区ごとに違うのに、ちょっと笑えます。
ソニック特急に乗ったのは、二度目です。福岡の別府(べふ)と大分の別府(べっぷ)を勘違いして熊本文学隊の皆さんを大騒ぎさせて以来です。ソニック特急のインテリアは未来的といったらいいのか、車体が小さく感じられるわけに窓が大きく開き、座席は人間の背中に合わせた形をしています。つまり外の景色がよく見える設計になっているようです。
小倉は「楽隊のうさぎ」の取材で出かけて以来だったと書きましたが、その時は旦過市場には行ってません。けれども、再開発された小倉駅よりも、変わらない旦過市場のほうが、なんとなく記憶にある小倉に近い感じがしました。東アジア文学フォーラムの北九州市での打ち合わせを終えて、旦過市場で島田雅彦さんたちと昼ご飯を食べました。島田さんはカクウチがお気に入りで、ちょっと立ち寄ろうかという話も出ました。それは今度にと言うことで、お昼ご飯を食べてから、旦過市場で買い物をしました。なんと言ってもお魚が安い。それはそれは魅力的です。が、私はそれから由布院に回る予定だったので、お魚には手が出せません。でも何か買いたいというので、大きな苦瓜を買い、スーツケースに詰めました。
「たいへん安上がりな購買欲の満たし方だ」
というのは島田さんの台詞。道楽の買物に経済学風な解説をつけるところが、島田さんらしい。島田雅彦さんが何を買ったのか思い出せないんですが、魚屋の買物で、きっとその日のうちに東京へ戻って、得意のお料理をしているのでしょう。
北九州空港までバスに乗るという島田さんに、新しくなった小倉駅まで送ってもらいました。小倉駅で
「じゃあね」
と別れてから、ソニック特急で大分へ。関門海峡から豊後灘へ、海の景色をキレギレに眺めながらの列車の旅でした。小倉では、あれほどかんかん照りだったのに宇佐のあたりで猛烈な雨に降られました。大分で、由布院に行くために乗り換えた電車は、かわいらしい赤の電車。私が乗車した時は2両編成でしたが、時には1両で走ることもあるようでした。小さくて真っ赤な電車で、阿蘇に続く山々の間へ分け入って行くのはなかなか心地良いものでした。 982.jpg
981 20100815 4年分の紙類と格闘しています。 豆蔵君、そうか伊藤さんの豆畑支所を作った記念メルマガ以来なのね。それが06年。なるほどねえ、じゃあ、今度はツイッター開始記念になるのかしら? あ、そうじゃなくって、メールフォーム故障記念かしら?
いずれにしても今年のうちには、お家の中は片付かないんじゃないかという気がしてきました。
だめじゃ、こりゃ。
木曜日に紙バッグを持って家を出て、郵便局でお金を振り込み、地下鉄に乗って、飯田橋で降り、雨が降っていたから薬局で傘を買いました。それから理科大裏のお菓子屋さんまで歩いて、マシュマロとオレンジ入りのケーキを買い、とことこ、法政大学まで歩き、入り口のコンビニでカップ焼きそば(これがモーレツに食べたかったの)とフライドチキンを買って、研究室に入ったところで「あっ」と気づきました。
紙バッグがない、どうしよう。
で、コンビニに忘れたかもしれないと、室内スリッパのまま、急行。
「紙バッグのお忘れ物はありません」
はあ、そうですかとばかりに、もしかしたら、土手の上で煙草を吸ったときに忘れたかもしれないと、土手に戻ってみました。ただ、煙草を吸ったかどうかの記憶があやしい。で、土手の上の喫煙所にも紙バッグはなし。
紙バックの中身は日芸で開催された「同人雑誌の変遷」展の図録と、自宅の机の上に散乱していた紙類をクリアファイルにまとめたもので、一般的な意味で価値のあるものは入っていません。だから持ち去られたという心配はなし。
ここに無いなら次は理科大裏のお菓子屋さんか? と、お堀の向こうの理科大がやけに遠く見えるのがうらめしい。アグネスホテルのパティシエの作るお菓子を売っている店で、ここのマシュマロが大好き。紙の山が散乱しているのは自宅の机の上だけじゃなくって、研究室も同じで、マシュマロを餌にそれを片付けるつもりだったのです。ま、馬の鼻面に人参をぶる下げるみたいなものですね。理科大裏まで歩こうかどうか、思案していたところへ、コバフミちゃんこと近世の小林先生。胸にシャーリングが入ったサマードレスで現れました。
「あら、中沢先生」
二人で手に手をとって小学生みたいにぴょんぴょん。
「小林先生、夏休みモードですね」
「中沢先生も」
私はピンクのランニングでした。これですっかり足元は室内スリッパだということを忘れて、ともかくも薬局までは行ってみようという気になりだすと、今度は、助手の深野女史が土手を歩いてきました。
なんだかブレーメンの音楽隊みたいな展開。深野女史に「これこれ、うんぬん」と話すと
「じゃあ、先生、きっと薬局ですよ」
とてきとうな返事。で、薬局に行きました。紙袋はありません。なぜか、ここまで来たのに理科大裏のお菓子屋さんには電話で問い合わせることにして、深野女史と法政へ引き返しました。今度は土手の上で日本音楽史のネルソン先生とばったり。もうすぐ、オーストラリアにお帰りだとのこと。
「気をつけてお帰りください」
とご挨拶して、研究室に戻ってきました。で、お菓子屋さんに電話。1個90円のマシュマロを20個も買ったんだから覚えていてくれました。でも紙袋はありません。あとは郵便局。こっちも電話しました。紙袋はないというお返事。
「じゃあ、先生、ぜったい紙袋は地下鉄ですよ。それじゃなければ、お家に置いたままか」
深野女史が言うのです。
「うちだといいんだけど。」
「東京メトロに電話かけてみますか?」
「そうねえ」
なんとなく気が進まないのは、地下鉄に乗っていた時の記憶がきれいさっぱり抜けているからでした。いろいろ聞かれても、どこに乗っていたのか、ぜんぜん思い出せません。時々、そういう空白の時間があるのです。それが嫌なの。
「なんか東京メトロに電話するの嫌だ」
「先生、わがままなんだから」
と深野女史が電話をしてくれましたが、これがさっぱり通じません。お話中のまま営業時間が終わってしまいました。
夜になって娘から電話がありました。
「家の玄関の前に蝉が伸びていて、ばたばたやっているので怖くて家に入れない」
という電話でした。難儀な娘じゃと「蝉は怖くないよ。弱っているだけだから」となだめすかして、家に入ってもらいました。そして、蝉をなんとかよけて家に入った娘に私の部屋を見てもらいましたが
「ざっと見たけど、紙袋はないよ」
という返事でした。
で、なぜか、土曜日になって急に呼ばれたような気がして東京メトロに電話してみました。すると、すぐに電話がつながって「紙袋の忘れ物ありますよ」というお返事が返ってきました。すぐに上野駅に忘れ物の紙袋をとりに行きました。東京メトロの本社って上野駅にあるのを初めて知りました。
不忍の池では、蓮の花がたくさんに咲いていました。そうだ、いつだったか寒い冬の日に、まだ赤ん坊の息子を背負って、母とこの池の中の道を弁天様の方向へ歩いたなと、24、5年前のことが頭を過ぎりました。桜の花が咲き出して、あれよあれよという間に上野の山いっぱいが桜色に染まった日に、運よくめぐり合って、やはり忍ばすの池の中の道を歩いたのは06年の春だったような気がします。その日、会社をサボっているらしい新入社員とその先輩格のサラリーマンがボートを漕いでいました。あの二人のサラリーマンは今でも同じ会社に勤めているのでしょうか?
紙袋の長い長い旅でした。 981.jpg
980 20100814 固まっていた時間が溶け出す 4年ぶりにメルマガ出しました。ずっと出せなくってすみません。私自身、4年ぶりと聞いて驚いています。
4年前と言うと07年かな?
