1256 20210326 卒業おめでとうございます。 4年生の皆様、卒業おめでとうございます。「禍福はあざなえる縄の如し」「人間万事塞翁が馬」「楽あれば苦あり、苦あれば楽あり」と申します。若い時は年上の人がこんなことを言うと「なんていい加減なんだ」と内心呆れておりました。皆様もそうお思いになるでしょうか?きっとそうでしょう。でも、100年に一度あるかなにかの大災害の年に私が思いつくのは若いころ、年上の人から聞いたこんな言葉ばかりです。古典は天変地異と疫病がしばしば次の時代の秩序を作り出す大きな原動力になったことを語っています。きっと人類はそのように大きな宇宙の摂理に向かい合うことで、人間的な力と知恵を磨き上げてきたのでしょう。そして、それはこれから新しい時代を作り出す仕事を担う若い皆さんのお力にかかっています。「禍福はあざなえる縄の如し」「人間万事塞翁が馬」「楽あれば苦あり、苦あれば楽あり」と年上の人はてきと〜なことを言うもんだなあと、苦笑いとともにこの言葉を思い出していただければ幸いです。えらい目にあった時、応急処置的な薬になったりすることがあります。諸君の御活躍と奮闘を期待します
1255 20201016 洪水がくるのかしら? まとめサイトが偽情報の温床であることは従来から指摘されてきた。訴訟を提起され、まとめサイト側の敗訴が決定している例もある。今回、情報の発信源が有名政治家、学者、地上波テレビの解説員など、従来のネット情報とは一線を画してきた人々である点。地上波テレビがネット情報に浸食されている状態が出現。地上波テレビで流れた疑義言説に対するペナルティもゆるくなっている。
天皇機関説事件、滝川事件などの過去の言論弾圧事件をもとにこれから言論弾圧が強まるという指摘がされる。まちがいではない。ではその言論弾圧がどのように現代でなされるかといえば、ネット情報がテレビの地上波を浸食するというかたちをとる。そしてそれは「これから」始まるのではなく、驚くほどの速度でもう始まっている。あれを言っちゃいけない、これは表現するなという言論弾圧ではなく「誰の言っていることがほんとなんだ?」という言語生活そのものを破壊する言論弾圧だ。横へ広がるバベルの塔と言ってもいい。もともと、バベルの塔で分裂した言語は横へ広がっていましたけど。
2013年当時、ヘイトスピーチやカウンターという言葉もあまり知られてなかった頃に「ネトウヨと戦っているの(笑)」と話すと(まじめな話としてはできない話題だった。半分、冗談めかして話したものだ)私の知人たちは「ばかなことをするな」と言ったものだ。アンダーグランドのネット情報など取るに足らないと。それが今の惨状に発展するのにわずか7年しかかからなかった。今やネットでノーベル賞を受賞した科学者や、人文学の分野で充分な業績を積んだ学者が「曲学阿世の徒」とか「学匪」と呼ばれている。国会参議院の演壇でj恥知らずな議員が「恥を知れ」と叫んだのは去年のこと。ツイッターで立派な業績のある人に、ハンドルネームのネトウヨが絡むのをひやひやしながら見ていることがあるけれども、テレビの地上波で同じ場面を見せられる日もそう遠くないかもしれない。天皇機関説事件や滝川事件よりも戦後の米国のレッドパージや中国の文化大革命に似た民意に威を借りた弾圧が、テレビの地上波という電波とネットのデジタル技術をいう文明の利器を使って大洪水をおこし始めているのでなければいいんだけど。水害にあった人が「気がついたら水が腰の高さまで来ていた」と証言するのをよく耳にする。
1254 20200407 疫病と財政出動 ベーシックインカムという考え方を知らなかったら住民一律に当座必要な現金支給という発想をなかなか受け入れきれなかったかもしれない。
実際、香港の林鄭月娥長官が感染症対策として住民全員一律に14万円支給と聞いた時は違和感があった。「えっ」と思った。それが2月26日。人気取りのばらまき?と。
その後、欧州の各国の対応を見ていると、背景に新自由主義に対抗するベーシックインカムの考えがあることがだんだんと理解できてきた。疫病に対する防疫対策で停止してしまう経済の流れを少しでも支えようという社会的必要性も呑み込めてきた。
だから、現金支給は救民対策でもなければ、景気刺激策でもないと、その段階で理解した。お金の流れが止まれば、経済の仕組みに支えられた社会基盤制度が崩壊する。電気、ガス、水道を運営する会社が破たんしたら、市民生活は即座に困窮する。食料品、日用品の物流が止まれば、市民生活は成り立たない。
ベーシックインカムと言えば新しい考え方だが、社会システムの防衛として経済のフローを守るという見方をすれば、政策の古典的な基本に近い。例えて言えば、飢饉の時に米蔵をあけて(経済のストック)お粥をたき誰にでも分け隔てなく振る舞う(経済のフロー)という古典的な政策と一致している。
私のまだらっこしい考えの展開を書いてみた。
自粛と賠償はセットというスローガンが出てきたのは3月初旬から中旬。これは分かりやすいスローガン。共産党が「財政出動は防疫のための費用」という態度を打ち出したのもその頃だったかな。これもあまり面倒な説明を必要としない分かりやすさ。
財政出動の意味を明確に言葉で把握すれば、おのずと、どのような財政出動がもっとも効果的かが理解されてくる。困っている人を助けるための救民対策でも景気を刺激する景気対策でもない。疫病から社会を守るための生きたお金の使い方としての一律現金給付策が浮かび上がってくる。現金一律給付は救民対策ではないと書いたが、救民対策をしなくてもいいと言ったわけではない。経済のフローを守れば、その日暮らしの人々の生活は結果として守られる。救民対策ではないから所得制限などの煩瑣な手続きの必要もない。景気刺激策ではないと書いた。景気(活発な経済活動)を呼び込むのは、経済の基盤が守られていることが前提。経済のストックはフローによって守られているわけで、フロー(お金の流れ)が止まってしまえば景気刺激もなにもあったもんじゃないという話。
1253 20200328 房総の惨状1 2019年の台風15号、19号の房総の被害は、被災直後よりも冬を超えた現在のほうが、はっきりと目につくようになっていた。なにより驚いたのは房総の丘陵地帯の山の荒れ方。
房総の丘陵地帯の山は常緑樹のマテバシイの木に覆われているところが多い。マテバシイが地元では「とうじ」と呼ばれている。一年中枯れずに濃い緑色の葉をつけているはずのマテバシイの林が知らっちゃけた枯れ木になっていた。台風が巻き上げた潮の威力だ。被災直後には、マテバシイの林がこれだけの打撃を受けているとは目につかなかった。大木が倒れたのにばかり気をとられていたが、丘陵の林が枯れている。大房岬などはマテバシイの林が枯れたために、館山湾を隔てた北条海岸あたりからみると岬の形が変わったと言う。自衛隊館山基地の沖にある沖ノ島も同じ惨状だと聞いた。那古観音の山は、山の斜面を覆っていいたマテバシイの林がなくなり坊主山状態。場所によっては枯れて知らっちゃけたマテバシイが、強風でなぎ倒されたまま、重なっている斜面もあった。
地形の関係で潮風が吹きつけなかった斜面は例年の春と変わらず山桜が咲き、キフジがかんざしのような花房をつけている。大西風が吹く冬が過ぎて、被害の大きな場所と被害の少ない場所の差が激しく、目につく。
立ち枯れ状態のマテバシイの木は新芽を出すのだろうか?そろそろ新芽の季節に入っている。新芽が出ると、古い葉はベージュ色の艶がある落ち葉になって、木の根元に重なって行く。今年の落ちる葉がない丸裸の木が並んでいる。あれが新芽を出さないと房総の眺めは変わってしまう。
1252 20200324 卒業おめでとうございます。 卒業式は中止になりましたが、各学部学科分散の学位授与式がありました。富士見校舎の中庭を歩いていた時、藤村先生が「やっぱり袴姿やスーツ姿を見ると卒業させたなという実感が湧いてきますな」とおしゃっていました。文学を学ばれた皆さま。皆様が学ばれたことは必ず新しい世界を築き上げる灯(ともしび)となります。諸君、卒業おめでとうございます。
1251 20200307 牡蠣フライとクリームブリュレ 5日(木曜日)御茶ノ水駅前のドラッグストアにトイレットペーパーが出ていた。買おうかどうか考えていたら、若いサラリーマンがひと包みを抱えて行った。やっぱりカサがあるなあって、買うのを止めました。そろそろ出回ってくるでしょう。
山の上ホテルに行ったら工事中だったから、ランチョンでカキフライのお昼。今年の牡蠣も終わりかな。東京はいたるところで工事中。御茶ノ水橋、錦華小学校、どこも工事。なんらかの理由で工事が途中でストップしたら、目も当てられない眺めになりそう。
「ちぇっこり」に顔を出して「韓国かあさんの味とレシピ」(八田靖史 誠文堂新光社)を買う。この本はタデギの作り方などが書いてあって便利。雑談で「7月の夏休み前の買い物行動が2月に突然起きたと思えば驚くことはないのよね」という話が出て、そりゃそうだって納得。家に子どもがいるだものね。
「韓国かあさんの味とレシピ」を眺めていたら熊本で食べた「ひともじのぐるぐる」と同じ料理が出ていた。「パガンフェ」湯がいた分葱をぐるぐる巻きにするの。「ひともじのぐるぐる」は酢味噌で「パガンフェ」はチョゴチョジャンで食べる。酢味噌とチョゴチョジャンの両方を作って食べてもよさそう。チョゴチョジャンはコチュジャンと梅干それからお酢に少し砂糖を混ぜて作る。去年、台風のお見舞いに館山へ行った時にいただいたすばらしい梅干しがある。あれでチョゴチョジャンを作ろうっと。
6日(金曜日)カナルカフェでお茶。ひさしぶりのクリームブリュレ。溶けて焦げたお砂糖をスプーンの背でこんこんと叩いて食べるのが楽しい。 1251.jpg
1250 20200206 映画「ゆうやけ子どもクラブ」で井出洋子監督とアフタートークしました。 良い映画を見せてもらいました。小学校から高校まで放課後の障碍児対象のディサービスを記録したドキュメンタリー映画です。いろんなことを思い出させる(想起)映画でした。
自分が子どもの頃。自分の子どもたちが小さかった時のこと。ただいま保育園の入園競争真っ盛りの孫たちのこと。
それから障害を持っていたおともだちのこと。私が小学に入った時、家の向かいに発育障害と知的障害を持った女の子がいました。カコちゃんと呼んでいました。「カコちゃんはほんとうはもう6年生なんだけど、今年1年生に入ったのだから親切にしなくちゃだめよ」と言われました。1966年、当時は障碍児学級が小学校の中に普通学級とは別に作られていました。うちの子どもたちの時は、障害を持った子も一緒に勉強するようになっていました。思い出す子どもたちのおともだちの顏があります。現在は遠くの施設に入って暮らしているというおともだちもいました。
障碍児のための放課後ディサービスが小平市で始まったのは1978年だそうです。私が大学へ入った年なので、今から40年前の東京の景色や雰囲気はありありと目に浮かべることができます。
映画に記録された「ゆうやけ子どもクラブ」の様子は、人がどうやって自分の世界と出会ったかを丁寧にカメラへ納めているものでした。積み木を積んでいるばかりのヒカリ君。積み木で電車の線路を作るのが大好きです。電車の線路はしだいにリアルになって行きます。駅や跨線橋なども積み木で作られるようになります。で、列車に動物たちが乗るようになりと、この変化の時間は実にゆっくりを進んでいます。やがて駅で電車を待つ人が現れ、そのあと、ヒカリ君自身がおすもうをしているおともだちの土俵を横切るようになるのです。自分が住む世界と時間をかけて出会ってゆく様子がカメラにおさめられ、編集されています。私もあんなふうに世界と出会ってきたんだと微笑しました。実は私は子どもの頃、積み木とを組み合わせて街を作る遊びが大好きでした。
学校は「読み書き」を教えなければならないので、どうしても時間を「目的で縛る必要」があります。今は国語の時間、次は算数の時間というように「目的で縛られた時間」の中で過ごすこといなり、目的で縛られない時間の中で「私はここにいる」と自分の周囲の世界との自由な関係は持てませんが、「ゆうやけ子どもクラブ」では世界との自由な関係が持てる場所になっています。それが「障害を持った子どもに寄り添う」ということになるのでしょう。そして、私は「自分もずっと昔、子どもだった頃、目的に縛られない時間の中でゆっくりと世界に溶け込んで遊びほうけていた」のを映像を見ながら思い出していたのです。人生の最後にそういう時間の再現があったらいいなあという願望もちょっぴりそこに混入していました。
障碍児のための放課後ディサービスがあることはこの映画で初めて知りました。この40年間の経験の蓄積は、社会的な財産、公共の財産でしょう。保育園、学童保育など、昭和後期から平成にかけて、社会的サービスの経験が積み重ねられてきたひとつだと思います。利潤追求にはなじまないとされてきた様々な社会的サービスが、現在は「民営化」という名称で「企業化」されようとしています。企業は「利潤追求」をいう目的に絞り込んだ運営をします。こうした流れについても映画は考えさせるものを持っていました。
https://www.yuyake-kodomo-club.com/
1249 20200103 あけましておめでとうございます。 あけましてめでとうございます。
新宿御苑には2月に咲く緋寒桜や河津桜から4月末に咲く八重の関山や普賢象などまで、たくさんの品種の桜が植えられています。今年は新宿御苑を散歩して、早生の品種からおくての八重の品種まで桜が開くのを楽しみたいものです。 1249.jpg
1248 20191231 大晦日です。 こんばんは。
大晦日の夜です。今年は2年ばかりの「豆の葉」のデータが消えてしまいました。ちょっと残念。
1247 20170623 今日は沖縄戦終結の日 沖縄戦の悲惨は大勢の人が無残に亡くなったところにあるけど。勝つ見込みのない戦闘に非戦闘員が巻き添えにされただけでなく、非戦闘員の保護という意識が軍にまったくないこと。捕虜は保護されるという国際的なルールの無視と無知な軍部。アッツ島サイパン島の玉砕もあった。現場の指揮官に国際的なルールの教育をせずに「生きて虜囚の辱めを受けず」などと当時でも時代錯誤な戦陣訓を流布した政府は、悲惨な被害を拡大した。それはもう過去のことだと感じていたけど、昨今の日本政府の対応を見ているとまだ過去のことになっていない。
為政者は国際社会における政治的価値と理想を共有していなければ、統治する社会の成員を不幸にする。沖縄で「土人」発言をした警察官は処罰されたが、教育と監督の責任を負う松井大阪府知事、鶴保沖縄担当大臣はなんら責任を負っていない。現場の警察官よりも重い責任があるにも拘わらず。
差別という角度からだけ「土人」発言を見ると、政治的価値と理想の共有という側面が矮小化されてしまうので、あえて、「差別」ではなく国際社会における政治的価値の共有としう側面から眺めてみたい。
1246 20170612 昭和文学会 FBにばらばらに書いたものを拾いました。
昭和文学会で石川文洋さんのお話を聞いてきました。ミュージカル「ヘアー」日本公演用に寺山修司脚本があったという秋吉大輔さんの発表、石ノ森章太郎作品の背景にベトナム戦争があったという森下達さんの発表も興味深く聞きました。良い夜風が吹いてます。
久しぶりにちょっと日本酒をいただいたら、空のお月様がきれいに見えました。
昭和文学会では川村湊さんが「日本人のベトナム体験」と題して開高健、日野啓三、近藤紘一の諸作品を挙げていた。朝鮮戦争では日本社会の共通認識形成につながる文学作品を乏しいという指摘に関連して朝鮮戦争は今や「忘れられた戦争」「消されがちな戦争」と指摘。私の考えもほぼ同じ。
昭和文学会は会員になっていて、秋季大会のテーマは「モダニズムの詩人」とのこと。これもちょっと発表を聞いてみたいなあ。
質問者の中に日野啓三を研究しているという人がいてちょっとうれしかった。小中学校時代を慶尚南道密陽で過ごし、1942年にソウルに移って、龍山中学へ入学。敗戦で広島県福山市に戻り、東大文学部卒業後、読売新聞記者。軍政下のソウル駐在。ベトナム戦争当時のサイゴン駐在。
朝鮮戦争と言わず「朝鮮動乱」と言っていた。そして「朝鮮動乱」も「ベトナム戦争」も大人の日常語の中の言葉で、雑談のタネになっていた。米軍基地のある横須賀に近い横浜市内に家があったせいもあるかもしれないけど、過去の戦争ではなく「今の戦争」が大人の関心を集めた時代を知っている。私のそういう子どもの耳を持っていた最後のほうへ世代なのかな。
菅笠をかぶって竹の棒を担いで遊んでいるとベトコンちゃんとあだ名をつけられたし、夢中になって西瓜をかじっているとビアフラの子どもみたいだと呆れられたのが小学生の頃。大人が「今の戦争」についての関心を持っていた時代(1960年代後半)の「子どもの耳」についてちょっと考えている。
1245 20170604 開高健「ベトナム戦記」 開高健「ベトナム戦記」にこんな場面がある。
朝鮮戦争にも従軍したヤング少佐は、豊かな社会で暮らす米国は無関心に支配されていると語る。ベトナムのジャングルで「犬のように死んでいっても米国の大半はそれを知らない」と。以下、引用。
「「タイム」もニューズウィーク」も「ライフ」も、それに「ポスト」もや「ニューヨークタイムズ」だって、毎号のようにベトナム戦争をとりあげているじゃありませんか。それで知れないというのはどういうことです。アメリカはここで何年たたかっているんです?」
少佐ははげしく舌うちし、いたましげにうなだれた。「読まないだよ。アメリカ人は」「読まない?!」「「読まないのだ。小学校の先生だってろくに読まないのだ。最近の世論調査でその数字がちゃんとでている。学校の先生だってろくに読まないんだよ。わかるはずがないじゃないか。そうか。君はまだアメリカへいったことがなかったんだな。アメリカ人は読まないんだよ」
とつぜん、155ミリ無反動砲が咆え出した。夜を裂き、土をふるわせ、何発も何発もたてつづけに砲弾は暗い南西めだしてとんでいった。ヤング少佐はきれぎれに弾音のなかで叫んだ。
「……おれたちは孤立しているんだ。だれにも知られずに死んでゆくんだ。ごくわずかの人間にしか知られていないんだ!」
この記事はFBにあげたものです。FBで皆さんの御感想をいただきました。
FBで皆さんが「読んでいない」というところに興味と共感を感じられているのは私も同じです。で、私のこのくだりを読んで南スーダンに派遣されていた自衛隊の皆さんのことを連想しました。昨年7月には自衛隊が派遣されているジュバでひどい戦闘が起きていましたが、日本の多くの人は無関心でした。また日本政府はジュバで自衛隊の安保法制成立による「駆けつけ警護」を実施させようとしていました。
今年2月には国会で自衛隊の日報が隠されていることが問題化しました。しかし自衛隊日報問題は棚さらし状態です。
幸いに自衛隊のみなさんは5月末に無事に帰国されましたが、ジュバではっベトナム戦争当時のヤング少佐が感じていたのと同等の孤独にさいなまれていたに違いありません。
北支や南方へ戦線を拡大した第二次世界大戦当時の日本軍の孤立や飢餓とはまた質をことにする悲惨がすでに始まっていることを、このくだりから感じたのです。開高健がベトナム戦争を取材したのは1965年(昭和40年)のことでしたから、それから50年の歳月が過ぎています。ですから、ここで表現されているヤング少佐の孤独もすでに往時のロマンテックなものになっているかもしれません。
1244 20170528 上野博物館のユリノキ 浦和から熱海行きの電車に乗ったら、池袋経由ではなく上野経由だった。じゃあ、上野でもいいやと上野の博物館へ行ってみた。常設展の展示の内容が大幅に変わっていた。「アイヌ、琉球」の展示室ができていた。かわらないのは本館前のユリノキ。お昼を韻松亭で食べちゃった。 1244.jpg
1243 20170429 こんにゃくの好きなたぬき 大阪にはこんにゃくが好きなたぬきが住んでいるんですって(比喩じゃないからね 笑)生玉神社に祠があるらしい。で、大阪はこんにゃくの使い方がうまあなあと。牛スジとコンニャクのお好み焼きが美味だったので、うちでも作ってみることにしました(子豚)
1242 20170412 うすいえんどう 和歌山県産の「うすいえんどう」です。関東ではあまり見かけません。グリーンピースより少し大きめで皮が薄くほくほくしています。 1242.jpg
1241 20170407 はけの湧き水 武蔵野は関東平野の西に広がる台地です。いたるところに河が作り出した「はけ」があります。「はけ」は崖とほぼ同義語。大岡昇平は「武蔵野夫人」で小金井の恋ヶ窪あたりの景色を描いていますが、私の自宅がある成増も武蔵野の端くれ。家の裏手は白子川。関東の川では珍しく南から北へ流れ荒川へ注ぎます。西側には「はけ」が。この10年で、「はけ」はだいぶ削られました。それでも「はけ」から湧き水が流れ出ています。戦前はこの水で鱒を養殖していたそうです。 1241.jpg
1240 20170325 昨日、卒業式でした。 昨日、卒業式でした。御卒業の皆さま、おめでとうございます。新しい時代を切り開き、豊かな時代精神を築くのは皆さまのお力にかかっています。創作の精神は人文学の基礎を支えています。人が人らしく生きるための学問が人文学です。皆様の輝かしい未来があることを祈ってお祝いの言葉にかえます。
1239 20170129 那覇から高江へ 那覇で100日間以上の長期身柄拘束をされている高橋さんに接見してきました。お元気ですと言いたいところですが、ちょっと気になる症状が出ていました。右手の甲、小指と薬指よりやや下がったところが、こんもりと腫れていました。腫れだした時には痛みがあったそうです。現在は押すとじいんとした痛みを感じるということでした。北部病院で診察を受け原因が分からないので大学病院での診察を受けることを勧められたとのことでした。那覇で拘束されているのですが、大学病院での診察はまだ認められていないそうです。長期に渡る身柄拘束は不当であり、早期の釈放を願っています。
高江にも行ってきました。写真は高江北部の高台から、かつて材木を積みだした港を見下ろしたところ。この高台に明治の末に最初の学校が作られた記念碑がありました。かつて高江は陸路がなく海路を使っていたそうです。本島北部特有の赤土がかおを出している崖がありました。緋寒桜は2分咲き。この桜が咲くころは雨の季節。 1239.jpg
1238 20170121 島バナナとオスプレイ 新沖縄文学賞の授賞席出席のため沖縄へ行ってきました。高校時代の知人に南部戦跡と北部の高江・辺野古へも足をのばしてきました。
今年の沖縄本島は台風の直撃がなかったので、島バナナはよくできたそうです。ブーゲンビリアも花盛り。黄色い実は「台湾〜〜」と言うのだと教わりましたが、覚えられなかったので、あとで調べておきます。高江で沖縄そばを食べた「むーらん」をいうお店の庭先で撮影。
高江では建設中のヘリパッドが注目されていますが、すでに完成して使用されているヘリパッドが複数あり、「ムーラン」の近くにはN4と呼ばれるヘリパッドで軍用ヘリやオスプレイが離着陸の訓練をしていました。最初から「ベテラン」はいないわけで、どんなベテランパイロットも最初は初心者。軍用ヘリやオスプレイの離着陸訓練をしている高江上空は「空の教習所」でした。
初めてヘリモードで低空を飛行するオスプレイを見ました。唸るような音で飛行していました。 1238.jpg
1237 20170112 スキャンダルとフェイクニュース ロッキード事件発覚は1976年2月。それから41年目。昨年は田中角栄の本がよく売れたそうだけど、「政治と金」というテーマがパターン化したスキャンダルになった嚆矢がこの事件。以来、政治家追い落としのために「政治と金」のスキャンダル報道が使われるようになった。
一方で新しく登場したのが、デジタル技術を使ったフェイク・ニュース問題。フェイク・ニュースはトランプ氏当選の米国大統領選挙で注目を集めるに至ったけれども、すでに日本ではヘイトのネタを作り出すフェイク・ニュースはまとめサイトに蔓延していた。「在日特権」「慰安婦」「沖縄差別」など数えきれないほどのフェイク・ニュースがまとめサイトでくり返し流されている。
菅野完氏に関して「疑惑多い経歴『菅野完著「日本会議の研究」の狙いと虚構』と題した冊子が国会議員に配布され、出版差し止めの仮処分が認められたというのは、どちらかと言えば前者のスキャンダルを流して相手を潰すという旧来型の手法に属しているように見える。
東京MXテレビの「ニュース女子」でののりこえねっとと辛淑玉氏の誹謗中傷報道はローカルテレビ局を使った典型的なフェイク・ニュース。
スキャンダルによる敵の追い落としとフェイクニュースによる追い落としとこのふたつに、情報取得に慣れていない人々の興味関心が加わり三つ巴の様相を呈してきている。新聞でも記事と広告の区別がついていない読者はわりに多いのだけど、そこにネット情報やデジタル化で多局化したテレビが加わるわけ。これは物凄い戦いをまのあたりにすることになりそう。
1236 20170103 ローストチキン 昔々、お腹に詰物をしたローストチキンを作ったことがある。うちで子どもが小学生時代。丸鶏は売ってなかったので別注。詰物は栗、糯米、松実、玉葱、パセリなど。オーブンがないから中華鍋で焼いた。息子も娘もこれは衝撃の体験だったようで記憶していた。「だってお尻から詰めるんだもの」って。
詰物をした丸鶏のローストチキンは手間がかかるから1度試みただけ。「お尻から詰める」という衝撃の体験をした子どもたちは「あれは美味しかった」と、その味も覚えているみたい。オーブンを買おうかな。孫にも衝撃の体験をさせちゃおうかな。
1235 20170103 謹賀新年 暮れの27日に家の中でころんで膝のお皿をちょこっと欠いてしまいました。今は簡易な添え木で膝を固定している状態です。
本年の皆さまの御多幸をお祈りいたします。 1235.jpg
1234 20161230 し〜ちゃんの一升餅 岡の上の田中屋さんで一升餅をついてもらいました。初誕生に一升餅を背負わせると一生、食べものに困らないそうです。
田中屋さんではし〜ちゃんのかあさんの初誕生の時も一升餅をついてもらいました。川越街道沿いのこのお菓子屋さんは安政3年(1856年)創業だそうです。黒船来航から3年目の頃。江戸安政大地震は安政2年。江戸が大地震に襲われた翌年の開業になります。
高島秋帆が今の高島平、その頃の徳丸が原で洋式砲術と洋式演習を公開したのが天保12年(1841年)だそうですから、田中屋さんがお店を開く15年ほど前です。それから黒船が来て、大地震が来て、川越街道は川越のお城への早飛脚だの早馬だのが、しょっちゅう通り過ぎて行ったに違いありません。ちなみに私の曾祖父は天保4年の生まれ。権四郎おじいさんと言います。し〜ちゃんから数えると6代前が権四郎おじいさんです。権四郎おじいさんが物心ついたころは、世の中がしだいに騒然とし始めたいたわけです。権四郎おじいさんがペリーが現れた浦賀からそう遠くない神奈川の金沢八景で足袋屋を開いていました。 1234.jpg
1233 20161210 トップスターが届いた。 クリスマスツリーのトップスターが届きました。し〜ちゃんにはカタカタを買ってあげようかしら。あんよのお稽古。 1233.jpg
1232 20161202 新潟「なべ茶屋」 新潟へ行ってきました。
「なべ茶屋」さんでお夕食。すっぽんの土瓶蒸しが濃厚なお味で美味でした。もともとは、すっぽん鍋のお店だったとか。大きな料亭でした。 1232.jpg
1231 20161114 七五三 金沢八景の瀬戸神社前で撮影しました。国道16号線拡張工事中です。ちょうど50年前。
弟の羽織、袴と私の着物、被布、帯は母のお手製。着物はほどいてしまいましたが、被布はまだ持っています。し〜ちゃんに着てもらおうかしら。 1231.jpg
1228 20161113 イソギク 幼稚園の時は泣くほど昆布巻きが嫌いだったし、海岸性の植物は乾いた感じがして苦手だったのに。この頃は昆布巻きを煮てるしイソギクを買ってくるようになった。 1228.jpg
1230 20161113 桜を植え替えました 先週の日曜日。ベランダの桜の木の枯れた部分を鋸で切って、新しい植木鉢に植え替えました。 1230.jpg
1229 20161113 マイナンバーカードと図書館利用カード 総務省はマイナンバーカード普及のために図書館利用カードへの転用を認める方針。よほどマイナンバーカードの普及が進まないらしい。図書館利用カードへ転用すれば「思想信条の自由」が侵害される可能性が大きくなる。心の内で何を考えるかの秘密が守られない可能性も生じる。ダメでしょ。これ。
マイナンバーカードをポイントカードと兼用させるという案もまだやっていた。ポイントカードはお客さんに定着してもらうためのサービスなんだから店名が入ってなければ無意味。それが進まないから、こんどは図書館利用カードに目をつけた。ポイントカード兼用よりももっと危険な兼用だ。
図書館は70年代を境に変容している。それまでの人文主義、教養主義、権威主義的な蔵書構成から情報重視、利用者尊重、商業主義的な蔵書構成へと変わってきている。そういう図書館がマイナンバーカードと図書館利用カードの兼用を拒否できるかどうか、たいへん心もとない状況に陥っている。
「マイナンバーカード兼図書館利用カード兼TSUTAYAカードでポイントがいっぱいたまるよキャンペーン」なんてことが始らないとも限らない。こういうのを杞憂と言うのだけど、杞憂がリアルになるまで、あと数歩でしかなさそう。
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016111000552&g=soc
1227 20161016 ミスサイゴンのチケットをゲット お誕生日に息子夫婦にお花をもらったの。
来月、息子夫婦と帝劇へ「ミスサイゴン」を見に行く約束をしちゃった。市村正親さんのエンジニアはこれが見納めかもしれないんですって。チケットをゲット。ミュージカルでは日韓の歌手がひとつの舞台に出るのはだんだん当たり前になっているみたい。キム役にはトリプルキャストでキム・スハが、ジョン役ではダブルキャストでパク・ソンファンが出演している。市村正親さんが「ジーザスクライススーパースター」や「エクウス」で新進気鋭のミュージカル歌手として注目された70年代後半には考えられなかった配役。その頃、韓国は軍事独裁政権の国でしたから。後に部下によって暗殺される朴正煕大統領も、まさか娘の朴槿恵さんが大統領やるなんて思ってなかったでしょうけど。
そのうち、「ミスサイゴン」ならぬ「ミスピョンヤン」みたいなミュージカルを誰かが書く時代がくるのかしら。それとも「上海・ソウル・東京の3都市物語」みたいなのができたりして。そんなことを考えていたら「上海バンスキング」が見たくなってきた。 1227.jpg
1226 20161006 最初のお誕生日 遠い昔になりました。 1226.jpg
1225 20160925 ホルトノキ 淡路町から昌平橋の方向へとことこ歩いていたらホルトノキの並木があった。まだ植えられたばかりで、ちょっと落ち着かないなあという感じの並木だった。ホルトノキは常緑樹だけど、葉が落ちる前になると真っ赤に色づく。一年中、真っ赤になった葉がほろほろと散っている木。母方の祖父母の家に大きなホルトノキがあった。紅い葉がほろほろ散る木の名前を誰も知らなくって「なんだかわからない木」と呼んでいた。とても大きな木で家を建て替える時も切ってしまうと土地が崩れるかもしれないからと、そのまま残ったのだけど、とうとう枯れてしまった。
神社の境内には「御神木」として大切にされている巨木があります。ホルトノキも伊東の神社に大きな木があるそうです。日本で一番おおきなホルトノキと2番目におおきなホルトノキがあるとか。ちょっと見に行きたいなと思ってます。
1224 20160906 いちじくの甘煮を作りました。 盛岡の第一回文学フリマ岩手へ法政文芸編集委員会の学生諸君と出かけてきました。ここのところ新幹線の移動が重なったので、帰りは仙台で一泊しました。
仙台の朝市へ。あおいイチジクが出回る季節です。イチジクを買って甘煮を作りました。白砂糖で煮て、お酢を赤ワインを加えました。あとから考えると酢よりもレモン果汁のほうがよかったかもしれません。でも美味。 1224.jpg
1223 20160903 もうすぐたっち 
し〜ちゃんははいはいができるようになりました。
し〜ちゃんはえんちょができるようになりました。
し〜ちゃんはたっちをしようとしています。
1222 20160808 パルコの思ひ出1 河出書房新社にいらしゃった長田さんのお誘いで、長野の塩尻の図書館に講演に行ってきました。塩尻は筑摩書房の創業者である古田晁の故郷です。図書館には筑摩書房刊行の本が寄贈されていました。渋谷のパルコの思ひ出がなぜ塩尻の図書館の話から始まるかと言えば河出書房新社は千駄ヶ谷にあって、その河出書房新社にいた編集者のみなさんと渋谷そして辻井喬氏の思い出が結びつくからです。因縁というには薄い結びつきですが、たまたま河出の編集者の話を長田さんをお話をして帰ってきたら、渋谷パルコ閉店のニュースが流れていたのでした。
パルコが出来たのは1969年の「池袋パルコ」が最初。「東京丸物」閉店にあたって小佐野賢治仲介で西武百貨店が資本参加で「パルコ池袋」ができたと。渋谷への進出は1973年。昭和になおすと48年ですね。私は中学2年生。パルコのテレビCMを見て「何だろう?」と不思議に思ってました。商業施設のCMには見えませんでしたから。
パルコが渋谷で進出してからのテレビCMは21時にはまっくらになってしまう田舎の中学生には、実に刺激的な謎でした。探せばなんでもあるユーチューブですが、その頃のパルコのテレビCMは見当たりません。たしか小林麻美が赤いドレスでダンスを踊っていたCMがあったような。どなたかご記憶ででしょうか。パルコ渋谷閉店で「若者文化の発信地」などの紹介文を読むと違和感があるのは、田舎の中学生にはパルコのテレビCMは「大人への憧れ」を誘うものだったことに強い印象を持っているからです。
で、渋谷パルコのTVCMが盛んに流れた頃(少しあとからもしれませんが)流行した言葉が「大人の女」です。「大人の女」と言ってもサザエさんのおかあさんのおふねさんや、青島幸男が演じる意地悪ばあさんをさしているわけではありません。パルコのCMに出てくるような人。流行語の「大人の女」を女優さんに例えれば、沢村貞子さんではなくって岸恵子さんかな。あと女優を引退してからエッセイストをして活躍した高峰秀子さん。そのあたりかしら。「女こども」と「おばあさん」の間にいる「大人の女」への憧れが詰まっているような場所が渋谷パルコ。先日亡くなられた柳瀬尚樹訳のエリカ・ジョング「飛ぶのが怖い」が出たのは1973年。柳瀬さんの翻訳は1976年だったからパルコ渋谷進出と時を同じくしているわけです。ナチス協力者として戦後ながらく無視されていたレニ・リフェンシュタールの再評価や そういうパルコが陣取る渋谷は私にとっては苦手な街。ある時「あなた、パルコがあるほうが山手線の内側だと思っているでしょ。あれは山手線の外側だからね」と言われて、ちょっとだけ地理感覚の修正に成功。その時は東京に出てきて10年以上が過ぎていました。
【パルコの思い出】はまた気が向いた時に続きをかきます。
1221 20160729 シネマ・イーラさんからいただいた夏野菜 浜松の木下恵介記念館でおこなわれた「楽隊のうさぎ」上映会に行ってきました。
シネマ・イーラさんからおたくの畑でとれたての夏野菜をどっさりいただきました。 1221.jpg
1220 20160707 安倍内閣は原発事故隠し内閣 本日(7月7日)東京新聞朝刊27面。小泉純一郎、細川護熙連盟で「トモダチ作戦被害者支援基金」の全面広告。「すでに7名が命を落とし、現在もなお400名を超える方々が、ガンや白血病等の健康被害に苦しめられています」福島に派遣された米軍にこれだけの被害が出ている。 東日本大震災の救援に派遣された米軍にこれだけの原発事故の被ばく被害が出ているのだから、当然、日本の自衛隊、消防関係者、行政関係者それから当時福島に住んでいた人々にも被ばくによる健康被害は出ていると推察される。東京新聞の特報面の手前に広告を出した小泉、細川の両氏は出したそう推察されることを当然、計算しているはず。ここまで手の込んだことをやらなければ、福島原発事故の被ばく被害をうったえることができないのが今の日本なのか。選挙では原発に触れられることがないのか。そもそも参議院選挙も充分に報道されていない。テレビで参議院選挙があまり報じられないのも異常なら、改憲が争点になるのも尋常ならざることで放ってはおけないけど、福島原発事故で放射線による被ばく被害が大規模に出ている可能性があるのを米軍兵士支援の基金設立広告で推測しなきゃならないのは、もっと異常な話。
自民党改憲案のトンデもなさに驚いて、安倍内閣が原発堅持政策をとっていることを忘れそうになる。さらに福島原発事故で進行している被ばく被害には目をむけられなくなる。安倍内閣は原発事故隠し内閣。 1220.jpg
1219 20160701 鰯のにぎり 大阪の「千年町樋口」さんの鰯のにぎり。
新子の8枚付けのにぎりもごちそうになりました。惜しいことに写真を撮るのを忘れてぱくりと食べてしまいました。
梅雨鰯とか入梅鰯と言うのだそうです。梅雨の頃の鰯は脂がのってとても美味。参議院選挙で、あちらの方もこちらの方も走り回っています。選挙が終わったらまた大阪の周防町の「千年町 樋口」さんへ行きたいなあ。誰か誘おうかしら。 1219.jpg
1218 20160621 反権力から抜け出して 「反権力」の集会やデモと「有権者としての意思表示」の集会やデモは、見た目は似ているけど、その内実はまったく異質なものだ。18日(土)新宿東口街宣でミサオ・レッドウルフさんと初めて直接お話をした。2012年6月に首相官邸前の反原発脱原発集会が大きくなった時、集会の中止を告げるミサオ・レッドウルフさんのアナウンスを、おうちにいた私が一生懸命、タイピングしてツイッターで流したのはミサオ・レッドウルフさんは知らないことながら、あの時からお話してみたかった人。あの時、有田芳生さんは群衆の中の一人として「不穏な感じ」とツイートしている。
外務省脇から官邸前へと坂を上る人が多すぎて混雑しているのを、群衆の中の一人の有田芳生さんは「不穏な感じ」とツイートした。警察の機材を借りて集会の中止を告げたミサオ・レッドウルフさんはあとからだいぶ非難されていた。「反権力」の眼で見るからそういう非難が湧くのだろう。「反権力」が目的化してしまった場合には「警察の協力するなんて許しがたい」という態度になる。が、反原発の官邸前抗議も、ヘイトスピーチへのカウンターも、それから集団的自衛官を認める憲法解釈から始まった安保法制反対も「反権力運動」ではない。有権者としての意思表示だ。この違いは大きい。「反権力」を標榜する集会やデモに政治家は近づけない。「反権力」を標榜する集会やデモはけっきょく、それそのものが目的化しています。「有権者としての意思表示」のデモや集会は政治家と有権者の関係性を変える力がある。首相官邸前抗議から昨年の国会前集会は野党共闘を実現させた。
政治家と有権者をより近づけた存在として、その結びつきをしっかりとさせたのは「行動保守」を自認する右派のほうが先んじていた。ネトウヨ諸氏が自民党ネットサポーターズクラブのメンバーを自称していたのは、そういうわけだったのかと、今さらながら驚いたり呆れたり。
1217 20160403 戦後女性列伝 咲いた桜の花が雨に煙っています。おはようございます。昨日、思いついたことなんだけど「戦後女性列伝」みたいなのを書いたらおもしろいだろうなあと。
1946年の第22回総選挙で当選した女性議員だけでも39人の女性議員がいる。このなかには郵政保護法を提出した加藤シズエ、福田昌子、大田典礼もいた。加藤シズエは長生きで2001年に104才で亡くなっている。お嬢さんの加藤タキさんは48歳の時の産んだお子さん。松谷天光光、のちの園田天光光も長生きで1919年生まれで亡くなったのは2015年だから96才まで生きた人。政治家なら市川房江や土井たか子も忘れちゃいけない。2014年に94才で亡くなった山口淑子も日中米で活躍した女優から政治家に転身した人。デヴィ・スカルノもなかなか波乱万丈のおもしろい人生を生きている人だけど、まだお元気なので書きにくいかもしれない。
中ピ連の榎美佐子は1945年生まれ。まさに戦後の人。1992年頃をさかいに行方不明とか。
たまたま政治家からたどりだしたけれども、そのほかにも作家はもちろん、スポーツ選手、アーティスト、実業家、司法官、官僚、など分野ごとに活躍した女性がいて、その人たちの略伝を並べるだけで、具体的な戦後70年史が描けそうなんだけど。
リストだけでも作ってみようかな。どなたかやってみませんか。
1216 20160309 し〜ちゃんは哺乳類 し〜ちゃんは哺乳類
クジラのおともだち
し〜ちゃんはぱいぱいが好き
し〜ちゃんは哺乳類
イルカのおともだち
し〜ちゃんすくすく
し〜ちゃんはおぼちゃが好き
太古の海をまだ覚えている
1215 20160214 春一番 昔の赤ちゃんが今の赤ちゃんを抱えてやってきて、嵐のように去っていった。しーちゃんのお父さんがインフルエンザに罹患しので緊急避難。お父さんはおうちでひとりお薬を飲んでインフルエンザと戦っていたとか。
今の赤ちゃんの「泣くぞ警報」(声は出さないで顔だけ泣き顔になる)は昔の赤ちゃんそっくり。で、ばあちゃんはどうも風邪をひいたみたい。インフルエンザでなければいいけど。
昨晩は大風。どうも春一番らしい。いろんな夢を見ました。胸のつかえがほどけるような夢を見たけど、目をさましたらみんな忘れちゃった。風が止んで陽がさしてきました。 1215.jpg
1214 20160104 終戦後のことを知りたい。 1月2日のサウジアラビアが47人の人を処刑したそうです。IS関係のほかにイスラム・シーア派の聖職者が処刑されたことをきっかけにサウジアラビアとイランの間の緊張関係が高まり、イランのサウジアラビア大使館が群衆に襲われました。今朝、サウジアラビアはイランとの国交断絶を宣言。
日本、韓国、米国は1月中にも3か国外務次官級協議を開く予定とか。開催されれば、昨年4月に続いて2回目になります。北朝鮮の有事が想定されている可能性を感じています。
あっちでもこっちでも第二次世界大戦で作った秩序(国境線)がゆらぎ始めている。ヒットラーが政権掌握する過程への興味もあるけど、蒋介石が参加したカイロ宣言(1943年)からヤルタ会談(1945年2月)それからポツダム宣言(1945年7月)について知りたい。第二次世界大戦の戦後処理については、一般的に知られていることがあまりに少ない気がする。戦争反対の立場から開戦に至るプロセスはよく研究され、一般的な知識としても共有されているが、戦争が終わったあと、どのような対処をしたのかは共有されている知識が少ない。私が高校へ通っていた40年前。第二次世界大戦の戦後処理はまだ「知識」というよりも「体験」に入っていた。終戦後の預金封鎖や東京裁判それに続く朝鮮戦争やサンフランシスコ講和条約は社会運動として語られるのではなく身近な人の「体験」として耳にしていた。第二次世界大戦で作られた秩序が揺らぎ始めているのを感じると「体験」を「知識」に変えるプロセスがいかに重要なのかを痛感する。終戦から35年くらいまではなまなましい「体験」であったけれども、その後の35年は「体験」を「知識」に変えるプロセスが必要だった。
終戦の翌年のお正月はたくさん雪が降ったと亡くなった母が言ってました。日本人は「敗戦」を「終戦」と言い換えるからいけないと言われるけれども、「終戦」という言葉を使っていた時のほうが「敗戦」の実感がその言葉の中にこもってました。「敗戦」と言い出してからのほうがなんだか軽薄になった。
生きていれば今年81歳になるはずの母はお正月になると終戦の翌年のお正月は雪がたくさん降ったという話をして、それから家の前で行き倒れた人がいたことを決まっているみたいに話していました。行き倒れた人の胃にはミカンの皮が3つしか入ってなかったとか。食糧不足は戦後のほうが深刻だったと。
暮れに亡くなられた野坂昭如さんは昭和5年(1930年)の生まれで「闇市焼跡派」を名乗っていた時期がありました。終戦の時、15歳。野坂さんくらいの世代には戦後処理は「体験」そのものだったわけで。
1213 20160102 朝鮮半島 正月早々にたいへん恐縮ですが、もの言わざるは腹ふくるる心地と申しますので、御勘弁願います。
南北の軍事境界線の地雷爆発で韓国兵士2人がそれぞれ両足切断、片足切断の重症を負ったのは2015年8月のことでした。これをきっかけに南北が軍事的緊張を高めたのは皆さま、ご記憶のことでしょう。この軍事的緊張を和らげる役割を果たしたのは北朝鮮の対韓国政策統括の金養建氏だそうです。
この金養建氏が暮れの29日に交通事故で亡くなったそうです。
25日 岸田外務大臣の韓国訪問と慰安婦問題協議の妥結のニュースが突然流れ出す。
27日 慰安婦問題協議について、憶測情報が流れ、韓国政府が抗議。
28日 岸田外務大臣韓国訪問。日韓外相会談。1時間程度の協議で従軍慰安婦問題の妥結を発表。
同日 中国が日韓の協議の妥結を歓迎
29日 米国が従軍慰安婦問題の妥結を歓迎するメッセージ
同日 岸田外務大臣の「ユネスコ世界記憶遺産に慰安婦資料登録はなくなった」という趣旨の発言に韓国が抗議
30日 韓国が慰安婦協議妥結について日本の「少女像撤去の約束が「ねつ造である」として抗議
同日 少女像が撤去されなければ、財団設立の資金10億円を支払わないと日本政府高官が発言。首相補佐官だと言われています。
同日 慰安婦支援団体の抗議活動活発化。ソウルの日本大使館が入居する建物へ入って抗議した学生30名が逮捕される。
同日 北朝鮮が金養建氏が交通事故で死亡と発表
31日 北朝鮮で金養建氏の葬儀に金正恩氏出席
同日 朴槿恵大統領が国民に向けて妥結を冷静に受け入れるようにメッセージを発表
同日 米国、日本についで中国とホットラインを開通させる。
以上のような流れになっています。今年の秋から冬にかけて日本海側の海岸には白骨化した複数の遺体を乗せた北朝鮮の船が流れ着いています。週刊新潮によると金正恩氏が漁業捕獲量の増産を指示したために無理なノルマを課せられた漁民だということでした。
金養建氏は29日の18時に交通事故で死亡とされていますが、このニュースがどこまで信じられるかも、多くの疑問の余地が残っています。死亡したこと、それから、粛正ではないことはほぼ事実でしょう。いつ死亡したのか。29日以前の可能性は充分あります。仮に1週間前だとすれば22日になります。また交通事故に関しても疑問は残ります。交通事故という発表は何等かの手段で殺された。つまり暗殺の可能性がないとは言い切れないのです。粛正ではなく暗殺であったとすると、北朝鮮で反体制的な暴力の行使があったことも推測できるようになってきます。
そのような推測をすると日韓の慰安婦問題妥結の急展開と中国、米国の支持表明の速さの理由が北朝鮮内部の異変にあるように考えられてくるのですが。杞憂でしょうか。杞憂だといいのですけどね。
以上は1月1日にFBに書き込んだ文章のコピーです。1月1日の時事通信の報道によると北朝鮮の金正恩総書記は韓国との関係改善に努めると年頭所感を発表したそうです。
1212 20160102 ほんもののおばあさんになりました。 幼稚園のときに「大きくなったら何になりたいの」と聞かれて「おばあさん」と答えたら「それはだれでもなれるから、ほかに何かない」と言われました。女の子はたいてい「お嫁さんになる」と答えていた時代です。昨年は8月30日に国会前で雑踏の整理をしていたのに、31日にはICUに放り込まれ絶対安静を告げられました。心臓疾患が大事に至る一歩手前で発見してもらいました。息子がネット検索で適切な病院を見つけてくれたのは大手柄でした。そんなわけで「おばあさんになるのも」どうしてなかなか、誰でもなれるというわけでもなさそうです。
年末にほんもののおばあさんになりました。女の子が生まれました。17、8年前、つまり20世紀の終わりころから出産に父親が立ち会うのは常識化していると聞きました。出産立ち合い準備講義を受けてから立ち会うのだそうです。出産に立ち会うまでの経過をお婿さんから聞くのもなかなか楽しい経験でした。
生方先生から香りのよいいちごを頂戴しました。
いちごの香りを嗅いだら、弟が生まれたときのことを思い出した。まだ2歳の時でしたから、母から聞いた話を覚えているだけですが。いちごをひと箱買ってもらって、「これからおかあさんは病院だから、いちごを食べておうちで待っているんだよ」と言い聞かせられたそうです。いちごをひと箱全部食べていいと言ったら、すごくうれしそな顔をしていたそうです。で、そのころ住んでいた金沢八景の切通の家の門前でいちごの箱を抱えて産院へ行く母を見送ったと。弟は6月の生まれですから、露地ものの出盛りのいちごを買ってもらったのでしょうねえ。いちごの箱を独り占めしたいとずっと言っていたそうですから、そのころから子豚でした。 1212.jpg
1211 20160101 あけましておめでとうございます。 おさるのシャルロットちゃんです。 1211.jpg
1210 20151207 どんどこどんどこ ただいま。京都・北山の紅葉を見て、裾野まですっきりと晴れ渡った富士山を見て、東京駅で新幹線を「のぞみ」から「はやて」に乗り換えて、仙台の枯れた木立を眺め、それから東京に戻って銀座でベビー用のバスローブを買って安保法制反対のデモに沿道から手を振り、おうちに帰ってきました。
ええと。どっから思い出せばいいんだっけ? ああ、そうだ。明日には京都の「うるわし屋」さんから赤と黒の塗り分けの漆のお皿が届くはず。久しぶりでした。「うるわし屋」さんを覗いたのは。御所では紅葉が赤く染まっていました。それから丸善本店へ。じゃなかった。「花政」で仏手柑を見つけました。仏手柑は丸善本店で対談をした平野啓一郎さんへお土産。仏手柑もさることながら、茎にさした試験管状の水入れを珍しがってもらいました。丸善本店の対談をお運びいただきました皆様、どうもありがとうございました。
で、木曜日には東京へ戻って、金曜日はまた京都。新幹線で車掌さんに「毎日ご利用ありがとうございます」と言われた。前日と同じ車掌さんと気づき、苦笑しました。岩倉の精華大学へ。鈴木隆之さんと対談。北山の紅葉はもう終わりでした。鈴木さんに錦市場の「HALE」へ案内してもらいました。「HALE」は錦市場の小路を入ったところにある町屋をレストランに直したお店。小さな中庭には苔がびっしりと生えていて、それで「花政」にあった苔のプレートを思い出しました。畳1畳ほどのプレートにいろいろな種類の苔が盛り込まれていたのです。あれって中庭を作る材料だったのかしら。
土曜日。京都で目を覚まして、晴れ渡った東海道を新幹線でどんどこどんどこ東へ東へ。途中で良く晴れた大井川と富士山と見て、東京駅乗り換えで、こんどは「はやぶさ」で北へ北へと走って、とろりと居眠りをしたら仙台へついてましたとさ。「火星の庭」さんへちょこっと寄ってお茶をいただきました。東北大学へ。タクシーを拾ったら「明日だったら地下鉄が開通しているんですけどねえ」って。仙台の地下鉄東西線は12月6日開通。イルミネーションも12月6日に点燈ですって。東北大学でのカク・ヨファンさんとの対談。お越しいただきました皆様、ありがとうございます。
で、仙台の朝市! セリを買うんだと出かけてみれば、今日は12月最初の日曜日でおやすみでした。仙台駅構内でフカヒレの缶詰ゲット。というわけで、仙台のお土産はフカヒレの缶詰でした。
先週、ゼミで京都と仙台のお土産を持ってくるよと言ったら、中継地点のお土産はないのですか? と質問した学生がいた。はいはい。京都と東京と仙台のお土産ね。
1209 20151127 朴裕河氏の起訴に対する抗議声明 11月26日の記者会見で発表した抗議声明全文と賛同者54名です。
朴裕河氏の起訴に対する抗議声明
『帝国の慰安婦』の著者である朴裕河氏をソウル東部検察庁が「名誉毀損罪」で起訴したことに、私たちは強い驚きと深い憂慮の念を禁じえません。昨年11月に日本でも刊行された『帝国の慰安婦』には、「従軍慰安婦問題」について一面的な見方を排し、その多様性を示すことで事態の複雑さと背景の奥行きをとらえ、真の解決の可能性を探ろうという強いメッセージが込められていたと判断するからです。
検察庁の起訴文は同書の韓国語版について「虚偽の事実」を記していると断じ、その具体例を列挙していますが、それは朴氏の意図を虚心に理解しようとせず、予断と誤解に基づいて下された判断だと考えざるを得ません。何よりも、この本によって元慰安婦の方々の名誉が傷ついたとは思えず、むしろ慰安婦の方々の哀しみの深さと複雑さが、韓国民のみならず日本の読者にも伝わったと感じています。
そもそも「慰安婦問題」は、日本と韓国の両国民が、過去の歴史をふり返り、旧帝国日本の責任がどこまで追及されるべきかについての共通理解に達することによって、はじめて解決が見いだせるはずです。その点、朴裕河氏は「帝国主義による女性蔑視」と「植民地支配がもたらした差別」の両面を掘り下げ、これまでの論議に深みを与えました。
慰安婦が戦地において日本軍兵士と感情をともにすることがあったことや、募集に介在した朝鮮人を含む業者らの責任なども同書が指摘したことに、韓国だけでなく日本国内からも異論があるのは事実です。しかし、同書は植民地支配によってそうした状況をつくり出した帝国日本の根源的な責任を鋭く突いており、慰安婦問題に背を向けようとする日本の一部論調に与するものでは全くありません。また、さまざまな異論も含めて慰安婦問題への関心と議論を喚起した意味でも、同書は大きな意義をもちました。
起訴文が朴氏の「誤り」の根拠として「河野談話」を引き合いに出していることにも、強い疑問を感じざるを得ません。同書は河野談話を厳密に読み込み、これを高く評価しつつ、談話に基づいた問題解決を訴えているからに他なりません。
同書の日本版はこの秋、日本で「アジア太平洋賞」の特別賞と、「石橋湛山記念 早稲田ジャーナリズム大賞」を相次いで受賞しました。それはまさに「慰安婦問題」をめぐる議論の深化に、新たな一歩を踏み出したことが高く評価されたからです。
昨年来、この本が韓国で名誉毀損の民事裁判にさらされていることに私たちは憂慮の目を向けてきましたが、今回さらに大きな衝撃を受けたのは、検察庁という公権力が特定の歴史観をもとに学問や言論の自由を封圧する挙に出たからです。何を事実として認定し、いかに歴史を解釈するかは学問の自由にかかわる問題です。特定の個人を誹謗したり、暴力を扇動したりするようなものは別として、言論に対しては言論で対抗すべきであり、学問の場に公権力が踏み込むべきでないのは、近代民主主義の基本原理ではないでしょうか。なぜなら学問や言論の活発な展開こそ、健全な世論の形成に大事な材料を提供し、社会に滋養を与えるものだからです。
韓国は、政治行動だけでなく学問や言論が力によって厳しく統制された独裁の時代をくぐり抜け、自力で民主化を成し遂げ、定着させた稀有の国です。私たちはそうした韓国社会の力に深い敬意を抱いてきました。しかし、いま、韓国の憲法が明記している「言論・出版の自由」や「学問・芸術の自由」が侵されつつあるのを憂慮せざるをえません。また、日韓両国がようやく慰安婦問題をめぐる解決の糸口を見出そうとしているとき、この起訴が両国民の感情を不必要に刺激しあい、問題の打開を阻害する要因となることも危ぶまれます。
今回の起訴をきっかけにして、韓国の健全な世論がふたたび動き出すことを、強く期待したいと思います。日本の民主主義もいま多くの問題にさらされていますが、日韓の市民社会が共鳴し合うことによって、お互いの民主主義、そして自由な議論を尊重する空気を永久に持続させることを願ってやみません。
今回の起訴に対しては、民主主義の常識と良識に恥じない裁判所の判断を強く求めるとともに、両国の言論空間における議論の活発化を切に望むものです。
2015年11月26日
賛同人一同
賛同人
浅野豊美、蘭信三、石川好、入江昭、岩崎稔、上野千鶴子、大河原昭夫、 大沼保昭、大江健三郎、ウイリアム・グライムス、小倉紀蔵、小此木政夫、 アンドルー・ゴードン、加藤千香子、加納実紀代、川村湊、木宮正史、 栗栖薫子、グレゴリー・クラーク、河野洋平、古城佳子、小針進、小森陽一、酒井直樹、島田雅彦、千田有紀、添谷芳秀、高橋源一郎、竹内栄美子、 田中明彦、茅野裕城子、津島佑子、東郷和彦、中川成美、中沢けい、 中島岳志、成田龍一、西成彦、西川祐子、トマス・バーガー、波多野澄雄、 馬場公彦、平井久志、藤井貞和、藤原帰一、星野智幸、村山富市、 マイク・モチズキ、本橋哲也、安尾芳典、山田孝男、四方田犬彦、李相哲、 若宮啓文 (計54名、五十音順)
Asano Toyomi, Araragi Shinzo, Ishikawa Yoshimi, Irie Akira, Iwasaki Minoru, Ueno Chizuko, Okawara Akio, Onuma Yasuaki, Oe Kenzaburo, William Grimes, Ogura Kizo, Okonogi Masao, Andrew Gordon, Kato Chikako, Kano Mikiyo, Kawamura Minato, Kimiya Tadashi, Kurusu Kaoru, Gregory Clark, Kono Yohei, Kojo Yoshiko, Kohari Susumu, Komori Yoichi, Sakai Naoki, Shimada Masahiko, Senda Yuki, Soeya Yoshihide, Takahashi Genichiro, Takeuchi Emiko, Tanaka Akihiko, Chino Yukiko, Tsushima Yuko, Togo Kazuhiko, Nakagawa Shigemi, Nakazawa Kei, Nakajima Takeshi, Narita Ryuichi, Nishi Masahiko, Nishikawa Yuko, Thomas Berger, Hatano Sumio, Baba Kimihiko, Hirai Hisashi, Fujii Sadakazu, Fujiwara Kiichi, Hoshino Tomoyuki, Murayama Tomiichi, Mike Mochizuki, Motohashi Tetsuya, Yasuo Yoshinori, Yamada Takao, Yomota Inuhiko, Lee Sangchol (Li Sotetsu), Wakamiya Yoshibumi
「朴裕河氏の起訴に対する抗議声明」韓国語バージョンです。英語バージョンは制作中。
박유하 교수 기소에 대한 항의성명
『제국의 위안부』의 저자인 박유하 교수를 서울 동부검찰청이 「명예훼손죄」로 기소한 것에 대해 우리들은 커다란 놀라움과 깊은 우려를 금할 수 없습니다. 작년 11월 일본에서도 간행된 『제국의 위안부』에는 「종군위안부문제」에 대한 일면적인 인식을 넘어 다양성을 제시함으로써, 사태의 복잡성과 배경의 깊이를 포착하여 진정한 해결의 가능성을 찾고자 하는 강한 메시지가 담겨 있다고 판단되기 때문입니다.
기소와 동시에 발표된 보도자료에 의하면, 검찰청은 본서의 한국어판이 「허위 사실」을 기술하고 있다고 단정하고 그에 대한 구체적인 사례를 열거하고 있습니다. 그러나 그것은 박유하 교수의 의도를 있는 그대로 정확히 이해하려고 하지 않고 선입견과 오해에 의거하여 내린 판단이라고 생각합니다. 무엇보다도, 이 책으로 인해 위안부 할머니들의 명예가 훼손되었다고는 생각하기 어려우며, 오히려 위안부 할머니들이 경험한 슬픔의 깊이와 복잡함이 한국인들뿐만 아니라 일본의 독자들에게도 전해졌다고 느끼는 바입니다.
「위안부 문제」는 한일 양국민이 과거의 역사를 되돌아보고, 제국일본의 책임을 어디까지 추궁해야 하는지에 대한 공통된 이해에 도달함으로써 비로소 해결이 가능해지는 문제입니다. 이에 관하여, 박유하 교수는 「제국주의에 의한 여성멸시」와 「식민지지배가 초래한 차별」의 두 측면을 파고들어 이제까지의 논의에 깊이를 더하였습니다.
위안부가 전쟁터에서 일본군 병사와 감정을 공유하는 경우가 있었다거나 모집에 관여한 조선인을 포함한 업자의 책임 등을 이 책이 지적한 데 대해, 한국뿐만 아니라 일본 안에서도 여러 가지 이견이 존재하는 것은 사실입니다. 그러나, 이 책은 식민지지배를 통해 그러한 상황을 만들어 낸 제국일본의 근원적인 책임을 날카롭게 지적했을 뿐이며, 위안부문제로부터 등을 돌리고자 하는 일본의 일부 논조에 가담하는 책이 결코 아닙니다. 또한, 여러 이견들을 포함해서 위안부문제에 대한 관심과 논의를 환기시킨 점에서도 본서의 의의는 크다고 할 수 있습니다.
기소에 관한 보도자료에 의하면, 박유하 교수의 「잘못」의 근거로서 「고노담화」가 거론되고 있습니다. 그러나 이에 대해서도 강한 의문을 느끼지 않을 수 없습니다. 이 책은 고노담화를 섬세하게 읽어내고 이를 높이 평가하면서, 담화를 기반으로 한 문제해결을 호소하고 있기 때문입니다.
이 책의 일본어판은 올해 가을 일본에서 「아시아태평양상」특별상과 「이시바시 탄잔기념 와세다저널리즘대상」을 잇달아 수상하였습니다. 이는 「위안부문제」를 둘러싼 논의의 심화를 향해 새로운 한발을 내딛은 것이 높이 평가 받았기 때문입니다.
작년부터, 한국에서 이 책이 명예훼손의 민사재판에 휘말리게 된 것에 대해 우리는 우려의 눈길을 보내왔습니다만, 이번에 더욱 큰 충격을 받게 된 것은 검찰청이라는 공권력이 특정 역사관을 기반으로 학문과 언론의 자유를 억압하는 행동을 취했기 때문입니다. 무엇을 사실로 인정하고, 역사를 어떻게 해석할지는 학문의 자유에 관한 문제입니다. 특정 개인에 대한 비방이나 폭력선동을 제외하고, 언론에 대해서는 언론을 통해 대항해야 하며, 학문의 장에 공권력이 발을 들여놓아서는 안 된다는 것은 근대 민주주의의 기본원리라고 여겨집니다. 학문과 언론의 활발한 전개야말로 건전한 여론 형성을 위한 중요한 재료를 제공하고, 사회에 자양분을 공급하기 때문입니다.
한국은 정치행위뿐만 아니라 학문과 언론이 권력에 의해 삼엄하게 통제되었던 독재시대를 헤쳐 나와 자력으로 민주화를 달성하고 정착시킨, 세계에서 보기 드문 나라입니다. 우리는 그러한 한국사회의 저력에 깊은 경의를 품어 왔습니다. 그러나 현재, 한국의 헌법이 명기하고 있는 「언론・출판의 자유」나 「학문・예술의 자유」가 침해 받고 있는 것을 우려하지 않을 수 없습니다. 또, 한일양국이 이제 겨우 위안부문제를 둘러싼 해결의 실마리를 찾으려고 하는 때에 이번 기소가 양국민의 감정을 불필요하게 자극하여 문제의 해결을 어렵게 하는 요인이 되지 않을까 걱정됩니다.
이번 기소를 계기로 한국의 건전한 여론이 다시금 움직여지기를 강하게 기대하고 있습니다. 일본의 민주주의도 현재 많은 문제를 드러내고 있습니다만, 한일 양국의 시민사회가 공명해 감으로써 서로의 민주주의, 그리고 자유로운 논의를 존중하는 분위기가 영구히 지속되기를 진심으로 바랍니다.
이번 기소에 대해서는 민주주의의 상식과 양식에 부끄럽지 않은 판단을 법원에 강하게 요구함과 동시에 양국의 언론 공간을 통한 논의의 활성화를 절실히 기원하는 바입니다.
2015년 11월 26일
성명인 일동
浅野豊美(Asano Toyomi, 아사노 토요미)、蘭信三(Araragi Shinzo, 아라라기 신조)、石川好(Ishikawa Yoshimi, 이시카와 요시미)、入江昭(Irie Akira, 이리에 아키라)、岩崎稔(Iwasaki Minoru, 이와사키 미노루)、上野千鶴子(Ueno Chizuko, 우에노 치즈코)、大江健三郎(Oe Kenzaburo, 오에 겐자부로)、大河原昭夫(Okawara Akio, 오카와라 아키오)、大沼保昭(Onuma Yasuaki, 오누마 야스아키)、小倉紀蔵(Ogura Kizo, 오구라 키조)、小此木政夫(Okonogi Masao, 오코노기 마사오)、加藤千香子(Kato Chikako, 가토 치카코)、加納実紀代(Kano Mikiyo, 가노 미키요)、川村湊(Kawamura Minato, 가와무라 미나토)、木宮正史(Kimiya Tadashi, 기미야 타다시)、グレゴリー・クラーク(Gregory Clark, 그레고리 클러크)、ウィリアム・グライムス(William Grimes, 윌리엄 그라임스)、栗栖薫子(Kurusu Kaoru, 쿠루수 카오루)、河野洋平(Kono Yohei, 고노 요헤이)、アンドルー・ゴードン(Andrew Gordon, 앤드류 고든)、古城佳子(Kojo Yoshiko, 코죠 요시코)、小針進(Kohari Susumu, 고하리 스스무)、小森陽一(Komori Yoichi, 고모리 요이치)、酒井直樹(Sakai Naoki, 사카이 나오키)、島田雅彦(Shimada Masahiko, 시마다 마사히코)、千田有紀(Senda Yuki, 센다 유키)、添谷芳秀(Soeya Yoshihide, 소에야 요시히데)、高橋源一郎(Takahashi Genichiro, 다카하시 겐이치로)、竹内栄美子(Takeuchi Emiko, 다케우치 에미코)、田中明彦(Tanaka Akihiko, 다나카 아키히코)、茅野裕城子(Chino Yukiko, 치노 유키코)、津島佑子(Tsushima Yuko, 쓰시마 유코)、東郷和彦(Togo Kazuhiko, 도고 가즈히코)、中川成美(Nakagawa Shigemi, 나카가와 시게미)、中沢けい(Nakazawa Kei, 나카자와 케이)、中島岳志(Nakajima Takeshi, 나카지마 다케시)、成田龍一(Narita Ryuichi, 나리타 류이치)、西成彦(Nishi Masahiko, 니시 마사히코)、西川祐子(Nishikawa Yuko, 니시카와 유코)、トマス・バーガー(Thomas Berger, 토마스 버거)、波多野澄雄(Hatano Sumio, 하타노 수미오)、馬場公彦(Baba Kimihiko, 바바 기미히코)、平井久志(Hirai Hisashi, 히라이 히사시)、藤井貞和(Fujii Sadakazu, 후지이 사다카즈)、藤原帰一(Fujiwara Kiichi, 후지와라 키이치)、星野智幸(Hoshino Tomoyuki, 호시노 도모유키)、村山富市(Murayama Tomiichi, 무라야마 도미이치)、マイク・モチズキ(Mike Mochizuki, 마이크 모치즈키)、本橋哲也(Motohashi Tetsuya, 모토하시 데츠야)、安尾芳典(Yasuo Yoshinori, 야스오 요시노리)、山田孝男(Yamada Takao, 야마다 다카오)、四方田犬彦(Yomota Inuhiko, 요모타 이누히코)、李相哲(Lee Sangchul, 리상철, Li Sotetsu, 리 소테츠)、若宮啓文(Wakamiya Yoshibumi, 와카미야 요시부미) (54명)
1208 20151108 ガジュマルの赤い実 那覇で。ガジュマルの木に赤い実がなっていた。赤からだんだん紫になるみたい。ガジュマルの古木にはキジムナーが住んでいると言われます。赤い髪、赤い顔をしている樹の妖精だそうです。絵に描いてあるキジムナーは男の子が多いのですが、女の子のキジムナーもいるとのこと。なかには夫婦で子どもを連れているキジムナーもいるとか。魚獲りの名人で、キジムナーと一緒に魚を獲ると大漁だそうです。魚の目玉が好物。獲った魚の中に目玉のない魚が混じっていたら、それはキジムナーが食べたあとだそうです。
私の従妹に魚の目玉が大好物という子がいました。ごく小さい時の話で、叔母がごはんのしたくをしていると、お膳の焼き魚の目玉が全部なくなっていたこともあったそうです。「めんめ、めんめ」と言いながら魚の目玉を食べてしまったとか。叔母の育った家、つまり私の母の実家ですが、その家は金沢八景の平潟湾に面していて、おおきなホルトの木がありました。常緑樹ですが、真っ赤に染まった葉が一年中、ほろほろと散る木でした。太い幹は黒褐色でざらざらした肌をしていました。私と弟はこの木の下でよく遊んでいました。それが「ホルトの木」だとわかるまではただ「どうも南方の木のようだ」とだけで、なんの木なのか、その名前もはっきりとはしませんでした。三浦半島の沿岸部ではまれに「ホルトの木」を見ることができるようです。ひょっとするとあのホルトの木と一緒にキジムナーが黒潮に乗ってやってきていたのかもしれません。ガジュマルではありませんが、キジムナーの中にもきっとそそっかしい奴はいることでしょう。魚の目玉が好きな従妹はキジムナーと友達になっていかのかも。
首里から那覇へ下る坂道に、まちがいなくキジムナーが住んでいるガジュマルの木がありました。たくさんの気根を垂らした大きな樹でした。「ここに大きなガジュマルの木があったのですよ」とタクシーの運転手さんが、いかにも残念そうに、その古木が切り倒された跡を教えてくれました。母の実家にあったホルトの木も、とうとう切り倒されました。キジムナーはまた潮に乗ってどこか住みやすい古木があるところを探しに出かけたかもしれません。
写真のガジュマルの木は、那覇の国際通りに那覇市伝統工芸館「てんぷす那覇」の前に若いガジュマルの木です。近くにはハイアットリージェンシーホテルもできました。このガジュマルにキジムナーが住む頃には、あたりの様子もずいぶん変わっているかもしれません。 1208.jpg
1207 20151017 欧州の混乱は戦争へ? ドイツ銀行の経営状態が悪いという話が昨年から出回っているそうです。もし、破綻すればリーマンショック以上の痛手を世界はこうむりそうです。またEUも破綻しかねません。そこへ北アフリカ、中東から多くの難民が押し寄せているのが現状。
10月9日付で時事は以下の記事を掲載しています。フランス、シリアへ2度目の空襲(すみません。私はどうも湾岸戦争の時に出てきた「空爆」という言葉に馴染めません。「空襲」のほうがずっと実感があります。「東京大空襲」は呑み込めるけど「東京大空爆」は喉にひっかかる棘みたいな感じ))とのこと。
「【パリ時事】フランスのルドリアン国防相は9日のラジオ番組で、仏空軍がシリアで前日夜から未明にかけて、過激派組織「イスラム国」の訓練施設に対して2度目の空爆を実施したと明らかにした。
国防相は「ラファール戦闘機が爆弾を投下し、目的を達成した」と述べた。また、さらなる爆撃を検討していると説明した。 」
戦争しますと言って始める戦争は珍しいものです。1月にパリでのテロ事件。フランスのシリアへの空襲。ドイツをめざす難民の大集団。もう欧州での戦争は始まっていると言えるでしょう。今のところは戦争と言わず混乱で収まっていますが。そこにドイツの経済破綻が訪れば混乱は「戦争」へと姿をかえる可能性が高まったと言えます。
ユーラシア大陸の西の戦争に、極東(← 欧州の混乱を見ているとこの言い方がとても実感を持ってきます)の日本が巻き込まれないかが重要な局面で、わざわざ、中東に出かけてISに攻撃の口実を与えた安倍首相のおそるべき無能はいったいどうしたものでしょう。安倍首相の「無能」は、首相を囲むブレーンの「厚顔無恥」に由来しているようです。第二次世界大戦と日中戦争、太平洋戦争の敗北を認めない人々が安倍首相のブレーンだということが指摘され始めています。「戦前回帰」というよりも「戦前固執」と言ったほうがいいかもしれません。ユーラシア大陸の西で「第三次世界大戦」と呼んでもいいような戦乱の狼煙があがっている時に、ユーラシアの東の果ての島国で第二次世界大戦前に固執する人々が空気頭の首相を担いでいるのを、宇宙人が眺めていたらさぞかしおもしろいでしょう。その宇宙人が戯曲家の才能を持っていたら、さぞかし愉快な喜劇を書くことでしょう。
ドイツ銀行を巡る暗い噂。ドイツ発の世界恐慌の可能性も!?
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20151016-00064330-hbolz-eurp
1206 20151014 カチカチ ネトウヨのほかにビスネスウヨと呼んでもいいような人々もいるんじゃないかな。原発政策堅持派とか武器輸出賛成派とか。もろもろ
1970年代後半の高校の教室には中国は南方戦線へ従軍経験を持つ先生がまだ教壇に立っておられた。国語を担当されたある先生は「僕が教科書を読むとカチカチなるけれども笑わないように」とおっしゃった。顎の下に戦線で受けられた銃弾が残っているとのこと。
先生の頭蓋骨には戦後30年以上、カチカチという音が響いていたのだ。もちろん、そんな音は生徒に聞こえるはずがない。戦闘の中で敵兵を撃つこともあったにちがいないことを生徒は想像した。が、先生はそんなお話はなさらなかった。
1970年代後半の高校の教室に、父親の酔態に悩まされている友人がいた。ある時そっと告白してくれたのだが、その友人の父親は酔うと、朝鮮半島でいかに不逞の輩を切り殺したかを微細に語るのだそうだ。具体的な方法を話されるのに悩まされていると言っていた。忘れられない光景があったのだろう。
「なんで人を殺してはいけないのかわからない」と発言した17歳の青年がTBSの筑紫哲也氏の番組に登場したのは1997年の神戸連続児童殺傷事件の時だったか。それで、人を殺した経験のある人がいっぱいいた時代に教育を受けたことを思い出した。戦後30年くらいまではそういう時代だった。
1205 20150911 「首相官邸前で」と「アンチヘイト・ダイアローグ」 外国人記者クラブで記者会見をしたのが2月25日。安倍内閣の特異性をなんとかネット情報から遠い人にも伝えることができないかという趣旨の話をしました。あれからおよそ半年。安保関連法制を多くの法学者が違憲としていることをきっかけに、しだいにテレビ、新聞でも安倍内閣の特異性が報じられるようになってきました。
小熊英二さんもどうも同じようなことをお考えのようで映画「首相官邸前で」は映画館で見て、一緒に映画を見た人と話をしてほしいと試写会の時に言ってました。「この映画、地方の人に見てもらえないかしら」と小熊さんにお話したのは、NHKと民放1局しかない地方もけっこうあり、現在の政治的危機感が伝わっていないと感じていたからです。小熊さんは「自分でやって」というご返事でしたから、さっそく仙台の佐伯一麦さん、熊本の伊藤比呂美さんと熊本文学隊の跡上さんに自主上映会のお話をしました。それからこちらは本職ですが、浜松のシネマ・イーラ支配人の榎本さんにもお願いしました。
9月17日仙台「火星の庭」で自主上映会を開きます。おかげさまで満席になっています。このあとより大きな会場での上映会も予定されているそうです。熊本は10月31日、11月1日は福岡での上映会の準備もすすめていただいています。いずれも私が皆様のお話合いのお手伝いをするナビゲーターとしてうかがいます。浜松は「ぜったいやりたいので、少し待ってください」というお返事を榎本さんからいただいています。
『アンチヘイト・ダイアローグ』(人文書院)も書店の平台を通して、ネット情報から離れた人に現在の危機を感じとってもらいたいと思って作った本です。書店の平台は、メディアではありませんが、大勢の人に大きな影響力を与える場であることを、嫌韓本、反中本が大量に出回った時に、逆説的に実感しました。また、平台に並ぶ本は、テレビの製作者や新聞記者などメディア関係者に大きな影響力を発揮します。2月25日の外国人記者クラブで「なんとか今の状況をネットの外にいる人たちに伝えられないか」とお話したことを微力ながら自分でもこころみたつもりです。
1204 20150910 「アンチヘイト・ダイアローグ」について ヘイトスピーチを繰り返す排外主義者(レイシスト)に抗議する行動にかかわっていなければ、安倍政権の特異なことに気づくのが遅れたかもしれません。どうかすると現在でも、それほど特異な政権だとは感じていなかったかもしれません。排外主義者(レイシスト)は歴史修正主義者と繋がりが濃く、歴史修正主義者は安倍政権の重要な支持者に一角をなしています。
安保法制関連法案の強行採決が近づいているという報道があります。これだけ反対しても数の力で押し切ろうとする一方で、8月6日に審議に入った人種差別撤廃基本法はまだ審議のめどがたたず国会会期末までの成立が危ぶまれています。与野党ともに人種差別撤廃基本法に反対する党はありません。が、実際には排外主義者、歴史修正主義者を支持者に持つ自民とが審議を遅らせているのではないでしょうか。
よくヘイトスピーチ、とくに韓国を対象にしたそれがなぜこんなに激化したのかと尋ねられます。2001年の従軍慰安婦問題を対象にした「模擬国際戦犯法廷」に取材したNHK「戦争をどう裁くか 第2夜 問われる戦時性暴力」の番組改変問題で、安倍晋三氏と歴史修正主義者たちが結びつくようになった結果として排外主義者が大手を振ってヘイトスピーチデモと繰り返すようになったといういきさつは見逃すことができないと考えるに至りました。歴史修正主義者は東京裁判の受け入れを拒否しています。従軍慰安婦問題と東京裁判はいずれも「事後法」的な性格を持つという点で共通している要素があります。それはまた、戦争の勝者による敗者の裁きをどう考えるかという主題を持っています。そういう流はこの対談集を作っている時にはまだ見えていませんでした。そのような流れを見出すためにも、この対談集での対話は私にとって貴重なものでした。
ヘイトスピーチに抗議することを軸として、現在の日本の政治、経済、文化の広がりの中から「言葉を見つけるための旅」をするかのように8人の皆さんとお話をさせていただきました。
中島京子さん。韓国の作家、姜英叔さんは共通の友人です。中国現代文学の翻訳も手がています。平野啓一郎さん。日韓中3ヶ国の文学者会議でシャープな発言をされていました。今現在の私たちが住む世界への興味と感心の深さにいつも感嘆させられます。星野智幸さん。新しい感情世界を切り開く力に満ちた作品を書くのにどうしてそんなに優しいのか不思議になる人です。
3人の作家とまずお話をさせていただいたのは、現在の日本を覆う歴史修正主義的な戦後否定の言葉が、どこか言葉というものの深い根のところで文学的な問題提起をしていると直感していたためです。これはいずれ「小川国夫・島尾敏雄・吉田健一の『時間』を巡る戦い」という紀行文のスタイルをとった評論を書くつもりでいることと結びついています。
政治学者の中野晃一さん。御著書「右傾化する日本政治」(岩波新書)はよく読まれています。社会学者の明戸隆浩さんはエリック・ブライシュ「ヘイトスピーチ 表現の自由はどこまで認められるか」(明石書店)の翻訳家であり、この本には日本のヘイトスピーチの現状も考察されています。この本の表紙のおじさんの顔があんまり怖いので、実際に明戸さんにお会いするまでは、なんだかとんでもない大男が出てきそうな気がしていました。エコノミストの向山英彦さん。御著書に「東アジア経済統合への道」(日本評論社)があります。経済に詳しい方にどうしても加わっていただきたく、対談のお願いしました。もっとも衝撃的なお話を伺いました。なぜかはまた改めて書きます。弁護士の上瀧浩子さん。「♯鶴橋安寧 アンチ・ヘイト・クロニクル」(影書房)の著者である李信恵さんの名誉棄損や業務妨害の民事裁判の弁護を手がけています。2月の寒い晩に、お喋りをたくさんしながらお蕎麦をごちそうになったのが忘れられません。聞き上手というのは上瀧さんのためにあるような言葉です。社会運動家の泥憲和さん。「安倍首相から『日本を取り戻せ』」(かもがわ出版)はよく読まれています。社会運動家とお呼びしてもいいかどうか迷いました。元自衛官で、軍事知識は豊富でユーモアに富んだお話ぶり。泥さんに肩書は不要で、泥さんはいつも泥さんなんだなあと感嘆しています。
現実を見る眼を持ち、それを言葉で語ることができる皆さんとじっくりお話をさせていただきました。どうかすると煮詰まってしまう現状を、未来の方向へ広げて行くようなお話ができました。本書を予約していただいた方から「人選がいいね」と言っていただきました。
1203 20150825 最近の中国について 写真は昨年のフランスの東北の海岸地方を旅行した時に撮影した英雄の銅像。誰だったかは忘れちゃいました。銅像はイギリスの方向を指さして海の風に吹かれていました。
中国について。中国は軍備拡張していると報道されている。とくに海軍拡張は著しいものがあるそうだ。それは間違いではなさそうだ。海洋資源を巡っての領土的野心もゼロとは言えない。
中国の軍備拡張の報道を聞くたびに考えていたのは、軍の近代化に着手しようとしているのではないかという疑い。中国の人民解放軍は、それぞれの将軍が手勢を率いる「水滸伝」の世界からまだ抜け出ていないのだという話を聞いたのは天安門事件(第二次天安門事件 1989年6月)の時だった。この時、水上勉さんは北京飯店滞在中で、長安大街(通りの名前)を戦車が進んでくるのをホテルの部屋から目撃したとのこと。
天安門事件では北京郊外で軍どうしの衝突もあったという「噂」もしきりに流れていた。そんなこんなで、中国の人民解放軍はまだ近代化が不充分で、言ってみれば「水滸伝」の世界に近いという話を聞いた。軍管区ごとの独立採算性という話もその頃、聞いたんだったかな。かれこれ25年前。
一口に軍の近代化と言っても、そのためにはある一定の教育を均質にしなければならない。日本で言うところの義務教育の徹底で、これには膨大な経費がかかる。まず教員の養成、教育内容の整備、教材の整備、それやこれやを費用をして捻出して初めて軍の近代化も可能になる。日本や韓国のようにある程度の規模の国にはそれができても、総人口の把握さえ難しい大国ではその負担はめまいがするくらい大きそうだ。
話を軍の近代化に戻すと、陸軍よりも海軍のほうが近代化(中央集権的コントロールができる軍)の進み方が早いのではないか。海洋資源に対する野心はその副産物ではないかという仮定を立てて中国の報道を読んでいた。陸軍は海軍よりも、社会制度に忠誠を誓う近代的な制度よりも将軍(つまり人に)に忠誠を誓う水滸伝的世界が強固なのではないだろうか。
天安門事件の終息の時、中国各地から集まった将軍たちがひな壇にならび、拍手でケ小平を迎えた。江沢民はあの場面の中から登場した中国の指導者だ。江沢民は水滸伝に出てくるような将軍たちから支持されている。ところが若い世代の習近平は、中央の命令ひとつで、制度的に動ける近代的な軍を作ろうとしているということであれば、この二つの対立の様相がなんとなく想像できる。
誤解を恐れずに言えば、水滸伝に出てくるような将軍たちと、米国大統領のように軍をシビリアンコントロールしたい米国留学組が、江沢民と習近平を押し立てて対峙しているということになってないだろうか。
誰か中国報道を専門にしている人、この見立てが当たっているかどうか教えてください。 1203.jpg
1202 20150823 神田「ささま」のお干菓子 神田「ささま」のお干菓子です。
高校の修学旅行の時、近鉄奈良駅の近くのお菓子屋さんでお干菓子をひと箱買いました。赤と白の鹿の子模様と銀色の二色の箱は今でも古切手入れとして使っています。もっと小さな子供の頃は、金沢八景にあった武蔵屋さんで「すあま」を買ってもらうのが好きでした。餡子が入っていては嫌なんです。「すあま」でなければ許せない。おうどんは「うどんかけ」で澄んだお汁でなければ許せないという子どもでした。デパートの食堂のメニューに「うどんかけ」がなくって「天麩羅うどん」から天麩羅を取り除いてもらっても、汁に油が浮いているのが嫌で大激怒(4歳児だったので大泣き)したくらいでした。横須賀のサイカ屋デパートの食堂でした。
あら、なんの話だったかしら。
そうそうお菓子の話です。
神田の「ささま」は東京の出てきて初めて和菓子を買ったお菓子屋さんでした。子ども時分にはうどんの汁の大激怒するくらい好みがはっきりしていたのですが、金沢八景から房総の館山へ越してみると、うどんかけを配達してくれるお蕎麦屋さん(金沢八景駅前の越後屋さんと決まってました)もなければ、すあまを並べたお菓子屋さんもなくって、そう気難しいことも言ってられなくなりました。餅菓子屋さんは那古観音の階段下に1軒あって、そこのうぐいす餅が好きになったのは中学生の頃かしら。でも、餅菓子はあっても金花糖はありませんでした。
子どもだけがなんだか寂しい気がしていたのではなくって母も寂しかったようです。ある時、不意に上等のねりきりが食べたいと、突然、言い出したのでした。いつのことだったか。それ以来「ねりきり」とはなんぞや? という疑問にとりつかれた次第。婦人公論のグラビアで神田の「ささま」に行けば折々の「ねりきり」があることを知っていて、たまたま明治大学の2部に入学したので、目と鼻の先をこれ幸いと「ささま」へお菓子を買いに行った日からずっとお菓子を買ってきました。
考えてみると餡子好きなのですね。で、大阪へ行っても京都へ行ってもお菓子を買ってます。お干菓子は持ち歩きに便利なので、よく買います。FBでお干菓子シリーズをやろうかなとつぶやいたら賛成していただきました。で、これから時間のある時にお干菓子シリーズをやります。お茶のお稽古がなかったら、こんな高価なお菓子はもう滅びてしまったかもしれません。そう言えば近頃「すあま」も見なければ「うどんかけ」を配達してくれる蕎麦屋さんもなくなってしまいました。 1202.jpg
1201 20150817 山の上ホテルの白玉小豆氷 山の上ホテルの白玉小豆氷。困惑するほど巨大でした。
ちょっと考えてから側面のしゃりしゃりとスープスプーンで削ぎなっがら食べました。それから頂上の餡子をちょこっとずつ食べて、白玉が落下しないように注意しつつ、グラスの底へ氷を溶かしこむ戦法(笑。
全部食べ終わった時は少々寒くなっていていましたが、この日はデモクラテレビ出演のために上着を持っていたので助かりました。
白玉小豆氷を食べてから錦華公園の方へ出ました。錦華公園は日の丸をつけた竿が山のように積まれていました。で、機動隊さんが公園を取り囲んでいました。靖国通りの角で「錦華公園はこちら→」のプラカードを持った誘導さんがいて、九段方面から大勢の人が錦華公園の方角へ曲がって行きました。あとで分ったことですが、靖国神社で開かれた「首相や閣僚に靖国神社参拝を求める団体が集会を開き、そのあとでデモをする予定で大勢の人が移動していたようでした。神田神保町は警察車両と機動隊さんでいっぱい。
東京堂で買い物をしてから「チェッコリ」に顔を出し、それから靖国神社まで九段の坂を上ってみました。もうほんとにどこもかしこも機動隊さんと公安さん、それに右翼団体らしき人がいっぱい。日本中から右翼団体に所属している人が集まってきているようで、機動隊さんに道を訪ねている右翼さんもいました。
左翼の「反天連」と右翼の「頑張れ日本」の両方のデモ隊が通り過ぎて九段下が騒然としたそうです。その頃、私は靖国神社拝殿前の行列があまり長そうだったので、お参りは次の機会にして、「器の花田」さんでお買い物。靖国神社は法政大学の隣なので、よく通りかかるのです。「器の花田」さんで粟の絵が描いてある小皿を1枚買いました。山の上ホテルの白玉小豆氷。困惑するほど巨大でした。 1201.jpg
1200 20150814 湖西のみち 今から30年ほど前に琵琶湖を車で一周したことがあります。旅行雑誌の取材でした。1年間、いろいろな土地へ出かけましたが、琵琶湖の湖西はもっとも印象が深い土地でした。時折、大阪からサンダーバードで金沢へ行く時も湖西を通過するたびになんとも言えない魅力を感じていました。
近江今津の図書館で館長さんとお話をしていたら、司馬遼太郎の「街道をゆく」の第一回が「湖西のみち」だったという話題が出ました。京都から近江今津まで湖西線を辿るうちに「小野」という駅をみつけました。小野妹子の生地だとのことです。毎週、大阪芸術大学へ通っていますが、大阪芸術大学のある河内の喜志は、聖徳太子廟があり、小野妹子の墓所もあります。琵琶湖から瀬田川、宇治川、淀川、大阪湾へ出て、また大和川をのぼるかもしくは石川をのぼるかして聖徳太子のもとまで行くその道程をちょっと思い浮かべました。それで司馬遼太郎の「街道をゆく」1を読んでみる気になりました。以下は「街道をゆく」1で見つけた一節。
「『朝鮮人なんてばかばかしい』
という、明治後できあがった日本人のわるい癖に水を掛けてみたくて、私はこの紀行の手はじめに日本列島の中央部にあたる近江をえらび、いま湖西みちを北へすすんでいるのである」
司馬遼太郎「街道をゆく1 湖西のみち」
1971年 週刊朝日
「健康な制度上の批判勢力と競争勢力を持たない体制のー国であれ、その他の集団であれー独裁者はすべてお伽の王さまなのである」
司馬遼太郎「街道をゆく1 長州路」
この頃、司馬遼太郎はなにかに「怒って」いるようです。それがなにかは書かれていませんが、「怒っている」という表現は「長州路」の文中に出てきます。
ちなみに朝日文庫で43巻ある「週刊朝日」人気連載シリーズの司馬遼太郎「街道をゆく」の第2巻は「韓(から)のくに紀行」。釜山の倭館(江戸時代の日本の出先機関)などを訪ねる。32歳まで産経新聞の記者でした。
亡くなられたのは1996年。1971年に始まった「街道をゆく」は亡くなられた1996年まで25年間続きました。司馬遼太郎さんが亡くなられてもう19年もたったことに驚いています。
「街道をゆく」の第一回「湖西のみち」のあとは「竹内街道」。これは大阪芸術大学のすぐわきを当麻の方向へ行く満です。小野妹子も通ったかもしれません。司馬遼太郎さんの御母堂の御実家が葛城みちにあったそうですから、山の向こうとこちら(大阪がわ)とは言え、大阪芸術大学のある河内ともなにがしかの縁を感じました。
写真は琵琶湖に浮かぶ竹生島。竹生島へ渡る船の窓から撮影しました。 1200.jpg
1199 20150808 近江今津のアイスティー 朝日新聞8月4日オピニオン欄。ジョン・ダワー氏インタビューで朝鮮戦争当時、ダレス米国国務長官が日本に再軍備を迫ったことが語られている。米国は日本が憲法を改正し再軍備するだろうと考えていた様子。しかし「専守防衛」の「自衛隊」で妥協が諮られた。押し付け憲法と言うが、占領下で作られた憲法をその後の70年の歴史の中(国際情勢の変化)で自分の(自国の)ものにしてきた。ジョン・ダワーの「敗北を抱きしめて」(岩波書店)はいわば日本国憲法を自国独自のものにする過程を克明に描き出している。ジョン・ダワー「敗北を抱きしめて」でいささか実感とズレを感じるところがあるのは「天皇」についての記述だ。ケネス・ルオフ「国民の天皇 戦後民主主義と天皇制」(岩波現代文庫)が補ってあまりある研究をしている。
朝日新聞8月5日朝刊オピニオン欄。加藤陽子氏インタビュー。日中戦争から太平洋戦争へ。「国が国民を存亡の危機に陥れた」戦争とは何であったのかを語る。国体を守る戦争から「個」の尊厳への変化。加藤陽子氏が栄光学園高校の生徒とともに第一次世界大戦後から日中戦争へのプロセスを研究した「それでも、日本人は戦争を選んだ」(朝日出版社)は高校生の質問および問題の立て方が秀逸。なんとなくわかっているつもりのことを、構造的にとらえ直す(説明しなおす)契機を作り出している。戦争を語り継ぐとしばしば言われるが、遠く離れて初めて見えてくるものもあるので、研究者と高校生の対話はそれをうまく引き出しているのが「それでも、日本人は戦争を選んだ」(朝日出版社)であった。
朝日新聞8月6日朝刊・オピニオン五百旗頭真氏インタビュー。米国の「力」(軍事)と「利益」(経済)と価値(政治的理想)について輪郭線のはっきりした見方を示す。田母神俊雄氏がアパグループ主催の懸賞論文「日本は侵略国家であったのか」で政府見解とは異なる論文で航空幕僚長の職を解任された直後に、五百旗頭真氏が防衛大学校校長に就任された。防衛大学校の教育プログラムを改めたと聞く。日韓双方の交流もそのなかに含まれた。
戦後70年として朝日新聞の掲載したジョン・ダワー氏、加藤陽子氏、五百旗頭真氏のインタビューは現在の学術水準からみて妥当なものだと思われる。それに比べて、8月6日に出された「慰安婦問題、米研究者らに反論 日本の学者110人声明」は特異な見解と言わなければならない。そして、この特異な見解が安倍内閣の背景に存在している。このような声明には専門家はそれぞれの立場から反論してもらいたい。
近江今津の琵琶湖の岸のカフェでアイスティーを飲みながらケネス・ルオフの「国民の天皇 戦後民主主義と天皇制」を読んでいた。ネットを離れてまとまったものを読む心楽しさがあった。 1199.jpg
1198 20150805 関西のうなぎ 関東は腹開きで、蒸してからかば焼きに。関西は背開きで頭つきで蒸さずにかば焼き。うなぎの調理法が変わるのは東海道のどのあたりでしょうか。浜松はまだ東京風に腹開きで蒸した鰻をかば焼きにしていました。
鰻は絶滅が危惧されているそうです。
7月末から8月あたまにかけて、京都、大阪、滋賀、神戸と巡り歩いていました。
関西のうなぎを初めて食べました。かば焼きに焦げ目がついて香ばしく、これはこれで美味しいなと。
写真は琵琶湖のほとりの近江今津の魚屋さん。駅の改札正面で鮒ずしを売っていたのには、驚嘆しました。これがとてもおいしい鮒ずしで、鮒すしを買うためにだけ近江今津へ出かけてもいいなと思うくらいでした。湖西線は古代からの北国街道で旅をするにはいい場所です。 1198.jpg
1197 20150719 7月17日 とんでもない日だ 国会前抗議。今日も機動隊員さんに私のダイエットに協力してもらいました。越川道夫さんとばったり遭遇。北庭の永田町よりで野間易通さんと立ち話。井伊直弼邸の井戸を見ていたら麻のスーツの五野井先生現る。というわけで今日も国会の北庭を1.5周。
国会前抗議をあとにして日比谷公園のわきをとことこ歩いている時のこと。軽自動車がパトカー2台に追尾されていた。突然、軽自動車がパトカーの横っ腹にどすんと体当たり(?)した。そしてそのまま逃走。パトカーの側面は凹んでいたけど、パトカーは発進して軽自動車の前に回り込む。
軽自動車の前に回り込んだパトカーに軽自動車は衝突。いやはや、これだけでもびっくりだけど、警察官が軽自動車の扉を開けると大音響のクラシック音楽が鳴り響き、中からシャツ1枚の男が引き摺り出された。パンツは履いてませんでした。警察官4、5人で怒号を浴びせながらぼこぼこに。
「手錠をはめろ」と警察官が怒鳴り、4人がかりでパトカーの中へ男を連れ込みました。それから覆面パトカーとか救急車とかなぜか消防車とか、いろいろな車がやってきました。居合わせた沖縄出身だという女性と二人でその一部始終を眺めながらお喋りしておりました。とんでもない日だ。
1196 20150710 浜田靖一安保法制特別委員会委員長への要望書文案 安保法制を審議している衆議院特別委員会委員長への要望書文案を作りました。皆様思い思いにご自由にお使いください。
浜田靖一議員のHPに連絡先があります。
http://www.office-hamada.jp/
要望書
浜田靖一衆議院安保法制特別委員会委員長殿
衆議院安保法制特別委員会において強行採決を行わないよう切望いたします。
このたび政府より提出された集団安全保障に関する法案はいずれも多くの憲法学者によって違憲であるとされています。閣議決定による安易な解釈改憲によって提案された法案が有無を言わさぬ強行採決によって可決されれば法による統治への信頼が揺らぎかねません。
国民の間でもこの法案は廃案にされるべきだという意見を多数みることができます。このような法案が与党多数の数の論理で強硬採決されることはまことに遺憾の極みであります。浜田靖一安全保障特別委員会委員長におかれましてはそのご見識を持って強硬採決に踏み切ることなきようお願い申し上げます。
1195 20150607 茹で蛙クー・デター 6月5日(金)はフジ、6日(土)はテレ朝が池上彰氏をキャスターにして近隣諸国への敵意をあおるような番組を流しているらしい。安保法制成立へ「国民の理解を求めるため」のキャンペーンか。
新幹線のグリーン車が積んでいる「ウェッジ」では「激化する中韓の情報戦」なる記事が掲載されている。タイトルを見えるだけで、おおよそ内容の見当がつくので読んではいないけれども。嫌な感じ。ついでに言えば30代、40代のビジネスマンが戦後の歴史に疎いのではないかという疑いを持っている。また第一線の新聞記者やジャーナリストも直観的に危険を感じるほどの基礎的な知識を欠いているのではないかと不安を覚える。首相が「ポツダム宣言を詳らかに読んでいない」というのは、日本国建国の歴史をあんまり知りませんというのと同じ。
放送局と新聞社を占拠して憲法を無視する法制を敷くのを2日でやったらクー・デター。2年かけてやると、そう見えない。でも「茹で蛙クー・デター」という新語を作ってもいいかもしれない状況。
特定秘密保護法の時には反中、嫌韓本が町の本屋にあふれた。安保法制では、近隣諸国への敵意を煽るビラを自民党が作り、テレビでは危機を煽る番組を放送している。同じパターンでだんだんと恥も外聞もなくなってきている。
「茹で蛙クー・デター」
安倍政権の「茹で蛙クーデター」には戦略性を感じる。まず活字で反中、嫌韓。これで特別秘密保護法。それからテレビでより大衆化。どこかでそんな話を聞いたという視聴者の既視感を利用。安保法制をやり下地作り。「違憲だ」という批判に「じゃ、改憲しましょ」と展開させる。
そんなことをさせてなるものか。
竜頭蛇尾内閣。
羊頭狗肉政権。
うちのHPの管理人の豆ちゃんはこんなことばかり書いていると「機嫌が悪い」と思っているらしいことを知ってびっくりした。政治的関心を持つと「機嫌が悪い」と思い込む豆ちゃんの常識はどこでできたのだろう?興味深々。
1194 20150518 久しぶりに鴨川シーワルドへ行ってきました。 館山へ墓参に行った帰りに鴨川シーワールドへ行ってきました。シーワールド生まれのシャチ君がいました。鴨川シーワールドでシャチを飼育しだしたのは1970年10月だそうです。今でもシーワールド生まれの3代目のシャチが生まれたとのことでした。
父が亡くなったのは1970年9月でした。それから考えてみるとシャチの歯磨きというショーを見たのはきっと1970年8月のことだったようです。叔父が鴨川シーワールドへ連れていってくれた時のことでした。博物館の日の特別講座でシャチくんの歯磨きの映像をみせてもらいました。
もうすぐ父の50回忌、母は35回忌になります。 1194.jpg
1193 20150516 安保法制 1新法+10法改正パックって卵の安売りじゃないんだ。 松井計さんが安倍晋三はぼろくそに言う人とやたらにほめあげる人の二極に分かれると呟いていた。前者はさておき後者は安倍晋三の支持者だろう。日本会議系のある一部の人々とそれは重なる。
安倍晋三を支持する日本会議系のある一部人々については菅野完さんが「安倍内閣を支配する日本会議の面々ーシリーズ 草の保守の蠢動」でリポートしている。
日本会議系のある一部の人々の政治的目的はどうやら「明治憲法復元」「東京裁判拒否」に集約されるらしい。そういうふうに考えるといろいろ腑に落ちることがある。近隣諸国と歴史認識をめぐる関係悪化は「東京裁判拒否」となれば必至の結果。
「明治憲法復元」も「東京裁判拒否」もまともに考えれば、あり得ない政治的主張で、こんなものが国会で法案を作り出すことがあるはずがなかった。多くのジャーナリストはきっとまだそう考えている。が、特定秘密保護法 → 安保法制改定 → 憲法改正 と進む。
憲法改正で人権条項が大幅に削除もしくは改定されることが議論されているのを奇異な目で眺めていたが、明治憲法復元となれば一応の筋は通る。もちろん、それを支持するわけではない。匿名の集団による俗悪な俗論と戦うよりはまだましだ。
「東京裁判拒否」のほうは、もう日本を孤立の危険にさらす気かと激怒したくなる。ただし、これで行動保守がネオナチに親和性を示すわけも少し理解されてくる。この場合、理解は「受け入れ」を意味しない。支離滅裂な俗悪な理屈にしか見えなかったものに幾分かの筋が通った。
大阪で「ヘイトスピーチ許しません」のステッカーを営業車にはってくださった日本城タクシーの社長さんとお話をした時に「日本はそんなに右傾化しておりゃせん」とおしゃっていた。同感。ただし安倍晋三は違う。しかも安倍晋三は首相。
「明治憲法復元」「東京裁判拒否」を唱える人々と安倍晋三がどこで結びついたかと考えるとNHKが放送した「女性国際戦犯法廷」の番組改変問題が浮かんでくる。2001年の事件。NHKの番組改編問題を思い返すとその経験をもとに現在の情報統制があると考えられる。まずNHKを経営委員会人事で抑える。それから朝日新聞を従軍慰安婦吉田証言、原発事故吉田調書で叩く。これで「明治憲法復元」と「東京裁判拒否」に立ちはだかる勢力をつぶせる。
そういう設計をされた筋とその筋を支える理屈がいささか見えてきたと。それが今考えていることなんだけど、一般の多くの人はそれを言っても信じてもらえないよね。たぶん。
1192 20150423 安倍首相のバンドンスピーチ ポスト・モダンの哲学は19世紀の帝国主義、植民地支配の論理から抜け出すための思考だったはずなのに、日本ではアンチ権力の思考として扱われた。この場合のアンチ権力は日本国政府であって、大日本帝国政府ではなかった。
安倍首相が行った「戦争の反省はしても植民地主義の反省にしない」というのは1980年代から現在のかけての日本の言論の不備と特徴がそのまま生なかたちで現れている。戦略というよりも、思考の不備に無頓着な結果ではないか。
改憲論議で「基本的人権」が否定の方向で論議されえることがある。安倍政権の支持者に「明治憲法復元」を考える一群の人々がいることはもっと報道されれる必要がある。それなしには、「基本的人権」の否定が何を意味しているのかまったく理解できない。
アンチ権力という姿勢で現日本国政府に対して被害者(抑圧者)の立場に立ったポストモダンの哲学流行は、1990年代には価値の相対化を産み、サブカルチャー全盛と政治的無関心の温床になった。一方で、敗戦による大日本帝国の破綻を認めようとしない一群の人々は、「基本的人権」に代表される戦後の「日本国憲法」はまったく無視。さらに破綻のもとになった植民地主義も視野の外に置いた点ではアンチ権力の左派とあまり大差がない。
バンドン会議での安倍首相のスピーチは20世紀後半の日本の言論の不備の特徴が著しく現れたものに見える。
明治の精神を取り戻せと主張する安倍首相が植民地主義に言及できないのは「戦略」とは言えないでしょう。哲学の欠落でしかない。
とても残念なことだけど「哲学の欠落」は安倍首相だけではない。安倍晋三を首相にしておく日本社会にもある程度、共有された現象と言わざるおえない。
第二次世界大戦は戦勝国にとっても敗戦国にとっても共通して200年続いた植民地主義の敗北であったことを歴史の流れの中でもういちど考えなおしてみたい。フランスからベトナム戦争を引き取った米国の苦悩はそこにあったのだろう。
1191 20150408 斎王桜と御所桜 上賀茂神社の斎王桜と御所桜。てまえの華やかに咲いているのが斎王桜。おくの葉桜になりかけているのが御所桜です。 1191.jpg
1190 20150408 うちの桜 (4月1日) うちの桜。35年前は頼りないような若木でした。子どもたちが中学生になった頃には立派な桜の木。そろそろ老木の域に入ってきているのかしら。ソメイヨシノの寿命は50年くらいだそうです。
柳が緑の芽を吹いてました。銀杏はまだ冬の姿。今年は辛夷が盛りのうちに桜が満開になりました。どうかすると桜が辛夷を追い抜いてしまう勢い。 1190.jpg
1189 20150408 斎王桜 今年の春はなんだか花に飢えています。花の名所を浮かれ歩いてみたい心境になっています。吉野の桜はぜひ見てみたいもののひとつですが、日程の関係でたぶん無理そうです。
吉野の桜の見ごろは4月12日あたりだと聞きました。お出かけになれる方はどうぞお出かけください。
吉野の桜の変わりと申してはなにでが、上賀茂神社の斎王桜を見てきました。境内には植木市が。1本27万円の源平桃とか30万円の紅梅などちょっと桁が違うのには驚きましたけれども、買手もいたようで売約済みになっている苗木もありました。いました。
京都のさくらの種類の多さは、花の時期が違うので、だんだんにいろいろな桜を楽しめるようになっています。そこがうらやましいところ。東京もソメイヨシノ一辺倒から、いろいろな桜が植えられるようになったので、もうしばらくすると、豊富な桜を眺めることができるようになるでしょう。戦後、植えられたソメイヨシノの寿命が50年程度なので、そのあとに植えられたほかの種類のさくらがだんだんと盛りに近づいているゆです。
下賀茂神社から上賀茂神社への土手の桜はみごとでした。 1189.jpg
1188 20141203 12月2日の日経新聞 ニュースじゃないけど、衆議院選挙告示の日の日経新聞、考えさせられたから、ちょっとぶつぶつ。トップニュースは日本記者クラブでの党首討論。気になったのは「日経平均が年初来高値 原油安で」の記事の下に「日本国債格下げ ムーディーズ」の記事があったこと。
まず株価が年初来の高値をつけたことについて。3面に「原油安、円安・株価高を演出」とある。この記事の「、」と「・」の違いは大きい。原油安は政府によるものではないが、円安・株高は「演出」だと。「投資マネードル買いに動く 相場に不安定感も」のサブタイトル。なにより目を引いたのは衆議院選挙の告示日に為替相場、株式相場を「演出」と報じたこと。経済新聞が株価の値上がりを喜んでいない。「、」と「・」の使いわけで、現在の相場の危険を告げていること。
次に日本国債がムーディズの格付け引き下げのニュース。「増税先送りに警鐘」として2面に詳報がある。日本国債は Aa3 → A1 に格下げ。これでAa3の国は中国、韓国、台湾となる。つまりアジアの新興国の国々から日本は滑り落ちたかっこうになっている。5面では「日韓、「政冷」下で連携探る」とあり、朴大統領と日本の経団連会長の会談を報じながら、日韓の貿易縮小を報じる。2012年2013年と日韓貿易は大幅に縮小。安倍内閣の外交姿勢が貿易縮小の大きな原因であることは間違いない。
2000年代初めにはムディーズの格下げは大きく報道されたのだけど。福島第一原発事故による放射能漏れと同じで「慣れっこ」になったのか「政府に遠慮している」のか、小さくしか報道されない。が、選挙の告示日に日本国債格付けの引き下げが公表された意味は大きい。
誰かアジア経済や対アジア貿易を研究している日本人の経済学者はいないかしら。探しているので、どなたかよい方を知っていたら教えてください。
1187 20141130 島尾敏雄 小川国夫 吉田健一 島尾敏雄の「死の棘」は一般には夫婦間の激しい諍いの繰り返しを描いた狂気の小説として読まれている。が、あれは戦争のもっとも悲惨な後遺症を描いたものではないかと考えている。ひとつの国の国民がすべからく「死」を意識し、しかも「永遠」をなんらかのかたちで身近に引き寄せた時、そこで時間は垂直方向へ伸びて行く。そこでは永遠という時間は、才能に恵まれた詩人のインスピレーションの源ではなく、ごく平凡な俗世を生きる人々共通の体験となる。この体験は戦争が終わり人々が日常を取り戻した時、垂直の時間は横倒しとなり、横倒しとなった永遠は日常生活で「反復」の恐怖を生む。
島尾敏雄は「出発をついに訪れず」「魚雷艇学生」などの作品で知られる。いずれも海軍の魚雷艇「震洋」の特講隊長として出撃命令を受けながら、8月15日の終戦を迎え、ついに発進の命令はなかったことの顛末を描いた作品である。妻との争いを描いた「死の棘」の系列の作品と、魚雷艇特講隊長の体験を描いた作品は別の系列と作品群とされることが多いが、この二つの作品群は根本のところで、垂直であった永遠の時間が横倒しになるという繋がりを持っている。奄美群島加計呂麻島で生まれたロマンス(妻との出会い)。二人の恋は、男が永遠の彼方にはかなくも終わりを迎えるはずであったのに、戦争の終結はその後の日常に長い反復の争いをもたらす。小川国夫は近代文学辞典(講談社)の「島尾敏雄」の項目で、「死の棘」の二人の出会いに「死」があったことを指摘している。その指摘を待つまでもなく小説のタイトル自体が聖書からとられた「死の棘」という言葉であるところにそれはもう現れていると言えるだろう。
なかなか抜けない「死の棘」に刺されていたのは、島尾敏雄夫妻ばかりではない。戦争を体験したすべての人々は多かれ少なかれ精神に「死の棘」が刺さっていたと言っていいだろう。本来、垂直なものとしてイメージされる時間が、横倒しとなり、そこでは日常は永遠の反復を繰り返す。
小川国夫の私家版「アポロンの島」を最初に高く評価したのは島尾敏雄だった。「アポロンの島」に描かれた日常の中に屹立する永遠の光景を島尾敏雄は直截に受け止め、高い評価を与えた。同じ日常の反復でも、月並み屏風に見られるような、あるいは歳時記にみられるような健全な豊かさを備えた日常の反復を愛し、そのに流れる時間を創造したのは吉田健一であろう。横倒しになった永遠を生きざる負えなかった島尾敏雄と、垂直の時間を見た小川国夫と、豊かに流れる日常の時間を創造した吉田健一、そのように並べて眺めてみることに興味を感じている。
明日から12月。小川国夫さんは12月21日のお生まれだったので、年末になると静岡へお誕生日の会へうかがっていた。小川さんのとご縁は1995年1月にご本人から静岡へ講演に来ないかと誘っていただく電話があった時以来。阪神大震災で騒然としている時だった。
1186 20140817 パスワードを忘れてました。 久しくここに書き込んでいなかったのでパスワードを忘れてました。
1年ぶりの新宮。昨年の熊野大学で雲取温泉の露天風呂がえらく気持ちよかったから、今年もセミナーを抜け出してお風呂に入ろうと思っていたところが、台風11号が四国へ接近。紀伊半島も大雨になりました。お風呂どころじゃない。うっかりするとお風呂ごと高田川に流されそうな雨。雲取温泉の高田グリーンランドまでの道はいたるところで滝を見ることができました。
2011年の和歌山大水害では高田グリーンランドの大広間も水に浸かったとか。それでも熊野大学のセミナーは続行。雨で高田グリーンランドにたどり着けなかった講師の斉藤環さんに変わって渡辺直巳さんが「樋口一葉の文体」についてレクチャー。
高田川が流れ込む熊野川も大増水。上流の日足地区では堤防が決壊したそうです。新宮への鉄道も軒並み運休。この日は新宮市内のホテルに1泊余分に宿泊することになりました。 1186.jpg
1185 20131110 シーサーに守られて眠る猫 羽田からの飛行機の中で、那覇の気温は27℃と聞いて一瞬どうしようかと思いました。今年は台風が少なかった那覇へ行ってきました。 1185.jpg
1184 20130819 新宮 速玉神社 椥の木(御神木) 新宮の速玉神社の御神木の椥の木です。
以下 ウィキペディアの記述から
梛の大樹 - 国指定名は「熊野速玉神社のナギ」(1940年〈昭和15年〉2月10日指定)[12]。高さ20m(17.6m[13])、幹周り6m(5m[13])、推定樹齢1,000年、ナギとしては国内最大であるとされる[13]。ナギはマキ科の常緑高木であり、よく神木として植樹された[13]。本樹は雄株であるが、幹に分岐が見られることからもとは数株であったともされ、平治元年(1159年)社殿の落成において熊野三山造営奉行であった平重盛の手植と伝えられる[13]。ナギは凪に通じることから[13]、ナギの実を束ねたものやナギの枝を護符にする。ナギの木は、熊野杉や天台烏薬とともに新宮市の「市の木」に指定されている 1184.jpg
1183 20130819 排外主義デモ・カウンターノート2 工事中
1182 20130719 排外主義デモ・カウンターノート1 排外主義デモとか行動保守と言われている現象に対するカウンターのノートを記憶の限りでつけてみることにします。
2009年 大阪の御堂筋で日の丸デモを見て興味を持つ
2010年 フジテレビへの日の丸デモを見て、いささか驚くものの、言及は避けた。
2012年6月 安田浩一「ネットと愛国」を読む。
2012年7月 ソウルで星野智幸さんと「ネトウヨ」やっているよりも韓流スターの追っかけやっているほうが人生豊かだようねえと話す。
2012年8月 李明博大統領の竹島上陸。続く天皇発言。天皇発言についてはネット上(おもにツイッター)で時を追うようにして歪曲されて行く。
2012年8月 東京新聞のコラム「新聞を読む」に李明博大統領の竹島上陸の背景をなぜ日本の新聞は書かないのかと書く。背景情報はネットで収集。
ツイッターでは好意的にRTを寄せてくれる人が当初は多かったが、日がたつにつれてネトウヨのRTが増える。
2012年8月 ネットで新大久保を「お散歩」と称して韓流ファンの中年女性を脅しながら歩く在特会一派の映像を見て驚く。
2012年9月 講談社のノンフィクション賞のパーティで立ち話。ネトウヨの反応が遅いことを話すと中央公論社の「風流夢譚事件」の時にも、当時の中央公論社社長宅が襲われ、お手伝いさんが殺されたのも雑誌発売よりも1ヶ月遅れだったという話題になった。
秋から冬にかけては関心が薄らいでいた。
2013年2月 17日に新大久保の排外主義デモのネット中継文字お越しを見て、そのエスカレートぶりに驚く。17日にはすでに「しばき隊」というかたちでカウンターが入っていたことを知る。17日よりも9日のデモのほうがより酷かったこともあと知った。
(この項目、工事中)
1181 20130719 蛸柄のアロハがみつからない。 蛸柄のアロハを着たいのだけど。どこにしまっちゃったのか、探しても見つからない(泣)どこかに大事にしまい込んだのだけど(泣)
1180 20130602 蛸柄のアロハ 那覇のパイカジで作った蛸柄のアロハです。どこに着ていこうかしら。 1180.jpg
1179 20130524 エゴノキがふちに植えてあった露天風呂 伊藤さんと一緒に行った温泉の露天風呂です。ここも湯船のふちにエゴノキが植わってました。 1179.jpg
1178 20130524 エゴノキ 久しぶりに熊本へ行きました。伊藤比呂美さんと対談それかから橙大学。どうも橙大学は常勤になったみたいです(笑)伊藤さんが翌日の計画をいろいろ立ててくれたのですが、あっちこっち動き回り過ぎているのでじっとしていたいと言ったら、南阿蘇の温泉に連れていってくれました。エゴノキがたくさん花をつけていた南阿蘇でした。 1178.jpg
1177 20130511 罵詈雑言悪態行進 大勢の人が日の丸を掲げて練り歩くデモ行進を大阪の御堂筋で最初に見かけたのは、四年ほど前であった。その時の主張は「外国人参政権反対」であった。目を引かれた理由は、どちらかと言えば政治的に右寄りの主張であるのに、デモ行進のスタイルが左寄りの人々のそれによく似ていたことだ。
安田浩一「ネットと愛国」を読んで、日の丸を掲げたデモ行進が「在日特権を許さない市民の会」によるものだということを知った。名称に市民を使うところも、なんだか左の形式を利用した右の主張に見えた。通称は「在特会」と言う。これが二〇一二年六月のことで、折から金曜日の夕刻に首相官邸前で開かれていた反・脱原発の集会が大規模にふくらみ始めた時期だった。驚いたのは、反・脱原発を主張する人々の集会の最前線に、対峙するようにして、日の丸を掲げ「原発賛成」と唱えるグループがいたことだ。「在特会」である。二つのグループの衝突を防ぐために、二〇人ほどの賛成派は警官に取り囲まれ防御されていた。首相官邸前集会の規模が四万人を超えた頃から、在特会は現れなくなった。
それから夏。韓国の李明博大統領が竹島に上陸するというニュースが伝わった。どうもその行動の背景には、日本の右翼を名乗る人物がソウルの日本大使館前の従軍慰安婦少女像に「竹島は日本固有の領土」と書いた杭を縛り付けるという事件があると推察されると、私は東京新聞の「新聞を読む」というコラムに書いた。数えてみると、もう三十五年も原稿を書いて暮らしを立てる生活をしているが、この短いコラムほど、掲載後に何が起きるかが怖くなるという経験は初めてだ。それと言うのも、韓国・朝鮮の関係となると、考えられないくらいの嫌がらせや脅迫などがあることをネットやSNSで目にして知っていたからだ。コラムが掲載される前日に自宅を離れ那覇へ出掛けたのは、予定の行動で、恐怖のためではないが、それでもそこに那覇行きの予定が入っていてよかったと胸を撫ぜ下ろした。
ひどかったのは、李明博大統領の竹島上陸のあとの「在特会」にゆる新大久保のデモだ。日の丸を振り回しながら「韓国人は日本から出て行け」と叫ぶ。デモが終わった後は、散歩と称して新大久保のコリアン・タウンを歩き買物をしている女性に向かって「売国奴」と罵るなどなど。
そんなひどいデモがそれ以来、半年以上続いている。東京・新大久保のコリアンタウンのほかには大阪・鶴橋のコリアンタウンでも同様の騒動が繰り返されている。ネットでは「嫌韓デモ」という呼び方をする場合もある。デモのコールは夏頃よりもさらにひどいものになっていた。「ゴキブリ。ゴキブリ以下。チョンは首を吊れ。皆殺しだ。臭い。死ね。出て行け。叩き出せ。出て行け。変態。犯罪者。ガス室を作れ。焼き払え。同じ空気を吸うな。よつんばいになって歩け」と、ネット中継で聞こえてきたコールをざっと拾っただけでも、こんな調子だ。デモの参加者は百人ほど。このデモに遭遇した女子高校生が涙を浮かべている写真をネット・ニュースに掲載している。また、市民運動家がカウンターの抗議運動を展開し始めたのも嫌韓デモが始まって六ヵ月が過ぎた頃からだ。
と、ここまではツイッターなどのネット情報に接している人々には閉口したくなるくらいの周知の事実なのだが、それをあえて書いたのはネット情報に触れない人々にとってはまったく初耳であることもあるからだ。ネット情報に接する人と、そうでない人の情報格差は原発事故のニュースにも見られるところだが、「在特会」の嫌韓デモ騒動は、その情報格差がさらに惨いものになっている。
ネットで嫌韓の言説が育ち、ネットで情報の捏造、誇張、歪曲、曲解、が繰り返された挙句に路上へとあふれ出てきたという経緯がある。そして公道で、市民を怯えさせ、不安に陥れ、時には憎悪の感情さえ呼び起こす騒動となってもまだ、テレビも新聞もこの出来事を報道せず、ひたすらネットの中だけで情報が飛び交い、議論がされ、行動が呼びかけられている。あえて言えば、従来からのテレビと新聞、週刊誌といったマスメディアしかない世界と、個人による情報発信の可能なツイッターやユーチューブのあるネットの二つの世界があるかのような現象を呈している。
三月十四日には、有田芳生参議院議員が国会内で嫌韓デモに反対する集会を開くとの予告もあり、おいおいに対応対策はとられて行くことだろう。
それとは別に昨年夏から今年冬にかけて広がった嫌韓デモ騒動は、三つの事柄の問題提起をしているように思える。
まず第一はネット時代の世論形成はどうあるべきなのかと言う点である。ネットの中の言辞が公道での無法な活動にまで広がったのは、従来の手順とは異なるかたちで、そうした世論、いや、意見がまとまりのある形に形成されたことを意味する。
第二には、ネットと従来型のマスメディアの共同性をどう作り上げて行くのかという問題である。従来のマスメディアにはネットを敵視する気分があり、ネットユーザーにはマスゴミなどと称して蔑視、軽視する風潮があるのだが、これをどう調和融合させて行くのかは第一の問題と深く絡み合っている。
第三は、第一、第二の問題とはやや離れるが、歴史はいつ、歴史になるのかという問題である。第二次世界大戦終了から六八年が経過し、世紀も二〇世紀から二十一世紀へと変わった。二十世紀後半はすでに歴史として取り扱われて良いはずなのだが、まだ、充分に歴史として取り扱われていない。日本で言えば戦後の歴史である。戦後史が歴史として固まっていないところに、捏造、誇張、歪曲、曲解、が入り込む余地があるわけだ。
(この項 神奈川大学評論の原稿を再録しました)
1176 20130326 辛夷も咲いてます 西の丘の斜面に咲く辛夷です。辛夷としては相当な古木でいったいいつからこの西の丘の斜面に育っていたのだろうというくらいの大きな辛夷の木です。すぐ近くに白モクレンの木もあって、時々、えっ、こんなに大きな花だったっけ?と見間違えて驚いています。 1176.jpg
1175 20130325 ご卒業おめでとうございます。 桜が満開に咲きました。
皆様 御卒業おめでとうございます。
大学生活の4年間を充実して過ごされたことと存じます。本年度は私が研究休暇で大学を離れておりましたので、皆様とのお別れももっと御なごり惜しいかと予想していましたが、春の陽気にすっかり和やかなものとなりました。大学生はもう社会の一員であり、生徒と違い学生は社会の一員なのだということを常々申し上げてきましたが、これからもうひとつステップを上げる時は迎えたことはまことによろこばしい限りです。これから皆様がそれぞれの道を歩んで行かれることになります。
しばしば社会は学校よりも厳しいと言われますが、私は反対のことを申しあげたいと存じます。社会は学校よりも自由です。社会は学校よりもいろいろな選択の機会を用意しています。すてきな運命もきっと用意されていることでしょう。思いがけない偶然も用意されていることでしょう。人生は良い事も悪い事もあるのです。禍福はあざなえる縄の如しと申します。ですから、皆様の前途には、必ず素晴らしい「良い事」が待ち受けているのです。光の方を見ましょう。陰影は楽しむものであります。光を見る時、陰もまた優しい表情をすることでありましょう。
皆様の前途を祝します。いざ、さらば。 1175.jpg
1174 20130323 韓国、中国のデモと新大久保のデモの違いについて 新大久保で続いている在特会界隈(最近はこのような言い方をするようになりましした)のデモについて、ツイッターで以下のような質問を受けました。
「素朴な疑問です。新大久保の排他デモは唾棄すべき代物ではあると重々承知しています。が、国外、例えば、韓国民の日本国旗の焼却や日本人殺せのヘイトスピーチなどについては、どう考えてらっしゃるのでしょう?」
少し長くなりそうなので、まとまった考えを書いておきたいと思います。
まず最初に「唾棄すべき代物」と呼ぶ新大久保での在特会界隈のデモについて概略を書きます。それから韓国のデモ、中国のデモについて私の見たところを書きます。さらに20世紀初頭の米国での黄禍論と日系移民排斥問題にいて簡略に述べたいと思います。
まず新大久保での排外主義的なデモですが、私が知る限り発端は昨年(2012)8月の李明博大統領の竹島上陸をきっかけとして、始まったデモです。当初からかなりひどい内容でした。また、デモそのものよりも、デモ終了後の「散歩」と称する行為では、新大久保の路地に入り込み「韓国人の店で買物をするのは売国奴だ」と買物中の女性を脅したり、看板を蹴飛ばしたりしていました。こういった行為が、その後、隔週程度の頻度で、6ヵ月以上続きます。また新大久保だけではなく、大阪の鶴橋でも同じような行為が繰り返されてました。
聞くところによると、スピーチの内容がエスカレートしたのは昨年(2012年)12月以降だそうです。今年(2013)に入り、2月2日、2月9日のデモはとくにひどいものだったと聞いています。政治的主張はほとんど見られず、罵詈雑言、中傷誹謗に終始する内容のコールやスピーチが続いたそうです。
私は2日も9日も那覇へ出ていたのですが、17日はネットでデモの様子の中継を見ていました。その時に耳にしたコールやスピーチの内容を拾って以下のようなツイートをしました。
「在特会・新大久保デモのコール。「ゴキブリ」「ゴキブリに失礼」「臭い」「死ね」「出て行け」「叩き出せ」「変態」「犯罪者」「ガス室を作れ」「焼き払え」「同じ空気を吸うな」「よつんばいになって歩け」と。小学校の教室で聞いたセリフばかり。」
このようなコールの中で、個人的に感情を刺激されたのは「ゴキブリ」「臭い」でした。小学校の教室で繰り広げられたいじめの光景をありありと、自分でも驚くほど明瞭に思い出したのです。それで「小学校の教室で聞いたセリフばかり」と感想を付け加えたのですが、ひとつだけそう揶揄するのには躊躇した台詞がありました。「ガス室を作れ」でした。実は「ガス室に送りこめ」というコールも聞き取れたのですが、それは意図して短いツイートから外しました。なぜなら「小学校の教室で聞いたようなセリフ」という揶揄では済まない内容だったからです。
欧州ではナチスを連想させるこのようなセリフは、刑事罰の対象となることを知っていたからです。ジェノサイドを経験した国々では、このような台詞は激烈な反発を呼び起こします。また、たとえそれが日本のごく一部分の人の発言であったとしても、それを黙認したと言うだけで、激しい非難の的になります。日本社会全体が相当な懐疑と非難の目でみられる恐れがあります。それで「小学校の教室のセリフ」とまとめることにかなり躊躇を覚えましたので、強烈なほうはひとつ外しました。コールのセリフの重大な意味については、コールをしている御当人たちは自覚している様子はなく、また、放っておくともっとエスカレートしかねない様子でした。
というわけでこのデモの問題点を以下5つにまとめます。
1、長期間(6ヵ月以上)継続的に繰り返されたこと
2、繰り返されるだけではなく、内容がエスカレートしたこと
3、エスカレートした内容が、日本社会への国際的な疑念と非難のまとになりかねなかったこと(黙認と取られると、そうした非難を無関係な日本人も受けることになります)
4、ネットの中では話題になっていましたが、ネットの外ではほとんど黙殺され、言論活動の対象、批評活動の対象となっていなかったこと。しかしデモは公道で行われていました(これについてはあとで韓国のデモについて述べる時に触れます)
5、政治的主張はほとんどみられず、恐怖や不安を与える嫌がらせ、小さな子供を大人が取り囲んで脅す、老人を脅す、女性に絡むなどの無法な行為が目立ったこと。政治的表現の自由の一環である市民運動スタイルの悪用です。
おおよそ以上にまとめられると思います。
それで韓国のデモですが、韓国は政治的価値観を日本と共有している資本主義の国です。ですから政治的抗議は大幅に認められるべきだという価値観を持ってます(軍事政権から民主化運動、それから民主化の動きについては今回は省きます)かなりダイナミックなパフォーマンスをデモなどの街頭活動で繰り広げる時があります。イラク戦争開戦反対のデモでは、ソウル市庁舎前広場に集まった参加者が巨大な米国国旗を引き裂くというパフォーマンスを見せました。また、私が実際に目撃した例では、魚のイシモチの養殖業者が、中国からイシモチが輸入解禁されたために値段が暴落したことに抗議して、国会(記憶がやや曖昧で別の官庁だったかもしれない)に生のイシモチを投げ込んでいました。トラックで運んできた大量のイシモチです。イシモチの養殖は政府が主導した国策であったのに裏切られたという抗議でした。
国旗(どこの国のものであれ)を粗末に扱うのも、食べものを粗末に扱うのも決して誉められた行為ではありませんが、このようなパフォーマンスはその政治的主張と一般的なモラルを天秤にかけ、批評されます。支持されることもあれば非難されることもあります。「日の丸」を焼いたり、あるいは「日本人を殺せ」と言ったパフォーマンスを展開するデモが、韓国でどの程度、支持されているのか、あるいは非難されているのかは、私は情報不足であまりよく知りません。が、政治的表現の自由の範囲をあまり逸脱するものだとは思っていません。また、幾らか翻訳で韓国小説を読んでいますが、植民地時代に過剰にしがみつく父を持て余す娘などが描かれていたりして、多様な意見と感覚(常識の目による批評)が働いていることを感じています。4の部分で「あとで述べます」と言ったのはこの部分で、常識の目が働く状態であると思ってます。またそうした過激な政治的主張は日本大使館など日本の公権力に向けられていることが多く、一般市民に向かって継続的に罵詈雑言を繰り返す、子どもや女性、老人を脅かすという例は寡聞にして聞いていません。
さて、中国のデモですが、中国は韓国や日本とは異なった政治体制を持つ国です。日本を対象にしたデモは、韓国よりもはるかに激しいものがあります。日本人の負傷者が出たケースもありました。これは、韓国とは違い政治的表現の自由の範疇とは言い難いものがありますが、そもそも政治的自由が充分にある国ではないので、同列に批判することはできないと考えています。また、私がここで「反日デモ」という言い方を避け、日本を対象にしたデモという言い方をしたのは、表面はそうであっても内実はいろいろありそうで、充分な情報を得ることができません。
昨年(2012)のデモ、いや、暴動、焼き討ちの騒ぎでは、私は日本政府が中国滞在中の日本人の保護を訴えると同時に、日本人に危害を加える不当な行為に対しては即刻抗議をすべきだと思いました。領土問題とは別問題で、中国政府にはパスポートを所持している邦人保護の義務があるのですから、その義務を果たすことを求めるべきだと考えました。もし、暴動や焼き討ちに近い行為に対して中国に抗議をすべきだと考える人がいたとしたら、私の考えでは中華街で罵詈雑言を吐くのではなく中国大使館なり、しかるべき筋に抗議をすべきでしょう。もちろん、焼き討ちをされたから、焼き討ちで仕返しをするというのが論外であるのは言う間でもありません。言論で戦うべきでしょう。
さて長くなりましたが、最後に20世紀に初頭に米国で吹き荒れた黄渦論と日本人移民排斥運動にちょっとだけ触れておきます。日本人、朝鮮人、中国人が黄色人種のカラードとして差別を受けたのが20世紀初頭の米国でした。これに対して日本政府は大正11年(1919)国際連盟に人種的差別撤廃提案を出しています。残念ながら、この提案は否決されてしまいました。当時の日本国内と米国の日系社会で、黄渦論に対してどうのような論陣が張られていたのかは、知らないのですが、相応の言論活動があったのではないと推測されます。この提案が人種差別撤廃を訴える世界で最初の提案であったと知ったのは、ツイッターでのいほいさんが呟いていたからです。
1173 20130321 百年一緒に居ましょう 昭和10年(1935)8月生まれの母が初節句に親戚の人から贈られた御雛様の掛け軸です。だから昭和11年(1936)のもの。表装がぼろぼろになっていたので昨年、西荻の数奇和さんでなおしてもらいました。
このお雛様が送られてからあともうちょっとで100年。100年一緒にいたいなあと。
最初に見せてもらった時にはまんまるっちい、へんなお雛様だと思いました。現代の好みとは違うから。とくにお顔がおたふく顔で、今ではこんなたおふくは描ける人もいないかもしれません。御雛様は御節句を過ぎても出しておくと娘が行き遅れると言いますが、その娘は昨年の春、結婚したので、安心して御節句を過ぎても眺めています。娘と一緒に我が家にやっておきたお婿さんにも披露。100年一緒にいてもらうように頼んでおきました。
そんなに立派な絵ではないのでしょうけどね。せっかくここまで持ってきたのだからと。 1173.jpg
1172 20130320 仙台朝市の鱈 仙台の朝市で見た鱈です。
ロシアに隕石が落ちてから、ものすごい寒波で、東京も冷え込みました。隕石と寒波は関係はなさそうですが、隕石の落ちた日から冷え込みだしたので「隕石寒波」って名前をつけてもよいくらいでした。ちなみに「隕石寒波」は山形のお住まいの佐藤先生が発明した言い方です。気温が25℃に達する那覇から、2℃の羽田に着陸したのは、ずっしりと身体に応えました。猛烈は歯痛も発生。救急車を呼びたくなるような痛みでした。歯痛のおかげで、仙台の文学館の皆さんとのお約束の講座もキャンセル。そのせつは仙台の皆様、申し訳ありませんでした。
キャンセルした仙台文学館の講座は次の週に延期して行うことができました。佐伯一麦さんは岡山にお出かけだったのですが、お帰りの途中、東京でお目にかかることができました。仙台では久しぶりに朝市を覗きました。震災の時も営業していたとのことですが、私が朝市を覗くのは震災以前からですからほんとに久しぶりです。鱈の季節ももうお終い。山菜が出回るにはまだ早いという時期でした。
そんな具合で、那覇で黒田先生と御一緒してからなんだかんだの一か月が過ぎました。今度は東京が25℃の夏日になるという、とんでもなお天気です。私の家の裏の桜も咲き出しました。 1172.jpg
1171 20130305 おててで水草を食べるマナティ 美ら海水族館でマナティを見ました。美ら海水族館は7,8年ぶりになります。マナティはじっくりと見たのは今度が初めてでした。前日に沖縄県立博物館でマナティの骨格標本を見たのですが、ヒレのようみ見える部分にはちゃんと5本の指の骨があるのでした。指の骨の標本をみたせいか、水草を食べる仕草も、なんだか、いかにも手を使っているように見えました。
沖縄の海域にいるのはマナティではなくジュゴンで、ジュゴンはマナティとはごく親しい種類の海の哺乳類だそうです。ジュゴンの頬の骨を使った装飾品は、たいへんな権威の象徴であったとか。子どもにお乳を与える時に抱きかかえるので、人間の女に見えるとか。ジュゴンを巡る伝説は枚挙にいとまがないようです。
私を美ら海水族館へ誘ったのは、黒田先生でした。沖縄へ行ったらぜひ美ら海水族館へ行きたいとのご希望で、御一緒しました。前日は冬の雨の沖縄でしたが、美ら海水族館へ行った日は快晴。黒田先生と二人で、美ら海水族館の向側に見える伊江島の塔頭を眺め、海風に吹かれました。なかなか楽しいひと時でした。 1171.jpg
1170 20130202 仙台の雪 仙台文学館に行ってきました。 1170.jpg
1169 20130130 八重岳の桜 沖縄の本部・八重岳の桜です。 1169.jpg
1168 20130128 沖縄の蜜柑 タンカン 沖縄本島本部の八重岳に緋寒桜を見に行ってきました。沖縄の桜は北から南へと開くのだそうです。国頭の八重岳はそろそろ7分から8分ほどの桜が咲いていました。
沖縄の蜜柑も今が出盛り。幾つも種類があるのですが、いちばん出回っているタンカンと呼ばれるものを買ってきました。すごく香りが良い蜜柑です。 1168.jpg
1167 20130105 摩訶不思議すみれの砂糖漬け デメルのすみれの砂糖漬け。摩訶不思議なお菓子です。甘い香りがします。以前、ビオラの花にあやまってお湯をかけたことがあります。蛇口の給湯になっていたのをうっかりして、そのまま如雨露に入れて、ビオラにかけたら、なんだか甘い匂いがふわりと広がり、気付いた時はもう遅しでした。でもお湯をかけるとこんなに良い匂いがするんだということを発見。それよりもずっと甘い匂いがするデメルのすみれの砂糖漬けです。
お砂糖でころころに固まったすみれの花。一見、黒い塊ですが、良く見ると紫色。砕いて紅茶に入れると香りがすると教えてもらいました。が、試しに白湯を注いでみたところ、みるみるうちに鮮やかなブルーが御茶碗の底に広がりました。ちょっとケミカルな色。で、ぷつぷつと気泡が出て、最後には色褪せたすみれの花がお湯の表面へ浮かび上がりました。家じゅうで御茶碗の中を覗き込んで「へぇ」っと感心。
なんにしても古いお菓子です。ちょっと気に入ってます。でも、「そうかなあ」とやや懐疑的な様子の子どもたちでした。 1167.jpg
1166 20130104 謹賀新年 あけましておめでとうございます。
巳年です。父が巳年生まれでした。42歳で亡くなりました。生きていれば今年84歳の年男。「そうか」ってなんだかへんてこりんな納得。
巳年の張子は仙台で見つけてきました。堤人形の鯛担ぎも一緒に見つけてきました。鯛担ぎは土人形の意匠としては九州から東北まで、各地で作られている意匠です。鯛担ぎのバリエーションに鯛持ちというものあります。ゆるキャラとしてすっかり人気者になった熊本県のマスコット「くまもん」の鯛持ち人形があるのをネットで発見しました。鯛を担ぐ、あるいは、鯛を持つという意匠は土人形だけではなくゆるキャラまで愛されているようです。
仙台では幽霊の話が多いと聞きました。そのことをちょっと佐伯一麦さんにメールでお尋ねしたら、日経新聞のコラムに書いたという記事を転送していただきました。実際、いろいろな幽霊譚が生まれているようです。仙台文学館の副館長さんは「会いたいと思うから出るのですよ」とおしゃっていました。ほんとにそうなのでしょう。幽霊も出ないような国には住みたくないものだと思いました。バブルの頃、幽霊が出てもそれと気付いてもらえない小説って書けないかなと、何度か考えながら本気で書くのを躊躇したことがありました。
いつか常磐線で太平洋の岸を仙台まで行ってみたいと思っていたのですが、津浪と原発事故で、どうもそれはかなわない望みになってしまったようです。1月、2月と仙台文学館へ出掛ける用事があるので、時間があれば、せめて、復旧している部分だけでも常磐線を辿ってみたいものです。1月は無理ですが、2月は少し時間に余裕ができそうです。
昨年のお正月は、誰もかれもが「あけましておめでとう」と言うのに少し躊躇した気持ちがあったことを思い出しました。それから1年。今年はごくあたりまえにお正月が来たことを祝う気持ちが戻ってきたような、それだけ、震災、津浪、原発事故が遠くなっているようなここちがします。なにはともあれ、平成になって25年目の春です。 1166.jpg
1165 20121204 忙しく頼もしい、背広を着た小さな救いの神 表題は宮部みゆき「火車」からの引用です。「火車」に登場する溝口弁護士は宇都宮健児さんがモデルになっていることはよく知られています。溝口弁護士の風貌容姿は宇都宮健児さんとは異なりますが、表題となった1行は宇都宮さんのオーラが書かせた1行だと思います。
東京都知事選挙で宇都宮健児さんを応援しています。ぜひ都知事の椅子に座り、日本を代表する顔のお一人になっていただきたいものです。
残念ながら都知事選は猪瀬直樹氏の圧倒的な大勝でした。学生に話を聞いたら、ケーブルテレビやにこにこ動画などで、日頃、親しんでいる顔としては猪瀬氏がいちばん馴染みがあるそうです。
おくればせですがご協力いただきました皆様どうもありがとうございました。 1165.jpg
1164 20121129 とらとらとら 天王寺動物園のとら。 1164.jpg
1163 20121127 天王寺動物園の犀 天王寺動物園を見てきました。
天王寺動物園は通天閣がある新世界からすぐそこという場所にあります。天王寺動物園の中からも通天閣はよく見えるくらいです。碁会所や将棋倶楽部が並ぶじゃんじゃん横丁からも目と鼻の先。最近は水中のカバの生態展示をしていることが話題になっています。古い動物園ですが、動物展示の方法はしだいに新しくなっている様子です。檻の中で動物が退屈そうに、時には、ノイローゼじゃないかしらと心配になるほどうろうろしてたりする動物園はもう昔の話のようです。新世界のようは繁華街からすぐに動物園があるという立地が珍しく感じられます。というより、別世界が隣同士であるような感じがしました。
動物園を歩いていると「象の糞譲ります。お一人様一袋」という表示がありました。象の糞はよい肥料になるようです。 1163.jpg
1162 20121126 京都の炭屋さん 京都、出町柳の近くできれいな炭を売っている炭屋さんをみつけました。茶道で使う炭のようです。
茶道に使う炭にいろいろ種類があることは織田作之助の小説で知ってましたが、本物を見るのは初めてでした。きちんと切りそろえられていて、いろいろ用途が決まっているようです。その織田作之助の小説のタイトルが思い出せなくって困っています。が、良い炭を焚くための炉の灰にも気を配る男で、家の若い女中さんを自分の妾にしていると、そんな話だったと思います。
女中さんが炉の灰の扱い方を知らないので、怒り出すという場面がありました。灰とか炭とかにこれほど美醜へのこだわりがあるのかと、その小説を読んだ時に感嘆したものですが、京都の炭屋さんに並んでいる炭をみると「なるほど」と頷かれました。
以前、京都の古道具屋さんが買ったうさぎ型の手あぶりがあるので、あれにきれいな灰を入れ、形の良い炭を入れたらいいかなと考えはするものの、炭のことも灰のこともよく知らないので、躊躇しています。 1162.jpg
1161 20121110 那覇の嵐の後 6月、7月、8月と那覇へ出掛けるたびに台風が来るので「嵐を呼ぶ女」だと笑っていましたが、幸い、台風は進路が那覇から逸れてくれました。6月の時は台風が過ぎたあとの緑の瑞々しさにみとれたものです。
ところが9月末の台風17号は那覇を直撃。ツイッターに流れてくる映像を見ると、軽自動車が強風に吹き飛ばされ、くるくる回っていました。NHKのニュースでは、ロングの車両が横転した画像もありました。
台風17号来襲から1ヶ月ちょっとの那覇へ行ってきました。タクシーの運転手さんの話では、強風のために窓ガラスが割れたマンションもあったとのこと。7月、8月は大きな台風が来るという予報のわりには、実際は大したことがなかったのに、9月の17号は予報は控え目だったにもかかわらず被害は大きくなったとのことでした。
これが台風の傷跡かと、那覇の街にいたるところで見たのが、枝の枯れた街路樹。南洋杉も、ホルトノキ、ガジュマル、シュロ、フクギ、アカギどれもこれも、枯れた枝があるのです。台風で吹きあげられた潮風をまともに受けた影響がまだ残っていました。大風で海から潮が吹きあげられ、そのあと晴れ間が広がったので、一時は木という木が全て茶色に変色したとの話でした。
そこは台風に慣れた南国の木々で、そんなことも何度も経験済みなのか、しばらくすると新しい芽が吹いてきたそうです。またブーゲンビリアなどは、枯れたあとにわっと花をさかせ、避寒桜も時ならぬ花をちらりほらりとつけたとのことでした。それにしても、台風が巻き上げる潮の威力はすごいものです。 1161.jpg
1160 20121106 金源祐さんにコラムをお寄せいただくことになりました。 ご紹介が遅れましたが、ソウル在住の金源祐さんに「豆畑の友」へコラムをお寄せいただくことになりました。金源祐さん、ありがとうございます。
金源祐さんが我が家に遊びにおいでになった時、うちの息子はまだ小学生でした。たまたま赤いTシャツを着ていたので「レッドボーイ」と呼んでかわいがってくださいました。金源祐さんは身長180センチ以上ある偉丈夫で、チビッ子だった息子はびっくり仰天していたのも、楽しい思い出です。
朝鮮半島情勢は、刻々と変化しています。金源祐さんがご覧になる昨今の韓国、日本の様子をどう描いてくださるのかを楽しみにしています。
1159 20121104 公開された修復後の東京駅 長く修復工事中だった東京駅の修復が終わりました。ずいぶん見物の人で東京駅周辺は賑わっています。
東京駅を背にして東京中央郵便局は取り壊しの予定でしたが、大揉めに揉めて、結局、外観を残し、内側に新しい建物を建てるという工法で新しくなりました。丸ビル、新丸ビルは、全て取り壊し、低層階をもともとの丸ビル、新丸ビルのデザインに即した外観にするという工法をとったそうです。ですから、東京駅の丸の内広場を囲む建物は、街の眺めの連続性を持たせるための3つの方法の展示場のような具合になっています。
東京駅丸の内口のタクシー乗り場はこれからは地下へ入ってしまうそうで、雨の降った時などは今までよりも利用しやくなりそうです。 1159.jpg
1158 20120923 遠き山に日は落ちて 初島は熱海から船で30分ほどのところにある小島です。小さな港があります。港のふちには、釣やダイビングのお客さんを相手にした食堂が並んでいます。
食堂でお昼を食べ、塩湯だという温泉にのんびりと浸かり、夕方の最終の船で熱海に戻ってきました。 1158.jpg
1157 20120920 熱海のカモメ 法政文芸の編集委員の諸君と熱海へ出掛けたのは9月半ばのこと。その時はこのまま永遠に夏が続くのではないかと疑われたほどの暑さでした。それからわずか2か月で東京はすっかり冬の気配です。椚や欅、それに銀杏が赤、黄色に染まる暇のないような冷たい雨が降っています。
北京では50年ぶりの大雪とか。万里の長城で遭難した日本人観光客がいたというニュースも入ってきました。ソウルもたいへん冷え込みが厳しいそうです。
熱海沖の初島へ渡り、海水の温泉に浸かってのんびりしていたのが、わずか2か月前とは信じられません。初島の海水の温泉はなかなか快適で、冬でも太陽のしたで、はだかでのんびり過ごせそうです。(2012・11.6記) 1157.jpg
1156 20120919 スリップウェア バーナード・リーチが作陶を始めて今年で100年目だそうです。バーナード・リーチはイギリスの外交官の息子として香港で生まれました。幼少期にしばらく日本で過ごしたこともあったそうです。イギリスで美術を勉強してから日本へ戻り、柳宗悦らに出会い、民芸運動の中心的人物の一人となります。「西洋と東洋の感覚の結婚」をめざしました。
スリップウェアは工業化する以前のイギリスの作陶方法で、釉薬を流しかけする(スリップさせる)素朴な陶器です。私が最初にスリップウェアに出会ったのは、城戸朱里さんたちと横浜の骨董市へ遊びに行った時でした。「これは本物のスリップウェアだね」と骨董市に出ていた四角い武骨な御皿を見せてもらいました。
7月、神田の「千鳥」でスリップウェアの技法を使った御皿を3枚買いました。横浜の骨董市で見たものよりもずっと薄手にできているもので、柄は武骨なスリップウェアの特徴がよく出ていました。この技本は最近また作陶をする人に注目されているという話をその時、聞きました。
島根の玉造温泉で1泊して、翌日、電車を待っている時に駅前に出ていた「湯町窯」の看板に骨董市で見たスリップウェアとそっくりな焼物の写真がありました。それで、電車を待つ間にちょっと寄りこんだところが、たいへん魅力的な品物がそろっていることに驚きました。お話を聞くとスリップウェアの技法は、昭和の初めにバーナード・リーチから直接に教わったものだそうです。昭和の初め、まだ、町でコーヒーなんか飲んだことがある人はいなかったのに、コーヒーカップの作り方を教えてもらったとのこと。横浜の骨董市で見たスリップウェアは武骨過ぎる感じがしましたが、湯町窯のスリップウェアは、良い具合に日本の土と風に馴染んでいました。豆を食べたり、栗を食べたり、芋を食べたりしたくなる器です。
写真は櫛目の小皿と、櫛目で小さな魚を描いた小皿です。
数えてみるとそれからもうすぐ90年になろうとしているのですが、その間、長閑に作り続けられた器は、大きさも厚みも色合いも、しっくりと手に馴染んでくるものでした。家に持ち帰って使うと、ますます、馴染みがよくなってきました。 1156.jpg
1155 20120917 日御碕 出雲へはゼミの合宿に付き合いました。今年は休暇中ですが、合宿はちょうど日程があったので、出雲の後半だけおつきあい。昨年、伊勢神宮でしたから、出雲へも行ってみたかったのです。
というわけで出雲大社でゼミ生諸君と合流。例によって、各自、現地集合というやり方で、聞いてみれば、利用した交通機関もばらばら。飛行機で出雲空港へ降りたのは私だけでしたが。翌日もまた、それぞれに帰って行きました。私が「韓竈神社に行ってみたい」と言うと、何人かが同行を申し出てくれました。が、その先が困ったです。日御碕に行きたいという人と、玉造温泉へ行きたいという人がいて、方向が正反対。ああ、どうしようと思いながらもせっかく出雲へ来たのだから、どっちかを選ぶのもつまらない気がして、とうとう、両方行くことにしました。
この日はへんなお天気。あっちこっちで大雨が降っていた様子で、電車は雨のために遅れが出ていました。空も曇り模様。幸いなことに、大雨には遭遇せず、雨をよけながら移動できました。大社湾を囲む山の上にはたくさんの風力発電の風車が並んでいました。
日御碕でお昼。「雲丹は嫌いだ」という学生にむりやり雲丹を食べさせるという暴挙。それから韓竈神社へ。延喜式に乗っている製鉄の神様ということで興味を持ちましたが、行ってみると、なんと山道から急な石段の上り坂で、最後は幅45センチの岩の割れ目を通って小さなお社の前へ出るという神社でした。なんでも秘密のパワースポットとテレビで紹介されてから、お参りする人が増えたとのことで、この日も若い人のグループがいました。携帯の電波が通じない山の中。45センチの岩の割れ目にもし挟まったらたいへんなことに!学生諸君が同行してくれたのが、たいへんありがたく感じられる神社でした。挟まらなくってほんとに良かったと、本気で思いました。ネットで調べたら肥満の人は参拝不可能だと書いてありました。
古代の神社は、たいてい、たいへん住良さそうな場所にあります。沖縄の御嶽も、心地良い風の吹く場所です。韓竈神社はその名前が延喜式に乗っているそうですが、場所は解らず、今の場所は江戸時代になってできた様子なので、山伏のような、山岳信仰の考えで盛んになってから鎮座したのかなと考えながら、山道を下りてきました。
最期に玉造温泉へ。日帰り温泉でひろ風呂浴びたら、もう電車に乗るにはぎりぎりの時間。なんらか泊まりたくなっちゃいました。玉造温泉に。で、学生諸君を駅まで送って「じゃあね」とばかりに、私だけ玉造温泉に一泊しました。これも17年ぶりです。前に泊まった時は柳美里さんと一緒のお部屋でした。 1155.jpg
1154 20120916 出雲大社 95年の秋。日韓文学者会議のあと、韓国の詩人、作家のみなさんと出雲大社に行きました。17年ぶりということになります。前回、出雲大社に来た時には、この大きなしめ縄にコインがたくさん刺さっていたのを覚えています。最近はパワースポットブームとかで、若い人がたくさんお参りするとのこと。たしかに夏休みのカップルが目につきました。縁結びの神様だからかもしれません。
出雲大社のそばにできた島根県立古代出雲歴史博物館の銅剣は圧巻でした。関東だったら、1本出土しても大騒ぎになりそうな銅剣が358本も出て来たのです。358本の青銅の剣が、ぴかぴかするレプリカで壁面に展示されているのは圧巻でした。銅鐸も大小取り混ぜて、眺めきれないくらいたくさんに展示されていました。
領有権問題で大騒ぎになった竹島は島根県の島です。ある意味で出雲は国境の町と言えるでしょう。出雲の博物館と朝鮮半島の慶州の博物館の展示物がよく似ています。それは双方の交流のあとをそのまま物で物語っています。古代人が銅剣や銅鐸を大事にしていた頃は、もちろん、日本も韓国もなだなくって、現代とは異なった地理感覚で人は移動していたことでしょう。大社湾の水平線のかなたには白い積乱雲が並んでいました。水平線に積乱雲が並んでいるうちは「まだ夏です」とタクシーの運転手さんが言っていました。出雲へは羽田から飛行機で移動したのですが、考えてみると、ここでは関東平野の東京よりも朝鮮半島の古都の慶州のほうがずっと近いのです。古事記に、海を渡ってきた人が、死んだはずの兄にそっくりの人物を見つけておどろくという話があったのを思い出しました。 1154.jpg
1153 20120912 よくしゃべる荒焼(あらやちー)の壺 やちむん通りの雰囲気がここ数年ですっかり変わったと見ていたのは6月です。それから2か月。あらまと驚いたのは、やちむん通りと、平和通りの市場の間に大きな道路が一本開通していました。平和通りの迷路のような市場から骨董屋さん、古道具屋さんの前を通ってやちむん通りへという流れが、道路一本で寸断され、やちむん通りは市場と切り離されてしまいました。孤立した感じがします。
以前はやちむん通りを歩くとあらやちー(荒焼)の壺や甕をたくさん売ってました。もともとは泡盛などをいれる器です。それからシーサーがたくさん並んでいた時期もありました。赤い塗料を塗ったようなお魚の柄の器が並んでいたこともあります。今は、ものやさしい菊紋や水玉の焼物が増えています。こんなに流行があるとは知りませんでした。
あらやちーの壺は前々から欲しいと思ってはいたもののなかなか高価で、しかも実用品ではないので手が出ませんでした。そのうちにと、見るだけにしているうちに数が減ってきたので、今度は一大決心。お店の棚の下で埃をかぶっていた壺をひとつ求めました。民藝から現代風なクラフトへという流れの中で取り残されたような壺でした。持ち帰るには重すぎるでの宅急便で自宅まで送ってもらいました。
荷をほどいてみると、壺にはちょっとした歪みがありました。この歪みができた時、心地よい風でも吹き込んだのかなと想像しました。作る人のちょっとした手の動きが残っているのをおもしろく感じたのでした。するとなにやら壺がむにゃむにゃと喋っているような。そんな感じがする物品は骨董屋さんで買ってきたものには時々あるのですが、今物では珍しいのです。
おや、おや、こいつはお喋りだと思うと、またむにゃむにゃ、何を言っているかまでは解らないのですが、なんだかむにゃむにゃ言っているのだけは耳に聞こえてきます。朗らかなおしゅべりさんです。なんだか仲良くなれそう。 1153.jpg
1152 20120903 あおい島バナナ 先月、那覇からソウル・仁川へ飛んで、1ヶ月ぶりの那覇でした。牧志の公設市場を覗くと、青いバナナがたくさん、並んでいました。写真は沖縄産の島バナナですが、フィリピン産の青いバナナもたくさん並んでいました。島バナナはフィリピン産よりも小さくずんぐらもっくらした形をしていますが、味はフィリピン産よりも甘みと酸味の混じりあいが絶妙とのことです。
今頃がバナナの収穫期なのかしら?それにしても青いバナナばかりだと不思議に思っていたところ、与那覇恵子さんから「沖縄はお盆なの」と教えてもらいました。陰暦の7月14日、15日、16日青いバナナはお盆のお供え物に欠かせないそうです。青いバナナが黄色くなる頃、ご先祖様は「にらいかない」に帰り、お供えからお下がりの黄色いバナナと食べるとのこと。東京でお盆のお供えに使うほおづきも、青い実が熟して黄色くなるとご先祖様があの世から帰ってくるのだと言われていますが、バナナのほうがなんだか「おいしそう」な感じです。しかし、もともとの土地を離れて暮らす人にとってはお盆の先祖供養はけっこうたいへんです。
従軍慰安婦のことで、韓国の若い世代が祖母の世代の「名誉回復を考える」ことに興味を持ったと書きましたが、先祖供養のことなどを考え合わせると、それはけっして理解できないようなことでもないような気がするのです。韓国は儒教の考え方が強いからだという説明も耳にしますが、それはそうかもしれませんが、同じような感覚を持っていたのに、先祖の土地から離れてしまった日本では「あんまり考えたくないこと」だったのかなと青いバナナを眺めていました。それで「昔の人のことは忘れるようにした」と、そんな気持ちの動きがあったのは想像できることです。
9月8日は私の父の命日です。ここのところしばらくお墓詣りもしてません。弟任せにしてます。弟に聞いたらお寺さんがお墓をきれいにしてくれてあったとのこと。以前はお墓のお守りと言えば、誰も興味関心を持ってくれずに一人で孤軍奮闘しているような気になったこともありましたから、弟と弟のお嫁さんにすっかりお任せというのも「なんだかいいなあ」で肩の荷が下りたような感じです。もうちょっと涼しくなったら、房総半島先端のお寺に行ってこようかなと、考えつつ、つい青いバナナを買ってしまいました。黄色くなるまでに1週間くらいかかるそうです。 1152.jpg
1151 20120902 那覇の空 首里城は赤いお城として有名です。以前の那覇は、もっと内陸へ海が入り込んでいたそうですから、泊の港へ入ってきた船の乗組員は、赤い首里城をきっと頼もしく眺めたことでしょう。浦賀へ現れたペリーの一向もまず琉球へ立ち寄り、当時の日本の国情を調べたそうですから、きっとペリーも洋上から赤い首里城を眺めたに違いありません。久しぶりに首里城まで行きました。復元工事はまだ続いていて、正殿の後ろ側に控える王族の居住部分が新しく作られていました。
写真は南殿の屋根。赤い瓦と白い漆喰、それに青い空のコントラストが見事だったので、カメラを向けたのですが、あの空の広々とした感じはなかなかカメラのは収まりません。那覇と東京を行ったり来たりするうちに、なんとなく日本の国境のイメージが湧いてきました。定規で引いたような国境ではなく、国と国の間に中間領域が存在しているような国境のイメージです。
平家物語は「祇園精舎の鐘の声〜」で始まる無常をとく物語と言われています。那覇の街を歩いていたら、平家物語の冒頭が唐天竺の「祇園精舎」から始まることがひどく意味深く聞こえてきました。平家は瀬戸内海の海上交通の権利を抑えた一門であり、遠く唐天竺までその力が繋がっていることがなければ、あの物語の冒頭はないのだなあという気がしてきたのです。中学校の時に無常を説く物語と教えられた時には「祇園精舎」は仏教思想の現れという意味の響きしかなく、抹香臭いお寺の匂いしか感じませんでしたが、那覇では唐天竺の祇園精舎への海上の道が夢想されました。
祇園精舎の鐘の声所行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色盛者必衰の理を現す
祇園精舎への鮮やかな海上の道が見えてくると、沙羅双樹の花の色も、南海に咲く熱帯植物の色の濃さが目に浮かびます。平家の栄華はそのような色鮮やかなものだったのでしょう。おかげで俊寛が鬼界ヶ島に流されたのも、なにやら意味深く思えてくるのでした。
首里城の北殿には、沖縄サミットが開かれた時の晩餐会のメニューと、当時の森首相の写真がありました。晩餐会で使われた食器類の展示も。それを眺めていると、そばにいた参観者のおばあさんが「この頃は日本も良かったよねえ」と嘆息していました。沖縄サミットは2000年7月。20世紀最後の年の夏の初めに開かれたのでした。 1151.jpg
1150 20120823 ソウルの駐韓日本大使館前の従軍慰安婦少女像 ソウルの駐韓日本大使館の前に従軍慰安婦の「少女像」が建てられたのは2011年12月でした。この少女像の撤去を野田総理が李明博大統領に求めたのも昨年12月のことです。これに対して李明博大統領は従軍慰安婦問題の解決を求めました。これが今回の李明博大統領の竹島上陸、天皇への謝罪を求める発言、そして15日の従軍慰安婦問題解決を促ながす演説という行動と発言の発端になっていると思います。
この一連の流れについてはネットではなく、活字によるパブリックな発言をするつもりでいました。が、ここ数日、ツイッターを見ていますと、茂木健一郎氏や吉村作治氏など、人気のある人物が新聞が報じる「李明博大統領の豹変」的な内容をそのまま信じたとみえる発言が繰り返し流れていました。そうした内容がそのまま広がって行くことに危惧を覚えました。
ネットでは、それがHPであれ、ブログであれ、NSNであれ、どのようは内容でもすぐに発言できますし、また、簡単に訂正できます。簡単に内容を取り消したり、訂正したりできます。そうした機動性は、記録としての不安定性と表裏一体です。ですから、2011年の12月から2012年8月に至る日韓の交渉の過程についての私の考えは、記録としての安定性が高い雑誌もしくは新聞などの紙メディアに発表することが好ましいと考えていたのでした。しかし、このまま、乱暴な言論が影響力の大きい人々のNSNで伝播するのは不安なので、これまでに経緯について、私の見方を簡略に書いておきます。
昨年12月にソウルの駐韓日本大使館前に少女像が建てられたことは前述のとおりです。従軍慰安婦問題は1993年に当時の官房長官であった河野洋平氏の談話が発表され、これが日本政府の見解となっています。この河野談話を日本政府が否定したという話は寡聞にして聞いていません。もともと日本政府の受け取りと、韓国側の主張にはすれ違いがあり、河野談話の評価については、韓国側にも日本側にも不満がありました。1993年8月から2011年12月に至る経緯は複雑なので、今回は省略。
ソウルの駐韓日本大使館は復元作業が進む景福宮前の安国にあります。安国は王宮前の両班(貴族)の屋敷があった街です。現在は景福宮を訪れる外国人観光客の姿もよく見られる場所にあります。ここの従軍慰安婦の「少女像」が建てられたのです。右翼的な考えの人はこれを「従軍慰安婦像」と言いますが、大人の女性ではなく少女の姿をしているのは、おそらく従軍慰安婦の名誉回復が主題だという運動をする側の考えが反映されているものだと推察されます。野田首相がこの少女像の撤去を李明博大統領に申し入れたのも昨年12月でした。
日本ではこの野田首相の申し入れはほとんど報道されませんでした。そもそもソウルの駐韓日本大使館前に「少女像」が建てられていることそのものが、あまり報道されていないので、野田首相の申し入れも報道されないという状況になっています。
これに対して李明博大統領が従軍慰安婦問題の解決を求めたことは「唐突に過去のことを言いだした」というニュアンスの報道がされました。前提の駐韓日本大使館前の「少女像」が報じられていなければ、李大統領の発言は「唐突」に感じられるはずです。
12月に発端があり、3月、5月と李明博大統領は従軍慰安婦問題の解決を求める演説をしています。これに対して日本政府がなにか応答をしたという報道は、私は見ていません。おそらく何の反応もしなかったのではないでしょうか。6月に入って日本の右翼と思われる人物がソウルの駐韓日本大使館前の「少女像」に「竹島は日本の領土だ」と書いた杭を縛り付けるという事件が起きました。これは私は韓国の中央日報の日本語版で知りましたが、日本国内ではほとんど報道されていません。12月の野田総理の「少女像」撤去要請から6月の少女像に杭が縛り付けられるという事件が李明博大統領の行動と発言の伏線になっていると私は思います。極端な解釈をすると李大統領は2011年12月から2012年6月に少女像を巡って起きた事柄を、逆回転させて見せたという解釈も可能です。
まず竹島に上陸して、「竹島は日本の領土だ」と書いた杭を少女像に縛りつけた日本の右翼の行動に対応した行動をする(これが8月10日だったかな)そして、大学の講演で天皇は独立の志士に対して謝罪すべきだと発言(これが8月14日だったか)これは日本政府が従軍慰安婦問題に無為無策な態度をとっていることに対して国民的不満が出るとはどういう状態なのかを作り出すという効果をねらったと考えることもできます。実際これ以降、「韓国は日本へ謝罪しろ」の大合唱になりました。そして15日に従軍慰安婦問題の解決を求める演説をして、問題を昨年12月の時点にまで戻すという流れだったのではないでしょうか。
これが政策的に見て良い政策であったのか、まずい政策であったのかは私には解りません。ただ、解っていることは李博明大統領は2012年12月には任期切れで退任が決まっているので、かなり思い切った態度に出て、日本に従軍慰安婦問題の解決を迫ったことだけは確かです。そしてそれは駐韓日本大使館前の「少女像」撤去をも視野にいれているものと思われます。私が危惧するのはもともと発端の「少女像」についての報道が日本でなされていないために、日本側の言論がどんどんと歪んだものになって行くことです。
昨日(8月22日)も日本の右翼がソウルの従軍慰安婦博物館と歴史問題研究財団に「竹島は日本の領土だ」という杭を打ち込むという事件が起きています。これについては韓国の警察が捜査中です。また橋下大阪市長は「韓国大統領が突然、歴史問題を蒸し返して豹変」という新聞報道を信じ切ったのか、ネトウヨなみの不用意な発言をしています。茂木健一郎氏、吉村作治氏のツイッターでの発言も、新聞報道を信じ切っているために出た発言と思われます。
1149 20120815 「従軍慰安婦」の名誉回復 従軍慰安婦問題がクローズアップされたのは1991年頃でしたので、かれこれ20年前になります。従軍慰安婦であった女性の「名誉回復」がポイントだと私に話してくれたのは、元従軍慰安婦の共同生活の様子を撮影したドキュメンタリー映画「ナムヌの家」の監督ピョン・ヨンジュさんでした。その頃はまだ20代の女性だったピョン・ヨンジュさんも、考えてみるともう40代になろうとしているはずです。しばらくお会いしていませんが、お元気でしょうか。宝塚の女優さんみたいな風貌の人です。
私が興味を持ったのは、女性の社会的政治的地位が向上したあとに、成人したピョン・ヨンジュさんのような若い世代が、歴史の波の中で翻弄された老女の「名誉回復」を計ろうとしていることでした。過去を置き去りにして、自分の世代の自由を謳歌するという態度ではないことに興味を持ったのでした。従軍慰安婦については、沖縄の従軍慰安婦を取材した「赤瓦の家」を書いた川田文子さんにもお会いしてお話を伺ったことがあります。川田さんが過去を丁寧に辿っているのに対して、ピョン・ヨンジュさんは「現在」をテーマにしていました。
もしピョン・ヨンジュさんから従軍慰安婦の問題は「国による名誉回復」がポイントだと聞いていなければ、いろいろな場面でたいへん困惑を味わったはずです。と言うのも、この問題には「女性の社会的名誉」「ナショナリズム」「性」「歴史観」など感情を刺激しやすいテーマが複雑に、絡み合い、錯綜した経緯をたどっているからです。李明博大統領の「竹島訪問」から「天皇謝罪」発言までの経緯も、従軍慰安婦問題のポイントが「国による名誉回復」だと知らなければ、面喰ったはずです。
この20年間に従軍慰安婦問題は、さまざまな要素が付け加わってしまい、混乱した状態を生み出しています。が、最初の「国による名誉回復」というポイントは今回の李明博大統領の行動や発言を見る限り、まだ生きている問題だと感じました。この問題は1995年の村山内閣の時に「アジア女性基金」が設立される計画が出て、その後、幾多の変遷をへて実際に基金が設立されました。この時、この基金が「国」ではなく「民間」の団体とされたことが、反発を呼びました。設立から2007年の解散まで、それこそもみくちゃの議論や批判が日韓双方から出て、その議論にはとてもついては行けないものを感じました。「国」によるか、「国」によらないかというところが重要なポイントになっています。
「国による名誉回復」は私はピョン・ヨンジュ監督から直接聞いた言葉で、新聞報道では「謝罪と賠償」をいう表現が使われています。「謝罪と賠償」も間違いではなく、そういう要求がされていることも事実でしょう。そして日本側では「謝罪」のほうは軽く扱われる傾向があり「賠償」問題として捉えられることが多いのです。「名誉回復」は「謝罪」の要求のほうに含まれるのですが、これが「賠償」のほうに傾くことで、すれ違ってしまうのです。また日本の政治家も官僚もあまり「名誉」について語る言葉を持っていないために余計に事態が面倒なことになる場面も何度も見ました。
自分自身の権利を放棄するという意味で「名誉なんかどうでもいい」と言うことはできます。また同じ仲間の中で「名誉なんかどうでもいい」と言えば、それは仲間同士で権利を譲り合うことを意味する場面を生み出すでしょう。しかし、外に向かって、仲間以外の相手に向かって「名誉なんかどうでもいい」と言えば、これはもう喧嘩を吹きかけている状態であると言えるでしょう。「内向き」の言葉しか持っていないという状態が、従軍慰安婦問題では時折、火を噴くように現れます。
言葉にこだわるついでに、「従軍慰安婦」という言葉にもこだわっておきます。韓国では「従軍慰安婦」という言葉を使わず「挺身隊」という言葉を使っていました。この「挺身隊」は日本では女学生などが、軍需工場などに動員された時の名称です。この言葉のすれ違いを巡って滑稽な場面が展開されるのを私は何度か目撃しています。それがいつのまにか「性奴隷」という言葉が使われるようになりました。この「性奴隷」という言葉は、従軍慰安婦問題が国際化する過程の中で、英訳する時に使われ始めたのかもしれないと、私は推測しています。そして、この言葉の変遷は、この問題が歴史に翻弄された女性の「名誉回復」から、しだいに国際的な「道義問題」へと展開したことを物語っているように見えます。問題が異様なほど肥大化してしまった結果として「性奴隷」というような刺激的で、しかも空疎で、かつ、当事者双方にとって不愉快な表現が使われるようになっていましました。
「従軍慰安婦問題」が出るたびに、日本の右サイドからの発言も、左サイドからの発言も、私にはどちらも不愉快で憂鬱を生み出します。右はひどく口汚い罵りを投げつけてきます。左は「過去の名誉」については無頓着な表情を見せています。ひどい時には「かわいそうなおばあさん」という表現を使われます。「助けてあげたい」という場合もあります。右は「自己の名誉感情に拘泥し過ぎ」で左は「名誉感情は無視していい子のふりをする」と括っては括り過ぎでしょうか。
1148 20120814 高麗の器に伏見人形の鼠を置く ソウルでご一緒した城戸朱理さんのHPを覗いたら、ソウル滞在中の無駄使いがすっかりばれてしまっていました。我ながらちょっと買物のし過ぎだなあという今回のソウル旅行でした。買物をし過ぎたわりには、最初の目的だった朝鮮白磁の壺は買いませんでした。仁寺洞の骨とう品屋さんには手頃な物があったのですが、なんだか気が進みませんでした。仁寺洞の骨とう品屋さんは、日本からの観光客が多いので、好みは「日本人好み」に傾いている様子です。とりわけ朝鮮白磁は、日本人好みにかなり傾斜しているように見えました。
で、なんとなく「欲しいな」と手が出たのは高麗の青磁陽紋の鉢でした。青磁の発色がもっと良いものもあったのですが、あんまりきれいな発色が出ている物よりも、これでも青磁の仲間ですとちょっと遠慮しているような鉢を一つ求めました。城戸朱理さんによると、13世紀の物だそうですが、さて、ほんとに700年以上も人から人の手に渡ってきたものなのでしょうか。もし、そうだとしても、この器も私のスーツケースに詰め込まれて海を渡ることなど、器自身想像していなかったにちがいないとか、この器と同じ窯で生まれた青磁の器がもしかすると玄界灘の底に沈んでいるかもしれないとか、物を手にするといろんなことを考えるものです。
李明博が竹島を訪問しました。竹島は、日韓の間に領有権を巡って決着のつかない紛争が続いている国境の島であり、現在は韓国が実効支配をしています。おやと思ったのは、この李明博大統領の竹島訪問に文学者の金周栄さんと李文烈さんが同行していたことです。新聞はお二人を小説家と紹介しています。韓国を代表する小説家であることは間違いないのですが、私はあえて文学者という言葉を使いたいと思います。
金周栄さん、李文烈さんのどちらとも、私は面識があります。たぶん「お目にかかってお話をしたい」とお願いすれば、予定をとっていただくことはできるくらいの知り合いでもあります。だから、このお二人は日本にもいろいろと話ができる人との縁を持っているに違いないのです。
外交官でもなく、武官でもなく、なぜ金周栄さんと李文烈さんだったのだろうと、不思議に思っていたところ、今朝の東亜日報日本語版が、今度の李明博大統領の竹島訪問は「従軍慰安婦問題への回答がない」日本政府への一種のプレッシャーだったと報じています。昨年12月に野田首相と会談した李明博大統領は「従軍慰安婦問題の解決を求めたにもかかわらず日本政府から何の回答もない」ことに圧力をかける意味で竹島に上陸を果たしたとのことでした。政府が何も言わなかったことが、今回の大統領の行動に繋がっているということになります。これで、長く日本との対話の努力をしてきた金周栄さんと李文烈さんが同行した意味が解ってきました。大統領が求めているのは「日本側の言葉」です。
従軍慰安婦問題についての日本政府の謝罪と賠償を韓国が求めていると新聞は書きます。求めているのは「国による謝罪と賠償」で、これは慰安婦であった女性たちの「公(国)による名誉回復」を求めているのだということは、日本の新聞はあまり伝えていません。公(パブリック)とは何かという議論は1970年代以降、複雑な議論を重ねてきました。必ずしも、国が公で民間が公ではないということにはならないのですが、従軍慰安婦問題に関して言えば、韓国側は「国」がパブリックを代表すべきだという考えです。それから「名誉」。これが簡単なようで、かなり難しいのです。「名誉」について日本政府はどのくらい考えを持っているのか。たぶんあまり持ってはいないのではないかなと言うのが私の予想です。「名誉なんかどうでもいい」と風潮が70年代以降の日本の風潮で、国内的にはそれで、カジュアルで気楽な社会を築くことに成功しましたが、対外的には「名誉なんかどうでもいい」と言うことにはならないのです。名誉を回復させるのは何をどう語るかという言葉の問題にかかっています。ここに、1970年代からの女性の政治的地位の向上という状況が重なります。
日本政府は日韓の賠償問題は1965年の日韓条約で解決済みという姿勢をとっています。女性の政治的地位が向上したのはそれ以降のことで、日本政府、日本の政治家は1970年代以降の政治意識の変化をどのような言葉で語るべきなのかと問われていると言っていいでしょう。
韓国政府は日本政府を「健忘症」だとせめているようですが、70年代以降の意識の変化は、日本国内でもあまり意識的に整理されてはいないのです。「健忘症」以前に時代を意識する感覚がまだ生まれてないと言えないこともありません。そこが一番のネックなのではないでしょうか。
700年も人から人の手に渡って来たらしい高麗の青磁をいじりながら、こんなことを考えることになるとは思いませんでした。水盤として花活けにすることを考えていたのですが、伏見人形の唐辛子鼠を載せてみると似合っていました。伏見人形は豊臣秀吉の文禄慶長の役の頃に流行りだした土人形だそうです。ソウルから帰ってきたら、韓国の文学者の金源祐さんからご連絡をいただきました。今、管理人の豆蔵君に金源祐さんのエッセイを「豆畑の友」にアップするコーナーを作ってもらう作業をしてもらっています。 1148.jpg
1147 20120812 東の空の夕焼け 東の空がピンク色に染まる夕焼けを見つけました。8月7日の夕焼けです。ここ数日、考えがいろいろ変ってきました。今日はちょっとメモ的な感じで書いてみます。
もうすぐオリンピックが終わり。オリンピックが終わったら、第二のリーマンショックが来ると言われています。ニュースを見ているとユーロ危機に関連して金融危機が起こりそうな懸念がありますから、その兆しは感じ取ることができます。6月に突然、民主、自民、公明の3党合意が成立して、消費税率アップの法案が出てきたのも、この金融危機の予兆と関連しているのでしょう。日本は財政赤字から抜け出す政策をすでに打っているという形式を作り出す必要があったのだろうと想像しています。
ちょっと飛躍した話になりますが、新聞を読むための元手になるような経済の概念を説明した本を幾冊か読んでみました。それで、唐突に「アメリカは世界に米軍基地を維持する費用を持っているのだろうか?」という疑問に突き当たりました。幾つかの経済の本を読んでいるうちに、ニクソンショック以来、世界が「金融資本主義」に振り回されてきたのは、アメリカが世界に米軍基地を維持するための費用の捻出だったのかあという感慨にとらわれたのです。で、その「金融資本主義」のマジックもそろそろ効果が限界まで来ていると。そんなことを考えたのです。ここにきて、日本の近隣諸国との領土問題が噴出しているのはアメリカの覇権の力が弱まっているためだという指摘は専門家から出ています。北方領土をロシア大統領が訪れ、尖閣諸島周辺では中国漁船の領海侵犯事件から始まる一連のごたごた続き、韓国が実効支配する竹島に李明博大統領が訪れる。これに沖縄の米軍基地問題とオスプレイ配備を加えれば、日本は近隣諸国のほとんどと、もめる種を抱えています。
で、東の空の夕焼けです。太陽は西に沈むのですから、東の空の夕焼けは西に沈む太陽の照り返しを受けているわけで、と。ちょっとこじつけかなと思いつつ、東の空が美しくピンク色に染まるのを撮影しました。20世紀が残した問題を21世紀の空が反映させているような、そんな感じでした。
ここ数日で考えが変ったと言うのは、まず、脱原発の目標はだいたい15%くらいがいいんじゃないかと私は考えていたのですが、目標なら0%でよいと考えるようになりました。達成目標としては15%などという曖昧な数字よりも明瞭に0%を目指したほうが解りやすいですし、政府の態度も決めやすいでしょう。国際社会に向かってのアナウンス効果も高いでしょう。それから、選挙をするべきだという考えに傾いてきました。原発依存0%の目標を掲げても、現在の日本なら議論はそう空想的にならないという確信が生まれてきました。なにしろ、電気に関する議論なのだから、誰もが使うもので、そうそう空疎な議論はできないはずです。ここ数日の国会内外の動きを見ると、ことさらに選挙をするべきだと言わなくっても、今年のうちに選挙がありそうですが、あえて選挙をするべきだと言うに至ったのは、消費税率アップの法案成立に至るまでの国会の動きを見ていると、民主党政権と言うのは「アンチ自民党」が政治的テーマの時代の選択として選ばれた政権だということが、はっきりしてきたのが実感されたからです。「アンチ自民」の時代は終わったのだと3党合意の様子を見ながら、それを実感したのでした。
「アンチ〜〜」という発想では、震災や原発事故や国境紛争は対応できないと。そういう考えに至ったのです。選挙をやれば、めでたし、めでたしと言うわけにはゆかないでしょうけれども、切実なものを抱えた有権者は震災、原発事故、国際情勢の変化、金融危機を踏まえることができる政治家とそうでない政治家を選び分けることができるのではないかと。どうなるのか、わかりませんが、やってみるよりが結局は回り道のようでいて早道だと考えるに至った数日間でした。 1147.jpg
1146 20120808 サッカーがソフトボールに化ける。 自民党が不信任案を出すとか、出さないとか、かなり出す方向で8日午前中が回答期限だというニュースが並んでいます。自民、公明、民主の3党合意で消費税率引き上げの法案の採決を諦めても、内閣不信任案を出すというニュースが出てきたのは8月6日(月曜日)のことでした。この日の夜のNHKの「NC9」テレビ朝日の「報道ステーション」でもこのニュースは取り上げられ、なぜこんな方向へ急展開したのかと、どちらのキャスターもきょとんとしたコメントを出していました。
8月7日夕刻にみんなの党などの中小の政党が内閣不信任案を提出しました。8月8日午前の時点では、自民党が不信任案を提出するか否かは民主の回答待ちと言うことになっています。消費税・社会保障一体法案の成立を見送っても、自民党は不信任案を提出することになりそうな見通しです。この急転直下の変化にさまざまな解釈が報じられています。
さてと、私はこの流れの変化については、今回はかなり明瞭に自分の見てきた流れを信用しています。それを示すと以下のようになります。
7月29日(日) 反原連による国会包囲抗議活動
7月31日(火) 反原連と政治家の「対話テーブル」
管直人前首相が出席し、野田首相と半原連代表との会見を提案する。
8月1日(水) 小泉進次郎自民党青年部長ほか11名が内閣不信任案を提出する緊急声明を谷垣総裁に提出。
この日、野田首相が反原発の代表との会見の検討を始めています。
8月3日(金)反原連による恒例の首相官邸前の金曜日集会。この日、野田首相が反原連の代表と会見すると言う情報もあり。いろいろな情報を総合すると反原連との会見をネット中継するか否かで揉めていた様子。
8月6日(月)自民党の内閣不信任案提出が現実味を帯びてくる。
反原連と首相の会見は8日に設定され、ネット中継される予定との発表がある。
小泉元首相が「野党が解散権を握れるなんていうのは滅多にない機会だ」と叱咤している様子の目撃談が報じられる。
8月7日(火)反原連と首相の会見が、8日に消費税関連法案の採決があるという理由で延期される。
枝野経済産業相が首相と反原連の会見に反対の意見を述べる。
8月8日(水 午前)自民党が内閣不信任案提出の構え。
8月1日に小泉進次郎議員の内閣不信任の提案があった時は「確率はひくいけれども、選挙になるかもしれないなあ」と感じました。
8月3日には、恒例の金曜日の首相官邸前抗議活動に首相が突然現れるというイギリス映画のような展開があれば、「どじょう」首相が「龍」に変身という可能性もありだなあと思ってました。たとえそれが竜頭蛇尾に終わるかもしれなくっても、そういう局面であったでしょう。
8月6日に小泉元首相の目撃談が報道された時は「ははん、これは自民党幹部の決心がつきかねているのをおとうちゃんが息子の援護射撃にでたんだなあ」と解釈。
抗議集会が大きくなりすぎて、不安を感じていたところ、「対話テーブル」の設定が早くのに驚いたのは前に書いたとおりです。その「対話テーブル」に管直人前首相が現れ、「対話テーブル」から「首相会見」へと話の焦点が変ったのを、私はサッカーのプレッシャーをかけ、パスを出したら、管直人前首相が手で受け取ってソフトボールを始めちゃったみたいだという印象を書きました。その比喩の延長でゆけば、管直人前首相の投げた球を「どじょうを龍にばけさせてはならじ」と小泉進次郎議員がカットに出たと、そんな感じです。カットされかけた球はゆるゆると、野田首相の手に。野田首相がぼんやりと球を投げると、今度は外野席から小泉元首相の叱責が飛び、ようやくソフトボールが始まったことに気付いた自民党議員が、球を奪いにでると。そんな感じの比喩を頭に思い描いています。
代々木公園での反原発集会、首相官邸前の金曜日の抗議集会、国会包囲抗議集会など一連の抗議活動の参加者数についての警察筋の発表の数があまりにも少ないことに私はこだわってきました。おそらく記者クラブ筋から出ている情報だろうと考えられる数字ですが、この数字について「抗議集会を小さく見せたいから」という説明を自分でもしました。そう説明すれば、多くの人が納得してくれますし、その可能性もまるでないわけではありません。ただ、私はこの小さな数字に記者クラブに警察筋の情報を流している人物(誰だかわかりません、誰かです)のある種の「あなどり」を感じていました。現実を見ようとせずに、「あなどった」印象でつくった適当な数字を口にしているのではないかという疑念が払いきれませんでした。そして警察筋の人物の「あなどり」は記者クラブの記者とも共有されていたのではないかと推察されていました。
もしそういう「あなどり」があったとすれば8月1日からの激変には、驚いたはずです。もっとも、サッカーがソフトボールに化けた瞬間に、政治の事情に精通していると考えている人々(記者に限らない)の従来とおりの解釈も有効性を帯びてきますから、サッカー的な要素は無視されるかもしれません。これを書いている間に事態は時々刻々と動いていることでしょう。
余談ですが、女子のソフトボールは前回の北京オリンピックを最後にオリンピック種目からはずれたはずですし、野球のオリンピック種目ではなくなったような。曖昧な記憶ですが、今度、ちょっと調べておきます。今回のロンドンオリンピックでは、ソフトボールの報道も野球の報道も見かけていませんが。
1145 20120806 首相官邸抗議集会の参加者数について 物書きの仕事を30年もしていると、自然にジャーナリストや新聞記者の話を耳にするようになります。私はフィクションの作家ですから、自分自身では事件や出来事の取材をしたことがありません。ですから、東京新聞の「新聞を読む」のコラムでも自分自身が知りえたことの範囲に限って、過不足ないように、文章を書いてきました。1回目、2回目ともに、首相官邸の金曜日抗議活動についてについて書きました。ただ、それだけでは、今回の抗議活動の参加者数の発表がいかにひどいものであるかを、充分にお伝えできていないことが、ツイッターのやりとりで解りましたので、詳細をここに書くことにいたしました。
まずデモの参加者についてですが、これは以前、新聞がひどい批判を受けたことがあるのです。主催者側の発表する参加者数だけを報じて、民心を煽っているという批判でした。実際、主催者側がかなり水増しをした参加者数を発表するということも、まま、行われていました。それ以来、警察発表と主催者側発表を並列で表記するというスタイルが定着しています。この数字を見ていますと、おおよそ、主催者側発表の4分の1が警察発表というのが相場です。6月22日まではこの相場の数字が金曜日の首相官邸抗議集会にも出ていました。この時の警察発表の数字が1万1千。6月29日の警察発表の数字は、私の記憶ですと1万7千。TBSは20万人と報じ朝日新聞は10万人から15万人で、主催者発表は10万人でした。ユーストリームの中継映像を見る限り、7,000人程度の増加ということはありえません。もっとたくさんの人がいました。
今回の金曜日首相官邸前抗議や、国会包囲行動、それから代々木公園で行われた抗議集会の警察発表に疑問をもたれたフリーのジャーナリストや、一般の参加者がいるようで、所轄の麹町署に問い合わせたり、警視庁に問い合わせたりして「警察は集会参加者数を発表していない」ということが、この時点でツイッターの情報から解ってきました。また新聞も「警備筋」や「警察筋」という言い回しを使って、それが警察の正式発表ではないことを匂わせるようになってきました。こういう書き方を新聞がする時は、たいてい記者クラブ周辺から出てきた数字だろうと、検討がつくのです。それが警視庁記者クラブなのか、それとも、国会記者クラブなのか、新聞記者の経験のない私には解りかねるところがあります。
記者クラブについてはあしざまな批判を耳にすることも多々あるのですが、その言い方をそのまま鵜呑みにするわけにもいかず「記者クラブ筋から流れてくるいいかげんな数字」という書き方を遠慮していたのです。
そのたぶん警視庁記者クラブの方面から流れてくる、警察筋の金曜抗議集会参加者数の数字だけを並べると、7月に入って抗議集会は縮小の傾向ということができます。この数字は記憶していないので、新聞の日付順に見てください。産経新聞は実際に「金曜集会は縮小の傾向」と報じていました。きっと警視庁記者クラブ筋の数字を信じて記事を書いたのでしょう。
さて、警察の警備ですが、抗議集会については花火などのイベントの雑踏警備の方式を用いていると、これは朝日新聞が報じていました。実際、金曜日抗議集会や国会包囲集会を歩いてみると、雑踏警備と、政治的集会警備の両方の方式を混ぜて使っている様子です。単なる雑踏警備では、公安警察がずらりと並ぶということはありませんが、金曜日の首相官邸前には公安警察がずらりと並んでいました。雑踏警備には人出の予想と人の流れの予想が必須の事項になっています。「警備上の理由から参加者数を発表できない」という警察の言い分は、正直なものでしょう。また、人の数と人の流れはかなり精緻に把握しているはずです。交通量調査の手法を使えば、それは可能です。私が歩いた国会包囲抗議集会の印象で言えば、人の流れを把握して、あっちこっちで横断歩道を遮断したり、歩道を一方通行にしたりして、人が大勢集まらないような工夫をこらしていました。東京ディズニーランドでは、アトラクションに並ぶ人の行列が長くなると迷路方式の柵の位置を変えて人の流れを作るというやり方をしていますが、あれに似たことを警察は首相官邸と国会周辺でしていると想像して下さい。
一方、主催者側ですが、これは組織動員をかけたデモのような水増し発表はしていないと、私は感じています。10万人の規模になると中継映像だけでは判断しにくいところもありますから、単なる印象の判断に過ぎないので、正確なところはわかりません。ただ、主催者発表よりもテレビ、新聞のカウントのほうが上回るということが、前代未聞です。
大阪では主催者発表に対して警察発表が50人上回るというようなこともおきたと、これはツイッターで流れてきた話です。全体で300人から400人の規模ですが。
いずれにしても、どうやら記者クラブ方向から流れてくる東京の警備筋とか警察筋の出す最近の数字は主催者発表の10倍から20倍の差のあるもので、集会参加者だけでなく、これはもう警備をしている現場の警察官にも無礼千万な数字になっています。こんな数字を示されて積算根拠も尋ねなければ、質問の方向を変えて、動員された警察官の人数や警察車両の数を質問しない記者もどうかしています。
さらに言えば、こうした警察筋と言われる情報をもとにコメントをする政治家のコメントも現実からかなりずれたコメントになる様子が見受けられます。きっと政治家は忙しいから、私のように、玉石混合のネット情報を漁ったりする暇はなく、新聞だけ読んでいるのかもしれません。(すいません、おおあわてで書きました。原稿の督促の電話がきちゃった)
1144 20120805 去年の空 今年の空 先週金曜日の8月3日に汐留シティセンタービルの最上階で知人と食事をしました。首相官邸前の恒例の抗議行動のある時間帯で、ヘリコプターが2基ほど官邸上空を飛んでいるのが見えました。その時
「去年はカレッタ汐留から東京湾を眺めたのでしたね」と
言われて、ちょっと首を傾げました。「去年だったかしら?」と考え込んでしまいました。よく思い出せなかったのですが「あ、それは」とある私的なことで「カレッタ汐留」でごはんを食べたのは、一昨年であることを思い出したのです。この頃、2010年と2011年の記憶が混同されているということがよくあります。やはり震災と原発事故は、人の時の感覚、それを「記憶」と呼ぶことも多いのですが、時の感覚をかなり混乱させている様子です。
東京駅で新幹線のチケットを買っていたら、隣の窓口にいた人が「すごいなあ、ここから半径5キロで日本の全てが決まっちゃうだから」と言い合っているのを見かけたのは、はて、今年の春だったか、それとも去年の秋だったか。身なりはお役人風のスーツ姿。5人ほどで連れだっていました。買ったチケットは東北新幹線のもの。どこか被災地の県庁から、東京の官庁もしくは国会か議員会館へ用事を足しに来た県庁の職員さんではないかとお見受けしました。「半径5キロ」の言葉に実感がこもっていました。
いしいしんじさんと大阪千日前のおすし屋さんでお話した時、私は自分が使った比喩と小沢健二氏の比喩の違いにこだわっていたので、いしいさんが興味を持たれたところを聞き逃してしまいましたが、あとから「ああ、そうか、そうだな」という納得が湧いてきました。いしいさんが首相官邸前の抗議行動の話を聞いて指摘したのは「68年から70年の時は年齢幅が狭かったでしょう」ということでした。街頭の政治活動の中心が大学生ですから18歳から22〜3歳というところです。それに高校生が加わるとしても15〜6歳から22〜3の幅で4〜5年から7〜8年の年齢差しかないのです。人生の中でも最も先鋭化しやすい年齢でもあります。いしいさんが興味をしめしたのは、首相官邸の抗議活動や国会包囲集会では親に連れられてきた赤ちゃんから高齢者まで幅広い年代の人が集まっている点でした。
いしいさんは京都で赤ちゃんを連れたお母さんたちが集まっているところで、そのお母さんたちと話す機会があったことを教えてくれました。いしいさんも赤ちゃんを連れていたとのこと。赤ちゃんや小さい子どもがいると、大人も会話をしやすくなるのは、幼い人の持つ功徳を感じます。で、そのお母さんたちの集まりは、東京から避難してきているお母さんの集まりだったのが、お話をしてみて解ったとのことでした。そう言えば、昨年7月に法政大学のボアソナードタワーで復興書店のイベントを開いた時にも、いしいさんは原発事故からの避難者の話をしてくださったのを思い出しました。避難という手段があることをなんとなく話しづらい雰囲気があるので、いしいさんの穏やかでユーモアのある話しぶりに救いを感じたものでした。
私の考えはもともと脱原発派で、非現実的な反原発ではありません。それは「豆の葉」にも事故直後に書きました。首相官邸前の抗議活動に積極的な興味を持ったのは6月中旬で、国会では3党合意による消費税率引き上げが論議されていました。これに続いて、民主党の小沢一郎氏が民主党離党を唱え始めたことに、あまりにも政治家としての緊張感がなく、震災も進行中の原発事故も「踏まえて」考えたり感じたりしていないという腹立ち紛れで、官邸前の抗議行動に興味を持ちました。首相よりは、むしろ、国会審議をストップさせた小沢一郎氏とそれに同調した政治家に腹を立てたのです。この頃から、首相官邸前の抗議活動の参加者数が増えたところをみると、私と同じような感覚を持った人も多かっただろうと思います。政治家が政治家の顔色を見て駆け引きをするのは2010年までの政治だと言いたい気がしました。
参加者が増えてみると、首相官邸前の抗議行動には、単に政治的主張を示すだけではなく、そこで人が出会って意見を交わして、考えを作る場になるという効果があることがわかってきました。また、あの東京駅で出会ったお役人さん風の人たちの感慨「東京駅から半径5キロ」を実際に歩いたという経験を持つ人がふえれば、政治に対する見方や考え方も、現実的で落ち着いたものになるでしょう。「国会」や「首相官邸」がただ新聞に書いてある文字ではなく「ここへ行ったことがある」場所として受け止められるだけでも、人間のものの感じ方あ変ってくるのです。
いしいさんとお話をして大阪から帰ってきたら「対話テーブル」のはずが、野田首相が抗議活動のメンバーを会見するかどうかという話になっていたというのは昨日書いたとおりです。なんだかうまくプレッシャーをかけてパスを出したら、管直人前首相が受けて、サッカーじゃなくってハンドボールを始めちゃったみたいな感じを受けました。へたをすると、また、政治家が政治家の顔しか見ていないとような状態に逆戻りするかもしれないなあと言うのが現実的な判断です。でも一方で、「どじょう」が「龍」に変身するかしらとも。さて、どうなるのでしょう。
首相官邸前の金曜日の抗議活動を主催しているのは「反原発首都圏連合」というグループです。このグループのポリシーを批判する意見を目にしたり耳にしたりするたびにちょっと黙っていられない気持ちになってきました。私も小さな政治的イシューについて、みなさんの意見表明のお世話係をしたことがあります。多くの人に参加してもらい積極的に御自分の考えを表明してもらうためには、工夫が必要でした。「反原発首都圏連語」のポリシーを見ると、大勢の人が集まって意思表示をするための工夫に満ちています。「場」を作り「場」の維持のためのお世話をするという点では、頭の下がる努力で、その努力には拍手を送りたくなります。このグループのメンバーが「匿名」の存在であったり、ハンドルネームであったりするのも、それが「お世話係」である限りは、そのポリシーにふさわしいでしょう。気がもめるのは、そのやり方が参加者が増えると政治的悪意にさらさえたり、責任追及をされるような場面に出っくわしたりすることです。
新しいカメラを買いました。前のカメラが壊れちゃったので。今、使い方を覚えているところです。写真は今年の青空を我が家のベランダから撮影したものです。 1144.jpg
1143 20120804 比喩に悩む 大阪でいしいしんじさんたちと文楽を見てきました。30年ぶりの「曽根崎心中」。いろいろと感想、感慨があります。でも、それはあとで。
「潮見坂の上で話したこと」の続きです。7月29日の国会包囲集会はかなり大規模で、最後は国会正門前の道路に参加者が広がるという展開になりました。街頭での抗議集会が大きくなるにつれ、抗議集会を開いていた首都圏反原発連合では、全体をマネージメントできなくなるのではないかという心配と不安を「潮見坂の上で話したこと」に少し書きました。それが、30日には初めての「対話テーブル」が開かれるとのことで、展開の速さに驚いたのは追記に記したとおりです。こうした詳細な情報はツイッターを時間で追ってないとなかなか理解しがたいところがあります。
大阪では朝日新聞と日経新聞の関連記事を読みました。日経新聞の記事のほうが全体像を簡略に伝えていましたが、どちらも管直人前首相の発言だけがクローズアップされていて「対話テーブル」そのものはほとんど無視されていました。東京へ戻ると野田首相が金曜集会の代表者に面会する方向というニュースが駆け巡るだけで「対話テーブル」はどこかに消えていました。サッカーの比喩を用いれば、プレッシャーからパスが出たのは私の予想よりも早かったけれども、パスを受ける選手がいなかったというところでしょうか。
「デモって意味あるのかしら」と某先生から質問を受けました。それで、たまたま大学は前期の成績の採点の時期だったので、採点の比喩を使ってしまいました。以下のような具合。
街頭行動で政治的プレッシャーをかける。→C評価
C評価は低いようですが、単位は取得できます。こういう街頭行動はあまり目立ちませんが、保守派も革新派も東京ではいろいろな活動をしてます。
街頭行動から政治的意見聴取や意見交換の場を作り出す。「対話テーブル」の設置などはこの段階です。
→ B評価
この段階が公に公開するかたちで開くことが、これまでの日本ではなかなかできませんでした。政治家にも公開で「対話テーブル」を開く習慣を持っていません。支持者団体とのクローズな会合が開かれるとか、支持団体との会合が開かれるという場合はよくあります。ただ、日本の政治家は不特定多数の納税者、有権者と対話するのは苦手なようです。「人見知り」が激しいのかもしれません。蛇足ですが、「人見知り」をすると「偉そうに、威圧的に振る舞って防御に出る」という癖がある人もわりによくみかけます。だから「物知りの老人」風の受け答えや「先生然」とした受け答えを始めたら、これは「人見知りで怯えている」と考えても、そんなに間違うことはないでしょう。
意見聴取、意見交換を通じて、意見集約を図り代表者を決定して、具体的な政策を作り出す。
ここまでくれば → 評価A
日常的にも支持者団体の中から政治家を出して、すったもんだのすえになんとか法案が成立したり、政策が決定されたりすることがあります。でも、そのプロセスに興味関心がない人には、ただ政治家が官僚のいいなり作った法律としか感じられない場合がままあります。
作り出された政策が衆知を集めた立派なものであればもちろんそれは → 評価A+
「それはとてもわかりやすい比喩だわ、ちょうど採点の季節だし」とお褒めをいただきましたが、どうもこの比喩を私自身は好きになれませんでした。内心で我ながら「そんなに先生やってどうするんだ」と忸怩たるものが。まあ、でも政治的な意思決定の段階を「先生」風に眺めることも、たまにはおもしろいかもしれません。
歌手の小沢健二、愛称オザケンさんは街頭での抗議活動について「病人と患者」の比喩を使っていました。小澤昔ばなし研究所発行「子どもと昔話」に連載された「うさぎ」というエッセイの一部のようです。私はツイッターで流れてきたものを読みました。政治的抗議を街頭でするのは例えてみれば「患者が医者に痛みや苦痛を訴えるとうなものだ」と言うのです。それで治療法や対処法は医者が提案すればいいと言うのです。現代では医者も患者に「説明責任」を負っていますので、医者から提案される治療法や対処法は患者が説明を受けて受け入れるかどうかを決めることになります。先ほどの成績評価の例えで言えばこれが評価B段階。治療法や対処法が決定され、実行されれば評価A。その結果がとても良いものであれば評価A+。なかなかわかりやすいすばらしいたとえ話です。デモでも集会でもやって、まずは病状を訴えなけれなというところが大事。感心しました。ネットで探せばこの文章を読むことができます。
私はサッカーのゲーム展開のイメージを使って首相官邸の金曜日の抗議活動を始めとして、政治的な抗議のありかたをここに書いてきましたし、自分でもそのイメージでものを考えてきました。「病気の比喩」と「サッカーの比喩」どっちがいいのだろうと、内心で悩んでいます。病気の比喩はすばらしいのですが、サッカーのゲーム展開のイメージも捨てがたいのです。そんなことを大阪でいしいしんじさんにお話ししました。いしいさんの御意見は「病気の比喩だと、ひとりひとりの気持にはぴったりとあてはまるという利点があるけど、サッカーの比喩だと出来事の全体が見渡せるんだなあ」ということでした。そう言われてみれば「そうかあ」と思ったしだい。おすしを食べながらそんな話をしました。
首相官邸前の抗議集会について、あるいは国会包囲抗議活動について、「ガス抜き」だとか「自己満足」だという意見を聞くたびに悲しい気持になります。過激化して解体した70年安保以来の固定観念化した言説(早い話が固まった頭)のまま、時間が少しも経過せずに、ただ精神的な怠惰が呟かせている言葉として、私の耳には響くのでした。熾火のような怒りを含んだ悲しみです。
1142 20120730 潮見坂の上で話したこと 3月から首相官邸前で反原発を訴える金曜日の抗議活動が続いています。金曜日は大阪に行かなければならないことが多く、ユーストリームの中継でこの集会の様子を見ていました。27日に有楽町へ出る用事があったので日比谷公園から潮見坂を登り、首相官邸前まで歩いてみることにしました。
7月27日(金曜日)この日はいつもの反原発首都圏連合主催の首相官邸前抗議はおやすみで、そのほかの主催団体による抗議が行われてました。日比谷公園から潮見坂を登ると、警官が警備線を引いていました。交差点を渡ったところで、知人にばったり。7週間前から毎週金曜日に来ているという知人と、扇を使いながらよもやま話をしていると、とおりかかった女性が「暑いので、塩飴をどうぞ」と飴をくれました。知人の話では、この日は5月末と同じくらいの人出だったようです。首相官邸前はさすがに混み合っていましたし、官邸の向かい側には警察の装甲車と公安警察の人がずらりと並んだ姿が見えました。
この抗議活動に参加者が増えたのは6月22日のことでした。6月29日にはさらにふくれあがりました。今日はこれから大阪へ出掛けるので、少し急いでいて、詳細を書けないので、潮見坂の上で知人と話したことだけを大急ぎで書いておきます。
参加者の数が毎週数万人、時には、20万人という数(7月29日の国会包囲抗議行動の時)になってきたから、これまでのゆるやかな紐帯の個人の集まりという主催者のやり方を、数万人の人の安全を確保して行くための仕組みに整えなおす必要がありそうだという方向の話をしました。たぶん、そうした工夫ももう始められているだろうし、労力(道案内や参加者の誘導)や専門知識を提供する人(弁護士さんの会が結成されたそうです)も現れるだろうと、ちょっと心配になりながら話しました。いや、もう昔からの知り合いだから「組織を作りなれたセクトに乗っ取られちゃわないといいねえ」ってな調子の話だったのですが。
大阪から帰ってきたらまた改めて書きます。大阪はいしいしんじさんにお誘いいただいて、文楽の「曽根崎心中」を見物してきます。こちらはこちらで、橋下大阪市長の過激な発言があったとか、それが毎日新聞の誤報だとかいろいろで、大騒ぎみたいです。
村上春樹風に「やれやれ」じゃすまなくって「結果をださないとまずいぞ」って時代になったようです。
追記 もたもたしていて大阪に行きそびれ、7時の新幹線に乗ることにしました。で、オリンピックの馬術見たさに布団からはい出してみると、脱原発首都圏連合のツイッターアカウントに「初の国会議員対話テーブル開催」の告知がありました。7月31日(火曜日)17時30分から19時で、一般の聴講はないようですが、中継はあるそうです。司会は歴史家の小熊英二。
政治的プレッシャーをかける街頭行動から、政治家との対話集会という流れのことについて、昨日、書きたいと思っていたところです。それが予想よりも早い流れになっているので、追記しました。
海外でのデモの様子はテレビや新聞でよく伝えられます。それが暴動、騒乱に発展した場合も「事件」として報道されるのですが、政治的プレッシャーから政治的対話へと展開される場合は、ほとんど報道されません。「事件」でもなければ「事故」でもないので、ニュースにならないのです。ただ、そういう方法があることは、以前から漏れ聞こえていたので、それを昨日は書きたかったのです。サッカーで言えば、プレッシャーからドリブルに持ち込むとか、パスをフォワードに出すという展開部分です。(7月31日AM6時 追記)
1141 20120728 政治的プレッシャーについて プレッシャーグループについて教わったのは、中学校か高校の時でした。政治的なプレッシャーをかけるグループをそう呼ぶと。日本だと農協や漁協、それに労働組合や市民団体などが政治的なプレッシャー・グループとしての役割を果たすのだと。その頃はまだプロ野球全盛の時代で、毎年、巨人が優勝を続けていました。まだサッカーはプロリーグはなく、都市部にはリトルリーグが出来始めていた頃だったでしょうか。私も小学生の時、体育でサッカーをやりましたが、サッカーのゲームでは相手へプレッシャーをかけることが重要だなどとは知りませんでした。みんなでボールを追いかけて右往左往するへたくそサッカーの見本みたいなものです。考えてみると指導して下さった先生は、野球の経験はあってもサッカーの経験はなかった時代なのかもしれません。
政治的なプレッシャー・グループについて教えられた時も、サッカーのプレッシャーのイメージは浮かびませんでした。今ではすばらしいプレッシャー技術を持ったなでしこジャパンのおかげで、小学生でもサッカーのプレッシャーの意義を知っています。
では、街頭での抗議行動やデモンストレーションが政治的なプレッシャーであると教えられたのかどうか、思い返してみてもよくは思い出せません。書店には60年代の安保闘争で亡くなった樺美智子さんの手記が置いてありました。国会前のデモで樺美智子さんが亡くなったのは私が生まれて一年後(正確には8か月後ですが)の出来事です。その手記に興味を持って読んでみたのは高校1年生の時ですから、樺さんの死から15年後くらいのことで、今で言えば、高校生がオウム事件の記録を読むようなものです。70年安保、東大安田講堂占拠事件の時は小学校4年生でした。それで小学校5年生の担任の先生は、大学を出たばかりで、大学では学生運動にも加わったという先生でした。などなど思い出しても、街頭の政治的集団活動は、政治的プレッシャーだと教えられた記憶はありません。
街頭での抗議活動やデモは、サッカーで言えば、シュートではなく、プレッシャーだと説明すると、その意見に賛成か反対かは別にして、意味するところは、サッカーの観戦になれた今の人にはすぐ理解してもらえるでしょう。私がその比喩を思いついたのは、ついこの間です。毎週金曜日に首相官邸前で行われている反原発の抗議集会に参加する人が増えだしたのは、6月中旬からです。私は家でユーストリームの中継を見ていました。国会では消費税率の引き上げを巡って、民主党が割れるか否かで、小沢輿石会談の最中。25年近くも議論している消費税ではなく、震災と現在進行中の原発事故についてもっと真剣に緊張感を持った議論をしてほしいという民意が、政治家にプレッシャーをかけ始めたのだと、そう感じた瞬間でした。
街頭での抗議活動やデモは政治的プレッシャーであって、決して何かを決定するためのシュートではない。プレッシャーはひじょうに重要な手段であり、シュートではないから意味がないということにはならないと。そんなことを考えるうちに、中学校か高校で教えられたプレッシャー・グループという名称を思い出したのでした。私は現在、日本の政治家には強いプレッシャーをかける必要を感じています。そんな話を知人にすると「プレッシャーをかけたあとはどうなるんだ?」と尋ねられました。
考えてみると中田英寿の時代には良いパスを出しても球を受ける選手がいなかったのが日本のサッカーのナショナルチームです。それが今や、なでしこジャパンはオリンピックでの金メダルを期待されながら、白星発進、男子のナショナルチームはスペインを破って欧州を驚かせるまでに至っています。政治だって、大勢の人が集まって良いプレッシャーをかければ、きわめて有能なカリスマ性のある政治家の登場を呼び出すことができないとは限らないでしょう(←まだ弱気だけど)。
1140 20120724 琉球大学へ行く 
今年は琉球大学の国際沖縄文化研究所の客員研究員という身分をいただいています。琉球大学での研究テーマは「島尾敏雄の『南島研究』の研究」というものです。
島尾敏雄は「死の棘」の作者として有名です。「死の棘」は妻と夫の諍いを描いた小説で、小栗康平によって映画化もされています。この作品のテーマは一口で言えば、時間が過ぎて行かずに反復を繰り返すというものだと言えるでしょう。反復する時間というテーマは1945年以降の日本文学では様々な描き方をされています。また1990年代以降は「うつ状態」の心理と言うスタイルとなって現代文学のテーマとされている場合もあります。
私が大学へ入った1978年という年は戦後33年。年忌供養で言えば1945年から34回忌ということになります。一般には34回忌というのはあまりやりませんから、翌年の1979年の35回忌というのがちょうど一区切りの年忌として法事が行われることが多いようです。35回忌の次は何回忌になるのか、たまに耳にするのは50回忌とか100回忌ですが、供養される人と供養する人が共に生きた時間を持っているのは、35回忌くらいまででしょう。子どもの頃、私の家に来ていた呉服屋さんは「親の35回忌をさせるなんて、親不幸ならぬ子不幸だ」と笑ってました。
私の場合はあと6年もすると父の50回忌の年と母の35回忌の年が同時に巡ってきます。さすがに50回忌になるとかなり遠い昔です。
話が脱線しましたが、私が大学へ入った翌年には太平洋戦争終結から35回忌の年忌の年が巡ってきたのです。国民国家の戦争という体験が、国民共通の「死」の体験であったとすれば、私が大学生の頃には、その体験はそろそろ清算をされる時期に入っていたのだと言えるでしょう。
現代文学のテーマに「時間の反復」というものがあることを知ったのも大学生になった頃のことでした。その「時間の反復」を切実にかつリアルに描いた小説が島尾敏雄の「死の棘」でしょう。「死の棘」に対して「南島研究」は前に開ける時間を、文学のリアルな言葉で捉えようとした作品群だと言えるでしょう。その多くはエッセイという形をとっています。また「南島研究」で島尾敏雄は「ヤポネシア」という概念を見つけ出しています。日本列島から琉球弧、台湾、フィリピン、あるいは北海道からアリューシャン列島へと連なる島々として日本を見るという視点の発見に喜び、また、その視点が発展することをせつに願っています。
島尾敏雄が海軍の魚雷艇特攻隊長として終戦を迎えたのは奄美大島諸島の加計呂麻島でした。また、終戦後移り住んだのは奄美大島の名瀬市でした。ですから「南島研究」をするなら奄美大島に滞在するのが、直接的には正解なのかもしれません。琉球大学を選んだのは、沖縄タイムス社の新沖縄文学賞の選考委員としているご縁から琉球大学の山里勝巳先生を知っていたこともあります。ただ、そういう便宜的な側面ばかりではなく、1945年以降の時間が刻銘な刻印を残している場所としての沖縄ということも意識していました。
琉球大学はアメリカ民政府によって1950年に設立された大学です。朝鮮戦争はこの年の6月に始まっています。1952年には奄美大島に琉球大学大島分校が設置され1953年12月に奄美大島の本土復帰のために分校が廃止されました。1966年に琉球政府の府立大学となり、1972年沖縄の本土復帰により国立大学となりました。校舎は首里城跡にありましたが、1977年から84年にかけて現在の千原キャンパス、上原キャンパスに移転したそうです。
私は1981年の初秋に初めて沖縄へ出掛けていて、ちらりと首里に残っていた琉球大学の校舎を見ています。現在のキャンパスは西原町、中城村、宜野湾市にまわがる広大なもので、西に東シナ海、東に太平洋を眺めることができます。今年は沖縄本土復帰40年の年に当たります。
島尾敏雄の「南島研究」は「死の棘」からの脱出の文学的記録でもあるのですが、もうそんなことに興味を持つ人はそんなにいないだろうと、歎息しつつ、このテーマを選んだのは、1945年から35年目あたりから、時間が前へ進まないという現象と付き合わざるえなかったという感慨を持ったからでした。現代文学にかかわることは、すなわち時の反復につかまることだったという感慨が私にはあります。1945年からの30年は、鋭敏な感受性を持った人によって「死の棘」は意識されていましたが、1980年からの30年は、もっと一般的に広く薄く、時間が反復されるという現象に包まれていたようです。経済状況は90年以降を「失われた10年」あるいは「失われた20年」と呼ばれますが、その前の85年から90年へのバブル期も含めて「時間の反復」はすでに多くの人の感情生活を浸食していたのだと、感じています。だから多くの人に興味を持ってもらえなくっても、島尾敏雄が「南島研究」で前進する時間をどう捉えていたかは、私にはひどく興味深いテーマです。
丘の上の琉球大学で、西に東シナ海、東に太平洋を眺めていると、それだけで島尾さんのエッセイを読む心地がいきいきとしてきます。
1139 20120721 「ネットと愛国」 大阪で日の丸の旗を掲げたデモを初めてみたのは09年3月でした。外国人参政権に反対という趣旨でしたが、なぜかデモ隊のところどころで、掴み合いや殴り合いがあり、警備の警官が間に割って入ってました。
私が見ていたのは、日航ホテルのロビー喫茶室から。デモ隊に背を向ける形で携帯のカメラで写真を撮影している人が大勢いたので、不思議に思って、喫茶室の中を見回してみると、すぐ近くの席にピンクのスーツを着たアントニオ猪木氏が誰かと談笑していました。
この日の丸のデモ隊が「在日特権をゆるさない市民の会」だと知ったのは昨年のことでした。通称「在特会」。
2012年6月15日(金曜日)首相官邸前の「反原発抗議集会」の様子をユーストリームで見ていたら、在特会が「原発賛成」を「反原発抗議集会」を開いているすぐそばで叫んでいました。至近距離です。こんな至近距離で、まったく意見が異なる集団が対峙したら、どうなるのだろうと息を飲んでしまいました。が、この時は「反原発抗議集会」に主催者発表で4万5千人の人が訪れ、日が暮れる頃には「原発賛成」の主張をする人の姿はなくなっていました。
ネット右翼と呼ばれる人々はいったい幾つぐらいの年齢なのだろうと思っていたのですが、日の丸を持ったデモ隊の人の姿を見ると30代とおぼしき人が多いなという印象です。けっこう女性もいます、時には子どもを連れた女性の姿も見かけます。
安田浩一「ネットと愛国」は副題が「在特会の闇を追いかけて」で、在特会を中心にネット右翼と呼ばれる人々の姿をたんねんに描いています。これを丹念に取材するのはさぞ骨の折れる仕事だっただろうと想像するにあまりありました。いや、正直、ネット右翼と呼ばれる人たちの言動に、半分切れかけて「このやろう、日の丸を汚すな」と怒り心頭になることもしばしばあり、それはこの本の著者も同じような心境になってことを本文中で明かしています。また、従来の右翼、新右翼と見られていた人々も在特会に「怒り」を現していることもレポートされていました。
自分と同じ意見の人の声には耳を傾け安いのですが、意見が違うというだけではなく、なんと言ったらいいのか「呆れてしまう」とか「論外だ」と感じる相手に対して辛抱強く取材をするのは、いかばかりの力がいるものかと「ネットと愛国」を読んでいて、しばしば歎息しました。そして、著者は特在会登場の背景に「怨嗟の声」を聴くまでに至っています。さて、この「怨嗟の声」はいったい誰に向けられたものなのでしょう。特在会の攻撃対象は在日韓国人、朝鮮人ですが、どうも「ネットと愛国」を読んでいると、在日韓国人という存在は仮想の敵にしか思えないのです。仮想の敵の向こうに怨嗟の対象は存在していると、そう考えられました。それは著者の次の仕事のテーマになるのかもしれません。
ソウルで久しぶりに星野智幸さんとお昼ごはんを食べて日本へ帰国したら「ネットと愛国」が講談社ノンフィクション賞を受賞していました。納得できる選考です。
星野さんとはスターのおっかけが、語学習得のモチベーションになったり、多様な文化理解を生んだりするという話題を愉快に喋りました。いや、星野さんの「俺俺」が亀梨和也主演で映画化されるので、ソウルの亀梨和也ファンにとっては、大画面が全部亀梨和也で埋まるという快挙な映画になるという話で、亀梨和也ファンが翻訳された「俺俺」を買ってくれ、さらには星野さんにサインを求めるという話が発展したのでした。「僕は亀梨和也じゃないんだけどね。でも俺俺だからいいか」と星野さんは苦笑。そこで星野智幸さんの名言が飛び出しました。
「ネトウヨやっているよりもアイドルのおっかけやっているほうが人生豊かになるよ」
ほんとに、そのとおり、げにも、と手を打ちたくなる一言でした。ちょっと爽快。でもそのあとで「人生を豊かにする術を失った人々」というテーマが頭に浮かびました。短絡的に言ってしまうと「ネットと愛国」の著者が聞き取った怨嗟の声は「精神の貧しさを生んだ人々」に向けられているような気がしたのでした。
1138 20120703 ブラックアンアン 北原みのり「毒婦 木嶋佳苗100日裁判傍聴記」を読みました。この事件が発覚したばかりの頃、複数の男性を殺害したという被告の写真が公開され、美人というよりも、まるぽちゃ顔で、かわいいという類いの女性だったのが意外でした。ブスとはっきり言う人もいました。うちの娘が「すごい美人じゃなかったから、みんな、信用したのね」と言った時には、ああ、なるほどと納得したものです。
それ以上の興味を持つこともなく数か月が過ぎました。
ある日、明治大学時代のゼミの後輩と言う方からご連絡をいただきました。ゼミの後輩と言っても、社会人入学をされた方で、年次こそ後輩になりますが、年齢的には私と同世代です。で、木嶋佳苗事件が発覚するきっかけになった埼玉事件の被害者が、これまたゼミの後輩であることをその方からお知らせいただきました。私が卒業してからずっとあとの卒業生ですから、面識はありません。ただ、テレビや新聞の中の事件が、身近に迫ってきた感じはありました。「埼玉事件」の被害者が大学のゼミの後輩で、神田の人。車の中で遺体となって見つかったのは埼玉県富士見市。加害者として逮捕された女性は、板橋のマンションに住み、のちに池袋のマンションに転居していると概況を知れば、ほとんど私の生活圏の中で起きた事件でした。
それで北原みのり「毒婦」を読んでみたのです。この事件は本の表題にもあるとおり100日間の裁判員裁判であり、裁判員制度としてこれは一般の人から選ばれた裁判員の負担に耐えるかということが問題提起された裁判でもありました。状況証拠はあるのに、決定的証拠はないために、複数の事件を一括審理する形になったことが裁判員裁判であるにもかかわらず100日の長い審理になった理由のひとつです。被告は起訴された3件の殺人事件については無罪を主張。状況証拠だけで「死刑」判決が出たことについて、これもまた司法記者にとっては特筆する必要がある事件になりました。
捜査段階では複数の結婚詐欺を働き、詐欺の被害者を練炭自殺に見せかけて殺した女が「ブス」だったという点が強調され、マスコミを賑わせました。この点については、すごい美人だったら、それはそれで大騒ぎになっていただろうと思います。「ブス」という単語が飛び交うマスコミ報道でしたが、娘が言ったとおり「平凡な顔立ち」というところが、被害者にとっては安心を呼ぶところであったのだろうと私は考えてました。裁判の傍聴をした著者によると声に上品な魅力があり、仕草が美しいとありましたから、あるいは、お付き合いの相手としては「親しみやすく」同時に「憧れを誘う」「夢見心地にさせてくれる」女(ひと)であっただろうことは想像できます。
裁判の過程では、司法上の問題提起的な内容が含まれていたために、被害者の人物そのものよりも裁判制度、司法運用がクローズアップされました。
私のゼミの後輩だという方がお話になっていたのは「彼はなぜ殺されなければならなかったのだろう」ということです。裁判傍聴記を読めばある程度の推察はできるだろうと、読み始めたのですが、読めば読むほどわからなくなることが多くなるという経験をしました。北原みのりの観察眼はいきいきとしたもので「わからなさ」を正確に表現して行きます。わからなくなるのは著者の書き方がまずいという意味ではなく、対象の木嶋佳苗そものもが「不可解」な存在なのです。
予想したとおり女性誌に描かれているような生活を夢見るタイプ。しかも売春には後ろめたさを感じていないどころか独特の価値観を持っている。いや、売春という言葉さえ適当ではないくらいセックスに自信を持ち、特別な技能として捉えていること。そのあたりを読んでいると雑誌「アンアン」のパロディとして「ブラックアンアン」というのがあったら、こんな感じなんだろうなあと感嘆してしまいました。で、そのあたりから「なんで殺しちゃったんだろう?」と、殺人の動機がわからなくなったのです。男性を殺さなかくっても「恋の夢を見させる特別な存在」の女性として成功できたような気がしてきました。ただの夢見る夢子さんが、夢を見ることができなくなって追いつめられたということだろうという私の予想が裏切られました。
動機が解らないというのは著者の北原みのりも同様の指摘をしています。
とくに事件発覚の発端になった埼玉事件の被害者は知りあってからほんの数日で死体となって車の中から発見されています。私のゼミの後輩である人物です。検察側主張のように「借金の返済を迫れて」という動機が発生する暇もない早さです。立件された三件の事件の中でももっとも動機については不可解な事件です。
衝動的な殺人とか、理由なき殺人というものとも違うように感じられます。一件ごとに、なにかひどく納得の行く動機がありそうに思えるのです。少なくとも女性には「ああ、そうか」と思い当たるふしがありそうな何かがあるような気がしてなりません。ただ、被告は「無罪」を主張しているわけで、「殺人はなかった」のですから、被告の口から動機が語られるということはありえないことになります。
大きくて暗い洞(うろ)のようなものを木嶋佳苗に著者の北原みのりは感じています。たしかに心に「本物の空洞」を持った人間が今の世には存在しているのかもsれません。私のところのお話に来て下さったゼミの後輩にあたる方も、親しかったお友達が事件に巻き込まれたショックとともに、この「本物の空洞」に触れてしまった驚きをお話しになりたかったのかなと想像しました。
1137 20120614 「方の会」のこと。 「虚実の皮膜」という文芸の批評用語を最近はめっきり聞かなくなりました。リアリズムの退潮という現象に伴って、現実と虚構の狭間を扱うということも少なくなったからでしょうか。小説よりも演劇のほうが、虚構の要素は高いのに、実際にそこに演者がいて、観客がいるという現実を伴っています。いや、難しいことを言いだそうとしたのではなくって、京都の南座、浅草の平成中村座、それから銀座のみゆき館劇場と立て続けにお芝居を見て、そう言えば「虚実の皮膜」という批評用語が飛び交った頃もあったのを思い出したのです。
銀座みゆき館劇場の方の会の御案内は前々からいただいていたのですが、なにしろ公明新聞で日刊の連載を持っているので、予定を立てるという心境になれずに、予約をとるのをのびのびにしていたら、初日の幕が開いてしまいました。それで劇場に電話をして、無理を言って席をとっていただきました。無理を言いましてまことに申し訳ありませんでした。でも、今年はサバティカルで学校がないので「ここが空いています」という日に飛び出して行けます。学校がないのって、ほんとにいいなあでした。
「学校時代の同級生で女優さんになった人がいる」と母から市川夏江さんのことを教えてもらったのは、まだ高校生の頃でした。母は横浜の関東学院の卒業生で、学校の話を聞くと、田舎の高校生でいるのがつまらなく思えたものでした。都会の高校生と言うのは、田舎の高校生よりもずっと大人だと、母も言っていました。私は高校進学率100%に近い時代の高校生ですが、母の時代の高校進学率は今の大学進学率よりもずっと低かったのですので、そのあたりの事情も関係している事柄ですが。ともかく高校を卒業する頃には、それぞれが生き方を選んでいるというのが母の時代であったと言えるでしょう。いつの頃からか、母の縁で「方の会」主催の市川夏江さんからお芝居の案内をいただくようになりました。
「泣いて笑った私の人生〜清川虹子のこと〜」は、冒頭に書いた「虚実の皮膜」へ観客を誘い込むお芝居でした。清川虹子というと、私は声に特徴のある女優さんとして記憶しています。低い声で、その低い響きのなかに縮緬皺が寄ったような感じのする声でした。清川虹子を演じた矢野康子の声は、生前の清川虹子の声とは質を異にする声ですが、お芝居を見ているうちに清川虹子の声が耳の底にありありと蘇るので、驚きました。
もっとも私が知っている清川虹子は晩年で、毎月、2本も3本も映画を撮影していたという時代ではありません。昭和10年にPCLと専属契約したという清川虹子の経歴を紹介する市川房江の台詞に「私が生まれた年であります」と一言付け加えがありましたが、私の母は市川さんと同級生なのですから、私の母の生まれた年でもあります。昭和16年から昭和22年までは、大沢清治(PCLが東宝となったあとの東宝の御重役だったらしい)と家庭を持ち映画に出演しなかった清川虹子は、昭和22年の大沢清治が亡くなったあと再び映画女優に復帰します。
「あんた、映画に出たらいいと言ったけど、一年に23本も出演しろとは言わなかったわ」
と言う山本五十鈴(白石奈緒美)の感嘆の声は、とうていお芝居の中の台詞とは思えず、なんだか清川虹子邸に居合わせていたような気がしました。虚実の皮膜が破れ、現在の時間の流れの中に溶け出す瞬間でした。
それにしても市川夏江さんが清川虹子さんと親しかったというのは意外でした。お芝居の中でに喜劇役者の弟子になったのに、なんで新劇の役者の指導を受けなくっちゃならないだとぼやく若い人が出てきましたが、映画と芝居というだけでも別世界のような気がするのに、新劇(シリアス)と喜劇(コメディ)はひどく対立していたような気がします。純文学と娯楽小説という対立の激しい世界に私がいたせいで、そう感じるのでしょうか。
今現在が新しいコンフュージョンの時期に入っていることを、この演目を通して、私が過去と重ねあわせながら徐々に感じとりました。それにしても、市川夏江さんの役柄は「市川夏江」その人であります。小説家は自分自身のことを一人称で書くこともありますし、エッセイというスタイルで「自分のこと」を書くこともありますが、この演目では市川さんはさしずめ「エッセイ的な市川夏江」を演じているのです。昼の部、夜の部と毎日二回公演するのはどんな気持ちなのだろうと、しきりにそれが気になりました。というのも、そこに現在の時間と過去の時間が交錯しながら、美しいハーモニーを奏でる瞬間を何度も見たからです。人間は単調に刻まれる現在と言う瞬間の積み重ねを生きているわけではなく、過去から現在へかけての複雑で重層的な時間の和音の中に生きているのだということを、濃縮して見せてもらうようなお芝居でした。
閉演後、劇場の階段で市川夏江さんに御挨拶しました。「米元綾子の娘です」と自然に母の学校時代の名前が出ました。そう、「方の会」のお芝居の時は母の変り、代参をしているような気が少ししています。
1136 20120610 平成中村座 平成中村座の最初の公演は2000年11月でした。あの頃はまだちょっと暇もあって、富岡幸一郎さんたちを誘って出かけました。帰りは駒形どぜうに寄ったのを覚えています。11月でもう少し寒くなっていたので、炭火の匂いを嗅ぎたかったのです。お芝居のほうは、なんだか非常ベルが鳴り響くという騒ぎがあって、消防車が来たりとか、えらい騒ぎになったりと、そのあたりがおもしろい興業でした。出し物は「法界坊」。破天荒な芝居をこれまたもの慣れない様子で、なんだか、ばたばたさえひどくおもしろく感じました。駒形のどぜうのあとは、浅草の裏町でちょっと一杯。飲み屋のおばさんが「あたしはあの法界坊って芝居が嫌いでね」と言いだしたのも、おもしろい思い出のひとつになってます。
翌年の「義経千本桜」の時は、やはり富岡幸一郎さんたちと見物にでかけて、帰りは米久へ。で、牛鍋を突っついていたら、なんだかヘン。米久の太鼓がお客さんの到来を告げて「どん」となるたびに頭がずきんと痛むという具合。こりゃ、いけないと皆さんより一足早く失礼して、タクシーの座席に転げ込みました。自宅に到着する頃には、えらい熱が出て、そのまま3日ばかり寝込んでしまいました。2003年の浅草寺本堂裏での「弁天娘」は一人で見に行き、ニューヨークのリンカーンセンター公演「夏祭浪速鑑」は見物に行くという編集者の話をうらやましく聞きながら、テレビでみました。これが2004年。そこから先は、ばたばたして、勘九郎が勘三郎を襲名したという歌舞伎座の看板を眺めるだけで、見物にもゆけず、なにがなんだか解らないうちに救急車で運ばれ、みなさんからは「あら、なんでもないじゃない」と言われはしたものの、なんだかぼけぼけ状態のまま2011年を迎え、ちょっと落ち着いたかなと一息ついたら、大地震でした。つまり、芝居見物どころではなかったのです。
その間に勘九郎は勘三郎になり、平成中村座は初演の頃を思い出すと信じられないくらい立派になり、隅田川の向こうにはスカイツリーが建ってしまいましたとさ、となんだか昔話の口調になりそうなかわりぶり。京都の南座でお芝居を見たら、どうしても平成中村座へ出掛けたくなりました。切符はないだろうなと諦めるつもりでネットで探したところ、あきがあるではないですか! スカイツリーの開業初日に一枚だけ席があいていました。やった! とばかり、勘太郎から勘九郎になったばかりのすてきな三番叟を見てきました。ちょっと痩せた勘三郎さんの口上を聞いていたら、ああ、12年ってすごい歳月だなあと、なんだか奇妙な気持ちになりました。
1135 20120609 有吉佐和子のお芝居 有吉佐和子さんの御嬢さんの有吉玉青さんとお話していたら、有吉佐和子さんは53歳で亡くなられたとのこと。意外でした。あの夥しい作品をそのお年までに書かれたのだと考えるとなおさら驚きでした。
「和宮様御留」は有吉佐和子が「群像」に連載された作品です。私の最初の本が出た頃、「和宮様御留」はベストセラーになっていました。護国寺の講談社の前のウィンドーに私の最初の本と「和宮様御留」が並んでおいてありました。「和宮様御留」は舞台でも上演されていました。母と一緒に見に行った最初のお芝居は「和宮様御留」でした。園佳也子が演じた侍女が記憶に鮮明に残っています。日生劇場だったように覚えていますが、このごろ、自分の記憶に自信がありません。和宮様役は竹下景子。今でも再演されることが多い芝居です。時々、テレビドラマにもなっています。
「ふるあめりかに袖はぬらさじ」は「亀遊の死」という短編小説を有吉佐和子自身が戯曲化して、文学座の杉村春子主演で昭和47年に初演された芝居です。私はこの芝居を以前にも見たことがあって、なんとなく亀遊という遊女の自死が、世間の噂話や人の思惑で、現実の亀遊の思いや気持ちとはかけ離れて行ってしまう様子を描いたものだと思っていました。最初の一幕目で亀遊は死んでしまい、亀遊と親しかった芸者のお園さんが亀遊のことを語って行くという筋です。主役はもちろんお園さん。
今度、京都の南座で坂東玉三郎のお園を見たのですが、「あれ」という感じがしました。自分の「あれ」と首を傾げた気持ちをうまく言葉にできなかったのですが、お園さんの「語りの芸」ができるプロセスを見せてもらったような気がしたのでした。それに気がついたのは芝居を見てから、すこしあとですが。
芸者のお園さんが亀遊の自死をタネにした「語りの芸」ができるプロセスが描かれる一方で、お園さんの心の中には、生きていた亀遊の姿がいきいきと残っているというふたつの心情を、手にとるように見せてもらった気がしました。事実と虚構それに現実と美化。そういうものの絡み合いがおもしろく、それを一番、感じさせたのは、お園さんが三味線を弾いて小唄で亀遊の死を語り終える場面でした。亀遊の死は小唄となり、みごとに虚構として出来上がっているはずなのに、小唄の御終いで三味線の音を、玉三郎はわざと外すのです。最後まで見事に三味線を弾けば、劇場の玉三郎ファンのお客さんは、それが芝居であることを忘れて、玉三郎の三味線に盛大な拍手を送るかもしれない場面で、三味線の音が外れ、芝居の中で亀遊は虚構の中の人物ではなく、お園さんが親しかった思い出の中の生身の人へ戻るという「捻じれ」を興味深く見ました。
芸は虚構で支えられているのだということを、はっきりと、しかもおもしろく浮かびあがらせながら、同時に芸の外側に漏れる心の秘密や心の宝物をも見せるというお芝居なんだなと、そう思う一方で、杉村春子だったらまたちがう印象になっただろうとも思うのでした。プログラムの上演記録を見ていたら、藤山直美主演という記録もありました。藤山直美だったら、また、別のお園さんが見られそうです。亀遊さんに憧れる友達としてのお園さんとか、そんな感じになるのでしょうか? プログラムを見ながらいろいろ想像するのも面白いです。
1134 20120601 お芝居を見に行く。 5月はぼんやりしているうちに過ぎてしまいました。なんだか気が抜けたみたいです。しわしわの風船。もしくは昨晩、コップについだサイダー。なぜか、あっちこっちで怒っている人を見かけました。ぷんぷんって。
京都の南座で坂東玉三郎の「ふるあめりかに袖はぬらさじ」を見ました。このお芝居、以前から見たかったお芝居です。で、それを見たら、今度は猛烈に浅草の平成中村座が見たくなりました。勘九郎さんが勘三郎さんになってから、まだ一度も見に行ってないなあと、残念に思っているうちに歌舞伎座のさようなら公演も終り、しばらくお芝居から足が遠ざかっていました。
浅草の平成中村座の7か月のロングラン公演も5月で終り。勘太郎さんが勘九郎さんになって、いよいよ、新時代だなあって、平成中村座のHPを見たら、なんと1席あきがあるではありませんか。ちょうど東京スカイツリー開業の日。出かけました。雨がざんざん降っていて、スカイツリーは半分は雲の中でした。お芝居の最期で舞台後方が開き、隅田川の景色が見えるという趣向。雲に隠れたスカイツリーが偉容を誇っていました。
お芝居の楽しみ。まず演目を調べたり、出演役者を調べたりなど切符を買う前が楽しい。それで切符を買ってわくわく。切符が好きで、半券をずっと持っています。それからすじがきやプログラムを劇場で買って、芝居を観終わったあと、こんどはとくとすじがきやプログラムを読むのが楽しい。そうか、そうだったのねえと頷きながら、あれを思い出し、これを思い出しするのが、なんとも言えない楽しみです。
そういうわけで5月はお芝居へ行く楽しみを思いだしてしまいました。名高い芝居を片っ端から見たいものだと言う気になっています。
1133 20120428 日仏学院の枝垂れ桜 日仏学院のレストラン入り口の枝垂れ桜です。しばらく日仏学院のレストランに行ってなかったのですが、予約がとれるようになっていました。桜の季節ももうおしまいですが、叔母と従妹それに叔母のおともだちと4人で御昼を食べました。
母の形見の着物を着てきた叔母です。小さな扇面がいっぱいにちらしてある柄で、叔母が縫ったものです。母が亡くなった後、叔母に形見としてもらってもらったのですが、ちゃんと着てもらっていたので、うれしくなりました。この頃は、形見分けと言っても、ただかたちだけで、実際に使ってもらえるということは少なくなりましたから。扇面の柄がいっぱいに散らしてある着物はまだ40代だった母には、地味だったようです。いや、本人が気に入って作ったにもかかわらず、高校の同窓会に着ていったら地味に見えたというので、たいそう不機嫌になりました。母が着たのはそれ一度きりでした。
なんて地味な着物を作っちゃったのだろうと、おかんむりなところへ持ってきて、松の柄とおもっていたものが実は扇面と解ってなおさら不機嫌に。扇面の柄は嫌いだったのです。なんで、そんな勘違いをしたかと言えば扇面の柄がほんとに細かくって、ちょっと見には松に見えるのです。だから、母は松林のイメージで、その着物の柄を見ていたのです。広々とした松林を身にまとうという感じで気に入っていたのに、いざ、着てみたら想像よりもずっと地味で、腹を立てながらよくよく見てみたら松じゃなくって扇面だったというおまけまでついて、この着物は箪笥の中で眠ることになりました。
反物で想像したよりも作ってみたら地味だったということが着物にはよくあります。ひとつは洋服の感覚が身についてしまっているので、それが反映されてしまうためということがあります。それから、反物を選ぶときには、近くから見て選ぶのですが、実際に着るときには、かなり遠くから眺めることになります。地味なものを選んでしまう理由の二つ目です。
母を不機嫌にさせた着物ですが、60半ばの叔母にはよく似合ってました。それに、その着物はモノトーンではありますが、扇面の細かい柄が全体に大きなうねりを作っているので、母が言うほどには地味ではありません。それや、これや、おもしろくお話しながら、日仏学院のランチ(フレンチのフルコース)を食べました。鯛のポワレを選んだのですが、鴨の赤ワインソースのほうがおいしそうでした。あと、従妹が食べた豚肉のコンフィがおいしそうだったので、家にあった豚肉の塩漬けをコンフィにしてみました。これがすこぶる美味でした。 1133.jpg
1132 20120426 赤いさくら白いさくら さくらはぱっと咲いてぱっと散るとよく言われますが、花の盛りの期間としてはそんなに短いわけではないと思います。2週間くらいのうちに、蕾から花盛りを迎えて、だんだんに散って行く花はほかにもいろいろあります。でも、桜は、枝いっぱいに咲いた花に見とれているうちに、周囲の木々の芽がみどりに葉にかわり、はっと気づくと若葉が青葉に変わろうとしているという、背景とのコントラストが見事なので、より一層、ぱっと咲いて、ぱっと散るという印象が強くなるのでしょう。
白い里桜と赤い染井吉野が並んで咲いているのが、家から見えましたが、もう、この桜も若葉青葉の中に沈んで、遠目には、どれが桜の木なのか解らなくなりかけています。今は白い里桜のとなりで八重桜が、ぼってりと咲いています。八重桜は桜のしんがりですね。 1132.jpg
1131 20120415 散る桜 伊藤比呂美様
御父上様ご逝去とのこと。御悔やみ申し上げます。
中沢けい
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1130 20120409 さくら 今年の桜です。4月6日に市ヶ谷の外濠土手でお花見をしました。この時はまだ寒くって、みんな、地面に座っているとだんだん冷えてきました。今年のお花見は、ちょっと飲みすぎる人が多いらしく、救急搬送された人の数は先昨年にくらべて10倍とか。お花見自粛だった昨年ですが、2010年に比べても5倍とか8倍とか、そういう数字がニュースに出ていました。
昨年の春が暗くってさびしかったことを話すと、よく覚えている人、すっかり忘れているのに驚く人、ああ、そうだったとすぐに思い出してくれる人と、いろいろです。
ところで、乱暴な植木屋さんの仕事にまた悩まされています。こんな仕事は植木屋さんの仕事と呼ぶべきではないでしょう。春休みの間に法政大学の校舎のケヤキと樅の木の剪定が行われました。いや、これも剪定などと呼ぶべきではないでしょう。だって、ケヤキも樅の木も電動のこぎりで半分にちょん切られたのです。ケヤキは大空に伸びた樹木の姿を失いました。ただの丸太棒です。樅の木は、5、6年前に植樹したものですで、クリスマスの頃にはツリーとして電飾で飾られてました。でも半分にちょん切られました。こんな仕事にお金を払うべきではないと私は思います。こんな仕事には、損害賠償を求めるべきです。ケヤキは枯れてしまう可能性が大きいです。樅の木が姿が良くて、幾らと値段が付くのですから、半分にちょん切られたのではに二束三文になってしまいます。しかしお金の問題ではありません。
たまたま用事があって小池昌代さんと学内を歩いている時、ひどい剪定の木の話になりました。小池さんは「学校を愛していないのかしら」と嘆息。そうかもしれません。学校だけでなく、樹木が天に向かって伸びて行く、その健やかな時間の流れに、なにか憎しみを持ってはいないかしらと疑心暗鬼になっています。樹木の姿が象徴しているものへの敵意を感じてしまいます。
電動のこぎりで、根の生えた丸太を作っている人はそんなことを考えてはいないかもしれないのですが、考えてはいなくっても、感じてはいなくっても、感覚の中に時間の流れへの敵意が潜んでいるということは、充分にあり得ることでしょう。
それにしてもこんなひどい仕事にお金を払ってはいけません。むしろ損害賠償を求めるべきです。雨漏りの修理と称して大工さんがやってきて、屋根をべりべりと壊し、屋根がなくなりましたから、雨漏りはなくなりましたと言っても、お金を払う人のいないのと同じです。
さくらの季節にちょっと憂鬱でした。そのさくらも、13日の夜からの雨で、もうおしまいですね。 1130.jpg
1129 20120409 天上の時間 3月の末、金星、月、木星が夕方の西の空に並びました。びっくりするほどの明るさで、ベランダへ洗濯物を取り込みにいったついでに撮影してみました。写真の腕はないので、遠い空に輝く星が写るとは思わなかったのですが、改めてデジタルカメラの性能の良さに簡単しました。
震災の時、佐伯一麦さんは月を眺めていたというお話を聞きました。2012年3月19日は月が地球に最も接近するスーパームーンという現象のあった日です。11日の震災と、津波、それに続く原発事故で、緊張していたツイッターのタイムラインには、大きな月の話題が並んでいました。19日は東京消防庁が原発に放水を行った日でもあって、深夜に記者会見をありました。実際はこの時、危機は去ったわけではなく、依然としてかなり危機的な状況が続いていたのですが、11日以来の緊張がやや緩んでいた夜でした。ツイッターのタイムラインを見ていると、じつに多くの人が月を見上げて言葉にならない感慨にふけっている様子でした。
閖上を案内してくださった方から聞いた話です。3月11日の午後は曇っていたのですが、夜半になって空が晴れ渡ってきたそうです。津波で、中学校へ逃げ込み、その晩はそのまま中学校で過ごしたとのこと。学校の屋上へ上がってみると、晴れ渡った夜空に満天の星が輝いていたとお話になってました。地上はと言えば、繰り返し押し寄せた津波が、そのまま水浸しの状態であたり一面に広がり、その水面に星空が映し出されていたのを見たそうです。頭上も星空、足元も星空。なんだか宙に浮いているような感じがしたと。
そして、暗闇の中で火の手が上がるのを見たそうです。民家の屋根の上に避難していた人が、寒さのあまりたき火をした火だとあとで解ったとおっしゃっていました。そのたき火をした人と、その後、避難所で出会ったとも。そのお話を聞いてから、かれこれ3週間ほどが過ぎているわけですが、ずっと天上の時間というものを考えています。人間が住んでいる下界の時間に対して天上の時間というものがあるという考え方はずいぶん古くからあるようです。永遠とか無限とか、人間の人生の感覚では測りがたい時間を「天上の時間」として捉える感じ方がありますが、星空の光とたき火の火は、その天上の時間と下界の時間が暗闇の中で出会った瞬間のような印象を持ってお話を伺いました。
今日明日の食べ物の心配から、日常生活を取り戻すための手立てに必死な時に、天上の時間などという抽象的な感慨を持ちだすのは、なんだか悪いことをしているような気がしないでもありません。それでも、言葉というものを扱う世界に住んでいると、ああ、天上の時間がこの下界に大きな裂け目となって現れる瞬間があるのだと、言葉にならない感覚が湧きあがってくるのは抑えがたいのでした。
津波をかぶった土地は、水を含んでしょっぱい湿地となっています。もともと、海岸付近のそのあたりは、塩気を含んだ湿地だったのでしょう。塩気を含んだ湿地にも昨年の春は、菜種の花が咲いていたようで、その写真を見せてもらいました。ほんの数分で、その土地のもともとの姿に帰ってしまった場所に、自然はもくもくと仕事をして、植物の芽を出させ花を咲かせるのでした。そこにまた、人の手が加わって、波に飲まれる前の肥沃な土地が生れてくるわけです。肥沃な土地は、人と自然の共同作業で生まれてくるわけでと、私はそのことに興味を持っています。それが、言葉が生れるプロセスに似ているようなイメージを持っています。言葉が物語に凝固するプロセスと繋がっているような予感を持っています。物語が歌になるために必要な時間がそこに眠ってはいないでしょうか。
テレビで仙台の映像を見てただただ驚いてしまったのですが、津波は千葉県の九十九里浜の海岸や、九十九里浜にそそぐ川も遡っていたことを最近、耳にしました。 1129.jpg
1128 20120326 日和山の桜 佐伯一麦さんが『それでも三月は、また』(講談社刊)というアンソロジーに「日和山」という短編を書いています。仙台へ行くまえに、その短編を送って下さいました。
「日和山」に別府さんとして登場するのが、今度、私を閖上に案内してくださった方です。佐伯さんは「記録」という意味合いを込めて短編を書いたとしゃってましたが、小説的なフィクションをかけたくないというお気持ちはわかる気がしました。なぜ、そう思うのかは、うまく説明できないのですが。今はまだフィクションをかけるには、時期尚早の感があります。
別府さんのおうちの前の通りを横切ると魚市場、市場の向こうは、赤貝の水揚げ日本一と誇った港でした。地震から津波まで「1時間ほど時間があったんです」とのこと。すでに停電していて、テレビなどは見ることができなかったそうです。で、隣のお寿司屋さんが「逃げましょう」と声をかけてくれなかったら、家にいて地震の後片付けをしていたに違いないとのことでした。一昨年のチリから来た津波の時は避難していても、ちっとも津波が来なかったので、今度もそうなるかもしれないと思っていたというお話でした。
2010年2月のチリから来た津波がなかったら、もう早めの避難で助かった人もいただろうと、青森でも1月にその感想を聞きました。
「日和山まで歩きましょう」
というのは佐伯さん。写真はその日和山です。空や海の様子を見て天候を占う日和見のための築山です。高さは海抜10メートルほどでしょうか。津波は日和山の松を超えるほどの高さだったと言います。三々五々、日和山を訪ねる人の姿が見えました。山頂に鎮魂のための木の柱が立っていました。小さなお社があったそうで、今は二柱の木でお社の神様を勧進してありました。
別府さんが地域の子どもたちと一緒に植えた桜の苗も日和山で雨に濡れてました。枯れるかと心配だったとおっしゃるのも道理で、以前は家々に囲まれていた日和山も写真のとおり、更地にぽつりと置かれた御饅頭のような状態になっています。太平洋の風と潮がそのまま吹きつける状態なので、苗木には過酷な環境です。枯れるかと心配だったという苗木は、なんとか今年の冬を越した様子でした。もう少し暖かくなれば緑の芽も伸びてくるでしょう。「20年くらいしたらこの木の下で、ここの子どもたちとお花見をしたいな」という別府さんでした。桜の木はだんだんに大きくなるというものでもなくって、最初の10年くらいは花をつけても頼りなげな若木ですが、17、8年が過ぎた頃に、うゎっと精力的になり、どうどうとした古木の様子に変わります。あれはなんだか不思議な眺めです。何度かそういう若木が古木の雰囲気を漂わせるところを、私は見たことがあります。そのことをお話しました。
時間の積もり方の不思議さを感じさせるのが桜の木です。今は苗木の桜の木の下でみなさんがお花見ができるようになる頃に、日和山から見る景色はどう変わっているのでしょうか。「閖上まで」の写真は日和山から仙台市内の若林区の方向を撮影した写真です。豊かな田畑も、家々もすっかり流され、今は潮を被った湿っぽい土地になっています。この潮を被った土地が、どう蘇るのかに私は興味を持っています。この場合、興味という言葉はあまりそぐわない言葉かもしれませんが、人間の計画する復興プランとはまた別の、自然との共同作業がどう進むのかを、見てみたいのです。
日和山に昭和8年の津波の碑があったことは佐伯一麦さんの「日和山」に記されています。その碑に刻まれた文言を短編「日和山」で読むうちに、私が小学校の頃に教えられた津波の特徴と言うのは、昭和8年の三陸大津波をもとにした知識だったのではないかと、そう疑うようになりました。昭和8年に名取川を遡った津波は、「幸い人畜の被害はなく」済んだのだそうです。平坦な海岸線では、津波は大きくならないと教えれたのは、その時の被害状況によるものだったかもしれないと考えました。震源との関係もあるかと思います。
正直に言って、自分がどうして、潮を被った田畑のその後にこんなに関心を持つのか自分でもわかりません。名取川を津波が遡る映像を見た時からずっと、あの人の手で豊かに耕された田畑は潮を被ってどうなってしまうのだろうと、気になっていたのです。 1128.jpg
1127 20120325 卒業生のみなさん 卒業おめでとうございます。卒業式があるということがこんなに楽しいものだとは知りませんでした。昨年の卒業生のみなさんも、1年遅れではありますが、卒業式の雰囲気を味わってもらえたことと思います。
この1年間はみなさん、それぞれにお考えになることがたくさんあった1年間だったことでしょう。私にとって意外だったのは、言葉を信じる、言葉の力を取り戻そうということを考えたり、感じたりする人が多かったことを発見したことでした。言葉は無力だと、感じてもよい大災害を前にして、多くの人が言葉の力を、改めて信じようとしたことは、意外でしたが、また当然でもあると思いました。
破壊は言葉を必要としません。しかし、何かを作ること、それは災害からの復興であるかもしれませんし、新しいエネルギー生産技術であるかもしれませんし、みなさんおひとりおひとりの生活を作ること、人生を築くこと、それらすべて、何かを作ることのために、人は言葉を必要とします。そのことを多くの人が、実感する場面が多い1年館だったのではないでしょうか。
大学生活の4年間、みなさんにはたくさんの本を読んでもらうようにしました。自分のためにだけ読んでいると思わないでください。みなさんが本を読むのはほかの人のためでもあるのです。言葉はほかの人と、話をする、話を聞くために存在しています。自己と他者を結びつけるため、自己と他者を切り離すため、言葉は存在しています。だからみなさんが多くの本を読んで、ただたんに知識や情報を得るのではなく、ものの感じ方を学んだこと、それぞれに新しいものの感じ方を作り出す方法について考えたことは、みなさんご自身のためだけではなく、この世界を豊かにする人間の共同作業に、みなさんも加わったことを意味しています。
どうぞみなさんで、豊かに暮らせる、豊かな精神を持った時代を作り上げてください。
さようなら。またお会いできる日を楽しみにしています。どうぞお元気で。朗らかにお過ごしください。
1126 20120321 閖上まで 海への緩やかな坂を車で下り、東仙台自動車道の土盛りを潜ると、津波が押し寄せた跡が残っていました。たいていの場合、写真で見るよりも実際の現場へ行ってみるとスケールが大きいことを実感するのですが、奇妙なことに想像していたよりも「小さい」と感じたのです。「狭い」ではなくって「小さい」です。この感じはなんだろう?とずっと考えていました。あ、あれに似ていると気づいたのは家に帰ってからでした。似ているというのは、引っ越しの時、荷物を運び出したあとの部屋を眺めると、せつなくなるほど部屋が「小さく」感じられることがあります。あれに似ていたのです。そこに広がっているはずの田畑もなければ、家々のない。ただ、潮を被った土地だけが広がっているという眺めでした。佐伯一麦さんが、この道路の土盛りの下あたりに多くの人のご遺体があったと教えてくれました。
東京の地下鉄池袋駅に毎日新聞がヘリコプターから撮影した津波の写真が掲示してあります。新聞協会賞をとった写真で、名取市を津波が一気に襲う瞬間を撮った写真です。津波の第一波は海岸の防風林だった松林を超える高さに達しています。この空撮の写真は連続して津波が押し寄せる様子を撮影しています。改めてその写真を見ると、NHKの中継カメラマンが「ああ」と小さく叫んだ沖合の第二波第三波を撮影した写真もありました。津波は引き波が怖いと聞いていましたが、どうも閖上に案内してくださった方のお話だと、引き波はとくに印象には残っていないようでした。そのお話と沖合の第二波第三波を撮影して写真を重ねて、考えてみると、波が引く間もなく、次々と巨大な波が押し寄せたのでしょう。
名取川に沿って緩やかな坂道を下ると、閖上のみなとにつきます。このあたりの海岸線はおだやかに褶曲した砂浜なので、川の河口に築港が築かれていました。閖上の集落はみなとの面した集落で、南側は築港、北側には水路があり、東川は名取川という三角形の島になっています。そのあたりの残っているのは、立ち並んでいた家のコンクリートの土台だけ。土台の間にコンクリート舗装の路地がありました。土台の間にむなしく残った路地のコンクリートの細い道のまがりくねり具合を見ると、なんとか辛うじて、そのあたりが、みなとを中心とした集落だったことが想像できました。コンクリートの土台のなかに、お花とお線香をお供えしているおうちが幾件もありました。お花もお線香も雨に打たれ、泥をかぶり土と一緒になりそうな色に染まっていました。あたりは泥に覆われているのです。
写真は日和山から仙台市若林区の方向を撮影したものです。全体を見ると「小さく」感じられるのに、道の曲り具合だけに目を凝らすと、そこに大勢の人が暮らしていた手がかりが広がってくるような感じがします。 1126.jpg
1125 20120320 名取まで 仙台駅で佐伯一麦さんと待ち合わせ。仙台空港行きの電車で名取まで。快速だったので、名取までは一駅でした。
昨年の震災直後、唐突に仙台沿岸部の復興計画が出てきたのを思い出しました。都市の再開発計画に似た感じの復興計画で、高層マンションを建てるというような内容が新聞の一面に載ってました(何新聞だったか忘れていますが)原発事故はまだ進行中で、予断を許さないところがあったのに、たいへん違和感がある復興計画でした。
名取まで電車で走ってみると、仙台から仙台空港までは、新興住宅地になっていました。もともと、都市計画が進んでいたところのようなだという感想を持ちました。
名取駅で、津波の被害を受けられたという佐伯さんのお知り合いと待ち合わせ。
「この道をまっすぐに行くと海岸に出ます」と車を走らせてもらいました。
「仙台東部道路の土盛りの下を潜ると景色が変わりますよ。道路の土盛りで津波が止まってのです」
道はゆっくりとした下り坂。
「3・11 キオクのキロク 市民が撮った3・11大災害 記憶の記録」(NPO法人20世紀アーカイブ仙台)という本を頂戴したのですが、その本に付属した地図を見ているうちに、名取川を遡った津波の映像に衝撃を受けたもうひとつの理由に気付きました。
仙台市宮城野区、若林区、それから名取川を渡って名取市の閖上から仙台空港のあるあたりは、太平洋の波が直接の打ち寄せるなだらかな海岸なのです。リアス式の複雑な海岸線ではありません。リアス式の複雑な海岸線ほど津波の被害を受けやすいというのは、私が小学生の頃に習った知識です。ところが今回の津波は、ゆるやかに褶曲を描く海岸を軒並み、津波が襲っているのでした。最初に見た映像の衝撃もさることながら、自分の驚きのひとつは、なだらかな海岸線を持つ土地がいきなり津波に這い上がられたことにあったのかと、気付きました。海岸へのゆるやかな坂道を下りてもらわなければ、その驚きを意識することはなかったかもしれません。
現在、YouTubeで3月11日のNHKの中継映像が幾つもアップされているのですが、その映像の最後は太平洋へカメラがパーンするところで、ほかの地域の映像に切り替えれていたと記憶しています。太平洋の沖合に第2波第3波が押し寄せているのを撮影したカメラマンが「ああ」と叫ぶ小さな声も入っていました。どういうわけか、現在、YouTubeにアップされている映像は、この海上の映像がありません。想像ですが、海上の映像はあまり衝撃力がないので、カットされているのかもしれません。私が自宅のテレビで見ていても、海は広すぎるので、あまり衝撃力はありませんでした。ただ、カメラマンの小さな叫び声だけが記憶に鮮明に残っています。海へと向かう緩やかな坂、それから津波浸水地域の地図、それにカメラマンの叫び声の三つを重ねて考えてみると、自分の驚きの正体が見えてきたような気がしました。ゆるやかな海岸線を持った平坦な土地に、大津波が直接に這いあがってくる恐ろしさでした。
閖上を案内してくださった方も、津波が来るという危機感はあまりなかったというお話でした、昨年、チリから来た津波の時も、ちゃんと避難したけれども、たいした被害はなかったからとおしゃってました。繰り返し津波に襲われている三陸のリアス式海岸とは、条件がまったく違う場所だったわけです。
あの日もこんな畑や田んぼの真ん中で、もし私が車を運転していて、津波に出会っても、それが津波だとは認識できなかっただろうなと感じたものです。海へのなだらかな下り坂を走りながら、改めて同じことを考えました。へたをしたら。好奇心のために「あの土煙のようなものはなんだろう?」と津波へ向ってハンドルを切ったりしかねないかもしれないとも思いました。
佐伯さんが最初に閖上を訪ねた時には、特別な異臭が漂ていたそうです。もちろん、あたりは瓦礫が散乱した状態だったそうで、むごたらしい記憶のお話も聞きました。今は所有者の撤去を待っている船が、あちらにぽつり、こちらにぽつりと、船底を陸地にさらしているのが目につきました。それから、あちらこちらに集めらた大きな石。たぶん、高価な庭石でしょう。御寺から流れ出したという墓石もひとつの場所に集められていました。 1125.jpg
1124 20120319 仙台行ってきました。 2011年3月11日の東北地方では小雪がちらついていました。テレビの中継映像で小雪がちらつくのを見るたびに、なんだか身体の応えたものでした。だから寒いうちに一度、津波の被害を受けたところを見たいのだけどと、佐伯一麦さんにお話していたのに、1月2月はさまざまな用事に追われっぱなしで、こりゃあ、桜の花の咲くころにした出かけられないかなと半分あきらめてました。ところが、佐伯さんがちゃんとそれを覚えていてくださって、声をかけてくださいました。
17日、仙台に行ってきました。佐伯さんの話では、津波の被害を受けた名取川河口付近はそんなに広くないからと言うことで、半日もあれば見て歩けるよとのこと。私はテレビの中継映像から、平野全体が津波に呑まれたような印象を持っていたので、そこが食い違っていました。改めて中継映像を探して見てみました。その映像の中で「津波は河川を10キロくらい遡ることもあります」という解説が流れていました。それでなんとなく10キロ以上と思い込んでしまったようです。中継映像を見て、改めて驚いたのは津波の速さでした。15分ほごの時間に海岸線から5キロくらいまで津波は到達していました。ものすごい速さですが、記憶のなかでは、これが長時間だったような錯覚が生れてました。
広さとか速さとか、テレビ中継の記憶にはいろいろと錯誤が混じっているようです。
仙台で、震災の時も店を開け続けていたという朝市をちょっとのぞきました。今は山菜の季節。東京ではみかけない山菜もちらほらと。お魚屋さんには「かすべ」もありました。
仙台駅で佐伯一麦さんと待ち合わせ。常磐線で名取まで。常磐線は亘理から浜吉田まではまだ復旧していません。原ノ町から木戸までは福島原発事故のために不通でした。考えてみると、今度の地震の震源域の南側半分くらいは常磐線の線路と平行しています。
電車の中から仮説住宅が見えました。聞いた話だと、仮設住宅も初期のものは、簡略な造作で、あとからできたものの中には建築材料もしっかりしたものがあるとのことでした。私には都市近郊の新興住宅地の中に仮設住宅があることがちょっとしたショックでした。いかにも念願のマイホームと言ったおもむきの誇らしげな様子の住宅と、仮設住宅が混在していた仙台郊外でした。
名取駅から閖上までのことはまた改めて書きます。
1123 20120314 思い出すことども 3月11日から3月12日にかけては、大よそを記憶しているのですが、そのあとの記憶がひどく曖昧。3月12日の午後、福島第一原発の一号機が爆発した頃までは、だいたい時系列で覚えています。調べたら3号機の爆発は14日の午前中でした。これはネットで映像を見てかなりびっくり。
このあとがどうも時系列の記憶がないのです。近所のお米屋さん電話で、お米と水のペットボトル12本と灯油を一缶注文したのはいつだったか?12日の午後だったか、13日だったか、はっきりしません。電話で注文した時には、もう水のペットボトルは品薄なので店に買いに来てくださいと言われました。買占めをするな、買いだめをするなの大合唱が始まる少し前のことでした。「買占め、買いだめをするな」の大合唱には、私は大立腹!品物がいつころ出回るのかの見通しの情報をちゃんと出してくれれば、誰もいらんものなんか買いません!と激怒してたのを覚えてます。
飯田橋の駅前の交番のところにパトカーが、新見附橋の交差点に消防自動車が停車しているのを見かけたのはいつだったか?3月23日に法政大学へ出かけているので、その時ではないかと思うのですが、はっきりしません。原発事故の影響が出た場合の広報用に待機しているのかなと推測しました。が、これもうっかり表だって言えませんでした。アエラが「東京に放射能が振ってくる」という特集をして、非難されていた時期と重なっていました。いろんな人と話してみると、ネットで情報収取している人と、テレビのニュースだけの人では原発事故についての認識に大きなずれがあるのを感じたのもこの時期でした。
新聞連載の挿絵でお世話になっている画家の宮本恭彦さんの義姉さんが「避難しませんか」とお電話をくださったのもこの前後。東京の水道水から放射性物質が出て乳幼児には飲ませないようにと言われたのが、いつだったか?娘はお風呂に入って、このお湯にも放射性物質が入っているのかしら?と首を傾げていましたが、私も同じことを考えていました。
あと印象的だったのは、地下鉄の駅の売店の売り子さんが週刊誌を並べながえら「なんで、こんな報道ばかりするんだろ」って文句を言っていたことです。週刊誌の表紙は凄惨な津波被害の写真ばかり。「こんなもの並べて売りたくない」と言ってました。3月11日から4月初め頃までの「不安にさせないで」「安心したい」という圧力は相当なものがありました。日常的なマスコミ不信と不安になりたくないという心理がないまぜになっている様子が見てとれました。
学生と話しをしていたら「被災地では中国人による略奪や強姦事件が発生している」と言う話が出てきたのは3月28日でした。話を聞いてみると、流言飛語のパターンに当てはまるので、懐疑的になりました。そういうことがあるのか、ないのかはわからないので、用心するに越したことはないと前置きをしてから、一般的な流言飛語のパターンを説明しておきました。そのパターンによくあてはまる話だったのです。
計画停電の対象になったのは2回。1回目は夕方で、まだ明るかったので、そんなに不便は感じませんでした。2回目は夜。やることがないので、ろうそくをともしてお風呂に入ってました。ただお湯が冷えても追い炊きができないので、風邪をひきました。
東武デパートへセルロイドの石鹸箱を買いに行ったのは、計画停電の始まる前だったかもしれません。明け方に配達された新聞の折り込み広告を見て、どうしてもセルロイドの石鹸箱が欲しくなったのです。というよりも、なんでもない買物に出掛けたくなったのですが。行きの地下鉄はがらがら。すいてました。帰りはぎゅうぎゅう詰。大停電になる恐れがありと、海江田大臣が緊急記者会見をして、それで、みんな、一斉に帰宅を急いだためでした。
桜の花がいっぱい咲いたお堀端の土手を歩いたのは、もう4月になってからかもしれません。いつもなら新入生が大勢いるはずの大学も5月まで開講が延期になり、ただ桜も花が満開になっていました。
1122 20120312 冬から春へ ようやく新しいPCに慣れてきました。嬉々として新しい機械が使う人がうらやましくって仕方がありません。
お彼岸までの10日間。三寒四温と言いながら、着実に春めいてくる季節です。いや、太平洋のふちに南北にながく横たわる日本ですから、北の北海道、東北はまだ冬、南の九州は春の気配、さらに下って沖縄では、もう初夏を思わせることも珍しくないという季節がまた廻ってきました。地震、津波、原発事故と打ち続く災害に腰を抜かしていたのは昨年のことです。
例年、3月10日前後は確定申告を終えて、なんとなく神経を使かう細かな仕事から解放される時期で、去年の地震の時も、そんな感じで昼寝をしていました。一般的な事務処理や、さまざまな公的文書などを読む力を私が持っていると、誤解している物書き仲間がいます。怠け者の私がこの言葉を使うのは、ちょっと躊躇しますが、事務処理や公的文書の読み込みは、能力がないので「努力」(この言葉を使うのに、ややためらいが)の産物なのだと、自分でつくづく思います。苦手なことをやったあとには、好きなことをした時には、残らない神経のこわばりが、残るのです。目から額にかけての神経がばりばり言っている感じがします。
このばりばりと取るのが一仕事。3月10日前後からお彼岸あたりまでは、このばりばりをとるための貴重な時間なのですが、これが震災でふっとんだのです。それから1年。ああ、なんだかしんどい気がします。多くの人と共有された緊張が、これからは、個々の人の運命や宿命や使命によって、それぞれに分かれて行くことでしょう。
2011年3月11日。地震の揺れで昼寝から目を覚ました。多くの人が言っているように、揺れは東西方向へ30分ほど続きました。いや、それからも次々と余震が続いてずっと揺れていたのですが、居間へ出てテレビをつけたのが3時30分頃。テレビでは天井が落ちたという九段会館を上空から撮影した映像が流れてました。もちろん大津波警報が出ていることは繰り返し伝えられていましたが、唖然としたのはそのあとです。
仙台の名取川河口付近を津波が遡る様子が中継映像で入ってきました。「川を津波が遡るのは、日本海中部沖地震でも観察されました」と解説が。日本海中部沖地震は娘が生まれたばかりのことでした。産院から自宅に戻って数日後のことで、乳飲み子の娘を抱いて、川を遡上する津波の映像を「恐ろしい」と見ていたのです。そんなことを思い出す閑もなく、NHKの中継画面は陸地を進んできた黒い水の広がりを映し出しました。黒い水の壁がばりばりと大型のビニールハウスを押しつぶし、さらには流されてきた家が、押しつぶされたビニールハウスの上を流れて行きます。
黒い水が進んで行く先には、自動車の走る道路があり、津波の到来に気付いて、陸地側へ曲がろうとして順番を待っている車列がありました。間一髪で陸地側へ曲がることができた車、間に合わずに黒い水のまきこまれた車。この映像の間も、余震で家は揺れていました。が目はテレビにくぎ付け。津波のすさまじさに、東京の沿岸部が液状化していることも、市原で石油コンビナートが火災を起こしていることも、忘れてしまいました。いや、それどころか、息子や娘がどうしているかも、ほとんど気にならない始末。日本海中部沖地震の時に、乳飲み子だった娘はもう28歳ですし、息子も30歳になろうという年ですから、心配してもらうのは、私のほうってことでしょうか。
2011年の暮れに仙台文学館からお招きを受けた時、佐伯一麦さんに「あの名取川のあたりを見に行ってみたいのだけど、いけないかしら」とご相談すると、案内してくださるとの御返事。そいうわけで、今月の17日に仙台へ行ってきます。
1121 20120215 PCが不安 なんだかパソコンがいやな音を立ててます。ブォンブォングルグルギュルギュルっていう音です。これは早急になんとかしなくっちゃなあと、またまた、管理人の豆蔵君をたよりにしているのですが……。さて、どうなるやら。なんとかあと3日はもって欲しいものです。
パソコンの寿命ってどのくらいなのかしら?感覚的には三年がいいところのような感じがしていますが、短すぎるかな。仕事の道具なので、できるなら、同じものをずっと使いたいです。だから、ソフトがどんどんバージョンアップするのも、いささか迷惑な気もします。頭で考えて仕事をしているのではなくって、手順を踏むことで、ある程度、仕事のリズムが生まれてくるわけで、それが混乱すると、もとのリズムに戻るまでに一苦労です。ああ、またPC買い替えかなと思うと、それだけで憂鬱。もっとも買い換えるたびに「へえ」と感心するような進歩があるのも事実ですが。
さてどうなるやら。
1120 20120208 奈良美智 
青森美術館に行ったら、犬に逢ってくればいいと言われました。「?」だったので、「探してみます」と答えると「探さなくってもわかるから(笑)」で、ますます「?」でした。青森美術館で「犬が見たい」と言ったら今度は「今は帽子かぶってます」と。ますます「?」でした。
残念なことに帽子を被った巨大犬の写真を撮ってきませんでした。惜しいことしました。美術館の中庭にいたのは奈良美智作の巨大犬でした。いったいどのくらいの大きさがあるのでしょう。かなりの大きさでした。春から秋は犬のいる中庭に出ることができるそうです。今は冬なので中庭は閉鎖。美術館の中から犬を眺めることはできます。つるりとした頭に雪がふんわりと積もって、積もって雪が凍り、凍った雪がちょっと融けてを繰り返して、今は犬が白いハンチングをかぶっているに見えます。この帽子がよく似合うこと。写真を撮ってこなかったのがすこぶる残念でした。
奈良美智は弘前出身とのこと。NYのイメージが強かったのですが、雪の中でみるあの上目使いの女の子の絵もなかなかよかったです。都会だとなにか不満げな感じがする上目使いが、雪の中だと「負けないぞ」という感じに見えてくるから不思議でした。
ミュージアムショップで奈良美智のぬいぐるみの女の子を見つけました。
1119 20120207 青森美術館 
12月9日に東京で小雪が舞いました。こういう年は年明けから大雪になることが多いなあと思っていたら、やっぱり記録的な豪雪になりました。
青森美術館で佐伯一麦さんと自作を読んできました。青森では暮れから雪が降りっぱなしとのことでした。正月三ヶ日は晴れたものの、それからまた雪、雪、雪の毎日。除雪はされているものの、トラックが被災地の仕事に回っているので、雪を運び出すことができないそうです。市街地でも道路の両脇に雪の壁が出来ていました。
青森美術館に到着したのは、日暮れ時。新青森から乗ったタクシーの運転手さんに「ここが青森美術館です」と言われても、見渡す限り真っ白な雪がぼんやりと光っているだけ。不安ととおり越してほんのちょっぴり恐怖を感じました。どこにも美術館が見当たらないのに、タクシーにいなくなられたら、どうしたらいいのでしょう! と。美術館がまっしろな建物だったので、日暮れの光では見分けることができなかったのです。よくよく見てやっと解りました。あれが美術館だと。それからは、街灯、これも雪に埋もれてましたが、街灯の明かりをたよりに美術館まで辿りつきました。