07年は8月に静岡新聞で「おたあジュリア異聞」の連載を始めました。ここらあたりから、かなりタイトなスケジュールで動き始めていたわけで。
08年に入って小川国夫さんが亡くなられたのが4月のこと。「大人になるヒント」のために大忙しになって9月に本を出しました。10月にはソウルで東アジア文学フォーラムに参加。11月にはなんとか「おたあジュリア異聞」の終わりが見えてきたかなと思っていたところ、激烈な歯痛に襲われてダウン。これが心筋梗塞の前兆とは、この時は気づかず。
09年1月にイギリス旅行の予約をとりました。ともかく連載が終わったら遠いところに行きたいという心境になっていました。
1月16日に心筋梗塞。どうも遠いところが、ちょっと違う方向だったみたい。
救急車で順天堂病院に運び込まれてカテーテル手術。糖尿病の治療と合わせて12日、入院。以来、毎月、糖尿病の先生のところへ行き、2ヶ月に一度、循環器内科の先生のところへ通うことになりました。
退院して、卒業制作面接と入学試験採点。2月になんとか静岡新聞「おたあジュリア異聞」の連載を終わらせることができました。そうそう、退院して来たら、マンションの管理組合から給湯菅と給水菅の取替え工事の予定があると告げられ面食らって、宮崎学さんからは田原総一朗ノンフィクション賞の選考に加わるように言われて「おもしろそうだけど、心臓には悪そう」と思いつつ「イエス」の返事。
3月にはかねてのお約束どおりに、熊本文学隊の皆さんのところへ出かけました。
4月にHP「豆畑の友」をリフォーム。
5月に給湯管、給水管の取替え工事のため、家の廊下、風呂場、トイレ、台所と水周りの壁や床を壊しての大工事。これで壁と床を壊したので、その延長で居間と廊下のリフォーム工事をやることにしました。
7月、大学の前期終了。「わぁい、終わった、終わった」とばかり飛行機に飛び乗ってロンドンへ。イギリスのコーンウォール半島を旅行してきました。
姜英淑さんにはこの時のことをおたよりしようとしてまだ書けていません。
8月は、心臓の検査のために順天堂へ再入院。3日ほどの入院で、再びカテーテルを入れました。
9月は、白内障の手術。御茶ノ水の井上眼科で日帰り手術。10月には例年のとおり新沖縄文学賞選考のために那覇へ。家の居間と廊下のリフォーム工事をしたのも10月でした。で、そのリフォーム工事のあと、なぜか、荷物が元へ戻らず、散乱状態で現在に至る。
11月は田原総一朗ノンフィクション賞の選考会と授賞式。糖尿病のインスリン注射を服用薬に変えることができたのも11月だったと思います。注射ではなく飲み薬になって、めでたしめでたしと09年が終わりました。
目の前の障害(仕事)を、少し先の娯楽を目当てに次々と飛び越して行くというような感じの09年でした。10年に入って法政大学の学生諸君と「法政文芸」6号の編集作業を本格化させたのですけど、正直言って、今回は不安でした。何が不安って、雑誌の編集作業を進めるときには、時間の見通しを立てながら、全体の進行させ、同時に変更する事項が出てきた場合に臨機応変に対応する必要があるのですが、そうした時間の流れの感覚をうまく捕まえることが、今の自分にはできないんじゃないかという不安を抱えていました。
編集作業の進行を見ていてくれた藤村先生も冷や冷やなさったようです。「最後はするっとまるっと収めてくれると思ってました」と言って下さったのですが、するっとまるっと収まったのは一重に法政文芸編集委員の学生諸君のおかげです。
ここ3、4年の時間の流れの感覚をあえていえばカードはめくっているような感じです。流れにならないの。1枚、1枚、めくったカードをぽいぽいと後ろに捨てているようなもので、3枚先には「楽しい事」や「おもしろい事」が待っているぞ!とは感じても、後ろを振り向けばカードが時系列を無視してばらばらに散乱しているという状態でした。そして、散乱したカードがぐちゃぐちゃに固まってしまって何がなんだか解らなくなってしまっていました。こうして人は自分が年をとって行くことを忘れちゃうんだなあと呆れました。毎日が反復した連続でしかなくなり、緩やかな曲線と言ったらいいのか音楽的な起承転結のある流れを失うみたいです。音楽の言葉で言えば、メロディーが失われ、ハーモニーは他の人たちとの関係でようやく保たれていても、乱調になり、リズムだけがやけに際立つという事態。
メルマガを出そうということになったきっかけはメールフォームの故障でしたが、なんとかメルマガが出せたので、ぐちゃぐちゃになった時間がちょっと溶け出してくれたので、ほっとしました。
ところで豆蔵君、この前、メルマガを出したのはいつだったの?教えて下さい。
※ 2006年7月31日となっています。伊藤製作所が出来た記念で出したようです。どうやら。(豆)
979 20100813 ERって(冷や汗) こんにちは。伊藤さん、ERってそれは重篤じゃないですか。ほんとうに、次々のご苦労。どうぞ伊藤さん自身が疲れないようにして下さい。
昨日の「ややや」は、伊藤さん流に言えば、吉行淳之介に「やややの話」っていうエッセイ集があって、そこからお声をおかりしました。新聞などを開いて「ややや」と驚く感触を言っているのです。「あれっ」というぐらいの軽い驚きから、今の言葉で言えば驚いて「ヒイチャウ」ぐらいのやつ、それから冷や汗が出るような驚き、その他、いろんな種類の驚きを「ややや」と表現したものです。吉行淳之介の「やややの話」が出た頃にはもう少し古風な表現になっていました。
お問い合せのメールフォームが不通になっていました。すみません。何人かの方からお知らせをいただいて気がつき、昨日、豆蔵君に修理してもらいました。ご迷惑をおかけした皆様、たいへん申し訳ありませんでした。
それで、ものすごく久しぶりにメルマガを出そうということになりました。
さらにツイッターを利用すればお問い合わせフォームの不通などにも対応しやすいのではないかということで、ツイッターにも入りました。
ツイッター:中沢けい
以上、お知らせです。
伊藤さんくれぐれも無理をなさらずに、お過ごし下さい。どうぞ、どうぞ、お大事に。物事に感じやすい人はそれだけで、疲れ易いのですから。
978 20100812 ややや! 伊藤さん、それで、お連れ合い様は、いかがしましたか? 大丈夫? ともかくお大事にして下さい。
977 20100811 いやあ、伊藤さん、御元気でなにより 伊藤さん、御元気でなによりです。なに、なに。明治5年の聖書。「聖書は申す」って。申すってところがすごいなあ。
今日、初めてiPadなるものに銀座のアップルストアで触りました。予想よりもずっと触り心地は良かった。地図を見たんだけど。ぱらってめくれる感じが画面とは思えないほど実感があった。
あ〜、ほんとのことを言うと病気をしてからね、遊んで歩くのが楽しくって仕方がない。5歳児の頃に、遊び歩いて日が暮れて、お母さんに叱られてから、なんで日が暮れているんだろう? って驚いたような心境と似たり寄ったりになっていて、はて、さて、どうしたものだろうかしら?
ええと話は戻るのだけど、一昨年の春に福岡の別府(べふ)と大分の別府(べっぷ)を間違えて(ありえない間違いじゃ!)熊本の皆さんを大騒ぎさせた時、特急で小倉を通っているのですけど、その時は小倉の駅舎が新しくなっていることに気づきませんでした。
「楽隊のうさぎ」の取材で小倉に行ったのは、1997年だから、もう13年前。お城が立派な町だという印象が残っています。1978年の年末には戸畑へNHKの番組で、自殺した中学生の女の子を取材に行きました。たぶん、この取材の時、はじめて飛行機という物に乗ったんじゃなかったかしら? 東京から福岡まで。番組の宣伝用に若戸大橋で撮影した写真が残っています。
今度は門司港から船に乗って、八幡製鉄所や若戸大橋を海側から眺めてきました。工場って、すごく不思議な印象をもたらすんだけど、これが言葉でうまく言えないのがもどかしい。100年以上も鉄を作り続けている工場ってのは、真っ赤に赤錆に染まっていて、なんだか溶鉱炉の魂があるって感じがしました。
あと、巌流島ってこんなところにあったんだと、感心。それから平たい藍島というのがあって、なぜかこの藍島に行ってみたくなりました。平たい島の姿が気に入ったの。鮑がとれると聞くとますます、藍島へ行きたくなりました。あのあたりは山口県の下関と福岡県の北九州市の島が入り組んで点在している海域でした。
歴史の教科書で、馬関戦争ってのが出てきて、長州はイギリスから砲撃されましたって書いてあったけど、門司から海に出てみると、関門海峡はほんとに狭くって、きっと長州が砲撃される様子は、門司からよく見えたに違いないのです。門司の人々、それから小倉のお城の侍たちは、その砲撃をどんな気持ちで眺めていたのかしら? 気になりました。
島は好きで、大分空港でも、山口の祝島が、瀬戸内の吉野と言われているのを知って、行ってみたくなったのですけど、実はひどい船酔いの癖を持ってます。今回も門司から小倉まで船で移動する間にちょっとだけ外洋にでると聞いてので、酔い止めの薬をもらって飲んでいました。響灘へ出ると、船底に当たる波の感触が急に硬くなるのが解りました。
こりゃ、たまらんと、デッキから船室に戻りましたが、その昔、海を渡ってきた坊さんや宣教師は波に揺られるのは平気だったのかしら?
ありゃ? 伊藤さん、明治5年ってまだキリスト教は禁教令がとかれていなかったんじゃないかしら? 違う?
976 20100810 年金と相続税 角りわ子さんがソウルで展覧会を開いたらたいそうおもしろかったそうで、パリでの展覧会の話も聞いた。次はニュー・ヨークで個展を開きたいと言っていた。姜英淑さんは、アイオワ大学で、今度、直木賞をとった中島京子さんと知り合ったとメールに書いてきてくれた。世界はだんだん狭くなっているような気もする。
で、角さんと晩御飯を食べたときの話題は111歳のミイラになったお爺さんの話。気が弱くって、ご飯のときにミイラの話をするだけでも、ちょっと怖くなるって行ったら「ほんとに?」と呆れられた。長生きのはずのお祖父さんがほんとうは30年前に死んでいたのを、家に中にそのままにしていたという事件は韓国でも大々的に報道されたそうだ。
「あれって年金が目的じゃなくって、相続がこじれたか、相続税が払えなかったかじゃないのかしら」
角さんにそう言ってみた。
「そうかもしれない」
「だってさ」
気持ち悪いと言いながら、どんどん想像にのめり込む私。30年前って言えば、新聞には年中、長男の嫁だという人が、年寄りを看取ったのに、相続の権利はないって悩みが載っていた頃だ。気の毒な人になると、結婚してすぐに夫は戦死して、それからずっと婚家の親の面倒を見たのに、財産相続からは外されたって人もいた。
「明治生まれの両親に、大正末から昭和の初め生まれの子どもってのが30年前の親子でしょ」
それで、法律は終戦後にアメリカが持ち込んだ税制で出来ていて、アメリカ本国よりもずっと革新的な形態になっているから、へんてこなことが起きるわけと、一度回り出した頭はどんどん回る。年金受け取りが目的じゃなくって、相続が問題だったと考えると、報道されていることの辻褄が合ってくる。
「それ、小説に書いたらいいのに」
「水上勉の飢餓海峡みたいなやつ?」
「そうそう」
「ううん。そういうのあんまりうまくないから
「桐野夏生さんだった書けるかしら」
「うん。たぶん。たぶん。思いっきり怖いのが書けると思う。私だと、気の弱い息子が、相続のけりがつけられずに、のびのびにしているうちに言い出せなくなったとか、頑固なお祖父さんが武田信玄ばりに、死して三年はこれを明かすなと遺言したとか、なんだ、間抜けな話になっちゃいそうな気がする」
なんて話になっちゃいました。
同じ事件の話題を別の人ともしたのだけれども、それも思い出してみるとご飯のときでしたが、その時は、頭の中にそんなふうに、明治、大正、昭和という具合に時間がくっきりと線を描きませんでした。角さんのペースというか、身体に蓄えている時間間隔が、年金じゃなくって相続だって言う想像を私から引き出したみたいです。だから、会話っておもしろい。
相続税については、大阪のタクシーの運転手さんから「お屋敷がみんな細かい家やマンションになってます、相続税がよう払えんから」と言う話を聞いたこともあります。それから、住宅地の乱開発も、もとはと言えば相続税の支払いのために土地が売り払われるからだとも聞きました。画家の遺族が、相続税のために絵を売って市場価値を下げるよりも燃やしたほうがマシだって言って実際、絵を燃やしちゃったという話も聞きました。
975 20100809 月日は飛ぶように去る 7月半ばから、さあ、夏休みだぞってわけで、次から次へいろんな人に会って話をしたり、あっちへいったりこっちへ行ったりです。12月の東アジア文学フォーラムのために北九州へも行ってきました。それで、熊本から東京へ来ていた伊藤さんとは、どこか、空の上か、地上か、わからないけれども、すれ違ったらしいのも、伊藤さんのコラムを読んでいたら解りました。
北九州は30年前に戸畑へNHKの取材で出かけたのが最初。それから、小倉と門司へ「楽隊のうさぎ」の取材で行ったのは、もう12、3年前になるのには、ちょっと「そんなになるんだ!」という驚きでした。北九州の帰りに、湯布院へ。湯布院から別府へ戻って竹細工を見てきました。大分県は竹の産地で、エジソンが電球のフィラメントに使ったのも大分産の竹だそうです。
北九州から戻って法政大学の富士見校舎で日本編集者学会の定期セミナーで元講談社の徳島高義さんにお話をしてもらいました。それから法政文芸6号の打ち上げ。
そうそう、家には姜英淑さんからお手紙が届いていました。急ぎお返事を差し上げたのですけど、イギリス旅行の話を「豆畑の友」に書くといいながら、もう1年。ほんとうに月日は飛ぶように過ぎ去って行きます。陶芸家の角りわ子さんから小田急デパートで個展を開きますって葉書が来ていたので、渋谷のオーチャードホールで佐渡裕指揮の「キャンデード」を見た帰りで、小田急へ出かけて行くとなぜか司修さんが個展を開いていました。
私は「?」という感じ。
「ほんと偶然なの」
と角りわ子さん。デパートが仕舞ってから、ご飯を一緒に食べました。そんな具合に月日は飛ぶように去って行くのです。角りわ子さんと話したのは、都内最高齢の男性が30年前に死亡していたという事件。
「あれって年金が問題じゃないよねえ」
って。この話はまた明日。
974 20100710 家庭の秘密 今住んでいる家を買った時、記念に買った洋食器のセットがあります。和食器はいろんな食器を組み合わせて使いますけれども、洋食器は同じセットでそろえると立派に見えるという理由。もっとも、この食器セットは食器棚の中でややお邪魔な存在。お正月にしか使わないのです。が、ティーセットは例外。
ポットとカップ、それに、シュガーポット、ミルク入れなどのセット。それからケーキ皿。これは時たま、使うことがあります。で、問題はそれが時たまだったこと。ある日、ポットの蓋を開けたら黴の匂いが。
これは良く乾かさずに戸棚にしまったせいだと、良く洗ってから乾かしておきました。でも、黴の匂いは以前として消えません。ま、そのうち匂いも消えるだろうと楽観的予想で、何度か使用しました。
ちなみに娘は紅茶を飲むなり、眉をしかめ、匂いには言及せず、紅茶そのものを無視。息子は「なんだか、この紅茶は古くない?」と疑問を呈しました。で、私はポットのせいだとは言わずに「古いかもね」と曖昧な返事をしました。
なぜ黴の匂いが抜けないのか、深く追求することもなく、ポットを洗ってはよく乾かして戸棚に仕舞うを繰り返していて、ある日、漂白剤を使うことを思いつきました。茶渋はキッチンハイターを使うとよく落ちるのです。漂白剤を使ったら、黴臭さは抜けるかしらと、じばし漬け置きしておきました。
ポットはみるみるうちに白くなります。が、なぜか、ポットの内側の注ぎ口の穴だけは黒っぽいまま。
それで楊枝で、ポットの内側から注ぎ口の穴を突っついてみたんです。どうしたわけが楊枝が穴の中に入ってきません。
「ありゃ?」
なにか詰まっているのかしら?とさらに突っついてみました。へたに力を入れると、穴そのものの周囲を割ってしまいかねないので、恐る恐る突っつくこと、しばし。黒っぽい汁が流れ出しました。
「小さなブラシがあったはずだ!」
昨年の年末に小さなブラシのセットを買ったのです。試験管洗いの形のブラシが、ひとつのリングに極小、小、中、大、特大と5本そろっているブラシセットで、何かの役に立つかもしれないと買ったものでした。
極小で、そっと穴を突っついてみると、またまた黒い汁が流れ出すのです。極小ブラシがさらに突っついていると、すぽっと、耳くそくらいの黒い塊が流れてきました。どうやら、注ぎ口の底の部分にたくさんの紅茶の屑が詰まっているらしいということが、理解できてきました。これが、どうやら黴臭さの本体だったようです。
もう、それからは極小ブラシで、注ぎ口の複数の穴をひとつひとつ掃除して行きました。すると、出てくるわ出てくるわ、驚くに値するほどの黒い塊が流れ出してくるのです。極小ブラシを小のブラシに変えてもまだまだ黒い塊が、しかも、初期のやつよりも、やや大きめの断片が流れだしてくるのです。あきれるくらいにたくさんの紅茶葉の屑が詰まっていたのでした。
これは絶対、息子にも娘にも言えない秘密です。我が家の重大な秘密です。もし、この秘密がばれたら、引越し記念のポットは御はらい箱にされてしまいます。
でも、もう黴臭くはないんだから、そう言ってもきっと大ブーイングが巻き起こることは間違いありません。
973 20100704 選挙サンデー バーゲンセールのはがきにつられてふらふらと有楽町へ。有楽町の駅前は、丸井が出来てから、すっかり明るくなりました。電車の高架下だけの一画は昔のまま。いつも行く中華料理屋さんは、その一画にあります。昭和30年代からあるんじゃないかしら?
扉を開けると一階はいっぱいで「お二階にどうぞ!」と、中国語のイントネーションが残る日本語で案内されました。ずっと昔は日本人がやっていた店だったのだけど、いつの間にか中国人のお店になっています。で、階段をがたがた言わせて2階へ。この階段ががたがたする感じが、なんか、昔って感じがします。
2階へ上がると、丸井の前で、誰やら甲高い声で演説中。甲高いとがった声です。街宣車には「八代英太」の文字。しかし、八代英太とは違う話手のような気がしました。例によって堅焼きそばを注文。こういうお店で働いている中国人の女性が、年々歳々におしゃれになっている気がします。それから街を行く人も、けっこうおしゃれ。日曜日はとくに、母娘でおしゃれをしている二人が目につきます。あと、日曜日の若い男の人はすごくおしゃれです。街宣車の周囲もそんな人たちが集まっていました。
すると、なぜか鋭い声で演説をしていた男性が、歌を歌いだしたのです。これが、アカペラなのに、うまい!
「あ、歌いだした」と言って、焼きそばを運んで来た店の人が窓を開けました。いやによく通る声です。「いったい誰だ?」と首をかしげていると「松山千春さん、どうもありがとうございました」って声が。この声はもしかすると鈴木宗男議員ではないでしょうか? 続いて「北海道から出てきたかいがありました」とこれはどうやら歌の主らしいのですが、歌うときと、話すときでは、声が違いすぎ!