翌日のパフォーミングアーツにご出演の皆さんはリハーサルの真っ最中。佐伯一麦さんも岡山から青森まで8時間も新幹線に乗って到着していました。
これが1月20日のこと。下北の横浜町やむつ市で多くの車が吹雪に巻き込まれて立ち往生したのは、2月3日のことでした。日本列島は猛烈な寒気団に包まれて、東北、北陸各地から吹雪のニュースが伝わってきてました。下北では、夜半過ぎに自衛隊に災害派遣要請が出たと聞いてはらはらしました。幸いことなきを得たようですから、まだまだ油断できません。
2月に入るとばかに暖かな陽気の日も出てきます。そういう日はなだれや落雪が怖いとのこと。で、また寒気が来ると、融けた雪が氷になり、そこに雪が降り積もるわけで、その怖さは想像にあまります。
青森の皆様、どうぞこの冬をご無事でお過ごしになれますように。
1118 20120103 マーケティングと宣伝広告の手法 50歳を過ぎるとめっきり集中力がなくなると、以前、人から言われたことがあります。で、ちょっと前までは怒りっぽくなってたけど、この頃は、集中力がなくなったのに慣れて怒りもしなくなったし(ため息)。というわけで、のろくさと机の上を片付けていました。途中でTBSが出している「調査情報」の最新号をちょこっと読んだり。この途中で何かを読み始めるというのは小学生の頃からちっとも変わってませんが。
テレビドラマにマーケティングの手法が使われたり、原発の広報に広告宣伝の手法が使われていることはこれまでも指摘されてきました。共通しているのは、それがどちらもビジネスの手法だということです。それで思い出したのが昨年見た映画の「イブ・サンローラン」。「ファションはアートだったのに、ビジネスになってしまった」という台詞。アートがビジネスになるというのは、ファッションに限らず、ジャーナリストの世界でも同じことが言えそうですし、テレビドラマ制作でも、お笑い芸人の世界でも、それから文学の世界でも言えそうです。と、これも今まで耳にたこができるくらい聞かされてきた話とそう変わりはないのですが……。
つまりは「規模」の問題なのだと、そんなことを夜中に考えてました。
マス・メディアがマス・メディアで有る限り、マスとしての規模を維持し、さらに規模拡大を図るとうことで、ビジネスとして成立つなら、アートの場合は、その希少性を重視して、規模をいかに小さく抑えるかが重要になると、そう考えてみました。
デジタル技術とネットは、システム自体はグローバルな巨大システムです。が、個人の使用の状態から言えば、パーソナルなもので、これまではテレビ局しかできなかったような情報発信が個人で出来たり、映画会社しかできたかった映画製作が個人の力を集めてできたりするという機能を持っています。
ええとね、IT技術はシステムそのものはグローバルで巨大な「ビジネス」というこころが注意ポイントのひとつ。もうひとつはIT技術はこれまでのマス・メディとはことなるパーソナルなメディアとなったことで、こっちは「アート」というわけなのが、注意点の2点目。つまり「ビジネス」の上に「アート」が載っているという状態だということになるわけですが。
つまりは規模の問題なんだとまた考え込むという始末。やれやれ集中力がほんとになくなっています。
IT技術の「ビジネス」の部分には、肥大化した金融市場がくっついて、まだ実用化されていない試験的な事業にも大きな投資がされるし、「アート」の部分はものすごく多種多様な大衆化した「アート」が経済的価値判断から乖離した状態で増殖していると、そういうふうに見ることもできるのではないでしょうか。
「ビジネス」と「アート」の間になにか、もうひとつ人間の身体的能力と釣りあった仲介役が必要なのではないかなと、そういうことを考えるのでありました。
1117 20120102 フォークリフトの走る街 小説は「紙に印刷された本」と不可分の文芸じゃないのかと、この頃、ずっと考えています。もちろん、ネット配信で読む小説というものもあるでしょう。携帯小説というものもあるでしょう。それらを否定はしませんが、また、それらが私が知っている小説と同じものだとも思えません。源氏物語は手による写本から活版印刷の本になったら、中身が変わったと言えるのかと聞かれると「さあ」と首を傾げざるをえないのですが、中身はさておいて、その鑑賞の仕方は大きく変わったと言えるでしょう。紙の本とデジタルデータの作品の間には、それくらいか、またはそれ以上の違いがあると予想されます。
昨年から家内制手工業と本というテーマがまとまりなく頭に浮かぶのも、にわかに近代史がおもしろくなりだしたのも、震災後の東京の変貌を想像して、東京都心をうろうろしているのも、根っこではみんな、どこかで繋がっているんだなあと、考えています。どこがどう繋がるのかは、まだ私自身にも解っていませんが。
神田の須田町それから秋葉原の万世橋あたりにかけては小さな会社が多いビジネス街です。西へ移動して九段下が近いあたりの神保町は本の街。裏通りに入ると以前は製本屋さんのフォークリストが走り回っていました。九段下から飯田橋のほうへ行く道にも、けっこう、製本屋さん、印刷屋さんが多く、飯田橋の五差路を江戸川橋の方向へ神田川にそって行くと、取次ぎのトーハン、凸版印刷があります。そうそう、飯田橋の五差路には「モリサワ写植」の大きな看板が立ってました。市ヶ谷の大日本印刷、御茶ノ水の日販を加えれば、だいたいめぼしいところになるのではないでしょうか。
手にとることができる、目で見ることができる、歩き回れる範囲にめぼしいところが集中している。そういうところで本はできていたのだなあと、ちょっと思い出しているところです。
食物ならスローフードとか地産地消とか、着るもの、日常の道具ならクラフトとか手作りとか、個別にそういう単語で主張されている事柄をなんとかもう少しまとまりのある考えにすることはできないのでしょうか。同時に「本」についても同じような、膨張ではなく縮小の考え方が生み出せはしないかしら? と思っています。つまりそれは規模の問題なのだと。イメージとしてはある特定の規模のものが、ネットワークで繋がるような、そんな感じです。エネルギーならスマートグリットに近いような、そういうイメージを統合するような哲学を、うまく考えだせはしないかしら。
あいかわらずとりとめがありません。
1116 20120101 年があらたまりました。 年が明けました。なにはともあれ、年があらたまったということで、気分も一新と行きたいところですが、元旦から地震。震度4との発表です。揺れとしては物が落ちなかったので、4ぐらいでしょうけれども、小さな揺れから大きな揺れへと変わってゆく地震でした。揺れの時間もながく、新年早々、とんだお年始でした。
暮れの27日に神田須田町の「藪そば」であられそばを食べているとき、歯痛発生。そのまま、歯痛に悩まされている新年でもあります。
なにはともあれ、年は改まりました。今年は良いことが少しずつ重なりますように。皆様どうぞよろしくお願い申し上げます。
1115 20111231 神田神保町 ようやく大晦日にたどりついたという気もするし、もう大晦日かという気もする今年の大晦日です。2011年は3月11日より前がなくなっちゃったという感じ。それから3月11日から2、3ヶ月はしょっちゅう地震で揺れていましたから、なんだか、思い返すといろんなことがぼんやりしてます。
仙台へ行った時に佐伯一麦さんと「人の顔がけわしいねえ」という話をしました。東にいるときはあまり感じないのですが、大阪など西へ行くと、ああ、東の人の顔はけわしいなあと感じます。ただ、不満げな顔をした人はあまり見なくなりました。不満げだったり、かったるそうだったり、そういう顔の人をあまり見かけなくなったかわりに、えらくすっきりとしたお洒落をしている若い男の人が目を引くようになりました。「渇」が入ったっていうところでしょうか。
地震の日以来、東京を歩き回りたくって仕方がないのは私のセンチメンタル。
で、神田神保町です。すずらん通りにも白山通りにも靖国通りにもアーケードがかかっていたのは何時ごろまででしたでしょうか? アーケードがあり、舗道に商店の品物や看板がたくさん出ていました。全体にわんわんするような人の密度があったのを覚えています。
ネットが出来たので、神保町の古本屋には「荷」があまり入って来なくなったと聞きました。以前は日本じゅうの古本屋さんが「荷」を神保町に送って、本を売ってもらっていたとのことです。そこへまた本を探す人が集まって来たのが神保町でした。
本はマニュファクチャーの産物なんだと、この頃、しきりにそれを思います。あと、高級ブランドもマニュファクチャーの産物だと。「それがどうした」と聞かれるとなんともまだ言えないのですけど。考えはそこでぐるぐると回っているばかりです。例えば、いろいろな食物がどうしたって工業化に馴染まないところがあるように、本という品物も、工業化(たぶんITと言ったほうがいいのかもしれませんが)に馴染まないところがあるのではないかと、そういうことを考えているわけですが。
まあ、とぼとぼとした考えです。公方さまがいた江戸の町、東京を名乗りだした明治の東京、世界の1等国に踊りだした大正から昭和初期の東京、そういう東京はけっこう惜しまれたり愛されたりしているのに、とぼとぼ歩きながらぼんやり思い出している私の東京は、昭和中期の忘れられるだけの東京のような気がしてます。そんなことを考えていたら映画「3丁目の夕日」のポスターが張ってありました。
なにはともあれ大晦日にたどりつきました。
1114 20111229 神田駿河台下 考えてみると、学生の頃、うろうろしていたエリアってそう広いものではありませんでした。
西側はお茶の水の駅から線路沿いに坂を下って(雁木坂って言ったと思います)水道橋の駅あたりまで。線路を挟んで向こう側は、神田明神や湯島聖堂まで行くことも珍しいくらいでした。東側は聖橋まで。中央大学が八王子に引っ越して、ニッパンのビルが出来てからは、ニコライ堂のあたりに行くことも少なくなりました。今は明大通りと言われている坂を下って神田駿河台下の交差点は、左へ行くことは滅多にありませんでした。
だいたいうろうろしていたのは、すずらん通りと白山通り、それに明大通りの内側です。それでも、大勢の人が行き交って目が回るような広い世界に放り出されている気がしたものでした。駿河台下の交差点は大きい交差点ですが、明治大学の裏側あたりには、路地がたくさんあって、それを猫のように路地から路地へ歩き回っていました。製本屋さんがけっこうあって紙の匂いがしてました。あと、揚げ物の匂い。それからコーヒーの匂いとカレーの匂い。
靖国通りにガラス張りのタキイのビルが出来たときは、あれができてからちょっと雰囲気が変わったねと言ったともだちがいました。が、そのタキイのビルがすっかり取り壊されていました。あとにはきっと大きな建物が建つのでしょう。震災のあと、4月の半ばにこのあたりを歩いたときには、なんだかがらんとした感じがしたものでした。
この頃、家内制工業(マニュファクチャー)と本というようなことをぽつぽつ考えるのですが、考えていると明治大学の裏の路地をフォークリフトが走り回っているのが目に浮かんできたり、大きな封筒を持ったメッセンジャーボーイさんが急いで走り回っていたりするのが浮かんできて、なんだかあんまりまとまった考えになりません。御用納めのあとの神田あたりはきっとひっそりと人気もなくなっていることでしょう。
1112 20111228 神田須田町 今年ももうすぐお終いです。夕方、御茶ノ水から神田須田町を歩いてきました。ニコライ堂の前から靖国通りにかけては、しばらく歩いたことがなかったのですが、通りがきれいになっていました。というか、あっちこっちに昭和30年代の建物が取り残されている感じでした。この感じは御茶ノ水、神田界隈だけでなく、飯田橋あたりにもあります。昭和30年代から40年代、つまり日本の高度成長期の建物が取り残されているのは、なんだか寂しそうな感じがします。
今年はどうも夕方、何を食べようかなと考えているとセンチメントになるようで、昔行ったことあるお店へでかけてみたくなります。で、神田須田町の鳥鍋「ぼたん」へ行ってみました。飯田橋の牛込見付の石垣の上に一番星が出る頃に出かけてました。冬至を過ぎたばかりの日は暮れかけていましたが、時刻は5時を過ぎたばかり。ところが「ぼたん」は大賑わいでした。1時間ほど待たなくってはならないとのことでしたので、諦めて「藪そば」へ。こちらも大賑わいでした
今年は忘年会もほどほど、そこそこということが多い東京ですが、こんな古いお店は流行るようです。須田町の「ぼたん」「いせ源」「竹むら」「藪そば」などがある一画は、空襲で焼け残ったのでしょう。この一画だけ古いつくりのお店が並んでいます。
今年ももうすぐお終い。
1113 20111228 神田小川町 テレビをぼうっと見てました。今年のニュースを振り返るNHKと、テレビ朝日の原発事故検証番組。ああ、なんだか3月11日よりも前の2011年はなかったことになっているみたいな感じがしました。実感としても今年は長かったような、短かったような、2ヶ月くらい足りないような、時間感覚が自他ともにゆらいでいるみたいな感じがします。
池袋に買物へ行くつもりが、笹巻きのけぬきすしが食べたくなって丸の内線で淡路町まで出ました。須田町、淡路町、小川町と駿河台下からはそう遠くない街ですが、明治大学へ行っていたころは、明大通りを挟んで東側はなんとなく馴染みがありませんでした。ちょうど中央大学が八王子に引っ越した頃、明治に通っていましたが、まだ引っ越したばかりだったので、明大通りの東側は中央大学の勢力圏みたいな感じというか、思い込みみたいなものがありました。あとから考えてみると神保町というのは神田のはずれで、ちょっと神田とは雰囲気の違う街だったのだなあと、歩いていて納得。
28日をさかいに神田界隈は、ひっそりとします。笹巻きのけぬきすしを12個買って、それから「ささま」で最中を16個、さらに東京堂で、本をあれこれと買い込んで、これは重いので、発送してもらいました。で、ラーメンを食べて「さぼうる」でコーヒーを飲み、煙草を吸って、なんだか若い男の子たちがおしゃれになったなあと、となりのカップルを眺めていました。ちょっと深刻な話をしていたみたい。グレーがかった薄茶色の革ジャケットをセーターの上に着ていた青年。任地が遠い会社の内定をとっちゃったみたいで、彼女のほうはたいへん不満げな様子。なんだかぎくしゃくしたカップルのぽそぽそした会話を聞いてました。これがちょっとコーヒーの苦さにあっていて微笑。なんて、ヒトゴトだから微苦笑もしてられるわけですが。
タイトルの小川町から、馴染みの神保町へ移動しちゃいましたけれども、今日はまだせわしげな人も多い神田小川町でした。
馬に乗っとる伊藤さんがうらやましい。伊藤さ〜ん。いいなあ。馬。ぽこぽことまた乗りたいなあ。
1111 20111020 ハン・ガン「菜食主義者」(クオン刊) 韓国文学感想文コンテストの締め切りが近づいてきました。課題図書はハン・ガン「菜食主義者」(クオン刊)です。
ある晩、血みどろの夢を見て以来、肉が食べられなくなるという女性の主人公。肉が食べられないという主人公を巡って家族の中に波紋が広がって行きます。
肉が食べられなくなるという発想はどこから生まれたのだろう?おもしろい発想をする作者だなあと、この本を読んだときから、気になっていました。で、思い出したのが孔子が悲しみのあまり肉を口にしなかったという話です。3日ほど肉を食べなかったという話があったはずだと、おぼろげな記憶。
韓国ではお葬式、それから結婚式も儒教式で行われることが多いようですから、特別に「論語」などを読んでいなくっても、孔子の様々な言動などは、きっと日常の会話などに出て来るのでしょう。そういうものが作者の発想の原点にあっても不思議ではないなあと思いました。私の記憶が曖昧だったので、孔子が肉を食べなかった話をググってみました。
出てきたのは弟子の子路が戦死して、遺骸を塩漬けにされたと聞いた孔子が、子路の死を惜しんで家じゅうのシシビシオ(肉の塩漬け)を捨てさせたという話でした。子路のことは中嶋敦も「弟子」という小説で描いています。勇猛果敢な子路は、孔子がもっとも愛した弟子で、その性格から「畳の上では死ねない」と孔子に予想させた男でした。
で、これをググる時に目についたのが、孔子が捨てさせたシシビシオを人肉だと曲解する言辞。食肉を塩漬けにして貯蔵するのは珍しいことではなく、いたるところで用いている方法です。それをわざわざ人肉とするのは悪意としか思えません。なんだかため息でした。
話がハン・ガン「菜食主義者」から離れてしまいましたが、この小説すごく現代的で、すきっりとした構成を持っています。野菜しか食べなくなった義妹に恋する男(主人公の姉の夫)はビデオアーティストなのですが、
裸体の義妹には欲情しないけれども、服を着ると欲情するという転倒にも微苦笑させらました。このアーティストが義妹の裸体に興味を持ったのは、義妹のお尻に蒙古斑が残っていると聞いたときから。そう、あのアジア人の赤ちゃんが持って生まれてくる特徴の蒙古斑です。こうしたディテールからも、この小説が、もともとの持っていて生活の中に溶け込んでいる儒教の思想を、現代的な感受性の表現として造形したものに思えてくるのです。
私は韓国文学感想文コンテストの審査委員をつとめてます。みなさんのすてきな感想をお待ちしてます。10月25日が締め切りです。
1110 20110926 苦瓜 
鵜の目、鷹の目と言いますが、ほんとうに鳥はよく見ているものだと関心します。うちのベランダに実っていた苦瓜が鳥に食べられてしまいました。
風船蔓と苦瓜をベランダに植えたのは5月のこと。よく育って茂りました。しかし、台風12号の運んできた潮風には勝てず、茶色く枯れ始めたところで、緑色の苦瓜がなっていることに気付きました。それまで茂った葉に隠れていて、おおきな実がなっていることに気付かなかったのです。苦瓜のほうも、うまく隠れていたというところでしょう。

苦瓜は黄色く熟しました。そして、台風15号がどうやら我が家の近辺を通過。黄色く熟した苦瓜が見事に鳥に食べられているのを発見したのは、台風15号が通過した翌日でした。黄色い皮の中には赤くなった種が。鳥さん、さあ食べて、おいしくなりましたよと言わんばかりの苦瓜でした。でも、鳥って苦瓜を食べても苦くないのかしら。
1109 20110925 新幹線遅延 
9月21日(水曜日)の東京は台風15号の通過のために交通機関が大混乱しました。台風15号は浜松へ上陸。そのあとは陸上を進んだのですが、勢力はさして衰えませんでした。東京付近を通貨したのは、夕刻の帰宅時間で、どこの駅も大勢の乗客で大混乱したそうです。
23日は久しぶりの大阪行き。東京駅の切符の切符売り場は閑散としてました。「今日は静かですねえ」と駅員さんと話をして、乗り込んだのはいつもの20時50分の大阪行き「のぞみ」。この時刻の「のぞみ」に乗ると、大阪には23時20分頃に到着して、日付が変わらないうちにホテルへ入ることができます。いや、できるはずでした。
「のぞみ」が臨時に停車したのは浜松駅。「豊橋駅付近で新幹線と人が接触しました」のアナウンスがありました。1本前を走っていた新幹線が、豊橋駅から3キロ付近で停車しているとのことでした。「警察がまだ現場へ到着していません」のアナウンスもありました。新幹線が人と接触したという以外に詳しいことは判りません。ふっと気付くと、私が乗っていた車両の隣りに、もう一本、新幹線が停車していました。これは、けっこう時間がかかるかもしれないと、予感しました。
先駆車両の車体の検査は済んでいますが、警察の現場検証が続いています。そういうアナウンスがあって1時間半ほどは何もアナウンスはなし。通路では車掌を捕まえて事情を聞く人も出てきました。外を見ていると、浜松駅へ、さらに3本目の新幹線が入ってきました。これがけっこうなスピードで、一瞬、追い抜かれるのかと思えるほどでした。いささか「むっ」としたのですが、この3本目の新幹線も減速して停車。深夜の浜松駅に3両の新幹線が並らびました。23時を過ぎていました。
それからも何度か「警察の許可を待ってます」というアナウンス。新幹線と人が接触したというアナウンスの段階で「ああ、人身事故かな」と思っていたのですが、なんだか奇妙です。東京の電車で「人身事故」と言えばたいてい飛び込み自殺を意味しているのですが、「人と接触」という表現は聞いたことがありません。
あとで判ったことですが、豊橋駅の防犯カメラに線路へ降りる男の人の姿が映っていたとのことでした。どうやら、走行中の新幹線に接触した人は、性別の判断もつきかねるほどの状態になってしまったようです。ニュースには類推的な書き方がされていました。
警察の検証が長引いたのは、ひょっとすると新幹線の線路内へ何か危険物でも持ち込まれたというような疑いもあったからなのかもしれません。
2時間19分ほど遅れた新幹線がようやく動き出しました。豊橋駅は徐行して通過。駅を過ぎてもしばらくはゆっくりと進んでいました。名古屋駅に到着したのは午前1時。すでに在来線は運行していませんから、名古屋駅には休憩用の車両が用意されているとのことでした。名古屋から意外なほどたくさんのお客さんが乗り込んできました。名古屋からは各駅停車になるとのことで、岐阜羽島、前原、京都と停車しました。大阪駅到着は午前2時前。大阪駅にも休憩用の車両が用意されていました。「朝5時まで御休憩いただけます」のアナウンス。5時になれば各方面への始発が動き出すのでしょう。
改札口は大混雑。「特急料金の払い戻しがされます。改札付近の係員から、遅延証明をお受け取り下さい」と繰り返しアナウンスされていますが、改札付近には、それらしい係員の姿は見当たりません。あるのは自動改札だけ。うっかり自動改札に切符を入れて、切符がそのまま機械の中へおさまっては困ると思ったのは私だけではないようです。おかげで改札を滞った人でごった返していました。で、通りがかった駅員に事情を聞いた人がいて、自動改札へ切符を入れると「遅延払い戻し」の印字がされるのがわかりました。そうなら、そうと言ってくれればいいのになあと、ぼやく人も。果たして自動改札へ切符を入れて、ちゃんと切符が出てくるのかしらと、少し疑いながら切符を入れたところ、出てきたのが冒頭の写真の切符です。赤い字で遅延の印字がされていました。
1108 20110920 四万温泉 
群馬県は温泉の宝庫です。草津温泉、伊香保温泉と回ったので、四万温泉へもおまけで足を伸ばしてみました。台風12号の影響が出てないか、それもちょっと気になっていました。伊香保温泉が山の斜面に開けた温泉なら、四万温泉は谷あいの温泉です。

渋川あたりでは茶色い濁流だった川の流れも四万温泉まで山あいに入ると、清冽な水がごうごうと流れていました。四万温泉といえば積善館のお風呂が有名です。ガイドブックを見ると積善館の湯殿の写真が出ています。積善館は古い旅館ですが、男湯も女湯も同じように作ってあります。このごろでは、時間によって男湯と女湯を交代させる旅館も珍しくありませんが、私が大学生であっちこっちをうろうろしていた頃は、圧倒的に豪華な男湯に、つけたしみたいな女湯と言う温泉が多かったのです。考えてみると、こんなに山深いところに立派な湯殿を備えた旅館があるのも不思議なことです。

伊香保温泉にも草津温泉にも温泉療法を研究したベルツ博士の名前が残っています。けれども、私はベルツ博士のことをよく知りません。軽井沢は保養地として開けるまえは追分と呼ばれていたというのは、室生犀星の随筆で読んだ記憶があります。保養地の軽井沢と伊香保、草津のベルツ博士はなにか関係があるのかしら? それと四万温泉の積善館のモダンな湯殿は、なにか関係があるのかしら? そんな疑問がちょっと頭に浮かびました。
台風12号のもたらした雨はここでもすごいものだった様子で、積善館のお湯をくみ上げるポンプがいかれてしまったそうです。それでお風呂はお湯を抜かれてました。なんでもなければ。日帰り温泉としてお風呂にだけ入るということも可能だそうです。ちょうど積善館に泊まっていたお客さんが
「すっごい雨でしたよ。雨音がすごかった」
と話してくれました。お湯が抜いてあったので湯殿を見学させてもらうことができました。

さて、また台風です。沖縄でうろうろして、そのまま西へ抜けてしまうはずだった台風15号が関東に近づいてきています。
1107 20110919 伊香保温泉 
草津温泉から2日おいて、今度は伊香保温泉へ。快晴。すてきに良いお天気。もちろん関越は全線問題なく通行できました。で、伊香保まで2時間。草津への8時間はいったい何だったのだろうと呆気にとられる速さでした。こういう便利さになれているから、ちょっと台風が来ると、大慌てしてしまうのですけど。

伊香保は山の斜面に温泉宿が並ぶ温泉街です。中心部の石段街は、少しずつ改修工事が進んでいるところでした。共同温泉の石段の湯は以前の場所から、県道よりへ移動していました。大型観光バスの入れそうな駐車場もふえていました。射的屋があるのは昔どうり。でもお土産屋さんは、おしゃれな店になっているところも。石段街を登って伊香保神社を通り過ぎ、元湯の露天風呂に入ってきました。記憶していたよりも小さい露天風呂でした。このごろ、自分の記憶はたいへん怪しいです。露天風呂では、ツーリングの途中のライダーの姿もありました。

台風12号では利根川もどうどうとにごった水が流れていましたから、渋川駅から程近い落合簗はどうなったことやら、と気になっていました。ホテルから簗に電話を入れてもらうと、営業中とのこと。簗は補強してあったので、流されずに済んだとのこと。で、簗に出かけました。お腹に子がいっぱい入った落ち鮎の塩焼きを食べてきました。利根川の向こうに榛名山を見ながら、初ノンアルコールビール。ビールというよりも麦ジュースでした。甘いし。でも、運転をすることを考えると、なんとなく心理的不安が。「騙されているんじゃないだろうなあ」と疑り深くなってしまいます。
伊香保温泉のホテル前に朝取りの野菜を売りに来ていた農家のおばさんと少しおしゃべりをしました。台風でりんごの実がこすれて傷だらけになったこと。今年は天候不順で野菜の出来がおかしいとのこと。そのほか諸々。おしゃべりをしているうちに、たくさんおまけをしてもらいました。丸なすと梅干を買ったら、胡瓜、みょうが、りんご、生姜をおまけしてくれました。丸なすは実がしっかりしていたおいしいなすでした、
1106 20110916 草津温泉 草津温泉の入り口に、路面に特殊な舗装を施して車で40キロ走行すると「草津良いとこ、一度はお出で」のメロディーが聞こえるという道路があります。この舗装は群馬県内の温泉入り口などには、それぞれの土地にちなんだ曲の舗装がされているそうです。

草津に行った日は、南の海上を台風12号がのろのろと進んでいました。紀伊半島に甚大な被害をもたらしたあの台風です。関東でも群馬県の山沿いは大雨。おかげで関越は本庄児玉から渋川伊香保までが通行止め。旧中山道の国道17号は大渋滞。で、草津まで車で8時間もかかってしまいました。ようやく草津に入ったと、くたくたの耳の響いてきたのが、道路の舗装の奏でる「草津良いとこ〜、一度はおいで〜」の響き。まるで地の底から響く悪霊の声のように聞こえました。いまいましいこと限りなし。

台風はのろのろで、翌日も四国を自転車なみ、どうかすると歩く速度で進みました。良かったことと言えば、ふだんは観光客で大混雑する草津の湯畑をゆっくり見物できたことでした。おおきな源泉がぽっかりと口をあけているという眺めはやはり壮観でした。

硫黄を採取する木の樋。黄色い粉の硫黄を買って帰ったこともありました。草津のお湯は、強いお湯で、金属の装身具がたちまち黒くなってしまうこともあります。

お湯が落ちるところに石が緑色になっているのも印象的な眺めでした。伊香保あたりまでは山の湯という感じがしますが、標高1600メートルの草津は山さえ突き抜けた感じです。
1105 20110912 伊勢うどん 
おうどんのしたに、甘辛いたれが入っている伊勢うどんを久しぶりに食べました。鳥羽、伊勢、名古屋、草津、伊香保と回った合宿旅行。隠れたテーマは「うどん」だったかもしれません。
伊勢神宮のおはらい通りで、伊勢うどん。鳥羽でも伊勢うどん。名古屋へ出てきしめん。きしめんは関東風に言えばひもかわうどんです。草津で鍋焼きうどん。伊香保では水沢うどん。こんなにうどんばかり食べるのも珍しい。どちらかと言えば蕎麦喰いで、お昼はお蕎麦と言うこともよくあります。東京では滅多にうどんを食べません。時折、鍋焼きうどんを食べるくらい。これが大阪になると逆になって駅そばのきざみうどんを食べるのが楽しみ。なんと言っても大阪のうどんはお汁がおいしいのです。
でも伊勢うどんにお汁はありません。あるのはたれ。たれを白いうどんにまぶすようにして食べます。感触としては、甘辛団子のおうどんバージョン。最初はちょっとびっくりしました。おうどんと言えば、お汁を楽しむものとばかり思っていましたので、あれ?あれ?あれ?でした。今度は2回目。これは、これはちょっといいかなあと、伊勢うどんを食べました。
名古屋のきしめん。お正月に味噌煮込みを食べてたいへんに美味しかった。私の育った家はお祖父さんが名古屋から出てきた人だったので、きしめんの乾麺を、親戚からお土産にもらいました。ひもかわという言い方ときしめんという言い方の両方を使っていました。今度は冷やしきしめんを食べました。でもせっかく名古屋にいたのだからやっぱり味噌煮込みを食べればよかったかなあと少々後悔。ひどく暑い日でなければ、迷わず味噌煮込みを選んでいたと思います。
草津の鍋焼きうどん。台風12号がのろのろと四国に近づいていたのです。標高1600メートルの草津の町は雨。寒いくらいでした。こんな時はやっぱり暖ったかな鍋焼きうどん。草津だったらお蕎麦を食べようという気になってもよさそうなものなのに。なぜか鍋焼きうどんが食べたくなりました。
伊香保で水沢うどん。うどん、蕎麦、ラーメンなどがあるお店に入ったのですが、突然、大勢さんのお客さんに入ってこられたお店のほうが猛烈に水沢うどんをプッシュ。ご主人一人でてんでん勝手に注文されたら、対応不可能というわけです。で、水沢うどん。これがすこぶるおいしいうどんでした。腰の強いうどん。それから摺り降ろしたゴマの入ったお汁。汁をつけて食べる冷やしうどん。ゴマの入った付け汁がさっぱりとしておいしいうどんでした。店主が「うどんになさいよ」と猛烈プッシュするだけのことはありました。
1104 20110910 御塩殿神社 
夫婦岩がある二見ヶ浦には何度も行っています。伊勢神宮に参拝する人が旅装をといて禊をするのが二見ヶ浦だったそうです。ということは、今度の旅行でゼミ生の皆さんに説明するために知りました。子どもの頃はあのカエルがいっぱいいるところは「なんなのだろう?」と不思議に思っていました。子どもの頃に住んでいた家の池のそばに二見ヶ浦のお土産のカエルが座っていましたから。で、みつけましたHP管理人豆蔵君そっくりのかえる。二見ヶ浦興玉神社の入り口にいたカエル君。しかし、どっかにでかけるとなんとなく豆蔵君そっくりのなにかがいるってのは、もしかして豆蔵君はなにかの神様のお使いなのかな。ちなみにカエルは猿田彦命のおつかいなのだそうです。

伊勢神宮の御塩殿神社が近いことも、今度初めてしりました。地元の人は、たんに「御塩殿」と呼んでいるそうです。御塩殿神社は伊勢神宮のお塩を作っている塩田があります。お天気も良かったので、御塩殿神社に回ってみることにしました。野や山、それに浜には、なぜかとっても清浄感にあふれる場所があります。陽の光のさしかた、風の通りかた、植物の育ち方などが、とても心地よい場所です。子どもの頃は野山や浜で遊んでいて、そういう場所を見つけては、そこを「秘密の場所」にしていましたが、神社もそういう「秘密の場所」っぽいとことにあることが多いです。御塩殿神社もやはり、自然の清浄感のある場所にありました。
清浄と清潔ってちょっと違う感じがします。清潔ってのは、がんがん消毒しても得られるけど、清浄ってのはそもそも消毒薬さえ拒否しちゃうようなところがある。そんなふうに思うことがあります。

お社の入り口で椿の木がたくさん丸い実をつけていました。茂った樹木のつくる陰が心地よい参道を通って簡素なお社の前へでました。製塩のための小屋はこのお社を海岸のほうへ回りこんだ松林の中にひっそりと立っていました。どこか、この近くに塩田もあるはずですが、見つけることはできませんでした。塩田で、濃度を濃くした塩水を、釜で煮詰めて塩を作るのです。伊勢神宮の製塩は年に2度行われると私が読んだ本には書かれていました。そもそも伊勢神宮がこの地に鎮座するようになったのは、海の幸、山の幸に恵まれた土地だったからだそうです。
御塩殿神社を見て、それから海岸を二見興玉神社まで歩きました。入り口で向かえてくれたのが、例の豆蔵君似のカエルですが、陶器のカエル、あの懐かしい我が家の池のふちにいたカエルがいなくなっていました。以前はおびただしいほどあちらこちらに置かれていたのですけど。なにかカエルを片付ける季節とか行事があるのでしょうか?それともこのごろはカエルの置物を奉納するという習慣がなくなってしまったのでしょうか? 目立ったのは写真のコンクリートのカエルだけでした。
近鉄鳥羽駅で岩やの塩羊羹というお土産を見つけました。塩羊羹は江ノ島のお土産にもあるのですが、岩やの塩羊羹のすきっりとした塩味がすっかり気に言ってしまいました。もちろん羊羹ですから、甘いのですが、塩味がその甘さと良い塩梅に調和していて、ああ、また食べたいという気になっています。御塩殿神社に行ったせいかもしれません。
1103 20110909 鳥羽伊勢名古屋・草津・伊香保 鳥羽、伊勢、名古屋それから草津、伊香保と旅行が続きました。

鳥羽に出かけたのは5歳のときでしたから、実に45年ぶりでした。水中翼船に乗ったのをぼんやりと覚えている程度。タクシーの運転手さんに聞くと「昭和40年代が観光の黄金期だったねえ」というお話でした。千葉で暮らしているという運転手さんの娘さんも、震災後しばらくはお孫さんと一緒に鳥羽へ避難してきていたとのこと。今年は震災後、観光客もめっきり少なくなったようです。宿泊したのは鳥羽の駅から山を越えた相差という町。山超えの道に白い百合がたくさん咲いてました。
百合といえば初夏と思っていたので、不思議に感じて調べてみたら外来種のタカサゴユリと日本のテッポウユリの交雑種のシンテッポウユリらしいとわかりました。鳥羽に2泊して二見ヶ浦、伊勢神宮と回り、帰りは名古屋によりました。二見ヶ浦では、伊勢神宮のお塩を作っている御塩殿神社にも行ってきました。地元では「御塩殿」と呼んでいるとのこと。御塩殿神社から二見ヶ浦の夫婦岩まで、海岸を歩きました。すばらしいお天気。が、この時はもう、紀伊半島に大打撃を与える台風12号が南の海の上に発生していました。

草津は台風12号が四国に上陸するかしないかという日に出かけて行きました。群馬県の山沿いでは記録的な豪雨が降っていて、関越自動車道は本庄児玉から渋川伊香保までが通行止め。国道17号は大渋滞。さらに山越えをして長野原に出て、草津にたどり着くまでに8時間もかかりました。四国に上陸するはずの台風は、時速10キロののろのろ状態。上陸してからも速度は上がらなかったのは皆さんご承知のとおりです。草津の宿に到着した晩は、落雷もあり、一時、非常用の電気を使いました。翌日も時折叩きつけるような雨でしたが、湯畑だけはゆっくり見物してきました。

草津から伊香保へ。台風が通り過ぎて、山はすっかり秋の気配でした。日陰も涼しく、夕方になれば肌寒いくらい。ホテルの前へ朝取りの野菜を売りにきていた農家のおばさんに聞くと、台風の風で、収穫直前の林檎が枝にこすれて傷だらけになってしまったそうです。
伊香保の石段街は、再整備の途中らしく、自動車用の道路に面して広場が出来ていました。石段もすっかり新しくした様子。共同浴場の石段の湯は、以前よりも少し自動車道に近い場所に新築されていました。
1102 20110818 ニクソンショックから40年 今年の8月15日はニクソン・ショックから40年だそうです。ニクソン・ショックは1971年。連合赤軍による浅間山荘事件は1972年冬のことですから、ニクソン・ショックの頃の日本では、全共闘の学生運動が下火になり、極端に突出した運動家が、多くの人を驚かすような事件を起こすようになっていました。淀号のハイジャック事件は1970年の春ですから、ニクソン・ショックはちょうどその二つの事件の間で起きています。
さて、ニクソン・ショックですが、アメリカのドルと金の交換停止をニクソン大統領が突然に発表したものです。そこからドルの興亡が始るのでした。長い目で見ればドルの凋落かもしれませんが、ただ落ちる一方ではなかったようです。今から振り返るとドルは、金という縛りから自由になって行った40年だったわけです。正式に変動相場制に移行したのは1976年。昭和で言うと51年で、私は高校生になっていました。1985年にはプラザ合意で、金融自由化が始ります。日本でバブル景気が本格化するのは、これ以降だったと思います。1985年の3月に、私はロンドンに3日間ほどいて、金融街のシティを歩いています。日曜日だったので、ひっそりとした金融街でした。たった3日間しかいないロンドンで金融街のシティに行ってみようと思ったのは、飛行機の中のガイド・ブックでちょっと興味を持ったからに過ぎません。でも、興味を持つからには、何か理由があったはずなのですが、その理由が今はもう思い出せなくなっています。
ウィンブルドン効果という単語は1985年3月の段階ではまた知らなかった、というより、単語がそもそもなかったかもしれません。ロンドンのシティに世界中からの金融取引を集めて、イギリスを繁栄させる政策をそう呼ぶのだと聞いたのはだいぶ後からです。テニスのウィンブルドンのように、金融取引の勝者はどこの国の人でも良い、しかしその取引の場所がロンドンのシティであれば良いという理屈でした。NYはこれをより大規模に展開していたようです。これでドルはその基軸通貨としての地位を守ります。日本では株式市場の値上がりはもちろん、土地の値段がべらぼうに上がりました。私が今、住んでいるマンションを購入したのは、この値上がりの最中でした。だから高い買物をしたのかもしれませんが、その頃は銀行も気前が良くって、お金を借りてくれと頼むようなことさえありました。
金融自由化による好景気は額面上の財産を増やすことで、経済を活性化して行くという方法です。額面上の財産を増やすというのは、投資家の投資を誘うのですが、投資したからには利益が出なければなりません。簡単に言えば未来にお金を投じるわけですから、そのお金が何か利益を生む必要があるのです。で、ここで1970年頃から日本で原発が盛んに作られるようになってことを重ねてみたくなります。何をするにも先立つものはお金と、よく言われますが、お金と同じくらい「電気」がなければ、何もできません。
内需拡大はプラザ合意後の日本でよく聞いた言葉ですが、内需拡大も先立つものは電気であったと今更ながらに呆れます。小学生だったうちの子どもたちと「バック・トゥ・ザ・フューチャー」を繰り返し見て楽しんだのは1990年前後。PART2では悪ガキのビフが未来のスポーツ年鑑を手に入れ、スポーツ賭博で大金持ちになって、街が電飾ギンギンのラスベガスのようになっているという場面がありました。PART2の公開は1989年。NYの株式市場が大暴落したブラック・マンデーは1987年10月でした。が、日本では株式市場は値上がりを続け1989年12月に史上最高値の38915円89銭をつけました。ブラック・マンデーを経験したアメリカは、グリーンスパン氏がFRB議長に就任したばかり。その後、グリーンスパンマジックという手法を展開してゆくようになります。
映画の「バッグ・トゥ・ザ・フィーチャー」PART3の結末と違って、アメリカは世界を巻き込みながら、大量に電気を喰うギンギンのラスベガス街道を驀進して行くというわけです。実態なき経済成長と言ってもいいかもしれません。
しかし、ほんとに実態がなかったわけではなく、実態を後からくっつけたわけで、やはり電気が必要だったのです。戦後の高度成長期の経済成長と、後からむりやりにくっつけた経済成長では、感触が違うのはむりからぬことだと思います。だって額面上の会計の帳尻合わせのために、むりやりに遊んだり、食べたり、飲んだり、着慣れないものを着たり。そういうむりやりな生き方をする親の苦悶の表情を見ていた子どもたち、つまり今の青年たちが草食動物と揶揄されるような存在になったのも理由があることでしょう。彼らは時代が成熟を促した思慮深いヨーダみたいな存在かもしれません。「スター・ウォーズ」のヨーダです。
ニクソン・ショックからの40年を振り返ってみると、そこに日本の原発開発が重なります。1944年のブレトンウッズ会議からニクソン・ショックまでが25年。ニクソン・ショックから24年後の1995年の日本では、阪神大震災とオウム事件。2011年から先の10年。つまりニクソン・ショックから50年になるときには、電気をやたらに喰う金融資本主義はどのように変化しているのでしょうか。「スター・ウォーズ」ではヨーダも最後には剣を取って闘うのでしたっけ。
1101 20110815 飯田橋 深夜の投げ銭男 思い返せば5ヶ月前。震災直後の2週間ばかりは家からほとんど外へ出ませんでした。買物も近所で済ませていました。初めて池袋まで出た日は、運悪く、東京が大停電になるかもしれないという発表があり、帰りの電車は大混雑。知り合いといやにひっそりした街を歩いたのはいつのことだったか? もう4月になってました。外濠の土手に桜がいっぱい咲いていました。
4月半ばに大阪へ行った時は、大阪の空気がゆるいので、ほっとしたものでした。飲み屋で人の悪い冗談を大きな声で言っているおじさんがいるというだけでも、街の空気の違いを感じることができました。神保町でシャツを1枚買ったのは5月の初め。「震災直後よりもだんだん人が戻っていますねえ」とシャツ屋さん。震災から1ヶ月ほどは、神保町の人通りもまばらだったとのことでした。
そういう直後の緊張がほどけないまま夏に。なんだか夏になった気がしない東京です。浮かれて歩く人を見かけません。人の身なりもどこか遠慮ぎみ。リゾートじゃないぞ! というようなカッコウの人をほとんど見かけません。緊張気味だった人の顔は、だんだんちょっと険悪だなあと感じるような極端な人も見かけるようになりました。
さてとタイトルにした飯田橋の投げ銭男。見かけたのは7月末頃。その日は大学院の前期の講義が終わったので、飯田橋の東口のイタリア風居酒屋のテラスで院生諸君とワインを飲んでいました。電車の時間があるので、一人抜け、二人抜け。それでも話し込んでいて、残ったメンバーでカラオケにでも行こうかということになりました。だから12時半は回っていたでしょう。
飯田橋西口の五差路の交差点を新宿方向へ入ったところ、向こうから中年のカップルがやってきました。なにやら言い争っている様子。すたこらと歩く中肉中背の男。小走りに追いつきながら、首を傾げつつなにか言い募る女性は。かりっと痩せた身体で、女の人としては長身の部類。ほっそりとした首が印象的な女の人でした。ああ、けんかしているなあとぼんやり眺めていたところ、ポケットに手を突っ込んでいた男の人が、やにわにばらばらとお金を路上に撒きました。
一緒にいた院生が「あ、お金が落ちましたよ」と言いながら拾い集めようとするのを、ちょっと手で制してしまいました。落としたのではなく、あきらかにお金を撒いたのでしたから。10円玉、100円玉、それから500円玉。コインとはいえ拾い集めれば、けっこうな額になりそうです。案の定、男の人は「金拾って来いよ」と女の人に命令口調。言われた女の人は、やや躊躇。だって、お金を拾っている間に逃げられそうなのは見物していた私にも解るのですから。築地の市場に仕入れに行く料理屋さんが持っているような四角い籠を下げていた女の人は、躊躇はしたものの、路上にばら撒かれたお金が惜しくって、大急ぎで拾い集めだしました。
なんたる卑怯者なのだ。と、憤慨。でも、まあ、人様の喧嘩に首を突っ込むのも、いかがなものかで、通り過ぎるそぶりで見ていると、すたこらさっさと逃げ出すかと思った男の人は、ゆっくりとした足取りで遠ざかっていきます。で。道の角を曲がろうとしたところで、女の人が全速力で追いつきました。きっと道を曲がったところで走り出すつもりだったのでしょう。女の人のほうもそんなことお見通し。東洋人のカップルであることは間違いないのですが、どちらも日本人だったようなそうでないような、夜目には判断がつきかねる二人でした。
カラオケで遊んで明るくなってから同じ道に出てみると10円玉がひとつ落ちてました。あの男の人がポケットから撒いた10円玉だったかどうかはわかりません。なんだか言い争いの原因はお金のことだったような気がします。それにしても玉銭ばかりよくあんなにポケットに溜め込んでいたものです。
1100 20110809 米国債 格下げ 米国債がS&Pによって格下げされました。米国債が格下げされたことが、世界の経済へ、日本の経済へ、どのように影響するのかという一般的な関心とは別の関心を私は持っています。その関心を一言で言えば、米国経済の衰退は世界の文化と芸術をどう変化させるのかという関心です。
デジタル技術とネット文化の発展は時代の趨勢だと多くの人が感じているはずです。確かにそれはそうなのですが、気になっているのは、デジタル技術とネット文化は、コンテンツ(音楽、美術、文学、漫画、アニメーション、写真それから報道などなど)の価値を安く見積もる傾向があります。時には安くではなく無料の場合もあります。コンテンツが無料というのは、すでにテレビ、ラジオで経験済みのやり方で、テレビ、ラジオはコマーシャルの利益によって運営されてきました。ネット配信はそれをより強力に推し進めたもののように見えます。でも、このコンテンツを楽しむ人と、コンテンツの制作費用を負担する人の間に、おおきなズレがあることが問題でした。コンテンツは無料で楽しめるものという意識が生まれてしまうところにも問題がありました。
今日、CDショップのWAVEの破産というニュースを見つけました。ネット配信が進んで、CDの売り上げが落ちたからというのが破産の原因だと思います。アメリカではアーティストが楽曲の配信では利益が上げられないので、グッズ販売に力を入れているとも聞いています。ネット配信の利点は、データなので倉庫代や運送費、それから店舗にかかる諸費用がいらないので「安く」なるというものでした。しかし、それはほんとうなのでしょうか? 私は首をかしげています。
私はおもに電子ブック関連で、上記のようなネット配信の利点の説明を聞いてきました。そのさいに感じたことを率直に書くと、そういう説明をする人は、本というものの紙代や輸送費は問題にしても、かんじんの本の中身の価値がどのように捻出されているのかは、ほとんど無知である場合が多かったのです。つまりコンテンツの価値を「本」という物品の値段にどう含ませているのかについて知っている人はいませんでした。これは、音楽や映画などでも同じことが言えると考えています。ネット配信の説明では、コンテンツの価値は著しく無視されていることが多いのです。
さて、一方で、ネット配信はそんなに安いものなのでしょうか? 配信を受けるための情報機器の値段はピンからキリまでありますが、その機器を数年おきに買い換えることを考えると、トータルでそれほど安くなったと私には思えないのです。情報機器だけでなく、情報を再現するためのソフトの必要もあわせるとよし割高に感じられます。私は30万円あったら、死ぬまでに読みきれないほどの本を買い込むことができますし、お天気がよければ電気代もかけずに繰り返しその本を読めますし、なんなら、繰り返し読んだ本から、新しい物語を自分で作ることもできます。いや、これは脱線。
ここからが偏見。現在のネットはもともとアメリカが軍用で持っていたネットワークを民間用に開放したことから始まっています。なぜ民間用に開放したかと言えば、新しい産業を興して、アメリカ経済を活性化するためでした。考えてみれば、第二次世界大戦に勝利して以来、アメリカはすっきりと勝利した戦争はありません。朝鮮戦争、ベトナム戦争。いずれも「勝てなかった」戦争です。第一次世界大戦、第二次世界大戦で国力を伸ばしたアメリカの力はベトナム戦争が終結する頃に、すでに成長の源泉を失っていたという見方もできなくはないのです。ニクソン・ショックはそれを物語っていました。しかし、アメリカは世界の覇者であることにまちがいはありませんでした。今、グローバル化と呼ばれている諸々の現象は、アメリカのやり方である場合が多いと聞いています。それが広まって行くのが1980年代以降です。で、ソビエトが崩壊。90年代に入ってすぐに、イラク戦争。インターネットが登場したのはこの頃です。
インターネットは最初から「革命」だとか「第3」あるいは「第4」の産業革命だと宣伝されました。裏を返せば最初から、かなり観念的に「産業革命」のイメージを喧伝されていたのです。そのことによって、株式市場でネット関連の企業の株価があがったり、ネット関連会社の間の買収活動が盛んになったりました。これが私には成長力の源泉を失ったアメリカの、むりやりな成長政策、観念先行の経済振興策に思えるのです。ここが私の偏見。
もともと雑誌(マガジン)新聞(ニュースペーパー)映画、ラジオ、テレビと言った大衆文化を中心に発展してきたアメリカ文化は、コンテンツに対する評価は「数」の評価を重要視するところがあります。薄利多売を美徳とするところも多いにあります。そうしたアメリカ文化の性質がネット配信の世界で生かされています。が、根がややムリな経済振興策、成長政策の理論から出発していると思っているので、私はそれを自然な時代に変化と感じることができないのです。ネット関連企業とデジタル技術関連企業の帳簿上の利益(株価の値上がりなどを含む)を上げるために、アーティスト(歌手や作家)、小売業者(CDショップや本屋さん)劇場、それからそれに関連したさまざまな業種(紙屋さんとか、歌手のマネージャーとか)などの得ていた利益を、吸い上げてしまっているのではないでしょうか? 結果として小さなビジネスの利益を、大きなビジネスの利益へと搾取するような現象がおきているとは言えないでしょうか? それはアメリカ文化の華であった映画やポピュラー音楽、ミュージカルそれからジャーナリズムさえも衰退させてしまうような現象だと言えます。蛸が蛸の足を食べているような、そんな現象なのではないでしょうか。
話は米国債の格下げに戻ります。ここまで来たら、ニクソン・ショックから続く大きな歴史の物語もいよいよ大詰めの段を迎えつつあると考えてもいいでしょう。そしてその大詰めは、いったいいかなる結末を迎えるのかは、まだ誰にもわかりませんが、アメリカがむりやりに推し進めてきた「ネット革命」なるものが、大きく変化する可能性はあります。私はそれが「幻」あるいは「神話」や「伝説」として崩れて行くのではないかと、そちらの方向に、期待を持ってしまうのです。いや、ますます強力に「ネット革命」を推し進めて行くことも、想像できないわけではありません。いったい、どちらに世界は進んで行くのでしょうか。
1099 20110801 梅鉢の衣装 天神祭りの衣装はとにかく梅鉢、梅鉢、梅鉢でした。梅鉢を細かく散らしたもの、格子の中に配置したもの、大きな梅鉢が裾から肩へ飛んでいるもの。おそろいの浴衣に、いろいろな梅鉢の意匠がありました。そのほかにも目を引く意匠がたくさん。

お祭りは願人(がんじ)が太鼓を叩く願人太鼓から始まるのだそうですが、その願人と同じ赤い垂れの長い烏帽子(投げ帽子というのだそうです)を被った男の子が太鼓を叩いて天満の商店街を練り歩いていました。

天満宮繁盛亭の前では、美しい髪飾りの女性たちとすれ違いました。赤い半襟も梅鉢です。

笠踊りで商店街を練り歩くお嬢さんたち。だんだら模様の袴? がすてき。で、メイクはばっちり現代風。

同じ横じまの袴でも紺色と白のものもありました。こちらは、天満宮裏手の公園に引き上げてきたところ。男の子も女の子も、小さい子もかなり年配の人も皆々、同じ衣装をつけていました。なかには、この衣装のまま地下鉄に乗っている人もいました。
そういうわけで、今日もまた写真のアップ豆蔵君お願いします。
1098 20110729 お迎え人形 
天満宮のお社の一画にお迎え人形を並べてあるところがありました。やじろべえの豆蔵がいたのは、そのお迎え人形の末席? いや、末席かどうかは別にして、豆蔵はお迎え人形の中ではちょっと変わった存在でした。お迎え人形はかなりな大きさで、見た感じでは、大人一人と同じくらいか、それより大きな感じです。顔はまちがいなく、生身の人の顔よりも大きい。全部で16体あるのだそうですが、毎年、交代で展示されるそうです。やじろべえの豆蔵は、一番最後に大阪府民俗文化財に指定されたとのこと。英雄豪傑、芝居の登場人物とはちょっと違った雰囲気の豆蔵ですが、どうももともとは天満宮で子どものお土産として売られていたやじろべえを、お迎え人形のひとつに加えたということのようです。

今年出ていたのは、まず八幡太郎義家。山形の酒田では、この八幡太郎義家のお人形が、蔵から出たがって、持ち主の家の人の夢に出たという話を聞いたことがありますが、お迎え人形の義家さんもなかなか意志の強そうなお顔をしていました。

迫力満点なのは「胡蝶の舞」眺めているだけでぐぐっと迫ってきそうなお人形でした。

かわいい顔というか、どこか、とぼけているのか大らかなのかわからないのがスサオノノミコト(ほんとは漢字なのですけど省略)英雄豪傑というよりも、ねえちゃんのアマテラスオオミカミを困らせた末っ子の感じが出ていました。

で、お迎え人形が展示してあるところの頭上には、蜆貝で作った藤棚が。確かに藤に見えます。貝の内側がほんのりと紫色ですから。藤には見えるけれども、じっと見ていると、なんだか皆でひしひしと蜆のお汁で、ご飯を食べている光景が浮かんできます。「二日酔いにはやっぱり蜆汁だよ」なんて呟きながらご飯を食べていた人もいるかもしれないなんて、余計な想像までしてしまいました。
と言うわけで、この項は、また例によって「豆畑の友」の管理人の豆蔵君が写真をアップしてくれる手筈になっています。豆蔵君、どうぞ、よろしく。
それぞれの人形と本文があっているかドキドキです(豆)
1097 20110728 天神祭で見つけたもの。 
梅雨明けの頃から、夏を挟んで、秋まで、いったい日本中でどのくらいのお祭りがあるのでしょうか? ちょっと有名なものを思い浮かべただけでも、次から次へときりがなく浮かんできます。「内需拡大」なんて経済学の言葉を知らない昔の人は、神様と遊んで愉快に過ごして、友人知人が遠方から訪ねてきたり、贈り物をしたりして、いつのまにか暑い盛りが過ぎて行くと、そういうふうになっていたようです。
「こんな暑い時に」
稲垣さんとの待ち合わせより少し早い時間に天満に出て、いつも覗く天満3丁目の古本屋さんの矢野書房に顔を出しました。すると「暑い時に」というご挨拶。ほんとに暑かったのですが、これは天神祭りの頃の決まり文句の挨拶でもあるようです。店主一人の古本屋さんですから、お祭りのときは役員に出てお店を閉めているかもしれないと思いつつも、覗いてみたのでした。
天1、天2、天3と続く天満の商店街は、聞くところによると日本一長い商店街だそうです。ずっとアーケードが繋がっています。アーケードの中にはシャッターを閉じたままのお店もちらほら。なんだか賑わいからは遠い感じがする天満の商店街です。個人経営のお店はどこも苦しいようです。お祭りで大勢の人が出て、子ども神輿や笠踊りなどが繰り出していますが、やっぱり、日頃の寂しさは残っていました。シャッターを下ろしたお店の前に「亀すくい」の露天がありました。金魚すくいはいたるところで見かけましたが、「亀すくい」はここだけ。男の子が器用に緑色の小さな亀を掬っていました。

矢野書房さんは「今年はお祭りの役員は勘弁してもらって店を開きました」とのこと。そんな四方山話をしているうちの、表では賑やかにお神輿を担ぐ声や、お囃子の音が聞こえてました。古本屋さん、喫茶店、レストランや食堂、それから八百屋さんに魚屋さんなど、個人経営のお店は、よそから来る人間には、その土地に知っている人を作るためのよいきっかけになってくれます。それでいろいろなことを教えてもらったりもします。しかし、コンビニやスーパーそれかチェーン店のコーヒーショップなどは、そういう気の合う知り合いができるということはあまりありません。どこに行っても同じサービスを受けられるけれども、いつまでたっても「どこかに知らない人」でしかないということが多いです。
「あのお神輿が走るから、危なくって」
「え、お神輿が走るのですか」
なんて言っているうちに、わぁと声が上がってお神輿がお店の前を走り抜けました。
「ほんと。走っている」
唖然とする私に
「だから、役員で出ているときは子どもに怪我をさせないように、気が気じゃありません」
アーケードの中を走るお神輿のあとを、小さな子どもがこれまた全速力で走って追いかけていました。
矢野書房で東京へ送ってもらう本を幾つか選んで、それからしばらく天満の商店街を歩きました。で、天満宮へ。天満宮の大門にはびっくりするほどの大きな茅(ちがや)の輪がありました。この大門はお神輿が出入りするために、一般の出入りは止められていたので、わきから天満宮へ入りました。お社の前には立派な鳳神輿と玉神輿、それに地車があり、それぞれの「講」の人たちが集まっていました。「講」というのは、それぞれの役割を負った氏子の集まりみたいだなあと、眺めていて、気付いたことがあります。それぞれの「講」でいろいろな品物を売っているのです。扇子とかストラップとか、グッズを売って、そのお金がお祭りの資金になると、そういう仕組みらしいのに気付きました。なんか大阪らしい方法だなあと、ミュージシャンのライブなどでは珍しくない方法ですが、お祭りだとひどく珍しい感じがしました。

幾つもある「講」の中に生きた牛を連れてきている「講」があります。天神様のお祭りだから牛が出てくるのは納得ですが、この牛がおとなしいこと。鼻面を人が撫ぜても、大きな目を見開いてじっとしています。「3歳の女の子の牛だからおとなしいよ」とおじさんが見物の人に話していました。
やじろべいの「豆蔵」を見つけました。「お迎え人形」という特大の人形が並んでいる中に、なぜか遠くを見ている「豆蔵」が。これは、さっそくここのHPの管理人の豆蔵君に見せなくっちゃと、お写真をぱちり。

八軒屋浜へ出てみると、お化け屋敷が。靖国神社のみたま祭りに出ていたお化け屋敷を外から眺めましたが、同じお化け屋敷か、違うお化け屋敷かどうかはわかりませんでした。でも呼び込みは、靖国神社とはまったく違ってました。
「はい。おもしろいよ。笑えますよ。お話の種に見て行ってちょうだい。絶対に笑えます。笑えること保障します」
大阪では「笑い」はとても価値があるのだと、大阪女性文学会の尾川さんから聞いたがありましたが、お化け屋敷まで「笑い」が売り物とは。お化けも大阪ではコメディアンのようです。そう言えば天満宮のそばに評判の寄席の「繁盛亭」がありましたっけ。
飴細工屋さんが露天の店を出しているのは初めてみました。次から次へと注文だ殺到して、手を休める閑もない飴細工屋さんでした。

氏子の集まりの「講」は町内会と同じと、関東者の私などはそう思い込んでいるのですが、どうも天満宮の「講」は町内の集まりのほかに、料理人の集まりとか、市場で作っている「講」とか落語家の「講」など職業的な集団の「講」もあることに、あっちこっち見て歩いているうちに気がつきました。隣近所のお付き合いのほかに同業者の結びつきも強い商人の町の大阪の面目がそれぞれの「講」にあるようでした。
1096 20110725 チャンチャカチャンチャカ ちょっと時計を見て、ああ、大阪ではそろそろ天神祭りのクライマックス、陸渡御、船渡御、それから花火が終わるころだなあと、見られなかったその華やかだという水陸の行列を想像してみました。25日つまり今日がその日です。天神祭の陸渡御、船渡御は太閤秀吉の頃の大阪を想像できるのではないかと思い、なんとしても見てみたいのですが、これは来年のお楽しみにして、天神祭の宵宮を見物してきました。
伊藤さんから「案内してくれるって人がいるよ」とメールを頂いたのは先週の木曜日夜。あいにく私は朝帰り(つまり金曜日)でした。朝帰りと言うか、飯田橋で法政大学の1限の講義に出るという学生とすれ違うという話で、頭は朦朧。夕方、再び飯田橋へ這い出して法政で授業に出て、最終の新幹線で大阪に滑り込むという例によって例による日程でした。うまく案内してくれる人と連絡がとれるかな? とちょっと不安。なにしろ前の週は群集を怖れて、京都の祇園祭りのクライマックスをすごく遠くから眺めるという残念な結果だったのですから。コンコンチキ、コンチキチンからチャンチャカチャン、チャンチャカチャンヘ、2週続けてのお祭り見物でした。そして、今度はうまく大阪の稲垣さんと落ち合うことができました。待ち合わせは、いろいろな出し物で賑わう天満の商店街近くのスーパーマーケットでした。

お祭りは地元の人に案内してもらうのが一番。大阪天満宮を見て、それから裏手の公園へ。さらに八軒屋浜へと歩きました。川を上り下りする船を見るのは、諦めていたのですが、どんどこ船を見ることができました。これは本祭りの先触れなのだそうです。これだけでもなかなか見事。大川の縁にはかがり火も焚かれていました。

どんどこ船のほかに、なにやら世話しなく動き回っているモーターボートがあり、烏帽子や袴をつけたお祭りの関係者とおぼしき人が乗っていました。ちょっと笑ったのは、忙しく動き回るモーターボートから、何か四角い箱のような物が、川に落ちたときでした。「あ、何か落ちた」と稲垣さん。川面には、船から落ちた荷物がぷかりぷかり。「どうするのだろう」と私。すると川面を突っ走っていたモーターボートが、つつっと止まり、くるりと方向転換して、荷物のところまで戻ってきました。で、船上の袴を着けた男性は、タモ網を繰り出して浮いている荷物を拾い集めていました。ああ、こんなこともあるんだと妙に感心してしまいました。

こちらに秀吉の頃の合戦へ出発する船団の様子を想像してみたいという下心があるせいか、どんどこ船から聞こえるチャンチャカチャンのお囃子の音が、なぜか鬨の声に聞こえます。京都の祇園祭りではあまり合戦を想像しなかったのですが、大阪の天神祭は「これは昔の軍事演習じゃないかしら」と思いたくなるくらい合戦を想像したくなります。

天満橋から、京阪天満駅の駅ビル屋上へ。ちょうど大川の向こうに陽が沈んでゆく時刻でした。陽が沈むと、入れ替わりに、大川端で焚かれていたかがり火の色が冴えてきました。
1095 20110721 コンコンチキ コンチキチン 「楽隊のうさぎ」で小倉の祇園祭りを取材した時、京都の祇園会の系統のお祭りですから、お囃子はみやびですよと教えてもらいました。小倉のお祭りといえば「無法松の一生」。歌謡曲で歌われた太鼓の乱れ打ちというのは作家の岩下俊作の創作なのだそうです。でも、そのイメージが定着しているので、お祭りのお囃子とは別に今は和太鼓のコンクールが開かれています。
九州の小倉から潮待ちの赤間ヶ関と通って瀬戸内海へ、瀬戸内海を東に進んで、淀川を遡り、伏見へという海から川へのルートがあったことをお祭りのお囃子は伝えているようです。祇園祭りの鉾に、異国的な図柄が見られるのも、そうした海上と河川のルートがあったことと無関係ではないでしょう。川端康成の「古都」の冒頭にはキリシタン燈籠が出てきます。それから西洋的な図柄を帯の図にしようとするちょっと変わった問屋の主人。祇園祭りの宵宮で、離ればなれに育った双子の姉妹が出会うこの小説では、当初、古い都と西洋の出会いがモチーフになる予定があったのかもしれないと思わせる幾つかのデティールがあります。笛と鉦と太鼓で奏でられるお囃子にも、どこか、遠い昔に忍び込んだ西洋音楽の面影があるのかもしれません。

淀屋橋から京阪電車で三条まで。三条大橋を渡り河原町通りにでると、ちょうど山鉾が御池通りを目指しているところでした。並んで進む山鉾を追いかけはしましたが、なにしろ人ごみが苦手。あとで聞いたら、河原町通りと御池通りの交差点でいしいしんじさんも山鉾の巡航を見物していたそうですから、人ごみを億劫がらずにいたら、出会えたかもしれず、ちょっと惜しいことをしました。なにしろ暑い日だったので、人ごみに突入する気力がありませんでした。

それから八坂神社へ。四条大橋を渡っているときに見知らぬ御婦人から、小さいな保冷剤のパックを「うちから持ってきたものですから使ってください」と手渡されました。あとで、鏡をみたら鬼のような真っ赤な顔をしていました。熱中症寸前だったかもしれません。


浅黄色の裃姿の人を八坂神社で見ました。きれいな色です。裃って、スーツに似ている感じがしますが、丸の内あたりで見かけるスーツよりもずっときれいな色をしています。お神輿は八坂神社を出発する寸前で、準備が始っていました。でも、いよいよ怪しくなっていたのです。気温と人手で、なんだか頭がくらくら、これはたまらんと、まずペットボトルのお茶を買い、それから「清浄歓喜団」を売っている亀屋清永に逃げ込ませてもらいました。このお菓子は古いお菓子で、お寺のお供物になるのだそうです。ごま油で揚げた硬い皮の中に、香料の入った餡子が詰まってます。

それでも火照りは引かず、四条大橋のたもとから鴨川の岸におりてしばらく休みました。橋の向こうから、お神輿を担ぐ用意をした人がぽつぽつ集まってくる時刻でした。いやはや、人ごみは苦手です。
1094 20110719 鴨川の流れ 
淀屋橋のベローチェで土佐堀川の水の満ち干きを少し眺めて京阪電車の特急で、京都の三条まで出ました。40分くらい。電車が地下から地上へ出るのは、京橋のあたり。何度か大阪と京都の間を往復して、電車の窓の外の川の流れを、家々が建てこんだ景色の中から「あのあたりだろう」と追うことができるようになりました。
淀とか伏見とか、たぶんそのあたりまでは、船で荷物が運ばれたのでしょう。で、伏見を過ぎると京阪電車は再び地下へ。今度は、祇園祭りの山鉾巡航を見物しようと思っていたので三条でおりました。

三条大橋を渡って河原町通りの方向へ。鴨川にはびっくりするほどきれいな水が流れていました。こんなに水が澄んでいる日があるんだと、ちょっと見とれてしまいました。

家と家が軒を接していて、その間に細い路地があり、路地の奥にもまた別の家があるという京都の町で、鴨川にかかる橋の上にでると、視界が遠く北山のほうまで開けてほっとします。京都の橋を渡るときは独特の開放感があります。水の流れと空と山と。河原が憩いの場所として生きているのが解ります。

八坂神社に行った帰りにあんまり暑いので、四条大橋のたもとから、河原に降りてみました。すると、橋の下で若いお嬢さんたちがおしゃべりをしています。向こう岸では川の流れに足をつけて涼む人も、石を投げて水切りをする人も。こんなに大勢の人が河原で涼んでいるのに。白鷺がなんでもない様子でひらりと舞い降りてきました。
3枚目の写真は四条大橋の下から三条大橋の方向を眺めたところです。歴史の本を読んでいると三条河原に首をさらしたとか。三条河原に引き出して処刑したとか、血なまぐさい記述が出てきます。河原というので、なんとなく町外れのような気がしてましたが、四条大橋の下からその方向を望むと、京のお公家さんや町衆でいちばん賑わう場所を選んでいたのかと、嘆息しました。
1093 20110718 淀川の眺め 
日曜日、淀屋橋から京阪電車で京都の三条まで出て祇園祭りを覗いてきました。来週は大阪の天神祭りを眺めてこようと思っています。
写真は京阪電車が出る淀屋橋のベローチェ2階から日本銀行大阪支店方面の眺め。下を土佐堀川が流れています。淀川の流れもここまで海に近づくと、潮の満ち干きがあります。古くは堺、新しくは神戸という外国の玄関口としての港があるので、大阪はあまり港町という感じがしません。横浜港がある東京と同じです。が、潮の満ち干きを見るとここも港であったことを思い出します。
来週の天神祭りは船渡御が見ものを聞いていますが、残念ながら25日は東京で用事があるので、24日の宵宮を見物しようと考えています。
17日(日曜日)は京都の祇園祭りの山鉾巡航。土佐堀川の流れをしばし眺めてから、京阪電車で京都の三条まで行きました。ちょっと特急がきていたので、京都三条まではあっというまでした。
1092 20110718 城戸朱里さんのハワイ土産 城戸朱里さんからもらったハワイ土産のことを書こうと思いながら、とうとう7月も半ばを過ぎてしまいました。今年は時間の流れが速いのだか、遅いのだか、感覚で上手くつかめません。

で、城戸朱里さんからいただいたハワイ土産です。LILIKOI BUTTERとピンク色のお塩。リリコイバターはパッションフルーツのジャムに蜂蜜とバターを加えたものだそうです。甘くって酸っぱくって、そして濃厚な舌触りと香りを持っています。これをパンにつけて一切れか二切れ食べればもう、おなかがよくなります。そのくらい濃厚な味と香りなのに、なぜか、暑いときにも食べたくなる味。さすがハワイのお土産だけのことはあります。城戸さんはハワイの朝市で素人の人が作った手作りのジャムだと言っていました。

それからピンク色のお塩。こっちはちょっともったいない感じがしてまだ食べていません。ゆで卵にちょこっとかけるとか、そんな感じで食べようと思っているだけ。袋ごと眺めて楽しんでいます。
震災後、お塩が値上がりを始めているそうです。「この世でいちばんおいしい物はお塩だ」と家康の愛妾だったお梶の方が言ったという逸話を聞いたことがありますけれども、味噌でも醤油でも、調味料にはお塩が必ず入っていますから。お塩の値上がりはなんだかただならぬ気がします。
1091 20110613 建築現場に夏が来る 今のマンションを買うときに不動産屋さんに「マンションってどのくらいの耐用年数なのですか?」と尋ねました。「査定では50年となっていますけど……」とのお答え。その頃、今のマンションは築8年というところでした。それからもう24年。我が家も築30年を超えました。
ところで日本のコンクリート建造物はだいたい築30年くらいで立て直されているそうです。それはどこで聞いた話なのか、それとも新聞で読んだ話だったのか?よく記憶していないのですが、そう言えば、戦後すぐに建てられた建物が姿を消して新しくなったのは、私が大学へ通っていた頃でした。それから子どもの時に昭和30年代40年代の建物が順次に姿を消して行きました。

飯田橋の警察病院や郵便局があった一画の再開発が始るという掲示を発見したのは、昨年(2010年)秋でした。警察病院はもう閉鎖されていました。3月11日の地震のときにはまだ、建物の取り壊しは始っていませんでしたが、工事のための囲いは出来ていました。通りがかりの女の人が「え、郵便局も地震で崩れちゃったの!」と驚いていたのは4月のはじめだったか。思わず「いいえ、再開発です」と声をかけそうになりました。

それから見る見るうちに取り壊しが始りました。今ではもう、すっかり地上の部分は取り壊され、地下の構造物の撤去まで進んでいます。写真は外濠側から解体の様子を写したものですが、富士見側からみると、外濠土手がくっきりと姿を現して、幕末の写真で見るような景色を見ることができます。
工事現場にカメラを向けていたら、年配の男性、たぶん70代半ばくらいでしょうか? そのくらいのお年の方から声をかけられました。
「ああ、なんて乱暴な工事でしょう。埃がもうもうとたっている。音もひどい。もっと、きれいに取り壊せるのにねえ」
と憤慨していました。確かに住宅密集地での工事に比べる大胆で乱暴な工事の進め方です。そういうお仕事をしていた人なのでしょうか。少し御返事に困りました。
取り壊した跡地には、40階建ての建物が2棟できるそうです。まさかそんな巨大な建物も50年余りで取り壊すなんてことになるのかしら。そんなことはないだろうと、自問自答。どうなるものやら、わかりませんが、そろそろ30年サイクルで景色が変わるということも終わりだろうなという気だけはします。
そうすると幕末の写真にみるような外濠土手の眺めを楽しめるのは、これからほんの数週間ということになりそうです。富士見側からの写真を撮りたいと思いつつ、なかなかそれが出来ずにいます。写真を撮るならお天気の良い日の、光がちょうど上手い具合に差し込む時間がいいなあと、へたくそなくせに高望みをしてしまうからますます写真を撮るタイミングを逸しています。
1090 20110611 さくらの実の熟するころ。 
外濠の土手の桜。毎年、小さな実をつけます。今年は例年にもましてたくさんの実がなっているような。そんな気がするのは、いつもの年よりも注意深く、外濠のさくらの変化を、こちらが見ているせいかもしれません。
桜の実は小指の頭よりも小さい。黄色い実が赤くなり、それから赤黒くなるとヒヨドリがやって来て実をついばみます。だから外濠の石畳はヒヨドリの黒い糞でまだら模様になっています。うまくしたもので、雨がふればヒヨドリの黒い糞はみな洗い流され、あとには桜の種が無数に残っています。目の良いヒヨドリは、桜の実が食べごろになるのをほんとによく見つけるものです。

ヒヨドリの大宴会が終わる頃には、泰山木の花がぽっかりと開きます。いつもの年は泰山木の花が突然開いて驚くのですが、今年は細い花芽がついたときから、目がいっているということは、やっぱり注意を特別に払っているということでしょう。人間の世界はなかなかうまくいかない事も多いのですが、自然の世界はちゃんと地球は公転して、冬が過ぎれば春が来て、行く春を惜しんでいる間にも夏の支度は整うようになっているようです。
1089 20110610 鎌倉 鶴岡八幡宮の大銀杏ひこばえ 
鎌倉の鶴岡八幡宮は懐かしいお社です。子どもの時のなじみのお社は金沢八景の瀬戸神社。館山へ移ってからは船形の崖観音と那古観音。鎌倉の鶴岡八幡宮は、子ども時代に境内で遊んだお社とはちょっと違って、なんだか晴れがましくなつかしいところがあります。
小学校の修学旅行は金谷から東京湾フェリーに乗って鎌倉、小田原というものでした。鎌倉の八幡様の石段で撮影した集合写真を持っています。でも私はそのなかに写っていません。風邪を引いて熱を出したものだから修学旅行に行けなかったのです。で、翌年のお正月、母と叔母に鎌倉へ連れて行ってもらいました。鶴岡八幡宮へ行ったのはその時が初めてでした。金沢八景育ちの母や叔母はもちろんもう何度も出かけているお社です。鎌倉に行くなら駅前の豊島屋の喫茶室に寄ろうと、母と叔母が相談していたのを覚えています。このお社が、なんだか晴れがましく懐かしいのは、そんなことも関係しているのかもしれません。それから、30代の頃は、鎌倉在住の富岡幸一郎さんたちに誘われて、夏に鎌倉の飲み会をやってました。そいうことも懐かしさにきらびやかさを加えている理由になっているのでしょう。
城戸朱里さんに芸術選奨新人賞を受賞されたお祝いを差し上げたいと言ったら「鎌倉の宴会!」という御返事が来て、それが震災やら原発事故でのびのびになっていました。で、約束を果たしに鎌倉へ。藤沢周さん、八木寧子さんも加わってささやかな祝宴を楽しんできました。

八幡様の大銀杏が強風のために倒れたのは、1昨年の秋のことでした。一度、様子を見に行きたかったので、城戸朱里さんとは大銀杏の前で待ち合わせました。紗の覆いで保護された大銀杏の株からひこばえが出ているというニュースは聞いてました。

紗の覆いをどれどれと覗き込んでみると、おおきな株の中からにょきにょき。出ているではありませんか、幾つものひこばえが。いや、もうひこばえと言うにはやや大きくなりすぎていて、若木と呼べそうな大きさに育っていました。一本の大木が倒れて、そのあとに、若い木の林が生まれつつあるのを見てきました。

地上の幹は折れて倒れても根はまだ生きているのです。生きている根は、もう一仕事もふた仕事もしてから、だんだんとこの世を去ってゆく様子です。根を張るというのはそういうことなのでしょう。大木が倒れたあとに若木の林が出来て、若木の林の中から強い木が、ほかの木々を圧倒してまた大木になる。その間に100年ぐらいが過ぎて行く。紗の覆いの中を覗きながら、そんなことを考えました。もっとも、紗の覆いに注連縄が張られた大切な木ですから、ひこばえの根本には栄養剤が注入されていて、たくましさよりはやや過保護? な様子も見て取れました。
1088 20110605 復興書店に本がならびました。 たいへん遅くなりましたが、復興書店に本が並びました。絶版になっている新潮社「楽隊のうさぎ」単行本。新潮社「うさぎとトランペット」単行本。それから新刊の「書評 時評 本の話」集英社文庫「豊海と育海の物語」新潮文庫「うさぎとトランペット」などを提供しました。いずれもサインと入れました。
昨晩アップされたのですが講談社文芸文庫「女ともだち」は早くもSold Outの表示になっていました。お買い上げく下さった皆様、どうもありがとうございます。また、ほかの本もお早めにお買い上げいただければ、うれしいです。どうぞよろしくお願いします。
1087 20110603 青い森鉄道からJR八戸線 台風と梅雨前線の隙間に広がった青空の一日。青い森鉄道とJR八戸線に乗ってきました。新幹線の新青森延伸で、今年の新緑の季節は観光客がたくさん来るはずだたのにと、新幹線が来ても、震災のために観光客が減ってしまった青森です。
青い森鉄道は旧東北本線。東北本線だった頃に何度か野辺地や八戸まで特急に乗ったことがあります.青森の駅には、青い森鉄道の案内所が出来ていました。案内所前に立っていた女性と、八戸からのJR八戸線の連絡について尋ねるとついでに地震の話をしました。青森もゆら〜りゆら〜りと、大きくゆっくりとした揺れがしばらく続いたそうです。
青森駅ホームに入ってきた青い森鉄道は2両編成のロングシートの列車。ボックスシートの特急とは様子が違って、なんとなくのんびりムード。ただし、青森市内を出たあたりから。飛ばすこと飛ばすこと。こんなにすっ飛んでいいたのしらと、驚くほどの速さで、浅虫温泉あたりの海岸へ出て、青い海を左手に、輝く緑の山を右手に進んでいきました。黒い帽子、黒いコートに青いスカーフそれに黒いスラックスのお婆さんが、シートにゆったり腰をかけて列車の窓の外を眺めていました。太平洋側は寒いのです。「やませ」と呼ばれる寒冷な気候で、まだストーブを使っているお家もだいぶあります。だからお婆さんは冷えないように完全防備。
さすがに青森には、大阪や名古屋で見かけるようなロリータファッションのお嬢さんはいないなあと思ったやさきに、黒っぽいリボンに白いレース黒い編み上げのコルセットに白いレースのストッキングというスタイルのお嬢さんが列車に乗ってきました。やっぱりロリータというのか、バロックと言うのかデコラティブなファッションは日本全国で流行中の様子。野辺地でした。
このデコラティブお嬢さんと一緒に観光客らしい女性も数人乗ってきました。50代60代くらい。お洒落してます。2、3人と連れ立っていました。それから一人旅の人も。座席に座ってキャリーケースの上に足を乗せていた女性は、年はたぶん60代前半。旅なれた様子から見ると、きっと若い頃から一人旅になれているのでしょう。というわけで八戸に到着。

JR八戸線は八戸から岩手県の久慈まで、風光明媚な海岸線を走る列車です。しかし、現在は青森県と岩手県の境の階上(はしかみ)駅までしか列車は走っていません。階上から久慈までの線路や鉄橋が津波で流されてしまったのだそうです。現在は列車の代わりにバスが運転されています。


ボックスシートの車両で2両編成。八戸駅から鮫(さめ)駅までは市街地を走ります。八戸セメントの大きな工場が見えました。鮫駅で列車に乗り込んできたお婆さんが、乗客の中に知り合いの顔をみつけてうれしそうに声をかけ、二人で手を取り合って喜んでいました。
市街地を出るとすぐに、ウミネコが巣を作っている蕪島が見えます。列車は少し高いところを走っているのですが、太平洋の荒い波が打ち寄せる海岸線は津波の被害を受けています。

蕪島でも、大きなコンクリートの防波堤の一部が津波に打ち砕かれていました。島のかげになっている駐車場の東屋は無事。しかし、並んでいたお土産屋さんは跡形もないということでした。蕪島から種差海岸のあたりの松林の中には、切りそろえられた松の材が積み重なっていましたが、これもどうやら、津波で倒された松を片付けたものの様子。すっかり片付いてはいますが、ところどころにコンクリートの土台だけになった建物もありました。

気がつくと列車の中はお婆さんたちの話し声でいっぱい。なんだかウミネコが鳴き交わしていた蕪島を思い出させます。お婆さんたちは穏やかな声でなにやら楽しそうにお喋りをしていました。お爺さんよりお婆さんが目立ったのは昼過ぎという列車の時刻のためでしょう。鮫駅までは何本も列車が出ていますが階上まで行く列車は朝、昼、夕方の3本です。
階上のひとつ手前に大蛇(おおじゃ)駅から山のほうへ登ったところに大きなトチノキとウツギがあるのは知っていたのですが、その木を見に行くと、八戸の戻れるのは夜になってしまい東京行きの新幹線には間に合わなくなるので、今度はよしました。ウツギは白い花を咲かせている季節なので、ちょっと惜しかったのですけど。階上駅で列車の車掌さんに聞くと、乗ってきた列車がまた八戸に引き返すとのこと。
駅前のお店でパンを買って停車中の列車の中で食べることにしました。
パンを買った駅前のお店のおばさんは「ほら、あれだから。あれで八戸はずいぶんひどかったみたい」でと話してくれました。地震とか津波という言葉を口に出したくないみたいです。だから「あれで」「あれだから」と。忌み言葉という習慣がありますが、恐ろしかったのでしょう。しぜんと「あれ」を指す言葉が忌み言葉になっていました。階上のパン屋さんだけでなく、ちょっと「津波」や「地震」という言葉を避ける感覚は、八戸の八食センターの八百屋さんや、青森の新鮮市場の魚屋さんにもありました。
停車中の列車に戻ってパンを食べていると、若い車掌さんが暖房を入れてくれました。空は青く、光は初夏の光ですが、空気はひどく冷たいのです。寒いというよりも冷たい空気があたり一面を包んでいました。
1086 20110602 八戸 蕪島のウミネコ 
桜前線が過ぎたあと、東北は今が花盛りです。目立つのは白い水木。黄色いさまざまな野の花。藤にライラック、桐といった紫の花。それから新緑。青い空。八戸に新幹線「はやて」を使って行ってきました。
仙台の水田は田植えが終わり、稲が伸び始めていました。駅周辺では屋根瓦が落ちたのか、青いビニールシートで屋根を覆う家もちらほら見えました。それから斜め45度に傾いたままの電柱も。まだまだ災害の片付けは途中の様子が列車の窓からも見受けられました。
青森に入ると田植えをしている水田もありました。
八戸。津波の被害を受けたあとは、ほとんど片付けられていましたが、あっちこっちにベニヤ板で窓や出入り口を覆った建物がありました。それでも瓦礫の撤去は早く済んだとのこと。ウミネコの繁殖地の蕪島へも、車で行けるようになっていました。

蕪島はみどりの三角錐の山と黒い岩礁がくっついたひょうたん型の島です。昔は海の中に孤立していたそうですが、今は陸続きになっています。2、3月に飛来したウミネコが巣を作り、5月から6月にかけて雛が孵るのです。津波のときはまだ営巣が始っていなかったとのこと。津波で蕪島周辺のお土産屋さんは流され、防波堤も砕かれていましたが、ウミネコは無事に巣を作って雛が育っていました。三角錐の山の頂上の神社も無事。

神社の境内、参道、駐車場などなどいたるところウミネコだらけ。雛にカメラを向けると親鳥は大きな声で鳴いて怒りますが、さりとて、攻撃的態度に出ることもなく写真を撮らせてくれました。親鳥が怒ると、雛鳥も一緒になって怒り出りだします。その顔がなんだか一人前なのが、おかしいやらかわいいやら。

神社参道入り口には、ビニールの置き傘がありました。ウミネコの糞避けの傘です。なにしろ、あっちを見てもウミネコ、こっちを見てもウミネコ。ウミネコの巣はいたって簡単なもので、木の枝や草をちょこっと集めただけの巣でした。

1085 20110523 もしかしたら、もしかしたら。 「もしかしたら、もしかしたら、そうなのかしら」はピンクレディーの「UFO」のサビの部分ですが、3月の末頃から気になっていることがひとつあります。
正確には記憶していないのですが、3月の20日過ぎに顎のところに妙な傷ができました。顎に違和感があったので、最初はにきびのような吹き出物だろうと思って、指先で弄っていました。ところが鏡に映してみると、細い切り傷のような傷なのです。長さは1センチよりやや短いくらい。紙ですっと指先を切った時のような傷。改めて調べてみると、手の甲や足のふくらはぎにも似たような傷が複数ありました。
顎の傷は、弄繰り回したせいか、それからだんだんと痒みがましてゆき、傷の周辺がただれました。治るまでにしばらくかかりましたし、まだ、よく見ると爛れた跡が残っています。最初に「もしかしたら もしかしたら」と書いたのは、顎と、それから手の甲や足のふくらはぎに現れた細い切り傷のような傷は、軽い放射線被曝があったために出たものなのかもしれないと、考えているからです。そう考えるようになった理由はインターネットで偶然見た放射線被曝の傷の写真でした。
「あ、似ている」
そう思ったのです。人にそれを言うとたぶん医者に行けと進められるでしょう。それで医者に行くと今度は「春先ですからアレルギーか何かでしょう」と診断されるか、もしくは「よくわかりませんが、たいしたことはありません」と言われそうです。だってそうそう放射線被曝からくる傷を見たことがある医者なんているとは思えませんから。
自然に治ってしまったので、もうそれでいいのです。ただ、東京周辺でも下水処理所の汚泥や茶葉から放射性物質が見つかっているということは、それだけの放射性物質が降り注いだということですし、最近、次々に明らかになってくる資料では3月12日から15日にかけてはかなり高い濃度の放射性物質が降り注いでいたことがわかってきました。だから私の「もしかしたら、もしかしたら」もちょっと御報告しようという気になりました。ただのアレルギーとかそういうものなのかもしれません。よくわかりませんが、気にはなっています。
1084 20110520 あかしあほろほろ 薔薇の花の季節です。家のベランダの薔薇もたくさん咲きました。近代文学館の理事会があって、駒場を稲葉真弓さんと歩いたのですが、あのあたりのお屋敷町の薔薇も見事に咲いていました。気になるのは、表札が取り外された空き家を1件見つけたことです。どちらかへお引越しかしら。
卯の花というのは今時分に咲くしろい花の総称だそうです。まずミズキが傘を広げたような花を咲かせ、それからウツギの花が開きます。もちろんウツギは卯の花。エゴの木も卯の花。そのほかにも野いちごなども白い花を咲かせます。野面を白い卯の花が飾る頃になると関東は初夏。江戸時代には所沢の三富(上富、中富、下富)あたりが卯の花見物の名所だったそうです。家から見える斜面には、エゴの木がたくさんあります。斜面の上にマンションが建ったとき、だいぶ斜面の雑木を切ってしまったので、もうエゴの木の花も見られないかと諦めていたところ、今年はほんとうに見事に咲きました。昨年の春の天候不順がうそのような今年の初夏です。

あかしあは外来植物ですから、卯の花には数えないでしょうけれども、これも豆科の白い花をたくさんつけます。藤の花に似ています。もう盛りは過ぎて、高い木のうえには実がなっています。数日前、散歩のとき、良い匂いがしたので、見上げるとあかしあの花が風にほろほろ散っていました。あかしあの蜂蜜の匂いです。
1083 20110510 復興書店のこと 「豆の葉」を書こうとおもったら、豆蔵君、作業中でした。トップページに大きく復興書店とあったのでびっくりしました。
伊藤比呂美さんも私も復興書店に参加しています。御知らせが遅くなってすみませんでした。
復興書店は島田雅彦さんがツイッターで呟いたのがきっかけで被災地支援のために作られたネット書店です。(これでいいのかなあ?島田店長)あっと言うまにできてしまいました。それに驚いたのが私。あれよ、あれよという間に出来たのはいいのですが、島田雅彦店長からメールで指示がくるのに、頭の螺旋が緩んでいる私はついていけませんでした。そうそう、復興書店と同時にいしいしんじさん編集によるウェッブマガジン「W&B」もできました。で、そちらにも早速に賛成の手を挙げたのですけど。これもなかなか原稿が書けず。
ようやく、復興書店に本を送ることができたのは連休前でした。送ったのは「書評 時評 本の話」(河出書房新社)「楽隊のうさぎ」(新潮社 文庫ではなく絶版になっている単行本です)「うさぎとトランペット」(新潮社 こちらの文庫ではなく絶版の単行本です)「豊海と育海の物語」(集英社文庫)「うさぎとトランペット」(新潮文庫)などです。いずれも書名と落款を入れました。お値段は定価の一割増しにさせていただいきました。本を売ったり送ったりするための経費がかかりますから、そのぶんを一割増で賄わせていただくためです。ご理解下さい。まだ復興書店の店頭には出ていません。もうすぐ出ると思います。
伊藤比呂美さんの本はすでに復興書店の店頭に並んでいます。
それからいしいしんじさん編集の「W&B」の原稿もようやく入稿できました。エッセイを書きました。
おかげさまで復興書店は売り切れ続出。常時品薄状態が続いています。皆様、どうぞ復興書店で本を買ってください。
1082 20110509 うちの晩御飯 今年度2度目の大阪に行ってきました。帰りに近鉄デパートの地下食品売り場を駆け抜けてきました。家のお土産に食べ物を買うのは、子どもが小さかった時の習慣。お土産兼食料調達。おなかがすいたよぉって言われたらすぐに「はい、ごはん」となるようにやっていたことです。今じゃ、ちょっと贅沢のためのお買物になっていますが。


で、今回は鰆の西京漬け。西京漬けは関西がおいしいです。白味噌が良いから。それから、くぎ煮。昨年は不漁だったいかなごですが、今年は豊漁だとのことです。はしりの水茄子。まだ小さい水茄子ですが、皮が薄いから旨いとお店では言ってました。大阪で乗ったタクシーの運転手さんが、水茄子の油炒めは旨いよと教えてくれましたけど、高価なので、油炒めなんて……であります。水茄子の漬物は手で裂くとおいしい。で、手裂きにしてあります。

万願寺唐辛子だと勘違いして買ったのは大甘長唐辛子(宮崎産)でした。安かったの。で、袋をあけるとちょっとピーマンに似た香りがしたので、間違いに気付きました。ピーマンほど強いにおいはしません。だからほそく切って牛肉を巻き、肉巻きにしてみました。それからたけのこと長いもを炙ったものに、わかめとたけのこの穂先のすまし汁。これが我が家の晩ご飯です。山椒の葉でもあれば、もうちょっと見栄えがよくなるのですが、ま、いいことにしました。
1081 20110505 中沢ゼミ同窓会 
中沢ゼミ同窓会を開いてもらいました。今年は地震で日本武道館の卒業式が中止になったので、OBOGによる卒業を祝う会と兼ねました。数えてみると、もう6回の卒業生が出ています。
飯田橋アグネスホテルのバー。「服装はどうしますか」とお世話役をやってくれたジャックさんが聞いてきたので、平服でもいいし、お洒落をしたい人はお洒落をしてきてもいいということにしましょうと答えておきました。そういうわけで、私もず〜っと前に作った琉球絣の着物を着ることにしました。
考えてみると07年8月に「おたあジュリア異聞」の連載を静岡新聞、熊本日日新聞に始めて、08年はかなりしんどいなあとすぎ(この年はいろいろ細かいことがありました)終わったら、一息つくぞと終了目前の09年1月に心筋梗塞で入院しました。退院してすぐに卒論面接。学校のほうはそれでもなんとかしましたが、驚いたのは、住居の改修。老朽化した配管の交換工事をすると管理組合から聞かされて慌てました。本音を言うと、病み上がりには、家の改修はしんどかったのです。配管の工事で壁をぶち抜いたので、ついでに家のリフォームで09年は終わってしまいました。で、リフォームの片付けができないまま10年夏にこれまたマンション外壁の大規模改修。とてもじゃないけど、箪笥から着物を取り出すなんて気にはなれませんでした。
09年の心筋梗塞で退院してから、すぐに卒論の面接も入試の採点もしていたので、けろっとしているとか元気だとか言われましたが、それは誰か他の人と居るときだけで、一人になるとぐったりしていました。何よりも物を片付けたり、捨てたりができなくなっていました。ふわふわと遊びに行きたがる魂のあとを追いかけているような状態でした。家を片付ける。研究室を片付ける。それが一番できないのです。人の都合に合わせるのが嫌で嫌で仕方がありませんでした。ほかの人といると元気なのに、片付けだけはマイペースじゃなけりゃできないと。そんなアンバランスな状態でした。で、極め付きは地震。あ〜、どうしたらいいんだ! で、ようやくなんとか家の片付けをする目処がたってきました。ついでに研究室も。なにしろ地震でいろいろ崩れちゃったものだから。着物を着る気になったのはそんなタイミングでした。おかげで少し片付けの目処が立ちました。
卒業以来始めて会う人もいた同窓会でした。いつものとおり、なんとなくみんな集まって、なんとなく気の会う人どうしがお話をするという、それだけの同窓会。「うちのゼミの同窓会にしちゃあ、珍しく定刻でみんな集まったなあ」とこれは、某氏の感想。「だって先生が定刻でいたんだぞ」とこれは初代夜ゼミのゼミ長の感想。いつもどうもすみません。あらゆることをマイペースでやりたい私です。
職場の人とのお喋りとは一味違うお話ができるのが同窓会の良いところだと思います。またやりましょう。タイガーさんから「今度は名札をつけましょう」という提案をいただきました。そうしましょう。同窓会をする時には「豆畑の友」のトップページに告知を出すようにします。卒業以来連絡がとれない卒業生の皆さん、それからゼミ関係のみなさん(必ずしも卒業生でなくってもいいです。)今回は都合がつかなかった皆さん、告知を見たらお出かけ下さい。
卒業文集が地震で出てきました。それぞれの年代全てありました。欲しい方はお問い合わせフォームからメールを下さい。
1080 20110502 菜種ができました。紅葉もそろそろみどり色になります。 
外濠の土手に咲いていた菜の花に菜種ができ始めました。菜種油の菜種です。油がとれるくらいなので、たいへんに土地の養分を使うそうで、畑では2年と続けて同じ畑を使うことができないと聞いています。畑を休ませなくっちゃいけないと。
そのせいか、放射能で汚染された土地を除染するために菜種やひまわりを植えるという方法が試みられているということです。なんだか長く手間のかかる大仕事です。外濠土手の菜種は自然に生えてきたもので、やがて種が飛び散って、来年は別の場所で花が咲くことでしょう。
連休。ようやく何かをする気になって、桐箪笥の整理をしました。母の着物。私や弟が赤ちゃんのときに着た熨斗目。弟の七五三の羽織袴に、私の振袖。そういうものを箪笥から出して衣装箱に詰めました。母の着物よりも少し古いものもあります。こういうものはゆくゆくはどうなるのだろう? と思わないでもないのですが、ごみには、どうしてもする気になれません。もうちょっと年をとったら裁縫でもやってみるかな? と殊勝に思うのはきっと衣装箱を開けるときだけで、すぐに忘れてしまうでしょう。
なんだかうまく時間の流れについて行けてないので、あっちこっちご挨拶が遅れるやら、お届け物が届いてないやら、お詫びしなくちゃならないところがあるようですが、お許しを。そうそう、伊藤比呂美さんが伊藤製作所豆畑支所に戻ってきてくださいました。伊藤さんこんにちは。

秋に赤く色付く紅葉は、芽が吹いたときにも、赤々としています。この紅葉もそろそろみどり色に変わる時がきました。昨日今日の東京は暑いくらいです。
1079 20110430 鶴岡梅澤菓子舗のお菓子 あ〜。もう4月も終わりです。いったい何をしていたんだろう?ず〜っと地震だ、地震だと、そのたびにテレビをつけて、震源地と震度を見ていたような気がします。なんだか予定とかスケジュールというものに、興味を持てなくなっています。あとは、あ、映画を久しぶりでみました。有楽町のイトシアで。再開発する前にも映画館があったのですが(名前が思い出せないけど、有名)そのあと、新しいビルが建ちそこにも映画館が入っているとは知れませんでした。
「イブ・サンローラン」を見ました。劇映画じゃなくって、芸術的にドキュメンタリー。映像の組み合わせがきれいでリズミカルで見ていた楽しかった。映画館の向かいにはテラス付きのイタリア料理屋が。雨が降っていなければテラスから有楽町駅を見下ろすのも良さそうです。

螺旋が抜けちゃっているのを察知して、山形の佐藤先生が梅澤菓子舗のお菓子をたくさん送ってくださいました。見事なお雛菓子を作るお菓子屋さんです。3月は地震で過ぎてしまったので、と送ってくださったお菓子の数々。そのなかでも、うさぎの麦焦がしは絶品。ほろほろと口の中で崩れると香ばしい香りがします。同じ麦焦がしの狐面も美味しかったのですが、うさぎはかわいい。

のらくろも、なかなかです。パンなのかな。甘さ控えめ。でも、これを見てのらくろって解るのは、私や佐藤先生くらいまでじゃあないかしら?

塩釜はお決まりのタイ。ひらめ。海老も、蛸もありました。おすもうさんと兵隊さんがなんだかかわいくってピンクと白とクリーム色とみどり色でそろっています。ピンクと白の2種類があるキューピーさんも。見た目の美しい3色の飴も。ついつい並べてしまいました。
でもまだ佐藤先生に御礼を書いていないのです。今夜、書きます。絶対書きます。御礼遅くなってごめんなさい。許してください。
1078 20110426 災い転じて……… 
外濠の桜がすっかり花を散らせて若葉になりました。靖国通りを歩いていたら、福島、三春の滝桜の子孫だという枝垂桜を見つけました。この桜ももう葉桜になっていました。
「災い転じて」のあとは「福となる」と続くのですが、福島の原発事故は一向に収束の気配はなく、少し様子が変わったなと思うのは、幾らか事故処理の見通しがついてきたくらいのところでしょうか。目に見えない事故の広がりをどう感じたら良いのかわからないという話をよくします。推移を見守るしかなく、まだまだ「災い転じて」のあとを、常識的に「福となす」とは繋げ難いものを感じます。
だから、この先のことを言うのはまだ早いかもしれません。しかし、日本のエネルギー政策は人類のために原発異存から新エネルギーへと転換して欲しいなあと願います。日本のためではなく、世界のために。日本人のためではなく人類のために、いや、人類のためにではなく地球上のありとあらゆる生物、生きとし生きるもののために脱原発のエネルギー政策をとって欲しいものです。そのために、日本へ「人、物、金」を集めてもらいたい。「人、物、金」という三つは経済政策の話によく出てくる表現です。
「人」はこの場合、脱原発のエネルギー研究や放射線医学、省エネ型の技術などなど、さまざまな分野の英知を日本に集めればいいのです。理系だけではなく、心理学や社会学などの分野の人も必要です。メディア研究、映画製作、ジャーナリズムの分野でも、いろいろと知恵を出してもらう必要があるでしょう。研究者、留学生、商社マン、ジャーナリスト、そのほかにも日本に来たい人にはどんどん来てもらう。
「物」は脱原発エネルギーを研究開発するための施設、放射性廃棄物の処理技術開発のための施設、放射線障害の予防と治療のための施設などを作ることですが、零から始めるというわけではありません。日本にはもうそうした「物」はすでにあるはずですから、それをさらに充実させることは可能なのではないでしょうか。
最後に「金」。お金が足りなければ集めればいいのです。どこの家でもお金が足りないときには、出費を抑えるか、もしくはよりたくさん稼ぐかの二つのやり方で対応します。が、もうひとつの道は「借りる」があります。さらに未来のために「集める」という方法もあります。「出費を抑える」「稼ぎをふやす」「借りる」「集める」のうち、脱原発社会を作るのに良い方法は「集める」でしょう。近代社会はこのお金を「集める」という方法を発達させてきました。世の中を変えて行くための、未来のためのお金を「集める」のです。人類のため、地球のための研究開発にお金を出す人はもう現れています。お金を「集める」ための仕組みを整えるのは政治の力です。
人を集め、物を充実させ、お金を集めれれば、きっと「災い転じて……」のあとに「オンリー・ワンの日本」を作ることができるのではないでしょうか。世界のために役立つことができるオンリー・ワンなら大歓迎です。そういうビジョンを持った若い政治家に登場してもらいたいなあという夢想でした。人は自分が生きてゆく時代のためにしか働けないのです。未来は未来を生きる人が作り出すべきです。この夢想は、夢物語ではなく、今ここの現実に対応するための理想です。日本にしかできないことがあるはずです。

八重桜が若葉の中に埋もれるように咲いていました。写真を撮りながらも、時間の流れをうまく感じ取れていない自分がそこにいることを意識しました。3月から4月というのは、なんでもないときでも、時間の流れに乗り損ねてしまうことが多い季節ですが、今年はいつもにもまして、それを感じています。地震と津波だけなら「ああ、春になった」と季候が良くなったことをうれしく感じられるのでしょうけれども、原発事故の推移を見ながら息を詰めているのは私だけではないでしょう。何も言わないけれどもひっそりと、原発事故の成り行きを見ている人が大勢いることでしょう。
1077 20110423 詩歌と園芸と庭仕事 宗教とか信仰という話になると、仏教やキリスト教あるいは神道という宗教か、もしくは、民俗学的な民間信仰のことがテーマになっています。で、そういう宗教のイメージを持っている人に日本人の宗教心、信仰心は俳句や短歌、それに現代詩も含めて詩歌と、庭いじりや鉢植えを作る園芸の中に隠れているのだと言うときっとへんな顔をされるか、もしくは、激しい罵倒をされるか、そんなことがおきそうです。なにかを論議しようとした時、相手を激しく罵倒して声の大きさで勝つという習慣は、どうも昭和20年代の荒んだ世相の中から生まれてきたらしいということをなんとなく掴でいますが、それはまた何か機会があったら書くことにします。
それで、詩歌と園芸と庭仕事の中に日本人の信仰心や宗教心が隠れているという話ですが、宗教史などにつなげようとすれば、繋がらないこともありません。日本に大きな影響を与えた儒教は、祖先信仰を大事にしていますが、祖先の魂を慰めるものは歌です。死者の魂を慰めるものもまた歌です。また、中国で発達した仏教、禅宗では歌(この場合は漢詩ですが)を大事にします。禅寺では膨大な漢詩が書かれています。禅に興味を持っていた夏目漱石も漢詩を書き、俳句を詠んでいます。それから枯山水などの庭は禅寺によく見られることは衆知されています。枯山水の庭から盆景、盆栽までの変化はそう遠くないものです。盆栽から鉢植えの園芸趣味も、ごく近いところにあるでしょう。江戸時代に入ると園芸趣味は、庶民にまで広がり、変わった花を咲かせる朝顔などに夢中になったそうです。
今の中村勘三郎、つまり以前の勘九朗さんですが、その中村勘三郎の本を読んでいたら、舞台の上でお父さんから「その朝顔の鉢植えはどこで買ったきた」とざんざん聞かれて困ったという話が出てきました。芝居の筋とは関係がないアドリブの質問だそうです。で、適当に答えるとお父さんは怒り出す。芝居の進行はストップしてしまう。これが毎日続いたという、ちょっと想像してみるとおもしろいお話ですが、芝居の中には出てこないけれども、背景になっている江戸の町の習俗をちゃんと知っていれば答えられる質問だというようなお話だったと記憶しています。結局、勘九朗さんは誰かベテランの俳優さんのところへ行って答えを教えてもらったということでした。江戸の町では、朝顔ならこれこれの場所の市というふうに商う場所が決まっていたようです。
そんなあれやこれやを調べて論文など書こうとしたら、どえらいことになるので、それは止めて、日本人の信仰心は詩歌と園芸と庭仕事の中に隠れているという話に戻します。汎神的な信仰心と言うのが、詩歌の中に隠れていると感じたのも、園芸と庭仕事の中に溶け込んでいると感じたのも、考えてみると、すごく子どもの頃だったのではないかと思います。感じているけれども、言えない、感じているけれども認識できないという感じ方です。寺社のお縁日の眺めとか、お正月やお盆の支度のときなどに、子ども心に感じたかそけきもの。大学生くらいになると、それを意識はできるようになりましたが、文化史などをやった偉い先生に、馬鹿にされたら最後、もう見えなくなってしまう程度のか細い意識の仕方でした。誰がどんなふうに怒鳴りだしても馬鹿にしても、あまり揺らがないなあという意識をしたのは、四季を歌う月並みな俳句や、四季の章立てに分かれている古今集をよくよく読んだ20代の後半でした。
自然の変化を歌に詠むことによって、歪みがちな時間意識を整えているのではないかと、まず最初にそう感じました。そういう感じ方や考え方も深めたり磨いたりすることができればよかったのですけど、よほど注意深く話さないと、通俗的な楽天主義と勘違いされしまいますから、残念ですけど、人に自分の考えを話して感じ方や考え方を深めたり磨いたりはできませんでした。
詩歌と園芸と庭仕事の中に日本人の信仰心は、薄く広く、しかし、時には強い直感をもたらす形で隠れていると、このごろはやや確信めいた考えを持ち始めています。学問の言葉で語ってしまったとたんに死んでしまうような、生きている信仰心。西洋哲学の翻訳語で語ると色あせてつまらないもののように見えてしまうけれども、詩歌の中に溶け込ませたとたんに、息を吹き返す信仰心、そのように見ています。古事記の冒頭に、大八島はくらげのように漂っていたという意味の記述があります。それを、70年代に中等教育を受けた私は、神話が非科学的であることの証拠だと教えられました。でも、あれは地球のプレートの動きの歌だったのではないか?と毎日、地震に揺さぶられているうちに、そう思えてきました。まだ、まとまりのない考えですが、子ども心に感じてきたことが、だんだん、シオコウロコウロとまとまりに生り始めているようです。
1076 20110421 桜吹雪から苗物が並ぶまで 3ヶ月ぶりに大阪に行きました。中央線経由で東京に帰ってきて以来です。今年は寄り道や道草をしたいなあと、お正月にはそんなことを考えていましたが、鬼はさぞかし笑っていたことでしょう。いや、笑っていたのは鯰のほうかしら。東京はちょっとした冗談を言うにも神経を使うようなところがあります。久しぶりの大阪でそれを改めて実感。東京のぴりぴりした空気から、しばし抜け出すことができた大阪でした。
いつもの大阪でしばらくのんびりしていたいなあという願望と、早く関東に戻らないと何が起きるか解らないという不安がまだら模様になっていました。大阪の桜もそろそろお終いの季節。京都の八重桜はそろそろ咲き始めるか? 仁和寺の桜は? と寄り道道草にはことかかない季節ですが、照明がちょっと暗めの関東に駆け戻ってきました。大阪芸術大学の大学院の諸君と、花吹雪を眺めたのがめっけもの。花吹雪が見事なのをぼんやり眺めていたら、みんなの頭にも桜の花びらが降り注いで、花びらだらけ。それから宮城に御実家があるという学生から地震のときの様子を聞きました。


苗物が出回る季節になりました。昨年は連休前になっても、朝顔や茄子、胡瓜といった当たり前の苗物が少しも出てこない寒いいやな春でしたが、今年は天候のほうはまともで、ちゃんと苗物が出回っています。地震と津波だけなら、こうした季節の恵みをありがたく感じられるのですが、原発事故が、そういう気持ちにさせてくれません。あんまり苦く、皮肉な気持ちにならないようにしていますが。
イサク・ディネセンの『アフリカの日々』を読み出しました。晶文社からディネセン・コレクションが出た時にはたいへん評判になっていた本です。私が今読んでいるのは河出書房新社の世界文学全集。チュツオーラの「やし酒飲み」と一緒の巻に収録されています。欧米偏重であった文学紹介がアフリカや南米の文学も翻訳されるようになった80年代からの成果がひとまとめになっている全集です。高樹のぶ子編アジア文学ベストセレクション『天国の風』(新潮社)は地震の前に読書人から書評を書くように依頼されていた本ですが、こちらもなかなか楽しい本です。ベトナム、フィリピン、台湾、韓国、中国、インドネシア、モンゴル、タイ、インド、マレーシア。とこう書くだけで、アジアはなんと広く多様であるのだろうと感嘆したくなります。それにしても、欧米からアフリカ、南米へと広がった関心がアジアへと繋がるまでの30年間のことを考えてしまいます。近くのアジアではなく、遠くのアフリカと南米へとまず関心が向かったのはなぜなのでしょう。
『書評 時評 本の話』はいろんな方からお手紙で感想をいただいたり、お電話をいただいたりしています。


ベランダでは化学肥料を使わなければならないので、パセリやピーマンを植えるのは、心理的に抵抗があります。昨年、叔母の家でゴーヤを観賞用に育てているのを見せてもらったら、小さな実がたくさんついてました。お土産屋さんで売っているキーホルダーか携帯ストラップくらいの大きさの実。今年は観賞用にゴーヤを植えましょう。それから、なんだかとぼけた風船蔓もいいかな。聖書に、夕べに炉に投げ込まれる野のゆりも、美しく咲いているという話がありましたが、それが妙に切実に感じられる東京郊外です。
1075 20110415 散り行く桜。 これから3ヶ月ぶりに大阪に行きます。今年は寄り道や道草をしたいなあとお正月に考えていたのに、震災以降、すっかり家を離れたくなくなっています。関東を離れたくなくなっています。うちにいれば大丈夫ってわけではないのですが、臆病で殻に閉じこもるタイプだから(うそだろうって声が遠くのほうから聞こえているけど)こういうことになると、どうしても遠くへ行きたくないなあという心境になります。

外濠の桜は満開を過ぎて散り始めました。夜は節電のために、街灯のあかりも少ないのですが、暗闇の中でもお花見を楽しんでいるグループがけっこうあります。飲めや歌えではなくって、ひっそり語らっているようなお花見。でも、泥酔してのびてしまった静かな人もちらちほらり。お壕のカナル・カフェは満員でした。やっぱりお花見の頃に入るのは無理なのね。夏になったらデッキでビールを飲みましょう。
若い人に誇らしい東京の姿を見せておきたいような気がしているのは、たぶんちょっと過剰な感傷です。東京は悪口を言われっぱなしみたいな気がするのは、やや被害感情旺盛かしら。誇れるものも、素敵なものもたくさんある町なのに、文句ばかり言われてきたような、そんな気がしています。東京の桜といえばソメイヨシノ。ソメイヨシノの寿命は50年くらと、樹木としては短いのだそうです。1945年戦争が終わったあと植えられたソメイヨシノはそろそろ寿命。靖国神社の桜はそれぞれに樹を寄付した団体や人の名のプレートが入っているのですが、ひとつひとつ見ていると昭和40年代に植えられたものが多いようです。戦争が終わって20年過ぎたころ。その桜もそろそろ老木になり始めています。そう考えると、戦争が終わって14年目に生まれた私は東京の桜がもっとも華やかに威勢を誇った頃を生きてきたのでした。

最近の桜の流行は枝垂桜のようで、法政大学のボアソナードタワーの前にも1本新しい樹が植えられて花をつけています。まだ細い若木。枝垂桜はソメイヨシノよりも成長は遅いけれども寿命は長いのだそうです。だから、枝垂桜が華やかな東京を、私が見るためには想像力を駆使しなくちゃいけないようです。長生きをするって手もあるけど、想像力で眺めたほうが楽しいような気がします。
昨年の春、寒い春で、咲いた桜が散りかねていました。今年の桜はここ20年ばかりの間では遅い開花だそうですが、80年代までは、4月7日8日の入学式の頃に満開になっていました。地球温暖化とは言え、3月下旬と4月下旬では夜の気温が大幅に違いますから、今年くらいのタイミングで満開になってくれるほうが夜桜見物には都合が良いわけで。昨年とはうって変わってなんだか昔の幻を見るような爛漫の春でした。その桜も花の脇から新芽が芽吹いて散り始めました。
1074 20110407 昨日の桜、今日の桜 東京の桜が満開になったというニュースが出ていました。管理人の豆蔵君も都心でお花見の様子。家に帰ってきたら、例によって写真をアップしてくれるでしょう。

まだ蕾の写真は3月30日。飯田橋の駅近くで撮影しました。蕾は膨らみだした様子を写真にとっている人が大勢いました。
牛込見附の交番の前に救急車が停車していて、不思議に感じたのは、たぶん3月30日のことだと思います。日付の記憶がやや曖昧なのですけど。さほど緊急という様子もなく救急車が停車していたので、これはいったいどうしたことだろう?と不思議に感じたのでした。結局理由はわかりませんでした。

2枚目の写真は4月5日。同じ場所で撮影しました。もうすぐ満開というちょっとだけ手前。外濠の桜は見事に咲いて、お天気も上天気。この20年ではかなり遅い開花だというお話を聞きましたが、私が小学校に入学した頃、もう45年も前ですが、その頃、桜が満開になると言えば、4月7日前後が当たり前でした。東京近郊の話です。桜の花の開花はだんだん早まって、卒業式の頃に咲くのも珍しくないようになりました。入学式に咲く桜が珍しがられるってのも、気候の変化を感じるとともに、年齢によって感じ方が変わるのだなあと思わせられました。4月になってから満開になったほうが、空気が暖かくなっているので、お花見にはぴったりです。3月と4月では夜の冷え方が違いますから。法政大学の前の外濠の桜も満開です。
さて4月5日。こんどはボアソナードタワーのほうの交差点に消防のはしご車とパトカーが停車していました。これも救急車のときと同じで、急いだ様子はみられません。ただ、止まっているだけ。昼過ぎのことです。
翌日、4月6日、昼過ぎに地下鉄成増駅の階段を下りていると、突然、ウィ〜ンウィ〜ンパォォンパォォンと警報と思しき音が鳴り響きました。「はて」と思っていたら「緊急用放送の試験中です」のアナウンスがありました。壁に新しい茶色いスピーカーが取り付けられてました。地下鉄サリン事件の時にも、こんなことはありませんでした。
原発事故はまだ進行中で、表面的には小康状態に見えますが、原子炉の格納容器の損傷が伝えられたり、格納容器内部の水素爆発が起きる可能性が伝えられたりと、報道の推移に注意してみると、より深刻な事態が進んでいるのを、なんとか食い止めている様子です。TVの報道でも、再臨界が起きているのではないという推測が、流れ始めています。地下鉄のスピーカーや停車している救急車、消防のはしご車などが、原発事故による緊急事態に備えたものでないと、良いのですけど。どうも、それとなく、緊急事態の準備が進められているように思えてなりません。
1073 20110407 法政大学のゼミ生諸君へ 4月12日 ゼミの2年生対象のガイダンスが行われます。詳しくは法政大学HPの日文科の項目を見てください。2年生は必ず出席して下さい。新ゼミ生にお目にかかるのを楽しみにしています。
3、4、年生について。5月6日(金曜日)から講義が始まります。この日は金曜日なので、通常なら夜ゼミが開かれる日ですが、昼ゼミの諸君も6限の夜ゼミに出席して下さい。今後のゼミの運営についてお話します。
4年生は卒論指導願いの提出についてのお話をいたします。今年は変則的な学事日程になったために卒論指導願いの提出期限までの時間が限られています。4年生は昼、夜を問わず必ず5月12日6限のゼミに出席して下さい。
そのほか、ご質問、御連絡などありましたら、いつでも私のほうへメールを下さい。
1072 20110404 いろいろ咲いてます。 

駒場公園の近くでローズマリーの花がこぼれるように咲いているのを見つけました。駒場公園では馬酔木の花も鈴のような花をつけていました。馬がこの花を食べると酔うのだと聞いているのですが。ほんとうでしょうか? 酔っ払った馬って、手に負えないだろうな? って、馬酔木を見るたびに想像してみますけど。

外濠の土手には花大根。紫色のこの花にはもうひとつ名前があったような? でも、それがどうしても思い出せません。中国から入ってきた花だそうです。戦争が終わってから、日本のあっちこっちに紫色の花をさかせるようになったとのこと。近くでは黄色い菜の花も群をなして咲いています。土手下を行く電車は、行き先表示の灯りを駅に入る寸前で点し、駅は離れると消すという器用な節電をしています。電車もこまめにスイッチを切るっていうわけです。
外濠土手に大きな山桜の木があったのですが、枯死しかけていて、3月のはじめに切り倒されました。この山桜は、毎年、ほかの木よりも花をつけるのが早くって、卒業式というと、もう白く花の咲いている枝が1、2本ありました。今は切り株だけが残っています。その切り株の前を通りかかったら、おじさん3人が、切り株に腰掛けて缶ビールを飲んでいました。切り株はおじさん3人が腰掛けるのに充分な大きさがあったのです。それでどのくらい大きな山桜の木だったか想像してもらえると思います。へえ、こんな使い方があったのかと感心。土手の柵の下にはたんぽぽも咲いていました。桜ばかりが花じゃない。
1071 20110329 靖国神社のさくらが咲きました。 
昨日、東京で桜が咲いたというニュースが出ました。東京の桜の標準になる木は靖国神社にあることが知られていますが、ちょうど通りかかったので、写真を撮影してきました。標準の木じゃなくって、たくさん咲いているやつにしました。

電力不足の影響から、桜の開花中の夜間の照明は中止というこころも多いです。千鳥ヶ淵でも今年は夜間照明はないそうです。ひどいところだと、お花見そのものを自粛して下さいという張り紙が出た公園などもあると聞いています。しかし、外濠はさにあらず。ちゃんと臨時のゴミ捨て場が用意されて、桜見物のお客さんが来ることに備えています。これもぱっちりと撮ってきました。派手などんちゃん騒ぎもいいけど、ほろ酔いくらいで、お散歩をしながら、桜見物もよろしいのではないでしょうか。そぞろ歩きをすれば、思いがけず懐かしい人に出会ったりすることもあるかもしれません。

ちょっと笑ったのは、外濠沿いで、飯田橋の郵便局から逓信病院にかけての再開発工事現場で聞いた女の人の一言。工事用シートのかけられた飯田橋の郵便局を見て「まあ、郵便局まで崩れちゃったの」と息を呑んでました。思わず「違います。違います。再開発の取り壊し工事です」って言いたかったのをぐっと我慢しました。世の中には早とちりな人もいるものです。
1070 20110329 地震関連18 皆さんからのおたより 地震、原発事故と続いて、どこの被災地もたいへん悲惨な状況です。ここでは私が皆さんからいただいたおたよりから、余り大きなメディアが伝えない忘れられがちな被災地のことや、身近な見聞に基づくことをお伝えしたいと思います。
まず長野。ツイッターで長野の様子をお知らせいただいたところによりますと、長野ではまだまだ春の気配は遠いようです。地震被害の大きかった山間地は雪に埋もれているそうです。被害の大きかった長野県栄村に対する義捐金募集のHPを見つけました。
http://www.pref.nagano.jp/kaikei/kaikei/gienkin.htm
山形の佐藤先生はガソリン不足で、学校へ自転車で通っているとのおたよりをいただいています。自動車がなければ暮らして行けないところがいっぱいあるのですね。早くガソリンが通常通りに出回ることを願ってやみません。雪道や凍った道でお怪我をなさいませんように。春が早くくるといいですねえ。
宮城一関からはハヤサカさんからも御様子をお知らせいただきました。地震から一週間は連絡がとれなかったそうです。電気やガスが復旧したのは10日後。被災したお祖父様は畑のビニールハウスに入って寒さをしのいだとのことでした。どこもどこも、手が回りかねている様子がよくわかります。
皆さん、口をそろえて言われるのは「東北の津波に襲われた地域にくれべたら、これくらいは我慢しないと」です。うちの娘も「会社でもみんなそう言っている」と言ってました。そう思うのはたいへんけっこうですが、そのために身近な被害状況を知らないということも、珍しくないようです。

麹町のインド布を扱っているGAYAさんに寄って、浦安の様子を聞きました。浦安では、砂が徐々に競りあがってきているのだそうです。液状化は地震当日だけでなく、その後もさまざまに変化するのですね。土地が浮き上がっているので、水道管の修理もままならないとのことです。

yuuichi0731さんが浦安の状況を写真にとってくださいました。その一部をご紹介します。液状化は浦安だけではなく、埋め立てで出来ている東京湾沿岸の土地ではかなり広くいろいろな被害が出ていると予想できます。

1069 20110328 地震関連17 法政大学関連 3月25日に学位記の交付がありました。皆さんの元気な顔を見て、和気藹々のひと時を過ごすことができました。卒業式は中止になりましたが、日本文学科では、卒業式の祝辞、卒業生挨拶、在校生挨拶などの動画を用意したHPを尾谷先生が制作してくれています。詳しくはメーリングリストでお知らせしますので、メールに御注意下さい。
日本武道館での入学式も中止になりました。それにともないが学事日程が変更になっています。詳細は法政大学HPで確認して下さい。今年の授業開始は5月6日になりましたが、それ以前にいろいろ日程がありますので御注意下さい。
大学院は予定どうりの学事日程です。詳しくは法政大学大学院HPで確認して下さい。
80年館中沢研究室はまだぐちゃぐちゃ状態です。3月25日は研究室の復旧よりも、きれいな袴姿の卒業生とお茶を飲むほうを選びました。これから研究室を訪れる学生はどなたでも、歓迎いたしますが、復旧作業を命じられるおそれありと覚悟しておいてください。軍手を用意しました。というか、軍手を買いにいったら20枚198円だったので、しかたなく20枚買いました。
そのほか、例年にない変更が次々と出ていますので、法政大学HPは、繰り返しチェックして下さい。
1068 20110326 御卒業おめでとうございます。 昨日は学位記の交付で、卒業するみなさんの元気な御顔をみることができました。御卒業おめでとうございます。
皆さんはこれから、狭い学校の中よりもずっと広い世界に出て行かれるのです。世界は広く、そして多様で、さまざまな可能性に満ちています。もちろん困難もあることでしょう。そのことは今年、卒業される皆さんは充分に承知されていることと思います。就職が内定した企業の職場で、地震で被災された家庭で、すでにいろいろな立場から、困難に立ち向かいながら、学位記の受け取りに駆けつけてくれた卒業生とお話をすることもできました。皆さんに、時々、思い出してもらいたことがあります。それは皆さんが直面する困難は、豊かで、多様で、広い世界の一部分、要素のひとつだということです。そして、困難の中には必ず、良きものの種が隠れているということを忘れてもらいたくありません。新しい智恵、美しい魂、それから何を付け加えたらいいのでしょうか?ともかく困難と言うものの中には、必ずよきものの小さな種子が隠れていることだけは、間違いのない事実だと私は信じています。そのよきものの小さな種子を見つけ出すのは、皆さんの目であり、皆さんの耳であり、皆さんの手です。
どのような困難な時にも日月はその運行を止めず、日はまた昇ります。どうぞ、若い皆さんのお力で、良きものの小さな種子を見つけ出し、芽吹かせ、みずみずしい枝葉を持った木に育てあげてください。幸い昨日の東京は暖かで穏やかな日でした。皆様の門出を静かに祝福しているような、春を予感される日でした。ここからはじまる新生活は、大学での学生生活で得た知識や体験に魂を入れるための冒険です。どうぞ、皆様、おひとりおひとりが、心豊かにお過ごしになりますように祈念します。またお会いしましょう。そして、皆様のおもしろい冒険譚をお聞きするのを楽しみにいたしております。
1067 20110323 地震関連16 研究室の惨状 地震以来、初めて学校へ行ってきました。先生方の中には、すぐに学校へ出られて研究室をすっかり片付けてらっしゃる方もいました。書棚をT字に作って、地震の被害が少なかったという方も。が、おおむね、どこの研究室もめちゃくちゃ。お互いに覗き込んでは「こりゃ、ひどい」と嘆息したあとで、「笑っちゃあいけないけど、これは笑うしかないなあ」と、へんてこりんな具合の研究室を覗いてはみんな、なぜか笑ってました。
日本文学科共同研究室の本も全て棚から落ちたそうです。助手の高橋さんは、ちょうど研究室にいて、机の下に避難して難を免れたとのことでした。共同研究室は昨日はもうきれいに何事のなかったかのように片付いていました。さて、そのお隣は私の部屋。

扉をあけたとたんに、目の前にスピーカーがぶるさがっていました。床はお茶碗やコップが割れた破片が散らばり、散乱したお菓子と混じり合っていました。冷蔵庫は前に進み出ているし、ファックスは棚から転げおちているわ、PCのモニターは仰向けにひっくり返っていました。先生方がかわるがわる覗き込みにきて「わぉ」と驚き、HA・HA・HA・HAと笑ってました。この笑い声はネルソン先生ではありません。みんなで顔を見合わせて笑ってしまいました。

かなりの本が床に落ちていたのは予想通りでしたが、扉から向かって左の棚にあった分厚い辞書類が、右の本棚の下まで飛んでいたのには驚きました。どうやら、本は崩れ落ちたのではなく、棚から飛び出して、遠くまで飛んだようです。「これはどうしょうもないなあ」と私があきれていると、箒と塵取りを持った黒田先生が
「ガラスや瀬戸物の破片だけでも片付けてしまいましょう」
と床を掃いてくださいました。へんな感想ですが、こういうときの行動の素早さって、学校の成績の良い人はちがうなあと、なぜか感心。学問ってのは、整理整頓の別名じゃないかなあと、日文の研究室にいると、考えさせられるときがあります。
で、反省したかと言うと、そんなことはなくって、とりあえず川端康成全集や川上徹太郎全集を棚に戻して、あとはゆっくりやることにしました。
靖国神社では大灯篭が二つとも、損壊していました。大灯篭は、白い覆いで囲われて「危険なので近づかないで下さい」の張り紙がありました。境内の桜のつぼみはふくらみはじめています。注文してあったお皿が届いていると連絡を受けていたので、器の「花田」さんへ。幸い花田さんでは、器が棚から落ちるという被害もほとんどなかったそうです。今年は節電の影響で、千鳥ヶ淵のライトアップは中止とのこと。灯りがなくっちゃ夜桜見物はできません。せめて見事に花が咲いて欲しいと祈るばかりです。
1066 20110321 地震関連15 皆さんからのおたより 千葉の市原のコスモ石油の火災が20日になってようやく鎮火したとのこと。9日間も燃え続けていたのかと唖然としました。常磐線の被害はひどいようで、水戸駅ではようやく駅の通路が通れるようになったと言うニュースがありました。駅構内と駅ビルはまだ閉鎖されているとのことでした。
山形の佐藤先生から、ガソリンが足りず、被災地へ物資が届けられないというお便りをいただいたのは2日前です。首都圏でもガソリン不足は深刻です。病人や高齢の方の介護をしている人など、どうしても車が必要な人も多く、早くガソリン不足が解消されることを願っています。福島の白川にご実家のあるやさぐれプーさんからも「豆畑の友」の談話室におたよりをいただきました。
はやくガソリンが届いて物資が行き渡るようになることを願ってやみません。東北地方のガソリンの準備はまだ平常の6割とニュースで言っていましたから、いましばらくはガソリンは大事にして、無駄にしないようにしなければならないようです。
舞浜の様子はツイッターで教えていただいたのは、yuuichi0731さんです。地震のとき、舞浜においでだったそうです。東北の被災地の惨状があまりにすさまじいので、つい足元の茨城、千葉、それから東京、埼玉などは、忘れがちというか、自分の足元を見失いがちなので、なるべく、思い出していただくように、したと思っています。
===以下 やさぐれプーさんのおたよりから==
(2011年3月20日)
私の実家は県南ですし、被災したといっても瓦や壁が多少落ちたくらいです。断水は一応復旧しましたが、ガソリンがなく母は通勤できずに在宅しております。食糧不足は相変わらずです。県内では放射線量がテロップで放送されているようで、いわきより白河の方が量が多いそうです。風向き等もあるようですが。原発付近の住民の方が中通りに避難をしてきております。原発付近はゴーストタウンのようになっているようです。
正直実家の様子を聴いていると、都心の買いだめ・放射線への過敏な反応は腹立たしいです。本当に必要なところへ回っていないのですから。都心にいる私の同世代のみんなは、しきりと地元に戻りたいと言っています。私も、もし必要ならば将来地元に戻ろうと思い始めています。周りの友人たちのつぶやきを見ていると、買いだめやガソリンを入れるために奔走しているのが、一慨にある年齢層とは言えませんが、自分たちより年上の人々がそうやっているのを見ていると、寂しくなります。
やさぐれプーさん(3月16日のおたより)
私の実家がある福島県白河市は、断水等が発生しておりましたが本日一部復旧したようです。飲料には使えませんが、母は泣いたと言っていました。
ガソリンは底をついて車は出せません。食糧不足もあります。ですが、家族・地元の友人たちは浜通り・宮城・岩手に比べたら…と頑張っております。被災地でありながら、別の被災地の心配をして頑張っています。
原発付近からは、中通りに避難してくる方々が大勢いらっしゃるようです。原発のある大熊町の避難住民を郡山高校や安積高校でも受け入れており、避難場所がいっぱいで、転々としていて、連絡のとれない方々もたくさんいらっしゃいます。
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==以下 yuuichi0731さんのおたより==
(ツイッターから 3月20日)
舞浜は報道で言われていたように、道路の液状化現象が著しかったです。舞浜駅北口と首都高舞浜入口に挟まれた歩道は一部は陥没し、一部は泥水が溢れるような状況でした。
舞浜駅は陸橋の上に作られている構造なので無事でした。しかし、浦安市運動公園前の道路や、リゾート第7駐車場は発生時は歩けないレベルで水浸し。ついでに、帰りに通った江戸川区宇喜田町あたりで水道管がダメになったらしく、マンホールから水が溢れていました。
(以下 3月21日)
うぅ•••昨日からトータル3時間以上かけて書いていた「TDRの液状化現象の人災の可能性を考える」というレポート間違えてすべて消しちゃいました。また、気力が沸いたら書いて見ます。 (追記中沢 それは残念でした。
要旨としては、舞浜近辺の道路は、地震の前から状態がかなり悪く、その目立って悪かった箇所が、隆起または、陥没したといったところです。
舞浜だけではありませんが、浦安市の一部が、断水しているらしく、東京ディズニーリゾートオフィシャルホテルの一部では、浦安市民に限り浴場を開放しているようです。また、新浦安にあるホテルエミオンでは、使用している井戸水を市民に向け提供している模様
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東京湾沿岸部の倉庫などにも被災しているところが多いようですが、週明けあたりから流通なども、復帰してきそうだという話を聞きました。
1065 20110321 地震関連14 法政大学関連 3月24日の学位授与式は中止になりました。それにともない各祝賀会も中止になりました。
学位記授与の方法については、法政大学のHPをご覧ください。文学部は3月24日と25日に授与します。私は授与の当日、会場に詰めているようにしますから、今年度卒業生は元気な顔を見せてください。お会いするのを楽しみにしています。
学内への入構制限は続いています。サークルなどで必要なものがある人は手続きをとれば入構できます。詳しいことは法政大学HPをご覧下さい。学校からの連絡は法政大学HPを利用してお知らせしていますが、ネット環境がない人には諸君で連絡をするようにお願いいたします。入学式も現在、検討中です。入学予定者の方も法政大学HPをご覧下さい。
3月22日学校に出講します。いろいろな先生からお話をうかがうにつけ、校舎の損壊は想像以上のようです。また、研究室もぐちゃぐちゃになっている模様。藤村先生は3日がかりで、研究室を一応片付けたとのことでした。が、スチールの書棚が曲がってしまっているというお話。さて、私の研究室はどうなっていることやら。(ふだんからぐちゃぐちゃだし)出講して様子がわかりましたら、ここに書き込むようにします。
中沢ゼミ(昼、夜)今年度卒業生の皆さん。中沢ゼミOBOGが「卒業を祝う会」を企画してくれています。前述のように学校の校舎の損壊などの被害もありますから、4月の末、もしくは5月の連休頃に開こうということでした。こんなときこそ、皆さんとの御縁を大切にしたいものです。詳しいことが決まりましたら、メーリングリストでお知らせしますので、メーリスに注意して下さい。
1064 20110317 地震関連13 もろもろ 「買占め」をやめろと言われていますが、家族の多い人、子どもを抱えている人、あるいは一人暮らしの人なども、現在の東京近郊の品物の状態では、ある程度、自分の家に必要なものは確保しておかなければ、買たくても買えない状態になっています。それほどスーパーや近所の小売店の棚はからっぽ状態。ガソリンも入手が難しくって、車を使って配達をしている花屋さんの話では、2時間並んで10リットルを手に入れるのがやっとだっととのこと(3月15日の話)かなり逼迫しています。
西武バスのバス停には「市原の製油所火災のため、ガソリンが不足しています。バスの運行を50パーセント削減」の説明書きが張り出されていました(3月15日)お米屋さんは、配達の注文と在庫のお米の精米で働き詰め。くたくたでものも言えないという状態だと話していました。陸上輸送用のトラックがかなりの東北へ回っていること、トラックそのものが被災したこと。各地の製油所が地震で製油できなくなっていること。広域に道路が寸断されていること。それから東京の場合は湾岸部が液状化などの被害を甚大に受けていることなどが重なって、ガソリン、日用品、食料品などが不足しているとのことでした。
ダイエーの売り場の店員さんも商品の補充ができずに困っている様子。棚はがらんとして隙間だらけ。なんでもないとき、ふつうのときに、これだけ商品が飛ぶように売れたら、商売をする人はうれしくって仕方がないだろうなと想像すると、なんだか哀しくなってきました。こんな売れ方をしてもちっともうれしくも楽しくもないでしょう。
製油所はしだいに回復してきているようです。品物も増産体制に入っているとのニュースがぽつぽつ伝わってきます。
山形の佐藤先生からは、日本海側の酒田などから荷物などが陸揚げされて、品物もガソリンも出回りだしていることをお伝えいただきました。原発の事故が深刻になってからは避難してくる人もあるとのことです。埼玉県にも避難してきた人たちがいます。
法政大学の校舎に損壊被害が出たことはすでにお伝えしました。それから学位授与式も中止になりました。入学式も検討中です。学生諸君は法政大学のHPを必ずチェックするようにして下さい。
福島の原発事故は今日3月17日が「山場」だそうです。そうそう、日本ミステリー大賞新人賞を受賞された望月諒子さんの授賞式は今日あるはずだったのですが、残念なことに中止になりました。
予定が全部キャンセルになってほんとうは「閑」なはずなのに、なぜか、気ぜわしいこと。困ったもんだ。
1063 20110317 地震関連12 千葉からのおたより2 高校のときの友人の宇山君が海浜幕張の様子を知らせてくれました。一昨日いただいていたおたよりです。東京湾の沿岸部はかなりの被害が出ている様子です。浦安市が「激甚災害」の申請をしたのには驚きました。また娘から聞いたところでは、船橋でも、土地の陥没などの被害があるとのこと。海浜幕張でも液状化現象が起きている様子が、宇山君が送ってくれた写真でわかります。写真はあとから豆蔵君に掲載してもらいます。
======以下 宇山君からのおたより===
(2011年3月15日 18時)
今日の海浜幕張駅北口バスロータリーです。
直後はあちこち砂が吹き出すはで、特にバスロータリーは砂が多くて路線バスが進入出来ないほどでした。土曜日は手前の停留所テクノガーデン折り返しで、ロータリー内は工事の車が行き交い土砂の搬出に大わらわでした。
この頃は、吹き出した砂からは潮の香りが! 海砂掘り出しての埋立地ですから砂と吹き出した水も海水に近いのでしょう。
しかし、月曜は砂が乾き砂ぼこり酷く、携帯使うと埃がすごかった!

さて、539は歩道の割れ目、

541は海浜幕張駅北口前、大きく段差ついたのが分かりますか?

542は歩道橋。一番下の段が一番低いステップのはずが…。
千葉ロッテマリーンズの本拠地、千葉マリンスタジアム改めQVCマリンフィールドの周りもヒドイらしいので、プロ野球開幕にも影響しそうです。
宇山@携帯から書くとめんどい
1062 20110316 地震関連11 ローカル情報@twitter編<110326 10:10更新> 各自治体を中心とした、現在の各地の様子がわかるアカウントを集めています。なお、震災関連の中沢けいリストはこちらです。
ほぼ50音順。
・東京電力
・茨城県
うまいもんどころ茨城
鹿嶋市
かすみがうら市ふるさと応援隊
神栖市観光協会
北茨城市観光協会
久慈郡大子町観光協会
古河市・古河の華むすめ
つくば市 情報システム課
つくば市災害通知メール[非公式]
つくば市![非公式]
取手かいわい
日立市(非公式)
常陸太田市
ひたちなか市_fake
・千葉県
我孫子市役所
いすみ市・地域プロモーション室
市川市情報bot(非公式)
市川市災害状況
柏市(非公式)
勝浦市
鴨川市大山支援村NEW!
君津市・きみぴょん
熊井@館山市商工観光課
千葉市広報課
千葉ニュータウンオンライン
流山市安心安全課
船橋市本町通り商店街
松戸っこ@千葉県松戸市大好き
南房総市
八千代市
・栃木県
足利市
朝日新聞宇都宮総局
大田原市役所
小山市
小山市観光協会
下野新聞
ラビットネット 栃木
栃木市観光協会ツイッター
那須ダイスキ
那須烏山市
・東京都
京王線運行情報
狛江市
中央区観光協会
e-town八王子管理人
三鷹市
(社)武蔵野青年会議所
・神奈川県
綾瀬市商工会
厚木市
伊勢原市商工会(商店会連合会担当)の職員
海老名市
海老名市観光協会
大磯町観光推進室
小田原市
川崎市
+麻生区民記者
+多摩区・麻生区のフリーペーパーOhana
+多摩区観光推進協議会
+武蔵小杉不定点観測隊
+川崎市@北部
+川崎市 緊急情報
(高座郡)寒川町商工会
逗子市観光協会
箱根温泉「箱ぴた」
【非公式】神奈川県平塚市の情報など
藤沢市市民活動推進センター
横浜市
+横浜市広報課New!
+ほぼ日刊〜都筑区日記
+すぎたん(磯子区杉田非公式マスコット)
+ハマっち!くん
+鶴見区(非公式)
横須賀市東部漁協 鴨居支所
スカレー・よこすか海軍カレーマスコットキャラクター
横浜消防なう 《横浜市災害情報》
東急大井町線運行情報
・埼玉県
朝霞青年会議所
ときがわ町
新座市
富士見市役所秘書広報課
和光市
1057 20110315 地震関連6 ローカルなニュースが取得できるところ<110317:21:00更新> ・Save IbarakiNew!!
・Yahoo! Japan地域ニュース
・47NEWS(よんななニュース)
全国47都道府県・52参加新聞社と共同通信の内外ニュース。
・房日新聞
・埼玉新聞
・茨城新聞
・カナコロ 神奈川新聞
・東日本大地震・自動車・通行実情マップ
・関東圏の運行状況に関するツイートをリアルタイムで見られるまとめサイト。
・日本透析医会災害ネットワーク
茨城、千葉などの透析医療の情報もあります
・和光市災害時ホームページ
東京電力の計画停電についての情報は各自治体のHPで調べるのが便利な様子です。
とりあえずローカルな情報が得られる新聞社などのサイトを集めました。随時、リンクを張ります。また気がついたものを増やしてゆきたいと思います。
1058 20110315 地震関連7 茨城からいただいたおたより 水戸の近くにお住まいのTigerさんから以下のようなおたよりをいただきました。(3月15日 正午)
現状をお知らせになりたい方、おたよりを下さい。
脱線したトーマスさんからもおたよりをいただきました。(2011年3月15日 午後5時45分)
===== 以下 Tigrさんのお便り ===
(2011年3月15日 正午)
震災においては、私の住む那珂市は道路の陥没隆起が多く、車での通行がかなり困難な状況です。瓦の落下、石垣の倒壊はもはや見慣れた光景です。
商店で生活用品を購入するのに長蛇の列ができています。
昨日、仕事で水戸の町まで出ました。那珂川をわたる橋もいくつか大きな段差ができ、通行が不安です。市内の陸橋はいくつか落下しているようです。
偕楽園近辺の陥没、水戸駅南側の市役所近隣の建物倒壊がひどいです。このエリアは元々沼地だったため、地盤がゆるいそうです。
駅の北口方面は一部塀や建物の崩壊が見られます。頭上注意の貼紙があちこちに貼られており、飲食街では炊き出しでお店の在庫を市民に還元する店舗、段ボール一杯の割れた食器や酒瓶の片付けに終われる店舗がある一方、被害の少ない店舗では地震に負けるな! あったかいメニューあります、という貼紙をして営業している店舗もありました。
水戸は水も電気も大多数のエリアで復旧しているようです。一部の温浴施設やスポーツクラブでは一般の方に開放を始めていました。
エリアを問わず住民が困っているのはガソリンです。10リットル手に入るか入らないかのガソリンスタンドに、1キロちかく車が並んでいます。
茨城は車社会で、車がなければどこにも行けませんので、どこの家庭でも確保に苦慮しています。
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===以下脱線したトーマスさんからのおたよりです=
(2011年3月15日 午後17時45分)
茨城も、建物の損傷がひどいようです。
工場で火災もありました。
その他、地面に亀裂が入っていたり、液状化や津波の被害もあるそうです。
1061 20110315 地震関連10 法政大学の状況 法政大学の損壊状況がわかりました。
市ヶ谷キャンパス:55・58年館3階以上、窓ガラスの破損等で使用不可。
511教室、構造上深刻な問題発生で使用不可。学生ホール、構造上の問題発生で使用不可。さったホール、天井照明装置崩落で使用不可。
想像以上の被害が出ているようです。卒業式、学位授与式などの日程については法政大学のHPをご覧下さい。また日程変更の可能性もあるので、HPは繰り返しチェックして下さい。
法政大学HP http://www.hosei.ac.jp/
1060 20110315 地震関連9 茨城、千葉以外の地域からのおたより 茨城、千葉以外の地域からいただいたおたよりを御紹介します。
山形県には福島県からの避難の人が多くいるとのことです。「地震関連6 ローカルなニュースが取得できるところ」のなか「自動車実情マップ」があります。実際に通行できた道路の情報があります。また川崎のお住まいのハリネズミさんからは仙台に住んでいる御親戚の安否を案じていたところ、なんと! 沖縄の西表島から「無事」の連絡が届いたと言ううれしいおたよりをいただきました。また、法政の尾谷先生は昨晩遅くに仙台を出発し、越後から越中、つまり富山にご家族ともども避難なさったとのことです。尾谷先生のツイートで知りました。
東日本全域で品物の不足がおきている様子です。私の娘は中卸の問屋さんに勤めています。娘から聞いた話ですと、日常用品を扱っている問屋さんの社員は会社に泊まり込みの覚悟で、仕事をして欲しいという激が飛んでいるとのことでした。問屋の皆様、仲卸の皆様、皆様のご経験と智恵で、いろんな品物がちゃんと行き渡るように、がんばってください。皆様の智恵と経験に期待しています。
山形の余目にお住まいの佐藤先生から以下のようなおたよりをいただいています。
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山形・余目の佐藤先生からのおたより
(2011年3月15日 正午)
庄内は、ガソリンや灯油が買えなくなりました。
我が店は灯油を売ることができなくなりました。
庄内でも学校には重油が供給されないので、本校はボイラーを停止しています。
東北は穀倉地帯ですので、今年のコメの収穫は激減するはずです。
これから作付する予定の種もみも、今回の津波被害で不足するのでは。
宮城は種苗もたくさん請け負っていますから。
ふくしま情報です。
郡山の友人からふくしま情報です。
原発から60キロの郡山には、のがれてきた被災者が、あさか黎明高校の体育館などに集められているという報道。
山形県のニュースでは、米沢市に沢山のふくしまからの避難者がぞくぞく。
これは、NHK山形の文字放送ニュースです。
山形県では、県が市町村に指示して避難民を受け入れる手配をするということになるようです。
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川崎のハリネズミさんからは以下のようなおたよりをいただきました。ほんとうに良かった! 良かった!
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川崎のハリネズミさんからのおたより
(2011年3月15日 午後1時30分)
わたしのほうは、仙台に住んでいる母方の親戚と連絡がとれず、無事が確認できた関東圏在住の親戚一同総出で安否確認やらなんやらをずっとしており、すこしバタバタしておりました。
そしてつい先々日、ひぃおばぁ(西表島在住)のところに、本人から「全員無事」との連絡が入ったそうで、まさかの西表島一番乗りという展開に脱力しつつも、ひとまず安心できました。
それでも、まだ避難所生活が続いているそうで、家もどうなっているかわからないし、なにより夜が辛いとの話なので、心配と不安はぬぐえません。
わたしのほうは全く問題はありません。しいていえば、わたしの部屋の本の山たちがいっせいに雪崩をおこし、ちょっとした惨事になった程度です(苦笑)
1059 20110315 地震関連8 千葉からのおたより 高校時代の友達、宇山君から千葉の様子を知らせてもらいました。(2011年3月15日 午前11時)
====以下 宇山君からのおたより======
(2011年3月15日 午前11時)
当日は旧丸山町に仕事で滞在中に遭遇しました。自分の周りでは被害らしい被害はありませんでしたが、房日新聞のサイトでは被害状況が掲載されています。
車で帰路、竹岡から上総湊にかけ走行中、海面の異常な低下を確認。湊川が低下した海面に流れ落ちる様には驚きました。
勤務先の海浜幕張周辺は液状化現象であちこち砂が吹き出すは路面ガタガタで、報道で聞くに浦安までの埋立地は場所により被害ヒドイかなと。
1056 20110315 地震関連5 関東地方のニュースを集めてみました。 関東地方のニュースを集めてみました。ニュースの発信時刻に御注意下さい。
「放射能監視体制強化 北茨城」
「ライフライン情報 茨城」
「茨城空港再開」
「千葉 浦安市激甚災害申請」
「千葉 災害救助法適用 旭 香取 山武 九十九里」
房州については房日新聞のサイトが詳しいと、高校時代の友達の宇山君が知らせてくれました。
房日新聞 → http://www.bonichi.com/
ローカルな情報の収集は思いついたばかりですが、もう少しやってみようと思います。くれぐれに情報発信の日時に気をつけてください。
上記のニュースは「ヤフー・ニュース」の「地域」という欄から探しました。「ヤフー・ニュースの「地域」」ではローカルなニュースを取得することができます。
1055 20110314 地震関連4 もろもろ 娘から聞いた話ですが、船橋あたりでは陥没や液状化で、倉庫から品物を出庫できないところがあるそうです。それで物流の滞りがおきているようです。
伊藤比呂美さんは無事に熊本到着。電話でお話をしました。
フランスに住んでいる知人から電話をもらいました。フランスでも大きく報道されている様子です。
近所の米屋さんに買物に行きました。お米の配達などが中心のお店で、買物のお客さんは少ないお店ですが、今日はレジに行列ができていました。20年ほど前の年末の買出しの光景を見るかのようでした。
12日に知人からもらったメールでは。上智大学のイグナチオ教会の十字架が折れて落ちていたとのこと。法政大学の校舎にも被害が出ているようです。
地震の被害が大きかった茨城、千葉、それから東京、神奈川、埼玉などの情報がひどく不足しています。
1054 20110314 地震関連3 法政の学生の皆さん、情報収集しています。 法政大学の昼ゼミ、夜ゼミ、4年生、大学院生の皆さん。
御無事かどうか確認のメールを出しました。メールが開けない人のためにここに書き込みします。
「みなさん御無事でしょうか? 学校行事については法政大学のHPを注意してみてください。またどなたか学生の被害情報をお持ちでしたらお知らせ下さい。無事な人の私宛に御一報下さい」
今のところ、御返事を下さった皆さんは全員無事です。
1053 20110314 地震関連2 そのほかもろもろ 法政大学のキャンパスは3月19日まで入構禁止になりました。詳しいことは法政大学のHPでご覧下さい。それから地震に関係した学生、職員の情報を求めています。これについても法政大学のHPで確認して下さい。
米屋さんに灯油とお米とお水を注文した。灯油とお米については問題なし。お水はもう売り切れたとのことだったが、たまたま、午後の入荷があり、都合をつけてもらった。(午後3時40分)
伊藤比呂美さんは今朝無事に成田に到着されたようです。朝早い時間にメールをくれたのですが、あいにく私は寝入ってました。
伊藤さんによると飛行機の中で、被災地へ行くというNGOのお医者さんとご一緒だったとのこと。ただ、こうした人が日本のどの行政機関に連絡をして、どこへいったらよいのか皆目わからないとのことでした。厚生労働省へ連絡をしたら、外務省へと言われ、外務省は、らちがあかない対応だったとのこと。
伊藤さんには総務省へ連絡をしてみてはどうかというメールを出しておきましたが、今のところ、そのあとの連絡はありません。
おそらく、国内、国外のボランティアなどの受付窓口はまだ設置されていない状態なのではないかと思います。もし、もう設置されていることをご存知の方がいましたら、御教示下さい。よろしくお願いします。
茨城県もかなり大きな被害が出ています。ゼミの卒業生がmixiに書き込んでいる様子を見ていると、家はめちゃくちゃだとのことでした。水戸駅も相当な被害が出ているらしい様子。常磐線沿線の被害もかなりだとのことでした。東北の被害が大きいのですが、茨城県のダメージもそうとうなようです。
千葉県の館山では布良で1メートル60センチの津波を記録したけれども、被害はないと、これはツイートをしている私の同級生が教えてくれました。どうもありがとう。被害がなかったこと、ほんとうに安心しました。「でもうちのお墓は崩れてるかも」って娘が言ってました。お墓はそんなに急がなくっても文句は言わないでしょうから、近々に様子を見に行くことにします。
外房の旭町では津波で亡くなった人も10人ほどいる様子です。コスモ石油の火災と津波の被害が千葉で出ているくらいですから茨城の惨状が想像されます。茨城の皆さん、どうぞ、がんばってください。くれぐれもお疲れが積もらないように。まずは御自分のお身体大事でお過ごし下さい。
アマゾンでも被害が出たみたいで、荷物の配達が遅れるという表示がトップページに出ていました。地震で、すっかり自分の本の見本が出る日だということを忘れていましたが、ちょっと前に河出書房新社の小池さんから電話をいただいて、思い出しました。「書評 時評 本の話」は品薄だそうです。もっとも、これは地震とは関係なし。もともと部数が少ないのです。
11日の地震直後に神田から成増の自宅に向けて歩き出し7時間かけて家に帰り着いた娘は、土日をテレビの前でぐったりした顔で過ごしていました。もう大の大人なのですけど、ぐったりしていると、赤ちゃんの頃の幸福が戻ってきているみたいな気になって、二人でおにぎりをつくったり、お茶を入れたりして、のんびり過ごしました。もっともその間も、けっこう余震でがたがた揺れていたのですが、なんだかミスマッチな気分の、長閑な休日でした。今朝は、お弁当を水を持って出勤しました。息子は時々、様子を知るために電話をしてきてくれます。
mixiやHPでお役にたつことがあればお引き受けします。お問い合わせフォームからメールを下さい。
1052 20110313 地震関連のお知らせ しばらくここを地震関連のお知らせに使おうと思います。なにか連絡の仲介を求める方はメールを下さい。とくに法政大学の学生諸君、何か御用があれば、お知らせ下さい。
まず、法政大学市ヶ谷キャンパスでも校舎に一部、地震の被害が出ている模様です。詳しいことは、明日(3月14日)に学校から連絡があるとのことでした。様子がわかりましたら、またお知らせします。
仙台のいらっしゃった尾谷先生はご家族ともに御無事だとのことでした。電気は使えるようになったそうですが、水道、ガスなどはまた使えないと昨日お知らせをいただきました。
うれしいお知らせをひとつ。昼ゼミ根本君が東京藝術大学に合格されたとのことです。おめでとう!
卒業文集作成はいささかの遅れが出ていますが、進んでいます。進行については御世話をしてくださっている路川さん、原田さんからのメーリングリストの連絡に注意して下さい。
そのほか、私でお役にたつことがあれば、お役にたちたいと思っています。お問い合わせフォームから御連絡を下さい。
ツイッターを使うことはしばらく控えますので、定期的にmixiの日記、および「豆の葉」を覗いていただければ幸いです。法政大学の学生以外の方でも、お役に立てることがあれば、おちからになりたいと思いますので御連絡をどうぞ。
そういうわけで、伊藤さん、無事に成田御到着をお祈りしています。関東地方はM7くらいの余震が予想されていますのでくれぐれもお気をつけて。
管理人の豆蔵君、そういうわけです。もろもろよろしくお願いします。
1051 20110305 北アフリカと中東が気になる 今はもう大昔。大学の教室に座っていた頃、東西冷戦をどう解消して行くのかという講義を受けました。そのなかで、ソビエトのテクノクラートをアメリカに留学させて、アメリカの価値感を学ぶだけでなく、幅広く身につけてもらうという政策がありました。1970年代後半のこと。ああ、なんて自信に満ち溢れた政策をとるのだろうと、講義を聴いていました。ベルリンの壁が崩壊するよりも10年も前の話です。ソビエトの崩壊なんてまだ誰も考えていませんでした。明治大学を囲む塀には左翼セクトのたて看板がびっしり並んでいましたし、同級生がセクトの領袖を間違えられて学内でぼこぼこに殴られ、血だらけになるなんていう事件もありました。終戦後の日本の学生もアメリカは留学生として受け入れました。私の身近にもフルブライト留学生だったという人がいました。
江藤淳が本多秋五と「無条件降伏論争」を群像の誌上で始めたのは1978年の5月号もしくは6月号だったと思います。これは群像のバック・ナンバーを調べれば解るのですが、それより、私が新人賞と取ったときの群像なので、そういう記憶をしているのです。「なんだろう、これは?」と首を傾げながらも真剣に読んだものでした。論争は大学の一年生が理解するには複雑過ぎるものでした。
30年後の智恵で江藤淳の主張を簡略に要約するとアメリカが占領政策として持ち込んだ価値感に、縛られすぎていないかというのが主張の骨子になっていたと私は思います。このことについて秋山駿さんとお話したときに「江藤さんはああ言うけれども、アメリカに無理矢理にというより、自分たちでそれがいいと思ったとこもあるんだよ」と言ってました。秋山さんの言うのも事実。江藤さんの指摘と発見も事実だと、私は考えています。折衷的な考えというよりも最初にソビエトのテクノクラートをアメリカに留学させて、価値感を体験体得してもらうというような政策をとるのですから、誘導と自主的な価値の獲とくの両面が現れるのは当然のことでしょう。江藤淳が「無条件降伏論争」に発展する指摘を始めた背景には、第二次世界大戦の経験をどう文学作品化するかというテーマがあったはずですが、これについてはもう少しよく研究してみたいと考えています。そして、「戦争は犯罪か?」という主題の提示があったことはよく記憶しています。
「勝てば官軍」「負ければ賊」と、戦争は勝敗によって優劣が決まり、優劣が決まることによって、正当性は勝ったほうに付与されるというのは、これまでの歴史の中で繰り返されたことです。が、勝ったほうが道徳的に善であり、負けたほうが道徳的な悪であるというようなことはないはずだという主張はなるほどなあと耳を傾けたくなりました。アメリカは戦争に道徳を持ち込んだのだと、これも江藤淳の主張にあったことでした。江藤淳は昭和53年の「無条件降伏論争」以降、アメリカの占領政策の実証的な研究を始めます。江藤淳「閉ざされた言語空間」には占領軍としてのアメリカが日本人の私信を検閲していたことなども資料をもとに描かれてました。考えてみるとアメリカも外国(日本ですが)を占領するのは初めてだったわけで、ずいぶんと慎重な政策をとった様子が「閉ざされた言語空間」から読み取ることができます。おそらくこの占領政策はアメリカが外国へかかわる時のひとつの原型的な経験になっているのでしょう。
北アフリカのチュニジアで起きた民主化運動と政権転覆は、ソーシャルネットワークによる市民革命と当初は報じられてました。当初の報道に接して私が感じたのは「ああ、30年前の江藤淳の指摘」と同じことが北アフリカで進行しているのではないかという疑念でした。単純に「革命は善」「民主化は善」という報道に対する反発も感じました。エジプトに飛び火すると、背景にあるアメリカのネット関連会社の姿がちらりと見えました。このあたりの感じ方は「ツイッター200日」に書いたとおりです。それからリビアの騒乱へ。
リビアは内戦状態へ向かいつつある様子が報道されています。カダフィ大佐は国際刑事裁判所が捜査を始めています。「武器を持たない市民対圧制者と」という構図なら圧制者が「犯罪者」として指弾されることに違和感を感じませんが、リビアの場合はほんとうのところ何が起きているのか、報道だけでは解りません。それから江藤淳の問題提起である「戦争は犯罪なのか」ということにも、それほど明確な答えや、衆知を集めた議論の成熟があるとは思えません。武器を持たない市民を大量に虐殺するのは、犯罪だといわれれば、頷けるところもあるのですが、では原爆を日本へ投下したアメリカはそれを犯罪だと考えているのでしょうか? 東京、名古屋、大阪など主要都市の非戦闘員を空襲で焼死させたのは「犯罪」に問われることはないのでしょうか?朝鮮半島で行われた戦闘については? インドシナ半島に散布された枯葉剤については? 湾岸戦争で使われた劣化ウラン弾は?と連ねて行けばきりがないのです。国際刑事裁判所規定起草に、アメリカは深くかかわりましたが、後に批准を回避しました。政治的に利用されるという理由です。
アメリカが悪いといいたいわけではありません。「戦争に犯罪という構図を持ち込んでよいのか」と疑念があると思っているだけなのです。日本の右翼が主張するような「日本は悪くなかった」と自国の正当化のためにそれを主張するのではなく、価値感の異なった国家が衝突した場合に「負けた国」の弁護ができるような、そういう歴史的経験の感覚を開いて欲しいなあと、そんなことを夢想しています。リビアのような内乱、内戦状態の場合は一方的にどちらかを悪と決めるけることが内政干渉にならないのか? という疑問も持っています。ちょっと短絡的な言い方をすれば、北アフリカから中東で起きていることは、戦後日本で起きたことの、より複雑に発展させながら反復しているように見えているのです。ソーシャルネットワークが出来て、例えば占領軍が私信の検閲を目立たないようにやったという世論操作は、さらにやりやすくなっているのではないでしょうか。しかも、それをやるのが政府というような公的な組織ではなく、クラウド・コンピュターを持っている私企業でも可能だというところが、新しい要素です。企業は国家と違ってインターナショナルな組織、つまりグローバルな組織も作ることができますし、国家のように議会に縛られることもありません。リビアの内戦状態で、カダフィタ大佐が政治的信頼を失ったために「刑事」責任を問われることはあっても、シリコン・バレーの誰かが騒乱を引き起こした責任を問われることは、おそらくありません。江藤淳の「わすれたこと わすれさせられたこと」を読み返してみたくなりましたが、アマゾンの中古では文春文庫で3,500円もの値がついていました。
1050 20110304 安宇植さんを偲ぶ会 先週の土曜日に安宇植さんを偲ぶ会がありました。スピーチをしろとのことでしたので、ちょっとお話をしました。で、「安宇植さん」と言うべきところをついうっかり「安宇植先生」と呼んでしまう場面が何度かありました。いつか、伊藤さんとのそのことを話し合ったことがあるのですが「文学者は先生という呼称をつかうべきではない」って教育されたのです。私や伊藤さんは。
なぜ「先生」を使うべきではないのかは諸説あります。おもしろい説もあるのですが、それはまたなにか機会があった時に。今回は話を早くするために、いちばんの公式見解を御紹介しておきます。
それは文学ではみんなが対等な立場に立つ必要があるからってことと、文学は人から教えてもらうものではなくって、自分から生み出すものだからだっていう理由だそうです。話が横へ飛びますが鎌倉文学館でやっていた「川端康成と三島由紀夫」展を見に行ったら、「川端は三島に川端さんと呼ぶことを許した〜うんぬん」というような説明があって、思わず「なに言っているんだ!」と怒りすら感じてしまいました。うっかり「先生」なんて呼んだら、どのくらい怒られるか解ったものじゃないってのが、文学者の世界だったのです。三島が川端に出合ったのは昭和20年頃ですが、その頃はもうそういう雰囲気はあったのではないかと推測するのですが、どうでしょうか?
尾崎紅葉の硯友社のような師匠のところに弟子入りするという徒弟の時代は、先輩作家を「先生」と呼ぶのが当たり前で、それが同人誌の時代になると、「先生」と呼ばなくなるという歴史がありそうです。ことに「白樺派」の流れと志賀直哉の流れを汲む人は、絶対に「先生」と呼ばせないという傾向がありました。誰か物好きな人がいたら歴史を調べてもらいたいものです。まあ、そんななので三島が川端に出合った頃には、「先生と呼ぶな」という習慣はもう出来上がっていたのではないかと考えたわけです。
吉行淳之介に初めてあったときも、私の本が出たお祝いに銀座のレンガ屋によんでくれたのですが編集者から「ぜったいに吉行先生と呼んではダメだよ。吉行さんと言いなさい」と耳打ちされて、それでも「吉行さん」とは発音できないので、いかに主語を抜いてしゃべるかで、えらい苦労をしました。きっと伊藤さんも、それに近い経験を持っているので、高校生が私や伊藤さんを「先生」と呼ぶことを止めようかどうか迷ったのだと思います。それから幾星霜。私はこのごろは「先生」とわりに楽に使うようになっています。学校では「先生」でいいやって思っています。文学者が「先生」を使わなくなったのは、徒弟から同人への変化などの歴史がありそうなのですが、それをまったく無視して、偉そうに「先生と呼ぶな」と怒ったエライ・センセを何人も見てきたからというのがひとつの理由です。あと、学校では顔を名前が一致しない「先生」がたくさんいて、この時は「先生」は便利な呼び方です。謙虚な、あるいは、真摯な理由から始った習慣も、その精神が失われて形骸化すると形無しになってしまいます。
この習慣はわりあいに広がっていて、私が勤務する法政大学文学部日文科でも、教員と学生は相互に「さん」と呼び合うという伝統があります。小田切秀雄教室ではそれが徹底されていた様子を聞いています。まあ、でもそういう伝統も意義が見失われると、気安く「さん」付けになる場合もあれば、「ちゃん」になることもあり、形骸化というのは、どこにでも起きる現象のようです。そうは感じていても今でも私は学生に「先生」と呼ばれると小説家として軽んじられているという不快感をちらっと感じたりします。学生にあんまり気難しいことを言ってエライ・エンセになるよりも、自分の不快感を胃薬みたいに飲み込んでしまうほうを選びますが。
安宇植さんは実に闊達な精神の持ち主で、先生と呼ばれることはお嫌いでした。東京の両国の生まれ。お祖父さんの代から両国にお住まいで「江戸っ子の朝鮮人」を自ら任じていました。そういう安宇植さんをうっかり「先生」なんて呼んだら、たいへんご機嫌を損じてしまうのではないかと想像されるのですが、でも口から「安宇植先生」という言葉が飛び出してしまいました。と言うのも、90年代の初め頃から、韓国に政治的イシューに縛られない叙情性を持った作家が次々と現れていることを教えてくださったのは安宇植さんだったからです。知識や情報として教えてくださったという側面もあるのですが、それ以上に、日頃の態度というか、言葉にしては言い難いところで教えていただいたという想いがあります。青森で廃止された連絡船の発着埠頭を黙って歩いたときのことは「偲ぶ会」でもちらりとお話しました。海も青く、空も青く、どちらにも溶け込めずにとぼとぼと歩きました。安宇植さんは海の向こう、空の向こうを眺めながら歩いていたのでした。韓国の女性作家呉貞姫さんと、和やかにお話していた姿も忘れられません。何と言うことのないよもやま話です。沈黙と雑談。そこから教えてもらったことは限りがありません。だから、自然に「先生」と呼びたくなるのです。
ほんとうは故人の御冥福をお祈りしなければならないのが生きる者の役割ですが、私も一度は救急車で運ばれていますから、幽明の境界はもう淡くなったものとして、時々、安宇植先生のまたお散歩のお供をしたいものです。もうきっと「先生」とお呼びしても「うん、先に生きてたからね」と笑ってくださるような気がしてます。「先生」と言う呼び方に、こんなこだわりを持つのも、伊藤さんや私が最後のほうなのかもしれません。そう思いませんか?安先生。
1049 20110301 ツイッター200日 ツイッターを始めて200日。いや、正確には201日目になった。なかなかおもしろい遊び道具であることは間違いない。個人で持てる小さなラジオ局みたいな感じだし、出入り自由なコミニケーション・サークルを作るのにも向いている。
で、この200日にあったことで、思い出すことを並べてみる。
最初は海上保安庁の尖閣諸島映像流出事件。ツイッターで動画が流されていることを知った。で、たぶんそのあとだと思うけど、ツイッターが不調になって、総務省までが出張ってきたということがあった。ツイッターのようなシステムは一見自由に見えるけれども、情報操作がしやすいことは、ツイッターが登場するずっと以前に話題になっていた。で、システムに異常が出たのはそのためじゃないのかと聞くと、たいていの人は「ツイッターは動作が不安定だから」という答え。確かにふだんでも、キャパシティ・オーバーの「鯨」がよく表示されるので、そうした日常的な不調なのかもしれない。
お次はなんだっけ? あ〜これは何だろう? と思うことが何度かあったが、印象だけ残っていて、事柄は記憶していない。北朝鮮が韓国の島を砲撃した時もちょうどツイッターをいじっていた。その時もなにか「あれ?」と思うような動作があったような、なかったような。
年が明けてから、チュニジアが不安定になっているというニュースがタイムラインに出てきて「あれっ」と思っているうちに、あれよあれよでジャスミン革命だってと、正直な感想としては「これはなんか胡散臭いなあ」というものだった。あまりにもスムーズに行過ぎている。ソーシャルネットワークによる市民革命というのが、なんだか簡単すぎる感じがした。ちょうど映画「フェイスブック」が話題になっていたし。
私の頭に浮かんでいたのは、ちょうど2年前のグーグルによる大学図書館の書籍のテキスト化計画と、それにともなう著作権者の権利問題、それから1年前の電子籍騒動というか、電子末端デバイスの売り出しの騒ぎなどと「流れ」が似ている気がした。最初は「理想とビジネスが肩を組んで」現れる。それから、実際の現場が戸惑いの声をあげたり、ことが理想的には進まないことがわかって、右往左往と言う流れ。あ〜、似ているなあと思っていたら、エジプトでムバラク政権が倒れると、これは素直には行かなくって、すったもんだ。グーグル社が電話回線でネットを利用できるように計らったり、ハッカーグループが登場したりと、なんだか舞台裏がちらりと見えるような、感触もあり。
この件に私が興味を持つのは、私がデビューした年1978年の群像6月号で、江藤淳と本多秋五による「無条件降伏論争」があったからだ。すご〜く大雑把に言えば、占領軍であるアメリカによる言論統制と世論誘導がどのくらい無意識に日本人の言語活動の中に入り込んでいるかを問いかける論争だったわけで。幾つもの文学論争と同じように、この論争も決着はついていないのだが、江藤淳が指摘した側面は、ネットの登場で、さらに進化し、巧妙になり、強行になっているのではないかと考えられるから、どうしても興味を持ってしまう。
反政府運動はエジプトから北アフリカ、中東全域に広がりを見せている。緊張する状態の中で、情報がどう伝わるのかは、ツイッターは、新聞、テレビ、ラジオにはない速度で、その事態を刻々と伝えてくるので、釘付けになってしまう。それにしても、誰が何をたくらんで仕掛けたのかは知らないけれども、北アフリカと中東を巻き込む騒乱状態を「指先の運動」で作り出してしまうなんて、こんな「けしからんことはない」という腹立ちがあった。そうこうするうちにリビアが内戦状態に入る。アラビア半島でも騒乱の気配はくすぶっている。
なぜか、北アフリカと中東について揶揄したツイートが消えた。で、「消えた」とツイートすると元のツイートも戻って表示された。北朝鮮で住民蜂起があったというニュースをツイートしようとすると、これができない。「これができない」とツイートしてみるとフォロワーの人から「雲のみえざる手」という御返事が。なるほどねえと頷くことしきり。記憶している限り、政治的なコメント以外は、あまり理解できないへんな動作はなかったように思える。
これが私のツイッター200日。
1048 20110216 やわらかい言葉がほしいなぁ。 ゲマインシャフトとゲゼルシャフトというドイツ語を30年前の大学の教室で教わりました。大学の1年生でした。へえ、そんな単語があるんだ、そんな単語で世の中の移り変わりを説明するんだと感心。ゲマインシャフトは日本語に訳せば共同体で、血縁、地縁、それから友情などで繋がっている集団。ゲゼルシャフトは利害関係、協同関係などで繋がっている集団。日本語の訳としては共同体もしくは協同体を使うこともあるのですが、社会という訳を当てる場合もあるらしいです。
英語だとゲマインシャフトの共同体はコミュニティ。ゲゼルシャフトの社会はソサエティということになるらしい。共同体は家族、村落、親睦団体、などがそれに当たり、社会のほうは学校、会社、目的を持った組織などの集団をさすと、たぶん、30年前に教えてもらったことを思い出しながら、説明するとそんなことになります。今の日本語では社会という言葉は、ゲゼルシャフトよりずっと意味を広げて使っているので、少しヘンな気のする人もいるかなと言う気がしますが、共同体との区別のために意味を狭めて使っているのだと思ってください。
それで30年前の大学の階段教室で教えてもらったことと言えば、世の中は共同体から社会へと変化して行くということでした。さて、ここからは私の考えたこと。共同体は感情の繋がりで出来ているからうっとうしい。社会は目的を持った繋がりで出来ているからすっきりしていて、素敵だ! 家族から離れて東京で一人暮らしを始めたばかりでしたから、なおさら、そう思いました。人目がうるさい田舎より(ゲマインシャフト)東京(ゲゼルシャフト)のほうがずっと生きやすいやって。
教室に座ってそんなことを考えていたのと同じ頃、30年後にミイラになって発見されて大騒ぎになるお爺さんが息を引き取っていたなんて、想像もしませんでした。事件はゆっくり進行していたのです。隣近所という共同体の力が弱くなっていなければ、起こり得ない事件です。それから、同じ30年前に、新興宗教の団体が、若い女性を集めて共同生活をして、親が娘を取り戻そうとするという事件? が幾つかありました。オウム真理教事件など起こるずっと前です。伝統的な血縁や地縁ではなく、意思を持って集団に入った人で構成されるコミュニティと、そこでの暮らしは、なかなか小説に書きにくいという話を担当編集者と交わしたのも、よく覚えています。「書いている人はいるんですけど、これが作品としてうまく行ってなくって」と担当編集者が教えてくれました。これはあとになると、現実の体験に取材した小説ではなくって、観念的に虚構を組み立てた小説となって描かれるようになります。現実の体験のほうは、ノンフィクションが、その表現を引き受けてゆくことになります。
目的がはっきりした団体ではなく、人間存在をまるごと受け入れてくれる団体。つまりコミュニティを欲するっていう意欲や望みは、「東京っていいなぁ」と大学の教室にぼんやり座っていた頃にすでに、ある種の事件として現れていました。また、自然食運動などの市民運動的な要素のあるものとしても現れていました。どういうわけか、ソサエティは社会という訳語が定着し、しかもその訳語はかなり広範な意味に使われていますけれども、コミュニティは現在もなおカタカナ語のままで、共同体という訳語は意識的に使うことがあってもなんだかむずがゆい感じがします。なぜなのだろう?
こんなことを思い出し思い出し、考えているのは無縁社会という言葉が出てきたためです。親族の遺体をともにひっそりと暮らしている人、30代の働き盛りなのに自宅で餓死した男性。人の生き死ににかかわる事件が社会的関心を集めているなかで、それは人事じゃないなあという体験を積み上げてきたからです。孤独死ということも、身近な出来事として起きています。脳梗塞の発作を起こして携帯電話を握り締めたまま息絶えていた高校の同級生もいたそうです。それを話してくれたのは、同じ脳梗塞の発作を起こして、ちゃんと携帯で119番できた同級生でした。
さてと、大昔の教室の記憶から、この話を掘り起こしたのは「人間はひとりで生まれてひとりで死ぬのだから無縁を恐れることはない」とか「無縁で死ぬ覚悟をすればいい」という意見を聞いて考えたことを書きたかったからです。たぶん、そういう発言はゲゼルシャフトな共同体で形成された場所で生きるための、最低限必要な心構えについて話しているのだと、そう思ったのです。ただ、言葉が硬くって惨い。惨いだけではなく、そこからなにかが失われて行くのです。直感的な喩えで言えば、「無縁でけっこう」と言ったとたんに、小さな穴があいて魂がぽたぽたっとゆるくもれて行くような感じです。
無縁社会という社会問題は、感情の問題と社会システムの問題というふうに一度は分けて考える必要があります。で、社会システムの問題は社会科学の言葉で考えてゆくことができるでしょう。しかし、感情の問題は、感情の言葉で、ゆっくり考えていかないと、何か間違うというか、必要のない悲惨さに墜ち込みそうな不安があります。やわらかい言葉がほしいなあ。歌になったり詩になったりするような、やわらかくって柔軟で、説明がいらないけれども、あんまり俗っぽくない言葉がほしいなあと考えています。壺井栄は「母のない子と子のない母」とをどんな言葉で書いていたのかしら? 今、手元に本がないので、読み返すことはできないのですが、あの小説は戦争の悲惨とその慰めを書いたものという思い込みで読んでしまいましたが(しかも中学生の時に)今のような、人の繋がりが薄くならざる終えないような時代の物語として読んだらどんなふうに読めるのでしょうか?読み返してみたいものです。
私個人は20代の半ばに母親の介護をしていた時に、口に出してはいいませんでしたが「無縁で死ぬのだな」と内心納得していました。で、「無縁で死ぬ」と納得したら「人の面倒は見られる限りみておかなくちゃいけないなあ」と嘆息しました。だって死んじゃったら、手も足もでなくって「自分のことは自分でする」なんてのも無理だし「人に迷惑をかけない」ってのも無理だからです。なんだか黙っていたことを、言葉にする時期が来ているような気がしないでもないです。
1047 20110215 「日本画の前衛」を竹橋近代美術館で見る。 竹橋の近代美術館で「日本画の前衛」展を見てきました。若い頃から、西洋文化と東洋文化が交じり合う過程に興味がありました。興味があったというより、50歳になっても20代初めの興味が持続しているってことです。なんといっても移り気で、気が多すぎるって年中叱られえていましたから、自分の興味を自分で信用できなかったのですが、30年たっても、それがまだ持続しているところを見ると、たぶん本物。それから、もうひとつは、私と同じような興味を持って、それを地道に研究に結び付けてきた人たちがいるのだなということを感じます。おかげで、ずいぶん「なるほど」とか「謎がとけた」とか、そういうふうにうなづける成果に出会うことができます。
「日本画の前衛」展は戦前の「歴程美術会」の出品作品を中心にした展示でした。ところで、この美術界の「暦程」は草野心平、高橋新吉、中原中也など8人の同人で発行された詩の雑誌の名前として、私の頭に入っています。また、暦程の会は戦後も持続して現在も歴程賞や歴程新鋭賞を出しています。この「歴程」と「歴程美術会」はどういう関係のあるのだろう? と不思議に思いながら、図録解説を読んでいますが、まだ、はっきりしたことはわかりません。暦程賞の授賞式には何度か出かけたことがありますし、晩年の草野心平さんをお見かけしたこともあります。
さて、展覧会ですが、第一次世界大戦が生み出したと言われるシュールリアリズムが、日本では伝統的美術観への反逆という側面が、強く意識されていたことが印象に残りました。さらに、戦争中に画家の視界がよりダイナミックに開かれることに圧倒されました。シュールリアリズムは第2次世界大戦で終焉したという説と、第二次世界大戦後にも引き継がれたという説があるそうですが、日本の場合は大雑把に言って、第二次世界大戦前はシュールリアリズムの光の部分をたくさんに浴び、戦争中にはその光を自ら発する寸前まで進み、敗戦後に欧州が戦場になることで生まれたシュールリアリズムの陰の部分を自らの命と魂と身体で理解したのではないかと言う仮説めいた流れを感じました。詩と絵画の関係も気になるところです。
船田玉樹の「花の夕」丸木位里の「馬」「駱駝」「鷺」「牛」などの絵は見ていて心楽しくなりました。もう一歩進むと装飾的、様式的になりそうな手前で、絵が躍動していて、見る側の想像力が自由に翼を広げることができる絵でした。この展覧会は、竹橋の近代美術館のあと、広島県立美術館に巡回するそうです。船田玉樹も丸木位里も広島出身だということを初めて知りました。もちろん丸木位里は原爆図で世界的な名声があることは以前から承知していましたが、私はその原爆図を見たことがなかったし、あまり見たいとも思っていませんでした。しかし、まだ原爆の惨禍を知らない丸木位里の動物の息使い、気配、存在の迫力をマチエールの中に閉じ込めている絵を見てから、無償に原爆図を見たくなりました。政治的な意味ではない美的な感覚がそこにありそうな気がしてきました。
1046 20110215 伊藤さん、東京は大雪。 伊藤さんが飛行機で青森へ飛び去って、東京は大雪。降り出してから5時間で、救急車で運ばれた人は10人以上。きっとコンビニでは、ホカロンが飛ぶように売れているでしょう。雪用の靴も必要。だって滑るんだもの。ここ、見てる? そんなこんなで、きっと明日の朝の東京は大混乱です。間違いなし。
1045 20110209 毒を仰ぐ もろい夢でした。夢と現の間の敷居が低い夢でした。だから、目が覚めてしまうと、夢の感触を充分に再現することができません。おおまかな筋が残っているだけ。
どんな筋かと言えば、錠剤の毒を飲む夢です。毎日飲んでいるふつうの薬のように、錠剤の毒を飲んで横たわっているのです。こう書くとなんだか神秘的な雰囲気も出てしまいますが、胃薬でも飲むように毒を飲んで横たわっていました。が、効き目がなかなか現れてきません。仕方がないので、効き目が出るまで、ボタン付けをすることにしました。針に糸を通して、糸の端に玉を作る。大きな玉が出来てしまい目立つほどですが、死んでしまえば、コートを使うこともないから、まあ、これでいいかと一人納得していました。
死ぬ間際までボタン付けをしていたのを、後で誰かが見つけたら、さぞかし驚くだろうとか、そんなことを考えながらボタン付けをしていました。
そのうちちょっと用事を思い出したのです。夢の中ですからどんな用意だったのかまでは覚えていません。あ、しまった。毒を飲むタイミングを間違っちゃった、どうしようかな? と迷っているうちに「これは夢ではないか」と疑りだしました。「どうも夢のようだ」と疑りが確信に変わる頃、ふっと「この夢は前にも1回見た」と気付いたのです。「これで2回目だ」と。ここもまだ夢の中。しきりに感心しながら夢から覚めました。
同じ夢を繰り返し見る癖がこのごろはなくなったなあと思っていたところでした。どうも夢の素は、一昨年の心筋梗塞で病院へ運びこまれたときの体験のようです。すーっと意識がなくなって行くときの感触を再現していました。この夢はバリエーションを変えてまた見るような予感がします。
1044 20110207 砂漠の駱駝とニクソン大統領 母がぽつっと「あれがなければ、あんたたちを私立大学へ入れるくらいの蓄えはあったのにね」と言ったことがあります。あれがなければと言うのは、オイルショック後の狂乱物価。インフレでした。そんなことを母が言ったのはいったい何時ごろだったか? 結局私は明治大学の2部へ滑り込みましたし、弟はもともと国立にしかない学部を志望していたから、そんな実害があったという話ではなかったのですが、親としては落胆の表明をしたかったみたいです。
私も弟ももう大学へ入っていたかもしれません。母の胸の中にそんな落胆の固まりがあったのかと、意外な気がして忘れられません。小学校(国民学校ですが)の苦く甘い思い出は学童疎開。苦いほうが先で、苦さをかみ締めていると甘くなるという様子。昭和10年(1935年)生まれの母でした。
オイルショックは何度かありますが、最初の1973年の第4次中東戦争のほうのオイルショックです。ドル・ショックのあとを追いかけるように勃発した原油の値上がりで、なぜかトイレットペーパーや洗剤の買占め騒ぎが起きました。トイレットペーパーを自転車に積んでいたおじさんが、強盗に襲われるなんて、笑いたくなるような事件まであった騒ぎでした。第二次世界大戦が終わって28年。戦争が終わっても物資の乏しい時代が数年は続きましたから、まだ、品物がなくなる恐怖を生々しく持っている人が大勢いたのだなと、振り返って、改めて想像することがあります。母は37、8歳だったわけで、「喉元過ぎれば熱さを忘れるは恥だ」が口癖がでした。
1979年のイラン革命の時のオイルショックの時にはもう大学へ入っていました。
カイロで始まったムバラク退陣運動のデモ隊の中で暴れる駱駝の映像を見ていて、冒頭の母の嘆息を思い出したのです。どこかアメリカのニクソン大統領が大統領支持派にベトナム戦争反戦運動のデモ隊を衝突させた時の様子に似ていました。
オイルショックの時のアメリカ大統領はニクソンでした。ニクソン大統領はアメリカ軍をベトナムから撤退させた大統領です。当時、ベトナム反戦運動が盛んで、これがベトナムからの撤退交渉の障害となると判断したニクソン大統領はテレビ演説で、反戦運動に加わっていない無言の支持者たちに支持を呼びかけます。大統領の呼びかけに応えた、ブルーカラーの人々が反戦運動の学生に襲い掛かるシーンの映像を、私が見たのはずいぶんあとになってからです。ヘルメットを被ったブルーカラーの人々の動きの素早いこと。実にシャープな動き方をして脆弱な学生をぼこぼこにしてしまいます。
エジプトのムバラク支持派とムバラク即時退陣派と衝突の映像で、駱駝を見たとき、このニクソン支持派のすばらしくシャープな動きを連想したのでした。砂漠の駱駝使いはアメリカの労働者よりも、なんだか笑いたくなるような感じもしました。
テレビを使って自身への支持を呼びかけたニクソン大統領は、結局、ウォーターゲート事件で退陣を余儀なくされてホワイト・ハウスを去ります。エジプトから流れてくる情報を断片的に受け取っていると、なぜか20世紀後半のさまざまな出来事が個人的な記憶と一緒によみがえってきます。ウォーター・ゲート事件のあと日本ではロッキード事件が起きます。ロッキード事件のあとはリクルート事件。報道は、しだいにパターン化しました。
中国とアメリカの国交を開いたのもニクソン大統領でした。日本と中国の国交を快復させたのはロッキード事件の田中角栄首相でした。
1043 20110206 雀の写真撮れてました。 飯田橋の外濠土手の雀の写真。撮れてるかな?って思っていたんですが、ちゃんと撮影できてました。このごろのカメラってすごい!
インフルエンザが治った豆蔵君が掲載してくれるはずです。 1043.jpg
1042 20110126 外濠土手の雀 雀もこのごろは核家族化現象なのだそうです。かつては1シーズンに5、6羽の雛を育てていた雀がこのごろは1羽だけ育てるというもの珍しくないとどこかで読みました。なぜ、雛が1羽になってしまったのかは、覚えてないのですけど。へえって思って。
外濠の土手を歩いていたらどこかで雀の声。おやと探してみると、金木犀の木にいっぱい雀がいました。どうやら、最近の核家族育ちの雀たちのようです。地面に降りて餌をついばむのに余念がないといったおおらかな行動には出ないのでしょうか?金木犀の枝から枝を雀が飛び回っていました。自分が生きている間に、雀が核家族になったり、4月の入学式に咲いていた桜が3月の卒業式に咲くようになったり、そんなことが起きるなんて夢にも思いませんでした。
金木犀の枝から枝に飛び回る雀の写真を撮りました。でも、あろうことか、管理人の豆蔵君が新型インフルエンザでダウン。タミフルを飲んで寝込んでいるそうです。残念。去年だったら大ニュースになったのに。ってまあ、こんなことでニュースになんかなりたくないだろうと、思うのですけど。豆蔵君、どうぞお大事に!
1041 20110125 「魚の目」不定期連載「象の鼻毛」 魚住昭さんのウェッブマガジン「魚の目」で不定期の連載始めました。タイトルは「象の鼻毛」です。象って鼻毛あるのか?って。たぶんあります。なかったらたいへん。でも、ふだんはあんまり意識しないし、あってもなくってもいいような感じがするのが象の鼻毛なかというわけで、あってもなくってもいいような気がするけど、なかったらたいへんな感じのあれこれを書いて行くつもりです。不定期だから、次が何時になるのやら。
なにしろ魚住さんにお会いしてじゃあやりましょうってお話をしたのは2010年4月だから、もう忘れちゃってかもしれないって、少々不安になってくらいです。なまじフォルムのしっかりしたエッセイを書いてみたいなんて言ちゃったものだから、なかなか、かけなかったのです。
「象の鼻毛」は「〜です、〜ます」という敬体じゃなくって「〜だ、〜だった」という常体を使うつもりです。ネットは紙の媒体よりも読者に近い感じがして、言うなれば映画じゃなくってテレビみたいな軽さがあるのはおもしろいところですが、常体を使わないと言えないことがあるのではないでしょうか。逆に言えば常体で、日常的に話す人はそんなにいないでしょう。よほどのいばりん坊以外は。だから話す姿勢が、常体は書き言葉の姿勢なのではないでしょうか。で「象の鼻毛」は常体を使うことにしました。
1040 20110118 ダメダメな一日。 あ〜。ダメだ。お金を振り込まなくっちゃいけなかったんだけど、銀行の前を通っていたのに、忘れた。あ〜ダメだ。出席予定の会合を明日だと1日勘違いしていた。というわけで欠席。ひょえぇ。ダメダメな一日だった。
でもそのわりに幸せ。と言うか幸せだったから、用事は全部忘れたって感じ。
ええと、朝起きたときに手を見たら、お婆さんの手になっていた。掌のほうじゃなくって、手の甲のほうが。空気が乾燥しているから、どうしても細かい皺が寄っちゃった、ああああああ〜お婆さんの手になってら〜って感じで寝床の中で眺めとりました。あんまり悪い気はしない。中学生の時は大人の女の人のほっそりした手と指に憧れたんだけど、なんかそういう感じが楽しく思い出せるお婆さんの手になったぞしめしめって感じかな。そうだ、幼稚園のときには狼がばけた赤頭巾ちゃんのお婆さんになりたかったのだと、ついでに思い出す。
で、すっかり幸せになって、用事は忘れたり勘違いしたりでダメダメな一日。夜は、まっしろな蕪を昆布でことこと煮て食べた。ほっこりしたおいしかった。それからテレビで昨晩のサッカーの試合のダイジェスト見て、やっぱり岡崎は好きだな〜って、なんかゴン中山を優しくした雰囲気。でも、いなきゃいけないところにチャンといる目の良さ。すごいじゃん!あ〜ダメダメな一日だ。この手を見よ、お婆さんの手だぞとか言ってみようかな〜。
1039 20110117 寄り道中央線 おまけ3 大阪から近鉄大阪線で名古屋。名古屋から中央本線で木曽福島。木曽福島で1泊。大学生の頃はこんなほっつき歩き方をすると、泊まる旅館で困ったものです。女性ひとりって旅館のほうがちょっと困惑します。それから、まだ団体旅行の名残が残っていて、あまり一人客用のお部屋とかがありませんでした。あと、お風呂。だいたい男性の団体用ということが多くって、女性用はつけたしみたいな貧素なお風呂っていう宿もありました。とことこ出かけて、気持ちの良い旅館に泊まれるのは、たいへんな変化です。
朝はマイナス17度と聞いた宿で「露天風呂があります」って言われても「大丈夫かな」とやや心配。が心配御無用でした。ぬるいお風呂にゆっくり浸かって、外に出ると、まるで夏のデパートに入ったような心地よさ。それからお風呂に再び浸かると、今度は炬燵にもぐりこんだような幸せ。で、露天風呂にゆっくり入っている女性のお客さんがいました。家族連れが多かったのですが、この人はひとりで泊まっている様子です。この頃はどこに行っても、こういう一人でゆっくりお風呂に入っている女の人に出会います。家族連れが多いのは、きっと年末年始が忙しいご商売のお家なのでしょう。
木曽福島から新宿へ。列車は「塩尻」で乗り換えます。特急「しなの」から特急「あずさ」への乗り換えです。JRもJR東海からJR東日本へ。西国と東国の境界というのは、こんなところに残っているのです。木曽福島から塩尻までは特急の停車駅だとひと駅。
今度はだんだん下って行く線路です。右、左に迫っていた山の斜面が左右ともに遠ざかって行きます。山はうっすら雪をかぶっていました。常緑の赤松が目立つ山で、松の緑と白い雪のコントラストが軽やかな色彩を放っていました。空は晴れて、これまた青。列車が雪を舞い上がらせ、舞い上がった雪は金と銀とに輝きます。平地にならぶ冬枯れの葡萄畑が見えてきたら、もう塩尻。
塩尻の駅で乗り換え。若い旅行者の姿が目立ちました。旅行者というより、東京に戻って試験を受ける大学生とか、入試のために東京にでる高校生とか、そんな感じの乗客がホームにずいぶんいました。塩尻の駅では、ホームにトイレがあったことと、そのトイレが暖房されていたばかりか、便座が暖かだったのにちょっと感激。
「あずさ」がホームに入っていると、なんだかもう新宿にいるような気がしました。窓の外に富士山が見えたのは、どのあたりだったか。写真に撮れるかなとカメラを向けてみましたけれど、走っている列車の中からはどうもうまく撮影できそうにありません。そのうち車内は大混雑し始めて、寝てしまいました。

今日の写真は、あてずっぽうにシャッターをおしたら撮影できていた富士山の写真です。これは家に帰ってから「おや、富士山ちゃんと写っているじゃないの」と気伝いものです。あと、法政のボアソナードタワーで撮影した日暮れ。陽が沈むところを撮ろうとしたので、富士山の姿は画面に入っていませんが、茜色の西の空には富士山の姿がありました。
1038 20110116 寄り道中央線 おまけ2 大阪から近鉄大阪線で名古屋に出て、中央本線の特急「しなの」で木曽福島まで行った話はツイッターのほうに書いてしまったので、こちらが「おまけ」になります。ツイッターだと簡単に写真が載せられるのですけど、こちらは管理人の豆蔵君の手を煩わせなくちゃならないので。

名古屋から特急「しなの」で、木曽へ入って行くわけですが、中津川の手前あたりから、トンネルへ入ると耳が詰まるような感じがしてきました。ゆっくりと山を登るのです。もうこのあたりは中山道と平行して線路が走っています。家の感じが近鉄の沿線と少し変わりました。どっしりした瓦屋根が減って、軽い感じの屋根の家が目だってきます。それから、玄関が家の正面ではなく、右の端にある家が目立ちます。玄関わきに長い縁側があるのです。東海道だと、大井川を渡った頃に、家の感じが変わったなあと思うのですが、山を登っているせいか、大井川よりも手前で、家の造作が変わったなと列車の窓のそとを見ていました。
本州中央部の山々を日本の屋根と表現することがありますが、中山道というのはまさにその屋根の上を伝って行くような道です。ただ、大きな川の河口付近を渡らなければいけない東海道よりも、中山道のほうが川止めなどが少なく、旅程が読める道だったそうです。京都から江戸へおこし入れした和宮様も、この中山道を通ったそうですし、朝廷から日光の東照宮へのお使いもこの中山道を通ったと聞いていましたが、想像していたよりも、険しい谷あいの道でした。
中津川の次の特急停車駅は「木曽福島」ですが、中津川を出てしばらくすると、川と道路と線路は併走するようになりました。列車の窓の外を眺めながら、なぜか不快な人物や不快な出来事をぼんやりと思い出したのはこのあたりでした。すごく不快というのではなくって、漢文調で「余を不快にせし人物の顔浮かび来る」みたいな思い出し方。身体が感じた気圧の変化が、そんな心持になって現れたのかもしれません。トンネルをくぐるたびに霧が深くなりました。つい、うとうととして、目が覚めたら、窓の外はうっすらと白い雪が積もっていました。寒そうな山の景色です。
木曽発電所を過ぎると、車内放送が入りました。谷底の川の中央に見える「目覚めの床」の説明の放送でした。川の中央に青みがかった白い長方形の石が何本も立ち上がり、石の上には松の木に囲まれたお堂が見えました。そこで竜宮城から帰ってきた浦島太郎が暮らしていたというのが、車内放送の説明でした。丹後とか丹波に浦島伝説があると聞いた記憶はばんやりとあるのですが、どうしてその浦島太郎は木曽の山の中までやってきたのでしょうか? 竜宮城から帰った浦島太郎の道中はいったいどんなものだったのでしょう? そっちのほうが気にかかりました。前方に真っ白に雪を被った高い山が見えました。どうやらそれが木曽の御嶽山のようでした。そういうわけで、日が暮れないうちに木曽福島到着。私の座席のうしろで、ふくよかなお母さんが、お腹の上に、赤いほっぺの赤ちゃんをだっこして幸せそうにすやすやと寝ていました。

東海道で、関東への入り口は箱根の関所ですが、木曽福島の関所は中山道のちょうど中間なのだそうです、もちろん、関所はいまはもうありません。木曽の御嶽山参りをする人は、木曽福島を足場にしているようでした。V字谷の左右の斜面に代官屋敷と旧関所跡があるというのが木曽福島です。宿へついて女中さんと少し話をしてみると、伊勢神宮の建て替えのときには、木材の切り出しのために大勢の人が集まってたいそう賑やかだったということでした。昔は川へ筏を流して材木は運んだと、それが木曽のなかのりさんと、小学生の頃、覚えた歌の意味をようやく「そうか」と悟ったしだい。秀吉が一夜城を作ったというのも、川上から用意した材木を流して、川下で受け取ったのだと言うのですが、どうも秀吉の独創的な考えだというよりも、日常的な材木の輸送に一工夫加えたものだったみたいだなと、そんなことを考えました。秀吉は川上で、材木をすぐに砦が出来るように加工して川に流したのだと言います。「今朝はマイナス17度でした」と女中さんに教えてもらいました。翌日の朝は少し暖かくって、それでもマイナス10度。10時を過ぎる頃でも、日陰の雪はじゃりじゃりと凍っていました。
木曽福島の町があるV字の谷は朝日が当たる斜面は午前中からけっこう暖かなのですが、日の当たらない斜面もおっそろしい寒さでした。同じ町でこうも違うかとびっくりするくらいの違いでした。
では豆蔵君ご苦労様ですが、写真よろしくお願いします。
1037 20110114 寄り道中央線・おまけ1 中央線と言えば、東京に住んでいる私は、新宿から吉祥寺、三鷹へと延びるまっすぐな線路のイメージがまっさきに浮かびます。立川、八王子あたりまで中央線かな。そこから先は何? と言われても、とくにこれと言ったイメージはありません。
何というイメージはありませんが狩人の歌った「あずさ2号」があるので、信州へ行く電車というイメージも持っています。それが中仙道と結びつかないのは、新宿から甲府を抜ける甲州街道と重なるルートを通っているからでした。一方、中仙道と言えば、板橋宿。私が住んでいる場所からすぐ近くです。板橋宿から高崎、軽井沢を抜けて信州へ出る道であると、知ってはいましたが、東海道のように素直にそのまま京都へと続く電車があるというふうには考えていませんでした。
東海道線には乗り飽きたから、ちょっと寄り道で中央線を通ってみようと考えたのは、もちろん、それを勧めてくださった方がいたからですが「名古屋から中央本線」と聞いたとたんに、木曽を抜けて信州へ出る中山道のイメージが浮かんだからです。これが新宿から信州経由で名古屋へ出るという「くだり」コースだったら「寄り道にしては遠すぎるなあ」と尻込みしたかもしれません。それが名古屋から木曽川のふちを上がって行くというコースだと、がぜん、それ行ってみたいという気持ちになりました。一日で新宿まで到達はちょっときつそうだったので、どこに泊まろうかと探してみると、中仙道の関所、木曽福島がちょうど良い場所にあったというのも魅力のひとつでした。
大阪で「東海道線には飽きたから名古屋から中央線で帰る」と言ったら「新幹線に飽きたなら近鉄に乗ればいいじゃなかい」とこれまた知合いから言われ「それもそうね」と即座に納得。近鉄に乗るために、天王寺から環状線で鶴橋に出ました。駅のホームで名古屋までの特急券を購入。ホームに滑り込んできた特急は、ひたすら生駒山を目指して走り始めました。列車が高架から地上へおりたのは「近鉄八尾」駅を通り過ぎたあたり。生駒山の裾を信貴山の裾のほうへ回り込みでしばらくすると「耳成」という駅を通過したので、ああ、奈良を走っているんだと実感。驚いたのは、そのあとで、巨大な金色の仏像の手前にまっしろなギリシャ彫刻が二対(これもかなり巨大)が並ぶという景色が見えたのです。ぎょっとしました。3体のオブジェはどれも建物の屋根よりも高いのです。家に帰ってから、ツイッターで、これはお寺と美術館のモニュメントであると教えてもらいました。近くには榊原温泉もあるそうです。だとすると、あのモニュメントを目にした時は、もう名張を過ぎて、津をめざしていた頃です。

長いトンネルから広野原へ。だんだら模様に塗られた高い煙突が目立つ四日市をすぎると、広野原を流れるおおきな川を幾つも渡って名古屋に到着。これだけでもけっこな寄り道でした。
近鉄の名古屋駅を出て、さてこれから目的の中央本線で特急「しなの」に乗ろうという時、見つけたのです。おやつカンパニーの「いろいろベビーラーメン」。韓国のり味とか、黒胡椒味とか、復刻ベビーラーメンとかいろいろ入った大袋で500円。安い! 買おうかな? でも大きすぎる。と迷ったあげくに買っちゃいました。というのも、おやつカンパニーは三重県の津にある会社だと知っていたからです。だから近鉄の改札を出たらもう「ベビーラーメンいろいろ」は売ってないかもしれないと考えて買っちゃいました。そして巨大ベビーラーメンをむりやりキャリーバッグに詰め込んだのでした。
写真は巨大ベビーラーメン詰め合わせのおまけに入っていたトランプ。けっこう気に入ってます(笑)それからもうJRのホームに入っていた特急「しなの」。昼を過ぎた頃だったので、お客さんが列車に乗り込んでお弁当を食べていました。