「選挙?」
注文とり以外はあまり日本語がうまくないらしい女性が、仕草を交えてそう聞くので
「そうそう」
「朝からずっと、誰か来てますね」
と街宣車がいた交通会館の前をさしました。丸井が出来たときに、ガードをくぐる道路を一本塞いで歩道にしてしまったので、選挙演説をするにはちょうど良い広場になっているのです。
「選挙、あと、何日ですか?」
と聞かれたので
「あと1週間です」
と答えると
「じゃあ、まだ、毎日、いろんな人、来ますね。有名な人来るね」
と笑っていました。演説にはそう興味はなさそうでしたけど、歌を耳にした時には、心底うれしそうな顔をした中国人の店員さんでした。
971 20100702 伊藤さん、たいへん。たいへん。 伊藤さん、原稿が消えちゃったみたいですね!私も「ブブゼラの音に起こされて」というタイトルで書いたコラムが一本消えちゃってました。はて、これはどうしたことでしょうか?
管理人の豆蔵さん、どうしたのか、わかりますか?
#わかりませんが、サーバに雷でも落ちたのかもしれません。こんなこともあろうかとバックアップを取っておいてよかったです。(偶然ですが・豆)
豆ちゃん どうもありがとう!そういえば、雷雨で電車が止まってました。たよるべきは、やっぱり管理人ね!
(中沢)
972 20100627 ブブゼラの音で目が覚めて 伊藤さん、御元気そうで何よりです。
うちがサッカー王国の埼玉なので、息子は小学生の時、サッカークラブに入ってました。で、娘も「お兄ちゃんが入るなら、あたしも入りたい」と。チームの監督のところへ女の子も入れるかどうか聞きに行ったことがあります。なんでも隣町のクラブには、ナショナルチームのジュニアクラスに入っている女の子がいるチームがあるとのことで、娘もサッカークラブに入てもらえる許可をもらいました。ところが、それやこれや交渉をしているうちに娘のほうが「サッカーって男の子だけじゃん、知らなかった」と言い出して、すっかりチームに入る気をなくしていました。娘はスイミングスクールにも通っていたから、サッカーが沙汰止みになってちょうど良かったのですけど。
Wカップの初戦、カメルーン戦は「法政文芸」の編集委員と、法政大学近くのカフェで見ていました。見るつもりじゃなくって、編集委員会の帰りにビールを飲んでいたら、突然、スクリーンが下りてきて中継が始まったのです。で、私の隣の山田君が
「あ、入った」
と叫びました。
「入ったじゃなくて、入れられたんだろう」
そんな感じで、なにげにスクリーンを見ると日本に1点入っているので「ううん?」。だってブラジル相手に歴史的1点を取ったという試合だった過去にはあったのですから。その日は「入った」の山田君と地下鉄のホームに降りて、顔を見合わせてしまいました。ホームに電車を待つ人が誰もいなかったのです。電車もすいていました。家に帰りついたのは、ロスタイムの時。テレビを見ていた娘とロスタイムの間じゅう、固唾を呑んでいました。
さて、二戦目。相手はオランダ。この日は大阪芸術大学の出講日。試合時間は帰りの新幹線の中のはず。いつも講師控え室でいっしょになる映像翻訳の男の先生は「今日はサッカーが見たいから、東京に帰らず、実家に帰ります」って笑ってました。
「オランダは強いよねえ」
と、二人でぼこぼこにされなきゃいいけど、と心配顔になってしまいました。
新幹線の中の電光掲示板に、絶望的な数字がでなければいいんだけどと、おそるおそる、時々、掲示板を見ていましたが、あの掲示板のニュースはそれほど速報ではなさそうで、サッカーの試合経過は流れていませんでした。そこで一念発起。今まで使ったことがなかったけれども、携帯電話をインターネットにつないでみると、なんと0−0で前半を折り返しているではありませんか!。東京駅に到着する前にもう一度、携帯で試合経過をみると0−1で負けてました。が、思わず「すごい!!!」
家に帰って、午前3時からの再放送で試合を見ました。けれども、なぜか1点入れられる場面だけ居眠りをしてしまい、目が覚めたら1点入っていました。
勝つか引き分けるかで決勝T進出が決まる第三戦のデンマーク戦。「あ、入った」の山田君と、午前3時からの中継を見るかどうかで、話をしました。山田君は電車の押し屋のアルバイトをしています。
日本が勝ったにしろ、負けるにしろ、試合終了時間と朝の出勤時間がぶつかりそう。
「始発電車って、ゲロ吐いてあることがあって、掃除するんですけど、明日はいつもよりもゲロが多そう」
そうか、そういう心配もあるのかと感心。家に帰ったら娘はもう寝ていました。前々から早く寝て、中継を見ると宣言していた娘です。なんでも娘の会社では、中継を見るために有給休暇をとった人もいるとのことでした。
午前3時半。ブブゼラの響きで目が覚めました。ちゃんと時間どおりに起き出した娘がデンマーク戦の中継を見ていました。どれ、どれ、と居間へ出て行くと、2点先制点を取っているではありませんか。ありゃ、びっくりと、そのまま、朝まで娘に付き合ってしまいました。3点目が入ったときは、二人で万歳。夜があけてました。娘はそのまま、会社へ。
夕刻、たまたま乗り合わせたタクシーの運転手さんとサッカーの話になり
「3点目は本田が岡崎に入れさせてやったんだなんて失礼なことを言うやつがいる」
と憤慨していたので「そうだ、そうだ」と同調。それで200円ほどタクシー代をおまけしてもらいました。
970 20100622 ロストクライム 3億円はどこへ行ったの? 角川映画の「ロストクライム 閃光」を試写会で見てきました。1968年の「3億円事件」を題材にした永瀬俊介の小説を映画化したものです。試写会のあとは、ジャーナリストの魚住昭さん大谷昭宏さんとのトークセッション。大谷さんは事件当時、読売入社1年目の新米記者で徳島の支局にいたそうです。魚住さんが共同通信へ入社したのは、「3億円事件」の時効の頃だったとお話していました。私は事件当時小学校3年生。
映画ではジャーナリスト宮本役の武田真治が異様になまめかしいのに驚きました。この映画を事前にご自宅でご覧になった魚住さんは「小学校4年生のこどもと一緒に見たので、エッチな場面が出てくると、画面を飛ばしました」と言ってましたが、試写会で見た私はエッチな場面よりも武田真治が出てくると、そのなまめかしさがちょっと怖くなりました。主演は刑事役の奥田英二、渡辺大の二人。3億円事件の主犯の父親役の夏八木勲の存在感もなかなか。でも、武田真治の非存在感と、怖いようななまめかしさについ目が行ってしまいました。
それで3億円事件ですが、あの事件では奪われたお金は一切使われてないということになっています。大谷さんもそう言ってました。映画の中では3億円は焼き払われたということになっています。このシーンはロマンチックな場面です。焼き払うという選択も、あの時代の全共闘の学生で、良い家のお坊ちゃんお嬢さんだったらあるかもしれないと、ある種の共感を持ちました。
ある種の共感というのは、「いったいあの3億円はどこにいっちゃったんだ?」というのが、私にとっては子どものときからの最大の謎というか、知りたくてたまらないことだからです。
お金に番号が振ってあるというのを3億円事件のときに、大人たちの話に聞き耳をたてて初めて知ったのです。強奪されたたのは家電メーカーのボーナスで、1万円札、5千円札、千円札、五百円札、百円札のうちなぜか五百円札だけ銀行が番号を控えていたとのことでした。1万円札を使わせるために、警察がそういう発表をしているのだと、大人たちが話していました。「お札だから埋めておくわけにもいかないねえ」とか「そのうち、お札を撒いてくれるといいんだけど」など、この事件は白バイ警官に扮した犯人が、あっと言うまに3億円を強奪し、怪我人ひとりも出さなかったというので、大人は子どもの耳を恐れずに話をしていたのです。私はこの時、お札には番号が書いてあることや、スイスの保険会社の保険がかけられていたことを知り、それからジュラルミンという金属の名前を覚えました。だから、今でもジュラルミンケースを見ると「あ、お金が入っているんだ」と条件反射的に、じっと見詰めてしまうことがあります。
お金は焼いちゃったというのは、ある程度の説得力もあるし、あの当時の学生運動のいたずらな空気に対する批評的な場面、つまりロマンチックだけど無意味ということで、それはそれで共感があるのですが、でも、ほんとうに3億円はなくなっちゃったの! と気になってしょうがないのです。
で、以下のようなことを考えてみました。
現金3億円を担保に、お金を3億円借り出す。これで犯人(もしくは犯人グループ)はマネーロンダリングができるわけです。で、3億円を貸した方は、その現金を時間をかけて小分けにして海外に持ち出す。それで海外で、外貨もしくは金などに交換する。こんなふうにすれば、たぶん、3億円は使ったということがばれずにマネーロンダリングできたのではないでしょうか?昨日のうちに、これを思いついていたら、大谷さんと魚住さんのご意見を聞いてみたんですけどねえ。残念です。いつもあとから思いつくの。
大谷さんや魚住さんのお話を今朝になってあれこれ思い出してみると、3億円事件では刑事警察と公安警察の組織的な鍔迫り合いがあって、それで捜査が混乱したので未解決になったみたいなニュアンスがあったなあと、納得。映画を見たあとで、ジャーナリストとお話ができるという愉快な経験でした。