豆蔵君、写真、お願いします。
あがりましたー(豆)
1036 20110112 水餅を作ってみた。 考えてみると川越街道沿いに住んでもう30年になります。いちばん、長く住んでいるけれども、仕事は電車に乗って都心へ出てしまうし、親戚は金沢八景を中心にした横浜市内が多いし、高校までの学校友達は千葉の館山にいる人が多いといった具合で、自分が住んでいる場所とのつながりは30年も住んでいるという積み重ねはあまりないような、こころもとなさです。
それでも、川越街道沿いのお店は、馴染みになった家具屋さん、花屋さん、お菓子屋さんといろいろあります。布団屋さんはいつの間にか店を閉めてしまいました。去年の夏ごろ、突然、休業して心配した花屋さんには、お正月の花が賑やかに並びました。今度は家具屋さんが「しばらくお休みします」の張り紙です。誰かご病人でも出たのでしょうか? 気にかかっています。
水餅の作り方を、お供え餅を買ったお菓子屋さんで教えてもらいました。かびてしまったお供え餅でも、きれいなお水に漬けておくと良いと。7日から大阪へ出て、帰りはちょっと寄り道で、中央線を辿って東京に戻ってきたので、お供えを水餅にしたのは10日の夜。鏡開きの日ですから、ちょうど良いといえばちょうど良いのですけど。かなり黴ていて大丈夫かな?と水に沈んだお餅を眺めていました。今朝になると、黴は水に流れてきれいになっていました。お餅は、2センチ角くらいに割れていて、これを網であぶってみたら、おいしいこと。ちょっと香ばしくって、おせんべいほどには硬くなくって、なかなかでした。
月に2回ほど大阪へ通いだして4月になるとまる3年になります。夜の東海道線を新幹線「のぞみ」でびゅっと飛んで行って、翌日、また「のぞみ」で大急ぎで戻ってくるっていう道中にもちょっと飽きが来てました。これまでも、「行き」はともかくも、「帰り」は時間があれば京阪で京都に出たりしていたのですが、もうちょっと遠走りがしてみたくなりました。中央本線を使うことを勧めてくださった方がいて「そりゃ、いいわい」とばかり寄り道道中で大阪から帰ってきました。
「寄り道中央線」の話はツイッターのほうでどうぞ。 1036.jpg
1035 20110106 本屋さんに行く しばらく行ってなかった近所の本屋さんに行きました。電車の時刻表が欲しかったのです。以前は毎月買っていた時期もあったのですが、目的地がはっきりしている場合は、ネットの検索で充分に間に合ってしまうので、いつか時刻表を買わなくなりました。
今年は7日の週末から大阪です。その帰りに名古屋から木曽谷を辿って中央本線に乗ってみようという気になりました。電車に乗るだけなんてときには時刻表は1冊持っているとたいへん便利です。気紛れができるから。電子ブックのようなものとか、スマートフォン、あるいは携帯を使いこなせれば時刻表もいらないのかな。そうなのかもしれませんが、気紛れに電車に乗って行くのにそんなに便利じゃなくっても不自由はしません。
本屋さんに行ったら、NHKの「無縁社会」の本が目につきました。ずいぶん前に、社会的地位は引退したら「ただの人に戻るのが理想」って話をしてくれた弁護士さんがいました。飲んでいる時の雑談ですから、ちょっとした理想論だったのですけど、その理想論で少し引っかかるところがあったのです。仕事は仕事、私的生活は私的生活って完全に割り切っちゃったいいのかなあ?っていう疑問です。たいていの人は、自分の仕事のために多くの時間をさいているのに、その仕事から退いたら何の人間関係の財産も築けていないとしたら、それはとっても「へんちくりんな」ことなんじゃないかと、その時に感じました。
弁護士とか政治家とか大学教授とか、そういう職業の場合は、仕事と私的生活を分割しちゃっても、あとになんらかの職業上の人のつながりという財産が残るでしょう。そういう職業の人が考える「理想」と、そうではない人々が考える「幸福」って違うんじゃないでしょうか?あえて「理想」と「幸福」っていうふうに単語を置き換えてみたんですが。どんなものなのでしょうね?お正月に息子や娘たちと話す機会があったのですけれども、人間関係の作り方に工夫がいる時代になったなあと、それぞれに感じているようでした。
「人間は生まれるときも一人だし、死ぬときもひとりだ」ってよくそう言う言葉を耳にしたこともあります。男の人はこの文句が好きなようですが、逆に言えば一人で人の手を煩わせることなく生まれることができる人はいませんし、死ぬときは一人でも、あとの始末は誰かにしてもらわなければならないってこともあります。
生死(いきしに)の「世話をする」とか「面倒を見る」というのは職業的な仕事として割り切れないところがいっぱいあるように思えるのですが、どんなものでしょうか?このごろ、自分の感じていることをうまく言葉にできなくって少し困っています。
古典を読んでいると社会保障なんてない時代ですから、登場人物はみんな個人的な人間関係を築くのにそれはそれは奮闘努力しています。テレビが出来ても映画が滅びなかったように、電子末端が発達してもたぶん本はなくならないって話と、古典の登場人物が人間関係を築くのに、それはそれは奮闘努力しているのはちょっと似ているかもしれません。充分に整備された社会保障が出来たとしても、古典の登場人物のような人間関係の財産を気付く奮闘努力がいらなくなってしまうっていうわけではないのでしょう。
1034 20110105 ありゃ。ごまめ。 鯛の塩焼きを買いたいなと、探してはみたものの、いつもの年ならぞろぞろ売っている鯛の塩焼きがありませんでした。あれは、まずいものの代表みたいに言われることもありますが、硬い身を突っついて食べるのが好きです。それから3日の夜に大根、人参、小松菜(つまりお雑煮の具ですね)で鯛の鍋をやるのも好き。鯛の骨から良い出汁がでます。
鯛を買い損ねたから、なんとなく、お正月の買い物に気合が入らず、ちょろぎも買い忘れました。鯛と同じでちょろぎもあっちこっちで売っていれば買い忘れることもなかったんだろうって気がします。ちょろぎは娘の大好物。ってなんかヘンだけど。好きなんです。うちの娘はちょろぎが。いつも「ああ、高い」と驚く野菜類は、春の寒さ、夏の暑さ、どちらも異常なほどだったので、それほど高価とは感じませんでした。相対的なものですけど。どれより野菜が豊富に出回っていることに安堵感がありました。もっとも、小松菜などは、いつもの年よりもにょきにょきと伸びた物ばかりでした。土の温度が高くなっているので、冬の野菜や花が必要以上に丈を伸ばしてしまうとのことでした。八百屋さんや花屋さんで「植物は正直なのねえ」とため息。
さて、さて、そんなお正月も終わりですが、戸棚に見つけました。「ごまめ」。あのごまめの歯軋りのごまめです。お正月の買物は乾物→塩干類→練り物→野菜→生もの、お花という順番でして行くのですけど、「ごまめ」は黒豆と一緒に買っておいて、すっかり忘れてました。そのまま、戸棚の中に。
しょうがない。まだ七草のおかゆもあるし、10日は小豆粥の日だから、ごまめを作っておこうっと。
元日に遊びに来た甥っ子が「養命酒飲みたい」って、それはお屠蘇のことでした。同じようなものですけど、おばさんちで飲んだお屠蘇を覚えてくれていたので、ちょっとうれしくなりました。
1033 20110103 莫言さんの字 揮毫。えっと、どうしよう。というのが正直なところで、墨だの筆だのが出てくるたびに「ややや。また、出た」と困惑するのは、私だけではなく、日本の作家や詩人はかなりの人が内心困ったなあという気分を味わっているようです。絵がちゃっちゃと描ける人はうらやましい。字も駄目だけど、絵も駄目。そのうえ気の利いた文句はとっさには出てこない。と、かなりの「困ったものだ」ものであります。
そこへ行くと中国の作家はそろいもそろって見事な字を書きます。莫言(ばくげん 中国風の読みではもーやん)さんにいたっては、右手でも左手でも、字を書くことができるのです。急ぐときは両方同時! 2008年のソウルのときにも、それを見て「どうして、そんなことができるの」と感嘆したものでした。今回も。何度見ても「はあ」と感心するばかり。
莫言さんは中国の参加者から「モウモウ」と呼ばれてました。親しみをこめた呼び方のようです。親しみがありしかも尊敬されていることが、そばで姿を見ていてもわかりました。 1033.jpg
1032 20110102 謹賀新年 あけましておめでとうございます。
ウン・ヒギョンさんのしましま靴下の話を書こうと思っているうちに、年が明けてしまいました。山陰では大雪で、雪の中に車が閉じ込められたり、孤立した村があったりで、たいへんな様子です。
北九州市での東アジア文学フォーラムの関連行事として、ウン・ヒギョンさんとは、市内の中学校へ、キム・インスクさんとは下関市の高校へお話をしに出かけました。どちらもおもしろい経験でした。
ウン・ヒギョンさんとは2000年に青森で開かれた日韓文学者会議でご一緒したのが最初の出会いでした。それまでの韓国の女性作家とは違った雰囲気を最初に感じたのは、エレベーターの中で出会った時、お互いにカタコトの英語で「ベリー タイアッド」と、ほぼ同時に言って大笑いした時でした。で、お会いする度にだんだんスカートが短くなるウン・ヒギョンさんです。若返るっていう言葉がぴったり。でも息子さんとはだいの仲良し。腕を組んでいる後姿の写真を見せてもらいましたが、なんだか恋人どうしみたい。さて、今度はどんなファッションで現れるのだろう? と思っていたら、レセプションでは赤いストッキング、翌日はしましま靴下でした。「なるほど、そう来たか」でした。
だってスカートはこれ以上短くはできないというところまで行っていたのですから。
会議や宴席では、あまり個人の来歴を聞くことがないので、中学校でウン・ヒギョンさんにお話をしていただいて「30歳過ぎるまではごく平凡に生きてきて、子どもが出来てから小説を書き始めた」ということを知りました。そうか、ファッションが若返るのは、韓国社会の変化とウン・ヒギョンさんの変化が一致していたからなのかと納得。
さすがに北九州市は韓国の釜山へのフェリーも発着している町だけあって、中学生の韓国や韓国語への関心は東京よりも高いくらいのものを感じました。「一目ぼれです」と言う文例を韓国語を覚えてきた男子生徒もいてウン・ヒギョンさんも大笑い。
スカートの話をしたら「次にお目にかかるときにはビキニにしますね」というお返事。こういうウィットに富んだウン・ヒギョンさんだから息子さんとも仲良くやっていけるのでしょう。
最後に中学生の代表の生徒がお礼の言葉を述べてくれました。事前に用意した原稿を読むのではなく、私とウン・ヒギョンさんの話の内容を要約し、それに感想を加えてくれました。この挨拶にウン・ヒギョンさんはたいへん感心していました。
同じ日の午後。関門海峡を渡って下関へ。関門海峡は狭いところで5キロくらいとのことで、橋を渡るときにちらりと瀬戸内海の眺めを見ることができました。高校へご一緒したのはキム・インスクさん。
大学1年生の時から小説を書いているキム・インスクさんです。
「傲慢と言われるかもしれませんが、私は小説家になろうと思ったことはないのです。ジャーナリストになりたいと思っていました。大学の学部もそのつもりで選択しました」
そういうキム・ヨンスクさんに私がびっくり。韓国の作家の率直さに驚かされるのは、これが初めてではありませんが、感じていることがまったく同じという人に出会ったのは初めてだったので、度肝を抜かれました。私も小説家になろうと思ったことはないのです。高校を卒業した時に自分の本を1冊作れればいいなと願望していただけです。何時だったか?たぶんまだ大学生の頃ですが、それを率直に話したら、こっぴどく叱られて、それ以来、そう言う気持ちは人前で話したことがありませんでした。思わず、率直で勇気のあるキム・ヨンスクさんの手を握り締めたくなるくらいでした。
この学校では質問に立った生徒が美しい韓国語を喋ったので、拍手をすると
「留学生なんです」
とのお答え。韓国が近いので、高校から日本へ留学する人もいるとのことでした。やっぱり北九州それから下関は朝鮮半島を含むユーラシア大陸に近いのです。
それにしても、以前の、つまり私が高校生や中学生だった頃には考えられないくらい、今の中学生や高校生は「話を聞いて、自分の意見を述べる」ということがうまくなりました。驚いてしまいます。感心してしまいます。 1032.jpg
1031 20101228 井上ひさしさんと安宇植さん 井上ひさしさんが亡くなられたのは今年4月でした。私は「ひょうたん島」を夢中になって見ていた世代です。井上さんが読売新聞に連載されていたモッキンポット師の話を読んだのは小学校だったか中学校だったか? 新聞連載というものを読み始めた最初の頃のことでした。そもその、その新聞連載を読み始めたのは、私の母が声を出して笑いながら井上さんの文章を読んでいたことに興味を持ったからでした。「ドン松五郎の生活」を連載される前のことでした。
井上ひさしさんの芝居によく誘ってくださったのは、明治大学のときにゼミを担当していただいた生方卓先生。生方先生は井上ひさしさんの大ファンと言っていいでしょう。新作のお芝居がかかると、よく誘っていただきました。
東アジア文学フォーラムでは、顧問をお引き受けいただき、08年にソウルへ御一緒させていただきました。
昨日、韓国文学の翻訳家であった安宇植さんの訃報をネットで発見しました。10月にウン・ヒギョンさんの作品の翻訳のことで、教えていただきたいことがあって御連絡を差し上げたのですが、入院中とのことで、てっきりもう御元気になられているかと思い込んでいました。東アジア文学フォーラムは、1991年からの日韓文学者会議の経験があって、そのうえで運営されているフォーラムです。安宇植さんは日韓文学者会議にはたいへん力を貸して下さいました。それから韓国の優れた作家を日本へ紹介してくださったのも安宇植さんです。
安宇植さんと、青森で、青函連絡船の埠頭を歩いたのはたぶん1999年の秋のことだったのではないかと、頭の中で指折り数えてみました。翌年の2000年に青森で、日韓文学者会議を開催するために、青森に打ち合わせに行ったときのことです。晩秋の良く晴れた午後でした。海が群青色、空は瑠璃色。いずれも北国特有の冴え冴えとした色をしていました。
井上ひさしさんと安宇植さんのご冥福をお祈りいたします。
1030 20101217 門司港ホテル 北九州では雪が降ったそうです。東アジア文学フォーラムの会期中のぽかぽか陽気がうそみたいな寒さになりました。
フォーラム参加者は門司港にある門司港ホテルに宿泊しました。設計者はアルド・ロッシです。リンク先に門司港ホテルの設計についての記事と夜景の写真があります。
写真は駅に向いている正面玄関です。港のほうは、鮫をイメージした設計だとのことです。私はこのホテルの窓の作りが気に入っています。やや大きめの四角い窓が左右に開きます。窓枠は水色に塗られていて、その窓に緑色のカウンターテーブルが作りつけになっています。窓から一日中でも港や海を見ていることができるような作りです。そして、そのちょっと大きめの窓は海を見るための額縁の役割を果たしているのでした。水色と緑の組み合わせは、日々刻々と変化する海の色を、どんな時刻のどんな色合いにも美しく見せる効果を持っています。
私は9階に宿泊していましたが、9階エレベーターホールの窓の向こうに群青色に澄んだ朝の海を見たときははっと胸を突かれたものでした。
豆蔵君、すみません。またリンクをお願いします。 1030.jpg
1029 20101201 中国と韓国の現代文学撰集 トップページで紹介した『中国現代文学撰集 イリーナの帽子』と『韓国現代文学撰集 いまは静かな時』の新刊案内が版元のトランスビューのHPに出ました。
【新刊のご案内1】12月1日発送開始『イリーナの帽子 中国現代文学選集』東アジア文学フォーラム日本委員会・編 本体2000円 5つの短編、1つのエッセイ、1つの詩篇を、作家別6分冊に収め、解説冊子を付す。
【新刊のご案内2】12月1日発送開始『いまは静かな時 韓国現代文学選集』東アジア文学フォーラム日本委員会・編 本体2800円 韓国の代表的現代作家の自選作品集。10の短篇と1つの詩篇を、作家別10分冊に収め、解説冊子を付す
中国は6分冊、韓国は10分冊がひとつの箱に収まるという装丁です。1作家1作品。それぞれ小冊子になっていますから、持ち歩くいて読むのにも便利です。また分冊単位の販売もトランスビューに直接申し込めば可能だとのことです。ただし、解説冊子は分売不可。中国は島田雅彦さんが、韓国は私が解説を書いています。
新しいスタイルの本のデザイナーは須山悠里さん。
こちらに須山さんのHPがあります。
須山さんには中国と韓国の現代文学撰集のデザインだけではなく東アジア文学フォーラム in 北九州のチラシ、ポスター、プログラム、資料集、朗読会テキストなど全てを関連性と統一性のあるデザインにしてもらいました。ちょっとたいへんだったみたいです。須山さんの日記を読むとそれが解って恐縮。
ポスターから始まり撰集までデザインの統一性を持たせるという態度も、撰集を小冊子の分冊にするというアイディアももとは詩人の平出隆さんが提案したものです。全体がそれぞれの個性を主張しながら、バランスの良いハーモニーになっているというデザインになっています。
あとで豆蔵君に写真を入れてもらうつもりです。豆蔵君、師走に入って忙しいでしょうけれども、どうぞよろしく。あと、アドレスにリンクを貼ってもらえるとうれしいんだけどなあ。
へぇーい。(豆) 1029.jpg
1028 20101130 このごろ食べた物。 大阪で伊藤比呂美さんと話していて「生ワインを飲んだ」と言ったら「それなんで書かないの」と言われてしまいました。
食べる物の話を書くとき、いつも、頭をよぎることがひとつあります。それは、有名な輸入食品を扱うお店のPR誌に原稿を書いたときのことです。まだ原稿は原稿用紙に手書きの時代で、出来上がった原稿を家まで取りに来てもらっていたころです。PR誌の原稿をとりきてくれたのは年配の女性の編集者でした。あれこれと話込むうちに
「私、ほんとうは食べ物の話が嫌いなんです」
と打ち明けられました。オリジナルな缶詰や瓶詰め、それからジャムなどで有名なお店ですから、これにはちょっとびっくり。でも、食べる物の話はやたらにするものではないという戒め、今の言葉で言えば教育があったのを、その人とお話しているうちに思い出しました。
食べ物の話は下品だという教育がある時代までは、それほど古い昔ではなく、存在していました。今でも、そういうお家はあるようです。
「食べ物の話は一番安全な話題なんだよ」と、これはもう、まったく逆の話になりますが、こういう知恵を授けてくれたのは吉行淳之介さんでした。私の家もどちらかといえば食べ物に「あれこれ言ってはいけない」「好き嫌いと言ってはいけない」「あれが食べたいこれが食べたいなどと言ってはいけない」という家でしたから、吉行さんの話を「へえ、そういうものか」と聞いたのでした。吉行さんの言う安全な話題というのは「政治」や「経済」や「宗教」などの意見が対立しやすい話題にくらべれば「食物」の話題は安全で、その場にいる人がみんな楽しめると、そういうことだったのでしょう。
吉行さんの授けてくれた知恵は、いろいろな立場の人と社交的におつきあいしなければいけない男の人の感覚。それにたいして「食物のことをあれこれ言うな」はお台所を預かる女の人の感覚。そんな感じなのでしょうか。
で、生ワイン。葡萄の実が入ったままのワインをその場で絞ってもらって飲みます。最初は白濁しているけれども、みるみるうちに透明になって行きます。母とドイツを旅行した時、ロマンチック街道にあったワイン・カーブで飲んでいらいの生ワインでした。最初は葡萄ジュースのようなさわやかな味。それからだんだんお酒らしさが舌の上を転がりだすのです。
伊藤さんたちとてっちりと串カツ。これは伊藤さんのコラムにあるとおり。フグはやっぱり大阪がおいしい。ワニの串揚げもちょっぴり食べさせてもらいました。弾力のある豚肉のような感じ。このごろ食べた物です。
1027 20101129 このごろ、会った人、このごろした雑談 11月21日にフォーラム神保町の世話人会で、元外交官の佐藤優さんと雑談しました。ロシア大統領の北方領土訪問を巡って、外務官僚の対応がたかを括ったものであったことなど、聞いているとなんとなく清朝末期の宦官みたいな感じだなあと私の感想。それから、「龍馬伝」と「坂の上の雲」が人気なのはその間の日清戦争の頃と状況がよく似ていることなどが話題に出ました。佐藤さんは日露戦争と言っていましたが、幕末と日露戦争の間なら日清戦争かなと、勝手に解釈。もっとも「坂の上の雲」は日清戦争も描いていますから、正確に言えば幕末と日清戦争の間に状況が似ているということになります。
とは言え、清朝末期の宦官のような役人がいるのが日本で、国を挙げて「坂の上の雲」を仰いでいるのが、中国では、100年前と攻守が逆転しています。この雑談、ちょっと気になっていました。それで、あとから思い出したのですが、今年の2月頃、ちょっと怪しい人物に会った時、この人はなにかのブローカーのような仕事をしているらしい日本人なのですが、しきりに「大清帝国の再来」ということを言っていたのです。自分の考えたというよりも、誰かの受け売りをしているようで、いったい何を言っているんだろうと、受け流してしまいましたが、佐藤さんと雑談しているうちに、誰かが「大清帝国の再来」なんていうことをイメージしていること自体が、何事かであるという気がしてきました。
最初にフォーラム神保町の世話人会の日付を入れたのは、11月23日に韓国の延坪島が北朝鮮から砲撃される以前の雑談だったことを示しておきたかったからです。私の身の回りでは、この件に関してはたいていの人の口は重くなっています。雑談の種にするには、深刻過ぎる事態が進行していますから。ソウルの姜英淑さんからは「ぜんぜん問題ない。。。話したい。。。よくわからない」というツイッターでのお返事を11月25日にもらいました。ソウルはいつもどおりに、日々の仕事に忙しく過ごしているのでしょう。私も姜英淑さんとはぜひお会いして、お話がしたいと思っています。こんな「わからない」要素がある時は、会って話すのが一番良いのですから。現在、行われている米韓の海上演習が終わる12月1日になれば、もう少し何か感触が判ってくるかもしれないと、考えています。でも、私の耳には首を傾げて「わからない」と小さく呟く姜英淑さんの声が聞こえています。
11月27日。大阪の新世界で久しぶりに大阪女性文学者協会の尾川さん、それから伊藤比呂美さん、それに伊藤さんのお友達と「てっちり」を楽しみました。伊藤さんはなぜか「新世界」を「新天地」と間違えるのです。まあ、アメリカに行ったり来たりしている伊藤さんにすれば「新世界」はすなわち「新天地」でしょうから。山形で食べた洋ナシのラ・フランスを「おふらんす」と間違って伊藤さんが覚えたときも、確かになんとなく「おふらんす」って感じがするなあと思ったものですが。伊藤さんから「豆の葉」をぜんぜん書かないじゃんって叱られました。確かに律儀に書いているのは伊藤さんばかり。それから私がツイッターのハッシュ・タグの「#kobuta3」を「#kobura3」とやっちゃった時、「コ、コ、コブラになっています」と至急報で教えてくれたGo-toさんは伊藤さんのお友達で、今度、新世界で初めてお会いしました。初対面でしたが、「コブラのGo-toです」って、すぐに解りました。(笑)みんなで屈託なく雑談したり、笑い話したりできる世の中ってしあわせです。
私(中沢)、平田俊子、伊藤比呂美の3人のリスト「三匹の子豚」は「豆の葉」の左のリンクから見ることができます。また「三匹の子豚」のハッシュ・タグは
#kobuta3
です。今朝ほど豆蔵君にハッシュ・タグの登録をしてもらいました。もっとも伊藤さんはまだハッシュ・タグの演習中であります。
1026 20101121 電子書籍 電子書籍に興味はありませんか?とよく聞かれます。電子書籍に興味はあります。でも、紙の本と同じものを電子書籍でやろうという気にはなれません。もし電子書籍で、何かをするなら、電子書籍の特性を生かした何かをしたいものです。
電子辞書は単独のデバイス、携帯からのアクセス、PCからのアクセスといろいろな形態で、すでに多くの利用者を得ています。それは検索機能が、まさに辞書にぴったりのものだったからでしょう。道具がその道具の持っている特性を発揮すれば、道具は単なる道具以上の働きをします。では、もし電子書籍をやるとすればどんなことができるか?どんなことがしたいか?を考えてみました。
さしあたりやりたいのは、インタビューです。今、一番、インタビューをしてみたいのはデザイナーのヨーガン・レールさんです。自分で自分の服を買うようになったのは中学生の頃からですけれども、それからずっと気紛れに、ときには衝動的に、いろんな服を買ってきました。それで解ったことは、私が着るものを買うときは、洋服のデザインも見ていますが、同時に生地に興味を持っているのです。天然素材にこだわるわけではありません。科学繊維も、長足の進歩を遂げていて、こんな生地ができるのかと驚くほどです。で、生地に注意を払っているデザイナーのものには自然に手が伸びます。あとデザイナーでインタビューをしてみたいのは、ヨージ・ヤマモトさんです。やはり生地の使い方が好きです。
インタビューはおもしろい言い回しがあったり、なんでもないことでも、それを言う時の表情がすばらしかったりしても、文字の原稿におこすときに、ずいぶん削らなければならないことが多いのです。電子書籍ならば、書籍といいながら、テレビのようにインタビューそのものを見せることが可能でしょう。それから話題になっている服や生地を画像で見せることも可能でしょう。テレビのように時間の制約にしばられることもなく、編集することもできるようです。生地を見せたい場合に、手で触った感触を伝えることはできないでしょうが、撮影を工夫することで、感触を想像してもらえるような画像は作れるかもしれません。五感のうちで、「観る」と「聞く」は紙の本よりもずっと、多様な表現ができそうです。
クラフトのマーケットなども、取材して電子書籍にしてみたら、おもしろいだろうと想像しています。クラフトのマーケットは以前から、出かけて行きたいと望んでいました。例によって、写真をとるのが苦手、ましては動画撮影なんて、絶対にできっこない私ですが、もし電子書籍のコンテンツを作るなら、写真や動画は誰かと協力してやれば良いなあと思っています。映画を撮るよりも、テレビ番組を作るよりも、ずっと軽やかに、映像撮影者との協力関係が築けるのではないでしょうか?
紙の本にも、映画にも、テレビにも、やれなかった新しいことができるなら電子書籍のコンテンツを作るのも楽しいでしょう。あ、そうだ。詩人の朗読会も電子書籍で制作するコンテンツのひとつとして興味深いものが作り出せるのではないでしょうか。
1025 20101118 かんぴょう巻き ツイッターで皆さんにかんぴょう巻きを食べますか? とお尋ねしてみた。
大阪へ行くようになって、東京と違うなあと感じたことは幾つもあるけれども、お寿司屋さんもそのひとつ。もっとも、東京の寿司屋は特別な感じがして、そっちのほうが珍しいのかもしれなと思わないでもない。岡本かの子が「鮨」で描いているすし屋は東京のすし屋だ。御常連さんが、大将から秘密の旨いものを御常連さんたちに出すようなすし屋だ。あまりたくさんの量を食べられなくなった大人が、贅沢と気ままとわがままをいう店。それが東京のすし屋。慣れない客にはちょっと気難しいところもあるのが東京のすし屋。それを岡本かの子は「鮨」でうまく描いている。
大阪はすし屋さんはもっとざっくばらんで、飲み屋に近い。飲み屋に、〆のお茶漬けや焼きおにぎりがあるような感じで、おすしも握っていますというところ。鯖の押し寿司や太巻きがあるのも、大阪のすし屋さんの特徴。太巻きの中には干瓢の煮たのも入っているところもある。なのになぜか、かんぴょうを細く巻いた巻き寿司がない。そこで、ツイッターで皆さんに「かんぴょうの巻き寿司を食べますか」とお尋ねしてみたのです。
東京、神奈川、茨城と首都圏、関東一帯では、かんぴょうの巻き寿司はあくありふれた当たり前の食べ物。もちろん栃木でも。栃木はかんぴょうの大産地。それから北海道と新潟からも「食べます」というお返事をいただきました。運動会と遠足にはかんぴょうのお寿司が決まりというのは、私が子どもの頃と同じでした。子どもには、かんぴょうの海苔巻きと玉子を持たせておけば良いという雰囲気もあって、それで、私は思春期の頃、かんぴょうの海苔巻きが嫌いになった。ご飯に甘い煮物が入っているなんて嫌だなと、あまり、かんぴょうの海苔巻きに手を出さなくなったのだけど、あれはひょっとしたら反抗期の現れだったのか? 海苔巻きと言えば、かんぴょうと胡瓜の入ったかっぱ巻きが定番。かっぱ巻きのほうは決して嫌いになることはなかった。
信州、尾張、三河、岐阜、富山と、かんぴょうの海苔巻きは良く食べますよとお返事をもらった。あまり食べませんねというのは長崎、それから愛媛。食べたということは思い出に繋がっているけれども、食べないということは「思い出しもしないし」「考えてもみない」ということになるので「食べません」というお返事は貴重でした。はやり西のほうではそれほどかんぴょうの海苔巻きは食べない様子。それでも鹿児島では食べましたというお返事もありました。
かんぴょう巻きにわさびを入れてもらって、ちょいちょいとつまむというオツな食べ方を教えてくださったのは戸矢学さん。戸矢さん、御元気そうでなによりです。思春期にご飯の中に甘い煮物を入れるなんて、とかんぴょうを敬遠した私も、どうやら、またかんぴょうの巻き寿司に回帰。大阪では珍しいと知ると、なにやら貴重に思えてきて、東京のかんぴょうの巻き寿司がおいしくなりました。今度、お寿司屋さんで「わさびを入れて巻いて」と頼んでみます。
御協力いただきました皆様どうもありがとうございました。
1024 20101116 装丁。造本。製本。 本の装丁の仕事をしている人から、紙や栞、のどぎれなどの資材の種類がしだいに少なくなっているという話を聞きます。また、印刷の歴史は良く調べられていて、その関係の本もたくさんあるのですが、造本の歴史となると、あまり本がありません。そうこうしているうちに、造本でなくって、製本で調べたところ、東京製本組合の組合史の本があることがわかりました。「造本」じゃなくって「製本」。実際に製本をしている人の立場から見れば「製本」です。
詩人の平出隆さんから、最近のお仕事の案内をいただきました。本を作っている。つまり造本です。詩人が本を作ると言えば、詩集を出すことをまず考えますが、「最近の仕事」「造本」という言葉で平出さんはご自分の仕事を説明しています。装丁家と詩人で「本」を「造る」ということをすごく意識しているのでしょう。
作品の出来上がりはいったい「何時なのか」ということを時々考えます。小説の場合は「最後の行を書き終えた時」とか、あるいは丁寧な人になると「完」の文字を書き終えた時ということで、一応の完成となるでしょう。でも、それはあくまで一応の完成に過ぎず、どんな場所に作品を発表するのか、どんな形の物に仕上げるのかということが、そのあとに残っています。私の場合は自分の作品はやはり「本」にしたいと思います。電子メディアではなくって、電子ブックではなくって、紙の本にしたいのです。紙の本にする時、もちろん印刷も重要な要素です。デザインも重要な要素です。が、もっとも重要なのは、それが本という形態になること、つまり製本されることなのではないでしょうか?そう思うと造本と言う言葉はおもしろい言葉です。
1023 20101115 私がデジカメだ。 以前、使っていたデジカメのバッテリーを入れたままにして、調子を狂わせてしまいました。2代目を買ったのだけど、これはあまり使わず、さらに3代目を購入。イギリスに持って行ったのは、この3代目です。ですが、それっきり、あまり写真を撮っていません。
写真が嫌いなんですか? って尋ねられることがあります。嫌いではないのですが、なんだか撮影しようという気になれない。たぶん、自分がいる場所で、撮影をすると「傍観者」的になるのが、ちょっと〜なのかもしれません。姜英淑さんが「k2旅行記」で書いていますが、撮影だけで満足してしまって、見るものも見ないという感じになることがあるからでしょうか?あと、もともと小説を書こうと思うような気質を持っていると、それそのものが傍観者的な要素を含んでいるということもあるでしょう。「私がデジカメだ」なんてね。
今日この頃は、その「私がデジカメだ」の私の頭が、あんまり記憶をしなくなっちゃたのです。5歳のときのことなら鮮明に覚えているんだけど、昨日のことはすぐ忘れてしまう。眼も、人工水晶体を入れたほうは、曇りなく見えるけど、生まれてからずっと使っている天然のほうは、セピア色に曇っているし、これがけっこう幸せなのです。ややはた迷惑だけど。なに、面倒さえ見てくれれば、なにもかも、デジカメのように記憶して、いつまでも執念深く怒っていたり、嘆いていたりするよりはずっと幸せってものです。それに、すごく昔の5歳くらいのときの光景が、今の世の中に2重写しで見えていたりするから、それはそれですこぶる楽しいのです。
それでもせっかく買ったカメラだから、今年の紅葉をちゃんと撮影しようと思っています。まず充電しなくっちゃね。
1022 20101114 伊藤さん お土産です。 
大阪芸術大学キャンパスの紅葉です。なんかこの写真じゃあ、よくはっきりしません。ごめんなさい。あとで黄色くなった銀杏の写真を豆蔵ちゃんに貼ってもらいます。お天気がよくって陽がさすと、赤くなった葉っぱが輝いてみえます。
大阪芸術大学へ行くときは近鉄「阿部野橋」駅から河内長野行きに乗るか、もしくは「吉野」行きや「橿原神宮」行きに乗って「古市」で乗り換えて、「喜志」でおります。でも昨日は電車で本を読んでいたら、「古市」での乗り換えを忘れて、次の「駒ヶ谷」まで行っちゃいました。畠の中の小さな駅でした。かすかに靄がかかっていて、靄の中に稲藁を焼く煙の匂いがしました。学校へ行きたくなくなちゃった。 1022.jpg
1021 20101112 靖国神社の紅葉 秋が深まってきました。と言いたいのですが、今年は「秋が深みにはまりました」とでも表現したくなるような具合に、いきなり、どぼんと寒くなりました。急激に気温が下がった年は紅葉が見事になります。
春はいつまでも寒く、夏はあまりにも暑いという極端な天候でしたから、今年の紅葉はどうかな? と危ぶんでいました。この急激な寒さは、木々を色づかせる力があったようです。靖国神社の森はしだいにその色を濃くしています。このまま行けば、見事な紅葉を見ることができそうです。突然、台風がやってくるなどの椿事がないとは限らない今日この頃のお天気ですが。
三島由紀夫の「仮面の告白」は、三島が書いた最初の長編です。24歳の時の作品です。「仮面の告白」のなかに誰にもめでられることがない桜の花が美しく咲いている場面があります。1945年の春、戦争末期の光景として描かれています。それで、同じ1945年の秋の紅葉を描いた作品は、何かあったかしらとちょっと考えてみました。1945年の夏は異様に暑かったという話は良く聞きます。それからあけて1946年のお正月はずいぶん雪が降ったと、これは、当時小学校4年だった母の昔話で聞かされていました。では秋はどうだったのか?
新潮に連載されていた島尾敏雄の終戦日記を読むと、1945年の11月末までは、日記をカタカナで記しています。カタカナ日記がひらがな漢字交じりの日記になるのは11月末から12月でした。手元に終戦日記がないので、正確な日付を書くことはできません。8月の終戦から3ヶ月。ようやく「生きた心地」が戻ってきたのだと、カタカナ日記がひらがな日記の変わるのを、そう思って読みました。内田百閧ヘ空襲のさなかに「あとから考えると今がいちばん暇な時期だと思い出されるかもしれない」という意味のことを書いていました。三島が誰にも見られることなく桜が満開に咲いている時期と重なります。きっと百閧フ言うとおり、1945年の秋の紅葉は、誰も気に留めることなく過ぎていってしまったのではないでしょうか? 自分の身の回りの眺める「活きた心地」が戻ってきた頃には、雪が降っていたというわけです。
1946年に入って雪の日が多かったことを私の母はよく記憶していました。降り積もった雪を教室の中へ持ち込んで雪山を作り、滑って遊んでいたら、先生にこっぴどく叱られたそうです。神奈川県の秦野に学童疎開していて、山形へ移動する直前に終戦になり、横浜市内の家に戻った小学校4年生でした。その母の話にも終戦の年の秋がどんな様子であったかは、聞いたことがありません。前後の気候の様子から類推すると、燃えるような紅葉が日本各地を覆っていたかもしれません。川端康成の随筆でも読んだら、そんな景色が描写されているかもしれません。そういう目で読んだことがないので、発見していないだけなのでしょうか。
65年前は靖国神社の森もまだ若かったことでしょう。
1020 20101109 高くてごめんなさい。文芸文庫「女ともだち」 講談社文芸文庫「女ともだち」発売です。1,400円。高くてごめなさい。短編「アジアンタム」も収録されています。角田光代さんがすごく良い解説を書いてくれました。東京女子大の近藤裕子さんによる詳細年譜も載っています。著書目録も入っています。あと、びっくりしている私の写真も(笑)若いって当たり前か。なんとなく自分でも「びっくり」(へへへ)
自作解説は苦手なので、角田光代さんに書いてもらった解説を一部引用します。( )内は私の補足。
〜〜〜以下 角田光代解説
押し流されない「今」から抜粋〜〜〜
(「女ともだち」は)まったく私たち自身の過ごすなんでもない時間に似た時間のなかにいる。それなのに、光景はときおりはっとするほどうつくしい。夜更けに忍びこんだ神社の枯れ葉や、寝転がって見る夜空。窓から見える木々、ぼそぼそと交わされる言葉、そうしたものが、小説のなかで光を放ちながら屹立しているように見える。それはたぶん、彼女たちのいる場所が、彼女たち自身が、明日には姿を消す「今」そのもであるからだろう。一年後には、いやもしかしたら明日には、もう跡形もないかもしれない場所に、跡形もないかもしれない関係のなか、彼女たちは立っている。そんな刹那の奇跡が、ピンで留められた蝶のように、小説のそこここに在る。
(「アジアンタム」について)それにしても、草をむしり、その草の山のわきに寝転がる江木の姿の、一連の描写の濃度は読むたびに圧倒される。濃い草いきれが文字のあいだから漂ってきて、酔いそうにすらなる。そこから浩一が江木を車に乗せる場面へと続くのだが、殺人も起こらないし濃厚なラブシーンもはじまらないのに、たじろぐくらいの緊迫感がある。描写の力強さに、打たれる。
先に、加齢と小説のかかわりを読む楽しみについて書いた。17歳だった私(角田さんです)はこの小説を読んで自身に失望したはずだ。そうして40歳を過ぎて今、私は素直にここに描かれた「今」のまぶしさを全身に浴びることができる。そのまぶしさは、私がこの先年齢を重ねるに従って、どんどん光を強めるような気がしてならない。
〜〜〜〜〜〜以上 抜粋終わり〜〜〜〜〜〜〜
角田光代さんどうもありがとうございました。
1019 20101108 ざらざら、ちくちく、 那覇のホテルで見たへんてこりんな夢。
東の空が白々として来ることに目が覚めました。夜が明けて行くのを窓越しに眺めて、7時ちょっと過ぎにダイニングへ。もうダイニングは旅行者でいっぱい。みんな早起きだなぁと食事。それからまた寝たのです。夢を見たのはこの二度寝の時。
最初はベッドの中で、「弟」とごろごろ遊んでいるんだと思っていました。無条件にベッドの中にいる男を「弟」だと思い込んでいるところは夢の中だから。ところがこの「弟」が少しエッチなのです。子どもがじゃれているのとは少し異なった行動に出る。で、「あら、誰だろう?」と疑問に感じると、その「?」的人物はすやすやと寝息を立てだしました。寝ちゃったのかと、「?」的人物の首筋や肩を撫でてみると、これがすべすべのお肌。男とは思えないきれいな肌をしているのです。ここはちゃんと感触があり「なんてきれいな肌なんだろう」と感心。感心しながらも、なぜ彼はここにいるのだろうと疑問が湧き、目を覚ますのです。ここが曲者で、私は夢の中で目を覚ますという夢をよく見ます。実にくたびれる夢で、なんだか損をした気になります。たぶん、目を覚ましてからっぽのベッドを眺めて、なんだ夢じゃないと納得したのも、夢の中だったに違いありません。ほんとうに目を覚ましたのは、それからしばらくしてからのことです。妙な夢を見たものですが、「?」的人物の首筋や肩の感触は目を覚ましてからもはっきり残っていました。ちゃんと目を覚ましてからのほうが、なんだか、そこに人がいたような気がしました。
那覇の国際通りに面したホテルなんですけれども、昨年、那覇を訪れたときに、国際通りの裏にはたくさんの門中墓があることを教えてもらい、お墓の間を歩きまわりました。今年、歩いてみると、牧志の市場の脇に立派な新しい道路が完成していましたし、墓地も改装になっているところが幾つもありました。二度寝の夢で、すっと「あ、弟だ」と思わせるところが、なんだか、自分の夢のような気がしません。ダイニングルームから、誰かついてきたような、そんな感じ。でも怖い夢ではないのです。へんてこりんな夢でした。
涼しい沖縄から東京に帰ってみると、なぜか、ざらざらごわごわの生地の感触が好きになっていました。夢のせいかどうかわかりませんけれども。ネパールで織ったという硬いウールの上着を一枚持っていたのですが、これまではそのざらざらとした感触にうまくなじめなかったのです。ざらざらだけではなく、ちくちくもします。で、このざらざら、ちくちくが気に入ってしまいました。なんだろう?
1018 20101107 いつもの年より少し遅く那覇へ 新沖縄文学賞の選考会で那覇へ行ってきました。いつもの年よりも2週間くらい遅い感じです。
青い海から吹き上げる風は涼しくって、東京では行方不明になった秋に沖縄で出会いました。
選考会の翌日、首里の金細工(くがにぜーく)の又吉健次郎さんお宅に案内していただきました。結指輪、房指輪、簪(かんざし ジーファー)などの工房を見せてもらいました。指輪の文化が沖縄にあったのは意外だったのですが、それで沖縄には女性が手を刺青で飾る習慣があったのを思い出しました。針突(ハジチ)と言うのだそうです。手の甲から手首にかけて入れる針突は一人一人異なる文様を持っていたということです。針突の写真をとっている人がいて、その人の写真を見たある人が、手の針突の柄から、ずいぶん昔に行方不明になった姉妹だと解ったという話を、そう、もう20数年前に聞きました。話してくださったのは写真家の比嘉靖雄だったと記憶していますが、記憶違いかもしれません。この頃、私の記憶は茫漠としています。その話を聞いた頃には、まだ針突を施しているオバアが那覇にもいました。
房指輪は葉、花、桃、扇、石榴、魚、蝶と7つの飾りが付いた指輪です。両手をこの房指輪が飾った花嫁さんの写真がありました。指輪はその衣装を用いて現代的なチョーカーなどを作ることができるのですが、又吉さんが大事に見せて下さったのは銀の簪(かんざし ジーファー)でした。「昔の女の人はこれを抱いて寝たといいます」という簪ですが、現在では使う人が少なく、琉球舞踏などで髷を結うときにも、銀細工の簪を使うことは少ないと、残念そうにお話になってました。
「これは女の人の姿になっているんですよ。ほらここが首筋で」
見せていただいた簪の背に細い筋が走っています。その筋がないものは、小さなスプーンのように見えますが、一本の筋がきりりと入るだけで、女の人の姿になるのです。
「昔ながらの職人仕事を残すことはできませんかね」
難しい質問をする又吉さんでした。オリジナルな創作を入れるクラフトではなく、同じものをずっと作り続ける職人仕事をどうして残したいと思うのか、もう少し詳しくお話を伺えばよかったなと後から少し悔やみました
。質問されたとたんに頭に「それは難しい」という考えが浮かんでしまって、質問まで気が及びませんでした。
銀細工は日本の輸出品の主力をなしていた時代がありました。幕末から明治の初期だそうです。精緻な細工が喜ばれたと言います。しかし、なぜか、伝統工芸の中で銀細工が注目されることは、少ないように思えます。なぜなのでしょう。
首里城からそう遠くない場所に、さまざまな職人さんたちが住んでいる職人町があったそうです。那覇は昔は海と小島が入り組んでいる場所だったそうですが、首里は高台にあります。首里のあたりは那覇よりも、落ち着いた感じがします。ちょうど首里城祭りで、王朝を再現したパレードを少しだけ覗いてきました。 1018.jpg
1017 20101103 ほ〜い。免許の更新しました。 伊藤さん、ご心配をおかけしましたが11月1日に免許の更新しました。一応優良運転手なので、講習30分。今一番の注目は「高齢運転手」ですって。まだちょっと間があるんですけどね。お声をかけていただきまして、どうもありがとうございます。
それで2日は沖縄へ。新沖縄文学賞の選考会。3日、首里祭りのパレードを見てきました。それから金細工の又吉さんのお家にもおじゃましました。沖縄に指輪の文化があったなんて初耳でした。沖縄のことはまた詳しく書きます。
ともあれ、伊藤さん、運転できます。車を運転してまたどっかに行きましょう。今度、熊本へ行くときは免許を忘れずに持って行きますから。
1016 20101031 「助けてと言えない 30代に今何が」 「助けてと言えない 30代に今何が」(文芸春秋社)を読みました。なぜ読んだかと言うと、あることで思い当たるふしがあったからです。
まず思い当たるふしというのは「今の30代は頑張っても良いことがなかった」と言う話を身の回りの30代の人からよく聞いていたことです。確かにそうです。ただ「助けてと言えない」という標題になっているような状態については、頑張っても良いことがなかったからではなさそうな気がしていました。
本間洋平の「家族ゲーム」がすばる新人賞をとったのは調べてみると1981年のことでした。森田芳光監督で映画化されたのは、1983年。今の30代の人が生まれた少しあとのことです。私の息子は1982年生まれ。娘は1983年生まれ。ついでに私の家族のことに触れておくと、1983年に脳梗塞の大発作を起こして母が寝たきりになりました。それで亡くなったのが1985年のお正月。私自身にとっては印象の深い時期なのです。「助けてと言えない」を読んでみようと思ったのは雇用問題や貧困問題を社会保障の観点から考えようとするのではなく、その裏にある心情や心境を探ろうとしているらしいことが、ツイッターの書込みで解ったためでした。本間洋平の「家族ゲーム」はかなり話題になった作品で、映画化されると家族が横並びになって食事をとっているスチール写真をよく見かけました。
家族がばらばらになっている、家族が解体していることの象徴として映画「家族ゲーム」のスチール写真が使われていました。ここで私は家族のきずなを取り戻すべきだと言いたいわけではありません。ただ、この30年を思い出しただけです。私自身もその当時、ちょうど家族を持ったばかりだったわけで「助けてと言えない」30代は、他人事ではないのです。卓袱台を囲んだホームドラマから横並びの個食の時代と言われたのも、ちょうどその頃でした。
その頃、何を考えていたかと言えば、一番、考え込んでいたのは「内面の問題を話す人がいない」と言うことでした。それまでの卓袱台家族が横並びカウンター家族になって行くときに、心の中のことを打ち明けられる相手がいないという気がしきりにしました。孤独じゃなくって孤立している感じです。これは、その後、私自身だけの悩みではなく、そういう悩みを持った人に次々と遭遇して行くことになります。
私は東京郊外の集合住宅で子どもを育てたのですけれども「他人に迷惑をかけない」という徳目が教育の一番の徳目になっている場合が多いのにも当惑しました。「他人に迷惑をかけない」の裏側には「他人には干渉しない」主義があって、それは多様な事情を持っている人が住んでいる集合住宅では仕方がないことなのかと、受け止めてはいました。ただ、徳目としては不寛容で、なんと言うかちょっと狭量な感じがしました。これは昔、エッセイに書いています。「困っているときはお互い様」とか「ある時払いの催促なし」とか「出世払い」とか、そういう寛容を示す徳目はほとんど聞いたことがありませんでした。
あと割り勘勘定の徹底。これもけっこう大事に守られていたルールでしたけれども、いささか窮屈に感じられることも多々ありました。割り勘で貸し借りなしにするのは気持ちが良いのですけれども、それが気持ちよく成り立つのは、みんなが同じくらいの給料をもらっているときだけです。懐が寂しいときは「ドンブリ勘定」にしてもらって、なんとなく面子を立ててもらうほうが楽なのですけど、そういうのは駄目でした。なんなら出世払いにしてもらってもいいんですけど、そんな冗談も言えないようなかたくなな雰囲気がありました。時間の感覚が前へと伸びずに、その場で終わってしまうのです。
ファミリーレストランで、けわしい顔をした家族がまずそうにご飯を食べているのを見かけたのも、よく覚えています。バブルの頃です。あの頃、景気がよくって世の中の人の機嫌が良かったかというと、そうではありませんでした。なぜなのかは解りませんが、家族でそろって不機嫌になっているという場面によく遭遇しました。貧しかったときのほうが、家族の絆は強かったなんて話をたびたび聞かされたものです。私が自動車免許をとったばかりの頃、郊外にファミリーレストランがどんどんと建って、あっちこっちへ出かけたものですけど、そのたびにそういう不機嫌な家族に遭遇しました。もう、忘れた人も多いかもしれませんが、そういう不機嫌な家族の様子を描いたCMさえありました。ある焼肉のたれのCMで母親がヒステリックにバーベキューを焼いているというものがあり、それはリアルなCMとして話題になっていました。私はそのCMがリアルであればリアルであるほど苦い思いをしました。思い描いたような「楽しい場面」が演出できなかったためにヒステリックになっちゃう母親のひとりでしたから。家族の解体というよりも、心情の解体の証拠を突きつけられるような苦味がありました。
弱者救済ということがよく言われていました。あまりにも弱者救済が言われすぎて、自己責任という言葉が出てきたのはその後です。「助けてと言えない いま30代に何が」を読むとその自己責任という言葉は一人歩きをしている様子が伺えます。今の30代の人が自己責任という言葉で、自己防御をしている様子は「助けてと言えない」の中で取材を通して描かれています。それを読みながら、心情の解体の後に世界的に不況に襲われるという時代の流れを思い出したのでした。
思い出したからどうってことはないんですけど、そういうことです。そのほかにも、思い出すことはいろいろとあってきりがないくらいです。絆なんて言葉では語れないような、心情の解体の30年を生きてきたんだなあという感慨のようなものがそこにあります。だって家族のしがらみから逃れて自由になりたいって希求が30年前にはあって、不機嫌な家族が、機嫌を直さなくってもなんとか経済破綻しないで生きていけるという現実もそこにあったことをあまりにも鮮明に覚えているのですから。言いたいことは何もありません。ただ、思い出すだけです。問題を解決するのではなくって、ただ思い出すだけということがひどく大事なことだと、そう感じられるのです。
1015 20101029 すってんころりん 台風が近づいています。東京でも、早々と木枯らしが吹いたと言うのに、今度は南から台風です。昨日は終日冷たい雨が降っていました。
法政大学の55年館、58年館は一見するとなんの変哲もない古いビルディングですが、コンクリート建築では名建築とされているそうです。大江宏の設計で1958年に建築学会賞と芸術選奨をとっています。建築にも少し興味を持っていたときにそれを知りました。使われているコンクリートの質はすばらしく、またコンクリートを固めるさいにつかった木枠の跡が残っていますが、これも良い材を用いたようで、コンクリートの打ちっぱなしの建築でも初期の丁寧な仕事が見られます。
55年館58年館を外濠校舎から眺めると、太い大きな柱が1階から7階(55年館は6階まで)までダイナミックに走っているのが一望できます。いつだったか入学試験の時、学校へ詰めていて、このすばらしい眺めに気付きました。太い柱と丈夫な床。この二つだけで構成されたシンプルな建物です。外壁や内壁は、取替え可能なパネルが用いられています。内壁にブロックが積まれているのは、創建当時の建材としては、ほかに良いものがなかったからでしょう。この建物から、何の変哲もなさそうな老朽化したビルの中にある価値を、自分の目で発見して行くという楽しみをもらいました。建物の重要な構造部分だけを作り、あとは順次、取り替えて行くというのは、建築思想としても、先進的で、かつ、環境への配慮が求められる現代性を失っていません。取替え可能な部分に、強化プラスチックなどの新しい建材を用いれば、それはそれは見事な建物になることは間違いありません。美しいだけでなく、建築と建材の流れというか変化を見ることも可能でしょう。昭和30年代初頭の法政大学のある種の理想主義も建築から感じ取ることができます。
学校にとっては宝物みたいな建物と、私には思えるのですけれども、残念ながら、取り壊し計画が進んでいます。取り壊しについては、デザイン工学部から反対がでました。私がショックだったのは、取り壊し反対の意見を「情緒的な反応」と受け止める人が多かったことです。場合によってはOB、OGのノスタルジーという受け止めかたもありました。そのような受け止め方がでるのは、コンクリート建築についての一般的な知識が乏しいからなのでしょう。それは仕方がないとしても「情緒的な反応」の中身を知ろうという気持ちが乏しいのに、ショックを受けました。
もともと私が建築に興味を持ったのも、建物の細部の名前を知らないと、小説が書けないという理由からでした。空間についての名辞が乏しいと物語のための空間を広げることができないのです。木造の建物は、そこに使われた技術を惜しまれて愛されますし、レンガ作りの建物は近代化のシンボルとして喜ばれるのに、コンクリート建築だけは、見るべきものも見てもらえずに、取り壊されるのでしょうか? コンクリートこそ、私たちのふるさとだと言うのに。今、生きている人の大半はコンクリートの病院で生まれているはずですから(笑)
胸の中に小さな棘が刺さっています。話をすり替えると言われそうですが、小さな子どもが何かにおびえて泣いていても「情緒的反応」として軽くあしらうのでしょうか? そういう比喩を思いつくのは、理由が二つあります。ひとつは情緒の軽視という姿勢への反発。もうひとつは「情緒的反応」の裏に、たいへんに現実的なものが潜んでいることへの注意力の乏しさ。そのふたつを私は感じました。で、そんなことを考えながら、58年館と55年館の間を繋ぐスロープを歩いていたら、すってんころりん。後頭部をしたたか打ち付けてしまいました。頭蓋骨がゴンと鳴りました。
1014 20101024 伊藤さん お帰りなさい。 伊藤さん、熊本に戻られたそうで、おかえりなさい。熊本は秋らしくなっていましたか?橙大学、楽しそうでうらやましいです。私も聴講に行きたいなあ。A番頭さんにどうぞよろしく言っておいてください。
そうだ。伊藤さんが来月大阪に行く(来る?)時にお目にかかれますね。それを楽しみにしています。大阪もいつまでも暑かったのですが、昨日はやや気温が下がっていました。金曜日の夜11時23分に新大阪駅に到着した時の気温は19度でした。
「暑い」とか「涼しい」「肌寒い」「冷え込む」なんて言葉はそれぞれに季節感が籠もるので、今年は使いくくなっています。季節感というか、時間感覚みたいなものがありますから、なんとなくどの単語を使っても現在の気温の具合にそぐわないのです。法政大学の前じゃあ、今頃になってコスモスの花が元気良く咲いていますし、きのこは夏のきのこと秋のきのこが同時に収穫されているって話です。いろんな人が「今年の冬はすごく寒くなる」って言ってましたが、もしかすると「そうなって欲しい」という願望も入っているかもしれません。せめて冬らしい冬が訪れて欲しいという願望ですね。
「夏をあきらめて」っていうサザンの曲がありましたが「秋をあきらめて」ですね。今年の夏は暑すぎて、夏らしい夏どころか、あまりの暑さに海水浴場の人も少なかったといいます。
伊藤さんが大阪へ来る(行く?)ころには、きっと河豚も美味しくなっていますよ。河豚食べましょう。では、では。熊本文学隊、橙大学の皆さんにどうぞよろしく。
1013 20101021 自動車免許の更新 「11月6日までに自動車免許の更新をするように」という案内が来ていた。なんだか忘れそうな気がする。なんとか免許の更新に行かなくっちゃ。そこであっちこっちに自動車免許の更新と書き付けることにした。
忘れませんように。忘れませんように。忘れませんように。
1012 20101018 大規模修繕、いよいよ。 マンション全体をシートで覆った大規模修繕がいよいよクライマックス!って、つまりベランダの床の塗装が始まるってことです。ベランダのものをすべて、片付けなければなりません。
もっとも巨大化した佐藤錦の木とヒイラギの木は、息子がやって来て、マンションの裏庭に移動させてくれました。佐藤錦はベランダで巨大化していたので、枝を切らなければ家に外に出すことはできませんでした。ヒイラギのほうも、呆れるくらいに大きくなっていました。
それや、これやは、すでに片付けてあったので、最後に残っていたのは、物干し竿とジョウロ、それに金物のゴミ箱。そういう品々を家の中へ入れました。
ずっと工事、工事、工事なので、ちょっとグレてます。
1011 20101013 2年ぶりに東名高速を走る。 目を悪くしていたので、しばらく、自動車の運転を控えてました。昨年、夏に白内障の手術をしてからは視力も回復しているのですが、それでも、自動車は隣り近所を走るだけにしていました。息子や娘たちが運転をするようになったので、私が長距離を走らなくっても良いってこともあるし、自分ひとりの移動なら、居眠りのできる電車のほうが気楽だってこともありました。
目が悪いと、突然、眠気に襲われることがあります。自動車の運転ではこれが怖い。そんなわけでしばらくハンドルを握りませんでした。
ひさしぶりに東名自動車道を自分の運転で走りました。天気は曇天。風は心地よい温度。風の心地よさが貴重に感じられる今年の天候です。行き先はよこはまズーラシア。横浜市内には、ズーラシア、金沢園、野毛山と三つも動物園ができていたのを、昨日、改めて「へえ」と思いました。私がもっとも、親しいのは野毛山動物園。野毛山しかなかった頃でした。連れていってもらうのが楽しみでした。
最近の動物園って、家族連れももちろんですけれども、カップルが目立ちます。子どものとき、親に連れてきてもらって、デートで動物園に出かけて、それで、また子どもができると動物園に行く。そんな感じでしょうか。公立の動物園なら入園料も安いし、お弁当も持ち込めるし、なんと言っても、すごくきれいに整えられているし、それから会話の種につきないし、ああ、なるほど、なるほどデート向きなのねと納得したのでありました。うちの娘も「ズーラシアはきれいな動物園だよ」って言ってましたけど、きっとデートで出かけたのね。言わないけど。
で、帰りに横浜の中華街で、上海蟹を食べて、また東名で帰ってきました。
1010 20101012 しちめんどくさい 伊藤さん おはようございます。
昔の人はなんだって、ああ、うるさかったんだろうって思うことはありますね。だって、何でもかんでも「できてあたりまえ」で「できなきゃ馬鹿かアホ」だったから。料理でも裁縫でも編み物でも。すぐに怒るし、不機嫌だし。いったい「なんだったんだ?」って思い出してへんな気がすることがあります。
それでもって「馬鹿」とか「あほ」って言われなければ、案外、出来ちゃったりするから。そんな感じ。で、お祝いの話ですけどねえ。昔風なやつも楽しいけれども、今風にアレンジしちゃってもいいなって思うのもあります。あたしが好きだったのは「一升餅」かな。赤ん坊が生まれて、100日目くらいに、一升のお米で御餅を作ってもらうの。その餅を赤ん坊に背負わせるんです。そうすると「一升餅」で「一生」食べるのに困らないんですって。「へえ」って感じで、上の息子に御餅を背負わせたら、真っ赤な顔でうんうん唸ってました。重かったんじゃないかな。
お祝い事って、一人じゃ出来なくって、周囲の人が一緒に「おめでとう、おめでとう」って言ってくれないとそういう感じが出ないですねえ。「お祝い」が一番、人間が群で暮らしていたときの感覚が残っているんじゃないでしょうか? 学者はそういう祝い事の感覚が薄らいどでいるのを「共同体の空洞化」なんて言うんだけど、時々、「自分の言っていることが解っているのか」って言ってやりたくなることがあります。人間が猿より頭が悪いんじゃないかと思う瞬間ってのは、自分で自分の言っていることの意味が解らなくっても、喋れてしまう場面に遭遇した時ですね。自分も含めて。
1009 20101010 犬印の腹帯 伊藤さんの「良いおっぱい、悪いおっぱい」の中公文庫版を読んでいたら、腹帯のことに加筆があった。微妙なこだわり方? っていうか、ああ、やっぱり腹帯には、簡単に割り切れない感情があるんだなあと同感。
私も不器用で、さらしの帯をきっちり巻くなんてのは苦手だったんだけど、腹帯には良い思い出がある。さらしの長い帯の巻き方を教えてくれたのは母で、伊藤さんが書いているとおり、母には「帯祝い」の喜びがあった。私が裁縫嫌いというか、裁縫が苦手なのは、母がひどいスパルタ式に裁縫を教えたことが原因のひとつになっている。だって、できないと物差しでぴしぴしひっぱたくし、「不器用だ」とか「雑な仕事だ」とか、その他もろもろ、よく罵られたので、今でも、なんだか血が逆流しそうな感覚がどこかに残っている。が、腹帯のときは違った。なんと言っても「おばあちゃん」になる喜びの日なのだから、あんなに丁寧に優しく巻き方を教えてもらったことはない。態度がぜんぜん違った。
で、伊藤さんがスカートの下から腹帯がだらりと下がっていてあせった話を書いていたけれども、それも同じ経験がある。大学の4年生だったから、帯祝いが済んでからも、大学に通っていた。帯祝いって言っても、そんなに大げさなことじゃなくって、母と二人で、暖かい日の当たる座敷で腹帯の巻き方を教えてもらっただけなんだけど、それからも学校へ通っていたわけです。
大学の400人くらい入る階段教室のスロープを歩いていたら、なんだか他の学生が合図をしているんだけど、その意味が理解できなかった。後ろを指指すから、後方の出入口を見たのだけど、別段、変わったことはない。なんだろうと不信そうにしていたら、いきなり、後ろへぐっと引っ張られて驚いた。スカートの裾から、垂れ下がっていた腹帯を、A君がぐっと握りしめていた。あまりの唐突な展開に大笑いをするしかなかった。
あの時はそれからどうしたのだろう? 覚えてないけれども、階段教室で腹帯を締めなおすわけには行かないから、きっと、洗面所かどこかに行って腹帯を締めなおしたに違いない。みんなも私も大笑いしたところまでしか覚えていない。で、帯の裾をぐっと握ったA君はと言えば、その頃、もうすぐ、子どもが生まれることになっていた。もう結婚していたのだ。だから、かなり大胆な行動にでることもできたのだろう。
二部(夜間部)の学生だったA君は、手の指が3本ばかり欠けているところがあった。指を詰めたんだと言って他の学生を怖がらせたりしていたが、実際は、事故で指を切断したそうだ。アメリカ製の特殊なカッターを輸入してビルの壁に穴を穿つ仕事を引き受ける会社を自分で設立していた。「設計図と違う場所に電気の配線があったり、ガス管が走っているのが怖い」と言っていた。「電気の線に触れて感電したり、カッターでガス管に触れてしまうこと」を考えれば、指の1本や2本はなんでもないとも言っていた。
大学の1年生のとき、語学クラスの飲み会の世話役を5人決めて、その一人が私であり、A君だった。
それで私に赤ん坊が生まれたときには、黄色い毛糸をたくさんにお祝いとしてくれた。
所帯持ちのA君が大胆だったおかげで、スカートから尻尾みたいに腹帯を引きずっていたのが、恥ずかしいことは恥ずかしいけど、笑い話みたいになったのだった。
腹帯には特別に保健上の合理的理由がないって言われるし、もしお腹を保護したいなら、ガードルなどもあるから、それが便利で、尻尾を引きずるような無様な騒ぎもおきなくって良い。でも「お祝い」の気持ちとか、お婆さんになる喜びとか、それはきっと、真っ白な木綿のさらしの帯のほうにあるに違いない。たぶん。
そんなに高価なものじゃないし、下着の一種だから洗濯のための洗い代えも必要なんだから「帯祝い」を楽しんでもいいんじゃないでしょうかねえ? 伊藤さんが中公文庫のあとがきにニューアカ(ニュー・アカデミズム)のことを書いていたけど、ニューアカも含めて、学問ってやつは感情を無視するのが仕事の一部になっているけど、赤ん坊は観察されるために生まれてくるんじゃないし、年寄りも、ゆっくりこの世にいるのを楽しみたいんだから「お祝い」や「喜び」があったほうがいいんじゃないでしょうかねえ。もめんのさらしの長い帯は、お腹の赤ちゃんを保護するために巻くもんじゃなくって、お母さんの健康のためでもなくって、お祖母さんの喜びのために巻くんじゃないでしょうか? 学者は(医者も含めて、とくに男の学者は)そんなこと考えたこともないし、考えても、とるに足らないことのように思いますかもしれないけれど、こんな小さな喜びが人間には大事なものってこともある。私の母が亡くなったのは、それから三年ほどしてからでした。
1008 20101008 ヘンじゃない? 台風でりんごの実が落ちたり、水稲が被害を受けたり、赤潮で養殖していた海苔が全滅したり、そういう風水害の被害は、なんらかの形で政府や行政から保障が出たり、融資の枠ができたりする。農林水産業に限らない。日航やそごうのような大きな会社が経営危機に陥れば、やはり公的の資金援助がされたりする。銀行だってかなり助けてもらったはず。もっと古くはエネルギーの構造転換のために炭鉱が閉鎖されたときにも、なんらかの公的な援助があったはず。
そういうことを思い出したのは、急激の技術転換のために、店をたたまなければならなくなったレコード店(実際はCD店だったのだけど)や、デジタル化のために仕事が激減した写真屋さんカメラ店には、なんらの公的援助がされたという話は聞かない。「紙の本はなくなる」と官民上げてアナウンスされるだけでも死活問題がと考える書店にいたっては「配達された本を並べるだけの」怠け者扱いをされる始末。それでいて、デジタル技術関連のコンテンツ産業はさほど収益を上げているとは聞いていない。過去にはなかったパソコンの製造とか、パソコン周辺の消費財の製造流通といった新しい産業は育ってはいるけれども、トンと景気が良いとは聞かない。儲かっているけれども、ただ、黙っているだけなのでしょうか? なんかヘン。ヘンとしか言いようのないことが進行している気がしてならない。それは、私が万年筆で紙の原稿用紙に原稿を書き、紙で出来た本を町の本屋さんで売って暮らしてきたというアンシャン・レジーム側に属しているから、そう思えるだけなのでしょうか?
何か観念的な急進性のために、現在ちゃんと機能しているものまで壊してしまっているということはないでしょうか? どうもそんな気がします。
これまでの産業構造の転換期にあった政策と現在の政策の比較を、誰か試みてはもらえませんでしょうか?
1007 20101006 書評・時評・本の話 1978〜2008 河出書房新社の小池さんと、今、編集している評論集の打ち合わせをしました。「書評・時評・本の話 1978〜2008」というタイトルになるはず。はずと言うのは、三つの単語の間にナカグロが入るか、入らないか、この語順で並べていいのかなど、これからの検討事項が含まれているからです。
しかし、その前の「原稿を集める」という大仕事があります。すでに関係の皆様にはいろいろと御協力をいただいていまして、御礼申し上げます。自分でも不思議だと思うのだけど、記憶にちゃんと残っているような仕事が、どうしたわけか、スクラップには残っていないのです。理由のひとつは、たぶん、単行本や文庫本に収録された文章をとっておくときに、ある時期までコピーを使っていなかったことがあるでしょう。自宅の前にコンビニが出来て、そこでコピーを取れるようになってからは、コピーで保存しています。が、その前は「本」そのもので保存していたので、その「本」がどこかに紛れ込んでしまったのです。そういうわけで「原稿を集める」という大仕事で、あっちへうろうろ、こっちへうろうろしています。もちろん、助手の寧々ちゃんにも、あっちへうろうろ、こっちへうろうろしてもらっています。
今日は装丁の話もしました。装丁については、また、改めて書くつもりです。
1006 20101005 評論集の編集と講談社文芸文庫 評論集を編集しています。1978年から2008年までの、編年体になる予定。書名はまだ仮タイトルですが「書評、時評、本の話 1978〜2008」になる予定です。今年の12月に出る予定なのですけれども、手元にあったスクラップにかなり抜け落ちがあるので、原稿の収集に時間がかかるかもしれません。
以前、伊藤さんに「あれを読んで私と同じことを考えている人っているんだと思ったの」と言われた朝日ジャーナルの「育児書」も収録しました。この「育児書」というエッセイの原型はクロワッサンに書いた記事です。クロワッサンの記事は、私からお願いして書かせてもらったものです。こうした育児書関係のエッセイが伊藤さんの「良いおっぱい悪いおっぱい」に繋がったかどうかはわかりませんが、ともかく育児書は小児科医などの専門家による啓蒙的な時代から、自分の手で子どもを育てる人、つまり、当事者の書くものへと変わっていったのでした。評論集では文芸評論に限らず、初期の頃の育児書などについて書いた文章も含め、本にかかわりのあることについて書いたものを広く集めました。
同時並行的に進めていたのが講談社文芸文庫の「女ともだち」で、年表作成は東京女子大学の近藤裕子さんにお願いしました。近藤さんは那須にご滞在中で、年表のチェックはメールですることになりました。こういう仕事だとメールはすごく便利です。また文庫解説は角田光代さんにお願いしました。まだ角田さんの解説は読んでいませんが「良い原稿でした」と講談社の担当編集者の人から連絡をもらっています。今から角田光代さんの解説を読むのを楽しみにしています。
1005 20101003 ぼやく。ささやく。つぶやく。 まだちょっと「ぼやきたい雲」が胸からお腹へかけてふわふわと浮いている感じ。「ぼやきたい雲」は近頃、出現した「雲」で、今までだったら、すぐに積乱雲に発達していたのだけど、雷を落とす元気もなくなったのか、それとも鈍くなったのか、どっちだろう。「ぼやきたい雲」は白くってふわふわしていて、あっちへ飛びこっちへ流れしている。
しばらく「ささやく」ってのを忘れていたようだ。「ささやかれた」こともないし、「ささやいた」こともない。「ささやく」ってどんな感じでしたっけ?「ささやく」って「囁く」とか「私語く(ささやく)」って書くときがあるのだけど。口に耳が三つねえ。
田原総一朗さんが出ていた「ガキの使い」を見ていたら、マイブームは「ツイッター」だと言っていた。ははんなるほど、と納得。そのツイッターって、なんか「つぶやく」って感じと違うなあと思っていたら、星野智幸さんに「さえずる」って意味だって教えてもらった。小鳥のさえずり。烏とか、鶴とか、鷲や、鷹は「さえずる」とは言わないのだろうなあと、嘆息。
1004 20101001 ぼやきたい。 ぼやき漫才ってのがありました。なんかぼやきたい。たぶん一番の理由は、マンションの外壁塗装工事をしていること。建物全体に防護用の網が張り巡らされています。だから、ちょっとぼやきたいってわけ。三度目の大規模修繕です。一回目のときに比べたら、防護用の網もずいぶん改良されて、家の中もそれほど暗いわけじゃあないんですけど、やっぱりぼやきたい。
二つ目はフォーラム神保町のメンバーの魚住昭さんからウェブマガジンの「魚の目」にエッセイを書くように依頼されているのに、まだ、書けないこと。「象の鼻毛」っていう通しタイトルまでは決めたのですけど、なまじ400字詰め原稿用紙7枚のきちんとしたフォルムのあるエッセイを書こうとしたために、なかなか着手できないでいます。ネットを使うようになって、全体のフォルムを考えずに書き出してしまう文章を書くことが多くなったので、逆にしっかりとしたフォルムの文章を書きたいと魚住さんには話したのですけど、ツイッターを始めたおかげで、現実には、輪郭やフォルムのない断片的な文章ばかり毎日、タイプするはめに。ウクレレ漫談をやっていた牧伸二なら「あ〜あ、やんなっちゃった。あ〜 驚いた。」って歌いたいような心境。
ま、ぼやきたいんです。ぼやかしてよ。
1003 20100928 伊藤さん、日本は急に寒くなりました。 東京だけじゃなくって熊本も寒くなっている様子です。こちらにお帰りになるときは、どうぞ気をつけてくださいね。だって、涼しいってのがなくって寒くなったのですから。くそ暑い→寒いなのです。
1002 20100928 ツイツイ ツイッター。 あれ? 豆蔵ちゃん留守なのかな?
※留守でした。(豆)
トップページに「文学界」10月号に姜英淑さんの「海岸のない海」の翻訳が載っていることをお知らせして下さいとお願いしたのだけど? 翻訳者は吉川凪さん。
ツイッターを始めたのは「豆畑の友」のお問い合わせフォームが故障して、それがきっかけでした。だいたい、PC関係の新しい機能とかシステムってのは、使い始めると、しばらくは「中毒」することになります。私はあまり機械好きではないんだけど、この「中毒」期間だけは、機械好きな人の気持ちが想像できます。で「わあ。」と驚いている姜英淑さんをツイッターで見つけたのは、いつだったか? 日本語もハングルも混在で表示できるのには、驚きました。中島京子さんが、姜英淑さんと英語でやりとりをしているのを見て、日本語の解る姜英淑さんなら、ローマ字でもいけるかと試みたところ「HA,HA,HA」のお返事が即座に来ました。さらに豆蔵ちゃんにグーグルの翻訳機能を教えてもらって、こちらの書込みを韓国語に翻訳可能になって(どんな韓国語だか解らないけど)そんな具合にやりとりができるようになりました。「へえ」の連続。
で、ついついツイッターを見ているとフォローした小説家、評論家が並んで「原稿が書けない」「原稿を書かなくちゃ」って、つぶやいているというよりも大連呼。そういう追い詰められた心境を知らないわけじゃあないから、「ああ、これはたいへん」と眺めているうちに、自分の原稿の締め切りを忘れる始末。なんだかなあ? なんだかなあ? これっていいような悪いような、不思議な1ヶ月でした。
1001 20100924 英雄の作り方2 イギリス小説だと「シャーロック・ホームズ」が有名ですが、フランスだと「怪盗ルパン」。この二つの国の人気小説が、探偵と怪盗になっているところは、国民性を感じさせておもしろいと思います。で、島国日本はイギリスぽいのかなと思いつつ、考えてみると、歌舞伎の世界には「ねずみ小僧」とか「石川五右衛門」など大泥棒が大活躍。文楽では、近松門左衛門の心中物があり、こちらは横領犯など。「名探偵明智小五郎」が登場するのは近代になってからですが。江戸川乱歩も怪盗、怪人はたくさん書いています。
さて、「秋葉原無差別殺傷事件」の犯人を英雄視する視線は、かならずしもマスメディアの拙速で作り出されただけでなく、なんとなく、世の中の人の心がそのような英雄を求めていたという側面があることを「英雄の作り方1」で書きました。「ネットでは加藤智大被告は神」とか「神」の一字を分解して「加藤は ネ 申す」とか「加藤を神格化しろ」などの書込みが見られることをフォーラム神保町の聴講者の方から教えてもらいました。通常、犯罪報道などの勉強会や検討会では、虚構を排除して事実を見詰めようとするという方向で思考を重ねて行きます。が、私は秋葉原無差別殺人事件に、事件の周辺にいる人々が「虚構」を求めていることを感じとりました。フィクションの作者としての直感です。
この直観力がもっと強ければ、今頃、大勢の人に楽しんでもらえるエンターテイメント(娯楽作品)を大急ぎで書いているところなのですが、残念ながら、そういう資質には恵まれていなかったようです。娯楽作品を書く資質には恵まれませんでしたが、フィクションそのものを否定する気はさらさらありません。人間の精神にとってフィクションは重要な役割を果たしていると信じています。それで今回の秋葉原無差別殺傷事件の周辺にいる人々を見ているとフィクション、つまり虚構に飢えているという側面があるように思えました。「アエラ」の記事はそのあたりの雰囲気を報じていますが、まだ、虚構に飢える人々の気持ちというスジに絞りきれていなかったのかもしれません。だって、これは通常のジャーナリストの態度とは逆に虚構そのものを肯定しなけば、見えてこない現象なのですから。講師の中島さんを混乱させたのも、私がそのあたりの指摘で突然、ベクトルの向きを逆転させたためだと反省しています。時々、思考のベクトルを逆向きにしてみるのが好きなんです。だからノンフィクションの作家にならずに、フィクションを選んだのでしょう。
で、そのフィクションを求める力と言うか、エネルギーが微弱な感じがしています。微弱陣痛という言葉が浮かびました。お産の時、陣痛は来るのだけれども、微弱なまま、長時間にわたって続き、陣痛のクライマックスが来ない症状を言います。微弱な陣痛が長時間続くと母体は疲労しきってしまいますし、ひどいときには、母子ともに死に至ることもあるそうです。現代では陣痛促進剤などを使いますから、微弱陣痛で死亡なんてことはめったにないでしょう。
お産はそういう手当てがあるのですけれども、虚構を求める社会的心理が微弱陣痛状態のままになったら、どういう現象が起きるのか? それが私の興味でした。
ピカレスク・ロマンの虚構が作れない社会というのは裏を返すと、例えば、優れた為政者も生み出せない社会ということになりはしないでしょうか? 英雄の作り方を忘れてしまった社会。いや、英雄の作り方を思い出そうとして、なかなか思い出せない社会。そんなイメージです。もっとも村上春樹の「1Q84」の青豆は殺人者なのだから、ピカレスク・ロマンはとうに成立しているとも言えなくもないのだけれど? あの小説はなんとなく、ピカレスク・ロマンという感じがしないのは、なぜだろう?
1000 20100922 なんなんだ。この騒ぎは! 「公文書偽造事件を調べていた主任検察官が、証拠偽造で逮捕された」って、理解しがいた事件というか、何というか、一番の疑問は「なぜそこまでして、事件を成立させたかったのか?」ということです。主任検察官によるFDデータ偽造が報じられたのが今朝。主任検察官が最高検に逮捕されたのが夜に入ってから。
まさか関連はないと思うけれども、21時過ぎ、つまりNHKのニュースが半分ほど過ぎた頃にツイッターにアクセスしようとすると、ホームに大きなhの文字が出てアクセス不能。10時過ぎに豆蔵君から「どうもツイッターにアクセスしないほうがいいですよ」というメールが来ました。豆蔵君情報によると、携帯などからは問題なくアクセスできるらしい。どんなことが起きているのか機械音痴の私にはわかりかねますが、ツイッターの脆弱な部分を攻撃されたとのことでした。最初はウィルスかと思ったのですけど、ウィルスではないってことで、なんだか奇妙なことがおきているらしいです。
今夜あたりツイッターで「検察官によるFDデータ偽造事件」の感想を、有名な人のものも、無名な人のものも聞いてみたいものだと思っていたのに。「まさか関連はないだろうけれども」と言うのは「もしかしたら関連があるの?」の意味の裏返し。
加藤陽子の『それでも、日本人は「戦争」を選んだ 』を読んでいたら、太平洋戦争中の戦死者の数は新聞の地方版には掲載されたけれども、全国版には載らなかったとありました。みんな大本営発表を信じ込まされたとは聞いていましたけれども、そんなふうに、情報を細かく分けてしまうという手段をとっていたなんてのは初めて知りました。情報操作として手が込んでいるし、現代でも使えそうな手段だなと感じました。さらに戦争末期になると民需に応じる会社の株価が上昇したともありました。情報操作、情報統制をしても「口コミ」は生きているのです。と言うよりも情報操作、情報統制をすればするほど「口コミ」はよく機能するものなのかもしれません。民需の株価が上がったと言うのは「長谷川巳之吉」を読んだときに、戦争末期に出版各社が空前の利益を上げていたと知ったときと同じ驚きがありました。
だから「たぶん関連はないだろうけれども」「もしかしたら関連はあるの」なのです。
999 20100921 英雄の作り方1 9月16日のフォーラム神保町のことで気になっていることをもうひとつ。
会場でコメントするときに資料の中にあったアエラの「加藤よ裏切ったな」という記事を少し悪く言いすぎたとあとから、やや思い直しました。この記事はネットにもあったもので、検索すればたぶん今でも読むことができます。秋葉原無差別殺傷事件の公判を傍聴した人が被告に裏切られたと感じていることを報道しているものです。記事そのものは、この事件を見詰める人の視点を切り取ったもので、良い記事だと思います。ただタイトルのつけ方が曖昧なので、私の印象がぶれてしまいました。
これまでの事件報道ですと、メディアが安易な解釈に走り、そのイメージが広がってしまうというパターンが多く、時にはメディアの安易な解釈が、読者や視聴者のメディアに対する軽蔑を招くことも多々ありました。10年くらい前に護国寺で起きた「お受験殺人事件」と呼ばれた事件も第一報から「あ、固定観念で報道している」と感じられた事件でした。メディアはお受験加熱のために、よその子を殺すという行動に出た母親の事件として報道しましたが、実際はお受験をする小学校は抽選で入学者を選んでいるのですから、そういうストーリーは成り立たないのです。この場合は情報の享受者のほうが事情をよく知っていて、報道に対して冷ややかな反応をしていました。
「秋葉原無差別殺傷事件」の場合は当初、メディアは派遣切りにあった青年の凶行という報道をしました。これは第一報の段階ではそう間違いではないと思います。しだいに詳細がわかってくると、当初にイメージされた事件とは異なるものがあることもわかってきます。
が、この事件ではメディアの情報の享受者の中に、最初のメディアが建てたイメージに添って犯人に英雄的な存在になって欲しいと願う人がいることです。アエラの記事はそうした現実を報道している記事としては良い記事だったと思います。私は、タイトルの中にこの記事は
「犯人」を問題としている記事ではなく「犯人に英雄を見ようとしている人」を取り上げているのだということを印象付ける何か一言が欲しいなあと、そう思いました。そうじゃないと、私は事件報道というと、すぐに犯人について書かれたものという思い込みで読んでしまいますから。(この項目 続く)
998 20100920 丘の上の花屋さん 丘の上の花屋さんの様子がおかしいなあと、覗いていたのは7月のはじめでした。最初は定休日でもないのにお店が閉まっていて「どうしたのだろう?」と不思議でした。そのうち、どんどん、花が枯れて行くのです。花屋さんのお店は小さくって、シャッターもないお店です。閉まっているときは、緑色のネットが張ってあるだけなので、お店の中をよく見ることができます。
最初は切花が枯れ、それから苗物の元気がなくなり、観葉植物さえかさかさし始めた頃には、お店全体が雑然とした枯れ色に染まりました。「しばらく休業します」の張り紙が出たのは、そうした頃でした。張り紙が出て2、3日すると、枯れた花が片付けられていました。
今年の夏の猛暑は、残っていた鉢物さえみんなダメになってしまいました。ネットの向こうのお店の中にお花はすっかりなくなって、がらんとしたまま8月が過ぎて行きました。前を通るたびにいったいどうなっちゃうんだろうと、心配になっていました。
花屋さんの御主人が、お店で鋸を使っている姿を見たのは先週のことでした。ご主人に何かあったのかと心配していましたから、ちょっとほっとしました。最初の日は熱心に鋸を使っているので、そのまま通りすぎました。どうやらお店の模様替えをするようです。次の日に通りかかると、ちょうどこちらを向いた時だったのでちょっと会釈しました。事情を聞いていいのか、悪いのか、少し迷いましたが「どうかなさったのですか?」と聞いてみると、お母さんのお加減が悪かったとのことでした。今日、通りかかると、今度はきれいなワンピースを着た女の人が花屋さんのご主人と立ち話をしていました。きっとお店の前を通る人は「どうしちゃったのだろう」と気になっていたに違いないのです。
買物に行った成増駅前の商店街で、お婆さんが二人で手をつないでシャッターに張られた張り紙を見ていました。シャッターの張り紙はひどく乱雑な張り方をされていて、いったい何の張り紙だろう?と不思議に思って近くに行ってみました。シャッターが下りていたのは日本振興銀行の支店でした。チェーン店の飲み屋さんやコンビニが並んでいる一画にそんな銀行が出来ているなんて初めて知りました。お婆さん二人は手をつないで張り紙を読んでいるのです。
ひとりのお婆さんが、債権者説明会が開かれる会場の名前を読み上げて「なんだかこれもニセモノみたいな名前ねえ」とつぶやくと、もうひとりのお婆さんは「全部ニセモノなのかしら」と嘆息していました。
張り紙は「支店閉鎖のお知らせ」「預金保護について」「債権者説明会の告知」など5枚ほど。こんな光景は映画でしか見たことがありませんでした。手をつないでいたお婆さんは、この銀行にお金を預けていたのかしら?小学生が手を繋いで初めて街に出てきたみたいな様子のお婆さんふたりでした。
買物を終えて、再び花屋さんの前をとおりかかると、ご主人がお店の扉にニスを塗っていました。どうも、今度はお店に扉がつくようです。
「きれいになりますね」
声をかけると
「明日からまた開きますから、どうぞ、よろしく」
というお返事でした。また、お花がたくさん並んだ花屋さんに戻るのかと思うとちょっとうれしくなりました。それにしても成増にあったお豆腐屋さんとか、魚屋さん、八百屋さん、小間物屋さんなど、顔なじみになったご主人や奥さんのいたお店は、いつのまにか、見なくなってしまいました。お店の人たちはどうしているのでしょう。
997 20100919 形而上学の不在 フォーラム神保町の中島岳志氏による「秋葉原無差別殺人事件」のリポートについて、ゆっくり考えています。後から反芻するように考えるのが癖なのですけれども。事件のディテールには考えさせられることが幾つもあるのですけれども、なによりも気になっているのは「形而上学の不在」という現象です。
形而上学と言ってもそう難しいことではなくって、例えば加藤被告が強く持っていた存在承認の欲求ですが、なぜそれが「存在とは何か?」という疑問の方向へ発展しなかったかというような事柄をさしています。一般の報道では、派遣の仕事を断られたために凶行へ及んだということになっていますが、実際はもう職場を辞めたくなっていたようです。一般に言われているような派遣切りが理由ではなく、むしろ職場を解雇されるのが、短期的に延期になったことが彼を苛立たせた様子も見てとれます。存在承認の欲求が大きい人は往々にして風来坊になるということを中島さんのリポートの帰りに聴講者の人とお話しましたが、そこで思い出すのは「フーテンの寅さん」でした。また加藤被告が掲示板を荒らされたことが一番の原因だと裁判に話していることを聞いて私は「寄席芸人の心理」という言葉を使って会場で感想を述べました。観客とともにセンス(趣味)と感覚を共有する空間を作り出すことを喜びとする演者によって、それは存在を否定されたにも等しいことになるのでしょう。言葉を変えれば「殺された」と感じうる現象です。
自分で気になっていたのは、この事件のレポートを聞いた感想に「フーテンの寅さん」や「寄席芸人」と言った喜劇の属する言葉が出てくることでした。事件の重大性に比べてあまりにもアンバランスな例えです。その理由が解らなかったのですが、「形而上学の不在」ということを考えてみると、なんとなく、自分の感じていたことが解りかけてきました。
掲示板上の「ネタ」がしだいに「ベタ」になって行くというのは中島さんのリポートにあった内容です。ところで「ネタ」はなぜ「ベタ」になって行くのでしょうか?「ネタ」は虚構、「ベタ」は実際と一般的な言葉に置き換えて考えてみると、「ネタ」が「ベタ」になる過程の手前に「ネタ」とは何か、つまり虚構とは何かという問いかけが現れても不思議ではないのです。実際的な行動の手前で現れることが予想される形而上学への入口が閉ざされていた、あるいは扉は開いていたのだが、形而上学が不在だったというイメージが湧いてきました。
喜劇は、形而上学への回路を一時的に塞いで、生真面目で硬い気分から人を救い出すという機能を持っているのですが、秋葉原事件でなぜか喜劇の比喩が頭に浮かぶのは「形而上学の不在」が逆説的な形で事件全体に介在しているからではないでしょうか? 事件全体というのは、加藤被告一人が、そうしたものを抱え込んでいたのではなく、あまり社会という言葉を使いたくないのですけれども、社会が広範に「形而上学の不在」という現象を抱え込んでいたことが凶行へ向かう遠因になっているという印象を持っています。
形而上学の入り口は「問い」でしょう。その「問い」に答える何かがなかったのです。「問い」に答えるのは「答え」ではなく「問いを承認すること」だとすると「問い」というのは、我々が日常の言葉では「生きる意欲」と呼んでいるものにたいへん近いのではないでしょうか?
996 20100917 昨日のフォーラム神保町 昨日はフォーラム神保町で中島岳志さんと御一緒させていただきました。中島さんありがとうございました。私はフォーラム神保町の世話人をやるのは初めてで不手際が多くて申し訳りませんでした。お許しを。
テーマは「秋葉原無差別殺傷事件」の加藤智大被告についての詳細なレポートでした。中島さんは裁判を傍聴し、被告の住んでいた土地も訪問して、この事件のデティールに沿って「何が起きたのか」を検証しようとしています。フォーラムは時間超過するくらいで、その様子は書ききれませんが、フォーラム神保町のHPに加藤被告の同僚であったと言う方が聴講したレポートを書いてくださるとのことでした。
私が感じたことを以下三点にまとめます。
まず第一番目は加藤被告のつかう「本音」と「本心」の違いです。ネットの掲示板に書いたブラックな発言やジョークは「本音」だといい、しかしそれは「本心」ではないと裁判で発言したと報道にありました。中島さんのお話でこの「本音」と「本心」の違いがよく理解できました。「本音」はどうやら、センス(趣味)や価値観
をさしている言葉のようです。本心のほうは意志を意味していると解してよさそうです。ネットの掲示板を被告は「本音」を吐露できる場所だと捉えていたことは報道されています。それがあたかも寄席芸人の心理に例えることができるようなものだと中島さんの報告で解りました。寄席芸人のたとえは事件の凄惨さとはアンバランスえですが、私が言いたかったのは、同じセンス(感覚)同じ価値観を共有できる空間を観客とともに楽しみいたい演者の心理ということです。寄席芸人の対極にイメージしていたのはテレビタレントでした。テレビの演者は直接に観客(視聴者)を見ることはありませんし、視聴者がどんなセンスと価値観を持っているのかを演じながら感じることはできません。
二つ目は被告が強い承認欲求を持っていたという点です。これは報道からも感じ取っていました。で、帰途、聴講者の人と話題にしたのですが「職場をやめることを望んでいた」という中島さんのご指摘は正しいだろうという話です。職場を首になって凶行に及んだのではないのです。人間は不思議なもので、存在している人は「空気のように」無視してしまうのに、不在の人は「不在によって存在を強く感じる」ということがあります。だからおうおうにして承認欲求の強い人は、風来坊になったりするものだというお話をしました。
三つ目は、この事件を見ている新聞なら読者、テレビなら視聴者にたいする私の興味です。今までなら報道が安易な解釈で拙速に走ったと感じられることが、この事件では報道を受ける側が、なにかそこに「英雄」を見たいという欲望を持っていることが感じられるというところに、関心が向きました。もっとも、この視点は、被告の行動に関心を向けていた中島岳志氏を面食らわせてしまったようです。いきなりの方向転換をしましてすみませんでした。
995 20100916 ほんもののビリケンさんに出会う。 ほんもののビリケンさんは通天閣の上にいました。奇妙は木の彫刻。なんでもアメリカの女性が夢にみたものを木像にしたのだそうです。
通天閣を訪れた人が足の裏をなぜるものだから、足の裏がV字谷のように磨り減っていました。これは写真にとっておけばよかったなあと、後悔。
994 20100915 観光地は俗悪? 観光地は俗悪って固定観念はいつできてしまったんだろう? だいぶ前だったような気がします。それこそ、第一次レジャーブームで、どこに行っても大勢の人がいて「押すな、押すな」状態だったとき。私は10歳以下です。親が嘆くことを耳で聞いて、素直にああそうなんだと思い込んだという感じです。それから、20歳前後になって、観光地はどこに行っても「かったるい」というポーズをとる人がかなり周りにいて、それも影響しているかしら。ただのポーズじゃなくって、実際、なんだか「かったるい」場所が多かったのも事実です。一時の熱気が去って、廃墟は目立つし、やる気のなさそうなドライブインの看板のペンキははげているし、せっかくの景色は、中途半端な工事のために台無しになっているしで、ろくなことはないってことになってました。
遊園地もどこか荒んでいたし、動物園は動物がノイローゼになっているし、植物園は枯れた植物が点在しているし、思い出してみるとオイルショックの頃でした。
で、観光地は俗悪って固定観念が揺らいだのは、東京ディズニーランドが出来たとき。東京ディズニーランドはお客さんにも、「おとぎの国の住人」になることを要求する遊園地で、ここで観光地は俗悪って冷めたポーズをとることは許されないというか、そういうポーズをとること自体が大人気ないというか、場合によってはほかのお客さんの気分を台無しにする醜悪な行為だと、大げさに言えば、そう思いました。
なんだろう? 人が集まって楽しむ場所を馬鹿にするとインテリっぽいというのか、そういうポーズが流行っていることに違和感を感じだしたのです。「東京ディズニーランド」が出来た頃の違和感を思い出すと、今でもご飯の中に小石が入っていたようにぎしぎしした嫌な感じがします。それは、上等なレストランに行ったのに「ここは気取っているからいやだ」とか、ひどいときには「無用な気取りだ」なんて偉そうに言い出されるみたいな場合に感じるそれと似ています。そういうぎしぎし感って私の親の世代(今の70代)よりも10歳くらい下の世代(今の60代)の人に感じることが多い感覚でした。
993 20100913 レジャーブーム レジャーブームを検索したら毎日新聞の1961年の記事が出てきました。スキーにいったり、海水浴に出かけたり、そういう人が多くなった時期はそんな頃から始まっていたんだと、改めて、新聞記事に添えられた写真を眺めてしまいました。
私の生まれた家は横浜の釣船屋でしたから、このレジャーブームの恩恵をまともに受けました。ただ、母はちょっと嘆いていました。なにを嘆いていたかというと「遊びと仕事の区別が付かないお客さんがふえちゃった」と言うのです。釣をしたら、釣船代以上の釣果が欲しいと言うお客さんが多くなったという嘆きです。漁師が自分の生業として釣をするんじゃないのだから、成果よりも海に出て魚を釣るという行為を楽しんで欲しいんですけど、そうも思いとおりの釣果がでないと文句がでるようになったそうです。ちょっとぼやいてみせるくらいなら、期待はずれの代償として笑えるんですけれども、他のお客さんが不愉快になるほど怒る人もいたりしたようです。時々「今まで遊んだことがない人は仕方がないかな」とつぶやいていました。
それで10年に一度は「お前なんかお客じゃない」というお怒り爆発があって、これは我が家の語り草。母の「お客じゃない」宣言が出るとそれまでお客さんとして扱っていた人が、ただのふつうの人になるというわけ。お客さん扱いをされていた御仁は「御代はいらない」かわりに、猛烈な怒りの攻撃にさらされることになるのです。当の御仁は言うまでもなく、巻き込まれる子ども、つまり私や弟それに父もたいへんな被害にあうわけです。ほんとうに恐ろしい。けれども、うちの息子や娘は、このお祖母さんの逸話を、伝説として私から聞いて、それぞれ、アルバイト先や職場でクレイマー対応に苦慮した経験を持っているので、おもしろいレジェンドになっています。就活をした学生からも面接でクレイマー対応ができるかどうかを、ずいぶん念入りに聞かれたという話を聞きます。世の中、無理難題を吹きかけるクレイマーって、多いのでしょうね。
「クレイマー、クレイマー」というメリル・ストリープが主演していた映画を見たのは、ちょうど息子が生まれた頃でした。はて? なんでレジャー・ブームの話がクレイマーの話になったのでしょうか? あ、野暮なお客の話からだった。
992 20100912 箱根細工 昭和天皇崩御の時は、バブル経済真っ只中でした。熱海はひどく寂れていて、レジャーブームの時に出来た大型ホテルが廃墟になっているところもありました。それに比べると芦の湯は、落ち着いた避暑地の雰囲気がありましたから、その頃の私には、やや敷居の高い感じがしなくもないところでした。松坂屋で泊めてもらったのは、獅子文六が好んで使ったというお部屋。お風呂付の離れでした。お風呂は檜の湯殿に檜の湯船。一人で入るにはちょうど良い大きさでした。今でこそ、部屋にお風呂が付いているという贅沢な温泉宿も珍しくなくなりましたが、その頃は、女性で一人のお客というだけで、気が引けました。「旅」という雑誌の取材だったのです。だから、こんなに良いお部屋に泊めてもらえるのだなと、一人合点していました。
獅子文六が好んだというだけあって、どこへも行かずに引きこもるに居心地の良い離れでした。で、テレビには何が映っていたかと言えば、昭和天皇が崩御したために、急にできた休日をスキーやスケートで楽しむ人々の姿です。歌舞音曲は遠慮ということで、テレビ放送は天皇崩御のニュース一色でしたけれども、スキー場やスケート場は大賑わい! ジュリアナ東京で、扇を振って踊っていた頃ですから、温泉なんて、もう時代遅れという雰囲気でした。日帰り温泉などが人気になるのは、バブル崩壊以降のことと記憶しています。
麻の葉の柄の箱根細工の葉書入れを買ったのは、この時のことでした。箱が好きなんです。葉書入れは今でも使っています。それから、一番安い秘密箱を二つ。これは子どものためのお土産。秘密箱はパズルのようなものですが、家の子はまだ小さくって、秘密箱をうまくあけられずに、そのうち壊して放り出してしまいました。箱根細工は古めかしい一時代前のお土産になっていました。そのまま時代の波にもまれて消えて行ってしまうのはおしいような細工で、それから箱根に行くたびに、あまり大きくない物を買い求めていました。
それがこのごろ、すこし様子が変わってきました。あれ!今までの箱根細工と様子が違うものが出来てきたなと、最初に感じたのは、箱根細工のマウスパッドを見つけた時でした。さて、それが何時のことかと聞かれるとあまりはっきり覚えていないのですけど、たぶん、ここ10年のうちです。模様も色も柄も、なんとなく、それまでの見慣れたものと違って、どこか今めかしくなった箱根細工が出てきました。箱根細工が出来たのは150年前、つまり幕末の頃のことだそうです。工芸品もまったく新しい意匠が生み出されずに、前例踏襲している時期と、新しい意匠が生み出される時期というものがあります。どうも箱根細工は、新しい意匠が生み出される時期にさしかかっているかのように見えます。
150年前には西洋人が箱根にやって来て、お土産用に作られた箱根細工を買い、ヨーロッパに送ったとのことでしたけれども、今、箱根に来ているのは、西洋人もいますが、中国や韓国などの東洋人も大勢います。箱根の山のいたるところに美術館が点在し、そこは洋の東西を問わずに大勢の観光客が歩き回るなんてことは、歴史上初めてのことでしょうから、そういう環境がどんな意匠を生み出すのかを、楽しみにしています。ご当地キティちゃんとは違う、新しい意匠がそこから登場してくることでしょう。
お土産好きな私としては、ご当地キティちゃんも悪くはないのですけれども、もう少し、大人の趣味と言うか、まあ、うまい言葉が見つからなくって困っていますけれども、自分の生きた時代の大人の趣味の意匠が出てくることを願っています。ご当地キティちゃんと、ご当地ハイチュウには、家の子どもが小学生だった時に、ずいぶんお世話になりましたが。
991 20100911 箱根行ってきました。 今週はずっと箱根にいました。芦の湯に2泊。塔ノ沢に1泊。それから桃源台に1泊しました。
芦の湯に行くのは、昭和天皇が崩御して以来。昭和天皇崩御の日、新幹線に乗って熱海で降り、バスで芦ノ湖まで行って箱根神社を見て、芦の湯に泊まりました。さびしい冬の日でした。霧に包まれて何も見えなかったのを覚えています。
芦の湯2日目にロープウェイを使って大涌谷へ。高いところは怖いから、飛行機もなるべく大きなやつに乗るのですけど、久々のロープウェイの怖いこと。怖いこと。途中で止まったらどうしようと想像するだけで、胸が苦しくなってしまいます。わずか8分がどきどきでした。大涌谷は初めて。ロープウェイが緑の尾根をひとつ越えると、そこは、なだれる土砂が黄色く染まった大涌谷でした。ロープウェイの中にも硫黄の匂いが流れ込んできました。あちらこちらから白い水蒸気が噴出しているところもあり、ああ、怖い、怖い。
でも、噴出した温泉で茹でた黒卵はおいしくいただきました。茹でたてはかすかに金属の味がしました。
同行した藤村先生と黒卵を剥いていたら、周囲を動画撮影の外人さんに囲まれていました。紅毛碧眼。何人なのか解りませんが、8人くらいがそろって黒卵を剥く手元を撮影していました。黒い殻から白い卵が出てきたところを、がぶりと噛んで「ほら、卵だよ」と見せるつもりが、どうしたわけか、白身の多い卵で、再度、がぶりとやって、黄身を見せました。手元を撮影した外人さんが頭を何度も上下させたのは、きっと「ありがとう」のつもりだったのでしょう。何も言わないシャイな感じは米国人でもなければ仏国人でもなし、ましてやおしゃべりなイタリア人でもなさそうだし、ドイツ人でもないとなると、いったいどこから来た人だったのでしょう?
大涌谷の駐車場には、エアポートリムジンも入っていました。
翌日は朝から土砂ぶり。どうも台風の影響らしいと気付きながら、ポーラ美術館からラリック美術館に回りました。
ポーラ美術館は展示換えのために割引料金。大雨なのにけっこうお客さんがいました。美術館前のバス停に透明な屋根があり、この屋根は三角形を二つ並べたような形をしていて、雨をよくよけるのに感心。箱根はいつの間にか美術館だらけになりましたが、昔は植物園がたくさんあったのを思い出しました。箱根だけじゃなくって観光地と言うと必ず植物園があったのはなぜでしょうか? 観光地の植物園が廃墟同然になっているのを時々見かけますけれども、美術館はそうはならないのかしら?
ラリック美術館へ行くと「今日は台風のため4時で閉館します」とのこと。せっかく来たのだから大急ぎで回ろうと、美術館に入りました。で、法政文芸の編集委員の女性二人が仲良くしゃべっている背後の窓の外で、大風に揺らぐ木々が滝のような雨に打たれているのを見て、内心、こりゃまずいかなと不安になったものでした。「嵐を呼ぶ女たち」というようなタイトルをつけたくなる光景でした。案の定と言うか、危機に気付くのが遅いというか、登山電車は運行停止。道路もあちらこちらで冠水。こりゃたいへんと、なんとか湯元まで戻ってくると小田急のロマンスカーも止まっていました。ローカルは運行していると言うので、法政文芸の編集委員諸君をローカルに乗せて、私は塔ノ沢の福住楼へ。6月に蛍を見に来た宿です。蛍が飛んでいた早川は、ごうごうと濁流が渦巻き、いまにも庭先に水が上がってきそうな勢いでした。
温泉の湯にも、泥水が入ってにごってしまったとのことで、お湯を汲みなおしている最中だと女中さんに教えてもらいました。
で、テレビをつけてみると、あふれ出しそうな酒匂川の中に取り残されたおじさんが、木に登って助けを待っている中継映像が目に飛び込んできて、びっくり。さらには台風が静岡県御殿場市付近で、熱帯低気圧になったと知って、さらに仰天。だって箱根は神奈川県ですが、御殿場市の隣なのですから。日本海側に抜けた台風は勢力が弱まるとタカを括っていたので、なおさらの驚きでした。静岡県は海側から台風に襲われることはあっても陸地側から台風が進入するなんてことは、想像を絶してました。思わず携帯をひっつかんで、法政文芸学生編集長を呼び出してみると「みんな、電車に乗って帰りましたよ」と言う返事。そう言う彼は、小田原泊まり。しばらくしたら、宿を見つけましたという電話をくれました。その頃には、止まっていた新幹線も走り出していました。と、ここまでは、法政文芸の編集委員諸君との合宿の話。
台風の翌日は、ゼミ合宿で桃源台へ移動。「桃源台集合」ってちょっとなあ、たいへんと思ってはいましたが、横浜市内に同じ名前の団地があるとは知らずにいました。私も以前、福岡の別府(べふ)と大分の別府(べっぷ)を取り違えて、熊本近代文学館の皆さんに大騒ぎをさせたことがありましたが、同じことが起きたのです。検索って、ふつう人が考えるのと違う答えを出しちゃうことがあるのですね。おまけに東名は前日の台風の影響が残っていて、高速バスの到着はいつになるのか解らないし、箱根の道路もあっちこっちで渋滞。そんなわけで、全員そろうまでにいろいろありましたが、午後から仙石原へ。すすき野原を歩きました。タクシーの運転手さんに聞いたところだと、今年のすすきは穂が出るのがいつもの年よりも早いのだそうです。こんなに暑いのにどうなっているのでしょう。
で、例によって、またまたノープランで、明日はどうしようと、宿に帰って相談しました。
「ロープウェイが怖いの」
そう言うと、なぜか幹事はかわいい顔をして
「じゃあ、ロープウェイに乗りましょう」
って、おいおいです。しょうがないなあ。
桃源台から大涌谷までのロープウェイは管理保守のために運転休止中なので、バスで大涌谷へ。大涌谷と早雲山を往復をロープウェイでしました。で、早雲山への行きは、男子学生と同じゴンドラ。怖がらせようとするのを「これ、これ、いけません」と静止して降り、帰りは全員で同じゴンドラに乗ることに。なぜか、女の子というか、女子学生のほうが怖い感じのツボを心得ていて、どきっとするような台詞を絶妙なタイミングで吐くのでした。ああ、怖いと思いながらも、こっちもだんだんやけくそになってくると、なぜか、周囲の景色が見えてきました。すると、2日前は、あんなに黄色かった大涌谷なのに、黄色い部分が少なくなっていました。土砂が流れ落ちたあとの、Vの字の谷のくっきりとした茶色をしていました。台風の大雨で、すっかり谷の硫黄が流されたようなのです。「れこはすごいや」と思わず見とれてしまいました。で、
「先生、あれは何ですか?」
と真下を指差されて、思わず
「なに? なに?」
と覗き込んだら、目がくらくら、胸はどきどき。ひどいや、学生といるときの教師の習性を利用するなんて。なんか答えなくちゃいえけないような気がしているものだから、思わず覗き込んじゃったのでした。困った、けれども、なかなか知恵者のおもしろいお嬢さんたちです。と、まあ、みんなで大笑い。またまた黒卵をみんなで食べました。1個食べると寿命が7年延びるそうです。そんなわけで箱根に5日もいました。ロマンスカーで新宿へ戻ると、都会の匂いが珍しくなっていて、まっすぐに家には帰らず、ちょっと新宿で遊んで帰りました。新宿も少しだけ秋になっていました。 991.jpg
990 20100906 日本海に沈む夕日 日本海に沈む夕日の写真を山形の佐藤先生から送っていただきました。佐藤先生、お返事ができなくって申し訳ありません。携帯でメールを打つのが苦手なんです。ごめんなさい。
今日から10日まで箱根です。私も何かきれいな写真を撮ってきたいのですけど、またいつもの癖でぼうっと眺めているだけで写真を撮るのを忘れるかもしれません。 990.jpg
989 20100905 大阪に行ってきました。 東京も暑いけれども大阪も暑い。
日本の大都市は、たいてい空襲を受けています。それで古い建物も焼けています。それに、建物自体が木造建築なので、時代とともに立て替えられ、街の様子も変わっています。が、もともとの地形は、けっこう残っていることに、あるとき、気づきました。東京も、江戸時代の初期の頃からの地図から順番に地図を眺めて行くと、おおよその市街地の展開の様子が飲み込めます。高い場所から実際の都市の眺めを見ると、土地の高低差がはっきり見えて来て、古い街の様子を想像することができます。大阪は、そこまでつぶさに見てはいないので、まだ飲み込めていないところもあります。古い地図を集めているところです。レプリカですけど。
2日ばかり、大阪を歩き回って、少しですが、感覚的に大阪の市街地の全体を掴むことができました。まず大阪城。ここは石山本願寺があったところだと、2年ほど前に訪れたときに知ったのですけれども、本を読んでいるときには、具体的な場所ってほとんど考えずに読んでいるものなんだなあと、自分で驚きました。大阪城から水上バスに乗り、淀屋橋まで行って、今回は大阪城まで戻りました。暑くてくたびれていたから、その日は鶴橋の市場で焼く肉を食べて終わり。昨年もお世話になった今里の旅館に今年もお世話になりました。鶴橋は、中の島図書館で見た版画だと、鶴が集まるので鶴橋と言ったようです。もろこ汁が名物だったと、版画の解説に書かれていました。鶴橋から近鉄に乗って今里に出ようとして、方向を間違え上本町に行ってしまいました。
なるほど、上本町というのは鶴橋の隣の駅なわけねと、大阪城から天王寺にかけての台地が大阪でもっとも古い土地だと、教えてもらったことが、身体の感覚としてもやや理解できました。
翌日は四天王寺夕陽丘から出発。夕陽丘って、新しく出来た団地の名前のような感じがしてましたが、そのあたりから見る夕日の景色が絶景だということで、古くからそう呼ばれていたようです。湿地と海が交じり合っているような場所に突き出した台地の先端に、朱塗りの伽藍が立ち並んでいる様子はさぞ見事なものだったのでしょう。昨年の春、四天王寺で演じられる雅楽と舞楽を見たとき、石の舞台のかなたへ陽が沈んで行くのを見ました。赤い夕陽が沈み切るか、切らないかの頃合に、かがり火に火が入り、火の粉が舞い飛びました。天地と繋がる芸能のスケールに驚きました。
さて、ここからは歌謡曲ツァー。まず「王将」の新世界へ。動物園前で地下鉄を降り、立ち飲み屋さんや碁や将棋を指す人を見ながらジャンジャン横丁を通り抜け、通天閣へ。初代通天閣は明治45年に立ったのを「へえ、そうなんだ」と説明を読んで、意外に思いました。今の通天閣は2代目。登るのは今度が初めてでした。ここの見晴らしの良さは、絶品。ふっと気付いたのですけれども、通天閣から見る景色って、もしかしたら、四天王寺が、大伽藍を誇って海上からやってくる船に乗った人々に「ああ、難波津に着いた」と安心させていた時代の面影を残しているのかもしれません。西に六甲山、東に生駒山をはっきり見ることもできました。街並みの向くには大阪城の天守閣も。
「動物園前」から「淀屋橋」に出て「中の島ブルース」の中の島へ。府立中の島図書館へ。明治37年に開館した建物です。今の天王寺公園のところで第5回内国勧業博覧会が開かれたのが明治36年。初代通天閣は明治45年に立っているのですから、明治の末年の大阪は好景気に沸いていたはずですが「はて、それはどうしてなのだろう? どのような政策が功を奏したのだろう?」とふつふつ疑問が湧いてきました。蔵屋敷の集まった近世の大阪から糸偏(繊維産業)の取引で賑わう大阪の間について、私は何も知らないのです。
午後の陽盛りの時間を図書館で潰して、夕刻に「道頓堀ラブソディー」の道頓堀へ。絵葉書には必ず出てくるグリコの看板はまだ点灯していない時間でした。道頓堀から「月の法善寺横町」の水掛け不動へ。上司小剣の「鱧の河」とか織田作之助「夫婦善哉」などは大正から昭和初期にかけての、なんばが舞台です。今の大阪城が出来たのは昭和4年だとのことでした。
明治末年に賑わいだした大阪が、それが大正から昭和初期に小説に描かれるようになり、第二次世界大戦で空襲を受けた大阪が復興して歌謡曲に歌われたのが1960年代。昭和の中期と考えてみると、なんとなく時代の流れがイメージできてきました。
3日目は今里から大阪港に出ました。天保山は新しい大阪だと聞いていましたが、私は昨年の春、別府から船に乗って朝焼けの大阪に到着して以来です。その時は、早々に地下鉄に乗って市街へ出てしまったので、天保山は車窓から見ただけ。ジンベイ鮫が2匹もいる海遊館に行きました。大きな(5階建てか? 4階建てか?)がまるごと巨大水槽になっている水族館にびっくり。
この道程は法政大学のゼミ生諸君が一緒だったのですが、その中のひとりが
「先生、これはなんですか?」
と質問した先を見れば、岡本太郎作「太陽の塔」の模型がありました。1970年の大阪万国博覧会のシンボルだった太陽の塔は、今でも千里に行けば立っているはずです。 989.jpg
988 20100829 もうひとつカンボジアのすいか 西瓜の写真を送ってくれたのは、法政大学の留学生セタリンさんだそうです。
朝、晩はようやく涼しくなってきました。ここのところ、夜になるときれいに澄んだ月が出てきます。昨晩は少し遅い時刻に兄ちゃんがやってきたので、二人で晩御飯を食べに出かけました。ブラジル料理。焼きたてのお肉が10種類出てくるというワイルドなお料理。
丘の上の花屋さんのお店が閉まったままになったのは7月頃でした。シャッターがなくって、ネットで店先を覆っただけなので、店の中の花が枯れて行くのを通りかかるたびに、不思議に思ってました。しばらくすると「当分お休みさせてもらいます」の張り紙が。枯れた花は片付けられていました。そのまま、8月になり、昨夜も兄ちゃんとご飯を食べたあとで、お店の前を通りかかりましたが、がらんとした店に残っていたサボテンや観葉植物の植木鉢もかさかさに乾きだしていました。花屋さんのご主人が病気でもしているんじゃないかしら?と覗き込む店の中に、月の光が差し込んでいました。 988.jpg
987 20100828 自家製電子書籍 知り合いでのデザイナーのところで性能が良くなったスキャナーを見せてもらったのは5月のことでした。事務所にはコピー機がなく、全てスキャンしてPCから出力しているとのことでした。
「ふつうの本も表紙をとって、読み込めば、データにして置くことができますよ」
と教えてもらいました。そんなこと、本を作っている人が聞いたら怒るねえと、その時は笑っていました。
文芸家協会の理事会で、書籍をデータに読み込む作業を請け負う会社があって、著作権から考えると問題があるという話を聞いたのは7月でした。で、これは協会から抗議をしたことが後で新聞記事になってました。自宅やら研究室やらが本であふれかえっているなんて人は「そんな会社があったら頼みたいなあ」とぼやくのも、むりからぬところはあるんだけどと、苦笑い。
実際、本をばらして自家製電子書籍にしていますと、これは、知り合いの某先生。ご自分の研究の専門書から愛読の漫画まで、順次、自家製電子書籍化しているそうです。「へえ」と画面を覗き込みながら、私の頭に浮かんだのは、いったいこの夏の間に何冊の本が、ばらばらに解体されて、電子データになっちゃったのかしら?ということでした。東京で、日本中で、世界中でと、考えてみるとそら恐ろしくなるくらいのたくさんの本が、ばらばらになって、紙くずになって、燃やされたり、埋め立ての材料になったり、想像してみるとすごいなあと、びっくりしたしだいです。
986 20100826 子どもと老人 そのほか もろもろ 近代的な個人。そういう硬い言葉で言っていいならば、近代的な個人と言うと、たいていは成人した男性を意味をしていることが多いなあと感じたのは、20歳くらいの時でした。女性は大人でも入っていないの。で、その女性の自立というテーマでエッセイなどを頼まれるたびに、近代的な個人というのは成人した男性がモデルになって組み立てられている観念だなあと感じていました。女の人は、実際は成人した男性と老人、子どもの間に立って大忙しで、どっちの面倒もみなくちゃいけないのに(肝っ玉母さんというテレビの人気番組がありました)保護されている存在ということになっていて、その辺の矛盾をほんとう言ってどう考えたらいいのか解りませんでした。
小さな子どもの虐待死とか、行方不明の高齢老人とかが出ても、もう昔の家族主義を唱える人がいないのは、後戻りできないところまで来ていることを、おおかたの人が知っているからでしょう。それで、社会保障という話になるのですけれども、社会保障が整備された国って例えば北欧などをすぐに思い出すのですけれども、そういう国の宗教とか信仰ってどうなっているのかしら?もっと率直に言えば、みんな、教会に通っているのかしら? 北欧の映画で、ほとんどの人がどこかの教会に通っている場面を見たことがあるような気がしています。
社会保障って、そういう信仰と両輪になっているのではないでしょうか? 信仰が同じ人、もっと日常的に言えば同じ教会に通っている人どうしの繋がりがあって、初めて世俗的な社会保障が機能するんじゃないかと、このごろ、考えています。
そういう研究って誰か、している人がいるのかしら? なんか学問の世界にも管轄みたいなものがあって、管轄が違うと、誰の目にも明らかなことが、ちっとも調べられていないってことがあります。と言うか、宗教と社会保障の相互補完関係って言う視点の言論すら聞いたことがないような気がします。
伊藤さん、お連れ合い様 無事ご退院おめでとうございます。アメリカの病院ってすぐ患者を退院させるのね。びっくりしました。お大事に。
田原総一朗ノンフィクション賞佳作の「にくのひと」の上映会に、出かけていったら、なんと賞の受賞者、満若監督自身が「スタッフ」のカードを首から提げて暑い中でお客さんの誘導をしていました。思わず「ありゃま!」って笑っちゃいました。好青年です。
実は司会をするはずの二木さんが欠席で、前の晩に、突然、司会をお願いしますって、事務局から連絡がありました。私は都内某所で「涼しい顔で下界を見下ろす会」の最中。ただの飲み会です。高層ビルの最上階から東京湾を見下ろしてワインを飲んでいました。
で、司会って大丈夫かいな!? という具合にトークを始めたので、開場を見る余裕なし。ニコニコ動画のカメラも無視。そろそろ終わるぞって頃に、ちらりと会場を見たら、なんと、私の助手の深野女史がちゃっかり彼氏と座っているではありませんか。気がつくのが遅くって良かった。早くに気づいていたら、しっちゃかめっちゃかになっていたところでした。
985 20100823 カンボジアのスイカと瓜 2 カンボジアのスイカ細工です。このほかにもいろいろ。ゴッホの絵をスイカに刻んだものなども、勝又さんから送ってもらった写真にはありました。
壺井栄の「二十四の瞳」には、かぼちゃの提灯を作る場面がありました。主人公の大石先生が、自分の子どもを亡くしたときの場面です。戦争末期のことで、食料不足なのですけど、大石先生は「かぼちゃは子どもが遊ぶものだった」と言って、死んだ子の枕元に備えられていたかぼちゃに包丁を入れるのです。そして、かぼちゃに目と口をつけ、中身を刳り貫き、火を点して提灯にするという場面があります。大石先生の怒りが現れている場面ですが、壺井栄が描く「怒り」は切ない「怒り」でした。この場面を最初に読んだ時の、胸に包丁を突きつけられたような感じと言うのは、時間が過ぎても消えません。
昨日、法政の尾谷先生からiパッドを見せてもらいました。へぇと感心したのは「トイストーリー」の宣伝版。アニメーションの画像を触ると、動いたり、音が出たりしますし、英文を音声で読み上げながら、読んでいる単語の色が変わったりします。電子デバイス用の表現が出てくるだろうとは、前々から思っていたのですけれども、もう、ちゃんと、そういうものが出てきているのですね。これで、漢文の素読をやってくれるものができないかしら?語学には便利な道具だし、漢文の訓読文みたいなものは音で聞きたいから、そういうものがあるといいなあと、尾谷先生とお話しました。
あと、尾谷先生が写真や動画の整理にiパッドを使っているのも見せてもらいました。これもいいなあと思った機能。PCで整理するよりも、iパッドのほうが気分的によさそうでした。前々から、なんでもかんでもパソコンで処理するのではなくって、道具を分けたいと思っていましたから。
息子と息子の彼女(こういう言い方でいいのかな?どうも適切な言い方が思いつかない)と3人で銀座を散歩したのは今月の初めでした。その時、初めてiパッドに触りました。銀座3丁目のアップルショップを覗きたいと息子たちが言うので、つきあったのですけど、ズームインしたりズームアップすることができる地図があって「これはいいなあ」と思いました。ちょっとづつ、電子デバイスが、私のほうへ近づいて来ているって感じです。 985.jpg
984 20100821 カンボジアのスイカと瓜 1 勝又浩さんから、カンボジアのお祭りで使われるスイカや瓜の細工の写真を送ってもらいました。 984.jpg
983 20100819 また工事。 こんどはマンションの大規模修繕です。外側に足場を組んで、外壁の塗り替え、ベランダの床の塗装する、ほかいろいろ。息子が小学校低学年のときに近所の人と散歩に行って買ってもらってきた桜の木も移動させなくちゃいけないのですけど、どうしたらいいんだろう?
ベランダで大きく育っているのです。やっぱり枝を切るしかないのかな?
講談社文芸文庫から出る「女ともだち」のゲラを見ています。それから河出書房新社から評論集を出すことになっています。評論集は当初の計画通りだと、2段組にして800ページになりそうなので、300ページほど削ることにしました。今朝、ゲラが届きました。昨日、河出書房新社に行って打ち合わせをしましたが、持って帰ると熱中症になりそうだったから、宅急便で送ってもらいました。
今朝から、足場を組む工事の音が聞こえてきます。
このごろ、ゆっくりとしか物事をやれなくなっています。それから、物を捨てる決断が遅くなっています。時々、物があふれかえったゴミ屋敷が話題になりますけれども、ああいうゴミ屋敷ができる理由がわかる気がしてきました。元気で落ち着いていないと物を捨てることができないのです。そういうことが解っているから、まあ、それほど焦りもしないでいるのですが、ちょっとペースを上げないと、いけないかもしれないなあと、やや矛盾したのんびりモード。
そんなわけで、今年後半は工事と家の片付けと、ゲラの手入れで、終わりそうです。大規模修繕は12月初旬まで続くということでした。去年みたいに家の中へ工事が入るわけではないので、ま、家の中も少しは片付くでしょう。
982 20100818 九州の列車 東京は「Suica」大阪は「ICOCA」九州は「SUGOCA」だったけ? ICカードの名前がJRの地区ごとに違うのに、ちょっと笑えます。
ソニック特急に乗ったのは、二度目です。福岡の別府(べふ)と大分の別府(べっぷ)を勘違いして熊本文学隊の皆さんを大騒ぎさせて以来です。ソニック特急のインテリアは未来的といったらいいのか、車体が小さく感じられるわけに窓が大きく開き、座席は人間の背中に合わせた形をしています。つまり外の景色がよく見える設計になっているようです。
小倉は「楽隊のうさぎ」の取材で出かけて以来だったと書きましたが、その時は旦過市場には行ってません。けれども、再開発された小倉駅よりも、変わらない旦過市場のほうが、なんとなく記憶にある小倉に近い感じがしました。東アジア文学フォーラムの北九州市での打ち合わせを終えて、旦過市場で島田雅彦さんたちと昼ご飯を食べました。島田さんはカクウチがお気に入りで、ちょっと立ち寄ろうかという話も出ました。それは今度にと言うことで、お昼ご飯を食べてから、旦過市場で買い物をしました。なんと言ってもお魚が安い。それはそれは魅力的です。が、私はそれから由布院に回る予定だったので、お魚には手が出せません。でも何か買いたいというので、大きな苦瓜を買い、スーツケースに詰めました。
「たいへん安上がりな購買欲の満たし方だ」
というのは島田さんの台詞。道楽の買物に経済学風な解説をつけるところが、島田さんらしい。島田雅彦さんが何を買ったのか思い出せないんですが、魚屋の買物で、きっとその日のうちに東京へ戻って、得意のお料理をしているのでしょう。
北九州空港までバスに乗るという島田さんに、新しくなった小倉駅まで送ってもらいました。小倉駅で
「じゃあね」
と別れてから、ソニック特急で大分へ。関門海峡から豊後灘へ、海の景色をキレギレに眺めながらの列車の旅でした。小倉では、あれほどかんかん照りだったのに宇佐のあたりで猛烈な雨に降られました。大分で、由布院に行くために乗り換えた電車は、かわいらしい赤の電車。私が乗車した時は2両編成でしたが、時には1両で走ることもあるようでした。小さくて真っ赤な電車で、阿蘇に続く山々の間へ分け入って行くのはなかなか心地良いものでした。 982.jpg
981 20100815 4年分の紙類と格闘しています。 豆蔵君、そうか伊藤さんの豆畑支所を作った記念メルマガ以来なのね。それが06年。なるほどねえ、じゃあ、今度はツイッター開始記念になるのかしら? あ、そうじゃなくって、メールフォーム故障記念かしら?
いずれにしても今年のうちには、お家の中は片付かないんじゃないかという気がしてきました。
だめじゃ、こりゃ。
木曜日に紙バッグを持って家を出て、郵便局でお金を振り込み、地下鉄に乗って、飯田橋で降り、雨が降っていたから薬局で傘を買いました。それから理科大裏のお菓子屋さんまで歩いて、マシュマロとオレンジ入りのケーキを買い、とことこ、法政大学まで歩き、入り口のコンビニでカップ焼きそば(これがモーレツに食べたかったの)とフライドチキンを買って、研究室に入ったところで「あっ」と気づきました。
紙バッグがない、どうしよう。
で、コンビニに忘れたかもしれないと、室内スリッパのまま、急行。
「紙バッグのお忘れ物はありません」
はあ、そうですかとばかりに、もしかしたら、土手の上で煙草を吸ったときに忘れたかもしれないと、土手に戻ってみました。ただ、煙草を吸ったかどうかの記憶があやしい。で、土手の上の喫煙所にも紙バッグはなし。
紙バックの中身は日芸で開催された「同人雑誌の変遷」展の図録と、自宅の机の上に散乱していた紙類をクリアファイルにまとめたもので、一般的な意味で価値のあるものは入っていません。だから持ち去られたという心配はなし。
ここに無いなら次は理科大裏のお菓子屋さんか? と、お堀の向こうの理科大がやけに遠く見えるのがうらめしい。アグネスホテルのパティシエの作るお菓子を売っている店で、ここのマシュマロが大好き。紙の山が散乱しているのは自宅の机の上だけじゃなくって、研究室も同じで、マシュマロを餌にそれを片付けるつもりだったのです。ま、馬の鼻面に人参をぶる下げるみたいなものですね。理科大裏まで歩こうかどうか、思案していたところへ、コバフミちゃんこと近世の小林先生。胸にシャーリングが入ったサマードレスで現れました。
「あら、中沢先生」
二人で手に手をとって小学生みたいにぴょんぴょん。
「小林先生、夏休みモードですね」
「中沢先生も」
私はピンクのランニングでした。これですっかり足元は室内スリッパだということを忘れて、ともかくも薬局までは行ってみようという気になりだすと、今度は、助手の深野女史が土手を歩いてきました。
なんだかブレーメンの音楽隊みたいな展開。深野女史に「これこれ、うんぬん」と話すと
「じゃあ、先生、きっと薬局ですよ」
とてきとうな返事。で、薬局に行きました。紙袋はありません。なぜか、ここまで来たのに理科大裏のお菓子屋さんには電話で問い合わせることにして、深野女史と法政へ引き返しました。今度は土手の上で日本音楽史のネルソン先生とばったり。もうすぐ、オーストラリアにお帰りだとのこと。
「気をつけてお帰りください」
とご挨拶して、研究室に戻ってきました。で、お菓子屋さんに電話。1個90円のマシュマロを20個も買ったんだから覚えていてくれました。でも紙袋はありません。あとは郵便局。こっちも電話しました。紙袋はないというお返事。
「じゃあ、先生、ぜったい紙袋は地下鉄ですよ。それじゃなければ、お家に置いたままか」
深野女史が言うのです。
「うちだといいんだけど。」
「東京メトロに電話かけてみますか?」
「そうねえ」
なんとなく気が進まないのは、地下鉄に乗っていた時の記憶がきれいさっぱり抜けているからでした。いろいろ聞かれても、どこに乗っていたのか、ぜんぜん思い出せません。時々、そういう空白の時間があるのです。それが嫌なの。
「なんか東京メトロに電話するの嫌だ」
「先生、わがままなんだから」
と深野女史が電話をしてくれましたが、これがさっぱり通じません。お話中のまま営業時間が終わってしまいました。
夜になって娘から電話がありました。
「家の玄関の前に蝉が伸びていて、ばたばたやっているので怖くて家に入れない」
という電話でした。難儀な娘じゃと「蝉は怖くないよ。弱っているだけだから」となだめすかして、家に入ってもらいました。そして、蝉をなんとかよけて家に入った娘に私の部屋を見てもらいましたが
「ざっと見たけど、紙袋はないよ」
という返事でした。
で、なぜか、土曜日になって急に呼ばれたような気がして東京メトロに電話してみました。すると、すぐに電話がつながって「紙袋の忘れ物ありますよ」というお返事が返ってきました。すぐに上野駅に忘れ物の紙袋をとりに行きました。東京メトロの本社って上野駅にあるのを初めて知りました。
不忍の池では、蓮の花がたくさんに咲いていました。そうだ、いつだったか寒い冬の日に、まだ赤ん坊の息子を背負って、母とこの池の中の道を弁天様の方向へ歩いたなと、24、5年前のことが頭を過ぎりました。桜の花が咲き出して、あれよあれよという間に上野の山いっぱいが桜色に染まった日に、運よくめぐり合って、やはり忍ばすの池の中の道を歩いたのは06年の春だったような気がします。その日、会社をサボっているらしい新入社員とその先輩格のサラリーマンがボートを漕いでいました。あの二人のサラリーマンは今でも同じ会社に勤めているのでしょうか?
紙袋の長い長い旅でした。 981.jpg
980 20100814 固まっていた時間が溶け出す 4年ぶりにメルマガ出しました。ずっと出せなくってすみません。私自身、4年ぶりと聞いて驚いています。
4年前と言うと07年かな?
07年は8月に静岡新聞で「おたあジュリア異聞」の連載を始めました。ここらあたりから、かなりタイトなスケジュールで動き始めていたわけで。
08年に入って小川国夫さんが亡くなられたのが4月のこと。「大人になるヒント」のために大忙しになって9月に本を出しました。10月にはソウルで東アジア文学フォーラムに参加。11月にはなんとか「おたあジュリア異聞」の終わりが見えてきたかなと思っていたところ、激烈な歯痛に襲われてダウン。これが心筋梗塞の前兆とは、この時は気づかず。
09年1月にイギリス旅行の予約をとりました。ともかく連載が終わったら遠いところに行きたいという心境になっていました。
1月16日に心筋梗塞。どうも遠いところが、ちょっと違う方向だったみたい。
救急車で順天堂病院に運び込まれてカテーテル手術。糖尿病の治療と合わせて12日、入院。以来、毎月、糖尿病の先生のところへ行き、2ヶ月に一度、循環器内科の先生のところへ通うことになりました。
退院して、卒業制作面接と入学試験採点。2月になんとか静岡新聞「おたあジュリア異聞」の連載を終わらせることができました。そうそう、退院して来たら、マンションの管理組合から給湯菅と給水菅の取替え工事の予定があると告げられ面食らって、宮崎学さんからは田原総一朗ノンフィクション賞の選考に加わるように言われて「おもしろそうだけど、心臓には悪そう」と思いつつ「イエス」の返事。
3月にはかねてのお約束どおりに、熊本文学隊の皆さんのところへ出かけました。
4月にHP「豆畑の友」をリフォーム。
5月に給湯管、給水管の取替え工事のため、家の廊下、風呂場、トイレ、台所と水周りの壁や床を壊しての大工事。これで壁と床を壊したので、その延長で居間と廊下のリフォーム工事をやることにしました。
7月、大学の前期終了。「わぁい、終わった、終わった」とばかり飛行機に飛び乗ってロンドンへ。イギリスのコーンウォール半島を旅行してきました。
姜英淑さんにはこの時のことをおたよりしようとしてまだ書けていません。
8月は、心臓の検査のために順天堂へ再入院。3日ほどの入院で、再びカテーテルを入れました。
9月は、白内障の手術。御茶ノ水の井上眼科で日帰り手術。10月には例年のとおり新沖縄文学賞選考のために那覇へ。家の居間と廊下のリフォーム工事をしたのも10月でした。で、そのリフォーム工事のあと、なぜか、荷物が元へ戻らず、散乱状態で現在に至る。
11月は田原総一朗ノンフィクション賞の選考会と授賞式。糖尿病のインスリン注射を服用薬に変えることができたのも11月だったと思います。注射ではなく飲み薬になって、めでたしめでたしと09年が終わりました。
目の前の障害(仕事)を、少し先の娯楽を目当てに次々と飛び越して行くというような感じの09年でした。10年に入って法政大学の学生諸君と「法政文芸」6号の編集作業を本格化させたのですけど、正直言って、今回は不安でした。何が不安って、雑誌の編集作業を進めるときには、時間の見通しを立てながら、全体の進行させ、同時に変更する事項が出てきた場合に臨機応変に対応する必要があるのですが、そうした時間の流れの感覚をうまく捕まえることが、今の自分にはできないんじゃないかという不安を抱えていました。
編集作業の進行を見ていてくれた藤村先生も冷や冷やなさったようです。「最後はするっとまるっと収めてくれると思ってました」と言って下さったのですが、するっとまるっと収まったのは一重に法政文芸編集委員の学生諸君のおかげです。
ここ3、4年の時間の流れの感覚をあえていえばカードはめくっているような感じです。流れにならないの。1枚、1枚、めくったカードをぽいぽいと後ろに捨てているようなもので、3枚先には「楽しい事」や「おもしろい事」が待っているぞ!とは感じても、後ろを振り向けばカードが時系列を無視してばらばらに散乱しているという状態でした。そして、散乱したカードがぐちゃぐちゃに固まってしまって何がなんだか解らなくなってしまっていました。こうして人は自分が年をとって行くことを忘れちゃうんだなあと呆れました。毎日が反復した連続でしかなくなり、緩やかな曲線と言ったらいいのか音楽的な起承転結のある流れを失うみたいです。音楽の言葉で言えば、メロディーが失われ、ハーモニーは他の人たちとの関係でようやく保たれていても、乱調になり、リズムだけがやけに際立つという事態。
メルマガを出そうということになったきっかけはメールフォームの故障でしたが、なんとかメルマガが出せたので、ぐちゃぐちゃになった時間がちょっと溶け出してくれたので、ほっとしました。
ところで豆蔵君、この前、メルマガを出したのはいつだったの?教えて下さい。
※ 2006年7月31日となっています。伊藤製作所が出来た記念で出したようです。どうやら。(豆)
979 20100813 ERって(冷や汗) こんにちは。伊藤さん、ERってそれは重篤じゃないですか。ほんとうに、次々のご苦労。どうぞ伊藤さん自身が疲れないようにして下さい。
昨日の「ややや」は、伊藤さん流に言えば、吉行淳之介に「やややの話」っていうエッセイ集があって、そこからお声をおかりしました。新聞などを開いて「ややや」と驚く感触を言っているのです。「あれっ」というぐらいの軽い驚きから、今の言葉で言えば驚いて「ヒイチャウ」ぐらいのやつ、それから冷や汗が出るような驚き、その他、いろんな種類の驚きを「ややや」と表現したものです。吉行淳之介の「やややの話」が出た頃にはもう少し古風な表現になっていました。
お問い合せのメールフォームが不通になっていました。すみません。何人かの方からお知らせをいただいて気がつき、昨日、豆蔵君に修理してもらいました。ご迷惑をおかけした皆様、たいへん申し訳ありませんでした。
それで、ものすごく久しぶりにメルマガを出そうということになりました。
さらにツイッターを利用すればお問い合わせフォームの不通などにも対応しやすいのではないかということで、ツイッターにも入りました。
ツイッター:中沢けい
以上、お知らせです。
伊藤さんくれぐれも無理をなさらずに、お過ごし下さい。どうぞ、どうぞ、お大事に。物事に感じやすい人はそれだけで、疲れ易いのですから。
978 20100812 ややや! 伊藤さん、それで、お連れ合い様は、いかがしましたか? 大丈夫? ともかくお大事にして下さい。
977 20100811 いやあ、伊藤さん、御元気でなにより 伊藤さん、御元気でなによりです。なに、なに。明治5年の聖書。「聖書は申す」って。申すってところがすごいなあ。
今日、初めてiPadなるものに銀座のアップルストアで触りました。予想よりもずっと触り心地は良かった。地図を見たんだけど。ぱらってめくれる感じが画面とは思えないほど実感があった。
あ〜、ほんとのことを言うと病気をしてからね、遊んで歩くのが楽しくって仕方がない。5歳児の頃に、遊び歩いて日が暮れて、お母さんに叱られてから、なんで日が暮れているんだろう? って驚いたような心境と似たり寄ったりになっていて、はて、さて、どうしたものだろうかしら?
ええと話は戻るのだけど、一昨年の春に福岡の別府(べふ)と大分の別府(べっぷ)を間違えて(ありえない間違いじゃ!)熊本の皆さんを大騒ぎさせた時、特急で小倉を通っているのですけど、その時は小倉の駅舎が新しくなっていることに気づきませんでした。
「楽隊のうさぎ」の取材で小倉に行ったのは、1997年だから、もう13年前。お城が立派な町だという印象が残っています。1978年の年末には戸畑へNHKの番組で、自殺した中学生の女の子を取材に行きました。たぶん、この取材の時、はじめて飛行機という物に乗ったんじゃなかったかしら? 東京から福岡まで。番組の宣伝用に若戸大橋で撮影した写真が残っています。
今度は門司港から船に乗って、八幡製鉄所や若戸大橋を海側から眺めてきました。工場って、すごく不思議な印象をもたらすんだけど、これが言葉でうまく言えないのがもどかしい。100年以上も鉄を作り続けている工場ってのは、真っ赤に赤錆に染まっていて、なんだか溶鉱炉の魂があるって感じがしました。
あと、巌流島ってこんなところにあったんだと、感心。それから平たい藍島というのがあって、なぜかこの藍島に行ってみたくなりました。平たい島の姿が気に入ったの。鮑がとれると聞くとますます、藍島へ行きたくなりました。あのあたりは山口県の下関と福岡県の北九州市の島が入り組んで点在している海域でした。
歴史の教科書で、馬関戦争ってのが出てきて、長州はイギリスから砲撃されましたって書いてあったけど、門司から海に出てみると、関門海峡はほんとに狭くって、きっと長州が砲撃される様子は、門司からよく見えたに違いないのです。門司の人々、それから小倉のお城の侍たちは、その砲撃をどんな気持ちで眺めていたのかしら? 気になりました。
島は好きで、大分空港でも、山口の祝島が、瀬戸内の吉野と言われているのを知って、行ってみたくなったのですけど、実はひどい船酔いの癖を持ってます。今回も門司から小倉まで船で移動する間にちょっとだけ外洋にでると聞いてので、酔い止めの薬をもらって飲んでいました。響灘へ出ると、船底に当たる波の感触が急に硬くなるのが解りました。
こりゃ、たまらんと、デッキから船室に戻りましたが、その昔、海を渡ってきた坊さんや宣教師は波に揺られるのは平気だったのかしら?
ありゃ? 伊藤さん、明治5年ってまだキリスト教は禁教令がとかれていなかったんじゃないかしら? 違う?
976 20100810 年金と相続税 角りわ子さんがソウルで展覧会を開いたらたいそうおもしろかったそうで、パリでの展覧会の話も聞いた。次はニュー・ヨークで個展を開きたいと言っていた。姜英淑さんは、アイオワ大学で、今度、直木賞をとった中島京子さんと知り合ったとメールに書いてきてくれた。世界はだんだん狭くなっているような気もする。
で、角さんと晩御飯を食べたときの話題は111歳のミイラになったお爺さんの話。気が弱くって、ご飯のときにミイラの話をするだけでも、ちょっと怖くなるって行ったら「ほんとに?」と呆れられた。長生きのはずのお祖父さんがほんとうは30年前に死んでいたのを、家に中にそのままにしていたという事件は韓国でも大々的に報道されたそうだ。
「あれって年金が目的じゃなくって、相続がこじれたか、相続税が払えなかったかじゃないのかしら」
角さんにそう言ってみた。
「そうかもしれない」
「だってさ」
気持ち悪いと言いながら、どんどん想像にのめり込む私。30年前って言えば、新聞には年中、長男の嫁だという人が、年寄りを看取ったのに、相続の権利はないって悩みが載っていた頃だ。気の毒な人になると、結婚してすぐに夫は戦死して、それからずっと婚家の親の面倒を見たのに、財産相続からは外されたって人もいた。
「明治生まれの両親に、大正末から昭和の初め生まれの子どもってのが30年前の親子でしょ」
それで、法律は終戦後にアメリカが持ち込んだ税制で出来ていて、アメリカ本国よりもずっと革新的な形態になっているから、へんてこなことが起きるわけと、一度回り出した頭はどんどん回る。年金受け取りが目的じゃなくって、相続が問題だったと考えると、報道されていることの辻褄が合ってくる。
「それ、小説に書いたらいいのに」
「水上勉の飢餓海峡みたいなやつ?」
「そうそう」
「ううん。そういうのあんまりうまくないから
「桐野夏生さんだった書けるかしら」
「うん。たぶん。たぶん。思いっきり怖いのが書けると思う。私だと、気の弱い息子が、相続のけりがつけられずに、のびのびにしているうちに言い出せなくなったとか、頑固なお祖父さんが武田信玄ばりに、死して三年はこれを明かすなと遺言したとか、なんだ、間抜けな話になっちゃいそうな気がする」
なんて話になっちゃいました。
同じ事件の話題を別の人ともしたのだけれども、それも思い出してみるとご飯のときでしたが、その時は、頭の中にそんなふうに、明治、大正、昭和という具合に時間がくっきりと線を描きませんでした。角さんのペースというか、身体に蓄えている時間間隔が、年金じゃなくって相続だって言う想像を私から引き出したみたいです。だから、会話っておもしろい。
相続税については、大阪のタクシーの運転手さんから「お屋敷がみんな細かい家やマンションになってます、相続税がよう払えんから」と言う話を聞いたこともあります。それから、住宅地の乱開発も、もとはと言えば相続税の支払いのために土地が売り払われるからだとも聞きました。画家の遺族が、相続税のために絵を売って市場価値を下げるよりも燃やしたほうがマシだって言って実際、絵を燃やしちゃったという話も聞きました。
975 20100809 月日は飛ぶように去る 7月半ばから、さあ、夏休みだぞってわけで、次から次へいろんな人に会って話をしたり、あっちへいったりこっちへ行ったりです。12月の東アジア文学フォーラムのために北九州へも行ってきました。それで、熊本から東京へ来ていた伊藤さんとは、どこか、空の上か、地上か、わからないけれども、すれ違ったらしいのも、伊藤さんのコラムを読んでいたら解りました。
北九州は30年前に戸畑へNHKの取材で出かけたのが最初。それから、小倉と門司へ「楽隊のうさぎ」の取材で行ったのは、もう12、3年前になるのには、ちょっと「そんなになるんだ!」という驚きでした。北九州の帰りに、湯布院へ。湯布院から別府へ戻って竹細工を見てきました。大分県は竹の産地で、エジソンが電球のフィラメントに使ったのも大分産の竹だそうです。
北九州から戻って法政大学の富士見校舎で日本編集者学会の定期セミナーで元講談社の徳島高義さんにお話をしてもらいました。それから法政文芸6号の打ち上げ。
そうそう、家には姜英淑さんからお手紙が届いていました。急ぎお返事を差し上げたのですけど、イギリス旅行の話を「豆畑の友」に書くといいながら、もう1年。ほんとうに月日は飛ぶように過ぎ去って行きます。陶芸家の角りわ子さんから小田急デパートで個展を開きますって葉書が来ていたので、渋谷のオーチャードホールで佐渡裕指揮の「キャンデード」を見た帰りで、小田急へ出かけて行くとなぜか司修さんが個展を開いていました。
私は「?」という感じ。
「ほんと偶然なの」
と角りわ子さん。デパートが仕舞ってから、ご飯を一緒に食べました。そんな具合に月日は飛ぶように去って行くのです。角りわ子さんと話したのは、都内最高齢の男性が30年前に死亡していたという事件。
「あれって年金が問題じゃないよねえ」
って。この話はまた明日。
974 20100710 家庭の秘密 今住んでいる家を買った時、記念に買った洋食器のセットがあります。和食器はいろんな食器を組み合わせて使いますけれども、洋食器は同じセットでそろえると立派に見えるという理由。もっとも、この食器セットは食器棚の中でややお邪魔な存在。お正月にしか使わないのです。が、ティーセットは例外。
ポットとカップ、それに、シュガーポット、ミルク入れなどのセット。それからケーキ皿。これは時たま、使うことがあります。で、問題はそれが時たまだったこと。ある日、ポットの蓋を開けたら黴の匂いが。
これは良く乾かさずに戸棚にしまったせいだと、良く洗ってから乾かしておきました。でも、黴の匂いは以前として消えません。ま、そのうち匂いも消えるだろうと楽観的予想で、何度か使用しました。
ちなみに娘は紅茶を飲むなり、眉をしかめ、匂いには言及せず、紅茶そのものを無視。息子は「なんだか、この紅茶は古くない?」と疑問を呈しました。で、私はポットのせいだとは言わずに「古いかもね」と曖昧な返事をしました。
なぜ黴の匂いが抜けないのか、深く追求することもなく、ポットを洗ってはよく乾かして戸棚に仕舞うを繰り返していて、ある日、漂白剤を使うことを思いつきました。茶渋はキッチンハイターを使うとよく落ちるのです。漂白剤を使ったら、黴臭さは抜けるかしらと、じばし漬け置きしておきました。
ポットはみるみるうちに白くなります。が、なぜか、ポットの内側の注ぎ口の穴だけは黒っぽいまま。
それで楊枝で、ポットの内側から注ぎ口の穴を突っついてみたんです。どうしたわけが楊枝が穴の中に入ってきません。
「ありゃ?」
なにか詰まっているのかしら?とさらに突っついてみました。へたに力を入れると、穴そのものの周囲を割ってしまいかねないので、恐る恐る突っつくこと、しばし。黒っぽい汁が流れ出しました。
「小さなブラシがあったはずだ!」
昨年の年末に小さなブラシのセットを買ったのです。試験管洗いの形のブラシが、ひとつのリングに極小、小、中、大、特大と5本そろっているブラシセットで、何かの役に立つかもしれないと買ったものでした。
極小で、そっと穴を突っついてみると、またまた黒い汁が流れ出すのです。極小ブラシがさらに突っついていると、すぽっと、耳くそくらいの黒い塊が流れてきました。どうやら、注ぎ口の底の部分にたくさんの紅茶の屑が詰まっているらしいということが、理解できてきました。これが、どうやら黴臭さの本体だったようです。
もう、それからは極小ブラシで、注ぎ口の複数の穴をひとつひとつ掃除して行きました。すると、出てくるわ出てくるわ、驚くに値するほどの黒い塊が流れ出してくるのです。極小ブラシを小のブラシに変えてもまだまだ黒い塊が、しかも、初期のやつよりも、やや大きめの断片が流れだしてくるのです。あきれるくらいにたくさんの紅茶葉の屑が詰まっていたのでした。
これは絶対、息子にも娘にも言えない秘密です。我が家の重大な秘密です。もし、この秘密がばれたら、引越し記念のポットは御はらい箱にされてしまいます。
でも、もう黴臭くはないんだから、そう言ってもきっと大ブーイングが巻き起こることは間違いありません。
973 20100704 選挙サンデー バーゲンセールのはがきにつられてふらふらと有楽町へ。有楽町の駅前は、丸井が出来てから、すっかり明るくなりました。電車の高架下だけの一画は昔のまま。いつも行く中華料理屋さんは、その一画にあります。昭和30年代からあるんじゃないかしら?
扉を開けると一階はいっぱいで「お二階にどうぞ!」と、中国語のイントネーションが残る日本語で案内されました。ずっと昔は日本人がやっていた店だったのだけど、いつの間にか中国人のお店になっています。で、階段をがたがた言わせて2階へ。この階段ががたがたする感じが、なんか、昔って感じがします。
2階へ上がると、丸井の前で、誰やら甲高い声で演説中。甲高いとがった声です。街宣車には「八代英太」の文字。しかし、八代英太とは違う話手のような気がしました。例によって堅焼きそばを注文。こういうお店で働いている中国人の女性が、年々歳々におしゃれになっている気がします。それから街を行く人も、けっこうおしゃれ。日曜日はとくに、母娘でおしゃれをしている二人が目につきます。あと、日曜日の若い男の人はすごくおしゃれです。街宣車の周囲もそんな人たちが集まっていました。
すると、なぜか鋭い声で演説をしていた男性が、歌を歌いだしたのです。これが、アカペラなのに、うまい!
「あ、歌いだした」と言って、焼きそばを運んで来た店の人が窓を開けました。いやによく通る声です。「いったい誰だ?」と首をかしげていると「松山千春さん、どうもありがとうございました」って声が。この声はもしかすると鈴木宗男議員ではないでしょうか? 続いて「北海道から出てきたかいがありました」とこれはどうやら歌の主らしいのですが、歌うときと、話すときでは、声が違いすぎ!
「選挙?」
注文とり以外はあまり日本語がうまくないらしい女性が、仕草を交えてそう聞くので
「そうそう」
「朝からずっと、誰か来てますね」
と街宣車がいた交通会館の前をさしました。丸井が出来たときに、ガードをくぐる道路を一本塞いで歩道にしてしまったので、選挙演説をするにはちょうど良い広場になっているのです。
「選挙、あと、何日ですか?」
と聞かれたので
「あと1週間です」
と答えると
「じゃあ、まだ、毎日、いろんな人、来ますね。有名な人来るね」
と笑っていました。演説にはそう興味はなさそうでしたけど、歌を耳にした時には、心底うれしそうな顔をした中国人の店員さんでした。
971 20100702 伊藤さん、たいへん。たいへん。 伊藤さん、原稿が消えちゃったみたいですね!私も「ブブゼラの音に起こされて」というタイトルで書いたコラムが一本消えちゃってました。はて、これはどうしたことでしょうか?
管理人の豆蔵さん、どうしたのか、わかりますか?
#わかりませんが、サーバに雷でも落ちたのかもしれません。こんなこともあろうかとバックアップを取っておいてよかったです。(偶然ですが・豆)
豆ちゃん どうもありがとう!そういえば、雷雨で電車が止まってました。たよるべきは、やっぱり管理人ね!
(中沢)
972 20100627 ブブゼラの音で目が覚めて 伊藤さん、御元気そうで何よりです。
うちがサッカー王国の埼玉なので、息子は小学生の時、サッカークラブに入ってました。で、娘も「お兄ちゃんが入るなら、あたしも入りたい」と。チームの監督のところへ女の子も入れるかどうか聞きに行ったことがあります。なんでも隣町のクラブには、ナショナルチームのジュニアクラスに入っている女の子がいるチームがあるとのことで、娘もサッカークラブに入てもらえる許可をもらいました。ところが、それやこれや交渉をしているうちに娘のほうが「サッカーって男の子だけじゃん、知らなかった」と言い出して、すっかりチームに入る気をなくしていました。娘はスイミングスクールにも通っていたから、サッカーが沙汰止みになってちょうど良かったのですけど。
Wカップの初戦、カメルーン戦は「法政文芸」の編集委員と、法政大学近くのカフェで見ていました。見るつもりじゃなくって、編集委員会の帰りにビールを飲んでいたら、突然、スクリーンが下りてきて中継が始まったのです。で、私の隣の山田君が
「あ、入った」
と叫びました。
「入ったじゃなくて、入れられたんだろう」
そんな感じで、なにげにスクリーンを見ると日本に1点入っているので「ううん?」。だってブラジル相手に歴史的1点を取ったという試合だった過去にはあったのですから。その日は「入った」の山田君と地下鉄のホームに降りて、顔を見合わせてしまいました。ホームに電車を待つ人が誰もいなかったのです。電車もすいていました。家に帰りついたのは、ロスタイムの時。テレビを見ていた娘とロスタイムの間じゅう、固唾を呑んでいました。
さて、二戦目。相手はオランダ。この日は大阪芸術大学の出講日。試合時間は帰りの新幹線の中のはず。いつも講師控え室でいっしょになる映像翻訳の男の先生は「今日はサッカーが見たいから、東京に帰らず、実家に帰ります」って笑ってました。
「オランダは強いよねえ」
と、二人でぼこぼこにされなきゃいいけど、と心配顔になってしまいました。
新幹線の中の電光掲示板に、絶望的な数字がでなければいいんだけどと、おそるおそる、時々、掲示板を見ていましたが、あの掲示板のニュースはそれほど速報ではなさそうで、サッカーの試合経過は流れていませんでした。そこで一念発起。今まで使ったことがなかったけれども、携帯電話をインターネットにつないでみると、なんと0−0で前半を折り返しているではありませんか!。東京駅に到着する前にもう一度、携帯で試合経過をみると0−1で負けてました。が、思わず「すごい!!!」
家に帰って、午前3時からの再放送で試合を見ました。けれども、なぜか1点入れられる場面だけ居眠りをしてしまい、目が覚めたら1点入っていました。
勝つか引き分けるかで決勝T進出が決まる第三戦のデンマーク戦。「あ、入った」の山田君と、午前3時からの中継を見るかどうかで、話をしました。山田君は電車の押し屋のアルバイトをしています。
日本が勝ったにしろ、負けるにしろ、試合終了時間と朝の出勤時間がぶつかりそう。
「始発電車って、ゲロ吐いてあることがあって、掃除するんですけど、明日はいつもよりもゲロが多そう」
そうか、そういう心配もあるのかと感心。家に帰ったら娘はもう寝ていました。前々から早く寝て、中継を見ると宣言していた娘です。なんでも娘の会社では、中継を見るために有給休暇をとった人もいるとのことでした。
午前3時半。ブブゼラの響きで目が覚めました。ちゃんと時間どおりに起き出した娘がデンマーク戦の中継を見ていました。どれ、どれ、と居間へ出て行くと、2点先制点を取っているではありませんか。ありゃ、びっくりと、そのまま、朝まで娘に付き合ってしまいました。3点目が入ったときは、二人で万歳。夜があけてました。娘はそのまま、会社へ。
夕刻、たまたま乗り合わせたタクシーの運転手さんとサッカーの話になり
「3点目は本田が岡崎に入れさせてやったんだなんて失礼なことを言うやつがいる」
と憤慨していたので「そうだ、そうだ」と同調。それで200円ほどタクシー代をおまけしてもらいました。
970 20100622 ロストクライム 3億円はどこへ行ったの? 角川映画の「ロストクライム 閃光」を試写会で見てきました。1968年の「3億円事件」を題材にした永瀬俊介の小説を映画化したものです。試写会のあとは、ジャーナリストの魚住昭さん大谷昭宏さんとのトークセッション。大谷さんは事件当時、読売入社1年目の新米記者で徳島の支局にいたそうです。魚住さんが共同通信へ入社したのは、「3億円事件」の時効の頃だったとお話していました。私は事件当時小学校3年生。
映画ではジャーナリスト宮本役の武田真治が異様になまめかしいのに驚きました。この映画を事前にご自宅でご覧になった魚住さんは「小学校4年生のこどもと一緒に見たので、エッチな場面が出てくると、画面を飛ばしました」と言ってましたが、試写会で見た私はエッチな場面よりも武田真治が出てくると、そのなまめかしさがちょっと怖くなりました。主演は刑事役の奥田英二、渡辺大の二人。3億円事件の主犯の父親役の夏八木勲の存在感もなかなか。でも、武田真治の非存在感と、怖いようななまめかしさについ目が行ってしまいました。
それで3億円事件ですが、あの事件では奪われたお金は一切使われてないということになっています。大谷さんもそう言ってました。映画の中では3億円は焼き払われたということになっています。このシーンはロマンチックな場面です。焼き払うという選択も、あの時代の全共闘の学生で、良い家のお坊ちゃんお嬢さんだったらあるかもしれないと、ある種の共感を持ちました。
ある種の共感というのは、「いったいあの3億円はどこにいっちゃったんだ?」というのが、私にとっては子どものときからの最大の謎というか、知りたくてたまらないことだからです。
お金に番号が振ってあるというのを3億円事件のときに、大人たちの話に聞き耳をたてて初めて知ったのです。強奪されたたのは家電メーカーのボーナスで、1万円札、5千円札、千円札、五百円札、百円札のうちなぜか五百円札だけ銀行が番号を控えていたとのことでした。1万円札を使わせるために、警察がそういう発表をしているのだと、大人たちが話していました。「お札だから埋めておくわけにもいかないねえ」とか「そのうち、お札を撒いてくれるといいんだけど」など、この事件は白バイ警官に扮した犯人が、あっと言うまに3億円を強奪し、怪我人ひとりも出さなかったというので、大人は子どもの耳を恐れずに話をしていたのです。私はこの時、お札には番号が書いてあることや、スイスの保険会社の保険がかけられていたことを知り、それからジュラルミンという金属の名前を覚えました。だから、今でもジュラルミンケースを見ると「あ、お金が入っているんだ」と条件反射的に、じっと見詰めてしまうことがあります。
お金は焼いちゃったというのは、ある程度の説得力もあるし、あの当時の学生運動のいたずらな空気に対する批評的な場面、つまりロマンチックだけど無意味ということで、それはそれで共感があるのですが、でも、ほんとうに3億円はなくなっちゃったの! と気になってしょうがないのです。
で、以下のようなことを考えてみました。
現金3億円を担保に、お金を3億円借り出す。これで犯人(もしくは犯人グループ)はマネーロンダリングができるわけです。で、3億円を貸した方は、その現金を時間をかけて小分けにして海外に持ち出す。それで海外で、外貨もしくは金などに交換する。こんなふうにすれば、たぶん、3億円は使ったということがばれずにマネーロンダリングできたのではないでしょうか?昨日のうちに、これを思いついていたら、大谷さんと魚住さんのご意見を聞いてみたんですけどねえ。残念です。いつもあとから思いつくの。
大谷さんや魚住さんのお話を今朝になってあれこれ思い出してみると、3億円事件では刑事警察と公安警察の組織的な鍔迫り合いがあって、それで捜査が混乱したので未解決になったみたいなニュアンスがあったなあと、納得。映画を見たあとで、ジャーナリストとお話ができるという愉快な経験でした。
969 20100616 神田川のほとり、枇杷の実とたばこ 御茶ノ水駅の近く、神田川を見下ろす喫煙所で煙草を吸っていたときのことです。額や頬に生傷のある、どこか凶悪な感じと憎めない人なつっこさが同居した顔の男の人が近づいてきました。顔の生傷が目立ったので、つい、うっかりまじまじと見詰めてしまいました。すると
男の人も、にっと笑ったのです。
「おや?」と思ったところ
「煙草を1本下さい」と言うのです。
私にではなく、私の隣で煙草を吸っていたお婆さんに。ほっそりとやせた身体に黒いカーディガンが似合うお婆さんでした。ちょっと見た感じを率直に言うと、飲み屋さんかバーのママという印象。で、お婆さんはポケットからマールボロの箱を取り出して一本、煙草を差出しました。お婆さんが低い声で言いました。
「あんた、医者からたばこを止められているんでしょう」
神田川が流れるそのあたりは、大学病院が並んでいます。マールボロを一本もらった男は
「ライターは持ってます」
と自分のポケットから出したライターで煙草に火をつけました。
「お酒もたばこも駄目だって言われているんだけどね」
一服吸って、そう言いながらにこやかに笑いました。
「私が煙草を上げたからって、あとで、病気が悪くなったなんて言わないでよ」
お婆さんは念を押す調子でそう言ってから
「だけど、止められないようね」
と煙を吐き出しました。
「ああ、止めたのは刑務所に入っていたときぐらいだねえ。出てきたら、一日3箱はすっちゃうもんなあ」
おやおや、最初に顔を見たとき、不思議な雰囲気の男の人だなあと感じたのはそういうわけだったかと、つい聞き耳を立ててしまいました。
「お酒はね、あるんですよ。へんてこな薬が。その薬を飲んでお酒を飲むとね、顔は真っ赤になるし、心臓はばくばくするしで、救急車呼ばなくちゃならないの。医者がそういう薬をくれるの」
へえ、そんな薬があるんだと内心、びっくり。お婆さんは煙草をふかしながら「ふうん」と気のない返事で男の人の話を聞いてました。このあたりで、私の吸っていた煙草が短くなったので、吸殻を設置された灰皿に捨てて、その場を離れました。自分の好奇心をややもてあました感じでした。御茶ノ水の駅のほうへ歩いて行くと御茶ノ水橋のたもとに、枇杷の実がいっぱい生っていました。誰も手入れをすることがない枇杷の実ですから、ひとつひとつは小さいのですが、日当たりが良いので、きれいなオレンジ色(枇杷色)に染まっていました。その枇杷の実を携帯で写真に撮ろうかどうか、しばらく立ち止まって考えていました。写真を撮るよりも、覚えているだけのほうが楽しい時があるので、迷います。
すると後ろから声がしました。
「こんなに枇杷の実が生っているの」
あのマールボロを差し出したお婆さんでした。背筋がぴんと伸びたお婆さんとふたりでしばらく枇杷の実を眺めていました。結局、写真は撮らずに眺めるだけにしました。
968 20100611 箱根で蛍を見てきました。 ちょうど栴檀の木が花の盛りでした。
前の日までは一匹二匹が飛ぶだけだった蛍も一雨降ったあとでたくさん飛び回るようになりました。栴檀の花には、美しい蝶々が飛んできていました。卯の花の盛りの季節です。
泊まったのは塔ノ沢の福住楼。前に流れる早川に蛍が飛ぶことを教えてもらったのは去年の今頃でした。蛍というものを一度見てみたいと願っていました。それと言うのも、横浜から房州の館山へ引っ越した最初の年、私は小学校1年生でしたが、蛍の話を聞きました。安藤君という同級生のお母さんが「このあたりいったいに蛍が飛び交います」と言って、指差したのは、安藤君の家の前に広がる水田でした。安藤君の家は山のすそに建つ農家で、大きな広い土間がありました。蛍の話を聞いたのはその土間でした。
少し小高いところにある安藤君の家の土間から、那古船形駅にかけて広がる田んぼが見渡せました。その頃は、田んぼの中に一筋の道が走っているだけで、建物といえば小さな駅舎があるだけだったのです。
「いつでも蛍を見物にいらっしゃい」
と、安藤君のお母さんは言ってくれました。
蛍が飛ぶのは夜です。だから子ども一人では海岸にあった私の家から、山すその安藤君の家にはいけません。で、私の母の手がすいているときに、連れてきてくれるという約束になっていました。釣船屋を開いたばかりの私の家では、お客さんが乗船の前の晩にやってくるので、夜はなかなか母の手があきませんでした。それに蛍の季節は短いのです。2週間あるかないかです。
そんなわけで、あっと言う間に蛍の季節は終わってしまい、とうとう安藤君の家に行く機会は訪れませんでした。そして、それが蛍が飛び交った最後の夏になりました。翌年になると、農薬を使用する農家が増えて、蛍の数は激減してしまい、さらに翌年には蛍は飛ばなかったそうです。
私は田んぼ一面に蛍が飛ぶところを見ることができなかったのが、よほど残念だったのか、安藤君のうちのちょっと暗い土間から、昼の光が降り注ぐ水田を眺めていた時のことをよく記憶していて、蛍の季節になるとぼんやりと思い出します。土間の隅に、麦茶が入ったアルマイトの薬缶があったことがなぜか鮮明なのです。安藤君のうちでは、お父さんは市役所か何かに勤めていて、お母さんが田んぼや畑の世話をしていました。
福住楼で聞くと、最初に書いたとおり、今年は蛍が出るのも少し遅くなっていて、まだ1匹、2匹がすっと飛ぶだけだという話でした。最初の晩は時折、びっくりするくらいの大雨が降り、とても外へ出て蛍を探す気になれませんでした。翌日、女中さんが「国道の橋の上から蛍をご覧になれますよ」と教えてくれたので、玄関に出てみると、御台所の仕事をしている女の人たちが「今夜はずいぶん飛ぶようになった」と話ながら戻ってきたところに出会いました。
「たくさん、飛んでますよ。いっぱい。いっぱい」
そう教えてくれたので、国道にかかった橋の上まで出てみました。国道にはひっきりなしにライトを点した車が通ります。はて、こんなに車が通るところで蛍が見えるのかしらと、首をひねっていると、川岸の茂みで、ぽつんと光るものがありました。蛍だとは信じられず、目の錯覚かもしれないと、その小さな光を凝視しました。最初の小さな光の点が消えてしまってすぐに、やはり小さな点がひとつ、ふらふらと川のほうへ、流れました。それでも、なんだか、まだ、目の錯覚のように思えてなりませんでした。ひとつ小さな光の点が川のほうへふらふらと飛ぶのを、追うようにして、また小さな点がゆるやか弧を描きながら、暗い茂みを飛び立ちました。ようやく、ああ、これが蛍だと、そのはかなげな光を目で追いました。一匹は光始めると、それにつられたように、また一匹が光ります。
光は光を呼び、あちらこちらでぼんやりとした光がすっと柔らかく飛び立ち、実にたよりなげに飛び交うのでした。なんだか、光る綿が風に吹かれているような飛び方で、虫の飛翔の俊敏さとは縁遠い動きでした。 968.jpg
967 20100604 見つけました。書店用文庫目録 銀座の教文館で「文庫目録を下さい」とお願いしたところ「すみません。今、書店用のものしかありませんから、これをお持ち下さい」と、もらったのが新潮社の文庫目録です。表紙にしっかり「書店用」と印刷してあります。緑色の紐も最初からついていました。初めてみました。
ゼミの学生が書店で「これは書店用です」と言われたということで、それから学生たちにいろいろ聞いてみました。ネットで直接、それぞれの出版社のHPにアクセスして文庫目録を送ってもらったという学生がいました。どうやら、その手が一番確実に、文庫目録を手に入れやすい方法らしいと解りました。
銀座の教文館のすぐそばにアップルストアーがあります。iPadの発売の日に1,200人もの人が行列を作ったお店で、新聞にも写真が載っていました。美容院で髪を切ってもらった時、通りかかると、お店の中はiPad一色。なかなかの賑わいでした。ゼミの学生の中にも早速にiPadを手に入れた人もいるようです。
キンドルやiPadについて報じる新聞記事を読んでいるうちに、これはOS(基本ソフトウェア)のシェア争いに、旧来のメディアが巻き込まれた、もしくは、飲み込まれたのではないかという考えが湧きました。PCのOSではウィンドウズ優位が絶対に動かないように見えています。キンドルのOSは何を使っているのか知りませんけれども、iPadではアップル社のOSが使われているのでしょう。以前、文字コード問題でいろんな人にお話を聞いた時に、あるPCメーカーの御重役が「市場というものは変化を求めるものなのです。だから、必ずウィンドウズ優位が崩れる時がきます」とおっしゃっていたのを思い出したのです。
一般論としてはその人の言っていたことが理解できたのですが、具体的にウィンドウズの優位が崩れるのはどんな時なのかは想像できませんでした。が、目の前でアップル社のiPadを求める人の行列を見ると、それが1995年にOS「ウィンドウズ95」の発売のときの秋葉原の光景によく似ていたことも手伝って「ああ、これがアップル社の巻き返しなのだ」という気がしてきました。今はそれ以上のことはなんとも言えませんけれども、報道などでは「旧来のメディア対新しいメディア」をいう構図が描かれていますけれども、ほんとうのところはOSの覇権争いなのではないでしょうか? 967.jpg
966 20100531 朝鮮半島不穏 土曜日の夜。京都の先斗町を歩いていたら、空に立派な満月が輝いているのを見つけました。もうすぐ梅雨だというのに、どうやら、空の高い場所まで空気が澄んでいるようです。
金曜日から土曜日、それに日曜日にかけてのテレビの報道は普天間基地移転の問題とそれにかかわる社民党福島党首の態度で終始していたようです。帰りの新幹線の中で社民党が連立政権から離脱の電光ニュースを見ました。そのニュースのために、鳩山首相が韓国にでかけ、日、中、韓の首脳会談が開かれたニュースは小さな扱いになっています。現実的で具体的で、かつ目の前にある安全保障問題で、何事もなく終わってくれればいい朝鮮半島の緊張について、家に帰ってからネットでニュースを拾い集めました。
日本の報道では、いつもながらの北朝鮮の瀬戸際外交という感覚で、韓国と北朝鮮の間の緊張が、扱われているような感じがします。が、日本、韓国、中国の首脳会談が緊急に開かれたようなことがこれまであったでしょうか?私にはその記憶がないのですけど。忘れているだけかもしれませんけれど。ただ、今回はいつもの瀬戸際外交とは少々何かが違うように感じられます。一番それを感じるのは中国の慎重な態度と、その緊張感。一部、新聞が報道したところでは、6月4、5日頃に開戦だといううわさが中朝の国境で広がっているとのことです。うわさはうわさに過ぎないのかもしれませんけれど。
965 20100526 異様な乖離 金曜日の夜。大阪のホテルで寝そびれてしまったので、漫然とCNNのニュースを見ていました。英語だからそんなにわかるわけじゃないんだけど、しきりに「ユーロ・クライシス」をキャスターが繰り返していました。ユーロ危機。確かにドイツが単独で株の空売り規制をしたりするのは尋常なことではなさそうだなと、感じていました。日本ではギリシャの財政破綻の報道が少ないので「クライシス」という単語を聞きながら、やっぱりそんなんだなあと、ベッドでごろごろしていました。
火曜日に近所のコンビニで買い物をしたら、レジ脇の募金箱に「宮崎県救援」の張り紙がありました。口蹄疫の報道はテレビでは少ないような気がしています。が、既存のメディアよりも、一般の関心はずっと高い感触があります。口蹄疫について言えば、ネット情報のほうがテレビよりもはるかに詳しいのですが、ネット情報が玉石混合。どこまでがほんとうのことで、どこまでが嘘なのか、よく解らないままです。
韓国の哨戒艦が沈没したのが3月の末。北朝鮮の攻撃によるものと発表されるまで時間がありました。これも興味を持っていたニュースでしたが、日本のテレビ報道は少ないと感じています。
で、テレビが報道していることと言えば、民主党の小沢幹事長に絡む「政治と金」の問題。沖縄の普天間基地移転について。それから事業仕分け。どれも重要と言えば重要なテーマではあるのですけれども、なんとなく内容空疎で、ユーロ・クライシス、口蹄疫、朝鮮半島の軍事的緊張に比べると、どうしても関心が薄くなります。テレビのニュースと、自分の関心がこんなに乖離してしまっていることは、珍しいくらいです。テレビの「ニュース」が「オールド」に感じられてしまっているのです。
自分の興味関心とテレビ報道の間にある異様な乖離はいったい何を意味しているのでしょうか?なんだか奇妙なことが起きている気がしています。
964 20100523 馬に乗りに行きたい 伊藤さん、伊藤さん、馬に乗りに行きたいです。
ジョーバが家にあるんですけど、これは前に進まないの。もしろん、ちょっと乗るにはおもしろいです。で、伊藤さん、馬でとことこ、阿蘇の外輪山の中の草千里を歩いたら気持ちいいでしょう。馬に乗りに行きたいです。
963 20100520 5月20日 日経新聞朝刊1面 「りそな、公的資金返済へ」
コレハマア、ヒトアンシン。ワガヤノギンコウダシ。
「タイ、デモ隊一部暴徒化」
コレカラモットモメソウナ気ガスル。「うさぎとトランペット」の挿絵を描いてくれた小林さんはバンコック在住。娘のともだちのお兄ちゃんもバンコック勤務。ダイジョブカシラ?
「北朝鮮関与と断定
哨戒艦沈没 韓国、日本などに伝達」
ヤッパリ。デモ、ズイブン慎重ナ調査ダッテケレドモ。イッタイ「何」ガオキテイルノダロウ?
「口蹄疫処分30万頭」
5月ノ連休ノ時ニ「沖縄の基地問題どころじゃないだろう。口蹄疫のことがさっぱり報道されないのはどういうわけだ」トブログニ書イテイル人ヲミタ。ドウモ、コトノ重大サガ解ッテナカッタノハ、政府ダケジャナクッテ新聞、テレビナドノマスコミモソウダッタミタイ。
「欧米株が下落」
ドイツ政府ガ単独デ株ノカラウリ規制ヲシタトノコト。コノニュースハ20日朝刊デハイチバン小サイケレドモ、気ニナル。ダカラ、戦争ッテノハ、コウイウトコロカラジワジワ広ガルコトガオオイ。
ヨウスルニ疫病ト金融危機ソレカラ武力紛争。ソウソウ、日経ノ一面ニハナイケレドモ、アイスランドノ火山モマダ噴火ヲツヅケテマシタ。
全部がカタカナのままで、頭のなかでバラバラ散らばっているのですけど、なんだかまだ書かれていない世界史の教科書を読まされているような気がする今朝の日経新聞朝刊1面でした。読売、朝日も見たけれども、昨晩からネットニュースで私が興味を持って見ていた事柄を一面に並べたのは日経でした。
962 20100518 このごろ見かけたもの 新幹線に乗っているとワゴンを押す車内販売の人の後ろにもう一人、車内販売の人が。小さなワゴンに取り付けられた器具の扱いについて教えてもらいながら、お仕事。新入社員の季節です。
ガス漏れ警報機をつけかえてもらいました。こちらも取り付けの人は二人。一人がこまごまと説明をするそばで、もう一人の人は「品番ってどこに書いてあるのですか?」と質問。新入社員との二人組みでした。
スーパーに買い物に行ったら「もやしはお一人様、何袋でもお買い求めいただけます」の張り紙。その下に「ようやく野菜の値段が安定してきました。ご協力ありがとうございます」の文字。どうやら、青物つまり野菜があまり高いので、もやしを買う人が多くって、一人のお客さんが買えるもやしの袋を制限していたようです。それでも、欲しくなるような素敵な野菜は少ないままでした。
本屋さんで文庫本を8冊ほどまとめて買う。黒いビニール袋に入れてもらいました。この袋が、なんだか縁日やお祭りで、玩具などを買ったときの袋に似ているぺらぺらな物。なんとなく小さな塵袋に見えなくもない。もしかしたら紙の袋よりも安いのかもしれません。なんとなく「?」な気分でした。
デザイナーさんが使っていた小型のスキャナー。小さくて置き場所に困らない。で、スキャナーで読み取った内容をパソコンにデータで保管して、プリンターに出力すれば、コピー機でコピーしたのと同じものが手に入るという仕組み。
「本をばらばらにしてスキャンして、アイパッドみたいな読み取り機で読むってこともできます」
それって、聞く人によっては怒り出したりするかもしれないと思ったしだい。昔は本は床に置いてはいけないといわれたものでした。でも、会議資料なんかは、小さなリーダーに入れて持ち歩くのは便利かも。それできっと紙の使用量はまた増えそうです。
こんな具合に近頃見かけたものを並べてみました。4月が寒かったので、頭がなかなか5月についていけないままになっています。
961 20100513 フランス共和国の価値観に反する 以下のようなニュースを見つけました。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜以下 AFPから 引用〜〜〜〜〜
【5月12日 AFP】フランス国民議会(下院)は11日、イスラム教徒の女性が顔や体を覆うベールは「国家の価値観と相容れない」とする決議を出席議員全員の賛成で採択した。ベール禁止の法制化に向けた足固めが進んだかたちだ。
採択された決議に法的拘束力はないが、今後、公共の場におけるブルカやニカブなどイスラム女性のベールの着用禁止をフランスが法制化すれば、ベルギーに次いで欧州で2国目となる。
ベールは「フランス共和国の価値観に反する」と宣言した今回の決議には、ニコラ・サルコジ(Nicolas Sarkozy)大統領率いる右派の国民運動連合(UMP)と野党社会党が珍しく一致して賛成した。結果は、採決に抗議し棄権した共産党議員約30人をのぞき、定数577の同議会のうち、出席した434人の議員全員が賛成した。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
09年の夏に久しぶりでイギリスへ旅行した時、イスラム教徒がおしゃれになっているのが目につきました。とくにブルカやニカブを着ている女性。全身を覆う衣装ですが、見るからに上等で贅沢な生地で、時には袖口の内側や、衣装の合わせの奥に金糸の精緻な刺繍が入ったりしていました。
私がブルカやニカブを来た女性をいちばんたくさん見かけたのは、ロンドンのハロッズでした。5、6人で連れ立ってデパートでお買い物という人たちをたくさん見かけました。東洋人の私には「アラブのお金持ち」と見えたんですけど、ほんとうのところどうなのでしょう? これは反感を買いかねないなあという印象は確かにありました。もっと一般的なイスラム教徒は、ブルカやニカブではなくって、きれいな色のスカーフで頭を覆っていたり、装身具をつけたりしていました。
パリやリヨンなどでもロンドンと同じような光景をみることができるのでしょうか? フランス政府は観光客にもこの法律を適用するとしているようです。
これって、たいそう難しい問題を内包している気がしますけど、議会が全会一致だったと言うのにも驚きました。09年の夏に、ロンドンで感じたことは、旅行者の目に映る以上に深刻な事柄だったのかもしれません。
あらゆる価値観から自由になろうとしたポストモダンの哲学大流行の時期に大学へ入った私などは、本物の21世紀、つまりポストモダンがこんな形で姿をあらわしてくることにたいそう驚いています。 961.jpg
960 20100511 プリウス 乗るときにね、チョットへんなカッコウのタクシーだなと、気になったのです。それから、しばらくして、ナビとは違うモニターがついていることに気づいて、ああ、これはハイブリットカーなんだってことに気づきました。プリウスでした。へぇ、タクシーでもハイブリットカーを使うのかって、感心、感心。
959 20100507 温泉に行きたいなあ 温泉に行きたいなあという話をしました。どこかいいかしら? 関東なら箱根。いや、熱海。湯河原もいいんじゃないか。山の温泉なら伊香保、草津、そうそう群馬は温泉王国でした。鬼怒川、塩原もあります。那須もなかなか良いと聞いています。
関西ならなんと言っても有馬温泉は一度は行ってみたいし、白浜もよさそう。竜神温泉もあるし、そうそう城崎温泉は京都の人にとってはなじみのある温泉なのだと、この間、タクシーの運転手さんから聞きました。
静岡の焼津温泉も好きです。すぐそばに富士山が見えて。温泉王国といえば九州、東北もなかなか。今年は山形の赤湯温泉に行きましたが、湯の浜温泉にも行ってみたいし、青森の蔦湯温泉、酸ヶ湯温泉はなかなか懐かしい。熊本の小国温泉は伊藤比呂美さんに案内してもらいました。阿蘇の外輪山の景色はなかなか雄大で、伊藤さんがワイルドな革コートを着ていたのは、景色とよく響きあっていました。
ギリシャの財政破綻に興味があるんだけど、誰も話の相手になってくれません。それから列車で北京へ行った金正日と、東シナ海で沈んだ韓国の艦船。関係があるんだかないんだか??? です。少し古い話だけど、ポーランドの大統領を乗せた飛行機が墜落したこと。アイスランドの火山が爆発したこと。なんだか、ばらばらになった世界史の教科書を拾って読んでいるみたい。
それで温泉に行きたいなあと思っています。
958 20100506 東へ西へお買い物 伊藤さん、お久しぶりです。御元気そうでなにより。そうです。日本は連休です。連休中はもののけの「巣」とかした我が家の片付けをしたかったのですけど、なんだか気力が湧かず。なにしろ4月がめちゃ寒かったので、うまく時間の流れに乗って行けません。それで、東へ西へお買い物。まず、谷原の市場でたけのこと、煮干を買い、植木屋さんに寄ったのだけど、ろくな苗物がないのは異常なお天気のせい。こんなだと、また夏から秋にかけてお米が不足するかもしれません。それから光が丘で、ええと、エプロンを買いました。3枚も買っちゃった。あとは成増の西友へ。靴下を買いました。爪先と踵だけを包む浅い靴下。トリコロールのやつを見つけたのだけど、靴を履くと全部隠れちゃいます。靴下だから仕方がないか。さらに、イトーヨーカ堂ではパワークールって宣伝しているキャミソールとスパッツ三部丈のやつを買ってきた。
そんなわけで連休は東へ西へお買い物でした。でも花屋さんだけは行かなかったの。なんだかねえ。行っても良いことがないような気がして、お天気が悪いと花屋さんもおもしろくないから。
あとギリシャのニュースを見て「どうなるのだろ?」と首をかしげて、それから、すばらしいさより(お魚の)があったけれども、買わなかったのは残念だなあと思って、それから京都、大阪に遊びに行った娘からお土産(よーじ屋の金色の栞)をもらって、姜英淑さんに書こうとしている手紙はあいかわらず書き上げられないまま連休がおわっちゃいました。
伊藤さん、またね。では、では。
957 20100503 文庫目録 岩波、新潮、角川、講談社などの文庫目録を書店で配布しているからもらってくるといいとゼミ生に薦めた。文庫目録を読んでいると、へたな文学史の本を読むよりもよほどおもしろい。以前は、書店のレジわきなどに積んであるのを見つけて「これ、下さい」と言えばたいてい「どうぞお持ち下さい」という返事で、もらうことができた。
3年ほど前、「文庫目録ありますか?」と尋ねたら、あっちこっちの引き出しを開けたり、棚の下を覗いたりして、見つけ出してもらったこともあった。そういえば近頃、文庫目録がレジのわきに積んであるのを見かけないなあと、その時は、その程度のことしか考えなかった。が、ゼミ生の報告によれば、「文庫目録を下さい」と言ったら、書店の店員さんに不思議そうな顔をされたそうだ。それで、重ねて「岩波文庫とか新潮文庫の目録が欲しいんです」と言ったそうな。その返事が「あれは書店用の冊子です」だったと。
書店用としては総文庫目録(そんな名前だったという程度の覚えだけれども)そういう年鑑のような分厚い本が出されていて、お客さんの注文の本の版元がわからない時などに調べるのに使っていたものがある。それと勘違いをしたかもしれないとは思いつつも「書店用の冊子です」っていう返事はちょっとひどいなあと嘆息。もし私のようなおばさんが、どすの利いた声でも出せば、とたんに店長さんを呼びに行くようなアルバイトの店員さんが、ものを知らなそうな若い人だと思って、いい加減な答えをしたなら、それは言語道断。いったい本屋さんの中で何が起きているんだろう? とへんな感じがするゼミ生の報告でした。
本屋さんと言えば、要塞のように積み上げられた「1Q84 Book3」を見て、もうちょっと上手に商売をすればいいのになあと思ってのは先月のこと。同じ本をいくら積み上げても、トイレット・ペーパーじゃないのだから、2冊3冊と買う人はいないだろう。「1Q84」のBook1や2を並べれば、それも買って行く人もいるかもしれないし、作中に登場する音楽などの関連の書目を集めれば、ついでにひょっと手を伸ばす人もいるかもしれないし、どう考えてもそっちのほうが商売人としても親切で、しかも売り上げが上がるように思えるんだけど?「1Q84 Book3」の要塞といい、文庫目録を知らない店員さんといい、せっかくのお客様を逃しているんじゃないかと、まあ、そんなことを昔から本屋さんに出入りしている素人としては考えました。
956 20100420 すごく小さな喫茶店 新宿から代々木まで歩きました。JR東日本の本社前のサザンテラスを横切れば代々木はもう目の前ですから、電車の駅が二つあるのが、不思議なくらい。いや、新宿駅が大きいせいで、そんな感じがするのかもしれません。サザンテラスから代々木のほうへ出ると、アニメーション学院など専門学校と予備校、それに共産党の本部がある一画に出ます。以前、知人が若い人になにかのときに「だから代々木が」と言ったら、「え、アニメーション学院がどうして関係があるのですか?」と聞かれたと苦笑していました。代々木と言えば、40代以上は「共産党本部」30代は「予備校」20代以下は「アニメーション学院」だと、その時、教えてもらいました。
そう思うと代々木はおもしろい独特の街です。
白い壁に窓枠を鮮やかなブルーで塗ったビルとか、吹き抜けのあるロビーが硝子越しにすべて見えるビルとか、木材の横木を並べてリズム感のある壁面を作っているビルとか、小さいけれども、外観に特徴的なデザインを施した建物が、目につくのも代々木です。
少し時間があったので、線路際を北参道の方向へ歩きました。どこかに煙草を吸わせてくれる喫茶店はないかしら? という下心もあったのです。すると喫茶店の看板が出ていました。判子屋さんと同じ建物です。三角地に立った三角の建物。カフェの看板は三角の鋭角、つまり狭いほうにありました。
扉を開けると目の前にカウンターが。カウンターの中には男の人が一人。「?」という感じで、あまりの至近距離に面食らってしまいました。何か言わなくちゃいけない距離なのです。
「あのう、このお店で煙草は吸えますか」
そうは言ったものの、煙草を吸うどころか、カウンターの前は人ひとりが立つのがやっとという狭さです。
「うちは持ち帰り専用なんです。でも煙草をお吸いになりたければ、そちらでどうぞ」
と、軒下に二つ置かれた椅子のほうをさしました。
こんなに近くでお話をしたら注文しないわけには行きません。
「じゃあ、カフェオーレを下さい」
きめ細かな泡立ちのミルクが入ったカフェオーレでした。紙コップを手で持てるように、段ボールの筒がついている親切さ。それで280円。安い! おいしい! 軒下の椅子に座ってカフェオーレを飲んでいると、道を歩いていた年配の二人の女性が、びっくりした顔で、三角地に建った三角の木造二階建ての建物を眺めていました。ほんとうにびっくりするほど小さな喫茶店? でした。
955 20100418 今年の桜 去年は桜が咲いたのがうれしくってあっちこっち桜を見て歩きました。
ことしの桜は、咲き始めからちょっとぐれてました。2月の気候が安定しなかったためか、染井吉野でさえ、花の咲き始めから、新芽が顔を出していました。それが3月の卒業式の頃。それからずっと咲いています。超過勤務です。新芽が伸びて若葉になっても花が散りません。さらには、そこに雪が降る始末。さくらはさくらでいたくなくなるようなお天気です。
法政大学のボアソナードタワーから外濠土手のさくらを見下ろすお花見をしたのは3月。法政の学生はボアソナードタワーのことを略して「ボアソ」と言っています。フランス法のボアソナード博士は「わしはボアソじゃない」って言っているかもしれません。で、どうしたことか、このお花見のときは次々と、参加者が眠気に襲われたのです。ボアソナード博士が遊びに来ていたかもしれません。
知人と大阪の水上バスに乗りました。有名な造幣局のさくらを川の上から見て、大阪城の下まで行き、淀屋橋まで戻るというコースです。なんでも天神祭りのときに
船が練り歩くのと同じコースだとのことでした。それから北浜の与太呂で鯛ご飯を食べました。鯛は今が旬。さくら鯛と言うのだそうです。
あとはもう寒くって寒くってぶるぶる震えている日ばかり多い今年の桜でした。
954 20100413 金沢八景散歩を「すばる」に書きました。 写真は金沢文庫がある称名寺。うら山を昔は坊主山と呼んでました。春になると野焼きをする習慣があったので、樹木が茂らなかったのだそうです。
童謡の「まるまる坊主のはげ山はいつでもみんなの笑いもの。これこれ杉の子起きなさい。お日様にこにこ声かけた」というのは、この称名寺のうら山のことだと思っていました。幼稚園の遠足も称名寺でした。 954.jpg
953 20100330 ゆき ゆきを見ていた。
952 20100327 突然ですが、中沢ゼミの皆さん お花見をします。 4月5日お花見。
さしあたり12時(昼の)に815研究室に集合して
場所取りをするということで。
とった場所は815研究室の扉に地図を描いて貼っておくことにします。
参加者は夜ゼミ、昼ゼミ、今年度卒業生、それより前の卒業生、ゼミの居候など来たい人、お暇な人、ゼミに関係があればどなたでも参加して下さい。
雨天決行。
951 20100327 法政大学文学部中沢ゼミの皆様2 残念ですけど追いコンは中止になりました。ごめんなさい。卒業生の皆様、学校の近くに起こしのせつは研究室にお立ちより下さい。歓迎します。
950 20100326 法政大学文学部中沢ゼミの皆さま 昼ゼミの郡山君が追いコンのために奔走しています。メーリングリストで連絡がとれなない人もいるみたいです。メーリスの連絡が来てない人は、なんとかルートを作って郡山君に連絡を入れて下さい。
学校を卒業する人も学校に残る人も、みなさん御願いします。よろしく御願いします。
卒業文集「うさぎ」をまだとりにきていない4年生は私の研究室に取りに来てください。「うさぎ」に原稿を入れなかった人にも差し上げます。研究室にお越しになる前に私のメールでご一報下さい。
ええと話は変わりますが、飯田橋から市谷の土手の桜は、どうしたわけか、葉と花が一緒に芽を出しています。こんなへんてこりんな咲き方は、今年初めて見ました。これから、だんだん奇妙な咲き方をするようになるのかもしれません。昨日、助手の深野さんもそのことに気づいていることを知りました。
昨日は上総一ノ宮まで行ってきました。一昨日に続いて寒い寒い日でした。が、房総半島北部の北総台地ではすでに田起こしが始まっていました。
949 20100325 寒い一日でした。 外堀公園、飯田橋駅前の桜がちらりほらりと咲きました。卒業式というと、必ず花をつけている山桜の老木にいたっては、もう花の脇から葉が広がり始めています。
この老木は樹齢が400年といいますから、徳川家康が江戸の町を切り開く前から、外堀公園のあの場所に育っていることになります。
それなのに、寒い、寒い。朝からの雨降りが、途中で霙まじりになりました。こんなに寒くちゃあ、せっかくの袴の晴れ着もだいなしです。寒いせいで、なんだかくたびれちゃいました。
ところで、桜ですが、もうすぐ桜が咲かなくなるかもしれないという話を聞きました。桜の木は地中の温度が下がったあとで、もう一度あがりだすと花を咲かせるのだそうです。地中の温度が下がらなくなると花が咲かなくなるとのこと。そういえば、沖縄には避寒桜はありますが、本土のような桜はありません。私が生きているうちに桜が咲かない春が来るのかなと、冷たい雨に打たれている桜を見ながらつい考え込んでしまいました。
鎌倉の八幡様の銀杏が強風のために倒れたのはつい先ごろのことですが、外堀公園の桜の老木もばったり倒れてしまうようなことがあるのでしょうか?あんまり寒いのでついつい、そのような悲観的な想像をしてしまうのでした。800年だとか1,000年だとかの樹齢があると言われる鎌倉の八幡様の銀杏も、ただ強風のためにだけ倒れたのか、それとも根っこになにか、これまでと違う異常が起きていたのか、ちょっと気になりました。
美しいものは見られるときに見ておくに限ると、そんな気のする春が寒い空気の向こうに姿を現しています。
948 20100324 法政大学文学部日本文学科の皆さま 卒業おめでとうございます。
秋元君が編集を、島田さんが装丁をしてくれた「うさぎ」が完成しています。うさぎ年の皆さまでしたか!「卒業生を励ます会」の終了後、研究室に起こし下さい。「うさぎ」をお渡しします。「うさぎ」に卒論を掲載していない方にもお渡します。秋元君、島田さん、どうもありがとうございます。また、郡山君が卒業生の追い出しコンパ開催に奔走中です。在校生、卒業生の皆さまご協力御願いします。以上、連絡事項でした。
卒業生の皆さま 大学での勉強を自分のためにしたと思わないで下さい。皆さんがなさった勉強は直接、間接を問わず、同じ時代を生きている人々のためになるということを、時々でよいから思い出して下さい。それでは皆さま「いざ、さらば」です。
あ、郡山君にはどうぞご協力を。最後まで「驚愕と恐縮」の中沢ゼミでした。
947 20100323 大阪芸術大学文芸学科の皆さま 卒業おめでとうございます。
影山様 謝恩会幹事ごくろうさまでした。謝恩会にいけなくてごめんなさい。どなたか大阪芸術大学の方で、ここを見た人は影山さんによろしくお伝え下さい。
皆さんと勉強した一年間は楽しい一年でした。とくに「ジャガイモの食感が嫌い!」というのはジャガイモ好きの私にはショックでした。
皆さま どうぞお元気でお過ごし下さい。
946 20100313 雪の最上川 山形へは、山形新幹線で赤湯に出て赤湯温泉に1泊。翌日は赤湯から新庄まで奥羽本線を行き、新庄で陸羽西線に乗り換えて酒田にでました。陸羽西線は雪の多い最上川沿岸を走っています。写真は列車の中から見た最上川の景色です。
朝、赤湯温泉の旅館を出発する前に、旅館の玄関に楽器ケースが並んでいるのを見かけました。大きさからするとホルンやチューバなどの中型から大型の管楽器が入っているようなケースでした。おや、昨夜は同じ旅館に音楽家が泊まっていたのかしらと思いながら、部屋に戻って出発の支度を整えて、玄関に戻ったときにはもう黒い楽器ケースは消えていました。赤湯温泉では快晴。雪の白さがまぶしい日でした。それが曇り空になったのは新庄です。新庄の駅を出るとすぐに雪が降り出しました。真っ白な銀世界。しかし、最上川は冬でも川くだりの船が出ていると知ってちょっと驚きました。なんでも船の中には炬燵もあって、暖かい船内から雪景色を見ることができるのだそうです。庄内平野まで出るとまたまた良い天気。広い平野のあっちこっちにまだらに雪が残っていました。酒田の駅に佐藤先生が来て下さっていたので、ちょっとびっくりしました。
さて帰りですが、今度は日本海側を新潟まで下って新潟で新幹線をつかまえました。昨日の写真の干した鮭は、新潟の村上のものが有名ですが、その村上の少し前に列車の電圧が切り替えられる場所があり、特急列車の車内がしばらく暗くなったのをもの珍しく感じました。 946.jpg
945 20100312 寒風干しの鮭 酒田の魚屋さんの前でみつけました。魚屋さん「売ってください」と御願いしましたが、昨年の暮れに50本ほど干した鮭はどれもみな売約済みだとのことでした。「昨日、最後の1本が売れました」と。
夏頃まで干しておくと身が濃縮されて酒びたしにできるようになるのだそうです。 945.jpg
944 20100311 お雛様のお菓子 鶴岡のお菓子屋さんのお雛様のお菓子です。
さくさくした食感で、程よい甘さでした。最初はその大きさに驚きました。売っていたお菓子屋さんはほんとうに小さなお菓子屋さんでした。 944.jpg
943 20100310 山姥と金太郎 乳母(うば)と姥(うば)は音が同じなので、時々、乳母は姥だと思っている学生を発見します。でも乳母ってお乳を上げなくちゃいけないのですから若い女の人、丈夫で健康で、一人前以上にお乳が出るという女性じゃなくちゃ乳母にはなれません。でも、写真の土人形は乳母じゃなくって山姥。金太郎のお母さんが赤ちゃんの金太郎にお乳をやっているところです。これも「あいおい工藤美術館」で撮影させてもらいました。土人形は庶民のものですが、いろいろな題材があるところがおもしろいです。若い! 山姥のしたに桃太郎の姿も見えていますし、そのとなりの鉢巻をしている女性は神功皇后です。 943.jpg
942 20100309 八幡太郎義家さん