969 20100616 神田川のほとり、枇杷の実とたばこ 御茶ノ水駅の近く、神田川を見下ろす喫煙所で煙草を吸っていたときのことです。額や頬に生傷のある、どこか凶悪な感じと憎めない人なつっこさが同居した顔の男の人が近づいてきました。顔の生傷が目立ったので、つい、うっかりまじまじと見詰めてしまいました。すると
男の人も、にっと笑ったのです。
「おや?」と思ったところ
「煙草を1本下さい」と言うのです。
私にではなく、私の隣で煙草を吸っていたお婆さんに。ほっそりとやせた身体に黒いカーディガンが似合うお婆さんでした。ちょっと見た感じを率直に言うと、飲み屋さんかバーのママという印象。で、お婆さんはポケットからマールボロの箱を取り出して一本、煙草を差出しました。お婆さんが低い声で言いました。
「あんた、医者からたばこを止められているんでしょう」
神田川が流れるそのあたりは、大学病院が並んでいます。マールボロを一本もらった男は
「ライターは持ってます」
と自分のポケットから出したライターで煙草に火をつけました。
「お酒もたばこも駄目だって言われているんだけどね」
一服吸って、そう言いながらにこやかに笑いました。
「私が煙草を上げたからって、あとで、病気が悪くなったなんて言わないでよ」
お婆さんは念を押す調子でそう言ってから
「だけど、止められないようね」
と煙を吐き出しました。
「ああ、止めたのは刑務所に入っていたときぐらいだねえ。出てきたら、一日3箱はすっちゃうもんなあ」
おやおや、最初に顔を見たとき、不思議な雰囲気の男の人だなあと感じたのはそういうわけだったかと、つい聞き耳を立ててしまいました。
「お酒はね、あるんですよ。へんてこな薬が。その薬を飲んでお酒を飲むとね、顔は真っ赤になるし、心臓はばくばくするしで、救急車呼ばなくちゃならないの。医者がそういう薬をくれるの」
へえ、そんな薬があるんだと内心、びっくり。お婆さんは煙草をふかしながら「ふうん」と気のない返事で男の人の話を聞いてました。このあたりで、私の吸っていた煙草が短くなったので、吸殻を設置された灰皿に捨てて、その場を離れました。自分の好奇心をややもてあました感じでした。御茶ノ水の駅のほうへ歩いて行くと御茶ノ水橋のたもとに、枇杷の実がいっぱい生っていました。誰も手入れをすることがない枇杷の実ですから、ひとつひとつは小さいのですが、日当たりが良いので、きれいなオレンジ色(枇杷色)に染まっていました。その枇杷の実を携帯で写真に撮ろうかどうか、しばらく立ち止まって考えていました。写真を撮るよりも、覚えているだけのほうが楽しい時があるので、迷います。
すると後ろから声がしました。
「こんなに枇杷の実が生っているの」
あのマールボロを差し出したお婆さんでした。背筋がぴんと伸びたお婆さんとふたりでしばらく枇杷の実を眺めていました。結局、写真は撮らずに眺めるだけにしました。
968 20100611 箱根で蛍を見てきました。 ちょうど栴檀の木が花の盛りでした。
前の日までは一匹二匹が飛ぶだけだった蛍も一雨降ったあとでたくさん飛び回るようになりました。栴檀の花には、美しい蝶々が飛んできていました。卯の花の盛りの季節です。
泊まったのは塔ノ沢の福住楼。前に流れる早川に蛍が飛ぶことを教えてもらったのは去年の今頃でした。蛍というものを一度見てみたいと願っていました。それと言うのも、横浜から房州の館山へ引っ越した最初の年、私は小学校1年生でしたが、蛍の話を聞きました。安藤君という同級生のお母さんが「このあたりいったいに蛍が飛び交います」と言って、指差したのは、安藤君の家の前に広がる水田でした。安藤君の家は山のすそに建つ農家で、大きな広い土間がありました。蛍の話を聞いたのはその土間でした。
少し小高いところにある安藤君の家の土間から、那古船形駅にかけて広がる田んぼが見渡せました。その頃は、田んぼの中に一筋の道が走っているだけで、建物といえば小さな駅舎があるだけだったのです。
「いつでも蛍を見物にいらっしゃい」
と、安藤君のお母さんは言ってくれました。
蛍が飛ぶのは夜です。だから子ども一人では海岸にあった私の家から、山すその安藤君の家にはいけません。で、私の母の手がすいているときに、連れてきてくれるという約束になっていました。釣船屋を開いたばかりの私の家では、お客さんが乗船の前の晩にやってくるので、夜はなかなか母の手があきませんでした。それに蛍の季節は短いのです。2週間あるかないかです。
そんなわけで、あっと言う間に蛍の季節は終わってしまい、とうとう安藤君の家に行く機会は訪れませんでした。そして、それが蛍が飛び交った最後の夏になりました。翌年になると、農薬を使用する農家が増えて、蛍の数は激減してしまい、さらに翌年には蛍は飛ばなかったそうです。
私は田んぼ一面に蛍が飛ぶところを見ることができなかったのが、よほど残念だったのか、安藤君のうちのちょっと暗い土間から、昼の光が降り注ぐ水田を眺めていた時のことをよく記憶していて、蛍の季節になるとぼんやりと思い出します。土間の隅に、麦茶が入ったアルマイトの薬缶があったことがなぜか鮮明なのです。安藤君のうちでは、お父さんは市役所か何かに勤めていて、お母さんが田んぼや畑の世話をしていました。
福住楼で聞くと、最初に書いたとおり、今年は蛍が出るのも少し遅くなっていて、まだ1匹、2匹がすっと飛ぶだけだという話でした。最初の晩は時折、びっくりするくらいの大雨が降り、とても外へ出て蛍を探す気になれませんでした。翌日、女中さんが「国道の橋の上から蛍をご覧になれますよ」と教えてくれたので、玄関に出てみると、御台所の仕事をしている女の人たちが「今夜はずいぶん飛ぶようになった」と話ながら戻ってきたところに出会いました。
「たくさん、飛んでますよ。いっぱい。いっぱい」
そう教えてくれたので、国道にかかった橋の上まで出てみました。国道にはひっきりなしにライトを点した車が通ります。はて、こんなに車が通るところで蛍が見えるのかしらと、首をひねっていると、川岸の茂みで、ぽつんと光るものがありました。蛍だとは信じられず、目の錯覚かもしれないと、その小さな光を凝視しました。最初の小さな光の点が消えてしまってすぐに、やはり小さな点がひとつ、ふらふらと川のほうへ、流れました。それでも、なんだか、まだ、目の錯覚のように思えてなりませんでした。ひとつ小さな光の点が川のほうへふらふらと飛ぶのを、追うようにして、また小さな点がゆるやか弧を描きながら、暗い茂みを飛び立ちました。ようやく、ああ、これが蛍だと、そのはかなげな光を目で追いました。一匹は光始めると、それにつられたように、また一匹が光ります。
光は光を呼び、あちらこちらでぼんやりとした光がすっと柔らかく飛び立ち、実にたよりなげに飛び交うのでした。なんだか、光る綿が風に吹かれているような飛び方で、虫の飛翔の俊敏さとは縁遠い動きでした。 968.jpg
967 20100604 見つけました。書店用文庫目録 銀座の教文館で「文庫目録を下さい」とお願いしたところ「すみません。今、書店用のものしかありませんから、これをお持ち下さい」と、もらったのが新潮社の文庫目録です。表紙にしっかり「書店用」と印刷してあります。緑色の紐も最初からついていました。初めてみました。
ゼミの学生が書店で「これは書店用です」と言われたということで、それから学生たちにいろいろ聞いてみました。ネットで直接、それぞれの出版社のHPにアクセスして文庫目録を送ってもらったという学生がいました。どうやら、その手が一番確実に、文庫目録を手に入れやすい方法らしいと解りました。
銀座の教文館のすぐそばにアップルストアーがあります。iPadの発売の日に1,200人もの人が行列を作ったお店で、新聞にも写真が載っていました。美容院で髪を切ってもらった時、通りかかると、お店の中はiPad一色。なかなかの賑わいでした。ゼミの学生の中にも早速にiPadを手に入れた人もいるようです。
キンドルやiPadについて報じる新聞記事を読んでいるうちに、これはOS(基本ソフトウェア)のシェア争いに、旧来のメディアが巻き込まれた、もしくは、飲み込まれたのではないかという考えが湧きました。PCのOSではウィンドウズ優位が絶対に動かないように見えています。キンドルのOSは何を使っているのか知りませんけれども、iPadではアップル社のOSが使われているのでしょう。以前、文字コード問題でいろんな人にお話を聞いた時に、あるPCメーカーの御重役が「市場というものは変化を求めるものなのです。だから、必ずウィンドウズ優位が崩れる時がきます」とおっしゃっていたのを思い出したのです。
一般論としてはその人の言っていたことが理解できたのですが、具体的にウィンドウズの優位が崩れるのはどんな時なのかは想像できませんでした。が、目の前でアップル社のiPadを求める人の行列を見ると、それが1995年にOS「ウィンドウズ95」の発売のときの秋葉原の光景によく似ていたことも手伝って「ああ、これがアップル社の巻き返しなのだ」という気がしてきました。今はそれ以上のことはなんとも言えませんけれども、報道などでは「旧来のメディア対新しいメディア」をいう構図が描かれていますけれども、ほんとうのところはOSの覇権争いなのではないでしょうか? 967.jpg
966 20100531 朝鮮半島不穏 土曜日の夜。京都の先斗町を歩いていたら、空に立派な満月が輝いているのを見つけました。もうすぐ梅雨だというのに、どうやら、空の高い場所まで空気が澄んでいるようです。
金曜日から土曜日、それに日曜日にかけてのテレビの報道は普天間基地移転の問題とそれにかかわる社民党福島党首の態度で終始していたようです。帰りの新幹線の中で社民党が連立政権から離脱の電光ニュースを見ました。そのニュースのために、鳩山首相が韓国にでかけ、日、中、韓の首脳会談が開かれたニュースは小さな扱いになっています。現実的で具体的で、かつ目の前にある安全保障問題で、何事もなく終わってくれればいい朝鮮半島の緊張について、家に帰ってからネットでニュースを拾い集めました。
日本の報道では、いつもながらの北朝鮮の瀬戸際外交という感覚で、韓国と北朝鮮の間の緊張が、扱われているような感じがします。が、日本、韓国、中国の首脳会談が緊急に開かれたようなことがこれまであったでしょうか?私にはその記憶がないのですけど。忘れているだけかもしれませんけれど。ただ、今回はいつもの瀬戸際外交とは少々何かが違うように感じられます。一番それを感じるのは中国の慎重な態度と、その緊張感。一部、新聞が報道したところでは、6月4、5日頃に開戦だといううわさが中朝の国境で広がっているとのことです。うわさはうわさに過ぎないのかもしれませんけれど。
965 20100526 異様な乖離 金曜日の夜。大阪のホテルで寝そびれてしまったので、漫然とCNNのニュースを見ていました。英語だからそんなにわかるわけじゃないんだけど、しきりに「ユーロ・クライシス」をキャスターが繰り返していました。ユーロ危機。確かにドイツが単独で株の空売り規制をしたりするのは尋常なことではなさそうだなと、感じていました。日本ではギリシャの財政破綻の報道が少ないので「クライシス」という単語を聞きながら、やっぱりそんなんだなあと、ベッドでごろごろしていました。
火曜日に近所のコンビニで買い物をしたら、レジ脇の募金箱に「宮崎県救援」の張り紙がありました。口蹄疫の報道はテレビでは少ないような気がしています。が、既存のメディアよりも、一般の関心はずっと高い感触があります。口蹄疫について言えば、ネット情報のほうがテレビよりもはるかに詳しいのですが、ネット情報が玉石混合。どこまでがほんとうのことで、どこまでが嘘なのか、よく解らないままです。
韓国の哨戒艦が沈没したのが3月の末。北朝鮮の攻撃によるものと発表されるまで時間がありました。これも興味を持っていたニュースでしたが、日本のテレビ報道は少ないと感じています。
で、テレビが報道していることと言えば、民主党の小沢幹事長に絡む「政治と金」の問題。沖縄の普天間基地移転について。それから事業仕分け。どれも重要と言えば重要なテーマではあるのですけれども、なんとなく内容空疎で、ユーロ・クライシス、口蹄疫、朝鮮半島の軍事的緊張に比べると、どうしても関心が薄くなります。テレビのニュースと、自分の関心がこんなに乖離してしまっていることは、珍しいくらいです。テレビの「ニュース」が「オールド」に感じられてしまっているのです。
自分の興味関心とテレビ報道の間にある異様な乖離はいったい何を意味しているのでしょうか?なんだか奇妙なことが起きている気がしています。
964 20100523 馬に乗りに行きたい 伊藤さん、伊藤さん、馬に乗りに行きたいです。
ジョーバが家にあるんですけど、これは前に進まないの。もしろん、ちょっと乗るにはおもしろいです。で、伊藤さん、馬でとことこ、阿蘇の外輪山の中の草千里を歩いたら気持ちいいでしょう。馬に乗りに行きたいです。
963 20100520 5月20日 日経新聞朝刊1面 「りそな、公的資金返済へ」
コレハマア、ヒトアンシン。ワガヤノギンコウダシ。
「タイ、デモ隊一部暴徒化」
コレカラモットモメソウナ気ガスル。「うさぎとトランペット」の挿絵を描いてくれた小林さんはバンコック在住。娘のともだちのお兄ちゃんもバンコック勤務。ダイジョブカシラ?
「北朝鮮関与と断定
哨戒艦沈没 韓国、日本などに伝達」
ヤッパリ。デモ、ズイブン慎重ナ調査ダッテケレドモ。イッタイ「何」ガオキテイルノダロウ?
「口蹄疫処分30万頭」
5月ノ連休ノ時ニ「沖縄の基地問題どころじゃないだろう。口蹄疫のことがさっぱり報道されないのはどういうわけだ」トブログニ書イテイル人ヲミタ。ドウモ、コトノ重大サガ解ッテナカッタノハ、政府ダケジャナクッテ新聞、テレビナドノマスコミモソウダッタミタイ。
「欧米株が下落」
ドイツ政府ガ単独デ株ノカラウリ規制ヲシタトノコト。コノニュースハ20日朝刊デハイチバン小サイケレドモ、気ニナル。ダカラ、戦争ッテノハ、コウイウトコロカラジワジワ広ガルコトガオオイ。
ヨウスルニ疫病ト金融危機ソレカラ武力紛争。ソウソウ、日経ノ一面ニハナイケレドモ、アイスランドノ火山モマダ噴火ヲツヅケテマシタ。
全部がカタカナのままで、頭のなかでバラバラ散らばっているのですけど、なんだかまだ書かれていない世界史の教科書を読まされているような気がする今朝の日経新聞朝刊1面でした。読売、朝日も見たけれども、昨晩からネットニュースで私が興味を持って見ていた事柄を一面に並べたのは日経でした。
962 20100518 このごろ見かけたもの 新幹線に乗っているとワゴンを押す車内販売の人の後ろにもう一人、車内販売の人が。小さなワゴンに取り付けられた器具の扱いについて教えてもらいながら、お仕事。新入社員の季節です。
ガス漏れ警報機をつけかえてもらいました。こちらも取り付けの人は二人。一人がこまごまと説明をするそばで、もう一人の人は「品番ってどこに書いてあるのですか?」と質問。新入社員との二人組みでした。
スーパーに買い物に行ったら「もやしはお一人様、何袋でもお買い求めいただけます」の張り紙。その下に「ようやく野菜の値段が安定してきました。ご協力ありがとうございます」の文字。どうやら、青物つまり野菜があまり高いので、もやしを買う人が多くって、一人のお客さんが買えるもやしの袋を制限していたようです。それでも、欲しくなるような素敵な野菜は少ないままでした。
本屋さんで文庫本を8冊ほどまとめて買う。黒いビニール袋に入れてもらいました。この袋が、なんだか縁日やお祭りで、玩具などを買ったときの袋に似ているぺらぺらな物。なんとなく小さな塵袋に見えなくもない。もしかしたら紙の袋よりも安いのかもしれません。なんとなく「?」な気分でした。
デザイナーさんが使っていた小型のスキャナー。小さくて置き場所に困らない。で、スキャナーで読み取った内容をパソコンにデータで保管して、プリンターに出力すれば、コピー機でコピーしたのと同じものが手に入るという仕組み。
「本をばらばらにしてスキャンして、アイパッドみたいな読み取り機で読むってこともできます」
それって、聞く人によっては怒り出したりするかもしれないと思ったしだい。昔は本は床に置いてはいけないといわれたものでした。でも、会議資料なんかは、小さなリーダーに入れて持ち歩くのは便利かも。それできっと紙の使用量はまた増えそうです。
こんな具合に近頃見かけたものを並べてみました。4月が寒かったので、頭がなかなか5月についていけないままになっています。
961 20100513 フランス共和国の価値観に反する 以下のようなニュースを見つけました。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜以下 AFPから 引用〜〜〜〜〜
【5月12日 AFP】フランス国民議会(下院)は11日、イスラム教徒の女性が顔や体を覆うベールは「国家の価値観と相容れない」とする決議を出席議員全員の賛成で採択した。ベール禁止の法制化に向けた足固めが進んだかたちだ。
採択された決議に法的拘束力はないが、今後、公共の場におけるブルカやニカブなどイスラム女性のベールの着用禁止をフランスが法制化すれば、ベルギーに次いで欧州で2国目となる。
ベールは「フランス共和国の価値観に反する」と宣言した今回の決議には、ニコラ・サルコジ(Nicolas Sarkozy)大統領率いる右派の国民運動連合(UMP)と野党社会党が珍しく一致して賛成した。結果は、採決に抗議し棄権した共産党議員約30人をのぞき、定数577の同議会のうち、出席した434人の議員全員が賛成した。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
09年の夏に久しぶりでイギリスへ旅行した時、イスラム教徒がおしゃれになっているのが目につきました。とくにブルカやニカブを着ている女性。全身を覆う衣装ですが、見るからに上等で贅沢な生地で、時には袖口の内側や、衣装の合わせの奥に金糸の精緻な刺繍が入ったりしていました。
私がブルカやニカブを来た女性をいちばんたくさん見かけたのは、ロンドンのハロッズでした。5、6人で連れ立ってデパートでお買い物という人たちをたくさん見かけました。東洋人の私には「アラブのお金持ち」と見えたんですけど、ほんとうのところどうなのでしょう? これは反感を買いかねないなあという印象は確かにありました。もっと一般的なイスラム教徒は、ブルカやニカブではなくって、きれいな色のスカーフで頭を覆っていたり、装身具をつけたりしていました。