山形の高校の国語の先生、佐藤先生とは時々メールのやりとりをしています。今度、余目の響ホールで山形交響楽団のコンサートがあるのを知らせてくださったのも佐藤先生でした。酒田でもいろいろとお雛様の展示をしているお家を教えてくれました。「酒田雛街道」という催しでお雛様を展示しているとのことでした。
写真のお雛様はお茶屋さんの地主園さんのお雛様。立派な享保雛です。五人囃子ではなくって楽人が並んでいるところが京都のお雛様だなあと思わせます。今でもお茶道具は京都の問屋さんから仕入れているとのことでした。酒田はお米の集散地で、酒田の港から日本海を下った船が瀬戸内海を通って大阪に入ったので、京、大阪との関係が深いのです。
地主園さんでおもしろい御話を聞きました。お武家さん3人が写っている写真の後方に控えているのは、八幡太郎義家、つまり源義家のお人形です。八幡太郎義家は武家の頭領ですから、五月人形なのですけど、地主園さんのお店の人が笑いながら「そのお人形は私に憑りついたんです」とおっしゃっいました。なんでも雛人形を飾り始めた頃、毎晩、夢の中に怖い顔をした男の人が現れて、じっと見詰めていたそうです。それで、まだ表に出していない人形はないかと調べたところ、昭和6年の新聞紙に包まれた八幡太郎義家さんが出てきたという御話でした。義家さんを雛人形を一緒に飾るようになってからは、夢の中に怖い男の人は出てこなくなったそうです。
平安朝末期の源義家は武勇で知られた人物で、それゆえに白河法皇の院に昇殿を許されたのですが中御門右大臣藤原宗忠は日記「中右記」に世の中のひとは義家の院昇殿は甘心できないと言っていると書いています。
源頼朝や足利尊氏も源義家を祖としているので、まだ武家というものが世の中で力を持つ前に、武家の時代の基を作った人物と言えるでしょう。
だから毛むくじゃらの鐘馗様や神武天皇と一緒に並ぶよりは御内裏様の下段に加わりたいとお望みになるのも、もっともなところがあるのです。
なんてちょっとおもしろく地主園さんの御話を聞きました。お武家様の祖と言っても周囲はお公家さんばかりの時代の人ですから、夢の中に現れても乱暴狼藉は働かずに、じっと見詰めるばかりというのが八幡太郎義家さんらしく感じました。なかなか美男子の八幡太郎義家さんです。 942.jpg
941 20100308 狆引き官女様 
酒田で撮影した写真を見てみると、なぜか肩で腰紐を結った「狆引き官女」さんは写真に収めていませんでした。そのかわりに、腰紐を肩で結った官女さんの掛け軸の絵を撮影していました。昔、京都の二条城に、このようなはかまのつけ方をしたマネキン人形が置いてありました。ずいぶん替わったはかまの付け方なので、覚えていたのです。昨年の夏、二条城に久しぶりに入ったのですけれども、もう肩で腰紐を結った官女さんのマネキンの展示はなくなっていました。
写真は「あいおい工藤美術館」で撮影させてもらいました。もともとは質屋さんだった建物を買い取って美術館にしたとのことでした。大きくて立派なお蔵があり、また天井裏にはたくさんの和服や帯がありました。 941.jpg
940 20100307 鐘馗様が欲しい! 酒田でお雛様を見て、それから目黒の雅叙園でお雛様をみました。家は昨年リフォームしてからまだ物がもとへ戻らない状態なので、とてもではないけれどもお雛様を出す余裕がありません。で、酒田で「狆引き官女」なるお雛様を見ました。犬の狆を引いているはかま姿の官女です。調べてみると昭和の初期ごろまでは、ひな壇に添える人形としてずいぶん作られていたようでした。
はかまの紐を肩で結んでいるスタイルが多いようです。どうも、このはかまの紐を肩で結ぶスタイルは幕末の宮中の習慣のようで、それが「狆引き官女」に残っているようです。いったい、この「狆引き官女」はどういう事情でたくさん作られたのでしょうか?
雛人形というわけではありませんが、赤ん坊を抱いている武内宿禰の土人形を見たのも酒田です。こちらは五月人形のようで、神功皇后と一緒に作られたものでした。白ひげの武内宿禰が抱いているのは、神功皇后が生んだ皇子、のちの応神天皇だとのことでした。それに金太郎にお乳をやる山姥の土人形。「金太郎のお父さんは誰なんだろう?」という疑問が、五月人形を飾るころになると、時々、我が家で出ていました。山姥の子なのは熊にまたがってお馬の稽古をする金太郎の御話に出てくるのですが、金太郎の父の話はついぞ聞いたことがありません。さらには、ご存知、桃から生まれた桃太郎。これはお爺さんとお婆さんが大事に育てた男の子です。桃太郎にいたっては父母不在(桃が母か?)。お父さんとお母さんと子どもという組み合わせが五月人形に少ないのをおもしろく感じているうちに、思い出したのが、鐘馗様と神武天皇でした。
鐘馗様と神武天皇は私の弟が持ってました。神をみずらに結い、金色のカラスがとまっている槍を持った神武天皇と髭だらけの鐘馗様を子どものときはおもしろく眺めたものでしたが、この頃はちっとも見かけません。調べてみると、兜と一緒に鐘馗様と神武天皇を飾る習慣は昭和30年代の関東地方でよく見られたものだそうです。鐘馗様は怖い顔をしていますが、その怖い顔が災いして、玄宗皇帝から、せっかく合格した科挙の位は剥奪されてしまった若者だそうです。それを悲観して自殺したのですが、鐘馗様が鐘馗様として長く記憶されるようになるのはその後の出来事のためです。鐘馗様は、病気に罹った玄宗皇帝の夢の中に現れて病魔と闘い、この世では果たせなかった自分の役割を果たす決心をしたことを皇帝に告白。これに驚いた皇帝は鐘馗様は長く祭ることにしたと。現代人の合理主義からすると、理不尽な話ですが、こんな話を調べているうちに、すごく鐘馗様が欲しくなりました。
「鐘馗様が欲しい!」
それにしても五月人形というものは、御家庭の幸福とはずいぶんかけ離れた伝説上の人物たちが、そろいもそろっているものだと、おもしろく感じました。
939 20100210 ユン・サジン先生 韓国の日本文学研究者のユン・サジン先生に久しぶりにお目にかかりました。この度は、御研究と調査で日本にご滞在とのこと。ソウルは氷点下16度などという日もあり気温が終日0度以上にならないことも、この冬は珍しくないとのことでした。ソウル市内を流れる漢江は、市内で凍っているのはももちろん、河口の仁川あたりも凍っているとのことでした。いや、寒そうだけど、一度、凍りついたソウルや漢江も見てみたいものです。ユン先生と御話をしながら、昔は東京湾に氷が張る日もあったことを思い出しました。
「東京は暑い!」とおしゃるのももっともです。確かに昨日などは最高気温が20度まで上がったのですから「暑い」と言ってもいいでしょう。東京でも、寒い冬は久しぶりですが、ソウルの寒さは桁が違うようです。韓国の大学は冬休みが長いのだそうです。12月半ばには冬休みになり、2月いっぱいは冬休み。3月にはもう新学期が始まるとのことでしたので、ユン先生の冬休みももうすぐ終わりというところでしょうか。
日本で連翹と呼ぶケナリの黄色い花をソウルの人々が喜ぶのも、もっともなことです。そういう私はこの週末は山形へ雪を見に行こうと計画しています。それに山形交響楽団のモーツアルトも楽しみのひとつ。
938 20100204 ノーパンしゃぶしゃぶ ノーパン喫茶なるものが30数年前に流行しました。大学の同級生で、このノーパン喫茶ではたらく女性をスカウトするというアルバイトをしていた学生がいました。銀座の路上でばったり出会った時に、仕事の内容を打ち明けられたのです。その時、聞いた話では、一人紹介すると10,000円、紹介した女性が実際に働くことを承諾すると30,000円の報酬がもらえるとのことでした。努力しだいで稼ぎを増やせるからと、授業料支払い直前のバイトだったようです。パンツをはかずにストッキングだけのウェイトレスさんのいる喫茶店って、いくらお給料がよくても、当たり前の求人広告だけじゃ人は集まらないとのことでした。そりゃ、そうだろうと思っていました。
タイトルにしたノーパンしゃぶしゃぶが話題になったのは、およそ10年前。ノーパン喫茶流行から20年後のことです。大蔵省の役人が、このスキャンダラスな店で接待を受けていたということで、すっかり有名になったものです。
私はこの時、首を傾げました。
ノーパン喫茶ならぬノーパンしゃぶしゃぶなどというものが、流行していたら、汚職事件で有名になる前に、新たな風俗営業として週刊誌やスポーツ新聞がそれを書いているはずなのに、まったくそういうものを見かけなかったからです。それから、その頃はもう、大学へ出て講義を持っていましたが、学生からその手の話を聞くことはありませんでした。なにしろこの手の商売は「若い」人じゃなくっちゃあ、話にならないという商売ですから、大学生はいろんな意味でかかわっていて、流行していれば、なんらかの形で耳に入っていることが多いのです。
二つ目の疑問は「喫茶」ならともかく卓上に生肉がならぶ「しゃぶしゃぶ」をノーパンの女性に給仕してもらいたいかというものです。私なら「否!」なんですけどね。さて、男の人はどんなものじゃろ? と考えて知り合いの編集者を捕まえて、意見を聞いてみました。だって生のお肉ですよ。いやノーパンのほうじゃなくって、しゃぶしゃぶのほうだけど。
そうしたら「僕、いったことがあります」という編集者が現れました。なんでも、開店記念パーティにマスコミ関係者を大勢招いたそうです。そんな! 公官庁みたいなことをする風俗営業店なんて、聞いたことがありません。「ん? へんだな?」はますます「へんだな? へんだな? へんだ!」に変わったのです。そうこうするうちに開店記念パーティに招かれたのは、マスコミ関係者だけではないことが判ってきました。又聞きの話ですが、警視庁や警察関係者も招かれていたのだそうです。で、ほんとに出かけたのかどうか、までは知りませんが、その店の顧客名簿には公官庁の高級官僚の名前が並んでいるという噂話とジャーナリストから聞きました。
なんだかヘンでしょ? 風俗営業というよりも、高級シティホテルか何かの営業みたいな感じがしませんか?
センスが違うと感じたのです。生肉の件といい、開店記念パーティの件といい、お客さんのすけべ心を種にして稼がせてもらっている風俗営業のセンスじゃないなあと。結論を言うと、行政改革、霞ヶ関改革の絡んで高級官僚を陥れようとする策略なんじゃないかと疑いました。「そんなに大蔵省の名前を残したいのなら、検察や警察も検非違使にすればいい」と当時の橋本首相が言ったのもこの頃のことです。結果として大蔵省の名前はなくなりました。プライドが高い組織を改変するための策略だとしたら、ずいぶん、お金をかけるものです。開店記念パーティはご招待だったと聞いたので。
現在の検察について疑問を呈している本を2冊読んでいます。一冊は産経新聞記者の石塚健司「特捜崩壊」(講談社)。それから郷原信郎「検察の正義」(ちくま新書)。前者はノーパンしゃぶしゃぶが話題になった頃からの特捜に疑問を呈していたので、その頃「これはへんだなあ」と感じたのを思い出したのでした。それから10数年。「検非違使にすればいい」と言った橋本龍太郎氏も鬼籍に入られていますが、今度の小沢一郎氏の政治資金規正法違反事件では、大掛かりな策略もなく、ただの言いがかりのような嫌疑で、国会議員が逮捕されているように私には見えます。
937 20100130 時間が止まっている 「去年の10月以降の書類がありません」
助手の深野さんがそう言うのです。そうそう、去年の10月に家のリフォームしてからまだ全部、片付いていないのです。お正月にはなんとかなるかと思っていたんですけど、そうはいきませんでした。
次から次へと目の前に現れることをやっつけるだけが背いっぱいな感じで。
それで家の中をがさごそやってます。こういうふうになると頭が回りません。前にちょっと思ったんですけど、学校の成績が良い優等生って整理整頓が上手。あれって何か成績に関係しているみたいです。学校の生徒だった頃、先生がやたらに「整理整頓」って言ってたけど、それが成績と関係しているなんて、教わったことはありませんでした。でも、どうも関係しているみたい。
優等生とはちょっとデキ方が違う詩人とか作家とか、それから画家とか、そういう知り合いが何人かいるんだけど、これが、なぜかみんな、整理整頓ができないというか、まあ、ぐちゃぐちゃなところにいる人が多いんです。ええとけっこう、きれい好きでも、仕事にかかるともののけでも現れたみたいに、部屋が乱雑になるというタイプが多い。ほんとうに「もののけ」が現れているんじゃないかって信じています。ただ、去年に限って言えば、その「もののけ」を呼び出す神通力が少々、低下ぎみでした。なかなか仕事にかかれない。へえ、ものを書くのってこんなに体力がいるんだなんてみょうな感心をしている。「もののけ」が現れないから、部屋がぐちゃぐちゃになることもないのですけど、さりとて片付ける気力もないというまま、ああ、もうすぐ旧正月が来ちゃうんだなあ。困った。困った。
伊藤さん、そういうわけで、のたりくたりと、春の海になりたい中沢でした。写真はうちのポニョです。映画はまだ見てないんだけど、半漁人のポニョが好きなの。 937.jpg
936 20100122 くたびれてる。 去年の今頃は救急車で運ばれて病院で寝てたのだなあと思う。で、10日間で退院して、ほとんど入院中の仕事の穴を埋めたのだけど、今頃になってくたびれている。 936.jpg
935 20100117 昨日も今日も明日もおかたづけ 10月に家のリフォームをしたら荷物が収まりきれなくなってしまいました。さあ、どうしたらいのだろう。そういうわけで、ずっとおかたづけ。で、お正月にパソコンがおかしくなって、入れ替えたので、これまた家の中の混乱に拍車がかかる原因になりました。ちょっといやになっているんだけど。
となりに「ニトリ」が出来たのは、良いことのひとつ。それから写真は5年前の蔦温泉のものですけど、パソコンのデータがちゃんと移動できたのでアップしておくことにしました。
おかたずけなんかほうりだして温泉に行きたいなあ。 935.jpg
934 20100113 仙台堀を南へ 建築家の鈴木隆之氏の事務所に行きました。例の計画です(笑)。鈴木さんの事務所は深川のお不動様のすぐそば。下町です。
東京は西のほうは、イタリア料理やら、フランス料理がおいしいけれども、東はなんと言っても和食、いや、おでんにすきやき、やきとりにうな重、どじょう鍋、さくら鍋、それから忘れてならないおすし、かわったところではやまくじら(いのしし)なんて、ほんとに街にはおいしいものがごろごろという感じです。あと、豆菓子屋さんがあったり、人形焼き屋さんがあったりとお土産も豊富。西高東低の冬型の気圧配置ならぬ、西洋東和の東京の食べ物事情です。
それで鈴木さんからうな重をごちそうになりました。ごちそうさま。いつもは麦とろなんだけど、麦とろ屋さんが月曜日で御休みしてました。成人の日だったので、晴れ着姿の人も多いっていうのに、ちゃんと定休日をやっちゃうところが下町です。それから、清澄公園脇のよーがんれーる本社というよりも「ばーばぐーり」と言ったほうがいいのだけど、そこの初売りを覗きました。「ばーばぐーり」の裏は仙台堀。仙台堀のふちをあるいて南の木場方面へ。
仙台堀は隅田川に流れ込む川ですが、川岸は桜の並木に柳の並木。いろいろな形の橋が架かっています。もちろん桜はまだ冬の姿。川の流れは冷たい緑色。そこに鴨が遊んでいました。春になったらさぞ見事な眺めでしょう。木場まで歩いて、木場公園の東京都現代美術館へ。チケット売り場は行列が出来ていました。私が見たのは
「ラグジュアリー展」。17世紀からのオートクチュールの歴史を踏まえた服飾の展覧会です。
ええと、いまさらと呆れられそうですが、貴婦人を描いた絵画を見ているとスカートは扁平に見えるのはなぜだろう? と前々から疑問に思ってましたが、あれは実物が扁平だからなのかと、実際の服を見て納得。スカートは左右に張り出していて、円錐形に膨らんでいるのではないのです。円錐形に膨らむのは19世紀になってから。そんなこと知っているわいって言われそうですけど、私には発見でした。それから、19世紀までの服は後姿が美しい。後ろから見られることをすごく意識している服です。背中には裳がついているの。それで裳すそを引くようになっている。で、男性も女性と同じように華やかで、華美なほど。19世紀になると男性の服の展示がなくなってしまうのはきっとスーツが登場したからに違いありません。
で、どこかで男性の服飾の展覧会ってないかしら? っていつも思ってます。私の父は(貧乏でしたけど)モーニングを持ってました。式服です。でもイブニングはもってなかったの。だって庶民だから、夜会はないので。息子は燕尾服を持ってます。これは音楽会のステージ用。あと、小説を読んでいるとフロックコートってのが出てくるけれど、フロックはほかのコートとどのように違うのだろう? そういうのを系統的に見せてくれる展覧会があれば、すぐに出かけてゆくのだけど。
道端で出会う新成人の、とくに男性の服装は、これまた別の意味での展覧会でした。まさしく「生きた」コンテンポラリーアートの展覧会でした(笑)。
933 20100110 黒門市場でふぐ ふぐじゃなくって「ふく」なのだそうです。テッポウとも。あたると死ぬから。それで「てっちり」「てっさ」。とらふぐの毒は卵巣にあるのだそうですが、やっかいなことに、ふぐは精巣が卵巣に変化する個体がいるとのことでした。だから、ふぐはおなかを裂いて、白子が入っているのは白子を見せて売っているのですね。で、時々、白子だと思って食べたら、変化の途中のやつがあって、これで中毒すると、とんでもない「大当たり」になるようで、ふぐって変なお魚です。
黒門市場で「ふく」を食べてきました。てっさとてっちりで。あと白子の塩焼き。それに鍋かわを追加注文しました。白子の塩焼きは素焼きの鉢に白子を並べて焼いてあるのです。鍋かわは、鍋用に切ったふぐの皮。皮はふつう、湯引きにして細切りにして食べますが、鍋に入れてもぷるぷるしておいしい!
お店の入り口に大きな水槽があって、たくさんふぐが泳いでいました。やっぱりふぐは暖まる。ふぐと鱧は関西のほうがおいしい気がするのですけど、気のせいかしら? 東京だとふぐを食べたいとも思わないんですけどねえ。あ、「てっさ・てっちり」の看板を見かけないせいかしら?
932 20100107 禁断のお汁粉 今日は七草粥の日。朝、目がさめるとなぜかお汁粉が食べたくなっていたのは3日の朝のこと。
七草粥のための七草は2日ほど前に買ってきました。で、お汁粉ですが、これは糖尿病患者にとってはちょっと危ない味。
2日前の夜更けの豆蔵君との会話。
「前から死ぬのは怖くなかったんだけど、痛いのが怖かったの。でも、去年、心筋梗塞やったけど、あまり痛くなかったもの」
「先生(豆蔵君は元日芸生なので、そのころからの習慣が残っているので、こう呼ぶ)糖尿病の特徴を解ってますね。あれは痛みを感じなくなるんですよ」
「そうなんだねえ。自然はまことにうまくできている」
「そういうワケじゃあ、ないでしょう」
いや、そういうわけだろうって。そんなことないか。
それで禁断の味に手を出しちゃいました。お汁粉! お汁粉! お汁粉! ああ、旨かった。
931 20100106 治って壊れてまた壊れちゃった。 そういうわけで2年10ヶ月働いてくれた「牛丼」パソコンが壊れてしまいました。秋葉原で3万5千円くらいで買ったパソコンでした。それで、豆蔵君に「SOS」。近所のコジマ電機でパソコン本体とモニター、それにキーボードの3点を9万9千円で買ってきました。パソコン本体はおよそ15cm×15cm×5cmという大きさ。なんと小さく安くなったことでしょう。メーカーはONKYO。これって、もしかするとステレオのメーカーかしら? そのせいかモニターには立派なスピーカーがついていて、画面はカラーテレビなみです。
仕事で使っている「超漢字」は丸ごと、新しいパソコンへお引越しさせました。だから、以前と同じ状態で使うことができるのは、うれしかったことのひとつです。
新年早々に豆蔵君は2日間出張して、新しいパソコンを設置してくれました。帰りは2日とも深夜。豆蔵君とのよもやま話は久しぶりだったので、これもちょっと楽しかったのです。豆蔵曰く「これは絶対、ウィルスに感染していたんですよ」そうなんでしょう。さらに、豆蔵曰く「心筋梗塞は2度目はないってお祖父さんが言ってました」へぇ! そうなんだ。
930 20100103 あけましておめでとうございます。 新年早々にパソコンが壊れました。これは別のパソコンから書き込みをしています。メールを下さった皆さん、そいうわけでパソコンの修理をするまでしばらくお返事をお待ちください。
管理人の豆ちゃん、電話します。わぃ、困った。
いやあ、治った!治った!どうして治ったのか解らないんだけど、治りました。ちょっとあせったけど。
929 20091225 昔のてっちゃん、今のヒコウ中年 高校時代のともだちと久しぶりに飲みました。32年ぶりだって! そんなになるのかな? という感じでした。
それで出るのは、あれこれと人の噂、いや消息でした。鉄道マニアの同級生が何人もいたのですが、昔の鉄道マニア、通称てっちゃんは今では、マイレージを使った飛行マニアになっている様子です。確かに航空会社のマイレージは地下鉄でもコンビニでもためることができるようになったので、かなりの距離を稼ぐことができるでしょう。奥の手は、羽田から新島に一日に4往復することだそうです。搭乗回数も稼げるし、マイルも出る! それで、不足分のマイルを補って、長距離の航空券をゲットするとのこと。よく考えつくなあと感心。
さらには日帰り長距離旅行。どこまで日帰りで行けるかと熟考して遠くまで出かけるのだとのこと。なんでも石垣島くらいなら日帰り長距離旅行は可能だとのことでした。
「それで、よく奥さんが怒り出さないなあ」
一緒にいたもう一人のともだちがつぶやくと
「それがあるから、日帰りなんだよ」
との返事。うむむむ。
どうやら、飛行中年は、奥さんにとっては非行中年のようです。昔のてっちゃんも、しばしば家出少年と間違えられたりしていましたから、今も昔も変わらないというわけです。
928 20091223 買ったもの 久しぶりに館山に行って駅前の亀屋で買ったもの。
落花生 ピーナッツにしようか、殻付きの落花生にしようか散々迷いました。
はばのり 春の磯の匂いがする。なかなか手に入らないけど、ぐんぜんに入荷していた。のりを見ると、伊藤さんを思います。
蒸しあわび 煮たあわびのほうが大きいのだけど、蒸しあわびのほうがおいしい。
鯛みそ 天津小湊のおみやげ定番。
黄金らっきょう 館山のおみやげ定番。ラッキョウは砂地でよく育つのだそうです。
無砂糖ピーナッツバター お砂糖が入っていなくてもピーナッツだけで充分に甘い。落花生も砂地が良いそうです。
くじらのたれ 鯨の肉にタレにつけて干したもの。これはお茶付け用。昔は八百屋で売っていたと言ったら、お店の人が驚いていた。
かつおの塩辛。
酒盗じゃなくて、ほんとにかつおのワタの塩辛。うちのお祖父さんはこれをおいしそうに食べてました。
黒門市場で買ったもの。
梅花型蒲鉾 松葉型蒲鉾
もちろん、お正月用。
丹波の黒豆の煮たの
これもお正月用。
からすみ
お正月用だったけれども、もう食べました。すこぶる旨し!
小豆島のオリーブの実
みどり色がとてもきれい。
よもぎ麩 粟麩
鴨のじぶ煮をするときの添え物にするつもり。でも、いつのまにか食べてしまうかもしれない。
くわいの煮たの
もちろんいお正月用
天王寺の近鉄、いつもの漬物屋さん
すばらしく大きな「すぐき」を2つ
千枚漬けを小分けにして袋につめたやつ。
水菜の塩漬け。
昆布大根。
黒門市場で注文した「ふぐ」が届くはずなんだけど、まだ届かない。どっかとトラックが止まっているのかしら?雪が降ると荷物が届かなくなるって言っていたけれども。
927 20091221 黒門市場 アメリカ東部はたいへんな寒波に襲われているようですが、伊藤さんのところは大丈夫? 大阪の黒門市場を歩いてきました。大阪も先週末からすごく寒く、日曜日には小雪が舞いました。
以前、知り合いと黒門市場でふぐを食べたときもすごい冷え込みだったのを覚えています。黒門市場はやはり「ふぐ」が目につきます。とらふぐの白いお腹に、白子を並べた魚屋さん。歩いていると、中国人や韓国人の観光客が話す声も聞こえてきました。お正月の買い物の人がそろそろふえだす頃。珍味屋さんには飾り松や梅をかたどった飾り蒲鉾がたくさん。それから栗の甘露煮。京都の錦市場よりもずっと安いので、内心「しめ、しめ」と言う感じ。八百屋さんは、にんじんを梅花に切ったり、百合根を花型に切る注文を受け付けますの文字がありました。魚屋さんが、魚の下ごしらえやお造りを引き受けるのは珍しくありませんが(ふぐなんて怖くって素人じゃあ手が出せませんし)八百屋さんが、野菜の細工を引き受けるというのは、初めて見ました。
ふぐは丸ごと一匹買うと、魚屋さんが「ちりにしますか? てっさ(ふぐさし)にしますか?」と聞いて調理してくれます。「皮はどうします? 湯引きにします? それとも、鍋に入れますか?」と細かな注文も聞いてくれます。それで宅急便で送ってくれるの。23日にお客さんがあるので、一匹をふぐちり用にして送ってもらうことにしました。
「時々。ごく、まれにですけど。雪は降りますのや。途中の道に。そしたら、荷物が着かないことがあります。そのときは電話しておくれ」
と言われました。関ヶ原あたりが大雪になると、トラックがまったく動かなくなることがあるそうです。まだそんな季節じゃないと思うけれども、今年は例外的な大雪もあるかもしれません。
あと、八百屋さんで小豆島産の新物のオリーブを見つけました。きれいな緑色のオリーブです。
926 20091117 インスリン注射 お終い! 1月からずっと糖尿病の治療に使ってきたインスリン注射をやめることができました。これからは注射のかわりに、服用薬に。なんとなく一安心。ペン型の注射薬をカートリッジ式の使い捨て針で打つという注射だったのですが、これでも持ち歩くのはけっこう面倒。お薬ならポケットに入れておけます。
昨日はお医者さんのはしご。まず糖尿病の先生のところへ。受付に「季節性インフルエンザの予防注射予約受付 残り1人分」とありました。それから新型インフルエンザの優先接種の順位の張り紙。インフルエンザはやってます。そのあとは眼科の先生のところへ。白内障の経過観察。こっちも問題ないとのことでした。
飯田橋の駅で皮膚科の看板に「巻き爪でお困りの方」と書いてあって、ここまで病院をはしごするなら、ついでに足の巻き爪もなおしちゃおうかなと考え込み、ああ、その前に歯医者さんに行かなくちゃと思いなおしました。あまりにも下顎が痛くって歯医者さんに駆け込んだのは去年の今頃でした。それで、心筋梗塞騒ぎで歯の治療は止まったまま。
止まったままといえばリフォームした家の中もそのままでごちゃごちゃ状態。やれやれ。ともあれ注射がなくなったので万歳!
925 20091028 伊藤さん、生きてま〜す。 ええと家のリフォームをしている間に、今年のお誕生日が過ぎてしまいました。50歳になったの。それで弟のお嫁さんがお祝いの電話をくれました。
でも、家の中はまだむちゃくちゃです。それに、家具屋さんが家具の寸法を間違えて、洗面所の棚がまだ設置できてません。今週の金曜日に設置してもらえるとのことでした。住んでいるままのリフォームだから、荷物をあっちへ運び、こっちへ運びで、なぜか右足の付け根がずきんと痛み出しました。いきなりずき〜んと来るの。すぐに収まるのだけど、その時はびっくりするぐらい痛い。で、バンテリンを貼ってみました。これがうまく効いてくれたので、今はなんでもなくなりました。
なぜか温泉に行きたいと思ってます。それから、静岡県島田の大井川にかかる蓬莱橋を渡りたい。大井川鉄道を走っているSLにも乗りたい。ミシュランの京都、大阪版を買ってきたら、かぶら蒸しとふぐが食べたくなった。あと、京都の「うるわし屋」さんから蒔絵展の案内が届いていたから、それも見に行きたい。大阪の松竹座と京都の南座で芝居を見たい。「アバンチュールはパリで」という韓国映画と「私が出しましょう」という森田芳光監督の映画が見たい。両方とも公開中。やりたいことはいっぱいだけど、家の中がめちゃくちゃなの。
924 20091027 とりあえず 伊藤さん、生きてますよ!
しばらくここへ入らなかったので、パスワード忘れてました。じゃ、また、あとで。
923 20090928 修理、修理、修理。 今週は家のリフォームが始まる。それで、これから目医者さんへ。今年は家の修理と、身体の修理でいっぱいいっぱい。やんなっちゃう閑がない。どうしましょ。
922 20090924 高視聴率 なんと! 伊藤さんと出たララテレビの3回目の放送が、たいへん高視聴率だったんですって! 伊藤さん、知ってましたか? あれって息子とのバトルの話をした回でしたっけ? 実はよく覚えていないの。
「うさぎとトランペット」がNHKのラジオで朗読されます。放送の日時が決まったら、またお知らせするようにします。
ええと、これから出かけるんだけど、まだ暑いし、でも真夏の服は着たくないし、いったい何を着たらいいのかわかりません。どうしましょう?
921 20090904 見える! 見える!! 白内障の手術しました。
0.1の視力が翌日には1.2になりました。
見える。見える。手術前にはもう一度、まん丸のお月様を見てみたいものだと思っていました。空が晴れればきっとまん丸のお月様が見えるでしょう。
白内障のために円形は輪郭が滲んでしまい、それがまた横もしくは縦にずれるものだから、満月は幾つものお月様はぐるりと輪を作っているように見えていました。それから1,000円の値札が、0がずらりと並んで、1兆円くらいに見えたのでした。景気はいいんですけどねえ。これもちゃんと1,000円に戻りました。
920 20090821 人気のセ、実力のパ 民主300議席に迫る勢いという選挙報道を見ていて「人気のセ、実力のパ」という言葉があったのを思い出しました。巨人軍が常勝していた時代のプロ野球を評した言葉です。人気があるのは常に巨人軍が勝つセ・リーグ。しかし、実力があるのは各々のチームが競い合うパ・リーグ。野球にそれほど詳しくない私はそう聞いていました。
今、思えば、巨人軍常勝時代は自民党の登り坂時代でした。あるチームが常に勝っていれば、あまり野球を知らない人でも常勝チームのファンでいられるというわけです。ほんとうにおもしろい野球の試合が見たい人にとっては、飛びぬけて強いチームがあるのは「退屈でしかない」ということになるでしょう。
小選挙区制が導入されたとき、日本のいずれ2大政党の時代が来ると聞かされました。以前の中選挙区制ではなかなか2大政党にはならないのだそうです。だから、今度の選挙で自民党大敗で、民主党が政権与党になったとしても、そんなに驚くことはないのでしょう。小選挙区制という制度が機能していることを示しているのでしょう。それがどう野球に結びつくかと言えば、巨人常勝のセ・リーグ人気時代が終わって実力のパ・リーグ時代が来るみたいなもんだなあと、思ったからでした。
もっともスポーツの世界のほうがずっと進んでいて、常勝チームのないサッカーのJリーグ人気が野球の人気に優るところが出てきたのは、もう20年くらい前でした。それから細川内閣が出来て、村山内閣が出来て、さらに小泉人気と考えると、もうずっと前に2大政党の時代は始まっちゃっているとも言えるのでしょう。
919 20090817 それほど、ご心配はございません。 再入院するにあたって娘が付き添おうかと言ってくれていました。そんなに大袈裟にすることもないだろうと思っていたのですけど、ちょっと考えなおして、それほど大事じゃないときに付き添ってもらったほうが、何かの時の経験になるからいいかもしれないという気になりました。
娘がちょうどお盆で、休暇を貰っていたのです。ただそのために前の日にかなり遅くまで会社で残業をしていました。で、当日は眠そう。もともとあまり大袈裟にしたくないなぁという心理が働いていたので「眠かったら寝ててもいいよ」と、一人で荷物を持ってえっちらおっちら病院へ出かけました。それまで何度も「それほどご心配はありません」とも言われていたのでした。
で、病棟について、看護師さんやお医者さんの説明を聞いているうちに、だんだん、これは大事だということに気づきました。「それほどご心配はございません」という文句の中で、重要な意味があるのは「それほど」の部分で「ご心配はございません」は患者を落ち着かせつためのいわば「つけたし」だと気づいたのです。
時々、あることで、辞書的には大きな意味もない「接頭語」や「感嘆詞」「接続詞」などの裏に膨大な意味が隠されていることが。文学はそれを発見して研究するのですけど、世の中一般では、広く使われている技法ですなんて、解説してもしょうがない。「それほど」の部分に隠された様々なアクシデントについては、私が聞いておくよりも娘に聞かせておいたほうがいいことがたくさんありました。だって、検査のリスクに含まれる脳梗塞などを起こしたら、私は何も言えません。あ、失敗したなあと多少あわてたしだいです。ま、娘は午後から病院にやってきて、おおよその説明は聞いてくれましたけど。
私としてはあまり怯えたくいし、大袈裟にしたくないのですけど、親としては、こういうときはちゃんと子どもに頼っておかなくちゃいけないのかなと思いました。なぜか頭の中に、法政大学の何某先生が現われて「子どもに頼らないのは、それは子どもの学習権の侵害です」と演説してました。嫌だねえ。学校なんぞに出ていると、学習権なんて新語が飛び出してくるし、造語も次から次へとあふれるし。
「老いては子に従え」って、そういう意味だったのかと、なんとなく感心。まだ、ちょっとお婆さんの演技研究が足りないようで、これは研究の価値ありです。子どもの学習権を侵害しないように、研究しなくちゃ。でも私の親はどちらも乱暴でした。だっていきなり葬儀屋とお寺さんの研究という課題を出したんだもの。ま、先生の中にも乱暴なやり方をする人もいることだし、本人がカリキュラムを選べるわけでもないから仕方ないか。
918 20090816 頼朝公御年6歳のみぎりのシャレコウベ 「頼朝公御年6歳のみぎりのシャレコウベ」は落語に出てくるいかさま骨董屋のせりふですが、私、自分の御年6歳のみぎりのシャレコウベを見たことがあります。
学校の廊下で転んで、脳震盪をおこし、レントゲン写真を撮ったのです。医師の説明の時に、母と一緒にそのレントゲン写真を見ました。母は一言。
「まあ、なんて怖い顔をした骸骨でしょう」
って。だいたい骸骨は怖い顔に決まっているように思えるのですけど。医師の説明はすっかり忘れましたが、母の一言は今でも忘れられません。
で、こんどは自分の心臓が動いているところをしっかりと見てきました。心筋梗塞を起こしたときに受けたステント手術の経過を見るための再入院検査を受けてきました。心臓ってのも、生まれる前から働き出して、昨今の脳死という定義を用いれば死んでからも働き続けるのですから、たいしたものです。
ステントが再狭窄を起こしていないかどうかを調べる検査だったのですが、方法としてはステントを入れる手術を同じ方法です。その施術で500人に一人くらいは血栓が脳へ飛んで脳梗塞に罹患する人がいるそうです。500人に一人!でも脳梗塞が起きたらその人にとっては100パーセントの確立になるわけで。それからステントの再狭窄は30%から40%の確立。3人に1人は再狭窄しているってことですね。
なんでも血管に入れたステントを血管の壁が内部に取り込もうとして、結果として血管が狭窄してしまうのだそうです。
なぜか、私はフェンスの際に生えていた楠が、幹の中へフェンスを取り込んでしまう場面を思い浮かべました。
「そういう現象って、健康な反応ですよねえ?」
と説明をしてくれた医師に質問ですと
「生理的には健康な現象です」
というお答えでした。
生理的には健康でも、心臓にとっては冗談じゃないっていう現象だとのこと。
人間の社会では部署ごとにたいへんがんばると、全体的にはとってもへんてこりんな不都合が起きているということがありますが、人間一個の身体の中でも同じようなことが起きるわけねと、納得。
そんなこんなで、再入院して検査を受けてきました。今度は前と違って、ちゃんと全部解っているのが「嫌だなあ」と思っていたところ、またもや検査の前にお薬が出てきました。なんでも「ちょっとぼうっとする」お薬だそうです。小さなカプセルがひとつ。円くて小粒なやつがひとつ。あとはちょっと角張った小さいお薬。この3粒を飲むと「ちょっとぼうっとする」のだそうです。
そういうわけで、御年6歳のみぎりのシャレコウベに続いてもう50年も働いている心臓の動いている写真を見てきました。母がいたらなんて言うかしら?
「まあ、なんて丈夫の心臓だこと!作った私に感謝しなさい」なんて言うのかしら。
917 20090731 イギリスの西の果ての町から イギリスの西の果ての町から帰ってきました。考えてみたら、イギリスの西の果てということは、イギリスで日本に一番、近い場所ということになるのでしょう。
ランズエンドという場所がブリテン島の一番西の端っこだそうです。で、ここは観光地として人が大勢来るので、子ども向けのアトラクションのある建物までありました。すぐ近くには「南の果て」もあるのだそうですが、そちらのほうはめったに行く人はないそうです。名前が付いてないと、目的地にならないのですね。
イギリスは24年ぶりでした。24年前はまだアンカレッジ経由の時代で、アンカレッジから北極地方を経由して欧州に行くには30時間以上の時間がかかったと記憶しています。今夏は行きは12時間、帰りは11時間でした。ソビエト時代に、一度だけモスクワ経由で日本へ帰って来たことがありますが、その時は16時間の飛行時間でしたから、今回のロンドン直行はすごく楽でした。遅ればせながら、東西冷戦終結後に便利になった空の旅を経験しました。
アンカレッジ経由時代に、極点近くを飛行しながら、機長も驚くほどのオーロラに出会ったこともありました。この時は、まだ小さいかった子どもたちも一緒で、子どもが大人になった今に至っても覚えています。もうそんな飛行経路をとることはないのですね。
916 20090722 イギリスに行ってきます。 イギリス南部のコーンウォールという町までロンドンから列車で旅をしてきます。まだ使ったことがないデジタルカメラを使ってみようと思っています。
帰りは月末です。では、行ってきます。
915 20090713 お金のなる木 「お金のなる木」ほんとうはもっといい名前があるのでしょうけれども、なぜか「お金のなる木」と呼ばれている植木があります。うちの「お金のなる木」は、かれこれ17、8年前に叔母の家に庭先から一株もらってきたものです。ずいぶん大きく育っていました。
それがこの春先から大風が吹くとぼきぼきと折れるようになりました。木としての寿命が来たようです。木と書きましたが、実際は多肉質の植物です。で、100年に一度の不況と言われる時節柄、「お金のなる木」が枯れてしまうのは、縁起がよくない。
でも、大丈夫。「お金のなる木」は挿し木でよく付くのです。で、小さい鉢を3つほど使って挿し木をしました。「お金のなる木」を増やしたわけ。
「お金のなる木」のほうも、寿命が来ると風でぼきぼき枝が折れるのには理由があるようです。折れて吹き飛ばされた枝が、どこかの地面に刺されば、そこから根が伸び、新しい「お金のなる木」になるというわけ。それもベランダでは望みがないなあ、と思っていましたが、今朝、他の植木鉢にちゃんと根を下ろしている「お金のなる木」の小さなやつを発見しました。ことによると、どこかとても遠くへ吹き飛ばされて、そこで根を下ろした「お金のなる木」もあるかもしれません。「お金のなる木」の度胸はなかなかのものです。
思い煩うことなかれというのは、こういうことを言うのかもしれません。
914 20090708 いけども、いけども。 時々、原稿を書くのがいやだなあと思うことがあります。もうちょっと正確に言うと「原稿を書く状態に入ること」が嫌だなともたもたするのです。どうして嫌かというと、身体をここという空間に置いたまま、自分はどこか別のところに行っちゃうから。原稿を書いていると時間の進み方も、身の周りの空間の把握の仕方もいつもとはぜんぜん違うものになります。
きっと絵を描いている画家も、音楽を演奏している演奏者もそんな感じなのでしょう。いや、画家や演奏者だけではなくて、絵を観ている人も、音楽を聴いている人も今ここにいるという感覚が薄らいでいることでしょう。時間を忘れて本を読むことがあるように。原稿を書いている時はそれと同じなんです。「原稿を書いている状態」に入るのが嫌だなあと感じるのは、そうなりたくないという意味です。
結果として書き終わるとどうなっているかと言えば、家の中はもののけがいたんじゃないかと疑りたくなるぐらいごちゃごちゃ。どうしてこうなるの! と。若い頃に比べたらだいぶ用心はしているんですけどねえ。それで新聞連載を始める前には、コンテナ倉庫を借りて、家の中のいらないものをそちらに移したりもしましたし、そこまで用心したけれども、思い返してみると去年の4月頃から、用心だけじゃあ足りなくなって、無理に無理をかさねていて夏休みを待っていたにもかかわらず、夏休みは学校があるとき以上の大混乱で、切り抜けるのがせいいっぱい。そのまま秋に日中韓の文学フォーラムに出かけて、ようやく一息ついたのは11月。なぜか奥歯が痛みだしたと思ったら、これが心筋梗塞の前兆で、1月には救急車。12日ばかり入院して、退院した次の日に卒論面接で、そのまま入試の採点へ。
そんな具合だったので「あ、あ、遊びたい!」という心境になり、熊本から博多に出て瀬戸内海を遡って大阪へ。外をふらふら歩き回るのはちっとも苦にはならないのですけど、これが「義務」という文字がつくとあらゆることが「イヤダ!」になる始末。大阪の四天王寺で舞楽を見たのは4月中旬。それから小袖の展覧会も見ました。あと京都もふらふらしたし。映画も観たい。芝居も観たい。取り壊しが決まった歌舞伎座にも行っておきたい。ゴーギャンの展覧会も行きたい。ど、ど、どうしよう。あ、イギリスに行く予約があったのをうっかり忘れていた。というような具合で、何が言いたいかというと、ようやく、もののけがいた家の中を片付け始めたのです。家の片付けをすると「原稿を書く状態」に入るのが嫌になってしまいます。だって、それってもののけを呼び込むのと同じなんだから。
家の主が心ここにあらずの状態になると、それっとばかりにもののけが家の中に入ってきていろいろいたずらをするのです。書類を隠す。なんてのはいつものこと。なぜか冷蔵庫の牛肉がなくなる。(お母さん、それってお母さんが食ったの忘れているんだよと、息子は言いますが)一万円札が全自動洗濯機の中でぐるぐる回っている。3年前に支払ったはずの古本屋から請求書が届く。どうしてこんな物を選んだのだろうと首を傾げたくなる赤いワンピースが出てくる。それもこれも、私が原稿を書いていたために、心ここにあらずで、もののけが忍び込んできたおかげだとしか言いようがありません。
んなことは言ってられないので、机周りを片付け始めました。これが「いけども、いけども、どこまで続くぬかるみぞ」という状態。もののけさん、もし私の嘆きが聞こえたら、ちょっと姿を見せてくれませんかね。いえ、いたずらをするなとは申しません。お姿をひと目だけ見たいのです。どうも、数々のいたずらの性質から見て、ものすごく怖い妖怪変化とは思えないのです。きっとかわいらしいお姿をしているのではないかと推察しています。そのかわいい姿を見ることができたら、この「行けども、行けども どこまで続くぬかるみぞ」の状態もまあ、笑って片付ける気になるかもしれません。
913 20090705 K2旅行記 始めました。 韓国の女性作家 姜英淑さんとの往復書簡「K2旅行記」始めました。ほんとうは今年の初めにはもう姜英淑さんのお手紙は届いていたのですが、私がちょっと救急車で運ばれて、最初の旅行があの世に行くというとんでもない展開になりかけたので、遅れました。
姜英淑さんは2年ほど前には、法政大学の研究員として半年、日本にご滞在でした。2006年のことです。その時は、春の熊本、初夏の青森、夏の大阪と御一緒に旅行をしました。写真は青森の酸ヶ湯温泉で撮影したものです。姜英淑さんと私で、あちこちと旅行をした様子をお互いに報告しようというページです。写真も撮影してこようと思っています。で、もうコンパクトなデジタルカメラを購入してあるのですが、まだ使い方がよく判っていません。少し研究してみます。
姜英淑さん、私もすぐにお返事を描きます。まっていてください。
皆様、姜英淑さんと私が世界を旅します。どうぞ楽しみにして下さい。 913.jpg
912 20090626 いろいろ 伊藤さん、タケをお大事に!
日比さんが東京にお引越しです。近かくなりました。まだお目にかかってません。近々にお目にかかって高台にあるという新居のお話もうかがいたいと思います。かわいいポポとリリの様子も聞いてきます。
で、その日比さんの新しいお住まいのある高台の下を小田急で通り抜けて箱根塔ノ沢の福住旅館に行ってきました。このHPの作成会社の金承福さんと一緒。ほんとうは芦ノ湯まで行きたかったのですけど、飛んで行って飛んで帰らなくちゃいけなかったので、塔ノ沢にしました。それに福住旅館の円風呂に湯坂山の新緑が移っているところも見たかったし。
金承福さん、それから韓国の作家の姜英淑さんと三人で青森の蔦温泉に行ったのはもう2年も前のことです。金承福さんは蔦温泉をすごく気に入ってくれたようです。だから、木で作った円い湯桶のふちを、銅の枠で囲っている円風呂もお気に召していただけるんじゃないかと思いました。
旅館について女中さんと話していると、少し前まで蛍が飛んでいたとのこと。宿の前を流れる早川は、前日までの雨で水量が増してごうごうと音を立てていました。早川に蛍が飛び交うのは例年6月10日前後なのだそうです。私、今まで一度も蛍を見たことがないのです。だから来年はぜひ蛍を見に来たいと思いました。金承福さん、来年、また、蛍見物に付き合って下さい。
911 20090614 あれはペギー・ロッシュだったのか 銀座のシネスイッチで映画を見てきました。和光の裏と覚えて出かけたのですけど、道を一本間違えて、少しうろうろ。初めて行く映画館でした。
見たかったのは「サガン」。この間「ココ・シャネル」を試写会で見たついでに、こっちのほうも見たくって出かけました。「ココ・シャネル」は仏、伊、米の合作でシャネルは「英語」を喋ってました。歌を歌うところだけ仏語。サガンが英語! なんてことはないだろう。フランス映画だしと思いつつ、映画館の前に到着。
チケットを買って、少し時間があったので、2件となりの洋服屋を覗いて、お買い物。映画館は地下なので、ゆるくカーブした階段をそろりそろりと下りていました。左目が曇っているので、初めての階段を下りたり登ったりする時は、ゆっくりお婆さんふうに行かないと、思わぬときに躓くのです。すると上の方から「お客様」の声。洋服屋さんに忘れ物をしたのでした。「映画に見に来たの」をしゃべっていたのが幸い。店員さんが追いかけてきてくれました。
これは、本当にお婆さんだなと思いながら、再び、階段をそろりそろり。と、今度は下から「先生!」。ゼミの島田君が白いYシャツにネクタイで、受付にいました。今日はなんだろう! 学校ではネクタイを締めているところは見たことがなかったのですけど、やっぱり男性はネクタイを締めるとなかなか立派に見えます。
「ねえ、ここって全部、禁煙かしら?」
「あ、全部、禁煙です」
「じゃあ、外に行って煙草を吸ってくるから、チケットの半券を返してもらえないかな」
「再入場券があります」
てなことを問答をして外に出してもらい、煙草を吸って戻りました。だって、この間、見た「ココ・シャネル」はずっと煙草を手放さずに、コレクションの準備をしていたんだから!それにサガンもシガレットは大好き。うちに30年前にサガンと対談をした時、もらったサイン入りの肖像写真があるけど(どっかにあるはず。でも、このごろ、見ていない。探せばあるはず)その写真も煙草を吸ってました。
で、30年前の夏、サガンに会った時からずっと気になっていたことがあったのです。サガンの隣にいた栗毛色の髪をした背の高い美人は、誰だったのだろう? ってことが。サガンとは親密な様子で、吸いかけの煙草を二人で吸ってました。編集者? 日本の編集者とは雰囲気が違うのですが、フランスの編集者って付き合ったことがないからわからないし? マネージャー? そう思ったほうがすっきりするのですが、外国の作家ってマネジャーがいるのかしら? って疑問は消えず。この時は小学館の女性週刊誌の依頼で、サガンと対談したのですが、小学館の編集者も「?」でそれが誰だったか判らないのでした。だからなぞのまま。
サガンとの対談はホテルオークラでしました。ロビーでデビ夫人を見かけて「あれ、デヴィ夫人は日本にいるんだあ」見とれたのを覚えています。で、編集者と一緒に客室へ。なぜかダブルのベッドルーム。きているはずのカメラマンの姿は見えず、編集者と顔を見合わせて「???」でした。どう考えても部屋の真ん中にダブルベッドがあるその部屋では対談ができるはずがありません。フロントに問い合わせたり、会社に電話をかけたりのてんやわんやがあって、結局、ホテルサイドか小学館サイドか、ミスの原因は判らないのですが、フロアを間違えていたことが判明。あわてて階段を駆け上がると、なぜか、また、デヴィ夫人と遭遇。と言ってもすれ違っただけですけど。
サガンの到着が遅れたので、まあ、相手様が来ないうちになんとかすべり込むことが出来ました。この時、サガンは初来日で、あとで五木寛之さんとの対談の中でご本人が言ってましたが、超過密スケジュールを組まれていたそうです。だから、お話なんか「もう、うんざり」という顔をしてました。で、聞き手の私のほうはひたすら「隣の女の人は誰なんだ?」という興味と、サガンの首に豆絞りの手ぬぐいが巻かれていたのが気になって仕方がないという状態。自分の緊張をそっちにそらしているということもあったと思います。それから、サガンの肌がめちゃくちゃにくすんでいたこと。艶がないというよりも、粉をふいたような状態。無数の小じわがあり、それを大きな皺が分断してるという感じ。これには写真を撮っていたカメラマンの人が驚いていました。
対談は小学館の週刊誌のためでしたが、あとで新潮社の「波」に7枚(枚数は間違っているかもしれない)ほどのエッセイを書くことになりました。これが、今まででいちばん悪戦苦闘した原稿でした。たった7枚のエッセイで10日間以上も書いては直し書いては直しをしたあげくに「書けない!」と絶叫。当時、住んでいた西荻窪の家の近くの蕎麦屋でざる蕎麦を10枚食べてもまだ書けないし、最悪だったのは眠くすらならないという状態に追い込まれたのでした。
だって原稿を書こうとすると「あの女の人は誰だったの?」という疑問が頭をもたげてきて、これはあんまり依頼された原稿とは関係がなさそうだから書けないなあと、筆が止まっちゃうのでした。今だったら、うまくこ疑問を原稿の中に取り入れちゃうかもしれませんが、その頃はまだそんな芸当は思いも付かず、次に浮かんでくるのは、カメラマンをも驚かせたサガンの皺、皺、皺。まさか「サガンは皺だらけだった」と書き出すわけにも行かず、また、そうは書きたくもなく、さあ、どうしたらいいんだの10日間でした。
結局、豆絞りの手ぬぐいをスカーフ代わりに首に巻いていたことは書けそうだと書き始めはしたものの、「豆絞り」と文字にして書いたとたんに、頭の中に「へい! いらっしゃい」となぜかおすし屋さんが浮かんで、そこからどうしても前へ進めないという状態に。ざる蕎麦を10枚食べたのは、この時。ざる蕎麦で邪魔なすし屋を撃退してなんとか原稿を書き上げました。
サガンの隣にいて青いブラウスの襟を整え、サガンの吸いかけのたばこを吸っていたのはペギー・ロッシュでした。映画を見て30年来の疑問が氷解。サガン役のシルヴィ・テステューもサガンの表情や喋り方の特徴をよく映していましたが、ペギー・ロッシュ役のジャンヌ・バリバールも驚くほどペギー・ロッシュの特徴を出していました。サガンよりも記録の写真や映像は少ないはずだから、これには驚きました。で、そのペギー・ロッシュは誰なのかというと元モデルで、後に「エル」誌の編集長(だから、なんとなく編集者の匂いもしたのねと、映画館の座席で納得)それからスタイリストとなり、サガンとは15年間、同棲していたという人物でした。なるほど。なるほど。で、映画を見ていた気づいたのですが、あの夏のサガンはまだ40代前半の年齢だったわけで、それであの皺では、カメラマン氏も驚くはずです。たくさんの皺に中に、写真でよく見知っているサガンの顔がうずもれているという感じでした。うずもれてはいるけれども、消えちゃっているわけではないの。むしろこんなに皺だらけでもサガンはサガンの顔をしているとそういう顔をしていました。カメラマン氏と「カミュは交通事故で死んじゃったけれども、サガンは助かったんだから」という話をしました。
910 20090610 カナルカフェに蛍 市ヶ谷経済新聞によると外堀のカナルカフェで蛍がいるらしい。それから東京大神宮のせせらぎにも蛍がいるとあった。「へぇ」である。というのも、実は蛍をまだ見たことがないので。
子どもの時、家の近くの農家の知り合いが「蛍をみにいらっしゃい」と誘ってくれたことがあったのを覚えているのだけれども、実際には見に行ったことがない。田んぼ一面に蛍が飛んでいるという話を聞いただけ。で、それからすぐに農薬の影響で蛍はいなくなってしまいました。そのうちに蛍見物に行きたいなあと思いながらもまだ見たことがないのに、案外、近くにいるものだと感嘆。関東は今日、梅雨入りしたそうです。
909 20090529 家の中でキャンプ 水曜日から給湯管の工事をしています。お湯が来る管なの。で、台所と洗面所とお風呂場とトイレが、交互に使えなくっています。昼間はトイレも使えないんだけど、工事が止まる夜はトイレは使えます。でも、台所は水曜日から金曜日の夕方まで使えませんでした。
それで缶詰でご飯食べています。家の中でキャンプ状態。この間、伊藤さんと明治屋に行ったんだから牛肉の大和煮とコンビーフを買ってくればよかったなあと少々後悔。それにしても小さな子どもがいないと、家の中のキャンプもそう悪くはないなあと思っています。
缶詰は「万が一」の時に食べるものだからと、子どもの時に言われてました。「万が一」ってどんな時なんだろう?と思っていました。「大洪水」「大地震」「高潮」「津波」などが「万が一」なのだと聞かされていました。あんまり、子どもの時に何度の聞かされので、感覚が逆転して、缶詰を食べると「万が一」になりそうな気がします。例外はキャンプでした。これは缶詰を食べてもいいの。
洗面台とか流し台を動かすと下から、昔の壁紙(クロス)や床のシートが出てくるんです。こんな柄だったなあって、すっかり忘れていても実物見ると思い出します。
908 20090528 よなよなエールとKOEDビール 伊藤さん、ありました。よなよなビールじゃなくてよなよなエールでした(つまりビールなんだけど)それからKOEDOも見つけました。両方とも缶ビールを通信販売で買うのが一番手軽な入手方法みたいです。しかも両方とも複数の種類が出ております。
以上、調査報告でした。
907 20090527 伊藤さんと行った靴屋で靴を買う。 伊藤さん、無事にアメリカにご到着。なによりです。靴を買いました。伊藤さんと靴屋さんに行った翌日、あの靴屋さんに行ったんです。
正確にはサンダル。ええと、足首と足の指の上と、その両方ともをマジックテープで止めるドイツ製のサンダルです。赤いやつ。ほんとうは、上履きみたいな金色のバレーシューズが欲しかったんだけど、そっちは、私の足にあうサイズが品切れでした。24センチなの。で、なぜか、どれもこれも24センチだけないのでした。
どうして24センチだけないんだろう?よっぽどあの靴屋さんは24センチの人が好きなのかしら?
実はあの靴屋さん、伊藤さんと行った時が初めてではありません。昔、数えてみると10年くらい前かもしれないけど、一度、靴を買いました。履きやすくて気に入っていたんだけど、どういうわけか、すぐに穴があいたの。ええと、私が靴の木型を無理やりに入れたせいかもしれません。でもすぐに穴が開いちゃったから、それからあの靴屋さんで買い物をしていませんでした。
伊藤さんと一緒に覗いたら、ちょっとまた欲しくなったの。それから明治屋の玉ねぎ、おいしかったです。ごちそうさまでした。
906 20090505 四天王寺の聖霊会 4月22日の四天王寺の聖霊会に行ってきました。
法政大学のネルソン先生にお聞きしたら「あそこの舞楽はまだ生きている舞楽だからおもしろいよ」とのお話でした。ネルソンゼミでは春合宿で四天王寺の聖霊会を見学したそうです。
聖霊会は聖徳太子の命日が2月22日であることから、もともとは2月22日に行われていたそうです。朝早くから深更まで続いたそうで、今では4月22日に行われるようになっています。池の上の石舞台で、舞楽が奉納されますから、2月じゃあ、寒くて、やるほうも、みるほうも、それはたいへん!
4月22日は良いお天気でした。四天王寺の山門をくぐると「どんどん」と鈍く響く音が。写真の大きな太鼓を叩く音でした。最初は昼の花火かと思ったくらいです。見物の人が「今日は風もよくって、気持ちよさそうに舞っているなあ」と簡単していました。
楽人は右方と左方に分かれて、交互に演奏します。それじたいは本で読んで知っていたのですが、2つのグループに分かれているから、長丁場の演奏を続けることができるわけだと実際に見て納得しました。事前にネルソン先生に様子を伺ってのは、せっかく出かけても何か手続きをしなければ見物できないなってことはありはしまいかと思ってのですが「そんなことはありません」というお返事で、そのとおりでした。ふつうのお祭りのお神楽でも見るように、みんな、思い思いに池の周囲に集まって見物していました。池の上に石の舞台があるので、とくに囲いなどしなくてもすむわけです。
池の中では亀たちが、小さな島にあがって、どういうわけか、舞台のほうではなくて、見物人のほうを向いて甲羅干しをしていました。古道具屋さん、古着屋さん、それから金物屋さんや小間物屋さんの出店が出ていて、洗濯バサミなどを買って帰るお婆さんの姿もありました。雅楽というと宮内庁の楽部などを連想するので堅苦しい気がしていましたが、四天王寺はいたって庶民的でした。以前、このお寺に来た時、あちらこちらに「ご供養受けます」とか「お葬式受けます。ただし当寺に納骨することが条件」とかいろいろと書いた掲示物があって、お寺のお堂では、御供養のお経を上げてもらう人がいたりして、お寺のデパートみたいだなという感じがしたものですが、そういう身近な感じは聖霊会でも変わりませんでした。 906.jpg
905 20090428 豚インフルエンザ 先週、金曜日の夜は大阪移動でした。で土曜日は大阪芸術大学へ講義。それからちょっと遊んでいたら、新幹線がなくなってしまいました。で帰りは日曜日。日曜日の新幹線の電光掲示板はしきりに「豚インフルエンザ」のニュースを流していました。
いったいいつそんな騒ぎになったんじゃ?とびっくり。なにしろ金曜日の夜の時点では草なぎ君の裸騒動一色でしたから。それにしても、このごろの警察はやりすぎなんじゃないかと、薬物反応も出ていないのに「家宅捜索」はないだろうと面白半分でいたところです。
豚インフルエンザじゃあ、面白半分でもいられないなあと電光掲示板を見ていたら、大阪から同行してきた長谷川郁夫さんが「豚じゃあ、鳥とちがって処分がたいへんだねえ」って。そういう問題じゃないだろう!「でも食べても大丈夫なんでしょ」それはそうですけど。なんだかへんてこな会話でした。隣の福江さんは白河夜船。我々、3人のように新幹線で東京、大阪をくたびれきったまま往復しているような人間がいちばんインフルエンザで死んじゃう可能性が高いんですけどねえ。まあ、心配してもしょうがない。どういう展開するのかわからないんだから。
新幹線の中でこれは、この後の進行の速度の問題だなあと思い、家に帰ってネットを見ようとしたら、なぜかPCのネット閲覧ソフトが新しいものにごっそりと入れ替わっていて、いったい、どうしたらこんなことがおきるのだろうと「???」でした。PCも何かに感染したのかしら?
伊藤さん、くれぐれもお大事に。ご家族の皆さんも御身体御大切に。そうそう、うちの娘は昨晩、私が咳をして「豚インフルエンザかしら?」と言ったら「ただの豚で、インフルエンザはまだついてないから平気、平気」などと言ってました。
904 20090423 おくやみ申し上げます。 伊藤さん、PCだけじゃなくて、ご自身の御身体も御大切になさってください。どうぞ御気落としなく、お過ごし下さいますように。
903 20090421 住吉大社のうさぎ お手水の水の噴出し口はうさぎでした。住吉大社は卯の花でも有名なのだそうです。今年は急に暑くなったので、卯の花もそろそろ咲き出しそうです。 903.jpg
902 20090420 住吉神社の猫 本殿裏のお稲荷様に猫がいました。招き猫はもともと狐だったそうです。 902.jpg
901 20090413 住吉大社の新郎新婦 住吉大社に行った日は結婚式の多い日でした。お嫁さんとお婿さんが次から次へに。 901.jpg
900 20090411 うちの桜 家のとなりの住宅展示場が撤去されたのは昨年の暮れのことでした。あとには日用雑貨を売る4階建ての店ができるはずだったのですが、1月16日からの工事が今現在に至ってもまだ始まっていません。だからきれいな空地。
この土地は住宅展示場になる前は製紙会社の工場でした。土手に桜が植えられたのは、住宅展示場が出来たときですから、かれこれ24、5年前です。
桜の木も25年もたつとたいそう立派な木になります。建物がなくなったので、今年は実にのびのびと花が咲いていました。この花の昨日の風であっという間に散って行きました。桜もこれでおしまい。ではないのです。この土手には八重桜も植えられていて、お花見の大騒ぎが終わった頃合を見計らって、ぼってりとした色の濃い花を咲かせます。 900.jpg
899 20090410 光が丘の桜 今年の桜は咲き始めてから満開になるまでが、ほんとうに長い桜でした。
満開になった桜がいっせいに散ってゆきました。散った花びらが地面に白く敷き詰められていました。桜の花びらの絨毯の上にシートを敷いて、静かのお花見をする女の人がふたりいました。自転車のおじさんは花びらの絨毯の上をくるりくるりと蛇行しながら走っていきました。
乳母車に乗っていた男の子が、白い花びらの上にトンととびおりて、あたりを不思議そうに眺めていたかと思うと、いきなり地面に向かって「ばいばい」「ばいばい」と小さな手を振り始めました。乳母車を押していたお母さんが「何にばいばいしているの?」と聞いても、答えずに一身に地面を見つめて「ばいばい」を繰り替えていました。白い絨毯に、桜の枝が影を落とし、光の波模様を描き出していました。風がさあっと吹くと、白い花びらがまた舞い上がりました。 899.jpg
897 20090409 花まつり 花まつりでした。近くのお寺で小さなお釈迦様のいる厨子を軒先に出していました。「どうぞおまいりしてください」の張り紙。そばには甘茶のポットと福あめそして金平糖が出ていました。小学生くらいの男の子がお茶を飲んでいました。近づくと男の子は「こんにちは」とご挨拶。それでお茶を飲み終わるとさっと姿を消してしまいました。お釈迦様に甘茶をかけて、お賽銭を置いてきました。
お釈迦様は生まれたとき、天上と地上を指差して天にも地にもわれ一人と言ったそうですが、赤ん坊は指差しこししないものの、たいてい天にも地にも我ひとりと言いたそうな顔をしています。で、中学生くらいになると、わざわざ「一人で生まれてきたみたい」な顔をするようになるの。赤ちゃんの時の自信の有効期限が切れちゃったんでしょうねえ。赤ん坊ってのは、どうしてあんなに自信に満ち満ちているのでしょうか。 897.jpg
898 20090409 上野の山の桜 久しぶりに動物園に行ったらずいぶんきれいになっていました。パンダの檻には「カンカンは慢性心不全で死にました」という表示があり、ジャイアントパンダの代わりにレッサーパンダがいました。そうかパンダも心不全だったのねえ。と妙にパンダに同情。そのことを知り合いに話したら
「だから痩せろって言ってるだろう。パンダも太ってたじゃないか」
だって。
「痩せたパンダなんか誰も見たくないでしょう」
「そんなにパンダがよければ笹でも食べな」
と、そんな会話。で、天草のたけのこをいただきました。馬場さん、どうもありがとうございます。私は笹よりたけのこが好きです。 898.jpg
896 20090407 醍醐寺の桜 豊臣秀吉が死の半年前に花見をしたという醍醐寺の桜を見てきました。「そうだ京都へ行こう」のポスターも今年の春は醍醐寺の桜が使われています。大阪からの距離感を知りたかったので、大阪を基点に醍醐寺に行ってみました。JR大阪駅ではちょうど、敦賀行きの特別快速がホームに入ってきたところに行き逢いました。で、その特別快速で山科まで、だいたい30分くらい。
山科から地下鉄東西線の醍醐駅まで、10分。醍醐駅にはお花見の人のための循環バスが出ていました。周辺は新しく開発された団地。醍醐駅も花見の季節以外は、たぶん平凡な郊外の駅なのでしょう。循環バスに乗ってみました。最初は歩くつもりだったのですが、案内表示にしたがって歩くとどうしても団地の中に入っていってしまうので、降参して循環バスに乗ることにしました。でも、この循環バスは醍醐寺の駐車場に近づくと、渋滞に巻き込まれて一寸も動かなくなってしまいます。
醍醐寺は京都の中心街から少し離れているので、ふだんは観光客も少ないようです。最近になって観光地を意識しだした様子がなんとなく境内の雰囲気から感じられました。三宝院のしだれ桜を見て、それから金堂へ。
醍醐寺は山すその下醍醐と山中の上醍醐に分かれるそうです。上醍醐の入り口には、鳥居がありました。仏教のお寺ですが、修験道の寺でもあるようです。それで、以前、京都じゅうの瀧に打たれているというタクシーの運転手さんがいたのを思い出しました。何かの取材の時に瀧に打たれる話を聞いたのです。京都の周辺にはけっこうたくさんの瀧があるとのことでした。
写真は上醍醐へ入る手前の講堂の桜。ちょうど満開でした。上醍醐はまたこの次の時にしようと、今回は下醍醐だけで引き返してきました。人の流れについて行くと地下鉄の駅に行く人々は団地の敷地の中に入って行きます。団地の真ん中に遊歩道風のゆるやかな下り坂があり、その坂はそのまま、駅ビルのショッピングセンターの二階へと続いていました。だから、案内表示に従って醍醐寺に行こうとすると、団地の中に入っていってしまうのでした。
地下鉄の醍醐駅から山科には戻らず、六地蔵に出ました。地下鉄の六地蔵から京阪宇治線の六地蔵までは、川を一本渡りました。川の土手にたくさんの菜の花が咲き、菜の花の群れのなかに「一級河川 山科川」の看板が立っていました。京阪宇治線は書中島で本線と合流。この書中島が昔の伏見の中心地だったようです。電車に乗ってみて「なるほどなあ」と納得。今の観光用ガイドブックでは、醍醐寺と伏見、大阪はまったく別世界のような扱いを受けていますが、電車の線路は、昔むかし、淀川を30石船が上り下りした時の同じ流れで動いているのが判りました。書中島で京阪の淀屋橋行きの電車をつかまえ、大阪に帰りついたのでした。
その京阪の駅に「造幣局の通りぬけは、今年は4月8日から15日まで」というポスターがありました。醍醐寺のしだれ桜が満開だったことを考えると少し遅いような気がしましたが、あとから知っている人に聞いてみると大阪造幣局の桜は、八重桜なのだそうです。しかもいろいろな種類の八重桜が植えられているそうです。八重桜ならば、少し遅れて咲くのも通りです。造幣局そのものは文字通りに通り抜けるだけですが、造幣局の外側の川岸には露天も出て賑やかなお花見ができる場所があるとのことでした。 896.jpg
895 20090404 住吉大社 この太鼓橋を渡らないと住吉大社にお参りしたことになりませんという案内がありました。それで、赤ちゃんにのしめを着せてお宮参りをするおばあさんまで、おそるおそる太鼓橋を渡っていました。
実際に渡ってみると写真でみるよりもずっと急な感じがします。太鼓橋は源氏物語絵巻にも描かれています。太鼓橋と言えば鎌倉の八幡宮にも石の大きな太鼓橋があって、子どもの頃は、その太鼓橋を無理やりに渡ったものです。でもどうして、神社には太鼓橋があるのでしょうか? 空に上る虹と関係はあるのかしら? 今度、誰か知っていそうな人を見つけて聞いてみようと思います。 895.jpg
894 20090403 四天王寺の桜 以前、四天王寺に行った時はちょうど4時の閉門時間で、西門の鳥居だけを見て帰ってきました。四天王寺はお寺だけど、西門に鳥居があるのです。あたりは上町台地とか夕陽ヶ丘を呼ばれている高台で、西門の鳥居は極楽浄土に通じているということです。西門のそばに陀羅尼助をいう薬を売る店があって、ああ、ここは吉野にも通じているのだなと思いました。それで、今度はちゃんと境内に入れました。
中世まで遡ると、四天王寺のしたまで海が入り込んでいたみたいです。四天王寺から住吉大社の前をとおり、堺まで路面電車が走っていますが、その電車の線路がだいたい中世の海岸線のようです。埋め立てが進み、海は遠くなりましたが、実際にその場所に言ってみると、昔の地形が別の姿をして残っていることがよくあります。吉田兼好は徒然草に「辺土のもの」はすべてかたよっていてあまりよろしいものはないけれども四天王寺の舞楽だけはすばらしいと書いています。京の都からみれば天王子あたりはもう「辺土」だったのですね。田舎じゃなくて辺土。そう言う兼好法師はわざわざ関東まで下ってきているいますが、それこそ地の果てにくるような感じだったんでしょうかねえ? 兼好法師が褒めた舞楽は4月22日にあるそうです。石舞台があって、そのうえで舞楽が行われるとのことでした。見てみたいものです。
写真は方丈という建物から庭の桜を見たところ。この日は曇りで、私のほかに桜を見物する人は誰もいませんでした。桜もまだ2分咲き3分咲きといったところでした。 894.jpg
893 20090402 大阪城 大阪城は一度行かなくちゃいけないなあと思いながら、行ったことのある人が「つまらない」というので、ずっと二の足を踏んでいました。「つまらない」理由は「ただ広いだけ」なのだそうです。確かに地図で見てもかなり広い。ホテルニューオータニの客室から眺めてもほんとうに広い。で、つまらないかどうかは別として広いなら、夏の暑い時、冬の寒い時はさけたほうがよさそうだなとかねがね、時期を考えていました。
淀屋橋のたもとから乗れる水上バス。こちらのほうは一度、乗ってみたいと思っていました。で、水上バス乗り場に行くと「臨時便 大阪城行き」の表示がありました。渡りに船とはこのことです! さっそく大阪城までの切符を買いました。大阪の川や堀など、つまり水路について感覚的に知りたかったので、城中まで船が行けるとしたら、これに越したことはありません。
今年の桜は、大阪でもお彼岸には咲き出したのに、そのあとは寒い日が続き、開花は遅々として進みませんでした。船の上から造幣局の通り抜けの桜、桜の宮の桜を眺め、さらに遠く大阪城の天守閣を見ました。あと中ノ島の先端がとんがっているのも見ることができました。昔は大阪から伏見まで船で行き来したそうです。で、南へ下れば天王寺、住吉大社、堺へと連なり、大阪湾から瀬戸内海、瀬戸内海を出ればそこは玄界灘で、行きたければマニラでもルソンでも行けるというわけ。淀川は世界に通じる通路です。って、そういうスケールにふさわしい大きさが大阪城にはありました。
確かに大阪城は広い。熊本城も広かったけれども、大阪の広さはなんと行ったらいいのか、広々と開けた広さです。この広さを楽しめたので大阪城はつまらないということはありませんでした。大きな梅林があり、冬に来てもよさそうでした。夏の暑いときだけは止めたほうがよさそうです。お城というのは外堀、内堀に囲まれたひとつの街だと考えたほうがよさそうです。西洋では街を城壁で囲ってましたが、どうしたわけか日本は堀で街を囲って「城」と称しています。河川や沼沢を利用して堀を作れば、物資の輸送にも便利だし、非常事態の時は防備の役割も果たすと、そういうふうに「堀」を利用することを考え出したのはいったい誰だったのでしょう?
東京だって、飯田橋の外堀のふちから皇居の真ん中まで歩けと言われたら、ちょっとねえと考えてしまします。大阪城の船着きから天守閣まで行くのは、感覚的にはちょっとそんな感じでした。船着きに近い青屋門から地形の高低差や石垣の組み方を見ながら歩いていたら、これがたまらなく楽しく桜門まで行き着きました。天守閣を見物する前に豊国神社でおみくじを引いてみました。「医者はむやみにかえるな」とあって、太閤さんにそう言われたような気がしました。あと、中国、韓国からの観光客がたくさんいました。朝鮮半島も大陸もみんな、みんな、春休みというところでしょう。
韓国の小説家の姜英淑さんと熊本城にいったとき、時代衣装を着たお城の番兵を見て、姜英淑さんは「こわいですね」と言っていました。日本の番兵の姿は秀吉の朝鮮出兵の時にことを思い出させる怖い姿ということでした。で、大阪城を見物した韓国人は何を思うのでしょうか? なにしろ、秀吉は朝鮮の国土を大混乱に陥れた大悪人ですから。ちょっと聞いてみたいような気もしました。きっと熊本城を作った加藤清正は、大阪城に憧れていたのでしょう。話を聞けるものなら、加藤清正にも話を聞いてみたいような気がしました。
天守閣の最上階まで上がってみると、東西南北、大阪がすみずみまで見渡せて、これも広い、広い。そういう大阪城でした。帰りはくたびれて、城内を走っていた汽車形をしたバスに乗りました。桜門から森の宮の駐車場まで。となりはかわいい坊やとお母さんが乗っていました。 893.jpg
892 20090401 嘘ではありません。 豆蔵さん、なんで4月1日にお知らせを出すのでしょうか?明日になったらもとのHPに戻っていたりして(笑)
いやいや、嘘ではありません。リニューアルしました。これから新しいコンテンツもふやします。皆様「豆畑の友」をどうぞよろしく!
写真は大阪城の桜門から天守閣を見たところ。堺から大阪を歩き回ってきました。堺、住吉大社、それに水上バスに乗って大阪城に行ってきました。水上バスから大阪造幣局や桜宮それに大阪城あたりの桜を見ることが出来ました。と言っても桜はまだ満開までに少し間がありました。もっとも満開になっていたらものすごい人出で、ゆっくり景色を楽しむ閑もなかったかもしれませんから、ちょうど良いときでした。 892.jpg
891 20090326 卒業おめでとうございます。 みなさん、卒業おめでとうございます。
3月31日お花見をしましょう。OBのみなさんもお気がむいたらどうぞ起こし下さい。
OBの方、来られるようでしらた御一報下さい。でも私は30日まで大阪出張ですから、ご返事は30日の夜になります。 891.jpg
890 20090324 伊藤さんへ ええとあれはテイカカズラではないとのこと。そんなんですか。あんまり無花果の実によく似ていたから、びっくりしたんですけどね。
そういえばヘクソカズラって気の毒な名前の植物もありました。
カポーティの「冷血」を読んでいます。一家4人が惨殺されるやつ。で、その晩はたまたま娘が外出していて一人でした。なんだか怖くなり、家の鍵がかかっているかどうかを確かめに行きました。
布団に入って寝ると、死んだはずのおかあちゃんが「ただいま」と帰ってきました。私が寝ていたのは、子供の時に住んでいた家の子供部屋。で、なぜかおかあちゃんを抱っこして、お布団に寝かせました。ちゃんとお布団をかけて寝ないと風邪を引くよと言って自分の部屋に入り、これで安心だとすやすや眠る夢を見ました。夢の中で寝ているの。でも寝ている場所は、子供の時に住んでいた家の子供部屋で、風が窓ガラスにぶつかる音がしていました。
途中で「あ、これは夢の中で寝ているんだ」と気づいたのです。時々、寝ている夢をみます。どうもややこしんだけど。で、これは寝ている夢を見ているんだと気づいたときに、なぜか、これまた、死んだはずのおとうちゃんがにやりと笑う顔が見えました。
たぶんカポーティの「冷血」なんかを読んで寝たからだとその夢の話を人にしたら
「お彼岸だからだよ。おはぎでも食べたらいい」
と言われました。ああ、おはぎを食べるまえに注射をぶしゅっと打たなくっちゃ。インスリンの注射。お腹に打つんです。伊藤さん、とらやで羊羹を買ってきました。今度、羊羹を持って遊びに行きますね。このごろ、時間にしばられるのや、義務にしばられるのがすっかり嫌になっちゃって、浮かれて遊んで歩きたいの。
889 20090322 夜の海 3月の初めには熊本近代文学館の庭のこぶしが真っ白に咲いていました。楠に巻きつくテイカカズラには実がなっていました。テイカカズラに無花果のような実がつくのを伊藤比呂美さんに教えてもらいました。東京でもこぶしは白い花をたくさんつけるようになりました。桜も咲き出しました。今日は春の嵐。空には黒くもが、風がびゅんびゅん吹いています。でもすごく暖かです。
瀬戸内海を行くフェリーの話の続き。乗っていたのはトラックやトレイラーの運転手さん。それから、対外試合に行く様子の運動部の生徒たち。船内には大浴場があって、夕食後で混雑していました。それに、ビュッフェ式の食堂。こちらもけっこう人が入っていました。食堂は夜は21時まで、朝は5時から営業していました。
瀬戸内海は波のない静かな海ですから、船が進んでもほとんど揺れることはありませんでした。この晩の海は一面の霧。霧の中にぼんやりと陸地の灯が見えました。私は個室をとってあったので、試合に行く高校生たちとはちょっと離れた船室でゆらりゆらりと揺られて白河夜船。以前、五島列島に行った時も、博多から夜の船に揺られて行ったことを思い出しました。瀬戸内海から九州沿岸は今でも、船便がけっこう活躍している様子です。
船室の壁にサイドブレーキの引き忘れによる重大事故が多発しているという掲示がありました。国土交通省が出したもので、死亡事故の実例が書いてありました。慣れた作業でも、注意を怠らずにという通達でした。
静かに航海を続けて朝焼けの大阪に。昨年から大阪芸術大学へ通っているので、大阪港が見えてくると半分、帰ってきたような気がしました。街の向こうに山並みが見ていました。大阪港からは地下鉄で(今度はほんとに地下鉄です(笑))新大阪へ。
私が乗った船は博多から大阪までノンストップの船でしたが、沿岸の港に寄港する船は夕刻でも早い時刻に出船するようでした。夏の日の長い時にそちらに乗船すれば、瀬戸内海の夕景色を楽しむこともできるようです。
888 20090312 波の枕霧の毛布 写真は朝日を浴びる大阪港です。
豊肥線というとなぜか笑う伊藤比呂美さんです。たぶん頭の中に別の字が浮かんでいるのでしょう。熊本からの帰りは別府から船に乗って大阪に出るというと「ホウヒ線で行くの?」と聞かれたのですけど、そのときはとくに自分の考えに疑問もなく「福岡に出てから別府に行くの」と答えました。
まさかね。福岡にも「別府」があるとは思わなかったのです。「別府(福岡)」と書いてあっても、まったく無視していました。今日、改めて調べてみたら兵庫にも「別府」がありました。福岡は「べふ」ですが、兵庫のほうはなんと読むのか解りません。
いろんな人に聞いてみると、瀬戸内海を行く船便は今もで便利に利用されているそうです。フェリーで車も積めるので、修学旅行とか長距離トラックの運転手さんが利用するそうです。経済対策で休日の高速道路が一律に1000円乗り放題になると、こういうフェリーが打撃を受けるのではないかという新聞記事を見つけました。
熊本駅は市街地より少しはずれたところにあって、灰色の四角い駅舎。なかなかいい感じでした。乗ったのはリレー特急「つばめ」。これが、濃いチャコールグレーの車体なのです。昔の機関車をイメージしたのかもしれませんが、私の目には「なんだかダースベーダーみたいな電車だなあ」と見えました。
福岡へ向かう途中で田原坂公園というところがあって、桜の名所だそうです。そう、あの越すに越されぬ田原坂で有名な西南戦争の激戦地です。なせか、田原坂の桜を見てみないなあと思いました。話があとさきになりますが、大阪についてから今度は津山城の桜のポスターを見て、これも行ってみたいなあと思っていました。津山は、あの惨殺事件があった場所です。「血と桜」ってどうも、自分でもなんだか解らないのですけど、妙に気になる。どうしたわけでしょう。雨模様の中を福岡まで、ところどころに黄色い菜の花の群れが花をつけていました。
福岡の200円では別府(大分)まで行けないと気づいたのは前述のとおり。大急ぎでJRの駅に駆け戻って飛び乗ったのはソニック特急。車両の色やデザインをまったく覚えていないのはあせっていたからです。でも座席はなんとなく革かなと思えるふかふかのシートでした。ここのところ、飛行機と新幹線で駆けづりまわっていたので、特急の車両がこんなに贅沢になっているとは知りませんでした。
小倉で車両は向きを変えて走るので、みんなで、座席の位置を直しました。それからうとうとして、目が覚めると
「Next station is USA」
の文字が表示板に流れて行くではありませんか。なになに、USA(アメリカ合衆国)だって!夢の中でカリフォルニアと熊本の往復している伊藤さんのことを考えていたので、一瞬「ややや!」でした。もちろん太平洋を渡ったのではなくて「USA(うさ)」でした。で、ソニック特急が別府に到着して、大阪行きのフェリーが出るまでには20分しか時間がありません。別府到着直前には「もし船に間に合わなかったら、今晩は別府温泉に泊まっちゃおうかな」と下心も。
が、ちゃんとタクシーの運転手さんが港まで急行してくれました。 888.jpg
887 20090311 心筋梗塞後遺症 熊本の皆さん、どうもありがとうございました。飛行機に乗るとき、気圧の変化に耐えられるかなと少し不安でしたが、おかげさまで特段のこともなく熊本に到着できました。7日8日と大勢の皆さんに起こしいただきましたことを御礼申しあげます。
熊本文学隊の皆さんから「大丈夫ですか?」と尋ねられたのですが、心臓のほうはとくに後遺症も残していないので、元気です。後遺症といえば「死んじゃったら、あれもしなくてもいいし、これもしなくてもいいのに」とフイに思うというのが、後遺症でしょうか。どうも義務ってやつが少々メンドクサクなっていまして、いけません。それで生きているうちにやりたいことってのもあまりないものですから、このまま、この後遺症にどっぷり浸かっているとものすごい怠け者になりそうです。いや。もともとなまけものですが。
それから熊本近代文学館の鶴本さん、お騒がせしました。帰りは別府から船便で大阪に出ることになっていたのですが、福岡に「別府(べふ)」という地下鉄の駅があって、私がその「べふ」と大分の「別府」を混同していたので、大騒ぎをさせてしまいました。ほんとうにそそっかしくてすみません。
間違っているのに気づいたのは博多で地下鉄の切符を買ったときでした。博多から「べふ」まで200円。幾らなんでも200円じゃあ別府にはい行けないだろうと、JRの駅に駆け戻って16時20分発の大分行き特急に飛び乗りました。別府に到着したのは18時27分。タクシーで関西汽船のフェリー乗り場に急行して、なんとか18時50分の大阪行きのフェリーに乗りました。その間、皆さんが私の勘違いに気づいてご心配いただいているとは、つゆ思わず、携帯の留守番電話と着信に気づいたのは、船がゆらりゆらりと瀬戸内海の波に揺られている19時50分になってからでした。
大阪到着は翌朝の6時30分頃。それから地下鉄で新大阪に出て新幹線で東京到着は11時50分。熊本駅まで送っていただいたのは前日の13時45分でしたから、だいたいまる一日かけて東京に戻ってきました。それでも「三四郎」に比べたらもうすごい超特急です。
九州の特急と船の旅の話はまた明日にでもします。
886 20090306 これから 熊本に行ってきます。飛行機が揺れないといいなあ。
885 20090304 文章は気合だ! そういうわけで、卒業が決まったM君、気合を入れて一日だけがんばってみて下さい。気合が入ると思いがけずすごい文章がかけます。
「なんだかわからん」と思った皆さん。なんだかわからんままにしておいてください。
文集担当のMさん、ごめいわくをおかけしますが、どうぞよろしくおとりはからいお願いします。
誰か法政の学生でここを見ていたら「気合だ!」と叫んでいたとM君にお伝え下さい。ではでは、
本日は私信でした。
884 20090223 出てきた。 かげもかたちもなくなちゃった保険証。このコラムを書いているときに「あ、もしかしたら落としたのかもしれない」と思い当たりました。それで遺失物の届けを飯田橋の交番に出しに行くと、(これは再発行をお願いしたときに係りの人から遺失物の届けを出しておいてほうがいいですよと忠告されたから)あったのです。どなたかが警察に届けてくれていました。麹町警察まですぐにとりに行きました。取得者の名前はあかさないということでした。
拾ってくださった方、どうもありがとうございました。
883 20090217 消えたもの。出てきたもの。 病院へ行こうと思って保険証を出したのです。それから病院へ持って行く書類といっしょにクリアファイルに入れました。そこまでははっきり覚えています。ファイルをハンドバッグに入れて、病院へ付いたら保険証がないのです。病院に到着するまではハンドバッグは触ってないのに。と、ここまで書いて、突然、思い出しました。病院への道順を調べるためにファイルを一度出しました。
そうか。そのときに落としたのかもしれない。それなら解る。いや、病院へついたら保険証がなくなっていて、それで家に帰っても見当たらないので「謎」でした。病院は順天堂で紹介された糖尿病のクリニック。ほんとにあわててしまいました。
それから、去年の暮れから見当たらなくなっていたストールが出てきました。12月28日に新宿まで買い物に行き、関節が痛みだして、熱も出たので、車を拾って家に帰ってから、ストールが見当たらなくなっていました。クローゼットにしまったような気がしていたのに、ないのです。インド製で手で唐草の花柄を刺繍したもの。同じものを探してもおそらく日本にはないでしょう。で、ものすごくがっかりしていました。だって、刺繍の色に合わせて手袋まで買ったのですから。
こっちは出てきました。クローゼットの中にありました。上に別の上着をかけて仕舞ってあったのです。
消えたものと出てきたものの話でした。保険証は出てこないだろうなぁ。
882 20090216 ジンガロ 夏休みに馬に乗りにいったとき、乗馬クラブの壁に「ジンガロ」のポスターが張ってあるのを見つけました。
前回の日本公演の時は「これが最初で最後」と言われていたので、さっそく6ヶ月先のジンガロ公演を予約。それが2月15日のチケットです。
行ってきました。ジンガロ公演。前回はチベット僧の読経の声が入るエキゾチックな演出で、馬の足運びを見せるという興行でしたが、今度はジプシー音楽を背景に猛烈なスピードで馬が疾走する舞台でした。今回のほうが解りやすし、馬術や乗馬を知らなくても楽しめる舞台でした。
場所は木場公園のテント。観客の入場は開演15分前から。テントに入ると馬の匂いがしました。中央に丸い馬場があり、馬場の真ん中に円筒形に水が流れていました。で暗い馬場に馬の姿が。4頭。最初は動かないので作り物の馬かなと思いましたが、なんというか生き物の迫力というのか気配がするのです。すると1頭が頭を下げました。ほんものの馬なんだと確認。馬場が明かりに照らし出されてみると。なんと15頭もの馬がもう馬場に入っていたのです。それだけでもびっくり。
遠景の馬場に南側に弦楽器のステージが、北側には打楽器と管楽器のステージがあり、この両者がジプシー音楽を奏でます。牧草が雨にぬれたような、幾らか物悲しい音色と、夕日のなかに埃がきらめいているようなにごった感じの音色で、リズムの早く曲が次々と演奏されました。馬も猛烈なスピードで馬場を周回し。馬上の人は体操の鞍馬の演技でもするように自由自在に動き回っています。いや、早い、早い。
どきどきしました。ステントが二個入っている心臓がちょっと痛くなりました。正直、不安でした。すごい!と興奮するのですけど、こんな狭い馬場であんなに疾走して大丈夫なのかなと怖くもなりました。馬上に立ち上がってバイオリンを弾く人もいれば、スーザホンを吹きながら、曲芸をやってのける人も出てきました。あまりに早い演技で、ええと、何が先で何があとなんだかちゃんとは思い出せません。ハイスピードのメリーゴーランドの上で曲芸をやっていると思って下さい。終盤では熊が登場。なんとこの熊が馬ののるのです。熊を連れてきたおじさんが、走る馬と一緒に走って「立て」と叫びます。これが日本語だと気づくまでに少し間がかかりましたが、日本語と気づいた瞬間に熊の馬の上に立ち上がりました。それまで本物の熊だと思っていたけれども、立った瞬間に着ぐるみだと解りました。が、直後に熊は馬から飛び降り客席に乱入。客席の女性に抱きついて、熊使いのおじさんに頭を叩かれていました。
前回の日本公演で、絶妙な馬の足裁きを披露したジンガロ氏は今回は、最後に驢馬に乗って登場。なんとあの耳の長い驢馬まで、疾走していたのです。これにも驚き。疾走する驢馬なんて、しかも人間を乗せて疾走しているのです、初めてみました。驢馬を馬だと思って乗っていたドン・キ・ホーテがみたらさぞうらやましがることでしょう。疾走する驢馬がひっこんだ後は白い馬が馬場の中央に集まり、水を浴び、あおむけになって背中を砂にこすり付けるという場面。それから、北と南の陣取っていた楽団が馬場におりて、スラブ的な音色をたっぷりきかせながら、闇に沈んで行くというステージでした。まじで心臓が痛くなるくらいわくわくしました。
881 20090215 壊れる壊れる 家のなかにもののけがいるんじゃないかと思いたくなるほど、散らかることがあります。もののけはほんとうにいるのかもしれません。
退院してきてから、ものが壊れる。壊れる。身代わりになっているみたいにいろんなものが壊れました。まず洗濯機。これは11月ごろからエラー表示がでて洗濯が途中で止まってしまうのです。1月に修理依頼いしたんですけど、まだ修理屋さんが来ないの。もう一度、修理依頼をしなおさなくちゃ駄目みたい。
急須の蓋が真っ二つに割れました。これは退院した日のこと。洗っていたら、真っ二つになっちゃったんです。それから、ガラスのポットの底が抜けました。割れなかったけど、お茶がどんどん漏ってしまって使い物になりません。さらには私の部屋の時計が止まっちゃいました。電池を入れ替えたんだけど、ぜんぜん動かない。ドイツ製の安い時計だから20年も使ったら寿命なのかもしれません。
なんでこんなに次から次へと壊れるのだろうと不思議になるくらいです。時計は昨日、新しいのを買ってきました。日本標準時を自動で受信するという時計で、ちくたくちくたくという音がしません。いつのまにか時計屋さんって少なくなっちゃったのはどういうわけでしょうねえ?携帯とかパソコンとかそういう機器で時計の役割も持たせちゃっているのでしょうか? 2年ほど前にいつも使っている時計を修理にださなければならなくて、修理から戻るまでの間の合わせで腕時計を買おうと思ったら、街から安売りの腕時計が消えているのに気づいて困ったことがありました。
それにしてもここ2週間は「壊れる壊れる」です。なんだか電気釜の怪しい動き方をしています。これって家の中のもののけが身代わりになってくれているみたいな気がします。もしそうなら、ふだん、家の中を散らかすくらいのいたづらは大目に見てあげてもいいんだけどなあ。
880 20090214 「おたあジュリア異聞」完結 今日「おたあジュリア異聞」完結します。夕刊ですからまだ配達にはなっていないと思いますが。ともかく今日で最終回です。というのは静岡の話。熊本日々新聞で読んでくださっている皆さんはまだ数日続きます。たぶん、来週の半ば頃に完結です。
皆様、御愛読ありがとうございました。
飛行機では離陸後の10分間と着陸前の10分間はたいへん緊張するそうですが、連載小説も最初の1ヶ月と最後の1ヶ月は、ちゃんと書き始められるか、ちゃんと終われるかで、緊張します。急性心筋梗塞の入院騒ぎはちょうど、その1ヶ月手前のことでした。
飛行機なら着陸のベルト着用のサインを点灯させて、客室乗務員もコックピットも緊張するようなタイミング。ミニチュアの模型のようだった滑走路が、パイロットの視界の中でだんだんとリアルな大きさになり、誘導灯も目視できるようになってきているところって感じです。もう着陸態勢に入っちゃっているのに、中断させたくなかったのです。
飛行機と違って着陸に失敗しても、乗客が死ぬようなことはない(あ、書いている作家本人が死んじゃうのは別ですが)ので、その点は気楽といえば気楽ですけど。
とにもかくにも、皆さんのご協力と御はげましで完結までこぎつけました。どうもありがとうございます。
「おたあジュリア異聞」は集英社から本になる予定です。本にするには手を加えようと考えているので、やや時間がかかるかもしれません。本ができましたら、またお知らせします。
879 20090213 田原総一郎ノンフィクション賞 というわけで、退院しました。入院中お世話になったお医者さん看護士さんどうもありがとうございます。御礼申しあげます。
で、ここからは心臓に悪い話。作家の宮崎学さんが私を大急ぎで探しているという報告は、息子からも、このHPの管理人の豆蔵さんからも報告が入っていました。
「はて、なんだろう?」とは思いましたが、集中治療室から出てきたばかりじゃあ、どんなに探されても何もできません。それで、豆蔵さんにも息子にも「心筋梗塞を起こして入院中だ」と伝えてもらうように頼んでおきました。
そんなに大急ぎなら一週間も過ぎてしまえばもう「御用済み」だろうと思っていたら、退院してみると宮崎さんから「連絡を下さい」と留守電が入っていました。
私が歯槽膿漏の痛みを抱えていた時、新幹線の中で数学者の森毅さんに出会ったことはこのコラムにも書きました。森さんとは同じ車両だったので、新幹線に乗り込むときにご挨拶をして立ち話をしてます。「この頃、知り合いがようけい死によって」というお話をしたのです。同じ新幹線には宮崎学さんも乗っていました。が、こちらは恐ろしいほどの痛みで、それどころではなかったのです。この時、ホームを歩いている二宮清純さんも見かけました。なんだ、この新幹線は、月刊誌の目次みたいじゃないかと、思いつつ、歯医者さんに電話をしたのです。痛みが尋常ではなかったので、飛び込みで診療してもらう気になりました。例の痛いで歯医者さんに連絡をとったのはこれが最初。
宮崎さんを一番最近に見たのはこの時ですが、そんなわけでお話もしませんでした。この時の痛みの帰結はここまでに書いてきたわけですが、今度はその宮崎さんから「連絡を下さい」の伝言。
電話してみました。すると、宮崎学、魚住昭、佐藤優で「田原総一郎ノンフィクション賞」を作るのだというのです。こう言っちゃあなんですが、想像するだけで、なんか心臓に悪そうなメンバーだなあと、電話を聞いている私。出版社やテレビ局の支援を受けない独立系の賞にするということで、資金援助を申し入れた版元もあったけれども断ったということでした。ますます心臓には悪そうな話であります。
ノンフィクションというのは、取材で小さな事実証言を積み上げ、さらには、その事実や証言のウラもとるので本はいきおい厚くなるのです。8ポ2段組400ページなんて当たり前。賞を制定するなら、その分厚い本なり原稿なりを読まなくちゃならないのです。運動なら心臓リハビリでどの程度の運動が可能か知れべられますけど。読むのもけっこうこれで身体を使うのです。なにもフィクションの作家である私をひっぱりださなくても、ねえ。昨日まで病院にいたんだし。「女の人にひとり入ってもらいたいんで」というのがその理由でした。
急いでいたのは記者会見までに、私の意志が知りたかったというのが理由でした。1月22日に記者会見があったそそうです。
「それで、もうどなたか決まったのでしょ」
「いや、選考委員をさっき言った『3人ほか』ということにして、『ほか』は誰だと聞かれたけど、交渉中ということになってます」
そんなあ。ああ、やっぱりこれって心臓には悪いよ。運動検査じゃなくて読書検査ってのがあればやってもらわなくちゃ。1日に200ページ以上は読むなとか。
この件を知人に話しすと
「それでどうしたの?」
と聞かれたので
「うん、と言っちゃったんだ」
「じゃあ、やっぱり今までと変わらないじゃ」
とまあ、そういうことなのです。どう考えても心臓に悪そう。
878 20090212 糖尿病教室 インシュリンの注射は、ご飯が最初に出た時から始めていました。最初に習ったのが「低血糖症とその対処法」。インシュリンを使い始めたらまず、これを覚えておかなくちゃならないみたいです。インシュリンを使い始めたらずっと使い続けなくちゃいけないと聞いたことがあったので、その点をヨシダセンセにお尋ねしてみました。
幼稚園や保育園には小さいのに、とても冷静で博士みたいな顔をした坊やが必ずクラスにひとりくらいはいます。ヨシダセンセは小さい時はきっとそういう坊やだったのだろうなと思わせる先生です。で、そのヨシダセンセは「ううん、づっと使い続けなくちゃいけないかどうか、今のところちょっとわかりません」でした。わからないということは、使い続けなくてもいい場合もあるわけだなあとぼんやりと理解。2、3日したら「注射じゃなくてお薬の服用に戻せるかもしれませんよ。今は心臓を保護するのに即効性の注射を使っていますけど」というお返事がきました。
この即効性という意味がよく解らなかったのですが、要するに何かを食べる直前に注射をするとすぐに効き目が出るという意味らしいのです。だから最初に看護師さんから低血糖の説明があったわけです。それから「退院後に通う病院を決めて下さい」とも言われました。順天堂は大混雑ですから、慢性病の糖尿病の治療に通うのは不向きなので、どこか病院を決めてから退院して欲しいということで、決めなくちゃ退院させないよとまで言い出しそうな感じでした。最初は自宅の近くが良いとのことでしたが、お話をして行くうちに飯田橋に順天堂系列の専門クリニックがあって、ビジネスパーソンのための夜間診療もしているということが解り、その病院がよさそうだと、そこに通うことを決めました。
その間にも、ご飯のたびに血糖値の測定とインシュリンの注射の方法を練習していたわけです。
火曜日に糖尿病の授業をふたつ受けて下さいと言われた時「90分ですか?」と尋ねると「60分です」というお答え。「試験もあるのかしら」と半分冗談で聞いたら「試験はありません」というお答えでした。でも試験問題はありました。
二度目の火曜日に糖尿病教室に行くと受講生は4人。おじさんが二人とお婆さんそれに私。午前中は糖尿病一般についてのお話。毎日、病室で出されているご飯は身長を基準にしたものだそうです。実際に食べた感じで覚えて下さいという説明。すると私の隣にいたおじさんが
「俺に食べさせないで女房に食べさせてくれ」
といいました。確かにそのほうが実際的かもしれません。
「奥様にも入院してご飯を食べてもらうコースもあります。保健適応ではありませんが」
というお答えで、へえと思いました。
説明が進むうちにまた隣にいたおじさんが
「こういう糖尿病のメニューを弁当にして届けてくれるとか宅配してくれるってのはないのかしら」
と言うのです。すると
「割高ですけど、そういう宅配メニューもあります」
「それを注文して女房に食べさせればいいんだ」
とおじさん。確かにそれはいい考えです。
「奥様だけじゃなくて一緒に食べて下さい」
それはそうだ。
「病院のご飯はおいしくないかもしれませんが、食べた感触で一日の摂取量を覚えていただくといいのです」
と先生。するともう一人のおじさんが言いました。
「病院のご飯はまずくないよ。おいしいです」
そうなんです。病院のご飯はおいしかったのです。
午前中はこんな具合でお終い。
午後は「糖尿病と使用する薬」の話。プリントが配られました。プリントを見ると最後に括弧の中に正解を書き入れる問題が10題ほど出ています。10題のうち2、3題はひっかけがありそうな曲者の問題。ほうらね、試験はないけど問題は出てくじゃんと思っていたら、お話の最後のほうで、この問題をとくことになりました。どういうわけだか、ひっかけ問題ばかり私の回ってきました。ま、私が講師でもスムーズに講義を終わらせるために同じ選択をしたかもしれませんが。
授業のあとで病室に来たヨシダセンセが「お教室はどうでしたか?」と尋ねるので「糖尿病のことがよくわかりました」と当たり障りのないお返事をしました。
「間食をしていただきたくないというのがあのお教室のねらいなのです」
と、これを聞いて、それまで糖尿病一般について円を描くように教えてもらったという印象が、急に一本の筋が通って全体の狙いが見えました。ああ、そういうことかと納得。何かを食べれば血糖値は上がるのは当たり前なことで何も食べないわけには行きません。そこで、一日24時間のうちにどうやって血糖値が低い時間帯を確保するのか、それが重要だということになるわけです。お話していて、そのポイントがぴんと来たわけです。
病院にいる間に次々にいろんなことを説明されました。説明されて理解できるうちはいいけど、もっと年をとったらどうなるのでしょうね?だんだん新しいことや面倒なことは理解しにくくなるわけで。
大学の教授会でさえ、新しい概念や考え方が入っているたびに、もめるというのではなくて、概念の理解や考え方の理解がうまく行かなくて迷走することがあります。そんなの年中で、説明ってのもなかなかむずかしいもんだなとため息が出ることも珍しくありません。
それはともかくとして、これで退院です。家からはもう退院用の靴も上着も届いていました。でもスカートだけは届いていなかったのです。スカートがなくちゃ病院の外に出られないじゃん。たぶん娘がそうしたのでしょう。やれやれ。もちろん、翌日には息子と娘がスカートを持って迎えに来てくれました。
877 20090211 ハニートラップ ハニートラップは通常は男性に対して美女がしかける甘い罠ですが、私の場合は「甘味の罠」。心臓神経症の頃、かなりの鬱状態で、心臓神経症も鬱状態の延長でおきたのですけど、この「鬱」を乗り切るのに、大量の糖分を摂取しているんです。簡単に言えば甘いコーヒー、紅茶それにコーラを飲んで鬱を迎え撃っちゃったんです。甘味は気分を安定させて頭の働きをよくしますから。たぶん糖尿病と高脂血症はその後遺症みたい。お医者さんが聞いたらなんというか解りませんが。
話は戻りますが、一般病棟に移ったときから、内分泌科の先生たちの治療も始まっていたわけです。火曜日は眼科を受診。「白内障」と聞いたときは「しめた!」と思いました。網膜症と違って白内障なら手術で症状が改善します。もっとも、網膜症があるかどうかはまだ解らないのですけど。で、同じ日に保健委員先生が糖尿病の病状説明。
ご飯は糖尿病用のメニュー。少なかったご飯の量が増えたのは、木曜日でした。ご飯を増やしましょうと言われて楽しみにしていたら、おかずはふえずにご飯の量が2倍になりました。その昔、糖尿病にかかるとご飯をひかえろと言われたのですけど、今はたんぱく質などを控えてかわりにご飯を食べるようにと指導しているみたいです。昔のお医者さんはこんなに豊富に食べ物が出回る時代がくるとは思わなかったのでしょう。
金曜日になると「退院は火曜日に糖尿病教室の授業を2つ受けてからにして下さい」と言われました。だから退院は翌週の水曜日ということになりました。糖尿病の教育入院のコースに割り込ませてもらったみたいです。血糖値の測定とインシュリン注射はご飯を食べ始めたときから、少しづつ覚えるようにしてました。
病棟実習生君がハンマーと音叉を持って病室に現われたの木曜日の午後。反射神経の検査と手足の神経の検査をさせて下さいということで、応じました。
「どうでしょう」と尋ねると「まだ二人の患者さんにしか試していないのでよく解りません」というお返事でした。イング先生が来て同じ検査をしたのが金曜日の午後でした。この日は息子が彼女を連れてやってきたので、彼が帰る時、病院のエントランスまで見送りに行きました。病院の入り口のあるレストランは「山の上ホテル」が出しているレストランでした。「へぇ、山の上ホテルなんだ」と3人で覗きこんでしましました。息子が「ご飯を食べて行こうかな」というので「それでもいいよ」と言ったのですが、水道橋のシビックホールでのリハーサルに間に合わないかもしれないと、ホルンを背中に背負ってエレベーターを降りてゆきました。
翌日の土曜日、夕方、娘が来たので、やはり帰りにエントランスまで見送り。娘はレストランでサンドイッチを、私はお砂糖を入れないストレートティを飲みました。日曜日にはお見舞いにもらったお花がくたびれてきたので、片付けました。病院の入り口の日比谷花壇を覗いたらいんげん豆の花を売っていたので、これを買ってきて活けておいたら、月曜日には花が散って、小さな豆がなりました。熊本から大きな花かごが届いたのは月曜日。菊の花が良い匂いをたてていました。看護師さんが感心してみていました。
二度目の月曜日はいちばん閑な日になりそうだと思っていたら、午後になって予定になかった心臓リハビリの呼び出しがかかり、例によってストレッチと自転車漕ぎを20分。ついてにウォーキングマシーンで20分のお散歩もしました。病室に戻ってくると病棟実習生君が現われて「もう一度、検査させて下さい」と病室にやってきました。同じ検査を再度試みた病棟実習生君は、首をかしげています。
「さしつかえない範囲でいいですから、先生の検査と君の検査はどの程度、結果が違うのか教えて下さい」
と尋ねると
「先生の検査だと足には少し感覚の鈍磨があるのですが、僕の検査だと正常なんです」
というお答えでした。
インゲ先生の叩く音叉はたとえて言えば遠くで聞く除夜の鐘ですが、病棟実習生君の叩く音叉は大げさに言えば鐘の中に頭を突っ込んでいるような感じでした。叩いたとたんに部屋の空気がび〜んと響くのです。
そのことを告げると
「でも、思いっきり叩いていいと教わったのですけど」
と腑に落ちない顔でした。
そうねえ。思いっきり叩いていいと教えてもらったのがどんなシチエーションかにもよるなあと思ったものです。慣れない道具をおそるおそる使っている様子を見た先生が「思いっきり叩いていいよ」というのと、20代前半の青年が力任せに叩くのでは、まったく力加減が違うわけで。
医学生というのは教室で勉強して試験を受けたりレポートを書くほかに、手の技を覚えたり、目を利かせたり、患者さんとの応対にも慣れなきゃならないので、なかなかたいへんです。
876 20090210 一ヶ月検診 病院に行ってきました。1ヶ月検診です。まだ少し早いのですけど、来週の火曜日は予定が入っているので、一週間早めに検診を受けてきました。
外来は大混雑。94歳のお爺さんに87歳のお婆さんがつきそっているなんていう人もいました。94歳のお爺さんは心筋梗塞も脳梗塞もやったことがあると言っていました。、外来から入るのは初めてだったので、少々、うろうろ、血液検査のための採血をして、それから心電図を安静の時と運動後の時をはかり、あと尿検査もありました。で、それから待つこと3時間。診察室では午後の診療が始まっていたので、もしかすると忘れられたのかなと、やや不安。でもちゃんと見てもらいました。
外来の先生は開口一番「やあ、たいへんな目にあいましたねえ」でした。一個だと思っていたステントが二個入っていることを教えてもらいました。で問題は高脂血と糖尿病。その二つだけというのもへんですが、それ以外にはこれと行って悪い数字は見当たらないということでした。二つでも充分ですが。
御茶ノ水をふらふら歩いて、ランチョンでハヤシライスの昼食。
退院した日も同じ道を子どもたちとぶらぶら歩いて、ランチョンでごはんを食べました。
手術で使ったお薬のおかげかもしれませんが。集中治療室で脳内御茶ノ水散歩を試みていたのです。明大の前の坂を下って駿河台下の「ささま」で最中を買おうかとか、すずらん通りに入って「スヰートポーツ」で餃子を食べるのもいいな、それとも「揚子江飯店」のチャーハンかな、あ、そうだ「さぼうる」でコーヒーを飲まなくっちゃとか。あとロシア料理の「バラライカ」もあるし、ロシア料理といえば白系ロシア人のお婆さんと日本人のお婿さんが年中けんかをしているロシア料理の店の名前はなんだっけ?とか。そうそう「茶論」という喫茶店もあって映画研究会の溜まり場になっていました。駿河台ホテルの「ふらんす」は学部のクラスの溜まり場でしたけど、駿河台ホテルごとなくなってしまいました。今は明治大学の新しい校舎が建っています。
ランチョンのメンチカツの端っこを食べたいなあと思ったのもそのときでした。そうだ、今年の冬は生牡蠣をまだ食べてないぞとも思いました。ランチョンのわきの道に入っておそばの「満留賀」それから焼き鳥の「ホワイトハウス」もあったし、あと山の上ホテルを忘れちゃいけない。山の上ホテルが出てくるなら「いもや」の天丼もありました。とこんなあんばいで、御茶ノ水と神保町を散歩していました。だってもう30年もこのあたりをうろうろしているのですから。
子どもたちは病院の車寄せからタクシーを拾って私を家に連れ帰ろうと考えていたのですが「お天気が良かったら御茶ノ水を散歩してランチョンで生牡蠣を食べたい」と言って、そういうふうにしました。
で、今日、ランチョンにお昼を食べるために入ったらメニューの生牡蠣に「今年は終わりました。秋までお待ち下さい」の文字が書かれていました。
875 20090209 心臓リハビリ 水曜日になると退院の話題がぼつぼつ出てきました。「一週間で退院ですね」という看護師さんいれば、「もう一週間で退院ですね」という看護師さんがいます。「1週間で退院」と「もう一週間で退院」ではえらい違いです。
そういえば、カテーテルを抜いてくれたお髭の先生が「これなら一週間で退院できるけれども、内分泌科がなんと言うかしら」と言っていました。ここにきて、心臓よりも糖尿病のほうが重大になってきたのです。こんな患者さんを野放しにするわけにはいかないと、そんなふうに思われたのかもしれません。
血栓予防の靴下というものを集中治療室で履かせてもらいました。足の甲とふくらはぎを締め付けるハイソックスみたいなもので、つま先はゆるゆるで、踵はありません。この風変わりな靴下は、足の血管に血栓ができるのを防ぐ効果があるのだそうです。で、火曜日にこれが窮屈になって脱いでいたら「ちゃんと履いていてください」と叱られてしまいました。
その靴下を脱いでもいいというお許しが出たのは水曜日の午後でした。それからあのトランジスター型の発信機もとってもらいました。シャワーを使ってもいいと言われました。またマカロン先生は「少しそのへんを歩き回って下さい」とも。
その辺とはどの辺か? と思いつつ、たぶん病棟の同じフロアの中だろうと見当はついたのですが、内緒でそっと外来の受付がある階までエレベーターで降りてみました。もう外来の時間は終わっていて、静かなロビーにはお雛様が飾ってありました。ガラスの扉の向こうには、上り下り2本のエレベーターがあり、その向こうは御茶ノ水へ続く通りでした。「やあ、ちょっと下界を降りてきたぞ」という気分。同時に「ほんとに順天堂に入院していたんだ」と実感。叱られないうちに病棟に戻りました。
家からは簡単な室内履きが届けられて、人が靴で歩くところをうろうろするには心もとないところがありました。これは娘が、靴などを届けると病院を抜け出したりしかねないと思ったみたい。お財布も5,000円だけ入れた娘のお財布が届いていました。その娘はいつも会社の帰りに病院へ寄ってくれていました。
というわけで水曜日には手術のあとで身につけたものがすっかりとれたのでした。で、木曜日の朝、ごはんと一緒に来たメモには「心臓リハビリ」の文字。リハビリというと麻痺のある部位の機能回復のイメージがあったので、はて? 何をするのだろうと首をかしげました。時間になると看護師さんが車椅子で迎えに来てくれました。で行った先はスポーツジム。ふつうのスポーツジムとの違いは、ウォーキングマシーンをパジャマで使っている人がいるくらいです。
でまずビデオに身ながらストレッチ。それか自転車を10分ほど漕ぎました。で、終わったら病棟からまた看護師さんに車椅子で迎えに来てもらったのです。あとマカロン先生に「車椅子でスポーツジムに行くのはなんだか妙な気分です」とお話したら「介護度の程度を下げましょう」とのお返事でした。それで金曜日には自分で歩いてジムに行きました。歩き回ってよい範囲が「そのへん」から「病院内」になったのはマカロン先生とお話してからでした。
大阪芸大に行っていた長谷川さんが東京に戻って病院へ来てくれたのも木曜日のことでした。「もしもの時には長谷川さん考えてね」とお願いすると「ロマンチックになるな」の返事。どうもこの会話はかみ合っていないなあと、やや困惑。「もしもの時」を「支離滅裂な原稿ができたとき」ではなく「死んじゃったとき」と受け取ったようだと気づいて訂正しようとしたとき、このHPの管理人の豆蔵君と、このHPを作ったオントフの金承福さんがやって来ました。
で「もしもの時」ってのは「死んじゃった時」ではありませんという訂正がだせないままになってしまいました。前日にノートブックパソコンごと原稿を持っていってくれた朴さんからは何もサデッションがありませんでしたから、たぶん支離滅裂原稿は免れたのだなと、あえて「死んじゃったとき」の訂正はしませんでした。まだ内緒なんだけど、この「豆畑の友」は近々リニューアルします。豆蔵君と金承福さんはその準備を進めてくれていたのです。で、頓挫しているリニューアルのことを話しました。
金曜日は自分で歩いて心臓リハビリに。ストレッチをして自転車を20分漕ぎました。退院後の検診の時に心臓がどの程度の運動に耐えられるか調べてくれるとのことでした。
気になったのは自転車の前においてあった体脂肪の模型。1キロのやつと3キロのやつ。日向で溶けかけたバターみたいな模型が気になって仕方がありません。触ったらぶよぶよしているのかべたべたしているのか、いったいどんなさわり心地なのでしょう?そこで「あとであの模型を触ってもいいですか」とリハビリ担当の先生に聞いてみると「触ってみますか」とすぐに1キロのほうを持たせてくれました。ずっしりぶよぶよでした。「こんな塊がお腹に入っているわけじゃなくて、腸の周りなんかについているんですよ」と言いながら3キロのほうも持たせてくれました。スーパーで鳥のレバーを買ってくると、時々、そういう脂肪がついているのがあります。あれにそっくりな色をしていました。
874 20090208 前兆現象 伊藤さん、どうもありがとう! おもしろいと言っていただいたので、つい調子に乗っちゃいました。おかげさまで採点も卒業面接も入試もなんとかこなしました。
それでみんなに前兆はなかったのかと聞かれるたのですが、これがあったのです。自分でこのコラムにも書いていました。歯槽膿漏の痛みです。
「心臓疾患は胸痛に現われるだけでなく、下顎や肩の痛みとして現われることがあります」とちゃんと家庭の医学に書いてあるのは前から知っていたのです。きっと同じ本に「鍋蓋を押し付けられたような痛み」という表現もあったにちがいないのです。心臓神経症をやった頃に、何度も心臓疾患の項目を読みました。でも、そんなへんな比喩を覚えていたのは意外でした。しかも咄嗟の時に口から飛び出してくるとは。
で、歯槽膿漏ですが、もともと右下の歯茎には、治療しにくい病巣がひとつあります。歯槽膿漏の痛みが出たときに歯医者さんでその部位のレントゲンをとってもらいました。でも、そこはなんでもなかったのです。歯医者さんは、丁寧に上の歯と下の歯のかみ合わせを直してくれました。ずっと前からお世話になったいる歯医者さんで、今回は息子さんのほう(若い先生)に初めて見てもらいました。その丁寧な治療と痛みの間に何か乖離があるというか、溝のようなものがありました。
それが「心臓疾患は下顎や肩に痛みが現われる」ということだったのです。
歯槽膿漏の痛みが考えられたものが、ひと段落して、それから年末に熱をだしたのも、ここに書いたとおりです。新聞連載が終わると、たいてい熱を出したりインフルエンザにかかったりしますが、今回は終わらないうちに歯槽膿漏や発熱が出て、これじゃあ、済まないだとうあという予感はありました。
左目が曇ってきたこともあって、連載が終わったら眼科と脳外科に行こうと思っていました。我が家は代々、脳血栓をやっているので、心臓よりも脳血栓のほうを疑っていました。医者嫌いですが、それでも医者に行こうと思っていたのは、たぶん最大の予兆です。
ふつうなら忘れてしまうようなことも、あとから遡って文脈に結びつけられて物語になるということがあります。ふだんはあまり見ないようなテレビの医学番組をぼんやり見ていたのも、そのひとつ。これは前兆ではありませんが「虫の知らせ」かもしれません。もしその番組を見ていなければ、医師の手術の説明をスムーズに理解できたかどうかわかりません。それから、1月の初めに乗ったタクシーの運転手さんが、糖尿病で「糖尿病は専門医に見てもらったほうがいいです。このごろはすごく研究が進みだしている分野ですから」と話していたのもなんだか「虫の知らせ」みたいな気がしてきました。タクシーはよく利用しますが、運転手さんが糖尿病だなんて言い出したのは初めてです。
私が入院した順天堂大学医院(お薬袋を見たら、病院ではなくて医院の表示がありました)の隣りは東京医科鹿大学病院ですが、この医科歯科大学病院のある場所に獅子文六が住んでいたことがあるようです。あるようですというのは、獅子文六が70歳過ぎに読売新聞に連載した「但馬太郎治伝」にこの場所のことが出てきくるからです。「但馬太郎治伝」は小説ですから、この場所に獅子文六が住み、その前のは但馬太郎治のモデルになったバロン薩摩が住んでいたというのはフィクションかもしれません。ですから「あるようです」なのです。それにしても70歳を超えての新聞連載は命がけだったろうなあと思いました。
873 20090207 教授回診 日曜日にいささか正気付いたときから、慎重に運んできた新聞連載原稿をいざ書き出したのは、水曜日の朝ごはんが終わってからでした。
最初はおそるおそるパソコンのキーを叩いていましたが、だんだん調子が出来て、これはいけるなあと確信した時でした。マカロン先生が部屋に入ってきて「はっ」とした顔で
「キョウジュカイシンデス」
と言ったのでした。ちょうど、調子が出てきたときだったのでこれが息子だったら
「バカヤロー、キョウジュガコワクテゲンコウガカケルカ」
と怒鳴っていたに違いありません。が、そこはマカロン先生が担当医だとは認識できているので、しばし、きょとんとしていました。原稿に集中していると何か言われても反応できないのは珍しいことではありません。
するとマカロン先生は羽ばたく鳥のように両腕を上下させて
「キョウジュカイシンデス」
とまたおっしゃいました。
私の頭に浮かんだのはいささか旧式ですが、図書館のインデックスカード。書名の表示は「文学部唯野教授」で、このカードがぱらぱらとめくれて「白い虚塔」の表示。とたんに耳の穴の中に散らばっていた「キョウジュカイシン」の文字が「教授回診」に凝固。そうか、教授回診なのかとばかり、大急ぎでパソコンのデータをセーブしてタオルケットを被りました。
白衣を着た先生が病室に現われる寸前でした。やれやれ、これで原稿を取りあげられたら泣くに泣けないところだったなあと、胸をなぜ下ろしました。
マカロン先生が病状を説明。白衣の先生は
「ちょっと足首を見せて下さい」
と言います。足首を探って
「やはり、少し沈着があるみたいでんね」
と言うそばで、マカロン先生はすかさず足首のレントゲン写真を封筒の中から出して見せました。万事てきぱきとしています。
「ああ。そうね」
と先生。これで教授回診は終わりでした。付き従っている先生たちも含めてちょっと張り詰めた空気でした。
さて、教授回診もやりすごして、原稿。原稿。と朴さんが来てくれるまでにどうやら原稿を書き上げることができました。で、今度はその原稿をうまくUSBに落とすことができないのです。研究室でネットにつながずに使ったていたノートブックだったので、ソフトのバージョンアップをしていなかったのです。
朴さんと協議の結果、ノートブックパソコンごと持ち帰ってもらって画面を見ながら、別のパソコンでデータを改めて打ってもらうことにしました。
それで、以後、そんなメンドクサイことをするくらいなら最初から手書きの原稿のほうが、コピーもできるしファックスもできるということで手書きにすることにしました。息子にモンブランのインクを丸善まで買いに入ってもらいました。
夕方。日本文学科主任の黒田先生が来てくれました。
「先生、教授って偉いんですねえ」
と言ったら
「まあ、何をおしゃるの?」
と呆れていました。中国文学がご専門の女の先生です。で、黒田先生と卒業面接や後期授業の採点とか入試のこととか、どうしたものだろうと協議。
金曜日には内分泌科の先生の教授回診がありました。
内分泌科の先生はなんとなくのんびりした雰囲気。担当医の先生とのやり取りも、ちょっとピンボケなところもありました。先生のお人柄とか診療科目でずいぶん雰囲気が違うものです。あの病棟実習生君も先生のそばでお話を聞いていました。
872 20090206 大学病院 高血圧、高脂血症それに糖尿病。とカテーテルを使った手術の時に、慢性病をたくさん発見してもらいました。で、一般病棟に移ると、それまでの循環器科の先生のほかに内分泌科の先生が病室にかわるがわる現われるようになりました。正直言って、一般病棟に移った翌日の火曜日あたりまで、あまりにたくさんのお医者さんが現われるので、誰が誰だか、よく解ってなかったのです。
手術の時、息子に電話をして説明をしてくれたのは、ちょっとエネルギッシュな感じがする男性のお医者さんでした。「痛いですか?」「痛いような気がします」とカテーテルを抜くときの問答をしたのは、きれいに切りそろえられた顎鬚のある先生でした。
手術の時にサインした同意書に「この手術にかかわる医師」と言う欄があったのを思い出して、そこにサインしている先生の数を数えてみました。7人の先生がサインしていました。
循環器科の担当医の先生の聴診器には、マカロンやチョコレート、ケーキなどの色がきれいなお菓子のストラップがついていました。
「ははん、この先生は糖尿を治療する内分泌科の先生ではないんだな」
と、気づいたときに遡って、手術中にいた先生で、手術後の説明をしてくれたものこの先生だったと、ようやくお顔をお名前が一致しました。仮にマカロン先生と呼んでおくことにします。
マカロン先生がちゃんと認識できるようになると、内分泌科の先生は3人の先生が、代わる代わる現われることも解ってきました。お一人はにこにこした男の先生。法政の地理学科の吉田先生にどこか感じが似ていたので、ヨシダセンセということにしておきました。お名前を覚えなくてごめんなさい。それから色が白くばら色の頬に茶色の目をした女の先生。「人魚姫」の絵本で出てきた女の子に似ていたので、北欧風の名前にしてインゲ先生ということにしました。もう一人は、中学校か高校の生徒だったら保健委員として絶大な信頼を集めそうな感じの女性の先生で、保健委員先生。こんなふうに特徴で見分けがつくようになしました。
保健委員先生が眉のきりっとした青年を連れてきました。
「学部の4年生ですが、病棟実習中です。お加減の悪いときやご都合の悪いときは、お断りいただいてかまわないのですが、お話の相手をして下さい」
と紹介されて大学病院なのだなと思いました。
朝ごはんの時にその日にする検査や治療を記したメモがきます。火曜日は「心電図、レントゲン、眼科」という具合です。眼科は左目が曇っているので診療してもらうことにしました。眼鏡をかけたまま、おうどんを食べたような感じに曇っているのです。眼科で見てもらったら白内障にかかっているとのことでした。糖尿病の影響が出ているかどうかは、解らないということです。
こういう治療や検査に出るときは、車椅子に乗せてもらって病院内を移動していました。で、午前中は車椅子で点滴のスタンドを持って移動。車椅子を押してくれる看護師さんとうまく息を合わせると、かなりの速度で移動することができました。レントゲンはてっきり胸を撮影するのだと思っていたら「足を出してください」といわれて、はて、なんで足なんだろうと不思議に思いながら撮影。午後になってマカロン先生が来たときに理由を聞いてみると、足のアキレス腱にコロステロールが沈着することが多いのだそうです。
点滴を止めてもらってのは火曜日の午後でした。あと残っているのは胸につけた小型の発信機だけ。心臓の状態をモニターしている機械で、大きさは昔のトランジスターラジオくらいです。
午後の面会時間には、編集者の福江さん、新聞連載の挿絵を描いてくださっている宮本恭彦さんとお兄さんの宮本健美さんご夫妻が来て下さいました。助手の深野さんは大学に回ってノートブックパソコンを持ってきてくれました。それから、弟のお嫁さんの裕子さんも来てくれたので、火曜日の午後はけっこう忙しく過ぎてゆきました。それから息子がやって来ました。
息子と何気ない雑談をしていて、手術の時に不安を取り除く薬を投薬されていることを知ったのです。「なに、なに、なに」と驚きました。どうりで、いやに考えが前向きだったわけが解った気がしました。きっと食べ物はあれこれ制限されるから、これからは出汁の研究をして、乾物とお野菜の料理を覚えようとか、体重を減らせと言われるに違いないから、気に入った服を買ってそれを着られるようにしとうとか、さしあたり、黄色いシャツが着たいなあとか、そんなことを考えていたのです。それから、毎日体重が1キロづつ減っていたので、これがうれしくって仕方がない。もうはけないと思っていたジーンズがはけるぞ!と喜んだり。どうもお薬が作用していたみたいです。
精神に作用する薬を飲んで原稿を書くのは前にも書いたとおり、うまく自分の感覚を捕まえきれないということが起こります。さらに、その薬の効き目が切れかけているかもしれないというのも、問題のひとつです。土曜日の投薬が、火曜日まで続いているのか、いないのか。疑問でした。が、考えてもしょうがない。まずはやってみようと、火曜日の夕食後にテーブルにパソコンや資料をそろえました。それで、すぐに原稿にとりかかったわけではありません。
あまりばたばたと原稿にとりかかると失敗するだけなく、書き直す体力さえなくなってしまうなんてことになりかねないので、その晩はすぐに寝ました。うつらうつらしながら、ああでもない、こうでもないと、どういう原稿を書くかを考えていました。そうするうちに「これでいける」という手ごたえがあって、ちょっと興奮しました。すると病室の外に看護師さんの足音がして、扉が開きました。ポータブルの発信機の末端が胸にちゃんと取り付けられているのか見せて下さいと言われました。ナースステーションでデータがおかしな具合を示したみたいでした。すみません。人騒がせでした。
871 20090205 教えてもらいました。 私が救急車の中で聞いた「STが下がっています」の「ST」について、伊藤比呂美さんが熊本文学隊のメンバーのお医者さんからのメールを回送して下さいました。「ST」は心拍数のことではないそうです。正しくは以下のとおりとのこと。いただいたメールを貼り付けます。伊藤さん、それから「ST」について教えてくださったお医者さん、御教示どうもありがとうございます。
〜〜〜〜以下 いただいたメール〜〜〜
> STというのは、心電図のST部位という場所のことで、ST
> が低下
> しているというのは、心臓の血管が閉塞しかかっている疑いが
> ある。ことを間接的に示すサインです。
> 胸の痛みがあって、救急車の簡易的モニター心電図でSTが低下
> しているということは、急性心筋梗塞などの心臓の救急疾患が
> 強く疑われるということで、大急ぎで循環器内科がある病院に
> 運ばれることになります。
>
> ちなみに、心拍数はHR(HeartRate)になります。
〜〜〜〜〜〜以上 いただいたメール終わり〜〜〜
靴下と格闘した息子にもちゃんと教えておくようにします。それにしても救急車というのは良く出来ているものです。感心してしまします。
それで救急車の中のことをもうひとつ思い出したのです。搬送先の病院が決まるまで、少し手間取ったのですが、そのとき、救急隊の人が「何にこだわっているんだろう?」と首をひねってから「逓信病院に横付けしちゃおうか」と言ってました。法政大学の隣りは逓信病院で、病院に救急車を横付けしておけば、もしもの場合には医療行為ができるお医者さんがいるわけです。これは実行されませんでしたが、いろいろと考えてくださるのだなあと、救急隊の皆さんに感謝しています。
870 20090204 一般病棟へ 救急搬送された土曜日。娘は会社に出勤していました。で、息子つまり兄ちゃんから電話が入ったのは午前11時頃のことだったそうです。
「医師は緊急手術をすると言っているけれども、本人はいつものように吼えている」
という電話だったと言っていました。娘としては「???」という感じだったみたいです。で、その兄ちゃんと言えば、病院へ行こうとして靴下を履くのですが、その靴下がどうしても裏返しになってしまうという怪奇現象? に見舞われていたそうです。あせっていたわけで、しばらくは靴下と格闘していたみたい。
兄妹で病院にやって来ると「あと15分ほどで手術が終わります」と告げられてから、待たされること1時間。予定よりも時間がかかったとのことでした。手術が終わってから私のベッドを挟んで担当医から説明を受けたのでした。この時、子どもたちの印象に残っているのは、私がした質問が「お腹がすいたのですが、ご飯をいつ食べられますか」というものだったことです。前の晩の晩ごはんとその日の朝ごはんを食べていなかったので、そういう質問になりました。食べた物と言えば手術前に血管を広げる薬というものを「噛み砕いてから飲み込んで下さい」と言われて、がりがり噛み砕いたすっぱい薬ぐらいでした。
ところが、ご飯を食べるという行為はすごく心臓の負担になるのだそうです。で、担当医の先生は話では「今日と明日はご飯は食べられません」でした。私自身はこの質問をしたことは覚えていないのですけど、担当医の先生の返事だけは覚えています。よほどがっかりしたのでしょう。
子どもたちは、看護師さんから入院に必要な品物の説明を受けたり、幾つもの書類にサインをしたりしたあとで病院を出ました。それからセンター入試でホテルに二泊することになっていたので、私が宿泊しているホテルへ行ってチェックアウトし、家に帰ってからも保険証を探し出したりとなかなか忙しかったみたいです。
翌日の面会が遅くなったのはそれなりの理由があったのでした。が、病人(私)は激怒したうえに「メモをとれ」と命じて、どこに連絡をいれるべきか、翌日の面会までに必要な品物は何かと矢継ぎ早に告げたのでした。新聞連載続行は「決断」というよりも「ものの弾み」みたいな感じで動き出してしまいました。
話を私のほうへ戻すと、手術をした翌日つまり日曜日の昼に、足の付け根から動脈と静脈にいれていたカテーテルを抜いてもらいました。抜くときに「痛かったら言って下さい」とお医者さんが言うので「痛い、痛い」と言ったら、とうのお医者さんは不思議そうな顔で「痛いのですか?」と聞くので「痛いような気がします」と答えました。するとお医者さんは看護師さんに「抜いたカテーテルを見せてあげて」と言い、看護師さんが金属の皿にのった管を見せてくれました。それはけっこう太い管で、白い色をしているところに血がついていました。「痛い」と言った時には動脈の管も静脈の管ももう抜けていたのでした。
管を抜いたあとで、テーピングをして8時間は足を曲げないで下さいと言われたのは、昨日書いたとおりです。面会に来てくれた弟を話していた時も、子ども相手に激昂していたときも右足はぴんと伸ばしたままでした。夕方にはこのテーピングをとってもらいました。
採尿管をとってもらったのは、月曜日の朝でした。昼少し前に一般病棟に移りますと言われました。で、この時、身体についていたいろいろな計測器をはずしてもらいました。でも点滴はまだ残っていました。点滴をぶるさげたスタンドと一緒に車椅子に座って一般病棟に運んでもらいました。
勝手なもので、集中治療室の様子はほとんど目に入りませんでした。見ていたのは扉だけ。一般病棟に出るまでに2枚の扉がありました。最初の扉はどんな色をしていたのか思い出せません。2枚目の扉はきれいな緑色でした。大きな自動の扉の向こうが一般病棟でした。
子どもたちの話では、集中治療室には小さな赤ちゃんや開胸手術をした人もいたということですが、私はそうした患者さんの姿をまったく見ていませんでした。
一般病棟の病室はテレビと電話のある個室で窓の外を見ると、ビルがぎっしり並んでいました。御茶ノ水なら見覚えのあるビルがひとつくらい見つけられそうだと探しましたが、どのビルも同じように見えます。そこで看護師さんに東西南北の方角を尋ねました。が、「ちょっと解りません」という返事でした。質問を変えて「御茶ノ水の駅はどちらですか」と聞くと窓のほうが御茶ノ水の駅だと教えてもらいました。とすると扉のほうは水道橋ということになります。
午後になると息子が昨日、頼んだものを持ってきてくれました。新聞連載のアシスタントをしてくれる朴さんも来てくれました。息子は重さ800グラムのノートブックパソコンを持ってきてくれました。何かの時のために軽量なノートブックを用意してあったのです。ただ、このノートブックはまだ使い込んでいないので、うまく操作できません。そこでパソコンは大学の研究室で使っている古いノートブックを使うことにして、助手の深野さんに研究室から持って来てもらうように頼むことにしました。データをUSBに入れて朴さんにとりにきてもらうか息子に家に持ち帰ってもらって、関係各所に送ってもらえばいいということに話をまとめました。
息子にも朴さんにも言いませんでしたが、ひとつだけ不安があったのです。連載を続けるとして、書いた原稿が支離滅裂だったらどうしようかとい不安でした。これは本人には判断がつかないことで、誰かに考えてもらわなくちゃなりません。そこで、今度の連載の資料集めなどでお世話になっている長谷川郁夫事務所の長谷川さんに連絡を頼んでおいたのです。これは日曜日の「メモをとれ」の騒ぎの時に子どもにいいつけておきました。長谷川さんに連絡しておけば、挿絵の宮本さんにも静岡新聞の文化部の志賀さんにも連絡をしてもらえるでしょう。支離滅裂原稿が出ちゃった時の判断もしてもらえるだろうと考えたのでした。
一般病棟に移ってから再び「ご飯はいつ出ますか?」と質問しました。「夕方から出しましょう」とのお返事で晩ごはんが出ました。息子はそのご飯の少なさに驚いたようです。ふつうのご飯の量の半分の量だったから。
869 20090203 集中治療室 息子と入院したときのことを少し話しました。で、思い出したのが救急車の中で聞いた救急隊の人の言葉「STが下がってます」です。息子に「STって何?」と尋ねたら「心拍数のことだよ」と言われました。どうやら心臓は止まりかけていたみたいです。
手術室から集中治療室に移って。その晩は寒かったので毛布を一枚、看護師さんに持ってきてもらいました。毛布をかけてもらうとあとはすやすや。翌日の昼過ぎには幾分、意識もはっきりしてきました。で、もっとも気になったのは静岡新聞と熊本日日新聞の連載のことでした。あとのものは、いけなければ、ほかの人に代わってもらうことも可能なのですが、新聞連載だけは、続行するか中断するかを決断しなければいけないので「さて、どうしたものか」と考えていました。この時点では絶対安静で、身体は動かなかったのですが、入院は7日から10日くらいだと手術前に言われていて、もし7日間の入院で済めばなんとかなるかなあという希望的観測もありました。
で、昼過ぎに子どもたちが面会に来るのを待ってました。子どもたちが面会に来たらゆっくり話ながら、連絡を入れる先について指示を出そうと思っていたのです。ゆっくりと思い出さないと、とてもではないけれども込み入ったスケジュールを整理できそうにないなあと、やや不安に思っていました。ところが、なかなか子どもたちが面会に来ません。
で、まず面会に来たのは弟でした。弟と少し話をしました。それから、また子どもが来るのを待っていました。メールで入る連絡、郵便で来る連絡、電話で来る区連絡それからが大学のメールボックスを経由して入ってくる連絡など、毎日、応対している仕事関係の連絡は幾つものルートがあって、子供たちにこれらの処理をどのように頼むかというのも思案していました。スケジュールを完全に把握しているマネージャーがいないのですから、これはかなり面倒で煩雑な仕事です。
息子と娘がやってきたのは面会時間終了の直前でした。で、そのあまりの遅さにまたもや激怒。この時、身体には心電図やら脳はやら脈拍数やら、そういったいろいろなデータを取るための装置が付いていたのはなんとなく知ってはいたのですが、それらのデータが自分の寝ているベッドの頭の上に表示されているのは知りませんでした。で、激怒すると血圧は乱高下するやら、脈拍は乱れるやら、ディスプレーの表示がめちゃくちゃになったので、二人は怒られたことよりもそっちのほうにびっくりしたみたいでした。そのうえ重篤な患者さんがほかにたくさんいますから、そうした患者さんへの遠慮も重なっておろおろしたようです。
でも、この時点で、新聞連載を続行しようと決断していたのは、やはりへんなことでした。ひとつには土曜日に手術をして月曜日には一般病棟に移れると言われていたのが、決断の根拠になっていたのです。が、後から考えるとそればかりではなかったような気がします。
月曜日に一般病棟に移ってから、新聞連載のアシスタントをしてもらっている朴さんにも来てもらい、入稿の計画を立てました。
その後に、手術の時に不安を抑える薬や気持ちを安定させる薬を投与されていたことを知ったのです。それを聞いたときにはさすがにひやりとしました。あとでこの件について伊藤比呂美さんとメールのやりとりをして、伊藤さんがうまい比喩を用いてました。感情や精神に作用する薬を用いながら原稿を書くのは「大リーグ養成ギプスと孫悟空の金弧冠をつけているみたい」と言ってましたが、確かにそのとおりなのです。私の場合は気分を安定させ効用させる薬を用いていたので、たとえて言えば翼の生えた靴を履かせてもらっていたみたいなものです。いざ、原稿を書き出したら、翼の生えた靴がすっぽ抜けるなんてことがおきやしないかと、ひやりとしたのは火曜日になって投薬の事実を知ったときでした。
集中治療室では絶対安静でまだ身体が動かせません。足の付け根から入れたカテーテルを抜いてもらったのはたぶん日曜日の昼過ぎだったと思います。傷口の近くをきつくテーピングして。8時間は足を曲げないで下さいと言われました。ご飯を食べるのも心臓の負担になるので駄目でした。集中治療室2泊3日は、子どもたちを相手に激怒したほかはただひたすら眠っていました。足の付け根のテーピングは日曜日の夕方にはずしてもらいました。これで少し楽になりました。それにしても、集中治療室では出てくる看護師さんが、男性も女性も美男美女なのに感心していました。で、これは心臓が止まりかけていたのでそう見えるのかと思っていたら、息子の話では、彼の目で見ても集中治療室に勤務していた看護師さんたちはみんなきれいな人ばかりだったと言っていました。
どんどん快復したので、あまり重病の自覚はないのですけど、今日、息子と話をしたら、やはり心臓と血管にはダメージが残っているとのことでした。「ちょうど風船を膨らませたり縮めたりすると、風船そのものが弱ってしまうようなもの」と担当医の先生が説明してくれたとのことでした。はあ、そんなものかと改めて自覚。
868 20090201 緊急手術 救急車が走り出してから病院に到着して、医師の先生に呼びかけられるまではほとんど記憶がありません。あるいはその間に、なんらかの救命措置をしてもらったのかもしれません。で、医師から呼びかけられて、これまた深い井戸の底からぬっと顔を出して事情説明。
お名前はと聞かれて、ここでペンネームを名乗ったところ、ベッドの周辺で名前を復唱しながら、人がぱたぱたと走り出しました。で、そのぱたぱたとあわただしく走る人の足音を聞きながら「今、名乗った名前はまずかったんじゃないかな?」と疑問が湧き、「今のはペンネームです。本名は違います。保険証の名前は違います」と名乗りなおすと、今度は「お〜い名前違っているぞ」とまたいっそう、ぱたぱたと人があわただしく動きだす気配がしました。ええと、名前入りのリストバンドをして、患者の取り違えを防いでいるので、名前が違っているのは大事件みたいでした。
で、次の質問は「ご家族はいますか? 連絡先は?」でした。「息子と娘がいます。連絡先は携帯電話のナンバーが私の携帯に入っています」と答えました。
早速、息子に医師の先生が携帯で電話。その電話を「じゃあ、ご本人に代わります」と渡されると、まだなにがなんだか解っていない息子が「お母さん、大丈夫?」と意外なほど緊張感のない声で言うので、思わず「馬鹿。大丈夫じゃないから救急車で運ばれたのだろう」と一喝。誰かが、たぶん医師の先生でしょうけれども枕元で笑っていました。
救急手術をするには本人と家族の承諾がいるのだそうです。足の付け根の血管からカテーテルを入れて患部を治療する手術で、安全ではあるけれども、まれに血管を傷つけるようなアクシデントがあるという説明でした。どういうわけか、数種間前に、テレビでカテーテルとバルーンを使った手術方法の番組を見ていた「ははん、あれをやるんだなあ」と医師の説明をおおよそ理解。ではこの書類にサインして下さいと言われて、手術の承諾書にサイン。それから学術研究のための協力の承諾もしてもらえますかと、尋ねられ、この承諾書にもサイン。
家族の承諾は電話で仮承諾がとれていますという会話がちらりと聞こえてきました。
「もう病院へ到着していますから、ご安心下さい」
と何度か言われるたびに「そんか、安心じゃなかったんだなあ」と思いながらも、またまた深い井戸の底へ。
手術は部分麻酔で、麻酔をかける時には歯医者さんと同じで「ちょっとちくんとしますよ」と声をかけられました。ちくんとするのねと、また井戸の底から顔を出して納得。で、目をあけてみると、そこはお部屋全体が医療器具というような感じでした。黒いモニターのようなものが身体に近づいたり遠ざかったり。どうも、それが撮影機材のようです。複数のモニターがあり、それを大勢の医師たちが見ている様子がなんとなくわかりました。で、私が横たわっている位置から見えるモニターには、ミミズのようなものが映っています。あれが血管なのねと思い、それからもうひとつのモニターを見ると、こちらはどうも血管の中が映し出されているようでした。血管の中には血液の逆流を防ぐための弁がありますという理科の教科書で見たような、そういう映像でした。いったい何人の先生が、この手術のかかわっているのか、かわるがわる、いろんなお医者さんが顔を出します。
「ああ、これは根気良くバキュームをかけるしかないなあ」とか「おおい、これをちょっと見てごらん」とか、話し声も聞こえています。で、血管の中を細い線がチョコチョコと動いている映像を見ていると、なんだかじれったくなるので、そういうのは見ないことにしました。大勢いる医師の先生の中におでこの広い目のくりっとした女の先生がひとりいました。で、あとからこの先生が担当医だとわかりました。途中でまた、深い井戸の底に降りていって眠り込んでしまいました。
次に気づいたときは、ベッドの右手に息子と娘がいて、左手にはあのおでこのひろい目のくりっとした担当医の先生がいました。で、担当医の先生が病状を説明しているのですが、また、すっと眠ってしまって、目が覚めたときには日付が変わっていました。
以前、作家の三木卓さんが渋谷で心筋梗塞の発作に襲われたときの話を聞かせてもらったことがあります。三木さんは、胸の痛みを感じたとき、これは心筋梗塞だと御自分で解ったそうです。渋谷駅だったので救急車を呼ぶよりもタクシーを拾ったほうが早いという判断をしてタクシー乗り場に行くと、そこには人の行列。とても行列に並ぶ余裕はないので、先頭にいた青年に「僕は心筋梗塞の発作を起こしているので、順番を替わって欲しい」」と交渉して、広尾の日赤病院までたどりついたとのことでした。そんなことができるのか、と驚いて三木さんのお話を聞きましたが、心臓は危機的状態でも、頭はなんだか奇妙なくらいにクリーンなところがありました。
867 20090131 救急搬送 1月17日はセンター入試で、受験生の案内をすることになっていました。それで、前日16日は法政大学の近くのホテルに泊まりました。泊まると言っても、ずいぶん遅い時刻にチェックインして、それから知り合いと電話でお喋りをして、という具合でした。で、寝付けなくて、ちょっと寝不足気味で、学校に大慌てで出かけました。
遅刻! 遅刻! と校内を走っているときに、学部長の後藤先生とばったり出会い「ああ、遅刻が見つかっちゃった」と、どきりとしました。この時の「どきり」は通常の「どきり」でした。
で、受験生の案内のための配置についた時、今度は心臓がなんとなく痛くなりました。私は30代の頃、心臓神経症に悩まされたことがありました。ここ10年は心臓神経症の発作もなかったのに、それによく似た痛みでした。
心臓神経症では胸のあたりが痛み出して、どうかするとしばらく気が遠くなります。たびたび発作が出た頃に、自分でストップウォッチを握って、どのくらいの気が遠くなっているのかを計ってみました。短い時で15秒、長いときでも25秒程度で、30秒と続くことはありません。で、気が遠くなったあとは爽快感を覚えるほどすっきりとするのが神経症のパターンでした。しばらくその神経症の発作が出なかったのですが、また来たのかなと最初は思いました。
しばらくすると胸の痛みが静まって、すっきりしました。ここで受験生が「ひざ掛けを使う許可をもらいたいのですが」と言ってきたので、「もうすぐ試験場の監督がきますから、試験監督から許可をもらうようにして下さい」とお返事をしました。で、試験場の扉が閉まる少し前にまた胸の痛みがきました。今度は最初の痛みよりも深刻でした。横になって水を飲みたくなりました。
こんな状態ではとても受験生の案内などできそうにないので、同じフロアにいた別の先生にあとをお願いして教授控え室に戻りました。給湯器から水を飲み、テーブルにうつぶせにしていると、そこへ通りかかったのが後藤先生。もしこの時、後藤先生が異変に気づいて下さらなかったらたいへんなことになっていたかもしれません。
「医務室へ行きましょう」と言ってくださったので、歩き出したのですが、歩けないのです。仕方なく医務室のほうから医師に来てもらうことにしました。
その後、起きたことは不思議です。口の中に生唾がたまってきました。吐き気のあるときのような感じです。それから、便意もありました。どちらかと言うと吐き気よりも便意のほうが強くって、トイレへ駆け込みました。で、ウンチが出ました。
「ああ、これは」と思い出したことがあります。
10代の頃に、御遺体のお世話を手伝ったことがあります。もう40年も前の田舎の話です。亡くなった人が失禁をしていたり脱糞をしていることがありました。年寄りたちは、それがありがちなことのような話をしているのをそばで聞いていました。そういうことがあるものなのかもしれないと、トイレの中で考えていたら、心配した後藤先生が声をかけて下さいました。
それから教授控え室に戻ると医務室から医師の先生が来ました。
症状を話すときに「胸を鍋蓋で圧迫されているような痛み」と自分で説明しながら、この比喩表現は私が考えたものじゃなくないなあと思い、どこかに出典があるはずだぞ調べなくちゃと、まあ、そんなことまで考えていました。それから心臓神経症のこともお話しました。
「症状は心筋梗塞ですけど、そうですね、この場合は悪いほうで考えておいたほうがいいでしょう」
医務室から来た医師の先生はそういってペンライトを出して、瞳孔をチェックし、救急車を呼ぶことになりました。この辺から、記憶がところどころ、深い井戸に落ち込むように途切れます。誰かから呼びかけられるとそれに答えることはできるのです。救急車に収容されてから搬送先の病院を探してもらっていることとか、医務室から来た先生が「カテーテルを使える病院がいい」と言っていたことなどを覚えています。しばらく救急車と消防本部のやりとりがあって「順天堂病院へ行きます」の声。それで救急車が走り出しました。
あとで様子を見ていた人から聞いた話では、顔は土気色になり、脂汗が浮いていたということでした。また順天堂大学病院の先生の話では、心臓への血液の流れが一度は完全に止まってしまったものが、もう一度、ちょろちょろと細く流れ出した状態で運び込まれてきたとのことでした。本人はそこまで悪いという自覚はありませんでした。で、救急隊の人に「先生」と呼ばれると返事をしそうになって、それは付き添ってくださった後藤先生のことであったり、医務室から来た医師の先生のことだと気づいて「ああ、間違えちゃったよ」とあせったりしていました。「先生」と呼ばれると深い井戸の底からぬっと顔を出して、自分のおkとじゃないと気づき、間違えちゃったとあせりながら、また深い井戸の底に沈んでしまうという感じでした。
そんな具合で病院に運ばれたのでした。まだ「鍋蓋を押し付けられたような痛み」という比喩表現の出典は調べていません。
866 20090130 危ない。危ない。 1月17日に心筋梗塞の発作を起こして救急搬送されました。搬送された順天堂大学病院で、カテーテルをいれる手術をしました。以後、12日間ほど入院していました。
伊藤さん、熊本文学隊の皆様
お見舞いをお届けいただきましてありがとうございます。きれいな花かごで、看護師さんたちが感心していました。
お見舞いをいただいた皆様
どうもありがとうございます。おかげさまで1月28日に退院しました。
法政大学のゼミ生の皆様
創業制作の面接は昨日、済ませました。が、上記のような理由で、いささか遅れているところもあります。ご協力お願いします。芋煮会は予定どおりにやれると思います。
そのほか、お見舞いをいただいた皆様
ありがとうございました。御礼申しあげます。
まだ御連絡差し上げていない皆様
そんなわけで、御連絡が遅れている皆様。申し訳ありません。順次に後連絡を差し上げるようにいたします。
おうちに帰ってきて最初の思ったのは「ああ、棺おけに入らずに戻ってこれてよかった」でした。あやうく元気に死んでしまうところでした。危ない、危ない。
865 20090107 水仙 スイトピー ストック 良い匂いする冬の花ばかりを活けました。花屋さんも暮れは風邪とインフルエンザで、皆さん、ばったり倒れていたということでした。今年はインフルエンザが流行するのがいつもの年よりも早いと聞いていましたが、おもいがけぬところに影響が出るものです。
10数年ぶりにアメリカから帰ってきた友人が日本のお正月がお正月らしくなくなったとメールをくれました。年々の変化ということもありますが、金融危機以降の雰囲気ではお正月を祝いという気分にもなれないということで、丑年の新年はどことなく地味な感じがしました。どこのお飾りも小さめだし、晴れ着の人も少ないしで、どこか遠慮した寂しいお正月だと感じたのは、私の風邪と歯槽膿漏のせいばかりではないようです。
これからもっと経済は厳しくなることは予想できても、今年は良くなるとは思えない年明けでした。
864 20090105 どうにか生き返りました 伊藤さん、どうにかこうにか生き返りました。おくればせですが、あけましておめでとうございます。熊本の皆様にもよろしくお伝え下さい。3月に熊本へ行く予定になっています。あと熊本から博多へ出て、博多から別府に行き、別府から大阪まで船に乗りたいと考えています。春の瀬戸内海を船で進んだら気持ちがいいでしょう。
お正月の間、うなっていました。風邪ですね。でも牛年だからすき焼きだけは食べました。
863 20090101 今年のお正月はとりやめになりました ええと、関節が痛いです。熱もあります。頭はぼっとしています。そういうわけで、今年のお正月はとりやめになりました。
個人的にはとりやめですが、
みなさん、あけましておめでとうございます。
862 20081228 久しぶりに歯の痛みから開放される 歯槽膿漏がこんなに痛いものだと思いませんでした。
最初に右の奥歯に痛みを感じたのは11月23日の勤労感謝の日。大根の漬物をかじったら、ずきんときました。おかしいなあと、首をひねっていたら一週間後に、こんどはずきんずきんと新幹線の中で痛み出しました。
「あ、痛い。痛てて」と冗談ではない痛いみでした。
で、どういうわけか、この新幹線には数学者の森毅さんが乗り合わせていました。森毅さんとは以前、朝日新聞の書評委員会でご一緒させていただいたのですが、
「痛い、痛い、痛い」
という顔を座席でしているとにやりと笑って通り過ぎて行きました。
歯医者さんに飛び込んだのは翌日。
薬を貰ったのに、ぜんぜん痛みが治まりません。そのまた翌日、虫歯の治療後にかぶせた金属をとって、再度、虫歯を治療。抗生物質と痛み止めをもらいました。
歯茎がはれたのは、その後のことでした。歯茎と頬肉の間がぷっくりとふくらみました。これがどうにか収まったと思ったら。また先週、寒い日にずきん、ずきんと痛み始めました。どうも冷えるのがいけないようです。そういうわけで、ここ数日は寝る時に湯たんぽを入れていました。再び、歯茎が腫れたのは26日。これは歯茎を切ってもらわないとおさまらないかなと、覚悟しました。明日29日に歯医者さんの予約が入っています。でも、いや、そのせいか、今日は痛くないのです。ぜんぜん痛みません。
久しぶりに歯の痛みから開放されました。歯が痛くないから、肩もこりません。ま、でも明日は歯医者さんにいってきましょう。
861 20081227 三竦の羽織狐 伏見稲荷で買った羽織狐です。
手に入れたときから、どうもこの狐は平べったいなあと思っていました。でも、どことなく遊び人風なのが気に入っていました。
伏見人形を作っている丹嘉のご主人に伺ったところ。この狐は平べったいはずです。三竦(さんすくみ)はジャンケンと同じで、狐のほかに庄屋と猟師の人形があるそうです。庄屋は狐に騙される。狐は猟師に鉄砲で撃たれる。そして猟師は庄屋さまには頭が上がらない。という三竦で、この人形を隠し持っていて、差し出した人形で勝ち負けを決めるという遊びの道具だということでした。
狐に背中には「一力」の文字が入っています。もともとは祇園の御茶屋の「一力」の注文で作ったものということでした。どうりで、遊び人風の狐のわけです。不良っぽい色気があるのはそのせいかもしれません。大の大人がこんな土人形で遊んでいたのは、その昔、平和な時代のことでしょう。 861.jpg
860 20081224 赤いモールのサンタ 赤いモールのサンタが歩いていました。それだけのシンプルな夢を見たのは今月の初めでした。
クリスマスのオーナメントもだんだん贅沢になって、高価で美しい品物を毎年、少しづつ、集めているお家もあるのじゃないかと思います。木製で塗りの良いものや、クリスタルガラスのオーナメントも見かけます。
もうモールで作ったサンタなんて、探してもないかもしれません。クリスマスが楽しかったのはなんと言っても幼稚園の頃ですが、私が幼稚園に通っていた頃は、赤いモールで作ったサンタはオーナメントの定番でした。
夢の中を歩いていたのは、私が幼稚園の頃の赤いモールのサンタでした。
で、我が家にもひとつだけ赤いモールのサンタがあったことを思い出しました。写真はうちの子が保育園に行っていた頃の赤いモールのサンタです。私の幼稚園に飾られていたモールのサンタはもう少し寂しい感じでした。でも、このサンタも今では貴重品かもしれません。 860.jpg
859 20081223 6億円 うちの隣りの住宅展示場が「ニトリ」になるということで、展示してあった住宅の取り壊しが始まっています。ここ数日は硬いコンクリートの土台をがんがんと砕いています。
だいたいどの家も一棟3000万円くらいで。それが20棟あったのですから、ざっと計算して6億円。宅急便を配達してくれたおじさんが
「壊すくらいなら俺にくれればいいのに」
と言っていました。
「うちでも置き場所さえあればもらってきたいけど」
と笑ってしまいました。
なんか、もったいないと言うのか。どう言ったらいいのかわからないけれども、複雑な気分です。今日は天皇誕生日で取り壊し工事はお休み。久しぶりに静かです。
858 20081222 幻の「海を感じる時」 これまで何度か、韓国の詩人や作家から「あなたの本を読んだことがあるよ」と言われました。
「何語で読んだの?」
「韓国語で」
という会話が何度か繰り返されて、ずいぶん以前に韓国で「海を感じる時」が出版されていたようだと言うことは知っていました。
アンソロジー「うさぎ狩り」を出してくれたカン出版のチョン・ホンス社長が古本屋で韓国語訳「海を感じる時」をみつけてくれました。写真を撮影して届けてくれたのはエージェントの金承福さんです。五制文化という出版社から出ているのですが、この出版社はもう存在していないとのことでした。
金承福さんによると、私はこの本の翻訳者と会って話をしているそうです。それから本の口絵写真には私のサインが入っていました。口絵写真は講談社の写真部が撮影したもので、講談社「海を感じる時」の初版に使われたものでした。2刷り以降からは別の写真が使われています。
サインは横書き。本にサインを入れるときは、たいてい縦書きのサインを入れています、韓国版の口絵の横書きのサインは手紙もしくはファックスの末尾に入れたサインのような気がします。
もし私が翻訳者に会って話をしているとすれば、翻訳出版の許諾もしているという可能性がまったくないわけではありません。口約束あるいは契約書にサインをしていても、すっかり忘れているということも考えられるからです。ただ、韓国版の装丁には覚えがないのです。契約のことは忘れても、出来上がった本が届けられれば、その装丁はまず忘れるということはないように、思えます。とくに漢字表記とハングル表記が混じっている宣伝文が入っていたら「へぇ」と思うはずで、やっぱり、これは幻の「海を感じる時」でしょう。 858.jpg
857 20081221 今夜は柚子湯 朝から大風がごうごう吹いていました。
今夜はかぼちゃを煮て、柚子湯。 857.jpg
856 20081220 紀の膳ツァー 法政大学のゼミの諸君と、神楽坂の「紀の膳」に行きました。週末は予約はできないとのことで、ならんで入りました。かなり混雑で、最初はどうなるかと思ったけれども、そこは慣れた店員さんがうまく席を作ってくれました。お礼がいいたくなる手際のよさでした。
粟(あわ)ぜんざいを食べました。栗ぜんざいもあるかど、やっぱり粟(あわ)がいい。あの鳥のえさの粟です。
それから、カナルカフェのデッキに。いつになく良い天気で青い空に飛行船が飛んでいました。そのあとからヘリコプターも、どこへ行くのやら猛烈なスピードで飛んで行きました。
お喋りをしているうちに「冬至はいつだろう?」と言うことになり「今日か? 明日か?」誰も解りませんでした。
冬至は明日12月21日です。駅前のスーパーにそう書いてありました。どおりで、そとぼりの土手を照らす夕日がいやに赤くみえました。
帰りにお風呂用の柚子とかぼちゃを買ってきました。家に帰ってくると四年生が新年の「餃子パーティ」のお知らせメールを回していました。そういうわけで今年もだんだん残り少なくなってきました。
855 20081218 四面魚歌 半漁人のぽにょ。買っちゃいました。横から見るとまだ魚の顔をしているところがかわいい。
「お腹のまんまる」女の子は大好き!
メタボなんて言うよりぽにょのほうが好き。
でもメタボな彼は言う
「ぽにょぽにょ言うな。気持ち悪い」と(笑)
「おててはいいなにぎっちゃお」
と歌っていたら
「ちがいます。おててはいいなつないじゃおです。にぎらないで下さい」
となおされました。
「あれはねえ、きっと老年のエロスが働いているんだと思う」
と言ったら
「映画見てないのに、とんでもない説を唱えないでください」
と叱られました。
映画を見たいけど、見る時間がないんだもの(泣)
なんで、そんなとんでもない説を唱えたかというと、室生犀星に「蜜のあはれ」という愛人は金魚という小説があるのです。ニックネームが金魚じゃなくて、本物の金魚! ずっとずっと前から「蜜のあはれ」が好きでした。
ああ、忙しい。ぽにょぽにょしてられない! 855.jpg
854 20081202 欅、楓、桜。紅葉は銀杏が独走。 今年は10月半ばには、桜の葉が散っていました。だらだらと蒸し暑く、紅葉は冴えた色に紅葉しないまま、かさかさと音が立つような枯れ方をしました。もっとも悲惨なのは欅。我が家から見える欅は、紅葉というよりも立ち枯れたような状態。
そのためか、身辺の病気の人が多いような気がします。へんてこな天気は身体のこたえるのでしょう。
銀杏だけがすばらしい黄色を見せています。でも、もう12月。95年のオウム事件があった年、府中の東京競馬場の近くで、すてきな銀杏並木の黄色い紅葉のしたを歩いた記憶があるのですが、あれはたぶん11月半ば。10年ちょっとで、紅葉が2週間も遅くなっている勘定になります。気候がどんどん変わっているのを、ひしひしと感じています。
秋山駿「忠臣蔵」を読みました。仕事を放り出して読んじゃいました。物語ができる必然が説かれている。そう感じました。世の中が物語を欲する時があるのだと。忠臣蔵の元になった事件がおきた元禄の世を例にとりながら、物語の出来上がる動きを簡潔に捉えているエッセイでした。
853 20081201 湯たんぽ 「おたあジュリア異聞」の挿絵を描いている宮本さんのお兄さんから、湯たんぽの話を聞いたのは、たぶん去年の暮れでした。なんでも中国で買ってきた水枕のような湯たんぽがたいそう心地よいということでした。
うちの湯たんぽは息子が生まれたときに買った赤ちゃん湯たんぽです。プラスチック製で、本体の上に覆いがついています。赤ちゃんが低温やけどをしないようにしてあるのです。この湯たんぽを買ったときは、まさかそれから25年以上も役にたつとは思いもしませんでした。これが毎年、冬になると大活躍! 風邪で寒気がするときなどは、この湯たんぽを入れておくと、ぽかぽかして、熱が出るのを寸前で止めることができます。
無印良品の店を覗いたらプラスチックの湯たんぽを大小で売っていました。これはいいや! とさっそく大をひとつ。小をひとつ。チェックの湯たんぽカバー付きで買いました。
それで、そのあとで見つけたのです。宮本さんのお兄さんが言っていた水枕式のぽにょぽにょした湯たんぽを。数寄屋橋近くの雑貨屋さんで売ってました。
ああ、残念なことをしました。こっちの水枕式のほうがよかったなあと後悔しても、遅かりし由良之助でした。ほんとうは水枕式が欲しいのだけど、でも、そうすると家じゅう湯たんぽだらけになっちゃうし、さあどうしようかしら?
852 20081124 時間が消えている 航空幕僚長の書いた論文が問題になった時、この幕僚長は警察予備隊創設から自衛隊創設さらにはそれからの50年以上に渡る歴史をどう考えているのかな? と疑問に思いました。
時間が消えているという印象を持ちました。時間というものを、人間の外にある物理的なものとして捉えている人には奇妙な言い方に聞こえるかもしれません。しかし、時間は人間の心のうちに取り込まれてはじめて時間となるという考えかたもできるのです。それを仮に物語の時間と名づけてもいいでしょう。物理時間に対して物語時間というふうに並べてみることができます。
田母神論文の場合、欠落しているのは戦後自衛隊の物語時間です。旧日本軍は、外国に対して信頼を失ったばかりか、日本国内でも信頼は失われていました。そこから始まる自衛隊の歴史認識が航空幕僚長の論文は完全に欠落していました。旧日本軍には陸軍と海軍はありましたが、まだ空軍はありませんでした。だから航空自衛隊は、戦後の新しい自衛隊です。そう言ってよければ、航空自衛隊は空軍であり、自衛隊の陸、海、空の三つの軍の構成の中では唯一、旧日本軍の構成に含まれてはいなかった組織です。「軍」という言葉が素直に使えないところに、田母神論文が出てくる不満の温床があるのでしょうけれども、それにしても、物語時間が終戦前でとまってしまっているのを感じます。
厚生事務次官の殺害事件で、警視庁に出頭した男は「犯行は年金テロではなく、34年前に自分の飼っていた犬を保健所に殺された報復だ」と言っているそうです。もしこれがほんとうなら、この男の物語時間も30数年前で留まってしまったか、あるいは緩慢な流れになってしまったか、この男の人生の中のどこかで時間が消えてしまったかのいずれかではないかと思います。
1985年から1995年にかけて私はずっと「時間ができない」あるいは「時間が消える」という主題の作品を書いていました。今でも物語時間という言い方は理解されにくいので、その当時書いた作品があまり理解されたとか、読者に受け入れられたとは思っていません。けれども、このごろに奇妙な事件を見ていると、あの時間に関する認識はそれほどおかしなものでもなかったのだなあと改めて思います。
時間が消えてしまったために、時間を取り戻そうとして起きる事件というのはこれからも、幾つもおきることでしょう。それらは、一般的には「狂気」のなせる業と解釈されて行くことになるでしょう。人間の心と時間の関係に私が興味を持ったのは、「狂気」の裏側の「正気」に対する興味でしたから、作品には大事件を描くことを避けてきましたけど。
851 20081118 クレジットカードの与信引き下げ デパートで買い物をしたら、このカードは使えませんといわれたのは10日ほど前のこと。
「この頃、こういうことが多いんですよ」
と店員さん。
たぶん与信枠(いわゆる限度額)いっぱいまで使ったのだろうと、あとでクレジットカード会社へ確認をするつもりで、すっかり取り紛れていました。それにしてもそんなにお金を使ったことがないのに、どうしてだろう? と首をひねってました。
クレジットカード会社はその時の金融情勢に応じて、与信枠を広げたり、引き締めたりしていることを以前、説明してもらったことがありました。問い合わせをしなかったのは、このところの金融危機で、たぶんそんなことだろうと高をくくっていたところもありました。
今日(18日)になって、ロイターがクレジットカード会社各社が与信枠の引き下げや、貸し出し利率の引き上げをしていることを報じていました。アメリカではクリスマス商戦がこれから始まるのですが、今年はどこも売り上げの落ち込みが予想されているそうです。さらには消費者がクレジットカードを使ってクリスマスを乗り切り、年明けに債務不履行に陥ることも予想されるので、クレジットカード会社は与信枠を引き締めているというロイターの記事でした。というよりも、その記事のニュアンスは、クレジットカード会社そのものに与信の体力がないというものです。貸し渋りをせざるをえないというニュアンスでした。
個人の消費者への与信は、企業の運転資金などにくらべればずっと小さな規模でしかないのに、それでも、与信の引き締めをしなくちゃならないところまで来ているということでしょう。
デパートの店員さんが
「このごろ、こういうことが多いのです」
というくらいですからかなりの広がりがあるのではないのでしょうか?それでどうしたかと言えば、その時はふだんはあまり使っていないもう一枚のクレジットカードで支払いを済ませました。
子どもが小さくて、クリスマスを楽しみにしていた次期にはクレジットカードを使って、支払い時期をずらして、お金の不足を切り抜けたこともありました。クレジットカードの使い方の本などを見ると不足を補うためにカードを使うのは、あんまり褒められたことではないのですけど、そういう使い方をしている人って多いのではないでしょうか。だとすると、この冬はあてがはずれたり、番狂わせであわてたりする人が多くなるでしょう。尋常じゃない事態がもっと目の前に押し寄せてくることでしょう。
個人向けのクレジットが貸し渋りから貸しはがしに発展するなんてことは想像しにくいのですが、起きるとしたらどんな形でおきてくるのでしょうか? そういうことも少し想像しておいたほうがよさそうな気がしてきました。
850 20081102 とぼけた秋のポケット 11月をまたずに東京には木枯らしが吹いてしまいました。10月は韓国での韓日中3カ国の文学フォーラムへの出席から始まって、週末ごとにソウル、春川、大阪、沖縄、大阪と動いてました。
なんだかとぼけた秋でした。いつまでも蒸し暑く、夏の終わりもなければ、秋の始まりもない。そういう秋でした。そんな10月の終わりに、一日だけ、ぽつんと良く晴れて空気が澄んだ日がありました。その日、ひょんなことから三浦半島を南下して葉山まで下りました。
とぼけた秋がポケットの中からそっと出してくれた上天気。日景茶屋がうみっぷちに出しているレストランのテラスで午後の海を眺めていました。凪いだ海にたつ小波は、潮目の違うところで、方向を変え、幾つもの潮目が小高い山に囲まれた湾の中にあることが見ていてわかりました。
秋の海は、もちろん夏の海ほどではありませんが、けっこう賑やかでした。鰯の生簀に、漁船。趣味で釣りをする人のモーターボート。繋留されているヨット。ウィンドサーフィンの帆。などなど。ウィンドサーフィンをしていた人が、帆を降ろしてサーフィンの板とゴムの櫂だけで海の上をすいすいと渡っていました。まるで忍者。それにしても、ゴム製の櫂一本でよくあれだけ進むものだと感心しました。さすがに陸地が近づくとくたびれた様子で、櫂を漕ぐ手を止めて、海にぷかりぷかりと浮かんでいました。
この眺めもとぼけた秋がポケットから出してくれたとっておきの景色のひとつでした。
849 20081101 東京に木枯らしが吹く 伊藤さん、昨日、東京に木枯らしが吹きました。
夏の終わりもなく、秋の初めもなく、なんとなくだらだら暑いまま、突然の木枯らしでした。例年よりも17日も早いのだそうです。なんということだ。
848 20081027 笑福亭仁鶴の太閤さん 大阪に行ってきました。大阪の帰り道で京阪電車に乗ってみました。淀川に沿って走る京阪電車には前々から乗ってみたいと思っていました。
10月19日に京阪中ノ島線が開通したばかり。電車の駅には中ノ島線開通のポスターがありました。笑福亭仁鶴が五代友厚、福沢諭吉、太閤秀吉に扮したポスターでした。洋服に蝶ネクタイの五代友厚のキャッチコピーは忘れてしまいましたが、和服に羽織を着た福沢諭吉のキャッチコピーは「これがあれば適塾に通うのに便利でした」というものでした。着物は一万円札の福沢諭吉の肖像が着ているものに似せていました。
さてさて、太閤さんはと言えば「いざ、大阪経済復興の陣じゃ」のキャッチコピーに唐帽を被った姿。唐帽は、冠の両側に丸い耳のような張り出した部分がある被り物です。
これまた豊臣秀吉の肖像でおなじみの被り物。
笑福亭仁鶴さんに一番、似合っていたのは、太閤さんの扮装。似合っていただけじゃなくて、ポスターの仁鶴さんはうれしそうでした。うれしそうなうえに、その微笑にはちょっとはにかんだ感じもありました。そのポスターを見ていると、やっぱり大阪の人は太閤さんが好きなんだなあと思えてきます。駅に張ってあったポスターを失敬したくなるくらい笑福亭仁鶴さんの表情の良いポスターでした。
847 20081023 沖縄に行ってきました。 那覇もさすがに朝晩は涼しくなったということでした。
沖縄は沖縄タイムスの新沖縄文学賞の選考会でした。
国際通りをぶらぶら歩いていたら、いきなり「中沢さん」と声をかけた若い女性がいました。私はしばらく「???」でした。顔を見覚えがあるのですが、うまく名前と結びつかないのです。最初は法政が日芸で教えたことがある学生かもしれないと思ったせいで、とっさに誰だかわからなかったのです。綿矢りささんでした。
「どうしてこんなところにいるのですか?」
と聞かれても、それはこっちが言いたいセリフだとばかりに答えられませんでした。
韓国で開かれた文学フォーラムで綿矢さんにお目にかかったのはつい一週間ほど前でした。ソウルから春川に移動したあと、ふたりでお喋りをしながら散歩しました。で、那覇の国際通りに現われるとはお互いに思っていなかったので、びっくりでした。 847.jpg
846 20081014 ロサンゼルス山火事 伊藤さん、大丈夫ですか?ロサンゼルスの山火事は日本でも速報で流れています。だいぶ大きいようですね。
845 20081014 伊藤さん、生きてます。 5日の午後、羽田に下りました。
10日11日は大阪。今週末は沖縄。来週の週末は再び大阪です。そんなわけであります。意地でも忙しいとは言いたくない!でも身体はひとつであります。
ご心配をおかけしました。ちゃんとお家にかえってごみだしもしたし、馬鹿になった洗濯機でたくさん洗濯もしました。馬鹿になった洗濯機というのは、なぜか洗濯の途中で止まって、なにやらぶつぶついいながら考え込んでいるのであります。
あとこのごろ、掃除機が怠けだして、吸い取りの威力が減っていて、家の中の家電製品の入れ替え次期が近づいているみたいです。
844 20080928 ソウル 春川 一週間ほど韓国に行ってきます。ソウルと春川に行きます。
843 20080923 ようやく出来ました! 「大人になるヒント」(メディア・パル社)
ようやく出来ました。今日、メディア・パル社の近藤さんが見本を届けてくれました。御協力いただきました中沢ゼミの卒業生の皆さん、どうもありがとうございます。
とり急ぎお知らせと御礼まで。
「大人になるヒント」については、書店に並ぶ頃に、トップページで紹介します。
842 20080918 警察からお手紙が来た。 身分証明書を落としてしまったのです。ちゃんと警察に届けてくれた方がいたので、助かりました。お知らせのお葉書がきました。
落としたのは13日の土曜日。そう、東京国立博物館が身分証明書を見せれば無料になるということが解った日です。で、気が付いたのは15日。電車に乗るためにスイカを探してもなくて、不機嫌になっていました。これだけさがしてないのだから、きっと落としたに違いないと、がっかり。スイカは惜しいと思いつつ、パスモを買いました。ああ、ペンギンがいなくなっちゃったなあ、でもパスモのピンク色のバスと電車のかわいいからいいかとか何とか、ぶつぶつ思っているところに、警察からお葉書が届きました。ふふふ、ペンギンが戻ってくるぞ!
ま、一大事は身分証明書のほうなのですけど。前に落としたときは再発行で3000円とられました。それよりなにより、何度も落とすというのが面目無いというか困ったものだと思われそうで、はらはら。だいたい何かを落とすときってのは、ものすごく疲れているか、気落ちしているときですね。
841 20080915 連休があけるとすごいことになりそう 今朝からずっと経済ニュースに興味を持っています。アメリカの金融危機はかなり深刻な様相で、リーマンHDが破産申請。メリルリンチはバンク・オブ・アメリカが買収。AIGは資産売却。あさからちょこちょこっとロイターと日経のニュースを見ていただけでも、次々に驚くようなことが起きています。どうなるのだろう?明日、お休みが終わったらすごいことになるんじゃないかしら?
840 20080914 今日は十五夜 丸い月がでるといいなあ。
写真は歌川広重の描いた「武陽金沢八景夜景」という3枚続きの版画の中央の一枚です。八つの景色のひとつに「瀬戸の秋月」がありますが、野島山の上にまんまるお月様が出て、平潟湾いったいを照らしているところが描かれています。3枚のうち、右側の一枚には瀬戸橋が描かれ、瀬戸神社の前の集落も描かれています。そこが私の生まれ故郷。
今日はまあるい良いお月様がでました。 840.jpg
839 20080913 水上バス 先週、今週と続けて浜離宮から吾妻端まで水上バスに乗りました。写真は水所バスから見た駒形橋。 839.jpg
838 20080910 鬼怒川の川下り 良く晴れた気持ちの良い日でした。鬼怒川の川下りをしました。船の中で、私の前に座っていた坊やの頭に蜻蛉が止まっていました。
鬼怒川下りの船着場にはデカプリオの写真がありました。まだほっそりした感じで、少年というのがふさわしいようなデカプリオの写真でした。鬼怒川はここのところの雨のために増水。瀬では白い泡が逆巻いていました。空は雲ひとつない快晴。風は少しひんやりとして、川下りにはまたとない良い日でした。
鳳仙花は夏の名残を、コスモスは秋の訪れを、それから、立派な薄の穂が金色に輝いていました。
前日の16時に浅草を出る特急に乗って、鬼怒川温泉に出かけました。隅田川を越えたところで、ひと眠り。目を覚ますと黄金色の稲田の中を電車が走っていました。西の山にちょうど日が沈むところ。斜め向かいの席には、オレンジ色のカーディガンを着た女の子。この子が「ぽにょ」にそっくりでした。
この前、鬼怒川に行ったのは2003年の冬でした。
そのときは、帰りに歯が痛みだして、歯医者さんに駆け込むと、なぜか「毎日、電話を下さい」という不思議な指示。どうしてかしら?と思いつつも毎日、電話をしました。あとで聞くと、もし発熱症状が現われたらすぐに入院しなければいけないほど重症だったみたいです。
歯が痛み出したときの光景や、一緒に鬼怒川温泉に行った人たちの様子などは鮮明に覚えているのに、それがいつだったのかは、調べなくちゃ解りませんでした。
え、え、映画を見に行きたいよぉ!
伊藤さん、無事にお帰りになりましたか? 838.jpg
837 20080905 きれいなノート 上野の都立美術館で見つけました。大きさは新書版くらい。表紙にマグネットが入っていて、ぴったと閉じることができます。
同じ売り場でみた光景。
もうすこし大きなB5サイズもありました。おじさん(おじいさんのほうがいいかなってお年でした)が「きれいなノートだねえ」と感心してみていました。お連れのおばさん(こちらもおばあさんかな?)は感心を示さず、冷ややかな反応。たぶん、家に中に無駄なものを増やしたくないと思っているのでしょう。
ノートとしてはB5サイズのほうが使いやすいのでしょうけれども、持ち歩くのには新書サイズのほうがよさそうで、小さいほうを買いました。日記帳に使うつもり。小さいほうが旅行に持って行くのに便利だから。 837.jpg
836 20080904 まめ まめ まめ 浅草のお土産はいつものとおり「まめ まめ まめ」
左から「うに豆」「はじき豆」「大豆」です。今年は昼ゼミの合宿は浅草なので「グリーンピース」と「塩豆」はその時に買うことにしました。
合宿のコースは新橋駅集合で、地下を浜離宮まで歩き、そこから水上バスで吾妻橋へ。夕ご飯はお好み焼きともんじゃ焼き。もんじゃ焼きは初めて食べました。それで、浅草泊(笑)翌日は午前は自由行動(というか、夜更かしをして歩くのがつらいと言うメンバーもあり)私はかっぱ橋の道具街を散歩しました。それから「駒方どぜう」へ。午後は上野の都立美術館でフェルメール展を見学。
後期になったら岡本かの子の小説「いのち」を読みましょうか?どじょう汁の話が出てくるの。 836.jpg
835 20080903 どぜう どじょうの丸なべを食べてきました。おいしかった。 835.jpg
834 20080829 今夜も雷ごろごろ 夕方は少し晴れ間も見えましたが、今夜も雷ごろごろです。 834.jpg
833 20080827 じゅんさい じゅんさいを一生食べなくても、損をしたとは思わないだろうなあと、なぜか、食べる度に考える。ところが食べてみると妙においしい。一生食べなくても損をしたとは思わないのに、食べるとおいしいから、では「すごく得をした」という気分になるかというと、そうでもないのに「また食べたい」と思っている。じゅんさいはそういう複雑な味の食べ物。
池に生える水草の芽。つるつるしたゼラチン質に包まれている。このゼラチン質が曲者で、あっさりした味なのに、なぜか動物を思わせる。おたまじゃくの卵とか、そういうやつ。今までは三杯酢で食べていたけれども、白味噌のお出汁の実にするとおいしいことを発見しました。
ネットでレシピを調べてみると、じゅんさい鍋というのがありました。はて鍋?とは。鍋にするとどんな味がするのでしょうか?それからじゅんさいの天麩羅。あのゼラチン質も天麩羅になるのかしら?そのうち、手がすいたときに試してみましょう。 833.jpg
832 20080826 訳注聯珠詩格 今、銀行から帰ってきました。ずっと未記帳だった通帳の記録をつけてもらっていたらすごく時間がかかってしまいました。ATMコーナーには始終「ATMで還付金が出ることはございません」のアナウスが流れてました。
この春ごろから、うちにもしょっちゅう「還付金があります」って電話がかかってきてました。これまでの経験上、払ってない税金や保険年金の督促はあっても還付金のお知らせはなかったから、振込み詐欺には引っかからなかったけど、けっこう、引っかかる人っているみたい。
小さいこだわりですが「振り込め詐欺」という言い方は嫌い。発音がしにくいから。「振込み」は名詞としても使えるから「振込み詐欺」でいいと思う。「振り込め詐欺」という言葉を聴くたびに、中学校の時、英語の能動と受動がわからずにまごまごしたのを思い出してしまう。だって日本語は能動と受動が曖昧なんだもん。
柏木如亭の『訳注聯珠詩格』は
「杜甫、李白、などの漢詩を江戸時代後期の漢詩人柏木如亭が当時の話し言葉を使って訳した漢詩集。」
と説明されています。
伊藤さんが見つけた岩波文庫は私もアマゾンで見つけて買いました。世間は広いようで狭い!柏木如亭には「詩本草」というのもあって、こっちはお料理の本。
「遊歴の漢詩人が行く先々で口にした美食と旅の記憶に漢詩を結合させた随筆。『随園食単』『美味礼賛』に匹敵する魅力的な一品」
と紹介されています。『随園食単』は中華料理。『美味礼賛』は西洋料理。『詩本草』は和食。さて、今夜は和洋中どれでやろうか?と迷いたくなるような三冊。
伊藤さん、夏ばてしないで下さいよ!『トリッパー』の連載楽しみにしてますね。
831 20080825 十和田乗馬倶楽部 八戸から車で一時間くらいのところにある倶楽部です。外乗のコースがいろいろあり、一度、行ってみたいと思っていました。馬場で練習しているのは、ベル君のそばに映っていた小さいお嬢さん。まだ小学校にも入っていないくらいの年齢でした。こんな年頃から馬に乗りなれれば、すごくうまくなるのでしょう。 831.jpg
830 20080824 こっちは先生が乗っていた馬 ベル君は側対歩の馬でした。右の前足と右の後ろ足。左の前足と左の後ろ足がそろって動くという歩き方です。日本の古式馬術や荷馬車を引く馬には、側対歩の馬がけっこういます。あまりスピードは出ないのですが、そのぶん、安定した乗りここちです。
先生が乗った馬は斜対歩。右の前足が出るときは左の後ろ足が踏み込み、左の前足が出る時は右の後ろ足が出るという歩き方です。斜対歩のほうがずっと早く走れます。写真の足元を注意してみるとベル君と先生の馬では立っている時も足の運び方が違うのが解ります。先生の馬も道産子だそうです。
で、先生の先導でアップダウンのある山道を一時間半ほど散歩してきました。しばらく馬に乗っていなかったので、手綱の持ち方も忘れていましたが、山道を散歩するうちに思い出しました。急な下り坂や上り坂も、なんとか、越えることもでき、景色を楽しむ余裕も最後は出てきました。 830.jpg
829 20080823 馬に乗ってきました。 私を乗せて山道を歩いてくれたベル君です。道産子だそうです。
ベルって牛の名前じゃないか?って知り合いに言われました。そう言われてみればそんな気がしなくもありません。
おとなしくてかわいいお馬でした。 829.jpg
827 20080817 雲の峰 嵐が通り過ぎたあとの黒雲の向こうにぽっかり入道雲が顔を出してしました。雲の峰。
16日午後から埼玉は全域、激しい雷雨に見舞われて浦和のパルコには落雷もあったとのことでした。停電にもなったみたい。幸いうちに落雷はありませんでした。
伊藤さん、おかえりなさい!熊本の皆さんによろしく! 827.jpg
828 20080817 真夏の怪 芥川竜之介の「羅生門」を読むと、都のはずれの羅所門には人の遺骸が放り出してあった様子が書かれています。「羅生門」のもとになった今昔物語の時代、平安末期には、葬られることもなく放り出された人の遺骸を都でも見ることができたようです。
役所に勤めている知人から、以下のような話を聞いたことがありました。
8月の暑い盛りのことで、役所が閉まる直前に死亡届はどうのように出したらいいのかという問い合わせの電話がかかってきたそうです。で、その問い合わせに答えると電話の主は「今日は止めておきます」と言い出したのだそうです。役所の窓口が閉る時刻だったので、そう言い出したみたいです。死亡届ならば、通常の窓口のほかに、夜間でも受付があると言っても「今日は止めておきます」一点張り。そこで「仏様はいったいいつ亡くなられたんですか?」と聞くと「三日前」というので、驚いたと言っていました。
「死亡届がないと火葬にできませんよ」とたたみかけるとまた「今日は止めておきます」の返事。で、電話が切れてしまったということでした。
こんなに暑い日が続いているのに、いったいどうしているんだろう?と気になってしょうがないと言っていました。去年の夏に聞いた話です。
死体遺棄事件というとたいていは殺人事件とセットの罪状で、容疑者が捕まってから、殺人事件の捜査に切り替えられることが多いようです。が、殺人ではなく、単純な死体遺棄事件の雑報をふたつ見つけました。
一件はお母さんが病死して困った兄弟二人の話。母親の遺体をトランクに詰めて放置したというもの。母親と同居していた兄は「お母さんが死んでどうしたらいいかわからない」という遺書を残して自殺していたそうです、弟のほうは八戸駅のベンチでぼんやりとしていることろを逮捕。もっともこの場合の逮捕は「保護」に近いような気がします。40歳前後の兄弟でした。
もう一件は50代の男性がやはり母親が病死して「葬式代がない」という理由で遺体を遺棄したという事件。
二件ともお金にも困っていた様子がわかりますが、困っていたのはお金だけじゃないようです。それにしても人のつながりが薄くなるって言うのは、こういうことをさしているのでしょう、
826 20080812 資生堂のホネケーキ 近所の薬局で見つけました。資生堂のホネケーキ。洗顔石鹸です。これが売り出された頃は石鹸としては最高級品でした。大事に大事に使っていました。
なぜか、この石鹸を見るとどこかに遊びに行きたくなります。どうしてだろう????? 826.jpg
825 20080811 ぶたの日光浴 アジアンタムの冬越しに成功しました。アジアンタムの葉陰で日光浴をするぶたです。 825.jpg
824 20080810 昨日の出来事 またほていあおいが咲きました。
飯田橋のラムラに入っているスーパーで買い物をしていたら「はるさめは緑豆のがおいしいから」というおばあさんのそばで、その人の娘らしいおばさんが「中国食品なんか買わないでよ」とヒステリックに叫んでしました。「ほら、テレビでやっているでしょ。汚いところで作っているんだから」とこれもきんきんした声。なんだかしゃくに障ったので、目の前で、中国製の乾物(きくらげ 百合の芽、その他いろいろ)をたくさん買っちゃいました。もちろん緑豆のはるさめも。はるさめはおばあさんの言うとおり、緑豆のやつがおいしいです、
法政大学で用事があって、研究室にいたら、漢文の黒田先生がきました。通信教育のスクーリングの最終日だということで、ほっとなさっているようで、少しお喋りしました。「映画を見たいのにいいのをやってない」とお嘆きでした。夏休みですから、子ども用ばかりで、仕方ないですね。
「ポニョポニョ 魚の子
おなかのまんまるい女の子」
「崖の上のポニョ」の主題歌の、このくだりが気に入って、一人になると歌っています。あ、なぜ気にっているのか、理由のわかっている人はやたらに言わないようにして下さい。
飯田橋の喫茶店で、編集者に校正刷りを戻して、家に帰ってきたら、近所の知り合いが偶然、尋ねてきました。子どもが保育園に通っていたときの、お母さん仲間。で、来週からカザフスタンに行くという話。え、だってグルジアとロシアが戦争を始めているよと驚くと「でもカスピ海の向こう側だから」って。中央アジアは広いから。
気をつけていってらしゃい。
お客さんが帰ったら、今度は遠くのともだちから電話。電話でよもやま話をしているうちに2時過ぎに。今日になっちゃいました。
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823 20080808 落合簗 渋川の駅からすぐ近くにある落合簗に行ってきました。前日、夜半から未明にかけて、もうすごい雷雨がありました。5時間近く雷鳴が轟いていました。で、泊まっていたホテルの部屋が紫に染まるほどの稲光と同時に、どしんという音。あとで泊まっていた建物に落雷があったことがわかりました。それにもかかわらず、ひたすら眠っていた私は、部屋が紫に染まったのも「夢の中」の出来事のひとつのようで、これで火事でも出ていたら、と思うと「冷や汗」ものでした。そういうわけで簗がある利根川には、茶色い濁流が渦巻いていました。
濁流渦巻く利根川からの川風は心地よく、川の向こうには榛名山の姿がくっきりと見えました。いつも、あとから、あ、失敗したと気が付くのですけど、今回も写真を撮り忘れました。携帯を持っていたのに。なんだか見とれてしまうとカメラを出すのをすっかり忘れてしまいます。
炭火でかりかりに焼いた鮎と、一匹丸ごとフライにした鮎それに鮎のコク(輪切りにした鮎の入った味噌汁)を食べました。新発見は細切りにしたナス。汁に浮かんだ実が、最初はちょっと煮えすぎた葱か何かのように見えて(かなり左目の曇りが響いていますが)「なんだろ?」と口に入れるとナスだったので、思わず手を打ってしまいました。ナスも細切りにすると、魅力的な吸い口になるのだと解りました。
ともだちと鮎を食べに行こうと約束しているのですけど、なかなか、お互いの時間の折り合いがつきません。お先にいただいちゃいました。
822 20080801 ほていあおい 朝起きたらほていあおいの花が咲いていました。
あとから調べてみたら3本ほど花の痕跡が残っていました。花芽は突然のように伸びて、一日だけ写真のような紫の花を咲かせます。で、その翌日にはくたりと枯れてしまい、ちょっと見には花のあったこともわからなくなってしまいます。
ずいぶん前にどこかの用水地で、ほていあおいの花が無数の咲いているのを見ました。そのときは「へえ、ほていあおいも花が咲くんだ」とただ見とれていたのですが、それがどこだったか思い出せません。夢で見たみたいに、明るい水面に紫の花がたくさん咲いている景色を思い出します。 822.jpg
821 20080730 雷と遊んで携帯電話を忘れる 昨日は夕方からもうすごい雷雨でした。どこかに雷が落ちて山手線が止まったそうです。私は法政大学の研究室にいたのですけど、雷がだんだん近づいてくる様子がわかってわくわくしてしまいました。
幸い?法政大学にはボアソナードタワーがありますから、雷が落ちるならきっと背の高いボアソのほうだろうと、図書館棟に研究室がある私は安心して、大空が稲妻で紫色やコバルトブルーに染まるのを眺めていることができました。花火よりもずっとスケールが大きいので、楽しいです(自分の頭に落ちなければ)で、どきどきもするし。
だけど、研究室に携帯を忘れてしまったのです。夕べのうちに気が付いてはいたんだけど、もう大学の門も閉まっている時間で取りに戻ることもめんどくさかったの。やれやれ。携帯にいろんな用事が飛び込んできたりしてないといいのだけど。
820 20080728 伊藤さん かっこいいねえ、 前橋文学館の伊藤比呂美さんのポスター、なかなかかっこういいです。トップページにリンクを張ってあります。ご覧下さい。
写真は知人の岡山土産。白い雲がむくむくする夏の空です。 820.jpg
819 20080728 おおきな虹が出た 夕方、猛烈な雷雨。それから大きな虹が出る。二重の虹だった。向かいのマンションが虹の二重まる◎で囲まれていた。
818 20080726 カレーにとりつかれる 熊本日航ホテルの朝ごはんになぜかカレーが出ました。いや、ビュッフェ方式だからカレーを食べたくない人はカレーをえらばなかればいいのですけど。「なんでカレーなの?」と首をひねりつつ、これを食べてみれば「おいしい!」でした。なんと言っても朝の4時半からくまぜみが「しゃわしゃわしゃわ」って鳴いていて、頭の中に「しゃわしゃわ」の国ができちゃっているほど暑いので、朝からカレーがおいしい。そういうわけでカレーにとりつかれちゃいました。
で今朝はカレー。お釜の中でごはんがかぴかぴになっていたので、ご飯を水で洗ってぱらぱらにして、オリーブオイルで炒めて、カレー粉をふって出来上がり。ドライカレーです。熊本に行かなかったら、朝からカレーを食べようなんて思わなかったでしょう。それにしても日航ホテルって全国どこでも朝からカレーを出しているのかしら?
817 20080724 なすなすなす 熊本のお土産はなすです。丸いのが米なす。そのとなりは大成なす。真ん中が赤なす。いちばん長いのが長なすです。 817.jpg
816 20080723 しゃわしゃわしゃわ 伊藤さん、熊本に行ってきました。宇土も歩いてきました。熊本文学隊の皆さんともお話してきました。オレンジでにがうりのぬかみそ漬けをごちそうになりました。
なによりびっくりしたのはくまぜみの鳴き声。朝の4時半にしゃわしゃわしゃわしゃわって、鳴き始めて、ホテルの10階に泊まっていることが一瞬判らなくなりました。
すごいね。くまぜみって。
伊藤さん、東京でも油蝉が多いから、あんまりみんみんとなく蝉の声は聞かないのです、じいじいじいですけど、絵本だとみんみん鳴いていますねえ。
くまぜみってのは、なんかすごい迫力。鶴屋デパートの前の並木でもしゃわしゃわしゃわっと鳴いていました。
熊本って、なんか「暑い」リックサックをひとつ余分に背中に背負わされたような暑さでした。サウナに入っているみたいな湿気で、この湿気で汗がいっぱいでました。ダイエットにはいいみたい!
815 20080717 水なすの糠でぬかみそを作る 大阪から水なすのぬかみそ漬けを送りました。水なすは一個一個、糠にくるまれています。この糠を捨てずにタッパーに集めて糠床を作りました。これにきゅうりとかみょうがとかそのたものもろお野菜を漬けておくとおいしいのです。
ぬか床は古いほど良いって教わりました。でも、定期的に新しくするほうが良いという説もあるのだそうです。どっちがほんとうなのかわかりません。
814 20080715 宮本さんのお兄さんの夢 「おたあジュリア異聞」の挿絵を描いてくださっている宮本恭彦さん、それから宮本さんのお兄さんご夫妻、それに長谷川郁夫さんと大阪を歩いてきました。
宮本さんのお兄さんが夢の話をしてくれました。夢を見たのは「小川国夫さんを送る会」の2、3日前だそうです。4月に亡くなられた小川国夫さんの「送る会」は6月16日に開かれました。
宮本さんの夢では、その「送る会」の会場へ行ってみると誰もいなかったのだそうです。誰もいないなあと思っていると壁ぎわの椅子に小川国夫さんと長谷川郁夫さんが並んで座っているのに気づいたということでした。なんだ小川さんが来ているじゃないかと、壁際の二人を宮本さんは見てしました。すると長谷川さんが小川さんに聞いたそうです。
「天国はありますか」
小川さんが答えて
「ありましたよ。あったんです」
と言ったのだそうです。
ここの下りを話す時、宮本さんのお兄さんは小川さんのものの言い方そっくりに話しました。声の質は宮本さんと小川さんではまったく違うのに、なぜか宮本さんの口から小川さんの声が聞こえるような、そんな感じでした。で、宮本さんのお兄さんは、夢の中で、
「よく聞いたな、よく聞いたもんだ」
とひとしきり思い、夢から覚めてまた「よく、聞いたもんだな」と感心したという話でした。
ほんとうに天国があったと教えてもらった気のする夢の話でした。
813 20080711 イタリア人 フィレンツェのサンタ・マリア・デル・フォーレ大聖堂に落書きをしたことを謝罪した女子大生を、フィレンェ市が謝罪を受け入れたうえに平和大使に任命したそうだ。
イタリア人は陽気だなあと感心する。災い転じて福となすのがうまい。
少年犯罪は全体には現象傾向だけど、殺人は10パーセントも増えたの記事もあった。どろぼうは減ったけど、人殺しは増えたと思っていいのかしら?少年犯罪なら詐欺や横領はそんなにないはずで、ありがちなのは万引きや盗みそれに傷害などと考えてみる。
お腹がすく、つまり肉体の飢えは扱いやすいけど、精神の飢えは扱いにくいということをこの統計は示していないかしら?精神の病ではなくて、精神の飢え。
812 20080709 私の曇っている左側 左側の目の網膜に故障があるのがわかったのは去年の今頃でした。で、それ以来、私は左側が曇っていることを意識するようになりました。あと、眼鏡にも少しなれたみたいです。でも眼鏡をかけても、私の左側は曇っています。
正確に言うと曇っているというよりも、ものの輪郭がぼやけています。輪郭がぼやけているので、もの全体が少し遠くにあるように見えます。ですから、片目だけで、見ると左側だけで見る時と右側だけで見る時では、物と私の間の距離が違うように見えます。左側は輪郭が曇るだけではなく、物が幾分、小さく見えるので、それだけ遠く見えます。そのほかに左側の視界で顕著なのは光が散乱して見えることです。裸眼だと信号の光がまるで打ち上げ花火のようにぱっと散っています。光の散乱は眼鏡を用いるとだいぶ楽になります。
疲労しているときは、この左側の不思議な見え方はひどく顕著になります。ところが、本を読むことに集中するとだんだん文字が見えてくるというへんてこりんな現象もあり、その時は右よりも左のほうがくっきりと見えているのです。これはいったいどうしたことでしょう?こうした左の目の故障の原因はわかりません。
そんなわけで右は近視になってしまいました。で、その近視の眼鏡を作った時に、しばらくしたら眼鏡の度の修正がいりますと眼鏡屋さんに言われていました。ああ、またそろそろ眼鏡屋さんに行かなくちゃ。
左側が曇って見えるようになってから、案外、片目だけ故障を抱えている人も多いことをしりました。ある人の旦那さんはやはり50代から原因不明のまま、片目だけ視力が落ちたということでした。困るのは目の疲労から突然、思いがけないときに眠気に襲われることです。眼鏡ともう少し上手に付き合うようにしたら、この眠気の発作を抑えることができるそうです。
811 20080708 副都心線 副都心線が開通した。で、有楽町線が成増始発だった頃が懐かしい。このときは便利になったという実感があった。それまでは東武東上線しか利用できなかったので、都心へ行く地下鉄はありがたかった。しかも始発駅。だからいつも座れる電車だった。
ところが副都心線はあまりありがたくない。有楽町線一本の時は乗り換えなかればならなかった渋谷や新宿に一本で行けるということで理屈としては便利になったのだけれどもである。なぜか「渋谷」行きばかりが来る時間帯がある。「渋谷」行きの場合、有楽町線を利用するには小竹向原で乗り換えなければならない。その小竹向原でも「渋谷」行きばかりが来ることがある。
小竹向原には有楽町線と西武線それに副都心線が乗り入れているので、かなり複雑なことになっている。そのため、混乱が生じているのは読売新聞の報じていた。
さらに準急へ急行ができて、もよりの成増駅を通過する電車がある。正直言って、こんなに複雑になって事故がおきたりしないかしら?と心配になってくる。まだ慣れないから、混乱したり、電車の遅れが出たりするのだという人もいるけれども、慣れてきた頃に事故が起きたりしないかしら?
秋山駿さんと麹町から電車に乗ろうとしたときも、所沢で起きた事故の影響で、電車は大幅に遅れていた。で、秋山さんが「お酒が飲める頃にな、この電車があったら便利だったな」とおしゃったので、思わず「そう、そう」と頷いてしまった。確かに新宿でお酒を飲むには便利な電車である。でも、今はお酒を飲む閑もない。副都心線が開通したおかげで今までよりも家を少し早くでなければならなくなったので、なおさら閑が削られている。やれやれ。
810 20080707 鱧 玉ねぎ マツタケ 鱧と玉ねぎとマツタケの鍋をごちそうになりました。玉ねぎは新玉ねぎの頃に鱧と鍋にするとすこぶるおいしいとのことでした。それからくぎ煮は、3月4月の頃がいちばん盛んに作られるという話も聞きました。お中元にくぎ煮をもらうことが多かったので、初夏のものを勘違いをしていましたが、ほんとうは春先のものだそうです。来年は4月頃にくぎ煮を探してみようと思います。
ところで鍋の具に信じられないほど大きなまつたけが出ました。いったいどこから出てきたまつたけなのでしょうか。
あと、貝と玉ねぎのキムチを発見。これの意外な組み合わでしたがおいしい! アマダイ入りのチヂミも見つけたましたが、暑い大阪の街で持って歩いて、無事かどうか解らなかったので、今回はパス。
809 20080629 水なす、くぎ煮、それから鱧 大阪のおみやげ。
808 20080621 めん喰い 朝、焼きそば 昼 冷やし中華 夜 鰯とブロッコリーのパスタ。 朝 なし 昼 てんぷらそば 夜 かも汁そば。
朝 そうめん 昼 かた焼きそば 夜 ざるそば 夜食カップヌードル
なんでこんなに綿ばかり食べているのだろう。もとい麺でした。
807 20080619 ヤダヤダ虫が湧く ちょっとだけヤダヤダ虫が湧いている。ちょっとした会議で「絶対嫌だ」と口走っていた。これは危ない。ヤダヤダ虫が湧いている証拠。これ以上に増殖しないことを願う。
806 20080616 火だすき 焼物に火だすきという柄が出ることがあります。お茶碗やお皿を焼くときに、炎がははってしゅっとした模様が出るのだそうです。
一週間前に右手の親指の付け根から手首にかけて火傷をしました。ポットにお湯を注ぎすぎたので、少しこぼそうとして自分の手にかけてしまったのです。すぐに冷やした部分はあとが残りませんでしたが、手首のあたりに火だすきのような火傷の跡ができました。
先週末、大阪へ。西成で騒動があったというニュースが深夜のBS放送で流れていました。あの騒動はどうなちゃったのだろうと、朝、テレビをつけてみれば、速報のチャイムがなって東北の地震でした。西成の騒動は金曜日、土曜日、日曜日と三日も続いた様子です。
地震や騒動とはなんの関係もないkれども、右の手首の火だすきみたいな火傷のあとを時々、ぼんやり眺めています。
805 20080613 打ち明け話 打ち明け話ができにくい世の中になったなあと感じることがあります。いや、別に私が打ち明け話をしたいわけではないのですけど。
へたに打ち明け話をするとじっと耳を傾けてくれる人はほとんどいなくて、いきなり、解決法やら解釈やら、まあ、その場の勢いで回答だけを言われるみたいなことが多いです。私もこのごろは人から打ち明け話をされることが多くなったから、もしかしたら、そんなことをしているのかなって考え込んでしまいました。なんか、試験問題に答えるみたいに打ち明け話に答えちゃうって癖が、ものすごく広がっている気がします。試験問題の答える訓練はずっと小さい時からしているけれども、他人の打ち明け話につきあう訓練はしてないから仕方がないってそういうことでもないんだけど。
人間の内面への無関心ってのは、どんな社会で幾らかはあって、それは仕方がないことかもしれませんが、そういうものが過度に広がると、心象風景とか、内的な葛藤が、人間の現実の行動にむき出しに出てしまうってことがあるみたいです。すさまじいことになるわけで。
ここ数年、学生の皆さんが提案した短編を4月から6月のゼミで読んでいました。今年は違うことをしているのですけど、昨年まで学生の皆さんの持ってきてくれた短編を読んでいました。で、その短編小説ではむごたらしい殺人事件が描かれていることが多くて、本心を言うとちょっと閉口していました。ただ小説は所詮作り物ですから、そこに描かれた殺人事件は、作者と読者の間に成立した心象風景と読めば読めないこともないのです。
もっともそこに描かれたむごたらしい殺人の場面と心象風景として読み直すのは、小説を長い間、書いてきてその発想法などを幾らか承知しているからそう考えられるのでしょう。そうでないと、心象風景をそのまま現実に置き換えることも可能なわけで、ため息が出てしまいます。幕末には血みどろの芝居がもてはやされたそうです。お岩さんが出てくる「四谷怪談」なども幕末の血みどろ繻美から生まれた芝居だと聞いたことがあります。
人間が心の中に育てる価値観というものも、ずいぶんいろんな方向へ育って行くものなですね。
しかし、6月ってのはなんでこんなに惨劇が多いのでしょうか?打ち明け話以下のことは秋葉原の通り魔事件のニュースを見ていて、考えたことです。秋葉原の通り魔事件の前に、女性をさらってばらばらにしてトイレに捨てたという陰惨な事件もありました。その事件そのものは4月の出来事ではありましたけど、なんでこう次から次へと「絵空事」のような事件がおきるのでしょうか。
804 20080610 伊藤さん 梅雨入りしましたよ 九州北部も梅雨入りしたそうです。東京はもうずっと前に梅雨入りしたというのに、今年は逆転現象だということでした。と、伊藤さんはもうカルフォルニアに帰っちゃったのかしら?
803 20080607 やっぱりけしの花 いつだったか、管理人の豆蔵君が「なんかこの花が気になる」とMIXIに写真を掲載していました。あ、それはけしの花だよと教えたのを覚えています。で、私の家の周りにもけっこうけしの花が咲いていました。
けしは麻薬の原料になるので、栽培を禁止されています。昔、私の家の庭にも大きなけしの株があって、それを引っこ抜いたのを覚えています。で、今日、コンビニでなにげなしに週刊新潮を買ったら「全国でけしがふえている」というグラビアがありました。やっぱりけしの花はあっちこっちに咲いているらしいです。で、何が原因でけしが道端などに咲くようになったのかですけど、これが解らないみたい。
けしって、あんぱんの上についているつぶつぶもけしの実だと聞いているけれども、あんぱんを食べても問題はないみたいです。でもなんでけしが増えるのだろう?
802 20080606 葉っぱばかりを活ける 新大阪駅のホームでひさしぶりに平松洋子さんに会いました。お話したかったのですけど、私は2人の同行者がいてしかも3人ともヘビースモーカーなので、喫煙車両へ。
それで平松さんが葉っぱが好きとおしゃっていたのを思い出しました。新緑の季節が過ぎて日増しに緑が濃くなる季節です。で、葉っぱばかり活けました。と行ってもちょうどベランダのヒイラギの木を切ったので、枝を捨ててしまうのがもったいなかったのです。花屋さんで買ってきた夏はぜも残っていました。思いついたのはお風呂場にもガラスの器で葉っぱを活けること。
前からお風呂場にグリーンが欲しかったのですけど、なにしろ狭いユニットバスなので、グリーンを置くのは無理かなという気がしていました。でもガラスの器に、枝物を入れればいいんだと気がつきました。それで花屋さんに行ってみたところ、なんと1メートル40センチもあるドウダンツツジの枝を見つけました。大き過ぎる!でも一本1000円。使い出がある。ということで一本1000円のドウダンツツジの枝を担いで帰りました。それをお風呂場に活けたらお風呂場はジャングル。
こんどはお風呂場の天井に二本設置してあるポールから花瓶を提られるようなネットがないかしらと探しています。
801 20080604 蓬ヶ島 虎屋に「蓬ヶ島」というお菓子があります。大きなお饅頭の中に小さなお饅頭が入っているお菓子です。小さなお饅頭は5個入っているものと、7個入っているものがあります。小さなお饅頭のあんこの色は、それぞれ別の色をしています。7個の小さなお饅頭の入ったものは、全体で1キロあるそうです。注文で作るお菓子で、一度、作ってみたいと思っていました。
今年の春、姪っ子が中学生に、甥っ子が高校生になりました。そのお祝いに「蓬ヶ島」を注文しました。小さい饅頭7個いりは少し大きすぎる気がしたので、5個いりにしました。真っ白なお饅頭が箱いっぱいに入っていました。勿論、一人でこの巨大なお饅頭を食べるわけには行きませんから、切り分けることになります。切り口には3個のお饅頭が見えるということに甥っ子が妙味を持って、なせ3個しか見えないのかと説明してみようと考えはじめました。
小さいお饅頭でさえ、ふつうのお饅頭と同じくらいの大きさがあります。これを4つ並べて、その上にひとつお饅頭を置き、全体をあんこで覆い、さらに白いお饅頭の皮で覆われているというものです。だから切り口は3個しかお饅頭は見えないのですけど、甥っ子は斜めに切ればもっと見える位置があるのでは?とかいろいろ考えていました。お饅頭の下のほうを切れば4個の小さいお饅頭が見える位置がありますが「それじゃあ、反則みたいな気がする」ということで、逆にまったくお饅頭が見えない切り方もあることに気づいたり、なんだかお饅頭というよりもパズルみたいな感じで楽しみました。
800 20080603 ほんとにバターがない! 今日、買い物に行ったらバターがなかった。お店の人に聞いてみたら一日に10箱入ればいいほうで、だいたい午前中に売り切れてしまうのだそうだ。バターがない!という新聞記事を見てからもう一ヶ月もたっているのに、ぜんぜんふえていないみたい。
バターだけで済めばいいけど。お米がないなんてことになったりしたらたいへん。そうそう小麦もえらく値段があがっているらしい。
車にガソリンを入れたら、こっちは高い高い。からっぽの燃料タンクを満タンにしたら、一万円超えそうな勢い。
穀物高騰。原油高騰。それに中国の地震の影響がどんなふうに出てくるのか解らない。
それにしてもバターがないなんて。
799 20080601 大阪の女(ひと) たぶん5月の中ごろだった。21時に東京を出る新幹線で、新大阪着が23時30分頃。それから御堂筋線に乗り、天王寺まで行く途中の車内に、ちょっと目立つ美人がいた。目立つというのは首から上、つまり頭と顔は和服用のヘアスタイルにメイクで、「美人」の見本のような感じ。で首から下が、こっちはやや「ギャル」というのか、薄い生地のミニスカートに今流行しているスモック(とはいわなくてチュニックというらしいけど)を着ているという、なんとなく若いスタイル。たぶん20代前半から半ばくらいの年なのだろうけど、なにしろヘアスタイルが大きめの夜会まき風のスタイルだから貫禄があるのに、なぜか服装は可愛い子ちゃん風というアンバランス。
御堂筋線に乗り込んできてのが「なんば」だったから、たぶんホステスさんで、お店では和服を着ているんだろうと思ってそのアンバランス嬢を眺めていたら、真剣な顔で携帯メールを打ち始めた。で、メールの返信がすぐに来たらしい。返信メールを見たとたんに目が釣りあがるほど怖い顔になった。で、やにわに頭に手をあて夜会巻きの堺目にささっているヘアピンを抜き出した。大きく膨らませた髪だから、なかには梳き毛が入っているはずで、ヘアピンやUピンを抜くのはいいけれども、いったい梳き毛はどうするのだろうと、なんだか固唾を呑んでしまった。
ヘアスプレーでかちかちに固めた髪を崩しにかかった彼女を見て、驚いたのは私ばかりではなかった。前に立っていた年の頃なら20代後半くらいのサラリーマン氏もたいそう驚いたみたいだ。目が飛び出すという表現があるけれども、まさにそんな顔で、ヘアピンを抜く女性をまじまじと眺めていた。目をそらすのを忘れてしまったみたいな顔だった。上等な生地の紺色のスーツにアイロンが良くかかったYシャツ。ニットのネクタイを緩めているところが、新入社員と差をつけた感じのやや髪を長くしたサラリーマン氏だった。
で、かのアンバランス嬢は頭をさっと一振りする。するとヘアスプレーで固まった髪の半分くらいが、ほどけてばらばらと肩の上に散った。でも半分は、まだ固まったまま。よっぽど厳重にスプレーを吹き付けたのだろう。ちょうど電車の席が一人分あいて、彼女は腰を下ろすとまた、なにやら真剣に携帯メールを打ち始めた。目が飛び出しそうな顔で、彼女を見ていたサラリーマン氏はもう人ごみにまぎれていた。女の人が髪をほどく姿というのをあんなに怖そうな顔で見ている男の人を始めてみた。心底、怖そうに見ていた。
798 20080528 昨日食べた かれいのお刺身がおいしかった。それからぷちぷちと泡が出る日本酒もおいしかった。シャンパンみたいな感じ。
それで、また写真を撮るのを忘れてました。
仕事の合間にちょこっとネットのニュースを見る。四川の大地震は台北も揺れたという第一報から、注意してみていた。成都にも行ったことがあるし、都江堰にも行ったことがあったので、いったいどうなっているんだろうと、ネット配信される記事を読み予想以上の地震の被害のひどさに驚いていました。成都に行った時「蜀の犬は陽を見るとほえる」ということわざを教えてもらいました。蜀は四川の昔の呼び名。で、昔からあまりすっきりと晴れることが少ない地方なのだそうです。ですから、たまに快晴になると、お陽さまを見慣れない犬は驚いて吼えるのだそうです。快晴が少ないということは、地震後の感染症の手当てなどには苦労させられそうだなと感じていました。
今日になって李白故居の様子を写した写真がネットニュースに掲載になっていました。李白故居の中庭でお婆さんたちが孫をあやしながらマージャンをしていたのを思い出しました。それから細長い口がついた薬缶でお茶を入れてもらったのも思い出しました。写真で見る李白故居は、築山が崩れて茶色の土砂が庭を埋め、壁もまた崩れ落ちていました。
なんだかにがいわたの入った鮎が食べたいんだけど、どうしてだろう。昨日はちょっとしたお祝いで日本料理を食べたのですけど、ゴマ豆腐の上に稚鮎を甘辛く煮たのが載っていました。それでますます、ハラワタの苦い鮎が食べたくなりました。
797 20080527 いさきと夏みかん お昼にいさきの干物を食べた。先週の日曜日に鎌倉の駅浦にある干物屋さんで買ってきたいさきの干物を冷凍にしておいたもの。5月になると父がいさきをバケツに何杯も釣ってきた。
夏みかんを食べたら、子どもの時に住んでいた家の台所の昼下がりを思い出した。夏みかんの季節になると母が近所の八百屋さんに夏みかんの出荷を手伝いに行っていた。それで、たくさん夏みかんをもらってくるので、皮を剥いて砂糖漬けにした。砂糖漬けはそのまま食べることもあったが、冷たい水に溶かして夏みかんジュースにして飲んだ。
今年は苗ものが出回るのが遅いと花屋さんが話してしました。いつもはいっぱい売っている朝顔の苗もやっとひと株見つけて買ってきました。
ネットのニュースで空き巣の操作中にパトカーが別の警察官に駐車違反切符を切られたという記事を見つけました。2、3日前にはパトカーが速度超過で違反切符を切られたというのもありました。どうなっちゃっているんだろう?
796 20080525 うちの薔薇 伊藤さん、おつかれさまです。
うちのベランダも薔薇が咲きました。去年の秋に薔薇の土を買って植え替えてやった薔薇です。 796.jpg
795 20080513 母の日 伊藤さん、次郎物語は佐賀が舞台なんですね。あんまり九州だと意識したことはありませんでした。次郎が正木のおじいさんを尋ねて冬の田んぼを歩く場面なんて、自分ちの近所(つまり房州)で考えていました。そのうちに佐賀に連れていって下さい。そうだ!下赤塚の下村湖人のお墓におまいりしたら、ここに写真載せますね。
先週の日曜日は母の日だったので、花屋さんに行ってカーネーション赤20本、白3本買ってきました。白3本はお仏壇用。お仏壇が小さいので、それ以上あっても飾りきれないのです。で、赤20本は長い丈のまま、ガラス瓶にさして玄関に置いておきました。指示行動ですね。
息子の反応
「あ、今日は母の日だった。はははは」
娘の反応
「こういうのは一週間前にやらないと意味ないね。だってその日の夜になって気づいてもしょうがないから」
だそうです。来年は一週間前にスプレー咲きのカーネーション50本で玄関の入り口をふさいでやろう。と母は思うのでした。
794 20080508 伊藤さん、次郎物語は 私も愛読しました。うちの本名が本田で、弟は生まれたとき、長男なのに「次郎」にされそうになりました。親子で愛読していたんですね。あと作者の下村湖人のお墓はうちの近くの下赤塚にあります。まだ行ったことはないけど。こんど行ってみます。うちから歩いていけるところなの。
793 20080507 ラコステのポロシャツ ラコステのポロシャツを買いました。ポロシャツって言えばラコステっていう時代がありました。高級ブランドが注目を集めた頃で、ラコステは手が届く高級ブランドって感じで紹介されていました。
それでちょっとそんな頃のことを思い出していたついでに、欲しくなってしましました。白と紫を買ったつもりなんだけど、紫のほうは「ピンクだ」と家では言われています。薄い紫なの。でもピンクに見えるらしい。 793.jpg
792 20080506 うちのさくら それから 青い実がなっています。 792.jpg
791 20080503 河のほとりで飲んだお茶 河のほとりにイ・ビョンジュの文学碑があり、そのそばに藤棚がありました。藤棚の藤はまだ咲いていません。藤棚の下で水色のチマを身につけた人々が、そよそよとお茶を入れていました。胸元から足首にかけて大きく開いたチマは河からの風に揺れて、それがたった今しがた河から上がってきた水の精のように見えました。
河東はお茶の産地でもあるのだそうです。
ソウルでは麦茶とかコーンのお茶をごちそうになることが多く、グリーンティーは貴重です。
お茶を入れるとき、湯冷ましに白磁の片口を使っていました。その白磁の片口がなかなか使いようさそうでした。ひとつ持っていたいものだと河東からソウルに戻り、仁寺洞に出かけました。土曜日の夕方の仁寺洞の賑わいに驚くとともに街がすっかり様相を変えているのにも、目を見張りました。
昨年の9月にも仁寺洞を歩いているのですが、その時は夜遅かったので、あまり気づきませんでしたが、文房四宝と骨董、それに紙屋とお茶道具屋さんの多い街が、今ではファッションと現代美術とお土産屋さんの街に変貌していました。木版刷りの民画のグリーティングカードが欲しかったのですけど、今ではもう制作していないそうです。だとすると私の机の引き出しに残っている木版のカードは貴重品ということになります。しかたなく韓紙の封筒と便箋を買いました。白磁の片口は、土瓶とくみ出し茶碗がセットになったものを見つけましたが、これを日本まで持って帰るのを考えると、今回はあきらめました。が、なんでもないこんな道具は次に行った時にあるかどうか、今のソウルの変化の早さを考えると、これも幻になってしまうかもしれません。
以前から欲しかった改良韓服を上下で買いました。夏にはそよそよとして気持ちよく着られます。もっともうちのばか息子は「焼肉屋の店員に見える」と言っていました。ま、確かに高級焼肉店では、定員さんが改良韓服を着ています。 791.jpg
790 20080503 慶尚南道と全羅南洞の間を流れる河 河東は慶尚南道と全羅南道の境目に位置する街です。ソウルから高速道路を使って5、6時間かかりました。写真は慶尚南道と全羅南道の間を流れる河です。イ・ビョンジュの文学碑はこの河の岸に建れられていました。
韓国では桜と菜の花が同時に咲くことが多いらしく、テレビの天気予報では黄色く咲いた菜の花に桜の花びらが散り掛かる映像が繰り返し放送されていました。河東では、もう桜の花は終わって、河岸はつつじの花が満開でした。外国に出るときは筆談のために分厚いノートを持って行きます。今回もオレンジ色の分厚いノートを持っていったのですが、そのノートにいつのまにか赤いつつじの花が一輪はさまっていました。
この河ではたくさんのしじみがとれるそうです。朝ご飯にはラーメンの丼くらいの大きさの器でおいしいしじみ汁がでました。白いスープに殻なしのしじみ、それに韮を細かく切ったものが吸い口として浮いていました。これがおいしい。パウダー状のとうがらしをくわえるとさらにおいしくなりました。
しじみのほかに梅の実の産地でもあって、ごちそうになって梅酒も良い香りでした。韓国では梅の木は、幹を切って、背の低い状態にして育てるようで、最初は梅の畑を桑畑と見間違えました。それからいちご!鶏の玉子ほどもある大きくて甘いいちごをいただきました。
河東は写真のように穏やかでうららかな春の日でしたが、この日のソウルを大荒れの天気だとテレビが報じていました。大雨が降り、大風が吹き、さらには雷までなって街路樹が横倒しになったり、バス停の屋根が吹き飛ばされたりしていました。 790.jpg
789 20080502 韓国に行ってました。 一週間ほど韓国に行っていました。
伊藤さん、ご心配いただきましてありがとうございます。生きてます(笑)
韓国のイ。ビョンジュ文学祭に行ってました。イ・ビョンジュは韓国の作家です。韓国南部の河東(ハトン)にイ・ビョンジュ文学館ができて、そこでのシンポジウムに参加してきました。それからイ・ビョンジュ国際文学賞が今年からできたそうで、ベトナム人の女性の作家が第一回の受賞者だそうです。あと中国人の女性の作家と、インド人の男性の作家とそれから、メキシコに住んでいるスペイン人の作家が来ていました(スペイン人は男性)
写真はイ・ビョンジュの文学碑の前を行われた記念式で、韓国式のお茶を出してくれた人たちです。なんか河から抜け出てきたみたいな水色のチマ(スカートみたいなもの)を着ていました。遠くからみると「おそろい」なんだけど、近づくと、例えば背縫いにステッチが入っている人がいたり、チョゴリ(上着)に地紋があったりとそれどれ個性的でした。 789.jpg
788 20080418 うちのさくら さとうにしきの花です。ベランダのプランターですがちゃんと赤い実がなります。いつもソメイヨシノが咲き終わった頃に咲きます。 788.jpg
787 20080415 春は危ない ここのところ、大阪、静岡と新幹線で移動していました。新幹線で走り、学校の廊下を走りの繰り返しでした。春は新入生の季節です。学校はまだ学内の建物の位置などがわかっていない新入生があふれていて、大混雑。走りたくても走れないこともありました。
電車の駅でも真新しいスーツを着た新入社員らしい人をたくさん見かけます。新幹線の中にも、緊張した面持ちの人が幾人も乗っていました。それから、団体旅行の人々。こんなに団体旅行が多いのかしらと思うほど、昼前後の新幹線には団体旅行の人が大勢乗っていました。
団体旅行の添乗員さんも新入社員。大阪駅でおろしたての制服を着た添乗員さんをみかけました。頬がふっくらとして、満面の笑みにはりきっている気持ちが滲み出していました。手にはこれまた新しい旅行社の旗。見ているだけで気持ちが良くなるような新米の添乗員さんでした。
手にした旗をすっと掲げて、新幹線から降りてきたお客さんを集めます。集まってきた人々の先頭に立ち、背筋を伸ばして、歩く姿がどことなく誇らしげでした。新幹線ホームのスピーカーが切迫した声を放ったのは新米添乗員さんが旗を掲げて、下りのエスカレーターに乗った時でした。
「添乗員さん、添乗員さん、ホームでは旗を使わないで下さい。ホームでは旗を使わないで下さい」
駅員の声はほんとうに切迫したものでした。が、新米添乗員さんは意気揚々と下りエスカレーターに運ばれてもう姿を消していました。駅員さんのあの切迫した声はぜんぜん彼女の耳に届いていませんでした。きっと彼女はコンコースで、あの満面の笑顔でお客さんの数を確認していることでしょう。
たぶん、駅のホームで旗を振ると、列車の運転手が、安全確認のための旗を見間違える危険があるのでしょう。どうかすると大事故の原因にもなりかねないのはあの駅員の切迫した声が物語っていました。
ああ、春は危ない。
そうは思っても、駅員さんの切迫した声と、添乗員さんの誇らしげな笑みのコントラストには微笑を誘われました。ほんとうに春は危ない。
786 20080408 春の嵐 すごい嵐です。 786.jpg
784 20080407 もうすぐ葉ざくら 花のしたからやわらかくて若い葉が出ています。
朝方から雨が降り出しました。先週のさくら色の雨とちがって、こんどは燃え出す緑の雨。天気予報では東日本で大雨がふるそうです。そのまえぶれみたいな静かな雨であたりはけむっています。お花見も昨日の日曜日でおしまい。おしまい。 784.jpg
785 20080407 もう咲いている皐月の花 今年の東京のさくらは気が早かったようです。でも気の早いのは皐月の花もつつじの花も同じです。梅もこぶしもさくらも皐月もつつじも咲いて、青紅葉も出て、東京はいつから雪国になったんでしょうって話を知り合いとしました。 785.jpg
783 20080406 さくらちる さくらのはなびらが風に散って雪のようでした。 783.jpg
782 20080405 救世軍の行進 風で散ったさくらの花びらが吹き上げられて、8階の通路に散らばっていました。
法政大学で「編集実務B」の講義をされている谷村先生と神保町に行きました。すると、どこからともなく、かなり古風なブラスバンドの音が流れて来ました。
太鼓とコルネットとタンバリン。そういう組み合わせなので、古風な音に聞こえるのです。救世軍の行進でした。みんな救世軍の制服を着て、足並みを揃えて行進していました。先頭に旗を持った人がいて、そのあとに銀色のコルネットを吹く人が二列で続き、大太鼓が入って、その後ろでタンバリンを打ち鳴らす人が2列でならぶという行進で、全体では30人くらいの隊列でした。夕闇が濃くなる時刻の行進で、会社帰りの人が足を止めて眺めていました。
神保町の交差点のところに救世軍本営があります。私が救世軍のことを知ったのは林芙美子の小説に「救世軍の陣太の音」という表現があって、へえ、そんなクリスチャンの団体があるんだと感心したのが最初でした。大学に入ってから、神保町で救世軍本営を見つけました。クリスマスが近づくと制服の救世軍の人が、募金用の鍋のそばでラッパを吹いているのを見かけたりしました。
谷村先生は駿河台下の近くにある高校に通っていて、神保町はなじみの町なのだそうですが、救世軍の行進を見るのは初めてだとおしゃってました。私も行進に行き逢うのは初めてでした。救世軍の行進は、本営を出て靖国通りを東に向かい、三省堂の前ですずらん通りにはいって本営に戻るというコースだったのでしょう。
紺色の制服をきたちょっと太った中年の女性、若い女性、おじさんも制服で、かなり年齢もまちまちの人が楽器を演奏しながら足並みを揃えて夕暮れの町を歩いていました。制服は紺色でJRのと言うよりも、旧国鉄の駅員さんが来ていた感じにどことなく似ています。救世軍本営でなにか集会があるみたいで、最後尾の女性がスピーカーで、集会の案内をしていました。
谷村先生が「写真を撮っておけばよかった」とおしゃっていましたが、私もそれをちょっと考えたのです。でも携帯電話のカメラでは、光がすくなすぎて、暗い感じになりそうでした。なんだか楽しそうという感じは携帯のカメラではでないかもしれないと、カメラを出すのをやめました。
子どもだったら、あとをついて行きたくなるような光景でした。
谷村先生と古本屋へ。それからランチョンで黒生ビールと鰊の酢漬けを食べました。谷村先生はランチョンのザワークラフトが御気に召したそうです。谷村先生から日芸にいる古本小僧の話を聞きました。古本は安くなっていて、大学生でもかなり買うことができるので、日芸の学生の中には古本屋めぐりをする人が多いのだそうです。谷村先生の話を聞きながらやっぱり日芸の学生って流行に敏感なんだなあと思いました。日芸には「古本屋研究会」があるそうです。
神保町や、駿河台下には新しい古本屋さんができています。店を覗くと30代とおぼしき店主が座っていることも珍しくありません。店の棚を見ていると、なんだか世田谷や杉並あたりに住んでいた人の家の中を覗いているような気分になります。新開店の古本屋の棚に並んでいるような本が棚にならんでいた知り合いのお家に行ったときのことを思い出させる古本屋さんです。
昔は古本屋の店主って、怖い感じがして、じろりとにらまれましたけど、今はなぜか古本屋の店主さんのほうが「このおばさん、なんだろう?」って怖そうな顔で私を見ています。今は昔。 782.jpg
781 20080404 外堀のさくら 昨日は入学式でした。外堀のさくらがはらはらと散り始めていました。 781.jpg
780 20080403 もう あおもみじが まだこぶしも梅も咲いているというのに、あおもみじが枝を伸ばしていました。 780.jpg
779 20080402 光が丘公園のさくら さくらが咲くとああ、冬を生き延びたという気がします。心筋梗塞とか脳梗塞とか。雪の多い山の動物みたいに餓死したりはしなけけど。人間だって冬はけっこう怖いのです。 779.jpg
778 20080401 まだ咲いているこぶしの花 卒業式の頃にひらくこぶしの花はいつもどおりに咲いたのに、遅れた梅や先を急いださくらにおどろいていることでしょう。 778.jpg
777 20080401 まだ咲いている紅梅 今年は一月中旬に寒くなったので、まだ紅梅が咲いています。梅の花が開くのが遅かったのです。 777.jpg
776 20080401 花の波 雨が降って、風が吹いて、また雨がふって、風が吹いて
さくらが散り始めました。花の波です。 776.jpg
775 20080331 さくら色の雨が降って 朝、目をさましたら桜色の雨が降っていました。ちょうど知人から電話があって
「さくら色の雨が降っているよ」
と言ったら
「こっちはどしゃぶり」
だそうです。とてもさくら色どころじゃない。バケツで水をまいているような雨だそうです。
午後からは晴れ上がりました。
今日は全国的に寒かったみたいです。さきほどニュースを見ていたら、山梨の富士吉田市では雪が降ってました。
24日の法政大学の卒業式の日の次の日にさくらが少し咲き出して、飯田橋の地下鉄の出口あたりで、さくらの花を携帯のカメラで撮影している人をたくさん見かけました。
26日の午前中、上野の精養軒のテラスで、あたりいったいさくらが咲いてゆくのを眺めていました。この日はものすごく暖かでした。28日は夕方、雨が降ったにもかかわらず、外堀土手にはお花見の一団がいました。29日、豊島園でお花見をしました。豊島園はさくらが咲くと16時以降、入場無料になるのを教えてもらいました。30日は光が丘公園を横切って下赤塚のお風呂の王様に行きました。帰りは光が丘公園から、IMAのショッピングセンターまで歩き、大きなうどを買いました。すると雨。タクシー乗り場で車を待ってもなかなか来ないので、傘を一本買って家まで歩いて帰りました。もちろん光が丘公園のつっきって歩いてきました。
光が丘公園のお花見の人は雨のおかげですっかり姿を消していました。さくらだけが夢のように咲いている静かな公園でした。
さくらが咲いてから、冷たい雨が断続的に降っています。 775.jpg
774 20080328 さくらが咲きました 東京はこの3日の間にさくらが満開になりました。
甲子園では、安房高校と宇治山田商業の試合で、試合開始直後に目を疑うようなホームラン。信じられないことばかり。試合そのものは逆転さよなら勝ちをされて、なんとなくほっとしたというのとも違うのですけど「そうか、そうか」という感じでした。
10年ぶりくらいの大泥酔。時々、思いがけない酩酊に襲われることがあります。それもこれもさくらが満開になったせいのような気がしました。
法政大学の前の外堀の土手では、背広姿のサラリーマンのおじさんたちが連れ立って、散歩をしている姿をみかけました。あんまり急速にさくらが咲いたから、人間のお花見の都合をあわせられなかったんでしょう。 774.jpg
773 20080325 卒業おめでとう 法政大学の卒業式でした。
人生には良いことも悪いこともあります。良いことだけの人生もつまらないし、悪いことだけの人生もつまらないものです。悪いことのあとにはきっと良いことが、良いことのあとには、少しだけの悪いことと、そのあとのもっと良いことが待っていると信じて。がんばって下さい。それではみなさんごきげんよう。 773.jpg
772 20080323 紫色がどよめいて 昨日の読売新聞夕刊一面の記事のタイトルは「まってました。桜もメジャーも選抜も」でした。
昼過ぎにテレビをつけて甲子園の第二試合の実況を聞きながら大量の洗濯物をやっつけ、ベランダの植木鉢に水が足りないのを発見して水をやり、その途中で米屋さんに電話をかけてお米を注文し、ついでに洗濯機を回し、台所の流しに洗う物の山ができているのをぼちぼち片し、とまあ、一週間分の家事が滞っていたのと格闘していました。で、第三試合になったら、テレビの前に乾きあがった洗濯物の山を積んで、それを片付けながら、安房高と城北高の試合を見るぞと掃除機をかけたところで、第三試合の中継が始まりました。
正直に言って、これを見逃したら、きっとあと100年くらいは甲子園の中継で母校のユニフォームは見られないだろうという心境でした。だって32年前に千葉県大会に決勝戦に出たときには、銚子商業に20点以上の差をつけられて、誰も一塁に出塁しないまま終わってしまったのですから。
洗濯物の山の向こうにまず見たのが安房高女子の新しい制服。ダブルの上着というのは変わってないれども、ちょっと良いボタンがついてボタンの数も4つから6つにふえてました。それに臙脂のネクタイが加わっていました。ふむふむ。こういう制服になったのね。アルプススタンドは紫の塊。全部、紫に染まっているので、驚きました。NHKのアナウサーは「ともに攻撃的な守備が特徴の学校です」と解説。はて? 攻撃的な守備? それじゃあ、決着がつかないじゃないと、ぶつぶついいながらまずバスタオルを5枚ばかり畳むことに。
ブラスバンドは絶対城北高のほうが上手でした。ちゃんとトランペットの音がグラウンドに響き渡っていました。攻撃の局面が変わった時に、演奏の曲をすばやく変えても音が安定しているブラスバンドでした。たいして我が母校の紫集団。聞こえるのは迫力のある大太鼓の音。「紫のアルプススタンドが喜んでいます」ってアナウンサーが言っていましたけど、ほんとにちょっとしたチャンスでも大喜びのどよめきが伝わってきました。その間に、シャツ、パンツ、上着にズボンにパジャマと洗濯物をたたんで片付け、ひょっとして、ひょっとしてこれは勝てる試合なんじゃないか? と思い出したのは4回表の攻撃の時くらいから。
時計の針は16時30分に近づいていました。今日は法政大学のゼミの追い出しコンパ。17時30分に市ヶ谷駅集合。ああ、行かなくちゃ。でも試合も見たい。野球の試合以上に、紫の塊が大喜びをするところを見たい。と思いつつ、後ろ髪を引かれながら、地下鉄に乗り市ヶ谷に。野球の試合は夜のニュースでもハイライトシーンを見ることができるけれども、紫の塊の大喜びはライブでしかみられないからなあと、思いつつも、でもだんだん後半になると喜ぶよりがっかりするシーンになっちゃうかもしれないし、と考えながら市ヶ谷駅に到着。
「誰か甲子園の野球の結果を教えて」
と御願いしてみました。
「え、第二試合ですか」
「第三試合の結果」
「まだ第三試合の結果は出てませんよ」
やっぱり最後まで試合を見ていたら、大遅刻をするところでした。
「あ、第三試合の結果が出てます。2−0ですね。しかも9回表に2点とっているから、これって見ていたらそうとうおもしろ試合だったでしょう」
「やっぱり勝ったか。ばんざい」
さぞや、紫の塊は大喜び、大歓喜だったでしょう。見られなくって残念。あ、でも、勝ったってことは、もう一試合甲子園で、安房高の試合を見ることができるんだ。昼までは100年に一度だぞって思ってましたが、これで100年に2度になりました。きっと次の試合の時はあの紫の塊がもっとおおきな塊になっていることでしょう。
771 20080322 甲子園のチケット 本日の第3試合 熊本の城北高と安房高の試合です。
熊本、静岡、東京でさくらが咲いたということです。 771.jpg
770 20080321 安房高応援グッズ 知り合いが安房高応援グッズの写真を送ってくれました。
丸の内でタクシーに乗って、武道館のわきを通り、一口坂まで行きました。武道館では専修大学の卒業式が終わったところでした。日本武道館を卒業式に使う大学は曜日に関係なく毎年同じ日にちと決まっているそうです。ちなみに法政大学は24日。
はかま姿のお嬢さんたちが大勢信号待ちをしていました。お堀の桜のつぼみは赤く膨らんでいました。
で、タクシーの運転手さんと着物の話になりました。千葉のほうのお家に曾祖母さん祖母さんお母さんと三代の着物をしまってある長持があったそうです。今はもう誰も住んでいない家で、そこに泥棒が入り、丸帯と鼈甲の櫛だけを盗まれたというお話でした。お金になるものだけを選んで盗んでいったみたいです。
「運転手さん、千葉って、どのあたりのお家があるのですか」
とお尋ねすると
「僕んちは保田です」
と言うので
「じゃあ、安房高が甲子園にでるのをご存知でしょう」
と着物から野球に話題を転じました。
「僕、安房高なんです」
というお返事でした。ここで車は一口坂に到着。
あの運転手さんもラジオで、中継を聞くのでしょうか。こんな偶然もあるのです、 770.jpg
769 20080314 なんと我が母校は 我が母校(安房高校)は熊本の城北高校と一回戦で対戦することになりました。甲子園の春の選抜高校野球の話です。それにしても一回戦が熊本じゃなくてもよさそうなものなのに。伊藤比呂美さんとのご縁とか、熊本日日新聞の「おたあジュリア異聞」連載とかいろいろ熊本とはご縁があるものです。あ、そうか縁があるから一回戦は熊本とぶつかったわけか。なるほど、なるほど。
768 20080309 もうすぐ春ですね 年末に買ったミニ葉牡丹がぐんぐん伸び始めました。なんだかおもしろい!て子どもたちが言っていました。葉牡丹が伸び始めてつぼみをつけるともうすぐ春です。 768.jpg
767 20080307 若ごぼうをいただきました。 大阪の尾川さんから若ごぼうを送っていただきました。根っこを食べるのではなくて、茎を食べるごぼう。さっそく尾川さんのおすすめにしたがった掻き揚げにしてみました。なにより緑色がきれい。薄いころもをつけて油で揚げると茎の緑色がいっそう冴え冴えしました。蕗に似ていますが、味は柔らかで、ほんのすこしだけごぼうの香りでしました。春のお野菜です。 767.jpg
766 20080301 今日のお買い物 はっさく、でこぽん、伊予柑(以上熊本産)ばなな(エクアドル産)豚肉ロース塊塩漬け用(アメリカ産)牛肉ロースステーキ用(オーストラリア産)鳥胸肉、鳥腿肉(山形産)。レタス、サニーレタス、なんとかレタス(名前を忘れたけど、葉っぱがレースみたいになっているやつ)グリーンピース。葱、牛蒡。ブルガリアヨーグルト(日本産)たらこ(なぜ買ったのかわからない。袋の中に入っていた)油揚げ。新若布。そうそう、韮とひき肉と餃子の皮と香菜。あとピンクのさくら餅としろいさくら餅。
ああ、重かった。
765 20080229 今日の空 西の空がだんだん春になってきました。4年に一度の今日の空です。
灯油を買ったら一缶1,980円でした。信じられない値段。スタグフレーションという言葉を覚えたのは小学校5年生の冬。石油危機で狂乱物価といわれた頃でした。なぜかトイレットペーパーがものすごく値上がりすると言われて、街じゅうの人がトイレットペーパーの買いだめに走ったのです。で、トイレットペーパーを自転車の荷台に積んで走っていたおじさんが強盗に襲われたりしました。
物価が上がっても景気がよくない、したがって賃金もあがらないというスタグフレーションという言葉を久しぶりに聞きました。40年ぶりまでは行かないか。まあ、そのくらいです。で母が言っていたのでよく覚えているのは「あの狂乱物価がなければ。子ども二人を私立大学にやるくらいの蓄えはあったんだけど」という言葉。「へえ」と思って聞いていました。結局、私が学費が安い明治大学の2部を選んだし、弟は国立大学へ入りました。私は学費の問題というよりも学力の問題で2部を選んだのだし、弟は希望の学科が国立にしか設置されてなかったので、あんまり母を嘆かせずにすみました。
もう明治大学の2部もなくなっちゃったし、弟が進んだ国立大学もほかの学校と合併して別の名前になってしまいました。
知り合いと話していたら、国民年金の掛け金が高すぎない? っていう話題になりました。収入に関係なく一律に掛け金を取られるのは「払わない」のじゃなくて「払えない」って話です。そりゃそうだ。
年金と保険。これがちゃんとしていればかなり安心して暮せるんですけど。どうもそういう実感がないの。ええと地震とか台風とか災害があるたびに、高齢の人が亡くなったり家がつぶれたりしていますけど、そういうことを聞くにつけ家族に頼らない老後って、ほんとうに良いのかなあって思います。
うまく言えないのだけど、家族に縛られない自由な社会ってのに、私などは憧れたんだけど、その結果が公的扶助の整った社会ってことになるのでしょう。でもそれってうまく行くのでしょうか?
なんかねえ、時々、なんで自分は若いとき、あんなに臆病だったんだろうって考えることがあります。で、ああそうだ。家族の面倒にみる余力が必要だから、臆病になっていたんだなあって思い出すんです。それはそれでよかったんです。春めいた空を見ながら、ぼんやりそんなことを考えています。 765.jpg
764 20080228 三浦和義容疑者逮捕 ロス疑惑事件の三浦和義容疑者逮捕には驚きました。でも、それでイージス艦の衝突も農薬入り餃子の話も夕刊のタブロイド誌やスポーツ新聞、それに全国誌ですら、扱いが小さくなってしまいました。27年前の事件よりも、今日食べる餃子のほうに私は興味があるのですけど、一般の読者の興味はそうではないのでしょうか? 私と同じように、今日食べるかもしれない餃子や、今もたくさんの艦船を運行させている海上自衛隊のほうに興味があるのではないでしょうか?
ロス疑惑事件と言えば最初はアメリカで強盗に襲われた悲劇の夫婦の「美談」としてワイドショーに取り上げられました。その「美談」が「疑惑」に変わったとき、それまで芸能ねたか、家庭の話題しか扱わなかった昼過ぎのワイドショーがジャーナルな話題も扱うようになったのです。メディアリテラシーについて話す時、テレビのニュースがワイドショー化したのはロス疑惑事件の時からだとよく言われます。ちょうど、ニュースのワイドショー化、ニュースのバラエティ化と時を同じくしておきたのがロス疑惑事件でした。
それがなんだか、今現在進行中のさまざまな時間を覆い隠す効果を発揮しているのは皮肉な気がします。これって偶然なんでしょうかねえ? 歴史の流れをよく見ている知恵者がどこかにいるのでしょうか?
763 20080223 強風というよりも狂風 2時半ごろでしたでしょうか?一転にわかにかきくもり、猛烈な風が吹きました。家の中にいても外が暗くなるのが解りました。しかし、雨が降っているわけではありません。雲で暗くなったのではなく、風で飛んできた砂で暗くなったのでした。黄砂かと思いましたが、どうもそうではなくて、強風に巻き上がられた砂ほこりだったようです。
息子が珍しがって写真をとっていました。一眼レフカメラを購入したばかりなのです。
猛烈な強風で、電車もあっちこっちに遅延が出ていました。東北新幹線は停電のため全線運転見合わせという表示が山手線の中に表示されていました。風が一番、強い時には表を出歩くに躊躇されつほどでした。アルミでできたオカモチがどこかから飛んできました。いったいどこのラーメン屋さんのオカモチなのでしょうか?
強風というよりも狂風という感じでした。その風のあと、ものすごく寒くなり、午前中のぽかぽか陽気がまるでうそのような冷え込みになっています。
762 20080222 見つけた。 東京はぽかぽか陽気になりました。で、皇居の向かい側に桜が咲いているのを見つけました。色の濃い桜で、もともと早く咲く種類かもしれません。
あと、小川国夫さんのところでごちそうになった金山時味噌が欲しいと思っていたら、これも同じものを見つけました。ハワイアンコナコーヒーのバニラフレバーが欲しいかったのも見つけました。バニラフレーバーのコーヒーってなぜか冬の終わりにぽつんと現われるぽかぽか陽気の陽にしか欲しいと思わないので、ふだんは売っていても気にもとめません。そういうわけでちょうど良かったの。
足に塗るクリームも見つけました。聖書に香油を塗る場面がよく出てきて、油なんか足や身体に塗ったらべたべたするんじゃない?と前々から疑問に思っていたのですけど、ピーナッツオイル入りのボディクリームというものを使ってみたら、香油を塗るというのが少し納得できました。
今はどうか知りませんが、以前は夏になると、オレンジ色の容器に入った資生堂のサンオイルや茶色い容器に入っているコパトーンをあっちこっちで売ってました。私は4月頃から徐々に日焼けしてしまうので、サンオイルは使ったことがありません。でも、考えてみると聖書に出てくる香油って、サンオイルの類に似ているのでしょう。ピーナッツオイル入りのボディクリームを使ってみるまでそんなことを思いつきもしませんでした。
そういうわけで、今日はたくさん「見つけました」(笑)というか、忙しかったので、また買い物虫が暴れだしているみたい。所要があって昼過ぎに神田神保町を大急ぎで歩いていたら、光の中に紙の匂いがしました。製本屋さんや印刷屋さんが多く、フォークリフトがこちょこちょ動いている神田新保町の裏通りです。ハワイアンコナコーヒーのバニラフレバーって、なんとなく午後の神保町の匂いに似ています。
761 20080221 牛蒡が好き 変わったお茶漬けをごちそうになりました。アナゴを佃煮風に煮たのと、牛蒡を素揚げしたのをご飯の上に載せてお茶をかけるの。
あなごとかうなぎは、佃煮の中でも飛び切り高級で、高いなあと、手がでないことが多いです。でも、牛蒡と一緒のお茶漬けの材料に買っておいてもいいかなと思うくらい、おいしいお茶漬けでした。牛蒡はかりかりにするために、二度揚げしているみたいです。
これから春になると新牛蒡が出てきます。黒い皮をこそげ落とすと、ふんわりとした白さを持っている牛蒡です。牛蒡ってお肉とよく合います。牛肉でも豚肉もで鳥肉でも、牛蒡と一緒にするとすごくおいしい。
牛蒡が好き。お肉やお魚も好きだけど、だんだんお野菜が好きになってきています。
760 20080217 伊藤さん こんばんは。 無事、熊本におつきになられたようで。なによりです。
平田俊子さんに妙連寺ロールはおいしかったかどうか聞いてみて下さい(ごめん、私信でした)
759 20080216 炎は現象である。 昔、炎は液体なのか、気体なのか、それとも固体なのかと理科の先生は尋ねたら
「炎は現象である」
と言われました。中学生の時でした。
うちの子どもたちも同じ質問を中学校の理科の先生にしています。その先生のお答えも
「炎は現象だから、物体ではない。物体ではないから固体、液体、気体の区別にはあてはまらない」
というお答えでした。どうも親子そろって、物体と現象の区別がつかないみたいです。
私の時代よりも息子や娘の時代の中学校の先生のほうが丁寧に教えてくださるみたいで
「いいですか。空気は物体です。で、その空気の流れができるとそれは風です。風は現象です」
とちゃんと答えいただいたのですが「???」だった子どもは、息子だったか娘だったか忘れましたが
「でも風は気体でしょう」
と先生を困らせたみたいでした。ご丁寧に息子も娘も同じ質問を同じ先生にしているのです。
先週、今週と東京は冷え込んで、お葬式が続きました。お寺にでかけてお坊さんが「諸行無常」と唱えるのを聞いてきました。生花で飾られた祭壇に蝋燭の炎が揺らぐのを見ていたら「炎は現象です」と言った中学校の理科の先生の声を思い出しました。
人が生きているのも、炎が現象であるのと同じように現象なのだなあと思うそばから「でも風は現象でも、気体でしょ?」と尋ねる自分がいて困ってしまいました。夕方、西に沈む陽の光が、ひとつき前と違ってやわらかい茜色になっています。雲が陽に輝くもの「現象」ですね。
758 20080214 ああ。いたたたた(泣) 昨日からお腹が痛い。おとといの夜食べた焼き鳥のレバーがいけなかったのかと思ったけれども、違うみたい。お腹にくる風邪があるようだ。
考えてみれば今日はバレンタインデー。でもチョコレートなんてみたくないのに、ネットをあけたら、大阪の工業高校で作ったチョコレートがけの自動車の写真が載っていた。写真と言えば、ソウルの燃える南大門の写真もなんだか腹痛には響く。
目の前には経費の領収書の山と支払調書の束。先週、神楽坂の翁庵でおそばを食べていたら、相席になったおばさんが連れのおじさんに「30年も確定申告してきたから、この時期は自然に頭が痛くなるの」と話していた。そうか、そうかとなんとなく聞いていると連れのおじさんが「おでんでも食べる?」と聞く。「なんで、あたしがおでんにお金を払わなくちゃいけないのよ」とおばさん。どうやらおでん屋の店をしめたらしい。それでも確定申告に時期になると憂鬱になるみたいだ。
腹痛もそのせいかしら?毎年、恒例になって欲しくないなあ。
757 20080209 大原で白鳥を発見 頓挫していた大原の家の建築計画をすすめるべく、久しぶりに大原まで行ってきました。今回は小学館の宍田さんとご一緒しました。
で、家が建つはずの土地の前に広がる田んぼに白鳥の群れを発見。いや、最初、宍田さんに「あの白い鳥はなんですか?」と聞かれたときは平然と「白鷺でしょう」って答えていました。だって千葉で白鳥なんて見たことがなかったんですから。で、道を歩いていた人が「あれは白鳥ですよ。頭が黒いのは若い鳥」って教えてくれました。2、3年前から飛来するようになったそうです。昼間は田んぼで過ごして、夜は近くの沼に帰るとのことでした。
キョンという小型の鹿がかなり増えたとの話も聞きました。それから、芽を出す前にたけのこを食べてしまうイノシシの話も。イノシシの鼻ってダテに大きいわけじゃないらしくて、たけのこの匂いをかぎ分けてしまうのですって。
家の敷地にはたくさんの水仙が花をつけていました。日当たりが良いので、もうすみれの花がぽつぽつ咲き始め。ふきのとうが芽を出してました。裏の崖には椿が赤い花を咲かせていました。 757.jpg
756 20080207 この週末も雪みたい 伊藤さん、昨日の東京は朝から小雪が舞っていました。ちらちらちらちと一日中、降り続いていましたけど、積もるようなことはありませんでした。
この週末も雪だそうです。寒い。寒い。
755 20080204 晴れました 今日はよく晴れました。まぶしいほどです。
家の周囲は昨日の雪が凍って、つるつるすべります。歩くとペンギンの苦労がなんとなくわかります。 755.jpg
754 20080203 明日は立春 明日は立春。さてそろそろ芽を出さなくちゃ。
伊藤さん、今日の東京は大雪ですよ。この雪は今夜まで降り続くそうです。中国に大寒波をもたらした寒気団が日本列島の上空まで移動してきたようです。今日は東京でも滑ったり転んだり、がけ下に落ちたりする車や人が続出するでしょう。
先週の東京の雪の時は那覇にいました。那覇の気温は20度。暖かいというよりも、初夏か初秋の涼しい風が吹いているような感じでした。
ホテルで朝ごはんを食べて、部屋に戻ってからお風呂に入り、涼んでいると知人から携帯に電話が入りました。「何をしているの?」という質問だったので「お風呂から出て涼んでいる」と答えると「雪が降っているのに、そんなことをしたら風邪を引くぞ!」と言われてしまいました。自宅で電話に出ていると思っているから。「だって那覇にいるんだもん」って、ちょっと得意。ま、子どもみたいなものですね。
冬の沖縄には一度行ってみたいと思っていました。観光客が多いのと、修学旅行生がたくさんいたのは意外でした。沖縄の桜は本島の北のほうから咲くのだそうです。で、1月末には桜祭りが始まるという話でした。気温は20度あったのですが、空は曇り空で、この雲の色がカシミヤのセーターみたいに柔らかでした。棕櫚の木もタコノキもガジュマルもアダンも涼しい風に、息をついているようにすくすくしていました。
今年は那覇でも「冬が来ない」というほど、暖かだそうです。私が出かけた前の週には気温25度という日もあったと聞きました。それって夏でしょう。来年は今帰仁の桜を見に行きたいなあって思いました。 754.jpg
753 20080131 学期末 がけした……。
ひとりごとでした。
752 20080125 我が目を疑う 安房高校が21世紀わくで春の選抜高校野球大会にでるみたい。ネットのニュースで見つけました。ニュースが出たばかりだったので、しばし、我が目を疑いました。我が母校です。はい。県立だから、それほど野球が強いってわけではないと思い込んでました。21世紀わくとはいいながら、選ばれるのは、相当の成績を残したいたんでしょう。
いまごろ、大騒ぎになっているではないでしょうか。
私が在学していた頃も(もう30年も前だ)一度だけ千葉県大会の決勝に残ったことがありました。そういえば、あのときも千葉テレビの中継のアナウンサーが26年ぶりって言ってました。そうしてみると30年に一度くらいは、そういうこともあるってことなのかしら。
ここ数年、甲子園の野球を見ることが少なくなりましたが、今年の春は「どれ、どうなっているのかな」なんてテレビを見て、スタンドに昔の先生の顔を発見したりするのでしょうか。仮に30年に一度だとすると、次の機会には、テレビ中継の画像に懐かしい人の顔を発見したりするのは不可能だろうから、やっぱり見なくちゃ。
751 20080120 灯油1缶(18L)1950円でした。 明日は雪が関東地方でも降るそうです。座っていても膝のあたりがしんしんと冷えてくる寒さで、どうやら雪の予報は当たりそうです。
灯油を買いました。一缶(18L)1,950円でした。こんなに高額だとエアコンの暖房をつけっぱなしにしたほうが絶対に割安でしょう。金曜日(18日)に大阪から帰る新幹線のなかで見た電光のニュースでは原油市場の価格は少しさがったということでしたので、このあたりの値段が最高値ということになるのでしょうか。だとしても、もっとも寒い時期に最高値にならなくってもいいのに。
根引き松と啓翁桜(さくら)を花屋さんで買ってきました。松はお正月に使った若松をそのまま使おうかと思っていたのですけど、さすがに昨年末に生けた松ですから、松葉がだいぶ乾燥していました。
それにしても異常なくらい高い灯油の値段です。
750 20080115 女湯に入ったなまはげ 子どもの時から新聞の小さな雑報を読むのが好きでした。そういう人ってけっこういるみたい。大学で助手をしてくれている深野女史も、いろんな雑報を見つけてきます。
今日、驚いたのは、高速の外郭環状線で、トラックの積荷が爆発したってニュース。うちの近くです。しかもよく通る場所でした。で、トラックの積荷が煙を上げ始めて、しばらくすると爆発したそうです。けが人はいなかったみたいだけど、そばにいたらびっくりしただろうなって。
あと、なんだか複雑の気分になったのは、温泉の女湯に闖入したなまはげのニュース。お正月に旅館に泊まっている人に見せるために、なまはげがロビーで踊りを踊ったのだそうですけど、そのうちの一人(なまはげは一人二人と数えるのかしら)が女湯に入って、女の人の身体を触ったそうです。この事件で地元の神社の宮司さんは「子どもに礼儀を教ええるなまはげがなにをやっているんだ!」ってかんかんに怒っているとこのこと。
うちの娘も「それはないでしょ」って憮然としてました。それはそうだけど、酔っ払った勢いでばかなことをしちゃったなまはげさんが、今頃、しゅんとなっているのを想像するとなんだか複雑な気分になりました。出来心だから赦してあげるってわけにはいかないみたいだし、たぶん、そう深い考えはなかっただろうことは想像がつくし。世の中っていろいろあるもんですね。
749 20080114 お菓子の家 子どもの時は、お菓子の家というものを見てみたいと思っていたし、もし、あったら食べたいとも考えていた。
でも、今はお菓子の家に出っくわしたら「げげげ」ととたんに胸焼けがするだろうなと二日酔いの息子に向かって言ったら
「和菓子の家だったら、どう?」と言う。
ここで馬鹿息子は、宮城道夫の「春の海」を口しゃみせんでやってみせた。
「そんなお菓子の家だと、魔女がファッションに困るだろう。伝統的魔女ファッションは着ることができないし、和服は似合わないし」
「だったら、鬼婆に代理を頼むしかないね」
昨日、音楽会に出演してまだ二日酔いがなおっていない馬鹿息子はそう言う。
「鬼婆ってぼろを着ているんでしょ」
「馬鹿、絵本の鬼婆はたいてい年に似合わない若作りの小袖を着ているもんです」
「あ、そうなんだ。やっぱ和菓子の家だね」
それで和菓子の家で魔女は誰を捕まえるのかな?
二日酔い息子とのわけのわかんない会話でした。
748 20080113 おなか山 夢を見た。おなか山に遠足をした夢を見た。おなか山に登りながら(夢のなかでは誰のおなかかはっきりとわかっている)ああ、これはおなか山だ、おなか山だと感心していた。
で、おなか山にとことこと登って、そのてっぺんでおにぎりを食べた。ぼよんぼよんしながら、足をぶらぶらさせて、おにぎりを食べていた。
で、目が覚めてから、これが初夢じゃなくてほんと良かったと胸をなぜおろしていた。
747 20080112 伊藤さん、伊藤さん、援軍が来ました。 伊藤さん、伊藤さん、今日の東京は空は灰色で冷たい雨が降っています。お家を暖かくしていればなかなか気分の良い日です。で、お知らせです。援軍が来ました。なかなか力強い援軍です。文芸評論家の日比勝敏さんのページを作りました!「耳かくしの本棚」です。「耳かくしの本棚」では、日比さんが書いた評論、書評をご紹介します。
07年に日比さんが書いた書評を見ていると「文学の衰退」とか「文学の閉塞」なんて、うそだなあって感じます。新しく書き始めて人は、新鮮な感受性を示していますし、松浦理英子さん、佐伯一麦さんと私が20代からお付き合いいただいている人たちは、ちゃんと「ある時代」をくぐりぬけて現在にいることの意味の心地よさを感じさせる作品を発表しています。こういう力強い援軍が、来たので、伊藤さんゆっくりとネット依存症を癒してください。あ、書かなくていいなんて、言ってませんから。「伊藤製作所」の日記も楽しみにしてます。無理をなさらないように。
そういうわけで、私は静岡新聞の連載ストックが底をつきそうなので、湿った冬の雨の匂いをかぎながら、パソコンをがんがんうたなくてはなりませぬ。それじゃあ、皆さん、また、あとで。
746 20080106 芋煮会の準備ができました お芋の皮がむけました。お手伝いくださった昼ゼミの3人の皆さん、どうもありがとう! 746.jpg
745 20080106 あけましておめでとうございます。 あけましておめでとうございます。
お正月は子どもたちと箱根に言ってきました。大丸風呂がある福住楼に二泊とまってきました。
夏休みに法政大学の皆さんと合宿で箱根へ行ったとき、台風でがけ崩れをしていた乙女峠も修復もあらかた終わっていました。で、御殿場にアウトレット・モールがあったのを思い出して、ちょっと覗こうとでかけてみたところ、これが思いのほかの巨大ショッピングセンターでした。以前、学校で比喩の文例に漱石が書いた「御殿場の兎を日本橋に放り出す」というのがありましたが、今の御殿場のうさぎはに日本橋に放り出されてもさほどびっくりもしないでしょう。なにしろ駐車場に入るまで、2時間も行列する騒ぎでした。東京デズニーランドなみの行列でした。行列している車のナンバーも沼津、三島、品川、湘南と西からも東からも高速を使って出かけくるみたい。で、犬を連れた家族連れが多くて、しかもその犬が、みんな「お洋服」を着た犬だったのには少々驚きました。
写真はそのアウトレット・モールから撮影した富士山。夕方で、携帯電話のカメラでは、ぼんやりとして撮影できませんでした。 745.jpg
744 20071230 今年も残り2日 ああ、なんてこどだ!今年はあと2日しかないのにもう9時間もすぎちゃった。あせってますって言いたいところですが、なんとなく「まったり」してしまっています。このまま行くと「まったり」が「のんびり」になり「のんびり」が「だらだら」になって今年が解けてしまいそう。それもいいかなと耳もとでささやくのは悪魔か、天使か、いったいどっちだろう。
これまでの経験ですと、新聞連載をしたあとは家の中がぐちぐちゃになっているのです。とうてい自分で散らかしたとは思えない。パソコンに向かっている間に座敷童子か、なんじゃもんじゃの神様か、あるいは物につくというつくも神か、わからないけれども、そういうものが、好き勝手放題に大暴れしたとしか思えないような散らかり方をするのです。
だから、今年は新聞連載を始める前に、コンテナルームを借りました。家の中から物を少なくすれば、それだけ片付けが楽になるってことで、借りたコンテナルームですが、子どもたちが一度、荷物を運びこんだきりで、まだ使いこなしきれていません。で、たよりの子どもたちですが、今朝は二人とも二日酔いで寝ているの。やっぱりこのまま、「まったり」が「のんびり」になり、「のんびり」は「だらだら」に流れて落ちて行くのでしょうか。こういう時にかぎって頭後部で「お座敷小唄」がエンドレスで流れちゃったりします。
「富士の高嶺に降る雪も、京都先斗町に降る雪も
雪に変わりがないじゃなし
解けて流れてみな同じ」 744.jpg
743 20071224 小川国夫さんのおうちで さくらえびをごちそうになりました。
さくらえびは駿河湾特産で、ほかではとれないそうです。なんでも明治時代にこのえびを発見した漁師の兄弟がいて、それ以来、大事にとっているみたい。さくらえび漁の季節になると富士川の川原で、えびを天日に干すそうです。
「猫がとるんじゃないかって心配になる眺め」
と小川さんが言っていました。生のさくらえびを見せてもらいました。紅色に透き通っているえびでした。
さくらえびをごちそうになる前に、小川さんの「悪食の話」ってのがあって、これがすごい!とてもここには再現できません。一緒に小川国夫邸にでかけて司修さんが
「ああ、みかんを食べているときでよかった」
と言っていましたし、私も途中で聞くのが怖くなりました。長谷川郁夫さんに至っては、どうもこの小川さんの「悪食の話」を聞くのは初めてではないらしいんだけど、みかんが喉につっかえたらしく、顔を赤くしてげほげほやってました。
ほんとさくらえびの掻き揚げをいただいている時じゃなくて良かった。で、さくらえびの掻き揚げの時は「虹」の話。主語がはっきりと思い出せない(さくらえびがおいしくて、そちらに気をとられていたの)「僕は」だったか「人は」だったか、ともかくその存在は「虹のようなもの」で「やがて見えなくなるけれども、虹がかかっていたことはみんな覚えているでしょう。消えちゃうから美しいの」っていう話を小川さんがしていました。
司さんはカナダで見た虹の話。遠くからだと見えるけれども、近づくときらきら光る光の粒しか見えなくなる虹を見たそうで、車だったから、何度も遠くに離れては虹の全体像を見て、近くによってきらきら光る光の粒を見たそうです。
小川さんのうちに行く前に、「おたあジュリア異聞」の挿絵を描いてくださっている宮本恭彦さんのお兄さん夫妻と虹の話をしていました。宮本さんはものすごくたくさんの虹があっちこっちにかかっているのを見たそうです。なかには端から端までくっきりとした虹もあったということでした。小川さんのおうちには宮本さんご夫妻もご一緒しました。 743.jpg
742 20071222 ぎゃぼも冬支度 のだめカンタービレに出てくるマングースの着ぐるみをうちでは「ぎゃぼ」と呼んでいます。「ぎゃぼ」も冬支度です。娘の部屋にいったら、3匹いる「ぎゃぼ」のうち2匹が毛糸の帽子をかぶっていました。ピヤニカを持っている「ぎゃぼ」は帽子をかぶった「ぎゃぼ」の後ろに隠れています。 742.jpg
741 20071217 12月の銀杏の木 ネットで皇太子妃が紅葉狩りという記事を見つけて「おや?」と思いました。記事を読んでみると、神宮外苑の銀杏並木の下をお散歩されたという内容でした。今年は11月中旬に、急に冷え込んで思いのほか、銀杏も欅も桜も美しい色に染まりました。
飯田橋から市ヶ谷に続く土手では、さすがに桜の葉はみんな落ちてしまいましたが、まだ銀杏だけは、いくらか黄色い葉が枝に残っています。池袋に買い物に行った娘が「お母さん、12月も半ばなのに銀杏が黄金色なのはヘンだよ」と言っていました。会社のある日は銀杏並木をつくづくと眺める閑もなかったから、それに気づかなかったということでした。
95年の秋に、東京競馬場で行われた天皇賞のレースを知人と見物した帰り、みごとな銀杏並木の下を歩いたことがあります。夜空に黄金色が輝くようでした。オウム事件で大騒ぎの年で、事件のことを話題にしながら銀杏並木の下を歩いていたのでした。私が子どもの頃は、11月の御酉様というと、毛皮のコートを着た女性もいて、なんだか熊みたいだなと眺めていました。それだけ寒かったということです。95年からおよそ12年で2ヶ月、紅葉がずれたとすると、あと10年たったら、紅葉に2月頃になる計算ですねと、ある教室で言ったら、聞いていた人たちが大笑いをしていました。2月の紅葉ってのは、想像しただけで笑い出したくなるようなところがあるみたいです。
たぶん2月まで紅葉がずれ込む前に、亜熱帯の植物が野山を占領してしまうでしょう。植物の旺盛な生命力は住みやすい土地を求めて、移動してくるでしょう。鳥とか虫の力を駆りながら、どんどん北上するのではないでしょうか。植物は何にも言わないけれども、もくもくと新天地を切り開いてしまいます。きっとバナナなんかも手近なところで栽培できるようになっているかもしれません。だって春の桜の方はここ数年、卒業式には咲いているというのが当たり前になってきているのですから。
まだ小学校に通っている頃、NHKの朝の番組で、東京都内をいろんな人が散歩するというのがあって、そこに詩人の新川和江さんが出演していたことがありました。落ち葉を踏んで歩くというテーマだったと思います。新川さんは「銀杏の落ち葉は湿っているから、ひらがなでかさこそかさこそと書く感じがする」とおっしゃっていました。ひらがなの「かさこそ かさこそ」って、そうだなあと子ども心に感心しました。あれからもう40年もたっているのに、今でもその番組のことを覚えている自分に呆れるような心地がします。学校へ行く前にご飯を食べながら見ていたテレビでした。
740 20071215 そうそう海苔の季節でした。 伊藤さんのコラムを読んでいて、思い出したんだけど、海の水が冷たくなるこの季節は海苔の季節でした。今は海面にぷかぷかと浮く海苔の養殖網もあって、かなり水深の深い海や、波の荒い海でも海苔を養殖できる技術がありますけど、昔は遠浅の海に乗り粗朶を建て、養殖用の網をはって海苔を作っていたから、有明海のように遠浅の海でなくては、海苔の養殖ができませんでした。
幼稚園に通っていた頃は、横浜の金沢八景にある平潟湾も海苔の養殖が盛んで、今頃になると自家用の海苔を干している漁師の家もありました。紙を漉くのと同じで、四角い木枠をつかって、四角く海苔を梳いて、それから天日に干すの。
すのこに四角く梳かれた海苔が並んでいて、市松模様を作っていました。養殖網から離れたて、流れてくる海苔を海岸で掬って、自分で漉いてみたこともあるのですけど、これはなかなかうまく行きませんでした。海苔を四角くするための枠は父が作ってくれました。網から離れた海苔だからそれほど量が多くないってこともあって、生海苔を酢の物にしたりしていました。これは、潮干狩りが始まる3月頃のことですね。アサリを採りに行ってついでに、海苔も救ってくるのです。
お歳暮に自家製の海苔をいただくこともありました。干す前の海苔は、黒というよりも紫色をしています。
海苔粗朶は竹の棒で、竹の棒が遠浅の海に等間隔に並んでいるんです。今では海苔粗朶のかわりに、平形湾に繋留されたヨットのマストが並んでいます。
739 20071214 ポインセチア 伊藤さん、うちでもポインセチアを一鉢買いました。花屋さんに行ったら、今年はポインセチアの品種がたくさん出ているって話していました。いろいろ迷ってけれそも、結局、真っ赤なやつでツリー仕立てになっているのを選びました。
あとね、きれいな白い斑(ふ)が入っているのもあってそれも欲しかったの。 739.jpg
738 20071209 支離滅裂な机の上 仕事が混雑しているときは、家の中を注意深く片付けている。そうしないと、何か重要なもの、再発行の手続きがめんどくさいものを失くすから。ところが、である。机の上だけは支離滅裂になる。以前はこんなことはなかった。家じゅうが支離滅裂な状態に陥っていても、机の上だけは片付いていた。そうしないと、自分がなにを書いているのか解らなくなるから。が、パソコンが入ってから、いつも机の上は支離滅裂になっている。
パソコンのための机と、書き物机の二つを部屋においているせいで、書き物机はとりあえずに物置代わりに使われるからそういうことになるのだけれども、その支離滅裂な机の前で、これまためちゃくちゃな本の読み方をしている。知人からもらった本、自分で買った本、前から読まなくちゃと思っていた本、そのたもろもろ、ちょっとづつ読んでは、またほかの本も読みという状態。
なんかねえ、栄養不足みたいな感じっていうのか、へんてこりんで、困っている。しかも、これが楽しい。なんでだかわかんないけど、楽しくて仕方がない。頭の中まで支離滅裂になっているのかしら?
737 20071208 ちょっと、おもしろかったこと 宝石屋の主人を驚かす
知人と丸の内中通りを歩いていて、小さな宝石屋があったので、ショーウィンドウを覗き込んだ。もう日が暮れていたせいもあるけれども、左目があまりよく見えないこともあって、ウィンドウのガラスに頭をごんとぶつけた。目から火花が出るほど、ごんとやった。「ははは」と笑った知人が、頭をぶつけたくなるほどの宝石とはいったいどんなものかと、これまたショーウィンドウを覗き込もうとしたとたんに頭をごんとぶつけた。
どうも、ショーウィンドウのガラスが通常よりも分厚くできているらしいのだ。二度も「ごん」「ごん」やったものだから宝石屋の奥から主人が出て来てとおりのほうを怪訝な顔で眺めていた。
宝石屋の主人はグレーのスーツを着た美人だった。
タクシーの運転手を驚かせたこと
「東京駅まで」とタクシーを拾って、後部座席で「年収」の話をしていたことがある。幾らくらいもらえるかとか、幾らぐらい欲しいのかとか、そんな話だった。
「あんまりばかなことを言っていると、また、どっかに頭をぶつけちゃうからな」
と、話の相手は不思議なことを言った。と、そのとき、ちょうどタクシーは東京駅に到着した。支払いを済ませた次の瞬間、車を降りようとした話の相手は「ごん、ごん」と二度も、タクシーの天井に頭をぶつけたのである。一度目は勢い良く「ごん」とぶつけ、二度目はあわてて「ごん」とぶつけたのであった。隣にいた私も驚いたけれども、タクシーの運転手はもっと驚いていた。運転を仕事にしている人には、車体から響く衝突音ほどどっきりとさせられるものはないのは想像がつく。
「大丈夫ですか? 大丈夫ですか? 大丈夫ですか?」
運転手さんは早口で三度も同じ言葉を繰り返した。
これは去年の暮れのこと。
ジャック氏のボーナス、クリちゃんの三ツ星、キクチ君がキクちゃんになる話
金曜日6限の授業を終わって飯田橋の駅までクリちゃん、キクチ君と歩く。ボーナスが出たというジャック氏が電話をしてきて、いつもの「ブリッジ」で遅いご飯を食べようということになった。「ブリッジ」の向かいの文教堂に派手なミシュランの広告が出ていたので、ジャック氏が来るまで、ミシュランを見物しようということになった。けれども、日本語版は売り切れ。残っていたのは英語版だけ。
クリちゃんがミシュランで3つ星を獲得した恵比寿のレストランで彼女と食事をした時のことを話してくれた。王子様が出てきそうなレストランだ。クリちゃんの話はおもしろかったけれども、そのおもしろい細部が、今朝になると思い出せない。ただ、おもしろという波みたいな感じだけがしわしわと残っている。
キクチ君はある人物から時々「キクちゃん」と呼ばれているらしい。私、クリちゃん、ジャック氏の三人でそれを聞いて「えっ」とか「へえ」とか「ほんと!」とそれぞれに驚いたり、感心したり意外だったりして、同時に三人三様の感嘆詞をもらす。感嘆詞の見本みたい。
ジャック氏はあいかわらずボーナスが多すぎること(少なすぎることじゃない)を嘆いていた。
736 20071206 なんと、灯油が1,700円だって! 北海道旅行から帰ってきた息子が、北海道じゃあ灯油の値段があがってたいへんなんだと話していたが、ネットで灯油が一缶1,700円台になったというニュースを見つけた。
正直に言って「ええっ、ああぁ」という感じ。一缶750円くらいで買えた年もあったのだから、それからくらべたら1,000円も上がっている。いや、1,000円以上の年って石油ストーブを使っている我が家では、記憶していないから、こんなべらぼうな上がり方は初めてだ。
これじゃあ、灯油がなくては冬を越せない北国の人は、暮らしていけないって値段になっている。まだ、上がるのかしら? ガソリン代の値上がりも深刻だけど、車はあまり使わないから、灯油のほうが衝撃が大きい。
735 20071205 酔っ払ったあとで ちょっとだけボードレールの「悪の華」を安藤元雄訳で呼んでいたら、しごく、幸せだった。ぼやぼやとした靄のかかった夕暮れで、西の空が淡いブルーとピンクに染め分けられてゆく時刻の物憂さが、身体にしみこんでくるようだった。学校にいたり、街に出かけていたりすると、空の高いところから振ってくる物憂さは、身体の上をすべり落ちてしまうものだ。
もっと、ぼんやり本を読んでいたいけれど、ああ、仕事、仕事、仕事しなくちゃ。
昨日、新丸ビルで鴨を食べた。鉄砲で撃った小さい鴨を炭火で焼いたやつ。それから、丸の内中通りをペニンシュラホテルまで歩いた。丸の内警察のそばで、ちょっと前まで占領期の名残のような英語の看板が出ているアーケードのあったビルがホテルに建て替えられていた。
ペニンシュラホテルのバーで飲もうと思ったら、満席だった。エレベーターに乗り合わせたサラリーマンのおじさんとお兄さんの中間くらいの年齢の人(いったいいくつだ?)が「こんなところ、世間知らずの女の子を連れてきたら、すぐに口説けるよなあ」って話していたけど、たぶん女の子のほうがリサーチは詳細にしているはずだろうなって、苦笑いがもれたけど、気づかれなかったみたい。白い制服のきれいなボーイさんがいた。ボーイさんだけど女性。親切そうな微笑の持ち主だった。
なんて、思い出している閑に仕事しなくちゃ。東京駅から有楽町、汐留あたりはここのところ、急速に再開発が進んで、だんだん見たことがない街になっていく。
734 20071203 今年の秋 今年の秋も終わりです。 734.jpg
733 20071202 薔薇の土を買う。 薔薇を植え替えるための土を買ってきた。植え替えにはちょっと遅い気もするけれども、寒くなるのも遅かったのでまあいいかと思っている。
一重の赤い花が咲く茎の太いつる薔薇で、一昨年までは春にも秋にもたくさん花をつけていたけれども、今年はさっぱりだった。そろそろ植木鉢の土の力がなくなってきたみたいなので、ビニール袋に「薔薇の土」とかいてある大袋を買ってきた。
ベランダに植木鉢を並べるのはいいけれども、最初の頃、つまり20年前は土を買うのには、ものすごく心理的抵抗があった。土なんか買わないで、どこか空地か斜面からとってくればいいような気がして仕方がなかった。周囲には雑木林が多いので、良い土がいっぱいある。けれども、いざ、土を取りに行こうとすると今度は不審者と間違われそうで、それはそれで心配だった。水道ってものが珍しかった時代にはきっと水道代を払うのに、心理的抵抗があったのかもしれないなあとその頃、想像してみたりした。
そう、そう。ミネラルウォーターが出てきたばかりの頃、飲み水なんかわざわざお金を出して買う人がいるのかいって大人が話していたのを覚えている。いや、私が育った家だって、水道はあったけれども、井戸も併用していて、飲み水としては井戸水のほうがだんぜんおいしかった。ポンプも電動じゃなくて、手動だったから飲み水は「只」でしかも「ミネラルウォーター」だった。
でも水道代を払うのに心理的抵抗があったことなない。が、土となると違って、どうしてもどこかから掘ってこなくちゃいけないような気がしてならなかった。
で、その心理的抵抗のために最初は「赤だま土」とか「腐葉土」など土の種類を選んで、自分で配合していた。とは言え、しょせんベランダなので、配合してもなんだかちまちましている。なんだかプラモデルとか、そういうキットがそろった玩具を組み立ているみたいな気分だった。そう思った時「パンジーの土」とか「薔薇の土」とか「観葉植物の土」とかいてある袋の土を買うのになんの抵抗もなくなってしまった。
薔薇の土を買うことは買ったけれども、またしばらく植え替えをする時間がなさそう。でも、土さえ買ってあれば、ちょこっと閑になった時にさっさと植え替えができるだろう。 733.jpg
732 20071129 息子の北海道旅行のお土産と東京駅 息子が北海道旅行に行った。で、お土産は「白い恋人」と「毛蟹」と「じゃが芋」だった。お兄ちゃんのお土産に妹は「若い男の買い物とは思えん」のひと言。
でも蟹は鍋にすることにしたので、妹のほうもそれはこころ待ちにしている。じゃが芋は「インカの目覚め」と「レッドムーン」。「インカの目覚め」は時々、飲み屋さんなんかで見かけたことがある品種だけど「レッドムーン」のほうは初めて見た品種。「レッドムーン」はさつま芋みたいに赤い色をしている。
ここのところ再開発がぐんぐん進んでいる東京駅を文芸評論家の井口時男さんと歩いた。中央公論2月号の鼎談の帰りだ。鼎談のもうひとりは作家の三田誠広さん。「太陽の季節」から「ノルウェーの森」まで、戦後から昭和が終わるまでの青春小説がテーマ。
で、東京駅とじゃが芋にどんな関係があるのかと言えば、どちらも見慣れているはずなのに見たことがないものになっていたこと。
731 20071126 子どもの過去 老人の未来 子どもは未来だって言われます。そのとおりなのですが、とうの子どもは「未来」というものがあまり想像できないようです。うちの子どもたちは、最初は「夜」と「朝」の区別しかありませんでした。暗い時は「夜」明るい時は「朝」と呼んでいました。だから夕方でも明るければ「朝」でした。
「明日」とか「明後日」という感覚が理解できてきたのは何歳頃だったか? よくは思い出せません。でも、息子が小学校の一年生の時は、夏休みの始まりの日に真っ青な顔をして宿題をやっていました。こんなにたくさんの宿題は「明日までに」終わるはずがないとあせっていたのです。夏休みが40日あることをうまく理解できなかったみたいです。で、40日あるということを言って聞かせると、それですっかり安心して、40日後に一晩で宿題を片付けることになりました。こんなことになるなら、彼の誤解を解かずに夏休みの初めに宿題を終わらせるようにしとけばよかったのに、と呆れたものです。
だから年末年始の行事については、彼らが小さいときには、なかなかその流れを飲み込んでももらえないうえに、私のほうは印刷所が年末年始に閉まってしまうとか新聞の新年の別刷りの入稿をしなくちゃいけないとかで、だんだんにお正月の準備をするなんていう心境になれませんでした。子どもが高校生くらいになると「お母さん、年賀状はどうするの?」なんて聞いてくれることもあったのですけど、頭が年内納めの仕事でいっぱいいっぱいなので「それどころじゃない」って顔をついしてしまいます。高校生くらいの子ってプライドが高くて無視されたと思うと、もうあとはそれっきりで、何も言わないっていう態度にでることもしばしばで、年末で手いっぱいなんだなあなんて思ってくれればいいのに、と言う親の期待は裏切られて、紛争勃発なんてこともありました。
過去をたくさん持っている老人は、過去から未来を予測する能力があります。「来年のことはわからない」とか「生きていないかもしれない」とか言いながら、5年先10年先を見通すような話を聞かせてくれることがあります。未来がたくさんあるはずの子どもには、未来を見通す力が乏しくて、過去がずんずん積み重なっている老人は未来を見通したたがるということを考えるたびに、人間の時間感覚は不思議なものだなあと思います。
730 20071125 ビオラと葉ぼたん ビオラと葉ぼたんを植えました。
小さい葉ぼたんは毎年、植えたいと思いながら、買う時期を逃していました。クリスマスが過ぎて、お正月が来るという頃にはもうどこにも売っていないんです。
今さらと、言われそうですけど、クリスマスの準備よりもお正月の準備のほうが早く始まるのに、ようやく気がつきました。年賀状の売り出しは11月1日だし。それを過ぎると気の早いデパートやスーパーマーケットは「おせち料理」の予約を始めるしで、どうもあとから来るお正月の準備のほうが先にくるクリスマスよりも、早くに準備が始まるんだって気づくのがあんまり遅いと言われそうですけど、例年、11月のうちは「来年」のことは考えたくないなあと思っていたんです。12月になちゃえば「来年」は「来月」なんだから、これは仕方がないかって感じで、あきらめて「来年」のことを考えていました。
今年はなぜお正月の準備のほうが、クリスマスより先だと気づいたのかと言えば、相談する人がいたからです。お正月をどんなふうに過ごしたいのかを息子と娘に尋ねました。それから年賀状の宛名書きをパソコンに入力するのを助手の深野さんに頼みました。おかげで、あ、世の中全体が、クリスマスよりもお正月の準備を先に始めるのかと気づいたわけです。
子どもが小さいときはクリスマスは一大イベントで、なにしろサンタクロースを呼ばなければいけないわけで、そんなことから、まずクリスマスをなんとか乗り切る、それからお正月の準備という頭になっていました。サンタクロースを喜ぶ子どもは、大人とちがってお正月をどう過ごすかなんていう相談の相手にはなりませんから、その頃にできた習性が残っていたんです。
で、お正月になると「ああ、小さな葉ぼたんを買っておけばよかった。苗を植えておけばよかったのに」と毎年、残念に思っていました。葉ぼたんの苗を植えられたということは、つまり、子どもが大きくなったということになります。 730.jpg
729 20071124 私の曇っている左側 眼鏡を使いはじめてからかれこれ2ヶ月がたちました。目が悪いと自覚したためか、左側が見えていないというのがしきりに気になります。ものの輪郭がほとんどとれていませんし、光を発するものは滲んで見えます。
レンズの問題ではなく網膜の問題だそうで、ぼやけている左側を意識するたびに、眼科で見せてもらった左の網膜の写真を思い出します。乳白色の地に赤い血管が走る網膜の半分くらいが、いくらか暗い色をしていました。どんよりとしたその色は、医師に指摘してもらわなければ、色の違いがわからない程度のものですけど、そのせいで、これだけものがぼやけているんだなと、時々、自分の目玉の奥を覗きこんでいるみたいな気持ちで、左側のぼやけた景色を眺めています。
眼鏡ってのは、こんなに不自由だったのか、本を読みながらお茶を飲むたびに、曇ってしまうレンズを拭いています。先週あたりから急に寒くなって、赤、黄色に色づいた東京の景色も左側だけは、ぼんやりといささか曇っています。右と左と違う景色が見られると思えばこれも悪くないかなあと、まあ、これは負け惜しみですね。
NHKの収録では、眼鏡が必要な場面もあるかとテーブルの上に近く用(文字を読むための眼鏡)を置いていたのですけど、取り出す場面はありませんでした。
728 20071123 NHKのブックレビュー収録 NHKのブックレビューの収録で、作家の北方健三さん、大沢在昌さんにお目にかかりました。特集で、推理作家協会創立60周年をやるということで、歴代理事長の逢坂剛さん、北方健三さん、大沢在昌さんが御出演ということで、書評欄の収録ででかけていた私も北方さんと大沢さんにちょっと御挨拶しました。以前、あることで漫画家協会のちばてつやさんから御相談を受けて、北方さん、大沢さんにちばさんを御紹介したことがあって、そのままになっていたのですごくおくればせの御礼。
御礼に行く前に、タバコを一本吸ってから、お三方の控え室に顔を出そうと思って喫煙所にいったら、なんのことはない、北方さんは細巻きの葉巻を、大沢さんは紙巻きを、二人で吸っていて、結局、喫煙室で御挨拶がすんでしまいました。
北方さんからは「本、送ってこないじゃないか」と、いや、それは本が出てないからで(冷汗)はははと笑いながら「歴史小説書いてます」と言ってしまいました。北方さんからはこの25年くらいの間、ずっと御著書が出るたびにお送りいただいています。それから藤沢周さんも含めて、4人で新聞連載の話をしました。
「朝から殺戮シーンを読ませるな、なんて投書がくるよ」というそばから「朝から射精のシーンだってあるじゃないか」とかなんとか。まあまあ、以下略。そうそう北方さんも日経新聞に連載中でした。「失楽園」や「愛ルケ」が載っていたのと同じ朝刊でした。それにしても、北方さん、大沢さんともに笑う声がでかいこと。隣の部屋で、特集ページの打ち合わせ中も「わはは、わはは、わはは」の連続が響いてきました。
書評の司会は藤沢周さんと中江有里さん。書評は久間十義さんに北上次郎さんでした。久間さんに会うのも久しぶり。北上さんは新潮文庫のアンソロジーの編者としてご縁がありましたが、お目にかかるのは初めてでした。放送は日曜日朝8時から、再放送が同じ日の深夜0時からです、いずれもBS2です。
727 20071123 あ、入れちゃった。 豆ちゃん、ちゃんと入れました。今朝からぜんぜん入れなかったんですけど……。なんだかきつねにつままれた気分。
はい、ちゃんと入れました。
伊藤さん、こんなことも時々あるんです。
726 20071120 テスト、テスト、テストデス。 チャントデキルカナ?
725 20071120 ブランドとミシュラン 昨日、帰宅のタクシーの中で、ミシュランガイドを話題にしている番組を耳にしました。で、帰宅後、ネットを覗いてみると、ミシュランの3つ星を獲得したレストランが東京には8店もあるのだそうです。
銀座通りは有名ブランド店ラッシュ。食べることと着ることにかけては、東京は世界でも有数のぜいたくな街になりだしているみたいです。それもこれも「家が買えないからだ!」という気がします。家は高すぎて、昔、フランスの首相に「日本人はうさぎ小屋に住んでいる」なんていう悪口を言われたことがありましたが、家にかけるお金を食べることと着ること、それに車にまわしてきた結果が、こんな風景を生み出したのではないでしょうか?
私はブランドもミシュランのレストランの格付けも嫌いじゃありません。お金持ちはせいぜいお金を使って、それを眺める私たちを楽しませて欲しいと思います。バブル経済がはじけたあと、高級レストランで修行したコックさんや板前さんが、気楽な小さい店を開いて、あまり高くない値段でおいしいものを食べさせてくれたのをちょっと思い出します。そんなふうに、良い技術とか良い目やセンスがだんだんにすそ広がりになってくれれば、お金持ちが大散財をするのも悪くはないでしょう。
最近、聞いた興味深い話は、城戸朱理さんが話していた「東京ガールズコレクション」の成功の件でした。デザイナーのほうの提案が強い高級プレタポルテではなくて、お客さんのほうの注文(こんなものが着たい、あんなものが欲しい)にメーカーが答えるというコンセプトで成功したのだそうです。「ほほう!」というわけで一度、「東京ガールズコレクション」を覗いてみたいなあと思っています。
今のところは東京の贅沢は、パリの贅沢の模倣に過ぎないところがありますが、それでも、その模倣がどんどんその場所(街)と混合して、そのうちに「東京の贅沢」が生み出されそうな感じがしています。
期待しすぎかな。でも、ブランドブームなんていわれたのが30年前で(田中康夫が「なんとなくクリスタル」を書いたのは私の学生時代でした)それから、いったいどうなるのだろう? と興味を持って眺めてきたのでした。
724 20071119 秋の薔薇 鎌倉近代文学館の薔薇園の薔薇です。秋の薔薇はちょっとシック。春の薔薇の匂い立つのに比べて、なんと言ったらいいのか? ああ、うまくいえません。
それにしても、寒くなりました。薔薇の季節もこれでおしまい。薔薇園の手入れも冬の間は、少しお休みになるのでしょう。
東北地方では大雪で、青森県の酸ヶ湯温泉ではもう79センチも雪が積もったそうです。どおりで寒いはずだ。伊藤さん、伊藤さん、伊藤さんのお住まいの場所の気温はどのくらいですか? 724.jpg
723 20071118 鎌倉近代文学館で 鎌倉近代文学館で開かれている「中原中也」展の講演をしてきました。写真は近代文学館の喫煙スペースに落ちていた木の実です。どうしたことか、喫煙スペースでタバコを吸っていると、ぽたん、ぽとりと木の実が次々に落ちてきました。自然に落下したという感じではありません。
喫煙スペースのわきが崖になっていて、雑木が茂っているのですが、その梢あたりで鳥が騒いでいました。木の実の房ごと落ちてくるところを見ると、どうも鳥の悪戯のような気がします。
木の実が振ってくる喫煙スペースでゆっくりタバコを吸ってから、鎌倉駅で詩人の城戸朱理さんと待ち合わせをして、城戸朱理夫妻にバー「マイクス」でごちそうになりました。
これが火曜日のことで、土曜日にも再び鎌倉へ。文芸評論家の秋山駿さんを囲む会が、長谷の華正楼で開かれました。
秋山さんは今年、喜寿を迎えられたそうです。古希の時にはみんなでお祝いをして、九十九里浜を散歩し、いわし博物館を見学しました。(いわし博物館そのものにはあまり意味はありません。単純に九十九里にあったから、ちょっと寄ってみたのです)で、そのいわし博物館がその後、爆発したことが話題になりました。
第一報では「テロ?」という疑いもありましたけど、なんでも床下に天然ガスがたまるという自然の悪戯だったようです。
秋山さんとちょっとだけマラルメの話をしました。
夜はだいぶ寒くなって、駅のホームにいると身体が冷えてしまいそうになりました。秋山さん、夫馬基彦さん編集者の小山さん、八代さんそれから新宿「ブラ」の早川さんなどと、横須賀線で横浜まで出て、湘南新宿ラインの「小金井」行きのグリーンに乗って帰ってきました。家の近くの駅前のロイヤルホストで、小山さんとしばらくよもやま話。紅葉し木々が夜目にも華やいで見えたのは、急に寒くなったせいでしょう。 723.jpg
722 20071116 冷たい雨がふって 先週の金曜日の夜、冷たい雨が降り始めて、土曜日いっぱい降り続き、東京はすっかり秋の眺めになりました。法政大学の日本文学科の研究誌に「そとぼり通信」というはさみ込みの冊子があるのですが、その「そとぼり通信」から学生時代の愛読書という原稿を頼まれていました。
で、私はガルシア・マルケスの「百年の孤独」とジュリアン・グリーンの全集のことを書きました。すると偶然の一致なのですが、田中和生先生も「百年の孤独」をあげたそうです。田中和生さんと私では18歳、年が違うのですけど、おんなじ本を上げるということがあるのですね。ほんとうはいろんな本を紹介するために、原稿を書き直したほうが良かったのですけど、それでなくても締切りを過ぎていたので、そのまま、掲載してもらうことにしました。で、思ったことは「田中和生先生は私が小説を書き始めた頃、おぎゃあって生まれたのか」ということでした。なんだか「へえ!」です。
「そとぼり通信」の原稿を大急ぎで書きながら、外には冷たい雨が降っていたせいか、絶対、他人には触られたくない魂の秘密について書こうとしていた頃があるなあということが、しきりに思い出されました。
そんなことを思うのはきっと冷たい雨に降り込められていたせいなのでしょう。
721 20071115 文学フリマ3回目 文学フリマの事務局によると今年は出展者300人、来場者1000人で過去最高だったそうです。
なんとなく人が少ないような気がしたのは、午前中の入場者が少なかったのと、事務局の会場整理の工夫が功を奏したのでしょう。私は文学フリマに出店したのは3回目ですが、1回目の売り子をやるのにびくびく、2回目はお買い物をしてあるくのにどきどき。3回目は売り子もお買い物もどきどき、びくびくでした。3回目なら慣れるだろうと言われそうですけど、「なれ」は悪いほうに出て、前の2回ほど気合が入っていませんでした。
そのかわり、マスズミ君はしっかり気合が入っていました。私は会場で、どのように冊子を制作したのかを幾人かの人とお話しました。アドビー系のフォトショップなどを使って作ったという人もいましたし、本職はウェッブデザイナーという人もいました。漫画のコミケはものすごく盛んだと聞きましたが、たぶん、その背景には印刷機器の発展と簡易化があるのだろうなと考えていましたが、文学フリマの場合も同じことが言えるのかもしれません。 721.jpg
720 20071112 今年の文学フリマは 今年の文学フリマはなんとなく同窓会? ノリだったかな。6回目ということで、なれているともいえるし、雨降りだったから、お客さんの出足が少々悪かった感じもしました。
「法政文芸」の向かい側のブースは日芸で私のゼミにいたイックさんやタダさんのグループ。モヒカン刈りで緑色の髪の毛をしていたコショネちゃんやコイケアイコさんの学年の卒業生だから、と数えてみると学校を卒業して、もう何年たっているんだろう? だんだん解らなくなってきた。
二階の早稲田文学のブースを覗いてみる。「おたあジュリア異聞」のアシスタントをしてもらっているパクさんがいるかな? と尋ねてみたのだけれども「今日は来ません」という返事だった。それから、長島有さんとちょっと話をして、「木曜日」や「銀座線」の皆さんともご挨拶。あとマニエリストQさんのところにも行く。そうそう、図書新聞画廊の朗読会でファゴットを吹いてくれた氷月そらさんに久しぶりでお会いしました。
「法政文芸」のブースはマスズミ君、いつも黙っているハセガワ君、スズキカスミさん、ハラダさん、キシダ君が手伝いに来てくれて、豆蔵さんも応援に。あと、ハセガワモエさんが独自にブースを出していて、そちらにも「耕治粉」(これでコージーコーナー)を置いてもらいました。マスズミ君は今回、三冊の冊子の編集にかかわっていて、かなりはりきってました。で、早速、本の帯を会場で制作。ハラダさんは「敷布はないのですか?」と質問して、なぜか「シキフ」の一言が古めかしく聞こえたみたいで大受け。
会場の設営が済んだところで、マスズミ君、いつも黙っている長谷川君は例によって会場を探検に。めぼしをつけていた同人誌を買ってきました。いつも黙っている長谷川君は高校生の時から文学フリマに来ているということでした。第一回から知っているのは、いつも黙っている長谷川君だけ。
フリマそのものを楽しでいたのはスズキカスミさんとハラダさん。がちゃがちゃに入っている豆本をみつけてきたり、ピンク色のトレッシングペーパーがかかった「百合の寝台」という冊子をもらってきて「これ、おもしろい!」と作者の柳川麻衣さんの「胡蝶」を買ってきたりとか、いろいろ。
目を引くのは、本の作りに手をかけているものでした。レコード(この言葉も古くなっちゃったけど)を買う時に、中身を聞くわけには行かないので、ジャケットの雰囲気で買うのをジャケ買いと言いましたけど、本もやっぱり最初に目を引くのは、本の作り(造本)と表紙のデザイン。つまり両方あわせて、装丁ということになります。冊子といえども、それは同じでした。で、いくつかのブースでどんな機材やソフトで冊子を作ったかを聞いてみたりしました。この話はまた後日。
(ぼやき 締切りだぁとか忙しいと口に出して言うとなぜか原稿が書けなくなってしまいます。だから私にとってこれは禁句なんだけど。伊藤さんは「締切り! 締切り!」って言うのは大丈夫みたいだから不思議!!) 720.jpg
719 20071111 ナゴヤのいない文学フリマ 一昨年、昨年に続いての文学フリマです。一昨年も昨年も販売をしてくれたナゴヤ君が今年はいませんでした。でもナゴヤファンはいて、ナゴヤ君が書いている雑誌ありますか? と夜ゼミのゼミ誌を買ってくれました。 719.jpg
718 20071110 冷たい雨 金曜日の夜半前から冷たい雨が降り出しました。群馬ののぶさんからは、群馬の山々にはもう白くなっているところも見えるというおたよりをいただきました。
タクシーの運転手さんはガソリンスタンドの値段表示を見てため息をついていました。東京のタクシーは来月から値上がりになるのですが、ガソリンの値上げはそれ以上で、とてもおいつきそうにないということでした。ガソリンは高くなったものです。このぶんだと灯油もかなり値上がりするでしょう。我が家は石油ストーブを今でも使っていますけど、灯油の値上がりはけっこうこたえます。
冬が来る前にビオラを鉢植えにしてしまおうと用意はしてあるのですけど、なかなか手が回りません。ビオラは秋の終わりに植え替えをしておくと、冬の間によく根を張るのだそうです。以前、花屋さんに教えてもらいました。 718.jpg
717 20071107 群馬の渋川に行ってきました。 お天気のよい静かな日でした。
高崎までは新幹線で、高崎で水上行きの普通列車に乗り換えました。渋川というと伊香保温泉に行くときに通ります。たいてい車で出かけてしまうので、電車の窓から見るどっしりとした山並みを珍しく感じました。帰りは日が沈む時刻で、山の稜線が夕日で赤く燃えているのを楽しみました。 717.jpg
716 20071105 結婚詐欺 40歳代の介護士の女性から150万円を騙し取ったとして劇作家が逮捕されるというニュースを見つけました。結婚後に二人で同居するマンションの頭金という名目でお金を騙し取ったそうです。で、これは逮捕の名目にすぎず、なんでも1億7000万円くらいの余罪がある様子だとのことでした。介護士の女性のほかに複数の女性に結婚をもちかけてお金を騙し取っていたようです。
介護士の女性も自分の家を売って3000万円のお金をつくり、事業用の資金として渡しているとありました。きっと事業用の資金では、詐欺の立証が難しかったので、マンションの頭金の持ち逃げのほうを警察は逮捕の理由にしたのでしょう。
で、昨日の話の続きですが、この40代の介護士の女性が高校を卒業する頃には、女性が住宅ローンを組むのがむずかしかったはずです。銀行は「女性には貸さない」とはっきりとは言いませんが、だいたいそんな感じでした。で、女性雑誌には銀行から住宅ローンを女性一人で借りる方法なんていう特集がありました。こつこつと預金をして、信用をつけるという正攻法な話ですけど「なるほどなあ」と納得しながら、そんな記事を読んだ覚えがあります。で、この騙された介護士さんが即金でマンションを買ったのか、住宅ローンで買ったのかはわかりませんが、いずれにしたところで、かなり努力をして買ったマンションに違いありません。年代から考えると銀行も独身女性に住宅ローンを貸すようになった「はしり」の頃の利用者かもしれないなあと思いました。
以前、詐欺にかんする本を読んだことがあるのですが、結婚詐欺というのは、被害届けをとり下げられてしまうことが多いのだそうです。被害者も「騙された」とは思いたくないそうで、被害届けが取り下げられて犯罪そのものが消滅してしまうというケースが多いと書いてありました。そんなものかなと思いつつ、なんとなく「そうだろうな、そうだろうな」と納得してしまいました。被害というよりは感情のもつれと理解したほうが、心の傷が浅くて済むということろを、巧妙に利用するのだそうです。悪い人ってのは、やっぱりどこまでも悪いみたい。でも、その本によると、詐欺師は自分が人を騙している自覚がない人が多いとも書いてありました。人を騙すには、まず、自分を騙す必要があるのだそうです。で、1億7000万円を女性から引き出した劇作家もお金を受け取ったことは認めているものの、「騙したわけではない」と主張しているそうです。
715 20071104 格差社会 飛行機の客室乗務員のことをスチュワーデスと言っていた頃、若年定年制というのがあったのをふと思い出しました。女性は30歳で定年というような制度だったかな。もう30年以上も前に若年定年制は違法という判決が出て、だんだんに廃止されていきました。「若年定年制は違法」という判決は高校の教科書に載っていました。
それから男女雇用機会均等法ができて、でも、まだその頃は女性の防衛大臣とか、独身の首相が日本にもいるようになるなんていうのは、空想的な話でしかありませんでした。
小池百合子の「女子の本懐」という本の広告が、地下鉄の中吊り広告にありました。手元になにもなくて、記憶だけで書いているので、もしかすると間違っているかもしれませんが城山三郎の「男子の本懐」がベストセラーになっていた時代に、小池百合子元防衛大臣はテレビキャスターとして、活躍していたか、そのちょっと前だったか? それまでテレビのニュースと言えば、男性がキャスターを勤め、女性はアシスタントというパターンだったのが、小池百合子、安藤優子、田丸美鈴、などの女性もキャスターを勤めるようになったのでした。女性のテレビキャスター第一世代としては小池百合子元防衛大臣は、いちばんの出世頭というところでしょうか。
男女雇用機会均等法ができたときに、この法律って、経済的に苦しいから共働きをしているって家庭のためにあるんじゃないよねえって、そう感じていました。むしろ高給取りの家庭のための法律って感じでした。30年前の日本は一億総中流なんて言っていましたから、男女格差を論じるときに、あんまり所得階層の違いに目を向けたりはしなかったんですけどね。その頃の空気を知っていると、なんというか、今の格差社会の小さな芽が出てきた頃のような、そんな感じをいくつも思い出します。
今朝はちょうど新聞の配達が終わる頃に目をさましました。日経新聞には高級腕時計と宝飾品が並んだ小冊子が折り込まれていました。クリスマス用ギフトの宣伝広告で、単価は数万円から数十万円。腕時計は、万年筆と同じで、いまや高級品だけが残っていて、ちょっと前まで街でみかけた安い時計は姿を消してしまいました。携帯電話にその地位を奪われたみたいです。プチジュエリーはブランドがブームになる少し前、つまり女性のテレビキャスターが現れた頃から見かけるようになっていましたけど、だんだんと高価になってきています。で、その広告を見ながら、思ったことはこの30年で、お金持ちの雰囲気が変わったなあということでした。
30年前、一億総中流と言っていた頃にもお金持ちはいて、しばしば「へえ、世の中にはお金持ちがいるんだなあ」と感心したことがありました。なんかねえ、うまく言えませんが、その頃のお金持ちは「古い家のお金持ち」でした。それが30年たって、やや入れ替わったのか、それとも「古い家のお金持ち」のセンスが変わったのか? どっちなのだろう? と日経のクリスマスギフトの折込み冊子を眺めていました。30年前は一億総中流の掛け声の前で、お金持ちはちょっと遠慮をして、大衆(この言葉も30年ほど前に消えてしまった感じがしま
すが)に紛れ込んでいたものですが、今は大手を振って街を歩いているというか、そんな感じです。
たぶん、今のお金持ちは「自分の能力で稼いだ」という気持ちが強いのでしょう。30年前のお金持ちは「親から譲られた」とか「たまためぐり合わせが良かった」とかそんなふうにいささか遠慮気味でした。「成金」っていう単語がまだ罵倒語だったのですから。でも、どんな時代にも「成金」っているんだけどねえ……。今様成金の特徴をどんな言葉で表現したらいいんだろうって考えているうちに、若年定年制の違法判決やら男女雇用機会均等法などなど、をつらつらと思い出したわけです。格差社会というとワーキングプアなどの、所得の少ないほうの人々が、問題にされますけど、格差の上のほうはあんまり注目されないというか、その変化を論じている文章をみかけません。
でも小説の世界では、わりに上のほうの登場人物がこのごろの作品には登場します。というか、恋愛小説を書くためには「自分の財産を持っている女」というキャラクターが必須の条件で、日本の近代小説はこの条件と満たす女性をうまく造詣できなかったのですけど、その条件を満たす女性がいる世の中になったということを最近の小説は如実にあらわしているなあと思う作品に出会うことがあります。そういうことについて考えていると、格差社会の上のほうの感覚やセンスが気になるというわけです。
714 20071103 豊後水道を横切って 大分に行ってきました。と言っても木曜日4限まで法政で授業をして、金曜日の6限までに戻ってくるというスケジュールでした。
帰りの大分空港で、熊本の伊藤さんのところまではきっとレンタカーを借りればすぐにいける距離なんだろうなあと思いつつ、でも、伊藤さんはカリフォルニアに帰っちゃったからなとか、何とかぶつぶつと大分の空港で考えていたら、飛行機がすべて飛んで行ってしまいました。はて、私はいったいどの飛行機にのるべきだったのだろう?
へんだな? と思って、空港職員にチケットを見せると
「お客様の御搭乗の飛行機は14時15分から18時10分発に変更になっています」
という返事でした。もしかすると、どうも同行者のチケットと私のチケットを取り違えて持っていたみたいです。
セキュリティチェックも済んであとは搭乗するだけだったので、一瞬にして頭の中に三つの考えがほど同時に横切りました。1、わぁ〜い、ばんざい。お天気の良い日に青く静かな豊後水道を飽きるまで眺めていられるぞ! 2、6限の授業はどうすんだ? 3、あと4時間も搭乗待合室にいなくちゃいけないの? ま、そういうふうに3つの考えが浮かんだあとで「どこかでタバコはすえないかな?」と思いつつ、次の飛行機の時間を聞いてみました。
すると16時25分の東京行きがあるという返事で、ついでに搭乗待合室から外へ出ることは可能だということも解りました。おかげで、というか、おかげさまでというべきか、ともかく、午後いっぱいのんびりと青い青い豊後水道を眺めていることができました。あの青い海の中には関さばや関あじがいっぱい泳いでいるんだろうなあなんて、思っていました。
そういうわけで16時25分のフライトで羽田まで飛ぶことになって、これがちょうど日没を雲の上から眺めることができる便でした。足の下に夕焼けがあるという眺めです。羽田で飛行機を降りる時、客室アテンダント(昔はスチュワーデスって言ったんだ。私の友達はわざわざスチュワーデス専門の受験予備校へ言って日航のスチュワーデスになった子もいた。今でもあっちこっちの空を飛んでいるのかしら?)が「昼間は暖かですが、夜になると冷え込む季節になりました。皆様、御身体御大切にご旅行下さい」ってアナウンスを入れていました。ほんとうに日暮れの羽田は少し寒いくらいになっていました。
あ〜、チケットを取り違えちゃったH財団のDさん、夕方、空港について乗る飛行機がなくて驚いていたんじゃないかしら? 私はその頃、首都高で渋滞に巻き込まれていました。
713 20071101 トピックス工事中です。 豆蔵さんにトピックスを工事してもらています。静岡新聞、熊本日日新聞連載の「おたあジュリア異聞」の挿絵を画家の宮本恭彦さんに描いていただいているのですが、その挿絵の一部をトピックスで紹介できるように豆蔵さんに工事をしてもらっています。
宮本さんの絵はとて色彩が美しくて、画面ではなかなかそのビビッドな感覚がでないかもしれません。でも色使いのおもしろさは、感じていただけるのではないでしょうか。描かれた線に動きがあり、線の動きが画面を生き生きとしたものにしています。
712 20071031 今日の空 昨夜、遅くに静かな雨がふりました。さびしい雨でした。今日の空です。画面のしたのほうに伸びているのは、家の向かいの丘の上に建設中のマンション工事のクレーンです。 712.jpg
711 20071030 日が短くなるには少し早いけど 秋の夜は、闇の色がだんだんと深くなってゆきます。 711.jpg
710 20071028 メガネ めがね 眼鏡 眼鏡をかける。
スーツを着る。
電車に乗って通勤する。
いろいろあった願いの中で、上記の3つはパッケージで願っていたことなのですが。秋口に眼鏡を作って三つの願いがかなったにもかかわらず、楽しくない(ブスッ)
で、高校生の時からの人生の楽しみがひとつ失われてしまいました。
カップラーメンを食べながら本を読む。
眼鏡が曇ってこれができないの。高校に入る前はカップラーメンがありませんでした。
以下、なぜか眼鏡をかけるのがばかばかしく感じられる場面。
駅の売店で週刊誌を買って電車の中で読む。(わざわざ眼鏡を出して読むほどのことはないだろうと思われる。でもなぜか眼鏡がないと字が読めなくなっている)
トイレの中で読む新聞(あ、眼鏡がなくては読めないよ!と気づくのだけど、そのときはわざわざ眼鏡をとりに行くのが面倒になっている)
極めつけ 最悪のパターン
競馬場で読む競馬新聞。オークスの時は眼鏡なしで読めたいいたのに?何でだ。
しかもオッズの掲示板は近いところ用の眼鏡では読めず、遠いところ用の眼鏡にかけかえなくてはならない。眼鏡をかけかえるために、かばんから眼鏡を入れたり出したりしていたら、那覇で買ったお気に入りのスカーフを落としてしまった。ああん(泣)
そういうわけで今日は天皇賞に行ってきました。
709 20071024 沖縄の緋寒桜 新沖縄文学賞の選考会の会場になった料理屋「美栄」で、今年が開業50周年だと、お祝いの絵葉書をいただきました。「美栄」は木造二階建て。屋根は沖縄の赤い土、鉄分が多いのだそうですけど、その赤瓦をしっかりと白い漆喰でとめた屋根を持っています。軒の低いがっしりとしたつくりは台風の多い沖縄ならではの造作でしょう。
今では周囲を鉄筋コンクリートの建物に取り囲まれていますが、それでも、二階座敷には良い風が入ってきます。高層建築が当たり前になってしまうと、こういう木造の家はものすごい贅沢になってしまいます。
絵葉書に描かれている赤い花は2月頃に咲く沖縄の緋寒桜です。この花の咲く頃に沖縄に言ってみたいなあと思うのですけど、まだ一度も出かけられたことがありません。 709.jpg
708 20071024 伊藤さん、カルフォルニアのお宅はご無事? 伊藤さん、伊藤さん、
カルフォルニアの山火事、すごいみたいですね。伊藤さんちは大丈夫かしら?
707 20071023 クバの草履 那覇のお土産です。25年前に沖縄に初めて行った時、クバの葉で作った扇、クバ扇(クバセン)が珍しくて買ってきたのを覚えています。クバは棕櫚のような植物です。
で、今回、クバの草履を見つけました。ベランダで洗濯物を干す時にこれを履いていると楽しくなりそうです。
台湾に行ったときの、サンダルの種類が豊富なのがうれしかったのですが、沖縄はサンダルに加えてビーチサンダル、草履など素足で履く履物を豊富な種類の中から選ぶことができます。 707.jpg
706 20071022 泊港 沖縄は新沖縄文学賞の選考会でした。昨年は夏に岡本恵徳さんが亡くなられて、大城立裕さんと二人の選考でした。那覇に到着すると眉毛の長かった岡本さんのお顔を自然と思い出しました。
今年から琉球大学の山里勝巳さんが選考委員に加わられることになりました。山里さんとは初対面。選考の結果は主催の沖縄タイムスのホームページでどうぞ。
宿泊は泊港のホテル。写真は泊港です。この港からは、島々に渡るフェリーが出ています。港のターミナルのビルにホテルがあるのは理解できるとして、なぜか防衛省関係のお役所も同じビルに入っています。
で、港のデッキにはマンゴージュース屋さんが出ていました。久しぶりに何もしなくて良い時間ができたので、マンゴージュースを飲みながら、港を眺めていました。
マンゴージュース屋さんは「寒くなりました」と挨拶をするので聞いてみるとフラッペ(カキ氷)はあと10日ほどで終わりにするということでした。港の売店でなにげなく買った週刊文春は、先週、飯田橋の地下鉄の売店で買ったのと同じ号(つまり一号遅れ)でした。良いお天気で、気温はたぶん25度くらいはあったでしょう。 706.jpg
705 20071021 変わった花 那覇の福州園で変わった花を見つけました。 705.jpg
704 20071019 夕焼け・昼下がりのテレビ・今日の雲 水曜日(17日)の夕焼けはすばらしいものでした。ちょっと気味が悪くなるくらい。法政大学ボアソナードタワー26階にいたのですけど、東京中がピンク色に染まるような夕焼けでした。携帯電話を持っていたのですから、窓越にでも撮影しておけばよかったなあと後悔しています。
窓のそばに寄って夕焼けを眺めている人がいたのでちょっとおしゃべりしました。日本語のイントネーションが、ネイティブと違う感じでした。たぶんどこかの国から来た留学生か研究者でしょう。
話は遡りますが、火曜日に長年、考えてみると30年間もお付き合いいただいた税理士さんが亡くなられたというお知らせをいただきました。私の母の同級生のお兄さんでした。86歳というお年で、お葬式は逗子でした。母は金沢八景の関東学院の卒業生でした。だから「逗子」なのかと、改めて初めてお目にかかったときのことを思い出しました。私はまだ大学の一年生でした。
今年の春先に体調を崩されて入院なさっていた時、お見舞いにうかがうと、お孫さんの書いた絵を見せていただきました。
「この子と僕はちょうど80年、歳が違うの」
そうおしゃっていました。
戦争中に軍馬の世話をしたことがあるというお話も聞いたことがありました。
いつだったか。「これまで経験なさっていちばんひどい不況はいつのことですか?」とお尋ねしたら「そりゃあ、終戦の時だよ。みんな、何もかも焼けちゃってなんにもなかった」と答えられて驚いたことがありました。バブル崩壊なんて騒いでいた頃のことだと思います。
18日は横須賀線で逗子まで出かけました。で御出棺をお見送りして、逗子の駅まで戻り、そこで喫茶店に入りました。大きなくすのきのある喫茶店なのに、なぜか名前は「ほるとの木」でした。ほるとの木は常緑樹で、一年中、緑の葉が赤く染まってほろほろと落ちます。母の実家には大きなほるとの木があります。沖縄などではほるとの木が街路樹として並木になっている通りもあります。
このごろは喫茶店でも禁煙なんて店が多くなってきたので、なるべく昔からやっていて、今でもマッチをくれそうな店を捜して入るようにしています。で、黄色いペンキが塗られた喫茶店に入ってみるとカウンターの中には二人の白髪の女性がいました。どうやら二人でお店をやっているみたいです。で、テレビがついていて、ボクシングの亀田選手の謝罪会見を取り上げたワイドショーが流れていました。
テレビの画面では企業の危機管理の専門家が謝罪の仕方についての解説をしていました。言葉の使い方、頭の下げ方、服装、態度、こまごまと解説をしていると、コーヒーをついでいた方の女性が
「そんなことができるくらいなら、こんな騒ぎは起こしてないの」
と独り言を言うので、思わず笑ってしまいました。
もうひとりの女性は
「この子、絵がうまいんだって。だから繊細なんだよきっと。そういう顔してるもん」
と言っていました。お婆さんというものは、ほんとうによく見ているもんなんだあと感心してしまいました。
それからまた横須賀線にごとごとと乗って、新川崎の先にある薄野原を気持ちよく眺めて東京駅に戻ってきました。
昨日は良いお天気だったけれども、今日の東京は曇り空。少し寒いくらいです。9月に韓国の梨泰院で作った革のコートをそろそろ着てもいいかなという陽気になりました。
703 20071009 うずくまる香炉 ソウルで買った香炉です。
中国の品物だそうです。最初に入った骨董屋さんで買いました。白い髭をはやした日本語を話すおじいさんと息子さんで骨董屋さんをやっている店でした。
どうも今回は丸いものに目がゆきました。まるみの感じが好きですぐにこれに決めようとおもいました。なんとなくおしゃべりな感じのする香炉です。
どこかの家の仏壇で、いや、儒教だから仏壇とは言わないかもしれないのですが、ともかく、並んだお位牌をあいてにぶつぶつ何かをずっと言い続けてきたような感じです。もしかしたら、この香炉は中国語も韓国語も理解できるのかもしれませんが、まだ日本語には通じていないのでしょう。
なんか言いたそうなんだけど、通訳がいないなあと思っているような感じで、うずくまっています。 703.jpg
702 20071008 どれどれやってみよう 豆ちゃんが教えてくれた方法で写真を掲載しました。
あ、ちゃんとできたよ。
というわけで、城戸朱理夫妻とでかけたソウルの骨董街で購入した壷をやっとお目にかけることができます。
城戸さんによると、この壷は日韓併合時代のものだそうです。なんでそれが解るのかというと、青いぼたんの花に緑の葉という図柄の流行があったことと、緑の葉の染料に特徴があるのだそうです。
で、この壷は悩ましかったのです。何が悩ましいと言って買った時は「あ、あれがいいや。なんとなくイタリアっぽい」くらいの軽い気持ちだったのですが、その跡、なんだかばかな買い物をしたんじゃないか?という疑念にさいなまれました。
壷は新聞紙で包んでもらい、さらにそのうえにぷちぷちで保護してもらいました。だから、見ないで、悩んでました。家に帰ったら「なんでこんなものを買ったのだろう?」と後悔するんじゃないかしら?とずっと思っていたのでした。飛行機の中でもそれを考えていました。
で、家に帰ったら、なんとなく昔むかしから家にあるみたいな感じで収まったので、ほっとしました。なんでもない普通の暮らしの人の好みというところなのでしょうか。赤い実のなる枝をいろいろ買い集めてきて、挿したら、これまたよく似合っていました。
だから、ほっとして気に入っています。 702.jpg
701 20071007 かわいい鯛焼き いただきもの鯛焼きのお菓子です。かごの中に七匹の鯛焼きが並んでいました。で5匹は私が食べて、1匹を息子が、1匹を娘が食べました。 701.jpg
700 20071006 お誕生日 るん! ゼミ生に巨大バースディケーキでお祝いをしてもらいました。ケーキは50センチ×50センチ×15センチくらい。ええと最初に見た時はそれが食べ物だとは思えませんでした。段ボールの箱に粘土のクリームで飾りをつけたみたいな、そんな感じで思わず「これって食べられるの?」と聞いてしまいました。
「もちろん食べられます。48人分あります」
答えを聞くと、じゃあケーキの断面はどうなっているんだということが気になって、そっさく切ってもらいました。で、ものすごく分厚いバタークリームの層がスポンジケーキの間にあることを発見しました。
食べました。48人分を12人でおいしくいただきました。アメリカンサイズのパーティケーキ。わざわざ横浜から電車で運んでくれたかりんちゃんありがとう!
今になって思えばカメラ付き携帯を持っていたんだから写真をとっておけばよかった。ゆんゆん、もし写真のデータを送れるならば、私にデータを下さい。
699 20071004 買いました。 伊藤さん、無事、熊本、ご到着のご様子。なによりです。
私もまえまえから不思議に思っているんですけど、ネットやパソコンが出てきてから異常に忙しくなってます。なんでだろう?
あと今年はほんとパソコンをやたら買いました。
2月にウィンドウズのビスタを。
これは家のパソコンの調子がおかしくなったので大急ぎで買ったのですけど、今は子どもふたりにすっかり占領されています。
4月に「牛丼」パソコンを。
現在、使っているのはこれです。まめちゃんと秋葉原を見物にいって、パソコンのほかにデジカメと電子辞書を買ったのですが、デジカメも電子辞書もなぜか息子の部屋に移動しています。
7月 大学の研究室にパソコン一式(モニターやプリンターなど含む)
なるべく小さいのをと要望して、さがしてもらったらパソコン本体は25センチ×25センチくらいの水色の箱になりました。プリンターも持ち運べるほど小さいし、キーボードは無線だし、これが一番優れています。
もちろん「超漢字」もインストールしました。いざというとき(つまり静岡新聞連載の締切りがぎりぎりになった時)研究室でも仕事ができるようになっています。が、今のところ使っているのは助手の深野さん。
私は深野さんに聞かないと使い方も良くわからない状態。
8月に新聞連載のアシスタント用ノートブックパソコン。
今度の連載は朴文順さんにアシスタントを御願いしています。原稿を書くには書いたけれども送稿を忘れていたなんてことが過去の新聞連載ではありましたから、書いた原稿のあと処理(原稿整理や送稿など)を御願いしています。で、同じ「超漢字」を持とうということになって、ノートブックパソコン(通称アシパソ)を用意しました。
7月の研究室と8月のアシパソは最近、パソコンのコンサルタンとを始められたつくまさんに面倒を見ていただきました。
そんなわけで、ほぼ2ヶ月に一台づつパソコンを購入したことになります。
で、昨晩、気づきました。時々、原稿枚数を間違えるのですけど、その原因は、パソコン画面だったみたいです。今、使っている「超漢字」は画面に400字詰め原稿用紙が表示されるのですが、この400字詰め原稿用紙には、中央の折り返しの表示がないのです。で、2、5枚の原稿を書こうとすると2枚と10行でとめなくてはいけないのですが、これがだんだん分からなくなってくるのです。400字(原稿用紙一枚)の区切りなのかそれとも200字(原稿用紙半分)の区切りなのか?
新聞連載の場合は一日分づつの長さで書いてゆくので、この分量を量る指標はすごく大切になります。あとでパーソナルメディアの加茂さんに報告しなくちゃ。
締切り間際というか、原稿を書き始める直前って、ばぜか猛烈に買い物をしたくなるのは伊藤さんと同じです。だいたいお金のない時は「食べ物」を、お金のあるときは「洋服」を買っちゃうんですけどね。でも、そういう時にパソコンを買いたいって思ったことはありません。パソコンはあくまで仕事で使うからって感じですね。あ、そうだ、10月になって携帯を機種変更しました。デジカメを息子に持っていかれちゃたから、カメラ付きの携帯のカメラの性能が高いのに変えました。
ただ、なんだか画像のデータ量が大きいので、ここにアップする写真がうまくとれずにいます。デジタル機器って買ったあと、やたらに悩まされます。
698 20070930 「アルネの遺品」とアルフレッド・ウォリス 東京は金曜日の夜11時頃にぽつぽつと小雨が振り出して土曜日は肌寒くなりました。今朝は白い雨が降っています。夏から家の中を片付けていて、荷物をトランクルームに預けることにしたのですが、雨のために荷物運びは中止。来週あたり、お天気の良い日を探し出して運び込むことにします。この雨が上がったら秋になっていることでしょう。
横須賀美術館でアルフレッド・ウォリスの展覧会を見てからずっとコーンウォールに行きたくなっていました。港町とか漁師町を見て歩くのもいいなと、そんな気がしたのですけど、自分でちょっと首をひねっていたのは、日本の港町を描いた絵を見てもそんな気持ちになったことがないので、そこが不思議でした。
秋になると写生会という行事が私の卒業した中学校ではありました。港の景色を写生するというのが、通例で、巨人軍の長島選手が選手を引退した日も、その写生会でした。スケッチをしながら、後楽園からのラジオ中継を聞いていました。で、港なのですが、これが中学生にはなかなか描きにくい風景で、写生の対象としておもしろいと感じたことはなかったのです。
いや写生の対象だけではなく、ちょっと旅行してみたいなあと思ったこともあまりありません。が、アルフレッド・ウォリスの絵を見ていると港町、とくに漁港に行ってみたくなったのです。アルフレッド・ウォリスは70歳過ぎから独学で絵を描き始めた人で、もともとは船乗りであり魚具商だったそうです。その描いた絵を見ていると、ありありと、長島の引退試合のライブが流れていた港の光景とか、風や光を思い出すのです。絵にイメージを喚起する力があるのです。
私が生まれた横浜も、育った千葉の館山も、港町として日本が画家が風景をたくさん書いています。横須賀美術館の収蔵品の中にも私の知っている土地を描いた風景画がいくつかあります。それらが喚起する思い出と、アルフレッド・ウォリスが喚起するイメージはまったく違うものなのです。前者はちょっと暗い感じで、後者は明るいというよりは、光の明暗はさておいて、幸福な感じがするのです。
ドイツの作家のジークフリート・レンツの「アルネの遺品」を読んだ時も同じような感じがしました。造船所があるハンブルクの町が舞台になっている小説ですが、この小説を読んだときも、ああ、港町を旅行してみたいなあと思いました。中学校の写生会ではあれほど嫌だった港のごたごたととぐろを巻いているロープとか赤錆の浮き出た碇とか、藤壺のついた岸壁が、情緒的で魅力的な物として目に浮かんでくる感じがしました。この感じはなんなのだろう?こうした目に浮かぶ感じを「想起」と言いますが、なんだか「想起」の仕方が違うのです。どう違うかをうまく説明できなくてもどかしいのですけど、日本の近代文学や近代絵画が「想起させる」感じとジークリフト・レンツやアルフレッド・ウォリスが「想起させる」感じがまったく違うのに、興味を感じています。
697 20070929 伊藤さん 気をつけて あわただしいご出立のご様子。どうぞ道中、気をつけてお出かけ下さい。
東京は昨日の夜、小雨が振り出して、今朝はめっきり涼しくなりました。突然の秋の訪れです。熊本では連日、猛暑が続いていたようですが、伊藤さんが御到着になる頃にはそれもひとだんらくしていることでしょう。
風邪などひかないようにして、お出かけ下さい。道中の無事をお祈りしています。
696 20070928 野葡萄 野葡萄の鉢植えを買いました。
ああん、豆ちゃん、この写真は天地が逆さまになています。 696.jpg
695 20070926 ヘコンデル。 失敗続きでヘコンデマス。デモ、ゲンコウヲカカナクチャ。
694 20070925 またか、なのか、いよいよ、なのか ソウルの三清洞は景福宮の東側に沿った通りで、ギャラリーやおしゃれなレストラン。本棚のある喫茶店のブックカフェなどが並んでいる通りです。9月に入って買物魔になっている私は三清洞で、白いリネンのエプロンを買いました。リネンというよりも「すずし」といったほうがいいかも知れません。源氏物語絵図に出てくる女君が夏の暑い夜にきているようなシースルーの生地です。絵図だと乳房や乳首に生地の下から透けて見えています。ま、購入したのはボックスプリーツのついたエプロンで、宮廷の女官でもないかぎり、そんなエプロンはしないだろうな、という品物。
で、ソウルに出かける前から、アメリカのサブプライムローンの焦げ付き問題のニュースがちらりほらりと出ていました。そのためイギリスでは中堅銀行の取り付け騒ぎまで出て、その銀行の処理が大きな問題になろうとしています。サブプライムローンの焦げ付きは23兆円だそうです。
「またか」と思うのは、97年のアジア通貨危機の時も最初のニュースは、こんどのサブプライムローンのように日経の一面の小さな記事として伝わってきたのを思い出したのです。タイのバーツの暴落。それから韓国がIMFの管理下に入り、日本では山一證券が廃業しました。新聞の小さな記事を見て「これはおおごとなんじゃないかな?」と首をひねっているとだんだん日を追うごとに、大きな騒ぎになって行くという感じは「またか」です。
アメリカでは退任したグリーンスパン議長を責める声が大きいと新聞にでていました。サブプライムローンはグリースパン時代の金融政策から生まれたローンであるからです。そこで思い出すのが、97年、つまり、夏の会話。その頃、ともだちとアメリカの経済がいつパンクするかが、かなり影響を出すだろうという話をしたのをよく覚えています。いや、タイのバーツの暴落だけで、そこまで話を持って行くのは強引すぎると言われました。で、その後は皆さんがご存知のグリーンスパンマジックで、アメリカ経済は予想されたような打撃は受けたかったわけですが、この夏頃から聞こえてきたグリーンスパン非難を重ね合わせると、どうも「いよいよ」みたいな気もします。
97年当時は橋本内閣でした。消費税の税率が3パーセントから5パーセントに引き上げられた年です。
権力と特定の個人の存在と結びつけずに、交代可能な役職と結びつける民主主義というやり方は、そのやり方自体に、こうした任期切れのあとに問題が噴出するという欠陥を宿命的に持っているのかもしれません。
で来年は北京オリンピック。オリンピックが終わると中国の建築ブームもひと段落して、日本も韓国もオリンピック開催後に経験したような一時的不況を中国も経験することになるでしょう。そこに、アメリカのサブプライムローンに単を発した金融問題が重なるとはてさてどうなるのか?アジア通貨危機の時よりは、日本の貿易相手国はアメリカよりも中国に比重が移っています。
金融危機で混乱する欧米をしりめにアジアは堅実は経済発展で反映するなんていうバラ色の未来があるのか?それとも、アメリカ、イギリスの金融危機にまたもやも着込まれて、ここのところ、少しばかり快復してきた日本の景気が冷え込んでしまうのか?はてさてどっちなのでしょうか?バラ色のほうもちょっとだけイメージしてみることができるのが、97年の世紀末的な金融危機の不安とは違うところで、ちょっとだけ21世紀的になっている気がします。
693 20070925 頭の中はばらばら 携帯電話の機種変更をした。すごい混雑で、銀行みたいに番号札を持たされた。で、ようやく、順番が来て、機種変更。つまり新しい携帯を手に入れた。もちろんカメラ付き。ただ、料金体系を説明されたけれども、あまりにも複雑で頭の中はばらばら。
バターケースを見つけた。即、買う。以前からたぶん10年以上前から欲しかった形態。思わす「あった、あった」と言ってしまった。でも、このごろ、買い物魔とかしている。だってバターケースを持って家に帰ったら、ソウルの梨泰院で注文した革のコートが届いていたのだもの。ああ、どうやって払うのだろう。ちょっと考えてみるけど、頭の中はばらばら。
城戸朱理さんのブログを覗いたら、猛暑の名残でなかなか仕事がすすまないのを嘆いていた。当方も同じ。かなり仕事が遅れている。どうしようかなと考えながら、やっぱり頭の中はばらばらのまま。
学校が始まった。でも、まだ暑い。まだ夏休みが必要なくらい暑い。で、その学校はただいま工事中。工事の区域をさけて移動するには、どうしたらいいのかを考えなくちゃならない。でも、考えても、頭の中はばらばら。もともと、法政大学ってのは斜めの敷地にあるので、同じ敷地の中で、校舎によって一階のある場所が異なっている、地上から校舎の中に入ったからと言って、そこが一階とは限らない。地下一階だったり、ときには地下二階だったりする。地上から入ったはずなのに廊下を歩いて行くと、いつのまにか2階の廊下を歩いているなんていう摩訶不思議な校舎もある。だから頭の中はばらばら、ますます、ばらばら。
極め付きは、後期の月曜日の授業の最終日は12月24日であることに気づいたこと。なんと12月24日のディナー・タイムに試験をやらなくちゃならない。なんと言うことだ。
692 20070923 ソウル郊外の骨董団地 城戸朱理さんの案内で、東大門から少し離れたところにある骨董団地に行った。地下鉄で行ける場所だから、郊外というのは言いすぎかもしれない。ソウル市内の東側くらいか。
名前をどうしても思い出せない。人に案内してもらうとこういうことがよく起きる。
ソウルと骨董って言えば、すぐに思い出すのは仁寺洞で、この通りには紙屋さんもあれば文房具屋さんもあって、日本人の観光客も多い。以前、焼肉ガーデン(なぜかソウルでは焼肉屋は○○ガーデンという名前のお店が多い)のあったとことが、今はアートとファッションビルになっていたし、凸凹した舗装の曲がりくねった露地に韓定食屋が並んでいたところにワインバーがあったり、民俗趣味のレストランになっていて、仁寺洞も変わったものだと思った。なにより、韓国といえば焼酎とまっこりだったのが、ワインを飲む人が増えていた。以前は漢河の南側の江南でしかワインバーを見かけなかったけれども、このごろは旧市街でもワインバーが増えているようだ。で、仁寺洞の話に戻るが、この街で売っている骨董は、旅行者でも持ち帰れるような大きさの品物が多い。「日本で言えば日本橋中通りだね」と城戸さんが言っていたけれども、そんな感じだ。
で、今回連れていってもらった骨董暖地はひと目、見て、思わず「石屋だ!」と驚いてしまった。
ほら、日本でも石屋さんが、墓石とか、なんだか趣味でつくったようなドラえもんとか、そういう石の彫刻というか、細工物を置いているでしょう。あれに似てました。土を盛り上げて作るお墓の入り口におく石馬とか石羊、アーチ型の石の橋、蹲(つくばい)のような気がするけれども丸くなくて長方形の溝が掘られた石。それから斎州島でみかける魔よけのおじさん(これまた名前をいきなり度忘れしていまいました。ごめんなさい)などなど、大小あるけれども、驚くほど巨大(キロではなくてトンの単位が必要なほど)のさまざまの石の製品がある。買い物をするにはクレーン車が必要。
で、二棟ほどある骨董品屋さんの並んだ建物に入ってみると、そこには昔、農家で使っていたらしい民具や農具、貴族趣味的な箪笥(がっちりした金物がつかってある。桐箪笥の金具をより頑丈にした感じ。もっとも日本でも昔の桐箪笥にはずいぶん分厚い金具が取り付けられていたけれども)こういう古い箪笥を買って金具だけとり箪笥本体は新しく別注で作って、金具を取り付けることがあると聞いたことがある。長持や唐櫃もあった。骨董というよりも古道具である。で、思い出したのがソウルの集合住宅の大きさと広さである。天上が高くて、しかも広い。団地、マンション、いずれの名称を使うとしても、全体に大きく広く作ってあるのだ。あと、もともとの住宅も床暖房のオンドルなので、石の家からコンクリートの家に移り住むのは、木と紙の家からコンクリートの家に移り住む日本よりも感覚的な差が少ないのかもしれない。きっとそうしたことから、古道具の需要があるのだろう。
家の広さというのは、人間の美意識にずいぶん影響するに違いない。美意識に影響するということは、結局のところ、人間の希望や欲望に響くだろう。ちょっとそんなことを考えた。
大原の家の件が、着工寸前にまで来ているので、どうしたも大きな物に目が行く。キロ単位ではなくてトンの単位。そんなものを買ってどうするんだ!と内心で自分を取り押さえながら、あっちこっち見て回って買ったのが中国製の真鍮の香炉と植民地時代の花瓶。どっちもスーツケースに入る大きさです。
691 20070922 月は輝く 鈴木隆之氏のところに、大原の家の打ち合わせに行きました。で細かい文字を見るとき
「へへへ、昨日、眼鏡を作ったの」
と言うと、鈴木さん、うれしそうに
「やっぱりそうなったか!」
そうおっしゃっていました。こういううれしい感じって、好きです。なんだかねえ。どういったらいいんだろう? よくわかりませんが「へへへ」です。
確かにやっぱりそうなったのですが、でも老眼(遠視)ではなくて近眼だったことは以前にここに書きました。で、眼鏡は二つつくりました。遠くを見る用と、近くを見る用です。で、パソコンはどっちで見たらいいんだろう? と思っていたら眼鏡屋さんが言うには、今のところ、パソコンは眼鏡を使わなくてもいいそうです。まあ、パソコンの場合は、文字を大きくすることもできますし。でも、ちょっと複雑な気分。パソコンの画面との距離だけ、焦点があっているなんて、いったいぜんたい、まったく、もう、です。
さらに疑問は大学の教室ではどっちを使ったらいいのでしょうか?ゼミ室の隣に座っている学生は、遠く用ではなんだか歪んでみえるし、後ろの席に座っている学生の顔は近く用ではぼやけてしまうし。
「なんで遠近両用で作らなかったんですか?」
さっそく、ゼミ生に言われました。だって眼鏡は生まれて初めてで、遠近両用を使いこなせるかどうか不安だったからとかなんとかぶつぶつ言うと
「先生、眼鏡かけてませんでしたっけ? 僕、先生の眼鏡みた記憶があります。眼鏡をさげてじろりとにらまれました」
と言うのです。
「かけていたとしたら、サングラスだけど?」
「ええ、先生がサングラスかけるのですか?」
って、いったい何を見ていたんだという珍問答もありました。眼鏡をかけたりはずしたりしながら、教室に座っていると先生になった気がしました。
「前から先生でしょう」
それはそうなんだけど。結局、教室ではどうしていいのか結論はでませんでした。
ともあれ、何年かぶりでお月様がひとつになりました。月は輝くです。遠く用で月をみると実に涼しく輝いていました。
網膜に問題があると、今回、眼科で診察してもらってわかったのですが、これは眼鏡では調整できないそうです。思い出してみると10年以上前に、夕暮れ時に車を運転していると、猛烈な眠気に襲われることがありました。しかたなく、路傍のラーメン屋さんやうどん屋さんの駐車場に車を入れて仮眠したことも一度や二度ではありません。とくに埼玉にチェーン店の多い山田うどんさんにはしばしばお世話になりました。山田うどんさん、どうもありがとう。で、たぶんその頃、網膜で何かが起きていたらしいのです。お月様のその頃から、輪郭がぼやけていました。でも、視力に問題を感じてなかったのは、網膜がしっかりしている右の目で、文字を眺めていたからです。が、その右目もとうとう近視に、漢和辞典の画数の多い字が見えなくなったのは、3、4年前、今年に入って広辞苑が見えないというので、あせりだしたのでした。
10数年前に網膜で何が起きたのかは謎です。
大原の家の打ち合わせで、施工をしていただく森社長から梨をいただきました。で、梨を持って深川図書館の前の「ババグーリ」ヘ。ヨーガン・レール本社の一階です。秋冬物のスカートや上着を見ているうちに、梨が重くなり、お店の隅に置かしてもらいました。そうこうするうちに店員さんが
「去年も梨を持ってお見えになりませんでしたか」
と質問するのです。私も質問される少し前にそのことを思い出していました。
「なんかデジャ・ビューがあるなと」
そうなんです。去年も大原の家の打ち合わせで森社長から梨をいただいたあと、「ババグーリ」によってスカートを買ったのでした。タイシルクの撒きスカートです。とすると一年も前のことになります。店員さんもよく覚えていたものだとびっくりしました。
スカートを一枚買いました。スカートを選ぶときに眼鏡を出したかというと、眼鏡のことはすっかり忘れてました。
眼鏡に関しての息子の感想
「こわいなあ」それだけ。
眼鏡に関しての娘の感想
「眼鏡の時はアイメイクはやめたほうがいいよ。目の周りだけ飛び出す絵本になっちゃうから」ああ、そうですかって、飛び出す絵本ねえ……
お月様は笑っています。
690 20070921 カンジャンケジャン ソウルへは骨董を買いに行こうという城戸朱理さんのお誘いでした。城戸さんほか、何人かと「無弦琴の会」というのをやっていて、骨董を買うのを楽しみにしています。そのうちに無弦琴の会のブログを作ろうという話も出ていますが、いまのところ、この会のもっとも詳しい報告は、城戸朱理さんのブログにあります。興味のある方は除いて見て下さい。城戸さんのブログのアドレスはリンク集にあります。
で、骨董の報告は私がデジカメのいじり方を修得してからに譲って、今日はカンジャンケジャンの話。ケジャンというとまっかなニョクマム(薬味)ケジャンがすぐ浮かびますが、今回、食べたのは渡蟹をお醤油に似たカンジャンにつけたカンジャンケジャン。蟹みそがたっぷり入った5月の渡蟹を急速冷凍したものだそうです。これがうまいの、なんのって、朝ごはんを食べていると、突然、舌がそのうまさを思い出すおいしさでした。あまりのうまさに骨董なんてもういいや!と口走る始末。ああ、また食べたいカンジャンケジャンです。日本人にはニョクマムケジャンよりもカンジャンケジャンのほうが合っているのではないでしょうか?もっとも日本の市場ではニョクマムケジャンは見かけてもカンジャンケジャンはあまり見かけませんから保存が難しいのかもしれません。蟹をばりばり食べる醍醐味と、お刺身的はおいしさが合体していました。
以前、東大門の近くに泊まったときも、ユン・デニョン氏が「これはあんまりだ」と呆れて、もう少しましなホテルを紹介しようかと言ってくれましたが、今回もまたまたユン・デニョン氏を心配させてしまったみたいです。東大門市場の近くにホテルをとったのは、ひたすら鶏の丸ごと鍋であるタッカマリを食べたかったからなのです。タッカマリで有名な店が近くにあるという理由です。しかし、次にソウルに行くときは、カンジャンケジャンのお店の近くに良いホテルを捜したくなりました。そうそう、城戸さんのブログにはカンジャンケジャンの写真もあります。私は写真をとるなんて余裕もなくひたすら「おいしい!おいしい!」と食べるだけでした(笑)
689 20070913 お誕生日おめでとうございます。 伊藤比呂美さん お誕生日おめでとうございます。
伊藤さんはおとめ座なのね。
688 20070911 ただいま! 昨晩、ソウルから帰ってきました。羽田から金浦、金浦から羽田というコースの飛行機を使いました。羽田からの国際線は初めて乗りました。30年ほどまえに弟がイギリス旅行の行くときはまだ成田空港が開港していなかったので、羽田まで見送りに行きましたが、自分で羽田から海外に出るのは初めてです。
金浦のほうは久しぶり。羽田にしろ金浦にして、都心に近いので成田や仁川をつかうよりも便利です。近距離の飛行機はみんな羽田から飛ぶようになってくれないかしらって思いました。ヨーロッパやアメリカまで行くときは成田でも納得できるのですが、飛行時間が2時間とか3時間程度の時は、成田まで行くほうがたいへんで、それでくたびれてしまいます。
ソウルでは「カンジャンケジャン」と「タッカマリ」と「サンゲタン」と「ピョンヤンレイミョン」を食べました。イシモチの焼いたのもおいしそうでしたが、今回はパス。詩人の城戸朱里さん夫妻と一緒の旅でした。
7月に日本滞在を終えたカン・ヨンスさんそれに、作家のユン・デニョンさんにもお会いしてきました。お二人に韓国料理のニューベル・キュイジーヌとも言うべきモダン宮廷料理をご馳走になりました。ユン・デニョンさん、カン・ヨンスさん、ご馳走さまでした。
687 20070907 これからソウルに行ってきます! 台風9号が小田原に上陸しました。昨日から羽田は大混乱みたいです。でも、これから羽田発の便でソウルに行ってきます。では。では。
留守の間に荒川が氾濫するなんてことがないように。息子が通っている自動車教習所が水浸しなんてことがないように。その他いろいろ、心配ありありですが、まあ、出かけることにします。昨日(6日)も横須賀美術館で、大荒れの浦賀水道を見ていました。
686 20070904 萩原朔太郎賞受賞おめでとうございます。 伊藤比呂美様
朔太郎賞受賞おめでとうございます。
お祝いに車を一台って、それはむりか。ミニカーくらいならカルフォルニアに送れるですけど(笑)さて、お祝いは何にしようかしら?考えてみます。
昨日、大庭みな子さんの会に行って、大庭さんとももっとお話しておけばよかったなあと少し後悔しました。なんかねえ、お話するには距離がありすぎるような気がしていたんですけど。大庭さんに限らず、詩を書いたり、小説を書いたりする人とは、どういったら好いのかな、話たいことをうまく話していないような気がすることがあります。どうしてかな?自分でも不思議です。
言いたかったのは「おめでとう おめでとう おめでとう」と今日はそれだけです。天草に行ったときに伊藤さんが興味を持った隠れキリシタンのオラショをどんなふうに伊藤さんが作品にするのか、すごく楽しみにしています。ではでは。
685 20070904 冬休みは風邪、夏休みも風邪 夏休みと冬休みと、年間に二回は風邪を引いています。どうしたことだ。
今年の夏風邪は熊谷で40度を超えたという酷暑の日にやってきました。冷房を切って家の中の空気を入れ替えたのです。で、あまりの暑さに、そうそうに窓を閉め切って再び冷房を入れました。すると、喉に痛みが。あれ、これはちょっとちょっとおかしい。と思う間もなく、ひどい咳が出始めました。久しぶりに液体の咳留め薬のお世話になりました。それでも気管がぜいぜい言ってました。
そういうわけで、やっと風邪がなおってきたところです。咳もなんとかおさまりがついてきました。
684 20070902 伊藤さん、おひさしぶりです! 伊藤さん、おひさしぶりです。お元気そうで!そういえば、私も乗馬クラブに通っているときは、音楽の仕入先はひたすらFMラジオでした。このごろは車にもまり乗らないから音楽の仕入れ先はありません。いや、息子か。で、その息子が今年の暮に「展覧会の絵」をオーケストラでやるみたいです。この間はチャイコフスキーの交響曲5番にホルンで乗ってました。
やっぱりアメリカはマーチングバンドなんですね。日本のマーチングバンドのコンクールでも強いチームにはアメリカ人のコーチがついてたりします。そうそう、うちの娘もマーチングバンドをやっていました。そのときのお師匠様は毎年、夏休みになるとアメリカにマーチングバンドの見学に行ってました。
そのうちに「楽隊のうさぎ」マーチングバンド編も書きたいなあって思っていますけど、今は頭の中は15世紀なの。というわけで夏休みに入るや否や連載がはじまるぞ、はじまるぞと緊張して、でも夏の暑さにはすっかり負けて、思ったほど原稿をかけていません(ごめん)今年は暑かったんです。ここ数日やっと涼しくなったら、今度は身体がだるい。で、ジョーバが来るのが待ち遠いしいのです。でもジョーバが来る日の翌日にはゼミ合宿に行かなくちゃならないし、その翌日にはソウルに行きます(原稿はどうなるんじゃい!)
わあい!伊藤さんがまた書き込みをしてくれるようになってうれしいな。伊藤さん、ちょくちょく書いて下さい。よろしく御願いします。
683 20070830 買ってしまったものと、買わなくちゃいけないもの 買ってしまったもの→ジョーバ
ほんとうはジョーバなんかじゃなくて、馬に乗りに行きたいのだけれども「おたあジュリア異聞」の連載中はとてもじゃないけないけれども、乗馬どころではありません。そこで「ジョーバ」を買ってしまいました。でも在庫切れで来週にならないと届きません。
原稿を書いていると妙に不機嫌になるときがありますが、その理由の30パーセントくらいは運動不足かもしれないなあと前々から考えてました。もっとも、進まない馬に乗ってどのくらい不機嫌が解消されるかは、たいへん疑問ですが、ウォーキングマシーンよりもマシな気がするのは、なんだか遊園地みたいな感じがするからでしょうか?
買わなくちゃいけないもの→眼鏡
御茶ノ水の井上眼科で処方箋をかいてもらいました、近くを見るようの眼鏡と、遠くを見るように眼鏡をつくあなくちゃいけないのです。先週から風邪を引いて咳がひどいのですけど、そういうふうに体力を消耗すると、このごろは目がかすみます。これは眼鏡ではどうにもならないらしいのですけど……。まあ、眼鏡を使ってみます。少し楽になるかもしれません。
682 20070829 月とすっぽん いや、表題は何の関係もないのですが、昨日はへんな日だったということです。
金沢八景は私の生まれ故郷ですが、八景の地名は中国のドウテイ湖周辺の八つの景色に似た景色がみられるということからつけられた地名というか、駅名です。京浜急行の駅ですが、その駅近くでお月見をしようということで出かけて行きました。で、ちょっと早くに駅についてしまったので、駅前の喫茶店の2階の窓際に座り、本を読むことにしました。
アイスコーヒーを注文して、さて、タバコに火をつけようとしたら、駅前に唐突な感じで、消防自動車が入ってきました。到着するや否や、消火用のホースを出していました。あれ? どこか火事かなと思うまもなく、消防士さんが喫茶店の二階に駆け上がってきました。え、たばこの火を消しに来たの? くらいのタイミングです。駅前には大勢の人だかりができていました。そこへまた一台、こんど梯子車がやって来ました。でも、どこにも火事はないのです。
それにしても、たばこに火をつけたとたんだったので驚きました。どうもいたずらの通報があったみたい。
で、お月見をして、と言っても昨日は雲が厚く、雲の切れ間からちらりと皆既月食から快復し始めたおつきさまを見ることができただけですけど、家に戻るときのことです。
地下鉄の大江戸線が練馬駅に入ると、火災報知器のベルがホームに鳴り響いていました。これには地下鉄の中の人も不安そうな顔になりました。駅で降りる人はもちろん、電車にのこる人もはて、どうしたことだろう? という顔をしていました。私も座席から半分、腰を浮かしながらなにか案内が入らないかと耳を澄ましていました。が、電車は何の案内もないまま発車。電車が発車した直後に、ホームに鳴り響いていたブザー音も止まりました。これもなにかの間違いみたい。
というわけで、行きも帰りの人騒がせなお月見の一夜でした。東京の北部ではものすごい雷雨があったようなので、お月様の顔を少し拝めただけでもめっけものと言うべきでしょうか。
681 20070828 シャツを二枚買う 今日はちょっとだけ涼しくなるという天気予報でした。で、曇っているのが気にかかります。というのも、6年ぶりの皆既月食があるので、お月見をしようということになっています。涼しいのはけっこうですが、厚い雲に覆われては皆既月食どころではありません。「暑い」も困るけれども「厚い」も困る。
シャツを二枚買いました。パープルとブルーのストライプ。先日、ちょっとした偶然で日和聡子さんにお会いしたらきれいな白いシャツをお召しになっていました。暑い、暑いと言っていないで、あんなシャツをきたら、ちょっとはきりっとした感じになるのかなって、やや期待含み。というのも夏風邪を引いて、原稿が遅々として進まないのにややあせりぎみだからです。よく「原稿は何時書くのですか?」って質問されますけど、急ぐとなったら「何時」なんて言ってられないわけで、書けるような気がしてくるならなんでもする!という感じになるのですよ。フルメイクをするとなぜか書けるという時期も以前にはあって、真夜中のフルメイクなんてこともありました。知らない人が見たら怖いかもね。
「おたあジュリア異聞」の連載、熊本日日新聞の連載も8月27日から始まりました。さあて、新しいシャツを着てがんばるぞ!
680 20070823 電気が消えていた。 御茶ノ水の井上眼科に眼鏡の処方を書いてもらうために出かけた。左があまりよく見えないのだけれども、これは網膜で何かがずいぶん前に起きていたらしい。で、検眼の結果は近視。なんだかがっかり。ああ、子どもの時から、おばあさんになる楽しみの一つは老眼鏡で人の顔をじろりと見ることだったのに……。どうやらそれはもうしばらくお預けらしい。
で、その井上眼科は新御茶ノ水ビルの19階にあるのですけど、新御茶ノ水ビルのフロアの電気が消えてました。「東京電力の要請により節電に協力しています」の張り紙があって、ああ、やっぱり電力不足になっているのだなと思いました。ちょっと暗いなあというか、ビルの外がいつもよりも明るく見える程度で、あんまり不自由だとか、不気味だとかという感じはしませんでしたけれども。
ああ、眼鏡を作らなくちゃ。それも近く用と遠く用の二つがいるらしい。やれやれ。
今日(8月23日)から静岡新聞で「おたあジュリア異聞」の連載が始まります。
679 20070815 8月15日 「お母さんの部屋は霊安室だよ」と言われるくらい冷房を効かせた家の中から外を眺めても、日差しの強さがはっきりを判るここ数日の東京です。漢文の黒田先生がメールに「ドッコイ暑」なんて洒落を書いてくれました。いつもは四字熟語の多い黒田先生のメールですが、あまりの暑さに四字熟語もカタカナと漢字の駄洒落になって溶け出したみたいです。学校で私の助手をしてくれている深野女史からは、梨が届きました。早速に皮を剥いて食べてみましたが、これが暖かいのです。甘くて暖かい!
パスポート取得のために川越まで行ってきました。パスポートも30年前に初めて取得したときに比べれば、いとも簡単に取得できるようになりました。30年前は、県庁に行かなければならず、その頃は千葉県の住人でしたが、県南の館山から千葉まで出るだけで半日はかかりました。で、県庁の窓口はものすごく混雑していて、これまた手続きを終えるまでに数時間が必要でした。今は、川越のアトレでものの10分もあれば手続きが終了。しかも10年間有効のパスポートがとれます。96年に10年間有効で作ったパスポートが昨年の秋に失効していました。詩人の城戸朱里さん夫妻にソウルへ行こうと誘われてパスポートの失効に気づいたのです。
うちの仏壇にある母の写真は千葉県庁でパスポートを作った時に撮影したものです。ついでに言えば父のほうは船舶免許の写真です。
暑い。暑い。暑い。川越駅についたところで、二人の女性が「あ、ここの木を切っちゃったんだ。それで椋鳥がいなくなったのね。夕方になるとここの木に椋鳥が集まってきてうるさい、うるさい。すごい声で鳴いていたものね」と話していました。
パスポート用の写真を撮影。10年前の写真と比べてみると若返っているような気がします。若返っているだけでなく美人になっている。ま、ここまで来たら、そんなに客観的判断が重要とも思えないので、そう思っていたって、どこからも文句はでないでしょう。法政大学の教職員証明の写真よりもずっと良く映って入る気がします。もしお葬式に使うなら、絶対のパスポートのほうで御願いしたいものだなと、一枚余分にとった写真を眺めているうちに審査窓口に呼び出されて、受け取り方法の説明を受けて申請はお終い。
で、表に出るとこれがまた暑い、暑い、暑い。暑い階段を下りてホームにでれば、小川町と森林公園の区間で線路点検のために運転見合わせの電光掲示がありました。あとでわかったことですが、小川町と森林公園の間の線路が暑さのためにゆがんでしまったのだそうです。
急行で池袋に出て、知人への残暑見舞いにシャーベットを届けるように高野で手配して、それから、生春巻きを6本買いました。で、今度は地下鉄で和光市まで戻り、銀行へ行くために駅前の派出所の前をとおりかかると半旗が出ていました。旗竿の先端の金の玉を黒い布で覆い、だんだらの旗竿の途中で日の丸が萎れていました。祝日に国旗が出されているのを見たことはあるのですが、8月15日に半旗が掲揚されているのは、初めてみました。私が迂闊でこれまで気が付かなかったのでしょうか?
半旗という言葉を覚えたのは、小学校一年生の時です。私が通っていた船形小学校では、毎朝、6年生が国旗を掲揚していました。それが、ある日、ずるずると旗竿をすべり落ちて、半分くらいのところでひっかかっていました。朝礼の時、校長先生が、校長の名前は忘れてしまいましたが、白い頭が五部刈りにした痩身の先生でしたが、その校長が声を荒げて「ああいうのは半旗と言って、国全体が喪に服するときにだけ掲げるもんだ」とものすごい勢いで怒っていたのです。学校に半旗を掲げるなんて縁起でもない!」とかなりのお怒りでした。それ以来、半旗というものを見ると、怒る校長先生の頭が浮かぶのです。なぜか顔を思い出せません。きっと一年生で背が低かったので、頭だけを見上げていたのでしょう。白い頭を振りながら怒ってました。
で、8月15日の半旗ですが、思い出す限り、記憶にないのです。いったいいつから8月15日に半旗を掲げるようになったのでしょうか?派出所の前には、日に焼けたお嬢さんたちが集まって、椋鳥よりも騒がしくおしゃべりをしていました。どうも、どこか外国へ旅行に行って帰ってきた高校生の集団のようでした。
678 20070812 緑の中を 初めてかな?夏の箱根は?小田急のロマンスカーで箱根に行くのはもちろん、初めてではありません。これまで何度も何度も行ってます。でも、夏休み、それもお盆休みで混雑する土曜日、日曜日なんていう日程で出かけたのは初めてかもしれません。今年の春、法政を卒業したゼミ生が誘ってくれました。
「お湯の中にアブがいました」
旅館に到着早々に露天風呂にでかけたM君とS君それにK君N君がそう言ってました。男湯の話。女湯のほうは油蝉が二匹のびていました。緑の滴るような露天風呂はなかなか結構でした。それにしても、夏は緑が鮮やかでした。色彩豊かの野山の向こうに青い海が見えました。これまでロマンスカーから海が見えるのに気づかずにいました。
677 20070802 台風はUSAGI 九州に上陸した台風5号のアジア名はUSAGIだそうです。明日あたり関東でもUSAGIさんが大暴れするのでしょうか?今日の東京はおそろしく蒸し暑い日でした。
研究室にまず深野女史。それから新聞連載のアシスタントを御願いしている朴さん。朴さんと打ち合わせを始めたら、題字を作ってもらっている長谷川さんから電話で、静岡新聞のメルアドを問い合わせてきました。一瞬、どうしようかと戸惑ったのですが、朴さんがメルアドを知ってました。ついでに研究室のパソコンへ題字を送ってもらいました。そこへプリンターを設置にきたつくまさん。プリンターを設置してもらい、さっそく題字をプリントアウトしました。
と、ここまで書いて、あの題字を自宅のほうのパソコンへ送ることができるのかしら?という疑問。きっと添付ファイルにすればできるのでしょう。だとしたら、ねえ、豆ちゃん、新聞と同じロゴをトップページに出すことは可能かしら?あとで豆ちゃんのメールを出して聞いてみようって、その豆ちゃんはどうやら大阪へ繁盛亭の視察に行っているみたいです。USAGIの大暴れで新幹線が止まらなければいいけど。
そういうわけで、いつになく、大掛かりな連載の準備が、いつものごとくぎりぎりばたばたで進んでいます。USAGIさん、どうぞお手柔らかに。
676 20070724 めいめい鳴かない羊椅子 羊椅子が届いたぞ! これがかわいい。さっそく玄関におきました。靴を履くときって、ちょっと腰掛けたいでしょう。そうじゃないと、とんとんってつま先をぶっつけて履いたりしちゃうじゃないですか。ちゃんとした靴屋さんには腰掛けるスツールがおいてあるし。
どうやら羊椅子は研究室に行かなくて済みそうです。なんとなく、めえと鳴きそうな感じ。かわいい子羊ってところです。そんなのに座るのは(とくにその体重で)かわいそうじゃないかって言われそうだけど。ま、いいや。
靴は履いて、靴紐を結ぶにはやっぱり玄関に椅子が必要です。マンションの玄関は段差が低いから、玄関そのものに腰掛けるってわけには行かないので、ちょうど良い椅子を探していたのですが、これがなかなか、大きさと形がうまく治まるのがありませんでした。へたをすると単純に物置状態になってしまうという危険も椅子にはあります。羊椅子ならその点、物置にするには可愛すぎる! ということになるといいなと思っています。
ところでその羊椅子の組み立て説明書を読んでいたら、一度、ねじを締めてから、二週間後にもう一度ねじを締めなおして下さいとありました。へえ、そんなものかと思いましたが、これってすべてのねじについて言えることなのでしょうか?
675 20070721 豆ちゃんがきたぞ! ずっと牛丼パソコンからスタッフルームにはいれなくなっていましたが、今日、豆ちゃんがやってきて、スタッフ・ルームにはいれるようにしてくれました。これでスタッフ・ルームにはいれます。わい、万歳。万歳。
で、それから豆ちゃんと池袋へ。イルムスでかねてから欲しかった羊椅子を買いました。
「へへへ。これに座って洗面台の前で歯を磨くの」
「どうしちゃったんですか?」
「どうしても羊椅子が欲しかったの」
念願の羊椅子は、毛がついたままの羊の皮を張ったスツールです。うちの子供たちは購入に反対!。豆ちゃんの一言が購入の踏み切り板になりました。
「じゃまだったら、研究室に持っていっちゃえばいいんじゃないでしょうか」
そうだ!。羊椅子を研究室においたらきっと気に入ってしまうだろうという学生の顔が二、三人浮かびました。でも、研究室には持って行きたくないの。羊椅子に座って、洗面台の前で歯を磨きたいの。
「だからどうしちゃったんですか?へんだな」
どうもこうも、某ホテルで洗面台の前の椅子に座って歯を磨いていたら、すごく気持ちよかったんだもの。
その研究室には最新鋭のパソコンが入りました。本体が30cm×30cm×10cmほどの大きさというのは感動ものでした。しかもマウスとキーボードは無線で動くの。プリンターもごく持ち運びができるほど小さくって、みつけてきてくれたのはつくまさんです。つくまさんは今、大岡信さんにPDの使い方をレクチャーしているそうです。
で、豆ちゃん、この日記を書く欄の文字がものすごく小さくなっているんだけど(実はあまりよく見えてない)これはどうにかして直すことができるのでしょうか?
674 20070719 品川とお台場沖 品川から船に乗って、お台場まで行きました。屋形船です。法政大学教員の懇親会です。品川は電車のなかからたいへんな変わりぶりだなと眺めていましたが、実際に降りて歩いてみると、なんだか建築模型の中にいるみたいでした。昨年、大原に建てている家がSDレビュー展に入賞したときに、いくつかの建築模型を見たのですけど、なんか、そのまま、でかくなった感じ。
空中回廊というのか、駅から周囲のビル群の中に歩廊が延びていて、哲学の先生がふあふあ浮かんでいるみたいだって言ってました。哲学の先生に「地に足がついてない感じがする」って言われるとなんか変な感じがしました。「路地裏の哲学」とか「空中回廊の哲学」とか「線路の哲学」なんて連作短編を書いたらおもしろそうだなあとちょっと思いました。品川のそのあたりは完全に人と車を分離した設計になっています。歩く安くて快適ですけど、品川にいる気がしないって、ちょっと思いました。
品川までくると、ああ、ここで御江戸も終わりって、自動車はややスピードを上げ、排気ガスの中によどんだ潮の匂いが混じり、寒々しい感じが夏でもしたものでした。懇親会は屋形船と聞いて「大川」だと思い込んでいました。柳橋あたりから船で出るものと。で、品川と解ってややあせりました。そんな遠くになって飯田橋から行くんだろうって。柳橋ならまだ公方さまのお膝元だけど、品川じゃあ、もう公方さまのお膝元じゃないって思うのは、もう古いのは重々承知です。
で、日が暮れてからお台場沖にでました。いつも思うんだけど、お台場の自由の女神は、陸地のほうを向いていて、海に背中を向けているのはなんかへん!
フジテレビの見える海の上は赤い提灯を並べた屋形船だらけで、夜だというのにかもめがたくさん飛んでました。大胆にも人間の頭上すれすれを飛ぶかもめさえいました。かもめって、鳥目じゃないのかしら?お台場沖って言ってもビルの明かりに取り囲まれた池みたいな感じです。ただ船底に海のうねりがどおんと当たるときだけ、海の上にいるんだという実感がわきます。
お台場そのものは埋め立てられて、なくなっちゃたのかと思い込んでいたら、ちゃんとまだあるんですね。
黒船が来た時は、急造のお台場に石灯籠を横倒しにして大筒に見せかけ、幕府は諸大名を江戸城に集めるのに火事装束にするか戦装束にするかで、延々と評定を続けて、結局、火事装束で集合させたなんて話を思い出しました。
加藤清正が伊豆から江戸城の石垣のための石を運んできたときには品川なんて、遠浅の海岸が広がっていただけなんでしょうねえ。
673 20070715 アジアンタム 南側のベランダは以前はとても日当たりがよかったのですけれども、今は隣に建物が建ってしまったので、日陰になっています。それだけじゃなくて、風の通り道にもなっています。あんまり大きな声では言えないけれども、バスタオルを干した物干し竿が、まるごと一本、飛んでいってしまったという椿事も起きています。
人の頭にでも当たったら大怪我ではすまないかもしれないと想像するだけで「クワバラ クワバラ」でした。
で、その縁側にアジアンタムの鉢を置きたいなあと5月頃からずっとそう思っていました。アジアンタムは葉っぱがしゃらしゃらした羊歯ですが、羊歯だから日陰がいいの。でも このごろ、アジアンタムはそんなにたくさん売ってません。どっかで見つけてこなくちゃ、あるいは花屋さんに御願いして、どこかの市場から引いてきてもらうかしなくちゃとなどなどあれこれと考えているうちに夏が終わっちゃんだろうなとあきらめかけていたら、昨日、アジアンタムの大きな鉢を花屋さんでみつけました。とりあえず、一鉢、買ったけれども、もう一鉢欲しいなあと、いやさらにもう一鉢、あるだけ買ってきちゃおうかな……。外は台風なのに、なんだかアジアンタムが欲しい。湿った羊歯の茂みに隠れちゃいたいような気分。これはまたどうしたことでしょう。
4月に買ったデジタルカメラはまだ使い方がよくわかりません。というか、マニュアルを読む気がしないままになっています。で、今週は法政大学のほうの研究室にパソコンが入ります。今度、パソコンの設置を助けてくれるのはつくまさんです。で、またマニュアル読むのが面倒でそのままになっちゃうのかな?ああん、やっぱり羊歯の茂みに隠れちゃいたいよ。何?お盆だからそんな気分になるんだって。そうだ東京は東京お盆でした。
672 20070706 なんで「です ます」体を使っちゃったのかな? 「豆の葉」を書き始めるときに、なんとなく「です、ます」体を使ってしまいました。で、時々、それがうっとうしいような感じがしてしまいます。自分でもなぜ「ですます」体を使ってしまったのか、よく思い出せないのです。最初は、もっと素朴なホームページでしたから知っている人が見ているだろうくらいの軽い気持ちで「ですます」体を使ったのかもしれません。
大学一年生で原稿料がもらえる原稿を書き始めた頃、不特定多数の人に向けた原稿を書くのにとまどいを覚えました。「豆の葉」は、そのとまどいを思いださせるようなところがあります。今日は「すばる」8月号のすばるカフェ欄に韓国から東京に滞在中の姜英淑さんがエッセイを書いていることを書こうとして、なんだか「ですます」体では書きにくいなあ、いや「ですます」体ではなくて「だ だった」体を使おうかなと迷っているうちに、なんで「ですます」体を使っちゃったんだろう? とまたまた「???」になっていました。
以前は「豆の葉」も時折、「ですます」体ではなくて「だ、だった」体を使っていました。これからも時々「だ、だった」体を使うと思います。ちゃんとフォルムがある文章を書こうとすると「だ、だった」の語尾を用いたほうがしっかりとしたものが書けるのですが、ばかみたいにタイプするだけの時は「ですます」体のほうがごまかしが聞くのです。
671 20070704 新潮文庫の背 新潮文庫にカバーがかかったのはいつごろだったかな?と考えてみたのですが、思い出せません。まだパラフィン紙を使っていた頃もちょこっと覚えています。母がスポンジケーキを焼くときに、あれを使えないかしら?と言い出したことがありました。ううん。やっぱり本棚の中にずっとおきっぱなしにしてあると、パラフィン紙も弱くなって、しかも茶色く変色しているし、埃もかぶっているしで、さすがにケーキには使えませんでした。
見慣れたはずの新潮文庫の背ですが、作家によって色が決まっていると言われてみると「あ、そうだった」と気づく感じでした。みんな違う色というわけでもないのだそうです。あいうえお順に並んで隣同士にならなければ、同じ色を使うこともあるそうです。で、背の色が決まるのは二冊目から。一冊目はどの人も「白」の背を使うそうです。というわけで今回「うさぎとトランペット」ではいくつかの候補の色から背の色を選ばせてもらいました。選んだのは「洗朱」という色名の色です。「楽隊のうさぎ」もこれまでは白でしたが、次回の重版から背は「洗朱」に変わるそうです。へえ、そんな決まりがあったのかと感心。本屋さんで年中眺めている新潮文庫ですが、そんな決まりがあったとは知りませんでした。
カバーの背には短い紹介文があります。これを読んでいるとなかなかおもしろいのですが、パラフィン紙のカバーから今のカバーに変わった時には大量の紹介文を書かなければならず、担当者はものすごく苦労したそうです。確かに出版点数を考えると、これは突然、大量の仕事が降って湧くような出来事だったでしょう。
背の色は「白」がいいという作家ももちろんいるわけで、その場合は背に載る文字の色が墨から別の色に変わるそうです。そういう目で一度、新潮文庫の棚を見てみたら、それはそれでおもしろそうです。
670 20070703 うさぎとトランペットの文庫がでました。 「うさぎとトランペット」が新潮文庫に入りました。解説は文芸評論家の日比勝敏さんです。この解説がすごく良い解説で、日比さんに感謝しています。親本には解説はないので、文庫はこの解説を読むだけでも価値があると思います。装丁も親本と少し違った雰囲気になっています。どうしたことか?アマゾンではまだこの本の表紙の画像がありません。出版点数が多いので、画像のアップがまにあっていないのかもしれません。
メディア・パル社で「大人になるヒント」という本を作っています。法政大学の06年度の中沢ゼミ卒業生に中学校時代の話をしてもらいました。それに私がコメントをつけるという形式の本です。これも最終の原稿を入稿中で、もうすぐ新刊のご案内ができると思います。ゼミ生に中学時代のことを聞いてよかったなあと思っています。中学生って、今、この時代に生きるための工夫をものすごく試行錯誤しながらしているんだなということが実感として伝わってきました。
静岡新聞、熊本日日新聞連載の「ジュリアおたあ異聞」ですが、8月23日スタートと決まりました。こちらのほうはこれから急ピッチで、入稿をしていこうと準備をしているところです。挿絵は宮本恭彦さんです。宮本さんには、舞台となる熊本の宇土などをスケッチしていただくなどの、準備をしていただています。この仕事を私はこれまでにないほど楽しむことができそうだという予感がしています。
昨日「法政文芸」3号を責了にしました。「法政文芸」は一年に一冊、法政大学の文学部日本文学科で発行している文芸誌です。編集は法政文芸編集委員会というかたちで学部学生の皆さんにやってもらっています。3号の編集長は私です。特集は「ヤングアダルト」です。笹生陽子さんのインタビューをはじめとして充実した内容になりました。途中、麻疹休講などもありました。
669 20070624 サンダルとマニキュア 眼科騒動のおかげで、おあずけになっていた美容院に行ってきました。梅雨時は髪が湿気を含んで、なんだか妙な具合に曲がりくねってしまいます。天然パーマといえば聞こえがいいのですが、ちょっと伸びてくると昔の漫画のベティさんもしくはサリーちゃんのパパ状態。つまり外側に跳ね返ってくるのです。これが嫌。嫌で嫌で仕方がない。
美容院でぱぱっと髪を切ってもらってから向かい側の松屋デパートへ。ぬめ革と金色のバックルがついているサンダルを買うか買わないか。エスカレーターをあがったところに展示してあって、ずいぶん前から目をつけていたのですが、あ、イタリア製なんだ(つまり高いってこと)というわけで迷ってました。で、買っちゃいました。現品限りというわけで、最後の一足でした。サンダルを買ったんだからマニキュアを買わなくちゃと化粧品売り場へ。ラズベリー色(店員は血豆みたいな色って言っていました。そっちのほうが正確。)のマニキュアを買いました。
「足はそれでいいけど、シックだし。手はまずくない? もうちょっと明るい色にしないと、あれ、手だけおばあさんだ」というのは息子の意見。さらに
「去年もおなじことを言った気がするなあ」
と考え込んだ挙句に
「そうだ、そう言ったらへそを曲げて足をインクみたいな色に染めちゃったんだ」
あ、そうでした。去年と確かにおなじ失敗をしているのを思い出しました。でもまあ、いいか。最後の一足のサンダルが買えたし(一週間、待っていたらバーゲンで買えたかもしれないけど)ぶつぶつ、ぶつぶつ、言っている夜中です。
668 20070621 おつきさまがひとつに見えていた頃 どうも左の網膜に何か問題があるらしいということがわかってきました。何か問題があるというよりも、過去に何事かが眼の中でおきていたみたいです。左の網膜にはその痕跡があるということでした。で、もうちょっと原因を追究してみると医師は言ってました。なんだかひよこ豆を連想させる、やわらかい顔をした女医さんです。まあ、でも、治らないみたい(ちょっと落胆)
そういうわけで、おつきさまがひとつに見えたいた頃がなつかしいです。もっとも、今も右目だけで天を仰げばちゃんとお月様がくっきりとした輪郭で浮かんでいます。左眼の異常に気がついたおかげで、いろんな人と月や星がどのように見えているのかという話をしました。けっこういろんな見え方があるのだということがわかりました。花火のように光が広がってみえる人もいれば、輪郭がぼんやり滲んで、いつも朧月という人もいました。世界はひとつじゃないんだなあという感じでした。
しばらくはパイレーツオブカリビアンでも聞いてがんばるか。海賊は片目だから。ゼミのK君はジョニー・デップのある一瞬の表情を見るだけでも価値がある映画だといってました。
667 20070616 パイレーツ・オブ・カリビアンのテーマ曲 パイレーツ・オブ・カリビアンのテーマ曲を聴いていると片目でも働けるような気がしてくる。
666 20070613 井上眼科 どうも左目がかすむ。満月が三つに見えるというので四谷のアサクラ眼鏡で検眼をしてもらいました。すると左と右の視力の差がありすぎるうえに、左はレンズで補正をしてもほとんど視力が上がらないということが判りました。で、これは眼科に行く必要があるということになり「どこかにいい眼科はないかしら」と知人に聞くと「御茶ノ水の井上眼科があるよ」という返事でした。
昔からある有名な眼科だそうです。で、行ってみたらこれがほんとうに大病院でした。診察室だけでも20以上もありました。へえ、こんなに大きな眼科があるんだと、びっくり。これがまた眺めの良いところにあるのです。ニコライ堂の隣の新御茶ノ水ビルの19階と20階。このあたりは高台で、東京の東側を一望のもとに眺めることができます。しかも目の悪い患者さんのいる病院ですから、すべての表示が大きくてわかりやすいのです。眼科じゃなくても、こういうふうに判りやすく表示して欲しいものです。
で、なんだ左目だけがかすんでいるのか?この原因はわかりませんでした。来週、造影剤をいれて眼球の裏側の血液の流れを観察しますと言われました。はて、なんだろう?
665 20070610 私の後姿 青森に姜英淑さんと行ってきました。 665.jpg
664 20070609 から馬 今日で東京競馬場の競馬は終わり。来週からは函館、阪神です。東京競馬場の入り口(西門)で函館の宣伝をしていました。おめあてのレースは東京ハイジャンプ。障害競争です。知人と待ち合わせて4レースのパドックを覗いて馬券を買い、馬場のほうへ出てみると、あれ? あれ? なんとから馬が一頭、返し馬に混じって走ってゆくではありませんか。あとから騎手も走って行く。おや、おやです。馬が走って行ったあとだと、人間が小さく見えること。
で、おじさんが野太い声で野次を飛ばしてました。
「がんばれ!東京競馬場の直線は長いぞ!」
そりゃ、そうでしょう。もちろん人間の足では馬に追いつくはずもなく、騎手は走ってきた救護車に乗せてもらっていました。から馬で走っていったほうの馬も無事。障害レースは落馬がかなり出ることがありますが、障害の前の平地競馬のレース前に落馬ってのは珍しいことがあるものです。
今日は珍しいことがもうひとつ。万馬券とっちゃった。と言っても100円馬券ですけど。枠で買った万馬券ということじたいがかなり珍しいと言えば珍しいのです。昨今は馬連とか三連単とか万馬券どころか百万馬券も珍しくはないのですが、私は万馬券は初めて。へへへ(笑)なんとなくね、一番人気が信用できなかったのでばらした馬券を買っていたのでした。言うなれば保険の勝利。
で、障害レース。障害に出る馬は平地競馬の馬よりも年をとっています。今日のレースに最年長は10歳。人間だったら40歳くらいの馬でした。で、若い馬できれいな馬がいて、とっても気になっていたのですが、あんまり早くはありませんでした。5歳だからこれからまだ走るでしょう。例によって(?)一頭、騎手が落馬して馬がいて、から馬のまま、ちゃんと障害を飛んでいました。空が曇って、時折、雨粒もぽつぽつ落ちるお天気だったせいか黒鹿毛の馬が妙にきれいに見える日でした。
663 20070601 椿事 「鍵が開かない!」
いえ、私の家ではなくて、ご近所なのですが、郵便受けで郵便物をとって、家に戻ると鍵が開かなくなっていたそうです。私はちょうど買い物から帰ってきたところで、どれどれとばかりに鍵穴に鍵を入れてみました。通常はすっぽりと入る鍵が3分の2程度しか入りません。鍵穴になかか詰まっているみたいです。
いたづらをされたのか、それとも中に人が入っているのか、突然のことに、いろいろ想像をめぐらしてしまいました。どうしたらいいんだろう?です。ふだんならすぐマンションの管理人さんを呼びに走るところですが、あいくに管理人さんも不在。しかたがないので管理会社に電話をしてみました。すると鍵屋さんを紹介してくれたのですが、鍵屋さんが到着するまでには1時間以上かかるという話でした。
鍵をあけてもらうための救急の鍵屋さんがいるなんてことを始めて知りました。鍵が開かなくなったのは夕方でまだ明るい時間でしたが、これが夜中だったら、と創造すると、「ああ」と思わず絶望的に気分になってしまいました。我が家などは親子でそろいもそろって深夜帰宅なんてこともありますから、三人分の居場所を確保するだけでもひと騒動になるに違いありません。あるいは悪い想像をして気が動転してしまうかもしれません。
一時間ほどして鍵屋さんが到着。なにやらライト尽きの虫眼鏡のようなもので鍵穴を覗きこみ、それから細い針金で作業をすると、鍵はすっと刺さって、すぐに開きました。鍵穴の中で、小さな針が絡まっていたそうです。鍵穴の中の針そのものに傷がついて絡まる場合もあれば、誇りなどのごみが入って絡まる場合もあるそうです。鍵屋さんの話では電気製品と同じで、鍵にもあたりはずれがあって、故障しやすい製品が多くの製品の中に混じっている場合もあるとのことでした。
それにしてもなあ。鍵が突然にあかなくなるのはなかなかの恐怖です。
662 20070531 まだ雪をかぶっている八甲田山 青森の八甲田山はまだ白い雪をかぶっていました。今年は平地では雪が少なかったのですが、山の雪は多かったとのことでした。7月のはじめころまで、八甲田山は雪をかぶっているという話です。
27日の日曜日、八戸は冷たい雨が降っていました。気温は8度もしくは7度という発表でしたが、体感温度はそれ以下の感じです。身体が暑さになじんでしまっているので、とても寒く感じま。青森県の太平洋側では「やませ」と言って夏の寒さがひどいのです。「やませ」を体験するのが二度目ですけど、やあ、寒い、寒い。翌日はよく晴れました。晴れると陽のあたっているところは真夏です。でも木陰などに入ると、ひんやりして、この冷たさは独特です。青森側から見る八甲田山もいいものですが、八戸側から見る八甲田山もなかなかです。山ってみる角度でぜんぜん表情が違います。
八甲田山の中腹あたりでは、もう新緑が燃えていることでしょう。今週、法政大学の客員研究員として日本にご滞在中の姜英淑さんを青森にご案内するつもりです。
韓国では紅葉狩りを楽しむ習慣があり「丹楓観光」(タンプンカンジュ)と言います。青紅葉という言葉をうまく韓国語でも、英語でも伝えられなかったの「タンプンのこども」という言い方をしたら姜英淑さんが大笑いをしていました。八甲田山のぶなの林は世界遺産になっていますが、新緑の季節に訪れるのは久しぶりです。
661 20070527 情報機器 最初にパソコンを購入したのが95年でした。まだ日本語のヤフーのサイトもありませんでした。なんとなく便利そうな、でもどんな実用性があるのかわからない玩具みたいな道具という印象でした。携帯電話を持つようになってから8年目。カメラ付きなんていらないや!と思っていたのに、そろそろカメラの機能が高い携帯を欲しくなってます。もしパソコンがなければ、カメラ付き携帯が欲しいなんて思わなかったかもしれません。
木曜日から、それらの情報機器が大活躍。と言いたいところですが、ちょっと機械に振り回されている感じです。地下鉄で移動中に大庭みな子さんが亡くなられたことを知らせてもらったのは木曜日の昼頃。3コマの授業をして、法政の80年館の受付で「休校措置ですね」と受付の人が電話応対をしているのを小耳に挟んだのが夕方でした。一緒にいた深野女史と「あれはきっと多摩キャンパスが休講になったんだ」と話しながら富士見坂を下って、軽子坂の軍鶏料理屋へ。姜英淑さんと韓国から来た5人の女性作家に安宇植さんを交えて会食中に「やっぱり多摩キャンパスは休講でした」という携帯メールが深野女史からありました。で、その間にもいくつかの新聞社からの電話があったのですが、「はしか」休講と大庭さんの件が入り乱れて、だんだんわけがわからなくなってきました。
金曜日の午前中、静岡新聞の志賀さんから携帯に電話。「大庭さんの追悼文を書くんでしょ?」という質問で「いや、いまやってます」と大慌て。共同通信に約束した原稿でした。で、なんとか午前中にこの原稿を仕上げ、共同の金子さんとのやりとりは急いでいるので家デン(家の固定電話を子どもたちはそう呼んでいます)とパソコンと携帯を駆使しました。なんとなく「市ヶ谷もなあ……」という感じで学校に出てみると、とりあえずは無事。帰りはなぜかぶらぶら歩いていた坂本先生と出っくわして、ちょっと一杯。
土曜日の朝、家を飛び出して羽田から青森に飛びました。深野女史からは「慶応が休講になりました」の情報が携帯のメールに入ってました。もし法政が休講になったら深野さんに知らせてもらうことになっていました。月曜日の授業がある長谷川先生には、休講措置が出たら私からお知らせするお約束になっていました。青森で空港を出てみると、長谷川先生の伝言が携帯に入ってました。「法政が休講になったそうです」そこで深野女史にメールをしてみると、まだ法政の休講の連絡は入っていませんでした。約束していた手はずとちょうど逆になったかたちです。で、それから、携帯メールが大活躍。授業以外の予定をどうするかという相談メールがあっちこっちに飛び交いました。最後は八戸のホテルでノートブックパソコンをネットにつないで予定の再確認。やれやれ。もし情報機器がない時代だったら、月曜日の飛行機で東京に戻って、学校の正門で「へえ、休講になってたんだ」と驚いていたことでしょう。
いいんだか。悪いんだか。ちょっと複雑な気分。いずれにしてもくたくた。
660 20070521 日芸も全学休講だって 日芸の夫馬先生のMIXIを見ていたら日芸も全学休講ななのだそうです。にわかには信じがたくて、日芸のHPを覗いてら、ちゃんと休講のお知らせがありました。日大の文理が休講になっていたのは知ってましたが、場所は世田谷の桜ヶ丘なので、江古田とは離れているから「まさか」でした。
ええと人間と一緒にしてしまってはまずいかもしれませんが、昨日、東京競馬場へオークスを観戦しに行ってきました。毎年恒例になっている中央競馬会のご招待です。で、オークスでも桜花賞の一着馬と二着馬が発熱のためにレースに出られず、混戦模様でした。それだけレースそのものはおもしろかったのですが、ううん?これはいったいどうしたことでしょうか?
吉行和子さんと初めて御話をしました。オークス懇親会のおなじテーブルに吉行さんがいらっしゃったのです。私はこれまでパーティなどでお姿は何度も見ているのですが、御話したことはありませんでした。私が幼稚園の頃、NHKのお話のお姉さんをしていて、その頃からの憧れの女優さんなので「恐れおおくて」お話もできなかったのですが、吉行さんから御挨拶されて、びっくり。あと高橋洋子さんは一年に一度、このオークスの懇親会でお目にかかるのですが、ぜんぜん変わらないのです。女優さんと政治家ってのは、近くでみるといつも不思議だなあと思います。
それで「はしか」なんですけど、法政大学はどうなっているんでしょうかねえ?私が知っている限りみんな元気で「はしか」の「は」の字も見える様子がないんですけど。
659 20070519 横須賀美術館 浦賀水道は世界でももっとも交通量の多い海域と言われていますが、横須賀美術館は、その浦賀水道を見下ろす走水にあります。観音崎とすぐ下と言ってもいいかもしれません。07年(つまり今年)4月28日にオープンしました。道路からなだらかな芝生の斜面があり、そこに新しい建材を多様した白い平屋の美術館があります。空と海との間にある美術館という感じです。平屋と書きましたが、実は地下は3階まで広がっていて、館内に入るとかなり広々とした空間が広がっています。
景観のじゃまにならない建物。あるいは景観を一体になる建物という設計です。開館記念の展覧会は「生きる」をテーマにした現代作家のグループ展です。
グループ展の出品者のお一人で、「うさぎとトランペット」の新聞連載時の挿絵を描いてもらった小林宣孝さんのアーティストトークを聞きに行きました。日本にいるときは潜水艦を書いていた小林さんは、バンコックへの留学をきに「お皿」を書き始めます。それから「枕」を書き始めます。お話を伺っていると人の気配が感じられるものから、しだいに人そのものを描くようになってゆくプロセスがよくわかりました。「うさぎとトランペット」のころには「眠っている人」を描いていて「私を夢見る私」や「小さな死」というタイトルが絵についていました。「うさぎとトランペット」の連載一回目で宇佐子がぱっちり目を覚ますところを描いていただいたのを思い出しました。最近の個展では髭おじさんを正面から描いたポトーレイトが印象に残っています。
アーティストトークが終わったあと、横須賀美術館の館長の原田さんも交えて、テラスでしばらく御話をしました。浦賀水道を行くタンカー、貨物船、客船、などなどさまざまな船を眺めながらのお茶でした。レストランは六本木に本店があるイタリアンレストランだそうです。おなじテラスで犬のバグを連れた人がお茶を飲んでいました。バグは暑さでちょっとお疲れぎみでしたが、レストランのボーイさんから、タッパーに水を入れたものをもらって満足そうにしていました。ボーイさんがテーブルのお客さんに水を持ってくるついでに、犬にも水を持って来てくれたのでした。ちょっといい感じの眺めでした。でも夏になったら、ものすごく混雑しそうな美術館でもあります。
658 20070514 方の会 市川夏江さん 銀座のみゆき館劇場で方の会の「文の屋の女たち」を見てきました。昭和の初期の遊郭の物語です。10歳になるかならないかの女の子が、郷里の親からお金を無心される場面で、主人から「一度、田舎に帰って家の様子をみてきてはどう?」と進められる場面で、家に帰らずに借金を増やすことを承諾する場面は、なぜか、今この時代でもああいうことはあるよなあという気がしました。もちろん、娘の身売りなんてことはないのですが(表向きないことになっているとも言えますが)子どもは親のむたいな要求に黙って応じてしまうことがあります。昭和の初期の遊郭なら、それが親のむたいな要求だと誰にでも判りやすいのですが、今の時代では、ちょっと判りにくいかたちで、そういうことがありそうです。例えば「良い私立中学に入れ」というような要求だったりと言うと、お金の無心するのとは違うと言われそうですが、無条件で頷く子どもの心根はあまり変わりがないところがありそうです。
脚本は座長の市川夏江さん。舞台では文の屋のやり手婆を演じています。花魁が一人、殺されたのか、自殺したのか、ともかく部屋で死んでいるのが見つかったというところから始まり、死んだ花魁の身の上が徐々に明かされた行くという芝居です。最後にやり手婆の独白は前述の無言で頷いた少女の心理と響き合って、品の良い美しさが漂っていました。古い時代の物語ではあるけれども、最後の独白を聞いていると、時代の新しい古いでは分けられない人間のプライドについて聞かされているようでした。
銀座のみゆき館劇場はビルの地下にある小さな劇場です。芝居が終わって階段を上っていると、舞台を終えたばかりの市川さんとばったり出会いました。
「あ、米元さん」
顔を見て、私のことをすぐに思い出していただけたようです。米元は私の母の旧姓です。市川夏江さんと私の母は中学、高校の同級生でした。
「そうです。その米元の娘です」
そうご挨拶しました。親族を除けば、母が生きてこの世にあったことを知っている人も少なくなりました。ましてや娘時代のことにまで遡って知ってい人はほんのわずかです。母が亡くなってからもう27年になります。生きていればと、ちょっと母の年齢を数えたりしました。いつもお芝居の案内をいただいても、なかなか伺えないのですが、行くだびに、なんだか若々しく、品良く、美しくなられる市川夏江さんです。
657 20070512 ややや、上智大学は全学休校だって ネットで「はしか」のために、上智大学は全学休校に入っているというニュースを見つけました。上智大学と言えば、私が勤務している法政大学とは、お堀伝いにお隣どうしのようなものです。電車の駅も飯田橋・市ヶ谷と四谷は並んでいます。ということは……。
前兆というのか、大学院生が次々とおたふく風邪とかはしかなどの子どもがかかる感染症にかかったと聞いて驚いたのは、昨年の夏休みのことでした。そのときの説明では、大学院生は学習塾や予備校など、若い人が多い場所でアルバイトをしているので、そういう場所には子どもがかかりやすい感染症の菌がいっぱいいるんだという話でした。菌の濃度が高いので、大人(この場合は大学院生)も感染しやすくなるっていう話だったのです。
連休前にやはり大学院の講義の途中で「首都圏ではしかがはやっているみたいですよ」という話題が出ました。そのときは何気なく聞いていました。春から晩春、初夏にかけては感染症の季節で、子どもが保育園に通っていた時には、毎年、なにかしらの感染症で登園停止になっていました。そういうふうに病気をしないと免疫力がつかないのですが、それが判っていてもそのたびにあわてふためいていました。
大学が「はしか」で全学休校になったなんて話は初めて聞きました。全体に免疫力が低下しているとか、あるいは、感染症の菌のほうが強力になっているとか、そいう変化があるのでしょうか?
656 20070510 びっくり、びっくり。 ここのところずっとパソコンをいじっていました。いや、私がいじっているのではなくて、ここ(豆畑の友)の管理人の豆蔵さんとうちの息子がいじってくれていました。で、これから始まる新聞連載に備えるという意味もありました。その新聞連載ですが、はじまりは8月頃にずれ込みそうです。
で、ここ二日の間に、二度びっくり。最初は牛丼パソコンがネットにつながらなくなってしまいました。ああ、これはえらいことだ!うちの馬鹿息子はなにをやらかしたのだ!考えるよりも先に怒りがこみ上げてきました。なんか、私の頭の中では我が息子が中学生で成長を止めてしまって、(ほんとうはもうちょっと分別のある25歳なのですが)それで、きっと何かの作業を中途半端に投げ出したに違いないと腹を立てたのでした。
結果は牛丼パソコンとモデムのラインがつながっていないという単純なもの。しかもよくよく思い出してみるとラインを切ったのは私でした。
二度目のびっくりは、これまた牛丼パソコン。今度は電源が入らないのです。スイッチを押してもおしても真っ暗のまま。あの特徴的な唸りも聞こえてきません。うんともすんとも言わないのです。これまた、電源のコードが抜けていました。なぜ抜けたのか?その原因はわかりませんが、息子に言わせると、セットアップのために本体を動かしていたから、ゆるんだのではないかということでした。ううん。名前がなあ、名前が名前だけにあんまり信用していなくて、すぐ不安になっちゃうんだなあと。こう年中驚かせられるのは、ほんと心臓に悪いです。
655 20070508 うなる牛丼パソコン 前のパソコンがだめになったのは確か二月の末か三月の初めでした。それから、ノートブックPCをしばらく使って牛丼パソコンを買ったのは4月1日。うそじゃないって。うそみたいな日に買ったせいでしょうか? これが唸るのです。牛丼だけに。いや、そんなことはないか。
ぶいんん。ぶいんん。ぶいんんんん。ぶいんんんん。てな具合で、長時間使っているとだんだん音は大きくなってきます。やや不安。音そのものは、私はあまり気になりません。音がしていることが正常なら、なんとなくその音になじんでしまいます。前にぎゃってぎゃっていパラぎゃっていと般若心経を唱えるプリンターを使っていましたが、あれもちょっと好きでした。今のプリンターは静かです。ただ、その音が何かの不具合であることを恐れているのです。仕事の最中にもし「ばきっ」なんて音がして、PCが使えなくなるなんて悪夢以上ですから。今度も前のPCが使えなくなって、なんとか仕事がスムーズにできるようになるまでに、なんと3ヶ月かかりました。
パソコンって早め早めに入れ替えを考えて行かなくちゃならない道具なのかもしれません。牛丼でちゃんと超漢字Vが使えるようになりました。印刷もできればメールも送ることもできます。超漢字の特徴であるたくさんの漢字表記ができるという点は、一年間、歴史小説を書いてみるといろいろな場面で威力を発揮してくれることと思います。もちろん不具合も出てくるわけで、それはそれでおもしろそうだなあって思っています。
牛丼パソコンを買ったのは、もちろん安いということもありますが、ウィンドウズXPを使いたかったからです。家の近所の電気屋のPCはどれもウィンドウズビスタになってしまっていましたから。私にとってこれも何か納得のできない話で、使いやすいOSの使いやすいバージョンを選ぶことができないというのは、なんだか道具としては不親切だなあと感じています。単純な筆記具だともっといろんな品物をいろんなバージョンで選べるのにって、やや、不満を感じているところです。もっとも、その筆記具も最近ではモデルチェンジが早くなっていて目まぐるしい感じがしていますが。
654 20070502 ビロードのうさぎ 池袋のリブロの児童書の売り場の前を歩いていて、ショーウィンドに「ビロードのうさぎ」があるのを見つけました。「ビロードのうさぎ」ってあの「ビロードのうさぎ」かしら?と思わず店内に入ってしまいました。まさしくあのビロードのうさぎでした。クリスマスにプレゼントされたビロードのうさぎ。で、プレゼントされた男の子の良い友達になるのですが、男の子が熱病にかかって命を落としかけます。男の子は無事回復するのですが、ばい菌がたくさんついているだろうビロードのうさぎはそのほかの持ち物と一緒に焼き払われることになるという物語です。
ブロンズ新社というところから出た本で、抄訳と絵は1966年生まれの酒井駒子さんという人です。だから私が持っていた「ビロードのうさぎ」とはまった違う本ですが、買ってしまいました。孫と読むぞ!いや、ちょっと気が早い感じもしますが。この本、うちの子供たちが小さい時に探したのですが、どこにもありませんでした。それから自分の持っていたはずの「ビロードのうさぎ」ですが、こっちは記憶が怪しいのです。どこの版元のどんな本だったか覚えていないにもかかわらず、絵柄の感じがぼんやりと頭の中に残っています。だから、自分の本ではなくてともだちの家で見た本なのかもしれません。あるいは幼稚園にあった本かな?とも考えてみるのですが、それも定かではないのです。どこで読んだのか場所の記憶が消えている本です。子どもの時い読んだ絵本で場所の記憶が消えている本というのは、私にとってはかなり珍しいものです。
池袋へは共同通信から依頼されたコラムを書くために新潮文庫の「室生犀星詩集」を買いに言ったのです。25歳くらいの時に、中学生、高校生の時、読んだ本をいっぺんに処分してしまったことがあります。室生犀星詩集もその時に古本屋さんに売り払ってしまった一冊ですが(集英社のシリーズものの一冊の室生犀星集は売り払わずに今でも持っています)なんだかこのごろ、中学生の時高校生の時に読んだ本をまとめて読みたくなっているのです。ついでに新潮文庫で堀口大學訳の「青い麦」も買ってきました。これも中学生の時に読んだ本。というか、それで小説を書き出したという本です。こちらは週間新潮のコラムのため。表紙が昔と同じ緑色をしていました。それで帰りに「ビロードのうさぎ」に呼び止められたというわけです。この本は2007年の4月に出たばかりの本なのに、どうしたわけか慨視感があります。なんでだろう?
653 20070429 このごろ食べたもの 「あ、そのブッシュを残しておいてね」
午前様、朝帰りを通り越して昼過ぎに家に戻った娘があわただしくまた出かけて行くときに、台所のテーブルの上をさしてそう言いました。
「ブッシュ?はて?ブッシュとは何?」
「ほら、そのブッシュ大統領が喉に詰まらせて死にそうになったパン」
ははん、ビアプリツェルのことか。イラク戦争開始前の話ですから、もうずいぶん前のことになりますが、ブッシュ大統領がプリツェルを喉に詰まらせて気絶するという出来事がありました。ご記憶の方もいらっしゃるのではないでしょうか?娘はそれ以来、ビアプリツェルと言わずに「ブッシュ」と呼んでいるそうです。塩味の乾パンで、「め」の字みたいな形をしています。ブッシュ大統領がこれを喉に詰まらせたときは、イラク戦争反対派が、世界中から、これをホワイトハウスに送りつけたとのことでした。
大阪に行ってきました。新聞小説のために堺の街を半日ほど歩き回ってきました。取材というよりの、まあ、歩き回るだけでしたが。で、大阪土産は例によって「昆布」です。なんで例によってなのかと言えば「昆布は大阪が旨い」という偏見を私が持っているからです。なんだかそんな気がしてます。新幹線に乗るために出た新大阪駅で昆布詰め合わせを買ったのですが、「くぎ煮」も発見しました。「新物 タッパー入り」の文句が。
以前、歌人の道浦母都子さんに聞いた話では、この「くぎ煮」の季節になると、「くぎ煮」にする小魚を生協でも予約をとって販売するそうです。で、それどれの家で甘辛く「くぎ煮」にして、タッパーでよその家にもおすそわけするという習慣があるそうです。
だから「タッパー入り」に意味があるというわけ。
「のぞみ」で東京に戻り、そのまま法政大学へ。助手のF女史は「昆布としいたけは親の敵というくらい嫌い」と判って、ちょっとがっかりしているところへ、昆布大好き女を自認するSさんと小魚大好き男のM君がやってきて、なぜかお弁当を食べ始めました。
そういえば、今年春、卒業したもうひとりのM君が文章表現の先生を唸らせた(感心させた)のも「くぎ煮」の話でした。
大阪へ行く朝のことに話は遡りますが、家を出る直前に宅急便が届きました。かなり重量のある段ボール箱で「はて、何だろう?」とあけてみると、これがたけのこ、たけのこ、たけのこ、大小合わせて、10本もありました。「ややや!」です。
熊本で私が「たけのこ、たけのこ、たけのこ」と騒いでいたのを熊本近代文学館の馬場さんが覚えていてくれて天草に住んでいるご両親から送っていただいた物でした。
「ややや、これは大変だ」
せっかくの掘りたてのたけのこです。早くゆでなくては!しかし、ああ、どうしよう、新幹線に乗らなくちゃと騒いだ挙句に、大きな物二本は近所のとんかつ屋さんにもらってもらうことにしました。で、息子にとんかつ屋さんへのお使いを頼んで、新幹線に飛び乗りました。
残ったたけのこは、翌日の夜、大阪から帰って(法政大学経由です)ちゃんとゆでました。で、おいしくいただきました。鮮度が良いので、ものすごく歯ざわりの良いたけのこでした。
「たけのこのおいしさが判らないなんて、天罰がくだるぞ!」
というのがうちの娘の意見です。
でもまだお礼状を書いていません。馬場さんどうもありがとうございます。ご両親によろしく言っておいて下さい。今夜、かならずお礼状を書きます。ほんとにお礼も言わないうちにおいしく食べてしまってごめんなさい。
池袋の東武デパートにある一保堂に新茶を買いにいったら、新茶が出るのはゴールデンウィークが終わった頃です」と言われました。一保堂のお茶は宇治でも京都に近いほう、つまり北(店の人は上と言ってましたが)のほうの露地で作っているので、出回るのが遅いのだという説明でした。遅いというよりもそのほうが余り前なのでしょうけれども。八十八夜までもうすぐですから。
652 20070423 坂村健先生に会う 久しぶりに、たぶん1年ぶりか2年ぶりか、坂村健先生にお目にかかりました。お元気で、今度はコンピューターの話はなしでもっぱらワイン談義でした。そこで話題になったのが「スシポリス」問題。日本の農水省が「正しい」日本食レストランを認定しようとしたところ、アメリカのマスコミから「スシポリス」と揶揄された一件です。坂村先生は毎日新聞のコラムでこの騒動に触れていて、そのコピーをいただきました。
私も「正しい」日本食を農水省が認定するというニュースをネットで見ていました。農水省は「スシポリス」と揶揄されてトーンダウンしてしまいましたが、正直言って食べ物に「正しい」というのはややずれた発想だなと思いました。食べ物なのだから「おいしい」でしょう。もっとも、農水省が考えていたのは「正統派」の日本食ということのようでした。「オーソドックス」ということでいえば「正しい」よりも「正統派」とか「純粋な」とか「直伝の」とか、いろいろな言い方があったはずです。非難されたら、それは説明の良い機会だと考えるような柔軟性がほしいなあと思いました。で「正統派」の日本食も楽しむし、伊藤比呂美さんのお気に入りのカルフォルニア巻きのような日本食から発生したバリエーションも楽しむという感じを生み出せばいいのです。でも○か×かという発想が裏に感じられたので、なんだかいやだなあって感じがしました。
「オーソドックス」も「バリエーション」も楽しむという点では坂村先生と意見は完全に一致しました。つまり○か×かではないのです。坂村先生も毎日新聞のコラムに書いてましたが、基準というものについての感じ方がなんだか○か×かになってしまいがちです。そう言えば、○×式大学入試の弊害なんてことが言われたのは1951年生まれの坂村先生が大学入試を受けた頃ではないでしょうか?今頃になってほんとうにその弊害が出ているのかもしれません。なんて話にはならずに、話題はひたすらどうやって、さまざまな味わいを楽しむかという方向へ行きました。いや、ほんとうに楽しい一夜でした。ワインの香りについてのお話もおもしろかったし、いかに日本の和食がフランスのニューベルキュイジーヌの料理に影響を与えたかという話題も愉快でした。終いには日本食に造詣の深い外国人を表彰しちゃおうってな話にまで発展。
その日本食、いわゆる和食ですが、大正時代にものすごくフランス料理の影響を受けたのです。時代はめぐっていて、相互に良い影響をしあうというような感じになっているのでしょう。そういう現実の共同作業を役にたって、しかも人を楽しくするような、そういう政策をやってほしいんですけど。無理だとは言いません。きっとこれからいろんな意味で贅沢を知って世代がお役所の上のほうのデスクに座るようになったら実現するでしょう。
651 20070418 ノートブックパソコンを家の外に持ち出してみました。 ノートブックパソコンを家の外に持ち出してみました。実はこれが二回目です。3月にも静岡にノートブックを持って行ったのですが、このときはケーブルを忘れて、ネットには接続せずに、たんにワープロとして使用しただけでした。今度は、豆蔵さんに秋葉原についてきてもらったときに買ったケーブルを持ってきました。
で、なんとなく使ってみているのですが……。やっぱり万年筆とは勝手が違います。ええと、ホテルの部屋に入るとここは原稿が書けるかなって反射的に考える癖ができていて、たとえ原稿がなくても「あ、この部屋で原稿を書いてみたいなあ」と思う部屋があります。居心地の良い部屋です。日本のホテルや旅館はそういう部屋に通されることはめったにないです。たいてい寝るだけっていう作りになっています。で、ノートブックですが、そういう勘? みたいなものがどうもしっくり働きません。まあ、原稿がせっぱ詰まっていれば、どこでもどうにでもなってしまうんですけど……。なんていうのか、マシーンも部屋も、自分の三者三様に戸惑っているという感じです。ま、ちょっとずつ慣れていくしかないですね。とは言え、工業製品というか、電気製品(パソコンの場合はいずれでもあるわけだけれども、いずれと呼んだらいいのか解りませんが)って、なんというか、この「慣れ」ができるまえにモデルチェンジしてしまって、それも戸惑いのひとつになっています。
長く使える物っていうのがだんだんなくなってきていて、自分もそれにならされているようです。着るものがそれで、あんまり長く着なくてもいいやっていう気になっています。それでも気がつくと5、6年は着ているんですけど。
仕事をするために、道具に一生懸命慣れようとすると、だんだんと自分のものの感じ方が変わっていくのに驚いたりしています。物に愛着とか執着を持つほうだったのが、そういう感じ方が薄らいでいくっていうのか、そういう自分の変化を感じます。頑固に手書きの原稿だけでやっていくっていう方法もあることは解っているんですけど。そういう頑固は歳をとってからやればいいやと思っていましたが、どうもパソコンというマシーンは歳をとってからが頑固モードに入ることを許してくれないような予感がしています。あるいはこの予感は的中せずに、技術革新の時期が終わって、ある程度、パソコンの機能が安定してデザイン的な洗練もひと段落して、落ち着くなんて時期もくるのかもしれません。いったいどっちなのだろうかしら?
650 20070413 スタッフルームに入れないよ(泣) 例の牛丼パソコンからスタッフルームに入ろうとするのですが、どうしてもスタッフルームに入れません。気拒否されてしまいます。どうして?どうして?何で?何で?豆ちゃんどうしたらいいんだろう?
ひょっとしてスタッフルームの内側から鍵かけたりしているんでじゃないでしょうねえ?んなことはないか。そういうわけで、もしスタッフルームに書き込みをした方がありましたら、お返事できないのですが、許してください。どうにかして、スタッフ・ルームに入れるようになってみせようと思っています。
あ、もう一台のノートブックパソコンからはきっと入れるんでしょうけれども、そっちはまだ試していません。配線をつなぎ直すのが、ちょっと手間です。
649 20070409 ボタンホールの桜 なんだか騒々しいようなさびしいような今年のさくらが散ってゆきます。さくらは花びらがひとひらひとひら散るのですが、強い風に吹かれると、ひとつの花がまるごと散ってしまうこともあります。散るというよりも花の首が折れるといったほうがいいのでしょうか?
そういうふうに、まるごと飛んできたさくらの花を「ボタンホールにさしてはどうか」とゼミのお花見の時にすすめると前ゼミ長は真面目な顔でボタンホールにさくらの花をさしていました。これがなかなかよく似合うのです。ボタンホールに花を挿すというのは、翻訳小説を読んでいておぼえた手です。ボタンホールでなければ胸ポケット。カットと縫いのしっかりした男性の上着でなかければできない業(わざ)ですね。そういえば、卒業式前の追い出しの飲み会の時には、4年生の男性諸君はそれぞれに違う色のガーベラの花を一輪づつ胸にさして現れました。駅の花屋さんで思いついて、一人一本ずつ買ったんだそうです。なかなかやるものです。選んだ花の色がちゃんと個性とあっていました。
なかなかやるといえば、しょっちゅう、法政のゼミに遊びに来ていた日大OBのN君。今日は卒業式と携帯電話で聞いて「ちょっと待ってて。内緒にして待ってて」と言って、学位授与式のある教室の前に駆けつけたそうです。で、卒業生に一本づつ祝福のバラを差し出したとのこと。これもなかなかやるわい!でした。私は卒業生の皆さんから、オールド・ローズと観葉植物を組み合わせた豪華な花束をもらいました。風の強い日で、花束を持っていると吹き飛ばされそうになりました。気の早いさくらがもう満開というくらいに咲いていた晩です。さくらは年をとった木から咲き始めるのだと聞いたことがあります。あれから二週間。学校の雰囲気はがらりと変わって新入生が右往左往しています。
648 20070408 牛丼パソコン もう一週間も前のことですが、秋葉原に行ってきました。パソコンを買って、デジタルカメラを買ってそれから電子辞書を買って、ええとええとって感じです。
牛丼ってパソコンを買いました。ちゃんと段ボールの箱に「牛丼」って書いてありました。まさか、丼型をしているなんてことはないかしら? とおそるおそるですがあけてみました。黒い小型のパソコン本体です。「並盛り」とか「特盛り」とか「大盛り」なんてグレードがありました。機械音痴の私にこんな怪しげなパソコンを買う能力はないので、豆蔵さんにお供をしてもらいました。昔ね、五木寛之の小説に「男だけの世界」というのがあって、その文庫本を放り出しておいたら、なぜか私の母が猛烈に「くだらないものを読むな」と怒り出したことがありました。そんなに「怪しい」小説じゃなかったんですけど。たぶんタイトルに刺激されたんじゃないかしら? で秋葉原の牛丼パソコンを売っているお店は「男だけの世界」って感じです。売り場をよっく見るとお客さんには男の子以上の男っぽい女の子や、お姉さんも混じってはいるんですけど。
牛丼パソコンはあくまでもパソコンの本体だけなのでOSやアプリケーションは自分でいれなくちゃいけないということで、昨日、豆蔵さんはふたたび我が家に出張してきてくれました。OSがウィンドウズXPと超漢字Vを入れてもらいました。超漢字Xは秋葉原駅前の巨大なヨドバシカメラで買いました。本屋で言うと平積みのような具合になっていて、けっこう売れていました。で、今日、その超漢字を開いてみると、原稿用紙の升目が入った用紙が見当たりません。探し出すのにけっこう時間がいるかもしれません。ウィンドウズのほうはメールの末尾に自分の名前とメールアドレスを入れたいのですが、これがどうしたらいいのか判りません。さらにメールを印刷しようとすると、これもまた駄目。さてどうしたものか?
超漢字はたくさんの漢字が使えることが特徴のひとつですから、歴史小説を書くにはぴったりで(たとえば人の名前なんか、これなしにはできないでしょう)どうしても静岡新聞の連載を始める前に、使えるようになりたいです。超漢字に搭載されている統合辞書もかなりつかえそうなので、なんとしても、仕事に使用できる状態までパソコンを飼いならす(いや牛丼だけに食いなれるかな?)必要があり、ややあせりぎみです。自分のパソコンだけではなく、原稿を受けるほうとの兼ね合いもかんがえなくちゃならないし……
わーい、豆ちゃん、助けてよ!
647 20070406 青森で雪に降られました。 4日午後、東京から八戸まで新幹線で、八戸から青森までは在来線でというルートで青森を往復してきました。
東京駅を出るときにふっと丸ノ内方面を見ると、出来上がったばかりの高層ビルの壁面のガラスに黄色みを帯びた黒雲がもくもくと写っていました。へんな空模様だなあと思うまもなく、青い稲光がぴかぴか、大粒の雨が降り出しました。この雷雨の様子は夜のニュースでもやっていましたけど、黄砂はあまり話題になっていませんでした。ソウルは高校まで閉鎖になるほどのひどい黄砂に襲われていると聞いたばかりですが、東京に雷雨をもたらした雨雲にも黄砂は混じっていたようです。
途中、盛岡あたりはすばらしい夕焼けでしたが、青森では白いものが舞っていました。寒いこと、寒いこと。冷え込みが厳しいのは想像以上でした。翌日の朝にはうっすらと白い雪が積もったそうです。そのころはまだ寝てましたけど(笑)いつだったか4月20日ころに北海道で雪に降られて震え上がったことがありました。東京の桜の頃って、北国ではまだそんななのですね。仙台あたりでは梅の花が咲いていました。福島あたりでようやくちらしら咲き出した桜をみかけました。関東平野に出てくると、これはもう花盛りという景色を帰りの電車で見ました。
646 20070402 騒然、雑然。今年の桜 東京會舘で結婚式がありました。日大の卒業生で私もお招きに預かりました。皇居前広場から宮内庁にかけての桜がよく見えました。東京は花盛りです。
冬が奇妙なくらい暖かかったし、ところによってはもう25度を超える夏日のところもあって、なんだか今年の桜は雑然として見えます。こぶしの花も咲いているし、花にらも咲いているし、ムスカリの咲き出してしまっているしで、冬から春へ咲く花と春の終わりを飾るはずの花がみんな開いているなかに、桜が割り込んだような感じで、花盛りのありがたみがやや薄いような、そんな気がします。桜の花が咲くとこれでもう「冷える」日はあっても「寒さ」とはお別れだという安堵感があるのですが、そうした安堵感に乏しいのです。
で、「お花見」にゆきたいなあと言う気持ちもいまひとつ盛り上がりをかいていましたら、ゼミ生の皆さんがお花見をするという連絡を受けました。それはいいや!でも今週末まで桜は残っているかしら?
645 20070330 名刺の注文 息子に名刺を作ってくれと言われました。会社に入ると名刺を作る人が多いのですが、会社の作ってくれた名刺をそのまま使うのが一般的だということを私は知りませんでした。私の名刺はずっと前から決まったお店で作っています。
ある時、知人と銀座を歩いていて、名刺が刷り上ったという連絡を受けたことを思い出しました。それで、「ちょっと寄ってとってくる」と言ったら、会社を辞めたばかりの知人がしきりの「え、勤めてないのに名刺を持っているの?名刺って個人でもつくれるの?」とへんな感心の仕方をしたので驚いてしまいました。会社に勤めていない人間は名刺を持っていないと思い込んでいたのですね。社員証はもってませんけど、名刺は小説家のような仕事でも必要な時があります。肩書きに「小説家」とか「作家」と書くのはへんなので、肩書きのない住所と氏名だけの名刺です。
この肩書きなしの名刺を出すと「僕も肩書きなしの名刺って持ってみたいなあと思うときがありますよ」と言ってくれる人がいます。個人で名刺を持っていることに驚く人もいれば、肩書きなしの名刺に憧れる人もいるんですねえ。
自分の名刺の注文を出すとき、息子の名刺も注文しました。息子はいちばん安い紙にして、なんとなくそうしたかったので。で、肩書きもなし。今日、息子の名刺の校正刷りがファックスで送られてきました。「Horn」って入れてと言われて、ああ、そうかと気づきました。音楽の場合は専門の楽器の名前を肩書き代わりにいれたりするんです。でも「Horn奏者」ってのはちょっと恥ずかしいのだそうです。まだそんなに仕事がないからっていう意味もあるかもしれません。でも、言われてみれば音楽会のパンフレットにも「Horn」って書いてあって、「Horn奏者」とは書いてありません。名刺のいろいろですね。
週明けから新しい名刺を持って歩く人もたくさんいることでしょう。
644 20070326 大学卒業と学位は別。 大学を卒業すれば学士の学位はみんなもらえるものだと思ってませんか?私もそう思っていました。一応、卒業と学位は別のものだって理屈は知ってましたけど。まさか、それがセットになっていない学校があるなんで想像もしませんでした。が、あるんです。うちの息子、音楽大学を卒業しているのですが(これは間違いない。なにしろ追試験で大騒ぎになったんだから)でも「学士」の学位は持ってません。なんでも「概論」(かれの場合は音楽学概論です)を履修してないと「学士」にはなれないのだそうです。
「概論」が必修じゃない学校があるなんて、想像を絶してましたが、彼の学校は概論は必修じゃなかったんですって。「概論なんて誰も履修しないよ」って言うんですけど。演奏をするのに「概論」なんてどうでもいいんでしょうけれども。これを思い出したのは、今日は娘の卒業式なので、朝、「学位記」の話をしていて、そういえばお兄ちゃんの「学位記」って見たことないなあと言ったら「お母さん、忘れたの?僕は卒業しているけど、学位はとってないんだって言ったでしょう」と言われて3年前の驚きを、そのときと同じくらいの衝撃で思い出しました。就職などの時に必要になるのは「卒業証明書」だとか「成績証明書」などなので、「学位」って、とくに学士の場合は儀式というか気分というかそういうもんなのですが、そうか、うちの息子は学士じゃなくて楽師になり損ねているのかって、なんだか複雑な気分。
643 20070325 桜が咲き始めました。 法政大学 日大芸術学部の皆さん
卒業おめでとうごさいます。
皆さんは言葉を使って人生をより豊かにする術を、学びました。これから皆さんの学んだことを、自分のためだけではなく、ほかの人のためにも活かしてください。それが社会にでるということの意味だと私は思います。誰かを笑わせたり、誰かを慰めたり、誰かの怒りを静かに伝えたり、誰かとともに哀しむためには、言葉というものが、通路になり、航路になり、空路になるのです。言葉に息吹を与えるのは皆さんのおひとりおひとりの心であり、胸であり、腹であります。皆さんの暖かな血が言葉の中に通うとき、言葉は意味を帯びるのです。それぞれの道を歩み、そして、それぞれに出会ったことを物語や詩で聞かせてくださる時がくることを楽しみに待っています。御卒業おめでとうございます。
642 20070323 もうすぐ桜? なんだかここに来て寒い日が続いたので、ちょっと気がふさいでいました。気がふさぐって言っても、10代20代のころみたいにどうっとふさぐってことはなくてほどほどです。それで思い出したんですが、若いときにどうっと気がふさいでいると、思いっきりおばさんに馬鹿にされました。ああいうおばさんになりたくないなあって思っていたんですけど、なっているんでしょうかね?まるで自分の努力で修行して気がふさがなくなってと言わんばかりの態度でした。でも、修行っていうよりも身体的変化みたいな感じがするんですけど、どうなんでしょうか?
お天気の変化なんかで気がふさいでいたりしたら、血圧は上がるし、きっとそのほかにもいろいろ欠陥が出て病気になっちゃうんで、身体が防御反応をとっているだけみたいな、そんな気がしていますけど。
もうすぐ桜です。東京はちらりほらりと咲き出しています。卒業式には咲いちゃうんじゃないかなって、暖かな冬でしたが、まるで劣等生の試験みたいに、春直前で帳尻を合わせた寒さで、桜も困ってるんじゃないでしょうか?でも、どうやっても来週には桜が咲きそうです。
641 20070320 町田に行く 町田の文学館でお話をするために町田まで小田急のロマンスカーで出かけました。そのまま箱根まで行って温泉につかっていたいなあって感じがしました。ここのところ、東京は初雪が降るほど寒いので、少し気がふさいでいて、余計に温泉に行きたかったのかもしれません。初雪と言っても白いものがほんの5分間くらい舞っただけなので、私はその雪を見ていません。小雪が舞うような冷え込みなのに、桜の花は日一日と蕾を膨れませています。来週には咲き出すでしょう。
町田の駅で電車を降りるのは、駅名を「はらまちだ」と言っていた昔までさかのぼらなくてはなりません。駅前はずいぶん賑やかになっていましたが、駅からそれるとまだ街道沿いのさびしいところもあるようだなと文学館まで歩きました。久しぶりに吉目木晴彦さんとお目にかかりました。文学館でお話をして、それから吉目木さんと少しお話をして、帰りはまた小田急のロマンスカーで帰ってきました。東京の西の郊外って、なんだか風がびゅんびゅん吹き荒れる感じが、どんなに賑やかになったても残るものだなって思ったのは、ここのところの寒さでやや気がふさいでいるせいかもしれません。
640 20070318 大原まで 家を建てるつもりでいる大原まで行ってきました。デジカメが壊れちゃっているから写真は撮影できませんでした。東京を出るときにはまだ雨は降っていなかったと思うのですが、大原の駅は少し濡れていました。大きな雨粒の雨が、数でも数えるようにぽつんぽつんと背や肩それに頭に降りかかりました。
敷地の西側のがけに生えていた木を切ってもらっているところです。工事のためには、この崖の木を切らなければならないのが少し惜しいです。というのも直径15センチくらいの幹がある椿は、山桜、椎の木などが思い思いに生い茂っている崖ですから。椎の木には自然に椎茸が生えていたそうです。
「切り株からまた芽が出ますよ」
「切り株から芽が出て生い茂るころには、私はおばあさんですね」
「あはは。」
時間が螺旋に進んで行く、そういう感じがこのごろはしきりにします。もう20年くらい昔、にも誰かと同じような会話をした記憶がありました。ええと、あれは誰とだっけ?と考えていたら、館山にある父母のお墓を思い出しました。お墓は山の斜面にあるのですが、ある時、母が斜面に生えていた大きな椿の木をさして「この木がなければ海がよく見えるのに」と、たまたま墓参りに来ていた隣の墓の家の人に言ったのだそうです。すると隣の人は「ああ、そうですね」とうなづいて、それから三日ばかりして、墓地の行くと椿の木はみごとに切り倒されていて、母を驚かせました。隣の墓地の人の人の仕事が元は樵だったと知ったのはその後でした。
「樵じゃあしょうがないなあ」て半分呆れたように母が話していました。で、その母のお骨をお墓に収めてしばらくたってから「切り株が残ってますからまた生えてきますよ」と樵さんが言ってくれたのです。
崖の木を切って、昨日、燃やした熾きが、敷地の中で今日もまだ暖かくともっていました。お芋をアルミホイルに包んでん投げ込んでおけば、こんがり焼けそうなとぼり方でした。
639 20070315 悲惨な生活 「眠眠打破」と回転すしで生きてます。なんで回転すしなんだ?とお思いの向きもあるかと存じますが、なんと言ってもこれが一番早くご飯を食べて勘定ができるから。
638 20070314 富士山こんにちは。 東名高速を飛ばして静岡まで行ってきました。富士山こんにちはです。翌日、安倍川の土手を画家の宮本恭彦さん、司修さんとちょっとだけ歩いてきました。川風の猛烈に冷たくて、意気地なしの私はそうそうに車の中に逃げ込んでしまいました。
司さんが「やっぱり富士山はてっぺんが平らじゃなくちゃねえ」と言っていました。安倍川から見る富士山はてっぺんにちょんとしたトンガリがあるのです。なんだかかわいらしいようなトンガリですが、司修さんにとってはそのトンガリがものすごく気になるらしいのでした。山は見る方角によってすごく姿が変わります。
帰りも東名で帰ってきました。静岡のインターをあがるとすぐに富士山が見えて、そのままずっと富士川まで富士山を眺めながら車を走らせました。春先だというのにこんなにずっと富士山が見える日も珍しいです。なんだかちょっと得した気分。富士山ってのはやっぱりちょっと特別です。出たり消えたりするところがいいなあって、思います。法政大学のビアソナードタワーから見るよりずっと大きな富士山でした。あたり前だけど、100キロの速度で眺めるとどきどきします。
637 20070310 潮の満ち引きと月 潮には大潮、小潮、長潮などがあって、月に満ち欠けと連動しています。お彼岸前の潮は大潮までは行きませんが、それでもかなり大きな満引きがあります。
春の海。そういっていい時期で、沖縄では「ハマウリー」という行事や「清明祭」という行事があると聞いています。海岸に下りて、禊(みそぎ)をするのだそうです。有明海でも岩場で岩海苔をとる人の姿をみかけました。海の中にも春が来て、海苔やわかめなどの海草が育つ季節です。が、なぜか熊本では半そでで歩いていました。とても暑かったのです。こんなお天気はやっぱり珍しいということでした。ようやく冬が過ぎて、やや肌寒いくらいの風が気持ちよいという春の陽気ではありませんでした。
干潟が広がる海辺へくるとそのたびにやっぱり鈍くなっているなあと感じざるおえません。月の満ち欠けと潮の満ち引きに鈍くなっています。天と地とが連動して作り出している時間感覚の外で出てしまっている感じです。2月はパソコンは壊れるわ、時計は修理に出さなくちゃならないわで大騒ぎ(すごく個人的に)でしたけれども、そのおかげで一ヶ月ほど、腕時計なしですごしました。でも、それで潮の満ち引きや月の満ち欠けに敏感になったわけでもありません(笑)
636 20070308 昼寝をする海 12月に有明海の岸を車で走ったときには、潮が満ちていましたが、今度は干潟が遠くまで現れていました。春の大潮の季節です。干満の差がいちばん大きくなるのは、お彼岸のころでしょうか?子供のころは家に潮見表などがあって、干満の差を気にしていましたが、このごろはすっかり鈍くなっています。干潟を「ガタ」と呼ぶのだそうです。
潮が引いて、海の底の砂地には小波の模様が残っています。蟹がたくさん、横歩きをしていました。濡れた砂が日に当たると、磯臭さが一層ましてきます。有明海の干潟はかなりの広さで、どうかすると水平線まで干潟なのではないかと思われるくらいです。向こうに島原半島と雲仙が見えました。海苔がとれるのは、こうした干満の差が大きい海なのですが、諫早湾の干拓で、海苔がとれなくなったというニュースがあったのを思い出しました。有明海では、まだ海苔粗朶を使っていて、干潟の向こうに、粗朶が並んでいました。
広い干潟を見ていると「海が昼寝をしている」ような気がしてきます。
635 20070306 青い海 青い空 青い麦 熊本に行ってきました。新聞連載「ジュリアおたあ異聞」の取材です。宇土半島から天草西海岸までをめぐってきました。ご案内いただきました熊本近代文学館の馬場さん、熊本日日新聞の勝木さん、それに熊本にお帰りになっていた伊藤比呂美さん、インスピレーションにあふれたガイドをしていただいて、ほんとうに感謝しています。どうもありがとうございます。
今回は挿絵を描いていただく宮本恭彦さんもご一緒しました。宇土から大矢野のあたりは「浦賀や田浦にそっくり」とおっしゃっていたので、ほんとうれしくなってしまいました。三浦半島は開発が進んで、昔の内海の眺めは少なくなりましたが、それでも、天然の良港であった地形の名残はあります。宮本恭彦さんはずっと三浦半島の田浦に御住まいです。「なんだかうちに帰ってきたみたいだなあ」という感想は、私が最初に大矢野に案内してもらった時と同じでした。
宇土半島は麦の葉が伸びる季節。「ジュリアおたあ異聞」の前半の重要人物である小西行長は宇土の領主だったのですが、五島にいた松浦一族と組んで小麦粉の貿易をしていたようです。小麦貿易の利益が宇土城建設の費用になったと推察されています。宇土から天草は海のいろいろと言いたくなるくらいに、様々の海の様子を見せてくれる地形をしています。
宇土半島の北側は干潟で有名な有明海、南側は不知火海、有明海と不知火海の間に私や宮本さんが「浦賀にそっくり!」と思った島と入り江の多い海域があり、天草に渡って西海岸まで出れば、そこは東シナ海です。伊藤比呂美さんは大波がじゃばんじゃばんする外海の眺めを見たいのだそうですが、どういうわけか、伊藤さんが東シナ海の見える場所まで行くと、かならずベタナギになるのだと言ってました。海の神様か、空の神様か、どちらか判りませんが、伊藤さんには親切? なようです。伊藤さんのおかげで青空の広がるベタナギの東シナ海を見ることができました。
634 20070302 もう桜? 娘が伊豆に旅行しました。そのときの写真を見せてもらったのですが、あちらこちらで桜が咲いています。伊豆にはもともと早咲きの桜がありますから、そういう酒類の桜ではないかと思ったのですが……。東京都内でももう桜が咲いているところがあるとゼミの学生が話していました。ほんとうにもう桜なに?わが目で見るまでは信じられない話です。
ここ数日、寒い日が続いています。例年にくらべればたいした寒さではないのですが、足が冷えてスリッパが欲しい寒さです。以前は靴下が嫌いで、冬でも素足でしたので「見ているほうが寒い」と年配の人からしばしば言われました。その気持ちがわかるようになったんだなあって「スリッパが欲しい」と思いながら、ちょっとにやにやしています。
でも、デパートの売り場は春の装いで、軽くて、気持ちがいいスリッパなんてもう売ってないみたいです。ああ、スリッパが欲しい。
633 20070224 フラッシュメモリー 1ギガなんて単位の情報が入る入れ物を個人が扱うようになるとは思いませんでした。フラッシュメモリーを豆蔵さんに教えてもらって買いました。もちろん壊れちゃったパソコンから、データを移動させるためです。
「ぶしゅっとさせばいいだけです」というので、ぶしゅっとさしてみました。これが何かに似ている? はてなんだろうと考えていたら、植木鉢にさして使う植物の活性剤に似ているのです。で、その活性剤のかたちは病院で使っているアンプルの形をしています。アンプルは細長い首がついたガラス瓶で、首のところをぽきっと折って使います。
でまたまた連想はとんで、昔々、母がよくアンプル型の風邪薬を飲んでいました。こちらは茶色い瓶。ガラスの首をぽきっと折ると、なんだか普通の錠剤の風邪薬よりも効き目がありそうな気がするのです。副作用があるとか、何か良くない理由で市販されなくなりました。で、フラッシュメモリーですが、パソコンにぶしゅっと挿すのではなくて、頭にちょくせつぶしゅっと挿すとか、肩のあたりにぶしゅと挿すなんてことができないかなって……まあ、出来なくてよかったのでしょう。
(以下、ひとりごと)昨日、久しぶりに高速道路を車で走ったら左足の腿が痛い。ああ、運動不足だ。車を運転して筋肉痛になるなんて初めての経験。
632 20070221 猫背 ノートブックパソコンを使っているとなぜか猫背になります。それから字が小さい。目がかすんでくる。でもなぜかノートブックが使えるってうれしいなあとか思っているのは、昔、タイプライターにあこがれたから。見栄で英文タイプを練習したことがあるんです。こんなことで役にたつなんて思わなかったなあ。
それで猫背です。もともと猫背だったのを、直したのにこれじゃあ、また猫背になっちゃう。やれやれ。万年筆はかならず二本持ってました。だからパソコンも二台持ってないとまずいなあと思うようになりました。ほんとうはデスクトップを二台、欲しいんだけど。置く場所がないからなあ。ぶつぶつ。ぶつぶつ。
631 20070219 昨日からそういうわけで 豆蔵さん、昨日は遅くまでありがとう。この次はかならず池袋の服部珈琲舎でコーヒー飲みましょう。それから「私をスキーに連れていって」じゃなくて、私を秋葉原につれていってください。牛丼でもハンバーガーでもいいから、腹が減ったじゃなくて、デスクトップPCじゃないと異常に肩が凝って仕事にならないのです。
というわけでデスクトップがいかれてしまったので昨日から大わらわで、あっちこっちいじっています。で、気づいたことはペンに書き味があるように、キーボードにも叩き心地があるんだなあってことです。昨日から3台のパソコンで三つのキーボードをたたき比べている状態でしゅ。なんだ、こりゃ!どうしても赤ちゃん言葉になっちゃうぞ。わああああ。どうしようか。
630 20070219 豆ちゃん助けて SOS 昨日はどうもありがとうございました。しかしダイナブックはメールの受信はできっても、送信はできません。このページはうちにもともとあったノートブックパソコンで打っています。このノートブックはなぜかメールの送受信はできないのです。
ああん、どれも帯にに短したすきに長しで、どうしいよう(泣、泣、泣、涙、涙、涙)豆ちゃん助けて!
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(豆蔵追記)
メールの設定はその他の設定をいじったり要らないファイルを削ったりですっかり忘れておりました。
プロバイダのページから、送信メール用のサーバーを調べて、記入すれば解決するように思います。
あとはエラー番号を調べて、エラー番号で検索をかけて……といった按配でしょうか。
またお邪魔した方が早いかもしれない!
629 20070215 姜英淑さん ソウルから作家の姜英淑さんがお見えになりました。今年の韓国日報文学賞受賞です。日本には7月までご滞在とのことでした。お子さんもいる女性作家です。
日本の海辺の地方でしばらく暮らしてみたいというご希望ですが、さて、海辺と言われても考えてみると日本の海辺と言っても北は北海道から南は沖縄まで、同じ海とは思えなくくらい違いがあるってことに気付きました。もっとも私は相模湾もしくは東京湾がよろしいと申し上げておきましたが。
17キロ?もダイエットをなさったとのことで。3年前にソウルをお目にかかったときよりもずっとほっそりしていました(ああ、うらやましい)いったい何をなさったのでしょうか?ってお聞きしたらダンベル体操ですって。そんなに効き目があるのでしょうか?以前から勉強なさっていた日本語も日常生活に不自由がないくらいに上達していました。それに引き比べ私の朝鮮語は3歳児で止まったままだし……。姜英淑さんがご滞在のうちに少し上達するかしら?
久しぶりにお目にかかって、懐かしい人のうわさ話をあれこれ。詩人のファン・ジフさんは文化庁の長官くらいの(役職名は日本と違うので)偉い人になってしまったというし、15年前ほどは、韓国作家にしては珍しい茶目っ気のあるチャン・ジョンイル氏は大学の先生になっているとのことでした。チャン・ジョンイルさんは15年前は韓国の一番の若手作家で、シンポジウムの時。文芸評論家がチャン・ジョンイルさんに質問をしたら、それには答えずに、会場から脱兎のごとく逃げ出してしまったということがありました。「逃げた!逃げた!」と質問をした文芸評論家のキム・チュエンさんが呆れ顔だったのをよく覚えています。いわゆる新世代(シンセディ)作家として一番早くに出てきた人でした。
大学の先生になっても、学生のつまんない質問をさらりさらりと交わして、教室から脱兎のごとくに逃げ出しているのかしら?
冬の青森でご一緒して、積もった大雪をみて「オールモスト、グロテスク(笑)」なんておしゃっていたファン・ジフさんがそんなに偉くなられては、簡単にお目にかかりたいとお願いするのはちょっと気が引けてしまい、寂しい気がしました。
そんなこんなを、鳥鍋を突付きながら、いろいろと話し込んでいる間に東京は春の嵐が通り過ぎていました。
628 20070212 グラッパ グラッパはワインを造った葡萄の絞りかすから作る蒸留酒だと聞いています。粕取り焼酎ってのがありましたけれども、あれみたいなものですね。あんまり上等とは言いがたいお酒ですけど。
ええと二日酔いの原因というか主因はたぶんグラッパだったと思います。ほかに考えられない。ブランデーみたいに樽で寝かせたりしていない透明で、喉をつんと焼くみたいな感触があるのを飲んじゃいましたから。で、家に帰るまではしっかりしていた気がするんだけど?他人(ひと)から見たらそうじゃないのかなあ?なんだか不安。家に帰るまえに小説現代の編集部に電話しているし……。家に帰ったらおもしろいくらいに酔っ払っていました。
思ってたよりも酔っ払っていたということが去年の秋くらいから、何度もあります。朝、おきて、ええっ、こんなに酔っ払っていたのかな?ってびっくりするくらい酔いが残っているのです。これがちょっと気持ちよくって、なんだかお得(?)な感じがする。本当ならもうとっくに覚めちゃっていいのに、おまけをもらったような感じですね(笑)それで午前中をぼうっと過ごせれば文句はないもないんだけど。そうは行かない!なんでこんなに酔っ払っているんだ(泣)って具合に家を飛び出さなくちゃならないことが多くて困っちゃいます。
透明なグラッパを細長いグラスで飲んで、陽が沈んで行くのでもぼんやり眺めていたいなあ。今まで飲んだグラッパでいちばん美味しかったのは、ミラノの駅のワゴンで売っていたやつ。小さな瓶で、列車の中でラッパ飲みしたんですけど、さっさと眠れちゃいました。それで列車に揺られながら眠っていると胃のあたりが暖かかったの。
627 20070211 雪の降らない東京 一週間のご無沙汰でした。こんにちは。ずっと飯田橋に泊まっていました。あったかい冬です。なんだか4月くらいの陽気という日もありました。こんなにあったかいのに、なんで入試なんかやっているんだろう?ってへんな感じです。飯田橋の界隈は法政大学と理科大学の受験者で大混雑ですが、入試の時期の寒々しい景色というわけではなくて、もうすぐ桜が咲きそうなゆるみ方です。そういうわけで、今年の東京は「初雪はなし」という発表を気象庁がしていました。
でもまだ雪が降らないと決まったわけじゃありません。太平洋岸を進む高気圧がぼあんとした春の雪を運んでくることがあるかもしれないなあって、予想しています。それにしても、へんてこりんな具合に寒くない冬です。この十年の間に卒業式に桜が咲くのは珍しくないということになってしまいました。やっぱり気象は変化しているみたいです。霜の朝とか、霜柱を踏むなんてこともなくなってしまいました。
昨夜、久しぶりにお酒を飲みました。カンパリをソーダで割ったのを一杯。それから赤ワインをボトル半分くらい。最後に極め付きのグラッパを。そうしたら、目の前がぐるぐる回るくらい酔っ払ってしまいました。朝起きて、ああへんなことを言ってないといいなあってやや不安。なんかねえ、忙しいと言いたくないんですけどねえ、でも忙しい一週間でした。
626 20070205 二人で卒業祝い(昨日の続き) タクシーの運転手さんに
「良い匂いですね」
と言われたマッチの匂いは煙草を吸うときの前奏曲みたいな匂いなのですが、そう言えばマッチの匂いをしばらく嗅いでいませんでした。なにげなく擦ったマッチの匂いに私はさびしさを嗅いでいました。
マッチは池袋東口の服部珈琲舎でもらったものでした。日芸のA君と卒業祝いをしました。A君は昨年、卒業するはずだったのですが、一年遅れの卒業制作提出になりました。私の日芸でのゼミは昨年限りでお終いのはずでしたが、A君がいたので、一年だけ延長。これでちょうど10年間、日芸にいたことになりますが、今年限りで日芸を失礼するお約束になっていたので、A君と一緒に私も卒業ということになりました。午前中にA君ひとりだけの卒業制作の面接を済ませて午後はほかの用事があったので、A君と一緒に江古田から池袋に出て、では二人で卒業祝いをしましょうということで服部珈琲舎に入ったのです。
今の大学生はあまりコーヒーを飲みませんし、もし飲んでもドトールやスターバックスなどを利用することが多いようです。なかにはコーヒーやビールは「苦いから嫌だ」という人もいます。ある時、ゼミ生に教えてもらったのですが、ビールの苦味が旨くなったのは何歳頃からか? というアンケートがあって、それによると25歳というのが一番、回答の多い年齢だったそうです。つまり、大学生はまだ苦味を楽しむには早すぎるということでしょうか? 果たしてA君が苦味を楽しめたかどうかわかりませんが、ともかくコーヒーで卒業祝い(いや、そのまえに鰻やで、日本酒の御燗を一合飲んでいましたが)で、会計の時にレジわきにきれいに並べられていたマッチをひと箱いただいてきたわけでした。
625 20070204 マッチを擦る まだ終電前だというのに、池袋のタクシー乗り場が混雑していたのは、東武東上線が不通になっていたためらしいのですが、その混雑するタクシー乗り場で、一人の男が車の前に立ちはだかって「運転手は窓を開けろ」と叫んでいました。仕立てのよさそうな上着の下から真っ白なワイシャツが覗いていましたが、ネクタイはポケットに突っ込んでいました。30代半ばというところでしょうか。男が前に立ちはだかっているので、タクシーは進むことが出来ません。乗り場の行列はだんだん長くなるばかりです。
しばらくすると警察官が三人ほどやって来て、男を歩道の方へ連れてきました。「あんたたち、ちゃんと税金払っているんでしょ。あんたも、あんたも、それにあなたもさあ、ちゃんとおまわりさんだって税金払っているんでしょう」と男は警官に問いかけています。でも、警官に手を出そうとはしません。タクシー待ちの行列から何か声をかけた人がいた様子で、警官は行列に向かって「あおらないでくださいね」と一言、穏やかに注意。で、警官のうちの一人がそっと男のそばを離れました。近くのデパートの軒下から男の様子をしばらくうかがっていました。この警官がデパートの軒下にたたずんでいるうちに、あとの二人も少しずつ男から遠ざかって、暗い街の中に消えて行きました。あとに残った男は、まだ叫んでいます。
「彼もれっきとした第三秘書なんだ。ちゃんとした第三秘書だよ。解るでしょ。第三秘書だ」
そうひとりで大声を上げていました。
かなり酔っ払っているのですが、なんとなくその声の上げ方から、街頭演説の経験がありそうな気がしました。街頭で不特定多数の人を相手に声を出す時には、独特の声の張り上げ方があるのです。で、かなり酔っ払っていて、何か大声で言いたいことがあるのに、どこかで理性がちゃんと鍵を掛けていて、大事なことは言わないままでいるような、そんな管の巻き方でした。いったいどんな秘密があるのでしょう。なんだか気になる酔っ払いでした。
男がタクシー待ちのお客の行列に向かってしきりに叫んでいるうちに、ようやく私がタクシーに乗り込む順番が来ました。バックシートに座ってタクシーが走り出してから、煙草を吸うためにマッチを擦りました。
「お客さん、マッチをお使いなんですね」
運転手さんにそう言われました。
「マッチの匂いってなかなかいいものですね」
とも言われました。それから喫茶店でマッチをもらうことが出来た頃のことを話しました。
624 20070129 すずかけ 松の木 柿の木 なぜか、ああ、ここの一本の木が生えていたなあとよく覚えている木があります。一本目はすずかけの木。川越街道の旧道ににょきっと一本だけ生えていました。なんか生え方が唐突なんです。木の前を通るたびに退屈そうに生えているなあって思いました。切り倒されてマンションが建ちました。
柿の木は、川越街道の新道のほうにあって、梅雨の季節になるとたくさん青い柿の実が落ちていました。柿の木の枝の下をくぐって煙草を買いに行くというのが、いつもの習慣でした。月夜の晩などは妙にさわさわと何か言っているような気がしました。切り倒されてコンビニになりました。そのコンビニも今は閉店しています。コンビニが閉店してからコピーが不自由になったのですが、パソコンで使うプリンターを買いにいったら、なんとA4サイズまでコピーできる機能付きのプリンターが3万円で買えてしまいました。
松の木が生えていたのは、家の向かい側の崖の斜面でした。この松の木が夏の間はそれほど目立ちませんが冬になると青々としています。やや、うつ状態の頃、この松の木を眺めているとなんだか気分がよくなりました。ともだちみたいな松の木です。去年の夏に切り倒されました。今はマンションの建築工事が始まっています。ともだちがいなくなっちゃったので、引越しをしようかなって、時々、思ってます。松の木のあとに立つマンションに引っ越そうとは思いませんけど。
木の床をがたがた踏み鳴らすような喫茶店がだんだん減っちゃったのを、木の姿を思い出していたらついでに思い出しました。お前は歩き方がうるさいってよく言われたものでした。
623 20070126 冬の土手 法政大学の大学院から市ヶ谷の土手を見ていたら、暖かそうな陽があたっていて、すごくきれいでした。土手の木はみんな葉を散らしていて、冬枯れの茶色い草の色が、なんと言っていいのか「ぐっすり休んでいる」って感じで陽を浴びていました。
で、我が家に帰ったら、なんと灯油を注文するのを忘れていたから、今夜はエアコンの暖房だけです。ちょっと寒いなあ。日程が詰まっていると、ばかばかしい失敗をするもので、火の消えたストーブが恨めしく見えます。
622 20070123 ああ、寒い。 机の前に座って仕事をしていると足元が冷えてきます。ああ、寒い。寒いとなんだかうれしいし、ちょっと安心できます。気味が悪くなるくらい暖冬で、このままでは済まないぞ、何か起きるぞ、大地震かな? 大津波かな? それとも富士山の噴火かしら?なんて、半分冗談で、半分は真顔で言いたくなるようなお天気でした。
昆布とベーコンで御出汁をとった野菜のスープに凝っています。ベーコンはフィレを使うよりも固まりを角切りにしたほうがおいしいみたい。入れるお野菜は根菜が中心です。れんこん、人参、山芋、大根、蕪。冬は根菜がおいしい季節ですから。で、そこにちょっと銀杏なんかも入れてやるの。でも、今年の銀杏はどれもこれも小粒です。きっと秋の陽気がおかしかったから銀杏も太ることができなかったのでしょう。
昆布とベーコンで出汁をとるのって、もともとは煮干を買い忘れたから、しょうがなくってやってみたんだけなんですけどこれがけっこうおいしかったのでした。
621 20070120 今宵 初雪か? 横浜と千葉で初雪が降ったそうです。どうも関東地方の南側で降っているようですから、これは太平洋沿岸を進む低気圧の雪でしょう。初雪って言っても、太平洋沿岸を進む雪では春の雪ですね。
ソウルでは初雪の日には、アポイントなしで恋人を訪ねてもいいそうです。古くからの習慣なのか、それとも近年できた習慣なのかは聞き忘れましたが、どうも後者のような気がします。ロマンテックだけれども、恋人が二人以上ある人にとってはかなり戦々恐々、ロマンテックよりもスリリングな習慣ですね(笑)
「冬眠をしないくま」というニュースをネットでみつけました。くまの不眠症なんて、きっと夏になったら寝不足で不機嫌なくまが山の中をうろうろしているにちがいありません。東京も今日は少し寒かったのですが、空の色は春のぼんやりなごやかな青の日が多いです。いったい冬はどこへ行ってしまったのでしょうか?
久しぶりにNHKのブックレビューに出演しました。児玉清さんの司会。小室等さん、山崎哲さんがご一緒でした。小室さんとはNHKの教育テレビで中原中也の番組でご一緒していらいです。山崎哲さんとは、初対面。と言ってもそんな気がしませんでしたが。明日(21日)の放送です。
620 20070114 憎しみについて そういえば、憎しみについて、ってあんまり話す機会がないなあってな話を大学生としました。話題はばらばら殺人事件だったんですけど。あきらかに「憎しみ」の感情が働いていて、鼓してもまだおさまらないって感じのする殺人事件が続いたから。
で、その時にちょっと思ったのですが、こういう話題って、なぜか今の学生は教員の私と1対1でしゃべりたがる傾向があるような気がするのです。気のせいでしょうか? ふだんの会話を聞いていると、あんまり本心を出して話していないようです。お互いを傷つけないように上手に話題を明るく軽くしているなあと感心します。でも、憎しみについては、真面目に話したいなあと思うことがあるようです。話を上滑りさせないようにして、話してみたいようでした。
上っ調子に軽く滑る会話を楽しんでいるそのしたに、憎しみがぶつぶつたぎっているような、そんなイメージが頭に浮かびました。憎しみも人間にとっては貴重な感情でしょうから、それを話せないとなるとそれはそれで不自由でしょう。
619 20070113 万年筆 銀座のイトウ屋で久しぶりに万年筆を見ました。増えていたのは高級シャープペンシルと高級ボールペンでした。それから20万円から30万円といったものすごく細工に凝った万年筆の陳列も呆れるほど増えていました。売り場は万年筆がある種の必需品だった時代よりも広くなっているくらいです。が、ものを書くための道具というよりも「装身具」もしくは「記念品」という感じで、なんだか宝石屋さんにでもいるような錯覚を起こしそうでした。
万年筆はどうやら単なる筆記具から、装飾品にかわりつつあるようです。が、かわいそうなのは原稿用紙。こちらは種類もどんどん縮小。売り場の縮小。だんだん過去の遺物になりつつあるように見えます。そのうちに紙を選んで別注で刷らせるしかないなんて時代がくるかもしれません。20×20の桝目に文字を入れて行くということって、かなり意味のある作業なのですが、それも原稿用紙と一緒に等閑視されているみたいです。
万年筆売り場でこころ魅かれるのは、どうしてもウォーターマンというフランスのメーカーです。最初に自分で買ったのが3000円の銀色の鍍金をしたウォーターマンだったという理由以外には、それに眼を引かれる理由はないような気がしますが、あれこれ見ているうちにやっぱりウォータマンがいいやという気になってきます。万年筆全盛時代の復刻を得意にしているメーカーもあるのですが、ウォーターマンはまだ実用品としての万年筆にニューモデルを作っているところがフランスらしい感じがします。実用品のニューモデルを選びました。それから、3000円の万年筆を買った頃には、絶対に欲しいという気も起きなかっただろうという値段の銀色の万年筆にもこころ魅かれました。軸を洋銀で作ってある万年筆です。あれだったら、使っているうちに軸が磨り減って真鍮色の地が見えてくるなんてことはなさそうだなと、眺めていました。3000円の万年筆は鍍金がはがれて真鍮色の軸が見えてきたのです。
618 20070108 人間の記憶っておもしろいね うちの子どもが小学生のころ、不愉快なことがあると「むかつく」と言っていました。その変形が「いかつく」でした。今でも小学生は「むかつく」って言っているのかしら?
で、その「むかつく」ですが、ちょっと神経症ぎみでハイパーシンドロームの発作を繰り返していたことがあります。ハイパーシンドロームは、要するに息を吸うだけで、はかなくなる、あるいは吐く量が少ないので、胸苦しくなり、ときには短時間ですが失神に近いような状態になることもある症状です。人により現れ方はいろいろみたいです。で、ハイパーシンドロームと同時進行的に出た症状が「吐く」でした。小学生風に言うと「むかつく」ような出来事に遭遇すると「吐く」ようになっていたのです。「吐く」ほうはたいていお酒を飲んでいる時でしたから、酔っ払いすぎたのだということにしておきましたが、実際はそんなに酔っ払ってはいませんでした。少量のお酒でも、嫌なことや忘れたいことがあると「吐いて」しまうということが度重なりました。小学生の言う「むかつく」を地で行っているんですね。
ほんとにむかついちゃっているの。
その「むかついて」いた頃のことを、ここのところ、ある人とメールのやりとりで思い出していたのですが、人間の記憶っておもしろいなあと思ったのは、まったく忘れ去っていたことでも、話の相手になる人がいると、ちゃんと思い出すんですね。今朝からふたつ、みっつ忘れていたことを、意外にも自分で記憶していたことに驚くことがありました。記憶するということと思い出すのはまったく別のことではないにしろ、その間に何か連結器のようなものが挟まっているみたいです。そういう意味では人間の脳って、単体で存在しているコンピューターではなくてパソコンみたいなネットワークの末端なのかもしれません。ネットワークに良好に接続しているパソコンもあれば、ウィルス感染しちゃってへんてこりんな反応を起こすパソコンもあるところも似ているなあってへんな感心をしちゃいました。
そのくせ、去年のお正月に弟夫婦とすき焼きを食べたことをすっかり忘れていて、これは弟のお嫁さんが覚えていたし、うちの息子が覚えていたので、そうかなあと思う程度にしか感じられません。まだ思い出してないの。息子が言うには、すき焼きを食べて、叔父さんたち(弟の一家)を見送ってから爆睡していたそうです。だから「忘れちゃったんだよ」と言ってました。それから昨日、法政のゼミ生がうちに来ていたのですが、百人一首をとろうということになって、カルタのおき場所がわからなくなってました。これはまあ、見つけることは見つけられたのですが、ちょっとショックな感じ。以前は記憶の良さ(受験勉強とはややことなる記憶ですが)に苦しんだのに、このごろはすき焼きやカルタでさえ忘れてしまうのは、いったいどうしたことでしょう。誰か私のかわりに覚えておいてよって言いたい気持ちです。
あ、私のかわりに弟のお嫁さんが覚えていたのか。
617 20070105 聞いた話 見たこと などなど 今年の初詣は近所の神社と言う人がいちばん多かったのだそうです。で、うちのちかくの熊野神社ですが、見たわけではありませんが、除夜の鐘が鳴ったあとは大勢の人が行列を作るほどの賑わいだったという話でした。朝になってもまだたくさんの人がお参りに来ていたそうで、どうしたことだろう? と知り合いが首をひねっていました。たしかに以前の熊野神社は閑散としていましたから、私もその話を聞いて、半信半疑でした。
書店でアルバイトをしている娘から聞いた話。「まっったく、大人買いはどう動くか見当がつかない」とぼやいてしました。書店の荷が動くのは5日からなのですが、3日にはコミックの棚ががらすきになってしまったそうです。彼女はコミックの棚を担当しているので「このままでは棚がヤバイ!」としきりにぼやいていました。お正月に「大人買い」のお客さんが思いもかけないものをごっそりと買ってくださったそうです。コミックスを全巻そろいでごっそりと買うのを「大人買い」というのは、以前から知っていましたが、そんなに「大人買い」の影響がでるものとは知りませんでした。それで棚をどうしたかというと「こち亀」のストックで埋めたのだそうです。
年末に静岡の小川国夫さんのところに伺った時のことです。東名高速焼津インター近くのホテルに一泊しました。駐車場はいっぱいの車。年も押し詰まったこんな日時に宿泊の人がけっこういるのを、駐車場の車の台数で知りました。フロントのわきにはコピー機、ファックス、パソコンなどのビジネス機器を備えたコーナーがありへえと感心。部屋に入ると窓の方角に書き物机の高さの横に渡した棚があり、椅子は机の前で使うようなリクライニング付きの肘掛椅子。ああ、ここで書き物ができるなあと思った瞬間、気付きました。パソコンが普及したおかげで、以前なら、バック・ヤードで処理していたような伝票整理などと、営業をやっている人自身が処理しているに違いないと。営業さんは車にパソコンを積んで仕事をしていると考えないと、こういうホテルはありえないなと気付いたのです。けっこう、そういう人っているんでしょうねえ。
616 20070103 閻魔様もびっくり お正月でふだん会えない人をお酒を飲みました。スイミングプールに行っているそうです。で、スイミングプールでは高齢の人がかなり達者な泳ぎをしているようで、三途の川をバタフライで渡るとか、いや背泳ぎで渡ったほうがいいなんて話をしているそうです。
みんな、三途の川をみごと水泳で渡るようになったら、川の渡し守は渡し賃6文をもらえなくなっちゃうじゃないって大笑いでした。閻魔様も見物に出てくるかもしれませんね。お正月からいったい何を話しているんだか。やれやれ。能天気だ。
615 20070102 謹賀新年 今年もどうぞよろしくお願いします。
伊藤比呂美さん お正月はカリフォルニアで御過ごしでしょうか? その後、お礼もしませんで失礼しました。今年は何度も熊本へでかけることになると思います。どうぞよろしくお願いします。
豆蔵さん 今年はもうちょっとメールマガジンを出せるようにしましょう。豆ちゃん、頼みます!
スタッフ・ルームへお集まりの皆さん ことしもどうぞよろしく。スタッフ・ルームへのパスはお問い合わせフォームからメールを下さい。豆ちゃんからお返事が行きます。
大原 月光洞 今年こそ完成させたいと思います。鈴木隆之さん、どうぞよろしくお願いします。月光洞完成のあかつきには、月光洞合宿朗読会を開きたいと考えています。
静岡新聞連載 「ジュリアおたあ異聞」
誰だっけ2006年の12月末までには100枚原稿を書くって言っていた人は? えっと5月から連載開始です。静岡新聞 熊本日日新聞に連載されるほか、いくつかの新聞にも掲載されそうです。わあ!なんとかしなくちゃ。
メディア・パル
「中学校生活のための50のヒント」(仮題)
法政大学中沢ゼミ四年生に中学校時代のことを話してもらっています。大人になり始めたばかりの時代をどうやって過ごすしたらいいのか、そのヒントがいっぱいの本になりそうです。大人になって行くのってすごくおもしろいことなんだなあと、ゼミ生の話を聞いています。3月下旬発売予定。
新潮文庫「うさぎとトランペット」
「楽隊のうさぎ」続編の「うさぎとトランペット」が6月に新潮文庫に入ります。
614 20061231 師 倒れる 走りすぎた御師匠様はばったり倒れてしまいました。
「先生 大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃないよ!バカヤロウ!」
というわけで今年も終わりです。来年もよろしく。
613 20061227 燕尾服がうろうろ 「なんでリハなのに燕尾なんだ」
は「のだめカンタービレ」の千秋(玉木宏)のセリフ。玉木宏は最初、あまり千秋に見えませんでしたが、だんだん千秋になってきた感じ。
「なんで夜中に燕尾なの」
これは私の昨夜のセリフ。
「だって、このシャツ、15,000円もしたんだ」
という息子。初めての燕尾服です。なんでも第9の演奏にのるので、どうしても燕尾服がいるということでした。世の中にはいろんな仕事があるものですが、燕尾服が必要と解った時に「大阪に音楽家専門の洋服屋さんがあるよ」と教えてもらったそうです。寸法を計って、電話で注文を出すと、なんと翌日には燕尾服が一そろい届きました。で、その燕尾服のための白蝶ネクタイとシャツは「自分で買うから」と息子はバイトの給料日を待ってました。彼はホルンを吹きながら体育館の守衛のバイトもしているのです。
だから、燕尾服がそろったのは本番の前の晩。夜中に家の中を燕尾服がうろうろしているのは、なんだか奇妙な眺めです。テールはかっこよいのですが、なにせマンションなので天井が低く、どうやっても燕尾服の所作と周囲の景色が一致しません。燕尾服は天井が高い建物で着なくちゃ、さまにならないのです。しかも、ズボン丈は私が酔っ払ったまま裾上げテープでくっつけちゃったから、モールがよれています。ステージではどっちみちあんまり目立たないからいいやということになりました。
今夜(27日)と明日(28日)池袋の東京芸術劇場でベートーベンの第九協奏曲にのる(彼らは演奏に加わることをそう呼びます)そうです。18時30分開場。19時開演。指揮は宿木允人。もしお閑がありましたらお越し下さい。
余談 テレビ・ドラマどからどうでもいいって言えばどうでもいいのですが、秋吉久美子の音大理事長ってものすごく不安。子どもが録画していたビデオをちらちらみていたので、昨晩、秋吉久美子が音大理事長って気付いたのですが……。燕尾服のまま「のだめ」なんか見てるんじゃないとか言っていたら、秋吉久美子がでてきたの。
612 20061225 ストッキングとタイツ 馬の足を見ているうちにストッキングとタイツが欲しくなりました。で、買っちゃった。イタリア製のストッキングとタイツ。ううん。サラブレッドの足ほど細くなくてもいいからもう少し面積が小さくなるといいなあ。お花模様のレースのストッキングなんだけど、なんか大輪の花が咲いちゃったんですね。まあ、馬だって腰のあたりはそうとうにしっかりとお肉がついていますが……。
611 20061224 ディープインパクト ここのところしばらく中山競馬場に行っていなかったのですが、有馬記念見てきました。やっぱりディープインパクト無敵でした。第4コーナーを曲がってところで騎手の武豊が鞭をひとつ入れただけで、すっと上がってきてそのまま三馬身差でゴール・インでした。これで12戦で1位が11戦、2位が1戦。2着は去年の有馬記念ですから、無敵です。
が、今日は第7レースに「ターキー」って馬が出ていて、馬のくせに「七面鳥」なんて!という単純な理由で単勝を買ったら、これがちゃんと来ました。「ターキー」さまさまでした。昨日、東武デパートでターキーを買おうかどうか迷って結局買わなかったのですが、今日はぜんぜん迷わずに買ってました。(ターキー違いだけど)えへへ(笑)です。買ったと言ってもたいした額ではないのですけど。
あと珍しかったのは9レースつまり有馬記念で、ゲート・インで拍手が起きたことかな。出走馬のなかのただ一頭の牝馬、スイープトウショウがどうしてもゲートに入らなくて、無理に入れようとすると後ろ向きになり、お尻からゲートに入りそうになるで、大騒ぎ。まず方向転換にひと苦労。それからやっと前を向いたら今度はてこでも動かず。かなり頑固なお嬢さんです。騎手が尻尾をひっぱって、ようやくゲートに入った時には満員のスタンドから拍手が沸きました。
そういうわけ、いや、どういうわけか、今年はターキーではなくて、ロースト・ビーフを昨日、買ってあるので、これからホース・ラデッシュをすりおろして食べることにします。馬の「ターキー」が稼がせてくれたぶんは明日の宴会のシャンパン代くらいになりました。
610 20061221 宴会・パーティ・宴会 伊藤比呂美さんのお家で宴会を開いてもらったのは今月の初めのことでした。なんだか、もう遠い昔に感じられるのは15日の野間賞のパーティからすうっと宴会とパーティ続きだからかなあ。伊藤さんお元気でしょうか?もうカルフォルニアにお帰りになられたのでしょうか?「もう好きなことをどんどんやりたい」と熊本空港でおしゃってましたが、私のほうも「好きなことをやりたい」っていう心境になってます。
伊藤さんの言う好きなことは好きな仕事って意味ですが、私のほうは、まあ、惰眠とか馬鹿騒ぎとか、自分でもあんまりろくなことじゃないなあって気がしてます。すごく「なまけもの」なの。
今朝、おきて鏡をみたら、おばあさんがひとりにっこり笑ってました。ふううん、こういうおばあさんになるのかって、ほかの人の顔をみるような気分で眺めてました。なにしろ、親が40代で亡くなっちゃっているので、我が一族で久しぶりのおばあさんの出現になりそうです。宴会続きでくたびれているから「おばあさん」が顔を出しちゃったみたいです。
609 20061220 師走 師も走るから師走って言うのだそうですけど、今の先生は一年中走っています。大学へ出ているとそう思います。だってみんな、70歳近い先生まで足が速いんですもの。足が速くなくちゃ先生はできないなあって感じがしています。
608 20061217 猫も働いている熊本大学 「猫の手も借りたい」忙しさという言い方があります。15日を皮切りになんと30日までなんらかのパーティもしくは宴会の予定が入っていることが判明して、こういう忙しさは猫なんかに手を貸してもらうのはもったいないなあと思っている今日この頃です。
熊本のお話の続き。伊藤比呂美さんのご紹介で熊本大学の先生方にお引き合わせいただきました。伊藤さんはしばらく日記をお休みしていますが、とても元気です。で、熊本大学ですが、こちらはほかの大学と同じように「猫の手も借りたい」ところを通りすぎて猫も働いている熊本大学と言われているそうです。大学はどこも大学・大学院改革で大忙し。何が忙しいって会議が増えるし委員会がたくさんできるし、学内を歩いているだけであっという間にどんどん仕事が増えて行くという事情に変わりはないようです。
熊本大学ももとは夏目漱石も先生はしていた第五高等学校ですから、猫も働きなれているのかもしれません。「我輩は猫である」とばかりに校内をゆうぜんと歩く猫が数匹いました。1限の始まりは法政大学よりも1時間30分早くて8時から。その時刻に学生食堂がもう営業をしていて朝ごはんを食べている学生がいたのには、感心しました。けっこううまそうな朝ごはんでした。
607 20061215 ひともじのぐるぐるを 前回、近代文学館のシンポジウムのために熊本に行った時、ひともじのぐるぐるを喜んでいたのを馬場さんが覚えていてくれました。で、ひともじ(細い葱)をぐるぐるまいたものです。だからひともじのぐるぐる。でも今回はひともじのぐるぐるにめぐり合えなかったのです。残念。残念。でもこれから春までに何度か熊本に行くことになります。
宇土は静かな町で、町の至るところに桃色の石で作った井戸がありました。轟水源から引いた水を共同で使用していたそうです。江戸時代に作られた水道を今でも利用している家もあり、水道組合で管理しているとのことでした。肥後の石工は江戸城の石垣を組んだことでも知られています。江戸城の石垣を組むとき、先頭に立ったのは加藤清正です。秀吉の晩年、つまり朝鮮の役の頃、肥後の国は北の熊本周辺を加藤清正が、南の宇土を小西行長が領地にしていました。が、今の熊本では加藤清正は偉大な英雄で、小西行長は「大悪人」なのは、加藤清正との確執が原因の一端にあるようです。男の嫉妬って400年たっても消えないのねえという話かもしれません。ああ、恐い、恐い。もっとも加藤清正公に聞いたら嫉妬なんかじゃなくて「義憤」とか「公憤」と言うかもしれませんが。
ひともじのぐるぐるを探しに、「つるや」デパートの地下に入ったのですが、ひともじのぐるぐるはありませんでした。おみやげに熊本城の絵の入った包み紙の「朝鮮飴」を買いました。朝鮮の役の時の保存食だそうですが、これが鹿児島の兵六飴とかぼんたん飴に似た感じの柔らかな食感です。おもいっきり片栗粉がかかっているところがなんだか豪快でした。なんで朝鮮の役の時に加藤清正が虎退治をしたのか? その謎が少しだけわかったような気がしました。どうやら朝鮮の役は、加藤清正のお膝元では「勝った」ことになっていたみたいです。
606 20061211 びっくりちゃんぽん 来年、静岡新聞、熊本日日新聞などに連載するのは、秀吉の朝鮮の役の時に平壌郊外で小西行長に拾われた朝鮮貴族の娘ジュリアおたあの物語です。今回は小西行長は熊本の宇土の領主であったところから、宇土を中心に取材してきました。ところが宇土では小西行長は大悪人ということになっていたのには、驚きました。本を読むだけでは解らないこともたくさんあるのですね。なぜ小西行長が大悪人なのかはおいおいに書きます。一般には朝鮮の役を無事に終結させようとした外交官的武将、あるいは商人上がりの切支丹大名というのが小西行長のイメージです。
で、小西行長が大きなミサを上げたお寺があったという大矢野まで足を伸ばしました。そこでいただいたのがちゃんぽん。湊の岸にある小さな食堂で、大盛りのちゃんぽんが有名だそうです。
お店はそれこそ台風が来たら海の波を浴びてしまいそうな湊の岸にあって、外側は新しく作り直されていますが、中にはいると半分は土間、半分は神棚のある座敷という典型的な海辺の家の構造になっていました。
ちゃんぽんはわっといいたくなるくらいの山盛り。お野菜と殻のついたままの小エビが勢いよく油で炒めてありました。麺は、やや太め。ラーメンほど細くはなく、うどんほど太くはないという感じで、やさしい弾力があり、適度にスープを吸っています。東京ではなかなかこの麺が手に入らないとのことでした。殻付きの小エビはワイルドな感じですが、エビの殻と身の間においしいスープが入っていて、噛むとじわりと染み出すところがなかなかでした。このちゃんぽんの味に一端は小エビが殻付きであるところから出ているのでしょう。野菜と小エビの具の山から麺を掘り出すのに一苦労するほどの山盛りでした。ちゃんぽんというと、あんかけのイメージがありましたが、ここのお店では素朴な油炒めの具でした。見た時は驚きましたがお野菜たっぷりでさらりと食べられました。
で、ちゃんぽんを食べながら聞いたのが捨て子の話でした。今でも時々、捨て子があるのだそうです。で、昔の捨て子はちゃんと産着を着せて、名前などを書いた紙が添えられていることが多かったのに、今では丸裸とか大人用のジャージなどに包んであることもあるということで、「どうしちゃったんだろう?」と首を傾げてしまいました。
605 20061208 熊本 大収穫 5日 朝焼けの羽田を発って朝一番の飛行機で熊本に行ってきました。来年、新聞連載をするための取材でしたが、思いがけない大収穫でした。熊本の伊藤比呂美さん、どうもありがとう!
熊本の大収穫の報告はおいおいにするとして、ちょっとびっくりな話。白い雪をかぶった日本アルプスをかるがると飛び越えて、熊本空港に着くと早速、呼び出しがかかっていました。「ははん、伊藤さんだな」と総合案内カウンターに行くと「渋滞のために空港到着が遅れる」という伝言でした。
で、伊藤さんは渋滞で遅れそうだと、熊本近代文学館の馬場さんに連絡をとったところ「その渋滞の原因は僕が巻き込まれた事故です」という返事にびっくりしたそうです。なんでも、馬場さんの車の三台手前の車に大型トラックが突っ込むという追突事故で、馬場さんの車は先頭で、後ろからごつんとやられたとのことでした。間の二台はめちゃくちゃに潰れたそうでが、幸い、大怪我をした人はいなかったとのこと。
追突された馬場さんの車も走行には支障がなく、空港まで来ていただきました。なにより怪我がなかったのはほんとうに幸いでした。そういうわけで、空港到着早々かなり驚いた熊本取材でした。
604 20061204 これから熊本に 行ってきます。伊藤さん、まっててね。からし蓮根たべたいよ!馬刺しもおいしいし、それから、山形の人からもらった「おふらんす」じゃなくて、「ラ・フランス」持って行きます。いっしょに食べましょう。
603 20061202 秋山会 伊藤さんはもう東京にいらっしゃっているのでしょうか?30日の六本木の朗読会には出ているはずだからきっと東京に来ていることと思います。だって今日もか風花の朗読会だもの。で、私は年末恒例の秋山会幹事だってことを忘れてました。今日は秋山会。そういうわけで伊藤さん、風花には行けません。ごめんなさい。来週、熊本でお会いしましょう。ちゃんと朝一番の飛行機に乗ります。
秋山会のことは、まえに熱海で見た冬の花火の話題でここに書いたことがあると思います。一年に一度、文芸評論家の秋山駿さんを囲む会をやっています。だいたい今頃で、秋山会が終わると師走に突入という感じです。秋山会だから晩秋の最後ってわけでもないのですけれどもね。で、今年は練馬のお蕎麦屋さんで、日の高いうちから一杯楽しもうという趣向です。ではいってきます。
602 20061201 大急ぎの秋 皇居の周りをタクシーで走ったら、今が紅葉の盛りでした。大急ぎの秋です。ほんの2週間前までは、紅葉の気配さえなかったプラタナスの木とか欅とかが、もう赤く黄色く染まって散り始めています。
雨がふると、散った木の葉がアスファルトや石畳に張り付いて湿った音を立てます。ここのところ、夕方になって急に雨が降り出すというようなことが続いて、かさをお借りしたのですが、それを置き忘れるなんてことが二度も起きたので、ちょっとぼけてるかなあって反省しています。反省だけなら猿でもできるなんてCMが昔ありました。
猿といえば、うちの娘は「チンパンニュース」を見ないと寝ないというへんてこな習慣ができたみたいです。
深夜番組で動物のための動物による動物のニュースだそうです。何の話でしたか?そうそう今年の秋は大急ぎだという話でした。というわけでもう12月になってしまいました。
601 20061126 不倶戴天の敵 睦み合って、この世の外に抜け出られるような恋人とめぐり合う。これはもう望外の事と、そういう予感のする恋に迷い込んだところがどこでどう掛け違えたのか、すれ違ったのか、もつれにもつれて、この世にあるうちはすっきりすることがないという筋書きを考えてみました。ともに天を抱かず、つまり不倶戴天の敵になるというやつです。同じこの世の外に抜け出さなくちゃどうしょうもないにしても、正反対のベクトルというシニカルな結果になると物語ってどうかなあ?
ま、そんなことになったら、読むほうもかなりシニカルになっちゃうでしょうけど。ああ、コートが欲しいという物欲に駆られた結果として、ずいぶんシニカルな物語を考えちゃったもんだ。
600 20061123 物欲に駆られる ああ、コートが欲しいよ!なんて言ったら今年はもう一着作ったじゃないって言われそう。
はい。確かにつくりました。出来上がって日にすぐに横浜の会合に着て出かけたら「これからオペラを始めるのですか?」って言われちゃいました。緑とグレーの織柄で、薔薇の模様だから。娘は「なに、その派手なの」って言ってました。確かにボタンにライトストーンが入っているから派手って言えば派手です「いいよ、いいよ森の妖精か、緑のおばさんみたいで、素敵ですよ」って息子が言っていました。お前、それってぜんぜん褒めてないって(ぷんぷん)とくに「緑のおばさん」ってところが。横断歩道で旗を振ってやろうかしら。裏地はブルーにして、内ポケット(いわゆる隠しってやつ)をつけて「EMIKO」のネームも入れちゃいました。「えっ、本名でネーム入れたんですか」とゼミ生のM君。悪いか、本名でネーム入れて。でも、このコートって合着なので、文学フリマがあった日曜日(12日)から急に冷え込んでもう着られなくなっちゃったんです。来年の春までお預け。
で、見つけちゃいました。革のなめしがものすごくいいコート。細身のトレンチ。でもちゃんと私でも入るサイズ(これがそんじょそこらでは見つからないの)店員さんも「軽くて着心地が良くて、しかもお安いですよ」って、私もそう思います。ただ「お安いですよ」という比較対照がエルメスなのが泣き所。そりゃ、エルメスに比べればお安いです。舞い降りてた物欲大魔王と戦いながら、公孫樹の紅葉が見事な光が丘公園を散歩してきました。え、コートなしで散歩していたのかって?もちろんコートは着てました。ベージュ色のPコートを。
そういうわけで、今夜の東京はちょっと寒くて寂しい雨が降っています。カルフォルニアの伊藤さん、もうすぐ東京のお越しとのことですが、暖かくしてやって来てください。そうだ、とてもごついところが伊藤さんによく似合う裏革(バッグスキン)のコート着てましたね。あれがもう必要になってます。あのカウボーイが着ているようなコート。
599 20061119 休日の電車 先週は日曜日に、今週は土曜日に午前中の電車に乗りました。平日の午前中とちがって圧倒的に遊びに出かける人の多いのんびりした電車です。で、日曜日の電車がずいぶん華やかになったなあと思いました。おしゃれをしている人が多いのは当然と思われるかもしれませんが、一昔前は、普段着は「安い服でいいや」という感じで、なんとなく張り合いのないものを着ている大人の間に着飾った子どもが混じっているという感じでした。
小さな子どもを抱っこしたお父さんが増えたのも最近の日曜日の電車の眺めの新しいところです。こういうことって、ある日、「あれ!」という感じで気が付くのですが、ではいつからかな?と思い返してみても、なかなかいつからなのかわかりません。そうして、赤ちゃんを抱っこしたり、小さいお嬢さんに擦り寄られたしている若いお父さんの身なりがとてもよくなっています。それぞれによく似合うものを着ていて、なかなか感じがいいです。平日だと、来ているスーツの印象から、この人は商社か、金融関係かなとか、きっとメーカーの営業さんだな、あるいは、建設会社みたいなどと、見当がつくのですが、日曜日はそれぞれの職業はあまり見当がつきません。それより、何か家庭の個性みたいなものがその服装に表れているような気がします。
先週の日曜日は秋葉原で開催された文学フリマのために、今週の土曜日はつくばエクスプレスに乗るために秋葉原にでました。こんなに毎週、秋葉原にでるようになるなんて思っても見ないことでした。
598 20061116 伊勢丹 伊勢丹で最初にカルバン・クラインの麻のスーツを買ったのはまだ大学生の時で、これは今考えるといささか老けた感じの買い物でした。もっともその頃は、老けた感じというと地味と同義語で、20代後半から30代の女性の服といえば、家庭の主婦向きという感じでしたから、麻のスーツなんて珍しかったのです。で、今、これを書いていて、カルバン・クラインのコートって買ったことないなあと気付きました。
なぜか突然、赤が着たい!という気になったのは、母が亡くなる前の年の11月でした。もっとも、その頃、母は寝たきりの状態で、病院に入院していました。今で言えば介護状態ですが、その時分は介護なんていう言葉もありませんでした。で、介護状態はこれからどくくらい続くのかまったく解らなかったのです。5年かもしれません。10年かもしれません。実際は翌年のお正月過ぎに容態が急変して亡くなったのですが、伊勢丹で赤いセーターを買ったときはもちろん、そんな運命になっているなんて知りませんでした。
カルバン・クラインの赤いセーターは肩の部分が水平に開いているという変わった形でした。病院にいた母をお正月に館山の家に連れ帰りました。片道5時間くらいの道のりを寝台付きの自動車で帰ったのです。久しぶりの館山の家でした。母が使っていた部屋からは洗面所が見えるのですが、その洗面所で赤いセーターを試しに着て鏡に姿を映していると、蒲団の中から
「それ、よく似合うね」
と言ってくれました。その時の声は左半身が麻痺して、発音も不明瞭になった人の声とは思えないほど鮮明でした。お正月を館山の家で過ごして、病院に戻って一週間ほどで、突然、容態が急変したのです。病院から「すぐに来て下さい」という電話をもらったのは、息子の3歳の誕生日を祝うケーキの蝋燭を吹き消している時でした。
597 20061114 木枯らしの歌を思い出したくて…… なんか木枯らしの歌があったなあと、考えているのですが、思い出せそうでなかなか思い出せません。
コートの話の続きです。こんな木枯らしが吹き始める季節に新宿のサブナードで臙脂色のコートを一着買いました。気まぐれだったので、後からサンローランのものだと知りました。というか、会計の時にあんまり高いのでぎょっとしたのです。でも、ものすごく気に入っていたので、やや(値段には)諦めの心境で買ってしまいました。臙脂色で、やはり腕のしたあたりの線で切り替えが入っていました。切り替えのしたにはたっぷりのタックがとってありました。背中のタックのとりかたが美しいのと、臙脂色の生地が玉虫で、光の具合で黒く見えたり赤が勝って濃い赤に見えたりしました。袖の肩のところにもいくらかピンタックととってありました。ピンタックでぎろがった袖が袖口のカフスできゅっと締められるという形でした。丈は膝丈。
このコートで感心したのは、袖を通さずに肩にかけているときの広がり方の美しさでした。外国映画を見ていると肩にコートをかけているシーンをみかけますが、なるほど、肩にコートをかけるためにはそれなりの設計がいるのだと納得したものでした。高校生の時から着ていた紺色のハーフコートをお別れをしたのはこの頃だったかもしれません。臙脂色のコートを気まぐれに買った翌年には上の息子が生まれましたから、もう25年も前の話です。
596 20061113 木枯らしが吹きました。 日曜日は秋葉原で文学フリマがありました。そして前夜から冷たい雨が降って、木枯らしが吹きました。木枯らしが吹くと厚手のコートの季節です。
つんつるてんの学生コートとあんまり生地がよくなよれよれのトレンチコートのほかにもうひとつ、高校の時に着ていたコートがあります。これぞお気に入りのコートでした。ハーフコートよりもやや丈が眺め(七部丈)の紺色のウールコートでした。最初は裏地にタータンチャックの生地を張ったフードがついていたのですが、うるさいのでフードははずしてしまいました。衿はスタンドカラー。背中は腕の下あたりの線で切り替えが入っていて裾広がりのフレアーになっていました。このコートがことのほか気に入っていました。
最初は制服の上には着ていなかったのですが、終いには制服の上でもこのコートを着るようになりました。大学に入ってからもこのコートを着て通学していました。その頃は西荻に住んでいたのですが、近くに詩人の江代充さんも住んでいて「どうも、そのコートを着ると不思議な雰囲気になるねえ」と言われたことがあります。街をすたすたと歩きながら宙を睨んでいる姿を見かけたのだそうです。
そのあと、しばらくしてからラルフローレンのPコートをやっぱり紺色で着るようになるのですが、Pコートを気に入るきっかけみたいなものはこのハーフコートにあったような気がします。去年、久しぶりにベージュのpコートをやはりラルフローレンで購入しました。紺色のPコートの裏地がぼろぼろに擦り切れてしまってから、もうPコートという年でもないだろうと、そのあとしばらくPコートを着なかったのですが、ふとした気まぐれから色を変えて、着てみたらなかなか着心地が良かったのです。ベージュ色のPコートなんて格好悪いと感じていたのに、それにもかかわらず、気に入ってしまいました。
595 20061110 トレンチコートの集団 制服以外はとくに服装の規定がなかった私の高校では秋口になると薄い蝉の羽のようなカーディガンを羽織るのが流行ってました。薄さを競うような感じで、みんな白いカーディガンを着ていました。そして冬になるとトレンチコート。
カーディガンは女子だけですが、トレンチコートのほうは男子も着ていました。2年生の11月の修学旅行でも学生服の上にそれぞれが好みのトレンチコートを着て京都の街を歩いていました。夜の自由時間には新京極の通りでお土産を物色してもよいことになっていました。そういう学校は多いらしく、宵の口の新京極の通りには日本中から集まった中学生や高校生が犇いていました。どの学校も制服の上には何も着ていないのですが、私の学校の男子どもは、トレンチコートの肩をそびやかして歩いていました。そのうちのだんだんと、同じ学校どうしで固まりを作るような歩き方になって、トレンチコートの大集団になってしまいました。ちょっと威圧的でした。
その威圧的な集団を「あれ、あんなに固まって歩いている」と見送ったら、そのあとから先生が追いかけてきました。ややあわてた調子で「うちの連中を見かけなかった?」と聞くので、新京極の通りが下る方向をさして「あっちへ行きましたよ」と教えたら、大急ぎで追いかけて行きました。あとで聞くと「あんなに目立つ格好でかたまってはどこかほかの学校とのこぜりあいになりかねない」と心配したのだそうです。実際、新京極のとおりでは、学校どうしがぶつかった乱闘になるなんていうブッソウなことも時々起きていました。
私が灰色のトレンチコートを買ってもらったのは修学旅行の翌年のことでした。ただ安物で、生地がくたくただったので、あんまり気に入りませんでした。トレンチ特有の張りが足りないというのか、あの新京極の通りで先生を心配させたようなびしっとした感じがなかったのです。
594 20061109 学生コート いったいいつ、女子高校生のスカートはチアガールみたいに短くなってしまったのかという話題を時々、いろんな年代の知人と喋ることがあります。「私の頃は長かった」とか「私のときはもう短かった」などなど。いろいろに思い出しているのですが、不思議なことに長い丈から短い丈に以降した時期を知っている人にはまだ巡り会ったことがありません。謎です。
それにしてもあんなに短い丈のスカートでは「スケバン」なんて出来ませんねというのは共通した意見です。まあ、現役の高校生を知らないので、おばさんたちはそんなことを言っているのですが。で、スカートが短くなったせいか、高校生が着ているコートも丈の短いピーコートが多いようです。もしかするとピーコートが制服として取り入れられるほうが先で、それから短いスカートが流行りだしたのかもしれません。
中学校の時、学校指定の学生コートを買ってもらいました。紺色のステンカラーのコートでした。このコートは形はともかく、生地が安っぽくて好きになれなかったのですが、高校生になっても着ていました。ちょっと意地みたいなものです。高校では制服以外に服装の指定はなくて、トレンチコートが流行ってました。衿が大きくて肩章がついているもので、色は紺、灰色、茶色、カーキ色など様々でした。こういう派手なトレンチコートは生地のよしあしがはっきりわかります。もっと平たく言うなら、値段が出てしまうのです。安いコートを着るくらいなら、中学の時の学生コートでいいやっていうことでつんつるてんの学生コートを着ていました。
593 20061105 小学校はジャンパー 会う人ごとに「いつまでも寒くなりませんねえ」と言うのが最近、挨拶の代わりみたいになっています。一の酉が過ぎたというのに、寒さ知らずのお天気です。今日も地下鉄の中であった人が「だって夏の背広着ているんです」って教えてくれました。初夏から夏にかけて着る合着の背広で外出できてしまうこのごろのお天気です。
で、コートの話の続きです。小学生の時、何か記憶に残っているコートってあるかしら?と考えてみたのですが、これと言って記憶に残っているコートがありません。雪の日に家の前で撮影してもらった写真では大きな格子の柄のコートを着ているのですが、このコートの記憶がないのです。千葉県の最南端の館山では、冬でもセーターがあれば充分で、あまりコートを着ることがなかったのでしょう。
横浜から館山に越したのは小学校に入学する年でしたが、男の子が長ズボンを履いているのを、奇異に感じました。もっとも、館山の子には半ズボンというものが奇妙に見えるようです。ずっとあとのことですが、高校のともだちが「東京の子どもが足を出した半ズボンをはいているのが気持ち悪い」と言っていました。我が家では逆で子どもが長ズボンなんて履くものではありませんとばかり、冬でも弟は半ズボンで過ごしていました。東京の子どもの半ズボンを気持ち悪がっていたともだちによれば、草むらの多い田舎では、半ズボンは虫刺されや蛇に噛まれるなどの危険があるそうです。へえぇ、そんなものかしらと、妙に感心しました。気候的には横浜よりはずっと半ズボンに適したいたのに。
コートとは縁が遠のいた小学生時代を終わって、中学生になると、制服の上に着る学校指定の学生コートを買ってもらいました。私はちょっとした意地で、この学生コートを高校生になっても着ていました。
592 20061104 コート 大好き 夏の初めに買ったローライズの半ズボンは結局、外出の時に履くことはなかったなと、思いながら鏡の前で履いてみました。そこへ息子がやってきて
「ああ、エッグ・スタンドだ」
うまい!座蒲団2枚なんて、言いたくなるくらいの絶妙のタイミングだったんですが、丸いお腹がつまり玉子ってことでしょ、それって。まったく(ぷんぷん)。
コートはそんなことありません。だからコートが大好き。でも夏の初めにアニエスbで見つけた麻のコートは細身過ぎて入りませんでした。まったく(ぷんぷん)来年は麻のコートを注文で作っちゃおうかな。でもなかなか気に入る生地ってないのです。
いちばん最初に着たコートは弟とお揃いでした。白と赤が霜降りになった毛糸のコートで、フード付き。フードの縁と袖口には黒いウサギの毛が張ってありました。コートを着て撮影した記念写真はカラー写真が出始めたばかりの頃のものですから、今ではもう薄茶色(セピア色)になっています。出始めの頃のカラー写真って色あせしやすかったのです。今年はフードとか襟元にフェイクの毛皮がついたコートが流行るみたいですね。
591 20061103 落ち葉の匂い いつもは寝ぼ助の娘が朝早くに支度をして出かけて行きました。なんでも仙台へ紅葉を見に行くのだそうです。ここのところ、毎年、秋が来るのが遅くなっていますが、11月になるとさすがに寒くなってきます。飯田橋あたりでも、毛糸のマフラーをした人の姿を多く見かけるようになりました。
デパートなどのショーウィンドーを見ていると、けっこうデコラティーブなファッションが流行っているみたいで、網タイツなんかがかなり出回っています。こういうのって流行っているときしか買えないので、今年は余分に買っておこうかしら?25年ほど前にパリに旅行したときも、網タイツが流行していたのですが、東京に戻ってみるとほとんど売ってませんでした。そういうものを東京の女性も身につけるようになったというのか、それとも流行に時差がなくなったというのかどちらなのだろうと足の装飾を眺めています。いや、落ち葉の匂いの話を書こうと思っていたのに、話がそれてしまいました。
網タイツの話にそれてしまったついでに、思い出したことをひとつ。若い女性が網タイツをはいているのを見ると「昔の年上の女の人は意地悪だったねえ」とついつい昔を思い出してしまいます。ちょっと色っぽい服装をしたり、変わった身なりをするとじろりとした目で眺めて皮肉っぽいこ言葉を投げかけてきたりしたものです。ああいう意地悪な感覚って、なんだったのかしら?あんな目で眺められたら、デコラティブなおしゃれなんて出来たものではありません。そういう意地悪がなくなって良かったなあって思います。
そうそう落ち葉の匂いの話。飯田橋から市谷に続く外堀の土手を夜、歩くと桜の落ち葉の匂いがします。春の花の時にはそれほど匂うということがない桜ですが、秋の落ち葉の季節にはほんとうによく匂います。桜餅のあの葉っぱの匂いです。この匂いに包まれると桜餅になった気分(笑)昼間の人通りの多い時にもきっと匂っているのでしょうけれども、夜8時を過ぎて人が少なくなった土手は、闇が甘く匂っています。
緑色のコートに青い裏地を付けたものを注文しました。隠しのポケットを入れてもらって、名前の刺繍も入れてもらいました。もうすぐ出来上がってくるはず。注文服なんて作る人は少なくなってしまいましたが、ポレタ・ポルテよりも、なんとなく出来上がるまでの時間が楽しみです。
590 20061030 寝てくらす。 3日ばかり寝て暮らしました。おきている時間もなかったわけではありませんが、ぼうっとしてました。寝てるとしあわせ!
お正月も寝てくらしていることが多いけれども、お正月になる前にちょっと一休み(このなまけもの!)で考えたんだけれども、散らかっているのが楽しめる家ってつくれないかしら? 一番簡単なのは、家そのものが広いことです。この場合は散らかっているのを楽しめるというよりも散らかる場所を移動させる(結局、最後は家じゅうが散らかることになるかも)に過ぎないのかもしれない。しかし、何かうまく散らかっていることが楽しめるようなインテリアなり設計なりがありそうな気がしてます。
で、よく考えてみると(寝ながら)家の中が散らかって困るのは、物や道具がごちゃ混ぜになってしまうからです。で、寝室、書斎、台所、食堂っていうふうに空間が区切られていれば、物や道具がごちゃ混ぜになるのはかなり防げるでしょう。狭い家でもそんなふうに空間を使うことはできないかなあって思ってました。あと、空間には、物や道具を受け入れるための許容限度みたいなものがあって、それを超えると散らかっていることを楽しめなくなっちゃうんだなあとか、寝ながら考えていました。重量オーバーじゃなくて、こういうのをなんと言ったらいいのでしょう。つまり、散らかっていることを楽しめる家にするには、その許容限度を探さなくちゃけいないわけだねなあんて、寝ながら考えていても、許容限度は探せないのですが、寝ていたせいで、頭はすっきりしました。頭の中にも許容限度があるみたい。
589 20061029 耐震偽装事件と高校の必修科目未履修問題 昨年の秋に表沙汰になった耐震偽装事件といい、今度の高校の必修科目未履修問題といい、組閣が終わると、こうした広範囲に影響のでる問題が転がりだしてきます。それも、メディアを通じたリークの形が二度も続くとなると、新大臣がスタンドプレーをやっているんじゃないかしら?と勘ぐりたくなります。それとも、官僚が新大臣を困らせるために、情報を投げているのかしら?
結局、ほんとうにところはわかりませんが、そういう勘ぐりがひとり歩きをするだけでも、行政や政治に対する信頼はそうとうなダメージをこうむることになります。私が考えるようなことは、おそらく、日本中の多くの人が考えるに違いないからです。
必修科目未履修問題では「それにしても私立高校の数がすくないなあ」って首をひねっている人がいました。確かに。確かに。もっと私立高校で未履修がありそうな気がします。07年には大学全入時代が来るとか、いや、もう実質全入になっているとか言っている時代に「受験」を理由に履修科目を減らしていたというのもなんだか納得できない話です。学校の認識になにか時代錯誤的なものがあったのではないかしら?とつい考えてしまいます。今、校長先生くらいになっている世代ってものすごく受験が厳しかった時代に大学生になってます。受験者の数はどんどん増えるのに、大学の数が少なかった時代の受験生でした。「受験生ブルース」なんて歌が流行していた頃です。その当時の記憶って、なかなかしみ込んで離れないのではないでしょうか?
とすると、たぶん、メディアの報道が信用されていないのです。報道が信用されないから、「受験生ブルース」を歌っていた往時の記憶で、受験用の学校を作ってしまうという事態になったのかもしれません。
耐震偽装事件のほうはすっかり矮小化されてしまいました。たぶん、危ない建物はもっともっとたくさんあるのでしょうけれども、一部の人が大きな打撃をこうむる形で終わりになってしまいそうです。
588 20061027 現代文学とエロティシズムの変容 タイトルのテーマで横浜で講演します。今月の文芸雑誌は新潮、すばる、文芸が新人賞を発表していますが、セックスの描写が、以前と比べてずいぶん変わったなあと思うと同時に、性のモラルの変化もそこに感じます。性のモラルは日本の文学では恋愛小説を書くうえで大きな障害になっていました。また性のモラルというものが、男女差に基づいていたので、不合理な男女差別を生み出している感じも強くありました。が、ほかのことと違って、なんとかなるものではありませんでした。
簡単に言うと何をすてきだと感じるかは、まあ、理屈ではなくて感覚の問題であり、身体的な反応だからです。昔は(昔って言ってもほんの2、30年前)は理屈っぽい女なんて、女のとしての魅力がないなって平気で言っている男性がいたものです。「あなたが魅力を感じないのは勝手です」と応戦しておくよりほかになかったのですが、今はそんなことを言う人はほとんどいないでしょう。魅力を感じないというよりも、近寄りがたいと思う人はいるかもしれませんが……。そのあたりの変化についてお話したいと思っています。人間って、頭の中にしみ込んだ理屈で、身体の感覚も変わるんだなあと驚くような気持ちになることがあります。その一方で、ただ口先だけで理屈をこねても、身体がついてこないというようなこともままあるので、その兼ね合いを眺めるにはエロティシズムというテーマはおもしろいテーマだと感じています。
587 20061025 松山に行ってました。 四国、愛媛県の松山です。そうあの「坊ちゃん」の松山で、道後温泉には入ってきました。おいしかったのはおこぜ。白い身はお刺身に。皮と肝を添えて。骨はから揚げにして、頭は麦味噌で味噌汁に。ああ、おこぜや、おこぜやって感じでした。そうそう松山は、俳句の革新運動を起こした正岡子規の故郷でもあります。
おどろいたのはヒレステーキ。とっても上等なヒレ肉(もちろん牛)を鉄板でステーキにしてもらったのですが、最後にお好み焼き用ソースがじゅっとかかって、「あれれれれ?」でした。お好み焼き用のソースは嫌いではないのですが、あんな良いお肉にかけなくってもとい感じでした。このステーキ屋さんの人気メニューはソバメシ。熱した鉄板の上で、白いご飯と焼きそばをお野菜といっしょにじゅうじゅうといためて、これまたお好みソースをかけて出来上がり。テイク・アウトもできて、サンダルをはいたお兄ちゃんが「コンビニに行ってくるから、その間にそばめしを作っておいて」なんて注文してました。上等なヒレ肉を持っているのが、不思議な感じの庶民的なお店でした。
町の真ん中にお城の山がデンとありました。この山がロープウェイを使って登らなくちゃならない高さ。あんな山の上のお城に住んでいたお殿様は寂しくなかったかしら?毎朝、御家来衆が登城してくるのが待ち遠しくはなかったかしら?それとも自然に孤高の気が養われて、気高いお殿様になったのかしら?そうではあっても毎朝、登城する御家来衆は容易じゃないねえというお城でした。お城の周りを路面電車が市内いたるところ150円という運賃で走ってました。電車は窓枠まで木星の古い型から、最新式まで、いろんな種類のが混じってました。窓枠まで木星の古い型のやつは、走る時
うぃんうぃんごとごとぶううんぶんごうごう
と賑やかな音をたてて走り回っていました。
586 20061020 外交合戦は賑やかだけど 北朝鮮が核実験をしていらい、さまざまな外交合戦が繰り広げられていて、新聞の一面の写真は日、米、韓、露、中、朝の政府高官、要人の顔が並んでいます。が、これから頻繁に会談が行われているにもかかわらず、会談の内容はさっぱり伝わってきません。こういうときは何か重要な内容が話し合われているのはまちがいないのですが、それが形になって現れてくるのはいつだろうかと固唾をのむような感じです。
公立の体育館で警備員のアルバイトをしている息子の話ではテロ警戒の書類が回ってきているとのことでした。ガス、水道などのインフラ施設の警戒を重要視している内容だったと言っていました。
7月に山形の鶴岡に出ているとき、北朝鮮がミサイルを発射したということがありましたが、今度は飛行機で松山です。こんな調子だときっと空港の搭乗手続きも警戒レベルがあがって厳しくなっているでしょうから、早めに出かけるようにしたいと思います。
585 20061019 甘い夜風 毎年、毎年、だんだん寒くなるのが遅くなっているようです。ここのところ、帰宅の途中で、夜の街を歩いています。歩くにはちょうど良い気温で、空気も乾き、夜風は甘い匂いがします。10月も半ばを過ぎると寒かったという覚えがあるのは、コートが好きだからです。以前、10月半ばにはコートを羽織っていたものですが、最近はコートが欲しいとは感じません。
シルクの混じった生地のコートを注文しました。さすがに薄手のコートは真冬に着られませんが、厚い生地のコートを着ている時期よりも、薄い生地のコートを着ている時期のほうが長くなっているような気がしてます。
そこで花柄の地紋を持った緑色のコートにブルーの裏地を付けてもらうことにしました。内ポケットにネームも入れるようにお願いしました。既製品ではなくて、せっかくオーダーするのだから、ちょっと贅沢することにしたのです。甘い夜風にすそがひらひらすると楽しいなあと、すそには少しフレイヤーを入れてもらいました。
出来上がってくるのが楽しみです。それまでに急に寒くなって霜が降りたなんてことがありませんように。
584 20061017 せせらぎの会 「せせらぎ」の会は9年前に開かれた文章教室をきっかけにできた作文の会です。毎年、一年に一回づつ、会員の皆さんが作った文集を講評する会に講師としてお招ききただきました。その「せせらぎ」の会が今年でおしまいになるということです。会員の皆さんが10年分、歳をとられたからです。
「せせらぎ」という名前は「けい」→「渓流」→「せせらぎ」というふうについたのだということを、最終会にして初めて知りました。一口に文章と言っても、手紙、報告書、エッセイ、小説、評論などいろいろなスタイルがあります。「せせらぎ」の会は文章のスタイルを絞ることなく、それぞれの方が思い思いの文章を書いてきた会でした。それだけに、文章を書く楽しみは書く人の個性によっていろいろあるのだなと感じさせられることの多い集まりでした。
一年に一度、皆さんのお元気そうなお顔を拝見するのもこの会に行くときの楽しみになっていました。なくなってしまうのはとても残念ですが、会員の皆さんのなかには「豆の葉」を御覧になっていただいている方もいるようですから、また何かでお目にかかれればいいなあとせつに思います。皆さん、どうぞお元気で御過ごし下さい。ごきげんよう。
583 20061014 「買えない味」「買える味」いろいろ タイトルは平松洋子さんのドゥ・マゴ賞受賞式二次会でくばられた冊子のタイトルと同じです。二次会のお料理が赤い小さな文字で紹介された冊子でなかなかしゃれています。以下、その内容から抜粋。
焼き鳥 銀座バードランド
トルコ風ペースト 土器典美(DEE'HALLオーナー)
クスクス
スパイシーなえびのグリル+ファラファル
中村あき子(料理研究家)
野菜いろいろ
EXオリーブオイル イタリア・トスカーナ
「ボナッコシ」
塩 石川県珠洲市仁江町 角花豊製
レモン 瀬戸田エコレモン
パイナップル ホットシュガーといっしょに
平松洋子
ハイボール 銀座「ロックフィッシュ」
ビール アウグスビール
ワイン オーストラリア
「パンロックステーション」
カルベネメルロー
ね、ちょっといいでしょ。こういう二次会って。
582 20061012 買えない味 平松 洋子 / 筑摩書房
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平松洋子さんがドゥ・マゴ賞を受賞しました。「買えない味」は受賞作です。昨晩、渋谷の東急文化村で授賞式がありました。平松さんは紺色のシンプルなワンピースがよく似合っていました。
二次会は青山で。こちらの方が授賞式よりもたくさんの人でごったがえしていました。正直言って、誰がいるのかまったくわからない状態。で、銀座の焼き鳥屋さんのバードランドが出張してきて、お庭で焼き鳥を焼いてました。私は羊を焼いたのをごちそうになったのですが、これが忘れられないくらい美味でした。ちゃんと羊の香りがするのです。
「買えない味」は食べ物は誰とどんなふうに食べるのかで味が変わることを書いたエッセイ集。人間を幸福にしてくれる食べ物は「買える」ものばかりではないのです。で、このエッセイ集を読んでいると、私は子どもの頃のことを思い出すというよりも、もうこの世にいない人、祖父母とか父母とか叔母とか、そういう人たちに会っておしゃべりをしているような気がしてきます。そうそう、小さかった弟とか小さかった自分とか、雨の日にどこかに越していった雨宮さんとか、まだみんなこの世にいますけど、でももう会うことができなくなった人もそこに加わってくるみたいな、そういうエッセイ集です。
581 20061010 こんどの超漢字は 今月、パーソナルメディア社から「超漢字X」がでるということです。で、これがちょっとすごい!今まではPCのデスクを区分して「ウィンドウズ」と「超漢字」を別々に使ってました。だから「超漢字」から「ウィンドウズ」に移る場合には一旦、パソコンを閉じて、再起動させるという作業が必要でした。今度は、「ウィンドウズ」の上にかさねるようにして「超漢字」を使えるようになるらしいのです。
感覚的には「ウィンドウズ」のアプリケーションソフトみたいですが、もちろん、エンジンは「トロン」です。で、さらに、さらに楽しみなのは、1ページに複数の原稿を印刷できるという点です。PCのワープロソフトは「原稿」と「製版」の観念が混在していて、原稿を書こうとする場合には使いにくいのですが「超漢字」では400字の原稿用紙を設定して原稿を作ることができます。で、それを紙に印刷するときは400字ではなくて複数ページで印刷できるようになると、これは修正の作業がものすごく楽になりそう。
なぜそんなに400字にこだわるのかは、これまで幾つかの原稿を書いています。簡単に言うと400字でどのくらいの内容を盛り込むことができうるかが、直感的に解ると長編製作がイメージしやすくなります。私などは400字つめ原稿用紙を使うのが当たり前な時代に仕事をしてきましたから、大学の学生の諸君にそのことを言い忘れてしまうことがあります。400字という標準的な文字数で原稿を考える習慣をつけておくと、長いものを書くときに便利なんだと教え忘れて卒業制作の時にあわてるということが何度もありました。(今年も誰かいるんじゃないかと心配)あんまり当たり前のことってつい忘れてしまうのですが、PCを使って当たり前の学生はそもそも400字という文字数の感覚がない場合があります。それから、これも物書きの世界ではあたりまえなのですが、規定の文字数で原稿を書くというのは、一般的にはあまりやれる人が少ないようです。
「超漢字」には原稿の進捗具合を視覚的に示すイイジゲーターを付けてもらいました。で、そのことをものを書くことを仕事にしている人に話すと一様に「それ、いいなあ」って言うのですが、文字数を限って原稿を書くことがない人には、このインジゲーターの必要性はあまり感じていないようです。文字数を意識しないと文章の構成ってなかなかできないのですが、そのへんにはあまり注意をしていないみたいです。
それで、「超漢字X」の心配は仕事をしながら、ちょくちょくネットを覗いたりして遊んでしまうんじゃないかというところ。これまでは、再起動させなくちゃいけないという制約で、仕事の時は仕事というけじめがありましたが、その集中力を一時的に失うかもしれません。ほんとPCってなんとなく散漫に時間を使ってしまうのはテレビ以上の威力があります。という心配はありながらやっぱり「超漢字X」が待ち遠しいです。
580 20061007 十六夜の月とともに ちぎれ雲の上に顔を出した十六夜の月といっしょに空を飛んで那覇から帰ってきました。8日は那覇の大綱引き。綱引きを見たかったのですが、8日は鎌倉で予定が入っているので、夕方の便で戻ってきました。沖縄タイムスの新沖縄文学賞の選考会でした。
今年は8月に選考委員のお一人の岡本恵徳さんがなくなって大城立裕さんと二人の選考会でした。新沖縄文学賞は沖縄の伝説に題材をとった作品になりました。沖縄タイムスはネットバージョンもありますから、詳しくはそちらを御覧下さい。
金曜日に東京を出発する時は羽田の上空を分厚い雲が覆っていました。しかし、四国以南は快晴で飛行機も揺れませんでした。那覇の大綱引きがあるせいか、はたまた修学旅行の季節のためか、飛行機は満席でした。
選考会の開かれたザ・ナハテラスのロビーでは浅丘るり子らしき人を見ました。あんまりじろじろ見るのも失礼なので、他人の空似かもしれません。でもあの小柄な体格で、目を引く存在感は女優さんならではないかしら?などと考え込んでしまいました。
ザ・ナハテラスのあるおもろまちは那覇と首里の間にできた新都心ですが、FDS(免税売店)などもあり、なかなか賑わっています。ザ・ナハテラスがかつてのハーバービューホテルに変わる高級リゾート・ホテルで、けっこういろんな人が来ているというのは沖縄タイムスから聞いた話です。ハーバージビューホテルはもとは米軍の将校クラブでしたから、沖縄もずいぶん変わったなあと思いました。
というわけで、那覇に一泊。土曜日の国際通りはぶらぶらと歩いて、午後の便で帰ってきました。国際通りはお土産屋さんの激戦区。韓国客のリピーターが多い沖縄ならではの競争があって毎年覗くたびに、なにやら目新しいものがあります。今年は手描きのTシャツを見つけました。金魚にしようか鯉にしようか迷ってあげくに金魚を購入しました。帰りの飛行機の窓のそとに十六夜のよく済んだ月が浮かんでいました。カメラマンの比嘉康夫さんに十五夜の沖縄を案内してもらったのはもう25年も前なのを思い出しました。
579 20061006 大雨のお誕生日 今年こそはお誕生日のプレゼントをせしめてやろうと思っていたのですが、残念、午前中の便で沖縄です。幸い、台風は沖縄をそれているのできっと飛行機は飛ぶでしょう。自分が出かけてしまっては「お誕生日のプレゼントをもらいに来たの」なんて言うこともできません。
ちょっと残念。えっ、誰からプレゼントをせしめようとしていたのか?って。それは内緒。
578 20061004 小林孝亘個展 「うさぎとトランペット」の公明新聞連載時の挿絵と単行本の表紙の絵を描いてくださった小林孝亘(たかのぶ)さんの個展が開かれています。
西村画廊 東京都中央区日本橋2−10−8
日本橋日光ビル3F
TEL 03−5203−2800
10月3日から10月28日まで
3日に久しぶりに小林さんとお話してきました。今度の個展は人の顔です。ぱっちり目をあけた人の顔。片目をつぶった人の顔。肌色とグレーのトーンが美しい絵でした。絵を描くときは、色の濃淡、線の流れ、部分の配置など、人の顔(意味)よりも、そういう絵の部分と画面の関係を考えて描くそうです。でも人の顔だと、ことに目を開けた人の顔は、描いているうちにだんだん表情(意味)を帯びてくるというお話をしてました。
時々、ほんとうに世界はいろんなふうに見えているんだなあと思うことがあります。絵を描く人には、世界は線と面の組み合わせと色の濃淡で出来上がっていると見えるらしいのです。これは画家とお話すると、ある共通した感じがあります。
文章を書く人間は世界は意味(言葉)でできているように見えます。無意味でさえ、無意味という意味(言葉)で構成されているような気がします。
昨年、ご結婚なさった小林さんはふだんタイにお住まいですが、来年の春までは、新しく開設される横須賀美術館での展覧会のための絵を日本で描くそうです。
横須賀美術館の絵も楽しみです。
577 20061001 こんなことができちゃうんだ。 長谷川 郁夫 / 河出書房新社
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「表現者」で著者の長谷川郁夫さんにインタビューしました。アマゾンにリンクできるブログを見つけてやってみました。こんなことができちゃううんだ!
第一書房創業の頃、皮装の豪華本で萩原朔太郎や堀口大学の詩集を作った長谷川巳之吉が、日中戦争勃発の頃から大川周明やヒットラーのほんを軽装本で出すようになるのは一見、矛盾しているように感じられるかもしれませんが、もともと幻視者(ビジョニスト)的な性格があった人物としては、ある意味、当然の帰結だったのかもしれません。いずれにもヨーロッパの模倣が含まれているという共通点が、それをよく物語っているように思えます。詩人が見た幻は皮装に包んで限られた人々に届け、国民が見た夢は軽装のペーパーブックで届けたというのは出版人としては、まことに正統な感覚であったと言えるでしょう。前者は選ばれた読者のためであり、後者は万人のためのものだからです。
高級ブランドの販売と薄利多売の大衆的商品の販売の仕方の違いです。それは同時に植民地主義にたんを発した軍事拡張と軍備増強がきわめて大衆的な政治潮流であったことを意味しているように思えます。
巳之吉は第一書房が最盛期を迎えた昭和19年に突然、廃業します。「表現者」のインタビューを終えてから著者の長谷川郁夫さんに聞きました。「巳之吉は昭和19年の正月もしくは18年の年末の時点で、日本の敗戦を見通していたかしら?」「それはそうだろうけど、それは書かなかったの」という返事でした。
「美酒と革嚢」は資料をして語らしむるという姿勢の評伝ですが、あえて書かれなかったことがたくさんある本です。書かないことによって語られることがたくさんあると言ってもいいでしょう。詩人の夢が国民国家の空想的な夢想に大変化をしてゆくさまは、書かれずに語られたことのひとつでしょう。
576 20060930 美容院に行きたいなあ! というわけで、明日、美容院の予約をとりました。銀座通りにある美容院に行ってます。銀座通りはデパートやミキモト、山野楽器など大きなお店が多いのですが、大きなビルとビルの間にほそっこい鉛筆ビルも建っていて、そういう鉛筆ビルのワンフロアにある美容院に行っています。いつも髪を刈って(なんという言い方だ!床屋じゃないって言われそう)くれていた美容師さんが昨年、独立してお店を持ちました。そのお店を開いた場所が少し遠かったので、今のそのお弟子さん?にカットをしてもらっています。
美容院に行くのが楽しくなったのは何時ごろかな?もう10年くらいになるでしょうか。その前は嫌でした。行きたくないから1年くらい美容院に行かずに髪を伸ばしていた時期もありました。小学校入学前までは床屋さんが大好きだったのに、なぜかその頃は髪を切るのが嫌いでした。小学校入学前までは、家の向かいに床屋さんがあった時期があって、その床屋さんにすごく可愛がってもらっていたのです。で、何時、美容院が嫌いなって、また好きになったのかって、昨日からいろいろ思い出そうと考えているのですが、分かりません。気まぐれなんです。
今は髪を短くしてます。耳たぶが出る感じ。耳たぶが出るとイヤリングができて楽しいのですが、イヤリングってすぐになくしちゃうしなあ。ピアスはいたそうで嫌だし、困っちゃうんです。日曜日に銀座まで出るなんて珍しいからデパートを覗いてこようと思ってます。豹柄のキャミソールが欲しい!なんでだか解りませんが、この時期、つまり虫の声が獰猛なほど響き渡る時期になるとなぜだか豹柄のキャミソールが欲しくなります。なぜ、この時期なのか解らないけれども、登校拒否のおまじないになるんです。豹柄キャミソールが。紺色のギャバのスーツのしたに豹柄のキャミソール着ているなんて誰も思わないだろうなって、そういうことを理由になんとか学校に出るわけで……。ま、そういうことです(笑)
575 20060929 ベランダの秋 ムラサキシキブが紫の実をつけています。鷹の羽ススキ(鷹の羽のような斑入り)が穂を出しました。はぜの葉が赤く染まり始めました。彼岸花が9本咲いています。市谷の土手の彼岸花より咲くのはずいぶん遅くなりました。これが我が家のベランダの秋です。
彼岸花は以前、もうだめかなと思った時期もありましたが、球根を掘り返して、植木鉢に植えなおして養生をさせたら持ち返しました。植木鉢でもけっこう増えるということが解ったので、来年が楽しみです。
広い庭があったらいいなあと思うこともありますが、ベランダでもけっこういろんなものができます。ただ、庭に草花を植えるというよりも、日持ちのするいけばなという感じでやるほうが良いようです。無理に球根や種から育てるよりも、花の咲いた苗を買ってきてしまうほうがいいものもあります。コスモスなども、花の咲いた苗を秋になってから買うほうがいいみたい。というのも、夏の間、ベランダの床がかなりの高温になったり、地上では吹かないような大風が吹いたりするからです。
来年は、鷹の羽ススキの芽が出る頃に、アルミもしくは銅といった金属の円筒形の鉢を用意しようと考えています。庭よりもずっと鉢のデザインがものを言うのもベランダという場所のせいでしょう。ですから、なんとなくいけばな感覚になるのです。
574 20060928 コスモス コスモスはおばけのように大きくなる株を持っている花です。で、子どもの時の話ですが、近所のおばさんがコスモスの株を憎憎しげに抜いていたのを思い出します。「こんなもん、はびこっちゃってしょうがない」って言っていました。花がたくさん咲いている株は無理やりに抜いていたのです。
なんだか、もうすごく無残なものを見せられるようで今でも秋になるとその光景を思い出さずにはいられません。ええと、何がいいたいのかというと、ただただ痛ましい気がします。コスモスがではなくて、花をいっぱいつけたコスモスを抜く人の気持ちがなんとも言えず、ざらざらした感触になって私の胸の中に残っています。
雑草はどんどん伸びるものですから、その草取りはたいへんな仕事で、大きな株になったコスモスを憎む気持ちも想像してみることは大人になるとできないことではありませんが、それざもやっぱり「ざらざら」は残ります。荒地でも大きな株に育つ旺盛な生活力と可憐な花が風にそよぐ姿のアンバランスを憎んでいたのかしらと、「ざらざら」しながら考え込んでしまうことがあります。昨日は雨。今日は良いお天気になりました。
573 20060924 ローライズ 伊藤比呂美さんのいるアメリカでも、ウェストではくスカートよりも腰骨あたりに引っ掛けるローライズのボトムが流行ってみるみたいです。で、私も持ってます。ローライズの半ズボン。でも、ねえ、腰骨で履くとお腹がはみ出しているように見えちゃって。見えるっていうか、完全にはみ出している。絶対にそれで外は歩けません。ああ、これをちゃんと着たいなあって時々、うちで着ています。来年の夏にはなんとかなるかしら?
女の子のローライズはぺたんこなお腹でにっこり笑っているおへそを見せたいという感じかしら? つまり「お腹」をほこりたいのですが、私は別の意味がお腹が勝手に誇っているって。ま、そんな感じです。
問題は男の子のローライズのジーンズ。どうせ足が短いなら思いっきり短く見せてやるという開き直りを感じます。すらりとした足の持ち主まで短足でよたよた歩いている。で、きれいなお腹を見せるのではなくて、お尻の割れ目が見えそうなのもあるし、おまけにダメージジーンズって最悪。大学のエレベーターの中などで、出会った時には、ズボンを下ろしたくなるし(ズボンを脱いで洗濯しなさい! と言いたくなる)まったく困ったものだ。中国の赤ちゃんがズボンを下ろさなくてもおしめを変えられる下穿きを履いていますが、あれにそっくりです。長い足がもったいない。
時々、へんなものが流行るなあって、おもしろいようなおもしろくないような、そんなところです。来年はローライズのボトムが履けるようになっているかしら?それから今、ローライズのボトムを履いている若い人たちも年をとったら「そんなローライズなんて年寄り臭い」なんて若い人から言われる時がくるのかしら?
572 20060922 去年の選挙の怨み 去年の今頃は衆議院選挙が終わったというところではなかったでしょうか?あの選挙日本全国津々浦々にずいぶん怨みを残してしまいました。選挙というのは、結局、人の繋がりをたどって支持者を集めてまわるということですから、候補者に協力した人は候補者の当落によってあとに様々な感情が残るのが当たり前です。が、去年の選挙ほど大きな遺恨が残る選挙も珍しいと思います。
あと数日で安倍晋三政権が誕生しますが、この政権はそれほど長くは続かないだろうと、学生でも感じています。昨年の選挙の遺恨から生まれる争いを抑えきることはできないのではないでしょうか?若い総理にとってはほとんど無理難題というような事件が次々に起きてきそうな気がします。
それでなくても、小泉内閣の発足当初から誰が情報を流したのか納得できないような事件(金正男の密入国事件、日銀総裁のスキャンダルなど)大騒ぎしたわりには途中で立ち消えのようになった事件(マンション構造偽装事件)検察の措置に疑問が残る事件(ライブドア事件や村上ファンド事件)などなどぞろぞろありました。これからまた、そういう権力闘争が反映されたスキャンダルや刑事事件がぞろぞろ出てくると想像すると憂鬱です。マンションの構造偽装事件なんて、権力闘争にはなんの関係もないと思ってた人を突然巻き込んでしまったわけですから。そういうことがないとは限らないのです。
ミラーマンなんてあだ名を付けられた植草一秀氏が痴漢行為で二度目の逮捕されたときは、鎌倉に出かけていてニュースをまったく知りませんでした。翌日の夕方、鎌倉駅前で待ち合わせた「表現者」の佐藤さんから教えれてびっくりしました。一回目の逮捕の時は真面目に「陰謀説」を信じている人もいました。なにか裏があるんじゃないか勘ぐりの入る事件が続くと、どれが「陰謀」でどれが「珍事」でどれが「ごく普通の事件」なのかわからなくなってしまい、疑心暗鬼が蔓延するということになりそうです。そうそう、民主党をがたがたにしたへんてこな偽メール事件もありましたが、そうしたばかばかしい事件もまた起こらないとも限りません。
571 20060919 台湾リスとかみつき亀 誰のお葬式の時だったか思い出せないのですが、鎌倉の東慶寺でお葬式があった時、参列者の間を台湾りすが平気で走り回っていたことがありました。高徳院の前にある華正楼の3階の座敷で食事をしていたときも窓辺を台湾リスが駆け抜けたので、目を丸くしました。いずれも数年前のことです。
この夏、上郷の「森の家」のテラスで缶コーヒーを飲んでいたら、なんと台湾リスが手を出しているのです。距離は1メートルありませんでした。80センチくらいまで近づいてきて「頂戴」のポーズ。リスってコーヒーを飲むのかしら。たぶん餌をもらいなれているのだと思います。大船観音へ登る山道では孟宗竹の林の中をリスが飛び歩いていました。竹に虎ならぬ竹にリスです。長い尻尾を器用にすべすべした緑の竹に巻きつけて移動していました。なるほど尻尾はそんなふうに利用するのかという実演を見ているみたいな光景でした。
この台湾リスの繁殖は三浦半島一帯でかなり問題になっていて駆除もされているようです。
我が家の近辺で問題にされているのがかみつき亀。大きく育つと1メートルにもなるという亀ですが、光が丘公園に出没するそうです。名前のとおり噛み付く力はかなりな威力を持っているという話でした。息子が「かみつき亀は拾ってこないから安心して」と言ってました。でもそのうち、公園でかみつき亀に遭遇するかもしれません。
570 20060917 漢字を間違えちゃいけないね 40年ぶりに大船の「大船観音」に行ってみました。40年ぶりと言っても、前に行ったのはバスを使った幼稚園の遠足でした。その頃はバスに乗ると必ず酔ってしまうので、バスの中では例によって気絶(寝てしまうこと)していたのだと思います。大船観音は駅前にあったという記憶しかありません。肝心の大船観音の記憶はまったく消えてしまっています。
電車の中大船駅からはいつも眺めている笑みを浮かべた白い観音様です。駅を出ると川の匂いがしました。この川の匂いを覚えているのはきっとバスの中で気絶していてぼうっとした頭で「ここはどこ?」とあたりを眺めまわしていたせいでしょう。法政のゼミ生が一緒だったのですが、そのなかの一人が「あの観音様は顔だけがでかくて身体は小さいんだぞ」と冗談を言ってました。で、実際に山に登ってみると(観音様は山の上に建っているのです)それは胸像、つまり胸から上が唐突に鎮座している観音像でした。N君の冗談は半分くらい「当たり」だったというわけです。
階段にはさまざまな人の祈願を書いた幟がはためいていました。「身体堅固 良縁」なんて文字があって、身体が丈夫で良いお嫁さんが来ますようになんて、なんだかちょっとおもしろいねと、ゼミ生の女性に言うと「でも先生、これって良縁じゃなくて縁(えん)の字が緑(みどり)になってますよ」と指摘。ほんと「良緑」でした。「きっと良い緑さんがお嫁さんにくるんだよ」とか「いやいや、庭の植木がどんどん丈夫になって茂るようになっちゃうんだよ」とか「光合成のできる立派な身体になるんだよ」などなど、みんな、勝手なことを言っていました。やれやれ。漢字を間違えるとたいへんなことになるみたいです。
569 20060914 建築家のパーティ SDレビュー2006のオープニングレセプションに行ってきました。展覧会の会場でのレセプションは。美術展のオープニングに似ていました。小説家の集まりよりも、建築家の集まりのほうがおしゃれで社交的な感じがしました。デザインとか美的センスが要求されるし、いろんな人と共同でする仕事なので社交性のなければやれないということなのでしょうか?
設計は鈴木隆之氏ですが、構造計算をしてもらう建築士さんも紹介していただきました。それから会場で「施主さんです」と紹介されて、いささか戸惑いました。今まで施主というと法事の時の「施主」もしくは御塔婆供養の「施主」くらいしか経験したことがありませんでしたから。まあ、御塔婆供養もほんとうは木の札じゃなくて塔を建てなくちゃいけないんですけどね。
リゾートホテルの設計とか下町の住宅設計に混じって月光洞のモデルも展示されていました。風景をまったく無視した建築ではなくて、周辺の環境にあわせた建築というのが、最近の流れなのだそうです。で、会場で一つ、びっくりするようなことを教えてもらいました。どうやら月光洞の縁側(濡れ縁)は開閉式になるらしいのです。それを聞いたとたん、私の頭には建築家を罵りながら、寝れ縁を持ち上げている自分の姿が浮かんだのです。だってあんな大きなものを持ち上げるなんて、想像を絶しています。くれぐれも女手ひとつで動かせる設計にして下さいとお願いしてきました。
568 20060912 雨降り。 一昨日の明け方の雷雨はそうとうなものだったようです。私はカーテンの向こうがぴかぴかしているのを夢うつつで見ていました。目は覚めませんでした。「あれで目が覚めないなんて、鈍感」って家の者に言われてしまいました。秋の長雨だそうです。
秋の長雨と言っても、8月のはじめまで梅雨空が広がっていたのですから、今年は海の家なんかをやっている人にとっては、ほんとうに目も当てられないようなひどい年ということになるのでしょう。
そして今日も雨でした。雨の日はなんとなく時間の進み方がぼんやりとしていて、とくに午後の時間はつかみどころがない感じがします。そのせいか、なんだかそわそわしているのに、仕事があまり進みません。
567 20060911 ゴジゴジ 「豆の葉」を読むとばかになるという話。これまでの誤字でなんといっても大ヒットは「ばかざわ」でした。管理人のペンネーム「ながしろばんり」を「ばかしろばんり」とか。あやうく表に出さずにくいとめたのは「ながしりばんり」ってものありました。これは初公開。
それから「どちそう」ってものあったし、「ごちそう」の間違いです。ほかにもいろいろとあるのですが、笑って許して下さい。なんてダメかしら。
漢字が苦手なうえに、この頃、老眼と乱視が進んじゃって、もうあんまり見えてないってのがほんとうのところです。ああ、眼鏡屋さんに行かなくちゃ。
566 20060910 人が減って動物が増える 政府の統計では昨年はじめて日本の人口は減少に転じたのだそうです。旅行をしていると人の住む家が増えたなあと思います。人口が増えただけではなくて、以前よりも生活が豊かになり、良い家に住むようになったことも原因しているのでしょう。これから人口が減って行くと日本の景色というのはどう変わって行くのでしょうか?
盛岡の駅前の高層マンションが出来ていました。そのマンションの記事が今朝の読売新聞に載っていました。以前、青森で駅前の高層マンションが出来たときに聞いて話では、雪国の駅前マンションは高齢の人に人気があるのだそうです。なにより、真冬の雪下ろしが必要ないというところが魅力で、これまでの家を手放して入居する人が多いのだそうです。
人は減っても、動物は増えているそうで、今年はまた熊があっちこっちで出そうですが、鎌倉では台湾リス、ハクビシン、それにアライグマが増えているという話を聞きました。私の知人は夜、池に写った月を見ようと、池の中を覗き込んだところ、アライグマが飛び出してきたそうです。池の金魚や鯉をとって食べるのだということでした。「月とすっぽん」じゃなくて「月夜のアライグマ」なんて。鹿が増えたとか、猪が増えたなんて話も聞きます。
地方都市で駅周辺のマンションに人がかたまって住むようになると無人になるところが当然あるわけで、そこには動物がぞくぞくと集まってくるようになるのでしょうか?私のお婆さんになる頃は、家の周囲で猪に追いかけられたり、たぬきに騙されたり、アライグマに襲撃されたりするようになっているのかしら?
565 20060910 龍泉洞 龍泉洞へは4年生の卒業合宿で行ってきました。ゼミ生から龍泉洞の写真をもらいました。私のカメラは壊れてしまって、まだ修理してません。3年も使われてはマーカーはわりに合わないそうですから、新たらしいカメラを買わなくちゃいけないかもしれません。
鍾乳洞の不思議な感じというのはなかなか写真ではうまく撮影できないのですが、実際に龍泉洞へ行ったことがある人は、あのコバルトブルーの水が流れる鍾乳洞を思い出していただけるのではないでしょうか? 565.jpg
564 20060909 熊汁一杯1200円 「熊汁一杯1200円。売り切れました」という張り紙を岩手の岩泉、龍泉洞の前の食堂で見つけました。龍泉洞を訪れたのは二度目です。最初は二十年ほど前でした。その頃は熊汁を売っていた食堂はなかったように記憶しています。
20年前、花巻温泉のさらにおくにある台温泉に泊まりました。台温泉は坂道に並んだ温泉で、台温泉の入り口にあったコーヒー屋さんで「龍泉洞はすごいよ!」と聞いて、出かけていったのです。鍾乳洞の中をコバルトブルーの水がごうごうと流れていました。
龍泉洞の中には地底湖があります。覗き込むと吸い込まれそうな地底湖で、その湖を結ぶ川が縦横に流れているのです。20年前に行った時よりも、洞内の木道が広がっていました。そのぶん、流れる水が見える部分が減っているのが、少し残念でした。その昔は木道もなくて川に小船を浮かべて、洞内を巡っていたそうです。
熊汁の張り紙のあった食堂で雉のそばを食べました。鶏ではなくて雉の肉が入ったお蕎麦です。雉の肉は鶏肉よりも脂が少なく身がしまっていました。ここに熊の毛皮がありました。熊の毛に触ったのは初めてですが、人間の髪の毛の感触にそっくりでした。で、背中の毛は柔らかく、腕の毛は固いということをお店の人に教えてもらいました。確かに腕の毛はごわごわしているのです。人間でも頭の毛のほうが柔らかくて腕の毛は固い男の人がいますが、熊もそんな感じ。こんな剛毛の腕で抱きしめられたらたまんないなあって、ああ、恐い。
龍泉洞までは盛岡からバスで行きました。途中で稔り始めた蕎麦の畑を見かけました。コスモスの花がたくさん咲いていました。熊の食堂(いや、そんな名前ではありませんが)の人に聞いたら、今年はお天気がおかしくてコスモスは早くに咲き出したそうです。梅雨が長かったので、畑の夏の作物が実らないうちに、コスモスが咲き出してしまったという話でした。
盛岡で光源社によってきました。塗りのおわんが欲しかったのですが、それはまた今度にして、白磁の湯のみを買ってきました。轆轤引きで、地が優しく厚い湯のみです。しばらくはこれがお気に入りになりそうです。
それにしても熊汁ってどんな味なのでしょうか?今年は天候がおかしかったので、また里にたくさんの熊が下りてきそうです。そろそろ、熊に襲われたとか、熊と格闘したなんてニュースが流れる季節になりました。
563 20060906 安倍川の流れと大崩 静岡に行ってきました。静岡新聞との打ち合わせと連載小説の挿絵を描いてくださる宮本恭彦さんとの打ち合わせです。
安倍川を見てきました。東海道は海岸線を走る街道ですから、川はどこもみんな河口が近くて、大きく広いです。安倍川もまたしかり。大きな堤防を持ち、河原には玉石が積み重なり、とうとうと流れています。で、その河原を見下ろすように富士山が浮かび、富士山の南側には日本平が濃い緑色で寝そべっています。雄大な眺めですね。この安倍川の岸で家康によって切支丹が処刑されたということです。
安倍川から大崩へ。大崩は難所だと聞いていましたが、聞きしに勝るところでした。どころでも車でいける時代ですから、徒歩の時代の難所も行ってみるとさほどではないとこともよくあるのですが、大崩は恐い、恐い。静岡と焼津の間の山が大きく海に張り出しています。張り出した山が急峻な崖になって海に落ちているのです。しかも、その崖はもろい岩で出来ています。もちろん歩いても頭上からいつ岩が落ちてくるか解らないし、足を滑らせれば白い波が泡立つ海の中へ転落する危険もあります。が、曲がりくねって車道を車で走るのもスピードがあるので、歩く以上のスリルがあるかもしれません。陽が暮れてからは決して通りたくない道ですね。今はトンネルをくぐれるようになっています。そうだ、もうずいぶん昔ですが、東名の日本坂トンネルで大規模な事故があって大勢の死者が出ましたが、あの日本坂トンネルが走っているのが、この大崩のあるところです。
562 20060905 伊藤さん、ご無事で 伊藤さん、ご無事でなによりです。私は夏風邪を引いて、風邪を引いたまま合宿に行って雨に濡れて、またまた風邪がひどくなってなんて感じで、ご返事が遅くなりまして。ごめんなさい。
息子は顔面麻痺にかかりました。なんでもヘルペスなんだそうです。帯状疱疹ではなくて、麻痺って症状が出ることがあるそうです。幸い、順調に快復しています。テレビで麻生太郎外務大臣の顔を見て「きっと顔面麻痺の後遺症だ」って家族で話してします。
娘は沖縄へ。泳ぎに行ってます。お土産にベランダで履くサンダルとゴーヤを買ってきてくれるそうです。何にも言って来てないので、きっと無事なのでしょう。
あ、そうそうハリケーンから台風に変わった台風12号が、帰化台風って言うんだそうですが、日本の太平洋岸をかすめてとおりすぎそうになっています。
561 20060901 店子の伊藤でございます どっどどどうどどどうどどどうの日でございます。ごぶさたいたしました。カリフォルニアです。やっとネット環境がもとにもどりました。で、また依存してるので早晩封印をするかもしれませんが。キーボードをぬらした話(何回もやりました。その時点で新しいのを買いに行く、これがひけつです)怪気炎の話(周囲のおばさんたち、N沢さん、H田さん、E元さん、I藤さん、たいてい怪気炎を上げてますよ)お掃除貯金の話(しめきり前はぐっちゃぐちゃで、そのままです)手で書くという話(あたくしも手で書くしか能が無いひとりです。。。。)も身につまされて読みました。熊本は忙しかったです。気候と家族にシテヤラレました(これも死語?)仕事というかおつきあいで、「星の王子様」と「草枕」読んだのがすごく新鮮でした。もうすぐ熊本近代文学館では漱石展があります(と馬場さんからの伝言です)こんど大きな内藤濯展もあります。
560 20060830 怪気炎 先日、車でラジオを聞いていたら「私が体験したシゴの世界」という投書を紹介していました。テレビドラマ「Xファイル」の効果音を使っていたので、てっきり「死後」の世界だと思っていたのですが、なんだかへんな感じで、うまく意味がつかめませんでした。2、3本の投書を聞くうちに「死後」ではなくて「死語」の世界だと気付きました。日常的に使う語彙が減ってしまったために、いろんな人がいろんな場面で「死語」の世界に遭遇しているのですね。
自動車教習所の教官が「あさっての方向を見ていちゃだめだ」と教習生に注意したら「あさってってどの方角ですか?」と真顔で尋ねられたなんて話が投書の中にはありました。そうそう、そう言いました。大事な時によそみをしたり、ぼんやりしていると「何、あさっての方向を見ているんだ!」なんて叱られましたっけ。
それで怪気炎です。昨日、人から頂戴した本を読んでいたら「怪気炎」が出てきました。おや、まあ、懐かしい。しばらく自分でも怪気炎なんて言葉は使っていませんでしたし、人の口から怪気炎なんて言葉が発せられるのも聞いていませんでした。あっちこっちで怪気炎を揚げている人はいるんですけどね。ネットの掲示板なんて怪気炎だらけで、時には掲示板への書き込みが殺到するだけでなく、関係方面をメールの嵐が襲う「炎上」なんて現象もこの頃はあるそうです。「炎上」があるなら怪気炎も死語にしなくてもよさそうなものですけど。
時代が変わって自然に死語になってしまう表現があるのは仕方がないことですが、最近の「死語」の世界はちょっとそうした自然の流れとは違うような気がします。「死語」を少し現世に呼び戻してやらないと生活が不便で仕方がない気が私はします。
559 20060829 日大院生フィールドワーク またまた例によって日大院生のフィールドワークです。毎年、夏休みはものすごいお天気でふうふう言ってしまうのですが、今年は天の助け。涼しくてお散歩びよりでした。もう何年か続いているので、誰がいた時にどこへ行ったか忘れてしまってます。もっとも今年は昨年、台風で流れた時のコースなので余計にわけわからんってことになりました。
まず、山の上ホテルロビー集合。例によって例の如しでのんびり出発。この段階で、土地の高低差が解らないというので、ニコライ堂に行く予定を変更して山の上ホテルの裏の錦華公園にでました。崖になっているのです。この崖はJRの線路の方向へ続いています。で、これがもとの神田山の名残。途中でカトリック神田教会を見学したかったのですが、月曜日でお堂は閉まってました。神田教会からJRの線路際に出て、水道橋へ。水道橋からJRに乗り、電車の車内から土地の高低差と川筋の蛇行に注意を払い、御茶ノ水で中央線に乗り換え、東京駅にでました。東京駅ではまっすぐに皇居のほうを見て神田山の切り崩して埋めた日比谷入江の見当をつけました。
それから丸の内中通りを有楽町まで歩き、有楽町のガードをくぐって晴海通りへ。晴海通りをまっすぐに築地本願寺まで歩く予定がなぜか「ライオン」でビールを飲もうと言い出した学生がいて、銀座四丁目で、銀座通りを新橋方向へ。「ライオン」でビールを一杯飲んでいるうちに、ここまで来たら、新橋に出て浜離宮に行ったほうが早いぞってなことになって、築地本願寺はパス。
新橋で、旧新橋駅の遺構を見て、日本テレビで岡本太郎の壁画を見る。でカレッタ汐留に昇って、隅田川河口と房総半島、三浦半島などを見渡しから浜離宮へ。
浜離宮の汐入の池に浮かんだ建物と、その背後の高層ビル群は近頃は絵葉書などにも出てくる景色になっていますが、これを皆で見て「へえ」と記念撮影。「でも、高層ビルと江戸時代の離宮の間の景色ってみんなきえちゃってますよねえ」という感想にもっともとうなずきながら、水上バスの乗り場へ。
今年は勝鬨橋からずっと続く隅田川の橋をしっかり見物して浅草へ。まあ、そういうコースでした。風水では北に玄武、東に青龍、南に朱雀、西に白狐それぞれを配置して都市を作るのだそうです。玄武の守る北は山があり、青龍の守る東は川が流れ、朱雀が位置する南は池もしくは海、西の白狐は道があるという地形が都市つくりには向いているのだそうです。江戸の場合は玄武は富士。青龍は隅田川。朱雀は東京湾。白狐は東海道になるのだそうです。で、まあ、その都市構造の中核になったいる地形に注意を払いながら、歩くという遠足でした。
アテネフランセなどがある御茶ノ水と水道橋の間の崖は学生時代からお馴染みの場所ですが、これが400年も前に神田山を切り崩した跡かと思うと「なるほどなあ」ってなんだか納得しました。東京の地図って、神田も駿河台も日比谷も全部、市街地として表示されていて土地の高低差や傾斜はほとんど描かれてませんが、注意して歩くと400年前の地形ってちゃんと残っているのですね。建築物が高層化する前に描かれた文学作品にはこうした高低差は傾斜(坂道の描写や高台からの眺め、崖下の住み心地)などがちゃんと描かれています。実際に地形に注意して歩くと、そういう描かれているものが実感的に読めてくるところがこのフィールド・ワークの面白さです。
558 20060827 おそうじ貯金 2000年の秋。ちょうど「楽隊のうさぎ」の連載を終わったとき、何とか部屋を片付けたいと思いました。大学の授業を8コマやりながらの連載は正直言ってしんどかったのです。そのしわよせはむちゃくちゃな部屋となって残りました。が、2000年秋にちょっとした騒動が勃発。休暇のつもりの半年が吹っ飛んでしまいました。で、部屋をすっきりと片付けられないまま「うさぎとトランペット」の連載に突入。
「楽隊のうさぎ」はなぜか朝日新聞連載と勘違いされていることが多いのですが、関東では東京新聞連載でした。きっと吹奏楽コンクールを主催しているのが朝日新聞だからでしょう。で、「うさぎとトランペット」は2003年4月から公明新聞連載だったのですから、その間が約2年あるのですが、とても部屋の中を片付けるなんて気力はなし。2004年3月に連載を終えて、やや焦りました。なにしろ、部屋の中に置いたものがやたらになくなるのです。散らかりすぎていた何がなんだか解らないという状態。04年から05年は、応急的な片付けに終始しました。
今年になってからようやく片付けの効果というか抜本的な片付けで少しずつできてきました。世間にはゴミ屋敷なるものがたくさんあるのですが、ある年数が経過してしまうと、片付けるということがひどく無意味になってしまうことがあるようです。片付けるというよりも放り出すといったほうがいい状態になってしまうみたい。
で、結論を言うと、今年の夏休みになって、ようやく片付けて効果が少しづつ、現れてきました。私はこれをお掃除貯金効果と呼んでいます。お掃除貯金効果が現れると、だんだんと利子のような具合に加速も出てくるので、少し楽になります。さて、今年の年末までにどのくらいのお掃除貯金効果が現れているのか?来年の5月にはまた静岡新聞の連載が始まるので、今年、いささか作ったお掃除貯金効果はふっとんでしまうかもしれません。なんて思ったらいやになってしまうので、それか考えないことにします。
昔から不思議なのですが、なんで締め切りが近づくと家のなかがめちゃくめちゃになってしまうのでしょうか?自分で散らかしているとは思えない乱雑な状態になります。家族がいなくて独身の時は、締め切り→大掃除→締め切り→大掃除のくり返しでした。残りが少なくなった夏休み。なんとかお掃除貯金を増やしたいものです。
557 20060826 神田山に日比谷入江 先日、山の上ホテルで待ち合わせをしまいた。夏休みらしく、ふだんは見かけない雰囲気の宿泊客の人がロビーにいました。60代の女性のグループ。地方から東京見物でしょうか?で、その中に一人の携帯電話が鳴りました。どうも、グループの誰かが迷っているらしいのです。
「え、坂を上って突き当たりのところだよ」
そう答えていますが、山の上ホテルは坂を登る道ばかりではありませんから、この説明ではちょっと無理な気がしました。
「山の上なんかじゃないよ。山なんかないから」
この場合、山の定義にもよるのですが、山の上ホテルは地形的には文字どおり山の上です。ただ、周囲のビルが高いので山に見せませんが。
「階段を登るのか?降りるのか?って、階段なんかないって」
ははん、どうも電話のお相手は女坂か男坂のあたりにいるらしいのです。しかし、階段と聞いて、電話の女性は何か建物を連想してしまったみたいでした。で、同じグループの人がみかねて迎えに行きました。
私は昔からこの山の上ホテルのある地形が不思議だったのです。なぜ、御茶ノ水の駅から見える神田川の流れだけが渓谷の表情をしているのでしょうか?崖の上になぜ御茶の水を汲み出す井戸があるのか?江戸の初期の地形を調べてようやく納得が行きました。
あのあたりいったいは神田山だったのです。ですから神田明神も神田山の中腹の神社ということになります。神田川は神田山の中を切り裂くように流れていたというわけで、今のJR御茶ノ水駅のホームからの眺めが渓谷風なのでした。で、神田山を切り崩して埋め立てたのが、日比谷入り江。日比谷は遠浅の入り江だったのです。
神田山の下はもう海辺で、井戸を掘っても水は塩辛いものだったそうです。塩辛い水はお茶には使えませんから神田山の井戸でお茶に使う水を汲んでいたというわけです。御茶ノ水の駅の前の交番のわきにお茶の水の跡が今でもあります。
切り崩した神田山の名残が駿河台で、これが山の上ホテルの建っている場所です。駿河台の名称は駿河から来た徳側家康の家来が屋敷を構えたのでそういう名称がついたそうです。
この工事をやったのが家康、秀忠、家光の徳川三代の時代。それからもう400年もたつのですが、あのあたりの奇妙な地形には、神田山や日比谷入江があった頃の名残がまだちゃんと残っているのですね。豊臣秀吉に元からの領地を取り上げられて、関東に入るように言われた家康は、いったいどんな気持ちで神田山や日比谷入江を眺めていたのでしょうか?お城を中心に「の」の字に江戸の町を作って行くことを考えたのは家康だそうです。「の」の字の渦巻きですから、無限に大きくなる可能性があるわけです。秀吉が朝鮮を攻めて、さらに中国までもという無限の夢を見ていたい頃に家康は「の」の字に発展する町を夢想していたわけです。
来年、静岡新聞で文禄慶長の役から家康がなくなる頃までの描く時代小説を連載します。その下準備なのですが、調べてみると目の前にいろんなものが開けてきておもしろいです。神田山や日比谷入江がある眺めというのは横浜の金沢八景の眺めからおおよそ推察することができます。幼稚園まで金沢八景で暮らしていましたが、大々的な埋め立て工事などが始まる前の景色をよく記憶してます。なるほど、東京湾沿岸というのは、おおよそ似たような眺めを持っていたわけだなあと思いました。
日比谷のひびは海苔の養殖するための網の「ひび」を意味しているそうです。金沢八景の平潟湾でも海苔を養殖していましたから、「ひび」を張った粗朶が海に並ぶのは懐かしい光景です。
私の母方の実家には慶長年間から始まるバインダー式の位牌があります。金沢八景に一族が住みついたのは、慶長の頃のようです。父方は祖父の時、三河から東京の出てきたのですが、家の紋に「本田立葵」を使っていますから、何か徳川さんと縁があったのかもしれません。
あるいは徳川家康が関東に入った頃に、三河と三浦に離れ離れになったものが、300年たって知らずに隣同士に並んだなんてことがあるのかもしれません。母の実家と父の実家は隣どうしなのです。
556 20060824 喉元を過ぎれば熱さをわすれる 「羹に懲りて膾を吹く」のも「喉元過ぎれば熱さを忘れる」のも、同じようなものだと言えば、そう言えるのですが、なんだか、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」というのは、「恥だ!」という気がします。きっと子どもの時にそう言い聞かされたせいでしょう。「羹に懲りて膾を吹く」というのは滑稽な気もすれば、困ったなあと思うこともあるのですが「恥だ!」というふうには感じません。
日本の軍備についてや憲法九条の議論ができなかった背景には「羹に懲りて膾を吹く」ような社会的雰囲気がありました。それが崩れたのが湾岸戦争でした。が、それ以前にベルリンの壁の崩壊と東西冷戦の終結があり、その流れが影響していたことは間違いありません。後からみればベルリンの壁の崩壊は、日本の政治的タブーをも崩壊させたのだと言えるでしょう。
日本国内の雰囲気が大きく変わったなと感じたことが三度ありました。一度目は95年の阪神大震災とオウム真理教事件の時でした。村山政権時代です。もし首相が社会党でなかれば、阪神の震災の現場にもっと早く自衛隊が出ていたと思いますか?と何人かの人に質問をしたのですが、かんり左の考えの人でも答えは「イエス」でした。二度目は山一証券が廃業した97年。金融危機の年でした。橋本内閣だったと思います。そのあと、小渕内閣で、小渕首相が急死するというアクシデントもあり森内閣から小泉内閣へという流れになりました。2000年に小泉首相が圧倒的な支持を集めた時、やはりこれは大きく変わったなと思いました。
で、いつごろから「喉元過ぎれば熱さを忘れる」現象が起きたのか?ということなのですが、私の考えでは「羹に懲りて膾を吹く」よりも前なのではないかという気がこの頃しています。2002年のワールド・カップの時にプチ・ナショナリズムなんて言い方がありましたが、表面的にはそのあたりから、ナショナリズムの雰囲気が出てきたように見えますが、実際はそれよりもずっと前からではないかと思えるのです。最近、よく悪口を言われる「一国平和主義」とか「平和ボケ」と言われる時期に日本は特別だという感覚は強く出ていました。それが、なんと言ったらいいのか、今はもっと単純になって軽薄ナショナリズムというような雰囲気をかもし出すようになっているなと感じます。
「プチ」までは許せるけれど「軽薄」は許せないと、たまに思いながら、その境目はどこにあるのだろうと考え込んでしまします。
555 20060821 羹(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹く 1978年という年に大学に入りました。同じ年に群像新人賞を受賞しました。この年から文芸雑誌を原稿料を受け取る側から眺めるようになったのですが、江藤淳の無条件降伏及び戦後文学の関係する発言に本多秋吾、大江健三郎などの反論があり、論争になった年でした。
同じ年にA級戦犯が靖国神社に合祀されていたことが翌年わかりました。東京裁判のドキュメンタリー映画を試写で見たのは1983年だったと思います。娘が生まれたばかりで、試写を見るのは身体的にかなりしんどい作業でした。具体的に言うと、乳飲み子がいたので乳房が張ってしまっうという状態でした。
バルブ経済と後に呼ぶような好景気が兆しを見せ始めたのは1985年のプラザ合意あたりからです。1988年には昭和天皇の病状が悪化し、翌年に崩御します。バブル経済真っ只中で、天皇崩御に伴う臨時の休日にスキー場を超満員になったニュースの映像を覚えています。同じ年、韓国でオリンピックが開かれ、韓国が経済的なテイク・オフを果たしたことが、国際的に認められます。中国で六四天安門事件がおきたのは89年のことでした。同じ年の秋、ヨーロッパではベルリンの壁が崩壊しました。
こうして現在から振り返ってみると、日本国内ではさながら「羹に懲りて膾を吹く」という状態が出来上がっていたのです。極端な左翼の暴力的な運動はひとまず落着いていましたが、言論の世界は完全に左寄りになり、なんといったらいいのか?まあ、面倒なことは全部ばかにするか嘲笑するという雰囲気がありました。国外を見れば、中国は文化大革命から開放経済への道を進み始めて、大衆がそれまでと違った形の政治発言をするようになってきました。韓国でも80年に起きた光州事件の参加者の名誉回復が85年頃からなされるなどで、言論の自由化が進んできます。今の靖国神社の首相参拝を巡る問題はほとんどこのあたりで提起されているのです。
文学は読者の心情に訴えるという性格を持った表現芸術ですから「羹に懲りて膾を吹く」状態の方向に追従して行きます。私個人としては80年もしくは85年くらいに戦後という時代はほんとうに終わったのだと思っています。私の手元にある講談社の「戦後日本文学史・年表」では昭和53年(1978年)が最後の年になっています。最後の年には私の名前も入っているので、なんとなく複雑な気持ちでこれを眺めています。
「羹に懲りて膾を吹く」時代が終わって、冷静な議論ができればいいのですが、どうもそうではないらしいような雰囲気もあります。「喉元過ぎれば熱さを忘れる」というような時代が、1990年8月に起きたイラクによるクェート侵略から始まる湾岸戦争あたりから始まります。ちょっと前に「豆の葉」に書いた「空漠」という言葉が発明されたのも、湾岸戦争の時でした。「空襲」という当たり前の言葉が、同時通訳の頭には浮かばないほどの状況があったのでした。
554 20060818 ぶつぶつ ネットの無責任な書き込みにいちいち反応していたらきりがないのは重々承知ですが、昨日、首相の靖国参拝関係の掲示板を見ていたら「靖国には、女に口を出させるな」なんて書いているばか者がいました。釣りかもしれませんけど思わず「なんたる無知」と憮然としてしまいました。たぶん30代か20代の人でしょう。あるいは10代かな。
40代だったら、たいていは靖国の母とか靖国の妻なんていう言葉を知っているはずです。そうそう島倉千代子の「東京だよ、おっかさん」もありましたけれど、ま、あれはちょっと違うか。戦争未亡人と戦争で頼りの息子を失った母親がいなかったら、靖国神社はアメリカ占領時代になくなっていたに違いないのです。私はそう思います。
友人が新潮8月号に書いた短編小説「ブルーバード」をすごく褒めてくれました。で、褒めてくれたのに文句を言うのは気がひけるけれども、その時「やぱっり30年代ブーム」って意識しているでしょう?と言われて、意地になって「そんなことない」って否定してしまいました。人が自分が生きてきた時代について語りたいと思うのは当たり前のことで、かつ大事なことなのにブームなんて言うのが気に入らなかったのです。
30年くらいの時間は、生きている人が過去を振り返るにはちょうど良い時間なのです。40年たつと往時茫々という具合になってしまいます。それで昭和30年代を今振り返っているのは、少し遅いのです。というよりももしそういうものを「昭和30年代ブーム」と言うのなら、実はもう30年前の昭和50年代後半にそれがありました。「じゃりん子チエ」とか「三丁目の夕日」なんて漫画が週刊アクションに連載されていた頃です。
その少し前には戦後を振り返るということが盛んにされた時期があって、この場合の戦後は昭和20年代でした。サンフランシスコ講和条約くらいまでです。写真集などが書店に出回っていて、売れ行きもよく、私は高校生でお金がなかったので目を皿のようにして立ち読みしました。学校の日本史は明治時代で止まっていたので、珍しかったのです。
だから今の「30年代ブーム」というのは、二度目なのです。で、これが二度目であるのには理由があると思います。一回目は古き良き時代を懐かしむためのブーム。取り戻した平和を愛しむような一回目です。敗戦後の興廃のあとに来たものを見る視線がそのにあったのでしょう。今は、現在から30年代の持っていた意味を問い直すようなブームだと見ています。同じ時代が二度回顧されるというのは、なかなか珍しい現象でしょう。そこには特異な時間間隔が動いています。
前述の靖国に関する無知蒙昧な発言などはこういうこうした特異な時間間隔が作りだした無知であるように思えます。蒙昧のほうはご本人の責任でしょうけれども。
553 20060817 ばかサヨ ばかウヨ ばかサヨとかばかウヨとかいう言葉が飛び交う議論を眺めてうんざりしています。なんのことを言っているのかは、だいたい見当がつくと思いますが、首相の靖国参拝をめぐる議論です。
子どもの時「ばかって言ったら、ばかって言った人がばかなんだよ」と教えっれて、「お前がばかって言ったから、お前のほうがばかなんだ」と言い、「お前だったばかって言ったじゃないか、ばあか」と言い返されて、「ばか、ばか、ばか」「かば、かば、かば」という応酬になったのを思いだします。
私は基本的には首相は靖国参拝すべきだと思っています。ただし、今のA級戦犯が合祀されている靖国神社に参拝すべきではありません。A級戦犯を合祀した靖国神社の歴史観は戦後に日本政府の歴史観とあまりにもかけ離れているからです。そんな政府の首相が来ると言ってもうれしくないだろうというほどかけ離れています。だから、ほんとうは靖国神社が首相に来てもらわなくてもいいと断るのが筋だと思ってます。
中国、韓国に言われたから靖国参拝をするのはけしからん式の世論調査をよく見ますが、この形の世論調査は中国、韓国の言い分をまったく無視してただ「文句を言っている」という事実だけをクローズアップしてしまいますし、へたをすると「弔いより商売だ」という俗論を定着させかねない危険を持っています。中国、韓国の言い分には戦後の外交の歴史が含まれているのです。
中曽根元首相が言うように、首相が靖国神社に参拝出来る状態を作りだすというのが、ほんとうに政府がやるべきことなのではないでしょうか?
「ばかサヨ」なんていう言葉を生み出した左翼はもともと唯物論に近い考え方が主流でしたから、人を「弔う」「追悼」するという点の理論には大きな弱点を持っています。「ばかウヨ」なんていわれる右翼は、心情的感情的要素が強くて「弔う」ことの背景にある論理を説明することが下手です。日本の戦後社会では理屈や理論は左翼が作り、心情や感情は右翼が代弁するという分業じみたところがありましたが、これがだんだん崩れてきたのが「ばかサヨ」「ばかウヨ」の応酬を生んでいるのでしょう。
右翼は戦後の社会が、精神を忘れたといって嘆き、左翼は戦前を引きずったままの社会制度が残っていると戦後の社会を攻撃しました。いずれも「戦後社会」を認めていないのです。あたり前の話ですが、戦争中は武官、つまり軍人の時代ですが、戦後は文官、外交官、通商関係者の時代だったのです。靖国へ首相参拝はそうした戦後の歴史に目を向けるきっかけにはなったのでしょうか?そうだと良いのですが、自民党の加藤紘一議員の自宅焼き討ちなどの事件は「ばかサヨ」「ばかウヨ」の応酬ではすまないいやな事件です。
こうした事件は被害者が同情をかう場合もありますが、今回はむしろ「無言のプレッシャー」を生み出す方向に作用しそうなところが恐いところです。もちろん、加藤紘一議員はこれまでと発言を変えないでしょう。しかし、それ以外のなんとなく加藤議員に賛成してみようかな程度の人々は薄気味悪さに発言を控えるようになるかもしれません。それが、この事件のもっともいやなとろこです。
552 20060814 しばらく忘れていた惨事 たぶん先週だったかと思いますが日経新聞の夕刊コラムに白石公子さんが、朝、おきてパソコンが作動しなかったらどうしようかと書いてました。ここしばらくその種の惨事を忘れていたところ、本日、午前中から大騒ぎが発生。
お盆ということで珍しく(たぶんふだんしないことをしたせいでしょう)息子と娘がお仏壇にお線香をあげにきました。で、先月、鶴岡でいただいた華蝋燭をともそうということになって、朝顔の絵がかかれた蝋燭をともしたのです。そこまでは良かったのですが、次の瞬間、なぜかコーヒーがこぼれて(怪奇現象ではなく、私がカップに手をぶつけたのです)、キーボードはコーヒーに浸されてしまいました。
で、キーボードの入力ができなくなって、これはだめかもしれないと、群像編集部に電話。締め切りだったんです。で、電話に出たのが担当の須藤さんではなくて旧知の山口さんで、キーボードって濡れるとだめなんですってな話をして、山口さんの体験通りの症状が出ているいましたが、値段はそんなに高くないことがわかったので急遽、買いに行くことにしました。
で、これまた珍しく息子が買い物についてきてくれて、以前から欲しいと言っていてルーターなども買ったのが、これが二度目のトラブルの素。キーボードは動作が不安定だし、ときどきカソールが動かなくなっちゃうし、頼みの綱の息子は飲み会に行ってしまうしで、なんだかまだごちゃごちゃしています。
東京東部では大停電があったそうですが、ううん。うちはそれどころじゃない。焦ってます。で、トロンはちゃんと動きそうなんだけど、なんだか不安でいっそのこと原稿は手描きしちゃおうかなとか、ま、その印刷が生きているうちにすり出して、途中から手描きにかえるぞって構えだけは作っておきました。
というわけで群像の須藤さん。メールはちゃんと届いています。が、しかし、データではなくて手描き+ファックスの原稿が行くかもしれません。ああ、あとでメール書きます。それまでちゃんとPCが動いていてくれたらメール書きますが、ダメだったら明日電話します。すみません。ごめんなさい。
551 20060813 手が書く フードジャーナリスト、というよりもエッセイストと言ったほうがいいかもしれませんが、平松洋子さんにお目にかかった話は以前、ここに書きました。現在、発売中の「表現者」8月号にインタビューが掲載されています。平松さんとのお話の中で「手が書く」ということがでてきました。「手が書くのを頭が追いかけるくらいがちょうど良い」という話です。
手が書くというのは、平松さんのエッセイを読んでいるとお料理のレシピがしぜんに伝わってきて、お料理が出来てしまうということから出てきた話です。身体で覚えこんで納得したことを書くという意味です。例えば水餃子などは、納得が行くまで毎朝、自分で作った結果でエッセイを書いているから、読んだだけで、自然に餃子の皮つくりができるのです。この「手が書く」文章が美しいというのは昭和の文学が生み出した最大の美学だったと私は思います。
私小説がよく読まれ、またよく書かれたのは、頭で考えて書くのではなく、肉体に刻み込まれたものを「手が書き」それを「頭が追いかける」という作業を追及した結果だったと言えるでしょう。文語文から美文へそして口語文への流れの中で、文学は欧米の文学の模倣をしなければならなかった結果として、より身体化された言葉を求める流れが出てきたのでした。その良き結果が、平松洋子さんのエッセイに現れているということになります。
水餃子やキムチならそれで良いとして、これが人殺しになると、身体で納得して書くというのはたいへん無謀なことになります。小説家として言えば、一方では身体的な納得のある文章を求められながら、また一方ではとうてい個人としては体験しえない、あるいは体験してはならないテーマを描かなければならないというジレンマを昭和の終わりの作家は背負っていたという感慨を思えます。島田雅彦や松浦理英子さんの仕事には、扱うテーマは違ってもそうしたジレンマを感じさせられるものがたくさんあります。「手が書く」という美意識の限界点での悪戦苦闘はそこにはあるわけです。
現在、私小説の延長の仕事をしようとしている作家が何人かいますが、それらの人々は「手が書く」ということの延長で、文章の美意識を磨いているかというと、そうではないような気がしています。それよりはプライベートな感情を書くことに魅力を見ているのではないでしょうか?一口にプライベートな感情を書くと言ってもそのスタンスはいろいろであることは言うまでもありません。が、「手が書く」という美意識とはひとまず切り離されているということをここでは書きたかったのです。
来年、静岡新聞で、歴史小説を連載するために遠藤周作の作品を纏めてよんでいます。生前、遠藤さんは日本の文学が「手が書く」私小説に占領されていたことを嘆いていたと聞いています。広い意味での戦後の文学というものは、個々の作品としては読んでいても、全体の流れを自分なりの体系の中をおき直すことが出来ませんでしたが、「手が書く」という美意識の臨界点での戦いというイメージを持つと、何かが少し整理できるような光を見出しています。
550 20060812 デジカメ壊れちゃった。 夜中に突然、デジカメのスイッチが入るという怪奇現象が数ヶ月前から続いていました。なぜデジカメのスイッチが入ってしまうのか、原因はわからないのですが、知らない間に電源が入ってしまうので、バッテリーの電気がすぐになくなってしまいます。
こんな怪奇現象で困っていたところ、なぜか、今度はスイッチが切れなくなってしまいました。「ON」でも「OFF」でもずっと電気が入りっぱなしの状態。こういうのってカメラ屋さんに持っていったら修理してもらえるのでしょうか?ともあれそういうわけで、写真がアップできなくなってしまいました。
そうそう、夜中にぼうっと犬ちゃん(06年1月の「豆の葉」参照)の顔が写ったことがありましたから、怪奇現象はもう8ヶ月も続いていたのです。もっと早くにカメラ屋さんに持って行けばよかったと後悔しきり。
549 20060810 歌舞伎座立ち見 台風が太平洋の沿岸をなめるように進んで銚子沖に去った日の夕刻、歌舞伎座の立ち見に行ってきました。8月の歌舞伎座は三部制。勘三郎が出ていないのがちょっと寂しいのですが。歌舞伎の話ではなくて立ち見の話です。8月は海外からの観光客が多くて、立ち見もやっぱり外人さんだらけ。
一幕800円なんので、日本のお芝居をちょっとだけ見ようというにはちょうどいいのでしょう。私も時々、海外からのお客様を案内したりしますけど。それで、若いお嬢さんが20人も外国人を連れて、チケットを買う行列に並んでいました。立ち見は予約もできないし、チケットはひとり一枚しか買えないので、並ぶよりほかに方法がないのですね。で、この日は、いつも立ち見の行列ができる場所は、3階席のチケット引き換えのお客さんの行列ができていて、立ち見の行列は4階に通じる階段のほうに並んでいました。
で、私の前にはやはり金髪、茶髪、青い目の外国人のお兄ちゃんが4、5人並んでいたのですが、この人たちは巨大なピザを持参していました。いったいどこでアメリカンサイズのピザを買ったのだろう?しかも焼きたてでチーズがとろけているやつでした。で、立ち見のチケットが売り出されるのを待っている間に、この巨大ピザを食べていたんです。階段の踊り場なので雨にも濡れないし、下は絨毯だから旅行中の経費節約としてはなかなかです。なんだか感心するようなたっぷりでした。
こんな感じだから立ち見の4階席は、笑う場所が3階までの客席とは違うのです。で、驚いたのは上海にいるはずの中国人の知り合いにばったりであったところです。親戚の男の子を連れて東京に戻ってきたばかりということでした。歌舞伎座って、思わぬ人にばったり出くわす場所でもあります。
それで何を見たかというと、「里見八犬伝」です。かなり大急ぎの「里見八犬伝」でした。なにしろ短く切り詰めているから。
548 20060808 電車の中の広告 電車の中の広告を見ていると世の中ずいぶん変わったなあと思います。私が大学を出る頃に、電車の広告で一番多かったのは結婚式場でした。団塊の世代が結婚適齢期にさしかかっていたからです。今は大学の広告。昔は予備校の広告は載っていましたが、大学の広告はありませんでした。それから債務整理などの弁護士事務所の広告。弁護士事務所は法律が改正されて、広告を出しても良いことになったのだそうです。結婚式場の広告はめっきりと減りました。
電車に結婚式場の広告がたくさん載っていた頃、結婚式って評判が悪かったんです。まずお料理がまずい。花嫁さんのお色直しが多すぎる。余興があまりにも素っ頓狂で演出過剰だなんていわれてました。たしかにドライアイスの煙がもくもく流れるなか、天井からゴンドラにのった新郎新婦登場なんて演出もありましたから、評判が悪くても当たり前でした。
先月末に横浜のニュー・グランド・ホテルに3日ほど滞在していた時、中庭で写真を撮影している花婿さん花嫁さんを見かけました。韓国ではさまざまなポーズの記念撮影をする花婿花嫁をみかけましたが、日本でもそれが流行りだしているというのでしょうか。結婚式を挙げる人が少なくなったので、そういうちょっとした手間のかけられるようになっているのかもしれません。
この頃、結婚式にお呼ばれすると、お料理がおいしくなっているのに感心します。バブル時代に上等なお料理の修業をした人が結婚式場に回ってきている感じがします。結婚式の悪口を聞かなくなりましたけど、それだけ洗練されてきたのですね。
さびしくなったのはお葬式。葬儀会場でのお葬式が当たり前になりました。自宅から出すお葬式というのはほとんどありません。なれた葬儀屋さんの手で、さっさと運ばれて所持万端滞りなく進んで行くというお葬式になりました。まあ、やたらにけんかが勃発して、買わなくてもいい恨みをかったり、古傷がうずきだすような騒動があっちでもこっちでも起きるというお葬儀にうんざりした結果が、葬儀場を使ったすっきりとしたお葬式を作り出したのかもしれません。
日大の卒業生の結婚式にお呼ばれしてきました。お婿さんもお嫁さんも幸せそうな結婚式でした。私の隣の席にいたお婿さんの友人が「ううん、結婚式ってちょっとびびりますね。こんなにたくさんの人の目を集めちゃうんだから」なんて言っていました。実は昔からなぜ男性は結婚式にびびってしまうのかが、私にはよく解らないのです。というか、びびることそのものに腹がたってしまうのですが、今度は、そう言っているのが元ゼミ生なので、腹が立つよりは、「どうして?」という疑問のほうが大きくなって、ちょっとだけびびるわけみたいなものが解りかけたような気がしました。まことに学生といものは、たとえ卒業しても教師をよく教育してくれるものです。あれが元学生じゃなくて、たんなる男友達だったらやっぱり今でも腹がたったに違いないのです。
547 20060807 皇太子殿下のお届けもの いつもの花屋さんへ行きました。先週、買った越後津南町の百合の花が全部咲いて、散ったので、新しいお花を買いに行ったのです。すると花屋さんの御夫婦が、なにやら、「へえ」とか「さあ、どうしようか」とか話をしていました。「なに?なに?なに?」と野次馬根性で事情を聞いてみると、皇太子殿下からのお届けものの注文がほかの花屋さんからまわってきたとのことでした。
お花は近くの花屋さんから届けてもらったほうがきれいなので、私たちも花束やバスケットなどを届ける時も花屋さんから花屋さんに連絡を入れてもらって届けることはよくあります。だから皇太子殿下も同じことをしても不思議ではありませんが、やっぱり、なんかどれどれ、どんなお花を届けるのかな?って気になります。
お届けものはどうやら新盆のお供えのお花のようです。白い菊を竹篭に縦50センチ横65センチにに挿して、中央に「皇太子殿下」という木札を建てるというのが図で示してある注文書を見せてもらいました。木札の
サイズまで指定があったので、花屋さんは木を切ってトノコで磨きをかけてました。これで「皇太子殿下」の文字がしょぼかったら、情けないということで、お習字を習っている奥さんが文字を書くということでした。
「こんな字書いたことがないから、練習しなくちゃ」
ですって。
いろんなところにお届けものをするのに、違いがあってはまずいということなのでしょうか?頼むほうも頼まれるほうも「なに、なに、なに」です。
花屋さんは「これじゃあ、詰まんない」って言いながら指定どおりの花かごを作っていました。詰まんなくても、あっちのほうが大きかったとか、花の選び方がいいとか悪いとか、物議をかもすよりいいのでしょう。「有職故実」なんかもあるのかもしれません。
546 20060804 この頃少しヘンよ 2日前 TBSのニュース23を見ていて、サッカーの解説に、息子と娘が怒りだしてしまった。ジーコに対する尊敬も感謝の念もないというのがその理由。
ワールドカップ直後に川口会長の「オシム」失言もなんだかヘンな感じがしたけれども、ああでもしなくちゃマスメディアの関心をつなぎとめておけなかったのかなと思ったことを思い出す。
3日前 「亀田兄弟って嫌い」っていう娘の発言。ボクシングに興味がない娘にしてはへんな発言だなと首をかしげる。
ボクシングの試合結果にTBSに抗議が殺到。これはたまたま偶然なんだと思うけど、またTBS。
マナーが悪いって、そういう意味じゃ、野球の新庄もいたずらっ子みたいだけど、亀田という選手は新庄みたいな覇気が感じられなかった。身体から出てくるエネルギーが違う。ちょっとびびった感じがした。疑惑判定の試合後に見たからそう思うのかもしれない。ただし娘の発言は試合前のもの。
ボクシングとは全然関係ないけれども、サッカー協会の新役員名簿を見ていたら、70代、60代、40代で、50代がすっぽり抜けていた。前々から気付いていたことだけど、こうもあらかさまに50代が抜けるとため息が出る。それと、スポーツ界のへんてこり現象がどのように繋がっているのか、うまく説明できないけど、漠然と「やっぱりなあ」とため息がでる。
テレビはあきらかにネットの打撃をこうむっている。広告収入にたよってきて、視聴率を稼ぐよりほかの手を知らないというところがある。なんか観念的にテレビの創成期にあった視聴率獲とくの伝説をなぞっているのが、スポーツのヘンテコリン現象と繋がっている気がしてならない。
545 20060803 空襲と空爆 8月2日読売新聞夕刊は「東京駅復元 米が注文」の記事を一面に揚げています。「空襲によって部分的に焼失して丸の内駅(国の重要文化財)を、1914年(大正3年)当時の3階建て、丸いドーム型屋根の姿に復元する工事」をJR東日本が随意契約を行おうとしたところ、アメリカから競争入札にするようにという注文がついたという記事です。
そのとなりには「イスラエル 期限切れ前 空爆再開」という見出し。こちらはレバノン攻撃を続けるイスラエル軍について報じた記事。
つまり読売新聞8月2日夕刊の一面には「空襲」という文字と「空爆」という文字が並んでいるのです。
「空爆」も「空襲」も飛行機を使って空から地上に爆撃を加えるという意味にほかなりません。
内田百閧フ「東京焼尽」を先日、読み終えたばかりですが、そこには空襲で東京駅が燃えた日の記述もありました。空襲という言葉は、私などには女親の口からくりかえし聞かされて生々しい感触があります。
「空爆」というのは、湾岸戦争の時、同時通訳が英語から日本語への訳として「空爆」という表現を使い始めたのではないでしょうか?ひどく違和感があり、それを聞くたびに、ひそかに「それは空爆ではなく空襲でしょう」と言い直していました。
「空襲」が「空爆」に変わってしまう。そういう言葉の変化の間には、そこに「断絶」があることを感じざるおえません。もし「空襲」という言葉が耳に親しい単語であれば、当然、同時通訳も「空襲」という言葉が口をついて出てくるはずです。が、そういう言葉が耳から遠くなっていた表れとして「空爆」が出てきたのでしょう。
「空襲」を使用した例では、95年の阪神大震災の時の新聞記事が印象に残っています。「神戸は空襲を受けたようだ」という文字が複数の新聞に踊っていました。この時点で、終戦から50年たっていたわけですから、現役の新聞記者で空襲を身をもって知っている人はいないはずです。私と同じくらいか、ちょっと年上くらいの記者が「耳で聞いた実感をともなった言葉」として「空襲」という比喩を思いついたのでしょう。それから16年あまり。光陰は矢の如しで、新聞の一面では「空襲」よりも「空爆」という言葉のほうが幅を利かせるようになってきています。「空爆」は「空漠」と同音なのがいやに気になってしかたがありません。
今日、我が家い届いた本
富岡幸一郎氏の「新大東亜戦争肯定論」
タイトルは刺激的ですが、内容には頷けるところがたたあります。「肯定」というのは「受け止める」ということだと著者はあとがきに書いています。戦争否定の言論に対峙するための「肯定」であるとのことです。
著者のライフワークともいうべき評論。
東京人9月号 「占領下の東京」特集
戦争でもな戦後の特集でもなく「占領下」というところが新機軸でしょう。今まで「戦争中」と「戦後」の間にある占領期を特集した雑誌はあまりみかけませんでした。
私にはこの二冊は「空襲」と「空漠」の間を埋めるようとする何かの力を感じさせる表題でした。
544 20060802 娘と買い物に 封筒や便箋を鳩居堂に買いに行きたいし、修理いだしたミュールが出来上がっているって言うからとりに行きたいし、世界史年表と日本史年表を選んで買いたいし、とか、ああでもない、こうでもないと思っていたら、娘が帰ってきました。(最近、うちの子供たちは夜になっても帰ってこないこともあれば、へんてこりんな時間に帰ってきて「あれいたの!」なんて言うこともあり)買い物に行くなら一緒にいきたあって、それって財布を連れて歩くって意味でしょ。
しかし、娘が言うには、一緒にいったほうがおもしろ服をみつけられるということで、親子でふらふら買い物に行きました。(なぜか、ここでおばあさんは川へ洗濯にという桃太郎の物語の言い回しが頭に浮かぶ)で、蒲団を買いました。ぼろぼろだったのです。敷布団が。近所の蒲団屋さんはみんな店をたたんでしまって、綿の打ち直しをしてもらえるお店が一軒も見当たらなくなってしまったのでした。仕方なくスーパーで敷布団を買いましたが、ぼろぼろとは言え、綿はどうしたらいいのかしら?どっかに蒲団屋さんはありませんかね?
それから、娘が見つけたのは台所の水切り。新調しようということになって、気に入ったものを見つけました。これは娘が一緒じゃないと見つからなかったかもしれません。なぜって娘のほうがこうした物品を買う時、慎重だからです。彼女は気に入らないと買いません。私は妥協します。こういう家の備品を子どもが見つけてくれることに、なぜか大満足!肩の荷が下りるような気分の軽さを味わいました。で買わされちゃったんです。10000円もするジーンズ。やれやれ(なぜか、いつもめでたし、めでたしにならずに、やれやれで、この御伽噺の口調はお終いになる)
戸外の闇の向こうから、川越街道のアスファルトをはがす工事の音が聞こえています。電線の地中化工事です。川越街道は、自衛隊の朝霞基地と練馬駐屯地があるので、アスファルトは50センチくらいの厚さで敷き詰められています。戦車が通ってもいいようにということみたいです。知らなかったのですが、戦車というのはキャタビラをはずしてタイヤを履かせることもできるのです。でも重いのには変わりがないので、道路は頑丈に作ってあるみたい。それと買い物がどう関係するかって言うと、まったく関係ありませんが、「やれやれ」っていう感じでアスファルトを引っぺがす音がなんとなくシンクロして、頭の中で響いています。
543 20060801 お母さんの買い物籠 買い物籠ってみなくなりました。どこでもレジ袋が当たり前で、手ぶらで、いや財布だけ持って買い物に行って帰りはレジ袋を提げてくるというのがいつものスタイル。家には築地で買った買出し用の籠がありますが、もっぱら調味料入れになっています。これは大から小まであってかさねられるので便利だけど、これを下げて買出しということもありません。
あとフランフランで買った紺色のキャンバス時の買い物袋がありますが、こっちはいつのまにかスーパーファミコンが収納されています。それに冷凍食品などを入れる保温用のコーティングがされた手提げ。これはどこかからのもらいものですが、夏の買い物でお魚や冷凍食品を買う場合はけっこう重宝しています。
私が子どもの頃は、お母さんというとカーディガンにスカート。エプロンを締めて買い物籠を下げているという絵がかかれていました。お母さんに買い物籠はつきものだったんです。八百屋さんや魚屋さんでは品物を新聞紙にくるんでくれるし、お肉屋はちょっと上等で、お店の包み紙にくるんでくれました。それらを買い物籠に入れておうちに帰ってくるというのが一般的な買い物スタイル。
いつも台所にあった買い物籠を思い出そうとしているのですが、素材や色、形は不確かな記憶しかないのに、それがひしゃげていたのは鮮明に覚えています。買い物籠も代替わりして、幾つかあったのですが、なぜか、どれも同じようにゆがんでひしゃげてました。85年頃まででしょうか?買い物籠を下げて買い物に行くことがあったのは。バブルが始まる前までは、スーパーもありましたけれども、個人商店の結構多くて、かたちだけでも買い物籠を下げている時がありました。もう20年も前の話ですから、今の20歳くらいの人は買い物籠なんて見たこともないという人もきっといるでしょう。
すごく小さい時に買い物籠に入って遊んでいたら、「そんなところに入っていたら市場で売られちゃうよ」といわれました。
542 20060731 今年は冷夏なのかしら? ようやく関東も梅雨があけました。梅雨前線が消滅してしまったそうです。西のほうは関東よりも早く梅雨があけたそうですから、お野菜がなんとなく安くなってきました。熊本の伊藤比呂美さんも雨から開放されたのでしょうか?伊藤さん?元気?
梅雨があけたと言ってもなんとなく涼しい風が吹いています。天気予報によると、来週から猛烈に暑くなるということですが「ほんまかいな?」っていう気分です。こんなで頭はぼうっとしていて、今日は約束を完全にひとつ忘れてました。ごめんなさい。
541 20060729 とうとうまる坊主に 25日に書いた向こうの丘の雑木林と赤松の木ですが、途中まで刈り込むようだというのは私の希望的観測に過ぎませんでした。その日のうちにとうとう丸坊主になってしまいました。その写真をアップしたかったのですが、デジカメの調子が悪くて、アップできません。何が起きたのか解らないのですが、電源が入りっぱなしになってしまいます。それで、バッテリーの電気がどんどん、なくなってしまうという状態です。
まあ、ともだちみたいな松の木がなくなって赤土が丸出しになっている崖なんて見たくもないでしょうから、写真をアップできなくってちょうどいいのかもしれません。そばを通りかかったら、大きな松の木の切り株がちらりと見えました。思っていたよりもずっと大きな切り株でした。ここに住んで25年くらいになります。50年くらいの年輪なのでしょうか?もっとありそうな気もします。でも、そばに行って確かめる気もしません。こんなふうに、消えてなくなるのを見たくなくて、目をつぶるようにして、見えなくなってしまった景色が東京近郊にはたくさんあるのでしょう。
それにしても松の木はそれからどうなるのでしょうか?だたのごみになってしまうのかしら?前に陶芸をやっている人の話を聞いたところ、登り窯を炊くには赤松の薪がいいのだそうです。薪なんて勿体ないくらいの立派な松でちゃんと製材したら、良い板や柱が採れるでしょう。たぶん、そういうことはしないのだろうなあと思います。探す人は探しているのに、いらない人には処分するのにお金がかかるゴミになるという感じなのかなあと赤向けの崖をちらりちらりと眺めています。
ことしの冬は寂しいだろうなあ…………。
540 20060725 丘の上の松の木 曇り空、霧雨、曇り空、雨、雨、雨、大雨。毎日、重ったるい曇り空が続いています。この雨降り続きのお天気の中で、家の向かいの丘の上で、なにやら工事が始まりました。昔は畑だった丘です。今の家に住み始めた頃、丘の上の畑に二宮金次郎が、あの薪を背負って本を読んでいる金次郎さんがぽつんとたっているのを見つけました。きくところによると、その畑はもともと小学校の校地だったそうです。
畑はしばらくすると駐車場になりました。が、畑を取り囲む傾斜地は雑木林のままでした。雑木林の中に一本の赤松が幹を少しだけくねらせて立っていました。夏は緑に覆われて目立ちませんが、雑木林の木々が葉を落とす冬になると、暖かそうな幹の色と、常盤木と呼ばれるに相応しい緑の濃い色が目立ちました。
私はこの松の木が好きでした。嫌なことがあった時にはただばんやりとこの松の木を眺めていると、気が落着いてきました。その大好きな松の木も霧雨の中で働く黄色い重機に切り倒されてしまいました。雑木林の樹木を伐採して、林の大きさを斜面の半分ほどにしている様子です。切り倒されなかった木の向こうに、赤松らしい幹が横たわっているのがちらりと見えました。
見に行ってみようかとも思いましたが、なんだかそれも切なくなりそうで、遠く響いてくる工事の音だけ黙って聞いています。
ここからは聞いた話になりますが、私のすむ集合住宅は谷底にたっています。いや、谷底というよりは河原にたっているといったほうがいい場所です。真ん中には川岸をコンクリートで固められた川が流れています。この川は昔は武蔵野を流れる野川のひとつだったそうです。野川というのは、ふだんは小さな流れなのですが、ひとたび雨が降ると河原いっぱいに流れ出す川のことをそういうのだそうです。ですから、広い河原があります。私の家はその河原に建てられています。緑の生い茂った河原に水があふれて流れる光景はさぞ見事だったろうと、聞いただけの話を想像してみることがあります。清らかな水には川魚もたくさん住んでいたそうです。
松の木がなくなって、というよりも、松の木がいなくなって、さびしくなりました。もう、そろそろ、この昔は野川の流れる河原だった土地を離れて、どこかほかのところに行くほうがいい時期が来ているのかな、と小雨にもかかわらず働き続ける黄色い重機を見ながら考えこんでしまいました。
539 20060723 奥歯のカチカチ 右の奥歯を抜いたのは東京新聞に「楽隊のうさぎ」を連載していたときでした。あんまり痛くて、思い切って抜いてしまいました。それから、左の奥歯の下の歯がなぜかはれ上がったのは、いつだったか?評論家の秋山駿さんと恒例の温泉に行く会で、鬼怒川温泉に行った時ですから、かれこれ3年も前です。このときの痛みは強烈でした。が、あとから歯医者さんに聞くと、「死んでしまう人もいる」ような恐い状態だったそうで、ほんとにたまげました。
この左奥歯下の歯の痛みに懲りて、こつこつと歯医者さんに通ったのですが「うさぎとトランペット」の連載が始まって、いつしか歯医者さんを忘れました。それより前に抜いた右の奥歯上の歯は歯抜けのまま。そうこうするうちに今度は左の奥歯の上の歯が痛み始めました。さあ、たいへん、こんどこそは、最初に抜いた右の奥歯上の歯もなんとかしなくては!と歯医者さんに通い始めたのが昨年の暮れ。ようやく、ようやく、7年ぶりに歯が全部、治りました。でも、ずっと抜けたままにした歯があったために上の前歯が、まるで「うさぎ」みたいにちょっと隙間が出来てしまいました。
その隙間ができた前歯を歯が白くなるという歯磨き粉を買ってきて磨いています。ぴかぴかになるかしら?なぜかその歯磨き粉で歯を磨くたびに、東京會舘で遠藤周作さんと安岡章太郎さんが歯ブラシの話をしていた場面を思い出します。何の会合の時だったか?安岡さんも沿道さんもゆったりとソファに座って、その頃はまだ珍しかった電動歯ブラシの使い心地について、熱心に話していました。
入れたばかりのブリッジはまだ口の中に納まらなくて、居心地が悪そうにしています。カチカチと文句を言っています。
538 20060720 志賀信夫さんからメール ダンスが見たい 批評家推薦シリーズの志賀信夫さんから以下のようなメールを頂きました。このメールによると三日目の夜のステージもなかなかおもしろかった様子です。行けなくて残念。
「先日は本当にありがとうございます
二日目、トーク本当にみんな面白かったとあとからも感想が来ました。
あれでよくわかったという人、あれが印象に残り舞台を忘れた人までさまざまですが、初めて見た人以外にも好評でした。なおかつ二日目の打ち上げ、会場探しに走らせてしまってすみません。やはり打ち上げ会場確保は必要でした。
三日目の森さんのソロもとっても面白かった。紋付きにゲタ、竹の筒を二つ竹馬のように操ったり、さらし首っぽいイメージを作ったりと多様。音楽がバルカンっぽい早い曲とバロック。
三人のコラボは基本的に二日目の形だけど、阿部さん、福士さんが結構大胆にソロを主張して面白かった」
537 20060719 ダンスが見たい8 批評家推シリーズ 福士正一さん、森繁哉さん、阿部利勝さんの舞踏を二晩続けて見ました。最初の晩は阿部さんのソロと福士さん、阿部さんのデュエット。予定はでは森さんも加わるはずでしたが、都合がつかず、急遽、福士さん、阿部さんのデュエットになりました。
阿部さんのソロでは「田植え機のダンス」がすごく魅力的でした。「一年の数日、働いてもらうために、借金をした」田植え機。田植えの様子を踊るのですが、たんに田植え機の動きを真似ているというのではなく、田植え機の動きが身体に乗り移っている感じです。お神楽に田植えの所作がありますが、阿部さんの舞踏は、現代版のお神楽みたいに、動きが明るくて軽やかです。
身体付きも中心線がまっすぐに通るところに筋肉がしっかりと付いた感じで、現代的な身体性を感じさせます。ふつかめのアフタートークで話題になったのですが現代の農業では腰をかがめる作業というのはだんだん少なくなっているのだそうです。福士さんとのデェットの時にあったしこを踏む動作なども田植え機に通じる明るさと感じました。「明るい」というよりも「めでたい」といったほうが適切でしょう。「めでたい」身体の動きにはおかしみに通じながら神々しさもありました。土方巽の孫弟子にこんなにめでたい身体と動きと表情を持った人で出てくるというのは、私にとって大発見でした。
福士さんとのデュエットでは、同じ舞踏でもこんなに異なる身体が出来上がるのかと見つめてしまいました。福士さんの舞踏はひとことで言えば「不気味」になります。でもこの「不気味」は単純な不気味さではありません。背中を思いっきりそらせた姿勢での動きは、足を消し忘れたために不自由な動きを強いられる幽霊を思わせます。もちろん、背中をそらせれば誰でもそういう感じが出るというわけではありません。荒川静香選手のイアンバウアーを見て幽霊を思う人はいないでしょう。福士さんの舞踏は身体をそらせることで雪国に住む霊(スピリット)を招きよせているかのようです。ですから、阿部さん、福士さんのデェットは「いる人」と「いない人」が組んで踊っているかのようでした。「いない人」という言い方をしたのは、不気味な幽霊みたいに見えるだけでなく踊っていると様々は霊(スピリット)が招きよせられてくるように感じられるからです。
翌日は福士さんのソロ。前半は身体をそらせた不気味の舞踏から、中盤、何か無邪気なもの、生まれる前の赤ちゃんみたいの動きへ、進んで行き、舞台にあったオブジェ(春巻きの皮で作ったものだそうです)を観客席にばらまくところは、道路劇場で、思いがけない通行人を巻き込んでしまう場面を彷彿とさせました。福士さんの今にも手足がばらばらになってしまいそうな柔らかい身体の動きをいつ見ていても、不気味だけど触ってみたいくなります。いったいどうなっているんだろう?と子どもみたいな気持ちにさせられるのです。
後半は森繁哉さんが加わり、3人での舞踏。森さんは腰の曲がったお婆さん。安倍さんは白いシャツのお父さん。福士さんは学生帽に半ズボンの子ども。森さんの腰の曲がったお婆さんの舞踏は、身体の底から動きたい、動きたいと突き上げてくるような衝動を感じさせるもので、独特の動きでありながら、お婆さんをリアルに観察している眼も感じさせるものでした。三人がひしひしとご飯を食べる場面では福士さんの帽子が飛ぶというハプニングもあって、開場から笑いが漏れていました。森さんが加わることで人間がひしめきあって生きている感じが、ものすごく濃密に伝ってくる舞台になっていました。3日目の森さんのソロも見たいかったのですが、残念ながら3日目はすでに予定が入っていて出かけられませんでした。
536 20060718 西五軒町 西五軒町と言ってもピンと来る人は少ないかもしれません。書籍の取次ぎ会社であるトーハンの本社のあたりです。神田川の上を高速道路が走っているさびしい場所で、トーハンや凸版印刷があります。
その西五軒町の「神楽坂Die pratze」ヘ舞踏を見に行ってきました。神楽坂というのはちょっとなあという場所ですが、赤城神社から江戸川橋の方向へ坂を下った場所にある小さな劇場です。「ダンスがみたい!批評家推薦シリーズ 8」に青森の福士正一さん、山形の森繁哉さん、阿部利勝さんがご出演になるというので、出かけたのです。
話は6年前に遡るのですが、青森で日韓の文学者会議を開催する時に舞踏家の福士正一さんを紹介してもらいました。福士さんは長年、道路を劇場として踊ってきた舞踏家で(しかし、青森市の職員でもあって、公務する舞踏家とおしゃっています)韓国でも踊ったことがあるというご縁で紹介していただきました。
4年前にインドの作家とのシンポジウムを山形で開催する時にコンテンポラリーの芸術家として森繁哉さんをやはりご紹介いただいたのですが、お話を聞いてみると福士さんのお師匠さん!でした。山形大学時代に森さんのダンスを見て福士さんも舞踏を始めたのだそうです。
森繁哉さんは舞踏家土方巽に師事したと伺っています。もともとは町役場の職員だったのですが、今は山形芸術工科大学教授。阿部利勝さんも森さんのお弟子さん。やはりインドとのシンポジウムの時に舞踏を見ています。で、舞踏の話を書かなくちゃいけないのだけれども、その前に驚くことが次々に起きたので、その話を。
西五軒町というのも、私には西荻と並んで思い出の街で、高校を出てすぐに出版物を輸送する運送会社に務めていた私は毎朝、トーハンに電話をするのが業務のひとつでした。荷物の数の突合せです。で、時には伝票を届けることもあって、その頃から寂しい谷底の街だなと思っていました。で、その寂しい谷底の街の劇場での驚きのひとつは、評価推薦の批評家が志賀信夫さんだったことです。毎年、夏に鎌倉で飲み会をやっていた頃があるのですが、その飲み会に文芸評論家富岡幸一郎さんの大学時代の同級生ということで御一緒していた志賀さんとは思っていたかったので、劇場の前でお顔を見たときはびっくり。福士さんの舞踏を見たのがきっかけで今回の企画になったそうです。
志賀さんと劇場前で立ち話をしていると、そこに中沢新一さんが現れて、「えっ」とびっくり。これはアフタートークショーの予定があったとのことで、プログラムをちゃんと見ていない私が悪かったのですが、中沢さん(私じゃないほう)はゼミの学生を連れて毎年、阿部さんのところで農作業をしているのだそうです。(トークで中沢ゼミ、中沢ゼミと言われるたびに私がびくんとしていましたが)
阿部さんは農家で、中沢ゼミ(だからうちではありません)の面倒を見ているうちにだんだん舞踏に目覚めたのだそうです。
最後のびっくりの極めつけは、一日目のステージが終わったあとの打ち上げで、鶴岡中央高校で大学の模擬授業をした話をすると阿部さんが「僕はその学校のPTA会長です」といわれたことでした。どうしてこんなに寂しい西五軒町でばらばらの玉が糸で繋がるように、いろんなことが繋がって行くのでしょう?ここのホームページに伊藤比呂美さんがコラムを書いてくださるようになったのも、もとは森さんにつないでいただいたようなものですが、その話はまた今度。それから肝心のダンスの話もしなくちゃ。それはまた明日。
535 20060717 西荻のダンテ 前からお会いしたいと思っていた平松洋子さんのご自宅に伺ってお話を聞いてきました。「表現者」の連載「眼と仕事と道具」のためのインタビューです。平松さんのご自宅は西荻窪。
私も25年前に西荻窪に住んでいました。東京に出てきて、何の土地勘もなく住むところを決めたのですが、西荻は東京二十三区のはずれ、となりは吉祥寺で武蔵野市になります。だからちょっと家賃が安いかなくらいの感じで、そこに住むことにしました。
久しぶりの西荻です。「このあたりの空気は変わらない」と平松さんがおしゃるとおり、新宿の騒がしさからちょっと離れてほっとした感じは昔のままです。
インタビューが終わってから駅前の「こけし屋」でランチを食べました。郊外のフランス料理店の草分けみたいなお店で、大学生の時は編集者との待ち合わせによくこのこけし屋をつかいました。それから「ダンテ」へ。
正直に言うとまだ「ダンテ」はあるかしら?とちょっと心配でした。JRの駅を南へでて、右手の細い路地の奥です。自転車くらいしか通れない道で、途中にある「初音ラーメン」も健在でした。「初音」でラーメンを食べて「ダンテ」でコーヒーを飲むというのが、いつもの帰り道の手順。「こけし屋」が応接間なら「ダンテ」はもっと親しい感じで、リビングというのか、自分のうちの延長みたいな、そんな感じでした。「ダンテ」では黒いカーディガンが似合う老婦人がいて、いつも本を読んでいました。その人をモデルにした人物を「女ともだち」の中に書いています。
数年前におよそ20年ぶりくらいに「ダンテ」にコーヒーを飲みに言ったらマスターが私を記憶していたのにはたいへんに驚きました。今度も「こんにちは」です。
昔、伊豆の下田にある「中川」というお刺身を食べさせる店のことを話したことがあるのですが、今でもマスターはバイクに乗っていて、「中川」が新しく出した店にも行っているという話をしました。
平松さんはずっと西荻にお住まいだそうです。私もあのまま西荻に住んでいたら、今頃、どうなっていたのかしら?と考えずにはいられませんでした。なんだか複雑な気持ち。こういう複雑な気持ちを表現するならエッセイよりも小説のほうがいいんだよなあと、中央線の中で考えていました。「私」や「僕」などの一人称に縛られてしまっては、表現できない複雑な気持ちです。
西荻窪は昭和のはじめの建売住宅として開けてきた街ですが、街もだんだん歳をとるのですね。歳をとり始めて街の魅力を今の西荻窪には感じます。
MIXIに夫馬基彦さんから以下のような書き込みをいただきました。
「いや、たいしたことじゃないんですが、西荻には昔佐々木基一さんと杉並シネクラブをやっていた頃、仲間が多くいてよく行きました。その定番コースが、ダンテ、初音ラーメン、こけしや、そして出てこないけど飲み屋「たみ」「キングクラブ」等でした。
更に、伊豆下田の中川も伊豆時代(ぼくは伊豆の山中に住んでいたことがあります)、常連でした。喫茶店なら「邪宗門」。
いやあ、懐かしい。 」
そうそう西荻の駅のプラットホームではいろんな人の姿をおみかけしました。
534 20060714 隠れ家と暖かい雨 飯田橋に隠れ家みたいな場所を見つけました。銀嶺ホールが見えるところです。でも、外堀通りからこちらは見えません。喫茶店のテラスと言っても植え込みで往来からは隠れています。ずっと内緒にしておきたかったんだけど、ちょっとだけ人に教えてしまいました。
学校の研究室の鍵を受付に返して外に出てみると、図書館の前のアスファルトが黒く濡れていました。おや?雨が降ったのかしら?と空を見上げたら、雨が降ったのではなくて、大粒の暖かい雨がぽつんぽつんと降っている最中でした。モームの短編小説に出てくるような雨。
昨日も夕方、同じくらいの時間にやはり暖かい雨が降っていました。夕立というには、少々思い切りの悪い雨です。寄り道をしようか、それともまっすぐに家に帰ろうか、考え考え暖かい雨の中を歩いていました。
地下鉄じゃなかったら、まっすぐに家に帰るところなのですが、地下鉄だと陽が沈んで行く夕暮れの空を眺めることができないので、それが詰まらないんです。日暮れの空と街を見ているのが好きです。思い切りが悪い暖かい雨がぽつんぽつんと降っている街の夕闇の中に溶け込んでしまいそうになりながら、街を見ていると、理由なく楽しい気がします。
それで例の隠れ家から外堀どおりの日暮れを眺めていよういう気になりました。
533 20060711 ジダンは何を言われたのか 四年前のワールドカップの時、四年後は息子や娘たちも大学を卒業するだろうからワールドカップをドイツまで見に行きたいなと思っていました。4年たったら、それどころではないほど、忙しくなってました。(やれやれ)とは言え、私はそれほどのサッカーファンではありません。にわかファンと軽蔑される程度の観戦者です。
ワールドカップの時に売り出される応援用タオルはコレクションしていますが……。
そこで、いつも試合が終わると星野智幸さんのHPを見て、その感想を楽しみにしています。今回の決勝戦では前半をライブで見てから、翌日の予定があったので、後半は寝てしまいました。というか、前半も試合の開始時間を一時間ほど間違えていました。ネットで試合開始を知って、あわてて、テレビをつけるとフランスのアンリがピッチにのびていました。これはそうとうな激しい試合だなと、その場面で思っていました。
そうそう、アンリが気付けに茶色い小さな小瓶から何かの匂いを嗅がせてもらっている場面では、19世紀の小説に出てくるような場面を見ているような気がしました。いったいどんな匂いをかいでいたんでしょう?
それで目が覚めてみるとジダンのレッドカード退場です。今日のニュースでもジダンが何を言われたのか?がかなり詮索されていました。星野さんはホームページでジダンの「狂気」と書いてました。そう「狂気」なのかもいしれません。サッカーがわからない私がそう書くと笑われるかもしれませんが、あのシーンを見ると神がかり的な精神の集中の中に訪れる「あらぶる神」みたいなものを感じます。
ジダンはキリスト教徒かもしれませんが、日本の神様は柔らかいニギミタマと荒々しいアラミタマがあると考えられているのだそうです。で、ジダンとは関係なしに考えてみるとああいう場面ではアラミタマが人間の目にも見えるような形で現れる気がしました。極度の集中が生み出す「アラミタマ」が星野さんのいう「狂気」なのではないでしょうか?
そういう私は4月からいささか登校拒否ぎみで、同時に「アラミタマ」不足を感じています。エネルギーの不足ではなくて、仕事に集中するための核のようなものがちょっと不足気味です。そのせいか、ジダン選手の「アラミタマ」が羨ましく見えます。サッカーの神様に愛されている男と言われているジダン選手ですが、神様の愛し方が少々荒っぽすぎたのでしょう。暴力による退場でもそういう神々しいものをなんとなくあの場面から感じてしまいました。
532 20060710 これがぎゃっぼと鳴くマングース人形 写真を撮らなくちゃっと思いながら、なかなか撮影の機会がなかったマングース人形です。「のだめカンタービレ」で主人公の野田恵が学園祭で着たマングースの着ぐるみがそのままぬいぐるみになっています。
「のだめカンタービレ」はこのマングース人形が出てきた音大在学中が好きです。もちろん、漫画は今も進行していて、楽しみに読んでいますが、音大大学中のわきやくたちがなんと言ってもリアルでした。それから先生たち。コンクール入賞のコーチがうまいハリセン先生とか楽譜も読めない劣等生専門の老先生とか。芸術系の大学の奇妙奇天烈さが出ていた頃がもっとも楽しかったです。その頃は、我が家には音大生もいたし、私も芸術系の大学で講師をしていましたから。
芸術家って一般にはへんな人と思われがちですが、まあ、ふつうです。ふつうにヘンです。ふつうの学校や会社でも、少し注意深く観察していれば、そうとうへんな人がたくさんいます。が、ふつうは、そこまで観察しないし、また観察したあとでデフォルメを加えたりしません。だから「観察+デフォルメ」の入る芸術系はお話にするとおもしろいんだと思います。でも、どこの職場にも「観察+デフォルメ」のうまい人って必ずいるような気がするのですが、どうでしょうか?
うちではこのマングース人形は「ぎゃっぼ」と呼んでいます。お腹を押すとほんとうに「ぎゃっぼ、ぎゃっぼ」と鳴きます。御天気の良い日に撮影したかったのですが、なかなかどうして毎日梅雨のために、良いお天気になりませんでした。 532.jpg
531 20060708 ノ・ムヒョンの沈黙 5日早朝に鶴岡のホテルで、サッカーを見ようとテレビをつけたら、北朝鮮がミサイルを発射したというニュースが流れていました。それからあまり新聞を丁寧に読む時間がないので、ネット検索でニュースをあさっていたのですが、ネット上の記事を多いのは、イラクの開戦が迫っていた頃の2003年の記事です。その当時、北朝鮮はシルクワームという小型ミサイルを発射しています。そのイラクでは自衛隊の撤退が始まりました。砂嵐のためにいくらか撤退作業が遅れているようですが、7月中にはサマーワからの撤退を終了するようです。
もともと北朝鮮の核開発ミサイル問題はイラク戦争開戦の時期とシンクロしてクローズアップされていたことを改めて思い出しました。こうした動きには、どの程度の「意図」が介在しているのからは、散発的なニュースをあさるだけでは理解できないところがありますが、まったく「意図」が働いていないとも考えられません。誰の「意図」なのか、どのような「意図」なのか。そこまで推察はできませんし、あるいは神の「意図」、つまり無神論者なら「偶然」とか「歴史の悪戯」と呼ぶようなものなのかもしれません。
朝鮮日報は韓国のノ・ムヒョン大統領が沈黙しているわけを探る記事を書いています。ちょっと目を引いたのは今年の3月に北朝鮮国内でクーデターや内乱などが起きた場合を想定した米韓の演習を行われている記事があったことです。これは「内乱」や「クーデター」というキーワードで検索したところ、引っかかってきた過去の記事です。米韓それに日本はおおよそ、そうした「不測の事態」が起きた場合の対処を考えているようです。昨日の夕刊フジは中国が中朝の国境を閉鎖し、石油のパイプライン6本のうち5本を閉じたことを報じています。これも2003年のシルクワーム発射の時に中国がパイプラインの事故を理由に石油の供給を止めたのと同じなり方なのですが、その時以上に緊張したものを感じます。ですから国連での議論の方向には強い関心を抱いています。
日本のテレビコメンテーターは過去の事例をもとにパターナイズされたコメントを出す傾向があります。北朝鮮について言えば、パターナイズされたコメントに多少の嘲笑の色が加えられることが多いのですが、おきている事象は過去の例とよく似ていても時間の経過とともに事象の意味が変わるという点に留意したコメントは、ほとんどありません。北朝鮮については無用なあなどりや不愉快なほどのあざけりが加わるので、聞くに堪えない場合すらあります。そのような軽佻浮薄なムードの水面下で何か重大なことが進行しているようです。ノ・ムヒョンの沈黙がそれを雄弁に物語っていると考えるのは、あまりにも小説家的想像力だと言われてしまいそうですね。
530 20060706 雲、雲、また雲。 4日、飛行機で庄内空港まで飛ぶときに「視界不良のため,新潟空港に着陸するか、もしくは羽田に引き返す可能性があります」という事前アナウスがありました。西日本から東北にかけて停滞している梅雨前線の動きが活発になっているとのことでした。飛行機が上空にあがってみると、機体のしたは、雲、雲、雲また雲で、もくもくと硬そうな雲が群れを作っていました。純白の雲です。もちろん雲の上はまぶしいばかりの夏の光。さらに高いところには、秋の雲のような薄雲さえ広がっていました。
鶴岡に行くのは20年ぶりくらい。お隣の酒田には何度か行っているのですが、考えてみると鶴岡は1988年以来です。天候がよければ庄内平野の向こうに月山や湯殿山それに鳥海山が見えるはずですが、残念ながら曇っていました。
帰りの空港でも、今度は「空路が混雑しているので離陸が40分遅れます」のアナウスがありました。あるいは北朝鮮がミサイルを発射した影響で、通常の飛行機だけではなく、自衛隊機なども飛んでいるのかしら?と言う想像をめぐらしてしまいました。そして今度も雲、雲、雲。東京まで雲の中を飛び続けました。で、いざ、羽田に着陸しようとした寸前で、空港が混雑しているという理由で、茨城県上空で待機することになりました。通常は50分のフライト時間の空路を1時間30分も飛んでいることになりました。
529 20060704 暑くなりました。 九州は大雨だそうです。伊藤さん、どうしているかしら?東京も暑くなりました。今年は5月から雨が降り続けているので、もういい加減に梅雨明け宣言を聞きたいものです。法政大学の前の外堀の水はものすごい緑色をしています。きっとこの暑さで、藻が大量発生したのでしょう。外堀土手の泰山木の花の季節も終わってしまいました。
毎年、6月とか7月というのは学校絡み、少年絡みの事件がおおいように思えます。6月は祭日のない月で、なんだか永遠にいやなことが続きそうな気がしてくるのでしょうか?今年もまた、なにやら、大事件続発という感じでした。それを報じる週刊誌の中吊り広告を見ながら「ああ、今年も半分終わっちゃったな」と思ったものです。気のせいか「今年も半分終わり」という文句がやたらに耳につきます。それにしても暑くなりました。
528 20060630 遊びすぎの大家です。 伊藤さん、こんにちは。いといろと災難続きのご様子ご同情申し上げます。お返事が送れてすみません。私はこの4月頃から軽度の登校拒否症状が出ておりまして、このまま行くと「危ない」ので、遊びほうけて、夏休みまでのちょっとした時間をなんとかごまかしておりました。というわけでお返事が遅くなってすみませんでした。何をしていたかというと以下の如しです。
まず早めのバーゲンめぐり。デパートのバーゲンは明日7月1日からですが、専門店などは今週からバーゲンが始まっております。ええとまず下着専門店のバーゲン。キャミソールなどをおやすく買いましたところ、我がホームページの管理人である豆蔵君が「タンクトップ」がいいなんて言っておりましたので「私はキャミソール」と脅かしておきました。「どこかがはみでるでしょう」というのが豆蔵君の意見でした。
次に横浜の元町でキタムラのサンダルを半額で購入。キタムラといえばバッグの専門店として有名でしたが、このごろでは靴の店も出してします。で、キタムラのカラフルなドライビングシューズが欲しいのですが、これはいつも何色を買おうか迷っているうちに買いそびれてしまいます。買い物は元町がいいなあなんて思うこのどろです。遠いから、そんなに買い物で出かけられないというところがGOODです。
それで英語の話なんですが、まあ歌とおんなじでもう小説なんてかけなくなってもいいから、英語をしっかり学んじゃおうかな、フランス語(買い物道楽をするなら英語よりもよさそうなんで)にしようかな、あるいは、ちょっとだけ覚えた朝鮮語にしてみようかななんて気の多いことばかり考え込んでおります。このうち実現性があるのは来年、韓国から法政大学へ客員研究員として作家のカン・ヨンシュクさんがお見えになるので、カンさんを先生にしてもうちょっと朝鮮語をやってみるかなと思っています。へんな話ですが、朝鮮語ができるようになっても「小説がかけなくなるんじゃないか」という不安はこれまで感じたことがありません。
英語よりも文法や語順が日本語に近くて、なんだか「肉感的」に覚えられるので、頭の中を記号的無味乾燥で覆ってしまわなくてもすみそうな気がしているためかもしれません。きっとイギリスの作家とフランスの作家はそれとおんなじ感じで語学をやっているに違いないと私は思っています。でも、四声がある中国語は音痴な私はそんな感じにはとてもなれません。
というわけで、バーゲンのあとは、朝までカラオケでした。本気を歌を習いに行こうかと思っている今日この頃です。英語を習うよりも楽しそうだし……。
527 20060628 店子の伊藤でございます 22日に大家さんがいってたこと、英語つかうと小説かけないって。あれはあたしの場合たしかにそんな気がしました。ひしひしとしてこわかったです。アメリカに移住したときは(97年)もう詩かいてなかったんですが、日本語全体がこわれていってるような感じでした。それから日本語しかよまないようにして、古典よむようになって、なんだかね、たちなおりました。御詠歌うたってみようとしたらむずかしかったですよ、あんがい。こんどうたいましょう。でもカラオケには無いかも。
526 20060625 警察権力を使った権力闘争 小泉内閣は発足当初から警察を使った権力闘争の影がありました。どうちらかといえば小泉政権サイドが警察権力を利用しているなと感じることが初期には多かったのですが、ここへきてライブドア事件村上ファンド事件さらには福井日銀総裁のスキャンダルなどは反小泉政権側が警察を利用して権力闘争をしかけていると私は感じています。
でライブドア事件から福井日銀総裁のスキャンダルまで続く流れのなかで、一貫して感じられるのは「庶民感情」や「庶民感覚」を安易に利用しようとする姿勢です。「庶民感覚」や「庶民感情」につけ込んで権力闘争で優位に立とうとする意図が感じられます。それはすこぶる不愉快な感じのものです。しかも、そこでイメージされている「庶民感覚」や「庶民感情」はかなり日付が遅れた古臭いものでしかないところが、その不快感を増幅させてやみません。反動というものは、どんな時代どんな場所にも起きるものですが、こんなにも安っぽく庶民感情につけこまれるのは不愉快きわまりなしです。
野党がこうした権力闘争に乗って与党を叩こうとしているのも、なんとも情けない限りに感じられます。こうした不快感を感じている人は果たしてどのくらいいるのでしょうか?
525 20060622 歌が歌いたい。 陶芸家の角りわ子さんの個展に行きました。で、その会場でサンプラザ中野さんにお会いしました。娘は「ランナー」を聞くとなぜか走りださなくちゃいけないような気がすると言っています。小学生の時、運動会の入場行進の曲が「ランナー」だったからです。とは言えご本人にお目にかかるのは初めて。
4月からやや登校拒否+遊びたいシンドロームの症状を呈していた私は、よろこんで、角さんとサンプラザ中野さんがお夕飯を食べるというので付いて行ってしまいました。サンプラザ中野さんはベジタリアン。ご著書もあります。だからごはんは正真正銘のインドカレー。これが美味しかった。その日のお昼は日本式カツカレーだったんですけど、お料理としては、まったく違う料理です。で、歌が歌いたいって話。
一曲でいいからイメージどおりに歌を歌いたいなあって、その日からずっと思っています。カラオケで野蛮極まりない声張り上げてるじゃんっていう悪口が聞こえてきそうな気がするけど、そういうんじゃなくて、「聞こえている」とおりに歌いたい。プロの歌手なみに歌いたいなんて贅沢なことは申しません。いつも、思うんだけど「聞こえている」ようには、なぜか歌を歌えないのです。息子は「楽隊のうさぎ」を書くまでは「聞こえてないんじゃなかと思っていた」と言っています。あの小説を読んで「聞こえてはいたんだ!」と驚いていました。だから聞こえているんだってば(怒)でも、聞こえているとおりに出力(歌う)できないの(哀)。
伊藤さん、熊本着きましたか?今度、二人ですばらしい御詠歌をうたいましょう。私はある時期までほんとうに、もし私が歌が歌えるようになったら、小説がかけなくなるんじゃないかと信じていました。でも、歌が歌えるなら小説かけなくなってもいいかもしれないってこの頃思ってます。英語が喋れるようになったら、小説かけなくなるんじゃないか?という恐れのほうはまだ消えてないんですけどね。
それにしても歌が歌いえるようになりたい。サッカーみながら「アイーダ」を歌いたい。
524 20060621 洗濯機がやってきた。 洗濯機を買いました。全自動乾燥機つき。ここのところ雨降り続きでどうしても乾燥機つきが欲しくなってしまいました。前の洗濯機は今の家に越してきた頃に買ったような記憶があるので(このときは年末でした。どうしてそれを覚えているかというと、弟夫婦がやってきている時に洗濯機が届いたから)だいたい14、5年前です。
よく働いた洗濯機でした。我が家で最初に買った全自動洗濯機でした。もう、この洗濯機を売ってくれた電気屋さんはありません。「なか卯」になっています。
よく働いた、時にはドロだらけの運動靴や長靴まで放り込まれたこともある洗濯機に寄る年波には勝てず、蓋の一部が壊れてからはごうごうがあがあものすごく苦しげな音を立てるようになっていました。最近三ヶ月は、どうも汚れが落ちないということが多くなっていました。洗濯機は買うたびに機能が複雑になり、形も大きくなりました。
家電を買うたびに、昔、見たイッセイ小形の一人芝居を思い出します。家の中の電気製品がそれぞれにひとり言を言っているという芝居です。あれをもう一度みたいのですが、今やるとすれば、ユビキタスで、ネットワーク化された家電製品の文句とか反目とかけんかなんて場面も出てくるんでしょうかねえ?
新しい洗濯機は、お風呂のお湯も使えるみたいだし、操作を覚えるまでにはまた一苦労って、ちょっと心配。
523 20060619 ぎゃぼと鳴くマングース人形 娘がコミックス「のだめカンタービレ」16巻の特別バージョンというのを手に入れました。ぎゃぼと鳴くマングース人形です。主人公の野田恵つまり「のだめ」が音大の学園祭の時になぜかマングースの着ぐるみを着て、ピアニカを演奏した時の姿なので、マングースはピアニカを持っています。「ぎゃぼ」はのだめが驚いた時の声。お腹を押すと妙に高い声で「ぎゃぼ、ぎゃぼ」と鳴きます。
「のだめカンタービレ」も10巻くらいまでは、書店でも品薄で、買いそびれてしまうとなかなか手に入らなかったのですが、いつのまにか、コミックスとは別にCDとかそういう周辺グッズが増えていました。マングース人形はなかなかかわいいのですが、なにしろ限定バージョンというので、娘は「お宝」扱い。写真を載せたいので撮影させて欲しいというと、立会いのもとでしか撮影させられないという返事でした。ううん、なんかVIP扱いです。「だって、よごされたら困るもん」ですって。二、三日うちにここに写真が掲載できるように、マングース人形を撮影させてもらいます。
522 20060617 一難去ってまた一難。 イラクに派遣されていた自衛隊が、ようやく来月末に撤収するという見込みが政府から発表されました。今までのところ、大きな戦闘もなければ、被害も出ていないので、あと一ヶ月、無事であって欲しいと思っていたやさきです。
今日(17日)の昼頃から北朝鮮でミサイルへの燃料注入の準備が進んでいるというニュースが通信社、新聞社が横並びで報道をはじめました。北朝鮮というのは6月頃に、毎年もっとも食料が不足するのだそうです。去年の秋の備蓄が底をつき、今年の収穫にはまだ少し早いという時期にあたるということです。ですから、6月は剣呑な月だと聞いたことがあります。
これはいったいどのような進展を見せるのか今のとろこ予断を許さない状況です。
イラクの自衛隊撤収や北朝鮮のミサイルとはくらべものにならない事象ですが、毎年6月は大学のゼミでは、教員のどきもを抜くような事件がおきたり、ため息をさそうような発言が転がりでたりする時期でもあります。裏を返せば、ゼミが軌道に乗る時期なのですが。
でゼミ生のほとんどが「専守防衛」という言葉そのものをしらなっかったのです。文学部日本文学科ですから外交や防衛に感心が薄いというのはいたし方ないのかもしれませんが(1945年以降の現代文学を学ぶには外交の歴史を知らなければいけないのですが)、それにしても、これはちょっとショックでした。
ここ数年、防衛論議はさかんにされていますが、「専守防衛」はその論議のかげで忘れられようとしているようです。比喩ではなくて言葉そのものを知らない大学生が増えているのは事実をして受け止めていいでしょう。
なんだか北朝鮮のミサイルよりもこっちのほうが難儀に感じられるのは、学校で先生なんかしているせいでしょうか?
521 20060616 歩行者どうしの衝突で損害賠償 93歳のお婆さんにぶつかった27歳の女性が、お婆さんから損害賠償を求められ、裁判所がそれを認めたという新聞記事がありました。お婆さんは足を骨折し、それで車椅子の生活をよぎなくされたので、家の改築費用も賠償額の中には含まれたそうです。
それで思い出したのですが、去年から今年にかけて飯田橋の牛込見附の交差点で、私は二度も女子高校生と正面衝突しています。どちらかがよければ、衝突はしないわけですから、いちがいに女子高校生が悪いとはいえませんが、二度ともあまりに無防備に真正面から近づいてこられて、ごつんと衝突してしまいました。で、さらに驚くのは、目から火花が出るほどの衝突をしたのに「ごめんなさい」とか、そういう対応はなかったのです。
最初の人はともだちとおしゃべりをしていて、何事のなかったかのようにそのまま、おしゃべりを続けながらJRの駅の方向へ歩いていってしまいました。ともだちもぶつかったことを気に留めた様子はありませんでした。
二度目の時は壁か何かにぶつかったみたいに「あいたたた!」と言いながら行ってしまいました。不注意でぶつかるまでは両方悪いと思うのですが、ぶつかったあとのなんというか、対応があまりにこちらの存在を無視していたので唖然としました。もしかすると、昨晩のうちに私はもう死んでしまっていて、幽霊になっているから分からなかったのかしら?と疑念を抱きたくなるくらいです。いったい、どうしてこんなことが二度もおきるのでしょうか?
520 20060612 眠いついでに どうも新幹線「のぞみ」に乗ると気絶したみたいに眠ってしまう。鈴木隆之さんが京都精華大学に呼んでくださって、都市とか建築と文学の関係の話をしてきました。で行きは新幹線「のぞみ」。寝てました。名古屋を出たところで目を覚ましたら、スーツの衿によだれがついてました。ありゃ、まずい。と思いつつまた寝ちゃって、目が覚めたのは京都駅。今の京都駅は鈴木隆之さんの先生の原宏さんの設計だそうです。
街並みがあまり美しくないって話になったのですが、美観の点から言うと建材の質がけっこう響いている気がします。30年前に修学旅行で来た京都は持ってきれいでした。木造建築がだんだん朽ち果ててきて、新しい建材で建てた建物は一棟一棟はきれいでも、全体でみると統一感がまったくなくなってしまっているから、街並みが美しいとは思えなくなってしまっています。
建築の話のついでに思い出しましたが、京浜急行の金沢八景駅の裏には昔から茅葺屋根で有名なキムラさんの御家があります。茅葺屋根って、消防法では許可にあんらないのだそうですが、今でも茅葺です。が、萱が手に入りくいらしく、たいぶ、すべり落ちてはげているのを数日、前に見ました。以前、鈴木さんと見に行った千葉の水田家も、茅葺にするためにものすごくお金がかかっただけではなくて、萱そのものを集めるのに人手と時間がかかったと聞きました。昔風の木造建築茅葺の家を建てようとするとたとえ消防法をクリアしてもなかなかたいへんだということでしょう。
で、帰りの新幹線「のぞみ」。どのあたりか、麦をたくさん作っている場所があって、麦秋の名のとおり、今は刈り入れの季節で、麦を刈ったあとの田んぼで遅い田植えをしていました。で、ここから先は名古屋に停車したのも知らずにまた爆睡。目が覚めたのは新横浜でした。「のぞみ」ってどうしても寝てしまうようになっているとしか思いようがありません。
519 20060609 身体の芯のとろりとした眠り 身体の芯にとろりとした眠りがある。片栗粉を溶いて作った餡か、葛餅みたいな眠りの塊。それがとろりとろと溶けている感じが最初にしたのは、昨日、おすしを食べて地下鉄に乗ったときだった。
「長い間、ごくろさまでした」という声がどこからともなく聞こえて、それは自分が誰かに言っているのか、誰かから自分に言われているのがよく解らなかった。まるで遠いところで輝いている電光掲示板の文字をぼんやりと読んでいるように聞こえてくる声だった。
とろんと眠くなる。今日、学校へ出てゼミの時間に「先生!」と言われてはっと目を覚ます。たぶん、寝ていたのだ。授業中。なんだか水羊羹になったみたいな眠気で、ゼミで発表する学生の声は聞こえていたんだけけれども、それが水羊羹を来るんでいる半透明な葛の膜の向こうから聞こえてくる感じだった。
地下鉄の中で聞いた「長い間、ごくろさまでした」の声が葛引きの餡みたいになって身体の芯で固まって、それからまた日常的な時間の中でとろりとろりと溶けている感じ。ほんとに遠くの電光掲示板でも眺めるように「長い間、ごくろさまでした」という声がとろりとろりと溶けて行く。
518 20060607 魚の皮の香り おすしを食べました。ちゃんとしたおすし屋さんのカウンターで。魚の皮って良い香りがするもんなのですね。生臭いなんていうけれども、鮮度の良い魚をちゃんと料理すると、ほんとになんとも言えない香りがします。それから酢で締めるとこの香りすばらしく素敵になります。
横浜の元町を歩いてきました。元町ってもともと舶来品を扱っている町だったのですが、個人商店の多い通りって別に何も買わなくてもウィンドー・ショッピングが楽しいです。デパートのウィンドーと何が違うのだろうと考えて見ましたが、うまく言えません。おすしやさんのカウンターと回転寿司の違いかな?それとも違うし……。個人商店や専門店が並ぶ街がだんだん少なくなってしまったので、元町が楽しくなりました。知人と一緒に歩いていたのですが、ついついショーウィンドーを覗き込んでしまいました。お葬式の帰りで喪服だったんだすけどね。
で、ちょっと生臭いものが食べたくて、知人と別れてからひとりでおすしやさんに入りました。魚の皮ってすばらしく良い香りだなあって、改めて思ったのはそのせいかしら?42歳でなくなった父の姉。つまり伯母のお葬式でした。78歳でした。父がなくなった時、伯母は43歳で今の私よりも若かったんだなあと思うと、ヘンな気がしました。それから元町で知人にあって、知人と渋谷で別れてから新宿にでて、一人でおすしを食べて帰ってきました。
517 20060606 バラの花を刈る 今年は季節の変わり方が少しヘンだったのですが、それが幸いしてか、ずいぶん、ベランダのバラの花が長く咲いてしました。今日、バラの花を刈りました。
バラには丸い実がつきます。バラの実は赤く熟します。熟したバラの実でお茶がつくれるのですが、実が赤くなるまで木に置いたままだと、秋に咲く花が小さくなってしまうのです。秋にもまた花が咲くように、実があおいうちに刈り取りました。
名残の花と青い実を刈り取ったばらは、なんだか涼しげでこれはこれで、お祭りのあとの寂しさみたいでいいものでした。夏に咲く花の苗を植える時期を逸してしまったので、何か花が咲いている苗を買ってきてさびしくなったベランダに植えようと思います。イソトマとかブルーデージーなんかがいいかしら。
516 20060605 柳のまな板 小料理屋さんでみかける白い木のまな板は柳で出来ているのだそうです。柳はあまり太くならない木なので、料理屋さんにあるような大きさのまな板をつくるのは随分と費用がかかるだろうと思います。
で、柳のまな板を買いました。お料理屋さんにあるみたいな大きなやつではないけど、家庭用としてはややおおきなまな板です。けっこう高価でした。でも包丁がすとんとまな板の表面に下りるときの感触が柔らかくてとても気持ちがいいです。
柳といえば折れないので、お正月のお雑煮のお箸は柳のまる箸を使います。色の白いからおめでたい感じがするのですが、まな板くらいの厚みがでると感触はまた格別です。ああ、台所を掃除する時間が欲しい!
515 20060604 登校拒否 池袋のリブロから本が届いた。木曜日の夕方に買って配送を頼んだ本だ。大学のゼミのテキストに使う文庫本を探しに行ったついでに、アナトール・フランスの小説集とバタイユの著作集を見つけてついつい買ってしまい、あんまり重いから配送を頼んでおいた。
地下鉄有楽町線の江戸川橋の駅は壁面がピンクとブルーに塗りわけられている。たぶん、護国寺や飯田橋と勘違いして降りてしまう乗客がいるから、壁をそんなふうに塗りわけたのだろう。この4月からこのピンクとブルーの壁を見るとことんと寝てしまうということが何度もあった。目が覚めるのは市谷であったり、ひどい時には桜田門だったりする。ははん、これは登校拒否の症状が出ているなと内心で感じていた。ひどく不思議な眠り方で、江戸川橋だと思ったとたんに眠ってしまうのだから。5月になってどうにか登校拒否の症状が治まってきた。つまり江戸川橋のホームを列車が滑り出しても、眠気を襲って来なくなったということ。
登校拒否の薬は「本」。結局、フランスの小説が好きだったのだなと思う。なんだ、かんだと言っていちばん楽しんで読んだのは、とゆうより夢見るように読んだのはフランス小説だったんだなあと、この頃思う。夢の見たくない日は日本の小説を読んでいたので、日本の小説は別格。それからバタイユやロラン・バルトなどの評論やエッセイ。そんな本がいっぱいあっても、なかなか高価で手に入れられなかったし、読んでもわけがわかんなかったし、それやこれやで、持ってなかったり、うんざりして古本屋に売り払ったりした本をまた買いあさっている。気まぐれに。で、また学校をサボって本を読んでいたいなあという気になっている。
毒は毒を持って制すではないけれども、学校サボって本を読んでいたいなあと思って本を買いあさるほうが、江戸川橋の駅で気絶したみたいに眠ってしまうよりはやや実害が少ないと、思いたい。
514 20060602 君が代の替え歌 【詞】
Kiss me, girl, your old one.
Till you’re near, it is years till you’re near.
Sounds of the dead will she know?
She wants all told, now retained,for, cold caves know the moon’s seeing the mad and dead.
【訳】
私にキスしておくれ、少女よ、このおばあちゃんに。
おまえがそばに来てくれるまで、何年もかかったよ、そばに来てくれるまで。
死者たちの声を知ってくれるのかい。
すべてが語られ、今、心にとどめておくことを望んでくれるんだね。
だって、そうだよね。冷たい洞窟(どうくつ)は知っているんだからね。
お月さまは、気がふれて死んでいった者たちのことをずっと見てるってことを。
よく出来ている!
513 20060531 うわさには聞いていたけど うわさには聞いていたんですが、税金について、今年はいろんなことが起きるのが分かりました。どうもぼんやりたるんではいられません。偶然なのですが、今年はいろんな税金の納税義務が重なってしまったのです。そういう年ってあるんですね。
税務署のほうとお話をしたら「今年は重なっちゃったんですねえ」とあちらもやや呆れ顔でした。で、どうやって払うんだという問題が生じるわけで、そこはまあなんとかするより仕方がないでしょうということで。
なんだか歯がゆい書き方ですが、税務署のほうも考えていて、納税の時期をそれぞれ税金の種類に応じてずらしているのです。そのずらした結果が、うちの場合は同じ年に集中しゃちゃったってことなんですね。まったく。やれやれだ。こういうことがあるって噂には聞いていたのですが、びっくりです。なにしろ自分で使ったお金じゃないから、自覚がない。あとから、ただ、ただ、びっくりです。
今日の占いを見たら金運のところに「お金に足が生えたよう」とありました。使わなければなくならないって思っていたんだけど、使わなくてもお金に足が生えることってあるんだ。でも、いったい誰が「オアシ」なんていう言い方を考えたのでしょう。うまい言い方だなとこれも感心。
と、ここまで書いたら、ネットのニュースで架空の役所の名前を使った振込み詐欺の督促状が青森県で10件もみつかったというものがありました。ひどいなあ。うちに来た税金の納付書も振込み詐欺ってことはないだろうけどねえ。
512 20060529 今月はちょっと(アダプタと) アダプタ 今月はちょっとたるんでいますね。
私 だって雨ばかり降っているんだもん。
アダプタ お天気のせいですかね
私 ええとねえ、魂があこがれ出ちゃってるって感じかな。遊びにいきたいってね。
アダプタ 魂が抜けちゃっているの?
私 ばか言わないの。魂が抜けていたら、死しゃっているじゃない
アダプタ じゃ、そこにいるのは幽霊?
私 だから、魂があこがれ出ているの。魂の「お」はちゃんと繋がっているから、大丈夫。大丈夫。
アダプタ だから先週の日曜日も今週の土曜日に競馬場に行っちゃったんだ。
私 しっ。それは内緒。内緒。原稿がぜんぜん真に会ってないんだから。
アダプタ ほんと気合が入ってませんでしたよ。
私 こんなに気合が入らないのも珍しいと我ながら思ってます。魂の尾を切れなかったけど、緊張の糸がぷつんって切れたんだね。
アダプタ でもダービーをとったじゃないの。僕にも何かおいしいものを食べさせて下さい。
私 豚用ペレットを買ってあげます。
アダプタ ええっ。ペレットよりミルキーがいいなあ。 512.jpg
511 20060527 なんだか、落ち着かない。 お野菜がじわじわ高くなっているというニュースが出ていましたが、今日の東京はまた雨です。白い雨。先週の日曜日は東京競馬場へ「オークス」を見に行ってました。重馬場にならなければいいけどって考えていたのを覚えていますから、やっぱり土曜日は雨が降っていたのです。翌日の日曜日はよく晴れて、馬場も「良」の表示でした。
ご存知のとおりカワカミプリンセスが49年ぶりに無配のオークス馬になりました。49年ぶりって凄いなあ。私が生まれる前だのも。ええと馬券の「コイウタ」にかけていて、途中で競争中止。ま、残念でした。
一年ばかり競馬場に行く暇もなかったのですが、ひさしぶりに行ってみると馬の名前が以前よりも分かりやすくなっていました。「コイウタ」なんて分かりやすい名前の馬が出てくるのは久しぶりだなあって思っていたらこれは歌手の前川清氏が馬主だとのこと。なるほど。名前で走るわけではないけど、あんまり長い名前は、覚えられなくって。競馬馬の名前はカタカナで9文字までと決まっているのですが、9文字とは思えないような長いという印象の名前があるのです。覚えやすい名前の馬が増えてくれると楽しいんですけどねえ。
あしたはダービー。競馬場も近頃、入場者が減っているとは言ってもダービーは大混雑でしょう。今年はダービーもオークスに負けないくらいの大混戦だそうです。
こんな雨が降っちゃうと重馬場になって、またまた番狂わせがでるのかなあって、なんだか落着かない。
510 20060524 すごい雷雨でした。 いいお天気だから原稿を書き終えたら歩いて買い物に行こうと思っていたら、すごい雷雨になりました。おとなりの練馬区では床下浸水したり、水没した車に閉じ込められて消防隊に助けてもらったおばあさんもいるとのこと。先週の土曜日といい、今日といい、まったくなっていうお天気なのでしょうか。
マンションのエレベーターの中で、いつも荷物を届けてくれる宅配便さんとばったり出会いました。今日のお届け先はうちではなかったみたい。「いやあ、嫌な季節になりますよ」と言ってました。夏はほんと荷物を運ぶ仕事に人にはたまらない季節です。「ほんとにちょうど良いお天気というのは、ほんの一週間あるかないかですね」と言ってました。
車の名前が出てくる小説を書きました。新潮の8月号に乗ります。これからちょっと手直しというかお化粧直しをするつもりです。昔の道路の感じって書けそうで、なかなか書けません。日本全国、山の中まで舗装してしまいましたから、身体がでこぼこ道や砂利道の感触を忘れてしまったみたいです。
雨はまだ降っています。今夜いっぱい降り続くのかしら?雨の音がよく聞こえてきます。
509 20060523 ばれちゃった? 「先生、話がかみ合ってないとものすごく恐い顔しますね。気が短いし」って言われました。もとゼミ生に。
家に帰ってその話を娘にすると「学校はまだましだって言いたい。家じゃあ、もっとすごいんだから」と言われてしまいました。で、出てきたのが「ヨーグルト頭」発言。
「そのとろとろと溶けたヨーグルトみたいな頭であたしの周りうろつくな!」と文句を言ったことがあるのです。「お前なんか、日向のヨーグルトみたいな頭をしてくせにつべこべ言うな!あったまりすぎてもうすぐ腐りそうじゃないか!」と言った具合。
娘に言わせると「あれはひどいよ。あれはないよ」ということでした。省略していますが、日向のヨーグルト発言のあとには、ヨーグルトが腐って行くプロセスが匂いの描写つきで入ったもおのだから、まあ、かなり襲撃力があったみたいです。
学校にいるときはあんまりそういう罵倒って出さないようにしているんですけどね。ぴりぴりするのは出ているみたい。「先生、出ているなんてもんじゃありません。ぴりぴりです」やっぱり、ばれちゃっているんだ。
508 20060522 ナイトクラブとライブハウス (土曜日の続き)結局、演歌が売れなくなった時期と純文学の衰退が言われだした時期ってかぶるんだなあと、オリコンのヒットチャートを見ながら考えていました。叙情性の変化ということから考えたことなのですが、歌謡曲ほど通俗的な叙情の変化を示すものはないと思ったのです。もっと音楽ができたら、全体の印象をリズムやハーモニー、メロディーにわけて、その変化を具体的に論述できるのに、ちょっと残念です。楽典をもう少し勉強したい気がします。
で、話はナイトクラブに戻りますが、ナイトクラブがなくなっていったのと入れ替わりにライブハウスが登場してきます。ナイトクラブは絵看板を見るだけで、へえ、そんな場所があるんだという程度の知識しか持ち合わせていませんでしたが、ライブハウスのほうもまあ、人からそういう場所があるんだと話に聞くだけです。もっと音楽の才能があったら、バンド組んでライブハウスに出たいなんて企てたかもしれません。こっちは楽典の勉強と違って本を読めばなんとかなるというものではなくて、生まれついた才能がいるみたいです。カラオケでさえ人迷惑なのに、ライブハウスなんてとんでもない。
で、ナイトクラブとライブハウスでは、何が違うかというと、観客と演奏者の距離です。ナイトクラブでは演奏者はプロ。ライブハウスは演奏者がアマチュアをいうことも珍しくありません。つまりライブハウスのほうがプロとアマチュアの境目が曖昧だということになります。こうしたアマチュアとプロの境目が曖昧になるという現象はなにもナイトクラブやライブハウスだけでなくさまざまな文化活動の局面で見られるものなのですが、そこにつかまってしまうと、議論は「質が低下した」という嘆きで終わってしまいます。ナイトクラブからライブハウスへの移行という「比喩」はもう少しいろんな面白いものをもっている気がします。
叙情性の変化をいうことを考えた場合、もうひとつ興味を引くのは、エロテシズムの変化です。歌謡曲なんてものは、手っ取り早く色っぽい気持ちにされるのが目的だと言ってしまえば、あんまり簡単な結論かもしれませんが、そういう効果があることは確かです。で、どんな曲や歌詞を耳にしたら、色っぽい気持ちになるのかは、どんな歌謡曲が流行っているかの現れてくるわけです。同時にそれをどんな場所(雰囲気)で聞きたいかということも重要な要素になってきます。ナイトクラブとライブハウスという「比喩」はそうしたことを考える手がかりも与えてくれる「比喩」です。
507 20060520 そら豆 ナイトクラブ そら豆は天豆と書きます。なぜ天豆と書くのかというと豆の鞘が天に向かって育つからだそうです。写真は大原の田んぼのふちで5月のはじめ頃い撮影したそら豆です。房総では、米の裏作(冬の間の作物)としてそら豆を作ってました。ですから田植えが始まる頃に、そら豆の収穫があります。
最近は鹿児島産のそら豆が2月頃から市場に出回って関東のそら豆が出るころには、もうそら豆は売れないのでしょうか?あまり房州産のそら豆を見かけなくなりました。水田の裏作としても出荷するほど作ってはいないのかもしれません。
そら豆とナイトクラブはぜんぜん関係がないのですが、今朝、目が覚めたら、新宿東口の線路沿いに映画館の宣伝看板とナイトクラブの宣伝看板があったのをひょいと思い出しました。何時頃まで、あったのかな?ナイトクラブの看板はたいてい出演者のリアルな似顔絵で、青江ミナとか五木ひろし、森進一、クールファイブなんて人の顔が大きく描かれていました。それから、石川さゆりとか都はるみ、森昌子の顔もありました。
森進一は鹿児島から集団就職で東京に出てきたという経歴を週刊誌か何かで読んだことがあります。年齢的にはもうすぐ定年を迎えるという団塊の世代。都はるみも団塊の世代かな。中上健二が小説「都はるみ」を書いていますが、それは世代的な近さから書かれたものだと私は思います。森昌子は山口百恵、桜田淳子と一緒に中三トリオを呼ばれた時期もあって、これは私よりも1学年上。今となれば同じ年みたいなものです。石川さゆりも中三トリオを同じ年齢。山口百恵が主演した「伊豆の踊り子」の映画で肺病で死んでしまう少女の役で出演したました。
歌手のショーがあるナイトクラブなんて学生のは縁がない場所で、いつもその大きな看板を横目に見ながら、新宿を歩いていました。1980年にはまだその看板があったのを覚えています。紀ノ国屋ホールに芝居を見に行くために、東口を歩いていたある光景を記憶しているからです。80年代半ばにいわゆる演歌が売れなくなっった時期があって、そのあとのバブル期に新宿のナイトクラブは姿を消してしまったのかもしれません。今になって思い出していると、私と同じ世代までの歌謡曲の歌手はプロの仕事のひとつとしてナイトクラブのステージの経験があるのです。たぶん、それ以後はそうしたステージの仕事は激減したに違いありません。
ちなみに85年という年はオリコンのヒットチャートに2週以上続けて1位をキープした歌謡曲がなかった年です。
「豆畑の昼」という作品を書くときに、叙情性の変化を調べる指標にオリコンのヒットチャートを使いました。変化は確かに85年を境におきていました。ナイトクラブの話は、昨日のゼミの話の続きで、そら豆の話は夢の中でみた田んぼの景色から出てきました。そういうわけで今朝は頭の中がふた色に分かれています。 507.jpg
506 20060517 アダプタと アダプタ ああ、忙しいですか?
私 まじめに考えたら、すごく忙しい。
アダプタ 考えないと忙しくないの?
私 何かをしなくちゃいけない直前まで忘れているから。そうすると、まあ、ごまかせるわけです。
アダプタ 自分をごまかすというやつですね
私 そんなことを言うとまた机の奥になげこんゃうからね。うるさいやつだなあ。
アダプタ どうぞご勝手に。机の奥って住みやすいんですよ。けっこうともだちもできるしね。 506.jpg
505 20060516 今年もバラの季節 今年もバラの季節になりました。同じバラ科でも桜の花だとみんなでうきうきという感じですが、バラはひとりでウキウキという感じです。ご近所にもすばらしいバラが咲いているのですが、なかなか写真を撮ってきれいに写る晴れた日がありません。この赤いバラはうちの庭に咲いたものです。 505.jpg
504 20060515 警察の大衆迎合と共謀罪 小泉内閣が成立した頃、ポピュリズムつまり大衆迎合的だという批判がしきりになされました。そうした傾向がまったくないわけではなかったのですが、経済政策ではあまり大衆迎合的なものは感じませんでした。が、小泉内閣が終わりに近づいて現在から振り返ってみるともっともその傾向が強く現れたのが警察関係でしょう。小泉内閣になってから、何か騒ぎが起きると必ず警察が登場して、マスコミの関心が消えるというパターンが続いています。言論がおおかみ少年状態になっていて、おおかみが来ていないのに「おおかみがきたぞ」と叫び、ほんとうにおおかみが来たときには、聞いてもらえないどころか、声もでなくなっているという具合に見えます。
鈴木宗男事件、辻元清美の秘書給与流用事件、ライブドアの風説流布など次々に逮捕者が出ています。耐震偽装事件に至っては、関係者が逮捕はされたものの、全て別件逮捕という状態です。鈴木宗男も辻元清美も国会議員に戻っていますし、ライブドア事件はこれから公判が始まれば堀江貴文と検察の間でかなりもめることが予想されます。耐震偽装に至っては、果たして耐震偽装そのもので立件できるかどうかかなり疑問です。「なんだか逮捕されたので、これで悪い人がつかまってめでたしめでたし」という素朴な庶民感情を利用されているようで、気持ちが悪い事件ばかりです。
それでも、司法がそれなりに機能していれば、法治国家の原理原則はかろうじて守られることはできるのかもしれません。
今週、国会では「共謀罪」についての論議がされるとのことですが、もともとは国際的なテロや麻薬取引を規制するために、作られる法律です。が、政府はこれを犯罪予防としても使おうとしている意図があります。振込み詐欺の予防などに適応しようとする意図、市民運動の行動を規制しようとする意図などを感じます。一方、言論の世界では盗聴法や個人情報保護法の時のような、危機感が少ないのはなぜでしょうか?
「悪い人が逮捕されてめでたしめでたし」というような素朴な庶民感情をもっている人々はその反面で、おどしに弱いのです。だから「何々罪」になるぞとおどされると、そうした罪が適応される要件が備わっているかどうかなど関係なく、おびえてしまいます。弁護士などの専門家がいれば、そうしたことはある程度、防げるかもしれませんが、ライブドア事件や耐震構造偽造事件のように警察の恣意が強く働くとなると、それも信用できません。
それから、マンションを作るとか道路を通すとか、そういった事業に伴う紛争をいろいろ見ていると、お金と社会的地位があって、法律や行政に明るい人が住んでいる地域と、お金も乏しければ社会的地位もない人が住んでいる地域では、いろいろな条件を交渉する場合、あきらかに前者が有利です。知恵も金も人もいるという状態が出来上がっているのですから。そういう不公平を見てきました。そのうえに今度の国会に提出されているような共謀罪などできたら、もっとろくでもないことになるでしょう。
私は盗聴法の時も、個人情報保護法のときも、反対の署名を求められましたが、署名しませんでした。今度は誰もどの団体も反対の署名を求めてはきませんが、反対を表明します。刑法上の罪は犯罪が行われて初めて問われるという大原則は守られるべきです。犯罪予防は安易に刑法に頼るべきではありません。
503 20060514 真夜中に飯田橋から御茶ノ水まで歩く ゼミ飲みでした。で、そのあとカラオケをやろうということになって、ごちゃごちゃしたあげくに、やすいカラオケがある御茶ノ水まで歩こうってことになりました。歩きました。飯田橋からお茶の水まで。
東京に住んでいると交通機関を利用してしまうから、なかなか地理が頭に入りません。だから、地理感覚から言えば、こんな大都会にいても、田舎の山の中の小さな村に住んでいるのと変わりがないのかな(自分の身の回りしか知らない)と言う状態になっていることがあります。で、ゼミの諸君は「歩こう」と言った「たとんに御茶ノ水って遠いのかしら」「それどこ?」っていう反応だったのですが、まあ、歩いてしまいました。真夜中ですからゼミの体力旺盛の若者が周囲を囲んでいてくれなければ、歩く気になれなかったでしょう。
バブル後の長い不況なんて、よく言いますが、バブルの時よりもそのあとの不況時代のほうが都心の再開発が進んでいるのを、歩きながら目の当たりにしました。昭和30年代から40年代に建てられた木造モルタル作りの建物や、天井の低い小さなビルがすっかりなくなって白い壁を持つ大きなビルと、なんだかまだ街に馴染めない様子の木が生えている広場に変わっていました。古い建物は、新しい建物の威容に羞じるように闇に沈み込み、新しい建物は夜の闇の中でさえ、街との折り合いがつけられずに浮遊したがっているようでした。
闇の中で浮遊したがっているような新しい建物の傍らを通り杉ながら、考えたことは、私が学生時代に見た街は戦争の焼け跡から立ち直って、ほっとした表情を見せている街だったのだなと、改めて思いました。その時は年齢が若かったためかもしれませんが、街が見せる充足感をそうした流れの中で感じ取ってみることができませんでした。私が大学生になったのは戦争が終わって33年目でした。それからまた27、8年の歳月が流れたのですが、新しく出来た街は、個人の充足感よりも、組織の力を感じさせるもので、そこが何か浮遊感に繋がっているのかもしれません。再開発されたビルの上部には人が住む分譲マンションもあるようですから、これからほんとうに平和な時代の東京の味が生み出されてゆくのでしょう。
日大図書館もすっかり新しいビルになっていました。レンガを積んだような厳しい建物から、ガラスを多様した軽やかな建物に変わっていました。昔の建物が知識や理性の厳しさを表したものなら、新しい建物は、知識も理性も誰にでも利用できるものですと言っているような感じです。日大に通っている娘に聞いたら、新しい図書館はすごくつかい易いということですが、街の人は寂しがっているよと言う話でした。それから、新しい図書館はその外見とは違ってずいぶん丁寧なセキュリテーシステムが整っているということでした。
502 20060512 雲丹の貝焼き 岩手県や宮城県にも同じ雲丹の貝焼きがあるそうですが、青森の市場で買ってきた貝焼きです。貝焼きと言っても、蒸した雲丹です。はまぐりの底までびっしりと雲丹が詰まっています。これひとつで、雲丹ご飯を4合以上炊けます。もうすぐ、雲丹の季節。でも貝焼きは冷凍保存できるから一年中買うことができます。1個700円は安い! 502.jpg
501 20060511 大家さん、大家さん(伊藤です) 200回おめでとうございます。
きのうルクツゥンで大家さんのおかきになったSAYURI評読んで、あたしも感想かきました。伊藤製作所をのぞいてみてください。お茶もお菓子も用意してございます(こないだ日本で「通りもん」買ってきたんですよ)。
こんにちは。ああぁ、200回じゃなくて500回なんですけど。ま、いいか。あとで、そちらにお茶を頂きにきますね。(中沢)
こりゃまた失礼をば、いたしましたっ。祝500回。(伊藤)
500 20060510 アダプタとおしゃべり アダプタ あー、「豆の葉」が500回になりましたね。200回のときみたいにお祝いしないんですか?
私 ええとねバンザイの絵文字の書き方を忘れちゃったの?
アダプタ 何でも忘れちゃうんだね
私 忘れるのは人間の持っている優れた能力だからね
アダプタ でもごはんを食べるのを忘れたりしないね。
私 だからあなたの立ち姿に似て来ちゃったじゃない。
アダプタ 伊藤さんがお祝いを言ってくれました。500回なのに200回と間違えているけど。
私 ここもそれだけ賑やかになったってことでしょう。お祝いを言ってくれる人がいてうれしいもん。
アダプタ 僕もお祝いをいいます。
500回おめでとうございます。
私 アダプタ君、ちょっとのんびりしすぎ。そういえば豆ちゃんはどうしているんだろう?
アダプタ マージャンしているんじゃないかしら。 500.jpg
499 20060509 海に突き出した突堤 上総一ノ宮の海岸にできた突堤です。侵食を防ぐためなのだそうですが、兼官としてはあまり美しくありません。こうした突堤が何本も海に突き出しています。 499.jpg
498 20060508 青紅葉 下布施の土地は大きな木が生えているところという条件で探しました。大きな木ってどのくらいの大きさかってのはあまり考えていませんでしたから、大岡玲さんに「木の上に風呂場が作られようなやつね」と言われた時はちょっとびっくり。そんなバオバブの木みたいなのを考えていたわけではありません。
これから苗木を植えても、木が大きくなる前に私が死んでしまうかもしれないから、もう育った木があるところがいいと考えたのです。で、みつけたのは紅葉の木のある土地。今は青紅葉です。紅葉は低木でそれほど大きくはならないのですが、幹が太くなるまでには相当な時間がかかります。敷地の中にはかなり弱った桜の木もありますが、こちらは本体は病気にかかっていますけれども、わきから若い幹が伸びていて、それがけっこう太くなっていました。
紅葉の木のわきに風呂場があったのだそうです。でお風呂に入りながら紅葉を眺めるのが、この土地の持ち主の楽しみだったと聞きました。木の上じゃなくて木の下です。 498.jpg
497 20060507 ほんとはかわいいアダプタ 嵐の夜です。風が騒いでいます。昼間、銀座のデパートでポロシャツを選んでいたら、店員さんたちが「嵐だって」と話していました。いいお天気なのでにわかには信じがたかったのですが、予報どおり嵐になりました。
昨日のアダプタは写真のボールペンと比べてもらえれば解りますが、ほんとはこんなに小さいんです。おまけに一人(一匹?)では立つこともできません。いつも机の上で、ぶつぶつ言いながらうろうろしています。いったい、何時こんなところに移動したんだろうって思うくらいに妙なところにひょこっと立っていたりします。 497.jpg
496 20060506 おじゃまします! 行方不明になっていたアダプタを見つけました。よく見て下さい。鼻がちゃんとアダプタになっているでしょ。で、このアダプタにそっくりな私の写真(非公開)が家に一枚あるのです。雪の中でベージュのコートを着ているやつ。で、このアダプタはいったい何の景品だったか忘れちゃったのですが、家じゅうで「あまりに似ている!似すぎている!」というので、すっかりマスコットになっていたのですが、ある時、子どもたちが「似ている」を連発するのに頭にきてから行方不明になっていました。
自分で言うのはいいんですけどね。ううん、お腹のあたりとか、ぼんやりした立ち方とか、ぴょっと延びた短い足とか。ま、似てます。でも他人(たとえ子どもでも)が言うと、これが腹が立つんだなあって。
で、机の引き出しからころっと出てきました。「おじゃまします」って感じで出て来たのです。 496.jpg
495 20060505 田んぼの夕景 日がかげりはじめていたので、どうかなと思ったら案の定、暗い写真になってしまいましたが、下布施の土地の前は農地整理をされた田んぼが遠い山すそまで広がっています。
このあたりは釈迦谷とか布施とか抹香臭い地名の土地がたくさんあります。東国に仏教が広まった中世に開けてきた土地だと推測しています。近くには閻魔様を祭ったお寺もありますし、立派な鳥居と森のある神社もあります。夷隅鉄道と言って大多喜のほうにことこと走って行く一両だけの電車もあるし、造り酒屋もあります。
敷地の裏の崖の向こうに集落があって、さらにその向こうに大原港がある海があります。太東の海岸植物群生地もそう遠くはありません。 495.jpg
494 20060504 鹿の通り道 大原の下布施の土地に行ってきました。小さな家を建てようと建築家の鈴木隆之氏に図面を引いてもらっています。今日は鈴木さんの事務所で働いている人や京都精華大学の学生さんも一緒に土地を改めて測量してみました。東南に向いた敷地で、裏には小さな崖があります。
崖と言っても高さは80センチくらい。小山の尾根が降りてきた最後のところの崖です。その崖の延長のある山に咲いていた藤です。野生の藤なので、花房は小さいのですが、写真を撮ろうとしたら、ふぁっと風が吹いてきてさらさらと花が揺れました。すぐそばにはドウダンツツジも朱色の花を咲かせていました。崖の上がいかにも房総らしい花の豊富な雑木林になっているのです。
で、その崖に細い獣道が通っています。なんでも、鹿の通り道なのだそうです。鹿とか猪が増えていると聞いていましたが、こんな人里に鹿のとおり道があるとは思いませんでした。鈴木さんはその獣道をなくしてしまわないような図面を引くと言っていました。果たして人が出入りしても、鹿が今まで通りに同じ道を通るかどうか解りませんが、時々、鹿が出る庭というのもおもしろいなあとちょっと期待。でも夜な夜な、猪がどどっとと通り過ぎるというのは勘弁してもらいたいなあ。 494.jpg
493 20060503 海の春 九十九里浜の侵食を防ぐための堤防にアオサがたくさんついていました。きれいな緑色です。ただこの堤防はかなり九十九里浜の景観を壊していることも事実です。はたしてちゃんと侵食を防いでいるのでしょうか?かえって砂浜が削りとられるようになったという話も地元の人から聞いています。
堤防が出来てからは、地引網を引くこともできなくなってしまったということでした。堤防周辺ではサーファーが波乗りをしていますが、サーファーにとっても危険な存在になっているようです。
黒いウェットスーツをきて、波を求めて、腹ばいで沖へ出て行くサーファーはなんだかペンギンみたいに見えました。波の乗っている時間はほんの少しで、しんぼう強く波を待っているのが長いのですね。 493.jpg
492 20060502 藤の香り 水中掃除機が働いていたプールのそばの藤棚に咲いていた藤の花房です。甘い香りが漂っていました。百合の香りに似ていますが、あれほど妖艶ではなくて、もっと上品な香りです。ほんの一瞬香って、すぐに匂いはしなくなりました。
東関東自動車道の側壁にもたくさん藤の花が咲いているところがありました。去年、叔母たちと、母の墓参に行った時に藤が香っていたのを思い出しました。
あ、それから源氏物語の藤壷のことも。藤壷宮は、文字通り、藤が植えてある壷(庭)にお部屋があって、向かい側は弘徴殿だから、弘徴殿女御は今頃の季節は毎朝、戸を開けるたびに藤の香りを嗅いで、それこそ嫉妬で「かっ」となっていたに違いないのです。「源氏物語」って読み進めて行くうちに、なんだか弘徴殿女御もたいへんだなあって思うようになるところがおもしろいなあって思います。
去年、この「豆の葉」に写真を掲載したエゴの木は、冬の間に伐採されてしまったので、今年は今頃はここにエゴの木の白い花が咲いてたいんだなあと思い出すだけになってしまいました。 492.jpg
491 20060501 水中掃除機 もうすぐ夏と言いたくなるような暑い日でした。昨日、九十九里浜の上総一宮のホテルのプールでみつけた水中掃除機です。こんなものがあるなんて知りませんでした。
この時期のプールはなんとなく「池のふりをしようか、それとも泳ぎに来てよと誘おうか」と迷っているような青い水をたたえています。で、ふっと水の中を覗くと写真の機械が、音もなく静かにプールの水の底を移動しているのでした。プールの端から端まで滑らかに移動すると、また向こう岸まで滑って行きます。どうやれプールの底にたまった泥やゴミを吸い取っているみたいです。あんり静かに動いているものですから、なんだか仕事をしながら物思いにふけってでもいるように見えました。機械でも長い間、水底で仕事をすると、物思いにふける癖がつくのかもしれません。賑やかに唸りながらゴミを吸い取る家の掃除機よりも賢そうでした。 491.jpg
490 20060430 鳩の羽根 光が丘公園で鳩の羽根を見つけました。というよりも胴体がすっかりなくなって翼だけになった鳩の死体。翼の付け根はなまなましい赤い血が滴っていました。それが緑色の草とコントラストをなしていて、あたりには羽毛がたくさん飛び散っていました。どうも、鳩の死骸をカラスがついばんだあとのようでした。
その少し前に森の中で、けわしい声でカラスが争っているのも見かけました。何か食べ物を巡る争いのようで、あるいはそこにも鳩の死骸があったのかもしれません。あっちこっちで鳩が死んでいるというニュースを聞きましたし、このHPの管理人の豆蔵さんも鳩の死骸を見つけたようです。
鳩も生き物ですから、死んでしまうのも珍しくはないのでしょうけれども、人が大勢歩く道のそばに落ちているなんてことはついぞなかったことです。草の上にちった鳩の灰色の羽根は、まだ温かいのではないかと思うくらい、鮮やかな色をしていました。鳩があっちこっちで死んでいるというニュースはほんとうのことらしいのですが、原因はわからないままです。
地震なんか来なければいいのですが、ちょっと薄気味悪い感じがしています。ま、地震と鳩の死骸はそう簡単には結びつかないのは、理屈ではわかっていても、妙にそんなことを考えてしまいます。
489 20060429 桜前線を 飛行機で青森に飛んで、列車で太平洋沿岸を南下してきました。青森空港周辺にはまだ雪の塊が残っていました。雪の溶けた斜面には黄緑色のふきのとうがたくさん芽を出してしました。
弘前のりんご畑はまだ冬。りんごの木はようやく雪から開放されたところで、新芽を吹くのが今年は少し遅いようです。連休中におおぜいのひとでが予想される弘前城の桜は濃いピンク色の蕾でした。もうひとおしで開花しそうな感じ。ちょっと暖かくなればたちまち満開でしょう。
八甲田山の東側の八戸あたりになると、幾らか新芽が芽吹いた木もありましたが、春らしい気配が出てくるのは盛岡を過ぎたあたりからでした。このあたりで、寝てしまったので、花盛りの桜があちらこちらに点在している様子は見逃してしまい、同行者から聞いただけです。
仙台でももう桜が散り始めていました。松島の瑞巌寺では本堂前の臥龍梅が紅梅、白梅とも満開でした。山門を入ったとたんに甘い梅の香りがあたりに漂っていました。天然記念物の塩釜桜がある塩釜神社に足を伸ばしました。塩釜桜は小型の八重桜ですが、これはまだ蕾。染井吉野の古木や、社殿前の枝垂れ桜や、濃い緋色の緋寒桜などは満開からやや散っているところでした。
桜の名所で大勢の人が来るというよりも、近所の人がもう桜が咲いた頃だろうと、散歩がてらに立ち寄ったり、勤めに帰りにちょっと大回りをして神社の境内を横切ったりする人の姿が目立ちました。北国の人は花が咲くのがほんとうにうれしそうです。
もちろん、青いビニールシートを敷いたお花見の家族連れの姿もありました。
仙台より南はもう桜の季節も過ぎて、新緑の季節へ移って行くところです。
488 20060427 なんかヘン! 耐震誤事件に絡んだ人々が逮捕されました。なんかヘン。自動車教習所で民事、刑事、行政の責任は別個に問われるって習わなかったかしら?で、この事件の場合は民事上の責任と行政上の責任はあきらかにあるとして、刑事の責任は刑法の規定が曖昧なので、なんだかむりやりに別件逮捕して、詐欺罪にしちゃおうって感じです。これってなにかヘン。刑事事件にして行政上の責任をうやむやにしてしまうのでしょうか?どうもこの逮捕ってすっきりしません。
で、ホリエモンは容疑否認のまま、保釈請求が認められました。こっちもこれまで報道されているところで見る限り、裁判はおおもめになりそうな気配がします。これも刑事責任の規定が曖昧で不明確な事件で、仮に有罪だったとしても、果たして上場取り消しになるような事件なのかどうか?かなり疑問を残したままです。
なんかヘンついでに、バクダットをアメリカのラムズフェルド国防長官とライス国務長官が電撃訪問しています。メディアに姿をとらせているところをみるとデモンストレーション的な要素が大きいようですが、これもなんかヘン。アメリカもイラクから逃げ出したがっているのでしょうか?手を引くための儀式なのかしら?で、日本の自衛隊はアメリカが手を引くまで付き合わされるはめになるのでしょうか?なんかヘン。
487 20060426 キャミソール 今年はなんだかいつまでも寒くって、キャミソールなんて感じではないというか、うっかり薄着で出歩くとか風邪を引きそうです。キャミソールとタンクトップってどうちがうんだろう?と時々考えるのですが、どうも肩日紐の違いみたいな気がします。服飾事典を調べたわけではありませんが。キャミソールは肩が紐のように細いもの、タンクトップはランニング型のもの。そんんふうに使い分けてはいますが、よく思い出すと例外もたくさんあります。
最近のファッション雑誌を眺めていると、今年の夏の流行は、1950年代から90年代までの総集編みたいな感じです。というよりも、もう「流行」ってのは古い概念になったんじゃないかと思いたくなるくらい、あらゆるスタイルが出回っているみたいな印象を受けます。こらからは、みんながミニスカートとかみんながキャミソールなんてことは起きないのでしょう。
私はみんながミニスカート時代に小学生で、ホットパンツなんてのも流行りましたが、みんながタンクトップという時代に大学生になりました。1978年の夏はすごかったなあ。だってものすごく暑くって、それでみんなが(中高年以上は除く)タンクトップだったのですから。タンクトップの大流行。フェミニンなキャミソールはもう少しあとの流行です。流行が多くの人の関心を集めていた時には親のいいつけを守って「流行を追いかけるのは恥だ」って思っていたのですが、このごろは自分の育った時代のセンスに染まって「流行を追いかけるのは楽しい」になってます。でも、それってひと時代前のセンスで(あくまで自分の育った時代)今でもファッションは、はっきり言うと所得格差の表現みたいになりつつあるなあと街を眺めています。そう言ってはみもふたもないのですが、もともと服飾というのはそういう物だったのですから、本来に戻ったのでしょう。
で、キャミソールなんだけど、これはちょっと高いのが欲しい。高価な品物って、威圧的なところがあって、キャミソールっだと、その威圧的な感じが、まあ、着ている本人を安心させてくれるのです。Tシャツみたいに高いのを買おうか安いのを買おうか迷うことがないです。
486 20060424 Tシャツ Tシャツっていつ頃から着ていたんだろう?高校生の時にはもう着ていたような気がする。だったら中学生の時も着ていたんじゃないかなとうる覚えの記憶を探ってみても、ぼんやりしている。中学生で着ていたのなら、小学生の時にも着ていただろうと思うと、なぜか、自分ではなくて、自分の子どもたちが着ていたTシャツが浮かんでくる。うちの子どもたちは0歳児からTシャツを愛用していました。赤ちゃんで頭が大きいから、肩にホックのついたTシャツでした。
いつのまにか当たり前のように生活の中に入ってきたTシャツですが、なんだか今でも納得の行く、これが好きというTシャツは一枚も見つけ出していません。そのせいか、Tシャツを選んでいる場面は幾つも覚えています。新宿駅で道行く人を見ていたら、突然「そうか!Tシャツは襟の開き方でやぼったくもなるし、しゃれた感じにもなるのか」と気付いて、そのまま高野に走りこんでTシャツを見比べたのは7月半ばの暑い日でした。20歳くらいの時。でも、その時はなぜかTシャツを買わずに、こげ茶色の水着を買ってしまいました。
今までで一番、気に入っていた水着。一度だけ海で着て、その後、あやまってコインランドリーの乾燥機に放りこんだために、ブラのカップ部分が凸凹になってしまった水着です。
Tシャツって幾ら出すのが妥当なのかも、何度も悩んでいます。10000円?ええっ!という感じで、考え込んでしまったのは24歳か25歳くらいの時。原宿のヨージ・ヤマモトのブッテクでした。1984年くらいかな。まだバブルは始まっていなかったけれども、いったい物の値段ってどうなっているんだろう?ってしきりに考え込むことが多くなった時期だったでした。田舎の高校生で、パルコのCMをテレビで見て「パルコって何?」と不思議に思っていたのですが、実際に東京に出てきて渋谷のパルコに入ってみるとますます「???」になって、ついでに原宿まで覗きに行くようになっていた頃です。Tシャツとは関係ないけど小林麻美のパルコのCMは綺麗だったなあ。
今でもTシャツはすごっく高いのを買おうか、それともすごく安いのを買おうか迷ってしまいます。値段の安いほうは下限がありますが、高いほうはいったいどうなっているんだってくらいに高いやつがあるなあと、時々、品物よりのプライスカードを見詰めてしまうことがあったりします。
485 20060423 ポロシャツ ラコステのポロシャツというのが流行っていた時期に自分の服を買う楽しみを覚えました。ブランド物の流行ってそのあたりから一般的になったのじゃないかと思います。それまでブランドっていうと福助の足袋とかグンゼのパンツとか、その程度しかしりませんでした。
ラコステのポロシャツって、色がたくさんあって、選べるというので、人気でした。夏だからふだんは着られないような色もきられるし。男性がなんだか誇らしげにゴルフウェアを着ていたのも、同じような頃か、それより少し前みたいか、でした。カジュアルウェアからブランド物が流行り出したのです。今、考えてみるとすごくちぐはぐな服装をしていたんだなあって思います。
ラルフローレンもラコステのポロシャツの延長みたいな感じで、ポロシャツなんかを買っていました。それからシャツ(Yシャツ)。スーツはカルバン・クラインがかっこよいと思ってましたが、新宿の伊勢丹まで行かなくちゃいけないのが、めんどくさくって、池袋西武でラルフローレンのスーツを買ってました。高級ブランドまで行かない、中級ブランドってとこでしょうか?
女性の職場用の服もA4サイズ以上の書類の入るカバンも探すのがたいへんでした。ほとんど売ってないという状態。ポロシャツってそういう品物が出てくるさきがけみたいに流行り出したような気がします。
484 20060422 銀座の街を行く人 昼を挟んで午後にかけて、気温がぐんぐん上がると初夏のような暑さになるのですが、黒雲がもくもくと湧き上がって真っ白な雨が駆け抜けていったり、狂風が吹きぬけたり、ここのところのお天気が大荒れで、ついでに気まぐれです。で、銀座の石畳の歩道を歩く人の服装もさまざま。レインコートのかわりのスプリングコートを着ているひともいれば、革のジャケットの人もいるしキャミソール一枚で歩いているお嬢さんも見かけました。
厚手のウールのジャケットのとなりに、早くも麻の上着を着込んだ人もいるそういう銀座の街を半日ばかり歩き回っていました。今は昔のバブル経済が来たばかりのころはデパートに高級ブランドの売り場が出来て、洋服を鍵のかかるショーケースに並べているのを珍しく眺めました。が、ここ十数年で銀座の銀座通り、並木通りで目立つのは高級ブランドの路面店になりました。それから、ビルに間借りしているような店だったミキモトの小間物(いやあ、古い言葉だ。)を売る店が、改装工事を繰り返して大きくて立派な店舗になってしまいました。
久しぶりにラルフローレンに入ってみると、さらに高級品を扱う店に様変わりしていて、小柄であまり日本語の旨くない店員さんがいました。フィリピンの女優のルビー・モレノに似ている感じ。浅黒い肌のとてもきれいで、目が少しだけとび色でした。幾つかの品物を見せてみらいながら、この人、きっと英語だったら、とても滑らかに喋るんだろうなと想像していました。韓国の漢江の南になる江南の街も銀座みたいに高級ブランドばかりで、しかも、日本と同じようなブランドが並んでいますが、高級品ほどどこの国でも同じなって時代がやってくるのでしょうか?若い、いや、実は年齢がよく解らない女性(二十代後半から30代前半くらいか)が、ふたりの店員にかしずかれて、服を選んでました。ざっと見積もって50万円くらいのお買い物のようでした。
483 20060420 シャンペン サガンの小説を読んでいるとシャンパンを飲むシーンがたびたび登場します。サガン自身もシャンパンがすきだったようで、飲みすぎてアル中状態になったこともあれば、酔っ払い運転で交通事故をおこしたこともあるようです。
日本ではシャンパンてのは、まずいもんだと思っている人も大勢います。たぶん、それは結婚式で形式的に出されるシャンパンがものすごくまずいスパークリングワインだったころがあったのと関係しているのでしょう。結婚式のお料理が昔にくらべて、すばらしくおししくなっています。レストランでの披露宴というのも珍しくなくなりましたが、一時期、まずいものと言えば結婚式の見た目だけ豪華な食事というのが定説という時期がありました。シャンパンもその頃に「まずい」という濡れ衣を着せられたようです。
482 20060418 今度は7月撤退だって イラクに派遣されている自衛隊は7月撤退を模索しているというニュースがありました。昨日の共同通信が伝えています。こういうのって、たぶん政府内部だけでなんとかしようとしても、なかなかうまく行かないってとこがあるのではないでしょうか?世論の後押しとか、野党の追及とかそういうものが、力になるってところがあると思います。
こうも撤退時期が報道されるのに、なかなか実現しないということは、5月にできない撤退は、7月にもできないってことになりはしないだろうかと気がかりになります。少なくとも、こうした小さな報道を見る限り、撤退には3ヶ月くらいの日にちが必要だということがはっきりしてます。これまで、おおよそ3ヶ月おきに部隊の交代が行われてきましたから、次の部隊が出発するのは5月中旬とのことです。政府はイギリス、オーストラリアと共同で撤退しようという考えのようです。そうならざる終えないでしょう。だから放っておいて良いということにはならないのではないでしょうか?
481 20060417 はとが死んでいる 豆蔵さんの日記を見ていたら鳩の死骸の話があった。それからMori君のブログにも鳩の死骸が。こちらは自動車教習所の車に引かれたらしいんだけど、鳩が車にひかれることじたいがヘン。ダッテトベルンダモン。
テレビのニュースで北海道では雀が大量に死んでいたというニュースがあって、都内でも鳩が死んでいると言っていた。ええとヘンなのは今年は鳩や雀だけではないのです。まず桜。卒業式の前に咲き出して、これは入学式までもたないと思ったのだけれども、持つどころか、まだ花が枝にぽつぽつとある。ゆっくり散って行くと言えば聞こえがいいが、なんだか保存料でも使ったみたいにもっています。
家の花壇に去年の秋に植えたムスカリが花盛りなのですが、水仙も同時に咲いているし、さつきも咲き出してしまって、順番がめちゃくちゃ。それだけ天候不順ということになるのかもしれません。昨日も今日も寒かったし、東北ではまだ雪が降っているところもあるそうだし、春が来たようなそうでないような、奇妙な陽気。
それにしても鳩はなぜ次々に死んでしまうのだろう?昔むかし、10年くらい前に、家の玄関の前に死んだ鳩が落ちているという椿事があったのを思い出す。鳩の死骸は裏の桜の木の下に埋めたのだけれども、その桜も若い葉の間にまだ花を幾らかつけてます。
480 20060416 はい(英語) 伊藤比呂美です。遊びにきました。せっかくはじめたのに書くことがありません。詩かく気にならないし、気楽ーーーに書くなら植物のことしか書きたくないし。
こんなやりとりがあるとおもしろいと思うんですがね。以下参照。
中沢 寝てみたいのは何時代の人ですか? 回答例 平安時代の殿上人/元禄時代の裕福な町人など。で、その理由はなんですか?
伊藤 そりゃーー奈良時代の知識人。景戒から類推するに、なんかよさそうだから。
鎌倉時代の坊さん。意識してセックスしてそうだから。
戦国時代の人。血を知ってるだろうから。江戸時代の遊びなれたさむらいの妾腹の次男坊。誠実そうだから。
中沢さんは?
中沢 やあ、伊藤さんこんにちは。で、話の続きですがねええとね、私は平安時代の五位くらいのこれから出世しようと思っている若い貴族の坊や。教育のしがいがありそう。すごくまじめに女性との交際を勉強すると思う。宮中でいじめられないために。
伊藤 でも平安時代の男ってなんかペニスがふにゃにゃけていそう。 そんな小説が太宰にあったな。
中沢 室町末期の殿上人。あのねえ、退屈しているくせにいらない教養をたくさんもっていそうだから。若干、退廃しているけど、気位は高いそう。
伊藤 顔が思いうかばないわね。 津島さんのナラ・レポートに出てきたような人かな。
中沢 津島さんのナラ・レポートとちょっと違うなあ。それより秀吉が猿って呼ばれていら頃のお公家さんね。近世だったら、そうねえ、やっぱ回答例に書いたみたいに金持ちの商人 かな。理由は不誠実だけど外聞の悪いことは絶対しないから。
伊藤 てろれんっとした態度でいらつきそう。魚やの勝つぁんなんかならいいな。イキがよくって。さばさばしていて。 こないだ見た映画、なんといったか、幕末太陽伝、そのフランキー堺の役の男 ならやってもいいわん。
中沢 だって伊藤さんがごついのばかり並べるから、てろてろしたのを選びたくなっちゃった。ま、お茶でもどうぞ。
479 20060416 イラクの自衛隊は イラクの自衛隊はどうしちゃっているのでしょう。3月に撤退準備を開始して、5月には完全撤退なんてニュースも流れていましたが、どうもそうは行かないみたいです。で、どうなっちゃっているんだろう?
新聞は民主党の小澤さんのニュースばかり。しかも選挙にかつ戦術の話ばかり。で、誰がイラクの自衛隊はどうなっているんだって追及するんでしょうか?こういうのは野党の役割でしょうに。
最初は1年という期限だったのですよ。それを延長して。次には3月撤退準備説が新聞に小さく書かれて。でも、大方の人は自衛隊がイラクに派遣されていることさえ忘れてます。戦争は出かけて行くよりも帰ってくるほうが難しいのは昔も今も変わりがありません。
それにしてもどうなっているんでしょう。イラクが民主化されてめでたしめでたしなんてことはありえないのですから、真面目に撤退の時期を考えるべきです。ずるずるといつまでもイラクに自衛隊を派遣しておくべきではありません。
478 20060415 祝 伊藤製作所豆畑支所開設 伊藤比呂美さんのページができました。朗読会がご縁で伊藤さんのページを作ろうということになりました。
伊藤さんは現在、カルフォルニアにお住まいです。なんの話を書こうかな?植物の話かな、食べ物の話かな。と迷っていました。これからおもしろいお話を書いてくださると思います。
それにお互いのコラムに入れるように、パスワードも知ってます。さっそく伊藤さんの部屋に遊びに行ってきました。伊藤さんもこちらにお越しになるといいなあと思ってます。伊藤さん、待ってます!
伊藤比呂美さんは「群像」に長編詩を連載中です。
477 20060414 きょうは焼き鳥 この間、司修さんに連れて行ってもらった神楽坂の小料理屋さんでねぎをおいしく焼いてもらったのですが、その連想で今日は焼き鳥。いや、昨日、たけのこと一緒に煮た鳥が冷蔵庫に残っていたのです。
このごろ、家には誰もいないという日は珍しくないので鳥を焼いて一杯飲もうと思っていたら、なぜか息子も娘も帰ってきました。で、しょうがないからレバーも焼いて、ついでに牛肉とアスパラとしいたけも焼きました。春のしいたけもなかなかおいしいです。
子どもの時は焼きしいたけって嫌いだったのに。はしかの時になぜか焼きしいたけが出てきて、泣いちゃいそうになりました。横浜に住んでいたんですが、房総に旅行した親があまりのしいたけの立派さに感激し、さらにその値段の安さに驚いて買ってきたしいたけでした。煮るのがもったいないって理由で焼きしいたけになったのですが「うぇ」という感じでした。子どもの味覚って野菜系の味の濃さは受け付けないのですね。
そういえばお弁当の昆布巻きはいつもお湯で洗って味を薄めて食べてました。今日も東京は夕方から雨になりました。春の雨でしいたけが育つのですが、南房総では浸水騒ぎがあったほどの豪雨が降ったというニュースを聞いたのは昨日のことです。まるで夏みたいな豪雨だったようです。いったいどうなっちゃっているんでしょうか?
476 20060413 アスパラ、タケコノ、ゴボウ 春のお野菜です。魚といえば刺身か焼き魚が好きだったのですが、この頃、煮た魚も好きになりました。というか、子どもの頃、親と一緒に食べていたものを鮮明に思い出したのです。子どもの時の煮魚は甘辛く煮付けてありましたら、今はお砂糖を控えめ、砂糖のかわりにお酒を少々多めに使った煮魚です。
ごぼうのささがきも一緒に煮ます。白身魚のほろほろした身を、ごぼうのしゃきしゃきした感じの取り合わせが楽しいです。
アスパラはホワイトアスパラがおいしいのは言うまでもありませんが、なかなか手に入りませんし、高価です。グリーンアスパラの太いのが好き。アスパラは太いほど柔らかいのです。最初は信じられなかったけど、ほんとうに太いアスパラはやわらかくておいしい。この季節だけ、太いグリーンアスパラを見つけることができます。
たけのこ。関東でたけのこが出始めるのは4月下旬から5月ですが、2月末から籠島のたけのこが出回ってました(そら豆も)今の九州の大きなたけのこが出ています。今年はまだ皮付きのたけのこを買って自分で茹でる時間がありません。茹でたたけのこを買ってきて、鳥といっしょに薄味に煮て、山椒で食べてます。皮付きのたけこのを買ってきて、自分で茹でたいなあと思いながら。そのほうがおいしいからというよりも、そのほうがおもしろいからという感じ。
でも、春の野菜って、こうして並べてみると繊維のしゃきしゃき感を楽しむものが多いですね。
475 20060412 成分分析 ネットで成分分析なる奇妙なものを見つけました。名前を打ち込むと成分分析をしてくれるんですが、私の場合、以下のようになりました。
39%は乙女心で出来ています
39%は柳の樹皮で出来ています
9%は気の迷いで出来ています
9%は濃硫酸で出来ています
4%は心の壁で出来ています
柳の樹皮ってなんじゃろ?
ちなみに本名でやってみたら以下のような単純な結果になりました。
99%は波動で出来ています
1%は純金で出来ています
純金はなんとなくうれしいとして、波動って、なんかなあ、どうりで情緒不安定だという気もしますが。
いったいこういう遊びって誰が考えているんでしょうか?
474 20060411 環八雲 夏になると環状八号線の上には雲ができます。排気ガスなどの影響で、道路の上空に雲ができてしまうようです。環八雲と言うのだそうです。
東京都庁が新宿に出来る以前には、京王プラザホテルの最上階にあるバー「ポールスター」からこの環八雲を眺めることができました。バーは西の方角に窓が開けています。今では目の前に都庁が、その後ろには新宿パークハイエットホテルが建ってしましましたが、それでも先日、行ってみたら、横田基地の赤々とした光を東京の夜景の中に眺めることができました。都庁やパークハイエットホテルが建つ前は、日暮れ前には環状に延びた雲を眺められました。夏だとバーの開く時刻でもまだ日が暮れていないのです。
そして、環八沿いに雨が北から南へと移動して行く様子を見ることさえできたのです。白い雨の柱が、移動して行く速度は、どうかすると車が走る40キロとか50キロくらいの速度の時もありました。きっとあの雲の下を走っている車は、すぐそばでは晴れ間も覗いているのも知らずに雨に降られっぱなしでいるんだなあ、なんて思いながら大理石のカウンターに肘をついて雨が通るのを遠く眺めてしました。
473 20060410 環八の50年 50年前に環八の工事に着工したとなると、私なぞは生まれる前ですが、車の走っている道路そのものが珍しかったでしょう。環七はまだ車の少ない時代の設計の影響で、なんだか窮屈な道路になっていますが、環八のほうは、完成が遅れたぶんだけ、横への拡張工事が進んでいるというのか、環七よりも走りやすい道路になっています。それだけ道路沿いに建物が少なかったとも言えるでしょう。
環八というと思い出すのは、横への拡張工事と立体交差の工事の二つです。自分の記憶でまず鮮明なのが、井荻あたりの拡張工事。それから、谷原の立体交差工事。谷原の立体交差は、娘が子どもの時に「トンネルだ!」と言って喜んでいました。家の周囲にはトンネルらしいトンネルがなかったのです。それから西武線井荻駅わきの踏み切りをまたぐ立体交差の工事。この工事はおおがかりなもので、かなり手前から地下道に入ってJRの荻窪駅の近くの交差点の四面道まで出ます。
四面道も私が高校生のころに立体交差化の工事をしていました。四面道の近くに井伏鱒二さんが住んでいるんだと聞くのは、ずっとあとのことですが、どのあたりに井伏さんの家があるのかは知らず終いでした。
今は川越街道との交差の工事をしているのを見ながらうちに帰って来ることがよくあります。工事、工事、工事の50年だったのですね。完成したら、環八を自分の車で運転して一周してみようかと思います。それにしても高度経済成長移行に東京に住むようになるということは環八の外側に住むというのと同じ意味だったような気もします。
472 20060409 こんなニュース見つけました。 今の国土交通省、昔の建設省の人から「入省して定年退職するまでに道路が一本完成できたら、その人は幸せな人です」という話を聞いたことがあります。でも、環八はもう完成させる気がないのかと思っていたら、石原都知事になってかなり強引な工事をしたみたいです。以下のようなニュースを見つけました。
「環状8号線、全線開通へ=着工から50年−東京都
東京都は7日、都市計画道路環状8号線の最後の未開通区間である井荻トンネル(杉並区)−目白通り(練馬区)、川越街道(同)−環8高速下交差点(板橋区)間の計4.4キロが完成し、5月28日から一般開放すると発表した。これにより、1956年の着工から50年を経ての全線開通となる。
(時事通信) - 4月7日18時1分更新」
私が生まれた家の前には国道16号線が走ってました。時々天皇陛下が葉山の御用邸にお入りになる時があって、御料車が通過することがありました。環状8号はその16号線よりも内側を走っている道路です。通称「環八」にもいろんな思い出があります。道路小説って書いてみたいなあ。
471 20060408 ぶつぶつ 豆ちゃん、またふっ飛ばしちゃったみたい。ぶつぶつ。ああ、もう。凹んだ。
470 20060402 詩を見失った文学 (復旧作業ここまで)
(ほんとうに見失ってしまった。)
466 20060331 えっパリでデモに参加して捕まったって!! 知り合いがパリでデモに加わっていて、捕まったそうです。一日拘留されただけで、逮捕はされなかったと言ってましたが、催涙ガスはあびたみたいです。なんでも友だちの結婚式に列席するためにパリに行って、ついでにデモにも加わって、あっというまに捕まっちゃったみたいです。
ロンドンでもデモをみかけたそうですが、イギリスのほうはバッキンガム宮殿の前に騎馬警官が並んでいる程度の警戒でデモのほうも静かなものだったといいます。もうちょっと詳しく話を聞きたかったのですが、別件があったのでパリの様子を詳しくは聞けませんでした。それから、フランスの警察の様子も聞きたかったのに。おしいことをしました。
467 20060329 さくらと夜の雨 28日の東京では気温があがり、桜はもうすぐ満開に近づいています。飯田橋から市谷にかけての外堀の土手では、お花見にそぞろ歩く人の姿がたくさん見かけられました。思いのほかに早い満開で、お花見の準備が間に合わないのでしょうか?おおがかりな宴会はそれほどありません。年度末ということで、お花見をしたくても、できないでいる人も多いのでしょう。
夕刻、靖国神社から千鳥が淵を歩いてきました。昨年、同じコースを歩いた時には押すな押すなの満員電車状態で、とうとう千鳥が淵の遊歩道には入ることができませんでした。あるいは今夜あたりは時間を作ってお花見に繰り出す人も多いかもしれませんが、昨夜はまだ余裕があって、千鳥が淵から日本武道館のほうの土手に咲いた桜を見ることができました。
咲いた桜に夜の雨がさあっと通り過ぎて行きました。写真は携帯で撮影したものです。もう少しカメラの性能がいい携帯がほんとうに欲しくなりました。 467.jpg
468 20060327 中国揚子江の春 弘前のお住まいのヤン・テンシーさんからお写真をいただきました。中国の揚子江を船で旅行なさってきたそうです。写真の菜の花が咲いている村はもうすぐ水没することが決まっているということでした。 468.jpg
469 20060326 カメラつき携帯電話 最初はなんで携帯電話にカメラがついていなくちゃいけないんだと思ったんですが、携帯にカメラが付いちゃうとこれがなかなかで。今、私が持っている携帯は「仕方なく」カメラが付いているという品物ですが、ここ数日、カメラの性能がいい携帯が欲しくなってしまいました。カメラと携帯を別々に持ち歩くよりも一緒のほうがずっと便利であることは間違いないです。
ちょっと写真にとっておきたいなっていう場面に遭遇すると、カメラつき携帯はいいなあって思うようになりました。簡単にとれる、自然にとれるというのがカメラつき携帯のいいところでしょう。卒業式が続いていたのでそう思いました。写真にとるだけで忘れてしまうよりも、写真はないけれどもずっと覚えているほうがいいとこれまで思っていたのですが、携帯のカメラは写真機でとるほど構えて撮影しないので、その場の時間の流れをあまり邪魔せずに写真が撮れるのですね。
買おうかなあ。最新鋭のカメラつき携帯。でもまたマニュアルを読むのが大仕事なんだろうなあ。
465 20060324 チャー(犬ちゃんのその後) マニエリストQさんからチャー(犬ちゃん)のその後の様子をスタッフ・ルームに書き込んでもらいました。
「チャーはますます元気に我侭三昧な日々です。ものすごく甘ったれです。帰宅のときは吠え立てて向かえてくれます。大騒ぎです。以前は何を食べていたのか、肉より魚類が好物みたいですよ。カルシウムの骨が大好きで両足で上手につかんで噛み噛みします。くわえたまま仰向けに寝転がったりしながら短い足を宙でもがきます。
そのような仕草で見返り美人みたいにひょいとこちらを見るのです。あのまあるい瞳で……。でも頑固で生意気です(笑)。」
そうか、お魚が好きなのね。
464 20060323 ええと、悩んだんですけど 産経新聞から電話で「文芸時評」を担当しないかと、ちょっと悩みました。ううと、主な悩みは時間がないこと。そのわりにはちょこちょこ遊んでいるじゃんと言われそうですが、だからモンダイ。限界を超えるとあらゆることを無視して遊びに行きたくなる。行きたくなるだけならまだいいのです。行ってしまう。これが問題です。ううん。困ったもんだ。でも引き受けちゃいました。なんとかなるでしょう(なんともならんぞ!という息子の意見)
そういうわけで四月からつき一度で産経新聞で文芸時評をやります。時評を書いくのが興味深い時期に入っている気がします。なんというか、ものの感じ方で出来上げってきているというのでしょうか?文芸という形の中に新しいスタイルが静かに浮き上がってきている感じがするので、この仕事はやってみたい仕事です。ただ時間が……。それが問題なのです。
463 20060322 サクラサク 「サクラサク」と言えば大学の合格電報という時代がありました。ネットで合格番号を確認できるようになってから、合格電報屋さんのアルバイトが姿を消してしまいました。あれは学生アルバイトが多かったのです。
娘が受験した時は電話で合否判定を聞くという方法がありました。つい4年ほど前ですが、今のようにはまだパソコンが普及してませんでした。機械的な声で「残念ですが、あなたは不合格です。くりかえします。あなたは不合格です。」という電話を聞きながら「繰り返さなくてもいいわい!」と文句を言ってました。「不合格」よりも「サクラチル」のほうがなんだか良い気がします。
桜が咲くと言えば入学式というのが相場でしたが、ここ数年、入学式に咲くのか、卒業式に咲くのか、どっちか占うような年が続いています。今週はあっちこっちの大学の卒業式がありますが、今年の桜は卒業式に咲き出して入学式に散るくらいになりそうです。
というわけで法政大学のゼミ生法政文芸編集委員それに日大芸術学部の皆さん、お約束の発作的花見会です。
日時は4月1日。場所は飯田橋の外堀の土手。詳しくは法政の学生ページを見て下さい。学生ページのIDおよびパスワードを忘れたという人は問い合わせを下さい。
462 20060321 ひよこかひよこ豆かから揚げか ちょっと真面目に伊藤比呂美論とかエロティシズムの解体と再構築とか、そういう感じのものを書きたくなっているのですが、朗読会のトピックスはそういう方向で書くかもしれません。でその前に、豆ちゃんの悩みをご紹介しましょう。
朗読会の入場券?はブックカバーになっています。で前回同様また豆ちゃんが作ってくれました。前回はそら豆だったのですが、今回は春だからひよこ豆。で黄色いひよこ豆の絵が出来上がってみると、なぜかこれが「から揚げ」に見えたそうです。
「鳥のから揚げに見えませんか?いちどから揚げにみえちゃうとどうしてもから揚げに見えるんだけど」
「ううん……。から揚げねえ……。」
から揚げって言えばそう見えなくもない黄色い塊。で豆ちゃんは目とくちばしをつけてみました。これで「ひよこ」に見えるかな?というわけで今回のブック・カバーはひよこ豆かはたまたひよこかから揚げかというデザインになりました。
「で、パーティでひよこ豆の煮物を出すって言ってませんでしたか?」
「え、そんなこと言ったけ?ひよこ豆ってどうやって食べるの?」
ということで、豆ちゃんとモロッコ料理店でひよこ豆のサラダを食べながら打ち合わせをしたのが三日前のことでした。ひよこ豆は直径5ミリくらいの平たい豆です。
追記 モロッコ料理屋で食べたのはレンズ豆だったんですって。スタッフ・ルームで豆ちゃんがぼそぼそ言ってました。ひよこ豆はもっと大きいみたい。ごめん。
461 20060320 御礼 朗読会では花かごをパーソナルメディア社からいただきました。どうもありがとうございます。
また兼子さん、金森さんからはお菓子を頂戴しました。若藤さんからはお赤飯をいただきました。
連絡が不十分で御礼を申し上げるのが遅くなりましたことお詫び申し上げます。
460 20060319 股間で蝉がなく ええと、なんというタイトルだと思われた方がいるかもしれませんが、実際、昨日の朗読会で自分のテキストをそう読んでしましいました。読んだのは集英社文庫の「豊海と育海の物語」に収録した「うさぎ狩り」の一場面です。「鼓膜」という字をなぜか「股間」と読んでしまったのです。「あ、」と思っても、そのまま何食わぬかおで進行してしまうことでも出来たのですが、つい焦ってしまいました。
そこで「股間じゃなくて鼓膜です」と訂正したところから、頭に血が上って、ほとんど逆上せんばかり。そのまえに伊藤さんの身体の部位の話をしていたのです。「ほと」とか「くぼ」とか「まら」とか、そういう単語が並んでいたのが頭に残っていたのかもしれません。で、股間で蝉が鳴いてしまったんです。「あれは油蝉だったの?つくつく法師だったの?」なんて聞かれました。
80年代の伊藤さんの詩の仕事は、それまで卑語とされていたような言葉をおおらかに使うことで、猥褻性を無化させる仕事をなさっていました。卑猥とか隠微とされるような要素をもって健康で明るいものに変えて行く仕事だと言ってもいいでしょう。あるいは猥褻性の解体という言い方もできるかもしれません。
「日本霊異記」を題材にした「日本ノ霊位(ふしぎ)ナ話」を書いた頃から解体した猥褻を再構築させ始めたように私は感じていたのです。猥褻ではなくて官能的なものを再度構築させようとしているという感じは「河原荒草」ではもっと強く押し出されています。官能と命の息吹の繋がりが詞(ことば)によって呼び出されているのです。股間で蝉が鳴いてしまったのは伊藤さんが「日本ノ霊異(ふしぎ)ナ話」を読み終わった直後のことでした。「豆畑の昼」を読もうか「うさぎ狩り」を読もうか迷った挙句の出来事でした。
伊藤さんは勇猛果敢に猥褻性の解体にいどんじゃいましたたが、私のほうは隠微なものを暗がりから明るみに引きずり出したかったのです。それで「豆畑の昼」を書いたので、そのあたりの話をしたかったのですが、股間で蝉が鳴いてしまって、支離滅裂。いやあ、参りました。
459 20060319 朗読会にお越しいただきましてありがとうございます。 昨日は朗読会にお越しいただきましてありがとうございます。開演時間になぜか雨がたくさん降ったにもかかわらず大勢の方にお運びいただきました。
それから思いがけないことですが、お花やお菓子それにお赤飯までいろいろな差し入れを頂戴しました。こちらでどなたかお名前を控えていなかったので、御礼を申し上げることができない方もいます。この場を借りてお礼申し上げます。どうもありがとうございます。
伊藤比呂美さんの朗読はすばらしいものでした。そばで聞いていてぞくぞくしました。朗読会の様子は近いうちにトピックスに掲載いたします。
458 20060318 高見順賞 昨晩は高見順賞の受賞式でした。こんなに受賞者がうれしそうで、和やかな授賞式はめずらしいねえ、いいパーティだったとあとで二次会の時に話題になりました。
伊藤比呂美さんは受賞が決まったときは真夜中のカルフォルニアでおやすみになっていたようです。受賞を知らせる電話を選考委員の佐々木幹朗さんがかけると最初は「いったいこんな真夜中に何を言っているの」とたいへんなお怒りだったという話が選考経過のところで出ていました。そのうちにだんだん目だ覚めてきて、わけが解ってきたということで、電話のあとで、高橋睦朗さんが「きっと今頃は部屋の中をぴょんぴょんはねて、夜があけたら今度は庭をぴょんぴょんはねているよ」と予想したそうです。
授賞式では祝辞の平田俊子さんやトチ木仲明さんそれに乾杯の音頭の私などを伊藤さん自身が紹介してくれました。素敵な会は二次会、三次会と続くのですが、伊藤さああん!今日は朗読会ですからねえ。お忘れなく。
皆さんお待ちしています。
457 20060317 豊海と育海の物語 集英社文庫から「豊海と育海の物語」が今日発売になりました。メールマガジンでは22日とお伝えしたのですが訂正します。ごめんなさい。通常、集英社文庫は20日発売なのですが、今月は20日が日曜日と祭日に挟まれているために17日になったそうです。
「豊海と育海の物語」は前回朗読会で読んだ光村図書の教科書「国語2」に書き下ろした「雨の日と青い鳥」の続編です。続編と言っても物語の時間は豊海と育海がもっと小さい頃の話になっています。豊海が幼稚園から小学校にあがる冬から夏までを描いています。文庫ではそのほかに子どもが登場する短編をコレクションしました。子ども向きに書かれたものではなくて、子どもが登場するという内容を持った短編です。
朗読会会場には集英社文庫「豊海と育海の物語」も用意します。表紙は教科書の挿絵とおなじ安井寿磨子さんにお願いしました。
456 20060316 河原荒草 伊藤比呂美さんの「河原荒草」は詩の表題がページの右隅に小さく表示されています。うっかりすると表題を見落としてしまいそうです。実際、詩集を読み進めていると、表題をまったく無視してページをめくってしまうことがしばしばあります。きっとそれでいいのでしょう。というのも、この詩集は全体がひとつの長編詩のような雰囲気を持っているからです。
長編詩ではあっても、叙事詩ではなく、叙事詩になるまえのイメージがざわざわと犇いているような詩集です。乗り物に乗って旅をする親子。ある日、旅が急に終わって、父が出現した家の中に落着き悪く過ごす日々。あるいは乗り物に乗って、空港で「悪いパスポート」を持っていたために入国を拒否されて、そのままひからびて行く家族。あるいは河原にはびこる帰化植物。乗り物に乗って世界を旅して定着する植物の死骸。家の中の父の死骸。父の死骸とセックスをする母。いやな匂い。臭いにおい。ひからびてゆく植物。それでも芽を出す植物。そういうイメージが乗り物の「の」あるいは乗ってという言葉の「の」という音などの「の」の音で渦を巻きながら世界に溶け込むようにして、命が再生される確信にいたるまでが歌われています。
エネルギッシュです。河原荒草は私と言いたそうな詩集です。いや、実際「河原になりたい」と言っています。多くの帰化植物をはびこらせる河原になりたいというフレーズが形を変えてくりかえし登場します。すごいいなあ「河原になりたい」なんて。そういう詩集です。
私は伊藤さんの声を直接知っていますから、詩集を読んでいると伊藤さんの抑揚や声のトーンまで聞こえてきます。体から発せたれる時の、喉の感じとか胸の揺れ方まで自分の手で触れているような感じがしてきます。ついでに一緒に昼間の露天風呂に入って笑っていたときのことまで思い出しちゃいます。詩集を読んでそんなことまで思い出せるなんて、とても贅沢で、やっぱり詩人の友だちを持つべきだと思いました。
でもこの詩集を読むとセックスは「生きるための戦いだな」って感じがしてきて、朗読会をやるのが空恐ろしくなってきました。そうでなくとも詩人の迫力には負けちゃうのに……ああ、どうしたらいいんだろう。外はものすごい春の嵐で風が荒れ狂っています。
455 20060315 ライブドア事件 ライブドアの堀江貴文氏が起訴されました。同時にライブドアも上場廃止が決定されました。ただ、この事件は裁判では相当に揉める気がします。それから、逮捕から起訴までのメディアを含む一連の動きと、東証の対応についても改めて議論される機会が巡ってくるようになきがします。ライブドア事件はこれでひと段落をいうよりもこれからが、各方面にいろいろ波紋を投げかける事件に発展しそうな気配を感じます。
昨日、広島に住む友人と電話でもちょっとそのことを話したのですが、新聞記者もテレビ局の記者も個人としてはサラリーマンで、税金の処理や会計処理などは会社まかせで暮らせる人が多いので、あまりホリエモン逮捕に違和感を感じないのかもしれないという感想でした。小さいながらも自分で会社を経営したりしていると、これはなんだかへんだなという違和感を感じるということでした。
こうした違和感の是非はかんたんには明解になることはないのですが、公権力への不信感を生み出す結果にならないといいなと思っています。
454 20060314 試験場のいびき 試験監督が英語の試験中に試験場で居眠りをしていびきをかいたというニュースがありました。人ごとじゃない。試験監督ってのは、睡魔との闘いです。受験生に同情するよりは寝ちゃった先生に感情移入しちゃいます。なんとか寝ないでいようと歩き回ると、今度は気が散るなんて言われますし。頭に中には勝手に羊が通り過ぎて行くしで、ほんと往生しちゃいます。羊の中に豚でも混じっていてくれるとうれしいんだけど。
ソルボンヌ大学では失業対策を巡って学生と警官隊が衝突。63年以来の事態にフランス当局はショックを受けているとのことでした。63年の騒動はその後、全世界に学生運動の波として広がりました。私なぞはその大波が去ったあとで大学に入ったのでした。で、なんとなくこんにちまで、その大津波みたいなものの後片付けをさせられているような気がしているので、こんなニュースを発見するとどきりとしてしまいます。それよりは試験場のいびきのほうが切実な危険なんですけどね。
453 20060312 大風の日 朝、目がさめたら大風が吹いていました。海から吹き上げる大風が関東平野に砂塵を巻き上げて通り過ぎて行くと春が来たのだなと確信します。
来年(08年)春から静岡新聞連載小説のために徳川家康の本を読んでいます。家康が江戸に入った時の江戸城はほんとうに荒れ果てていて、周囲は塩水が染み出す湿地だったようです。そんな場所をまるで開拓するように江戸の町の建設を始めたということが解ります。
3月10日は東京大空襲の日でした。東京でも式典があったとニュースが伝えていました。東京が焼け野原になってしまったあとで、山岡荘八は「徳川家康」を書きはじめています。これが空前のベストセラーになったのには、家康が江戸を建設した将軍だったという事情も重なっていたような気がします。豊臣秀吉が朝鮮侵攻に現を抜かし、北京に帝国を作り出す夢を見ていた時、家康は塩水が噴出す土地に上水道を作り、堀をほって水はけを良くして、土手を築いて地割りをして町に住む人を募っています。
家康のフロンティアに天皇陛下が来るまでには300年もの時が流れたのだなと、大風の音を聞きながら思いました。江戸の町はたびたび火事に襲われたそうです。さらには、関東平野は何度も大地震に襲われています。
452 20060309 相談しています。 伊藤比呂美さんと朗読会の相談をしています。私は「豆畑の昼」を読もうかと思っています。まだ相談中で、相談はきっと当日まで決まらないと思いますが、だんだんイメージはできてきています。
次の朗読会はR30でやろうかと以前、話していたのですが、R30だと豆蔵さんが入れないのです。それでまあ、R25くらかかなあって感じになっていました。ここのところの5歳の年齢差っていったい意味があるのかどうか解んないのですが。R5とR10じゃあ、えらい違いなんですけどね。
伊藤さんはお互いにおばさんなんだからセックスの話をしようと言っていますが、私のほうは情欲の話がしたいってな具合で、微妙にずれています。この微妙なずれがいったい何を引き起こすのか、いまのところ、あまり予想がつかないでいます。
451 20060308 3月18日 朗読会 3月18日にまた例の神田小川町の「図書新聞小川町画廊」で朗読会をやります。こんどは伊藤比呂美さんとのジョイントです。伊藤さんは「般若心経」を読もうかなんて言ってました。伊藤さんに言わせると私と伊藤さんはよく似ていて、ふたりともおばさんで、「ナマの女」でぶいぶい言わせるいるということでした。それで「般若心経」でぶいぶい言わせるかもしれません(なんだかわからないけど)というか、まだ何も決めてません。伊藤さんとだったら、何も決めないほうが、すごっくうまく行く気がします。
前日の3月17日は高見順賞の受賞式。今年の受賞者はもちろん伊藤比呂美です。私が乾杯の音頭をとることになっています。つまり朗読会は、前日に祝杯を挙げたとろこから始まる仕組みになっています。おそらく正気なのはのこホームページの管理人の豆蔵つまり豆ちゃんだけでしょう。豆ちゃんには正気でいてもらわなくては困ります。というわけで、いったいどんな朗読会になるのか、まったく解りませんが、おもしろいことは請け合いますので、どうぞ、皆さん、お越し下さい。詳しいことはトピックスをご覧下さい。
お待ちしてます。
450 20060307 冬眠から春眠へ 東京はうらうらとした暖かいお天気がづついています。昨日はお買い物。春用の洋服を少しまとめて買いました。(無駄使いだ!という子どもたちの声が聞こえそうですが)それから映画を観ました。街歩きをしていてもなんとなくぼんやりとして、春眠の延長の気分です。
映画の予告編でやっていた「ヨコハマメリー」というドキュメンタリー映画を観たくなりました。横浜の伊勢崎町にいた街娼の行方を追う映画のようです。メリーさんと呼ばれた彼女は84歳で亡くなったとのことですが、子どもの時に映画に観に行った伊勢崎町の雰囲気などを思い出せそうです。予告編の文句がおもしろくて「奇跡の上映」なんだそうです。小さな映画館でもドキュメンタリー映画が商業映画館にかかるというのはやはり「奇跡」に近いものがあるのかもしれません。
どうやらこの映画では「伊勢崎町ブルース」を渚ゆうこが歌っているみたいです。青江美奈よりも軽い声でし高い声なので、なんというのか、言うに言われぬ違和感がある予感がします。新宿の大ガードのわきに青江美奈や五木ひろしの似顔絵が大きく描かれたキャバレーの広告が出ていたのも今は昔の話になりました。
今、私が住んでいる家の周囲ももとはアメリカ軍の朝霞キャンプがあったので、かなり高齢になった街娼がいるという話を聞いたことがあります。高校生の頃からずっと声をかけられ続けたという近所の旦那が「なんだかもう意地としかいいようがないよねえ」とため息をついていました。伊勢崎町と違って、このあたりはもともとは農家ばかりですし、今は典型的な郊外の集合住宅が多い地域になっていますから、横浜のメリーさんみたいな物語もなく、いつのまにか街から消えてしまったのでした。街道に沿った古い床屋さんや種苗屋さんが消えた頃に、姿を見なくなったような気がします。
冬眠が春眠に切り替わる境目で、なんだかうまく言えないことをうらうらと考えています。
449 20060304 花屋さんの前を通ったら 昼間出かけるときは軽い服が着たくなる日差しの明るさになりました。花屋さんの前を通ったら、桃の花を格安で売っていました。10日の菊(9月9日の菊の節句が終わったあとの菊)なんて言いますが、桃の花も4日になると格安になるのですね。
昨日(3日)はすごくへんな日で、午前中は横浜の中華街で、地元のやくざが揉め事の始末をつけている様子をホテルのカフェで目撃。ひと目見るなりやくざだと解るところがすごいのですが、でも午前中から面倒の後始末をするのにみんな集まってけだるそうな様子で、話の成り行きを見守っているところで奇妙でした。十人以上の人がいました。
それから午後は神楽坂の喫茶店で詩人の井坂洋子さんにばったりお目にかかりました。茨木のり子さんが急折されて、来月の「現代詩手帳」は茨木のり子追悼号になることになったのですが、そのための対談の帰りだそうです。井坂さんとしばらくお話しました。頭の中に午前中のやくざの集会の様子が残っていたせいか、なんだか自分が「情けないこと」を言ったような気がしました。井坂さんは茨木のり子さんが亡くなられたのが、ほんとうに残念だった様子です。
夜中はなぜか怪電話が……。こんなにいろんなことをあっていいのかなあっていう日でした。あした、丘の上の花屋さんに行って、安くなった桃の花を買い、大きな壷にたくさん生けようと思います。
448 20060303 雪が溶け始めました 蔦温泉の今年の雪もようやく峠を越えたそうです。毎日10時に温泉を出発するバスの運転手さんは前の日の夕方、蔦温泉までバスを運転してきて一泊して翌日の乗務となります。写真の道はバスが通る道ですが、冬の間も常時、除雪されていて、郵便屋さんも来るし宅急便さんもこの道でやってきます。 448.jpg
447 20060302 山の郵便ポスト 蔦温泉玄関にあるポストです。この郵便ポストはまだ現役です。ここに葉書を投入するとちゃんとあて先に届きます。郵政が民営化してもこの旧式のポストにはまだまだ元気でいてもらいたいと思います。かんだか「顔」があるみたいなポストが全国津々浦々に立っていた昔もありました。 447.jpg
446 20060301 ぴゅっと行ってぴゅっと帰ってきました。 ぴゅっと行ってぴゅって帰ってきました。八甲田山のふもとにある蔦温泉にです。八戸からバスが出ています。去年の11月15日に雪が降り出して、3ヶ月間ずっと雪が降り続いていたそうです。その雪もようやく峠を越したようです。到着した夜は大雨。ざんざんざんざんと降っていました。「ここ数日お天気もだいぶ暖かでした」ということで、雪もやや溶けたそうでした。
が、翌日、目が覚めてみるとさらさらの粉雪が降っていました。さらにその粉雪を「雨返し」の風がさあっと吹き上げてあたりが真っ白になる場面もありました。これだけの雪が溶けて水になって地下にしみ込み、これがまた温泉になって噴出してくるのです。蔦温泉は源泉の上に湯船が出来ていて、さらさらの透明なお湯が常時湧き出しています。あたりの山には水をたくさん蓄えているというブナの木の林があります。雪が水にかわり、水が温泉になったり、ブナの木の中を巡ったりといろいろに姿を変えるのです。
冬眠してきました。温泉に入って、地表に積もった粉雪が吹き上げられるのを見ていると、なぜか眠くなってこっくりこっくりしてしまいます。八甲田山の山のなかではそろそろクマが冬眠から目を覚ます頃なのかもしれません。
445 20060227 もうすぐ春です 知り合いから仲良くピアノを弾くクマちゃんの写真を頂戴しました。お宅にはクマ部屋があるのだそうです。そう言えば鎌倉の大仏次郎邸には猫の置物だらけの猫部屋がありました。 445.jpg
444 20060226 イラクからの撤退 読売新聞は自衛隊のイラクからの撤退が決まったことを書いています。3月に英国と足並みをそろえて撤退準備に入り、5月にイラク国内からクエートに撤退し、7月に帰国という流れになりそうです。ただし、物資輸送を担っている航空自衛隊は残留して任務遂行するということでした。アメリカは自衛隊の一部でもイラクに残ることを希望していたそうですが、結局、英国も日本はイラクからの撤退を了承したとのことでした。
国会ではライブドア堀江メールを巡る混乱の収拾がつかないうちに、こういうことは決まってしまうようです。こんな状態だと議会は必要ないということになりはしないでしょうか?政府があればそれで充分というような感じになって行かなければいいのですが……。民主党は政府を追及して政権交代を図るということにとらわれすぎているように見えます。追求のための追求というような姿勢が今度のようなばかばかしい騒ぎを引き起こしているような気がしてなりません。政権交代は「目的」ではなくて「結果」なのではないでしょうか?
いずれにしても自衛隊の主力部隊が無事帰国することは喜ばしいおとです。しかし。野党にはイラク戦争の意義についてはもっと厳しく政府与党を追及して欲しいと思います。大量破壊兵器保持というアメリカのイラク攻撃の理由は、間違いが多かったことになぜ気がつけなかったのか?あるいはイラク民主化という見通しをなぜ誤ることになったのか?自衛隊を派遣した当時よりもイラクを含むイスラム圏での緊張はなぜ高まっているのか。などなど政府見解をただすべき事柄はたくさんあります。
443 20060225 エンジョイという表現 フランスの高校生くらいが読む哲学の入門書を読んでいるうちに「エンジョイ」という単語の意味を改めて思い出しました。「楽しむ」というこの単語、オリンピック選手がよく使っています。そして、国の代表なんだから「楽しむ」だけじゃ困るなんて意見を耳にします。「遊びに行ってるんじゃないんだぞ」というわけですが、「楽しむ」つまり「エンジョイ」にはもっと神聖な意味があります。神の降臨が「エンジョイ」なのです。日本の選手がそういう意味で「楽しむ」を使っているかどうかは解らないのですが、たぶん、国際大会に出場しているような選手は「エンジョイ」というに相応しい実際の場面を目にしていることでしょうし、インタビューを受けた選手が「エンジョイ」と発音するのを聞いていることでしょう。
フィギュアスケートの荒川選手のスピンの様子をスローモーションでみたら、なんと素敵な微笑を浮かべているではありませか。つまりこれが「エンジョイ」なんだなと思いました。たぶん、私などは一生「エンジョイ」を体感する瞬間はないかもしれないと思います。ただ単語を知っている、その意味を知っているに過ぎないのかもしれないのです。もっとも「エンジョイ」はそうした華やかな場面だけに訪れるのもではなくて、深く安らいでいる時にも「エンジョイ」と言う瞬間はありますから、そっちなら誰にでも等しく得られる機会はありそうです。よく小説のリアリティを論議する場合に「血肉になった言葉を使っているかどうかだ」なんて言いますが、絶対に血肉にはならない言葉だってたくさんあるんだなあと、フィギュアスケートの演技を見ながら、そう考えました。ただ想像することしかできない言葉というものをたくさん持っているのも楽しいものです。「エンジョイ」のおすそ分けに預かる楽しさです。
442 20060223 電線地中化工事 家のそばの国道で電線地中化工事をやっています。そのために銀杏並木の銀杏を短く切って、仮の場所に移植しています。工事が終われば銀杏の木も戻ってくるはずなのですが。でも、電線を地中化してもあまりすっきりした街並みになったなあという感じはしません。都市計画で、この国道は周囲を鉄筋コンクリートの建物で覆うことになっています。大地震のときに防火壁になるはずなのだそうです。だから、色も形もさまざまなビルだらけで電線を地中化しても景観はそう変わらないのです。さらに大地震の時に鉄筋コンクリートの建物が防火壁になると言われてもあまり信じられません。ビルが倒れないという前提の計画ですが、耐震偽装問題を考えれば、不信感があっても当然だと思います。
昨年、エゴの木が白い花を咲かせていた雑木林は間引きの伐採が行われています。斜面の上に何か、たぶんマンションでしょうけれどもが立つのだそうです。もう今年はエゴの木は咲きません。間引きされてしまいました。そういえば、家の近くでもヒューザーがマンションを建てようとしていた土地があるのだそうですが、手放して別の業者さんが入るみたいです。
電線地中化工事の現場には街並みが美しくなりますという看板がたっていますが、なにかちぐはぐで、信じられません。やらないよりもやったほうがいい工事ですが、もうちょっと早くにやってくれれば、その効果は何倍もあったような気がします。
441 20060222 バスタイム なんだか無駄使いしたい気分。ネットの占いでは金運低下の予想。でも無駄使いしたいってのは春風とはいえないまでも春めいてきたせいでしょうか?(また地理音痴の友だちから電話がかかってきて「だから妄想なのよ」って言われそうな気もしますが)
バスバブルを買いました。ぶくぶく泡がでる入浴剤。子どもの時、映画を見ていて泡だらけのお風呂に入っているのが羨ましかった。もう何度も試してそんなに気持ちの良いもんじゃないって解っているんですけどね。
440 20060221 横浜美術館 「そいれで、蔦温泉から帰ってきたら」
「あ、ちょっと待って、携帯の電源がきれちゃう」
プチッ。
家電が鳴る。
「それでなんだけ?」
「蔦温泉から帰ってきたらって話でしょ」
「そうそう、帰ってきたら横浜美術館へ長谷川潔展を見に行くの。泊りがけで」
「だって横浜ってちかいじゃん」
「近くても泊まるの。ニューグランドホテルの本館をちゃんと予約したもん」
「それって絶対、妄想だよ!忙しすぎて、遊びに行きたぁいっていう妄想がふくらんじゃっただよ。」
「でも、ちゃんと予約したもん」
「だから、それが妄想なの。きっと熱があるんだよ。体温計ある?計ってごらん」
でも、青森が小田急線沿線にあるって思っている人に言われたくないなあ。
439 20060220 つた温泉に行くことにした 「どこに行くんだって?」
「だから蔦温泉」
「それってどこ?」
「十和田の奥のほう、八甲田山の中腹」
「それって東京からどのくらいかかる」
「たぶん、午後の仕事が終わってからじゃあ電車はないよ。新幹線で八戸まで行かなくちゃいけないんだから」
「え、青森なの?新幹線なの?小田急じゃないの?」
「箱根湯本じゃないんだから」
地理音痴のともだちと上記のような会話を交わしました。どうも東京で午後の仕事を終えてから遊びに来る気になっていたらしい。
「それでいつ行くの?」
「来週」
「ひとりで行くの?何をするの?」
「ひとりでお風呂で寝てくる」
「お風呂で寝るの?」
「うん。お風呂場にお湯が流れていて、寝ていると背中がぽかぽか気持ちがいいの」
真冬の蔦温泉なんか誰もいないと思っていましたが、そうでもないのです。この間、乳頭温泉で雪崩がありましたけども、あのときも客さんはけっこういました。
「ねえ、疲れてない?」
「うん、ちょっとくたびれているんだけど」
「温泉に行くっていう妄想だけで予約しちゃったんだ」
「妄想じゃないよ。ちゃんと予約したんだから」
「箱根湯本にしたら、そしたら小田急で行けるよ」
「やだ。だって八戸で烏賊買ってくるんだもん」
438 20060219 キャンデロロとストイコ 札幌で冬季オリンピックが開かれた時、ジャネット・リンという女子選手がいました。札幌の恋人とか氷の恋人なんて呼ばれて、オリンピックのあとはなにかのCMにも出ていたような気がします。フィギアスケートというものがあるのを知ったのはこのオリンピックが最初でした。それ以来、オリンピックの時だけのフィギアスケートファンです。オリンピックだけじゃなくて世界選手権とかNHK杯なんかも見たんのですが、雑事に取り紛れて、忘れてしまうのです。新聞のコラムで、ジャネット・リンのことを書いたものをいくつか見つけましたが、きっとコラムを書いた記者も小学生の時にテレビでじっと見ていたのではないでしょうか?ジャネット・リンを直接に取材したなんて記者はとっくの昔に定年退職を迎えているはずです。
長野オリンピックではカナダのストイコ、フランスのキャンデロロの男子選手がおもしろくて忘れられません。このときはフランスからスルヤ・ボナリーという黒人でバック転が得意な選手も出場してました。日本で開催されたというだけでなく、上位選手が個性的な大会だったと思います。ジャンプの王様と言われたストイコはオリンピックチャンピオンにこそなりませんでしたが、世界チャンピオンには何度もなっています。身長170センチ。がっちりした体格。顔が大きく見える。長野の時は足を痛めていたのにもかかわらず2位でした。
人気の点ではキャンデロロに勝る人はいないでしょう。昨日、ネットでキャンデロロの長野でのプログラム「ダルタニアン」の動画が入られるアドレスを知って、ついつい何度も見てしまいました。ストレートラインステップはフェンシングの動きが前後の直線だけで、左右の動きはないことを利用して、実際に剣で戦っているような雰囲気を見事に出していました。これだけでも頭の良い振り付けだと思うのですが、極めつけはジャンプに多少失敗しても観客は「ダルタニアン危うし!」という心境になって、会場が沸き返るのです。もちろん採点としては減点の対象になるのでしょうけれども、あの頃はまだジャッジの心象による採点でしたから、お客さんが大喜びをすれば、それだけ減点も少なくなる可能性がなきにしもあらずでした。
437 20060218 ああ、あったかい。 窓の外をお日様が通り過ぎて行きます。東の空に上ったお日様が西の空まで行く途中で、ちょうど、窓の外を通り過ぎるようなコースを通るのが今頃の季節です。
あったかい。あったかい。風は冷たいのだけれども、陽の光はもうずいぶんあったかくなっています。インフルエンザが相当にはやっているようで、昨日、息子が病院に行ったら「もう検査薬がありません」ということでした。そこで診断は「たぶん、インフルエンザ」昨日、全身の関節が猛烈に痛み出したそうです。
そのおかげで朝の6時に起こされて、ついでに男子のフィギュアスケートの中継を見てしまいました。ちょっと思ったんだけど、美形だとかそうでないとか、いろいろ言うけれども、結局、人間の顔って表情で見え方が決まる要素ってかなりあるんだなってことです。土台があんまりめちゃくちゃじゃ、そうは行かないかもしれなけど、目と口と鼻があれば、あとは表情で、決まるって言ってもいいかもしれない。いや、高橋選手のことじゃなくて、いろんな国のいろんな選手の顔を見ていてそう思ったのだけれども、こういう国際大会で日本の選手は昔に比べると自然な表情をするようになったし、東洋人の表情としてきれいになったなあと見とれてました。
東洋人じゃなくてカナダ人だけど、がっちりした体格で顔ででかかったストイコ選手が見たいなあ。
それにしてもあったかい。あったかい。
436 20060217 ううん。微妙だな? 昨日、堀江貴文被告の弁護人が東京地裁に保釈申請をしています。粉飾決算で再逮捕されるかと囁かれていたのですが、再逮捕はないままです。そもそも業績を伸ばしている最中の企業に「粉飾決算」という罪を当てはめることにいささかの無理を感じます。これで保釈されるのか、それとも再逮捕となるのか?微妙です。昨日は国会に自民党側は「ガセ」というメールが持ち出されましたが、この事件、どこまで行っても「へん」な事件です。ここまで再逮捕に手間取っているところをみると仮に再逮捕されて裁判に持ち込まれても、かなり揉める裁判になりそうな気がします。
ライブドア事件は最初から政治絡みという印象をぬぐえないのですが、民主党はこの問題の追及の方法を間違えているのではないでしょうか?どうも従来型の方式で政府の失点を探しているように見えますが、いっそのことホリエモンは悪くないという視点にたったほうが、政府の失点あるいは無能をあぶりだすことができるのではないかという気がします。ま、これも微妙ですが。
イラク自衛隊は3月から撤退を始めて、5月には完全撤退という計画があると報じられていますが、こちらも正式発表ではありません。政府高官のよるという情報で、かなり精度はあるものの微妙。昨年から続くフランス暴動やデンマークの風刺漫画にたんを発した暴動など、欧米に対する敵意は広範になってきていますし、アメリカのイラク政策は失敗している様子なので、早く帰ってくればいいと思うのですが、国会では誰も質問しないのかな?それともニュースが流れないだけなのでしょうか?
オリンピックが始まって、人の目はそちらに釘付けというか、情報がオリンピックに向いているうちに、あっちこっちで微妙な動きが出ています。オリンピックが終わったら、今度はどんな展開が待っているんでしょうね?ネットや新聞の小さい記事を拾い集めているとなんとなく微妙な雲行きになってきています。
435 20060216 わーーい、先生ごめんなさい。 歯医者さんに行って来ました。20年以上お世話になっている先生です。2年ぶりの歯医者さんです。2年前に左上の奥歯をせっせっと治療して、あとは金属をかぶせるだけというところまでこぎつけました。それから放りだしてしまったのです。その歯が痛みだしたのが昨年の12月。レントゲン写真を見た先生が
「これは痛くなってから、そうとうに時間が
たってますね。だいぶ悪くなっている」
わーーい、先生、ごめんなさい。今度は真面目に治療します。ちゃんと終わりまで通います。だから8年前に歯を抜いたまま、隙間になっているところも直して下さい。というわけでしばらく歯医者さん通いをすることにしました。
「いいですか、ここが歯がなくなるかなくならないか
の正念場ですから、がまんして下さいね」
はい、はい。解ってます。でも根幹治療って苦手。だから、悪くならないうちに治療に来てねと言われそうで、またまた「先生、ごめんなさい」と手足をばたばたしたくなるのを我慢してました。
でなぜか、歯医者さんに行ったあとは飲みたくなるドクター・ペッパー。麻酔が残っている時にしゅあっと炭酸を飲むとこれが美味しいのです。歯医者さんは明治屋の並びにあるんです。ドクター・ペッパーを買って法政大学の研究室で飲んでいると日文科助手のF女史が
「先生(こっちの先生は私のこと)胃が痛いって言ってませんでしたか?」
「うん、胃が痛いし、歯の治療したあとは麻酔で麻痺しているし、心臓がまた自律神経の失調症で痛くなるかもしれないし、それになんだか腰も痛くなってきた。腰が痛くなるなんて珍しいんだけど」
「じゃあ、ドクター・ペッパーなんか飲んじゃいけません。胃に悪いでしょ」
「だって、これは薬。薬なの。だからドクターって書いてあるじゃない」
「それより、早く直してウォッカを飲みましょう」
ドクター・ペッパーってコーラよりの癖が強いのであまり売ってないのです。銀座の明治屋には置いてあるので、歯医者さんの帰りには必ずドクター・ペッパー。
「だからね、ドクターなんだから薬だってば」
「それより痛いところは全部直してウォッカです。ドクター・ペッパーよりもカラオケでペッパー警部です。」
「解った。解った。早く直します。はい。」
434 20060215 吐くか食べるかそれが問題だ 夜中に突然、心臓がばくばくしだしました。また例のよって自律神経の失調症だなと、これは何度も経験があるので「嫌だなあ」と思いつつも、それほどあわてることもなかったのですが、その時、何を思ったのか台所にあったプルコギ(牛肉の絡め焼き)をレタスに包んでほうばったのです。我ながら理解に苦しむ行動です。
どうなったかというと、なんと喉にどうもそのプルコギレタス包みがひっかかっている感じがあって、なかなかとれません。自律神経の失調症のほうはとうにおさまっているのに、喉及び食道が苦しい。で吐いてしまおうか、それとも、ごはんをゆっくり噛んで食べようか、夜中に二者択一で輾転反側しました。吐いてから食べるという手も考えました。少なくとも食べてから吐くよりもましな気がしました。
吐くのはあまりやりたくないけど、ご飯はちょうど炊いたご飯がなくて、お米を研ぐところからやらなくちゃならないし、ああ、どうしようどうしようと思っている間にとうとう夜が明けてきました。フィギアスケート男子のライブを見ようと思ってたのに、それどころじゃない。結局、ご飯を炊いて、それをゆっくりゆっくり噛みながら食べてみました。それでも今朝は胃が重い。しかし、なんだって、自律神経失調症の発作の最中にプルコギレタス包みなんかを食べる気になったのだろう?これからはごはんはよく噛んで食べます。今日、歯医者さんを予約してあるから、歯もちゃんと治しておこう。いやハムレットもびっくりの一夜でした。これってあのお経を唱えるプリンターのたたりかしら?
433 20060214 ビックカメラ 息子と一緒に有楽町へ洋服を買いに行きました。で、そのかえりにビッグカメラによったんだけど、きっとあんまり本屋に行くことがない人が本屋に行くとこんな感じなんだろうなあって、目をちかちかさせながら、想像してました。なにがなんだか、さっぱりわからない。プリンターもパソコンもたくさん並んでいるんだけど、なぜ値段が違うの理解できないんです。
これが服とか雑貨とか家庭用品とか本だとだいたい見ただけで安そうだとか高そうだとか解るんでけすけどね。どうも電気製品やパソコンってまったく違いが解んないので、結局、値段だけを見てしまいます。
で、解ったのは、いや、正確に言えば家に帰ってきて解ったのは、プリンターは壊れていなかったということです。写真もプリントできる安いプリンターを買ってきて、息子に取り付けてもらいました。で、彼が言うには前のプリンターも「まだ生きているよ」ということで、「こりゃ、ダメだ」と思ったのはまったくの思い込みだったようです。なあんだ(しょぼん)でした。
432 20060213 春めいてきました。 立春を過ぎたら、光が明るくなって春めいたきました。春の予告編というところでしょうか。ええと最近、食べておいしかったものは、ひこいわしのマリネ。ひこいわ、ってアンチョビーなのですが、これを塩コショウしてオリーブオイルに着けたもの。日本の酢の物よりもやや濃厚な味です。缶詰のアンチョビーよりもずっと見た目がきれい。ひこいわしのきらきらした背中がお皿にずらりと並んだところがおいしそうです。白ワインで。
そろそろ、さよりの季節ですね。さよりと山うどを酢味噌で食べるのも好き。それから、あとは何があるかしら?ぶりとか河豚とか、冬のお魚は食べ収めの季節。そうそう鯛もそろそろおいしい季節が来ます。
431 20060211 やさぐれちゃんとマニエストQさんのおたより やさぐれちゃんからバトンが回ってきました。バトンラッシュなんだそうです。以下「小説バトン」の答え。
●本棚に入ってる小説の数
よく解らない。数えたことがない。
●いま読んでいる小説
アービングの「ホテル・ニューハンプシャー」を読み始めたのだけど、新潮4月号に星野智幸小論を書くのでそっちを読むほうが先になっている。
●あなたが買ったいちばん新しい小説
いくつかのアービングの作品。
●よく読む、あるいは思い入れのある小説(5冊まで)
ううん。これもいつもされて困る質問です。
●次に質問を廻す人(5人まで)
だれかいませんか?この質問に答えてくれる人。
次はチャー(犬ちゃん)のその後をマニエストQさんが知らせてくれました。だいぶ態度が大きくなっているみたいです。
「元気です。ものすごくワンパクです。勝ち気です。歯向います。
家内は毎日咬まれてます。
夜は、家内と猫と三人で仲良く寝てます。
食欲がよくて猫缶、キャットフード、鰹節まで食べちゃいます。
可愛子ブリッコで、家内とわたしに使い分けてます。
いたずらすると「先生のとこに帰しちゃうぞー」と叱るんですが、ヘノカッパです。
まあ、楽しくやってますよー。」
なんだか猫のご飯までとっちゃいそうな感じですね。ご面倒をかけますが、よろしくお願いします。
430 20060210 無弦琴の会 城戸朱理さんからお電話をいただきました。骨董を買いに行く会を作ろうということで会の名前も決まりました。「無弦琴の会」。「無現金の会」じゃないですよ。
なんでも陶淵明が楽は好むのに、音痴で、それで弦の張っていない琴を弾いて、弦がなくても音はでるのだと言ったということから名づけたのだそうです。カラオケの同好会にも使えそうな名前なんですけどね。
それで第一回は夏休みにソウルに行こうってことに相談がまとまりつつあります。お目当ては李朝白磁。でも夏のソウルなら薄い麻で仕立てた韓服を探すのもいいなあって、気の多い私は早くも余所見。「ちゃんと買ったものを写真に撮っておこうね」って、そういうことをしてくれる人がいると助かります。だって、物を買うのはすきなのだけれども、いつ、どこで、いくらで買ったかなんてすぐ忘れてしまうから。
429 20060209 プリンターの断末魔 どうもタイトルを考えるのをさぼっているんじゃないかと思われそうだけども、ほんとうだからしょうがない。プリンターがダメになってしまった。例の仕事をするたびに「ギャテイ、ギャテイ、ハラ、ギャテイ」と般若心経を唱えるプリンターだ。ファックスで送る必要がある原稿をプリントしていたら「しゃーっつ」という音と共にぷちんと電源が切れてそれっきり。あとはうんともすんとも言わない。いったい何が起きたのか、さっぱり解らないながらも、もうダメという感じだけははっきりしている。
で、我が家の娘はこれが就職活動の最中で、しょっちゅうパソコンを使っている。就職活動には想像以上にパソコンが使われているようで、どうかすると、大急ぎの仕事があるにもかかわらず、パソコンを占領されてしまうこともある。昨年の暮れあたりに2月には長時間にわたってパソコンを使うから専用のノートブックパソコンを購入してくれと要求されていたのだが、一日のばしにしているうちに、プリンターまでダメになって、仕方なしに学校へ出かけていった。というわけでプリンターとノートブックパソコンを両方同時に購入しなくてはならなくなりそうだ。
なんか壊れる前に「壊れるぞ、壊れるぞ」というサインを出して欲しいのだが、たいてい、すごいラッシュで使用している最中に突然壊れてしまうのがパソコンとその周辺機器のような気がしてきた。
428 20060208 おじさんは拾えない。 日本には殺処分される犬がずいぶんいるということですし、化粧品や医薬品の動物実験に使われる生き物もたくさんいるそうです。「犬ちゃんはどうしているかなあ」という話になって「やっぱり運が良いとか悪いとかというようなことはどうしても避けがたくあるもんだねえ」と嘆息しました。
息子がアルバイトをしている体育館のある公園では、昨日からの冷え込みで、また命を落としたホームレスの人がみつかったと言うことでした。時々、あることなのだと以前から聞いていました。「犬なら拾ってこられるけど、おじさんは拾ってこられないからなあ」と私。そう言いながら、以前は居候のいる家がいっぱいあったことを思い出していました。居候って物語や落語の中にはよく出てきますが、昭和30年代には、ほんとうに居候のいる家がありました。
旧来の家族を解体して、新しい家族の形を追求するという小説が書かれはじめたのは80年代の半ば、つまり昭和の終わり頃でしたが、その頃から居候のいる家って少なくなってしまったみたいです。皮肉なことなのか、それとも必然なのか、どちらなのでしょう。それにしても、気の毒に感じることがあっても「おじさんは拾ってこられない」のです。人間のほうが過酷な現実に襲われる可能性があるような、そうでないような複雑な気持ちです。
427 20060207 かもめが飛ぶ 昨夜から今朝にかけて雪が降りました。うっすらと雪化粧です。かもめが飛んでいました。ふだん、かもめは東京湾や荒川の河口付近にいるのですが、風の流れや天候の具合によって川を遡ってきます。
いつだったか、もうすごい数のかもめが飛んだ日がありました。家がまるごとかもめの大群のなかに飛び込んでしまったような感じでした。あれも冬の朝だったと記憶しています。今日は3羽ばかりが低く高く飛行していました。
雪国ではまた大雪だそうです。
426 20060205 紅葉と桜 どうも「小説家の家」っていう呼び方は自分ではしにくいのですが、今のところはそういう名称にしておきます。そのうちい良い名前を考えたいと思っています。どう考えても「閣」とか「邸」それに「荘」なんて立派なもんじゃなくて「庵」みたいにまっこう臭い感じでもないし「亭」というほど優雅にもなりそうにないので、施主としては考えあぐねています。「小屋」ってのもあったけど、それとも違うし。
いや、呼び方に悩んじゃましたが、それ!を建てようとしている敷地には大きな紅葉の木があります。それから桜の木。ゆずの木。以前の持ち主はここに家を建てて海に釣りに行くのを楽しみにしていたようです。だから春夏秋と楽しめる木を一本づつ植えていたんでしょう。
夏はとくに木がなくても裏に小さな崖があって、その上が雑木林になってますから、きっと蝉の声もうるさかったに違いないです。木が生えている土地が欲しいという条件で探してもらった場所です。目の前は田んぼが一面に広がっています。難点を言えば、いつもその場所までの道に迷うこと。車で行ってもなかなか探し出せないのです。つまり隠れ家。
しばらくは「隠れ家」と呼んでおくことにしましょう。桜と紅葉のある隠れ家。でも桜の木古くなって病気にかかっています。これは切り倒して、房総の山に自生している大島桜を改めて植えたいと考えています。大島桜は染井吉野よりもずっと成長が遅いので、みごとな桜の木になる頃は、私はもうこの世にいないかもしれませんが、それもいいかもしれません。そう言えば、館山にあった家を処分した時も最後まで気にかかっていたのは庭の植木のことでした。
425 20060204 小説家の家 いつのまにか「小説家の家」という名前になったようです。とひとごとみたいに書いていますが、建築家の鈴木隆之さんにお願いして家を一軒建てようと思っています。鈴木隆之さんのHPを見ていると「小説家の家」ということで計画を進めていただいているようです。
昨年から房総をうろうろしていたのはこの「家」のためです。先日、初めて模型を見せてもらいました。ええと大きなそろばん球を横に長く引っ張ったような家を計画していました。
私の希望としては家の中と外のコントラストが出るようなかたちにして欲しいということ。濡れ縁とか廊下に匹敵するような空間、つまり家の外と内の中間的な空間が欲しいというというような感じでした。その他に細かい希望はたくさんあります。で、軒とテラスの関係はすごくすてきな設計をしてもらいました。それから屋根裏部屋のような二階のベッド・ルームも気に入ってますが、ただ心配なのは天井がないとものすごく暑いのではないかと思うのです。造形的に美しいということと、気候とあっているというのは、どこかに一致点があるのでしょうけれども「住んでみなくちゃ解らない」という気がどうしてもします。ああ、それから屋根裏部屋みたいな二階は子どもの時の憧れでしたが、雨が降ったらものすごく雨音でうるさいんじゃないかなあという不安もあります。そのあたりは現在の建材がずいぶんカバーしてくれるのかもしれませんが……。
これからこまごまとした相談を詰めて行こうと思っています。
424 20060202 犬ちゃん騒動のうちに 犬ちゃんがうちにやってきたのは、ホリエモン逮捕のニュース特番の最中。で、そのあとはアメリカ産牛肉から背骨つきの肉が見つかったというニュース。今日の日経新聞朝刊は早やければ5月にイラクから自衛隊を撤収させるという記事を載せています。イラクの自衛隊は北の部隊から順次に派遣されていたのですが、とうとう東京の部隊まで南下してきました。練馬駐屯地の部隊から500名がイラクに派遣されたそうです。
いろんなことがありすぎて、なにかなんがか解らなくなっているうちにオリンピックが始めって、移り気なワイドショーの目はきっとトリノに釘付けになってしまって、耐震構造偽装問題も、ライブドア事件も防衛施設庁の背任事件もぜんぶうやむやになって行くということになりそうな感じです。
メディアはライブドアについて様々な疑いを報じ続けていますが、裁判所が認めた拘留期限は10日間。大騒ぎのわりには、最大20日まで認められる期限の半分しか認めませんでした。明日3日はその拘留期限切れの日。検察は拘留延長を申請するんだろうと思いますが、
もし検察がそれをしなかったり、あるいは裁判所がそれを認めないなんてことが起きたらどうなるのでしょう?
それにしても「額に汗して働く人」なんて言葉が空虚に聞こえるような使い方をされているのはずいぶん見かけました。株式のことも検察のことも知らない庶民の感情につけ込むような安易な発言を聞くだけでもいやだなあ。それだったら「金で人のこころも買える」というホリエモンの大見得のほうが言葉の使い方としてはきれいな感じがします。
423 20060130 めっけもの 昨日、衝動買いした中島美嘉のベストアルバムに入っていた「AMAZING GRACE」はめっけものでした。なんだか中央線の(なんで中央線なんだ!)くだりの始発電車に新宿から乗ってぐったりしている感じ。この感じがとってもいい。黒人霊歌のようなふかぶかした悲しみの感じとは違って、「ああ、なんておばかなことをしたんだろう」という後悔にまぶしい朝日がさしている軽やかさ。家々の屋根の間には咲いた桜の花。桜の花の上にはまだ肌寒い四月の青空。すれ違うのぼり電車にはもう働く気が充分の人々。ぐったりくたびれているけれども、頭の中には前の晩に使い残したアドレナリン。ってな感じです。
昨日はねえ、書かなかったけど、このほかに平井健のベストアルバムを買って、得上のおすしも食べちゃったし、家に帰ってからは桜の花がでてくる入浴剤のお風呂にも入ったし……。
入浴剤は結婚式の時にでる桜湯みたいに本当の桜の花が出てきたんだけど、なんだか腕がぴりぴりしました。今日は前に未卯ちゃんにもらったバターボールって入浴剤をつかったら、こっちはほんとうにバターの粒がお湯に浮かんでスープの中に入っているようでした。
犬ちゃん、いやちゃーはけっこうしあわせみたいです。マニエストQさんがスタッフルームに書き込みをしてくれました。
「中沢さんには申し訳ないですが、一日にしてチャーはすっかり我が家の子です。
暑くなったのか、炬燵の中からちょこんと出た頭が、ミッキーマウス模様の毛布を枕にしてしてます。女の子のわりにはとっても乱暴で、無造作に人を跳び台にしてます。結構おりこうさんで、トイレも解っているようです。
けど、おすわりとお手はしませんぜ(笑)。まあ、いいんですけど。」
422 20060129 お知らせ 今朝(29日)メールを頂戴しました菅孝子様。お返事をお出ししたのですが、リターンで戻ってきました。お手数ですが、再度、メールアドレスをご連絡いただきたくお願い申し上げます。
421 20060129 犬ちゃんは八王子に マニエストQさんに犬ちゃんを引き取っていただきました。マニエストQさん、どうもありがとうごいざます。以下、マニエストQさんのスタッフ・ルームへの書き込みです。
「特急あずさで八王子に到着。チャーは無事我が家に。
なんだか10年も前から我が家の子だったみたいにはしゃいでいます。
猫ちゃんともご対面。が、無視されてます(笑)。
家内があまりの小ささに驚いてました。さっそく前髪を整理してあげ、
ちょっと食事もさせ、いまは家内特性のカマクラの中で寝てます……
起きてきたー。」
そうか、犬ちゃんは特急に乗ったのか。チャーはこのHPの写真をみてマニエストQさんの奥様がつけた犬ちゃんの名前です。池袋で犬ちゃんを渡す時に「特急で帰ります」とおしゃっていたのは比喩じゃなくて、ほんものの「あずさ号」だったのですね。
捨てられていた時のキャリーバッグに入れて地下鉄に乗ったのですが、犬ちゃんはがたがた震えていました。骨格が全部震えているのが想像できるくらい震えていたので、地下鉄の中ではずっと頭をなぜていました。
八王子のおうちについて一安心。ご飯も食べて、ねんねもしたのなら、きっと、もう犬ちゃんも落着いたのでしょう。
私はなんだかさびしくなって、池袋で余計な買い物をしてしまいました。卒業式までに歌えるようになってやるとついカラオケで口走ってしまった中島美嘉の「雪の華」が入ってCD(マタ、ソウイウ、ムボウデ、オバカ、ナコトヲという息子と娘の声が聞こえてきそうだけど)とか、桜の花の匂いがする入浴剤とか、北海道産!の生のストックの花とか、まあ、そういった物を買ってしまいました。それでも、家に帰ってくるとゲージのふちにつかまって立ち上り「遊ぼう、遊ぼう、遊んでよ」と尻尾をふる犬ちゃんがいないのが物足りませんでした。
420 20060126 猫の断末魔 朗読会で読んだ「雨の日と青い鳥」は今年の四月から中学校2年生が使う光村図書の国語の教科書用の作品ですが、これは最初「猫の断末魔」になるはずでした。まさか、そんなタイトルのまま、教科書にのるわけはないのですが、ともかく、拾ってきた子猫が悲しげな声を揚げたのを最後に死んでしまったという話を書こうと考えていました。
が、犬や猫は拾うという話は、教室ですごく指導しにくいということで避けることになったのです。捨てられている犬や猫が多くて、現実にはどうしても処分せざるおえない現状と命を大切にしましょうという指導の間で現場の先生はいたばさみになってしまうということでした。
で、「猫の断末魔」ですが(ああ、こんなタイトルが教科書にあったらすごく刺激的ですが)息子が高校生の頃に学校で拾って育てていた子猫を家に連れてきたことがありました。文化祭の期間中に見つけられた子猫で生後間もない様子です。文化祭が終わってから教室の隅っこでひそかに飼っていたらしいのですが、あんまり弱ってきたので、寒い教室に置いてきぼりにすることができずに、はるばると電車に無賃乗車させて連れ帰ってきました。
何も食べないし、飲まないというので、夜遅かったのですが、獣医さんにみてもらうことにしました。何件かの獣医さんに電話をしてみると、今から連れてらっしゃいという病院が一軒だけありました。若い先生がひとりで開業しているような病院でした。病院というよりも商店街の中の空いた店舗を病院にしたという感じ。診察してもらうと
「こんなに小さい時に親から離されちゃうと、たいていダメなんです。僕もずいぶん、飼ってみたけど、ダメだったなあ」
という話でした。どうやらこの先生は動物好きが高じてとうとう獣医さんになってしまったみたいです。そう言われても一応、猫ミルク(そんなものがあるのをこの時初めて知りました)と猫哺乳瓶(人間の哺乳瓶よりも小さいのはもちろん、ずっと細長い乳首がついてました)を買って家に帰りました。
家に戻り、さっそく猫ミルクを作って飲ませてみました。子猫は目を閉じて、くいくいと哺乳瓶からミルクを飲みました。ミルク缶に書いてあった所定の量はあっというまに空になってしまいました。ミルクを飲んでくれると一安心。と、胸をなぜおろした次の瞬間
「みやあぁぁぁ」
と、ひどく悲しげな声でひときわ高く鳴いたのでした。尋常な鳴き方ではないというのは直感的に解りました。なにしろこんな悲しい鳴き声を聞いたことがないという鳴き方でした。その時、子猫を抱いていた息子にあとから話を聞くと、口の中が全部見えるくらいに大きく口を開けて鳴いたと言ってました。で、こときれてしまったのです。
ぐったりとした子猫を抱いていた息子には何が起きたかわからなかったみたいです。でも子猫は瞼を閉じて二度と開けることはありませんでした。
それから家の中は大騒ぎ。高校生と中学生の子どもがおいおいと泣き出したので、私のほうは怒ったりないたり、わけがわかんない騒ぎになってしまいました。
夜が明けて明るくなってから、裏にある大きな桜の木の根本にその子猫を葬ってやりました。その桜の木の枝には2年ほど前に、私と息子が大喧嘩をした時、私が腹立ち紛れに外へ放り出した息子のジーンズがぶる下がっています。あんまり高い枝に引っかかってしまったので、とろうとしてもとれないのです。それにしてもジーンズってずいぶん丈夫だなあと、時々その高い枝を親子で見上げています。息子が生まれた頃には手を伸ばせば頂上にまで届くことが出来た桜の木がいつのまにか登ることもできない大木になっていました。
419 20060125 大騒動でしたが 昨晩からあっちこっちにメールを出し、電話をかけという大騒動でしたが、犬ちゃん(どういうわけかそういう呼び名になっていて)をもらってもらえるあてが出来ました。ご協力いただきました皆様、どうもありがとうございます。
その犬ちゃんですが、ほんとうに吼えないし、言うことは聞くし、おとなしいし、いい子です。人間がいなくては生きられないような感じで、息子の話だと散歩に連れていっても、なんだかおびえてみるみたいな様子だったそうです。
昨晩は玄関につないでおいておきましたが、いつまでも玄関を占領させておくわけには行かないので、ゲージを作って息子の部屋に置くと、ゲージの中では静かにしています。で、誰かがそばを通ると「遊ぼう!遊ぼう!遊んでよ!」というように尻尾を振ってうれしそうにします。私はほんとうは犬は苦手。昔(すごい子どもの頃に)噛まれたことがあるのです。でも、一日ですっかりかわいくなってしまいました。
なぜか息子の白いダウンジャケットが気に入った様子で、そのうえに丸く蹲ることが多いのです。よっぽどほかほかして家の中で可愛がられていた様子です。叔母に引き取ってもらえないかと電話をしたところ、それは無理だったのですが「きっと飼い主は心配して、ものかげから誰か拾ってくれるのを見ていたかもしれないね」と言っていました。叔母にも大事にしていた飼い犬がいました。
弟にも電話。「お姉ちゃん、もうちょっとかわいい写真を載せたほうがいいよ」というご意見。ごもっともです。
知り合いでたくさん動物を飼っているFさんにはメール。Fさんはご実家にも問い合わせくれましたが、そちらは捨てられていたゴールデン・リトリバーの引き取り手探しに奔走しているとのことでした。なんでも足に怪我のあとがある犬で、電信柱に縛りつけられているのを見つけたそうです。
「きっとライブドアの株が紙くずになりそうで、飼えなくなった人がいるんだよ」というのは私の冗談。ホリエモン逮捕のニュースをテレビで見ていたときに連れてこられた犬なので。
418 20060124 誰か犬を飼える人はいませんか? 息子が勤務している体育館に犬が置き去りにされていたということです。迷彩色の柄がついた犬用のキャリーバッグにおしっこ用のシートとタオルと一緒に置き去りにしてあったそうです。茶色い小型犬。皇太子妃の雅子様が飼っていたショコラという犬に似ています。一応、最寄の警察には届けてあります。警察に連れて行くともし飼い主が現れなければ、処分に回されるか愛護団体に回されことになるか、解らないということでした。
どうも座敷でかわいがられていたようで、おとなしく人懐こい感じです。「お手」や「お座り」もできます。無駄にほえるようなこともありません。
我が家はマンションの8階で犬を飼うことはできないのです。誰か犬を飼ってくれる人はいませんか?あるいは練馬区、板橋区、豊島区近辺で犬の里親を探してくれる愛護団体などをご存知の方がいたら「お問い合わせフォーム」から御一報下さい。
写真は目がフラッシュを反射して赤く写っていますが、黒いくりくりしたお目々をしています。おとなしいいい子です。 418.jpg
417 20060123 おおい!豆ちゃん おおい豆ちゃん、どこにいっちゃったんだあ?というわけで、今日は雪の日の写真を掲載しようと思っていたのですが、豆ちゃんが見当たりません。
それにしても日が延びました。冬至の頃は4時半というともう暗くなり始めていたのに、この頃は5時頃まで明るいです。毎年、同じように日が延びるのに、私の母は決まってこの頃になると「ああ、日が長くなった」と言いながら伸びをしていました。
あれ?豆ちゃん、聞こえた?今ねえ、悪口言っていたら。同時進行で掲載してもらったみたい。なんと気のあう管理人だろう!
416 20060123 冬景色 雪の日にベランダから撮影しました。なんだか深い山の中にいるような景色です。 416.jpg
415 20060122 ばりばりばり。 明るい日差しとばりばりという音で目が覚めました。昨日の雪が凍ったところを、自動車が走る音がばりばりばりっと響いています。今日はどこもかそこも路面は凍っているのでしょう。
雪の降った次の日というのは驚くほど明るく、そして冷たいものです。自動車が凍った路面を走る音は、その明るい空気にひび割れを作って行くような感じがします。今日は明るい東京湾を眺めに行こうと思います。
414 20060121 雪です。 夜明け前から雪が振り出しました。うっすらと積もっているところです。まだまだ降りそうです。
83年から84年にかけての大雪の時は1月から3月までに東京で30日も雪が降ったそうです。3日に一度雪が降ったことになります。ロッキード事件の判決が出た頃で「新潟三区のたたり」なんて冗談もありました。
この歳の冬は母と過ごした最後の冬でした。83年の7月に脳梗塞の発作を起こし、後遺症で右半身麻痺が残った母はそれから85年の1月まで入院生活をしていました。83年の大晦日には病院から家のほうに戻ってお正月を家で暮らすことになっていました。小雪が舞ったのは大晦日の深夜でした。
それから年が明けて、ほんとうに雪の日がよく続きました。母の入院先の病院は所沢のお茶畑に残った雑木林の中にありました。後に産廃銀座なんて呼び名もつくようになりましたが、その頃も雑木林の中やお茶畑の中にはたくさんの産廃処理場がありました。病院の隣も産廃処理場で、しばしば形容しがたい異臭が漂っていることもありました。病院へ続く雑木林の中の道路はまだ舗装されていませんでしたから、雪が降るとタクシーも入ってこられないのです。もちろんバスもありませんから、雪が降ると、タクシーが来てうれる場所まで、0歳の娘をおんぶして(これがぽかぽかあったかくってカイロの代用になった)、1歳のお兄ちゃんには歩いてもらいました。
その母に聞いた話ですが、終戦の翌年もよく雪が降ったと言ってました。お正月から積もるような雪が降ったという話でした。それから昭和38年の38豪雪。とすると20年おきくらいに大雪の年があるようです。
413 20060120 耐震構造偽装問題が吹っ飛んで ライブドア事件のおかげで、耐震構造偽装事件がすっかり吹っ飛んだかたちになっています。テレビも新聞もライブドア事件を追いかけるのて手一杯で、耐震構造偽装問題は二の次というかたちになってしまいました。
テレビは「文脈」がないとジョン・アービングが「第四の手」で書いていましたが、こうした大事件がかさなると新聞もまた「文脈」を失ってしまいます。「文脈」というのは感情の継続的変遷と考えてもいようなところがあって、それは「愛情」を根底で支えているものだとアービングは考えているようです。
大量の情報にさらされながら「文脈」を維持するのは容易ならざることでしょう。その意味ではネットもさらに「文脈」の破壊を加速させる材料になってゆくでしょう。メディア不信というのは、メディアがどのような情報を流しているのかという情報の質の問題以前にメディアの存在そのものを疎ましく感じる感情が働いていると思えてきました。昔から新聞なんて読まなければ世の中は平和だと考える感じ方は存在していましたが、そういう拒絶的な感情のほうも、メディアの発展と同時進行でおおきく膨らんできているに違いありません。
今日から通常国会。大事件続きで、大荒れになるのかそれとも、あまりに案件が多すぎて焦点がぼけてしまうのか、あるいはメディアそのものにうんざりした人々の感情の影響で奇妙にしらけた国会になるのか、その雰囲気は予想がつきません。「文脈」を失った情報によって感情が「断片化」された結果が奇妙な騒ぎを生みそうな予感がします。民主主義というのは大衆的な情報の提供が前提で成り立っている政治システムですが、それがあまりに過剰なためにまったく機能しなくなってしまうという可能性もはらんでいます。
412 20060119 霜が降る前に植えたビオラ 花屋さんに「霜が降る前に植えるが根ががっちり成長するよ」と教えてもらったビオラです。写真は10月に植えたばかりのところで、今は鉢一杯に成長しています。今年は寒いので、鉢の中は根っこがびっしりと張っていることでしょう。冬を越した株のほうが晩春まで花を咲かせ続けるのだそうです。ビオラの株のしたにはムスカリとチューリップの球根を植えておきました。どんなふうに花が咲くのかたのしみです。
今朝の新聞にはライブドアショックの文字と一緒に東京証券取引所の取引停止という大きな文字が躍っています。ライブドアへの強制捜査にはいささかならぬ大きな疑問を持っています。昨日あたりは粉飾決算の疑いが出てきていますが、もし、粉飾決算だとしれば、そもそも株式上場が認められたことが大問題だといわなければなりません。ライブドアの問題というよりも証券取引所の信用問題です。
ライブドアつぶしが思わぬ大波紋を呼んでいるというところが実態なのではないでしょうか?粉飾決算も風説の流布もはっきりしない嫌疑のまま、ライブドアのような大衆的支持を集めた会社を突然に強制捜査をすることそのものが、そもそも当局の認識不足をあらわにしているように思えます。耐震構造偽造問題を隠すためではないかと考えたいたので、もし、そうだとすれば、これはあまりにも代償が大きすぎると言えるのではないでしょうか?
耐震構造偽造問題で年明けの国会は大揺れになりそうだと予想していましたが、類推が正しいとすれば、国会よりも外に飛び火したかたちで、その火事はかなり大きく燃え広がるのではないでしょうか?こうした大衆的支持を集めている会社に粉飾決算の疑念があれば、捜査側は株式市場全体の信用を失わせないために、もっと周到な準備をするべきだということは現時点で言えることです。ライブドアへの嫌疑が真実であれば、なおさら、そうした市場への周到な配慮が必要でしょうし。もしその嫌疑が真実でなければ、これは当局は大きく責任を問われるべき市場の混乱をもたらしたと言わざるおえないでしょう。
証券取引所も国会も地検も、この冬をどうやって越えるのでしょうか?私はここのところの一連の動きは「国」のコントロールが機能不全を起こしていることの現われに見えています。さて、これから、どんなものの根が張るのが、またその張った根がどんな花を咲かせるのか?こちらは楽しみというよりも、いささかホラー小説じみた感じの期待?というか怖いもの見たさみたいな感じがあって、嫌な感じ。 412.jpg
411 20060118 こう見えて、 こう見えて、ほんとうはかなり忙しい。忙しいけれども忙しいと言わないのはもの書きの「武士は喰わねど高楊枝」だとは思いつつ、テレビをばっちり見てしまうと、ついつい、「くそっ」とあまりお上品じゃないスラングも飛び出してしまいます。
見てたのはもちろんヒューザー社長の国会の証人喚問。で、証言拒否ばかりでつまらなかったかというとそうでもなかったのです。
テレビの報じるこの人の経歴は戦後に日本の歴史そのものというか、いわゆる中間層とか中流というものはどういうものだっかなと考えさせられるところがあって、表情を見ているとディケンズの小説を読んでいるように想像力を刺激させられるものがありました。で「くそっ」て思ったのは、そのあたりの自分の感じたことをうまく言葉にできない、つまり言語化できないってことに対する腹立ちです。
百聞は一見にしかずですが、その一見を言葉にするためには、すごくたくさんの時間が必要で「高楊枝」の見栄だけではどうにもなりません。
410 20060117 焦げ臭い、うそ臭い、うさん臭い ライブドアが家宅捜索を受けたというニュースのあとヤフーの掲示板を覗いたところ、明日、国会で行われる証人喚問隠しだという指摘で賑わっていました。やっぱりそう思う人が多いのだなあというのが私の感想。
NHKが勇み足ぎみの速報をして、わざわざ夕方のニュースに間に合わせるような時間に家宅捜査に入るなんてだけでも、うそ臭い。それに容疑もそれほど騒ぐようなことかと思える程度の容疑だし、なにか意図が働いているようできな臭い。ライブドアはスケープ・ゴートにされたんだという点では掲示板の意見は一致しても、誰がホリエモンをスケープ・ゴートにしたのかということになると諸説紛々です。
ふつう、こうしたメディアの注目を分散させるような動きというのは「政府」もしくは「与党」が仕組んだということになるのですが、今回の場合は「政府」の中の誰か、もしくは「与党」の中の誰か?が問題になっています。つまり「政府・与党」の中の暗闘がこうしたかたちで表に出てきているのではないかといううさん臭いを感じさせる騒ぎになっています。
NHKが勇み足な報道をするなど、微妙な手際の悪さも感じさせるところがあって、映像の向こう側でいったい何が起きているのだろう?とかんぐりが働いてしまいます。が、明日の証人喚問は、ライブドアの強制捜査以上の関心を集めることは間違いないでしょう。なんと言っても自分の住んでいる家や隣の家が問題なのですから。
409 20060116 消防自動車 暖国育ちの私はカマクラの中でお餅を焼いたり蝋燭を灯すことができるので不思議でなりませんでした。雪がむろのようになってしまうという点では雪中の火事もまた同じ理由で、ひとつの場所だけが燃え盛るのだそうです。
以前、山形を旅行していたとき、周囲は新緑に包まれようとしているのに、そこだけ黒々とした冬が残っているような火事場の跡を見たことがあります。建ったまま真っ黒になっている柱や斜めに傾いた梁などの家の残骸でした。雪の中の火事は現代の消防自動車の威力を持ってしてもなかなか消しとめられないものだそうです。
うちの近くの地下鉄の駅のそばに消防署があります。消防車は2台。1歳になるかならないかくらいお坊やがお母さんといっしょに消防自動車を一生懸命見ている姿をときどき見かけます。よほど消防自動車がすきなのでしょう。昨日、その消防車の前を通った時も坊やは消防自動車をお母さんと一緒に飽かず眺めていました。
すると消防署の奥から、制服を着たおじさんが出てきました。歳格好から見て、消防署では少し偉い人のようです。
おじさんは坊やに「消防自動車に乗せてあげよう」といいました。が、坊やは突然そう言われて、怖くなったのか、一歩、二歩とあとづさりして、しまいには背中をお母さんにぴったりくっつけてしまいました。
「じゃあ、お母さんと一緒だったら乗る?」
そう改めて聞かれると、笑顔を満面に広げて「うん」とうなづきました。制服のおじさんは消防自動車の扉を開けて
「はい、お客様を二人ご案内」と言いました。
坊やはお母さんに抱っこされてにこにこと消防自動車に乗り込みました。もしかすると、あの坊やは大きくなったら消防士になろうと決心したかもしれません。
408 20060115 新聞は北越雪譜だらけ 金曜日に雑談をしていて「ここのところ、新聞のコラムや短信欄は北越雪譜だらけ」という話になりました。確かに私も北越雪譜からの引用のコラムをいくつか見ました。天麩羅のくだりを引用しているのはありませんでしたが、そんなことは自慢にならないし、みんなおんなじことを考えるのだなあと、ややしょぼん。
雪の中で怖いものは「洪水」「火事」そして天麩羅の次に出てくる「狼」なのだそうです。「雪中洪水」の章には、リアルな挿絵もあります。この挿絵をリアルだと感じるようになったのは、数年前に青森で、じっさいの雪の溶ける様子を見てからでした。真冬のさなかの晴れた日の雪解け水の凄まじさは、想像以上のものがありました。青森空港は山の上にあるのですが、その空港へ向かう坂道を雪解け水がざあざあと流れているのです。毎日毎日雪模様の空が続いていたのが、やっと晴れて青い空が見えたと思ったら、こんどは白い雪がきらきら光る冷たい水になってざあざあと流れ出すのです。
北越雪譜が恐ろしいものとしている「洪水」「火事」「狼」のうち、なくなったものは「狼」だけです。
407 20060112 天麩羅の話 鈴木牧之の「北越雪譜」に中に天婦羅の話があります。大阪から江戸へ駆け落ちしてきた利助という男が、牧之の江戸京橋の家の裏に住んでいました。この男はなかなか気が利く者で、江戸では大阪では流行っている魚のつけあげを食べさせる店がないことに目をつけました。魚のつけあげ辻(道端)で売れば儲かるのではないかと山東京伝に相談したところ、ためしに調理してみろと言うことになり、なるほどこれは旨いと、商売を始めることになりました。すこで、これを売るに当たって何か良い名前はないかと利助が言うので、山東京伝が考えたのが「天麩羅」だそうです。
出奔して天竺あたりまでふらふらしてみようかという男が売るから「天麩羅」であり、麩には麦という字が含まれていて、さらに羅は薄い衣という意味なので、小麦の薄い衣をつけて揚げる食い物にはぴったりだということで、この文字を提灯に書き付けたのはまだ若かった自分だと牧之は書いています。利助は天麩羅をひとつ四文で売っておおいに商売繁盛そうです。
「北越雪譜」を雪国の生活を描いた随筆ですが、時々、こうした思い出話が混じったりして、そこがきままに書く随筆らしいところです。昨夜、天麩羅を食べたので思い出しました。ちなみに「てんぷらの話」に次の章は「雪中の狼」という章になっています。
406 20060111 秋山郷 数日前から大雪のために孤立している秋山郷は鈴木牧之の「北越雪譜」の中にも登場してきま。明和7年(1770年)生まれの鈴木牧之は糸の商人ですが、俳諧をよくして、そこに出てくる雪と越後の雪があまりに違う様子なので随筆「北越雪譜」を書いたそうです。この随筆は良く読まれると同時に、随筆ブームを起こして、以後、気候や風俗を描く随筆が次々と出版されたということです。
また稿本のまま出版されなかった「秋山紀行」はまさに今、豪雪のために孤立している秋山郷を描いたものです。岩波文庫の「北越雪譜」の増田勝実の解説を読みかえしていたら、この「豪雪」という言葉は戦後にジャーナリズムが作った言葉で、それが定着ものだそいうです。自然の脅威。それを限られた字数で表すために工夫した言葉でしょう。小学生の時、日本は世界有数の豪雪地帯を持っていると教わりました。
405 20060110 へんな組み合わせ アンチー・ミン「マダム毛沢東」(集英社刊)とジョン・アービング「第四の手」と「コンフォルト」増刊「日本の間取り」というへんてこな組み合わせで本を読んでます。どうも頭はまだお休みモード。しなければいけない仕事は放り出したまま。本を読んでは居眠りをするという生活。
毛沢東夫人の青江は四人組裁判の時の強烈な強気の姿勢が目に焼きついています。アンチー・ミンはその青江が指揮した革命劇の主役に抜擢された女優で、今はアメリカに亡命しています。青江の伝記ではなく小説。小説だから心境が書かれていて、これは想像するよりほかに仕方のないものなので、青江の伝記よりも、小説という表現手段のほうが適切なところがありそうです。
ジョン・アービングの「第四の手」は「ガープの世界」の発端の父親バージョンみたいな感じと言ったらまずいでしょうか?まだ読み終わっていないのですが、一人の男が世界の傍観者から、世界の一部分になってゆくプロセスを描く物語。主人公の男がテレビマンというところが、アービングらしいも象徴性の持たせ方です。
「日本の間取り」は日本の間取りというものが、いかに近代の生活意識を変え、家族関係を変化させ、個人の捉え方を変えたかを具体的に住宅の間取りから考えているところがなまじの小説を読むよりもおもしろく読んでいます。
自分でもへんな組み合わせだと感じますが、何か共通項があるようで、この三冊をぐるぐる回りながらちょこっとづつ読んでいます。
深夜の東京の雪が降り出しました。午前3時。目が覚める頃、たぶん午前9時頃だろうけれども、あたりは白く染まった世界になっているかもしれません。ニュースには20年ぶりの寒波とか30年ぶりの豪雪による自衛隊出動なんて文字が見えますが、うちの娘や息子は赤ちゃんの頃の記憶はないので、生まれて初めての寒さです。
404 20060109 お正月は終わり 明日、あずきのお粥を食べて、お正月は終わり。松飾も取れます。三学期っていうのは寒くて学校に行くのがいやな季節でした。で、学校の時間割というのが苦手だったことを思い出しました。
時々、家族から「異常」な集中力と言われます。そう言うと聞こえがいいかもしれませんが、ともかく集中して原稿を書いたり本を読んだりすると、まったく外界で何が起きているのか解らなくなちゃったりします。で、そんなばかみたいな集中力がどのくらい続くかというと6時間が限界みたいです。さすがにお腹が減るしトイレにも行きたくなるしで、そのあとはただぼうっとしてしまいます。家族が「異常」な集中力というのは、このふぬけ状態をさしているのです。正確に言えば異常な集中力を発揮したあとの「ぬけがら現象」です。
学校に時間割というのは、そういうことにならないように適度に学習して適度に休みという形になっています。小学生の時からあれが嫌い。細切れに何かをやらされるのが嫌で嫌で仕方がありませんでした。
ところが、どうしたことがこの頃、細切れ型になってきているのです。ちょっと原稿を書いて、ちょっと本を読んで、ちょっと書類を書くという感じ。小学校入学から40年目にしたようやく学校型時間割になれてきたのでしょうか?それとも単なる老化による集中力の低下かしら?
403 20060108 大芋煮会 ゼミ生が集まって我が家で芋煮会をしました。正直、3LDKの我が家に20名ちかいゼミ生がよく入ったなと、言い出した私が驚いています。これじゃあ、芋煮じゃなくて「芋の子を洗う会だぁ」という陰口さえ聞こえてきそうですが、全員が入っただけでもすごい!という感じです。
豪雪の東北のお住まいの皆さんは今頃、芋煮?家のなかで?外でやらなくちゃ芋煮じゃないよというかもしれませんが、もともとはゼミの時に芋煮の話題が出て、まったく知らないという人もいたので、それではどんなものか作っていようということになったのが始まりです。最初は戸外のつもりだったのですが、日暮れまでの時間が短いし、もし雪でも降ったら、芋煮どころじゃないというので、家の中で味だけ試そうということになりました。ほんとうはお天気の良い秋の日に川原などで、楽しむものだそうです。冬が長いから、秋の日を惜しむ気持ちもあるのでしょう。
豚肉お味噌味、牛肉醤油味(これは私がレシピを誤解していて、よく聞いてみるとすきやきみたいな味に煮付けるのだそうです)牛肉味噌味と三種の芋煮を作ってみました。10キロ以上のサトイモを消費しました。つまりみんな食べてしまったということ。前日にサトイモの皮むきの手伝いに来てくれたゼミ生が、こんなにたくさんのサトイモの皮をむくのは一生にこれが一度きりかもしれませんなんて言ってました。
で七草。最後は七草粥を締めくくり。もう食べられないという人にも無理やり七草粥を食べさしてしまいました。薄いお粥だったんです。3合のお米を20人ぶんのお粥に炊いたのですから。でもお粥も大量に作ると小人数分よりもずっとおいしい。料理って量がまとまって出てくる味があるのです。
そいうわけで大芋煮会。お手伝いいただいたゼミ生の皆さん、どうもありがとう。春になったら、発作的お花見会をぜひしましょう。
402 20060106 台湾キャラバンノートを書く 台湾キャラバンノートを書きました。というか、なんだか二日かがりになってしまいました。原因は三つ。ひとつは、家の者が「古畑任三郎」をビデオに録画していて、それぞれに別の時間に見ていたので、ついつい引っかかってしまったこと。もうひとつは、あまりにも気候が変わってしまって、この寒さのおかげで台湾のことがよく思い出せなかったため。今日は家の中にいても寒くて、西洋のおばあさんみたいにショールをしています。気候が変わると文章ってうまくノッテいけないことがあります。
三つ目はなんだいろんな仕事が押し寄せてきて、ええと終わったことを考えるのがひどく億劫になっているという理由。三つ目は深刻な感じがします。忘れっぽくなるっていうのは、結局、余裕がないってことなのかなあと思ったりする暇さえ欠いているというのは、なんだか私だけではない気がするのです。世の中全体がそんな感じで「忘れる」ために働いているんじゃないのかな?って疑りたくなる時があります。
ともあれ台湾キャラバンノートを豆蔵さんのところに送ってあります。豆蔵さんアップをよろしく!
401 20060104 新年の東京 2日の雨は小雨程度で止みました。3日は夕方からカレッタ汐留の47階「ビーチェ」で知り合いとささやかな新年会。隅田川にかかる永代橋や築地市場、レインボーブリッジの夜景を眺めながら食事をしました。羽田には離発着の飛行機がひっきりなしでした。とは言え、さすがに新年で、まだ休みの会社の多く、東京の夜景もいつもよりも少し静かに見えました。
帰りのタクシーでなぜかブランド好きの運転手さんの車に乗り合わせました。「タクシーの運転手なのにブランド好きはおかしいでしょ」といささか自嘲ぎみでしたが、子どもがなくて共働きだと、かなり贅沢ができるみたいです。で、お正月が終わったらハワイの伯父さんのところに遊びに行くと言ってました。奥さんも一緒にでかけたいのだけれども、会社勤めなので、長期の休暇がとれないという理由で、二泊くらいで台北や香港にでかけるみたいです。で、ブランド好きになったというわけ。タクシーの去年あたりからまた稼げるようになって来たので、そのうち個人タクシーを開業したいと言ってました。
明かりがぴかぴか光る東京にはずいぶんいろんな価値観の人がいるもんです。お天気は曇りだけれども、総じて静かで穏やかなお正月です。その東京も今日は仕事始めです。
400 20060102 東京は雨が降り出しました スタッフ・ルームに遊びにくるやさぐれちゃんが実家の雪の様子を知らせてくれました。
「実家はまだ雪が積もってます。本降りになることはありませんが、この時期にこれだけ降るのはやはり稀だそうです。電車で帰省する道中は、宇都宮あたりから雪が見られました。しかし雪国で一番恐ろしいのは、積雪もそうですが、日中晴れて雪が溶け、夜に道路がつるつるに凍るという現象。見ているだけなら雪ってすごくきれいなのですが(^ェ^;)星空は相変わらずとても綺麗です!!!」
東北はどこも大雪の様子です。しばらく雨が降らなかった東京も午後になって雨が降り出しました。冷えているので、雪になるかもしれません。
喉をやられる風邪をひいてぜいぜいしていましたが、この雨で落着くでしょう。お正月になって冬眠モードにスイッチが入ってしまったのか。ずっと寝ています。自分でも驚くほどたくさん寝てしまいました。
399 20060101 謹賀新年 あけましておめどとうございます。今年が皆様にとりまして良い年になりますことをご祈念いたします。
今年、卒業を予定されている皆さん、卒業製作のお進み具合いかがでしょうか?卒論提出日まで残りわずかです。がんばりましょう。
398 20051231 なぜか奇跡的な追い上げを 今、台所で娘と息子が奇跡的な追い上げで大掃除をやっています。ただしうち中みんな腹ペコ。いったいいつになったら台所が使えるようになるのやら。ただ今、21時49分。昨日のうちにやってくれたら申し分のな子どもたちなのですが……。
というわけで今年も終わり。なんだか、よく解んない年でした。今までで一番、原稿を書いていません。しばらく原稿を書かないでいて、年末に追い上げで小説を一本書いたら、なんでこんなにエネルギーを消耗するんだと、我ながら呆れてしまいました。慣れの問題もあってしばらく休んだあとにいつも、「ひやあ」って思うのですけれどもねえ。
皆さん、どうぞ、良いお年をお迎え下さい。
397 20051230 CMソングとともに 生まれたときからテレビがあったというテレビっ子世代ではありませんが、でもCMソングと一緒に成長してきたことは間違いありません。テレビが最初に家に入ってきたのは5歳の時でした。祖父母の家で使っていた中古のモノクロテレビをもらってきたのです。
そのせいか、肝心な時になるとなぜかCMソングが頭の中に流れます。今年も残すところあと2日。流れているCMソングは
「きれいになってもしょうがない、
なっちゃたんならしょうがない」
というものです。でもこのCMはどんな商品のCMなのか覚えていません。美容体操をしているお姉さんのそばで、小学生くらいの女の子がかったるそうに歌っています。今年の大掃除の心境はこのCMソングみたいな感じ。なんとなくあきらめぎみで、がんばろうという気にもならないけれども、だらだらやっていると少しきれいになって「きれいになっちゃたんならしょうがない」でもう少しやろうかなという気になるといったところです。
396 20051229 雪のない富士山 静岡の小川国夫さんのところへ忘年会に行ってきました。忘年会に来た人の中には毛皮を着た人が何人かいましたが、ここ数年、毛皮を着るような寒さはなかったという話題が出ました。ひさしぶりに寒い冬ですが、どういうわけか富士山には雪がありません。風で吹き飛ばされたのではないかという説がネットのニュースにありました。
行きは新幹線。帰りは知り合いの車に乗せてもらい真夜中の東名高速を走ってきました。まだ市場が開いているので、高速道路はロングのコンテナ車で混雑していました。コンテナ車に囲まれると自分が運転していなくても恐怖感を感じます。今年も残り少ないというあせりでしょうか?運転は日ごろよりも乱暴な感じがしました。
これから大晦日にかけて、また荒れ模様の天候になるという予報が出ています。確かに雪も雨も降っていないのは関東と東海の一部という天候が続いています。
395 20051227 あしたは御用納め というわけで今年も残り少なくなりました。あしたは御用納めですが、もう休暇に入っている人も多いことでしょう。冷蔵庫の発掘調査をして、本の山と格闘して、それから、ええと何をしなくちゃいけないんだっけ?
やることは山ほどあるわけですが、たいへい3割くらいで挫折してます。あんまり散らかりすぎるとほんとどうしていいのか解らなくなってしまいます。まあ、それでも年末というものがあるから、なんとか歩く通路だけは確保されているというところでしょうか。
くたびれていると、物が捨てられないのです。なんだか大事なものまで捨ててしまいそうで、怖いという心境になります。まあ、たいていのものは誤って捨てても取り返しがつくのですが、手続きがひどく面倒なものも中には含まれるから、どうも疲労している時の片付け物は嫌な感じです。いっそのこと、お正月にゆっくり休んでから片付けたふが賢明なのかな?と考えることもあります。みんなが片付けている時のほうが「ああ、片付けなくちゃ」という心理は働くきます。それと身体が一致しないので困ってます。
インフルエンザがもう流行し始めたみたいです。今年は例年よりも流行が早く始まったとのことでした。そうそう日本の人口も減ったという話です。少し広々とした国でゆったり住むのもいいのではないかと思うのですが、どうでしょうか?
394 20051226 今日はインド洋津波から一年 ほんとうは「なんでもない日おめでとう!」って書きたかかったんですけどね。「不思議の国のアリス」の3月うさぎみたいにティー・カップを持って「なんでもない日おめでとう」って言うの好きです。
災害、厄災続きで、ほんとうに「なんでもない日」って「おめでとう」を言ってもいいくらいに数えるほどしかないのですね。今年は津波とともにあけて、小学生が殺されたり、さらわれたりの事件も多かったし、例の構造に問題のある建築物の一件は年を越えて持ち越されるしで、なかなか「なんでもない日おめでとう」とは言いにくい気分です。
昔から世界には厄災が多かったし、これからも厄災は多いのでしょう。公共の体育館でアルバイトをしている息子と話していたら、暖を求めて施設内に入るホームレスに出ていってもらうというのが仕事のひとつだと言ってました。嫌な仕事ですが、そうせざるおえないとのことでした。体育館のある公園では凍死していたり、首を吊っているホームレスが見つかることもあるという話でした。たいていひっそりと処分されて、大事件にもならなければ数行の新聞記事にもならないと聞かされました。それから市役所へ用事で出かけたら、やはり社会的援助を必要をする人の面倒を見てくれる人手に困っているという話を聞かされました。
厄災は遠くにあるばかりではないのでが、身近な厄災は、それをそれとして見る人が少ないのでしょう。
393 20051225 今日はクリスマス サンタ・クロースが現れました。悪いサンタじゃなくて、クリスマスケーキを毒見して持ってきたサンタ。朝、起きたら台所のテーブルの上に8分の1ほど食べられたあとがあるクリスマス・ケーキが現れました。なんでもサンタがちゃんと毒見をしてから持ってきてくれたそうな。
クリスマスはお肉を食べてお正月はお魚を食べる。なんとなくそういうことになっているこの頃です。
東京は穏やかな良いお天気。でも寒い。で、また風邪がぶりっかえしてきました。あったかいお茶が手放せません。お腹に来る風邪もはやっているようだけれども、我が家の場合はみんな喉をやっられています。
392 20051224 今日はクリスマス・イブ 今日はクリスマス・イブで鴨を焼きます。って言うっても誰もいない。うちには。もう、みんな出かけちゃってます。こうなると自分もいない気がする。じゃあ、鴨の胸肉に胡椒と塩を振っているのは誰?って、ややいじけぎみ。ま、いいでしょう。鴨のコンフィの作り方を覚えました。
塩胡椒をした鴨の皮を下にして焼きます。で、ひっくり返さないで、熱い油をスプーンで上からかけて焼きます。ゆっくり気長に焼くのがコツ。「なるほど、なるほど」とこの間、テレビで見て覚えました。一回だけだと忘れちゃうから、今週はこれで二回目です。はい。だいたい5回くらいやるともう忘れないんで、お正月のうちにまた作ろうと思います。
それからロースト・ビーフ。これは今年は止めておこうと思ってだんだけど、昨日、鎌倉のバーでおいしいロースト・ビーフをご馳走になりました。詩人の城戸朱理さんに連れていってもらったんですけどね。城戸さんがジンを注文するから「はて?」と思ったんだけど、ロースト・ビーフが出てくるとわかってたら、私もジンにすれば良かったなあと後悔。鹿児島から詩人の高岡修さんがいらっしゃっていたのでした。
で鴨のコンフィとロースト・ビーフはどうなるかと言えば、明日、細かく砕いてサンド・イッチの具材になるのです。まあ、サンタクロースのかっこうをした強盗が来なければ、それでいいことにしましょうか。
391 20051223 今日は天皇誕生日 昨日の丸の内、大手町、有楽町は実質的に今年の仕事納めの日とあって大混雑だったとタクシーの運転手さんが言ってました。皇居前広場にはお祝いの記帳用のテントがたくさん張られてました。これはお正月までそのままになっているそうです。
で、例の耐震構造偽造事件。どのくらいの広がりになるのか、そら恐ろしい感じがしますが、こうなったら徹底的に調べて、ついでにうんと税金を投入してしまえばいいと思います。なんてね。少子高齢化社会に備えて、介護のしやすい住宅や二世帯でらくらく住める住宅をうんと建ててしまって、ついでに美しい街並みや街路樹や公園もつくってというようなことを政府が率先してやってみせるきっかけにしちゃえばいいのにと、無責任に考えてみるのもおもしろいです。
耐震構造に問題のある建物は取り壊して、思い切って100年でも200年でも使える丈夫で美しい建物にして、管理会社の所有物にして賃貸物件ではあるけれども、そこの住む権利を売り買いできるものにすればいいのではないでしょうか?まあ、そんなことを考えてみました。住んでいる人みんなの財産になるような美しくて住み良い町ができるきっかけになるならば、税金の投入もまんざら被害者のためだけではなくなるのではないでしょうか?誰かうまい知恵を出してくれないでしょうか。災害のあとで、しっかりとした都市計画が生まれるというのは歴史上何度もあることですが、人災ではそうはならないかもしれません。
390 20051222 今日は冬至。 関西や新潟では雪のため停電が起きているみたいです。着雪で送電線が切れてしまうみたいです。東京は昼前ごろからなにやら怪しい雲行き。灰色の雲が空を覆い、しんしんと冷えてきました。まさかお正月前に雪が積もるなんてことはないでしょうけれども。
小学生の時は雪大好き人間だったうちの娘も今ではすっかりものぐさな大学生で、曇り空をうらめしげに見てどのコートを着るべきか考え込んでました。今でも雪はあまりありがたくないようです。
ネットでみつけた変わったニュースをふたつ。ひとつは「悪いサンタ大暴れ」というもの、世界中でサンタの格好をした強盗が出ているみたいです。北欧ではサンタの格好で火のついた矢を放って放火をしたというとんでもない人もいたようです。もうひとつは「ニューヨークの文化論争」なんでもアメリカではここのところ、宗教色を薄めた表現が使われていて「クリスマス休暇」といわず「ハッピー・ホリデー」などというようになる傾向があったのだそうですが、こうした傾向にキリスト教右派が巻き返しを図っているのだそうです。
いずれにしても今日は冬至。クリスマスに比べて地味だけど、ゆずのお風呂に入ってかぼちゃを食べると風邪をひかないといいます。早くおうちに帰って、あったかいお風呂に入ろうって、まだ出かける前から考えてます。明日は天皇誕生日。それにしても今上はややこしい日に生まれたもんですねえ。天皇誕生日がここに来てから一年が一週間短くなったような気がします。
389 20051221 大寒波に新型インフルエンザと耐震構造偽造 寒いです。東京以外でも寒いところが多いようですが、今夜からまたいちだんと冷え込むという予想です。雪を見に行きたくて仕方がありませんが、雪国の人は見物どころの騒ぎではないでしょう。バブルが始まる前の冬もすごく寒かったのを覚えています。で、株式市場は景気回復の様相をはっきり示し始めていると伝えられています。しかし、大寒波とついでに新型インフルエンザが爆発的にはやるのは時間の問題なんて聞くと、景気が良くても命あってのものだねだからなあって気になります。
で、耐震構造偽造事件ですが、私にはどうしてもなぜ偽造書類を作って検査まで通したのか、理解できません。たぶん「犯罪」ではなくて「通常業務」としてそうしたことをしていたのではないでしょうか?「犯罪」の自覚があったら、そんな証拠が残るようなことはきっとしないでしょう。で、その「通常業務」で日本中にどのくらい崩れやすい建物が建っているのでしょうか?それを考えるとなんだか空恐ろしい気がします。
住宅政策と都市政策の貧困が生んだ恐怖と言っていいのではないでしょうか?
バブル経済到来前の大寒波の時の景色景観に比べて現在は日本全国で景色が醜くなったなあと感じることしきりです。それにしてもいのちあってのものだね!昨晩から風邪を引いてぜいぜいやっています。だから頭の中はちょっとばらばら。
388 20051219 川口リリアホール 夕暮れの街に車を走らせて、川口リリアホールまで東洋大学吹奏楽部の定期演奏会を聞きに行きました。スタッフ・ルームに遊びにくる井上さんのご招待です。川口までは道さえ空いていれば30分くらいで行けます。
久しぶりの吹奏楽の生演奏でした。今年9月になくなったA・リードの曲やコダーイの「くじゃく」などを聞きました。が、圧巻は「オペラ座の怪人」を構成したマーチングの演技でした。なんだか、どきどきわくわく。コンクールとはまた違う華やかさがあります。最後に
アンコールで、舞台に並んだメンバーが、バンドメジャーを先頭に、舞台手前に進んでくるところなって、幾ら拍手をしても足りなくくらいでした。
来年は時間を見つけて吹奏楽やドラム・コーの生演奏を聴きたいなあと改めて思いました。井上さん、どうもありがとう。感謝!
387 20051218 秋山さんの会 文芸評論家の秋山駿さんを囲む会がありました。この会は秋山さんの還暦をお祝いしたのが始まりだそうです。以来、毎年12月初めに温泉一泊旅行をしてもう15年にもなります。昨年は熱海一泊で思いがけず冬の花火を見物したことはこの「豆の葉」にも書きました。
秋山さんがご病気で入院なさったのは、冬の花火を見物してまもなくのことでした。その後、順調に回復なさって、5月には群像新人賞の授賞式で乾杯の音頭をとられていました。温泉一泊は無理でも秋山会がないのは寂しいということで、今年は新宿で夕食を食べようということになりました。5月にお目にかかったときよりもずっとお元気になられたご様子にほっとしました。
秋山会では、大勢の人がいるので、なかなか秋山さんとゆっくりお話はできないのですが、昨晩はたまたま隣に座ってゆっくりとお話ができました。秋山さんとお話していると、物書きとか文芸に関わっている気持ちの正直なところが話せます。いろいろご存知ですから、話せてしまうのですね。
386 20051217 超漢字 串刺辞書 東京国際フォーラムで開かれていたトロン・ショーに行ってきました。年々歳々に賑やかになってます。参加する企業も増えて、今年は国際フォーラムの地下全体を使った展示になってました。
「超漢字」の串刺し辞書が完成したので、それを見せてもらいました。単語を検索する場合、複数の辞書を同時に検索することが出来るというものです。日本語の国語辞典ばかりではなくて、英和、仏和、伊和など外国語の辞書を検索することも可能になってました。
言葉の意味というのは、A=Bというようなものではありません。Aという言葉はAという意味の集合で、その集合のある部分がBという意味の集合と一致しているのです。そのには自然とずれが出来ています。串刺し辞書を活用すると、そうした意味の範囲の広がりや言葉がずれが自然とわかります。辞書に串刺しにすることによって「類義語辞典」のような役割も果たすようになってました。
会場には作家の吉目木晴彦さん、歌人の大谷さんもいらっしゃっていて、串刺し辞書について、楽しくお話させてもらいました。
385 20051215 すっかり冬景色 寒くなりました。コートを引っ張り出して着ています。暖かいとほっとします。
昨日は昼に家を出るまで、国会中継を見ていました。で、帰りにタクシーの運転手さんと話したのですが、姉歯元建築士はそんなに嘘はついていないだろうという感じですし、木村建設の社長は実務はそれほど知らなかったのだろうという感想のお客さんが結構いましたよという話でした。
出勤した大学でのほかの先生のこの件で雑談をしたのですが、60代50代の全共闘世代がおとなしい40代をこき使った感じがするという感想でした。ところがその40代は気弱で真面目なおかげで、あれもこれもばれたというところでしょうか?「なんだかなあ」とため息。
それにしてもこの事件、よく解らないのはなぜ構造計算書を偽造したのかという点です。建築工事の手抜きはよくある話で、地震のたびに手抜き工事が問題になるのは今に始まったことではなくて、古くは江戸時代、いやもっと先まで遡るかもしれません。で、手抜き工事をすればいいものを、ちゃんと構造計算書を作ったところが奇妙です。なんでわざわざこんなめんどくさいことをしたのでしょうか?今朝の新聞を読んでもその謎は解けませんでした。
それにしても冬景色です。大企業のボーナス支給額は過去最高なんていう文字も新聞のすみっこで踊ってました。
384 20051214 つくもさんの念力 言われるまで気付かなかったんですが、つくもさん(リンク参照)とお目にかかったり、つくもさんが我が家に起こしになったりするとなぜかウィンドウズの調子がへんになっちゃうんです。30秒で電源が落ちるウィルスに感染するとか、作業中に画面がまっくらになるけれども、ポインターは生きていて、手探り(あてづっぽうか?)でクリックするとなんかと使えたりといろいろ怪奇現象がおきるのです。これってつくもさんの念力なのかしら?
で、先日のサーバーが飛んじゃった時ですが、あれはつくもさんの結婚式に私もお呼ばれしてました。で、結婚式に出席した人の中にもこのHPを見ていてくれる人がいて「今朝からアクセスできなくなってますよ」って教えてくれました。ううん。こうなるとサーヤの結婚には地震や津波がくるのと同じくらいの不思議です。これも念力の一種かしら?つくもさん自身に指摘されるまで気がつかなかったんですけど。こういう念力もあるのかなあって、びっくりしてます。
383 20051213 生ハムと洋ナシのサラダ 洋ナシの季節はそろそろ終わりですが、洋ナシと生ハムのサラダのレシピを覚えました。ころころに切った洋ナシにルコラ、それにパルメルザンチーズを薄くそいだものをかさねてバルサミコ酢をかけます。これだけ。とってもおいしい組み合わせです。覚えたての組み合わせです。
生ハムといえば果物との相性がいいのですが、なんでも以前の日本の法律ではハムは加熱しなければいけないという規定があって市販できなかったそうです。でもホテルや高級レストランの前菜には生ハムがありました。あれはきっと縛られる法律が違ったのでしょう。で、前菜といえば生ハムのメロン添えというのが定番という時代がありました。
イタリヤ産の生ハムを売っている店をデパートで見つけた時はすごく嬉しかったのですが、お値段のほうも目の玉が飛び出るくらい高価でした。これは今でもあまり変わりがありません。そんなに高い生ハムを買わなくても日本産のまあまあの値段のものが今は出回るようになりました。
生ハムと洋ナシあるいは桃という組み合わせは今までも楽しんでいたのですが、+ルコラ+パルメルザンチーズ+バルサミコでこんなに見た目に美しく、複雑で良い香りのするお料理になるということを発見しました。クリスマスには温野菜のサラダにするか?生ハムと洋ナシのサラダにするか?考えています。
382 20051212 「シュラクサイの誘惑」と「ガープの世界」 ここ数日、小説を読むようなおもしろさでマーク・リラの「シュラクサイの誘惑」(日本経済評論社刊)を読んでいました。「ハイデガー、アーレント、ベンヤミン、フーコー、デリダら現代思想のスターたちの失敗から解き明かすユニークな政治哲学入門」と本の帯にはあります。哲学だけを論述の対象にするのではなく、それらの哲学者の実際の政治的行動もあわせて論じているので小説を読むようなおもしろさがあって、二十世紀後半の思想の流れを現実の歴史の流れに沿って読み直すことができます。
で、話は変わって、ジョン・アーヴィングのこと。若い友人とアーヴィングを読み直したらおもしろいだろうねという話をました。日本の文芸評論家がフーコーだとかデリダだとか、いわいゆるポスト・モダンの哲学に夢中になっている間に、日本の小説家に影響は与えたのはジョン・アーヴィングでした。若い友人によるとちょっと考えただけでも、保坂和志の小説にもアーヴィングの名前を発見することができますし、小川洋子や角田光代の小説もアーヴィングからインスピレーションを得たのではないかというディテールを見出すことができるということでした。その考えに私も賛成。
確かにアーヴィングは30年前に日本で紹介され始めた時に魅力的な作家でした。そして、フーコーやデリダをいじっていた文芸評論家からはこれまた見事にまったく無視されました。にもかかわらず、アーヴィングが提出するイメージというのは、ポスト・モダンの哲学の痛烈な批評になっています。通常の批評は「物語」を「批評」するのですが、ポスト・モダンの哲学のそばにアーヴィングを置いてみると「物語」が「批評」を批評しているという転倒が起こります。これはおもしろい転倒です。批評は直感的なリアリティを要求されませんが、物語(小説と言ってもいいのですが)はリアリティを要求されるためにこうした転倒は起きるのでしょう。
10月に大阪で小川洋子さんと一緒のシンポジウムに出席した時、小川さんが「偉大な日常の発見」と発言していたのが印象に残っていますが、こうした表現は非現実的な批評家の言辞に悩まされた来た作家には直感的に理解できてしまうものであって、同時に「物語」が「批評」を批評するという転倒の中から生まれてきたものなんだなと感じました。おもしろい発見をしました。
381 20051211 冬の海の家 広い空と大きな海とどこまでも続く砂浜の九十九里海岸までドライブしてきました。何時も何か用事があるのですが、今度はほんとうにドライブ。
アクア・ラインから木更津に抜けて、紅葉がまだ終わってなかったので、房総半島を横切るようにして、鹿野山と清澄山の西側を抜けて天津小湊に出ました。紅葉もまだこ残っていましたし、途中でたくさんの柿の実が実っているのでも出会えましたが、山道があんまりぐるぐると回っているので、運転していて目が回ってしまいました。これはちょっと心配。
それから太平洋沿いに九十九里浜の大網白里まで北上。ここで西の空へ陽が落ちて行きました。東の空も沈む陽の照り返しで、雲が紫がかったピンク色に染まっていました。引き潮で黒く濡れた波打ち際を千鳥が一羽、千鳥足なんて冗談でしょうという言いたげにまっすぐに走っていました。海の色に乳白色とブルーが混じった感じ。冬の海も時折、こんなパステルカラーに染まるのだなと関心したくなる色でした。
こんな季節に海岸にならんだ海の家が営業しているとは思えなかったのですが、幾つかの店の中には人の影がありました。で、覗いてみると「いわしの丸干しとハマグリとイカを鉄板で焼くだけ」というメニュー。
「それだけならあります」
浅黒い肌につやのない髪。いかもに海辺の人らしい風貌のおばさんは、その風貌に似つかわしくないやさしい声で日暮れに飛び込んできたお客の相手をしてくれました。「飲み物は自動販売機を利用してください」という店内はがらんとしてましたが、それでも、カップルが一組、熱心に話し込んでいました。
昨日、高速道路を走りながら聞いたラジオでは「明日は都心でも雪がちらつくかもしれません。お出かけするなら今日のうちに」なんて言ってましたが、ほんとうに小雪が舞い始めました。池袋で開かれた伊藤比呂美さんの朗読会を終わって地下鉄を降りたら、空から白い粒々がぽつぽつと舞い降りてきました。
380 20051209 研究室にサンタが 講義を終えて研究室に戻ってみるとサンタが来てました。のまネコがちょこんと机の前の椅子に座っているではありませんか。しかも黒い瓶に「米」と書いてあるやつを持って。ふかふかののまネコです。サンタさんありがとう。
豆蔵さんとうちの娘が捕獲してきたちびのまネコは台北の東呉大学日本語系の皆さんに可愛がってもらっているようです。
379 20051208 耐震構造偽装問題 鈴木隆之さんのホームページを覗いてみるとロサンゼルスでもネットで日本の耐震構造偽造問題のニュースを把握しているとのことでした。最初は「さもありなん」と思っていたそうですが、しだいに驚きを増していると書いていました。
鈴木さんによると建築は経験が重視される仕事だそうです。その経験重視の現場が耐震構造偽装の設計図のままに建物を建ててしまったことに驚いている様子です。
これまで内閣が吹っ飛ぶような事件はいろいろありましたが、この耐震構造偽装問題はロッキード事件以上に国民生活密接に関連した問題ですから、予算委員会が開かれる来年1月2月の国会が大荒れになりそうな気がします。この事件とはまったく無関係ですが、こうした時期には内閣を揺さぶるような細かいニュースがぽろぽろ出てくるものです。すでにその兆候が現れているようなニュースを私はいくつか見つけました。
いずれにしても働いている人が投げやりな気持ちになるような世の中はいい世の中とは言えませんね。
378 20051207 武道館で 武道館の小田和正のコンサートに行ってきました。ゲスト?飛び入り?で矢野顕子とゆずが顔を出したのが楽しかったです。とくに矢野顕子は「すごい」って聞いていたけれども、レコードやCDだといまいちわからなかったのですが、ライブだと声の表情の微妙な感じがすごくおもしく、これが「すごい」って言われるゆえんだなって思いました。
それにしても、武道館というと大学の入学式や卒業式で出かけることが多いので、客席は「おばさん」ばかりっていうのはなんだか保護者会にいるような気分でした。圧倒的に50代40代の女性の観客が多く、ま、私の「おばさん」のひとりなんだけど、なんというか、へんな気分でした。この気分をいったい何と言ったらいいのだろうかしら?
377 20051205 スープのだま 朝のうち、ぼんやり曇っていた東京にしっとりとした冷たい雨が降りました。寒くなりました。子どもの頃、こういう寒い日にはよくコーン・スープを作ってもらいました。
小麦粉をバターでいためてホワイト・ルーを作り、コーンの缶詰(クリーム状)と牛乳で作るスープです。小麦粉をバターでいためる作業が難しくて、なかなか滑らかなホワイト・ルーになりません。ところどころに小麦粉のかたまりが出来てしまうのです。それで、出来上がったスープにも小麦粉の粒が入っていました。これを「だま」といいました。
「だま」はコーン・スープに混じっていると、コーンの粒とよく見間違えることがありました。コーンの粒だと思って食べてみると、ねちゃと柔らかくはじけて、時には粉っぽい味がすることもありました。お料理としては失敗なのですが、でも、私はこの「だま」が好きでした。いや、今でも暖かいスープの中の「だま」が好きです。買ってきたコーン・スープや、お店で食べるコーン・スープには入っていない「だま」は家で食べるスープの味の大切な一部分です。
もし、お店で食べるスープに「だま」があったら、なんだかすごく損をしたような気がするのに違いないのです。でも、家の味はそんな失敗もいいものになります。寒い日にほっとするのは「だま」の入ったコーン・スープです。
376 20051204 復旧しました。 完全に復旧したわけではありませんが、ともかくも復旧しました。豆蔵さん、ありがとう。ちょうど、バック・アップをとっておかなくちゃという話をしているやさきのサーバーのパンクでした。こういうことがあるのですね。
374 20051203 豆蔵さん奮闘中 昨日の不通はサーバーに問題があったようです。で、復旧はさせたのですが、11月23日以降については消えたままになってしまいました。現在、豆蔵さんが復旧のために奮闘中です。「はてさてどうなりますやら」なんて言ってましたが、頑張ってください。期待してます。
って、これをアップしている間にちょうど復旧してもらったみたいです。どうもありがとう!!!
371 20051203 なにが起きたのか解らないのですが 昨日からHPを開くことができなくなっていました。なにが起きたのか、今のところ解りません。で、昨晩、開くことはできるようになりましたが、今度は11月23日以降に掲載した記事が全部消えてました。
豆蔵さん、いったい何が起きたのでしょうか?
サーバーが何らかの理由でぶっ飛んだ、というのが端的な答えであります。一度消えた(2日午前中)後、きれいさっぱりなくなっていたので復旧(2日19時)したものの、サーバーの管理会社がバックアップを発動させたためにまた戻ってしまったものと考えられます。
できる限りの復旧は試みますが、11月26日以降、画像がない分の日記は修復できないかもしれません。(豆蔵)
372 20051202 台湾の土産 12月になってしまいました。台湾のお土産はからすみ。台湾はからすみの産地なのです。乾物を売っている問屋街にはからすみもたくさん出回っているそうですが、今回は行けませんでした。
これは空港で500元で買ったもの。もっちりしてました。お正月にとっておこうなんて殊勝なことは考えずに、もうみんな食べちゃいました。お茶漬けに最高! なんてね。 372.jpg
373 20051201 台湾の豆2 なかなか台湾キャラバンのトピックスをまとめられません。もうちょっと待ってください。台湾の豆2です。台東で水が低い土地から高い土地に流れるという奇観に連れていってもらいました。で、水野さんはたまたまあるポイントに立ち、ほんとうはその流れはくだりの阪を流れているのが一目で分ってしまったそうです。でも、その流れには「もしこの流れの不思議さが理解できなければ、それは心がにごっているからだ」と立て札に書かれていて、みんなで「ううん」。どもう目の錯覚を利用しているようなのですが、私にはからくりは分かりませんでした。
で、写真はその流れのふちにさいていた豆の花。夏場ももっとびっしりと黄色い豆の花が咲いていたそうです。台湾も寒くなったというメールを東呉大学の呉先生からいただきました。 373.jpg
375 20051128 これが桃太郎です 横浜の骨董市でいちばん買おうかどうか悩んでしまったのがこの桃太郎です。お膝からももへかけてのむちむち感、肩のふっくらしたところ。おじさんなのか赤ちゃんなのかよくわかんない顔。でも気に入っています。家に持ち帰ったらあんのじょう、家では「どうして、こんなものをかったの!?」と言われてしまいました。でなぜか、この桃太郎を見た息子と娘は「おかしい」と言って笑ってました。だからいいです。 375.jpg
370 20051125 うちのマンションは大丈夫か? 構造設計偽造で「うちのマンションは大丈夫か」と言う相談が建築士団体へ殺到しているそうです。で、鈴木隆之さんはこの件でなにか言っているかなとホームページを覗いてところ、現在はロサンジェルスの大学で講義中ですが、日本のラジオ局から出演交渉があったと書いてました。ロスでは出演は無理。でも起きるべくして起きた事件だとも書いてました。やっぱり。誰だって姉歯建築士だけがへんなことをしているとは思わないでしょう。で、うちのマンションは大丈夫なのかしら?
ところで、会社を定年退職した世代の男性の言葉使いの荒っぽさとかぞんざいさとか、とのかく乱暴で、自分よりも立場の弱い人にはかさにかかって喋るという癖にはいろんな場面でずいぶん悩まされてきました。会社の看板を背負っていればこその物言いがそのまま出ているんだなあと呆れることもありました。でも、その会社ってずいぶん荒んでいるところなんだなあと、なんだか被害者感情を通り過ぎて痛ましいような気持ちになってしまうことすらあるのです。
そういうことからも、へんな仕事のしかたをしているんだなあと感じたことがしばしなあります。で、ほんとうにうちのマンションは大丈夫でしょうか?
娘に言わせると「私が生まれる前から建っているんだから大丈夫でしょう」ということでした。築25年だからね。確かに彼女が生まれる前から建っています。
369 20051124 台湾の豆1 台東の旧駅に続く道になっていた豆です。葉の形状は合歓の木ににているのですが、なた豆みたいな豆がたくさんなっていました。大きさを実感できる写真をとりたくて、集英社「すばる」編集部の水野さんに持ってもらいました。こんなのが頭の上に落ちてきたら、痛いだろうなあって思うのですが、台東の駅舎が郊外の新しい駅舎に移動するまでは、この大きな豆がなる木がメインストリートの並木になっていたのです。以前、書いたジャスミンの香りがしたのもこの通りでした。
(連絡事項)東呉大学院生のみなさんへ 本日ようやくのまネコを発送しました。遅くなってごめんなさい。来週初めには着くでしょう。 369.jpg
368 20051123 あれとこれが頭の中でこんがらがって これまで原稿を書くときは超保守的なパソコンの利用をしてきました。というのも慣れた作業じゃないと自分のコンデションを把握できないからです。
ウィンドウズに送ってもらったインタビューの文字データを超漢字に送り、20×20の縦書き原稿に流し込んで、それから規定枚数の原稿にするという作業をしてみました。締め切りまでの時間がないので苦肉の策だったのですが、結果としては逆に時間がかかってしまいました。が、この方法は慣れればかなり有効であることも解りました。なにしろテープを起こした原稿をそのまま原稿用紙に流し込んで利用できる利点があるのです。
120枚の原稿を16枚までに縮めました。で、作業の途中ではメモ機能をしおり代わり付箋代わりに使ってみました。来週も同じ方法で座談会の原稿を作ってみるつもりです。
で、秋葉原。もうちょっと探検してみたいなあと思い出しています。それから昨日、「すばる」(集英社)の水野さんから電話があって台湾キャラバンの原稿は旅行の部分も含めて書くことになりました。けっこうまとまった原稿です。で、そうなると「豆畑の友」のトピックスは文学フリマを先にしたほうがよさそうだという気になってきました。ええとあれとこれと、あっちとこっちで頭の中がこんがらがっています。パソコンの使い方新機軸に挑戦というのもこんがらがる原因なんだけど。
そういうわけでトピックスは「文学フリマノート」から掲載します。
367 20051122 一般来場者1000人 文学フリマのホームページの事務局通信によるとフリマの来場者は1000人。出店者200人。いずれも概算でそのくらいだそうです。
ふつう主催者発表というのはいささか多めの見積もりの発表が多いのですが、こと文学フリマに限ってはかなり慎重な見積もり、少なめの見積もりなのではないと思います。といいますのもブースは160あったのですが、ひとつのブースに2人以上の出店者が来ているところが多かったかでです。もっとも、来場者と出店者はそんなに簡単に分けられるものではなさそうです。
お店を出しているどうしが、ほかのお店を覗きにいったり、一年ぶりにあう人と挨拶をしている人がいたりと来場者、出店者入り乱れる文学フリマでした。でも実質5時間で1200人はすごいなあ。
366 20051121 文学フリマお手伝いお礼 文学フリマでお手伝いいただいた梅沢先生、大西さん名古屋君、豆蔵さん、未兎さん、どうもありがとうございました。おかげさまでたくさん本を買ってもらうことができました。お礼申し上げます。
(連絡事項)法政大学のゼミ生の皆さん。ゼミ誌は人気で完売しました。
365 20051121 秋葉原の文学フリマ 土曜日に恒例の日大院生の諸君とフィールドワークに行ってきました。夏休みに挙行の予定だったのですが、台風の接近で延期になってました。今回は日が短くなっているので皇居周辺を街並みの変化に注意しながら歩きました。
で、聖橋の上から秋葉原を眺めてみると、煌々とした巨大ビルが三っつも見えました。明るいビルで、すっきりとした色合いの光です。電気街のネオンサインで色とりどりに輝いていた昔とは違います。神田明神の境内からも秋葉原の巨大ビルを眺めることができました。
以前、文学フリマの事務局長の望月君に秋葉原を案内してもらったことがありました。やはり日大のフィールドワークでしたが、考えてみるとあれが古い秋葉原の見納めでした。戦後の街。秋葉原はそう行ってもいいと思います。津島佑子さんの話だと昭和20年代はまだ野原だったということです。東京の東側にはところどころに火伏せのための野原があったのです。そこに電気屋さんができてあれよあれよというまに大きな電気街に育ったのは昭和30年代だったとのことでした。
秋葉原の再開発は渋谷のビットバレーよりも実際的な要求に沿っているように見えます。で、日曜日にその秋葉原の中小企業振興会館で行われた文学フリマに行ってきました。出店者です。一言で言って想像以上の賑わいでした。なにしろ、開場前の行列が凄かった。詳しくはトピックスで。豆蔵さんがフリマの様子を写真にとってくれているはずです。
364 20051119 文学フリマ 11月20日に秋葉原で行われる文学フリマに出店します。販売するのはこれまでの文学者キャラバンの資料集(全部がそろっているわけではありませんが、かなりの種類があります。)私のゼミの雑誌。「法政文芸 創刊号」「私小説研究」「現代文学研究」などの研究誌です。
詳しくは文学フリマのホームページをご覧下さい。
363 20051119 汁なしワンタン麺 台湾はおいしいという宣伝文句をよく耳にしますが、ほんとうにおいしかったです。一番、おいしくなかったのは(まずかったわけではないのですが)大きな料理屋さんで食べた宴会料理。あとで聞いたら、そのお料理がいちばん高価だったそうです。写真は汁なしのワンタン麺。お皿のふちに載っているのがワンタンです。で、このおそばがとてもおいしかったのです。ワンタンも茹でただけでしたが、しっかりした味で、具もいっぱい入っていて、こういう食べ方もいいなあと思いました。 363.jpg
362 20051118 お堀の夕焼け小焼け しばらくは寒い日が続くようです。なんだか、寒い日がすきです。ずっと暑いよりも寒いほうがほっとします。ちょっとくたびれています。10月11月とあっちこっち駆けずり回ってましたから。
娘が自動車を運転して出かけました。夏休みに免許をとってから初めてのお出かけ!ううん。なぜかおしめをした赤ちゃんがハンドルを握ってにっこり笑っている姿が浮かんでしまいます。
夜は帝国ホテルでパーティの予定でしたが、ハンドルを握っているベビーの映像がしきりに瞼に浮かんで、パーティには出かけずに家に帰ってきてしまいました。ああ、道路って恐ろしいところだったのね。昔の赤ちゃんがみんなで運転しているなんて。そんな感じのする一日でした。
市谷から飯田橋へかけてのお堀端から眺める新宿方面の夕焼けは、この季節がいちばん冴え冴えとしています。気の早いデパートや商店街がそろそろクリスマスデコレーションになり始めました。
361 20051116 ベランダのブーゲンビリア 台北の植物は沖縄とよく似ています。隣り合った島だから当たり前といえば当たり前なのですが、台北のほうがずっと元気良く育っています。台北の裏町のベランダでブーゲンビリアがたくさん花をつけていました。写真はありませんが、台東の街ではジャスミンの花の香りが漂うとおりがありました。お茶の匂いではなくて生のジャスミンの香りです。 361.jpg
360 20051115 寒い朝 今朝の東京は気温12度です。北海道や東北では雪が降っているそうです。12月くらいの気温ということで寒い朝です。朝方、地震がありました。20センチから50センチの津波が東北から関東沿岸に到達しています。紀宮さんの結婚式です。
地震とは関係ないと言えばそうなんですが、この宮様が御降嫁になろうとすると、日本列島がくらくらと揺れるような気がします。ひょっとすると女性天皇と内親王による宮家の創設が検討されていますから、御降嫁になるのは紀宮さまが最後ということになるのかもしれません。旧弊な女官なら「海山がお嘆きになっている」なんて言うのでしょうか?偶然の符合なのですけど。
359 20051113 茅野裕城子さんの台湾みやげ 写真は台湾の少数民族タオ族の船の模型と台湾のセブンイレブンで買物をするたびにくれたデズニーランドのフィギュアです。茅野裕城子さんがおうちでお留守番をしていた小学生のお子さんへの台湾土産の写真を送ってくれました。
茅野さんのお子さんは、白雪姫が皆に二列に並んで乗船を待つようにしている場面を作ったところをパチリと撮影して送ってくれました。白雪姫がほかのみんなに指示を出しているところがとってもかわいいです。台湾にはたくさんのセブンイレブンや全家便利店(ファミリーマート)があり、キャラバンのメンバーは毎晩、何かしら買物に行っていました。 359.jpg
358 20051112 木枯らし一番が吹きました 東京に木枯らし一番が吹きました。例年よりも一日早い冬の到来だそうです。東京はすっかり晩秋の気配です。
(連絡事項)東呉大学院生の皆さんへ
うちの娘と豆蔵さんがのまネコの小さいのをゲットしてきました。さすが豆蔵さん。一発のゲットだったそうです。東呉大学の院生の皆さんにお送りするノマねこがこれでできました。明日、荷造りをして明後日もしくは火曜日には郵便でお届けするようにします。
357 20051111 銀の波 台北から台東までは列車で行きました。華蓮から先は単線の旅です。台湾の東側は中央山脈がすとんと海に落ちるような地形をしています。列車は華蓮まで、海岸沿いを走ります。きめの細かい砂で埋め尽くされた海岸が無防備に太平洋に開いていました。
華蓮あたりから太平洋と中央山脈の間に走っている襞のような山地に入ります。3000メートル級の山々が並ぶ中央山脈の山の稜線が弧を描いて、石ころだらけの川原が広がる谷に落ちています。川は枯れ川か、もしくは石だらけの川原の中に細い流れがあるかでした。日本の川で言うと大井川に似ていました。ひとたび雨が降れば、山の斜面を駆け下りた水が川幅いっぱいにごうごうと流れる様子が目に浮かぶような川原でした。
そうした川にも穏やかな背もある様子で葦がいっぱい茂っていました。銀色に輝く穂が一面に広がっていました。葦の穂はさわさわと、高い山から下りてくる穏やかな風にそよぎながら、日差しをいっぱいに浴びていました。銀色の波でした。枯れ川の中にたつさざなみでした。
台北から台東まで行きは4時間半、帰途は6時間の列車の旅でしたが、その景色が変化に富んでいたので飽きることなく凄くことができました。台湾でも新幹線の試運転に成功したそうです。東シナ海側の台中から高雄にかけては平野部ですからもうすぐ新幹線も走るでしょうけれども、太平洋側はまだしばらくのんびりとした列車の旅ができそうです。
(連絡事項)東呉大学院生のみなさんへ、うちの娘が今日、のまネコの捕獲にでかけて行きました。しかし、もうのまネコはいないかもしれません。流行のはやり廃りが早いのでUFOキャッチャーのぬいぐるみもどんどん変わって行くそうです。期待しないで待ってください。
356 20051110 東呉大学 今回の台湾キャラバンでは、東呉大学の日本語科の皆さんを対象にしたパネルデスカッションを開きました。日本語を学ぶ学生を対象にしたプログラムは初めての試みでした。通訳なしで日本語をどのくらい理解していただけるのか、やや心配でした。しかし、充分に準備をしていてくださったおかげで、日本語のスピーチを理解していただけたようです。
日本から同行した法政大学の院生が、いつもの授業よりも解りやすかったとあとで言ってました。日本国内で授業をするよりもゆっくりと喋ったんですが、たぶん、それがいつもの授業よりも解りやすかったということになるのかもしれません。
これは私だけではありません。このプログラムに参加した松浦理英子さん星野智幸さん津島佑子さんも、さらには司会をした川村湊さんも共通していました。私にとってもいつもよりもほかの人の発言が理解しやすかったのです。私たちは日ごろ、日本語をあまりに早いスピードで喋りすぎているのかもしれません。個人的に言い訳をすると、講義はゆっくりと理解しやすい速度でやるのがいいのかもしれませんが、そうすると寝ちゃう学生も多いし、けっこう悩ましいです。
日本に対する関心はサブカルチャーやアニメーションに向けられているというのが、呉先生のお話でした。実際、台北でも「恋のマイアヒ」が流行しているようなので尋ねてみると「そら耳」ソングなのだそうです。で、はやっているのが「のまネコ」ならぬ「のまタコ」だそうです。いったい「のまタコ」とはどんなものなのか実物はみませんでした。
355 20051109 台北のサンダル 台北に到着した日は肌寒いほどだったのですが、翌日からは30度ほどの気温でした。街を歩いている人の足元を見ると、サンダルの人がかなりいました。流行をさきどりしてブーツという人もいるにはいるのですが、これはちょっと無理が過ぎるような感じです。
で、サンダルを探してみました。ある。ある。いろんなタイプのサンダルがありました。欲しいのがたくさんあったんですけど、一足だけ買って、それで街を歩き回っていました。どこの街に行っても同じような品物を売っている時代になりましたけど、足元だけは、気候風土がかなり影響するようです。
以前、北陸でかった雪道用の靴がダメになっちゃったんですが(ま、20年も履けばそれも無理はないか)また雪国に言ったら雪国の靴を買おうと思っていたのに、サンダルを先に買ってしまいました。
354 20051108 キャラバン アジアの作家との対話の旅をキャラバンと呼び出したのは2002年のインドからだったと思います。もともと、とくに定まった名称はありませんが、今回の台湾旅行も目的は台湾の作家との対話でした。
最初は1991年東京で韓国の作家との会議(シンポジウム)を開催しました。このときは、私は参加してません。その後1993年済州島05年松江07年慶州2000年青森2001年原州と6回ほど韓国との会議に参加しました。2001年は北京で中国の女性作家との交流と会議も開催しています。ちょうど、9・11のテロ事件があったときでした。2002年にはインドとの会議をカルカッタ、ニュー・デリー、バンガロールと開いています。都市を巡る形式からキャラバンという言い方が生まれたように記憶しています。2003年には山形でインドの作家との会議を開催しました。
日本国内で開催する時にはたいてい公開のかたちで一般の聴衆も集める形式ですが、相手国の場合はクローズばかりでした。こうした会議や対話は、毎回、そのたびに実行委員会を作ったりして、やっているので統一名称や正式名称はなにもなくキャラバンという単純な呼び方が定着してます。今回も台湾の作家との「キャラバン」でした。
2001年北京の時は9・11のテロに遭遇したのですが、今回はフランスの暴動を日本の新聞の衛星版で知りました。ヨーロッパの暴動は数年前から繰り返されていますが、今回はじわじわ広がる火のてのような具合でそう簡単には収まりそうにありません。場合によっては中東北アフリカを巻き込んで行きかねないので注視しています。そう言えば1997年の慶州では、帰国直後にアジアの通貨危機が起きて韓国がIMFの管理下に置かれるという大事件もありました。このキャラバンは世界の歴史が動く転換点に接しているという偶然が何度か重なっています。
353 20051107 豆蔵さんありがとう 豆蔵さんありがとう。台湾から昨日午後の便で戻ってきました。日本の秋の冷たい雨が、なんだか肌によく馴染みます。
台湾に出発する前に受けた連絡では気温は25度から30度ということでしがら、到着した日はやや肌寒いくらいで、上着を買わなくちゃいけないかなあと思いました。が、翌日からは30度を越える暑さ。時間が夏休みに逆戻りしたかのようでした。台北、台東と回ってきました。台湾の作家との対話についてはトピックスに掲載します。
台湾も台北も初めてなので、故宮美術館くらいは見なくちゃいけないかなと思ってはいたのですが、あんまり時間を細切れにしたくなかったので、6日午前はホテルでのんびりしてました。紗のカーテンの向こうで、隣のビルの白い壁に映った棕櫚の影がおしゃべりでもしているように揺れているのを眺めていました。
(連絡事項)東呉大学の皆さん、のまネコの写真をお送りしますね。少し時間がかかるかもしれませんが待っていて下さい。
352 20051106 うちのケヤキは…… 午後の便で帰国します。写真は10月27日に撮影したうちの欅です。今年は紅葉が遅れていましたが、それでも、いささか色づき始めていました。一週間でどのくらい紅葉がすすむのか、楽しみにしています。 352.jpg
351 20051105 たびうさぎ 昔はおばあちゃんしかはかなかったような靴下足袋をこの頃は若い人が履いています。で、足袋のうさぎ。足袋って気持ちいいです。台湾の旅も予定どおりなら、台東まで南下して今日はふたたび5時間汽車に揺られて台北に戻るはずの日です。 351.jpg
350 20051104 おともうさぎ いつだったか東京駅の売店でみつけたうさぎのブローチです。ほかに亀とか蛙なんかもありました。ブローチはスカーフを止めたりするのに便利なので、こちらは素焼きのうさぎと違って、いつもおとものうさぎです。 350.jpg
349 20051103 お留守番うさぎ 薔薇の鉢植えのしたに隠れているのがうちのお留守番うさぎです。素焼きなので、だんだん、小さくなっているような気がするのですが古びるほど、ほんとうのうさぎみたいに見えてきました。
というわけで私は台湾旅行中で、「豆の葉」のアップは豆蔵さんにお願いしています。 349.jpg
348 20051102 うちの秋 あっちこっち飛び回っているうちに、家のベランダのすすきの穂が出揃ってしまいました。ベランダにすすきを植えているうちなんてそうないので、穂がでるとちょっと自慢です。来年の春にはこのすすきに似合った銅製の植木鉢を見つけてやろうと思っています。 348.jpg
347 20051101 大阪土産はケジャン 鶴橋の市場を覗いてきました。しばらく見ない間に焼肉屋さんが立派になってました。ケジャンは渡り蟹をつけたものです。冬の間がおいしいらしい。で、これで鍋を作って、最後にうどんを煮るとほんとうにおいしいのです。とくに鶴橋のケジャンはおいしい!
大阪のお土産はケジャンとアマダイ入りのチヂミでした。アマダイ入りのチヂミは写真を撮っておけばよかったと思ったときはもう食べてしまったあとでした。 347.jpg
346 20051031 一夜明ければ雨 昨日の夜景とほぼ同じ方向を翌日の朝に撮影したものです。大阪の北や中ノ島の高層ビル群がなんだか雲がいたずらして作った蜃気楼のように見えました。 346.jpg
345 20051030 箕面温泉 大阪のシンポジウムのあと箕面温泉に泊まりました。
以前、同じマンションに住んでいた人が大阪の箕面に越したので「箕面温泉」と聞いた時にはにわかに信じがたい感じがしました。住宅地を想像していたからです。
淀川の流れる平野がゆっくりと山地に登って行く箕面は昔は別荘地だということでした。夜景を写真に撮ったのですがぼけぼけになりました。説明なしではなんだかわかりせん。説明があってもなんだかわからないかしら。
とほほほ。 345.jpg
343 20051029 豆蔵さんお留守番をお願いします。 今日、成田の図書館で講演をします。それから成田に一泊して明日の昼の便で台湾に出かけます。豆蔵さんに留守中の「豆の葉」のアップをお願いしました。豆蔵さん、お留守番よろしく!
台湾といえば台湾バナナなんてね。子どもの時、幼稚園に入る前のことですが、週末にバナナを一本買ってもらうのが楽しみでした。台湾バナナです。昭和30年代の日本では輸入が自由化されている果物で一般に親しみがあるのは台湾バナナくらいでした。けっこう高かったので弟と私で一本のバナナを半分づつにして食べてました。それでは行ってきます。
342 20051028 台湾に行きます。 10月30日から11月6日まで台湾に行ってきます。台湾は初めてです。その間「豆の葉」のアップは豆蔵さんにお願いします。なんだかちょっとここのところ忙しかったのですが、「豆の葉」のアップを休まない日が多かったのでお留守番をお願いする豆蔵さんだよりでちょっとずつアップしておこうと思っています。
でもまだ、ぜんぜん、「豆の葉」の原稿を作ってませんから、少々、予定原稿が足りないなんてこともおきるかもしれません。その時はごめんなさい。
もともと、ものを書くのは好きでしたが、なんといったらいいのか「気楽にものを書く時期がすごく少なかったなあ」とHPに「豆の葉」は書き始めてから感じていることがあります。すごい緊張して文章を書いてきたんだなあと、そんなことをたまに思います。まあ、それにしてもすごいタイピングミスのある「豆の葉」です。「ばかざわ」(NとBを打ち間違えた)に至ってはもう伝説的ですが、これからもどうぞよろしくお願いします。
今夜、これから留守中の予定原稿を作ります。
341 20051027 外は雨。 土曜日、日曜日と大阪に行っている間、東京は良いお天気だったようです。大阪は雨が降ってました。もっとも晴れ女の津島佑子さんと一緒だったので、表を出歩く時間帯は雨がやんでいるという都合の良さです。ほんとうに晴れ女とか雨男っているんですね。
きょうは雨。昨日から微妙な降り方をしています。いささか冷えた雨で、家から見える雑木林の樹木がしだいしだいに色づいて行きます。これで雨が上がって気温が冷えたら、もう色とりどりに染まるのでしょう。
昨日、市谷の土手を歩いていたら、小雨の中、土手の植栽の手入れをしていました。生い茂った葛の葉や蔓をかったあとのかぐわしい匂いが湿った空気の中を漂っていました。
340 20051026 カラフル 大阪のシンポジウムは盛況でした。そしてなぜかカラフル! 特別に打ち合わせをしたわけではありません。時々、司会者の人やほかの出席者(女優さんなどがいる場合にとくに)着る服の色を問い合せてきたりするのですが、今回はそんなこともなく、でもカラフルってことになりました。
テーマは「女が書く 女が読む」でしたが、実際はどうやって原稿を書いているのか?という話題が多くて、大笑いの連続でした。「夜書くのか? 昼書くのか?」そういう質問から始まりました。この質問はよく聞かれる質問のひとつです。でも女性の書き手にとっては原稿を書く時間をどこで確保するのかはかなり切実な命題でもあることは確かです。「原稿を書く時はなにを着ているのか」これは質問ではなくて話の自然な流れで出た話題ですが、「パジャマで」というのはどういうわけか四人とも一致してました。「書けないときはないのか?」という質問に小川さんは「一字でもいいから書くと先が開けてくる」というお答え。これも同感でした。
しかし、なんで一番太っている私が膨張色を選んじゃったんだろう? ううん、これって何も考えていない証拠ですね。 340.jpg
339 20051025 今夜は少し冷えます 軽井沢に旅行に行っていた娘が帰ってきました。軽井沢でも今年はまだ紅葉が見られないようです。でも、今夜の東京は少し冷え込んでいます。
だんだんと春や秋が少なくなって、やたら暑い夏とぼんやり寒い冬ばかりになってしまうのでしょうか?
帰り道にある花屋さんで綿の実を売ってました。ドライフラワーです。棘がある綿の実の殻はじけて、中から真っ白な綿が覗いていました。
いつだったか「豆の葉」で紹介して江古田の駅前のプラタナスですが、今日その樹の前を通りかかったらものすい勢いで芽を伸ばしていました。びっくり芽に近いひょろひょろと長く伸びた枝には、不似合いに大きな葉っぱがついていました。樹も必死なのでしょう。
338 20051024 野球の話二題 大阪女性文芸協会のシンポジウムでご一緒した小川洋子さんは阪神ファンだと知りました。で、対ロッテの日本シリーズ第一戦の結果は10対1のまま濃霧のためにコールド試合になりました。ファンというのはあんなに落胆するものかと感心するくらい小川さんは落胆してました。優しい小川さんの落胆を見ていると、慰めの言葉もないくらいです。
「千葉ってそんなに霧が出るところなんですか?」
と小川洋子さん。
「まれに、ごくまれに冬の早朝などに濃霧が発生して羽田空港が閉鎖になったりはしますけど・・・」
そうめったにないことです。秋の夜に濃霧なんて。しかし、土曜日午前中の新幹線で「今夜、日本列島上空に寒気が流れこむ」の電光文字が光ってました。それが濃霧を生むなんて思っても見なかったのですが。
小川さんには申し訳ないのですが、帰りの新幹線で近くの席の人が読んでいたスポーツ新聞には「虎 悪霧」の文字が、そして一面トップの写真は朦朧とした霧でした。ああ、せっかく大阪にいたんだから、大阪駅で阪神よりのスポーツ新聞を買うんだったとちょっと後悔。あの濃霧の写真だけでも、新聞を買って保存しておく価値がありそうでした。
電光掲示板のニュースは「法政 秋季リーグ完全優勝」の文字が流れてました。関係している学校が優勝するとやっぱりうれしいです。法政応援団の虎ちゃんはきっと優勝パレードの準備で忙しいんだろうなと、喜んでいる顔を想像しました。
喜ぶ人もあれば落胆する人もあり。でも、家に帰って日本シリーズ第二戦の10対0の記録を見た時には、我が目を疑ってしまいました。
337 20051023 石割さくら 盛岡といえば裁判所前の石割ざくらが有名なようで、ホテルでもらったパンフレットにも記述がありました。今年は紅葉が遅いようでまだ青々としていました。この石割ざくらが満開になったところをみたいものです。 337.jpg
336 20051022 立派なつげの樹 