パリやリヨンなどでもロンドンと同じような光景をみることができるのでしょうか? フランス政府は観光客にもこの法律を適用するとしているようです。
これって、たいそう難しい問題を内包している気がしますけど、議会が全会一致だったと言うのにも驚きました。09年の夏に、ロンドンで感じたことは、旅行者の目に映る以上に深刻な事柄だったのかもしれません。
あらゆる価値観から自由になろうとしたポストモダンの哲学大流行の時期に大学へ入った私などは、本物の21世紀、つまりポストモダンがこんな形で姿をあらわしてくることにたいそう驚いています。 961.jpg
960 20100511 プリウス 乗るときにね、チョットへんなカッコウのタクシーだなと、気になったのです。それから、しばらくして、ナビとは違うモニターがついていることに気づいて、ああ、これはハイブリットカーなんだってことに気づきました。プリウスでした。へぇ、タクシーでもハイブリットカーを使うのかって、感心、感心。
959 20100507 温泉に行きたいなあ 温泉に行きたいなあという話をしました。どこかいいかしら? 関東なら箱根。いや、熱海。湯河原もいいんじゃないか。山の温泉なら伊香保、草津、そうそう群馬は温泉王国でした。鬼怒川、塩原もあります。那須もなかなか良いと聞いています。
関西ならなんと言っても有馬温泉は一度は行ってみたいし、白浜もよさそう。竜神温泉もあるし、そうそう城崎温泉は京都の人にとってはなじみのある温泉なのだと、この間、タクシーの運転手さんから聞きました。
静岡の焼津温泉も好きです。すぐそばに富士山が見えて。温泉王国といえば九州、東北もなかなか。今年は山形の赤湯温泉に行きましたが、湯の浜温泉にも行ってみたいし、青森の蔦湯温泉、酸ヶ湯温泉はなかなか懐かしい。熊本の小国温泉は伊藤比呂美さんに案内してもらいました。阿蘇の外輪山の景色はなかなか雄大で、伊藤さんがワイルドな革コートを着ていたのは、景色とよく響きあっていました。
ギリシャの財政破綻に興味があるんだけど、誰も話の相手になってくれません。それから列車で北京へ行った金正日と、東シナ海で沈んだ韓国の艦船。関係があるんだかないんだか??? です。少し古い話だけど、ポーランドの大統領を乗せた飛行機が墜落したこと。アイスランドの火山が爆発したこと。なんだか、ばらばらになった世界史の教科書を拾って読んでいるみたい。
それで温泉に行きたいなあと思っています。
958 20100506 東へ西へお買い物 伊藤さん、お久しぶりです。御元気そうでなにより。そうです。日本は連休です。連休中はもののけの「巣」とかした我が家の片付けをしたかったのですけど、なんだか気力が湧かず。なにしろ4月がめちゃ寒かったので、うまく時間の流れに乗って行けません。それで、東へ西へお買い物。まず、谷原の市場でたけのこと、煮干を買い、植木屋さんに寄ったのだけど、ろくな苗物がないのは異常なお天気のせい。こんなだと、また夏から秋にかけてお米が不足するかもしれません。それから光が丘で、ええと、エプロンを買いました。3枚も買っちゃった。あとは成増の西友へ。靴下を買いました。爪先と踵だけを包む浅い靴下。トリコロールのやつを見つけたのだけど、靴を履くと全部隠れちゃいます。靴下だから仕方がないか。さらに、イトーヨーカ堂ではパワークールって宣伝しているキャミソールとスパッツ三部丈のやつを買ってきた。
そんなわけで連休は東へ西へお買い物でした。でも花屋さんだけは行かなかったの。なんだかねえ。行っても良いことがないような気がして、お天気が悪いと花屋さんもおもしろくないから。
あとギリシャのニュースを見て「どうなるのだろ?」と首をかしげて、それから、すばらしいさより(お魚の)があったけれども、買わなかったのは残念だなあと思って、それから京都、大阪に遊びに行った娘からお土産(よーじ屋の金色の栞)をもらって、姜英淑さんに書こうとしている手紙はあいかわらず書き上げられないまま連休がおわっちゃいました。
伊藤さん、またね。では、では。
957 20100503 文庫目録 岩波、新潮、角川、講談社などの文庫目録を書店で配布しているからもらってくるといいとゼミ生に薦めた。文庫目録を読んでいると、へたな文学史の本を読むよりもよほどおもしろい。以前は、書店のレジわきなどに積んであるのを見つけて「これ、下さい」と言えばたいてい「どうぞお持ち下さい」という返事で、もらうことができた。
3年ほど前、「文庫目録ありますか?」と尋ねたら、あっちこっちの引き出しを開けたり、棚の下を覗いたりして、見つけ出してもらったこともあった。そういえば近頃、文庫目録がレジのわきに積んであるのを見かけないなあと、その時は、その程度のことしか考えなかった。が、ゼミ生の報告によれば、「文庫目録を下さい」と言ったら、書店の店員さんに不思議そうな顔をされたそうだ。それで、重ねて「岩波文庫とか新潮文庫の目録が欲しいんです」と言ったそうな。その返事が「あれは書店用の冊子です」だったと。
書店用としては総文庫目録(そんな名前だったという程度の覚えだけれども)そういう年鑑のような分厚い本が出されていて、お客さんの注文の本の版元がわからない時などに調べるのに使っていたものがある。それと勘違いをしたかもしれないとは思いつつも「書店用の冊子です」っていう返事はちょっとひどいなあと嘆息。もし私のようなおばさんが、どすの利いた声でも出せば、とたんに店長さんを呼びに行くようなアルバイトの店員さんが、ものを知らなそうな若い人だと思って、いい加減な答えをしたなら、それは言語道断。いったい本屋さんの中で何が起きているんだろう? とへんな感じがするゼミ生の報告でした。
本屋さんと言えば、要塞のように積み上げられた「1Q84 Book3」を見て、もうちょっと上手に商売をすればいいのになあと思ってのは先月のこと。同じ本をいくら積み上げても、トイレット・ペーパーじゃないのだから、2冊3冊と買う人はいないだろう。「1Q84」のBook1や2を並べれば、それも買って行く人もいるかもしれないし、作中に登場する音楽などの関連の書目を集めれば、ついでにひょっと手を伸ばす人もいるかもしれないし、どう考えてもそっちのほうが商売人としても親切で、しかも売り上げが上がるように思えるんだけど?「1Q84 Book3」の要塞といい、文庫目録を知らない店員さんといい、せっかくのお客様を逃しているんじゃないかと、まあ、そんなことを昔から本屋さんに出入りしている素人としては考えました。
956 20100420 すごく小さな喫茶店 新宿から代々木まで歩きました。JR東日本の本社前のサザンテラスを横切れば代々木はもう目の前ですから、電車の駅が二つあるのが、不思議なくらい。いや、新宿駅が大きいせいで、そんな感じがするのかもしれません。サザンテラスから代々木のほうへ出ると、アニメーション学院など専門学校と予備校、それに共産党の本部がある一画に出ます。以前、知人が若い人になにかのときに「だから代々木が」と言ったら、「え、アニメーション学院がどうして関係があるのですか?」と聞かれたと苦笑していました。代々木と言えば、40代以上は「共産党本部」30代は「予備校」20代以下は「アニメーション学院」だと、その時、教えてもらいました。
そう思うと代々木はおもしろい独特の街です。
白い壁に窓枠を鮮やかなブルーで塗ったビルとか、吹き抜けのあるロビーが硝子越しにすべて見えるビルとか、木材の横木を並べてリズム感のある壁面を作っているビルとか、小さいけれども、外観に特徴的なデザインを施した建物が、目につくのも代々木です。
少し時間があったので、線路際を北参道の方向へ歩きました。どこかに煙草を吸わせてくれる喫茶店はないかしら? という下心もあったのです。すると喫茶店の看板が出ていました。判子屋さんと同じ建物です。三角地に立った三角の建物。カフェの看板は三角の鋭角、つまり狭いほうにありました。
扉を開けると目の前にカウンターが。カウンターの中には男の人が一人。「?」という感じで、あまりの至近距離に面食らってしまいました。何か言わなくちゃいけない距離なのです。
「あのう、このお店で煙草は吸えますか」
そうは言ったものの、煙草を吸うどころか、カウンターの前は人ひとりが立つのがやっとという狭さです。
「うちは持ち帰り専用なんです。でも煙草をお吸いになりたければ、そちらでどうぞ」
と、軒下に二つ置かれた椅子のほうをさしました。
こんなに近くでお話をしたら注文しないわけには行きません。
「じゃあ、カフェオーレを下さい」
きめ細かな泡立ちのミルクが入ったカフェオーレでした。紙コップを手で持てるように、段ボールの筒がついている親切さ。それで280円。安い! おいしい! 軒下の椅子に座ってカフェオーレを飲んでいると、道を歩いていた年配の二人の女性が、びっくりした顔で、三角地に建った三角の木造二階建ての建物を眺めていました。ほんとうにびっくりするほど小さな喫茶店? でした。
955 20100418 今年の桜 去年は桜が咲いたのがうれしくってあっちこっち桜を見て歩きました。