盛岡の県民ホールの前で立派なつげの樹を見つけました。こんなに大きくてしかも丸く刈り込まれているつげの樹は初めてみました。赤い実がたくさんついていて、ちょっと変わったクリスマス・ツリーみたい。
334 20051021 終わって初めて解ること フランス自然主義を矮小化して受容した日本の自然主義ですが、これが私小説を生み出します。私小説にはいろいろな議論があるのですが、結局のところ、近代的な文章で語られる叙情を生み出すという役割を大きく果たしたのではないでしょうか?
鴎外は「ウィタセクスアリス」を書いた翌年に「青年」を書いています。このニ作品を読むと、鴎外は自然主義が科学主義的態度で社会を観察して書くという自然主義の方法を理解していたようです。で、その限界にも気付いていて、「青年」以降は歴史小説を書くようになります。
ところが、フランス自然主義文学を矮小化して捉えた日本の近代文学は告白と描写を組み合わせることによって、近代的叙情を切り開いて行きます。これは日本の発明でした。たぶんそういいきってかまわないと思います。言語改良運動は、どうしたって旧来の叙情を殺してしまうものですが、観察という方法論は告白と言う主観表現を呼び込むことによって、叙情の再構築を可能にしたと言えるでしょう。
近代文学は終わったというのは90年代に入ってからの文芸評論家の意見でした。気短な批評家は文学さえ終わってしまったかのような極論さえ唱えましたが、終わって初めて理解できることというものがあると思います。今、鴎外の「青年」を読むと、近代文学の終焉の時の諸相が早くも鴎外が予想するところになっているのに驚かされます。が、その鴎外の自然主義が私小説を生み、それが近代の散文的叙情を構築するという展開は予想できなかったようです。韻文あるいは韻は踏んでいたくても詩的な叙情についてはこれとは別な展開があったようですが、そのあたりは詳しくないので、今度、詩人の城戸朱理さんにあったら聞いてみたいと思います。
そうそう城戸朱理さんのブログを見つけました。骨董市の買い物日記がおもしろいです。
333 20051020 ゾラ・バルザック・フローベール 文芸評論家の秋山駿さんが「歳をとると中学生頃までに読んだものをくりかえし読むようになるんだ」とお話してたことがあります。秋山さんはドストエフスキーでした。ドストエフスキーは大事に思っている読者が大勢いるようで、うちの娘の「ガンバッテ」読んでいました。私の場合はドストエフスキーはやや苦手で、ロシア文学ならチェーホフでした。
若いときってよくもわるくも「本気」で読んでしまうのですね。その「本気」が歳をとってからくりかえし読む原動力になると言うことがこの頃わかってきました。
で、鴎外の「青年」を読んでいると、やはり自分が馴染んだのはゾラであり、バルザックであり、フローベールだったんだなあと思いました。そんなに研究したというわけではありません。大人の本が読めるようになったばかりの頃に、なじみを感じて読んだのがそういうフランスの自然主義作家の作品だったのです。それが日本文学にも影響を与えて私小説を生んで行く道筋が、目に見えるような感じがこの頃してきました。高い丘の上に上って歩いてきた道を眺めているような気分です。
332 20051019 森鴎外の「青年」 森鴎外の「青年」を読んでいます。以前、読んだ時にはこの小説が日本の自然主義批判だとはまった気付ませんでした。が、読み返してみると、この小説が書かれた当時のフランスの様子なども視野に入れた自然主義批判なのです。フランスではフローベールもバルザックもゾラも登場してしまって自然主義はいささかの行き詰まりを見せているのに、日本では盛んに自然主義を唱えているという状況の中で話はすすんで行きます。そういう視点で読み返すとおもしろことがたくさんあります。
日本の自然主義は「観察して写生する」つまり描写という方法を文学に根付かせました。そこから私小説も生まれてくるのです。私小説は近代の叙情を生み出す上で大きな役割を果たすことになったというのが、私の考えです。鴎外はこうした発展は予想してなかった様子なのも「青年」の読みどころです。私小説が生み出した叙情が形式を備えるのは1950年代なのではないかという仮説をたててます。そして、その叙情の形が大きく崩れて行くのが1980年代だとするという仮説を立ててみています。こうした仮説を考えるうえで、鴎外の「青年」には示唆的なものがたくさんあります。
331 20051018 外堀土手の枳殻の実 法政大学の前にある外堀の土手はいつ歩いても気持ちが良い道です。この土手にはいろいろな樹が茂っています。枳殻の木も何本も生えています。そのなかで毎年黄色い実をつけるのは飯田橋寄りの一叢です。たぶん日当たりの関係なのではないかと思うのですが、この一叢だけはたわわな実りがあるのに、ほかの繁みはとげとげの枳殻の木で、ほとんど実はついていません。
枳殻の実がたくさん生っていたでしょうと言っても気がついている人はほとんどいません。あら、そう?っていう返事が帰ってくるだけです。誰も見ていなくても枳殻は毎年ちゃんと実をつけています。 331.jpg
330 20051017 先生こんにちは 盛岡に行く前に、法政大学の前の外堀の土手の上でちょっと休息中の勝又先生に出会いました。カメラを取り出すと「おや、また、なんでそんなものを持っているの。ああ旅行なの」と、おっしゃっている間にパチリ。こういう場所で出会うと文芸評論家の勝又浩氏というよりも「先生、こんにちは」と言いたくなります。「旅行」と言われても、盛岡に行って帰って合計18時間の移動なので「なんだかなあ」という感じでした。
こんなお天気の良い秋の日は、新幹線や飛行機で飛び回ったり、空調のあるビルの中で会議や講義をするよりも、土手の上でおしゃべりをしているほうが人生にとって有意義な気がするので、困ったものです。 330.jpg
329 20051016 最低気温9度・盛岡 13日夜、新幹線で盛岡に行きました。翌日、盛岡市内で講演をして、その日に夕方には法政大学で講義をしているというとんぼ返りの日程でした。
盛岡の最低気温は9度。最高気温32度の那覇から比べるとその差は23度。こんな温度差に堪えられるかしら?とやや不安だったのですが、今のところ風邪も引いていないようです。なんだか「ばかは風邪をひかない」という声が聞こえてくるようですが。
盛岡でも山では紅葉が始まっているということですが、平地はまだ赤く色づいている樹木は数えるほどしかありませんでした。今年は全国的に紅葉の時期が遅いようです。
328 20051015 ズームのおけいこ 近づいてくるゆいレールの車両はズームで撮影しました。3倍ズーム機能がついているカメラを持っているのですが、これまでどうやってズームを使ったらいいのか解らなかったのです。どうも機械のマニュアルが苦手で、使いながら、少しずつ必要なところを読んで行くというやり方で慣れて行くしかないような付き合い方をしています。今日の赤い花は、ゆいレールのしたの往来に咲いていた花です。
沖縄はまだ真夏でした。 328.jpg
327 20051014 ゆいレール 沖縄には戦前、軽便鉄道があったそうです。戦後は鉄道はまったくなく、自動車社会でした。その沖縄に那覇空港から首里までモノレールが走りました。ゆいレールと呼んでいます。空港から県庁前を通り、牧志から新都心のおもろまちを抜け、終点は首里です。おととしから
開業しています。これに乗れば空港から首里まで那覇周辺の主要な観光地を歩くことができます。なかなか便利で快適。写真は県庁前駅から空港方面を撮影しました。こうしてみると沖縄も変わったなあと感じます。 327.jpg
326 20051013 気温32度に戸惑う。 昨日、一昨日の那覇の最高気温は32度でした。一応出かけるまえに、ネットで最高気温と最低気温は調べていたのですが、なんだかぴんときません。那覇に到着したとたんにストッキングに革靴を履いていることが愚かしいと気付きました。それに帽子もサングラスも持参していませんでした。
ううん。数字で理解しているということと、実際は「ああ、帽子をかぶらなっくちゃ」とか「サングラスがほしいなあ」と思うのはなにか、違います。もともとあまり用心深いほうではないので、いつもこの違いに面食らって、なんて学習効果がないんだと我ながら呆れています。でも空港にいる人っておおかれ少なかれ、どこかちぐはぐなかっこうをしていますね。用心が足りないのは私ばかりではないかって、なんとなく、安心。
325 20051012 沖縄からただいま。 沖縄の那覇を21時に出発する飛行機で東京に帰ってきました。で、羽田到着は11時30分。キャビン・アテンダントの女性が飛行機の扉をいかにも重そうに開けて、扉の向こう側にいた地上整備員の人に「こんばんは」ときれいな声で言っていたのが印象的でした。そばらく「こんばんは」って挨拶を聞いていなかったような気がしました。
那覇は最高気温32度。那覇祭りの大綱引きが終わったばかりだそうです。最低気温のほうもまだ26度ありました。夜は幾らか涼しくなったと、沖縄タイムスの友利さんは言ってましたが、東京から飛行機で飛んだ感覚からすると、まだ真夏です。ああ、帽子とサングラスを持ってくるんだったなあと後悔することしきりでした。
カタアメ(方雨もしくは片雨でしょうか?)という言葉を教えてもらいました。空のかなたは晴れているのに、一部分だけ降る雨のことをカタアメというのだそうです。那覇ではここのところ、毎日、カタアメが降っているとのことでした。
324 20051009 うちののま猫 娘の部屋ののま猫が一匹増えていました。「米」とかいた酒瓶を持っているほうが新しくきたのま猫。そういえば昔「なめ猫」というのもいました。学生服を着た猫でした。酒飲みの歌がはやりだすと景気がよくなっているというのですが、「恋のマイアヒ」は酒飲みの歌なんでしょうか?金曜日の夜の終電に近い電車はこの頃、ずいぶん混雑しています。 324.jpg
323 20051008 もしもバトン 性懲りもなく、と言ってはまずいかもしれませんが豆蔵さんから「もしもバトン」というのが回ってきました。どうもこういうの苦手なんだなあ。質問は以下のとおりです。
1:理想の女(男)が記憶喪失で落ちている。
2:歩いていたらサインを求められた。
3:引き出しからドラえもんが出て来た。
4:殺し屋に「死に方くらい選ばせてやるよ」と言われた。
5:見知らぬ大富豪に遺産を遺された。
6:初対面で「B型?」と聞かれた。
7:預金残高が増えていた。
8:カモシカの様な脚にされた。
9:前に並んでる人に「俺の背後に立つんじゃねぇ!」と言われた。
10:「犯人はあなたです!」と言われた。
11:鏡を見たら目がヤギ目になっていた。
12:尻の割れ目が消えた。
13:偶然手に取った本の主人公が、明らかに自分だった。
14:モナリザがこっちを見ている気がする。
1:理想の女(男)が記憶喪失で落ちている。
落ちているって、どこに?道端かな?だとして、どうしてそれが理想の相手と解るのだろう?あ、そうか記憶を取り戻すお手伝いをしているうちに、だんだん理想の相手に見えてくるって(なんか、そんなの昔の映画に
ありました)
2:歩いていたらサインを求められた。
もしも、ではなくて、時々、ほんとにある。喜んでサインします。でも、私に著書以外の本を出すのは困ります。なんだか、本来の著者に怒られそうな気がする。
3:引き出しからドラえもんが出て来た。
とりあえず握手をする。
4:殺し屋に「死に方くらい選ばせてやるよ」と言われた。
そんなもん選びたくない。それって殺し屋の職務怠慢なのじゃないかな?そうだ、ものすごくめんどくさい方法を提示する。糖尿病で死んじゃうまでおいしいものを食べさせてくれとか。まずいものはパス。
5:見知らぬ大富豪に遺産を遺された。
喜ぶ。
6:初対面で「B型?」と聞かれた。
「A型」と答える。
7:預金残高が増えていた。
先週、実際にあった。狼狽した。よく考えてみたいら、原因がわかった。内緒。
8:カモシカの様な脚にされた。
嫌だ。だって上体が支えきれないじゃない。
9:前に並んでる人に「俺の背後に立つんじゃねぇ!」と言われた。
「順番を譲って下さい。どうもありがとう」と言う。
えっ、そういう話じゃないの?
10:「犯人はあなたです!」と言われた。
「?」でしょうね。たぶん。「私を虜にした犯人はあなたです」なんてことはなさそうだし。
11:鏡を見たら目がヤギ目になっていた。
ヤギの目ってどんな目なんだろう?
12:尻の割れ目が消えた。
きっと座りにくい。座りにくいから地下鉄で居眠りをしなくなる。
13:偶然手に取った本の主人公が、明らかに自分だった。
記憶喪失を疑う。最近、自分の書いた本の内容を忘れるようになっているし。それとも即座に「名誉毀損で訴える」ような内容なのかしら?
14:モナリザがこっちを見ている気がする
うん。前からそう思ってました。つい、「やあ」って挨拶をしてしまう。
以上ですがバトンはどうも公開しているホームページがない人に渡しても意味がないらしいというのが前回わかったので、
1、柳川寧々さん2、やさぐれプーさん3M君4太平洋ポロジェクトさん5番目は誰にしようかな?ええと、あやこさんかな。うん、そんなとこです。
バトンは回ってこなかったけど、柳川寧々さんのところにあった調味料バトンもおもしろかったです。けっこう調味料って個性があるものですね。
322 20051006 今年のお誕生日のプレゼントはシュレッダー 子どもたちがお誕生日のプレゼントをくれました。シュレッダーです。ごみの捨て方があまりにも無防備だと娘が言い出して、シュレッダーに決まったということでした。「クロスカットだからね」という四角い機械を買ってきました。
お誕生日のプレゼントって、こういう実用的なものって・・・・なんだか・・・・とかなんとか言っているうちにウイイインと動き出して・・・・娘と息子と私で思わず書類が裁断されて行くのに見とれてしまいました。これって何か買った時に似ているなあと、思い返してみると、子どもたちが小さい頃にかき氷器を買ったときと同じでした。あのときも、氷が削れる様子を三人で見とれていたのでした。もっともかき氷器は手動だったのでハンドルを回している私は汗だくでしたが。シュレッダーは電動です。
「これってさあ、この細かく砕いた紙なんだけど、生ゴミのバケツの底に敷いておいたら、水分を吸い取るからちょうどいいんじゃないかなあ」ってなことを息子が言ってました。確かにそれは良い利用法かもしれません。
321 20051005 アメリカ製のブラジャー 通信販売のカタログ。これを見るのがひそかな楽しみです。もっとも、うちの子どもたちに言わせると夜中でも無駄使いができる悪癖のもとってことになるんだけど。で、みつけました。アメリカ製のブラジャー。さすがは肥満の国。胸の大きな人のための専門メーカーっていうのに引かれて買ってみたら、これがすこぶる気に入ってしまいました。写真撮りたいなあ。
それで解ったのですが、日本のメーカーのブラジャーは胸の小さい人のための設計を、D80だとかF85まで同じつくりで作っているんですね。さらに最近は胸を大きく見せるのがはやりだから、そんなサイズには不必要なパッドまで入っています。
なんだこりゃです。ブラジャーというよりは、「鎧だ、これは」(><;)てな感じになっています。
通信販売で見つけたブラジャーはワイヤーで下部をしっかり支えてカップは薄手のレース。でもカッテングが正確なので、楽につけていられるんです。ま、ワイヤーの枠がついた網の中におっぱいが放り込んであるって状態です。しかし、これまでの経験だとこういうアメリカンサイズを探し出しても、すぐに「日本サイズに変更しました」なんて案内がきちゃうんです。
320 20051004 うちにものま猫がいました。 娘の部屋に入っていったら、ソファにちょこんと白い猫が座っていました。ははん。これがうわさののま猫だね。すぐ解りました。写真を撮ろうと思っていて、まだ撮ってません。二、三日中にお見せしますね。
で、いったいどこでのま猫を手に入れたのだろうと娘に尋ねると「FUOキャッチャーだよ」という返事。なかなかかわいいです。それに手触りが微妙に癖になる感じ。ほっぺが赤いのもいいなあ。
で、こののま猫を巡る騒動。なんだか釈然としません。著作権の問題でもなさそうです。ヤフーの掲示板をいくつか拾い読みしてみたのですが、たいへん感情的な感じで、うまく焦点がつかめませんでした。
319 20051003 小さいのが来た来た来た。 家の近所の熊野神社のお祭りがありました。我が家のマンションの前庭が子どもみこしの休憩所になっています。先頭はお囃子を載せた軽トラック、次は太鼓を乗せたリヤカーで、これに綱をつけて引いています。最後は小さいけれど立派なお神輿。
最初に軽トラックが賑やかなお囃子を奏でながら敷地に入ってきました。それからややしばらくして、太鼓の乗ったリヤカーの一団。さらにこども神輿が来たときはさあ、たいへん。ジュースをお菓子を配るテーブルに、お祭りのハッピを着た小さな子どもたちが、来る、来る来る。もう押し寄せるという感じです。2歳くらいの子から5歳くらいの子まで。ほんとどんどん押し寄せてきます。
「並んでください」とか「順番に」なんて言葉は通じない年齢の子たちで、目の色が変わっています。人間の狩猟本能はこんな小さな子の心にも勢い良く燃えることがあるんだなあと、押し寄せる身長70センチの軍勢にしばし呆然としている間にも、おててが次々と伸びて「お菓子ちょうだい」ともうてんやわんや。それにしても小さい人のエネルギーはすごいものでした。
うちのマンションでは子どもの数が減っているのですが、周辺には新築のマンションが増えて次々と子どもが生まれているみたいです。ここでは少子化なんていったいどこの国の話かという感じです。お神輿を担ぐのも押し合いへし合いで、おしくらまんじゅう状態でした。嵐のように押し寄せてきた一団はのどかのお囃子の音とともに、次の休憩所へ出発してゆきました。
318 20051002 ソウルの清渓川(チョゲチョン) ソウルの電気街の真ん中でどぶ川のようになり、あまりの汚さに暗渠となっていた清渓川の復元工事が終わりました。川の復元工事が始まる一年前に、私はたまたま近くのホテルに宿泊してました。そこは高架道路を一晩中、車が走り周り、周囲はこまごまとした電気の部品を売る商店が密集した街でした。半年後には高架道路がすっくり取り払われていたので、どぎもを抜かれました。
ずいぶん思い切った工事をするものです。今のソウル市長の考えだと聞いています。ソウル市長は次の大統領という呼び声もあるようです。
東京も高層ビルを建てるだけじゃなくて、日本橋の上の高速道路をなんとかとって欲しいものですし、神田川の上を走る首都高そのものをなんとかして欲しいと思います。首都高はできてから30年を越えるので、そろそろ架け替えが必要ですが、その時には設計を考え直して欲しいのです。民営化された道路公団に期待したいところですが、残念なのはソウルのような採算無視の工事はあまり民間会社には期待できないとこがあります。
復元された清渓川の写真は以下のあります。
↓
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20051001-04018398-jijp-int.view-001&kz=int
317 20051001 和光市の薔薇 和光市には薔薇を栽培している農園があります。和光市の農協直販所でみつけた薔薇です。茎が細く、背丈も短いので安いのですが、立派な薔薇よりもこちらのほうが家に飾るには心安らかで楽しいです。そろそろ秋の薔薇の季節になりました。 317.jpg
316 20050930 気持ちの良い日 さらりとした空気でお天気も良く、暑くもなければ寒くもない。こんな気持ちの良い日が2日も3日も続くのは一年のうちでそう何日もありません。
以倉紘平「夜学生」(編集工房ノア刊)をさる人からお借りして読んでいます。大阪の国語の先生をしていた著者のエッセイです。この本は新聞広告を見たときから読みたいと思っていました。かつての夜間高校の生徒たちへのオマージュ。90年代に入ってからの教員としての戸惑い。読んでいると触発されて思い出すことがたくさんあります。
少し飛躍した感想ですが「貧しい時代」に育った親が「豊かな時代」に生きなければならない子どもを育てるのはたいへんなことだなあと思わずため息が出ました。自分の稼いだお金を工面して少しでも学ぼうとしたかつての夜学生には、同情と共感を示す著者ですが、学校を落ちこぼれて夜学に回ってくる生徒とはうまく付き合えないのです。世の中がすっかり変わってしまったという感想からは「豊かさ」に傷ついている魂に対する想像力は生まれてこないのです。それも無理のないことと言え、著者が詩人でもあって、「なぜ詩が生まれないのか」と疑問を呈しています。たぶん、現代の詩は「豊かさ」に傷つく魂が歌い出すものなのでしょう。しかし、そこは著者の理解の範囲ではありません。
それにしても良いお天気です。
315 20050929 料亭好きです。 昨日の杉村太蔵発言のコラムを書いていて、なんだか料亭が気の毒になってきちゃいました。それでなくても高級フランス料理とか超贅沢イタリア料理屋なんかにおされぎみの料亭です。日本酒の消費量が減少して蔵元さんが困っているなんて話も耳にしますが、料亭がもうちょっとはやると、日本酒ももう少し飲まれのでしょう。
贅沢というか、率直に言えば高いから、そんなに頻繁にはいけませんけどね。空間の使い方から言えばお座敷の料亭は西洋料理の高価なレストランよりも贅沢だし、食べるものは和食だから軽い感じで、ゆっくりおしゃべりしながらお料理を食べるのは、やっぱり楽しいです。
国会議員にならなくても、行けますよ。料亭は。華美なホテルや空輸の食品だらけのレストランに行くことを考えたら、料亭のほうが安いかもしれません。いや、ボーナスはたくだけの度胸があればなんとかなりますから。高級ホテルのレストランなんかボーナスはたいたなあって感じの若い女性がいっぱいいるのに、なんで料亭にはいないのかな?いや、料亭ってお客さんをはちあわせさせないようにしているから(その辺が秘密っぽい)ボーナスはたいたお嬢さんたちもいるのかもしれません。
新橋演舞場の金田中にはお芝居を見てお昼を金田中でというバスのパック・ツァーのお客さんが入っているのも見かけますから。
314 20050928 自民党は過保護だぞ! 昨日、杉村太蔵議員がした謝罪会見をお昼のテレビ番組でみました。ううん、自民党は過保護だし、それに私の感覚だとわざわざ党本部で誤れなくちゃならないようことを言ったとは思わないんですけどねえ。
で、そのお昼のニュースで森田健作と八代英太が出てともに杉村太蔵を弁護。なんだか、結果として杉村議員への対応で、自民党の古い体質が透けて見える感じがしてしまいました。「料亭にいける」といった杉村議員より政治家=料亭というイメージを作ったこれまでの政治家の行動を反省したほうがいいんじゃないでしょうか?
国会議員としての品位に欠けているなんて言ったらチーズのかけらを持って「すしくらいとってくれてもいいじゃないか」なんてぼやいていた森前首相だって、ものすごく品位に欠けているじゃないですか。ま、あれはとってもおもしろく拝見しましたが。自民党は森喜郎にも党本部で「前総理大臣としての品位に欠けてました」なんて謝罪会見をさせるつもりかしら?
ま、事故を起こすといけないからBMWは止めておいたほうがいいかもしれませんが、「BMW買いたい」というサラリーマンの気持ちがわかる議員がいるのはいいことなのではないでしょうか?歳費がたくさんもらえるってそりゃあ、驚くのは当たり前ではないでしょうか?よく考えると当たり前のことしか言っていないので、わざわざ謝罪会見開くなんて、自民党の「謝罪」が安っぽくなっちゃうのではありませんか。
313 20050926 スマートな豆蔵さん現る 久しぶりにこのホームページの管理人の豆蔵さんが現れました。ほんとうは豆蔵師匠と呼びたいのだけれど「それだけはごかんべんを」というまんじゅう怖いみたいな申し入れがご本人からありました。
房総半島沖を台風が通過して、すっかり涼しくなった夕刻に現れた豆蔵さんはなぜかスマート。5キロ体重が減ったのだそうです。
「へええ、夏痩せ?」
「いや、まあ、そんなところで、へへへ」
さて最後の「へへへ」という笑いは何を意味しているのでしょうか?それにしても5キロってのはこんなにスマートにすっきり見えるものなのでしょうか?
天高く馬肥える秋なんて言っていないで、私も少しやせたいなあ。
312 20050925 仙台朝市のきのこ 仙台駅前の朝市には秋になるときのこばかりを扱う八百屋さんがでます。9月なかばではまだ山のきのこが出回るには早い時期でした。市に出ていたのは、韓国産のまつたけと塩漬けのきのこでした。きのこの塩漬けは東京周辺ではあまりお目にかかりません。赤いきのこも茶色いきのこも両方買ってみました。生臭いフレッシュなきのこよりも塩漬けがすきという人がいるかもしれません。塩抜きは水につけるだけ。急ぐ時は少量の食塩を入れたお湯で煮出すと良いとお店のおばさんに教えてもらいました。 312.jpg
311 20050923 思いがけずエリート教育 衆議院選挙で当選した杉浦泰蔵議員が話題になっています。26歳。自分で「平リーマン」って言ってました。ネットではあいかわらず賛否両論ですが、好意的な見方をしている人もけっこういます。それから「なってしまったものは仕方がないからがんばれ」式のやや消極的?な応援もみかけます。
テレビの受け答えを見ているとなんとなくおもしろい人だなあと思います。それから、杉浦議員を取材している若い記者が嬉々として表情をしています。おもしろがっているだけではなくて、心楽しいという表情です。きっと人をひきつける魅力があるのでしょう。
思いがけずというか、はからずもというか、なんと言ったらいいのかわかりませんが、これから国会議員として勉強をすることになるのですが、これってすごいエリート教育ではないでしょうか?杉浦議員一人に現職国会議員があれこれと、教育して行くわけですから。学校教育のエリート教育とはわけが違います。そう考えるとどんな議員になって行くのか楽しみになります。
世の中にはおもしい運命を持った生まれてくる人がいるもんだなあと思いました。
310 20050921 ここほれわんわん 今朝、息子と雑談をしていました。選挙の話になってライブドアの堀江貴文は「ここほれわんわんの犬みたい」という発言。犬が「ここほれわんわん」とほえるとそこにはお金(小判)が埋まっているのですが、それをもらうのはお爺さんで、決して犬ではありません。犬の好きそうな骨とか肉とか、ましてやドッグフードが出てくるのではないのです。なんだか解ったような解らないような話ですが、昨年のプロ野球騒動といい、ライブドアとフジテレビの対決といい、今度の選挙といい、なんだかホリエモンは「ここほれわんわん」という感じが言いえて妙でした。
今度の選挙で目立った人といえば小池ゆり子環境大臣がいます。選挙後はさっそく次のポストが取りざたされています。民主党は前原誠二を代表に選びました。小池ゆり子も日本新党出身なら、前原誠二も日本新党出身。この二人がもし自民党と民主党のトップとして選挙戦を戦うことになったら、日本新党というのは短命な政党でしたが、それなりにすごい政党だったのだなあということになります。これもなんだか「ここほれわんわん」です。
選挙後の街で聞いた話。「これで日本も変わってゆきますねえ」というのはタクシーの運転手さん。金曜日の夜のお客さんが少し増えたとのことでした。「ミニインフレが来る」というのは会社をリタイアしたおじいさんたちの雑談。もうちょっと早くにインフレがくれば不良債権の処理が楽だったのに、なんで年金生活に入ってからこんな結果がでるんだというため息まじり。「中曽根の息子は恨まれてるね」というのはあっちこっちで聞きました。中曽根参議院議員は今回の選挙では改選にはなっていないのですが、解散の引き金を引いた張本人と見られているようです。
309 20050920 このしたやみ 毎年、日大のゼミ生の皆さんとは館山セミナー・ハウスに出かけて行くのですが、そのたびに「このしたやみ」が話題になります。
月夜の散歩でなにが一番怖かったか?と質問すると樹木が生い茂って道に覆いかぶさっていたところの暗さという答えが返ってきました。このしたやみです。
樹木もこの世を生きている生き物ですから、それが作り出す闇は単純に暗いというだけでなしに、エネルギーがこもっています。闇の中をとおりぬける時には、木霊の気配がするのでしょうか?
私がいちばん怖かったのは、大きな御別荘の勝手口の木戸が内側に向かって外れているのを見つけたときでした。「すわ!賊が入ったか!」なんて思ってしまったのですが、「南総里見八犬伝」や山岡荘八の「徳川家康
」の読みすぎでしょうか。ここのところ、長い小説をこつこつ読んでます。
308 20050919 青い海とあおい月夜 「月がとっても青いから遠回りしてかえろかな」という歌をよく父が歌ってました。音痴だったんですけどね。この歌をカラオケで歌う人を知らないのですが、父は自転車をこぎながら歌ってました。
昨夜も、その前の晩の良い月夜でした。西の空にはまだ夕映えが残っているうちに、東の山の端から、明るい月が昇ってきました。月明かりのしたの散歩を日大のゼミの諸君と試みました。照らされると身体まで青く透き通るような感じがする月明かりというものをぜひ体験してもらいたかったのです。こんなことはお天気しだいなので、計画してできるものではありません。
赤々と東の空に昇った月は、オリオン座が少し顔を出すような深夜になるとしんと冴えた色に変わって輝いていました。畑が青く光るような月明かりでした。
翌日は館山セミナー・ハウスのある西岬海岸で、バーベキュー・パーティ。一日中、凪ぎて青い海を眺めていました。夕方には潮も満ちて、みんな、こんがり、バーベキュー状態。たぶん、お家に帰ってお風呂でぴりぴりする肌に悲鳴を上げている人もいるでしょう。
青い月夜と青い海の二日間でした。月明かりの写真を掲載したいのですが、あの感じは私のカメラではとうてい作映不可能です。
307 20050916 秋になりました。 昨日の暑さとはうって変わって、東京は秋になりました。最高気温は26度くらい。昨日まで30度を越える暑さとはくらべものにならないくらい風が心地よくなりました。
新橋の高速道路のガードの下にあるモツ焼き屋さんが、道に並べているテーブルで、ともだちとちょっと一杯。のつもりが、とんでもない時間になんてことにならないように、勤め帰りのお客さんで込み合いだしたことを潮時にして、おみこしを上げました。と、これを書きながら、言葉って土地(空間)に住んでいる生き物なのかなあって思いました。なぜって、「おみこしをあげう」とか「潮時」とか、近頃、あまり使わなくて忘れがちになっていた言葉が、自然に浮かんできたからです。これも涼しくなったおかげかもしれません。
306 20050915 牡蠣の養殖場 松島の駅前にある食堂には大きな牡蠣の殻が山積みにされてました。写真はどことなくブドウ畑を連想させる牡蠣の養殖場です。宮城県は生牡蠣の生産では日本一。駅前の食堂では大きな牡蠣を焼いて食べさせているとのことでした。寒くなったら牡蠣がおいしくなるでしょう。 306.jpg
305 20050914 松島や、ああ松島や 宮城の松島に始めて行って来ました。「松島はわらうがごとく、象潟はうらむがごとし」と「奥の細道」にはありますが、荒々しいはずの太平洋に、ぽっかりとのどかな多島海がひらけているところがすてきでした。
沖には水深2メートルほどの瀬もあり、春の大潮の時には潮干狩りをする人もあるのだそうです。小さな島に黒鯛を釣る人の姿がありました。観光船の船長さんが「この辺じゃあ、悪いことをすると島流しにしちゃうんです」と冗談を言うと、船内がわっと沸きました。
牡蠣の養殖も盛んに行われています。海中に支柱を立てての牡蠣の養殖場はなんだかフランスやドイツの垣根造りのぶどう畑を見ているようでした。来年は「うらむがごとし」の象潟に行ってみようかなという気になりました。
304 20050912 自民党大勝 選挙は自民党大勝でした。投票率も67パーセント前後まで上がっていたようです。
ところで、自民党が壊れだすのはこれからではないかと私は思っています。旧社会党が解体したのは、はやり選挙で歴史的大勝利を収めたあとでした。
首相は来年9月の任期いっぱいで退陣すると昨夜も言明していました。この約束を破れば急速に支持を失うでしょう。しかし、小泉首相が退陣したあと300人近い議員の率いる党首はそう簡単に出るものではありません。負けた民主党ばかりか、自民党もこれまでと同じやり方と取りまとめて行けなっていくでしょう。
この選挙は、小渕政権の時から始まったバブル期以降の整理解体が郵政民営化でひと段落することを意味していると思います。軍人も凡人ももうこの世の人でなく、ただ変人だけが残って、この仕事にケリをつけたということでしょうか。
303 20050911 選挙です。 選挙というのは、午前中に雨が降って午後から晴れると投票率が上がるのだそうです。今日は、我が家の周辺は午前中はかんかん照り、午後になって一天にわかに掻き曇り、ぴゅうぴゅうと風が吹き、ものすごい雨が短時間に降りました。それから涼しくなりました。こういう天気って、どうなんでしょうか?
選挙管理委員会の発表だと、不在者投票は800万人。2時現在の投票率は39パーセントを超えているそうです。前回が59パーセントくらいだったので、このぶんで行くと60パーセントを超えるのは間違いないですし、久しぶりに70パーセントの可能性も出てきました。投票率の低い都市部では終了間際の駆け込み投票もけっこうありますから。
それでどうなるんだ?昨日、ニュース番組を見ていたら、「自分の周辺ではそんなに騒いでいない。マスコミが騒いでいるだけ」とコメントしていた映画評論家の女性がいましたが、街頭演説に集まる人の数とか、家の子どもたちの話を聞いていると今回はマスコミが騒いでいるだけでもなさそうです。
個人的な性質だと思うのですが、現実からあまりにずれた言葉を聞くと妙に腹立たしくなる癖があって、昨日は何某政党からの投票依頼の電話の応対で、危うく怒り出しそうになってました。でも、今日は選挙で駆けずり回った人たちは、投票箱の蓋が開くまでは家で寝ているんでしょうね。起き上がる元気もなくしてるんじゃないかと思います。家の周りを回っていたウグイスさんなんて、昨日は舌を噛むじゃないかってくらいの早口で、声はウグイスどころかガチョウみたいに枯れてました。
302 20050910 \(^○^)/300回突破 「豆の葉」もいつのまにか300回突破しました。というわけで明日は選挙。今日はどの候補も、ぶったおれるまで走り回るということになるでしょう。
301 20050909 おソースのプール 大阪の八尾、京都、名古屋と歩いてきました。大阪の梅田阪急駅の地下街で、串揚げを食べました。立ち飲み屋さんなのですが、なぜかオバール型の入れ物がテーブルの中央にあり、中には真っ黒な液体が。壁には「ソースの二度付けはご遠慮願います」の張り紙が。
カレーライスを入れるような深めの鉢に入っているのはソースだったのです。その隣りはラーメンのどんぶりに入った生キャベツ。このキャベツは食べ放題でした。
ははん、これがうわさに聞いたソースのプールかとまじまじ眺めてしまいました。串揚げは一本100円から200円。お店の人が親切にこまごまと注文ととってくれます。で、「アスパラとじゃが芋と烏賊それにたまねぎ」と注文してからあたりを見回すと、串揚げで一杯やっているのはおじさんばかりでした。
で、問題のオバール型の入れ物に入ったソースですが、これが見た目ほど辛くはありません。ウスターソースですが、あっさりとしているくらいの薄味でした。おじさんたちの寄り道の串揚げ屋さんでした。
300 20050908 雲、雲、雲 九州にさんざん雨を降らせたあとのちぎれ雲です。ちぎれてはいますが、ひとつひとつの塊は触ったら硬そうなくらい。この雲間から光が射すとものすごく明るいのでした。台風がやって来た軌跡を考えるとこの雲はずいぶん遠くのほうからはるばると、しかも自転車なみの速度で旅をしてきたのだなと、妙に感心。今頃はオホーツク海でこの雲のなれの果がアシカやトドと遊んでいるかもしれません。 300.jpg
299 20050907 風の音と皆さんのたより ごうっと吹く風の音で目を覚ましました。新聞の朝刊には「鈍足台風」の文字。来た来た。台風が来ました。日本海側を進んでいるせいか、空にはもくもくとした灰色の分厚い雲がちぎれちぎれに飛んでいます。雲間から、さっと差し込む光は異様なくらいに明るくてまぶしいくらい。
こんな日に豆蔵さんは山形行きの列車に乗っているはずで、台風めがけてまっしぐらという形です。豆蔵さん、気をつけてね。
スタッフ・ルームにはカルフォルニアにおすまいのやまんばさんがお見えです。日本では台風カトリーナの被害が報道されていますが、なぜかカルフォルニアでは果樹が枯れているとのこと。夏の間は雨が降らないのは例年のことで、特別、旱魃ではないそうです。果樹が枯れている理由は謎です。ガソリンは一日に10セントも値上がりをする日があるって話で、車がないと生活できないアメリカではかなり厳しい状況みたいです。
そうそう、スタッフ・ルームに遊びにくるやさぐれさんは広島でホテルに缶詰になっていたみたいです。昨晩は広島も大嵐でたいへんだったでしょう。
298 20050906 銀座の地下の映画館で 銀座の地下の映画館で「星になった少年」を見てきました。でも、昨日はまるで放水車100台で一斉放水したような雨を経験しているので、地下はちょっとなあといささか躊躇。そのせいか観客は10人くらい。
で、その10人も不思議な人たちで、黒いワンピースを着た二人組みの若い女性と、男性4人女性3人のグループで、こちらもなかなかおしゃれな服装をしてました。グループのほうは最初、高校生かな?と思っていたのですが「おまえそれじゃ、高校生だよ」なんて会話が聞こえてきて、どうやら大学生らしいことが判明。
それにしても文部省推薦みたいなすごく健全な映画を男女7人で、映画館の真ん中の席で鑑賞というのも、なにやら不思議な光景でした。
幸い、映画を見ている間は雨は降りませんでした。え?映画はどうだったかって?柳楽優弥の映画ではなくて、そのお母さん役の常盤貴子の映画でした。ともかく常葉貴子をすごくきれいに撮ってました。タイトルが「象使いの母」だったら、もっと見る人が増えたかもしれません。
297 20050905 ホーム・アローン ともかくものすごい雨でした。振り出したのは7時過ぎで、雨音で気付いたのです。続いて9時過ぎにばきっという猛烈な音。爆発音みたいな大きな音でしたが、なんの前触れもない雷でした。それからぴかぴかごろごろ。雨脚のさらに激しくなって、裏の白子川は今にもあふれ出しそうなくらいに水かさをまし、川面には白い波がさかまいていました。
こんな晩にお家に一人。停電でもしたらこころ細いので蝋燭を出して、なぜか家の中をうろうろ。それから出かけている子どもたちにメールを打ちました。あとネットで雨雲の位置を知らべてみると細長い雲のようで、降ってないところは全然、降っていないようです。情報としてはネットよりもラジオのほうが詳しくて早い様子でした。うちの近くでも30人ほどの人が浸水した住宅にとりこのされたようで、消防自動車が吹っ飛んで出動して行く前にNHKの第一放送がその情報を流してました。ああ、おうちにひとりは怖いよお(><;)
なんだか地球にできた魚の目みたいな台風が近づいています。豆蔵さんのおうちは浸水しませんでしたか?
296 20050904 すいている昼間の首都高 すいている昼間の首都高を走りました。日曜日で、もう夏休みも終わったので、もしかしたら、首都高はすいているんじゃないかという甘い期待で進入してみたのですが。こういう期待はたいてい後悔でお終いのなるはずなのに、今日は首都高はすいていました。
明るい時間にすいすい走れる首都高なんて。怖いです。もちろん夜はもっと危険なのは承知なのですが、頭でそうわかっていても視界の開けている昼間のほうがずっと怖い感じがしました。運転がもっとうまかったら快適と感じたかもしれませんが、羽田線に入ってとたんに前方も後方も一台の車もいない時間がしばらく続き、これくらいスピードの出しすぎをやるんじゃないかと怖かったことはありません。
混んでいるのに慣れすぎているのでしょうか?
295 20050903 ヘルメットと懐中電灯 「こりゃ、いきなり地理学科のゼミだあ」
「いや、地学科だろう」
ヘルメットと懐中電灯をお借りして防空壕に入ったとたんにそんな会話が交わされてました。ひんやりとした空気が肌に気持ちいいくらいの温度です。
台風11号の影響でかなり湿っぽく、洞内にはうっすらと霧が出ていました。懐中電灯で壁を照らすと、そこには見事な地層が走ってました。サンドベーシュにグレー、微妙な色合いの地層が30度ほど傾いていました。このあたりは関東大震災の時にはかなり隆起したそうですが、地層の傾きはそれ以前の大きな大地の運動によるものでしょう。いったいどうしたらこんなに見事に地層が傾くのだろうという傾きでした。
赤山はもし海の中にあったらおまんじゅうみたいな形の島になっていただろうという山です。ほかの山とは繋がっていません。山全体が鶴嘴を使った手掘りで巨大な防空壕になっています。写真は防空壕の略図ですが、実際はもっと込み入った通路がたくさんあります。黄色い部分が一般に公開されているところです。
市営の50メートルプールは館山市内に最初にできた競技用プールですが、そのプールと比較すると防空壕全体の大きさがわかります。 295.jpg
294 20050902 赤山防空壕探検 