ことしの桜は、咲き始めからちょっとぐれてました。2月の気候が安定しなかったためか、染井吉野でさえ、花の咲き始めから、新芽が顔を出していました。それが3月の卒業式の頃。それからずっと咲いています。超過勤務です。新芽が伸びて若葉になっても花が散りません。さらには、そこに雪が降る始末。さくらはさくらでいたくなくなるようなお天気です。
法政大学のボアソナードタワーから外濠土手のさくらを見下ろすお花見をしたのは3月。法政の学生はボアソナードタワーのことを略して「ボアソ」と言っています。フランス法のボアソナード博士は「わしはボアソじゃない」って言っているかもしれません。で、どうしたことか、このお花見のときは次々と、参加者が眠気に襲われたのです。ボアソナード博士が遊びに来ていたかもしれません。
知人と大阪の水上バスに乗りました。有名な造幣局のさくらを川の上から見て、大阪城の下まで行き、淀屋橋まで戻るというコースです。なんでも天神祭りのときに
船が練り歩くのと同じコースだとのことでした。それから北浜の与太呂で鯛ご飯を食べました。鯛は今が旬。さくら鯛と言うのだそうです。
あとはもう寒くって寒くってぶるぶる震えている日ばかり多い今年の桜でした。
954 20100413 金沢八景散歩を「すばる」に書きました。 写真は金沢文庫がある称名寺。うら山を昔は坊主山と呼んでました。春になると野焼きをする習慣があったので、樹木が茂らなかったのだそうです。
童謡の「まるまる坊主のはげ山はいつでもみんなの笑いもの。これこれ杉の子起きなさい。お日様にこにこ声かけた」というのは、この称名寺のうら山のことだと思っていました。幼稚園の遠足も称名寺でした。 954.jpg
953 20100330 ゆき ゆきを見ていた。
952 20100327 突然ですが、中沢ゼミの皆さん お花見をします。 4月5日お花見。
さしあたり12時(昼の)に815研究室に集合して
場所取りをするということで。
とった場所は815研究室の扉に地図を描いて貼っておくことにします。
参加者は夜ゼミ、昼ゼミ、今年度卒業生、それより前の卒業生、ゼミの居候など来たい人、お暇な人、ゼミに関係があればどなたでも参加して下さい。
雨天決行。
951 20100327 法政大学文学部中沢ゼミの皆様2 残念ですけど追いコンは中止になりました。ごめんなさい。卒業生の皆様、学校の近くに起こしのせつは研究室にお立ちより下さい。歓迎します。
950 20100326 法政大学文学部中沢ゼミの皆さま 昼ゼミの郡山君が追いコンのために奔走しています。メーリングリストで連絡がとれなない人もいるみたいです。メーリスの連絡が来てない人は、なんとかルートを作って郡山君に連絡を入れて下さい。
学校を卒業する人も学校に残る人も、みなさん御願いします。よろしく御願いします。
卒業文集「うさぎ」をまだとりにきていない4年生は私の研究室に取りに来てください。「うさぎ」に原稿を入れなかった人にも差し上げます。研究室にお越しになる前に私のメールでご一報下さい。
ええと話は変わりますが、飯田橋から市谷の土手の桜は、どうしたわけか、葉と花が一緒に芽を出しています。こんなへんてこりんな咲き方は、今年初めて見ました。これから、だんだん奇妙な咲き方をするようになるのかもしれません。昨日、助手の深野さんもそのことに気づいていることを知りました。
昨日は上総一ノ宮まで行ってきました。一昨日に続いて寒い寒い日でした。が、房総半島北部の北総台地ではすでに田起こしが始まっていました。
949 20100325 寒い一日でした。 外堀公園、飯田橋駅前の桜がちらりほらりと咲きました。卒業式というと、必ず花をつけている山桜の老木にいたっては、もう花の脇から葉が広がり始めています。
この老木は樹齢が400年といいますから、徳川家康が江戸の町を切り開く前から、外堀公園のあの場所に育っていることになります。
それなのに、寒い、寒い。朝からの雨降りが、途中で霙まじりになりました。こんなに寒くちゃあ、せっかくの袴の晴れ着もだいなしです。寒いせいで、なんだかくたびれちゃいました。
ところで、桜ですが、もうすぐ桜が咲かなくなるかもしれないという話を聞きました。桜の木は地中の温度が下がったあとで、もう一度あがりだすと花を咲かせるのだそうです。地中の温度が下がらなくなると花が咲かなくなるとのこと。そういえば、沖縄には避寒桜はありますが、本土のような桜はありません。私が生きているうちに桜が咲かない春が来るのかなと、冷たい雨に打たれている桜を見ながらつい考え込んでしまいました。
鎌倉の八幡様の銀杏が強風のために倒れたのはつい先ごろのことですが、外堀公園の桜の老木もばったり倒れてしまうようなことがあるのでしょうか?あんまり寒いのでついつい、そのような悲観的な想像をしてしまうのでした。800年だとか1,000年だとかの樹齢があると言われる鎌倉の八幡様の銀杏も、ただ強風のためにだけ倒れたのか、それとも根っこになにか、これまでと違う異常が起きていたのか、ちょっと気になりました。
美しいものは見られるときに見ておくに限ると、そんな気のする春が寒い空気の向こうに姿を現しています。
948 20100324 法政大学文学部日本文学科の皆さま 卒業おめでとうございます。
秋元君が編集を、島田さんが装丁をしてくれた「うさぎ」が完成しています。うさぎ年の皆さまでしたか!「卒業生を励ます会」の終了後、研究室に起こし下さい。「うさぎ」をお渡しします。「うさぎ」に卒論を掲載していない方にもお渡します。秋元君、島田さん、どうもありがとうございます。また、郡山君が卒業生の追い出しコンパ開催に奔走中です。在校生、卒業生の皆さまご協力御願いします。以上、連絡事項でした。
卒業生の皆さま 大学での勉強を自分のためにしたと思わないで下さい。皆さんがなさった勉強は直接、間接を問わず、同じ時代を生きている人々のためになるということを、時々でよいから思い出して下さい。それでは皆さま「いざ、さらば」です。
あ、郡山君にはどうぞご協力を。最後まで「驚愕と恐縮」の中沢ゼミでした。
947 20100323 大阪芸術大学文芸学科の皆さま 卒業おめでとうございます。
影山様 謝恩会幹事ごくろうさまでした。謝恩会にいけなくてごめんなさい。どなたか大阪芸術大学の方で、ここを見た人は影山さんによろしくお伝え下さい。
皆さんと勉強した一年間は楽しい一年でした。とくに「ジャガイモの食感が嫌い!」というのはジャガイモ好きの私にはショックでした。
皆さま どうぞお元気でお過ごし下さい。
946 20100313 雪の最上川 山形へは、山形新幹線で赤湯に出て赤湯温泉に1泊。翌日は赤湯から新庄まで奥羽本線を行き、新庄で陸羽西線に乗り換えて酒田にでました。陸羽西線は雪の多い最上川沿岸を走っています。写真は列車の中から見た最上川の景色です。
朝、赤湯温泉の旅館を出発する前に、旅館の玄関に楽器ケースが並んでいるのを見かけました。大きさからするとホルンやチューバなどの中型から大型の管楽器が入っているようなケースでした。おや、昨夜は同じ旅館に音楽家が泊まっていたのかしらと思いながら、部屋に戻って出発の支度を整えて、玄関に戻ったときにはもう黒い楽器ケースは消えていました。赤湯温泉では快晴。雪の白さがまぶしい日でした。それが曇り空になったのは新庄です。新庄の駅を出るとすぐに雪が降り出しました。真っ白な銀世界。しかし、最上川は冬でも川くだりの船が出ていると知ってちょっと驚きました。なんでも船の中には炬燵もあって、暖かい船内から雪景色を見ることができるのだそうです。庄内平野まで出るとまたまた良い天気。広い平野のあっちこっちにまだらに雪が残っていました。酒田の駅に佐藤先生が来て下さっていたので、ちょっとびっくりしました。
さて帰りですが、今度は日本海側を新潟まで下って新潟で新幹線をつかまえました。昨日の写真の干した鮭は、新潟の村上のものが有名ですが、その村上の少し前に列車の電圧が切り替えられる場所があり、特急列車の車内がしばらく暗くなったのをもの珍しく感じました。 946.jpg
945 20100312 寒風干しの鮭 酒田の魚屋さんの前でみつけました。魚屋さん「売ってください」と御願いしましたが、昨年の暮れに50本ほど干した鮭はどれもみな売約済みだとのことでした。「昨日、最後の1本が売れました」と。
夏頃まで干しておくと身が濃縮されて酒びたしにできるようになるのだそうです。 945.jpg
944 20100311 お雛様のお菓子 鶴岡のお菓子屋さんのお雛様のお菓子です。
さくさくした食感で、程よい甘さでした。最初はその大きさに驚きました。売っていたお菓子屋さんはほんとうに小さなお菓子屋さんでした。 944.jpg
943 20100310 山姥と金太郎 乳母(うば)と姥(うば)は音が同じなので、時々、乳母は姥だと思っている学生を発見します。でも乳母ってお乳を上げなくちゃいけないのですから若い女の人、丈夫で健康で、一人前以上にお乳が出るという女性じゃなくちゃ乳母にはなれません。でも、写真の土人形は乳母じゃなくって山姥。金太郎のお母さんが赤ちゃんの金太郎にお乳をやっているところです。これも「あいおい工藤美術館」で撮影させてもらいました。土人形は庶民のものですが、いろいろな題材があるところがおもしろいです。若い! 山姥のしたに桃太郎の姿も見えていますし、そのとなりの鉢巻をしている女性は神功皇后です。 943.jpg
942 20100309 八幡太郎義家さん