館山市には自衛隊の館山基地がありますが、もとは日本軍の航空隊基地がありました。1945年8月15日の終戦のあと、最初の米軍が上陸したのが、9月2日で館山だったそうです。上陸部隊の中には若き日のノーマン・メイラーもいたそうです。
戦争末期の本土決戦に備えて作られた赤山防空壕が公開されています。法政のゼミの諸君と覗いてきました。赤山は館山航空隊のすぐ裏の小高い山です。防空壕の中は温度が一定なので、一時はキノコ栽培に使われていたということです。
293 20050901 今日から始業式、それにしては暑い 今日から始業式って学校も多いですね。しかしそれにしては暑いです。ふるさととか故郷という言い方がありますが、「学校に通った町」という意味の言葉が何かありませんでしょうか?
日本中、いや世界中に「学校に通った町」を持っている人はたくさんいるだろうし、昔のふるさとと同じように「学校に通って町」に特別の思いを抱いている人も多いでしょう。なのにそれを簡単にいう言葉がないというのはなんだか不自由な気がします。
横浜市金沢区生まれで、小学校、中学校、高校を館山で過ごした私にとって館山は「学校に通った町」です。もう30年も前なんて信じられないです。JRの駅前はすっかりさびれてシャッター通りになってますが、町は北側に広がって、安房一万石といわれた平野全体に住宅地や商店街が出来ています。
久しぶりに安房高校のそばをとおりました。周囲には槙を2メートルくらいの高さに刈り込んだ生垣のある家があります。槙の生垣は昔と変わらずに今でもあおあおとしていました。こんなみごとな生垣はほかの土地では見たことがありません。
新聞で十字屋館山店の閉鎖を親会社のダイエーが決めたという記事をみつけました。私の母は十字屋館山店の呉服部の仕立ての仕事をしていました。もともと十字屋のあったところは、大きな旅館でした。小学校へ通う途中で旅館の玄関を覗くと避暑のお客さんが寛いでいました。今もあったら泊まってみたいような木造建築の旅館が館山市内には幾つもありました。小学校の同級生にも旅館の子がいました。どこも無くっています。
それにしてもこの暑さの中に始業式はたいへんです。
292 20050831 雨と海の匂い 法政大学のゼミ合宿第二弾で館山に行ってきました。場所は館山の汐入川河口。北条海岸です。このあたりはよく学校の臨海学校に使われる場所です。というよりも母校の館山第二中学校のすぐそばです。
毎年、臨海学校を開く東京の私立学校の中で赤ふんどしで水泳という学校があります。宿の人に聞くと現在でも生徒はあかふんどし、先生は黒ふんどしで泳いでいるそうです。で、宿舎から目の前の海までふんどし姿で駆け足。そこへ、自転車に乗って登校しようと通りかかると、ふんどし軍団に取り囲まれてしまうというようなことも、ありました。
夕方、雨が降りました。満潮の時刻と重なって潮の匂いに雨の匂いが混じっていました。
291 20050831 尾道のナイフ ホリエモンが立候補したので、テレビにたびたび尾道の駅前が映し出されます。このナイフはその駅から東の方向に延びる商店街で見つけました。どうもナイフだのはさみだの、飛行機に乗せてもらえないものばかり見つけ出しては買っているような気がします。
そのうちに新幹線も手荷物監査なしでは乗れないなんてことにならないようにしてもらいたいものです。
ナイフを作ったのは山崎清春商店で、もともとは軍刀を打っていたとのことでした。尾道のともだちに聞いたら、昔は店先に折れた刀が突き刺してあって、これを包丁にしますと書いてものが張り出されていたそうです。手荷物検査どころか、道端に刀がさしてあっても無事という時代があったのですね。
柄には漆で装飾が施されています。買ったばかりの時にはこわいほどの切れ味でした。乱暴に使って、ちょっとなまくらになってくらいのほうが安心して使えます。
尾道の商店街のすぐ南側は海で、海の対岸には造船所
の起重機が並んでいる瀬戸内海の町です。 291.jpg
290 20050830 赤トンボを見つけた 朝、ごみを出しに行ったら、赤トンボが飛んでいました。じりじり暑いようでももう秋なのですねえ。
でも、なんとなく騙されないぞという気分。昨年は12月のあたまに台風崩れの低気圧が来て、なま暖かいは大雨は降るわで、さんざんでした。
ネットの掲示板を見ていると9月には災害とかテロとか起きるなんてデマに近いような書き込みをしている人もいるし……。赤トンボを見つけてもなんだか夏が終わるという気になれずにいます。
289 20050829 御坂峠のきのこ 台風11号関連ニュースの中に御坂峠で土砂崩れがあったというのがありました。山梨の御坂ではそろそろきのこ屋さんが道路沿いに店を出している頃です。富士山周辺の山はきのこの宝庫だそうです。秋になると天然のきのこを売る店が出ます。植物学者できのこを専門にしている人は必ずこのきのこ屋を覗くというくらい種類が豊富だと聞いています。
写真の巨大きのこは昨年の今頃、御坂を訪れた時にきのこ屋で買ったものです。一緒に並べた梨も大人のこぶしよりも大きな梨でした。その梨の大きさをしのぐ太い軸を持っています。これは炊き込みにして食べました。 289.jpg
288 20050828 少し涼しくなりました。 家の中にいるとマンションの壁を伝って鈴虫の声が聞こえてきます。虫の声は高い音のせいか、八階の家でもよく聞こえるのを毎年、不思議に思います。今の家に引っ越してきて、17年になりますが、その最初の歳の秋に、うたた寝をして目覚めたら、家じゅうに虫の声があふれていたので驚いたことがありました。
夏の地虫が鳴く声、私が子どものころはおけらが鳴いているとかみみずが鳴いていると言ってましたが、そっちはまってく聞こえないのです。ただ秋の虫の声だけが毎年、よく、聞こえます。
287 20050827 横浜大桟橋 三浦海岸から横浜に回って、横浜散歩しました。今月初めに名古屋に行った時にもセントラル・パーク(名古屋にもあるのです)のそばで、映画の撮影をしているのに出会いましたが、横浜の日本大通りでも映画の撮影をしていました。今の日本映画は製作ラッシュなのだそうです。
日本大通りをまっすぐに海の方向に進むと客船が着く大桟橋です。数年まえに新しい桟橋になりました。桟橋そのものが旅客ターミナルになっています。桟橋というよりも板張り公園ですが、この桟橋から赤レンガやランドマークタワーが良く見えます。
写真はランドマークタワーの反対側で、山下公園と氷川丸を撮っています。小学生の時、マリンタワーに歩いて昇ったことがあるのですが、周囲の建物が大きくなってしまったので、マリンタワーが目立ちません。ニュー・グランドホテルの旧館も並木に隠れています。マリンタワーに上ったのは11歳の時ですから35年も過ぎたら並木も大きくなるはずです。 287.jpg
286 20050826 城ヶ島大橋 今年の夏は4つのゼミ合宿に出かけます。第一弾は法政の昼ゼミ。三浦のセミナーハウスでした。セミナーハウスに入る前に城ヶ島へ。写真は城ヶ島大橋です。このあと、観光船に乗りました。海には飛び魚が飛び交っていたそうですが、暑さのためにノビてしまった私は観光船の中ですやすやお昼寝してました。
第二弾はなぜか私が卒業した中学校の門前の旅館に宿泊予定。館山です。法政の夜ゼミ。さらに日大のゼミも毎年恒例の館山セミナーハウス。最後は法政卒論合宿で仙台です。うまくすると仙台の中秋の名月が拝めそうです。
今夜は城ヶ島大橋も暴風雨の中です。ご覧のようにこの橋はかなり高い位置にあります。そして城ヶ島へ入る陸路はこの橋だけなのですが、こういう暴風雨の日には橋が閉鎖されてしまいます。さきほど、城ヶ島からのリポートを送っていたテレビのリポーターは、たぶん、今夜は城ヶ島泊まりなのではないでしょうか?
中秋の名月の日に台風が来ないといいんですが。三浦セミナーハウスに宿泊した翌日に歩いた横浜中華街では中秋の名月用の月餅を売ってました。 286.jpg
285 20050825 スタッフ・ルームでも山の上ホテルでも 山の上ホテルロビーで東京新聞の「即興政治論」の対話をいつもの高田記者としてました。すると同じロビーにいた60代のご婦人ふたりが選挙をネタに雑談を始めたので、高田記者と顔を見合わせてしまいました。
スタッフ・ルームでもここ数日、選挙が話題になってます。現在。日本にはいないやまんばさんからは「そんなにすごいことになっているの?」という質問が来ました。ネットの情報だけだとこの感じはつかめないかもしれません。
ヤフーの掲示板で「しずかちゃんがいるところにホリエモンが出てくるのは当たり前」という冗談をみつけたと書き込みをしたところ、豆蔵さんが去年の冗談を思い出したようです。
「ジャイアン(ツ)とすねお(つねお)がいじめるよと
フルタ(ノビタ)がいうとホリエモンが「ライブドア」(ドコデモドア)と出てきました」
というようなものでした。こうなると出てきてないのはドラミちゃんだけか。
284 20050824 渋谷で占い師に捕まえられて 渋谷で占い師のおばさん?に突然捕まえれました。なんでもカイカソウ(開花相か?)てのが出てて、すごくいい運勢がきているんですって?ほんまかいな?で、なぜかこのおばさんは迫力があって、ずっと離してくれないんです。
迫力があるって言っても、ほっそりとした少女くさいおばさんなんてすがね。いきなり人ごみの中から手が出てきて「ああ、顔にカイカソウが出ています。手相を見せて下さい」といわれたときには、もう掌を掴まれてました。で、まじまじと掌を見ながら、「ほら、この線が」と指差し「今、お幾つですか?」と聞く、その人の手首には水晶のブレスレッドがありました。
ああ、5時までにはどうしても行かなくちゃいけないところがあるのに、なぜか、おばさんは私の手相に夢中で、こっちの言うことなどぜんぜん聞いていないのです。そんなに珍しい手相だったのかしら?
283 20050822 月夜二題 8月20日は旧暦の7月の十五夜でした。大潮です。金沢八景でお月見をしてきました。翌日21日は十六夜の月を三浦海岸で見てきました。
夏は海水の温度があがって膨張していますから、大潮の時の潮の満ち引きも大きくなります。金沢八景と数えられる八つの景色のうちのひとつに「瀬戸の秋月」があります。中秋の名月の晩には、瀬戸から見える野島の真上に月が上がるのですが、今月はまだやや東側に月が昇りました。ちょうど潮が満ちてまんまんとたたえられた平潟湾の上に昇った月を見てきました。周囲はマンションになっても、水の上には明るい月明りが落ちていました。
翌日は三浦海岸の月。赤い月が昇り、中天を目指しはじめると、海岸の潮をどんどんと引いてゆきます。海の写った月の光は、やがて潮が引いた海岸の濡れた砂浜も照らし始めます。黒い砂が金色に光るのです。デジカメでもこれは写せません。月は空高く登るほど、少しずつ白くなって行きました。
東洋ではこのうえなく美しいとする満月ですが、西洋ではこれを見ると狼になっちゃったりするですから、人間のものの感じ方って奇妙です。昔の人はほかに見るものがなかったから、お月様なんかをしげしげ見ていたという人もありますが、人間が作ったどんな仕掛けよりもきれいな月でした。
282 20050820 桜と紅葉のある土地 去年から土地を探していました。外房に桜の樹と紅葉の樹のある土地を見つけました。裏は小さな崖で、雑木林になっています。椿、マテバシイなどが生えていて、どうもたぬきが通り道らしい獣道もありました。表は一面に広がる水田です。ほんのりと黄色く色づいていました。耕地整理と農地改良が済んでいるので、整然と四角い田んぼがならんでいます。
広い田んぼの端っこに蹲っているような感じの土地です。ここに小さな家を建てようと思っています。房総の民家をもとにした間取りの家を考えています。
281 20050819 博多のはさみ 家の中で写真をとるときにはライティングにもっと気を使わなくちゃと思っています。ピンボケですが、「楽隊のうさぎ」の取材の時に見つけた博多のはさみです。飴切りばさみというのだと聞きました。ほんとうに飴を切るはさみはもっと大きなものだそうです。切れ味がよくってほかのはさみだと詰まらないくらいです。もう6年も使っているのにぜんぜん切れ味は衰えません。 281.jpg
280 20050818 名誉という火傷 名誉という言葉だけで、とたんに蔑んだような態度をとる人々がいます。「名誉なんてどうでもいい」と言います。60代以上の年齢の人が多いような気がしています。よほど「名誉」というものに手痛い火傷を負わされた経験があるような、苛烈な対応を見せるときもあります。敗戦というものは、人のこころに「名誉」に対する拒絶反応を植えつけたのかもしれません。
もうひとつ付け加えれば国民皆兵の国の敗戦は、名誉というものを、何か触れてはならない奇妙なものに変えたのではないでしょうか。
郵政民営化がこれほどこじれて感情的な反応を引き起こすのも、靖国問題が激しい感情を呼び起こすのも、その根底には名誉に対する考え方感じ方が横たっていると思います。しかし、この60年間の間、名誉というもにについて、ちゃんと論じてきたことがなかったというのは言いすぎでしょうか?拒絶反応に近いような様相で語られる名誉か、もしくは時代の変化には無頓着な旧来型の名誉かのいづれにしかないところに、不幸があるのではないのでしょうか。
279 20050817 執念と怨念 まだ公示されてない衆議院選挙ですが、自民党の候補者選びのためにかなり報道されています。郵政民営化に反対した候補のたつ選挙区へ賛成の候補を対抗馬として立てることをメディアは「刺客」と呼んでいます。
最初に「刺客」という言葉が飛び出したのは小林興起候補の選挙区に小池ゆり子環境大臣が立ったときでした。これが我が家の隣の選挙区。と言っても我が家の選挙区の端っこなので、自分の選挙区の候補はあまり姿を現さないのです。隣の選挙区の候補の方がよく回ってくるのは毎度のこと。メディアは対立候補をみんな「刺客」と呼んでいますが、表現に工夫をして欲しいものです。
小泉首相の郵政民営化への執念を感じさせる候補者選びですが、一方の反対した議員の言動には、とくに亀井静香候補は、怨念を感じる言動が目立ちます。この選挙は執念と怨念の戦いというところでしょうか。世論調査などでは首相側のやりすぎの首をかしげている人もかなりいるようです。対立候補を立てるのは、いきさつから言って仕方がないところがあるのでしょうが、森前首相に干からびたチーズを出して、あとでフランス高級チーズだとバラすなんてのは、いささか、執念をとおり越した妄念なのではないでしょうか。
選挙は次の衆議院選挙だけで終わるわけではありません。首相の執念は郵政民営化法案の成立とともに、あるいは首相がその地位を降りることによって消えるでしょうけれども、怨念のほうは、これは形を変えて残って行くことでしょう。消えたと思ってもまた現れるのが幽霊の怖いところですが、怨念という人間の感情もそれと同じようなところがあります。
278 20050816 まくわうり見つけた 知り合いと、甘いメロンじゃなくて昔のまくわうりが食べたいねと話してました。今頃、ソウルへ行くと黄色いまくわうりを沢山売ってます。川水とか氷水で冷やして食べると、ほんのりした甘みがおいしいのです。さっぱりと軽い甘みです。
まくわうり見つけました。ソウルで見かける小ぶりな物ではなくてどちらかと言うとキンショウメロンに近いのですが、それでもまくわうりの味がします。見つけた場所は京都に錦市場を西の方角へ抜けたあたりの小さな八百屋さん。同じ八百屋さんで九条ねぎも買いました。九条ねぎのほうは写真にとらないうちに食べてしまいました。
そうそうねぎを買って歩いていたら、いろんな人に道を聞かれました。新幹線でねぎを買いにくる人はいないから、道を知ってそうに思われたみたいです。 278.jpg
277 20050815 終戦記念日 私の母は小学校四年生で終戦を迎えました。神奈川県の秦野に学童疎開をしていたそうです。5月の横浜大空襲のあと山形への疎開が決まっていたのですが、ソビエトが参戦したために見合わせになったと言ってました。もし山形へ移動したあとに終戦だったら、しばらくは、交通事情が悪くて家には戻れなかっただろうと話していました。
学童疎開の引率をしたのは20歳そこそこの若い先生で、あとから考えてみると、あんなに若かったのによく大勢の子どもを預かることができたものだと感心したそうです。終戦の日は、整列してラジオを聴いていたそうです。で、6年生は泣き出したので、なにをそんなにめそめそしているんだろうと思ったという話でした。
ラジオの音が悪いのと言葉が難しいので終戦の勅諭を本土決戦玉砕の放送と勘違いしていたそうです。
田んぼの中を歩いていた教頭先生がアメリカ軍の機銃掃射で殺された話とか、横浜大空襲のあと、ひそかに横浜まで歩いて戻り、家族の安否を確かめた話をしていました。母の家族も家も無事だったのですが、同級生の中には、家も家族も無くなっていた子がいたそうです。
畑のにんじんがおいしかったのと、白い絵の具を食べると甘かったと、食べ物を送ってもらうのは禁止されたいたので、代わりに歯磨き粉を送ってもらって舐めていたのと、そういう食べ物の話が多かったのを覚えています。「戦争はひもじい」という話をしたのは母ばかりではありませんでした。いつのまにか「戦争はひもじい」という話は聞かなくなりました。私が子どもの時でも、テレビドラマの戦争の場面では、かならず、誰かが瓶にお米を入れて棒で突いていました。脱穀をしているのです。そういう脱穀の場面がテレビ・ドラマから消えて久しくなりました。
戦後の話になりますが、中学校の時に同級生がアメリカ兵相手のパンパンをしていた話とか、聞いてはいてもなんとなく当事者ではない人間には書きづらい話もたくさん聞いています。戦争を語り継ぐと言っても、語られただけで、消えて行ってしまう話もたくさんあるのだなと思います。それに風化という言葉がしきりに使われた時期がありますが、風化しなければ見詰めることができない真実もあるように思われるのですが。
276 20050814 仕事をしないで 仕事をしないでテレビを見ているなんて、叱られそうですが、この一週間で、郵政民営化は結局、郵政の、とりわけ金融、保険部門の解体、縮小であり、ひいては公共投資中心の金融システムから、民間投資中心の金融システムへの転換の糸口だということが公然と議論されるようになってきました。
明日は終戦記念日ですが、靖国問題がクローズアップされていて、昨晩と今夜とNHKスペシャルを見ていました。これも戦死者の名誉と戦没者の追悼という二つの事柄を整理する必要があることがはっきりしてきたという点で、これまで公然と語られなかったことが、議論の俎上に乗ってきたとようです。
議論というのは、けんかではなくて言葉を生み出し、知恵を生み出し、ひいては感じ方というものを作って行くものだという眼で眺めているとこの数日はかなりおもしろい展開をしています。まるで淀んでいた川が流れ出すように、淵から瀬に流れが差し掛かるように、言葉が生まれて行く瞬間を眺めている感じです。
物語というのは、こうした議論の生み出した感受性の向こう側に存在しているものなのでしょう。
275 20050813 ボイス・レコーダー 昨晩、TBSで放送された「ボイス・レコーダー」に引きこまれてとうとう最後まで見てしまいました。日航ジャンボ機墜落事故から二十年です。
最初は再現ドラマという手法に違和感がありました。例えば機長がフライトに出るシーンは現在の羽田で撮影されていますが、二十年前は勿論、ビッグ・ウィングではありません。しかし、だんだん、二十年という歳月の表現の仕方に興味を持ちました。
日航機の事故の時、その第一報を聞いたときの自分の動作をよく覚えています。千葉の館山の家の台所にいました。台所の勝手口の扉を開けたときに、日航機が行方不明になっている第一報のニュースがテレビから流れてきました。なぜ、そんな動作を覚えているのか自分でも解りません。
その歳の一月に母がなくなって、新盆なので、子どもたちと連れて、館山の家に戻ったばかりでした。人のいない家は荒れやすくて、数日を過ごすための準備にはけっこう手間がかかるものです。締め切った家の扉を空けてすぐのニュースでした。
ところで二十年という歳月ですが、例えば戦争中に集団疎開をしていた私の母にとって終戦から20年と言えば昭和40年がそれにあたります。私は幼稚園の年長組でした。八月になると、集団疎開を撮影した映像などが紹介されると、母は食い入るように画面を見てました。昨晩のTBSの番組を見ながら、そうか、二十年というのはこんな感触なんだなあと、自分の身体で、改めて歳月の質量を測っていました。
20年前と言えばテレビのワイド・ショーが盛んになってゆく時期で、日航機事故もそのきっかけのひとつになったのです。「ボイス・レコーダー」はそのワイド・ショーが生み出した再現ドラマとか、現場からの中継映像などの技巧と、ドキメンタリーの手法を慎重に組み合わせながら作られた番組でした。テレビ局がこの二十年間になにをしてきたかを製作技法で語っているように見えたのも興味深いです。
274 20050812 今夜は雷ごろごろ 午後10時40分頃、停電しました。落雷のためです。今夜は雷ごろごろ。蝋燭はどこだと探しているうちに電気は復旧。コンピュターの電源を切るのがもう少し遅れていたら、「あれまあ」ということになっていたかもしれません。久しぶりに雷様のお通りです。
我が家の上空はどうやら雷の通り道のようで、多い時だとひと夏に二回くらい停電します。ここ数年はそういした雷雨がなくて、雷の用意をうっかり忘れていました。
雷様はまだごろごろぴかぴかやっています。
273 20050811 妖怪大戦争見てきました。 有楽町で最終回の「妖怪大戦争」を見てきました。16時からの回が終わったところで扉が開くと出てくるわ、出てくるわ、白髪頭のおじいさんと坊主頭の坊やたち。夏休みの孫と見るのにちょうどいい映画みたいです。角川映画は久しぶりだったのですが、社長が変わってもやっぱり角川映画は角川映画だなあという感じでした。
小技のおもしろいところはいっぱいありました。宮部みゆきの学校の先生とか、大沢在昌の読書好き浮浪者、そのとなりのホームレスが「理事長」と呼ぶのは、推理作家協会の理事長に就任したことを知らない人にはおもしろくないでしょうけど、そういう小技がかなり利いた映画です。監修者が水木しげる、京極夏彦、宮部みゆき、それに荒又宏ですから、なんだかこちらのほうが妖怪のような気がしないでもありません。
大画面で3000人(?)も妖怪が出たら怖いもなにもあったものではなく、隣の席の女の子(小学校低学年くらい)はきゃきゃと喜んでいました。
昔「妖怪百物語」という映画を見たんです。その時の気持ち悪さというか、恐ろしさは今でも忘れがたいんですが、あの映画は湿っぽい怖さがありました。それとはまったく違うドライな妖怪映画でした。
選挙のほうがよっぽど妖怪じみているかもしれませんが、ああ、夏休みって感じになりました。
272 20050810 あなどり、たかをくくる、かるくみる 東京新聞政治部の高田記者と毎月、即興政治論という対談の連載をしています。畑違いの人と話すのは、お互いになかなかおもしろいです。たぶん、高田記者もそう思っていただいていると勝手に決めています。政治も文学も不特定多数の人に言葉を伝える仕事ですから、畑違いと言っても、よく似ているところがあります。
この対談は直接の政治状況よりも、もう少し広い視野で政治全般について話そうというコンセプトになっています。しかし、前回は郵政民営化法案の衆議院可決を受けて、その結果をどう思うかというかなり直近の出来事について話しています。校正刷りを見て「大予言みたい(笑)」と言ったのですが、結局、衆議院は解散で、あんまり外れたことになりませんでした。
次回は「政治評論家」というテーマで話してみたいなあと思っています。そういうテーマが降られるかどうかは解らないのですが、政治評論家の発言には「あなどり」とか「たかをくくる」とか「かるくみる」というニュアンスの発言がけっこう出てきます。
相手を「軽くみる」と自分を偉く見せられるし、「かたをくくった」発言をするといかにも事情に詳しいような印象を与えられるし、さらに「あなどり」を示せばそこには一時しのぎの安心感が生まれたします。こういう言葉の機能がうまく使えていた今までの政治が、今度の解散で、すっかりへたり込んでしまったのではないでしょうか?
271 20050808 小泉首相、どこの党に投票したらいいんでしょう? うちの反りかって省く人(注 8月3日コラムを参照)が「小泉の小泉による小泉のための解散」のニュースを見て、「それで、首相、どこの党に投票したらいいでしょう?」という疑問を呈していました。確かに!自民党がどういう候補者を立ててくるかにもよるのですが、今のところ、かなり「ううん?」という状態です。
日曜日は名古屋。名古屋に一泊して京都を歩いて帰ってきました。京都のタクシーの運転手さんは「良くも悪くも頑固な人ですなあ」と言っていました。
270 20050807 怪電話 静岡から帰って来てみると、留守番電話の録音が数件ありました。怪電話はその最後の録音。松本と名乗るおとこが「○○○○さあん」とやけに明るく軽薄な声でよびかけたあと、「お電話下さい」と凄みのある声に切り替えて、しゃべってました。録音はそのあと、電話口で誰かと喋っている声が少し入ってから切れてます。
呼びかけられた○○○○さんという名前にこころあたりはまったくありません。それにしても前半の妙に明るい声も、後半のどす黒い声も、どちらもいやな声には変わりはありません。
まちがい電話の類いだろうと思います。借金の催促か何かなら、間抜けな気もしないでもないです。ただ、なんとなくイヤだなあという感じはどうしてもしてしまいます。真夏の夜の怪電話でした。
269 20050806 さくさくさくら海老 静岡に行ってきました。さくら海老にしらす。駿河湾は小さな魚の宝庫です。用宗海岸を歩いてきました。西側には大崩が張り出しています。うすい霧が出た蒸し暑い夏の夕暮れでした。
で、さくら海老。生で食べてみました。殻がいささか生臭いというか磯臭い。これはこれで珍味といえます。が、生で食べたあとに、掻き揚げを食べてみると、やっぱりさくら海老は油で揚げたものがおいしいと納得。なによりも、海老の殻が香ばしくさくさくした感じになって、これがおいしいのです。考えてみれば、さくら海老って小さいから、殻そのものを食べる以外にあんまり食べるところってないのですね。
明日は名古屋に行って来ます。それから京都。
268 20050805 郵政民営化の「夜明け前」 歴史は繰り返すのかどうか?郵政民営化を巡る争いを見ていると、妙なだあと思うことがあります。
今の首相のお祖父さんの小泉又次郎は慶応元年の横浜市生まれ(当時の武蔵国久良木郡金沢)とび職人の息子で、横須賀で請負師になった人物です。嘉永6年に黒船がやって来たことから、運命が開けた一族だと言ってもいいでしょう。で、郵政民営化法案反対の筆頭が綿貫民輔氏で、こちらは富山県の神主さん。現職の宮司です。かつては、運送会社社長でもあったのです。
毎日、新聞を読んでいると島崎藤村の「夜明け前」のアレゴリーを読んでいるような気分になって来ます。
日本各地にいた豪族や武士が、徳川の御世が始まる時に帰農して、庄屋や名主あるいは問屋になり、語維新で今度は郵便局や学事係になったものというふうに、中世から700年くらい続いてきた流れがあることを島崎藤村は自身の一族をモデルに「夜明け前」で描いています。街道筋ではこうした人々が人の往来、手紙や荷物の輸送などの世話をしていました。
藤村の一族に限らず、全国津々浦々にそうした家があり、今でも特定郵便局を営んでいたりしているのでしょう。そうした家というのは近代工業化によって生まれてきた中間所得層とは別の意味と意義を持った中間層を形成していました。
これを仮に旧中間層と名づければ、この旧中間層が存在したために日本は比較的スムーズに近代化をやりとげたと考えることができます。郵政民営化で、その旧中間層が消えてしまうのを怖れるのは、ある程度もっともなことに思えます。私は郵政民営化賛成ですが、反対派にはそうしたところを、もう少し丁寧に説明してもらえないものかと思います。
こういうことを書くときは「です・ます」体は不便ですねえ。なぜか、この欄はあまり深い考えもなく「です・ます」体を使ってしまいました。時々、後悔してます。
267 20050804 いや、暑い、あつい、暑い(,* *;) やいあ、暑いあつい。といわなくてもいい暑さですが、この暑いさなかに「やれ解散だ!」「いや解散回避だ!」という国会議員の皆さんもたいへんです。とくに懸案がなければ夏休み前の消化議会みたいな感じの時期なんでしょうけど。あまり暑い時に議論は、頭にきやすくてよくないんじゃないかなあと思いますが。
ただ、この郵政民営化の法案について「それほどたいした法案じゃないよ」という言い方を耳にします。それほどたいした法案じゃないのに、どうしてこんな騒ぎになっているのでしょうか?
ほんとうに大した法案ではないのか、大した法案なのかは判断できませんが、この発言には、これまでの日本の政治の「いやあなもの」を感じます。「いやたいしたことない、いたしたことない」と表で手を振って、裏では真剣な交渉ということが世間には、よくあります。それが、まったく形式化してしまったとき、なんでもかんでも「たいしたことない、たいしたことない」とタカをくくる風潮を作り出したりしてます。
若者風俗はメディアでもよく取り上げられるのですが、政治家にもそれそれの時代のやり方(風俗?習俗?)があるようです。法案反対派は「いやあ、たいしたことない」といいながら裏で真剣な交渉をするという旧式な習俗に頼ったために、自らを窮地に追い込んでしまったというように見えるのですが、いかがでしょうか?あんまり涼しい話題じゃないですねえ。暑い時には余計に暑くなると、あとから涼しくなれるという話題でした。解散したら選挙で、涼しいどころじゃないよ!という声が聞こえてきそうですが。
追記 こんなへんてこなニュースを見つけました。
「出雲大社にちなむ「縁結びシャツ」で定例の記者会見に臨んだ細田博之官房長官(右の写真)。背中にも「縁」の字があしらわれている(左の写真。同写真の左下は胸ロゴのアップ)(4日午前、首相官邸)(時事通信社)13時52分更新」
写真は
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050804-02613709-jijp-pol.view-001
にあります。
はてさて、どんなご縁を結びたいのやら?でも、このシャツちょっと欲しいです。女性用はあるのかしら?
266 20050803 うちの息子の反省 息子があまりだらだらしているので、怒ったら、
「反省しています」
という返事。これも聞き飽きた返事なので
「いったい、どんな反省をしているんだ」
と怒鳴ったら
「反りえって省いております」
と答えたのでした。やれやれ。まったく。ぷん。
265 20050802 タイ米に感動 タイの香米というお米を炊いてみました。アルミの片手鍋で炊いたのだけれども、日本のお米よりも簡単にたけました。なにより驚いたのは、その名のおとりに香り。すごく香ばしいのです。8月の稲が稔り始めた頃の田んぼの中を歩いているみたいな良い香りがします。
日本のお米のような粘りがないので、軽い感じがします。暑くて食欲が落ちている時には、この粘りのない軽い感じのお米はたいへんおいしいです。タイ米というと外米の代名詞みたいになっていて、まずいものと言えば外米という人もいるくらいですが、あれはタイ米がまずかったのではなくて、まずいタイ米を食べていたのですね。米の輸入が制限されていたせいか、今までは高級なタイ米は国内に入ってこなかったようです。
稲の花が咲いて、実が付き始めた頃の田んぼの香ばしさは独特のものがあります。暑くても、ああ、お米ができ初めているなあと思うと楽しくなりました。これからどこか田舎にお出かけの皆さん、鼻をちょっと働かせてみて下さい。きっといい香りがします。
264 20050801 こはだの新子と鯵 こはだというお魚がいます。お正月にはおおきなものを酢漬けにしたものを売っています。で、まだ小さいのを「新子」といいます。築地のおすし屋さんで、この新子の握りを食べるのが楽しみです。
どういうわけだか、東京よりほかの土地では新子の握りを見たことがありません。藤沢、大船は例外。神奈川県ですが、まあ、東京のようなものです。東京の握りはこぶりですが、新子は小さいので一匹ではそのにぎりでさえ不足です。二匹がちょこんと白いごはんの上に乗っています。ままかりとも違って、ああ、東京湾のおすしだなあと思います。
今の季節は鯵に蛸。どちらもたくさん採れます。鯵は脂がのっていておいしい季節です。「ひかりもの」なんて言い方もあります。鯵のおすしもいいですが、酢で閉めた鯵と茗荷それに新生姜に紫蘇で、冷たいスパゲッティを作りました。で、ふっと子どもの時には鯵の煮付けを食べていたのを思い出しました。新子はあまり家庭で食べないのですが、鯵はたくさん取れたのでいろんな漁料理にしていました。
263 20050731 映画にお芝居 渋谷のユーロスペースで上映されている「いつか読書する日」で、最終上映のあとでトークショーがあると知って出かけました。トークショーは緒方監督、香川昭之、保坂和志というメンバーです。で、ユーロスペースで編集者のKさんとばったり。どちらもひとりで来ていたので、映画を見てトークショーを聞いて、それからワインをちょっと飲んでと、ここまではまあまあですが、そのあと新宿に回りました。
新宿では青山真治さんとばったり。で青山さんが文化庁の某官僚となぜか口論になったそうで、私は口論の現場にはいなかったのですが、そのあと、気分が悪いという青山さんと店を変えてよもやま話をしていたら、朝になっていました。
で、それが一昨日のことで、昨日は歌舞伎座で芝居を見る約束をしていたので、朝帰りのぼんやりした頭でまた銀座へ。蜷川幸雄演出のシュークスピア「十二夜」歌舞伎場バージョンを見てきました。鏡をたくさん使った豪華の舞台装置のなかを美しい衣装のお小姓やお姫様が動き回るというお芝居で、なんだかどこまでが夢でどこまでが現実だかわかんないという見方をしてました。
そういうわけでぼんやりしてます。とほほ。
262 20050729 上下二巻本が欲しい ここ2、3年の間に本が巨大化しているのにお気づきの方はいるでしょうか?以前なら上下二巻本あるは上中下の3巻本で出版されたような本が、一冊に纏められて出る傾向が顕著になってます。昔々の電話帳のような巨大な本です。出版の事情がだんだん厳しくなって2巻本や3巻本を出せなくなっているのです。
できたら、分冊にしてもらえると持ち歩きも楽だし、内容を理解するためにも、整理が付きやすいのですが、そいうい贅沢はいえないようです。サイモン・シャーマの「風景と記憶」の場合、ページ数は738ページ。いや、本の厚さ(ツカ)が6センチと言ったほうがいかに厚いか解ってもらえると思います。しかも本文は二段組です。
私は現在の「再販制度」と「委託販売制」で作られている書籍の流通システムには疑問符を持っていますが、かといって自由価格にしろという意見にも賛成しかねるのです。にんじんや大根は日々、その値段は市場での取引で変化しますが、値幅の動きにはおのずと限度があります。本の場合、変化の値幅の動きはにんじんや大根の比ではありません。今のところ、古書の値段は下がっていますから、そう言ってもあまり気にならないかもしれませんが、これが上がりだしたら、とんでもない値段になることもありえるのです。
これだけ物品があふれている世の中で、本の装丁はだんだん貧しくなっています。それだけではなしに、在庫も乏しくなっているので、数年前に出版された本が新刊では入手できなくなっています。文庫とか新書で安く本が手に入るというのは一見良いことに見えますが、数年前から文庫や新書は本の著者にとっては、「ダンピング」に近いような現象を起こしています。そして文庫や新書でさえ、店頭からすぐに消えてしまうというのが現実です。こういう現実について少し考えてみて欲しいです。こうした現象はこれからまだまだ続くでしょう。
結果として本はたいへん高価なものになってしまうことになるのではないでしょうか?発行部数が少なくて単価が高ければ、いずれ古書市場で、定価以上の値段がつき、それでも入手困難ということになるのは目に見えているのです。
261 20050728 うさぎの葬式 「楽隊のうさぎ」は文庫本にするときに解りやすい拍表紙がいいということで、吹奏楽の絵になりました。単行本は満開のさくらの木の下で、うさぎの嫁入りとうさぎの葬式の行列が出会って、川の渡し守がどっちから先に渡そうか悩んでいるところです。
この本の表紙は気に入ってくれている人が多いのですが、うさぎの嫁入りには気付いても、うさぎの葬式に気付いている人はあまりいません。よくみると画面の右側の行列には棺おけが描かれています。昔の桶のかたちをした棺おけです。花嫁衣裳は目についても、桶型の棺おけはもう知らない人もいるかもしれません。
この絵はすごく気に入っていて、自分で所有したいなあと思った絵です。実物は杉板に描かれているかなり大きな絵です。絵を眺めていると、満開のさくらのしたにいるような気分になります。
260 20050727 6カ国協議 北京で北朝鮮を巡る6カ国協議が始まっています。日本の新聞、テレビは拉致問題がはずされることをしきりに報じていますが、今度は今までにない緊張感が漂っています。この緊張感を最初に感じたのはアセアン会議に出席した小泉首相のコメントでした。あまり冴えない顔でコメントしていました。
おそらく、今度の6カ国協議が決裂すればアメリカの武力行使を考えているに違いないのです。朝鮮半島で武力行使した場合に直接の影響を受けないのはアメリカだけで、ロシアも中国も韓国も日本も直接の影響を受けます。それでもアメリカは決意すればやるでしょう。首相の冴えないコメントはそのあたりに原因があるのではないでしょうか?アセアン以降、韓国からも中国からもそうじた事態を避けようとするニュアンスのコメントが出ています。
なにがなんでも纏めると、そういう緊張感が中国、韓国、ロシアにあるのです。そのあたりのニュアンスをもうちょっと報道して欲しいのですが……。
報道にもの足りなさを感じます。拉致問題も重要なことは間違いないのですが、どうもそれに視点が固定されすぎてしまう傾向があるように思えます。北朝鮮問題とは別ですが、イラクのサマワもだいぶ緊張が高くなっている様子で、こちらも日本にとってはかなり面倒な事態に進んでいるように見えます。
259 20050726 今日は一日台風 日大の院生の皆さんとフィールド・ワークに出る予定でしたが、今日は中止。一日、台風と付き合って過ごすことになりそうです。南海で出来たままの台風が産地直送(笑)家の窓から見ていると東から西へ吹いていた風が南から北へ変わる様子を白い雨脚の動きで眺めることができます。(9:00)
お昼のニュースでは暴風圏が消えてしまってました。なんだかちょっとがっかり。なんてね。無事がなによりですが、ごうごうって吹く風の音てなんだかおもしろいです。やはり関東近海は海の水の温度が低いのでしょうか?今年は海水面が上昇しているので、まだ高潮には用心がいります。外は白い雨。(13:33)
産地直送の台風のおかげで南の湿っぽい風が雨と一緒に吹き込んできました。で、今夜はなぜかタイジャブ。一時、東京でもタイシャブとかタイスキとか言って流行してました。ナンプラーとライムにレモンでお野菜やさつま揚げ、お豆腐それにお肉などをスープにさっとくぐらせて食べるとさっぱりしていておいしいです。
台風のほうはなんとなく過ぎましたが、ずいぶん雨が降ったので、これから増水などの被害もあるかもしれません。(20:10)
バンヤン、台風7号のアジア名はそう呼ぶのだそうですが、20時頃、千葉県の鴨川に上陸したそうです。ちょっと掠めたとかお立ち寄りとか、そんな感じでしょうか?それにしてもここのところ千葉は地震の震源に台風の上陸で賑やかなこと。(20:49)
いやあ、今日(27日)は暑くなりそうです。バンヤンは北海道沖まで行ってしましました。こんな進路の台風は珍しかったです。(27日 9:00)
258 20050725 なんとかバトンってのが なんとかバトンとかい言うのが流行っているみたいです。太平洋プロジェクトさんはブック・バトンってのをやっていたし、豆蔵さんはミュージック・バトンってのをやっていてかつ、次のようなコメントをしてました。
「5.バトンを渡す5人
よし、渡そう。
・未卯
・patoriot
・歌羽深空
・カナ
・左右田紗葵
あぁでも、未卯→左右田さんというラインがありそうだな。
・じゃあ、中沢先生、お願いします。
でも中沢先生は「わからん!」って投げそうなので。
だれがいいかなぁ。
よし、アナトーさんにしよう。
(その前に、ここを見ているかどうかが謎ですが)」
どうも幾つかの質問に答えてから、同じ質問を5人に回すというのがルールみたいです。これってチェーン・メールなのかな?でも質問に答えるところがおもしろそう!で質問はいかのようなものでした。
1.パソコンに入ってる音楽ファイルの容量
2.今聞いている曲
3.最後に買ったCD
4.よく聞く、または特別な思い入れのある5曲
確かになあ、豆蔵さんの言うとおり1については息子に聞かなくちゃ解らないし、2はこの頃、人と共同の仕事が多くて、一人でいるときは音楽を聴きたくないし(カラオケのやりすぎだって)で3は伊福辺昭吹奏楽作品集ってのをアマゾン・コムで5月に買ったんだけど、まだ聞く閑がないままになってます。伊福辺昭は「ゴジラ」のテーマ音楽の作曲家といえばなんとなくあれかって思う人が多いのではないでしょうか?
で、4なのだけど、この最後に買ったCDを聞いてからじゃなくちゃ答えられない。ま、だいたい豆蔵さんの言うとおりでしたね。
次にまわす5人だけど、これも無責任でいいのなら
1、柳川寧々さん
2、井上絵未さん
3、やさぐれプーさん
4、とのくんの友人さん
5、九十九里の和さん
ってな感じかしら?
ねえ、豆蔵さん、これでいいの?それから「ショッチュウ、お見舞いできないいですけど」そろそろ「豆蔵通信」を出しませんか?
257 20050724 地震のあとは台風ですって どうも台風7号が接近して来るようです。いや、このまま行くと今年最初の上陸する台風になりそうな様相です。やれやれ、地震のあとは台風。次から次へとよくもと、いささか呆れた感じです。
京都の唐紙、唐長の文様を眺めてました。とくに用事があるけれでもないのですが。江戸時代から伝わる版木が600枚もあるそうです。そのうち50枚ほどは桐の柄だということです。兎模様もあります。「後ろ向き兎」というのが、私のお気に入り。
現代の建物はビルト・アンド・クラッシュが多いのですが、考えてみると日本の建築はお城や寺社のような特別なものは除外すると、地震に台風、それに火災で、ずっとビルト・アンド・クラッシュが自然に続いてきたようなものです。壊して建てる。建てては壊す。でも美しい。そしてリサイクルができる。そういう建物を作らせたら日本はすごく旨いのではないでしょうか?
「木と紙で出来た家」という言葉は日本の建築を揶揄する時に使われていましたが、木と紙の家なら地震でつぶされても大怪我で済むかもしれないし、火事になってもすぐに逃げ出せるし、台風で壊されてもまた建てればいいのですから、そんな家ができないかなって思っています。100年も200年も住める民家もすてきですが、もっと軽やかな家に住むのも悪くないなあと、地震だの台風の時に夢想している私はよほどのんきな性格なのでしょうか?
256 20050723 皆さん ご無事でしょうか? すごい地震がありました。埼玉県南部は震度5弱というので、スタッフ・ルームのほうに豆蔵さんが「無事ですか?」とコメントを入れてくれました。いやあ、怖い怖い。6月にも品川あたりが震源の地震があったように記憶してますが、今度は千葉県でした。ここのところ関東南部でもけっこう地震が続きます。地下鉄に乗っているときなどに地震にあいたくないですね。テロも怖いけど、地震ばかりは・・・。
昨夜はおいしいシャンパンを飲みました。イタリアのフェラーリが作っているシャンパンです。で、今日はぼうっとしていたらぐらぐらと揺れて、そのうち、本の山がどっと崩れだして、ああ、これは大きいなあと、で最初にしたのはテレビを付けました。大相撲中継だったんですけど。おかげさまで無事でした。
255 20050722 今夜、世界は騒がしい ロンドンでまた爆発がありました。連動しているのかどうかわかりませんが、イラクでもひどい自爆テロがあったと伝えられています。2週間前のロンドンの爆発事件の時にもイラクで大規模な自爆テロがありました。
今回のロンドンの爆発は小規模だと伝えられていますが、たとえ小規模でも、忘れた頃にまた爆発があるというのはロンドン市民にとっていやなものでしょう。
人間は「忘れること」ができるから安心して生きてられる動物なのですから。これまでの数々の厄災を全部、忘れることなく記憶していたら、きっと怖くて生きてられないはずです。それを忘れさせない作戦だとしたら、こんないやなテロはありません。沢山の負傷者や死者がでる大規模なテロよりも、全てのロンドン市民とロンドンを訪れる人々が、不安を抱えた状態になってしまうのですから。まだ今夜のところではテロなのかどうかはわかりませんが・・・。
今夜、中国は元の切り上げに踏み切りました。2パーセントですから、たいしたことはないのですが、これは始まりに過ぎないのでしょう。将来的には10パーセントを超える切り下げが行われるでしょう。問題はその速度です。案外、早いのではないでしょうか?それでどうなるのかっていうのはやはり人の頭(専門家)を利用したいところです。
日本でも固定相場から現現在の変動相場に移行するときには狂乱物価などのインフレに悩んだ時期がありました。中国ではいったい何が起こるのでしょうか?人の数が多く、沿海部と内陸部の経済格差が大きいので、日本以上の不安定要素がありそうです。日本の歴史と中国の歴史を睨み合わせて見てみると、中国が揺れるときには日本も揺れるのですから。
もし元の切り下げが順調に進めば、これまで以上に中国からの留学生や観光客が増えることは間違いありません。そうなって欲しいと思います。
それにしても世界は騒がしいです。これからもっと騒がしくなるような予感がします。
(22日AM10:00 追記)ロンドンの爆発はやはりテロでした。ブレア首相も心理作戦と見ている談話をだしています。
中国は通貨バスケット制を採用したということです。元の切り上げはアメリカの圧力が強かったのですが、それがドルの地位の下落を招くという皮肉な結果を生みそうです。
254 20050721 頭の話 森鴎外は奥さんに「なんでこんなに本を買うのか?読みきれないほど買ってもしょうがないじゃない」と言われて「馬鹿!俺の頭だけじゃ足りないから本を買うんだ」と答えたそうです。
聖ロカ病院の精神科医の大平健さんは「病理学ってのは個人の頭だけを調べるけど、だからわかんないことがおおくなるんです。人間は他人の頭も利用して生きている生き物だからね。何か忘れた時に、ほかの人に尋ねたりして思い出すかわりにするでしょ。あんなふうに一人の頭だけじゃなくて、他人の頭も使って生きているんです」とおしゃっていました。
パーソナルメディア社のHさんは「携帯電話っておもしろいですね。これって、誰も電話番号を覚えようとしないでしょ。マシーンに記憶させてあるから。なんだか頭の中身を携帯電話のほうに出して使ってみるみたいですね」とおしゃっていました。
人間の頭ってのはもともとネットみたいになっているんですねえ。なるほど、なるほど。そう考えてみると時にはみんなの頭が悪くなっちゃうコンピュターウィルスみたいな人間どうしの悪いコミニュケーションもあれば昔から「三人寄れば文殊の知恵」というくらいに、頭を二倍にも三倍にみ使えるようになるコミニュケーションもあるんですねえ。
253 20050720 ひとりの時間 ここのところ、ほかの人と一緒に仕事をする時間がふえています。すると、不思議なことがおきました。ひとりになると頭の中がからっぽになっているのです。何も考えていないというと、無念無想などを連想していいことのように思う人もいるかもしれませんが、そうじゃなくて「からっぽ」とか「あほ」とか「ばっかみたい」の類いです。
会社に勤めている人が、社内のうさわばなしや人事の話が好きな理由が解るような気がしてきました。なんであんなに人事がらみの話がすきなんだろうって、不思議に思っていたのですが「からっぽ」とか「あほ」とか「ばっかみたい」の状態の頭に浮かぶのは、たいてい直近の過去に体験したことばかりで、人と共同で仕事をしていると、自然に一緒に仕事をしている人の顔や態度が浮かんでくるんです。なろほど、こんな心理状態だったのかと改めて納得してます。
そうしてみると、ひとりの時間ってのは、頭を良くする時間なのかもしれません。うまく言えないのですが、ひとりの時間は頭のご飯の時間で、ほかの人と共同で仕事をする時間は頭の体操の時間みたいなイメージです。
頭のご飯の時間をちゃんととらなくっちゃ、カロリー不足になってしまうのでしょう。きっと、そんな感じですい。
252 20050719 連休が終わってさて夏休み 連休が終わったら夏休みという学校も多いでしょう。今年の夏休みは東京の美術館や博物館を歩いてみようかなと思っています。できたらという話ですが・・・。
夏休みになったらなんとかしますと約束した仕事の山を考えるとそれどころではないのですが。いや、でも夏休みに何をしようかなって考えるのはすごく楽しいので、その楽しみくらいは味わってもいいかなって(で、仕事の山はどうなるのだ?)
外国の都市に行くとせっせと名所旧跡博物館美術館と周り歩くのに、東京では行ったことがない美術館や博物館がたくさんあります。(仕事の山だけじゃなくて、この間、申京淑さんに、夏休みになったら、生活韓服を買いにソウルに遊びに行くって約束しなかったけ?)で、まるでよそから来た人みたいにぶらぶら歩いたら楽しいだろうなあと空想(空想はいいのですが、夏休みになったら飲もうとかなんとか約束した人が幾人いる?)
夏休みが無限にあるような気がしてくるのは、毎年7月20日前の恒例なんですが・・・。(それにしても気が多いとしかいいようがない)
251 20050718 忘れてない?イラクの自衛隊のこと ロンドンでのテロ事件に続き、昨日はイラクで大規模なテロ事件がありました。テロ事件があるたびに「テロには屈しない」という言辞がひとり歩きしてしまいます。そうこうするうちに、イラクから自衛隊を引き上げるタイミングを逸してしまうのではないでしょうか?
「テロには屈しない」といわざる終えない状況があるのですから、サマワの自衛隊を引き上げる期限をきちんと決めるべきなのです。一時、12月には引き上げという説がかなり信憑性の高いものとして流れていましたがこの頃、消えてしまいました。
テロ事件のたびに、テロの原因をなくすことも必要だとして「貧困撲滅」などが上げられていますが、どもうこちらの意見もピンと来ないのです。ほんとうに問題は「貧困」にあるのでしょうか?ロンドンでもニューヨークでも狙われたのは金融街でした。「金融」に対する憎悪と「貧困撲滅」が一直線には繋がらない感じがします。
7月14日のパリ祭にフランス各地で起こった騒乱といい、断片的な情報は日本の新聞も伝えているのですが、そうした事件の裏で動いている思想的哲学的変容はほとんど伝わってきていません。物を考える手がかりが伝えられていないのです。
伝わってくるのはアメリカ政府高官の談話ばかり。派遣する時には賛否両論であんなに大騒ぎしたイラクの自衛隊も、どうかすると引き上げが難しくなりかねないのに、引き上げ時期の明示するように政府に迫ることはないというのも、ちぐはぐな状況に思えます。これも物を考える手がかりを失っているためでしょうか?
250 20050717 危険?なパフェ 光が丘公園でお祭りをやってました。で、雑踏の中で変わったものを見つけました。豆電球に水あめが巻きつけてあるのです。闇にぴかぴか光る水あめ。けっこう人気で、小さい子から高校生くらいまで、あっちでもこっちでもぴかぴか光るあめをなめていました。
誰がこんなしかけのあめを考えだしたのでしょう。豆電球は点滅されることまでできるのです。すごい!
小さな女の子がそのあめを、お父さんに買ってもらってました。そして、お父さんは心配そうに「ねえ、熱くないかい?熱くないの?」と聞いていました。
それで思い出したのが危険な?パフェのこと。子どもたちが小さいときに、あるファミリーレストランに食事に行き、ドライ・アイスの煙がもうもうと出ているパフェを注文したのです。ガラスの入れ物が二重になっていて、外側に赤い色をした水が入っていました。水の中でドライ・アイスが煙を出しているのです。で、ガラスの器がもうひとつあり、そこにパフェが盛り付けられていました。
煙がもくもく出てくるパフェを大喜びで食べていた子どもたちですが、盛り付けられたクリームやお菓子を食べ終わった頃には、煙のすっかり消えました。で、ガラスの器をはずして、中の液体を眺めていた子どもたちは
「お母さん、これ、飲んでもいいの?」
と聞いたのです。ドライ・アイスの入っていた液体を飲むことなど想像してなかった私はただただ絶句。
とても飲みたそうにしているので「まて、まて、まて」と押しとどめて、自分でちょっと赤い液体をなめてみました。甘いのです。口に入れていけないものなら甘い味付けはしないでしょう。でも、まだ、不安。で店員さんに尋ねました。「これは飲めますか」と。「はい、飲めます」と聞いても半信半疑。子どもたちはもう赤い液体を飲み始めてました。
ううん。よく怖くないなあと半ば呆れながらも私はかなり不安な気持ちでいました。ドライ・アイスって毒じゃないのは解っていても、なんだか魔女のおばあさんに騙されているような気分でした。
249 20050716 いったいヨーロッパでは何が いったいヨーロッパでは何が起きているのでしょう。以下のようなニュースをネットで見つけました。時事通信が伝えたものです。
「14日のフランス革命記念日(パリ祭)は大荒れとなった。ロンドン同時テロの直後でもあり、警備に多くの治安要員が動員されたが、パリと周辺地域を中心に騒ぎが多発し、約200台の車が焼かれ、数十人が検挙された。若者たちと警官隊との衝突も発生した。」
この記事によると警察は肩掛け式の手投げ弾発射機まで用意したということですから、尋常な騒ぎではありません。200台の車が焼かれたのです。いったいこの騒ぎはどのような不満から引き起こされているのでしょう?パリ北部郊外ではシナゴーグに火炎瓶が投げつけられたそうです。
ヨーロッパではいったい何が起きているのでしょうか?宗教対立なのか?それともEUの統合への不満なのか?事件を伝えるだけのべた記事では不可解なことが多いのですが、去年の夏あたりから、こうした警官と一般の人々の衝突の記事を時々見かけるようになりました。
248 20050715 小さなお屋敷 マンションって2DKでも3DKでも小さなお屋敷だなって思うことがります。隣家との距離がとっても遠い小さなお屋敷で、家の中で何もかにも用事を足らしてしまおうと思ったら、たいていの用事が済んでしまうという、そういう小さなお屋敷です。
で、このお屋敷はあんまり小さいものですから、片付けるのにはたいそう手間がかかります。一日放りだしておくとそれだけもう雑然としてしまいます。こまごまこまごまと片付けておかないと、とたんに何がなんだかわからない乱雑さが出現します。
やれやれ小さなお屋敷を保っておくのも容易じゃありません。ここのところ宴会続きだったのです。ですからお屋敷は荒れ放題。八重葎のかわりに新聞紙になりかけた新聞が散らばり、蓬のかわりに、ファックス用紙が散乱しています。
247 20050713 クーーール・ミズ 電車の中で見かけた豊島園のポスターです。「クール・ビズ」ではなくて「クーーール・ミズ」の文字の下は青く輝くプールの水。来週には梅雨明けしそうな様子です。このポスターの隣りには、バスタブの中で浮き輪を使っている小さな女の子。「イメージ・トレーニング」の文字。うちでも子どもたちが小さいときは風呂場でイメージ・トレーニングをやってました。浮き輪だけじゃなくて、水中眼鏡までかけてました。
東京新聞で、政治部記者と話そうという連載をやっています。一ヶ月に一回くらい、政治部の記者の高田さんをお話しています。で、今回は「クール・ビズ」が話題になるのかな?と思っていたら、「党議拘束と政治家個人の政治信条」でした。記事は来週でるはずです。
で、これはたぶん記事にならないかもしれない雑談なのですが、政治家の発言よりはどんな襟のシャツが似合うかで、政治信条が一目瞭然になりそうという話になりました。例えば、開襟襟が似合いすぎるあの人とか、ボタンダウンのシャツを着たとたんに学生時代のお金持ちお坊ちゃまの素顔を見えてしまうあの人とか、なぜかマオカラーが似合いそうな怪人とか、ここには具体的な名前が入っていたのですが、それはご想像にお任せします。
ちょっと前に「豆畑の友」のスタッフ・ルームでもクール・ビズが話題になっていました。
246 20050712 申京淑さんにお目にかかって来ました 日曜日(10日)法政大学のスカイホールで行われたシンポジウムで久しぶりに申京淑さんにお目にかかってきました。今回はご主人も同行されていました。背の高い詩人であり、評論家であり、大学でも文学を教えているというご主人でした。どちらも静かな方です。
ときどき作家というのはなんと物覚えがいいんだ!と驚かれることがありますが、申京淑さんについて言えば、私も驚嘆するほどの記憶力を持っています。2000年に青森で開催したシンポジウムの時に履いていたスカートをご記憶でした。豆畑の朗読会の時にも履いていたスカートです。ベージュのロングスカートですが、胸元に紐がついていて、紐を縛って着るようになっています。KENZOのもので、朝鮮のチマ(チマチョゴリのスカート部分)からヒントを得たデザインだったのを、おもしろがって着ていたのです。
申京淑さんは「懐かしい」お人柄で、別段、お話することはなにもなくてもそばにいるとほんわりと和んでいられる感じの人です。
245 20050710 街路樹多難 お知らせが遅くなりましたが、以前「豆の葉」にかいた街路樹の剪定に関連して、以下のようなお手紙をいただきました。
「7月7日付けの日本経済新聞夕刊に、街路樹の強剪定についての記事が掲載されておりましたが、ご覧になりましたか。
緑を増やそうと街路樹を植樹したにもかかわらず、予算不足で丁寧な管理ができないためにバッサリと枝を落とさざるを得ないという事情が報告されています。
葉っぱが一枚もない街路樹では、なんのための緑地化なのでしょうか。自治体の無計画な管理のために、日本中の街路樹が悲鳴を上げているかと思うといたたまれません。
これからの季節、炎天下の街中でも、木漏れ日の下で足を止めれば、ほっと一息つけるような、立派な枝ぶりの街路樹を守っていかないといけませんね。」
今日になってようやく日経の記事をみつけて読むことができました。7月7日夕刊17面の「樹木多難」という記事です。その記事によると東京都の場合は、街路樹の管理のための予算のピークは1996年で、現在はその当時の半分の22億円ほどの予算になっているそうです。にもかかわらず、都が管理する樹木は96年当時の13万本から16万本に増えているとのことでした。
チェーンソーでいきなり幹を切ってしまうような剪定を強剪定というのだということも、この記事でしりました。また競争入札が影響しているとの指摘もありました。それにしても、街路樹そのものをからしてしまうような剪定は乏しい予算の二重の無駄遣いに見えます。
244 20050709 真っ白なアカパンサス アカパンサスは紫色の花です。この季節、ちょっとした植え込みなどで花を咲かせています。ブルーに近い紫なのになぜ「アカ」パンサスというのだろう?と、思うときがあります。もちろん外来種ですから、色名の赤とは関係のない名前なのですが。
今日はアカパンサスの真っ白なのを花屋さんで見つけました。百合の花を買いに行ったのです。うまくすると笹百合があるかもしれないと出かけたのですが、残念ながらありませんでした。笹百合は奈良の三輪神社の花で、お祭りの時は巫女さんたちが笹百合を頭に飾るのだそうです。野生種で栽培はしていないので、あまり市場にでません。また市場に出るのも、この季節だけです。
最近では山百合もあまり市場に出なくなったとのことでした。日本の百合がヨーロッパに渡って、栽培されてカサブランカのような栽培種が出来たという話も聞いたことがあります。笹百合といい、山百合といい、日本のうっとうしい梅雨の季節の野山をさわやかに見せてくれる花です。で、そうした野生種の百合を見つけられなかたのでかわりに白いアカパンサスを買って来ました。
243 20050708 また鍵を忘れる やれやれ。また鍵を忘れました。どこのって、家の鍵。出かける時に家に誰かいる時が危ない。ってのが解っていても、ついついやってしまうのです。
帰りのタクシーの中でロンドンの同時多発テロのニュースを聞きました。(その段階ではまだテロかどうかはっきりしなかったのですが)で、家に帰ってテレビで映像を見ようと思っていたのに、鍵がなくて家に入れず、うろうろ。
ロンドンのテロ事件ですが現時点で(0時58分)ニュースが伝わってくるのがいやに遅いように思えます。ブレア首相がロンドンに戻るのを待って全体像がはっきりしたニュースを発表するという手はずになっているのでしょうか?
242 20050706 水玉みずたま水玉 水玉という柄があります。雨が降る日の水面を見ているとたくさんの水玉が描かれては消えて行きます。
水玉の柄がすきという人がいます。私はなんだか知らないけれども、子どもの時から、水玉柄には複雑な感情を持っています。好きなのか嫌いなのかよく解らないのです。でも、どっちでもいいというわけではないのです。ううん、なんと言ったらいいのでしょう?「あ、水玉だ」と思ってそれからが「・・・」でこの・・・の中に何か入っていそうで、それが何なのか解らないもどかしい気分です。
水玉模様の傘でも買おうかしら?
241 20050705 お経を唱えるプリンター どういうわけだか、うちのプリンターは仕事をするときにお経を唱えます。
「ギャテイギャテイ ハラ ギャテイギャテイ」
という具合です。でもそこだけしか覚えていないようで「ハンニャシンキョウ」全部にはならないのです。ま、ばっちり唱えられたら、プリンターさまさまで、何かプリントするたびにお辞儀をしなくちゃならないでしょうけれども。
240 20050704 雨の夜に 今夜は遅くまで家の窓を開け放っておきました。雨の音がします。コンクリートの家に住んでいると雨の音は貴重なものに思えてきます。
一軒屋なら屋根を打つ雨の音で「あ、洗濯物を取りこまなくちゃ」とか「これでちょっと涼しくなるかな」なんてことを思うこともしばしばありましたが、コンクリートの家に住んでいると、そんなふうに雨の音を聞くこともなくなります。
雨粒が水に落ちた時にできる模様を描いている浮世絵や唐紙の図柄がありますが、よく見ているなあと関心します。昔の人は見るものがなかったから、そんなものでもじっと見ていたのかもしれませんが、じっと見ているとだんだんこの世の中に住んでいるのが好きになってくるから、おもしろいものです。
今日はずっと昼間から雨の音を聞いていました。夜になってもひっそりと雨の音がしている東京です。
239 20050703 申京淑さんの「離れ部屋」 申京淑さんは韓国を代表する女性作家です。90年代に若い世代の新感覚の表現する作家として絶大な人気を博しました。6月に日本で出版された「離れ部屋」(安宇植訳 集英社)は申京淑さんの長編2作目です。
経済的に豊かな社会に相応しいセンチメントを表現できる作家だと思います。とりわけ「離れ部屋」は重要な作品です。日本のみならず、アジアやアメリカで韓国映画が注目を集めていますが、映画のような多くの人を動員するコンテンツを支えているのは、文学創作の力が新しい感覚を切り開いているからだと思います。
来週の日曜日(10日)法政大学で申京淑さんと津島佑子さんの対談があります。また同じ日に川村湊さんと野崎歓さんの韓国映画を巡る対談もあります。お時間のある方はぜひ起こし下さい。
2005年7月10日(日)
法政大学ボアソナード・タワー26F スカイホール
15時開場 対談開始15時30分 18時終了予定
入場無料(どなたでも入場できます)
「対談 韓国 文学と映画をめぐって」
自伝的なるものとフィクション
津島佑子と申京淑
東アジアの映画世界
川村湊と野崎歓
主催 法政大学国際文化学部 協力 集英社
優しい声で話す申京淑さんに久しぶりにお目にかかるのが楽しみです。
238 20050702 異常潮位 今日(7月2日)の日経新聞社会欄に気象庁が異常潮位に注意を呼びかけているという記事がありました。100年の間で、今年は最高に潮位が高まっているとのことです。100年といえばおおよそ気象観測始まって以来ということになるのでしょう。
沖縄では数年前から異常潮位が観測されています。また異常潮位は年々、北上する傾向があるのだそうです。今年の異常潮位は黒潮の蛇行が原因だと新聞は報じていましたが、それだけが原因なのでしょうか?
地球温暖化によって潮位が高まっていると言われています。実際の被害も出ているのですが、不思議なくらい関心が低いのはどうしてでしょう。
夏は海水の温度が高まって、そのために海の水も膨張するのです。夏の大潮の夜、まんまんとした海の水に丸い月の光が投げかけられている様子は、子どもの時から心奪われる景色のひとつでした。今にも水が膨れ上がってくるような切迫感があり、水は滑らかな闇に見えました。
237 20050701 蒸し暑いから 東京の夏は数年前から、梅雨の頃にとんでもない暑さの日が来るようになっています。36度とか38度なんて体温よりも気温のほうが高い日があります。
蒸し暑いはなぜかビールじゃなくて冷えた白ワインが飲みたくなるのはなぜでしょう。以前は湿度の高い東京では、ワインを飲むと身体じゅうの血管がじんじんするような感じがしていたのですが、この頃は、じとっとした感じを楽しむような、へんな感じ。じんじんしている血管を抱えて白ワインを飲んでいるんです。蒸し暑いのを楽しむ方法を探しているみたいです。
それから貝。いまごろの季節はあおやぎとか赤貝とかその他いろいろな貝がおいしいのも、蒸し暑いと白ワインが飲みたくなるのが関係しています。貝と白ワイン。なぜか「水の味」がします。水っぽいじゃなくて、葡萄や貝の中に蓄えられておしいくなった水の味がします。
こういう濃厚な水の味で、蒸し暑さに含まれた湿気と闘っているのです。
236 20050629 伊藤比呂美さんから朗読会出演承諾のお返事がきました。 じゃん!伊藤比呂美さんから第2回目の「豆畑の朗読会」出演について快諾のお返事をいただきました。
「朗読はもちろんです。
来年の三月といったらまだまだ先ですが、それまでに腕をみがいておきましよう。
(というか詩をかいておきましょう)」
というわけでぴかぴかの詩を読んでもらえそうです。
235 20050629 だいたひかる 一度だけ、テレビで見たんですが、で、かつ、それほど強烈な印象というのでもないのに、時々、だいたひかるが「どうでもいいですよ」と歌いだすことがあります。もちろん私の頭の中で。
♪もしもし 亀よ 亀さんよ♪
が流れているうちはいかに「亀の呪い」にのろわれていようと、淀んだ川の流れが再び急流に差し掛かるように、なんとかなるのですが・・・。だいたひかるはまずい。ちゃらちゃらとふあふあの間のちゃらふあな声で
♪どうでもいいですよ♪
と歌いだされると、これはかなり重症の「亀の呪い」どころか一歩も前に進まなくなっちゃう「うさぎ眠り」状態。たくさん、原稿を書いている時っていろんな症状が現れるものなのです。
234 20050628 亀の呪い 原稿をあせって書いていると、焦れば焦るほど、ああ「亀の呪い」にかかっているなあって、感じる時があります。いつもより「遅い」どうしてこんなに「遅いんだ」って感じで。
これが「亀の呪い」現象です。なんてね。冗談言っている場合じゃないんだけど。
♪もし、もし亀よ 亀さんよ、どうしてそんなにのろいのか♪
まあ、そんな具合なんです。亀さんの歌を歌っているからって仕事をしてないと思わないで下さい。なにしろこれが「亀の呪い」をとく一番良い方法なのですから。
233 20050627 井戸の話 館山の家のすぐそばにつるべ井戸のある家があったのをふっと思い出しました。黒いタールを塗ったトタン板で屋根も壁も作った小さな家でした。家の戸口はひとつ。戸口の前につるべ井戸がありました。
一度だけその家の庭に忍び込んで、つるべ井戸にあったバケツを落としてみたことがありました。からんかんかんかんと、派手な音をたててバケツは井戸の底に下りて行きました。井戸の覗き込んでみると、底には黒い水がたまっているように見えたのと、バケツの落ちる音がよく響いたので、誰か大人が出てくるのではないかという不安で、ついにバケツを引き上げることはできませんでした。
その頃は私の家でも井戸水を使っていました。家の中にはモーターで井戸の水を引きこんでいましたが、外では手押しポンプで水をくみ上げていました。ポンプの柄を両手でつかんでじゃんじゃん水を出すと、今日のようにあつい日はほんとに気持ちが良いものでした。
井戸水は夏は冷たく、冬は暖かいのです。
232 20050626 うさぎとトランペット2刷り おかげさまで「うさぎとトランペット」もたくさんの方に読んでいただているようです。品切れになっている本屋さんもあったようですが、6月25日つけで2刷りが出ました。もう本屋さんに並んでいることだと思います。
それから「楽隊のうさぎ」新潮文庫版も4刷りが出る予定になっています。こんなにたくさんの方に読んでもらえてうれしいです。
ついでに朗読会の追加のご報告。ネットの演劇サイトに「豆畑の朗読会」のことが載ってました。「まったくうまさはなく、作品の良さが伝わって来ない」という評価でしたが、裏町の小さな画廊の朗読会を見ていただいていたんだなあとなんだか感心してしまいました。サイトの名前を覚えていればよかったのですが、ごめんなさい、忘れました。プロの役者さんと比べられるなんて!オリンピック選手と比べられた水泳初心者の心境でした。
231 20050625 エルメスの茶碗 エルメスのマグカップをプレゼントされたのは電車男ですが、こちらは私が自分で買ったエルメスの茶碗。ナイルというシリーズのひとつですが「ライスボール」という表示があったので茶碗もあながち間違いではないでしょう。日本向けのパーツかもしれません。
エルメスは革製品やスカーフが有名で磁気はいまひとつ魅力を感じませんでしたが、この茶碗、写真では見にくいかもしれませんが、横から見ると内側のハスの花の茎が、ぐるりと回って、外側の葉の茎と繋がっているように見えます。そんなマジックに騙されてつい買ってしましました。これで紅茶を飲んでいます。 231.jpg
230 20050624 去年の「豆の葉」 去年(2004年)長崎で小学生が犯人の殺人事件があった時に「豆の葉」に何か書いたかなと見直してみました。なんとも凄惨な事件なので書きようがないという感じだったみたいです。
話は変わりますが、イラクを占領していたアメリカが主権移譲をしたのは昨年の6月末でした。抜き打ちの主権移譲で、日本政府も事前には知らされてなかったのです。これに腹をたてて、自衛隊をイラクから引き上げる時期を明確にしたほうがいいということを書いていました。それから一年。イラクのサマーワで自衛隊を狙った爆発事件がおきました。
今年12月には自衛隊を撤退させるという話がちらりほらり出ています。かなり確実な計画のようです。イラクへの派遣を反対した民主党も、撤退の時期について、政府にどのくらい迫ったのでしょうか?なんかだ、あまり議論もなかったように思えるのですが。
飲酒議員を問題にしてみたり、審議拒否をしてみたりそんなことばかりが目だってしまうのは、報道の仕方が悪いのでしょうか?
229 20050623 6月って 朗読会が愉快だったんで、あんまり深刻なことを書きたくないなあって思ってます。でも6月って、なんだかすごく深刻な少年事件が多いような気がするのは、気のせいでしょうか?今日の新聞の夕刊に載っていた少年の親殺しの事件の一覧を見ると6月に限らないのですが・・・。
夕方、成増の駅のほうに買い物に行ったら、新聞記者が中学生や高校生の談話をとってました。私は車の運転席からそれを見ていたので、どんな話をしていたのかはわかりません。でも、新聞記者の身なりがよくなったなあと思わず感心。支局の人か社会部か、いずれにしても若い記者でしょうけれども、昔よりもおしゃれになってます。
そう言えば、JR西日本の事故の時、ものすごい居丈高な発言をして問題になった某新聞の記者も背広はけっこういいのを着てたなと思い出しました。背広っていう衣服は不思議で、緊張感があると安物でも上等に見えたりするんで、そのせいでちょっと良く見えているのかもしれないんですが・・・。やや複雑な感じ。
アメリカでおきたカード情報流失事件はそれこそ一時間ごとに、日本での被害額も百万単位、千万単位、億単位とどんどん膨れ上がっています。これもなんだかこれだけじゃあ済まない感じ・・・。こっちのほうはご近所の大事件じゃなくてうちの中の大事件かもしれないってところが嫌です。新聞に載る億単位の被害額と比べれば少ない金額でもうちの家計じゃ大打撃ってことだってあるから。
空梅雨だけど、ちょっと曇り空っぽい6月です。
228 20050622 板橋管理人殺害事件 おとといの大事件にはこんな名前が付いた様子です。山口県光市の高校で教室に爆弾が投げ込まれた事件があったばかりですが、この事件も少年事件と見られています。両親を殺害したあとで、部屋に都市ガスを充満されてタイマー付きの時限発火装置を使って爆発させたようだと報道されています。行方不明になっていた長男が群馬県草津市で保護され、警察は逮捕状を請求しているという報道が流れています。(22日午前)
今の都市ガスは突然、ガスが大量に噴出するとボールで噴出孔をふさぐ仕組みになっているのだそうです。ですから爆発をさせるには時間をかけて少量のガスを出してから発火させなければ爆発しないということでした。ガス漏れ警報装置もきっとついていたでしょう。
爆発についての知識を豊富に持っていたということでしょうか。ネットの検索システムを使えば、それほどの苦労なくこうした知識を手に入れることができるのは想像できます。同じ知識を図書館などで手に入れようとすると大勢の人の目を意識しなければならないのですが、ネットだとひとり孤独に知識を手に入れることができます。
私も中学から高校それに大学生の前半くらいまでは、一人でいるのが好きでした。学校で群を作るような感じの仲間が嫌いでした。ただ、最近では人間は一人で知識を得たり、ものを考えたりするのはよくないことじゃないかなあと考えるようになりました。友でも敵でも師でも後輩でも、ともかく誰がそばにいるだけで、自分を暴走から救い出せるのではないかしら。逆にみんなでなんとなくつられて暴走してしまうなんてこともあるにはあるのですが・・・。
227 20050621 個人情報保護法 ご近所の大事件もさることながら、アメリカでおきた個人情報の流失事件は日本のカード利用者にも大きく影響しそうな様子です。ひょっとすると私にもかかわりがでてくるかもしれません。ビザもマスターも利用者のひとりですから。
個人情報保護法というのはもともとこうした事態に備えるものであったはずですが、なんだカヘンテコリンなことになっています。以下、個人情報保護法が施行されてからの「なんだそれ!」
明治大学へ必要があって成績証明を取りに行きました。3月31日までは私は明治大学政治経済学部非常勤講師でもありました。もちろん、学部の職員さんとは顔見知り。どころか、学生時代から知っている顔です。で、「本人証明」が必要ということで、ううん、困ってしまいました。お互いに本人であることは充分、わかっているんですが・・・。なんだそれ!
マンションの敷地内に放置されたバイクの持ち主を知るために市役所に問い合わせをしました。「個人情報なのでお教えできません」というお返事。かわりに市役所から持ち主へ連絡してくれるということでした。同じマンションの住人の持ち物であることまではわかっているのですが、それ以上は教えられないのだそうです。
なんだそれ!
火災や地震などの災害の時に備えて、マンションにどのような人が住んでいるのか知りたいのですが、これが個人情報ということでなかなか調べられません。ご老人はいるのか、介護の必要な人はいるのか、小さい子はいるのか、こういうことが解ってないと集合住宅では、災害時に対応がむずかしくなってしまいます。でも個人情報保護法が・・・。
なんだそれ!
この法律は施行前から欠陥や不備がたくさん指摘されてました。ほんとうはデジタル社会の中で個人の情報をどう守るかが法律の目的であったのに、ジャーナリズムから政治家のプライバシーを守る方向へ、奇妙なかたちで改変されました。
これが最大のなんだそれ!です。
こんな法律を作るとそのうちに誰も法律を守ろうて思わなくなっちゃうよ。
226 20050620 大事件 大事件と言ってもまだ私はヤフーのニュースで見ただけなんですが、うちの近くでビルの管理人さん夫婦が殺されて、さらに、部屋に灯油をまかれ、ガス菅が切断されて、爆発するというものです。
息子が現場を通りかかってもうすごくかわいい新聞記者の女の人がいたと興奮してました。事件に興奮したのか、かわいい新聞記者に興奮したのかよくわかんないのですが・・・。
それにしても物騒になったもので。うちの子供たちを出産した産院のすぐ目の前です。
(追記)どうも息子は爆発直後に自転車で現場を通りかかったらしい。まだ消防車がぞくぞくと集まっていたみたいです。で、目の前で非常線の黄色いテープを張られてアルバイト先へ行く道をふさがれてしまったという話でした。
(追記)21日の新聞では15歳の長男の行方がわからなくなっているとのことでした。あああ。
225 20050619 マンションの草刈しました 今年はマンションの自治会長を引き受けてしまいました。いまさら、女性で初めてなんて、珍しくなくなりましたが、案外、自治会長なんてのはまだ女の人が少ないのです。で、私の住むマンションでも女性の自治会長は初めてです。
今日は毎年恒例の草刈でした。マンションの敷地全体の草刈をしました。あじさいの花の盛りで、これを刈られてはつまらないので、あじさいの花が終わったら、私が刈り取るということで、残してもらいました。
草刈が終わってから、小さな子どもたちが荷物を運ぶキャスターで遊んでいたので、子どもを乗せたまま倉庫にキャスターを仕舞うふりをしました。
「倉庫の中に仕舞って、鍵をかけちゃうと真っ暗だよ」
と冗談を言うと、なにやら足元にしがみつく暖かな体温。小さな男の子が青い顔で
「お姉ちゃんを倉庫にしまっちゃだめだ」
と本気で怒っています。ちょっぴり倉庫に入ってみたかったお姉ちゃんが、「大丈夫、大丈夫」と言っても男の子は口を「へ」の字にして怒ってました。
で、とうとう泣き出しそうになり、お姉ちゃんが
「一緒に倉庫に入ろう」
と言っても首を横に振ります。やあ、つまんない冗談を言ってしまいました。小さな子って、冗談が通じないのですね。結局、どうしたかというと、キャスターの上にいた子どもたちの期待にこたえて倉庫に突入しました。いつもはは入れない倉庫に入って大喜びのおともだちを置いて、お姉ちゃんはあわてて泣いている弟のところに飛んで行きました。そして泣いている弟をお姉ちゃんはおんぶしていました。
あの坊やには、私が太った鬼婆に見えたことでしょう。しかも腰には草刈鎌の入ったケースをさげていたし。倉庫の中で「なんておいしそうな子どもたちだろう」と舌なめずりをして包丁を磨いているデブ鬼婆の夢をあの坊やは見るかもしれません。きっとその鬼婆はパナップル模様のアロハを着ているに違いありません。
224 20050618 朗読会のハプニング どのくらいの大勢の人の前で朗読をしたことがありますか?という質問に谷川俊太郎さんは
「僕、20000人」
と答えました。こういう答えをする時の谷川俊太郎さんは、黒っぽい骸骨がかくかく答えるような感じがします。近代文学館の朗読会の時のことです。
「20000人!」
いったいどんな場所でそんなに人を集めたのだろうと想像も付かないで驚いていると
「辻仁成のライブでね」
種明かしをしてくれました。
近代文学館の自作朗読会は詩人や作家の映像資料を残しておくという目的で開かれています。私が出た時は谷川俊太郎さんと安岡章太郎さんが一緒でした。
で、この朗読会でちょっとしたハプニングがありました。朗読が終わってから会場の観客とのやりとりがあったのですが、ひとりのご婦人が谷川さんに詩を読んでもらいたいと差出したノートがありました。
ノートにはベントレーに寄りかかった谷川さんの写真に添えて一編の詩が書き写されていました。
「あ、これ、僕の詩じゃないよ」
一読、谷川さんがそう言い出したので会場は緊張してしまいました。
「確かに写真は僕だけど、詩は僕の詩じゃないよ。しかし、これはひどい詩ですね」
こうしてますます緊張は広がって行きます。ステージにいた私もどうしたらいいのだろうとどきどきしてました。
谷川さんは声を少し大きくして、その詩を読みます。
「あの娘をペットにしたくて」
小林旭が歌っていた自動車唱歌だと谷川さんが読み進むうちに気がつきました。でも、「「いやあ、これはひどい」と言いながら、谷川さんが読み進んで行くので言い出すことができません。結局、谷川さんはその詩を全部、読んでしまったのです。朗読っていう感じではありませんでしたが、まあ、終わってみると結果として朗読になってました。それにしても30年も谷川俊太郎の写真といっしょに自動車唱歌を谷川俊太郎の詩だと信じていた人がいるんですね。
このときの朗読会の様子はあとでビデオにして家に届けてもらいました。このビデオを見たうちの子どもたちが、その時は、中学生くらいだったのですが「ええっ、谷川俊太郎って生きているんだあ」をおおいに驚いていました。教科書に載っていたのでもう死んじゃっているんだと思い込んでいたみたいです。人気のある詩人というのは、間違われたり、死んだことにされたり、いろいろとたいへんだなという話でした。
223 20050617 インドの朗読会 朗読会って詩人はよくやる人もいるけれども、作家はあまりやりません。ただ、例外的に外国の作家のシンポジウムを開いたりする時は、お互いの作品の音の感触を確かめるために自作を読みあったりします。その場合、あらかじめ読む部分の翻訳を相手に渡してあります。
インドのカルカッタで松浦理英子さんが自作朗読をした時は、英語の翻訳を読んでました。日本語の自作朗読だと、とてもじゃなくけれども、顔から火がでちゃうくらい恥ずかしいっていうことで、英語の翻訳のほうは選んだということでした。で、ただ英語の翻訳を読むだけじゃ寂しいので、小熊英二さんが「音」を付けることになりました。
小熊さんは歴史学者ですが、ミュージシャンでもあるとのこと。で、急遽、音を付けるのにどうしかたというと会場のあるものを片っ端から叩いていました。カバンとかソファーとか鉄の柱とか、ともかくいろいろ叩いてみて、松浦さんの作品の内容に即した音がでそうなものを探して、朗読とあわせて行きました。会場はカルカッタ市内の出版社が経営している本屋さんでした。
このリハーサルの様子がすごくおもしろかったのを覚えています。おもしろいから日本でもやってみたらどうかというと、松浦理英子さんは「絶対やだあ!」という返事でした。その気持ち、解ります。
カルカッタは石を投げれば詩人に当たると言われる町で、自作の詩を読む朗読会は野外で、時には20000人くらいの人を集めて開かれることもあるそうです。
ううん、20000人はすごいなあ。詩人の谷川俊太郎さんも20000人の前で朗読をしたことがあるそうです。こちらは後楽園ドーム。それもすごい。
222 20050615 なりまさる 大学の研究室の扉を開けたまま、夜の授業が始まる前に、生協で買ってきたパンを食べてました。すると廊下ととことこと横切ったスーツ姿の男性がいました。「誰かのところに来たお客さんだなあ」と見送りながら、ずいぶん立派なスーツの着方をしているなと感心してました。扉の前を通り過ぎたかと思うと、すぐにその男性がとことこと引き返してきました。
数年前に卒業したK君でした。確か高校の先生をしているはずです。大学にいたときよりもずっと自信の重みみたいなものが感じられる顔をしてました。にっこりしたK君の顔を見て
「まあ、ずいぶん立派になって」
なぜか私はパンを食べながらなのも忘れて、そう言ってしまいました。こんなにスーツが似合うようになるとは想像もしてませんでした。
N君はなにを思ったか5月の末からずっとスーツを着て学校に登校しています。就職活動かなと思ったのですが、本人はまったく就職する気はないでそうです。実際、就職活動もしてません。でも、なんだかスーツの気分なのだそうです。イメチチェン。そう言っています。スーツの方向にイメチェンするような自信が付いたみたいです。
M君は相変わらずのんびりやってますって言うのですが、なんとなく影のようなものが横顔に浮かぶようになりました。それが、詰まらない自信家の曇りない表情よりもよっぽど人としてのぬくもりを感じさせるところがあります。何があったのか、聞き出したいような気がするのですが、まあ、そう無闇に話したりはしないでしょう。秘密が出来た人の顔です。
古典語に「なりまさる」というのがあります。源氏物語などにはよく出てくるのです。成長して立派になったと現代語に訳すしと、とっても詰まらないのです。M君の影や、N君の本人にしか根拠がわからない自信や、K君の昔と変わらない微笑がその「なりまさる」という言葉の意味をよく体現しているようです。
それにしてもみんな大学をを卒業するとどんどん「なりまさ」って世の中の真ん中のほうに押し出して行く勇気がついてゆくようです。
221 20050614 伊藤比呂美さんから この間、丸谷才一さんの話を書いたら「綾とりで天の川」(文芸春秋刊)を送っていただいて「うふふ」だったのですが、今度はご本人の許可なく豆畑の朗読会2回目は伊藤比呂美さんをお迎えしますって言ったら、その伊藤比呂美さんから御著書が送られてきました。
ああ、びっくり。びっくり。聞こえてたのかな。
「レッツ・すぴーく・Englsh」
岩波書店刊
です。装丁は岩波書店というよりも学習研究社風。
それって、どんなんじゃと言われそうだけど、岩波書店の装丁をイメージして書店で探したら絶対みつかりません。「ア、アイム ファイン」って言っている女の子の漫画が載っている黄色い表紙です。
内容は一言で言えばブロークンイングシッリュの本。やあ、これは便利だ。外国からのお客様の時に、通訳がどこかに行ちゃって、二人でとり残されても、この本を読んでいれば大丈夫。非英語圏からのお客様でも大丈夫。正しい英語は通じなくても、ブロークンはなぜか非英語圏のお客様には通じるのです(これは経験済み)
伊藤比呂美さん、すごく、すごく役にたつ本を送ってくださってどうもありがとう。もし見ていたらスタッフ・ルームに書き込みを下さい。朗読会大好評でした。次の朗読会には絶対に出て下さい。
220 20050613 豆蔵師匠 さつまあげを持って現る 豆蔵さんと朗読会の反省会をひっそりやりました。というよりもおもしろかったから、懲りずにまたやろうってな話でした。例によって江古田の「尾志鳥」で生中で乾杯。で、さつまあげを頂戴しました。
ちゃんと保冷在が入っていたところをみると、これは豆蔵さんのお母さんのご配慮でしょうか。さつまあげ、おしかったです。桜海老とねぎの入っているやつをさっそくいただきました。
219 20050612 愉快でした。 豆畑の朗読会にご出演の皆さん、ご参加の皆さん、おかげさまでたいへん愉快な朗読会を開くことができました。どうもありがとうございます。
朗読会の様子はマニエニストQさんに書いてもらうことになっています。トピックス欄に掲載します。しばしお待ち下さい。
ここではその準備や周辺のことを少し書きます。私は午前中、朝日ニュースターの「パック・イン・ジャーナル」に出演して(生放送ですから)それから神田小川町に回りました。小川町画廊では、もう出演者の皆さんがそろって準備が進んでいました。集英社のYさんが会社に行く途中だと言って覗いてくれたのですが、いつもは真っ白な画廊にパイプ椅子が並んで、すっかりライブの会場になっているので「まあ!」と驚いていました。
狭すぎず、広すぎずちょうど良い感じでした。「え、こんなところなの、なんかもっと喫茶店みたいな感じなのかと思ってました」というのはあやこさんです。三々五々に皆さんお集まり。さて、もうすぐ五時というところで、突然、♪夕焼け小焼けで 日が暮れて♪とチャイムが鳴り出して、あまりのタイミングに皆さん大笑い。
5時になると千代田区の流すチャイムが響いてくるのを、私も含めて、みんな知らなかったのです。ちょうど良い開始の合図になりました。夏至が近いので5時と言ってもまだ街は明るく、遊びほうけている子どものためのチャイムで始まった朗読会でした。さて、朗読会が始まると道を行く人がおや、これはなんだろうという顔をした画廊の中を覗きこんでいました。なにしろ、ふだんは静かな画廊に人がいっぱいなんですから、さぞや不思議な眺めだったことだろうと思います。
こうして愉快な朗読会の時間はまたたくまに進んで行きました。その様子はトピックス欄で改めてご紹介します。
218 20050611 本日小川町画廊で朗読会開催 本日、図書新聞小川町画廊で朗読会を開きます。予約はしてないけれど、行きたい。急に閑ができた。気が変わったなどなど、そういった方にもぜひぜひお越しいただきたいです。
ご出演のみなさん、準備はよろしいでしょうか?
それでは午後に、図書新聞小川町画廊でお会いしましょう。
217 20050610 明日は朗読会です。 原稿プロセッサのインジゲーターに助けられました。1100字の原稿をどういうわけだか800字と勘違いしたのです。短い原稿をふつかに分けて書くと、時々こうした錯誤を起こします。紙の原稿用紙の時にはやらなかった間違いです。で、ふっとインジゲーターの棒グラフを見て、目標値までの空白が四分の一ほど残っているの気付きました。
「あれ!」と思わなければ今頃、原稿の書き直しに大騒ぎになっているところでした。で、いよいよ、明日の土曜日6月11日は朗読会です。豆蔵さん、準備は進んでいるでしょうか?魚子(ななこ)さんとまだ絡み合っている最中ですか?私のほうは準備万全どころか、まだ何もしてません。明日、午後に図書新聞小川町画廊に行きます。それから、なんとかします。はい。相変わらずどたどたです。すみません。
朗読会は近代文学館で、谷川俊太郎、安岡章太郎のお二人とご一緒させたいただい以来のことです。うまく行くかしら?
216 20050609 瀧と油揚げ 
なんだか妙な組み合わせですが、ま、油揚げがおいしかったのでお許しいただくことにしましょう。瀧はホウメイノタキと言ってました。岩山の間をくぐって流れる広瀬川です。何段もの瀧が続いています。雪解けの水と梅雨の雨水で数量が増してしました。どうどうと轟く瀧の音の響きが、豊かな山の緑の中に消えて行くのは気持ちの良い眺めでした。 216.jpg
215 20050608 定義如来の油揚げ 作並温泉は仙台の奥座敷なんていわれる温泉です。2年ほど前の冬、韓国の作家の伊大寧氏を作並温泉に案内したことがありました。もちろん、その時は冬景色。今度は新緑の作並温泉に行ってきました。
作並温泉の近くにある定義如来は、近郷近在の信仰を集めているお寺です。おみやげに変わったものをふたつみつけました。ひとつは飴。古事記風に言えば「成り成りて成り余れるところ」と「成り成りて成り足らざるところ」をかたどった飴です。子宝祈願と安産祈願のお寺の縁起物のようでした。そうふざけたものではなくて、真面目に良い子が授かりますようにという願いがこめられているのでしょう。陰陽石のことは耳にしたことがありますが、飴は初めて見ました。
それから油揚げ。油揚げを入れた袋に「三角定義」としゃれていましたからそんなに古くからの名物ではないのかもしれません。ふつうの油揚げよりも厚いのです。しかし、厚揚げのように中がしっとりしているのではなく、さくさくしています。少し凍らせてから、揚げているのかもしれません。中がスポンジ状になっているところが、凍り豆腐と似ていました。子ども連れ家族連れの参詣者がたくさんいる境内では、この油揚げを焼いて、少々のねぎを載せたものを売っていました。
これがなかなかおいしい。あぶったくらいで食べるのです。それに、握りこぶしのような大きな丸いおにぎりに味噌を塗ってあぶったものも、人気がありました。素朴で単純ですが、味噌もお米もおいしいのです。地元の人々がお参りしている定義如来でした。
214 20050606 原稿用紙5 仙台文学館で公演してきました。その帰りに山形の上山にある斎藤茂吉記念会に寄ってきました。仙台文学館では与謝野晶子展が開かれています。与謝野晶子展でも斎藤茂吉記念館でも気になるのは原稿用紙!
与謝野晶子も斎藤茂吉も現在と同じ型の20×20の原稿用紙を使っていました。明治40年代にはこうした形式の原稿用紙が使われるようになっているようです。
「超漢字原稿プロセッサ」の開発段階では20×20の字つめで縦書きができるというのは基本的な条件でした。20×20だと、分量の目安を掴みやすいからです。しかし、その時は桝目にはそれほど感心を払ってはいませんでした。ワープロで桝目のあるものが使いにくかったので、桝目はいらないという考えもありました。私もどちらかと言えば、桝目はいらないのではないかと思っていました。
ところが、その後、桝目にも意味があるんだということに気付かされる事件がおきたのです。某大学の卒業制作の字数を20×20の原稿用紙何枚というふうに数えずに、純粋に字数でカウントするというウワサが流れて、詩の製作を考えていた学生がまっさおな顔で相談に来ました。詩は空白も表現のひとつです。いや、詩だけではなく散文でも、どこで一行アキを入れるか、カギカッコの下を空白であけるか、それともそのまま文章をつなげて書くか、これも表現の一部分です。
ワープロやパソコンがなければ、提出された卒業制作を純粋に字数で数えてみようなんてことも考え出さなかったでしょう。で、その話が伝わってきた時、遅まきながら原稿用紙の空白も表現の一部だと気付いたのです。
つまり桝目にも意味があるのです。
原稿用紙の桝目が必要かどうか侃々諤々の議論の結果、どちらも選べるという方式に落ち着きました。が、その時の議論を思い出すとぶんに感覚的で、欲しいか、欲しくないか、好きか嫌いかに終始して、原稿用紙の桝目の意味などには及んでいませんでした。
物書きの手近にある紙は原稿用紙ですから、斎藤茂吉も原稿用紙に手紙を書いています。気楽な手紙の用紙として原稿用紙を使うときは、斎藤茂吉も桝目を無視して使っています。書簡の時の書き方(正書法)をしているのです。これまでなんどもいろんな文学館を訪れることはありましたが、こんな興味で展示を眺めたのは初めてでした。資料というものは、何かひとつの目的だけで、見られるとは限られないのですね。
213 20050604 原稿用紙4 ふだん、原稿を大量に書いている人でも、たとえば学者や研究者のような人でも、原稿用紙が正書法を支えてきたのだということをあまり意識していないことに最近、気付きました。むしろパソコンやワープロの便利さのほうが目を引くのは当然のことです。
ところで、ある時期まで、大学でレポート提出について説明するすると、必ず「手書きですかワープロでもいいですか」という質問がありました。その次は「縦書きですか、横書きですか?」という質問が出ました。レポートは手書きの縦書きのみしか受け付けないという先生が文学系の授業には、かなりいたようです。
最近はレポートは「ワード」で製作したものしか受け付けないというふうにアプリケーションまで指定する先生もいます。レポートの内容にもよるでしょうけれども、アプリケーションまで指定してしまうのは、あまり感心しないなという気がします。ここ数年で、手書き縦書きのみという指定から急速にアプリケーションの指定まで変化してきているのです。世の中全体で原稿用紙を使っていた経験が急速に薄らいできているのです。
正書法の混乱とか乱れという問題が生じてくるのは、原稿用紙を使った経験が乏しくなってからでしょう。もともと活版印刷導入といっしょに自然発生的に出来たものだから、使う道具の変化とともに変化してもいいと考えるか、ここで正書法を整備して、無闇な変化を防ぐほうがいいと考えるか議論の分かれるところでしょう。
212 20050603 原稿用紙3 丸谷才一さんの話を書いたら、その丸谷さんから新著を頂戴しました。「綾とりで天の川」(文芸春秋刊)です。また烏帽子大紋のお礼状をで大騒ぎなんてことはないのですが、偶然の符合が「うふふ」でした。
書簡体も明治の頃から比べればずいぶん変化しています。夏目漱石の「それから」で大助が兄嫁に口語文の手紙を書いたらどうですかと勧めていますが、その頃はまだ手紙は候文で書くのが当たり前だったのでしょう。
手紙の文章やその書き方の決まり(正書法)も活字化を前提にした原稿用紙の書き方にしだいに影響を受けて現在のような形に変化してきました。ただ、多くの人は自分の書いた文章が活字になることなどはないので、あまり原稿用紙の書き方などは意識しません。さらに言えば手紙の書き方がだんだんに、筆で書く文語文の正書法から鉛筆や万年筆で書く原稿用紙の正書法へ変化したことなどまったく見落としているのです。
手紙は苦手だなあと感じている人はたくさんいて、電話が出てくると、かなりの用事が電話で済むようになってしまいました。そこにファックスが出てきて、さらに電子メールが登場して、追いかけるように個人のホームページやブロクが登場してきました。で、原稿用紙は過去の産物ということになるのかもしれませんが、原稿用紙が作った日本語の正書法はどうなるのでしょうか?
ワープロが出てきてから、文章の段落の頭を一文字分空白にするという決まりが相当に無視されるようになりました。名前の知られた大出版社の発行する雑誌でもそうした様子が見られます。また、この文章のそうですが、段落ごとに一行の空白を作るのは、電子メールが出てきてからの習慣です。まだ決まりというほどではないのですが、かなりの人がこうした書き方を用いています。さらに文頭の一文字を大きくするレイアウトも、以前は雑誌や本などの紙面のデザインであって、正書法とは関係のない事柄でしたが、パソコン画面に直接にそうした修飾を入れることができるとなると、これも正書法のひとつに数えられる時が来るかもしれません。
211 20050602 原稿用紙2 なにやら、昨夜はぐらぐらとそんなに大きくない地震が続きました。東京湾が震源とか。大丈夫かな?と不安になります。
「地震で発見。送る。」というお葉書を丸谷才一さんからいただいたことがあります。なんという簡潔さ。服装に例えれば、海水パンツ一丁という感じです。確かにやや大きめな地震のあったあとでした。でも何を発見したのか?送るというのだからそのうち送られてくるだろうと待つこと、一日。金子武蔵「ヘーゲルの国家観」が送られてきました。昭和19年発行の本です。
そう言えば、さるパーティで丸谷さんにお目にかかったとき、その本を探しているというお話をしたのです。
「僕のうちにあるはずなんだけど」と丸谷さん。地震で本の山が崩れて発見したというわけです。発見したので進呈しましょうというお葉書でした。
さて、問題はここから始まります。御先方が海水パンツ一丁の潔さと言え、こちらが「届いた。あんがと」では済みません。なにしろその頃、私は明治大学の学生だったので、服装で言えば烏帽子大紋(忠臣蔵で浅野の殿様が着ているやつ)くらいの礼状を書かなくちゃとものすごく緊張。ううん、困った。困った。手紙ってすごく億劫なものでした。とくに形式を踏まなくてはいけない手紙はもっともっと億劫で、どんどん日が過ぎて行きます。
それはこれまで、事項の挨拶などの形式と候文の血統を引いているような手紙独特の文体のためだと考えていました。どうも、そこに江戸時代から引き継がれている手書きの正書法も混じっていると考え出したのはこのごろです。烏帽子大紋という比喩が似つかわしいのも、そうしたことを考えているからです。
そもそもふだん原稿用紙に書いているのとは違う正書法を用いているとは、考えてもみなかったのですが、例えば段落を分けるなどということも手紙ではあいまいに住みます。段落の文頭を一字空けるのも、桝目がないのですから、とくに考える必要はありません。そのかわりに行分けや、文字の位置に気を配る必要が出てきます。原稿用紙が出来てからも、手紙では、それより古い正書法が脈々と生き残っていたということになります。
丸谷さんへのお礼以上は困ったあげくに「手紙の書き方」という実用本の文例そのままと書き写したものを差し上げたというふうに記憶しています。
210 20050531 原稿用紙1 江戸時代の本を見ると木版刷りで、草書のつづき文字が刷ってあります。現在の私たちが目にする本とはまったく異なった正書法を用いています。正書法が大きく変化するのは明治期になって活版印刷が盛んになってからです。現在の正書法は活版印刷とともに整えられてきたのです。
活版印刷が生み出した正書法を支えてきたのは原稿用紙です。原稿プロセッサ開発の時に20×20の原稿用紙にこだわる必要があるのかという議論をした時、吉目木晴彦さんが「印刷のほうの人に聞いたら、20×20は経験的にもっとも安定した字面になる組み合わせだと言っていた」と発言したのが、じゃあ、その方向でというひとつの決め手になりました。
今、考えてみるとあの吉目木さんの発言はその場で考えられていた以上に重要な発言だったと思います。というのは、ワープロやパソコンで文章を書くようになってまた日本語の正書法が大きく変化する可能性が出てきたからです。原稿用紙にこだわる必要があるのかどうかを議論した時にはそこまで大きな事柄とは、私も考えていませんでした。
これは最近、考えはじめたことなので、いささか混乱しているところもありますが、少しづつ書いて行くことにします。
まず最初にワープロを使ったときに困惑したのは原稿というものと、印刷された紙面の区別がぐちゃぐちゃだったことです。文章を書くことを仕事にしているとこれは画然と区別されているものなのですが、ワープロでは区別されてませんでした。よく考えてみると手書きで手紙など書くときは文章を書くという仕事と文章の書かれた紙面を作るという仕事は同じ仕事になっています。だからワープロでもそこがひとつになっているのは不思議なことではないということになります。
ところで、話は変わりますが、明治期の国語教育では作文教育は書簡体と作文体のふたつの分野に分かれていました。作文体では原稿用紙を使ったのかどうか、調べてみるとおもしろいかもしれません。
書簡体の教育が独立してあったのは、私が高校の教育を受ける頃まではまだ続いていました。この話を持ち出したのは正書法と手書きと印刷を考える手がかりがそこにありそうだからです。作文体と呼ばれる文章の正書法は、活字の印刷の発達と結びついて出来上がってきたものだという視点は、まだあまり共通認識にはなっていません。だからあまり注意を払われないのです。が、一方で書簡体というかたちで、手書きの正書法も長く残っていたとい側面があるのでしょう。手紙を書くときには原稿用紙を使いません。だから、なんとなく原稿用紙の持っている意味が等閑視されたのではないでしょうか。
209 20050530 インジゲーター 「超漢字原稿プロセッサ2」で様子を見たかったのはインジゲーターなんです。目標の原稿の分量を設定して、どのくらい書き進んだのかを、視覚的にあらわすインジゲーターが欲しいと開発の初期の段階で言ってたのは私です。
原稿は20字×20行の400字原稿用紙で書いてきたのですが、そんなに長くない原稿なら指定枚数を聞いておおよそどんなことが書けるか見当がつきます。で、書いてみるとだいたいぴったりに収まるのです。ただ長い原稿になるとそうは行かなくて、全体の構成を原稿用紙の枚数(実際には紙の厚み)で図っています。で、ワープロだとこの身体的情報がなくなってしまうのです。
だから、せめて視覚的なインジゲーターが欲しかったのです。この望みは雑誌のライターの人にもそう考えている人が多くて、その話をすると興味をしめしてくれました。「超漢字原稿プロセッサ1」ではパーセント表示でしたが「超漢字原稿プロセッサ2」では棒グラフのインジゲーターになっています。
今「ベンちゃんの『誰も知らない』」という短編小説を書いていて(そのタイトルは反則だと言われそうですが)それでインジゲーターの様子を見ています。
ところでここで身体的情報を与えてくれていた原稿用紙ですが「原稿プロセッサ」の開発の段階から20×20の桝目にこだわる必要があるのか否かが問題になってました。で、それが意外なほど重要なのではないかと最近考えるようになりました。このことは続きで書きます。
「超漢字原稿プロセッサ2」では桝目の色と桝目の地の色を組み合わせられるのがうれしいです。最近、文房具屋さんに行っても原稿用紙の種類が少なくなって選ぶ楽しみを奪われていたので、よけいにうれしくなってしまいました。
208 20050529 インストール インストール。なんとなく厄介な仕事だなあと思い込んでしまったのはパソコンを使い始めた頃に何度もこれでエライ目にあっているからです。仕事で使っている機械はあまりいじりたくないのが本音です。で、いつもインストールとなるとぐずぐずしてしまいます。
万年筆だって、今でも「控え」があるくらいなのです。毎日、使っているものが一番良いのですが。もし万が一にも壊れたり紛失した場合のためにセカンドの万年筆を用意してあって、日記とか個人的な書類はセコンドの方で書いています。そうすると仕事用の万年筆に何かあった場合も、すぐにセカンドが使えるからです。
じゃあ、パソコンもセコンドを用意するかということになって昨年、ノートブックパソコンを一台購入したのですが、結局、これはまだセコンドというほどにはなっていません。さあ、今日はインストールするぞ!なにが起きても驚かないぞって一大決心がいるんです。
でもたった3分でできちゃいました。「超漢字原稿プロセッサ2」のインストール。まさか坂村先生の神通力?なんてことはないか。「超漢字原稿プロセッサ1」よりもずっときれいにな画面に大感激。「超漢字原稿プロセッサ2」でバージョンアップされた機能のなかにどうしても確かめておきたいものがあったのです。
パーソナルメディアの皆さんお騒がせしました。ご配慮ありがとうございました。自力で(というかすごく簡単に)インストールできました。これから、「超漢字原稿プロセッサ2」の感想お送りします。今、来月(8月号)の新潮(編集長がうんと言えばですが)の短編小説「べんちゃんの『誰も知らない』」を書いています。ベンちゃんってあの「楽隊のうさぎ」のベンちゃんです。今回は推敲機能もうんと使ってみようと思います。(実はこれまでは推敲は紙に打ち出して赤鉛筆でやってました)
207 20050528 坂村 健 久しぶりに坂村健さんにお目にかかりました。一年ぶりくらいかな。お元気です。いつもお会いするたびにすごいエネルギーだと、なんだか圧倒されてしまいます。
来月創刊される「表現者」で、「道具と仕事と眼」という連載を始めます。創刊号は陶芸家の角りわ子さんにお話を伺いました。道具を作る人にお話を伺って行こうという連載です。コンピュターは「道具」ということで第二回目は坂村さんのお話を伺いました。お話の内容は「表現者」のほうでご覧下さい。と言ってもまだ昨夜の今日で、原稿は書いていないのですが。
で、その原稿では書けない話。坂村先生、パーソナルメディアの皆さんや、トロンに関係した皆さんがそう呼んでいて、その発音がほんとに親しみがこもるので、なんとなく私もそれに習うようになってしまいました。その坂村先生は食べることも飲むこともお好きで、ワインがお好きで、食べながらお話することがお好きで、なんだか地球が3倍の広さになるような気がしてくるから不思議です。よくネットによって世界は狭くなったという話を聞きますが。坂村先生とお話をしていると、コンピュターは世界を広くするという感じがします。
最後はコンピュターを愛しているんだというお話になりました。だから、コンピュターの悪口を言われるとつい頭にきちゃうということで、その気持ちはコンピュターの苦手な私にもよく解ります。たぶん、この「愛している」というのが、世界を広くしているいちばんのミナモトなのではないでしょうか。「愛している」というのは単なる感情ではなくて精神(スピリッツ)の核心にある燃える火みたいのものとか、なぜか坂村先生とお話をしているとぼんぼんいろんな比喩が私の頭の中に飛び交うのです。自分の頭が良いというだけの人は世の中にたくさんいますが、話すだけで人の頭まで良くしてしまう人はそんなにたくさんいません。
206 20050527 悪意を感じる 練馬区におすまいのNさんからお手紙をもらいました。昨年、読売新聞に書いた「樹木受難」という随筆の感想です。半年以上前の記事にお手紙をもらうというのは珍しいことです。が、この随筆は時々、お手紙をいただくということがもう半年も続いています。
街路樹や庭木の伐採については眉をひそめている人が大勢いるけれども黙っていることが多いのだなあと思います。読売新聞の随筆では内容について担当者と打ち合わせをしています。その時、「あの切り方は悪意や憎悪を感じさせる。樹木というものは、時間が積もったことを示すものでもあるけれども、そうした時間の堆積に対しての憎悪のようなものを感じてならない。枝や葉がうっとしいというよりも、時間が積もったことや時が過ぎてしまうことが我慢ならないのかもしれない」というようなことを話しました。
そこまで書いては少し文学的過ぎるかもしれないということで、そういう記述は抑えたのですが、やっぱり、私は樹木が象徴している「時間」というものへの悪意を感じざるおえないのです。
205 20050525 なんてことだ! 西武池袋線江古田駅南口のすずかけの木です。この木は改札口の真向かいにあって、出かけて行く人には「いってらっしゃい」帰ってくる人には「お帰りなさい」と声をかけいるような木でした。日大芸術学部の卒業生の皆さん、M君、K君、M2君と卒業式の日にこの木のしたでお別れをしました。「それじゃあ皆さん、お元気で」とご挨拶した時、この木にはちゃんと枝がありました。
いったい何の目的でこんなきり方をしたのでしょう。邪魔なら切り倒してしまったほうがましなくらいです。いたぶって痛めつけるという切り方です。撮影日は5月23日です。ほんとうなら青々とした葉が風にそよいでいていい季節なのに、痛ましい限りです。 205.jpg
204 20050524 街路樹の値段 2005年1月22日の東奥日報に以下のような記事がありました。
「街路樹2本切り倒される/青森」
「青森市浜館二丁目の市道に植えられた街路樹二本が、何者かによって根元からバッサリと切り倒されているのが二十一日までに見つかった。青森署が器物損壊事件として捜査している。
切り倒されたのは、はまだて公園西側にある浜館通り線(通称アオギリ通り)に植えられた高さ六メートル、直径十五センチの街路樹「アオギリ」(市価一本一万八千円程度)。切断面の八割程度にノコギリの歯の跡がついていた。二十日午後一時ごろ、市民が発見し、青森市に通報。市が二十一日午後、青森署に被害届を出した。」
今年の青森は記録的な豪雪でした。雪の中でのこぎりを使って高さ六メートルの木を切り倒すのは容易な作業ではないでしょう。なぜ切り倒したのか?それはこの記事だけではわかりません。雪で道が狭くなったので、腹立ち紛れに切り倒したのでしょうか?
私がこの記事を保存してあったのは、市価一本18000円というところに注目したからです。街路樹ってどのくらいの値段がするものなのかしらとかねがね思っていました。荒っぽい伐採で、枯らしてしまった街路樹の値段が知りたかったのです。樹木の種類や大きさにもよるかもしれませんが、ひどい伐採で枯らしてしまった場合にはそれだけの損失をこうむっているということになります。ひどい切り方だと嘆くと情緒的な事柄だとないがしろにされるのですが、街路樹にもちゃんと値段があって、故意に伐採すれば器物損壊の罪に問われるのです。
電動鋸でいい加減なきり方をした木に痛々しさに比べれば、雪の中で苦労して自分の手で鋸を使って切り倒したこの事件の犯人がなぜか「偉く」見えてしまいます。
203 20050523 これがえごの木です。 満開になったえごの木はほろりほろりと星型の白い花を散らせます。崖の上から崖下の道に滝のようにしだれているえごの木の下を歩いて出かけるのがほんとうに楽しみです。桜はみんなで大騒ぎするのにこんなに見事に咲いている花が頭の上にあるのにも気付かずに急いでいる人を見るとおかしいやら、さびしいやら、へんな気がします。 203.jpg
202 20050522 インド料理屋 たいていの人はカレーが好きですが、日本人が好んで食べているカレーは、インドからイギリスに伝わってシチュー風に変化したものを、今度は日本で洋食の一種にアレンジしたものだそうです。カレーってほぼ地球を一周してしまったお料理なんですね。
が、本格的なインド料理の評判をいまひとつ。デリーに中華料理屋はできても、北京にインド料理屋はできないなんて言う人もいます。確かにカルカッタにもデリーにも中華料理屋さんはたくさんありました。で、カレー味にあきたら中華料理屋さんに行けばいいというインド旅行のコツを教えられました。
最近、銀座でインド料理の店を二軒も見つけてしまいました。一軒は銀座一丁目です。で、入ってみました。一人で。インド人?らしきコックさんがガラスの向こうでナンを焼き、タンドリーチキンを焼いていました。暑い国で、いかにお腹をこわさないか、いかに消化の良いものを食べるか、そして食欲を刺激するかという工夫をしたお料理です。たまに食べたくなるのです。おいしかったのですが、なんだか洗練されすぎているような気がしました。
最後にマンゴウジュースというメニューを見つけて「甘いのですか?」と質問すると「ええ、とても甘いジュースです」という答えが返ってきたので、注文するのをやめました。カルカッタで飲んだ塩辛いマンゴウジュースが飲みたかったのです。そんなものって、誰もそのおいしさを認めてくれないのですが・・・。かわりにマサラ茶を飲みました。店の奥ではインド人らしき身奇麗いなグループでおいしそうに食事をしてました。
インド料理屋の裏に回るとなぜかチャンドラ・ボースビルというビルがありました。チャンドラ・ボースというのはインドの偉い人だったような気がするのですが、どうしてもどんな人か思い出せません。どなたかご存知でしたら、教えて下さい。なぜ銀座一丁目にチャンドラ・ボースビルがあるのかも解らないのですが、もっと不可解なものを目にしました。
そのビルには「海女」というキャバレーが入っているのです。たぶん「あま」と読ませるのでしょう。で歌やダンスなどのショーを見せる本格的な実演(おお、おっそろしく古式ゆかしい言葉だ、今はライブって言わなくちゃね)を見せるキャバレーのようです。海辺の町の歌手兼踊り子がひとりしかいないような寂しいキャバレーなら「海女」でも解るのですが、いったいどういうセンスで命名したのだろうとしばし「?」でした。「海女」とチャンドラ・ボースの組み合わせになるとますます奇妙でした。
201 20050521 赤く咲くのは芥子の花 赤く咲くのは芥子の花って昔、藤圭子が歌ってました。歌田ヒカルのお母さんって言ったほうがいいんでしょうか。で歌は「どう咲きゃいいの この私」って続くのですが、それはさて置いていて、今年の路傍でずいぶん芥子の花を見かけます。ここの管理人豆蔵ことながしろばんりさんのホームページでのそれに触れていました。ながしろさんのホームページの芥子の写真があります。
芥子は麻薬の原料となるので栽培が禁止されています。藤圭子が芥子の花の歌を歌っていた頃はまだそういう法律がなくて、私が小学生の頃に栽培が禁止されました。昭和40年代前半です。で、芥子にもいろんな種類があって、駐在所の掲示板に芥子の種類を解説したポスターが張ってありました。植物図鑑みたいできれいなポスターで、指名手配や行方不明のポスターといっしょにならんでいると絶大な違和感がありました。
私の家の庭にも大きな芥子の株があったのですが、その法律ができたので、根こそぎ引き抜いたのを覚えています。最近、街で見かける芥子は小型のひなげしの類いですが、これも確か麻薬の原料になったような覚えがあります。園芸種のポピーなどは麻薬の原料にはならないのですが・・・。それにしてもどうしてこんなに芥子の花があっちこっちに咲いてしまったのでしょうか?
どんな花なのか見たい方は、リンクページからながしろばんりさんのホームページにどうぞ。
ながしろさんは芥子の栽培が禁止されてからこの世に生まれ出てきたので、芥子の花をみたことがなかったようです。
200 20050519 えごの木花盛り 「うのはな」というのは、特定の花をさすのではなくて、5月から6月にかけて咲く白い花の総称だと聞いたことがあります。「うつぎ」という白い花を咲かせる木が「うのはな」だという人もいます。
どちらがほんとうなのか解らないのですが、いずれにしても5月から6月にかけては白い花の木が目立ちます。水木は小さな傘のような花を咲かせていますし、えごの木は鈴がたくさん付いたような花をいっぱい開いています。家の近くの斜面に大きく育ったえごの木があります。えごの木は往来のほうへ枝を張り出しています。昨日の風が強くて、しろい花がほろりほろりと散っていました。
江戸時代には所沢がこうした「うのはな」の名所だったのだそうです。水田の少ない台地で、雑木林が多かったのでしょう。桜ばかり見ていたわけではなかったようです。
199 20050518 交渉人 真下正義 「踊る大走査線」シリーズのから出た「交渉人 真下正義」を見てきました。月曜日の新宿コマ劇場、最終上映。やっぱりアベック(ふるいことばだ)が多いです。客席は七割り程度の入り。
映画はずばり言ってこのシリーズの中ではいちばんおもしろかったです。国村隼や寺島進と言った映画俳優といえる俳優さんが加えて見ごたえがありました。爆発物処理班の松重豊もよかったし、小泉孝太郎もなんだか大人っぽくなっていました。それから群集シーンがお金がのかかった映画だなあと思うくらい迫力がありました。あと空撮もいいなあっていうシーンがたくさんありました。そういう役者の出てこないシーンで、東京の暮らしも悪くないと、いや、もっと積極的に東京をいとおしいと思わせておいて、だから地下鉄や都市を犯罪から守ろうとする登場人物の気持ちに厚みがでるという構成でした。
個人的には小泉孝太郎がちょっと好きになったかな。これまでは「あ、出てる」くらいの印象しかなかったのですが。それから、寺島進がボレロを演奏している最中のシンバルの奏者を後ろから羽交い絞めにするシーンでは思いっきり笑ってしまいました。表情がいいんで。
歌舞伎町に足を踏み入れたのは久しぶりでした。
198 20050515 今夜は異様に重い はて、さて、どうしたことか。今夜は異様なくらいにページを開くのが重いのです。管理人さん、何かしている?って聞いてもダメか。回線が込み合っているのでしょうかねえ?
「豆の葉」も、もうすぐ200回。一年で200回というのは多いのか少ないのか?わかりません。200回記念にひとりでケーキを食べようかな!銀座のダロワイヨのtokyou-parisがいいなあとか考えちゃってます。
以前はネットって言ってもなかなか繋がんないときがあったのがうそみたいにこの頃は軽々と接続できるようになりました。
197 20050514 怒りは貴重な感情 小川国夫さんが藤枝から東京におこしになっていると言うので、少し夜遅かったのですが、お目にかかってきました。で、あれこれととりとめもなくお話するうちに以前、岩波文庫で「ゲーテ箴言集」というのが出ていたという話になりました。岩波文庫の箴言集は何種類かがあったように記憶しています。
「ゲーテ箴言集」の中に「怒りは貴重な感情だ。だから節約して使わなければならない」というのがあると小川さんから教えてもらいました。少し前のことですが、家の息子が「おかあさん、犬の無駄吠えって知っているだろう。それとおんなじで無駄怒りを止めてもらえないかな」って言っていたのを思い出しました。もちろんゲーテの震源のほうが、怒っている人を尊重している点で立派です。
「ううん、その貴重な感情を惜しげもなく使っているのが解らんのかって言っても通じないかな?」と小川さんに言うと、例の小川さん独特のゆっくりした口調で「通じません」と笑っていました。
今朝、息子にゲーテの震源を受け売りすると、彼はさっそく前段を忘れて、後段の「節約するように」ばかりをさかんに連発していました。
こらっ!貴重な感情なんだぞ、大切にせんかい
196 20050513 おでかけ三種の神器 財布と鍵と携帯電話。これが近頃のおでかけ三種の神器です。どれを忘れても困ってしまうのですが、おとといは携帯は置き忘れるは、鍵は家に置きっぱなしのまま出てしまうはで、さんざんでした。どうも家に人がいるときが危ない。とくに鍵を持たずに出てしまうのは決まって家に誰かいるときです。
出かける時は息子が家にいたのですが、帰ってみると家は誰もいません。で、かなり夜中近い時刻になっても息子も娘も帰ってきません。どうかするとそのまま家に帰らない日もあるので、日付が変わらないうちにどこかホテルに泊まるというような決断をしなくちゃならないかなと考え込みながら、駅前のコンビニで時間をつぶしていました。いつのまにか、公衆電話の数が激減したので、電話のあるコンビニで時間をつぶしていたのです。
そこへリュックサックを背負った娘がふらふらと入ってきました。思わず、リュック・サックをむんずと掴んでしまいました。聞けば、一度、家に帰ってこれからともだちの家にでかけるところだということでした。どうも私が公衆電話から家に電話をかけたのは、彼女が家に戻る寸前と、家を出てからだったみたいです。やれやれ。彼女がともだちの家での飲み会へ持ってゆくおつまみを買おうとしなければ、危うく一晩家から閉め出されるところでした。結局、息子のほうは帰ってこなかったのですから。
で、息子曰く「携帯を忘れちゃだめだよ」
お前さんが帰ってこなかったのがそもそも、まずいのだろう。ぷんぷん。どこをほっつき歩いていたんだ。
195 20050512 線を愛好する 連休中、和辻哲郎の「古寺巡礼」を読み返していました。3月に奈良に旅行したときに思い出したです。で、その中に日本画に発展する「線」に対する愛好という話が出てきます。「面」ではなくて「線」で絵を描くという好みが天平の頃にすでに生まれていて、それがやがて繊細な「線」に対する感覚を生み、絵画の「線」を愛好するようになるという考察です。
で、そういえば漫画もかつての日本画が持っていたような「線」にたいする好みの感覚が働いているなあというようなことを思い当たりました。現在の漫画についてはほとんど知らないのですが、30年前に竹宮恵子などが出てきた時、それまでの少女漫画とはまったく違う「線」を持った絵が魅力的でした。今、思うと、その頃に次々と出てきた漫画というのは、手塚治虫の漫画の「線」とはまったく違う、そして多様な「線」を持った作家が登場してきたのだなあと、今までとは違う角度からその頃の漫画のことを考えてみました。
「サザエさん」も初期の頃、昭和20年代は「線」ではなくて色を塗りつぶすかたちの絵で描かれているのです。それがしだいに単純化された「線」になって行きました。前々からどうしてそういう変化をしたのか不思議に思っていたのです。(私は小学生の時、バス通学をしていて、毎日、駅前の松田屋書店で「サザエさん」を立ち読みで一巻ずつ読んで、とうとう全巻、読み終えてしまいました)で、あれは「線」に対する読者の好みに作家が答えた結果だったのかと、何かがわかったような気がしました。
日本画のほうは朦朧派なんて悪口まで出るような感じで「線」ではなく「面」で描くという方法が近代になって出てきましたが、もっと大勢の人の目に触れる部分で、例えば漫画のようなジャンルで、古くから根を張ってきた美意識の好みが出てくるというのは、おもしろ現象です。漫画というのは、従来の大人文化と一線を画す若者文化として論じられることが多かったのですが、表現の基礎的な部分でかなり時代を遡ったものと繋がっているのを発見したような気分です。
194 20050511 朗読会打ち合わせしました お知らせが予告よりも一日遅れましたら、昨日、朗読会の打ち合わせしました。なかなか愉快な会になりそうです。演目というのかな?まだ何を読むのかは決まってません。というか、まだできてないという人もいました。出演者などは、またトピックス欄でお知らせしてゆくようにします。
神田小川町は、本屋さんの多い神保町と秋葉原や問屋街のある日本橋京橋の間で、静かな町です。お散歩をかねてどうぞ朗読会に起こし下さい。ただ本を読もうと思っている私よりも、音楽をつけようとか、いろいろ企てている皆さんのほうが、おもしろそうです。
小川町画廊さんも打ち合わせに加わっていただいたのですが、話は流れ流れてお菓子作りのことになり、画廊でケーキの展示会とか、メレンゲでやるインスタレーションなんておもしろいだろうという、とんでもないところまで行ってしまいました。
193 20050510 花しょうぶ 二番目の花 母の日ということで花屋ではカーネーションがはばをきかせていますが、花しょうぶが今頃になって出回りはじめました。6日のあやめの言葉とおりお節句を過ぎてしまうと、見る人の少なくなる花ですが、ほんとうのしょうぶの季節はこれからです。
以前、しょうぶの花は一本の茎から二つの花が咲くことをトリックに使った推理小説を読んだことがあります。その小説では、ふたつ咲くはずの花が三つ咲いたのが事件をとく鍵になっていました。覚えているのはそれだけで、小説の題名も作者の名前も、そしてどんな事件だったのかも忘れてしまっています。たぶん殺人事件だったような気がするのですが、まあ、推理小説で殺人事件意外の事件を扱ったものは珍しいですから、そう記憶しているだけなのかもしれません。
5日のお節句前に買った3本の花しょうぶがそろって二番目の花を咲かせました。二番目の花のほうが色が薄いのは、生けてある場所が暗いからです。それにしてもなぜしょうぶはひとつの茎からのびる芽の中に二つの花を隠しているのでしょうか?
192 20050507 みせしめ 中学生になったばかりの甥っ子には小学校3年生の妹がいます。伯母さんの私からみれば姪っ子。そして甥っ子と姪っ子のお母さんのほうのおじいちゃんは畑作りの名人。我が家でもおいしキャベツや大根、さやえんどうなどたくさんお野菜を頂戴しています。
今、畑はいちごの収穫の季節。姪っ子はおじいちゃんの畑へイチゴ狩りに行きました。でも畑のすみには、なんだか茶色くなった鳥がつるされていました。おじいちゃんから見れば、この鳥は畑を荒らす大悪党です。で、姪っ子はそれが気味が悪いので、そっちのほうには近づかないようにしてイチゴを採ったという話を詳しくしてくれました。
で、彼女はちょっと考えこんで「ええとね」と首をかしげて、慎重に「みせ・・・」これで良かったんだっけという顔をして「しめ」と、覚えたばかりの言葉を発音しました。その仕草がかわいいのと、小さな唇から飛び出した「みせしめ」という言葉が残酷なので、周囲で聞いたいた私たちは思わず笑ってしまいました。
畑につるしてあった鳥が怖かったという思い出と一緒に「みせしめ」という言葉を覚えたのでしょう。こんなふうにして、人間はいろんなことを感じて覚えて行くんだなと、伯母さんはなぜかひどく感心してしまいました。優しいおじいちゃんも畑を荒らす鳥は許さないこととか、残酷だけど、そうしないとおいしいイチゴはみんな鳥に食べられてしまうこととか、そのほかいろいろと少しづつ解って行くんだなあと、なぜか納得の伯母さんでありました。
191 20050506 横浜中華街おいしかった。 甥っ子の中学校入学祝いを横浜中華街でしました。かなり個性的な甥っ子です。けっこう辛らつな皮肉を言ったりします。これから大きくなるのを伯母さんは楽しみにしています。
で、中華街で食べたものでおいしかったのは、いしもしちの丸揚げ。黒酢のあんがおいしくって、さらに頭を誰も食べようとしないので伯母さんはむしゃむしゃ食べてしまいました。これが旨かった。頭が旨いから丸揚げにするんだなあと納得ものでした。でもこんなに大きな魚をどうやって均質に揚げるのだろう?よほど大きな鍋に油をいっぱいに入れて揚げるのでしょうか?
うちの娘はいしもちの胴体に火の回りをよくするために入れられた切れ目を見て「こんなかっこうで泳いでいるの?」と質問。答えるウェイトレスはカタコトの日本語を話す中国人で「?」顔。すかさず息子が「怖いじゃないかこんなかっこうで泳いでいたら!」なんというか、その、魚をあんまり見たことがないのがばればれでした。
九十九里の和さんは関西方面へご旅行。との君の友人さんは紀州の竜神温泉へ。北海道のハリーさんは函館へ、太平洋プロジャクトさんは八丈島へ、井上さんは群馬へ、豆蔵さんはなぜか多摩川へ、皆さん連休中はあっちこっちご旅行の様子でした。
スタッフ・ルーム解放は5日0時で終了しました。またスタッフ・ルームの解放の日を作りたいと思います。それまでにご来訪の方はIDとパスワードをご請求下さい。スタッフ・ルームをこれまでとおりにクローズにしてなんだか寂しいような、でも、ほっとしたようなへんな気持ちです。
190 20050505 やたらに掃除が ゴールデンウィークに入ってからやたらに掃除しています。こんなに掃除ができるなんて!大量に原稿を書き始める前触れでしょうか?だいたい原稿を書き始める前ってすごく掃除が楽しいのです。
昨年、3月に「うさぎとトランペット」の連載を終えた時から「ああ、掃除がしたい。掃除がした」って思っていたのですが、どうしても身体が動かなくて困っていました。ま、大学の講義8コマ、日刊連載1本、月刊連載1本、月におおよそ300枚の原稿を書くというスケジュール事態がむちゃくちゃだったのですが。
それで「掃除がしたい」のにぜんぜんできなくって、7月になったら今度は「どの原稿から先に書いたらいいのか解らなくなっったあ」になって、なんだか頭の中はぐちゃぐちゃ。10月には「おから」と「こんにゃく」と「切干大根」が食べたくなり、2月に医師から「立派な糖尿病です」といわれました。ううでもって体重を3キロ落としら、できました!「掃除」!思うように家の中が片付いて行くのって幸せ。結局、掃除ができなかったのは血糖値のせいだったらしい。まず血糖値からお掃除しなくちゃいけなかったのね。
刊行が遅れているすばる連載の小説。これから手を入れます。残酷な伐採や剪定の写真を集めた専用ブログも作ろうと思います。「おいらはとむべえ」のオリガさんとも新しい絵本を作ります。
189 20050504 残酷な剪定2
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ちょっと近所を歩くだけで、幾らでもすごい剪定を見つけることができます。枝を切り払われてたこ踊りしているような庭木。のびてゆく枝を電動鋸で切られた公園の欅。さらには公園の中の林にあった切り株にしては背が高すぎる木などなど。
切り株になりきってない木は私が立ったまま腕を伸ばすとちょうど同じ高さです。腰を曲げて伐採するのが面倒だったのかもしれません。立った姿勢のまま電動鋸で切られているのです。
188 20050503 残酷な剪定1 昨年、読売新聞の「街路樹受難」という随筆を書いたところいろんな方から反響をいただきました。写真は家の近くの庭木ですが、街路樹と同じように乱暴な剪定をされています。これでは木に枯れろと言っているのと同じです。
志木市にお住まいのO氏も所沢で「目をそむけたくなるような剪定をされた街路樹を見かけた」と写真を送って下さいました。旅行をしていると全国いたるところで、こうしたとんでもない剪定を見かけます。今、豆蔵さんと、トンでもない剪定をされた木の写真を集めてみようと相談しています。
連休の間はのんびりムードで行こうと決めていたのですが、どうもその、なんというか若葉青葉の季節なのにあんまりな木をたくさんみかけるので、書きたくなってしまいました。こんなひどい剪定が目立ち始めたのは4、5年前からで、それ以前にはかなり幼児の記憶まで遡っても思い出すことができません。ある人から聞いた話ではこれは単に価格の安さを競う競争入札を自治体が導入したためではないか?という推測を述べていました。しかし、こんな剪定では幾ら安い作業料でも樹木が枯れてしまうので損害賠償ものです。 188.jpg
187 20050502 虎の肥満児 うちの娘はなぜか池袋サンシャインシティで買い物をするのがすきです。ここは若い人向けの洋服屋さんがいっぱい入っています。20年前のパルコみたいな感じだなと私はときどき、彼女の買い物に付き合います。
日ごろはサイズが無いのが目に見えているので見向きもしない洋服屋に入ってみるとなかなかおもしろです。浮き沈みが激しい世界のようで、1年でそうとうに店が入れ変わっている様子は、ああ、洋服も売るのも水商売のようなところがあるのだなあと妙な感心をしたりします。どうせサイズはない!とあきらめていても「ありゃ、これは着られそうだな」という服を見つけたりします。で、見つけました。ベビータイガーのTシャツ。
胸に大きく舌を出した子どもの虎の顔がモノクロで描かれているのですが、実際に着てみると、その虎が太ってしまうのです。肥満児の虎。
「おかあさんが着ていると虎がコアラに見える」
ま、顔がやや丸くなるので、コアラっぽいと言えばいえなくもないでしょう。
というわけで肥満児の虎、気に入っています。3月末に京都、奈良を旅行したときに買った夜桜アロハはとうとう息子に取られていましました。まだ今のところは「貸して」なんて言っていますが、どうも常時、彼の部屋に行ったままになっているところを見ると、所有権が移動してしまいそうです。ベビータイガーのTシャツはあげないよ。気に入ってます。肥満児の虎。
186 20050501 夜間飛行 朝、目が覚めるとなぜか「めぇめぇ」鳴く羊の声。あんまりお天気が良いので、頭の中もちょっとあったかくなってしまったのかと驚きました。隣接の住宅展示場にミニ動物園がやってきていたのです。羊は小さな柵の中をぐるぐる回りながら「めぇめぇ」鳴いていました。うさぎやハムスターなどのおとなしい動物がやってくるこの催しを、家の子どもたちが小さい頃は楽しみにしていました。で、その「めぇめぇ」を聞きながらこれを書いています。
冬の夜、歳若い友人が香水の「夜間飛行」について、ロマンテックな話をしてくれました。小説にでもしたいような話でしたが、これはモデル問題が勃発しそうなので内緒。「夜間飛行」はサンテグ・ジュペリの同盟の小説にもとづいた命名の香水です。
匂いや香りを言葉で説明するのはむずかしいのですが、この香水は一昔前の男性の整髪料の香りがかすかに混じっています。ま、おじさん臭いって言うと身も蓋もないのですが、女性の香水にしては幾らか苦さがまさっていると言う点でかつては最新の香りだった時代もありました。、で、ミラノのデパートで白髪のお婆さんがこの香水を買っているところを見ました。ああ、こんな年齢の人が若い頃からずっと使っている香水なんだと思ったものです。
冬のうちに「夜間飛行」を一本買ってそのままになっていたのをあけてみました。かつてのおじさん臭いという感じはもうなくなっていました。香水を生産しているゲラン社が成分を多少調整しているのかもしれませが、こうした整髪料を好んでいたおじさんたちは双翼の飛行機とともに悠久のかなたに消えてしまったのでしょう。叔母の「タブー」もそうでしたが、「夜間飛行」や「タブー」のようなオールド・ファッションの香りもなかなかいいなあという感じです。
「めぇめぇ」に「コケコッコー」という鶏の鳴き声も加わって隣のミニ動物園はなかなか賑やかになってきました。
185 20050430 白い藤の花の香り 27日に叔母たちとお墓参りにでかけた時、南房総の館山ではもう藤の花が満開でした。藤は紫と白があります。お寺の駐車場では民家の生垣に蔓を巻きつけた白い藤が花房もたたわにいっぱいの花をつけていました。
藤は香ります。昔(今でもあるかもしれない)アナイス・アナイスという百合の香りの香水がありましたが、その匂いに似ています。アナイス・アナイスは生の百合よりも幾らか甘く軽く爽やかな香りでした。藤の香りは目に見えない空気の中に、ふわりとしたかたまりを作っていて、不意の鼻先を通り過ぎて行きます。
叔母が古風な「タブー」という香水を使っていました。「タブー」はある時期、一斉を風靡した香水ですが、今では手に入れるのが難しいそうです。そのオールドファッションの香りに新鮮な藤の匂いが交錯する瞬間があって、春が終わって行くのが惜しいようなひと時でした。
源氏物語の輝く日の宮のお局は「藤壷」で、そのお庭には藤が植えられていたということになっていますが、やはり春の終わりには、こうしたすばらしい香りが漂ったにちがいありません。
184 20050429 「源氏物語」白石加代子朗読会 浜町の明治座で開かれた白石加代子の「源氏物語」朗読会に行ってきました。連休初日。とても風の気持ちの良い日でした。明治座はいっぱいのお客さん。朗読は途中休憩を挟みますが、四時間以上。舞台は白石加代子のほかは、黒子がひとりいるだけ。
「源氏物語」の中から須磨、明石の章に末摘花の章とその末摘花との再開を描く「関屋」などで構成された朗読です。源氏物語がどのような物語であるかを大きく骨格からつかめるうまい構成でした。景色や拝見などは色とりどりの扇で表現されていて、物語の進行にしたがって黒子が次々と舞台上の位置を変えてゆきます。またこの扇がまるで落語家の扇子のような様々は小道具の役割を果たします。
朗読というよりもかなり一人芝居に近い感じでしたが、やはり白石加代子はすごい迫力です。とくに怨霊の声などは女性の声なのに低音の白石さんの声がぴったりでした。で、ここまでは最近の流行語で言うと想定の範囲内。予想外だったのは、外見のみすぼらしさにはまったく無頓着な末摘花のかわいらしい声を出す時のなんともいえない優雅さでした。高い声というだけではく、なんというか、その無頓着で、飢え死にするか凍死するかにもおかまいなしというお姫様のそらおそろしいほどのかわいさが声に出ているのです。
最後に黒子さんが女性の俳優さんであることがカーテンコールの時にわかり、以外な楽しさを添えていました。連休はDVDを見て過ごします。太平洋プロジェクトさんから教えてもらったフラソワ・オゾンの「8人の女たち」をまず見るつもりです。こちらは白石加代子にも負けない大迫力のフランスの女優さん勢ぞろいという映画です・
183 20050429 スタッフ・ルーム開放 ゴールデンウィークが始まりました。と言ってもまだ真夜中ですが。
本日から5月5日までスタッフ・ルームをパスワードとIDなしで入室できるようにします。皆様の書き込みをお待ちしています。
それにしても28日は暖かでしたね。緑色の葉が出た桜の木の下を歩いていると、とても愉快でした。
182 20050428 訃報 パック・イン・ジャーナルの総合プロデゥサー神山啓二さんが23日(土)にお亡くなりになったというご連絡をいただきました。突然のことに驚いています。
パック・イン・ジャーナルは生放送の番組で4月9日に出演したときも神山さんにお目にかかっています。ご病気とは想像できないお元気なご様子でした。土曜日といえばパック・イン・ジャーナルの放送日です。23日は御加減が悪いとのことで、神山さんはお休みだったそうです。なくなられたのはその晩ということでした。
この番組は放送終了後の雑談がおもしろ時があって、その時に神山さんの見方や感じ方を伺うのお楽しみでした。神山さんにお目にかかるのが楽しみで、苦手な午前中の放送に出かけるというようなこともあったので、たいへん残念です。まだ実感が湧かず、ご冥福をお祈りすると言う気持ちにもなれていません。
代々幡斎場のお葬式に伺いました。ご冥福をお祈りします。(4月29日記)
181 20050427 I GO TO金沢八景 叔母や叔父はいまでも京浜急行の金沢八景周辺に住んでいます。京浜富岡と金沢文庫の叔母を誘って、母の(叔母たちから見れば姉)お墓参りに行ってきました。が、連休前で大渋滞。都内の環八が混雑するのは毎度のことで驚きませんが、なんと東名も横浜町田のインター手前から渋滞。そのさきの保土ヶ谷パイパスはまったく動かず、自宅を出てから京浜富岡まで5時間もかかってしまいました。夜なら一時間に道です。27日のことです。
さらに間抜けなことに富岡の叔母の家を探すのに一時間近くも費やす始末。子どもの時から何度も尋ねている叔母の家ですが、その頃はまだ住宅造成されたばかりで今とは少し景色が違います。三島由紀夫の「午後の曳航」の最後に出てくる富岡の場面は、ちょうど叔母の家が富岡にできた頃を描いています。山が切り崩され、更地が階段状に並んでいる住宅地です。
山を造成してできた住宅地も40年近くの年月が過ぎると再び樹木が大きく育ち、生い茂り、家々を取り囲むようになっています。生きているものの力はすごいなあと思うのですが、住宅造成地はまた山に戻り始めているのです。もちろん家は新しく建てられたり改築されたりしていますが、それ以上に自然は修復力を発揮しているようです。叔母の家の庭には3匹のヒキガエル、それも巨大なやつが住んでいたり、ハトの雛を3羽も飲み込むほどの大きな蛇がすんでいるという話でした。住宅造成のためにいなくなってしまったと思われた動物や植物がいつのまにか戻ってきてきるようです。
そんなわけで、子どもの時に見慣れていたはずの景色がすっかりかわり、車で出かけた私は大慌て。叔母は叔母で、私の車が階段状の造成地を上へ行ったり下へ出たりしながら、なかなか家の前にたどりつかないのを、はらはらしながら眺めていたそうです。
久里浜からフリーで房総の金谷へ。金谷からはできたばかりの東関東自動車道館山線であっと言うまにお寺のある館山まで飛ぶような速さでした。新しくと言ってももう開通して数年になりますが、まだ造成のあとが残る高速道路を走るたびにサルになってような気分がします。だって、そのあたりはサルが木の枝から枝に飛びうつりながら移動する以外に、通るものがいなかった場所ですから。
180 20050425 I COME FROM 横須賀 スタッフ・ルームでキャンデーズと山口百恵が話題になっています。もとはと言えばカラオケでどうしても京浜急行の歌としか思い出せないという山口百恵の歌があるという話題を出したのです。
それが「I COME FROM 横須賀」です。とのくんの友人さんによると「生まれ育った土地を思い出すという理由で自分の歌った歌の中で一番好きな歌だ」と山口百恵自身がテレビで言っていたそうです。
I COME FROM 横須賀
横須賀から汐入、追浜、金沢八景
金沢文庫
汐風の中 走ってゆくの
赤い電車は白い線
駅の名前をソラで言えるの
横須賀マンボ・Tシャツね
I COME FROM 横須賀
あなたに会いに来た
I COME FROM 横須賀
あなたに会いに来た
文庫をすぎて上大岡、井土ヶ谷
日の出町 横浜まで
窓を開ければ 緑が飛ぶの
快速特急 音たてる
扉の近くに陣取りながら
呪文のようにつぶやくの
I COME FROM 横須賀
あなたに会いに来た
I COME FROM 横須賀
あなたに会いに来た
横浜から鶴見、川崎、品川
ここまでの道
小さな屋根が 集まっている
歴史のあとも あるけれど
あいにく私は 詳しくないの
心は走る線路なの
I COME FROM 横須賀
あなたに会いに来た
I COME FROM 横須賀
あなたに会いに来た
この歌はずっと横須賀恵のペンネームを使った山口百恵自身の作詞だと思い込んでいたのですが、調べてみると阿木洋子作詞宇崎竜童作曲でした。すごくべたなメロディであんまりはやらなかったのですが、私は金沢八景の生まれなので「ああ、きっと文庫で特快に乗り換えたんだなあ」なんて思いながら聞いていました。
と言うわけで4月29日から5月5日までスタッフ・ルームにパスワードとIDなしで入れるようにします。どうぞお遊びに来て下さい。
179 20050424 靖国神社参拝と郵政民営化 小泉政権のアキレス腱は、外交政策にあるようですが、ここまではなんとか切り抜けてきました。これまで郵政民営化と靖国神社参拝を結びつけて考えたことはなかったのですが、ここへ来て「ああ、なるほど」と思うようになりました。
郵政民営化をするために、どうしても国内の保守派の心情を掴んでおく必要があったのでしょう。その象徴が小泉首相の靖国参拝であったというふうに見えてきました。新聞では郵政民営化は骨抜き法案だと書かれていますし、先週、東京新聞の政治部の記者とお話した時も、ともかく反対したというジェスチャーをとる必要が議員にはあるんだという話でした。裏を返せば本気で反対する気はないということになります。
しかし、どうもそういう政治部記者の見方にうなずけないところもあるのです。確かに民営化法案は骨抜きですが、骨なんかなくたって、直截に言えば郵政縮小解体法案です。二年前の公社化が民営化で、今度は縮小解体の法案だということは、郵政関係の職場で働いている人には直感的に理解できているのではないでしょうか?だとすればけっこう本気で反対する可能性もまったくないわけではないでしょう。
私自身は郵政縮小解体は止む終えないと考えています。大きなお金の流れを公共投資型から民間投資型に変えなければ、日本はやってゆけないところまで発展してきたからです。ここの理屈がどのくらいの国民的コンセンサスを得ているのか、新聞やテレビ報道だけではよく解らないところがありますが、しだいしだいに理解はされてきているのではないでしょうか?
バンドンの日中の首脳会談は対話の再開と促進という結論で終わりました。どちらの首脳も相手を追い詰めなずに振り出しに戻るという形に収まったというところです。いずれの国も国内に解決しなければならない事柄が進行形で存在していることをひしひしと感じさせる会談だったのではないでしょうか。
178 20050423 三色スミレ冬を越える 12月になると三色スミレ、とくに花の小さなタイプの苗が出回ります。春の花を先取りするように花をつけた苗が売られているのですが、なんとなくヘンな感じがしてあまり買う気になれなかったのです。が、花屋さんに聞いてみると冬の間に苗を植えておくと、根ががっちり張るのだそうです。そういう冬を越えた株は、春になるとどんどんと大きくなって、夏の初めまで花を付けるということでした。
なるほど。なるほど。なるほど。
物は試しといいますから、試してみました。
冬を越えた三色スミレは今、伸び盛りでどんどん育っています。蝶々のような花も次々に咲きます。人間の経済活動や芸術の分野もおんなじようなところがあるのかなと妙なことを考えました。親しいよもだちと日本映画の話をしていて、このごろ見ていてすごく楽しい映画が出てきたという話題でおおいに盛り上がりました。「だめだ、だめだ」って言われていた時期は、きっと映画も根を張っていたに違いありません。
177 20050420 ホリエモン勝ったか負けたか フジテレビとライブドアが和解しました。ホリエモンが勝ったか負けたかで、テレビは賑やかですが、わりに安い買い物をホリエモンはしたのではないでしょうか?
この騒動の勝敗という点ではフジテレビとライブドアの業務提携を話し合う委員会が機能するか否かで結果が変わって行くでしょう。株の買い取り合戦のような派手なことは起きないでしょうから、あまり大きく報道されることはないかもしれません。しかし、ほんとうの激しい変化は、そうした地道な作業が進むことで起きるのです。いつのまにか、気がつかないうちに、ガラリと変わっていたということになるのです。
テレビを中心としたメディアのあり方はおそらくこれを境に急激に変化して行くことは間違いありません。
何が変わるかと言えば、もっとも大きく変化する可能性があるのはコマーシャルの料金でしょう。スポンサーのあり方にも大きな変化が出るに違いありません。付随して視聴率というものの考え方調べ方にも変化が出てくるでしょう。なぜ、そう思うのかと言えば、それはネットの性質がこれまでのメディアと異なるからです。
ネットは高い検索機能を持っています。また個別の対応を得意とします。さらに、双方向性を持っています。いずれもテレビが苦手として機能です。メディアの中では一番古い活字の世界も、書籍、雑誌の流通が激変期を迎えることになるでしょう。ネットとテレビの結びつきは、視聴者や読者に目に見える形の変化を呼ぶというよりも、その収益を出すシステムの変更を迫るのではないかという予想を私は持っています。
176 20050419 賑やかな仁王様 韓国の仏石寺に行った時の写真です。日本風に言えば山門にたっていた仁王様ですが、このお寺の仁王様は左右に二人づつ、四人もいました。しかも極彩色。白髪のこの仁王様はなぜか琵琶を弾いて歌を歌っているみたい。ええと、「豆蔵通信」の主の豆蔵君に似ているような似てないような、そんな感じです。 176.jpg
175 20050418 水田三喜男の生家 房総に行ってきました。鴨川市の山へ入ったところにある水田三喜男の生家を見てきました。水田三喜男は1960年代に佐藤内閣の大蔵大臣などを勤めた政治家です。高度成長期の通産、大蔵大臣で、高度成長政策の中心的な人物の一人です。その生家は安政年間に建てられたものだそうです。浦賀沖に黒船が現れたころですが、きっと家を建てている最中には幕府がなくなるとは思っていなかったでしょう。
房総はもともと酪農が盛んな土地ですが、水田家は日本で最初にホルスタイン種の牛を飼育した家だそうです。ホルスタイン種の牛を飼ったのが水田三喜男のお父さんでした。そのあたりは曾呂村というのですが、江戸時代には毎年5月に「馬捕り」で賑わったといいます。さて「馬捕り」とはなんでしょう?どうも文脈から判断すると馬の市のような気がしますが・・・。
大きな長屋門の左右には牛のための部屋(牛小屋)がありました。水に乏しい場所で、飲み水は遠くの湧き水を汲み、そのほかの水は母屋の裏にあるため水を使っていた様子です。水をためる四角い池のそばに水神様がまつってありました。なかなか暮らして行くのが容易でない土地です。それほど裕福な家にはみえませんでした。長屋門は客間を持つ家にしては質素なくらいです。しかし、この家は西洋種のホルスタインを飼育する決断をした時にある程度の経済的な基盤を築くことに成功したのでしょう。日本の酪農発祥地と言われる嶺岡牧場のすぐ近くで、嶺岡牧場にもかかわりがあったかもしれません。黒船が来なかったら、水田三喜男も寂しい山里の牛飼い馬飼いの三男坊で生涯を終わったかもしれないと考えてみると、歴史の巡り方は不思議なものだと思いました。
以前、ここに紹介した仁衛門島の仁衛門屋敷が海の交通を担った人々の元締めのような存在であったとすれば、水田家のほうは、陸の交通に大切な牛や馬などを生産していた人々の元締めみたいな家だったのでしょう。
房総では田のしろかきが始まっていました。しろかきを終えて新鮮な水が流れ込んだ田では、もう田植えを始めているところもありました。
174 20050416 夢の中のバルタバス ジンガロ座のバルタバスは想像したよりも小柄な人でした。というより、最初に馬場の外周に登場した時には馬上豊かな人物に見えました。ジンガロ座ではアルゼンチンのクリオロ種という馬を多く使っているそうです。が、バルタバスの乗っていた馬はまた違う種類のようでした。かなり肉付きの良い大型の乗用馬です。外周馬場に登場したバルタバスは、そこで馬を後ずさりさせたのです。これだけでも、かなりな驚きを呼ぶはずなのですが、乗馬の愛好者の少ない日本では、馬が後ずさりが苦手なことを知っている人が少ないので、ちょっと残念でした。それでもバルタバスは馬上豊かに見えました。
今度、ジンガロ座の公演を見て、私は初めて「馬上豊か」という言葉の意味を知りました。バルタバスは馬から下りてしまうとほんとに小柄です。ところが馬の上にいるときは大柄に見えるのです。馬からエネルギーをもたっらいるようです。さらに、目前で見ている時よりもあとから思い返すほうがもっと大きく思い出されるのです。古典の文章に登場する「馬上豊か」という表現はきっとこんな感じを言うのだろうと思いました。
バルタバスは公演の中で何頭かの馬の乗り変えて使っていましたが、どの馬ともひとつになっていて、その動きは思い出の中で(と言ってもまだ5日くらいしかたっていませんが)ますます優雅に、ますます量感を持って思い返されるのです。
173 20050415 中国の反日デモ かなり深刻の様相と呈してきている様子が各種のニュースが伝えています。韓国とは事情が異なるようです。日本の問題でもあるのですが、ここ数年の間に中国国内にたまっていた不満が膨らんでいるのではないでしょうか?中国政府にコントロールされたデモとは思えません。
パソコンを使う学生だから、それほど貧しい階層ではないという意見を時々耳にします。しかし、パソコンやネットを使う学生の中には、親族一同の期待を背負っている内陸部出身の学生もたくさんいるはずです。そういうことを考えてみました。「愛国無罪」のスローガンの後ろに「革命無罪」が隠れてはいないでしょうか?
この週末はどういう展開になるのでしょうか?
172 20050414 ジンガロ公演 木場公園にテントを張っているジンガロ座の公演を見てきました。ジンガロ座見たさに本拠地のオーヴェルヴィリエに行きたいなと思っていたので、日本公演を見ることができてとてもラッキーでした。
ジンガロ座は単なる馬のサーカス、曲馬団ではないと言われます。なぜなら、馬の曲乗りだけではないからです。主催者バルタバスは自在に馬を操り、馬に様々な歩調をとらせることができます。ふつうの曲乗りは、馬を走らせた上で、人が逆立ちをしたり、組体操のような仕草をしたりします。体操にあるあん馬や跳馬の動きもあります。それらは、走る馬の上で人が演技をしているのですが、バルタバスは馬に演技させます。馬場馬術が盛んなフランスならではのジンガロ座だと思いました。
スローモーションと言ってもいような駆け足。右前足あるいは左前足だけを高く上げるすスペイン並足。並足での後方への移動(バック)斜めに足を交錯させながらの横移動。前足を固定したままの回転。後ろ足だけでリズムを取る動き。次から次へと見たこともない馬の歩様が登場しました。ぜひ馬場馬術に詳しい人の感想を聞きたいものだと思いました。
しかも、それらの歩様を取らせるためにほとんど手綱を用いないのです。身体の重心の移動と鐙だけで指示を出しています。足まで隠れる衣装を着ていましたから、鐙が見えなかったのですが、ちらりと見えた鐙はこれまで見たこともない変わった鐙でした。日本の履き鐙のような感じで鐙で、西洋馬術の鐙ではありませんでした。
やっぱり、オーヴェルヴィリエに行きたくなってしまいました。
171 20050413 右翼の定義 ご承知のように右翼、左翼はイギリス議会で保守派が右、革新派が左に座席をとったことから起こった名称です。いつの時代にも進歩的な人と保守的な人がいますから、そういう意味では、右翼、左翼という政治的な色分けはなくなるということはないでしょう。
が、その内実となると時代とともに変化しています。日本で右翼という場合は、共産主義、社会主義の考え方に対しての自由主義、資本主義の考え方をする人々あるいは民族主義的、国家主義的な立場に立つ人をさしてきました。さらには単に暴力団の呼び変えの場合もあります。実際、対暴法で暴力団の看板を出せなくなったので右翼団体を名乗っている組もあると聞いています。
で、ソビエトが崩壊し、冷戦が終結した時点で、それまでの右翼左翼という分け方にも変化が生じてきています。さらに「進歩」という考え方もかなり疑念をもたれるものになってきました。例えば、科学技術の進歩は果たして人間を幸せにするのだろうか?という疑問が、身近なところに登場することも多くなりました。
そこで残っているのが、民族主義、国家主義的な右翼という考え方です。しかし民族主義も国家主義ももともとは近代化の流れの中で生まれてきたものですから、おそらく、これからその内容が大きく変わって行くでしょう。
私は家は川越街道沿いにあります。もう25年もここに住んでいますが、自衛隊の朝霞基地と練馬駐屯地があるので、越してきたばかりのころは休日というと、右翼が軍歌をがんがん流しながら街宣車で走り抜けて行きました。それがいつ頃からか?まったく通らなくなりました。昭和が平成に変わって数年後に、久しぶりに右翼の街宣車が来たと思ったら、なぜか松田聖子のヒットメロディーをがんがん流していました。
ノ・ムヒョン大統領が来日した時に麹町で出会った右翼の街宣車は韓国語でしきりに「ウリガナラ」を繰り返しえました。日本語の「わが国」ですが、その「ウリガナラ」はいったいどっちの「わが国」なんだと「?」でした。韓国語の演説が全部聞き取れるほど私には語学力がなかったので。
もしブッシュ大統領が来たら、アメリカ南部なまりの英語で演説したり、プーチン大統領の時はロシア語で、シラク大統領の時はフランス語で街宣なんて右翼が現れたら、自然に民族主義、国家主義も変化したものになって行くに違いありません。それにしても、ライブドアのニッポン放送買収騒動の時も六本木ヒルズを右翼の街宣車が取り囲んだそうですから、金と人が集まっていることは確かです。松田聖子のヒットメロディーを流していた時の右翼はきっと人材不足だったのでしょう。そこにまた人とお金が集まりだしているのです。が、人とお金が集まるほど、本来、保守主義であるはずの右翼も変貌せざるおえない状況が生まれてくるというジレンマを抱えることになりそうです。
170 20050412 20世紀の後姿 夏目漱石はロンドンでヴィクトリア女王の葬列を見送っています。それが漱石の見た19世紀の後姿であったと、何かの本で読んだのを覚えています。
そんなことを思い出したのは、ひょっとするとあれが私の見た日本の20世紀の後姿であったのかもしれないというデモを思い出したからです。5年くらい前の冬の初めのことでした。法政大学の門を出ようとすると、デモ隊がいました。
デモ隊と言っても7、8人の若者がいるだけです。それで、先頭の若者が「シュプレキコール」と言ってから何事かを唱えると、後ろに続いた数人がまるで小学校の一年生が教科書を読むように同じ文句を唱えます。異様だったのは、この小さな、そして、どうもデモ初心者まるみえの団体のあとを10人ほどの新聞記者がついて歩いていることでした。その後ろには10人くらいの警官が歩いていました。
デモ隊よりも取材記者と警官の多いへんな行列でしたから、夕闇にまぎれるまで、その行列を見物していました。話に聞くデモというものをやってみようとしているようでした。デモのためのデモです。そうした試みのデモに新聞記者も警察官も付き合っているようでした。
こうした奇妙なデモが20世紀の後姿に見えてきたのは、先日、朝日新聞の周囲をぐるぐる回っていた右翼が「シュプレキコール」型の街宣をやっていたからです。先頭車両のスピーカーが何事かを叫ぶと、野太い声で後続車両のスピーカーを通して同じ文句を唱和します。あんまり音量が大きすぎて何を言っているのかはわかりませんでしたが、ともかく左翼のデモのやり方にそっくりでした。そして、法政大学の周囲でデモを試みた若者よりもこっちのほうが堂に入っていました。
街宣車は昔の右翼が使っていたような装甲車型ではなく、選挙の候補者が使っているのにそっくりな白いバンでした。いろんなところから様式を学ぶのですね。ソビエトの崩壊いらい、右翼とか左翼の定義も日々変化していますが、街頭活動の様式にもそうしたものが現れるのかとへんな関心を持ってしまいました。
169 20050411 馬鹿にならない 中国での反日デモが広がっています。第一次天安門事件が1976年、第二次天安門事件が1989年、中国はおよそ10年おきにおおきくゆらいできました。
昨年、夏ごろから中国内陸部では10万人規模のおおきなデモや暴動が繰り返されています。理由はさまざまです。サッカーの時の観客の反応も含めて、反日デモもそうしたデモや暴動の一部でしょう。
こうしたことで日本人の中国に対する感情が悪化するのはある程度止む終えないのかもしれませんが、相手方の事情はもっと複雑です。日本も1960年代に反米闘争を含む安保反対闘争でおおきなデモがありました。中国は現在そうした時期にさしかかっているにちがいありません。
日本人が幾ら反米デモを繰り返しても、アメリカ人はさしたる関心をもたなかったようです。が、中国人が反日デモを繰り返すことで、日本人はかなり感情を悪化させそうです。なにしろ、けなされるのが苦手という国民性がありますから。早くに経済的な豊かさを達成した国の余裕を見せることができるかどうかが試されているのではないでしょうか?
168 20050410 馬鹿 昨日、朝日ニュースターの「パック・イン・ジャーナル」に出演しました。番組の最中に北京での反日デモのニュースが入ってきました。中国の反日デモはアメリカの意図が働いているという田岡説に、いささか面食らっているところに、スタジオまで大きな音が流れ込んで来ました。朝日新聞社を取り囲んだ右翼の街宣車の音でした。こんなにたくさんの街宣車を見たのは初めてです。
番組が終わってから有楽町へ。出光美術館で長谷川等伯の展覧会を見て、桜田門付近の桜を遠見の見物で楽しみ、それから北海道のアンテナショップへ。出光美術館のあたりはこのごろ、すごく賑やかになりました。
北海道のアンテナショップで鹿のソーセージを発見。「でもなあ」この間、サクラ鍋を食べたから・・・。お腹の中に馬鹿が発生なんてね!しばし考え込みましたが、結局、買ってみました。鹿の肉もおいしいのを知っていましたから。朝日新聞社の周辺をぐるぐる回っていた右翼の街宣車は有楽町の交通会館前に移動してきて、これから街頭演説に入ろうというところでした。きっとどこかでお昼でも食べていたんじゃないかな?
167 20050409 デジカメのお稽古 

夜桜は皇居のしだれ桜 昼間のはうちの桜です。
画像をクリックすると大きくなりますので、壁紙に使ってください。
さっそくデジカメのお稽古してみました。撮ったのはうちの桜です。正確にはうちの裏を流れている川の岸に咲いた桜です。
7日の夕方、都内で散歩がてら津島佑子さんとお花見をしました。靖国神社では読売新聞文化部の皆さんをばったり出会って、待ち合わせをしてもはぐれるのに、こんなことがあるのだねと「ややや」と驚きました。それから千鳥が淵へ。
千鳥が淵は朝の埼京線の電車の中のような大混雑!で、千鳥が淵をあきらめ、田安門から日本武道館の前をぬけて北の丸公園で小休憩。ここで読売新聞文化部の皆さんとお別れして、皇居の北詰め門の方向へ。ここはしだれ桜が見事でした。
でも、うちの桜もみごとですよ。ぜんぜん負けていません。この花びらが散って川面に流れるのを見るのも毎年の楽しみです。以上、デジカメ使用のおけいこでした。
166 20050408 昼の暗がり 三信ビルのアーケードは昼でもしっとりと暗くて、賑やかな日比谷の街から足を踏み入れるとほっとしました。それでいてアーケードは宝塚劇場のある通りから日比谷公園のあると通りへ突き抜けているので、前方の光が美しく感じられるのです。
私は瞳が茶色くて、戸外の光には弱いので、昼の光を一番美しく感じるのは、こうした陰になった場所から戸外を見るときです。まぶしさに悩まされることなく、まぶしい光を見詰めていることができます。
光は写真にとることができるかもしれませんが、建築物の中にたまった柔らかい翳(かげ)までは写真にとることはできないのではないでしょうか?でもそれは確かにあって、言葉にすることはできます。
165 20050407 日比谷三信ビル 「東京人」で日比谷の三信ビルが取り壊されることを知りました。日比谷シャンテという映画館の向かい側にあるビルです。ここには大韓旅行社が入っているので、時々、旅行の手配に行きました。
中央通路には様々な装飾があり、階段の手すりには艶の出た木材が使われていて、なかなか堂々としています。19世紀末から20世紀のはじめに建てられて建物は「劇的な空間」に満ちています。ここのエレベーターも装飾い富んだ扉を持っています。
ビルを管理する会社が取り壊しをホームページで発表したそうで、きっと訪れる人も多いのでしょう。入り口には利用者の迷惑になるので写真撮影ご遠慮下さいの張り紙がありました。三脚なんかつかったおおがかりな撮影をする人がいたんでしょう。
164 20050406 花ヨリサクラ鍋 法政大学のある市谷から飯田橋の外堀の土手の桜もようやく咲きだしました。待ちかねたようなお花見の人がたくさんいます。今年の桜はもうほんとうに思い思いに咲いている感じです。
さくらを見ているうちに桜鍋を思い出しました。これがほんとうの花より団子?なんてね。森下の桜鍋屋さんを教えてもらいました。遠くからも見える桜の花型のネオンサインのなかに「なべ」の文字(あ、こういうのこそデジカメでとればいいのか)でも建物は木造の古いものを修理して使っています。かなかか気持ちのいい入れ込みの座敷でした。
さくらはもちろん馬肉。軽くて、あっさりしていて、ついでに低脂肪で。味噌で食べます。東京は下町のほうが食べ物がおいしい気がします。
163 20050405 デジカメの練習しなくっちゃ ちょっととほほな京都旅行の写真です。ながしろばんりさん、どうもありがとう。ここに写真が載せられるのを知りませんでした。
デジカメは去年の6月に購入しているのですが、どうも義務感から手に入れたので、使用方法の研究に熱が入りません。ま、ぼちぼち研究してみます。
昨日の写真で2枚目の自動車はながしろさんのお好みのようですが、その自動車の写っている写真の空が「比叡の荒れ終い」の空です。こんな黒くもからあられがばらばら降ってきます。
もちろん、お花見というにはまだまだ桜の蕾が固かったのです。で、知積院で長谷川等伯の襖絵を見てきました。26歳でなくなったという等伯の息子久蔵が25歳で書いた桜図は、それはそれは見事なものでした。
162 20050404 「豆蔵君IN京都」



 | 我がホームページの管理人ながしろばんり君改めメルマガ「豆蔵通信」 の豆蔵君と京都に行ってきました。そもそものおこりはある日、ながしろ さんのHP"Equinox" を覗いたところ「先斗町」とありました。 京都・奈良旅行を予定していた私はさっそく「ねえねえ、先斗町ですき焼き食べない」とメール。
なんでも書いてみるものです。先斗町、ただの駄洒落だったのですが……。(豆蔵)
すき焼き!すき焼き!でつい忘れました。写真を撮るの。 同行者はこの3月まで図書新聞連載の「アジア映画を見る」の担当者萩原さんです。萩原さんに京都にある大正から昭和初期の建物を教えてもらいました。「1928」ビルは元毎日新聞社。今は若い人たちのギャラリースペースになっています。ああ、また写真をとるのを忘れました。見たい人は三条の「1928」に行ってみて下さい。 明治大学のリバティータワーが建つ前にあった記念館という建物と同じ匂いがしました。
デジカメを買った! と得意げな中沢さんでしたが、「これ、豆蔵君に渡すから豆蔵君のコンピュータで写真画像、とってくれるよね?」「あの、USBコードとか、パソコンにつなぐ線はお持ちでしょうか」「あ、ないない、そんなのない」「どんなものを撮られたんです?」「全然撮ってないや」「えー」とかなんとか、小生の携帯電話についているカメラで撮ったものなので、なんだかよくわからない写真ですが、申し訳ありません。(豆蔵)
で翌日の昼は四条大橋のたもとの東華会館。中華料理屋さんです。 ここのエレベーターはもう80年も稼動しているとのこと。また写真撮るのを忘れて眺めてました。お芋の飴煮がおいしかったこと。
お芋の飴煮はどうしたものか、空気に冷やされるごとに箸の動く軌跡の形に飴が固まっていきます。いわゆる大学芋のようにカチカチになるのではなく、飴がサクサクして、口の中ですっと溶けていく、なんともステキな風味でした。 京都は祇園、南座界隈にあります。一度味わってみるのも素敵です。 ごちそうさまでした! |
161 20050402 夜桜アロハ 京都でアロハシャツ買いました。アロハシャツはもともとハワイに移住した日系の移民が、長じゅばんなどをハワイの気候に合わせてシャツに仕立て直したものだそうです。だからもとは和柄で。
数年前に京都で女性の長じゅばんをアロハにしたものを見て「欲しいなあ」って思ってました。麻の葉に唐子のピンク色でした。地の厚い絹でした。
黒地の桜。お振袖などでよく見る友禅柄のアロハを買いました。絹地だけれども、新しく織った絹です。地紋に亀と椰子の木とパイナップルが入っています。古着よりもずっと安くので、買ってしまいました。
アロハってなぜか学校をサボりたくなるのです。たぶん10代の頃からの刷り込み現象でしょう。
160 20050401 エイプリル・フール さっそく、管理人のながしろばんりさんにかつがれてしまいました。何をかつがれたかって?このホームページの中に隠れています。本日だけの限定バージョン。探してみて下さい。
私はまた誰かがいたずらをしたのかと、朝っぱらからびっくりしてしまいました。それにしても「馬の首占い」とは!どうやって占うのだろう?つまりそういういたずらです。
桜が咲きましたね。ああ、春になってうれしい。
159 20050331 若い桜の樹 旅行をしていると新聞もニュースも見ないことが多いのでなんとなくこころ穏やかです。京都ではあられに降られましたが、比叡山から湧き出すもくもくした黒雲の向こうには鮮やかな春の空がありました。咲きそうで咲かない桜の蕾をみながら、南都・奈良へ出ました。
奈良でも寒かったでしょうとタクシーの女性の運転手さんに聞くと「ちべたかったですよ」とにっこりしていました。「ちべたい」って言うのですね。盆地の奈良の寒さは確かにまとわりつくような感じで「ちべたい」でした。
二月堂では修仁会も終わり、山焼きのあとの若草山も黒こげの肌でちべたそうでした。それでも若い桜の樹はもう花を開き始めていました。猿沢の池の柳も緑の糸を垂らしたようにあおくなりはじめています。冬と春が交代する一週間を、ぼんやり眺めていたら幸せだろうと思いました。
158 20050330 比叡の荒れ終い 京都と奈良に行ってきました。なんだか修学旅行みたいですが・・・。京都では修学旅行の下見の先生と間違われました。こんな季節に修学旅行の下見をするんですね。金曜日(25日)は関が原あたりはうっすらと雪化粧していました。
京都ではあられです。黒雲がもくもく湧いてきたかと思うとすぐにばらばらと硬い雪のつぶてがコートに当たります。こういう冬のお終いの悪天候を比叡の荒れ終いと言うのだと宿の人に教えてもらいました。
冷たい比叡降しが吹き荒れるのもこれでお終いという意味だそうです。冬がちょっとなごり惜しそうにお別れのご挨拶をしている感じのお天気でした。
京都にはながしろばんりさんも現れました。で、写真を撮ってもらったので、いずれトピックスでご紹介します。私はカメラを持参していましたが、いろいろと見とれていて、結局、写真は一枚も撮影しませんでした。どもう、見とれちゃうと、カメラを出すという動作を忘れてしまうみたいです。
157 20050324 昔のコマーシャル 「カステラ一番、電話は二番、三時のおやつは文明堂」という文句がマリンバの奏でる天国と地獄のメロディーに乗って聞こえてくると、弟はすっとんで来て、テレビ画面の熊のぬいぐるみと一緒に踊っていました。昔のコマーシャルは素朴でした。
「ぶた、ぶた、こぶた」というのはエースコックのインスタントラーメン。「当たり前だのクラッカー」なんてのもありました。それから「伊東に行くならハトや、電話は良い風呂、3126、3126、ハトやに決めた」なんて今だに電話番号まで覚えている始末。
今でも地方に行くと文字が書かれただけの画面に宣伝文句が流れるという素朴なテレビコマーシャルを見ることがあります。ああいうコマーシャルが流れていた時代のほうがテレビが身近だったのかもしれません。
昨日は朝のうちの甘くて静かな雨が降っていましたが、昼過ぎからだんだん冷えた雨に変わって変わりました。朝からずっと「伊東に行くならハトや」ってコマーシャルソングが頭の中でリピートしていました。原因はイトウさんに送るはずの原稿がなかなかできなかったからです。
156 20050322 オーストラリアはこれから冬 スタッフ・ルームに九十九里の和さんからオーストラリア旅行のおみやげのお話をいただきました。以下、九十九里の和さんの旅日記です。
「某月某日成田。行ってきまーす!夜行便でメルボルンへ!翌,
某月某日午前、メルボルン着。早速レンタカーを手配し、驚き!ニッサンのマニュアル車!坂道発進の恐怖!クルーズコントロールも無し!でも、右ハンドル、左側通行!スピードはKm / h、ガソリンはリットル!日本車が多いのも納得!市内へ!
いつものこと、最初の日の宿は惨めな思いをしないですむように、事前に日本で手配!12時ちょっと前にチェックイン!約束の13時に待ち人現る(何かドキドキしませんか?)!変わらず元気そうなので安心する!彼女は退職後、オーストラリアへ留学、現地の教職をとり、現在地元で理科の教師をしている。思い出話などをして一時を過し、市内へ!散歩、食事、メルボルンは素敵な街でした。
翌日、フィリップ島へドライブ。カンガルー日和ならぬペンギン日和!帰り道、メルボルン郊外で彼女を捨て市内へ!えっ!リリー?いいえ!彼女は私のリリーではありません!!ただ、異国で一人で立派にやっている彼女も、彼女の生き方も素晴らしい!でも、頑張れとは言いませんでした。思いのままに!
次の日の早朝、レンタカーでメルボルンからシドニーへ向け出発!その日は辿り付けず。途中の海のリゾート、ベイタマンズベイに宿泊!海辺の宿、波を枕に早々にご就寝!早朝ひたすらシドニーへ!走行距離1100Km!シドニーは大都会!!ご存知ベイサイド、ハーバーブリッッジ、オペラハウス、夏の太陽サンサン、美しい街!
翌日、シドニーから飛行機でアリス・スプリングスへ!飛行場へ降り立った時、呼吸困難になるほどの熱さ、サウナに入った最初の時の、あの感覚!とにかく暑い!38℃!暑い!
でもぐに慣れ、レンタカー(今度もニッサン!でもオートマ、クルーズコントロールあり!一安心!)で街の中心へ行き、エアーズロックの宿を確保!アリス・スプリングスはエアーズロックまで約500Kmの宿場町!オアシス!
さあー、炎天下の砂漠のドライブ!クルーズコントロールを110Km / hにセットし(スピードメーターは220までありましたが)、スチュアートHWYをエアーズロック目指してぶっ飛ばす!事前の調査で500Kmの間にガソリンスタンドは三つ!そのつど給油!日本車は燃費がいい!でもこうなるとアメ車のように燃費よりタンクのでかい車がいい!マイル、ガロンは頭にくるけど!途中何回も路上でバーストしたタイヤやカンガルーの死体をみる!雲がきれい!目的地手前1時間くらいのビューポイントで砂漠の中に突然巨大な岩、エアーズロックが見えました、感動!
エアーズロックリゾートは高級ホテルからキャンプ地までそろっている。キャンプ地のロッジにわらじを脱ぐ。その日は夕陽を見て、おやすみ!次の日は、早朝ウルルへ出発!朝日を見て、エアーズロック登山!日本語で「登らないで下さい」との立看!その下に「どうしても登る場合は、次のことを守ってください」“とにかく水を飲め”だの注意書き。往復2時間!素晴らしい眺めでした。“亜紀!やっと来たぞ”宿に帰って朝食!そして日中は洗濯、プールなどに入って、リゾートライフ!プールには、 登山の時にいっぱい見かけた日本人は一人もいませんでした。今頃、バスにゆられて観光ケジュールを“こなして”いるのだろうか?リゾラバは?出会えませんでした。夕方、オルガ山へ!いました!おそろいのリュック、おそろいの水筒を持った日本人の団体、約20名!水を飲め、飲めと促しているガイド、それに従って全員で飲んでいる姿は、悲しい!風の谷(宮崎アニメ「風の谷のナウシカ」はここが舞台?)など見学し、夕陽を見て、宿に帰ってきて夕食、その後、星座教室に参加しました。南十字星、マゼラン星雲などなど、大航海時代に思いを馳せました!
翌日、再びアリス・スプリングスへ、途中、道路を横断するカンガルーの親子に出会いました。ハッピー!But no Koalas !ここから飛行機でアデレードへ!アデレードでは日本人でいっぱいのバックパッカーズ(バッパーというらしい)宿に泊まりました。この街はすでに秋?宿のおやじ曰く、unusually!落ち着いたいい街でした。
次の日、電車でメルボルンへ向いました。この国では電車の旅は贅沢?ベテラン達がゆったりとした旅を楽しんでいました。日本人が失ってしまった!スローライフ!メルボルンまでThe Overland号での13時間、飽きることも無く快適な電車ライフ!メルボルンでは宿無し!F1グランプリ・メルボルンが行われていて、この街には宿は無い、空港で寝ろ、と言われました。しかたなくBARで食事をし、カジノで朝方まで過し、空港でシャワーと仮眠をとる。まるで「エアポート」。カジノの宿代は高かった!旅の醍醐味でした。ははは!
メルボルンから飛行機でブリスベンへ!ブリスベンはトロピカルな雰囲気!トロピカルは日本だと“熱帯風の”とか南国をイメージするが、この国では北国!日本人が多くいたのですが、これまで他の街で出会った人種と違い、サーファー?ヤンキー?さすがグレートバリアリーフを抱える街!案の定、パスポートサイトで帽子をとれと言われている学生風の日本人を多く見かけました。悲しい日本人!私はメルボルンやアデレードがいい!
ブリスベンから成田。スッチーの仕事ぶりや上下関係を垣間見、見たかった映画「レイ」を見ながら帰国!ただいま!」
いやあ、なかなか愉快に旅行だったみたいです。退職後に外国で教師をするというのも勇気が入りそうですが、ひとつの仕事だけで一生を終わるよりも、豊かに人生が築けそうですねえ。
155 20050321 ミモザにマーガレット 花粉症ってもう国民的な病気みたいです。日曜日に薬屋さんにいったらレジは花粉症対策の品物を買う人の行列でした。私も欲しいのはマスクに目薬にローションテッシュだったんですが。私はくしゃみていどのすんでいますが、娘と息子は重症で、家の中でも立体マスクをしています。
銀行の入り口には「恐れ入りますが、入店のさいはマスク、めがねなどはおとりください」の張り紙。ははん。花粉症と強盗の区別がつかないのだなあって笑ってしまいました。
で、買い物のいちばん最後はお花屋さん。この頃、花も野菜と同じで季節のあるものが少なくなりました。なんとなくこの季節しか買えないもを選びます。で、目についたのがミモザ。この花、昔は嫌いでした。もしゃもしゃした感じが、なんだか黄色い毛虫みたいな気がして、なんであんなにミモザをロマンチックに書いた詩があるのだろうって思っていました。ところが、だんだん好きになってきて、どうしたわけだろうと思っています。で、たぶん、これを買って帰ったら「花粉を連想する」と文句がでるだろうなあと、考えはしたのですが、やはり買ってしまいました。
ミモザとマーガレット。やっぱり、家では花粉、花粉のだい合唱でした。「花粉症になってみないと解らないよ!」だそうで、ううん、まずかったなあと後悔しきり。にもかかわらず(今日は逆説の接続詞のオンパレードになりそうです)ミモザとマーガレットの組み合わせは春らしくて素敵です。
154 20050320 グリーンカード グリーンカードって言ってもアメリカの居住権のことではありません。日本で1980年代前半に非課税預貯金の限度管理のために導入しようとした制度です。その頃はマル優って言ってました。政府は貯蓄奨励だったので、一人300万円を限度として、預金金利が非課税になっていました。その限度額を管理しようとしてグリーン・カードの導入が検討されました。結局、この制度は個人情報を国が過度に管理することになると言うこと理由の反対が強くて、導入されませんでした。
なぜマル優があったかと言えば、貯蓄を奨励して、資金を集め、道路、港、鉄道、ダム、空港などの公共施設を建設して行くためでした。マル優を利用していた頃の私たちはそんなことは、少しも考えずに質素倹約こそ美徳だと、貯蓄は道徳的に正しいことを教えられ、信じてました。
今になって、ああ、なるほど、マル優の限度管理が考えられた頃から、国全体の資金の動きを公共投資中心から民間投資中心へと変換させたかったのだなあと気付くくらいです。お金があればたいていのことができるのですが、その次に重要になってくるのはそのお金を誰が持っているかということです。
道路や港などの公共財は国がお金を持っていればできますが、アニメーションやゲームソフト、音楽、絵画などは、国がお金を持っていても作れないものです。おもしろいものを作って、大勢の人に楽しんでもらって、利益も上げようという性格のもの、あるいは服飾やおいしい料理など、それぞれの人によって好みが分かれるもの、などなど、国がお金を持っていたって、ぜんぜん無意味です。民間に資金が回るようにしなければなりません。民間に資金を回すための公平校正な方法を作らなければいけないのです。
政府がグリーン・カードの導入に失敗したあと、消費税が出てきました。これは税金の取り方の構造を変える税制でした。それからリクルート事件がおきます。政治家と政治資金の問題としてさかんに報道されましたが、今から考えると株式市場を公正公平にするための第一歩の事件だったように見えます。その頃はまだメディアという言葉はなくて、マスコミと言っていましたが、マスコミの思い込み報道がひどかった時期でもあります。
今回のライブドアとフジテレビの株争奪戦もここまで来るとフジテレビ側に初期の段階で敵対的買収という思い込みが強すぎたのではないかと疑問を感じるようになってきました。なんのための買収かをよく確認しないうちに敵対的買収に対する防護作を打って、フジテレビはかえって立場を悪くしているのではないでしょうか?どうもそんな気がしてなりません。
よく日本人が幼くなった、幼稚になったという話を耳にしますし、実感もあります。文学が衰退した原因もそのあたりにあるのですが、いや、文化そのものが衰退しているもとは、人の気持ちにあると言ってもいいのですが、そういう現象が起きたのは豊かな社会のためという説明に私は首をひねってきました。なぜなら豊かな社会は、必ず文化的豊饒を生み出してきたからです。
日本人が幼稚になったとか、幼くなったという現象がおきたほんとうに理由は「資本」への無関心だったのではないでしょうか。「会社は社員のもの」という言葉の中で「社員」を「動労者」に入れかければ、社会主義あるいは、共産主義の考え方に限りなく近づきますが、「労働者」という単語を使えば、対抗概念としての「資本家」が登場します。しかし「社員」だと対抗概念が消えてしまうのです。「資本」に無関心というのは、例えて言えば、子どもが親の収入に無関心なのと同じような心理を生み出したのでしょう。まして、日本は会社や企業を家族に見立てる風土ですから、なおさらなのではないでしょう。
グリーン・カード導入は強い反対にあって失敗しましたが、90年代に入ってからの構造改革の中でマル優そのものが縮小廃止されました。また、政府系の金融機関の代表である郵便貯金、簡易保険を含む郵政が民営化されようとしています。
グリーンカード導入の頃から国全体の資金の動きを構造的に変えようとしてきたことを思うと、子どもっぽい投資家が出てきて、許認可事業である放送局を買収しようとするのはなかなかアイロニーに満ちた現象です。デキンズやバルザックが生きていたらきっとおもしろい小説を書いたでしょう。
ここのところ、同じ話題に終始しているようで恐縮ですが、ライブドアとフジテレビの株争奪戦を見物していると、自分が生きてきた時代の「形」(フォルム)の生成過程が見えるようで、どうしても興味が尽きないところがあります。
153 20050319 外国人の団体旅行 八重桜が高瀬川の縁を飾っている京都を歩いたのは去年の春です。フランス人は個人主義的な態度をとるから団体旅行などしないと聞いていたのですが、ホテルはフランス人の団体旅行客でいっぱい。フロントはフランス語の洪水に大混乱でした。
3月のはじめに初めて広島の平和記念公園を歩いてきました。紅毛碧眼の外国人団体旅行客の姿。はてさて何人だろうとボランティアガイドの人の言葉に耳を傾けたらドイツ語でした。ドイツ人の団体旅行です。
数年前の夏、こんなに暑くては観光客も少ないだろうと奈良・東大寺の大仏殿に久しぶりにお金を払って入りました。だってうっかり季節を考えずに入ると恐ろしいくらいの中学生や小学生の大群が出現しますから。これは広島でも同じかもしれません。大仏殿の中では、中国人団体旅行客と家族連れの韓国人旅行者が大仏を見上げていました。
日本を旅行しているとあっちこっちで外国人旅行者と出会うようになりました。欧米人は団体旅行をしないと私たちが耳がたこになるくらい聞かせられた話は嘘だったんだなと思います。階級の感覚が根強く残っているヨーロッパでは、言葉の通じない国を旅行するのはそれなにのインテリだけだったようです。階級とか身分という感覚が少ないアメリカ人はもっと前から団体旅行をしていました。
お伊勢参りなどで江戸時代から団体旅行をしていた日本は団体旅行先進国だったのかもしれません。でも、団体旅行って、帰ってきてから考えると、何も覚えていないってことがよくあります。あれは人を頼っているから頭を使わずにすんじゃうでしょう。一番、怖いのは外国旅行の途中で団体から離れる時です。頭の切り替えがうまく行かなくって、自分の身を守る行動に出られなくなっていて、どきりとする場面を何回か経験しています。
今朝の日経新聞は内閣府が近くまとめる「日本21世紀ビジョン」案で訪日旅行者数を現在の年間600万人から2030年には、4000万人に増加させるという目標を報じています。これは団体旅行抜きに達成できない数字でしょう。一度、団体旅行で来て事情がわかれば二度目は個人でという人もいるはずです。政府が思い描いたとおりになるとは限らないのですが。
152 20050318 黒パン見っけた 池袋のデパートを歩いていたら、プリチェルを見つけました。細長くしたパン生地のわっかにして両端は「¥」みたいな感じに中央でねじったパンです。ドイツではあっちこっちのパン屋さんで売っています。ブッシュ大統領の大好物で、これをかじりながらテレビを見ていた大統領が、喉にプリチェルを詰まらせ、気絶しているところを夫人が発見したという騒ぎもありました。このときは、イラク戦争開戦前で、世界中からプリチェルを贈られたホワイト・ハウスが悲鳴を上げてました。
このパンについている四角い粒の結晶は一見、ザラメに見えます。が、ほんとうは塩なのです。街角で自転車の荷台にパンを積んで売っているパン屋さんで、これを買って食べた時には予想に反して塩辛い味だったのでびっくりしました。
プリチェルがあるならライ麦のパンもあるだろうと見てみるとありした。ありました。ライ麦90パーセントから20パーセントまで。パーセント表示をしているところが日本のパン屋さんです。
さっそく、すっぱくて苦いライ麦のパンを買って、家で紅茶を飲みながらネットを覗いていると「ホリエモンは和をもって尊しとなすの聖徳太子の一万円札じゃなくて、学ばざれば愚者となるの(学問のすすめ)の福沢諭吉の一万円札で育ったのがまずかった」という投書を見て、思わず「うまい!座布団一枚」と言ってしまいました。「アメリカはフセイン大統領の口の中で何を探しているのか?もちろん大量破壊兵器さ」以来のヒットでした。
151 20050317 ロンドンの金融街 1985年の3月末、私はロンドンの金融街シティを歩いていました。ちょっと間抜けなのは、でかけたのが日曜日なので、あたりはがらんと静まり返っていたことでした。なんで、そんな場所を歩いていたのかというと小説のゆりかごを見ておこうと思ったのです。見てどうなるというものでもないのですが。
小説は19世紀の市民社会を背景に生まれた文学のひとつのジャンルです。教科書風に言えばそういうことになります。今でこそ、文学という言葉を小説作品と同じ意味に使う人も大勢いますが、小説というジャンルが登場するまえは、文学の主流は詩歌でした。印刷という技術がなければ小説は登場しなかったでしょう。また印刷された本を読むことができる読者がいなかければ、小説というジャンルが文学の主流になることもなかったでしょう。
市民社会を生み出したのはイギリスの産業革命とフランスの重商主義です。良識のボン・サンスはフランス語であるのに対してコモン・センスは常識と訳すことが多いのですが、最近良く耳にする市民感覚もたぶんもとはコモン・センスでしょう。ボン・サンスも個人の良識というよりは、市民に共通のよき感覚に近い言葉だと思います。
ええと、それで、イギリスの産業革命ですが、これは大きな資本を必要としたために、様々は金融の仕組みを生み出しました。と、ここまでは学校で習ったことですが、そうなると、ロンドンの金融街が小説のゆりかごのひとつであったことになるでしょう。風が吹けば桶屋が儲かるよりも、もう少し確実な事実だと思います。ま、そんなことをぼんやり考えながらとぼとぼ歩いてしました。旅行に行くと曜日の感覚をなくしてしまうので、日曜日だったのはまずかったなあと後悔。三島由紀夫の「絹と明察」とか高橋和己の「我が心は石にあらず」それにトーマス・マンの「ブッテンブローグ家の人々」なんて作品を思い浮かべていました。あと、イギリスの作家、デケンズの「クリスマルキャロル」とか「二都物語」なども浮かんできました。85年よりあとのことになりますが、安達裕美主演の「家なき子」といテレビドラマがはやった時、大江健三郎さんとドラマの話をしたら「あれはデケンズだよ」と言っていたのが印象に残っています。「同情するなら金をおくれ」のセリフが小学生に大流行でした。
シティはロンドンでも古い街で、日曜日でも日本風に言えば下町の感じが色濃く漂っていました。イギリスにしては珍しくいろいろなお魚を山積みにして売っている魚屋さんも近くにありました。その陳列の方法がまるで果物でも盛るように彩りよく魚を盛り上げて、なぜかそこにはうさぎもいて(食肉として売られているのです)色彩的なアクセントを付けるために、真っ赤なオマール海老がちらしてありました。
イースターが近づいていたために、お菓子屋さんは卵型のチョコレートでいっぱいでした。ものすごく豊富な種類の卵型チョコレートがありました。シティの近くのお菓子屋さんと魚屋さんで撮影した店先の様子は、今でも我が家の風呂場の脱衣場を飾る写真になっています。
その頃、もう、イギリスは「ウィンブルドン効果」と呼ばれる金融市場の外国への開放政策をとっていたのかどうか、調べてみたかったのですが、適当な資料が手元にありませんでした。「ウィンブルドン効果」というのはテニスのウィンブルドンのは世界中の選手が集まってくるように、金融市場を外国に開放して世界中の金融機関に集まってもらおうとする政策です。1985年はまたプラザ合意の年でもあって、そこから日本のバブル景気が始まるのです。今、振り返ってみると、現在、私たちが経験している変化はその時期から始まったものでした。パソコンならぬ自分で組み立てるコンピュター、「マイコン」が東京のデパートの売り場に出ていたころでした。
そんな変化の始まりとはつゆ知らず、うさぎと魚をいっしょに売っているのを私は珍しげに眺めていました。日本の兜町や証券取引所のほうがロンドンをまねたのでしょうけれども、似たような下町にあるのもちょっと意外な感じがしました。
150 20050316 ホリエモンの国盗り物語 ニッポン放送の塚越孝アナウサーに、プロミスエッセイ大賞の選考会でお目にかかったときに
「野球の時はおもしろかったんだけど、今度はちょっとなあ」
と、ライブドアによる株式買収について、そういう感想をおしゃってました。朝、目が覚めたらほかの会社に自分の会社が買収されていたというのは、おもしろい話ではないでしょう。
民主党の岡田代表はTVのインタビューで「堀江氏に対する生理的嫌悪感があるんです」と政治家一般の反応について語っていました。これまでの価値観を破壊したり軽んじたりする相手に対して、人は生理的嫌悪感を感じます。とくに価値観を軽蔑されたり、軽く扱われたりする時には激しく生理的嫌悪感を覚えます。小泉首相に対してもそうした嫌悪感を示す人がいます。
昨日の朝日新聞「天声人語」はニッポン放送の対抗策である焦土作戦が「はたして社員によって有利なものかどうか」と書いていました。フジサンケイグループに残りたいという社員の望みをかなえるために、焦土作戦をとって相手と同じ土俵に乗ってしまうと、結果として会社は社員のものだという考え方感じ方が脅かされのでしょう。
よく日本はほんとうは社会主義国なんだという悪口を90年代に耳にしましたが、「会社は社員のもの」という感じかたをすごく図式的に言ってしまえば、企業は小さな社会主義国のような状態を作り出して、年功序列、終身雇用を守ってきたのでしょう。企業という小社会主義国の集まりを、合衆国のように集めて、国は資本主義の立場と取るというような構造に戦後の日本はなっていたのではないでしょうか?
それよりもっと遡る「会社は創業者一族のもの」という考え方感じ方は企業を家族に見立てることで、経営者は主人、雇用者は使用人というみもふたもない上下関係を穏やかなものにしてきました。家族に見立てられた会社員が、「会社は社員のもの」という感じ方や考え方
に基づいた仕組みを手に入れると社会主義国に似た構造が出来上がるというモデルを考えてみました。それはかなり公平な富の分配をする結果を生み出しました。みんなで豊かになろうという共通の目標があった時には、うまく機能した仕組みでした。
が、良いことばかりではないのです。豊かさの内容が問われる時代がくると、その仕組みは悪い部分を露呈させてきました。「日本は社会主義国だ」という悪口はその露呈した悪い部分を象徴しているものです。
そこへ「会社は株主のものだろう」という盗賊が現れました。というお話にしてみたのです。現れたのが、正統な救世主ではなくて盗賊だったので、なんだか複雑な気分です。プロ野球問題の時には盗賊に見えた人は少数で、どちらかといえば風変わりな救世主に見えていた人が多かったでしょう。今度は盗賊に見えているという人もかなりいるはずです。盗賊は「だから上から下まで資本主義の筋を通せばいいじゃない」と言っています。筋が通れば、行くべき道も見えてくるというわけです。
ライブドアのにニッポン放送買収は違法ではないといわれていますから、盗賊のたとえは適当ではないでしょう。が、この強引さ、これまでの価値観に基づく秩序の無視はやはり盗賊の例えが相応しいのです。盗賊にも鼠小僧次郎吉も入れば、アリババも物語の世界にはいますし、そもそも「国盗り物語」は戦国の武将斉藤道三を描いた司馬遼太郎の小説のタイトルです。さて、このホリエモンという盗賊はボン・サンスという愛人に気に入られることができるでしょうか?そこが勝敗の分かれ目かもしれません。盗賊が領主になろうとしているこの物語はこれからが、かなりおもしろなんて言っては、渦中の人から大目玉を喰らいそうですが。
149 20050314 ボン・サンス 「金貸しの日本史」(新潮新書 水上宏明著)というおもしろい本を読みました。それによると金貸しのもとは神社で、種籾を貸して、秋の収穫のときには、ちゃんと利子をつけてお米を返してもらうというものだったそうです。今の企業の資金集めもこれに似たようなもので、原理的には変わっていないのでしょう。
田んぼにまけば芽が出る種籾と違って、銭は芽を出しません。しかし、人間は銭に芽を出させる方法を考え出したのです。それが賭博です。天武天皇は銭を普及させもしましたが、同時に賭博にも夢中になってしまったらしいです。で、賭博を最初に禁止したのが天武天皇の皇后だった持統天皇でした。天の香具山に白い衣が干されているのを眺めながら、ああ賭け事だけ止めさせなければと思ってのかどうか解りません。
マネーゲームなのか、つまり賭博みたいなものなのか、それとも、まともな投資、田んぼに種籾をまくようなものなのか、どちらだろうと人の興味をそそるライブドアのかげに隠れて、西武鉄道の株式虚偽記載事件はネットの掲示板などでもあまり関心を集めてはいないようです。関心が向かない理由のひとつに一般の人は会社の資金集めの方法などを知らないということがあるでしょう。さらに言えば、何か悪いことには違いないけれどもオーナー経営者が逮捕されなければならないほど何が悪いのかはっきりしないということも、関心が薄い理由になるでしょう。会社は社員のものだと考える日本的経営のもとでは、会社の出資者に興味を持つ必要がなかったという点がこうした関心のなさの根にあります。
ライブドアが「ホリエモンの国盗り物語」なら西武鉄道のほうは「西武処分」とでも名づけたくなるような権力による強制的な企業の解体の様相をみせています。西武鉄道の場合は、会社は社員のものという感覚よりももうひとつ古くて、会社は創業一族のものという考えに根ざしたまま運営されて来ていたのでしょう。企業というものに対する考え方の50年から100年くらいの歴史を、去年の秋からの半年あまりで、西武とライブドアという会社をモデルに復習させてもらうような気持ちでここのところのニュースを見ています。
西武鉄道のような考え方のもとでは、株式会社という仕組みは大きな資金集めの仕組みであると同時に、その裏には「大きな事業は株式公開によって公的性格を帯びなければならない」という良識(ボン・サンス)は幾ら説明して理解されないでしょう。では、ライブドアの買収の対象になったニッポン放送や、それに関係するフジテレビの「会社は社員のもの」という感じ方は、ボン・サンスに近づいているのでしょうか?フジサンケイグループにもかつて創業者一族との確執がありました。それを考えると、ボン・サンスに近づいているように見えるのですが、やっかいなことに「会社は社員のもの」という考え方感じ方は資本に対する興味を失わせてしまうという欠点を持っていると言えます。
社員は自分がもらう給料には興味を持ちますが、会社の資本にはそれほど興味を持たないのは当然のことです。創業者やその一族は資本に興味を持つ存在です。株主もまた興味を持つのは社員の給料ではなく、会社が上げた利益に興味を持ちます。この違いが重要な意味を持っているのだなあと、新聞やらテレビを眺めています。それにしても、新聞もテレビも資本を集める仕組みを支える哲学を承知している取材者は少ないようです。興味をもたなければ、資本に対するボン・サンスも育たないということになります。
このごろ、ボン・サンス(良識)というのは、それだけ独立して存在するのではなくて、みもふたもない現実主義、例えば資金調達とか、マネーゲームと言われるような投機など、簡単に言えば「お金が欲しい」と叫びたくなるような心境などに現れる現実主義と、恋人どうしなのだと思うようになりました。恋人というよりもボン・サンス(良識)は現実主義のミステリアスな愛人と言ったほうがいいでしょう。
148 20050311 お金で買えないもの どの新聞だったか忘れましたが、お金では買えないものもある、例えば「ホリエモン」というあだ名と書いていたコラムがありました。確かにあだ名というのはお金では買えません。
これもいつ聞いたインタビューなのか忘れてしまいましたが、タイガー・ウッズのインタビューを聞いていたら「競争に勝った者は社会に奉仕する義務がある」というセリフが出てきました。タイガー・ウッズの独創的な考えではなくてごく常識を言っている感じでした。ああ、競争社会の裏にはそういう勝者の義務が存在していたのかと納得したものでした。こうした常識というより良識はお金では簡単に作れないものでしょう。
同じくお金で買えないものにひとつに野球やサッカーのファンを上げたいと思います。プロに限らなくてもいいのですが、強いチームならお金を積んでつくることができます。国家的に事業として強いチームを作ることもできます。しかし、良いファン、優れた観戦者はお金だけで作ることはできません。去年の秋、中国でサッカーの試合のあとに騒乱が起きた時そう感じました。
株式会社というものは株式によって資本を集めます。株式というのは会社が事業を行うための資金を集める仕組みであると同時に、その裏には大きな事業は個人や個人の所属する家族に独占されるべきものではなくて、誰にでも参加できる公的なものにならなければいけないという良識が存在しているようです。
株式は資金調達の仕組みだということは理解されているかもしれませんが、同じ仕組みが事業を公的なものにするという良識に沿っていることはどのくらい一般的な理解が得られているのでしょうか?資金集めのシステムは作れても、システムを維持するための良識は、簡単に形成されないのです。
ホリエモンの国盗り物語となずけたくなるようなライブドアによるニッポン放送買収騒動は、東京地裁がニッポン放送の新株予約権を差し止めの仮処分を出したことで、新たな展開を迎えています。ここまで、この騒動を野次馬的に見物してきた感想を言うと、会社は株主のものと考えるホリエモンと会社は社員のものと考えるニッポン放送とフジテレビノの戦いという性格がはっきりしてきました。
会社は社員のものなのでしょうか?株主のものなのでしょうか?資本主義の理屈から言えば後者が筋が通っています。が、前者の考えは戦後の日本の比較的平等な社会を作るうえで、大きな役割を果たして来たことも事実に思えます。はたして、現実の日本社会のボン・サンスはどちらに傾くべきなのでしょうか?
147 20050311 海のニュース 陸の予報 青森でテレビの天気予報を見ていたら、「路面情報」というコーナーがありました。道路が凍結しているのか、シャーベット状なのか、雪解け水で完遂しているのかなどを地域ことに放送してしました。
BRCの地方懇談会が広島で開かれた帰りに久しぶりで尾道に回りました。大学時代の友人と夕食を食べていた小料理屋さんではラジオがかかっていました。そこで「明日の航路情報」というのが流れていました。明日、どこそこを通過する大型船は何隻、何々丸は何時何時に通過というふうに、細かく海路の情報が流れていました。会話を止めてラジオを珍しがって聴いていると、
「だって、大型船の通る時の波はすごいもんだぜ」
ともだちが言うのでした。小料理屋の女将さんも
「交通量がおおいですからねえ」
と当たり前の顔で言っていました。
ところが変われば、天気予報で伝えられる情報も変わるものです。瀬戸内海はもう春の様相で水も温んでいました。
146 20050310 暖気してきた 青森の「めだかの学校」事務局からおたよりをいただきました。今年の青森は記録的な豪雪でした。以下、青森の「めだかの学校」事務局からいただいたお便りの一部です。
「こちら青森は、ニュースでご存知かもしれませんが観測史上4番目という大雪の冬になってしまいました。
<昨日どこそこの誰かが屋根雪をおろしていて屋根から滑り落ち、んヶ月の怪我をした>、<どこそこの店舗が1メートル50センチの屋根雪に耐え切れず倒壊した>等々、雪被害の記事が地元新聞に掲載されない日がないような状況になっています。
ですが、春の来ない冬はない、と言いますように、二、三日前あたりから雪国特有の重く暗い空に晴れ間の占める割合が多くなってきたような感じがしています。
こちらでは「暖気してきた」と言いますが、寒気に締め固められた道路の雪が融けはじめ、やわらかくなった雪の上を行き交うクルマがまるで波乗りしているみたいに揺さぶられる状態になってきました。 春の近いことが実感できるきょうこの頃です。」
青森では春の訪れのことを「暖気してきた」というのですね。まず空気や空の感じから長い冬の終わりをいち早く感じる実感のこもった言葉です。
しかしやわらかくなった雪も車にとってはかなり曲者です。どうぞ皆さん、交通安全をこころがけて下さい。春はもうすぐそこまで来ています。
145 20050303 お釜の引退式 本日2005年3月3日をもって我が家の電気釜に引退してもらうことにしました。思えばこのお釜は我が家の二人の子どものご飯を炊いてきた偉いお釜です。お釜さん、い、お釜様と呼ばなければいけないかもしれません。なんでご飯を食べないんだろうと不安になって保育園時代から、なんでこんなに食べられるのだろうと呆れた中学生時代、さらにさらに、せっかくご飯を炊いたのに帰ってこないじゃないか!の大学まで、せっせっとよくご飯を炊いてくれたお釜さまでした。
最近は寄る年波には勝てず、保温状態にしておくと中のご飯は黄色くかりかりぼろぼろになるという状態が続いておりました。
お釜様には本日、最後の仕事としてひな祭りのすしご飯を炊いていただきました。
ひな祭りのおすしはなぜかお野菜だけで作るものとおそわっています。かんぴょう、きぬさや、はす、しいたけ、にんじん。例外は金糸卵です。なまぐさは入れないのがひな祭りのおすし。
お釜様はこのお野菜のおすしのためのご飯を無事炊き上げてくれました。パチパチパチ。拍手です。
お釜様、長い間どうもご苦労さまでした。おかげで我が家のチビどもも立派な大人(いささか疑問もあるが、お釜様の担当部門の体格の点では疑問なし)になりました。どうもありがとう。
144 20050302 株式会社 渋沢栄一のことを少し調べたことがあります。渋沢栄一は幕末の深谷に生まれた人ですが、明治維新後、たくさんの株式会社を作りました。この株式会社は全てパブリックなものになって、渋沢一族のものにはしませんでした。渋沢栄一は株式会社というものは企業を経営者個人のものからパブリック(公)のものにする仕組みだということをよく知っていたみたいです。
どうして渋沢栄一がそういう考えを持つに至ったのかに興味がありますが、これがなかなか掴めないのです。そういう考えに至るエピソードでもあれば、小説にするのにもって来いの題材なのですが・・・。
ライブドアのニッポン放送株式買収や、西武鉄道の株式虚偽記載事件などの報道や議論を見ていると、株式会社は企業を経営者個人のものからパブリックなものに変える仕組みだという考え方が、共通の基盤になっているとは思えないような展開をしています。そうした土台の考え方に共通理解がないまま、議論が空転しているように見えるのは、私だけでしょうか?
143 20050301 ジュンク堂のテラス 3月になりました。まだ、しばらくは寒い日が続きますが、今月も下旬になると陽気の良い日があります。
池袋のジュンク堂の4階にある喫茶室からテラスにでることができます。周囲は池袋の裏路地でビルばかりで決して眺めがいいとはいえませんが、裏町の静かさがあります。なによりも広々としたテラスに流れる空気が気持ちいいのです。ちょっと暖かくなったら、ここで買った本をひととおり眺めるのが楽しみになります。
喫茶室のある本屋さんはいろいろありますが、テラスのある本屋さんはちょっと珍しいです。池袋はジュンク堂、リブロ、旭屋と大型書店がそろっているにもかかわらず本屋さんの町というイメージができません。町全体が本屋さんの町という感じのする神田とは対照的です。西口にあった芳林堂は私にとって懐かしい本屋さんで、年中、ここの階段を上がり降りしていましたが、今では雑居ビルになっています。
ジュンク堂のテラスから見える池袋の裏町はそのまま雑司が谷の墓地や鬼子母神につながっている町です。しんいと静まり返った裏町にそよ風が吹くとここが江戸の町の郊外で、田んぼや畑がいっぱいあった頃ののどかさが風の中に潜んでいるように気がします。きっとその風の吹き抜けて行く方向というのはビルが林立する町になったも変わらないものがあるのでしょう。
142 20050227 神田すずらん通り 神田駿河台下の靖国通りは古本屋さんの多い街として有名です。リンクに追加したアジア文庫と東京堂書店はその靖国通りと平行しているすずらん通りのお店です。
新刊本屋さんのほうが裏通りにあるのです。すずらん通りと靖国通りの間にはさらに細くて車の通れない路地があり、喫茶店や古本屋さんが軒を並べています。このあたりはお散歩にはぴったりな地域です。
近年、再開発が進み始めました。再開発で大通りがあり、商店街のある通りがあり、路地があるという三種類の空間が混在する街のかたちがなくなってしまわなければいいのですが。ちょっとそれが心配です。再開発は図面の上で計画がたてられたなと感じさせるものが多いのですが、もともとの街は人の足で踏み固められて作られたところが多く、身体が自然に馴染むような空間ができています。
現在、リンクには加えていませんが、ここには大きな本屋さんとしては三省堂もあり、書泉もあります。古本屋さんはそれこそ数えきれずです。若い主人のいる古本屋さんも路地には何件もオープンしています。
141 20050227 ピュア・ダージリン・ティー インドのコルカタから日本文学研究者のギタ・ニキさんが研修のために日本に来ています。コルカタでインドの文学者とシンポジウムに参加した時にはたいへんお世話になった方です。今回は北浦和にある国際文化交流基金の研修所で短期研修のために来日されました。
どことなくお顔が坂上次郎に似ているので、シンポジウム参加者の間では「あ、あのジローさん」なんて言っています。女性ですから、ちょっとご本人には聞かせられないのですが・・・。研修所では、各国の日本語研究者が合同で日本語の研修を受けているとのことでした。久しぶりにお目にかかって「北浦和なんて何もないところでしょう」と言うと、「それだけ集注して勉強できますよ」というお話でした。
10歳になる娘さんも今回はご一緒ということで、娘さんは仙台のご親戚の家にホームスティをしているので毎週、週末には東京駅まで娘さんを迎えに行ったり、ご自分が仙台まで出かけたりなさっているとの聞いて、ちょっとびっくり。今年は太平洋側でも雪が多いので、お母さんのほうは寒くて困ると言っていましたが、娘さんのほうはそれほど寒さを感じていない様子だというお話に、「やっぱり子どもは強いのねえ」と、感嘆しました。
お土産にピュア・ダージリ・ティーを頂戴しました。このお茶の産地のダージリンでは雪は振ることもあるのだそうです。お茶は少し緑色の茶葉が混じるもので、澄んだ色の紅茶が出ます。爽やかな香りのお茶でした。お母さんのギタさんは学生時代を東京で過ごされているのですが、10歳の娘さんに日本の冬がどのように感じられたのか聞いてみたい気がしました。
140 20050223 押江千衣子さんの絵 押江千衣子さんの個展を見てきました。テーマは「はだか」「ヌード」です。押江さんの生命力のある植物の絵がすてきで、個展を楽しみにしています。ベルギーに留学中で、美術学校の授業の一環として描いた「はだか」と「ヌード」が今回の個展に出ている絵です。
水彩画で描かれた人の体系はさまざま。でも、その絵も服を着ていないことに寛いだ感じがして、肩の力が抜けた開放感がありました。あまり適切なたとえではありませんが、露天風呂で寛いでいるときの感じです。見ているだけで、お日様の光を背中に受けてお風呂に入っているような気分になってきます。
雑誌や新聞では女性がモデルの絵が紹介されていますが、男性を背中から描いた絵もありました。すとんとしたはだかの背中の線がきれいな絵です。押江さんが「はだか」や「ヌード」をテーマにするのは意外でした。画廊の人を少しお話をしましたが、ベルギーの美術学校に行かなければ描かなかったテーマだろうということでした。
139 20050220 荒川土手 うさぎがいっぱい ホームレスの人が飼っていたうさぎが、どんどん増えて、今や荒川の土手を壊しそうになっているというニュースを発見しました。うさぎが土手に穴をほり、土手の草を食べるので、うっかりすると堤防の決壊の原因になりかねないそうです。
写真をみると、土手の上には白いうさぎと灰色のうさぎがいっぱい、跳ね回っています。多い時で70匹ほど、現在は50匹くらいのうさぎがいるそうです。最初のつがいの2羽がどんどんどんどんどんどん増えて、これほどの数になってしまったとのことでした。
弱い動物はどんどん増えるのも、種を守る手段のひとつなのですね。「自分」を守るのではなくて「種」を守るという感覚は、人間にもあるのでしょうか?
138 20050218 あなたの常識力を10倍にする本 管理人のながしろばんりさんから
「あなたの常識力を10倍にする本」
実業之日本社刊 日本常識力検定協会監修
が送られてきました。ながしろさんがイラストを担当しています。
常識力検定なるものがあるのは初耳でした。なるほど、世の中が変化すれば、常識も変化するので、そういう客観的な評価でできる検定も必要になるのでしょう。
この本、なかなかためになります。ひとおり読んでおくとニュースを聞いたり読んだりするときの基礎知識にもなるし、お祝い事は宴会での振舞い方も出ていると、常識の世界は広いなあと感心します。
137 20050216 今朝の東京は雪になりました 雪です。細かい雪や羽のように大きな雪や、いろいろ入り混じって、降っています。
未明には地震もありました。長く揺れ続けていました。内陸型の地震のようです。茨城県震源の地震は数日前にもあったように記憶しています。
雪は大雪になりそうな気配です。春の雪。
136 20050214 グーグルの表紙が 風邪を引いて熱を出て、もうろうとしているので、グーグルのバレンタインデーの表紙が、赤い薔薇と白いリボンだとわかっているも、包帯と血に見えてしまいます。ああ、しんど。
ええと、ご報告をひとつ。ようやくメールマガジン創刊号を出せました。「豆蔵通信」です。このホームページの管理人のながしろばんりさんが豆蔵を襲名しました。派手な襲名披露をしたいのですが、なにぶんにも風邪を引いてそうも行かなくすみません。
135 20050212 小説の猫 映画の犬 先日、文芸家協会発行のアンソロジー「文学2004」の編纂委員会で「どうしこんなに猫の小説を書く人」が多いのだろうと話題になりました。町田康、笙野頼子、平出隆などなど、みんな猫を描いた小説があります。犬がいないわけではないですが、猫が目立ちます。
昨日、豊島園に映画を見に行きました。予告編を見ているとその名もずばり「いぬのえいが」という映画の予告をしていました。ううん。ここまで来たか!と思わず「ふふふふふ」でした。「さようならクロ」「クイール」などここのところ犬の映画が多かったのです。なぜか猫の映画はない。こちらもまったくないわけではなくて「子猫物語」などがありましたが、今は「犬」です。
今度、馬の話を小説に書いてみようかな?馬だってけっこう人間とは仲良しです。うちで飼っているって人は少ないでしょうけど。
134 20050211 北区浮間の火事 昨日の夕方、東京北区浮間の温泉掘削現場で火事がおきました。天然ガスに何かの火が引火したみたいです。簡単に言えばガスバーナーに火はついた状態だと思えばいいようです。今朝になってもまだ鎮火していません。
夕方のニュースが流れた時、ベランダへ出てみました。浮間までは少し距離があるので、さすがに火は見えないのですが、一緒にいた息子が「お母さん、ヘリコプターがいっぱい飛んでいるよ」と、雲のかかる夜空を指差しました。赤く点滅するヘリコプターの明かりが、雲よりも低いところを接近して飛んでいました。
今朝の新聞をみますと南関東の地下には大きなガス田があるのだそうです。知らなかった。
133 20050210 100歳を越えるドライバー5人 日本には100歳を超える運転免許保持者が5人いるそうです。実際に運転をしているわけではないかもしれません。が、60歳以上のドライバーがかなりな数に登っているのは確かです。高齢化社会は道路上も例外ではないのです。
いったい幾つまで運転をしてもいいのか?時々、考え込みます。個人差が大きいだけに、法令で規定してしまうのも、少しやりすぎの気がします。ですから個人的に自分の判断で運転をやめなければいけないのでしょうけれども。多くの人はどう考えているのでしょうか?
運転をするのと、しないのとでは、大げさに言えば人生設計が変わってくるところがあるので、こういうことはいろんな人の意見を聞いてみたいところです。
60代になった私の叔母は、ナビ付きの自動車で気ままな旅行をしてみたいと言っていました。60代はまだまだ大丈夫。いや、大丈夫であるためには努力がいるというところでしょうか?さすがに100歳は・・・
私は運動神経が鈍いから65歳が限界かもしれません。でも年齢って、下から見ているとすごく年寄りに見えるのですが、なってみるとそうでもないということがあります。小学校一年生の時の6年生は「おっさん」と
「おばさん」でしたら、自分がなってみたら、そうでもなかったというあの感じです。運転免許書についてはこれが曲者かもしれません。
132 20050208 替え歌の歌詞 加茂靖子さんからビビデバビデブーの別の歌詞を紹介していただきました。こちらもなかなかです。
「私が幼少のころ(1980年代の千葉県内)は、
こんな歌詞でうたわれていました。
やめてよして
さわらないで
垢がつくから
あんたなんか嫌いよ
顔も見たくない ぷん!
誰が誰に対して歌っていたのか・・・
今から思うと、ひどい歌詞ですね。」
なるほど、東京から千葉に伝ってパワーアップしたのですね。この歌詞はリズムをとりやすい感じだし、歌いやすくなっています。「ぷん」っていうところがすごくいい。ほかにも何かご存知の方がいたら教えてください。
131 20050207 正調替え歌ビビデバビデブ トピックスに掲げた「うさぎとトランペットに使用した音楽」ですが、ビビデバビデブの替え歌には正調の歌詞があったようです。
スタッフ・ルームで管理人のながしろばんりさんが正調のビビデバビデブの歌詞を教えてくれました。
「面白いことに気がつきました。ビビデバビデブーの替え歌、小生が幼少のみぎりも(笑)あったのですが
さわらないで
ちかよらないで
垢がつくから
あんたなんか嫌いよ
顔も見たくない
だったように記憶しています。進化するのかしらん」
津島さんや伊藤さんの歌っていたのにも「垢がつくから」というのがあったので、たぶんこのほうが正しい(!)のではないでしょうか?私の聞いたのは進化したというよりも退化したやつだったみたいです。だって「垢がつく」ほうが強烈だもの。
130 20050206 あんまり好きじゃない単語 「うさぎとトランペット」にも「楽隊のうさぎ」にも宣伝文句は「成長」という言葉を使っています。本の宣伝は出版社におまかせしています。それに私はどうも解りやすい言葉というのが苦手なので、わかりやすくなくちゃいけない宣伝文句はおまかせしたほうがいいと考えています。
で、「成長」なのですが、この単語があんまり好きじゃありません。単語を差別しちゃあいけないのかもしれませんが、子どもの頃「成長したな」って言われると妙に腹が立って仕方がなかった。植物じゃああるまいし、成長なんかするもんかと思っていました。「都合良くなってくれたね」って言われているような気がしたのです。早く大人になりたいとは思っていました。なにしろもう充分一人前で、「大人」という資格さえ授与されれば充分と考えていたからです。
「成長」のかわりに「一人前」という言葉は好きです。赤ちゃんでも「一人前」3歳でも「一人前」であるのに、45歳でも「半人前」になっちゃったりするところが大好きです。一直線な感じがする成長よりもぐるぐる回ってくねくねしているので。5歳くらいの男の子なんて「おうおう、いっちょうまえに、やっておるわい」という感じで、公園の木に蹴りを入れたりしていることがよくあります。あれは「一人前」と「半人前」の間くらいかな。
129 20050205 関が原の雪 ああ、もう2月も5日ですね。2月は去ると言いますが、ほんとうに月末が少し短いだけであわただしい感じがします。
ここのところ、新幹線に乗る用事がある日というと何かしら奇妙なお天気に遭遇します。今度は大阪の大寒波でした。2月の寒波は当たり前ですが、高速道路で路面が凍結して、通行止めがでるとか、玉突き事故がおきるというような寒波の最中の大阪に行ってきました。
黒門市場でてっちりをごちそうになりました。それから白子の塩焼き。これは素焼きの蓋付きの入れ物に白子がぎっしり入って、蒸し焼きになってました。こんな塩焼きを食べたのは初めてです。それにしても寒い晩でした。空気の中の水分が凍っているような硬い感じの冷え方でした。
帰りは京都がうっすら雪化粧。瓦屋根の凹凸が、雪に覆われるとはっきり見えてなかなかきれいでした。関が原は猛吹雪で、新幹線は徐行運転。東京到着は一時間送れでしたが、急ぐ旅ではなかったので、雪景色が見物できてちょっと得した気分でした。
「ごちそう」を「どちそう」と打ち間違えていたら、スタッフ・ルームで管理人のながしろばんりさんが大笑いしていました。(6日追記)
128 20050201 杜甫草堂のジャン卓 マージャンはいつ頃、日本に入ってきたのでしょう?三島由紀夫の「豊饒の海」第一部「春の雪」に宮家に嫁ぐことが決まった総子がマージャンを習う場面があります。これはフィクションですが、大正の末頃には実際に家族でマージャンを楽しむ宮家もあったようです。
文化大革命時代の中国ではマージャンをする人の姿などみかけることはなかったそうですが、今はまた街の中、いたるこころでマージャンをする人の姿を見かけるようになりました。商店の店先などで、お客をそっちのけにしてマージャンをしている商売人もいます。
杜甫が住んだという草堂が成都にあります。この杜甫草堂のある公園の中に気持ちの良い茶房がありました。茶房は中庭を囲むような建物で、庭のテーブルとお茶を飲んでいると、中庭を挟んだ向かい側の棟で、四人の女性が熱心にジャン卓を囲んでいました。いや、正確には5人と二人の子どもです。
子どものひとりはまだ這い這いもできないような赤ちゃんで、白い髪をおかっぱ型に切りそろえたお婆さんに抱っこされていました。このお婆さんは、気が向くとジャン卓の女性と交代でマージャンに加わっていました。おばあさんに変わって赤ちゃんを抱っこしていた女性がどうやら、この赤ん坊のお母さんのようでした。
もう一人はかわいらしい女の子で、この子はジャン卓の周りを回って、それぞれの手の内を見比べていました。年のころは7歳か8歳くらいです。もうマージャンのルールがわかっている様子で、それぞれの手のうちが解っても、顔色もかえずに眺めていました。
女性たちは冬の短い午後をマージャンに興じて過ごすのが日課のような様子でした。これが私が見たなかでいちばん穏やかなマージャンの様子です。しかし、あの静けさは、案外、真剣な勝負であったかもしれません。
127 20050130 雨の夜に どうして早稲田の裏町を歩いていたのか解りませんが、その晩、私は二人の男友達と雨の中を歩いていたのです。「こんな雨の湿っぽい夜はジャン荘にでもしけこむのがいいなあ」なんて話を二人の男ともだちはしていました。その頃に早稲田の裏町にはいたるところに小さなジャン荘がありました。
ジャン荘にしけこむと言われても私はマージャンを知りません。それに人数は3人です。だから、マージャンは無理です。が、そのとき、白く振る雨の向こうから黒っぽい傘を差した男がこちらに向かって歩いてきました。傘の下をみれば、同じ年頃の学生風の顔でした。
「君、我々とマージャンをしませんか」
やにわに男ともだちの一人が、黒っぽい雨傘に声をかけたのです。傘が少し揺れて、傘の主が笑っているのが解りました。
「いや、心配しなくてもいいです。この子はまったくの初心者で、この子にマージャンの手ほどきをするのを手伝ってもらいたいだけなんです」
「えっ」と思いましたが、交渉はすでに始まっていてともだちに恥をかかせたくなかったので、「うんうん」と頷いていました。ほんとうにあたりは暗くて静かな晩でした。
「ジャン荘なら、僕、知っているところがありますよ。そんなに高くないし」
交渉はあまりにも簡単に成立してしまいました。早稲田の学生だという黒っぽい雨傘氏が連れて行ってくれたのは食料品店の二階でおばあさんとその娘(おばあさんからみれば、幾つになっても娘は娘という感じのおばさん)がやっているジャン荘でした。客は私たち四人だけ。昆布茶をおばあさんが出してくれました。
パイの読み方も知らない私がマージャンをやったのはこのとき、一度だけでした。まあ、足手まといみたいな存在で、2時間ほどマージャンをやっていました。最初から2時間の約束だったのです。あとで聞いたら、この黒っぽい雨傘氏はけっこうな腕前の持ち主で、超初心者の私がいたので、「僕らは助かったのさ」ということでしたが、ほんとうでしょうか?
出久根達郎さんからエッセイ集「まかふしぎ 猫の犬」(河出書房新社)をいただきました。そのなかに戦争未亡人の温泉団体旅行の話があって、このジャン荘の一夜を思い出しました。なせかじゃん荘の主は戦争未亡人みたいな気がしたのです。根拠は何もありません。学生相手のジャン荘を娘と経営している老婦人が、戦争未亡人だったというのが、珍しくはなかった時代の終わり頃のことです。
126 20050129 学生街からなくなったもの 喫茶店、ジャン荘 玉突き屋(ビリヤード)個人経営の定食屋、古本屋などなど、学生街からなくなったものです。喫茶店はチェーン店のスターバックスなどに代わりました。ジャン荘と玉突き屋はゲームセンターとテレビゲームなどのソフト販売店(こういう店を何というのか疎くなっている)になりました。それから携帯電話屋(こんな言い方があるのかな?)古本屋はブックオフなどの新古書店とレンタルビデオ屋になりました。が、最近では若い店主のいる古本屋さんが少し増えだしています。
喫茶店やジャン荘をのぞくと友だちがいたのですが、今は携帯電話で呼び出すようです。ずいぶん変わったともいえるのですが、対応関係があるところがおもしろいなあと思います。偶然の出会いが少なくなったような気もしますが、ネットの中には昔では考えられないような偶然の出会いもあります。
大学も卒業式は三月ですが、これから入学試験が始まるので、実質的な登校は一月の学年末試験が終わった時で最後になるという四年生も多いでしょう。ですからこの季節、ひっそりと昔を思い出したりします。
125 20050126 文章の書き方 ダイエット 禁煙 しばらく前のことになりますが、アマゾン・コムからダイレクトメールが送られてきました。
「文章の書き方 ダイエット 禁煙」の三つに関連した書籍のおすすめでした。正直言って「ありゃま」です。なんでこの三つの組み合わせになったのだろう?
ダイレクトメールはこれまで購入した本のデータをもとに送られてくるのだそうですが、なぜ、太っていて煙草を吸って、時々、文章の書き方に悩んでいるなんてことがわかってしまうのでしょう?これは今年最初の謎。
124 20050125 毎日、告訴するって言われても 年明けから毎日、手を変え品を変えて架空請求のメールが来ます。メルアドが「Kokuso」になっていたりして人を脅そうとする雰囲気がありあり。本文も読まずに消去していますが、気持ちのいいものではありません。
以前はエッチページの迷惑メールが多かったのですが、こっちはまだ苦笑いしながら、消去できましたが、「告訴」は穏やかじゃない。それに、うっかりクリックすると、それだけで、こちらの情報が流れ出してしまうのも不愉快です。毎日、告訴するって言われてもなあ。ああ鬱陶しい。
123 20050124 うつぼを食す 東京湾アクアラインのパーキングエリア「海蛍」でうつぼの干物を見つけました。館山の相浜産です。うつぼを食べる習慣があるのは紀州の一部と房州の相浜とは聞いていましたが、見つけたのは初めてです。
土佐の高知を旅行したときにも、うつぼ料理の看板を高知市内で見ました。タクシーの運転手さんに「昔から食べているのかしら?」と聞いてみましたが、「最近だね」という答えでした。もっとも、住んでいる村が違うと食習慣が違うということがありますから、昔から食べていなかったということに、必ずなるわけでもなさそうです。広く知られてようになったのは最近ということでしょう。黒潮の流れにそって伝わった食習慣が隣りの村には伝わらないということもあるのです。
うつぼ。食べてみました。なかなか濃厚な味。食べられるのは冬の間の脂が乗っている時期だけだそうです。かわはぎの味にぷりぷりとした食感を加えたような味でした。この干物を鍋物などに使うこともあるのだそうです。しかし、細く切らなければいけないのですが(1センチ幅)これがなかなか骨が折れました。特に皮がつるつるして切りにくいのです。よほど切れ味の良い包丁がなければ、この仕事は難儀。
122 20050123 豆畑の友記念日 1月22日は「豆畑の友記念日」でした。思い起こせば一年前、ここの管理人のながしろばんりさんが見本のホームページを作ってきたのでした。旧「豆畑の友」がそれです。以前からホームページをご覧いただいている皆さんは引越し前の素朴なページをご存知と思います。
トピックス欄の写真はそのときに、ながしろばんりさんが携帯電話のカメラ機能を使って撮影したものでした。その記念日を目前にした18日になぜかネット接続もメールの送受信もできなくなってしまいました。プロバイダー側のミスと解るまでに2日間、プロバイダー側のミスを解ってからまた2日間が復旧までに必要でした。やれやれ。
なにはともあれ「豆畑の友」は旧バージョンから数えて一年目を迎えました。当初の計画の半分もまだ進んでいませんが、これからもどうぞよろしくお願いします。
121 20050117 宝石になるはずの傷 昨日のこころの傷が宝石になる話の続きです。もう30年も前ですが、文学の世界でだ傷はみんな作品になるみたいな雰囲気があって、これが嫌だった。長い大事にして宝石になっているならいいんだけど、なまなましく血が流れているみたいな傷まで、作品になるって言われてもねえ、困ってしまう。
で、そのうちに心理学や精神分析学がはやりだして、今度は「傷」はみんな治療対象になっちゃって、これも嫌だった。治せばいいってもんでもないでしょう。例えば盆栽や庭園の木が全部、まっすぐにすくすく育った木で曲がりもなければ、瘤もない木だったらぜんぜんつまらないわけで。
まあ、そんな感じだったんです。傷を宝石にする魔法を忘れたら芝居だって文芸だって、おもしろくなくなっちゃうってことです。
120 20050116 刺青奇遇(いれずみちょうはん) また「かの字」の話です。勘九郎日記でお父さんの勘三郎が亡くなったときの感想で次のようなものがありました。
「普通の人なら忘れてしまいたい心の傷を、まるで宝石のようにたくさん抱えて生きてきたから、演技がほかの人より光ったのだと思う」
ああ、そうだ。そうだ。と思わず頷きたくなったのは文学にも普通なら忘れてしまえばいい心の傷が、まるで宝石のようになるところがあって、それが好きで本を読むのが楽しかったのを思い出したからです。
災害はあるたびに「心の傷のケア」と言われます。それはそれで結構なのですが、心の傷を宝石にするような感覚がちょっとなくなってしまっているのが残念です。
勘九郎の芝居でまた見たいぜひ見たいと思うのが長谷川伸の「刺青奇遇」です。とくに幕切れで、やくざにぼこぼこに殴られた主人公が舞台中央でのびている場面は忘れがたいものがあります。背景にはほのぼのと明けて行く春の空があって、風はまだ冬の名残で冷たい。主人公の肌にそういう冷たい風が吹き付けるのがわかるような幕切れです。この幕切れにはカーテンコールは必要なくて、ただ、幕が下がってもまだ、背景の春の空が見ていたこちらにまとわり付いてくるような感じがあるのが好きです。
長谷川伸と言えば「瞼の母」というくらいに、「瞼の母」が有名ですが、「瞼の母」よりも「刺青奇遇」のほうが現代の観客向きなのではないでしょうか?
舞台中央で主人公がのびて幕切れになる芝居では「研辰の打たれ」もそういう終わり方をします。こちらのほうは研辰という人物がどこかぜんまい仕掛けの人形みたいなところがあるせいか、カーテンコールがあったらいいなあと思います。私が見た時は、最後にひとひら葉っぱが落ちてきました。これが偶然なのか演出なのかわかりません。芝居では時々、そういう偶然もあります。で、今度の勘三郎襲名披露では「研辰の打たれ」を再演するそうですから、ぜひ、最後のところで葉っぱが落ちてくるかどうかを確かめたいと思います。
同じ役者が同じスタイルの幕切れを演じても、カーテンコールが欲しい芝居とカーテンコールはないほうがいい芝居があります。見ているほうが、主人公に感情移入してしまう芝居はカーテンコールが必要ないし、役者の演技を楽しむ芝居は、どうしたって最後に役者さんそのものを見たいという気持ちになります。そらから考えてみると、野田秀樹さん(「研辰の打たれ」の演出家)の芝居はカーテンコールのある西洋演劇に自然と近づいているということになるのでしょうか。
119 20050114 今度は青森から雪のたよりです 青森のめだかの学校の事務局から雪の様子を知らせていただきました。以下コピーです。
「ようやく降雪も落ち着きを見せはじめましたが油断はなりません。昨夕、用事のための目的地まで、普段ならクルマで20分ほどのところ、2時間かかりました。 青森市街地のほぼすべての道路が渋滞で、「逃げ場を失った」とでも申ましょうか、断面がU字になった、たとえればスノーボード競技場のようになった道路をクルマがすれ違おうとするのですから冷や汗ものです。」
街じゅうがスノーボードの競技場みたいというのも凄いです。2001年の豪雪の時に青森にいたのですが、冬型の気圧配置がゆるんで少し暖かくなると、今度は雪が溶け出して、坂道は滝みたいになっていました。
青森の皆さん、そして雪の多い地方の皆さん、どうぞお怪我などなさいませんように
118 20050113 カルフォルニアの雨 詩人の伊藤比呂美さんがカルフォルニアの雨について知らせてくれました。以下、メールのコピーです。
「けさは、もう朝からまっ青なカリフォルニアのおてんきです。
でも年末からきのうまで大雨の長雨で、すごくす・て・きだった。何もかも濡れていて寒くて。
植物はやたらにのびさかって。
ロンドンから来た人はロンドンみたいだというし、ハンブルクから来た人は(多和田さん)ハンブルクみたいだというし、とにかくカリフォルニアみたいじゃなくてと・て・もよかった(わたしはカリフォルニアの青い空と乾いた空気と咲き誇る四季なしの花が大嫌い)
ところが、きのう、長雨がたたって、うちのバルコニーが落ちました。
もともと腐っていたのがさらに腐って、しかも濡れ落ち葉がたまって重たくなってついに。。。。
このあたりでのいちばんの大被害だと思う(あとはあちこちで浸水冠水して道路が封鎖になったくらい)直前まで下にいたのであやういところだった。加州大雨で邦人大けが、なんて新聞にのるところだった。」
大晦日から降っていたとすると10日間も雨降りだんたんですね。もうそんな冬の長雨なんて、耐えられない。アメリカは夏にフロリダを何度も台風に襲われて、今度はカルフョルニアで低気圧が居座っているのですね。こういうお天気を楽しんじゃう伊藤さんっておもしろいです。低気圧が居座るのは北極からの寒気が強いせいだそうですが、同じ寒気が日本の北海道や東北には豪雪をもたらしています。
117 20050112 荒れる成人式? スタッフルームで成人式のことが話題となっています。報道では今年の成人式は全体に穏やかになったということですが、実際はちょっと荒れていたなというところも結構あったようです。またたくさんの警官を動員してあれないように防いだという地域もあったとのことでした。青森や沖縄ではまた逮捕者が出るという騒ぎもあったそうです。
ところでこの荒れる成人式は、成人した人々が子どもっぽいからこんなになるんだという論調が主流ですが、私は去年あたりから首をかしげています。と言うのも高校を卒業した人の就職率がたいへん低い時期が続いていたからです。昨年はやや改善したというものの、決して楽観できる数字ではありませんでした。
荒れるには荒れる新たな理由があるのではないでしょうか?どうも報道は紋切り型がひとつできると、事態が変化していても、その変化を追うことが少ないように思えます。成人式でばか騒ぎをした人の話を聞いてみたい気がします。成人式だけではなく、日ごろの生活や考えていることなども聞いてみたいです。高校の卒業生の半分が大学に進学する時代に就職難に出会うというのは、どんな感情を呼び覚ますのでしょうか?
116 20050111 勘九郎日記 かの字 今年も年賀状書きが間にあわなくて、またまた「寒中見舞い」を書いています。たくさん書くと、だんだん退屈になってきて「勘九郎日記 かの字」(集英社)を読んでいました。
なぜだか解らないのだけれども、勘九郎の聞き書きを読んでいると、いつも、私は昔の家の中を思い出します。いろんな人が尋ねてきたり、どういう関係がわからないけれども、おもしろい人が住んでいたりした昔の家の雰囲気です。お線香の匂いと出汁の匂いと、それにお正月だと燗をしたお酒の匂いなんかもした古い家のことです。語り口がそういうものを思い出させるのでしょうか?人が怒ったり泣いたり癇癪をおこしたりする感じがすごくそういうものを思い出させます。
初舞台を「昔話桃太郎」で踏んで以来の様々な思い出の中には父勘三郎が怒る場面もあれば、どのの家でもありそうな親子げんかの話もあり、お母さんとの意地の張り合いもありで、それらの話が思い出という「優しさ」に包まれているところが「かの字」の良いところです。親子兄弟がぶつかり合って「傷」ができるのではなくて新しい「芸」ができて行くところが爽快です。
115 20050110 孫の成人式 「今日は孫の成人式」
朝、ゴミを出しに行くエレベーターの中でうれしそうな顔でそう言うおばあちゃんに会いました。おばあちゃんと言っても、この方、いつも多少流行を取り入れたすてきなファッションを見せてくれるので、あまり「おあばちゃん」という気はしません。
成人式で「おめでとうございます」を言うにしてもおばあちゃんに言うのが、一番晴れがましい感じがします。「それはおめでとうございます」と言ったとたんに相手の方の笑顔で、言葉がぴかぴか輝くような感じがします。エレベーターが一階につくと、今日は着物を着るというお孫さんのためにおばあちゃんは猛烈ダッシュで駐車場まで走って行きました。そのブーツ姿がちょっとカッコイイ。
お祝い事って、祝ってもらう人だけのものではないのですね。祝うほうもちょっと幸福になるというのがお祝い事なのではないでしょうか。お孫さんの成人式までお元気でいられたのは何よりです。おばあちゃん、おめでとう。
114 20050109 東京を構成する小さな丘 夏目漱石の小説を読んでいると崖下の家というのがたびたび出てきます。目白から早稲田あたりは神田川に沿うように高台と川岸の低地に別れています。
田中角栄邸がある目白は高台で、夏目坂を下ると早稲田ですが、今度、池袋から小石川を抜けて神田神保町まで歩いてみて、高台からだんだんと平地へと降りてゆく感じが実感できました。
東京は西北の方向が高台になっていて、なだからに海へと下って行く街です。お正月三が日は、晴れわたり、富士山まで見えましたが、そういう遠い山々の手前になだらかな岡があるという地形です。
30年前に東京に住むようになった時には、そういう土地の起伏が建物にすっかり隠れてしまっていたので、とりとめのない都市のように思えました。昔の小説を読んでいると、高低差の感覚があるのに驚くことが多かったのですが、実際、そういう景色を人が見ていたのでしょう。
113 20050108 池袋から神田まで歩いてきました。 日本大学芸術学部大学院生の諸君と、池袋から御茶ノ水まで歩いてきました。今日はまた寒くなりましたが、昨日はぽかぽか陽気で歩くにはちょうど良い日でした。
池袋のジュンク堂で待ち合わせて、雑司が谷墓地から鬼子母神へ。そこから目白通りを抜けて忍ばす通りに入り護国寺へ出ました。護国寺では大熊重信のお墓を見物し、皇族墓地である豊島ヶ岡墓地の入り口を横目に見ながら春日通りへ出て小石川植物園に至りました。
小石川植物園は元小石川養生所です。ここの入場券の販売はちょっと変わっていて、正門向かいのたばこ屋さんで入場券を売っています(300円)。たばこ屋さんで入場券を買い、正門にいる守衛さんに半券を切ってもらってから、園内へ。梅がだいぶ咲いていました。
小石川植物園から伝通院へ。ここは徳川家康の生母の於大の方や家康の娘で豊臣秀頼に嫁いだ千姫のお墓があります。よく時代劇や時代小説に出てくるお寺です。徳川家にゆかりがあるのに、徳川家のお墓に入るのは少し差し障りがあった女性が葬られているところが、なんとくな親しみをもたれた理由かもしれません。実際、芝の増上寺や護国寺よりもやさしい感じのするお寺です。
伝通院から後楽園に降りて、神田神保町まで歩きました。江戸時代を研究するのが目的ではなくて、現代小説の空間の扱い方を研究するフェールドワークでした。電車(地下鉄を含む)に乗っている人と、足で歩いている人の都市における空間感覚の違いを実感してもらいまいた。
112 20050107 取材力の低下 3番目の理由に挙げた取材力の低下という事柄ですが、取材力が低下する理由は多様です。昨日の新聞に50年ぶりに国語力の調査をするという記事がありましたが、読解力が弱くなれば、当然、取材力も弱くなるわけで、これは取材力以前の問題。
そういった取材力以前の問題もあります。テレビについてここ数年見聞きしたところから言うと、「下請け化」と言ったらいいのでしょうか?番組瀬作会社と放送局が分かれているというケースが多くなりました。放送局の時自社製作の番組ではなく、番組制作会社が製作した番組を放送しているのは、ドラマなどばかりではないのです。ワイドショーや報道番組でも番組製作会社は活躍しています。これが放送局に対して立場の弱い「下請け」になってしまうことも珍しくないようです。
番組制作会社が単なる「下請け」にならないためには視聴率をとるという対抗手段が一番です。ニュースのワイドショー化と言われる現象の背景には、こうした番組制作のシステムの変化があったと言えるでしょう。
また自社製作の報道番組の中でフリージャーナリストから提供されたニュースを使うこともあります。これもだんだん増えてきました。で、こうした「下請け」あるいは「外注」が増えると局内に現場を知らない管理者が出てきてしまいます。現場を知らない管理者というのは困ったことに新しい事態に対処できないことが多いのです。どなたか、こうした番組制作のシステムの変化について具体的に調べていただけるといいなと思います。これは放送局自体が自己検証することが望ましいのかもしれません。
今回のインド洋津波は今までにない経験だったと言えるでしょう。単に甚大な自然災害だというだけでなく、国内の災害報道ではカバーできない外国の災害だったこと。邦人の被災者がたいへんに多く、また安否確認が困難を極めたこと。中東から北朝鮮に至る「不安定な弧」と呼ばれる新しい外交上の重要地域の中心地で起きたこと。タイのバーツの暴落から始まったアジア経済危機に見られるように、経済関係が緊密化していることなどの事情が加わっていること。こうしたタイプの災害は今までテレビというメヂィアが体験して来なかったものでした。そういう未体験の災害について、その重大さの判断が少し遅れたというのが、テレビ報道の少なかった理由ではないでしょうか?
111 20050105 ニュースが少なかった3つの理由 メディア対応の鈍さ遅さには年末年始であったことのほかに3つの原因が考えられます。
1、プライバシーへの配慮
2、誤報への恐れ
3、経済、政治、外交の取材力の衰え
この三つは関連しているように思われます。ジャーナリズムとりわけテレビの報道番組がワイドショー化したと言われるようになったのはおおよそ20年前です。
きっかけになった事件は「ロサンジェルス疑惑の銃弾」事件と呼ばれる保険金詐欺事件でした。また、それより少し遅れて消費税の導入や、リクルート事件はニュースとワイドショーが結びつきやすい要素を持っていました。
95年の阪神大震災のときにはまだそれほど激しいメディア批判はありませんでした。が、あとになってヘリコプター取材の危険や騒音による救助活動の阻害などが問題とされました。そして、同じ年のオウム事件ではテレビや活字メディアで流された情報に激しい批判が浴びせられました。
メディア批判がさらには激しく火を吹くのは97年です。この時はテレビ朝日の政治部長「自民党を潰す」という発言が国会で問題になってのですが、私の感覚では、金融危機などの表面化で、それまでの言論のミス・リードが一般の視聴者や読者にもかなり理解されるようになったのではないかと思います。この年はタイのバーツの暴落をきっかけとしてアジアの金融危機が起きた年でもあります。
メディア批判の声が高くなると共に左翼批判の声も高くなりました。が、どこにどのようなミス・リードがあったのかという検証はあまりされませんでした。むしろ批判はプライバシーの保護や誤報への非難という理解されやすいところで広がって行きました。メディアスクラムというものが報道被害の代表のように言われ始めたのは2000年前後であったと思います。
こうした雰囲気の中でメディア、とくにテレビはプライバシーの保護や誤報には神経質に気を使うようになってきています。この気の使いかたはどちらかといえば「問題をおこさない」というかたちで、消極的な方向へ流れがちなのも事実です。モザイクを使用した画面が圧倒的に増えたことからもそれが伺えます。
プライバシーの保護と報道の自由はバランスをとることが難しいふたつの概念です。取材力は弱くなっていることは、こうした批判のためにテレビ局がスポイルされたためとは言えないと思います。報道番組がワイド・シショー化した過程で、進行したもうひとつの現象があります。(この項、明日に続く)
110 20050104 スマトラ地震インド洋津波とテレビ スマトラで地震が起きたのは26日の日曜日でした。あいにくこの日からテレビも新聞も年末年始の進行になるところが多いのです。加えて地震があった現地からの情報は乏しいでしょうし、邦人の安否確認も難しい状況
であったにちがいありません。
それにしても、地震・津波関連のニュースがテレビ、新聞ともに少なすぎるように感じます。かなりの数の邦人の犠牲者が出ていると予想されているにもかかわらず、テレビは予定された年末年始の番組を放送していました。邦人犠牲者が500人以上と予想されるにもかかわらずです。もっともこの数字も1月3日になって外務省に安否不明と連絡があったものをまとめた数字です。
失われた人命から言えば阪神大震災以来の大災害となる可能性もあるのに、テレビ局のこの対応には首をかしげざるおえません。さらにこの災害は外交問題も含んでいて、より複雑な様相を持っています。
日本政府の対応はかなり早いものがありました。ちょうど任務を終えてインド洋を航行中の自衛隊の艦船が派遣され、医療チームが現地入りし1月1日には5臆ドルの援助を発表しています。また津波監視システムの構築などを1月6日にジャカルタで開かれる緊急首脳会談で提案するとしています。もっともメディアが通常の番組で、大騒ぎをしていたら、この反応さえ遅いと非難されたかもしれません。
今回のメディア対応の遅さ鈍さは単に年末年始という時期であったためにおきたものでしょうか?どうもそれだけではなさそうです。(この項、明日に続く)
109 20050103 (番外)スマトラ地震募金 アマゾン・コムで新年午前零時からスマトラ地震の募金を集めています。募金額は5ドル以上1万ドルまでです。募金先は日本赤十字です。
どうしたわけか、ドルでの募金になっています。おそくらアメリカのアマゾンのシステムを日本でも利用しているためでしょう。募金のページからアメリカのアマゾン・コムのホームページにジャンプすることができます。
年末年始の報道が手薄な時期と、現地の混乱で情報が入りにくいという事情が重なって、あまり強い印象はないかもしれませんが、邦人の犠牲者の数から言えば中越地震よりもはるかに大きな被害が出ています。
おそらく今日、明日あたりにはさらに深刻な被害の状況が明らかになってくるでしょう。
108 20050103 21年前の冬 東京で大晦日に雪が積もったのは21年ぶりだそうですが、ある個人的な出来事のために私は21年前の冬についてよく記憶しています。
確かに大晦日に小雪が舞い、雪がうっすらと積もりました。夜に入ってからでした。で、その年が明けた翌年のお正月から3月まで、東京で雪が降った日は27日間もありました。おおよそ三日に一度は雪が降っていた計算になります。
ロッキード事件の判決がでそろったあとだったので、「これほどの降雪は新潟3区の恨みに違いない」なんて冗談がありました。いや、つまらないことを覚えているものです。
大晦日に降った雪は、北側の空き地ではつるつるに凍っています。さて、これから暖かい冬になるのやら、雪の多い冬になるのやら。関東で雪が振るのは、太平洋側を低気圧が通過する時ですから、暖かい冬と雪の多い冬はあまり矛盾なく出現したりします。
107 20050102 謹賀新年 あけましておめでとうございます。今年が皆様にとって良い年となりますようにお祈りいたします。
106 20041231 小林孝亘さんからメールをいただきました 「うさぎとトランペット」の挿絵を描いていただいた小林孝亘さんからメールを頂戴しました。バンコックにお住まいですが、今年の年末は日本にお帰りになっていたそうです。ご無事でなによりでした。
「津波のニュースには本当にびっくりしました。被害の大きかったタイ南部のプーケットという島は、毎年このシーズンには行っていたところで、今年はたまたま帰国していましたが、やはり他人事とは思えませんでした。タイでは全くといっていいほど地震がなく、人々にはそれに対する構えもないので、地震がもしバンコクであったらと思うとぞっとします。」
というわけでほんとうに多事多難な今年もあと数時間で終わりです。来年が良い年になりますように。
105 20041229 雪です。 新幹線に乗る日っていうと、どうしてこんなお天気になるのでしょうか?東京は雪です。それもちらちら舞う程度ではなくて、もしかすると積もるかもというくらいに白い雪が振っています。私は今日こらから静岡です。
12月4日に熱海に行ったときは朝方、台風崩れみたいな低気圧の通過があって、電車は止まるわ、気温は25度まであがるわで、とんでもない天気でした。それにくらべれば12月の雪は正常だとも言えるのですが。
インド洋の大津波はどんどん被害が広がっています。これで今年も終わって悪いことも終わりというわけにも行きそうもない気配です。例年だと今日あたりからお正月を海外で過ごす人で、成田空港も賑わうのですが、今年は出発を取りやめる人も多いことでしょう。
104 20041228 鴨川から見る太平洋 房総の鴨川に行って来ました。花屋さんが話していたとおり、鴨川の水仙はもう花盛りを過ぎていて、ここ数日の寒さでいささか咲き疲れた様子さえ見えました。
天気予報では大晦日は大荒れのお天気になると言っていますが、昨日はたいへん穏やかな日でした。海もよく凪いでいて、冬の太平洋とは思えない穏やかさでした。
同じ海でもインド洋では大津波が発生しているなんて信じられない眺めでした。
今年はほんとうに災害の多い年でした。台風が多かったのは日本ばかりではなく、アメリカもたびたび巨大ハリケーンに襲われていました。12月に入ってからこの「豆の葉」もなにか楽しいことを書きたいと思いつつも、目に付くのはドンキ・ホーテの放火だったり陰惨な誘拐事件が未解決のままだったりと、愉快な話題が見つかりにくいのに困ってしまいました。
中学生の時、小松左京の「日本沈没」なんて小説を一生懸命読みすぎた後遺症でしょうか?穏やかな鴨川の海を見ていても、ついつい、余計な想像をしてしまいます。今日になってぽつぽつ東南アジアにいる知り合いから無事だという情報が入って来ています。
103 20041226 お腹にフォークとナイフを刺した七面鳥 「マッチ売りの少女」。野坂昭如の短編小説ではなくて、ほんとうの「マッチ売りの少女」のほうですが、私はこのお話の絵本を何冊か持っていました。一番、印象が強いの祖母の家の納戸の中から見つけた本です。
小学館の本で、子どもの本なのに、ちゃんと大人の本のような体裁を持っていて、本そのものの厚みもありました。この本の中にお腹にフォークとナイフを刺した七面鳥の絵がありました。七面鳥はフォークとナイフを刺したまま、よたよたとこちらに向かって歩いてくるのです。クリスマスになると必ずこの七面鳥の夢を見ます。高校生くらいまでは恐ろしかったのですが、それ以上になると、サンタクロースを同じくらいにお馴染みの存在になってしまいました。
お腹にフォークとナイフをさした七面鳥が出てこないと寂しいくらいです。今年は出てこないなあと思っていたら昨夜でました。ちょっと焼けすぎのようなやつが。
納戸に入っていた小学館の本はもともと叔母の持ち物だったみたいです。ある日、叔母と話していたら、叔母が「お腹にフォークとナイフを刺した七面鳥の丸焼きの絵があって、あれが怖かったの」と言ったので、同じ本だと解ったのです。叔母がずっと七面鳥の夢を見ているかどうかは解りません。
102 20041224 詰め物をした鳥 どうも老眼らしいと気付いたのは今年の秋口でした。昔から眼鏡がかけたくてしかたがなかったので、いよいよ念願がかなうようです。子どもの時、母の眼鏡をいたずらでかけたら「そんなに急いでかけなくても、今に絶対、眼鏡なしではいられなくなるんだから」と言われました。
なんで眼鏡の話から始めたかと言えば、眼鏡とくれば次は「孫」。眼鏡と孫がそろえば立派なおばあさん。これもなりたかったもののひとつ。おばあさんになりたい。やっぱり言われました。「そんなに急いでおばあさんにならなくても、そのうちちゃんとおばあさんになれるよ」そうかな?なるべく体力のあるうちに、例えば孫と水泳ができたりするうちにおばあさんになりたいのですが、しかし無闇に「孫」を作られるのも考えものだし、これは眼鏡より難しい。
で、眼鏡をかけたおばあさんと、クリスマスにお腹に詰め物をした七面鳥を食べたい。これこそ、私がこの世に生まれて初めて望んだ願いでした。ああ、ずいぶん時間がたってしまったけれども、どうやら一歩ずつ、その願いに近づいているようです。孫の立場とおばあさんの立場が違っちゃっているなんてことはどうでもよろしい。「マッチ売りの少女」の絵本を読んで以来、この念願がかなう時をずっと待っていました。
お腹に詰め物をした七面鳥ですが、これが長い間、憧れの食べ物であり、同時に謎の食べ物でした。なにしろ日本で売ってくる七面鳥も鶏もお腹は空っぽでなにも入っていません。なまじの鶏の丸焼きよりも鶏のモモ肉のから揚げのほうがずっとおいしいということになっていました。外国の小説を読むと、鶏の丸焼きはごちそうなのに、なぜ日本だと小骨が多くて高価なばかりのつまらない食べ物になってしまうのか?謎をとく鍵はお腹の詰め物が「つまらない」ところにありそうです。で、昨年、ちゃんと詰め物をした鶏を発見しました。お米や栗が鶏のお腹に詰まっています。これが旨い。鶏で蒸し焼きにした穀物これこそごちそうの本体なのです。
今日はそ詰め物をした鶏を売っている唯一の日。
101 20041222 うさトラと楽うさ 伊藤比呂美さんに「うさぎとトランペット」のすてきな書評を書いていただきました。来月の新潮社「波」に掲載されます。で、その書評のなかで、「うさぎとトランペット」を略して「うさトラ」と書いていますが、これは前々から我が家では「うさぎとトランペット」の略として使われていました。伊藤さんは「楽隊のうさぎ」も短縮して「楽うさ」にしてしましました。
これからは「楽うさ」と「うさトラ」と呼ぶことにします。なんとなくいい感じ。
その「うさトラ」ですが、昨日あたりから本屋さんに並んでいることろもあるそうです。堀込和利さんからお知らせいただきました。トピックスのほうに「うさトラ」の無口な女の子、宇佐子のことを書きたいと思っています。
100 20041221 100件目 お引越しました。 これで100件目のコラムになります。ちょうど100件目でお引越しになりました。これからもどうぞよろしくお願いします。
これまでスタッフルームに集まられた皆さんは新しいスタッフルームへの入り方を管理人のながしろばんりさんに問い合わせて下さい。それほどむずかしくありません。また、スタッフルームでおしゃべりを楽しみたい方はキーをお渡ししますのでメールを下さい。
祝!!!お引越し。新しいおうちは気持ちがいい。
99 20041220 お引越しです。 慣れ親しんだこのホームページももうすぐお引越しです。今、管理人のながしろばんりさんが一生懸命マニュアルを読んでいます。
正式バージョンをアップしますと言ってからずいぶん長い道のりでした。夏の間にアップするつもりだったので、表紙の写真は夏服です。ちょっと細木数子風で、なんだか自分でも怖いのですが。
というわけで、ここに雑記を書くのもあと少しの間です。来年は勘九郎も勘三郎になっちゃうし、なんとか今年のうちに我がホームページにお引越しも完了したいものです。えっ、勘九郎がどう関係あるのかって?あさって、勘九郎最後の舞台を歌舞伎座に見に行きます。渡辺えり子の演出の「桃太郎」が楽しみです。
98 20041217 街ががらんとしているので 目が覚めるとどあんどあんと風の音がしていました。冷たい北風のようです。
街を歩いていると、暮れだというのにがらんと寂しい感じがします。あんまりがらんとした感じがするので、アルバイトをしている学生に聞いてみました。まず、スーパーでアルバイトをしている学生は「ぜんぜん、売れません、今年は赤字です。でもこしひかりは売れるんです」と言っていました。キャバレーでボーイをしている学生は「売り上げは去年の同時期の四割です。このまま行くと冬が越せずに、春になったら店が潰れて、僕は失業しちゃいますよ」とぼやいていました。
台風、水害、地震、異常気象、こういうものが人の気持ちに与える影響は通常の経済指標には入ってきません。が、スーパーへキャバレーの売り上げには響いてくるものです。今年のクリスマスデコレーションは「青」が流行なのだそうですが、その「青」も溌剌とした色というよりもなんだか寒々しい印象をより倍加させているように見えます。きっと多くの人はおうちでおいしいお米でもごはんに炊いて静かにこの災難の多かった年が終わるのを待っているのでしょう。
97 20041215 爪のきり方 館山に住んでいたころ、ピアノを習っていました。ピアノの先生は苗字から類推するに、むかしの水軍いや海賊の末裔ではないかというお家の人でした。
広いお屋敷で、敷地の中に5軒も家が建っていました。お屋敷の周囲には竹やぶとやぶ椿の林がありました。春はピアノのレッスンに行くたびに、竹やぶの筍がどのくらい背が伸びたかを確かめに行くのが楽しみでした。今頃の季節はやぶ椿の木に登って、蜂と一緒に花の蜜を吸うのが楽しみです。あるとき、椿の花のなかに蜂が入っていて、ちくりと刺されてしまいました。驚いたついでに、木から転げ落ちたのを、お手伝いさんが見ていて、助けてくれました。
このピアノの先生はレッスンの途中でぱっと手を掴まれて「こんなに爪が伸びていたらピアノは弾けません」と言われました。以来、私の爪の切り方は極端なくらいに短く切るようになりました。もっとも、手を掴まれてから、数ヵ月後のレッスンでは「指から血が出るほど短く切らなくてもいいのに」とも言われたのですが、なぜか、最初のぱっと手を掴まれた瞬間の印象のほうが深いのです。
今でも爪は短く切っていますが、マニュキュアを塗ると、あんまり爪が短すぎて、笑っちゃいそうな感じになっています。
96 20041214 ドンキホーテの火事 昨夜、さいたま市のドンキホーテで火事がありました。2件立て続けの火事です。どうやら放火らしいのですが。
まだドンキホーテがそれほど支店を広げていないうちに渋谷の東急デパートの前にあるドンキ・ホーテへ知人の案内で行ったことがありました。その時、これは火事があったらこわいねと話たのを覚えています。雑然を積まれた品物の中には高級品も混じっていて宝探しのような感覚で人気が出ているのだと教えてもらいました。
そのせいか、昨夜の火事のニュースを聞いてすぐにあの雑然とした売り場に悪意を持つ人間もいるのだなと思いました。
今日はまた、昨年の12月18日に千葉県館山市であった放火事件の求刑公判が開かれたというニュースもありました。事件がおきた現場からすぐのところに空家になった私の実家がありました。放火事件は春先から頻発していて、これをきっかけに家を手放すことになりました。今日の求刑公判では、一家四人の死者を出した事件も含めて「死刑」の求刑があったそうです。
95 20041213 いろんな人から聞いた話 淡路島のタクシーの運転手さんに聞いた話
地震に備えておくものって何かありますか?
「一週間分の生活費を現金で。カードが使えるとかクレジットがあるって言っても電気がこなくちゃどうもならないからね?
テレビなんかで地震の時、家族はどうしたこうした、娘がどこにいったなんてやっているけど、あれはうそ。地震が来たら自分のことだけでせいっぱいや。
人間、生まれるときも一人なら、死んでいくときも一人って気になります」
きっとそうなんでしょう。生まれるときも一人死ぬときもひとりなら、生きている間くらいは誰かのほかの人の心配をしてもいいなあという気もしますけど。
小料理屋のご主人に最近聞いた話
「今年はなんでも、みんな急いでいます。いや、人間じゃなくて、魚とか野菜が。ぶりなってもう終わりかなっていうくらいに入荷も少ないし、味のほうもなんだか春先みたいにあぶらが落ちています。さんまもねえ、早くにたくさん出てきて、これはうまかったけど、10月もなかばになると市場でも姿を見なくなりました。へんなのは熊だけじゃないみたいです」
駅からうちに帰る途中の坂道の花屋さん
「水仙はこのあたりに入ってくるのは房総のやつと三浦のが少しです。お正月に出回るのはたいてい房総のやつ。それから福井あたりから出てきます。今年は房総のが11月の末にはじゃんじゃん出回り始めて、こんな調子だとお正月には品薄になりそうです。路地物だから、花の咲く時期を調整できないんです。もうなくなっちゃうじゃあないかしら」
海の中でも山でも畑でも地面の下でもいろんなことが起きているらしいです。
94 20041210 散り残る紅葉 光が丘公園の樹木がほとんど葉を落としたあとに、紅葉だけが散り残っていました。こんなに紅葉の木があったのかと感心するほど、あちらこちらに紅葉の木があります。
光が丘公園は元はグラントハイツと言われていました。アメリカ軍の将校住宅です。グラントはそういう名前の将軍がいたと聞いています。ここから立川基地へ軽飛行機で通勤していた人もいるのだそうです。将校住宅になる以前は飛行場になる予定でした。飛行場が完成しないうちに終戦になってしまったのです。
グラントハイツと呼ばれていたころを幾らか覚えています。もう米軍からは返還になっていましたが、公園として整備される前で、周囲は鉄条網で囲われていました。今の光が丘公園の樹木はグラントハイツの頃の樹木をそのまま利用しているところと、新しく植えた樹木でできています。
まるでサバンナのようなと形容されるほど、光が丘公園の樹木は風変わりな剪定をされていました。アメリカ人は樹木の種類に関係なく一定の高さに剪定することを好むようです。沖縄のアメリカ軍基地もそんなふうな剪定をされています。が、今ではほとんどの木が日本風な姿に戻っています。密かに「前田さん」と名前をつけている椎の木だけは今でも横に枝を広げ、がっしりとした姿を保っています。
紅葉はおそらく、公園として整備されてから植えた木です。どの木も若くて、木々に葉のあるうちはほかの樹齢の高い木に隠れていいます。あと10年もすればこれらの若い紅葉の木も立派な姿になって、秋の森で存在をつよく主張するようになることでしょう。
93 20041208 寒いとほっとする 寒いのも暑いのも嫌いなので、早く秋にならないかなと切実に願っていたのですが、秋にならないうちに冬になってもまだ生暖かいヘンな天気。12月に気温が25度を上回るなんて、今まで経験したことがありません。しかも一日の温度差は20度もあるなんて砂漠並みの気候。もう驚くことばかり。
なぜか過ごしやすいという感じはしません。それよりも寒いとほっとします。とは言え、今朝もそれほどの寒さではありませんでした。
11月も末になると房総でも霜が降りる日があって、咲いた菊の葉が赤く色づくのですが、今年はそれもなし。房総でも熱海でも野水仙は蕾を大きく膨らませていまのも花盛りになりそうな様子でした。今年の冬はこのへんな気候のまま、お正月になってしまうのでしょうか?天気図を眺めていると、ある日、突然、ものすごく寒くなりそうな様子です。こんな気候だと病気をしている人は辛いだろうなあと思います。
92 20041207 冬の花火とすごい夕焼け 熱海に行ってきました。毎年恒例の秋山駿さんを囲む会です。秋山さんの還暦のお祝いが最初だったというこの会ももう14回目になりました。
日曜日(5日)早朝の低気圧のために下田行きの列車が運休になり、新幹線で熱海へ。
熱海では思いがけず冬の花火を楽しみました。と、言っても昼間の気温は25度にも達するという奇妙な日でしたが。宿の屋上から見る花火は目の前で炸裂するという強烈なものでした。
翌日は房総半島、真鶴岬から初島、そして伊豆の大島まで見えるという快晴。秋山さん、川村湊さん、富岡幸一郎さん、森詠さんらと、寛一、お宮の像を見物。川村さんが「金色夜叉」全編を読んだと言い、「でも、お宮は自分の美貌には寛一の貧しさは釣り合わないと考えたのだから悲恋じゃないよ」と説明。一同、一度は頷いたものの、よく考えたら「金色夜叉」はお宮ではなくて、寛一の悲恋の物語でした。明治の人は男の悲恋にこんなにも同情したんだなあと、納得。
夕刻、東京に戻って明治大学の13階の喫煙所から夕日が沈んでゆくところを眺めました。前日のストームがうそみたいに、太平洋沿岸はかなり広い範囲で快晴だったようで、丹沢山塊の向こうに富士山がくっきりと見え、その裾には秩父から赤城の山々、さらには筑波山までがシルエットになっていました。一時間くらいかけて沈んで行く夕日と、陽が沈んだあとの茜色の空が、群青色に変わって行くのを眺めていました。こんなすばらしい夕焼けは、一年のうちにそう何度も眺められるものではないでしょう。
江戸時代の人は大きな関東平野を囲む山々が茜色の空をバックに黒いシルエットになる景色を時々眺めていたにちがいありません。そのスケールの大きさを想像するだけで、ため息が出ます。世界はその頃と同じように豊かなのに、ほとんどの人はその豊かな世界を見ようともしないのではないでしょうか?
今では、日の出も日の入りも見たことがないという小学生が、東京にはかなりいるのです。たとえ見事な夕焼けが広がっていても、ビルの谷間にはそれと気付かずに忙しく働いていた人も大勢いたことでしょう。寛一が曇らせてみせると言ったお月様さえ、もう何年も眺めたことがないという人がいるかもしれません。
91 20041203 淡路島 野島断層 幸田文の晩年の随筆集に「崩れ」があります。日本の山崩れ、がけ崩れなどを見て歩いた随筆です。どうしてこんなにも「崩れ」を見たいのか解らないけれども、こころ引かれる景色だと書いていました。
その気持ちがちょっとだけわかるようになったのは、どこか身体の中に「崩れ」が起きているのでしょうか?「頭の中身だろうよ」というひそかな声も聞こえるような気もします。熊本から帰って淡路島に行きました。仕事の旅でしたが、どうして北淡町の野島断層が見たかったので、一日早く出かけました。野島断層はあの阪神大震災を引き起こした断層です。
東西へ1・2メートルずれた断層が地表に現れた部分が樹脂加工されて保存されています。今では観光コースの一部になっていますが、やはり写真でみるのとはまったく違い迫力でした。大地は揺るがぬものの象徴とされることが多いのですが、その大地もまた生き物のように日夜動き続けている証拠を見た思いがします。それ以上にショックだったのは、地中に液状化した層があることを示すトレンチでした。
つまり、足の下の地面がドロの体積した沼のような状態に突然なるということをそのトレンチの地層は現していました。激震は時間にすると10秒ほどだということでした。
90 20041201 ワイルドな食事 スタッフルームに遊びにくるとのくんの友人さんからとてもワイルドな食事のお話を聞きました。以下コピーです。
「仕事仲間の大工さんで、狩猟が好きな方がいました。
数年まえ、山で撃って来たばかりの鹿肉を使った焼肉バーティに招かれたのですが、まだ皮と毛が付いたままで 血が滴っている肉を 包丁で切り取りながら 焼いて食べさせてくださったのには参りました。
人間は、本来、肉を食べる生き物ではないのかもしれません。
あれをビールを飲みながら旨そうに食べる感覚はちょっと、どうも。。。」
冬は狩猟好きにはたまらない季節なんですね。私もミュンヘンで鹿肉を焼くレストランに入ったことがありますが、「どこが食べたいのか?」と質問されても答えられないので、しかもドイツ語だったので、「皆が食べている場所」と答えたことがありました。するとドイツ人の給仕は奇妙な顔をして、「皆が食べているのはここだ」と店の床を指差しました。「場所」という単語しか浮かばなかったのですが、本当は「部位」と言わなければいけなかったみたいです。鹿肉の塊がぐるぐる回りながらあぶられていました。まあ、こういうへんな客は名物料理の店には珍しくないみたいで、あとはよきは計らってくれました。
毛と皮がついているやつねえ。それは勇気がいるでしょう。「奥山に紅葉踏み分けなく鹿のこえ聞く時ぞ秋はかなしき」ではなくて「こえ聞く時ぞ、うまそうだな」なんて人もいるのでしょう。こういう私も波打ち際にころがった鯨を見ると旨そうだなと思うほうです。怒る人がいるかもしれないけど。
89 20041129 なまなましい発音 伊藤比呂美さんと話していると、彼女が妙に言葉をなまなましく発音することがあって、すっかり覚えてしまいます。
「あの、なんだっけ、山形で食べたおフランス!あれはおいしかった」
「伊藤さん、おフランスじゃなくてラ・フランス」
こんな会話をして以来、店先でラ・フランスを見るたびに、洋梨が「おフランス、おフランス」と唱えているように見えて仕方がありません。
今度も「あたし、生肉は大丈夫だけど焼いたり煮たりした獣肉がダメなの」というので、なぜか「ジュウニク」という発音がどっしりと耳の中に残りました。
ポトフのすね肉も「ジュウニク、ジュウニク、ケモノノニクダヨ」と言いながら煮えているようで、まちがっても、家の子どもたちには気味悪がられるので言えません。これは台所の秘密。でも、どうしてあんなに、実感のこもったなまなましい発音ができるのだろう?
88 20041128 ゆっくりした日曜日 家は幹線道路沿いにあるのですが、日曜日は家の周囲から聞こえてくるもの音ものんびりしているようです。それからキャッチボールをする人の声なども聞こえてきます。
ネット書店で「うさぎとトランペット」の予約がはじまっているのはちょっと、どきどき。なにしろ金曜日(26日)の夜にはまだ新潮社の担当者と二人で再校を直していました。あ、いや、ちゃんと予告どおりの発売日には本になっています。そのはず。大丈夫。
光が丘公園も、我が家の周辺も見事な紅葉が終わりかけています。今年はいつまでも気温が高いので、紅葉は期待できないなかと思っていたのですが、急激に寒い日があったりして例年よりも見事なくらいです。
牛のすね肉の大きな塊が手に入ったので、今夜はこれをことこと煮てポトフにすることにしました。煮込み料理って暖房が入るちょっと前に季節には、家を暖める効果もあって、ちょうどいいんです。
87 20041127 しょんしょん 日本中が夜更かしになっているようで、熊本にも午前2時まで開いているスーパーがありました。そこでみつけたのは「しょんしょん」です。はて、これはなんだろうと瓶詰めを見詰めてしまいました。
醤油の実という言い方があります。麹のことをそういうらしいのですが、「しょんしょん」は麹がたくさん入ったなめ味噌です。醤油の実から「しょんしょん」という言葉ができているのでしょうか?
九州の甘いお醤油を初めて口にした時には、醤油が甘いなんて絶対に許せないと感じたのですが、これになれてみると白身のお魚の刺身などは、関東の生醤油よりも旨くかんじられるくらいです。真夜中のスーパーに行ったのはこの甘い醤油が欲しかったためです。
甘いといえば九州で使う麦味噌も独特の甘さを持っています。こうした調味料の甘さは砂糖が貴重だった時代の名残が感じられるようです。また関西ではあまり納豆を食べないと言われますが、なぜか熊本の人は納豆が好きな様子で、多様な納豆が売り場には並んでいました。ところかわれば品変わるという原則は今でも生きているようです。「しょんしょん」を一瓶買ってきました。もちろん甘いお醤油も手にいれてきました。
86 20041124 干筍 熊本で見つけた二つ目の不思議なものは干筍です。たぶん、干したけのこと読んでいいのだと思いますが、ビニールの袋には「干筍」の文字がありました。文字どおり、たけのこの干物です。
前から不思議に思っているのは魚を干したものは「ひもの」で魚以外は昆布のような海のものでも、干瓢のような山のものでも「かんぶつ」になるのはどうしてなのでしょう。だから、ほんとうはたけのこの乾物と言わなかればならないのですが、たけのこを広げたカラカラに干した様子は「干物」という言葉がぴったりです。
一晩、水に漬けて戻してから、炒め物などにすると良いらしい。今のところまだ台所に放り出してあって調理はこころみていません。でも、たけのこの干物があるということは、それだけたくさんのたけのこが収穫できるということでしょう。きっとたけのこの季節に熊本に行ったら、八百屋さんの店先にはさぞ見事なたけのこが並んでいることでしょう。
85 20041123 東洋大学吹奏楽研究部の井上さんからご案内をいただきました 東洋大学吹奏楽研究部の井上さんから定期演奏会のご案内をいただきました。
東洋大学吹奏楽研究部 第42回定期演奏会のご案内
<日時>12月25日(土)開場16:30 開演17:00
<場所>川口市総合文化センターLILIAメインホール
<曲目>T部 ビザンチンのモザイク画(F.チェザリーニ)他
U部 バレエ組曲「くるみ割り人形」より(P.I.チャイコフスキー)
交響曲第5番二短調第4楽章(D.ショスタコーヴィッチ)
V部 ステージマーチングショウ「武士道〜The Way of the SAMURAI〜」
入場料500円(小学生以下無料)
年末のお忙しい時季かとは存じますが、部員一同、皆さまにお会いできることを楽しみにしております。
尚チケットにつきましては当部公式ホームページ中のい「演奏会のお知らせ」のページにアクセスしていただけましたらこちらからお送りいたします。
ホームページhttp://toyowindband.hp.infoseek.co.jp
84 20041120 ひともじのぐるぐる 熊本に行ってきました。詩人の伊藤比呂美さんのご紹介で熊本近代文学館で、シンポジウム形式の講演会に参加してきました。
で、熊本で食べたのが「ひともじのぐるぐる」なんと言っても名前が気にいってしまいました。ひともじは細いねぎのことです。昔の女房言葉でねぎのことをひともじと言いました。それが熊本には残っているのかもしれません。伊藤さんの話では、熊本では細くて青いねぎが主流で、最近になって関東でみるような白い部分が多いねぎも出回るようになったとのことでした。
ぐるぐるは、そのまま青いくて細いねぎをぐるぐる巻いてあるのです。ぐるぐる巻いてから茹でるのか、それとも茹でてからぐるぐる巻くのかが解らないのですが、これがおいしい。とりあえず、茹でてからぐるぐる巻いてみました。すると、なんだか、それっぽい味になりました。もっとも、九州のひともじは関東で出回っている万能ねぎよりも、ずっとやわからいのでぐるぐる巻いてもおいしいのでしょう。包丁の通りが優しい感じでした。
酢味噌で食べます。お魚の刺身や蛸や烏賊の茹でたものを添えてもおいしいです。新発見でした。
83 20041109 穏やかな日 今年の秋は穏やかは日が数えるほどしかなかった気がします。こんな年もあるのですね。
イラクではファルージャの総攻撃が始まっていますが、これは2、3日で収まるような局地的な戦闘ではなさそうに思えます。
アラファト議長の危篤が伝えられた時に、アメリカで原油価格が値下がりしたのは、これでテロがなくなるという判断からだったと伝えられています。にわかには信じがたい判断でした。もし、そうした判断から原油価格が値下がりしたのだとしたら、アメリカの人文科学は想像以上の水準の低下を起こしているとしか思えません。そうした傾向は、イラク戦争開戦前後から見受けられたものでした。
穏やかな日を楽しめるに楽しんでおこうかなという気になるのは、全体の不穏な空気もためでしょうか?
ここ数日、関東の平地でも紅葉が広がりました。
82 20041106 言えないことがあると プロ野球のパ・リーグ再編問題は新球団を楽天が作ることで決着したわけではないとささやかれていましたが、今朝の日経新聞はコクドが西武ライオンズの売却先を探していることを報じています。これより先にダイエーホークスも売却先を探しているわけですがら、今年のストーブリーグは凄いことになりそうです。
パ・リーグだけではありません。昨晩、東京証券取引所は日本テレビを管理ポストに移しました。西武と同じ理由で、株式取引のもとになる資料に「虚偽」記載があったとこが理由です。これも、読売巨人軍には打撃になるような事件にまで発展するのでしょうか?
日経新聞の記事のニュアンスを読むとどこの企業でも多少はやってきた株の社内保持を、市場の正当なルールに戻そうとするのが、このたびの動きのようです。告発される側から見れば、突然のルールの厳格化ということになるでしょう。
プロ野球の再編問題は最初から奥歯にものが挟まったようなもどかしさや、わけの解らなさがありましたが、その裏には言えないことがいっぱいあったということでしょう。奥歯にものが挟まったような感じというのは「言えないこと」があるときに出てくる感覚なのです。
81 20041104 アメリカ大統領選挙で詩人の伊藤比呂美さんが カルフォルニアにお住まいの詩人の伊藤比呂美さんがメールを下さいました。アメリカ大統領選挙でブッシュが勝利して、伊藤さんの周りでは「こうなったらcivil Warしかないね」なんて冗談が飛んでいるそうです。前の時みたいに南北にきっちり分けられないから、そうもいかないかと言いながら、目は笑っていないということでした。
アメリカが四分五裂。今度は南北東西戦争なんてことはないでしょうけどね。そういう想像力も働くほど、現在のアメリカにちょっと不穏な雰囲気は感じます。リベラル(進歩派)もコンサバティブ(保守派)もいずれも妙に急進的で、どうかすると狂信的なところがあるのがアメリカに見えます。
リベラルはほんと一挙に人間の自由を王国を作ろうとするし、コンサバティブは明日にも神の理想の国を目の前に出現させようとするようなところがあるという気配は、9・11以前からありました。
80 20041103 うさトラ!うさトラ!!うさトラ!!! 新聞を見ていたら、今夜、吹奏楽コンクールの全国大会のドキュメンタリーが放送されるのを見つけました。7時から9時まで日本テレビで放送されます。
吹奏楽のコンクールをテレビで見られるなんて、ちょっと意外な感じがしましたが、楽しみです。
中学生の吹奏楽部の様子を描いた「楽隊のうさぎ」では全国大会が開かれる東京高井戸の普門館も取材させてもらいました。大型の円筒形の建物です。そのロールケーキが垂直に立ったような姿は道路からもよく目立ちます。
「楽隊のうさぎ」の続編として書いた「うさぎとトランペット」を略して「うさトラ」と呼んだのは我が家の娘でした。この呼び方はすっかり定着してしまい今ではいろんな人が「うさトラ」と呼んでいます。12月に新潮社から刊行されます。
「うさトラ」は早く大人になった小学校5年生のみきちゃんとゆっくり大人になってゆく宇佐子ちゃんが吹奏楽の社会人バンドのメンバーと仲良しになって行く物語です。早く大人になった女の子とゆっくり大人になった女の子の二人を描き分けるのは楽しい仕事でした。もちろん、「楽隊のうさぎ」に登場した花の木中学の吹奏楽部のメンバーも登場します。
コンクールの結果を目標にするのは中学生、高校生ですが、社会人はコンクールの結果よりも何よりも音楽が「好き」という気持ちが前に出るように思えます。そういうところが自然な感じで描けたらなあと思っていました。さてさて、原稿は入稿できましたが、これから校正で最終チェックに入ります。実はまだ直したいとろこが幾つもあるのです。
79 20041101 フランス万歳 夜来の雨が上がって、天皇賞。昨日は東京映画祭の最終日に行こうかそれとも天皇賞に行こうか迷っていたのですが、結局、東京競馬場のほうを選択。
雨は上がりましたが、馬場の芝はたっぷり水を含んで、「やや重」の表示でした。馬場内へ入って芝に座ると、土の匂いと芝の匂いがしてました。お尻はけっこう冷たかった。この広々とした場所の草の匂いが嗅ぎたかったんだなあと自分の選択の理由をちょっと納得。昨年から改装工事が進んでいる東京競馬場の内装はなぜか一昔前のパチンコ屋さんみたいにぎらぎらしていました。あんまり好きにあれないなあ。
さて、天皇賞ですが、アメリカの大統領選挙が近いのでサクラプレジデントとリンカーンなんて組み合わせがあるかなあとなんてバカな予想をして遊んでました。
結果はペリエ騎手騎乗のゼンノロブロイとルメール騎手騎乗のダンスインザムードが一着、二着で、フランス万歳でした。
78 20041029 東京秋天 歌人の石井辰彦さんから新しい歌集を頂戴しました。「全人類が老いた夜」(書肆山田刊)です。
厄災について酒場で酔客が語り合ふ。
九月の晴れた夜に
空港も未来も封鎖。
だって、全人類一気に老ゆる夜、だぜ
2001年9月11日は、私は日中のシンポジウム開催のため、北京にいました。アメリカの同時多発テロのことを知ったのは翌日の朝食の時でした。私はホテルの部屋で高いびきでしたが、同行者の中上紀さんは一晩中、テレビの前で、英語のニュースを他の人々のために翻訳していたそうです。
北京はその日、夏の名残の暑さでかんかん照りでした。北京秋天と言われる爽やかな秋はまだまだ先という感じでした。このとき、リアルタイムの報道が少ないと批判を受けた新華社通信はイラク戦争では、現地からの報道を大幅に増やしました。今日も新華社通信はイラクで東洋人の男性の遺体が発見されたことをいち早く伝えています。発見された遺体がイラクで人質になっている日本人男性のものかどうかはまだ確認中だそうです。
中上紀さんからは荒木経惟さんとのコラボレーション「再びのソウル『記憶』」(アートン刊)が届きました。
今日の東京は北京秋天ならぬ東京秋天で、気持ちのよう晴れです。一週間前には台風の通り過ぎたあとのべたべたした蒸し暑さに悩まされていたのが嘘みたいにもう秋の終わりの気配です。
77 20041026 災害に関する関心 今度の中越地震はなぜか一般的な関心が薄いように思われるのは私だけでしょうか?死亡者の数がそれほどでもないので、大きな被害とは感じられていないのか?それともここのところ全国各地で災害続きのために人のことどころではないのか?いずれにしても、これから大急ぎで雪の振る冬に備えなければならないのは難儀なことです。
76 20041025 千小谷といえば 新潟で海に注ぐ信濃川を船でさかのぼって行けるのは千小谷あたりまでだったそうです。江戸時代の話ですが、その頃の船というのはどのくらいの大きさだったのでしょうか?
千小谷では、信濃川をさかのぼって来た船に反物を乗せて出荷したそうです。雪でさらす縮みや上布の産地として有名です。隣の十日町もまた反物の産地です。世界でも有数の豪雪地帯であるところから、こうした布地を作る産業が発展しました。
今では魚沼産のこしひかりと言えば、もっとも高級なお米ですし、「八海山」や「久保田」などの地酒の産地としても知られてます。お酒の名前にもなっている八海山はそろそろ初冠雪を観測する頃です。こうした地域での地震の被害は都市とはまた違った困難に直面することになります。被災地の皆さんが、少しでも早く落ち着けるようにお祈りしています。
我が家も土曜日から余震があるたびにゆらりゆらりと揺れています。地震の振動があの硬い地面を伝わってきているのだと思うと、ふだんは信用している大地もなんだか心細いものに思えてきます。
75 20041024 地震に台風でも「うさトラ」 ここ数日「楽隊のうさぎ」の続編の「うさぎとトランペット」の手直しに没頭していました。通称「うさトラ」。長いタイトルなので短くしてそう呼んでいたらなんだか「うさトラ」のほうがタイトルとしていいような気がしてきてしまいました。おかげさまでなんとか手直し原稿がすべて印刷所に入りそうです。
さてさて、またまた地震に台風。台風24号は台湾の方向にそれてしまうのかと思いきや、また日本の方向に引き返してきました。沖縄タイムス社の友利さんからも先日の23号はちょっと凄かったというメールをいただきました。台風になれている沖縄でも驚くようなモーレツさだったのですね。
地震の時は、山の上ホテルで「本とコンピュター」の対談を済ませて駿河台下の焼き鳥屋にいました。あ、地震だ、これはけっこう大きいなあと、天井の電気が揺れるのを眺めていました。収まったと思ったらまた揺れだして、どこかに大きな被害を受けたところがありそうだなと同行者と顔を見合わせました。建物の外の通りに出て様子を見ている人もけっこういました。地震だ火を消せといいますが、焼き鳥屋の炭火ではどうしたものか?こんなに揺れるのに焼き鳥を注文してもいいものか?少し悩んでいるところに新幹線が脱線したというニュースが入ってきました。けが人はないと言うので、ちょっと安心。
それにしても地震のがけ崩れや山崩れはすごいですね。台風24号がそれてくれるといいのですが。
74 20041018 台風の進路予報の円を見ていたら目が回る 台風23号トカゲより一足早く沖縄から帰ってきました。台風の予報円は沖縄近海でぐるぐる回っていていました。その円を見ていると目が回りそう。
テレビではローカルニュースの時間が少なくて、超大型の台風が近づいているというのに、沖縄中心の天気予報をあまりやっていませんでした。ラジオではひんぱんにニュースが流れています。たまたま今日は文芸賞の受賞パーティが山の上ホテルであって、そちらに寄って、島田雅彦さんと立ち話をしました。島田さんによれば、沖縄では米軍の情報に頼っているとのことでした。さもありなん。
ホテルのロビーや空港にはネットからプリントアウトしたと思われる台風の進路予想の図面が張り出されていました。壁新聞みたいな感じなのですが、これをじっと見詰めている観光客がけっこういました。本日は沖縄では新聞休刊日ということもあるのでしょうが、いまどき、壁新聞みたいな情報を人がじっと眺めているというのもみょうな気がしました。旅行中というのは必要な情報からも疎くなることが往々にしてあります。
23号のあとには同じ経路をたどって24号が追いかけてきます。これも沖縄あたりで日本列島の方向へ向きを変えそうです。
73 20041015 公正な市場形成 ダイエーと西武をどうするか?プロ野球球団の問題ではなくて、親会社の問題が春先からくすぶっていました。結局、プロ野球の再編成が奇妙な形で出てきたのは、この二つの巨大な会社をどう処置するかということと深く絡まっていたのです。
郵政民営化は、郵便局をコンビニにすることではなくて、郵便貯金と簡易保険を一般的な金融のルールの中に戻してやることが最終目的です。金融市場のルールを統一し公正公平にするということです。
西武グループのほうは株式市場のルールを再度、再確認するということに眼目がありそうです。
ダイエーは、不良債権問題の象徴と言われていました。結局、これらは、金融市場と株式市場という資本主義の二つの柱を立て直すという目的で行われていることだと考えられます。
国鉄の民営化から始まり、専売公社、電電公社と三公社が民営化され、最後に残った郵政は、ユニバーサルサービスを保証する郵便事業を残して、民営化される方向への流れが見え始めています。
大問題ほど、なぜか日本では枝葉末節から議論が始まり、全体像が見えてきた時には、流れはだいたい決まっているという進み方をするようです。国会の議論も小学校のPTAの議論も進み方はよく似ています。抽象的な言語の弱さがそういう議論の進み方を生んでいるのではないかと、私は考えています。枝葉末節のほうが具体的なので、そこで、誰もがものを考えることができるのです。だからと言って、そういう議論の進め方が良いとは思わないのですが。
日本は世界で一番、成功した社会主義だなんて皮肉がありましたが、社会主義を資本主義に戻そうとする全体象が見える地点までは漸く進んできた様子です。これを言行一致が進んだと見るべきなのか、それとも中間所得層の厚みを誇った日本の崩壊と見るべきなのかは、判断の分かれるところでしょう。
72 20041014 マーゴンの次はトカゲ 台風に付ける名前はあらかじめ決まっていて、発生の順番にしたがって、その名前が割りあてられるのだという話を聞いたことがあります。
台風22号はアジア名がマーゴン、23号はトカゲだそうです。トカゲは日本語の蜥蜴で、いったい誰がそんな名前を選んだのでしょうか?それにしてもまーゴンの次のトカゲもまたまた、日本へ近づきそうです。
週末は沖縄へ出かける予定ですが、ううん。悩ましいのは台風が沖縄に近づいても困るし、東京へ近づいても困るというところです。うまく出発する時はまだ東京から遠くて、那覇を出る時には沖縄はもう通り過ぎているという具合にいかないでしょうか?
自然現象のほうに人間の都合にあわせろとは言えないので、人間のほうが自然に合わせるのが良いのですが、なかなか、どうして、「予定」というやつは、そういう哲学的態度を許してくれないのですねが。
そうは言っても最後は人間は自然に合わせるしかないわけで・・・。
そういえばネットのニュースを見ていたら、熊が夜な夜な、5、6頭も現れて10000個のりんごを食べられてしまった観光りんご園があったそうです。りんごを食べられたりんご園では、熊へのプレゼントと思うしかないと話していたそうで。これもまあ、もとは言えば台風の影響で山に食べ物が少ないのが原因とか。それにしても冬眠前の熊って、ほんとうにたくさん食べるものなのですね。
71 20041013 ダイエー・西武・楽天・ライブドア(番外2) 西武の堤オーナーがコクドの会長職などすべての役職を辞任しました。今後は経営から身を引くということです。ダイエーは産業再生機構を使うことを決定しました。
プロ野球のパ・リーグ再編を急いでいたのはこういう理由があったのですね。近鉄とオリックスの併合して、新しい球団が参入するとしても、ダイエーと西武はどうなってしまうのでしょうかねえ?
なんだかむちゃくちゃな1リーグ制移行計画だとは思いましたが、いったい何が起きているのでしょうか?
70 20041013 毎日・雨降り 台風が通り過ぎたというのに毎日雨降りです。台風で被災された方のことろはこんなお天気ではよけいにたいへんだと思います。
金木犀も咲き出したと思ったら、長雨で、だいなしです。
雨降りの日は時間の進み方がなんとなくわかりづらいので困ります。陽のかげんで、そろそろ昼が近づいたなとか夕方だなとか、そういうふうに思っているのに、雨が降っているとずっと同じ時間が続いているような感じです。
69 20041010 マーゴンの通り道は 今日のニュースを見るとマーゴンのとおり道はすざましい被害が出ています。いやはや。
子どもが小さかった時は、こういう台風があると雨合羽に長靴という重装備で台風見物に行っていました。それでいちいちご注進がありました。
「おかあさん、裏の川があふれそうになっているよ」
「おかあさん、かえるがおぼれて流されていたよ」
「おかあさん、マンションの廊下が水浸しになった」
などなど、いろいろなご注進がありました。
それよりもっと昔、私は父と台風を迎える支度をするのがすきでした。雨戸などが風で飛ばされないように、板と釘で打ちつけたりする仕事です。
家じゅうの窓や戸を板で打ちつけて、さあこれで安心という時
「お父しゃん、どこから家の中にはいったらいいの?」
と尋ねたら、父は「?!」と首をひねって驚き、家の中からは母が大笑いをする声が聞こえてきました。じゃんじゃん振り出した雨の中で、父と二人で、打ち付けてしまった勝手口の扉をこじ開けました。
68 20041009 マーゴンが来るよぉ マーゴンが来るよぉ!!!それにしてもマーゴンなんて、すごく、いたづらそうで、強そうな名前がいつた台風22号ですね。上陸すれば今年9つ目の台風で、もし関東地方なら、関東直撃の最初の台風になります。(午前8時45分)
秋雨前線の雨が小止みになって、風を幾らか吹いている程度です。NHKの昼のニュースではそろそろ埼玉県南部も強風域にひっかかっていそうなのですが、とくに強い風ということはありません。バイトから帰ってきた(駅前のコーヒーチェーン店)息子が空から白い霧か雲みたいなものが地上に降りてきたのを見たと言っていました。猪八戒が乗ってたんじゃないかと笑ったのですが、さて何を見たのか?山の上なら雲なんですが(午後12時45分)
午後3時頃、なぜかお風呂に入りたくなって豊島園の「庭の湯」に行ってみようと思いました。露天風呂で周囲に樹が植えられているので、かなりな雨でも気分がいいんじゃないかなと思ったのですが・・・。途中で、デパートに寄りこみ、買い物をしていたら、あたりがまっしろになるほどの雨になりました。風はなく白い雨がまっすぐに振っていました。「庭の湯」に到着はしたものの、これが右折禁止で車を駐車場に入れられない。どうにか、車を入れようと道を探しているうちに風がだんだん強くなり、不安になってきました。こんな台風の日に露天風呂に入りに来たなんてねえ!それで車が強風で横転なんて言ったら、ちょっと恥。
午後4時30分、結局、お風呂には入らずに家に帰ると、息子が外出しなくちゃならないから送っていって欲しいというので、またまた雨と強風の中に車で乗り出す。光が丘公園の体育館まで送って行く。その帰り道に、ついでだからと、アルバイト(駅前の本屋)に行っていた娘を迎えに行った。娘のバイトが終わるのを車の中で待っていると、風で車体がふわりと揺れる。ここまま飛ばされたら、救急車とかパトカーとかが来るのかなあと想像しているとだんだん怖くなった。ようやく娘がバイトを終えて車に乗り込んで来た。5時30分になっていた。
家の駐車場に車を入れる。マンションの玄関までの10メートルでずぶ濡れになる。傘は強風のためにまったく役立たずだった。小学生くらいの子どもが3人、エレベーターから興奮した顔で降りてきた。雨、風の凄まじさをおもしろそうに、マンションのエントランスから眺めている。この3人のエレベーターに乗ったのだが、ボタンを押してもエレベーターは動かない。どうも風でエレベーターが揺れていて、そのために安全装置が働いているようだ。小学生3人が不安そうな顔をする。「もう一度、ボタンをしてみようね」といいながらボタンを押すと今度は動いた。
「おばさん、びしょびしょだね」
3人の中の女の子がそう言った。確かにびしょびしょで、やけに寒かった。雨にぬれ、骨身に応えるほど身体が冷えたなんて経験は初めてだった。たぶん青い顔をしてたのだろう。
「あんたたちも早くお家に帰って身体をあっためないと風邪日ひいちゃうよ。」
そう言って、エレベーターから3人を降ろした。3人が降りて行った廊下のほうから、「うぁゃ」とうれしそな悲鳴が聞こえて来た。
家に帰ってお茶を飲んだらようやく身体が暖まった。台風も静かになっていた。7時頃かな。あっというまにとおり過ぎていったマーゴンでした。
67 20041008 定番プレゼント 男の子は8歳か9歳くらいになるとグローブとバットをプレゼントしてもらうのが定番という時代がありました。
もうひとつの定番は大学に入学するか社会人になると万年筆、時計、革靴というのが定番プレゼントでした。前の国土交通大臣が大臣が最初に大臣に就任した時「親父がゆうべから靴買ってやろうかなんてうるさくて」とインタビューに答えていました。石原都知事も万年筆、時計、革靴が定番時代の人なのですね。
都知事が国土交通大臣をつかまえて「ノブテル、ノブテル」と名前を呼び捨てと言うのも珍しい光景ですが、誰かが何かを言ったのか、ある時期から「ノブテル君、ノブテル君」と言っていました。ううん、「君」がついたほうがなんだか違和感がありました。
万年筆はパソコンに、時計は携帯電話に変わりました。そして今の大学生は革靴を履いて登校する学生はほとんどいません。たいていスニーカーとかジョギングシューズなどです。ライブドアの社長がTシャツを着ているくらいですから、そのうち、社会人になっても革靴は必要なくなってしまうかもしれません。
はてさて私の孫の代になったら、いったいプレゼントの定番はなにになっているのでしょうか?
66 20041006 今日は私のおたんたんび。るん! 子どものとき、お誕生日のことを「おたんたんび」と言っていました。
お風呂から出て、足に角質をやわらげるクリームを塗っていたら、ふっと、弟が誕生日に買ってもらったグローブに毎日、グリースを塗っていたのを思い出しました。歳をとると足の皮膚も、グローブみたいなもんで、革製品じゃないけど「皮」であるのはおんなじなんだあとヘンに感心。
良いお天気なりました。雨が降っていないと空気が軽くていいなあ。向かいの住宅展示場には新しいモデルハウスを建てるために生コン屋さんが来て、コンクリートを打っているし、うちはマンション敷地内の植木の手入れで、植木屋さんが電動の草刈機を使っているしと、雨降りのうちはできなかった仕事を一斉に始めて賑やかです。
65 20041005 熊・秋刀魚・秋雨前線 熊があっちこっちに出ているようです。洗濯物を干していたら背中から小熊に抱きつかれたという人が話しているのをテレビでみました。今年は山が荒れていてどんぐりなどの食べるものがないようです。でも熊ってけっこう日本に住んでいるんですねえ。
青函トンネルが出来たときに、これからは青森でもヒグマが出るなんて言う冗談を聞きましたが、本州の熊はツキノワクマです。
銚子に知り合いから秋刀魚を頂きました。あんまりたくさんいただいたので、今、山椒の実と一緒に炊いています。秋刀魚は豊漁だそうです。それからお米もよくできたみたい。お米も先日、頂戴しました。というわけで、秋雨前線の白い雨を見ながら、ぜんぶ、よそ様からの到来物で夕ご飯を作ってしまえるというたいへんなぜいたくです。
64 20041003 アンチ左翼とアンチリベラル フィリップ・ロスの「ヒューマン・スティン」を読むと、アメリカがアンチリベラルの心情にとらわれているのがよく解りました。日本のアンチ左翼とパラレルな現象でしょう。
理想主義に極端で急進的な情熱が加わったあとにはこうした冷淡な現実主義がもてはやされるのでしょう。理想だけ残して、急進と極端を止めるというバランスはなかなか取れないのでしょうか?
ところで、捕鯨が国際問題化するたびにアメリカは「白鯨」をどうやって生徒や学生に読ませているのだろうと不思議に思っていました。どうやら、古典教育というものをかなり捨ててしまったようです。今では「白鯨」のタイトルさえ知らない中学生がいるという教師の嘆きが「ヒューマン・スティン」の中に出てきました。
日本も欧州もアメリカの教育学の影響を受けて古典文学教育を縮小しました。過去の価値観からの決別という意味もその縮小には含まれていたのですが、これをやると価値観そのものが失われてしまうという現象が起きることは勘定されていなかったようです。
さらに言葉の意味を重層的に奥行き深く取るという訓練もできませんし、意味を保証する審美眼も育たないということも考えなくてはなりません。
どうりでアメリカ大統領選で幾らケリーががんばってもブッシュ優勢を復すことができないわけです。
アンチ・リベラルの聴衆の耳にはケリーの言い分は七面臭い奇麗事を言っているようにし響いていないらしい様子です。
63 20040928 フラソワーズ・サガンと森村桂 今朝の新聞に森村桂さんの訃報が載っていました。自殺?らしいのですが。
庄司薫とか森村桂とか、あるいは鈴木いずみとか、そういう作家の仕事の延長線上に村上春樹や山田詠美、吉本ばなながいるような気がします。そういう文学史を組み立ててみるのもおもしろいでしょう。
数日前の新聞にはフラソワーズ・サガンの訃報がありました。最初に来日した時に「週刊女性セブン」で対談をしました。すごい皺の深い顔に驚いたのを覚えています。深い皺の刻まれた皮膚は、濃密なと言いたいくらい細かい毛の覆われていました。産毛のようなその毛はライテングの具合でぼんやりと金色に輝いて見えるときもありました。幾らか赤みがかった白い肌が金色の毛で覆われ、そして深く皺が刻まれていたのです。そのときのサガンは50歳くらいだった勘定になります。皺は深いけれども柔らかく、表情の変化とともにゆるやかな曲線を描いて風紋のように変化するのでした。通訳の入る対話をそっちのけにして、よほどまじまじと皺を見詰めていたみたいで、今でも目にくっきりと浮かびます。
対談をした時のことを新潮社「波」に書いたのですが、今まで書いたエッセイの中でも一番書きにくいエッセイでした。なぜって顔の皺ばかり目の前に浮かぶのだけれども、そのことは書かなかったから。豆しぼりの手拭をねじってスカーフのかわりに首に巻いていました。フランス人だからサマになるけれど、日本人だったら笑っちゃうようなファッションでした。
フラソワーズ・サガンとかコレットなどのフランスの女性の小説家がいなかったら、私は小説を書こうと思わなかったかもしれません。小説に対するいちばん甘い願望はフランスの女性作家によって触発されたのかもしれません。
久しぶりにフィリップ・ロスの小説「ヒューマンスティン」を読んでいます。アメリカの田舎町の大学が舞台なので、懐かしいような本の名前や哲学者の名前が出てきます。とくにフランス人の女性の教授の周辺には、懐かしい名前がごろごろしています。
私の少し上の作家、例えば中上健次などはフォークナーを読んでいましたし、その上になるとヘミングウェイを読んでいました。フィリップ・ロスやそれに南米のガルシア・マルケスが日本に紹介されたのは、私が大学に入る頃でした。
ただ懐かしいのではなく、何か歴史の流れの中で見晴らしの良い場所に出てきているなあという感じがしています。
それにしても今年はいやに「自殺」の文字が目につきます。今日はお月見。旧暦8月15日の十五夜です。
62 20040923 スクープ(特ダネ)はスクープ(幽霊)? 北朝鮮北部で大爆発があったというのは、発電所を作るための発破作業だったということで落ち着いたようです。まったく疑問がないわけではないのですが、そういうことになったので、空騒ぎでした。
北京発の情報と思ったのは私個人の思い込みでした。どこでそんな思い込みができたのか、記録を残しているわけではないでの見当がつきません。これも思い込みは怖いのひとつでしょう。
今朝のネットでは読売が北朝鮮がノドンミサイルの発射準備に入ったと報じています。自衛隊が発射に備えて配備され、日本政府もそういう情報があることを認めてみます。これもスクープはスクープで終わってくれると良いのですが・・・。何か今までと違うことが北朝鮮国内で起きているのでしょうか?いまのところ(23日午前)このニュースは読売しか報じていません。
61 20040922 ひがんばながかれても ひがんばなが枯れても暑い日が続いています。光が丘公園を散歩してきました。萩が花盛り。お彼岸ですね。
昨晩(21日)のジャイアンツ戦の観客が少なかったのや、テレビの野球中継の視聴率が低かったことなどから野球人気の凋落傾向を指摘する記事をネットでいくつか見かけました。実際はパ・リーグの球場には大勢のファンが詰め掛けていたわけですし、注目を集めている対戦カードは巨人・横浜戦ではなかったうえに、多少、巨人に対する反発によるボイコットも含まれていた現象で、必ずしも野球人気の凋落を表してはいないでしょう。
こういう記事はよく世論操作だと言われます。しかし、実際は世論操作でも何でもなくて、たんに記者の現実を把握する力が衰弱している場合もあります。だから「良い」と言うのではなくて、意図的な世論操作よりもよどほタチが悪い場合も多々あるように思えます。
巨人一極集中という強固な固定観念を持って、昨日の巨人戦の視聴率や、球場への入場者数などを見れば前述のような記事も、書いている記者は「ほんとうのこと」を書いていると思い込んでいることもありえます。他の球場への入場者数を調べたり、注目される対戦カードの様子などを見れば考え方や見方が修正されそうなものですが、一度、思い込むとそれがそうは見えないのです。
「そんなばかな」と思われる人もいるかもしれませんが、記事を書く直接の当事者に聞いてみると意外なほどよくあることなのです。現実を見て、情報を把握し、言葉で現実のスケッチをするという作業は、けっこう書き手に負担をかけるもので、かなりエネルギーが必要です。そのエネルギーが枯渇すると、観察に基づく感想を文字にするということができなくなってしまいます。
60 20040921 プロ野球観戦の楽しみ 昔、日本ハムに落合がいた頃、誰もいない後楽園で日本ハムの試合を見ていました。観客が少なくてもホームランを打つ落合選手が好きでした。一度だけ試合後にインタビューをしたことがあります。
プロ野球ではありませんが、明治が東大に負けてしまいました。昨日は祝日ですが、明治大学は月曜日の振り替え授業。月曜日は祝日が多いので、振り替えで授業をしないと時間が足りなくなってしまいます。出講して、野球部の学生さんの立ち話をしたのですが、一場が抜けたのはかなり痛いようでした。ここはひとつ気を取り直してがんばって欲しいと思います。いや、外野席の観客としてはそんなことしかいえないのですが、久しぶりに神宮へ行こうかなという気になりました。春は優勝したのですから。
落合はいまや中日監督、ついでに優勝もかかっているし、日本ハムのほうは新庄選手がとんでもない大活躍。新庄はアメリカに行っていい意味でのショーマンシップを持ってきてくれました。
プロ野球はおじいさんやおばあさんと孫がそれぞれの楽しみ方で楽しむのことができるエンターティメントだなあと、スト明けの試合を見て、そういう感想を持ちました。60歳から野球を始めたいという人は少ないでしょうけれども、60歳になったら毎日でも野球を見たいという人も、孫と野球をみたいという人も
大勢いることでしょう。
プロ野球のストライキの議論を聞いていると野球を衰退産業と見ているとようですが、そもそもそれがおかしいのではないでしょうか。産業の中には役割を終えて縮小に向かう産業も実際あります。かつての石炭産業がそうでした。銀行は大型公共投資への融資からほかの産業への融資にビジネスモデルをかえることをここ10年要求されてきました。そうした衰退産業の整理の発想の延長でパ・リーグの経営が取りざたされているように見えます。それで、良質な観客という大事な財産まで失うようなばかげたことをしているのではないでしょうか?
日本の政府は海外からの観光客の誘致ということを言い始めています。観光は名所旧跡景勝を訪ねるだけでなくて、スポーツ観戦も含まれます。パ・リーグもほんもののパシフィック(環太平洋)リーグといえるような築き上げることができれば、いっそう、おじいさん、おばあさんと孫が一緒に楽しめるでしょう。
確かに野球は国民的スポーツではなくなってしまいました。しかし、だからといってもう観客動員はできないかと言えば、そうではありません。観客は国境の向こうにいるということに目を向けてもいいのではないでしょうか?物を輸出することも大事ですが、人に来てもらうという仕事もあります。ネットでホテルの予約もできれば試合のチケットも購入できるのですから、それは不可能ではありません。
59 20040920 プロ野球の経営責任(番外) ゆうべからずうっと考えていたんだけど以下のような罵倒しか浮かびませんでした。
プロ野球球団の経営責任を無視して、教団側がストライキをした選手会に損害賠償を求めるならば、それはたとえて言えば以下のようになります。
打率0でかつ、たびたびエラーをかさねた選手が試合中に負傷したことを理由に年俸の上積みを要求するようなものです。ばか。
法律のほうがもしそんなに経営者側に有利にできているならば、法律のほうを変えればよろしい。頭の悪いやつにもすっきりと解る法律を作ったらよえろしい。いや番外でした。
58 20040920 プロ野球球団の経営責任 こだわってしまいますが、プロ野球のストライキでなんだかヘンだなと思っていたのは、球団の経営責任について誰も何も言わないことです。そもそもパリーグが赤字で規模を縮小しようとしたことからこのストライキが始まっています。
で、もし球団経営が赤字であるとすれば、その責任は選手にあるのではなくて経営者にあるのです。選手は毎年の契約更新の時に試合の成績を問われています。それは選手の仕事が野球をすることだからです。経営者は球団の財政を黒字にするか、もしくはとんとんに採算がとれるようにするか、最低でも赤字の幅を小さくするのが仕事です。もし、それがうまく行かなければ、シーズン中の成績が悪かった選手と同じように責任を問われるべきです。
経営者はその仕事がうまくいかなかったからこそ縮小を考えたのです。確かに縮小もひとつの方法ではあります。が、その時、経営者は経営責任を問われるべきです。その経営者側が、まだストライキが決行される前から経営者側は損害賠償を求めると言っていました。損害賠償を求めると言うのでは経営者側はまったくの被害者になってしまい、そもそもの経営責任を放棄したにも等しいことになります。
リーグの縮小は経営事項であって、労働基準法で正当なストライキの権利を認められた雇用問題ではないからというのが、損害賠償を求める根拠になっています。それは、選手に対しての経営責任を負っている球団の経営の失敗はまったく無視した考えかたと言わなければなりません。こんな理屈が通るなら、プロ野球だけの問題ではなくなってしまいます。うまく言えませんが、資本主義の社会の根幹を揺るがすようなルール無視をそこに感じます。もし、縮小よりも他に方法がないとしても、それを納得させるだけの説明と情報の開示が必要になります。そうした経営者側の責任を果たさずに、交渉の最中に損害賠償という言葉が出てくるのは誠実な対応とは言えません。
損害賠償という言葉が出てくるのは、球団経営者は金を出す側、選手は金を出してもらう側という発想に縛られているという感じがするのです。しかしほんとうにプロ野球にお金を出しているのは、観客です。もしそれがスポンサーによる提供であったとしても、観客はスポンサーの商品を買うとか、電車に乗るという形でお金を出しているのです。そこで、経営者は球団の黒字経営をする努力をするのがお金を出してくれた人に対する仕事であり、選手はおもしろい試合を見せるのが仕事なのです。
ストライキをした選手はファンサービスをし、ファンにストライキへの理解を求めました。しかし、球団経営者側はテレビや新聞が伝える限り、ストライキという結果を招いてしまったことを詫びる態度は示していません。あの読売新聞でさえ、球団経営者側がそうした態度を示したことを報道していないのですから、たぶん、そんな態度は示していないのでしょう。ストライキは本来、経営者の責任を問うものなのです。そのような視点が欠落した報道が多いので、なんだかもやもやしていたのです。
昨日のサンデープロジェクトで野村克也氏が「今まで何もしてこなかった漬けが回った」と言っていましたが、それは経営責任のことを具体的には指し示しているのだと思います。
法律上の解釈以前に経営の失敗を無視して選手会側に損害賠償を求めるようなことを球団がするとすればこんなモラルハザードな話はほかにないと思います。
57 20040919 プロ野球ストライキ 特別な野球ファンでもないくせに、プロ野球のストライキには自分でもおかしいと思うくらい興味を持っています。そして古田がんばれという心境になっています。
昨日、パック・イン・ジャーナルでストライキについて話ましたが、それで、この問題に興味を持った理由が少しわかるような気がしました。
プロ野球は新聞やテレビという20世紀のマスコミとともに歩んできたプロスポーツです。ネット時代に入って新聞やテレビは、これからの行き方に悩んでいます。それとプロ野球のリーグ再編問題がダブって見えているのです。
話の方向が少し変わりますが、ネット時代に入って、よく良質のコンテンツが求められているという話を聞きます。スポーツは音楽と並んで言葉の壁が低い分野です。ですからオリンピックなども成り立つわけです。スポーツというコンテンツはグローバルな性質を持つネットには向いている分野です。
野球に限って考えれば日本のプロ野球はすでに70年の歴史を持ったいるわけで、これをネット時代の良質なコンテンツにする工夫をすれば、日本の重要な産業のひとつに育てることもできるでしょう。現在の経営者側の言い分はパ・リーグの赤字をどう解消するかという発想ですが、そこにネット時代のコンテンツを育てるという発想はみじんもありません。現在の観客をよろこばせようとするサービス精神さえ感じられないのですから当然ですが。
スポーツ選手はお金をかければ数年で優秀な選手を育てることはできます。かつての共産圏がオリンピックで金メダルをたくさん獲ったことでもそれは証明されています。しかし、しんにスポーツを愛する良い観客はそう簡単には育てられないのです。良質な観客は質の高い試合を生み出し、名場面を作る証言者になって行きます。ですから、良質な観客がいるということが、ネットの良質なコンテンツを生み出す条件になってくるのです。単純に勝ったからうれしい、負けたから悔しいでは、それほどの詳細情報を必要とはしません。試合の多様な楽しみ方を知っている観客こそが詳細情報を欲しいと思うのです。
試合の見方を知っていてマナーを守り、愉快な観戦をする観客を育てるのはむずかしいなあと思ったのは先日の中国でのサッカーのアジアカップの時もそうでした。観客は意図的に育てるわけには行かないのです。自然に育ってくるのをしんぼう強く待つしかないのです。
そういう優れた観客を持っているのは、日本が70年かかって築き上げてきた財産でしょう。日本のように経済成長をしてしまった国が、次に育成すべき産業はソフト産業だと言われています。プロスポーツはまさにソフト産業であって、そこを大事にして欲しいのです。何事にも一日の長(ちょう)というものがありますが、近代工業社会の高度成長をすでに経験してしまった日本の一日の長の一端は、プロスポーツの優れた観客がいるというてんにあると思います。
選手会の思いはプロ野球を衰退させたくないというところにあります。それを情緒的感情的だという批判もあるのは承知しています。しかし、芸術やソフト産業それに興行の世界は情緒や感情にうったえて、利益を上げているわけです。ですから、私の目には選手会のほうが経営感覚があるように見えるのです。もちろん、選手には経営の技術はないかもしれません。経営の技術で選手を支えるのが興行の世界の経営者なのではないでしょうか。
56 20040916 唸ってしまいました。 今朝の新聞はどこも佐世保の小学生の同級生殺害事件の保護処分決定について報じています。私は東京新聞のコメントを出したこともあってこの事件に興味を持っていました。
加害児童の特徴について家裁は三つの特徴を指摘したと朝日新聞1面は報じています。
1、対人的なことに注意が向きづらい
2、物事を断片的に捉える
3、抽象的なものを言語化することが不器用
うなってしまったのは、大学生に文学作品を読ませた時の特徴が全部出ている点です。ですから被害者の父親の御手洗さんが、一線を越える子とそうでない子の境はどこにあるのかと戸惑うのも当然だと言えます。これに加えて愉快な感情は表現できても、怒りや寂しさ悲しさなどの不愉快感情が表現できないということも付け加えられているのですが、これも、大学生に文学作品を読ませたときの特徴のひとつです。
事柄の重い軽いを別にすれば、現代の大学生に文学作品を読ませた時の特徴が出ている指摘が家裁から出されたということは、それだけ今までの精神障害を発見しようとするだけの鑑定よりも、より実際に近い結果を裁判所も出してきたと言えるでしょう。
文学作品はなにか人生の問題を解決するためのものではなくて、喜怒哀楽すべてを鑑賞に耐えるものとして表現しようという意図を持って製作されています。
作者がその意図をどれだけ明快に持っているかどうかはまた別問題ですが。ともかく鑑賞に堪えるものとして表現しようとする努力だけはどんな作品にも施されています。
鑑賞するだけで、あとはどうなるのだ言うような人には文学作品を鑑賞する資質がないということになります。逆に鑑賞に堪えないというのは作品に対する最大の侮辱になるわけです。学文学作品を鑑賞する資質に欠けているのに、「鑑賞に堪えない」という批評用語だけを覚えて振り回されると、これはもう手に負えないのです。
こちらは、殺人事件ではなくてせいぜい学校の評価をどうつけるかというようなことですから、まあ、「ああ困った」と唸っているより仕方がないし、教師が唸っているうちにどんどん鑑賞の能力を磨いてしまうので大学生です。でも時々、頭がおかしくなりそうという気分になることも事実です。
55 20040915 プロ野球中継 プロ野球のリーグ再編問題がいろいろと言われていますが、ある時期から夕暮れの飲み屋や食堂で野球中継の音を聞かなくなりました。いったいいつ頃からでしょう?
今のダイエーの王監督が巨人軍を引退する時にニュースは西荻の「ダンテ」という喫茶店で、誰かが読んでいたタブロイド誌で知りました。「ダンテ」の向かいに「初音」というラーメン屋さんがあって、そこではラジオの野球中継が流れていました。「ダンテ」を出て「初音」に行くとお客さんたちが王選手の話をしていたのをよく覚えています。
よく覚えていると言えば、長島選手が巨人軍を引退する時のことも記憶に鮮明です。まだ中学生でしたが、中間テストが終わって、写生会に出かけていました。館山港で船舶を写生しながら、ずっとラジオで野球の試合を聞いていました。「巨人軍は不滅です」という挨拶を長島がしたのはこのときでした。お天気の良い秋の日でした。
水道橋の会社に勤めて、明治大学の2部に通っていた頃には、後楽園スタジアムはドームではなかったので、球場のライトが点等すると、「あ、これは一限に間に合わないなあ」と思ったものでした。野球ファンではないのですが、そんなふうにあっちこっちに野球をその中継が記憶の背景として残っています。まるで昔の写真の背景に写りこんでいる景色のように。
54 20040913 写真は嫌いだあ 自分の写真をみると嫌だなあと思うことがしばしば。身体の小さい人と写るのが嫌い。だって、こっちがううんと大きく見えちゃうんだもの。
子どもの時は同じ歳の子どもと比べてううんと小さかったので、自分では今での小さいと思い込んでいるところがあります。でも写真をみると「デカイ」というギャップに耐えられ無い。だから写真はキ・ラ・イです。でも撮って欲しいし、だからと言って小さくなるのは嫌だし。
最近ますますドラえもん化しているし(顔とお腹が大きくなる現象)ああ、写真は嫌いだ。
53 20040912 北朝鮮と中国 お昼のHNKニュースで北朝鮮北部で大きな爆発があったとことが報じられました。韓国のメディアが北京からの情報として伝えたようです。爆発があったのは9日のことで、この日は北朝鮮の建国記念日でした。
最初は核実験が疑われていましたが、これはアメリカ、韓国、ロシアなどの政府によって否定されています。核実験であれば放射能などの影響が出ますから、たぶん、核実験ではないでしょう。次に取りざたされたのは反政府活動があったのではないかという推測です。こちらのほうはまだ否定も肯定もされていません。龍川の列車爆発事故の3倍の規模ということで、軍用車両の爆発事故や軍需工場もしくは武器庫の事故ではないかとも言われています。
朝鮮日報の日本語サイトが掲げていた両江道キンヒョンジク郡付近の写真では現場は山岳地帯です。中国国境からは20キロないし30キロほどのところです。このあたりには軍関係の施設や基地が多く、韓国側からは攻撃しにくい地域とされたいたそうです。
とろこで12日には平壌で金正日総書記が中国の李長春政治局常務委員と会談しています。龍川の列車事故の時もニュースは北京から流れてきました。事故現場は中朝国境から30キロほどでした。龍川の列車事故は金正日総書記が北京を訪問した帰りでした。あの時は私は直感的に中国の関与を感じたのですが、今度も符号しているような気がします。もっとも爆発になんらかのかたちで中国が関与していたとしてもそれが明るみに出ることはないでしょう。
52 20040911 建物の運命 昨日、書いた不思議な運命の建物の話の続きです。今は葬儀用のセレモニーホールになっているある建物は、7、8年も借り手がなかった挙句に、銀行の差し押さえられたということでした。その建物はT字路の突き当たりにあります。
T字路はかなり大きな道で、信号が無ければ交通にも不便が出る場所です。駅からは近いのですが、T字路の突き当たりでは信号の関係で、建物の前に車を止めたりはできません。ここはもともと和風の個人住宅が建てられていたそうです。そのもそれほど古い建物ではなかったようで、個人住宅が取り壊された時には、その家を建てた大工さんが涙を流して見詰めていたという話でした。
木造の個人住宅をわざわざ取り壊して、一階を貸し店舗、二階を貸し事務所に、3階に住居を作るという鉄筋コンクリートのビルを建てたところ、7、8年も借り手は一人も現れず、とうとう銀行に不良債権の担保物権として処理されることになったようです。その間の銀行は利子をとっていたのでしょう。それにしてもなぜそんな立地の悪いところに銀行はお金を貸したのかと不思議になる話です。
日本じゅうのあっちこっちでそんな運命の建物を多くの人が目にしているのだろうと思います。建物には人の運命も付随しているわけですから、ため息のでる話でした。葬儀用のセレモニーホールはそんな立地の悪いところでもやって行けるというのも、なんだか複雑な心境を呼びます。こういうのをバブルの遺跡というのでしょうか?
51 20040910 夜はこれから 漸く、暑さが通り過ぎようとしています。秋は夜が楽しい季節です。
3年ぶりくらいに自分の部屋を大々的に片付けてます。片付けというよりも発掘作業です。2002年にインドを訪問した時に松浦理英子さんにとってもらった写真が出てきました。デリー郊外の中世の遺跡です。インドの作家に「インドでは若い人はどこでデートをするのか」と尋ねたら「遺跡で」という答えが帰ってきて笑ったことがありました。男女関係に厳しい社会なので、二人で静かに過ごすには遺跡くらいしか場所がないということでした。
その遺跡ですが、デリーの南側の郊外には中世以来の遺跡が幾つもジャングルに埋もれています。日本だと同じ土地の地下に遺跡が埋まっているのですが、インドでは、遺跡は南から北へ街が北進した様子がそのまま地表のジャングルの中に残っています。私はカメラを持たないので、松浦理英子さんに写真をとってもらいました。河原弘通さんにいただいた赤いハスの写真の隣にインドの遺跡の写真をピンで留めました。
話は変わって、葬儀用のホールというのが最近、街に増えました。これは、あっちこっちで金融機関が潰れたり、不良債権の補填のために売られたビルで葬儀用のホールになってところが多いことを知りました。その中には不思議な運命の建物もあることを話に聞きました。インドの遺跡と葬儀用のホールがどうるながるのか解りませんけど、なんだか、ひとつながりになりそうな気がしている宵の口です。
50 20040908 まだ風が吹いている 台風が通りすぎて、まだもまだ風が吹いています。それにかなり暑くなりました。
9月の暑さというのは、これでもか、これでもかとお日様に我慢比べをされているようなところがあります。
さて、この風が止んだらベランダの植木鉢に水をやることにします。台風の風のすごいところはそれが潮風だということです。海から巻き上げた塩分を台風は内陸の町まで運んで来てしまいます。植木鉢の植物もその潮で茶色く変色してしまいますから、水で洗い流すのです。
それにしても今度の台風の風は長時間です。せっかく芽吹いた薔薇の芽がこれでダメになってしまうかもしれません。
49 20040906 火山、地震に津波それから台風 昨夜の紀伊半島の二度目の地震では、気象庁がこれまでにない経験としてやや困惑していたことが新聞に出ています。
最初の地震ですが、私の家では7時のNHKニュースを見ていました。テレビ画面に地震があったことを告げる速報が出るほうが先で、それからゆっくりと建物が揺れだしました。電波で情報が伝わる早さのほうが、地面を伝わってくる振動よりも早いのはあたりまえかもいしれません。しかし地震情報のあとを追いかけるような、ゆっくりした揺れに、あらためて地面というものも生きて動いているのだなあと感じさせられました。地球のプレートというのはこんなものだよとからかわれているような最初の地震でした。
二度目の地震は最初の地震よりの小さな揺れがしばらく続きそれから大きな横揺れに変わりました。おおきな横揺れに変わるまでの時間が最初の地震より長かったようです。身体で感じる揺れの程度は最初と同じくらいでした。居間に行ってテレビを見るとNHKのアナウサーは最初の地震の時よりもあきらかに緊張していました。
浅間山が爆発したのは先週ですが、今週はこれから大型の台風の襲来も予想されているところに地震で気象庁はさぞかし大忙しだろうと思います。幸い、浅間山の噴火も地震もさしたる被害はでませんでしたが、日本列島の災害の見本市をやられているような感じです。まさか地球が防災訓練に協力しているなんてことはないでしょうが。
48 20040905 白いシャツ 季節のかわりめ。夏から秋へと、冬から春への時期には白いシャツを着るのがとても気持ちがいい時期があります。台風が近づいていて、ちょっと空気が湿っぽいのですが、今頃になると白いシャツが着たくなります。
先日、聞いたファンファーレ・チォカリーアのおじさんたちのシャツは真っ白というわけではなくて、何度も洗濯をしたくすんだ白でしたが、身体によく馴染んでいて、いいなあと思いました。
海辺の漁師町では夏場は、白いステテコにしろい前開きのシャツそれにパナマ帽というのでお出かけスタイルでしたが、あれとフェンファーレ・チォカリーアのおじさんたちのシャツはそっくりです。気分としてはね。でもステテコと前開きシャツにパナマ帽で私が町を歩こうとは思わないなあ。
今度の台風は18号と19号がアベックで来るみたいですね。先日、「アベック」と言ったら、「ああ、なんて古い表現なんだ」と呆れられてしまいましたが、なぜか台風は「アベック」じゃないと感じがでません。まちがっても「カップル」なんて言えないし、「ペア」もなんだか今ひとつヘン。ともあれ、夏の終わり、白いシャツの季節です。台風があんまりひどい被害をもたらしませんように。
47 20040903 香りの来訪者 夜はさすがに涼しくなりました。8階の家でも騒がしく鳴く虫の声が窓を開けているとよく聞こえてきます。クーラーよりも自然の風は身体に優しいので、くつろげます。昨晩も夕食の時は外の風を家に入れていました。
すると、甘い香りが風にのってやって来ました。パイプ煙草の香りです。きっと隣のご主人がベランダでパイプを楽しんでいるのでしょう。香りのおすそ分けです。チョコレートフレーバーでした。
ちょうど、こちらも食後ののんびりした時で、香りの来訪者は大歓迎でした。外の風をひとりで楽しみたくなるような夏の終わりの晩でした。
最近は受動喫煙なんて言葉もあって、喫煙者は形見が狭く、ベランダでしか煙草がすえない蛍族なんて言葉もあります。もし、隣家が強固な非喫煙者だったらベランダでの喫煙も苦情の対象になるでしょう。ほんとうお隣さんとの関係は難しい。遠くの何の関係もない人と喧嘩をするなんていう人はいないのですから、隣こそむずかしいのは当たり前でしょう。
ロシアとは北方領土問題、中国とは尖閣所要問題、韓国とは竹島問題、太平洋を挟んだアメリカとな日本国内の基地問題。こんなふうにならべてみると島国の日本もなかなか国境を接している国とは、解決の難しい事柄を抱えているものですなと、なぜか、パイプの煙に誘われて途方もないことを考えていました。
46 20040902 アメリカの国力 アメリカ大統領選挙が近づいてきました。そのニュースを見ていたふっと思ったのですが、アメリカの国力は弱まりを見せているのではないでしょうか。
そう感じたのは強いアメリカが極端に強調されているからです。この点では共和党も民主党もあまりかわりありません。人も国も弱くなっている時ほど強さを強調したがるものなのだと思います。
原油価格の高騰が伝えられていますが、それに加えてテロに備えての厳戒態勢、イラク戦争にかかる出費と数え上げて行けば、どこれもこれも生産性が乏しいのにお金のかかることばかりが続いているのではないでしょうか?
アメリカは強いという思い込みは日本にもありますし、アメリカの国力が弱まっているのではないかなどというと観念的な反米感情からそう言っているように聞こえるかもしれません。各種のニュース画面を見ていてそう感じただけです。
45 20040901 異常潮位 昨年、沖縄に行った時に沖縄タイムスの記者から聞いた話ですが、沖縄ではここのところ毎年、異常潮位に悩まされているそうです。海の潮が高くなって、海辺の村が浸水する異常潮位です。県知事選挙でも異常潮位対策が話題になったといいます。
南太平洋の島が水没の危機にあるという話を伝え聞いたのはもう10年も前です。異常潮位は北上する傾向にあり、沖縄の次は、昨年、広島の宮島が潮位の高まりのために浸水していました。今度の高松で、台風の接近と満潮時間が重なったために高潮が起きたのは異常潮位の北進とは無関係なのでしょうか?
そう言えば京都議定書はどうなってしまったのかなと思いました。アメリカが批准しないままになっていたのではないでしょうか?今の外務大臣が就任した時にアメリカの批准に向けて努力をしていたのをかすかに覚えていますが、その後はイラク戦争で、すっかり影が薄くなってしまいました。
日本は島国です。地球温暖化というのは、異常潮位などももたらすのですから、京都議定書はかなり切実な課題であるはずなのですが。
時間さえあれば沖縄や広島の宮島の異常潮位というものを見てみたいなあと思っています。海がじわじわと陸に上がってくる光景は、きっとあまり怖くはないのだろうと想像しています。潮の満ち引きですから時間さえ過ぎればまた引いて行きます。そのあまり怖くない光景がじわりじわりと広がった時に、人間の力では対抗できないとような大きな力になって行くのではないでしょうか。
44 20040831 ながしろばんりさんの朗読会 9月5日にながしろばんりさんが朗読会を開くようです。ご興味のある方はスタッフルームのほうをお尋ねください。メールをいただければキーワードをお知らせします。
ながしろばんりさんはこのホームページの管理人さんです。
43 20040829 世界最速のブラスバンド 世界最速のブラスバンドと言われるルーマニアの
「ファンファーレ・チォカリーア」
の演奏を隅田トリフォニーフォールで聞いてきました。すごくエネルギッシュな演奏で、トランペットなどはこれでもかこれでもかという高音の連発。ずっとリズムを打っていたホルンは、途中で歌も歌えば、悪踊りも踊るという体力。
パイプオルガンが備えつけてある音楽ホールで聞くよりも、遠くのほうからやって来る音楽をわくわくしながら聴きたいなあという吹奏楽でした。子どもが夢中になって楽隊のあとを付いて行き神隠しにあうようなそんな感じです。
ホールでの演奏が終了したあとで、ロビーに突然、現れた彼らが、即興演奏をしてくれました。この即興の音がとても素敵でした。肺活量も凄いけれども、ウェストサイズもすごいおじさんたちのノリノリの演奏です。音楽とは関係ないけれども、こういう人たちの
シャツの着方ってとても素敵です。なんの変哲もない白いYシャツなんですが。
42 20040826 気力減退 夏ばてで気力減退。でもなぜか歩くのはとても楽しくて、仕事を放り出して歩いています。近所の公園は元は米軍の高級将校の住宅地だった場所です。その頃の樹木をそのまま公園の木にしました。
米軍の将校住宅だった時は植木もアメリカ風に刈り込まれていました。沖縄でも米軍基地はアメリカ風に刈り込まれています。どんなのがアメリカ風かと言えば樹木の容姿に関係なく同じ形に切りそろえるのです。米軍から返還されたそろそろ30年になる家の近くの公園の樹木はこの30年で、すっかり日本の樹に戻りました。でも、横に枝を張り出したマテバシイの樹だけは、背の伸びる時期を過ぎていたのでしょう。今でも太い幹から枝が横に張り出して、マテバシイらしからぬ姿をしています。
気力は減退しているのだけれども体力は回復しているので、公園の樹木を見て歩いています。
41 20040808 「誰も知らない」見てきました カンヌで主演男優賞を受賞した「誰も知らない」を見てきました。初日です。午後四時からの回を見たのですが、舞台挨拶があったためか40分遅れの開演でした。午前中に7時の最終回までの切符が売り切れてしまったようです。観客は若い女性が多いように見受けました。予告や広告は全部カットでいきなり本編の上映でした。
1987年に戸籍のない四人の子どもたちが暮らしていたことが解った事件は、私も興味を持っていました。一番小さな子が死んでしまったことから、この子どもたちの存在が解ったのです。家の中を探せばその当時の新聞の切り抜きがあると思います。
映画では焦点は一番上の男の子に当てられています。上映後、「厳粛」と言ってもいいようなしいんとした空気が客席に流れてしました。言葉では説明しにくいので、見てもらうのが一番だと思います。
12、3歳くらいの男の子の成長っていうのはすごいなあとため息が出るくらいのものです。映像がすごくリアルなのですが。同時にピュアで透明で、美しいので、リアリズムのあり方とはなんだろうと考えてしました。
ところで実際の事件では、私は母親がどうやって子どもを生んだのかに興味を持っていました。出生届けを出さずに子どもを四人も生むのはなみたいていではありません。行政サービスを受けることができないのですから、出産後をどのように乗り切ったのかの気になります。都市の中に棲家を変えた山姥みたいな話だなと思ったものです。昔話に出てくる山姥は金太郎のお母さんです。そのあたりは映画では省略されていあますし、また映画の主題でもありません。
母親役のYUOはたいへん評判がいいということでした。なんとなく許せてしまう。あるいは置き去りにされた子どもたちが母親を思うような気持ちと同じ気持ちにさせてしまうところがYUOの演技にはあって、一番上のお兄ちゃんの柳楽優弥と良いコンビでした。
40 20040807 銭洗弁天 夏の鎌倉を散歩してきました。鶴岡八幡宮の源平池では、紅白のハスが今を盛りに咲いていました。いつのまにか白いハスが増えてしまったみたいです。
鶴岡八幡宮から佐助のトンネルを通って銭洗弁天へ。佐助はそのあたりの地名でもあるのですが、これはもとは人の名前なのでしょうか?いつも不思議に思っているのですが、あとで調べようと思うだけで、すぐに忘れてしまします。
銭洗弁天は佐助を山のほうに入った不便なところにあるので、初めて行きました。弁天様が祭られている岩穴の清水でお金を洗うと、お金がたくさんに増えると言われています。小さなお社で、もしお金を洗うなどという習慣がなかったらとっくに忘れられてしまった神社かもしれません。
お金はざるに入れて洗います。一万円札を洗う人もいるそうです。五百円玉を洗ってみました。お金がきれいになったような感じがしました。となりでお金を洗っていた男の人が「マネーロンダリングだな」とつぶやいていたのには、思わず笑ってしまいました。奉納された絵馬を見ていたら「宝くじが当たりますように」というお願いがあって、なんとなく「なるほど」とうなずいてしましました。境内には「洗われたお金は有意義なことにお使いください」という張り紙がありました。有意義って人によって感じ方が違うのだろうなあとしばしせみ時雨の声を聞きながら考え込んでしいました。
湿った山道に開いたトンネルの向こうにある銭洗弁天は、沖縄の「ウタキ」に似ていました。周囲を山に囲まれ、洞窟には清水が湧き出しているので、きっとここは大昔に人は住んでいた場所にちがいないと思いました。清水が湧き出している涼やかさが、夏の午後にはとても清涼に感じられて、隠れ家か何かに忍び込んだような気がしました。こういう場所を人が暮らしていた時はまだお金なんて必要ない時代だったのでしょう。いったい一番最初にざるにお金を入れた洗ったのは誰だったんでしょうか?
銭洗弁天からひさしぶりに大仏さんの顔を拝んでついてに長谷の観音様にもお目にかかってきました。子どものころ、親に連れてきてもらったことのある神様や仏様というのは、なんだかちょっと親戚のうちに顔を出したような感じがするものです。懐かしい人に会った時の感じに似ています。
39 20040802 厄日かな? 机の上にあったインク瓶に手を伸ばした時、あ、倒れそうだなと思った瞬間、インク瓶は横倒しになっていました。これが昨日の午前中の出来事。机の上はブルーブラックのインクの海。
晩御飯のあと、ひと眠りしていると息子が「水槽のポンプが逆流しちゃってさ」と言ってきました。最初は寝ぼけまなこで聞いていたのだけれども、そのうち彼の部屋は水浸しということに気づいてあわてました。なぜ水槽のポンプが逆流してのかを、息子は説明するのですが、どうも要領を得ません。たぶん言いにくいことが、ひとつか二つあるのです。
水槽にはエビユキーズという名前の海老が三匹すんでいるのですが(三匹でエビユキーズです)海老たちも畳の上をぴちぴちはねていました。
マンションの8階なのに床上浸水状態。なんだか憮然としてしまいました。彼の部屋はとても寝られる状態ではないので居間に寝るということになりました。それで、彼が居間に掃除機をかけていると今度は電源が落ちてしました。ますます憮然。なにしろパソコンは起動していたので。憮然としていると、なぜかピアノの上にあった弟の結婚式の写真が、かたりとピアノの裏に落ちました。ああ、今日は厄日みたい。という昨日でした。
38 20040731 ミャンマー人と間違えられる 先週の土曜日のことでした。ともだちが入院している東京医科大学病院にお見舞いに行きました。ロビーで女の人から声をかけられたのですが、なんだか解らない言葉で話しかけてきます。「何語だろう?」と首をしばらくかしげてました。それで、とりあえず日本語で「今日は暑いですね」と言ってみました。
「日本語が上手ですね」といわれたので、ははんこれは何か間違っているなあと思いました。
「ネイティブですから」と言って笑ったら、とたんにその女性は困った顔になってしまいました。ちょっとあわてています。
「いえ、ミャンマーの人だと思ってのです。ごめんなさい。」
「じゃあ、今のはミャンマー語ですか?ミャンマー語の勉強をしているのですか?」
「少しだけミャンマーにいたことがありまして」
たいへん恐縮した様子でそう言っていました。ミャンマー人に間違えられてたのは初めてでした。なんだかちょっと気まずいので、その人にミャンマーのことを少しだけ教えてもらいました。
そういえば、韓国の出かける前に銀座の鳩居堂へお土産を選びに行ったら、そばにいた人から英語で話しかけられたので、片言の英語で答えておきましたが、きっとあの人もどこか別の国の人と私のことを思い込んでいたふしがありました。この時はなんだかだましたようで、その人が売り場から居なくなるまでに日本語を使わずに済ませました。でも何人だと思ってのかな。聞いてみたら意外な答えが帰ってくるかもしれないなあと思いました。
37 20040726 桔梗と赤いかさと黄色い長靴 中学生の時の夏休みの宿題にスケッチをしてくることというのがありました。家の庭先に桔梗がたくさん咲いていたので、それをスケッチしました。琳派風というと大げさですが、背景を水色に、桔梗の花を紫で、花芯を黄色に塗ろうと考えていました。
めずらしくこのスケッチが美術の先生に褒めてもらえてうれしかったのですが。そのあとがいけません。ここに黄色の長靴と赤いかさを描くともっとよくなるよと、画面にかさと長靴が加わってしましいました。水色の大空が急に小さくなった感じで、この絵をどう仕上げたていいのかさっぱり解らなくなってしまいました。
今でも、そのときの感じが残っていて、創作クラスの人の原稿に手を入れるのは嫌だなあと億劫になることがあります。ううん。教えるほうに回ると黄色の長靴と赤いかさを描いた先生の気持ちもわかるのですが。
36 20040725 トラジ、トラジ、トラジ 韓国の市場ではトラジをよく見かけます。トラジは桔梗のことです。食べるのはどうやら根っこの部分みたいです。桔梗は日本でもよく見かける夏の花ですが、どういうわけか食べるというは話はあまり聞きません。
慶州はここのところ雨降り続きだったと言います。新潟や福井に豪雨をもたらした梅雨前線の延長が朝鮮半島にもかかっていたのです。韓国では梅雨をチャンマ(長雨)と呼びます。私が慶州に行った時は幸い久しぶりのお天気となりました。(晴れ女は誰だ?)
晴れれば暑いのですが、川の土手にはオミナエシがたくさん黄色く群れていました。また、あちらこちらに桔梗の花が、白と紫で入り混じりながらさいていました。昔「トラジ、トラジ」と繰り返しのある歌を聴いたことがあるのですが、いったいどんな歌だったかそれ以上は覚えていません。でも、故郷の桔梗の花を懐かしむ内容だったと思います。
紫の花だけでなく、白い花も混じると、とたんに華やかな感じがする桔梗でした。この桔梗、東京近辺では平将門の愛妾の名前が「桔梗」で、将門はその桔梗に裏切られて敗戦に追い込まれたそうです。それで将門塚には桔梗が生えないという伝説を聞いたことがあります。
35 20040724 生活韓服 大急ぎで韓国を旅行してきました。
日本で着物のことを洋服に対して和服といいますが韓国でも、洋服に対して、チマ・チョゴリやパジ・チョゴリのことを韓服といいます。韓服は結婚式などのお祝いの時やお葬式に着ることが多いのですが、日常的に着られるようにデザインを工夫した生活韓服が数年前から流行しています。
夏の生活韓服は蝉の羽のように薄くすけるように織った麻などの生地がとても涼しそうに使われています。今度はたった2泊3日でソウルから慶州、またソウルに戻るという大急ぎの旅でしたが、生活韓服を着た若い旅行者をよく見かけました。男性用もあります。染めや織りに伝統的技法をつかったり、天然染料を使っているので優しく見えます。
この夏用の生活韓服が一着欲しかったのですが、残念ながら選んで買う閑がありませんでした。来年の夏はぜひソウルに夏用の生活韓服を買いにいかなくちゃ。
34 20040716 商品名 小説を書いていると意外な言葉が特定の企業の商品名であることに気づくことがあります。有名なところではテトラポットでこれは一般には「波消しブロック」と言うのだそうです。ファミコンも特定企業の商品名で「テレビゲーム」が一般的な名詞です。教科書に載せる文章になると、こうした特定の商品名を使わないという基準がもっと厳しくなります。
教科書ですから特定の商品名は使わないというのはもっともな気がするのですが、実際に原稿を書いてみると意外な単語が商品名であるのに驚いたり、困ったりします。例えば、バンドエイド。これは子どもの頃からなんとなくそう言ってきました。救急絆創膏なんて言い方はしませんでした。サビオという商品もあって、それを使っている時も、呼び方はバンドエイドでした。きっとサビオのほうが薬局においてある地方ではバンドエイドではなくてサビオの名称のほうが一般的な呼び方だったところもあるかもしれません。
調べてみれば、商品を作った企業はなくなってしまったけれども、商品名は一般的な名詞として残ったいるものなんていうものはきっとあるに違いないのです。もしそういう単語を知っていたら教えてください。
33 20040714 街の中と口の中 思わず「なんと横着な」と言っていましましたが、朝食を済ませた娘がテーブルの前で歯を磨いていました。なんでも二度目の歯磨きだそうです。
獅子文六がフランス人は朝のカフェ・オーレの味を損ないたくないために朝食を済ませてから歯磨きをし、イギリス人はきれいな口で朝ごはんを食べたいために朝食前に歯磨きをすると書いていました。
そのことを娘と話していると彼女は日本人は朝食の前と後の両方で歯磨きをすると言うのです。だとすると、日本人のごはんの味よりの清潔好きということになる笑うと、「口の中はきれいにするのに、街の中はごちゃごちゃだね」と皮肉を言うのでした。
街並みが美しくないということと、口の中をきれいにするというのが並ぶとなんとなくみょうな気がしました。
32 20040713 セミプロの哲学 パック・イン・ジャーナルは生放送の番組終了後に出演者どうしで雑談をしているとなかなかおもしろいことがあります。時には番組の中の激論が控え室まで持ち越しになることもあります。10日は放送中も穏やかでしたが、番組終了後の話題も、野球の一リーグ制移行で穏やかでした。幸い強烈な近鉄ファンもいなければ、頑固なアンチ巨人の出演者もいなかったので、関西の事情に詳しい評論家の八幡和郎さんから、関西経済のお話を伺うという展開になりました。
八幡さんは野球もサッカーと同じように二部リーグ制にしたほうがいいというお考えです。そういう話の中で、「セミプロの哲学」という話題が出ました。アマチュアでもなかければプロでもない。ちゃんとお金がとれることができるけれども、お金を目的にしないセミプロの哲学というものがあればいいというご意見にはまったく同感でした。
野球もサッカーのような二部リーグ制が良いのかどうかは別の議論としても、その話を聞くうちに文学も似たようなものだなあと思いました。同人誌というセミプ集団があって、プロの作家にも緊張感が生まれるという状態が崩れたのは、文芸誌が新人賞で作家を出すようになってからです。
私自身が同人誌を知らない新人賞から出てきた作家なのであまりなことは言えませんが、セミプロという存在とセミプロの哲学を失った結果の損失は、一般に考えられている以上に大きいのかもしれません。もっとも、私が小説を書くようになった1970年代後半頃には同人誌も勢いを失っていて、弊害のほうが大きいというようなこともよく耳にしました。話として聞くだけでなく、「これは困ったことだ」という光景も目にしたこともあります。それでもその頃は、セミプロの哲学と聞いて思い出す作家が幾人もいました。プロが脱帽する人々でした。
31 20040711 パック・イン・ジャーナル 10日、パック・イン・ジャーナルに出演しました。今夜は選挙特番だそうです。私は選挙特番はおうちでゆっくり眺めさせてもらいます。
今回の選挙は投票率が低いのではないかと言われています。実際、投票率は低いかもしれません。でも、それがそのまま、政治に対する関心が薄いということになるかと言うとそうでもないとうな感じがします。関心はあるけれどもどうしていいのか解らないというのが、ほんとうのところではないでしょうか?今回は投票率が低いと自民が強いという図式が壊れる選挙になるかもしれません。
パック・イン・ジャーナルでは野球が1リーグになるかもしれないという話題も出ました。なんだかこの話も年金問題の手順前後に似ているなあと思っています。もっとも私は原元巨人軍監督が高校生だった時からのファンなので、巨人軍監督をやめさせた時から、巨人軍オーナーには良い感情を持っていません。
どんな人でもこの世をおさらばする時が必ず来るのですから、後に残る人に対する敬意と遠慮は示してもらいたいと思います。それでこそ老人は尊敬されるのだと思います。
30 20040708 オウムとテロ 昨日、一昨日とオウム信者や元オウム信者が逮捕されています。9年前の地下鉄サリン事件の日、地下鉄は定時定刻で運行されていました。5000人からの死傷者がいるにも関わらずです。
アメリカの同時多発テロがあった時、私は北京にいたのですが、日本に帰ってくると市谷の防衛庁の前には自動小銃を持った自衛隊員が歩哨に立っていました。自分の国でテロがあったときには、地下鉄を定時定刻で運転したサリンの真ん中をいつもどうり走らせて、みんないつもと同じように仕事をしていたくせに海の向こうでビルが二本壊れたら、自動小銃を持ち出すというのは、やっぱり日本はヘンな国だと思いました。
村上春樹の「アンダーグラウンド」を読むと地下鉄サリン事件の日に、電車に乗り合わせていた被害者はもっとひどい被害を受けた人が横たわっているのを横目に見ながら、いつものように出勤して、いつもと同じに仕事をしている人がずいぶんいるんですね。
29 20040704 日本の野党って いつも思うことなのだけれども、日本の野党ってなぜ反対すると、そこで拘っちゃうのはなぜなのだろうかしら?イラクに自衛隊を派遣するのに反対。で、実際にイラクに自衛隊が派遣されてもまだ「反対」と言っていているだけ。
もしほんとうに「反対」であったら、イラクに自衛隊が派遣されたことを踏まえて、再検討の期限を政府に求めるというようなことはしない。結論が出たら、その次の対策を出すのがほんとうではないかと思うのですが、どうしてそれをしないのでしょうか?
例えばイラクに自衛隊を派遣したら、復興支援が出来ている状態かどうか、治安維持という程度のレベルで暴力が収まっているのか、それとももっと大規模な戦闘に発展する可能性があるのかを検討する期限を政府に求めるというような知恵がなぜ出てこないのかなと不思議でしょうがないのです。見直し期限は3ヶ月ごとでもいいでし、4ヶ月ごとでもいいのです。期限を巡って野党と政府が折衝をするうちに、政府の見通しや考え方ももっと鮮明になると思います。
こんなことを不思議がっているのは私だけでしょうか?
28 20040702 真夜中のドライブ 子どもの頃、本というものがなかったら、とても辛い思いをしたかもしれません。本を読んでいて、なんとなく危ないところを通り過ぎたことが、何度もありました。少年事件のニュースを聞くと最初に思い出すのは、そういう記憶です。なんだか被害者もになれば、加害者にもなり、時には自分で自分を「病い」に追い込むようなこともあったかもしれないと冷や汗が出ます。最近では自分の息子や娘のぶんもあって冷や汗も2倍になっています。
「テーマで読み解く日本の文学ー現代女性作家の試み」発刊記念シンポジウムは、皆様のおかげでたいへん賑やかで和やかな会になりました。どうもありがとうございます。子どもの頃、読書を慰めにしていたことが豊かな実りを迎えたという実感があったシンポジウムでした。
シンポジウムの翌日は浦安のブライトンホテルで、大庭みな子さんを囲んで小さなパーティを開きました。こちらもゆったりとしたいいい会でした。私は車で浦安まで行ったのですが、帰りに津島佑子さんを池袋までお送りすることになりました。
なんと津島さんは車の助手席がお好き。いや、ほんとうは運転免許をとりたいのかもしれませんが「年齢的には努力が必要だから」ということで、助手席で我慢といったところでしょうか。日ごろをお嬢さんの車に乗っているのだそうです。そうと解れば、私は助手席に人を乗せるのは大好きなので、首都高を銀座線から羽田線へ、さらに足を伸ばして横浜のブイブリッジへ出て、中華街でおそばを食べました。それからまた東京に引き返し、レインボーブリッジを渡ってきました。それよりも突っ走るとまた浦安に戻ってしまうので、真夜中のドライブはこの辺で終わりにしました。
27 20040629 イラク主権移譲 30日に予定されていたCPA(連合国暫定当局)からイラク暫定政府への主権移譲が28日、突然、行われました。CPAのブレマー文民行政官は主権移譲後、ただちにイラクを離れたそうです。
このような抜き打ちで成立した政府はたとえ暫定政権と言えども国民から信用されないでしょう。また、この抜き打ちの主権移譲を日本政府も現地の自衛隊も知らされていなかった様子です。
こうしたことは、現地に派遣されている自衛隊の立場を不明確なものにするばかりか、危険にさらすことになると思います。日本政府はアメリカ政府のこうしたやり方に強く抗議すべきです。自衛隊員550名以上の日本人の命がかかっていることがらです。
また日本政府には自衛隊の撤退についてももっと真剣に考えて欲しいものです。このような抜き打ちの主権移譲が行われるのであれば、自衛隊派遣の意義や指揮権のあり方なども、しだいに変化してしまう可能性がきわめて高いからです。
アメリカ政府が言うように、やがて治安が回復されて正式なイラク政府が樹立されるとしても、それまでの紆余曲折はたたごとならぬ道のりがあることは目に見えています。自衛隊派遣の意義が変わらないうちに撤退をすることを望みます。
26 20040627 待ち遠しいのは夏休み 「待ち遠しいのは夏休み」という歌がありました。星野智幸さんのホームページの日記を見ていたら、その歌のメロディーが浮かんでくるような記述がありました。
「ほんとうに夏休みが待ち遠しいのは教師の方だと理解した」と星野智幸さんが書いていましたが、小説を書きながら大学でも教えていると、黒板の前でこの歌がリピートで聞こえてくることがあります。
ちなみに冬休みの場合は「もういくつ寝るとお正月」で春休み前は「もうすぐ春ですね」とキャンデーズが歌っています。
かなりなハードスケジュールを押して29日の青山スパイラルホールの「テーマで読み解く日本の文学」発刊記念シンポジウムに星野さんも聴衆のお一人とひてお越しいただけるそうです。会場で星野さんからもお話が伺えればなあと思っています。
26日にパネリストの皆さんと司会の富岡幸一郎さんで、打ち合わせをしてきました。
25 20040624 天下の周りもの 天下の周りものと言っても「お金」の話じゃありません。ビニール傘、100円ライター、ボールペンの三つです。なんとなくどこかに置き忘れてきたり、誰かに貸したままになっていたり、別の人のものを取り違えて持って帰ってきたりして使われている品物を三つ上げるとすれば、これになるでしょう。
もともとが使い捨てだけに、自分のものという意識が薄い.また、他人のものという意識も薄くなりがちなものです。ついでに自分のものでも「見覚えがない」ということもよくあります。よく見てから買っていないのです。
喫茶店に置き忘れた100円ライターを、お店の人が通りまで追いかけて来て、渡してもらうとほんと恐縮してしまうことがあります。でも、たばこが吸いたい時に、たばこだけあってライターもマッチもない時くらい中途半端な気持ちになることも、他にないのです。
24 20040623 傘、かさ、カサ、また傘 御茶ノ水駅から駿河台下交差点に至る駿河台通りはいつの間にか明大通りという名前になったようです。その明大通りの坂に、傘がいっぱい捨てられていたことがあります。今回のような昼間の台風の時のことです。私はその時、明治大学小川町校舎で卒業生名簿の校正のアルバイトをしていました。台風が関東に上陸したので、アルバイトも帰宅していいということになったのですが・・・。
いったいこんな雨風の中でどうやって家に帰れというのだろうと困ってしまうほどの吹き降りでした。帰宅の許可が出た時はすでに電車も地下鉄も止まっていました。「なんで地下鉄が止まるんだ?」誰かが言ったのを覚えています。丸の内線は四谷近辺で地上に出るし、御茶ノ水駅を出たところでも、ちょっとだけ川の上を走ります。そんなわけで地下鉄と言えども台風の影響は免れがたかったのです。
突然閑が出来た我々はさっさと仕事の道具を片付けて、外の吹き降りを見ながらお茶を飲んでいました。台風はいつもでも居座ったりはしないのですから。
青い空が見え出した頃、戸外に出てみると駿河台通りの坂は傘、傘、傘、あっちにもこっちにも傘が放り出されていました。どの傘も骨が折れたり柄が曲がったり、いずれも風の勢いのすさまじさを語っているものばかりでした。捨てたというよりも強風に持っていかれたので、持ち主があきらめたというような散らばり方でした。なかには並木の枝に引っかかっている傘もありました。
日本は世界で一番たくさんの傘を消費している国なのだそうです。
23 20040622 台風一過 台風一過といいますが、台風が通り過ぎたあとは目が痛くなるような青空が広がります。昨日の台風は東京ではさしてひどい被害もありませんでした。
四国では6月に台風が二つ上陸するのは珍しいことなのだそうです。
台風というとなんとなくわくわくしてしまいます。子どもの頃は雨戸が風で飛ばされないように板で打ちつけたりと、台風が来る前に準備をしました。あれが愉快だった。今はそんな準備をするような家はなくなりました。でもやっぱり台風というとなんとなくわくわくします。ひどい被害が出るとそんなことも言っていられないのですが。
22 20040619 発刊記念シンポジウムのことで、スタッフルームに津島佑子さんが スタッフルームに津島佑子さんがお見えになりました。津島さんの書き込みをコピペしちゃいます。もちろん、ご本人のご了解済み。
こんにちは。
中沢さんにお誘いいただき、ちらっと訪問させていただきます。
このところ、中沢さんとご一緒に、『テーマで読み解く日本の文学』発刊記念シンポジウムにできるだけ多くの方に来ていただけるよう、走り回っています(頭の中で、ですけれど)。この本そのものもとてもおもしろいですし、シンポも発刊をお祝いする、思いっきり楽しい祝祭イベントにしたいと思っています。なにが起こるかわからないドキドキもございます。梅雨の一夜、どうぞ、ひとりでも多く、お出かけくださいませ。
それではお邪魔いたしました。 津島佑子
おかげさまで多くの方からお申し込みを頂戴しました。まだ余裕があります。楽しい会になりそうです。
21 20040618 枇杷の葉 花屋さんで枇杷の葉をもらいました。黒々と言いたくなるような濃い緑です。枇杷はたくさん実がなります。その実が屋根の上にぽとんぽとんと落ちる音を聞いていると「ああ、鳥になりたい」と思うと言う話を聞かせてくれた友達がいました。高校を卒業してからは会っていません。今はどうしているのでしょうか?
高校の卒業生名簿の住所欄も空白のままです。
房州は枇杷の産地で、出荷用の枇杷を作る枇杷山もたくさんありましたが、庭に枇杷の木がある家も珍しくありませんでした。30年前のお隣さんにメールをいただいたので、そんなことも思い出しました。
20 20040616 30年前の隣人 子どもの頃、住んでいた家をこのお正月に取り壊しました。周囲で放火事件があいついだので、空き家を放置しておくわけにもいかなかったのです。子どもの頃に住んでいた家がなくなるのはちょっと寂しく、感傷に弱い私はまだ取り壊したあとの跡地を見に行っていません。
二日ほど前、思いがけず、その家の隣の家に住んでいたお嬢さんからメールをもらいました。同じ敷地の中に2軒の家が立っていたのです。お嬢さんと言ってもその頃は3歳くらいで、私も中学生でしたから、よく遊んでいました。ネットはこんな遠い昔の人とも引き合わせてくれるのですね。
19 20040614 発刊記念シンポジウム 飛び入り参加もありかな 当日はおもしろいことになりそうです。 なんと、こんなに長い題名が書けるなんて知りませんでした。やってみるものですね。で、その長い題名の内容ですが、昨日お知らせしたシンポジウムは風変わりなものになりそうです。当日は飛び入りの出し物がありそうです。さてさてお楽しみに。
どうぞ、6月29日にお閑な方は表参道のスパイラルホールまで起こしください。
18 20040613 「テーマで読み解く日本の文学」発刊記念シンポジウム トップページでお知らせしたようように「テーマで読み解く日本の文学」発刊記念シンポジウムを開催します。昨日、文芸評論家で司会をしていただく富岡幸一郎さんと電話でお話しました。読んでいてとってもおもしろいと言ってくださったので、5年もかけたかいがありました。
きっと編集委員だった三枝和子さんも喜んでくださるでしょう。多くの方がこのシンポジウムに参加していただけるとありがたいです。どうぞ、ご遠慮なくメールを私方にください。
17 20040612 ビーチサンダル 駅前にあった小さな雑貨屋さんが、丘の上のドライアイス工場の跡に引越しました。工場の建物はそのまま内装を改装してのお引越しです。「月の工房」といいます。
小さな雑貨屋さんは、二階建てでカフェ付きの雑貨屋さんになりました。私は今の家に住んで二十年ほどになりますが、不満は近くに落ち着ける喫茶店がないことでした。公園に散歩に行く途中に雑貨屋さん兼喫茶店が出来たので大喜び。
お引越しをしてから初めて「月の工房」を覗きました。土曜日のためか、大賑わいでした。なんだかちょっとうれしい。
買ったのはビーチサンダル?いや今年流行の草履型のサンダルです。底には古い友禅の生地が張ってあります。これが子どもの頃、お正月に着ていた着物の柄そっくりなので懐かしい。鼻緒はビーズ細工。おままごとをしていた頃をやたら思い出させるサンダルです。こういう流行のサンダルは若い人向きで、細身に作られているので、足が入れないのが多いのだけど、ちゃんと入りました。これが本日最大の喜びです。
こんなサンダルを履いて夏のあいだ、イソップ物語のキリギリスみたいにちんたらちんたら遊んでいたいなあ。あ、スタッフルームのほうから、「音痴はきりぎりすになれないよ」というながしろワトソンばんり君の声が聞こえてきました。ふん、音痴だっていいじゃん。それにこの頃、ちょっとだけカラオケうまくなったのに。
16 20040608 梅雨ですねえ ほんと梅雨らしい鬱陶しいお天気です。これから洗濯物を干します。でもなんで5月、6月、7月は世間を驚かす少年犯罪が多いのだろう?なんだかこの季節の前後に集中しているような気がします。
私は春なら桜のあと、秋なら紅葉のあとのちょっと寂しいような季節が昔から好きでした。とくに6月の夜は闇の中にいろんなものの命が充実して沈黙しているようで好きです。でも怖いところも六月の闇にはあるのかもしれません。
15 20040606 満月 金曜日(4日)の夜は満月でした。私の部屋は東向きにありますから、月の出るところを窓から眺めることができます。今日から関東地方も梅雨入りだそうです。あのさわやかな月は、梅雨入り前のささやかな贈り物といったところでしょうか。そう言えばなんだかみずみずしいような月でした。これからしばらく雨模様でお月様の顔も見られませんね。
14 20040605 BRC記者会見 昨日はBRCの記者会見がありました。今朝の新聞では公人(政治家)の名誉侵害に対して「勧告」が出されたことが強調されています。
しかし、委員会で問題になったのはビデオテープの編集が故意になされたのか、それとも過失であったのかという点です。またビデオテープの編集の経緯はどのようなものであったかという点も問題になりました。ビデオテープの編集によって、取材対象が言ってもいないことが作られてしまうという被害は、誰でも受ける可能性があるものです。まして、故意ではなく偶然によって(過失)そうしたことが起きるとしたら、これはかなり深刻な問題を含んでいます。
今回の「国会不規則発言編集問題」の場合、被害を受けた人物が国会議員であったので、詳細な議事録があり、編集によって発言内容が変えられてしまったことを、比較的容易に証明できました。もし議事録がなければ、こうした現象が起きることを証明するのも難しい場合もあるかもしれません。そうした事を考えあわせると、編集による被害を防ぐための材料を与えられたケースと言えるでしょう。
国会議員のような権力を持っている人は自分でテレビ局側と交渉するば良いと考える人もいます。もちろん、そうしたやり方をする場合もあり、昨年のケースですとフジテレビとダイエーの王監督の間に起きた紛争などは当事者間で話し合いが行われました。
当事者間の話し合いの場合は、その決着が明らかにされない場合も多く、同じような被害を受ける可能性のある時にも、その予防手段や対応策が共通の認識になってゆかないということも考えられます。今回のケースの場合は、編集によって起きる事故をどう防ぐか、そのためには何をしなければならないかをテレビ局に考えてもらう手がかりにして欲しいと思います。こうした事例を重ねることで、番組作りの知恵を磨く共通の財産を築き上げて欲しいと望みます。
申し立てた人が公人か私人かは二次的問題であって編集によって発言の真意を曲げられたり。発言していないことまで作り上げられてしまうということが問題なのです。そうした被害を受けているのは政治家だけではありません。
13 20040604 ネットの掲示板 4月のイラク人質事件はネットの掲示板の投稿が現実の政策に影響を及ぼした事件でした。また長崎で起きた小学生による同級生の殺害事件でもネットが絡んでいるようです。
パソコンを使用し、ホームページを作ったりネットの掲示板を利用したりする人の絶対数が増えてきました。それが現実に対して影響を及ぼすほどの数になってきたことをこられの事件は物語っているのでしょう。
ネットの掲示板を見ていると「言葉が言葉を生む」という現象を知らな過ぎるなという投書をよく見かけます。よく「夜書いた手紙は朝になってから読み直して投函しろ」と言います。書き言葉というものは書きなれないうちは、喋るようには書けないのですが、ある程度、書きなれてくると、今度は喋るよりもずっと楽にいろいろなことが書けてしまいます。この「書けてしまう」というところが恐ろしいところです。
言葉が言葉を生み、ついつい「言いすぎ」ならぬ「書きすぎ」ということ起こります。「書きすき」がさらにすすむと今度は自分では思ってもみないようなことが「書けてしまう」ということもあります。だから「夜書いた手紙は朝になってから読み直して投函しろ」と言われたのですが、ネットの投書ではそういう知恵がまだ働いていないようです。それに手紙と違って不特定多数の人を相手にした文章の配慮というのは特定の人を対象とした文章よりも、より複雑になってくるということも、ネットの投書を見るとあまり理解されていないようです。
12 20040602 薔薇の香水 薔薇の季節です。今年は少し薔薇の咲く時期も早かったようで、もう花が終わってしまったところも多く見られます。
昨年、シンポジウムのためにインドから来ていた作家のギータ・ハリハランさんから薔薇の香水入り石鹸を貰いました。お帰りになる時、お見送りに行ったら「滞在中のお礼に」と頂いたものです。透明感のあるピンク色の石鹸でなにげなしに「サンキュー」と貰ってしまいました。どうもこれが結構な高級品だったみたい。昨晩、お風呂で使ったら、今日は家の中に薔薇の匂いが漂っています。
天然の薔薇の香料の香りです。人工のものは良い匂いしかしないのだけれども、天然の薔薇の匂いは少し枯葉の苦いような腐るような匂いが混じります。決して良い香りではないのですが、薔薇の香気に枯葉のような匂いが混じると、これがアクセントになって、良い香りが際立ちます。
11 20040601 ウィルスサッサー YOMIURI pcの後藤さんとお話をしていたら、ウィルスサッサーの話になりました。5月の連休の時に私のパソコンも感染したウィルスです。ネットにつないでいるだけで、感染してしまうというこのウィルスはドイツの17歳の少年が作ったというのは新聞で知っていました。
後藤さんから聞いたのは少年のウィルス作成の動機でした。なんでもお母さんがコンピュターのメンテナンス会社を経営していたので、ウィルスが蔓延すれば仕事が増えると思ってということでした。
新聞ではアメリカのFBIがドイツ警察に通報して少年が逮捕されたとありました。マイクロソフト社がウィルスの製作者を見つけた人に懸賞金を出すという制度を作って最初に製作者を発見したケースでもあるそうです。へえ、そうなんだと後藤さんのお話を聞きながら、でも、そういう犯罪ってどうのくらいの罪ななるのだろうと気になってしまいました。
10 20040531 青森産フォアグラ 熱海のパーティの目玉は青森産のフォアグラでした。特別シェフは匿名。ソムリエはもちろん大岡玲さん。フォアグラは前菜としてパテで、それにメインデッシュの肉料理にソティーしたました。フレッシュなフォアグラは甘みがそのまま香りとして感じられるので、口の中いっぱいが幸せになりました。こんなのを青森で作っていたんだ。貴腐ワインの藁の匂いも濃厚なフォアグラにぴったりで、麦秋のごちそうでした。
意外というのか、辻原登さんはお料理好きでした。餃子とジャージャー麺を作ってくださったのです。海老粉入り餃子というのは生の海老を使うよりも海老の特徴で出ていておいしかった。意外ではないけれども、見ていると不思議な感じがしたのは川上弘美さんでした。エッセイを読んでいると「きっと、お料理が上手な人だな」と感じるので、ぜんぜん意外ではありませんでした。でも、なんだか不思議な感じがしました。
というわけで相模湾を見下ろしながらたくさん食べたパーティでした。もともと台所を貸してくれる場所はないかと探し出した貸別荘です。本職の料理人やシェフたちも、こうした別荘を借りてお料理パーティを開いていることがあると、管理人さんが言っていました。
9 20040530 熱海貸別荘 熱海の貸別荘で一晩遊んできました。辻原登さん、川上弘美さん、鈴木隆之さん、芽野裕城子さん、大岡玲さんなどなど、別荘借りきりでおしゃべりやらワインやらいろいろと楽しんできました。
貸別荘はどうやらバブル期に会社の保養所として建てられたもののようです。ネットで検索してみつけたのですが、今はそうした貸別荘や貸リゾートマンションなどがたくさんあるようです。
相模灘を望む高台でお天気もよく、夜になると曽我浦の夜景がきれいでした。谷渡りをするうぐいすの声がずっと聞こえていました。でもちょっと高台過ぎて入り口からとてつもない急傾斜の階段を登らなければならないのが難点。こんな別荘でしばらく過ごしたらすごいダイエットになるでしょう。
8 20040529 三枝和子 お知らせページに掲げた「テーマで読み解く日本文学 現代女性作家の試み」は編集委員に加われと言われたときには、そんなことできるなかなと、半信半疑でした。当初の編集委員は大庭みな子さんを筆頭に
三枝和子さん、岩橋邦枝さん、津島佑子さん、道浦母都子さん、田邊園子さん、与那覇恵子さんでした。
この仕事ではやはり三枝和子さんの存在が大きかったと思います。大庭みな子さんが「はじめに」で書いていますが、もともとは三枝和子さんと大庭さんがお話していた企画です。
洗足池のほとりにある三枝さんのお宅に伺って編集委員会を開いたこともありました。原稿の入稿が最も早かったのも三枝さんでした。さっぱりとして朗らかな三枝さんでしたが、昨年の春、亡くなられました。
三枝さんが亡くなられたあと増田みず子さんに選考委員に加わっていただきました。数えてみますと足掛けで5年の仕事になりました。41人の筆者それぞれに思うところを書いてもらった本です。
昨日、見本の本が届いたのですが、三枝和子さんのにこやかなお顔と「あたし」という時のちょっとはにかんだような発音がまざまざと思い出されました。
7 20040528 鷺沢萌 鷺沢萌(字が出なくてごめんなさい)さんが亡くなられたのを聞いたのは、新潮社「旅」の取材で京都に行っていた時のことでした。「旅」6月号では鷺沢さんが沖縄取材をしているので、京都で私と一緒にいた「旅」の秋山さんは驚いていました。
オークスの時のことです。堀江敏幸さんと東京競馬場最上階のベランダで芝のコースを眺めている時に、「あ、ここで鷺沢さんにあったな」と不意に思い出しました。思い出すというよりも招待者の中に鷺沢さんの顔を見つけて、「あ、鷺沢さんだ」と思うような感じでした。私は鷺沢さんがオークスに来ていたのをすっかり忘れていたので、意外な感じがして、つまりそのベランダで競馬新聞を見ている鷺沢さんがいるような気がしたということですが、ほんとうに遊びに来ていたかもしれないなと思っています。
京都から戻ってすぐに明治大学のリバティ・アカデミーの開校式で堀江さんと対談した時にも、控え室でちょっとだけ鷺沢さんの話をしました。
6 20040527 高橋洋子 話はオークスに戻ってしまいますが、会場で高橋洋子さんにお会いしました。「雨が好き」という小説を書いたばかりの頃の高橋洋子さんとマンハッタンというカクテルを飲んだことがありました。たぶん高橋洋子さん、中野良子さん、二人の女優さんと鼎談をした帰りだったような気がします。これももう25年くらい昔の話ですが。高橋洋子さんが出演していた「旅の終わり」という映画をもう一度見てみたいなあ。
しかし、女優さんというのは、ほんとうに変わらないなあ。容姿が大事な商売とは言え、感心をとおりこして感嘆します。
高橋洋子さんとしたのがワープロの話。高橋さんは今もワープロを使っているのだそうです。ワープロはもう貴重品で壊れると買い換えることができないので大事に大事に使っているとのことでした。
ワープロのいいところはプリンターが内臓されていたしかも持ち運べるところです。ワープロが主流であったころには、シンポジウムの会場にもポータブルのワープロを持ち込んでその場で文章を作って配布したりしていました。あれは便利だったと二人でうなずいてしまいました。万年筆を使っている私は、万年筆がなくなる心配はないのですが、ワープロはほんとうになくなりそうです。
5 20040526 浅野温子 浅野温子さんとは以前、お酒を飲んだり、長電話をしたりしていた頃がありました。ふたりとも結婚前だけど。だからずいぶん前です。
浅野温子が古事記を読みながら神社を巡るという記事を見つけたのは昨年だったかな?最初は伊勢神宮でぜひ行ってみたかったのですが、スケジュールが合いませんでした。
5月24日(月曜日)は静岡の三島大社での朗読会でした。締め切り真っ最中なので、車で三島まで行ってトンボ帰りをしました。
神社の舞殿をつかって大国主命とスセリ姫の結婚の物語、大国主命があちらこちらに妃を持つためにスセリ姫の悩みの物語をいずれも迫力のある声で読んで聞かせてくれました。
浅野温子さんって昔とぜんぜん変わらない。でも声には深みが出て、もともとドスの利いたところがあったけれど、この頃、重いほうにも、軽いほうにも磨きがかかってきたみたい。
朗読は19時からで、夜の三島大社は清浄な感じのする夜気が満ちていてとても気持ちが良かった。賑やかなお祭りの時とは一味違う神社でした。
4 20040524 オークス スタッフルームでながしろばんりさんが「お寒うございます」なんて初冬の頃みたいなとぼけた挨拶をしていますが、ここのところ暑かったので、昨日はことさら寒く感じられました。
中央競馬会のご好意でオークスに招待してもらいました。牝馬のレースです。東京競馬場のスタンド最上階に上げてもらえるのはこの日ばかりなので、喜び勇んで行ってきました。堀江敏幸さんといっしょ。内緒で(締め切りが迫っているから)っておしゃっていましたが、新潮社の中瀬さんがいたので、ばれちゃいました。ベランダに出て競馬場を見渡していたのですが、やはり寒かった。まあ、予想が的中していれば、どうと言うことのない寒さですが、残念なことにはずればかり。
この季節ターフの芝が伸びているので電光掲示板の表示は「やや重」の馬場状態でも、実際にはかなり重く、馬の足に露を含んだ芝が絡みつくのだと、中央競馬会の人が教えてくれました。一番人気のダンスインザムードは姿の綺麗な馬なので、こういう馬場の悪い日はあまり気持ちよく走れなかったのかもしれません。ほっそりと伸びた首がすてきな馬でした。
3 20040523 国語教科書 昨日、書いた国語教科書は筑摩書房の「展望 現代文」です。エッセイ集「風のことば、海の記憶」のなかに収められている「帽子とパンツ」という随筆が収録になっています。「風のことば、海の記憶」は以下のアドレスでダウンロードすることができます。
http://www.papy.co.jp/act/list/auth/b/dl/70/1/type-s/
2 20040522 パソコン パソコンを使っていて時々思うことですが、この機械は一緒に使ってくれる人がいると覚えやすいです。
なにしろ、これまでの道具ではできないことが出来てしまうわけですから。
人がやっているのを見て、ナニナニそんなこともできるのかとびっくりすることもあります。まあ機械に強い人にはなんということもないのでしょうが。
ホームページのアドレスを貼り付けコピーできるなんてワザも私には驚きでした。発送のなかにそういう事がないので、人がやっているのをみて初めて覚えるという具合です。
以下のアドレスは来年度から高等学校で使われる筑摩書房の国語教科書が掲載されているホームページの
アドレスです。私が以前書いた随筆が採用になっています。
http://www.chikumashobo.co.jp/kyoukasho2004/k_ten_gendai.html
1 20040519 大ショック 今年の一月から書いてきた「忙日閑日」のタイトルを「豆の葉」に変えました。
その作業中のことですが、どうも過去ログを全部消してしまったらしいのです。わあぁぁ、ながしろばんりさん、大ショックだよ。ながしろさん、あとでスタッフルームにいらっしゃい。
スタッフルームは「豆の花」になりました。スタッフルームに遊びに来てください。入室には鍵(キーワード)が必要です。鍵の欲しい方はメールで御連絡ください。
60 20040921 プロ野球観戦の楽しみ 昔、日本ハムに落合がいた頃、誰もいない後楽園で日本ハムの試合を見ていました。観客が少なくてもホームランを打つ落合選手が好きでした。一度だけ試合後にインタビューをしたことがあります。
プロ野球ではありませんが、明治が東大に負けてしまいました。昨日は祝日ですが、明治大学は月曜日の振り替え授業。月曜日は祝日が多いので、振り替えで授業をしないと時間が足りなくなってしまいます。出講して、野球部の学生さんの立ち話をしたのですが、一場が抜けたのはかなり痛いようでした。ここはひとつ気を取り直してがんばって欲しいと思います。いや、外野席の観客としてはそんなことしかいえないのですが、久しぶりに神宮へ行こうかなという気になりました。春は優勝したのですから。
落合はいまや中日監督、ついでに優勝もかかっているし、日本ハムのほうは新庄選手がとんでもない大活躍。新庄はアメリカに行っていい意味でのショーマンシップを持ってきてくれました。
プロ野球はおじいさんやおばあさんと孫がそれぞれの楽しみ方で楽しむのことができるエンターティメントだなあと、スト明けの試合を見て、そういう感想を持ちました。60歳から野球を始めたいという人は少ないでしょうけれども、60歳になったら毎日でも野球を見たいという人も、孫と野球をみたいという人も
大勢いることでしょう。
プロ野球のストライキの議論を聞いていると野球を衰退産業と見ているとようですが、そもそもそれがおかしいのではないでしょうか。産業の中には役割を終えて縮小に向かう産業も実際あります。かつての石炭産業がそうでした。銀行は大型公共投資への融資からほかの産業への融資にビジネスモデルをかえることをここ10年要求されてきました。そうした衰退産業の整理の発想の延長でパ・リーグの経営が取りざたされているように見えます。それで、良質な観客という大事な財産まで失うようなばかげたことをしているのではないでしょうか?
日本の政府は海外からの観光客の誘致ということを言い始めています。観光は名所旧跡景勝を訪ねるだけでなくて、スポーツ観戦も含まれます。パ・リーグもほんもののパシフィック(環太平洋)リーグといえるような築き上げることができれば、いっそう、おじいさん、おばあさんと孫が一緒に楽しめるでしょう。
確かに野球は国民的スポーツではなくなってしまいました。しかし、だからといってもう観客動員はできないかと言えば、そうではありません。観客は国境の向こうにいるということに目を向けてもいいのではないでしょうか?物を輸出することも大事ですが、人に来てもらうという仕事もあります。ネットでホテルの予約もできれば試合のチケットも購入できるのですから、それは不可能ではありません。
59 20040920 プロ野球の経営責任(番外) ゆうべからずうっと考えていたんだけど以下のような罵倒しか浮かびませんでした。
プロ野球球団の経営責任を無視して、教団側がストライキをした選手会に損害賠償を求めるならば、それはたとえて言えば以下のようになります。
打率0でかつ、たびたびエラーをかさねた選手が試合中に負傷したことを理由に年俸の上積みを要求するようなものです。ばか。
法律のほうがもしそんなに経営者側に有利にできているならば、法律のほうを変えればよろしい。頭の悪いやつにもすっきりと解る法律を作ったらよえろしい。いや番外でした。
58 20040920 プロ野球球団の経営責任 こだわってしまいますが、プロ野球のストライキでなんだかヘンだなと思っていたのは、球団の経営責任について誰も何も言わないことです。そもそもパリーグが赤字で規模を縮小しようとしたことからこのストライキが始まっています。
で、もし球団経営が赤字であるとすれば、その責任は選手にあるのではなくて経営者にあるのです。選手は毎年の契約更新の時に試合の成績を問われています。それは選手の仕事が野球をすることだからです。経営者は球団の財政を黒字にするか、もしくはとんとんに採算がとれるようにするか、最低でも赤字の幅を小さくするのが仕事です。もし、それがうまく行かなければ、シーズン中の成績が悪かった選手と同じように責任を問われるべきです。
経営者はその仕事がうまくいかなかったからこそ縮小を考えたのです。確かに縮小もひとつの方法ではあります。が、その時、経営者は経営責任を問われるべきです。その経営者側が、まだストライキが決行される前から経営者側は損害賠償を求めると言っていました。損害賠償を求めると言うのでは経営者側はまったくの被害者になってしまい、そもそもの経営責任を放棄したにも等しいことになります。
リーグの縮小は経営事項であって、労働基準法で正当なストライキの権利を認められた雇用問題ではないからというのが、損害賠償を求める根拠になっています。それは、選手に対しての経営責任を負っている球団の経営の失敗はまったく無視した考えかたと言わなければなりません。こんな理屈が通るなら、プロ野球だけの問題ではなくなってしまいます。うまく言えませんが、資本主義の社会の根幹を揺るがすようなルール無視をそこに感じます。もし、縮小よりも他に方法がないとしても、それを納得させるだけの説明と情報の開示が必要になります。そうした経営者側の責任を果たさずに、交渉の最中に損害賠償という言葉が出てくるのは誠実な対応とは言えません。
損害賠償という言葉が出てくるのは、球団経営者は金を出す側、選手は金を出してもらう側という発想に縛られているという感じがするのです。しかしほんとうにプロ野球にお金を出しているのは、観客です。もしそれがスポンサーによる提供であったとしても、観客はスポンサーの商品を買うとか、電車に乗るという形でお金を出しているのです。そこで、経営者は球団の黒字経営をする努力をするのがお金を出してくれた人に対する仕事であり、選手はおもしろい試合を見せるのが仕事なのです。
ストライキをした選手はファンサービスをし、ファンにストライキへの理解を求めました。しかし、球団経営者側はテレビや新聞が伝える限り、ストライキという結果を招いてしまったことを詫びる態度は示していません。あの読売新聞でさえ、球団経営者側がそうした態度を示したことを報道していないのですから、たぶん、そんな態度は示していないのでしょう。ストライキは本来、経営者の責任を問うものなのです。そのような視点が欠落した報道が多いので、なんだかもやもやしていたのです。
昨日のサンデープロジェクトで野村克也氏が「今まで何もしてこなかった漬けが回った」と言っていましたが、それは経営責任のことを具体的には指し示しているのだと思います。
法律上の解釈以前に経営の失敗を無視して選手会側に損害賠償を求めるようなことを球団がするとすればこんなモラルハザードな話はほかにないと思います。
57 20040919 プロ野球ストライキ 特別な野球ファンでもないくせに、プロ野球のストライキには自分でもおかしいと思うくらい興味を持っています。そして古田がんばれという心境になっています。
昨日、パック・イン・ジャーナルでストライキについて話ましたが、それで、この問題に興味を持った理由が少しわかるような気がしました。
プロ野球は新聞やテレビという20世紀のマスコミとともに歩んできたプロスポーツです。ネット時代に入って新聞やテレビは、これからの行き方に悩んでいます。それとプロ野球のリーグ再編問題がダブって見えているのです。
話の方向が少し変わりますが、ネット時代に入って、よく良質のコンテンツが求められているという話を聞きます。スポーツは音楽と並んで言葉の壁が低い分野です。ですからオリンピックなども成り立つわけです。スポーツというコンテンツはグローバルな性質を持つネットには向いている分野です。
野球に限って考えれば日本のプロ野球はすでに70年の歴史を持ったいるわけで、これをネット時代の良質なコンテンツにする工夫をすれば、日本の重要な産業のひとつに育てることもできるでしょう。現在の経営者側の言い分はパ・リーグの赤字をどう解消するかという発想ですが、そこにネット時代のコンテンツを育てるという発想はみじんもありません。現在の観客をよろこばせようとするサービス精神さえ感じられないのですから当然ですが。
スポーツ選手はお金をかければ数年で優秀な選手を育てることはできます。かつての共産圏がオリンピックで金メダルをたくさん獲ったことでもそれは証明されています。しかし、しんにスポーツを愛する良い観客はそう簡単には育てられないのです。良質な観客は質の高い試合を生み出し、名場面を作る証言者になって行きます。ですから、良質な観客がいるということが、ネットの良質なコンテンツを生み出す条件になってくるのです。単純に勝ったからうれしい、負けたから悔しいでは、それほどの詳細情報を必要とはしません。試合の多様な楽しみ方を知っている観客こそが詳細情報を欲しいと思うのです。
試合の見方を知っていてマナーを守り、愉快な観戦をする観客を育てるのはむずかしいなあと思ったのは先日の中国でのサッカーのアジアカップの時もそうでした。観客は意図的に育てるわけには行かないのです。自然に育ってくるのをしんぼう強く待つしかないのです。
そういう優れた観客を持っているのは、日本が70年かかって築き上げてきた財産でしょう。日本のように経済成長をしてしまった国が、次に育成すべき産業はソフト産業だと言われています。プロスポーツはまさにソフト産業であって、そこを大事にして欲しいのです。何事にも一日の長(ちょう)というものがありますが、近代工業社会の高度成長をすでに経験してしまった日本の一日の長の一端は、プロスポーツの優れた観客がいるというてんにあると思います。
選手会の思いはプロ野球を衰退させたくないというところにあります。それを情緒的感情的だという批判もあるのは承知しています。しかし、芸術やソフト産業それに興行の世界は情緒や感情にうったえて、利益を上げているわけです。ですから、私の目には選手会のほうが経営感覚があるように見えるのです。もちろん、選手には経営の技術はないかもしれません。経営の技術で選手を支えるのが興行の世界の経営者なのではないでしょうか。
56 20040916 唸ってしまいました。 今朝の新聞はどこも佐世保の小学生の同級生殺害事件の保護処分決定について報じています。私は東京新聞のコメントを出したこともあってこの事件に興味を持っていました。
加害児童の特徴について家裁は三つの特徴を指摘したと朝日新聞1面は報じています。
1、対人的なことに注意が向きづらい
2、物事を断片的に捉える
3、抽象的なものを言語化することが不器用
うなってしまったのは、大学生に文学作品を読ませた時の特徴が全部出ている点です。ですから被害者の父親の御手洗さんが、一線を越える子とそうでない子の境はどこにあるのかと戸惑うのも当然だと言えます。これに加えて愉快な感情は表現できても、怒りや寂しさ悲しさなどの不愉快感情が表現できないということも付け加えられているのですが、これも、大学生に文学作品を読ませたときの特徴のひとつです。
事柄の重い軽いを別にすれば、現代の大学生に文学作品を読ませた時の特徴が出ている指摘が家裁から出されたということは、それだけ今までの精神障害を発見しようとするだけの鑑定よりも、より実際に近い結果を裁判所も出してきたと言えるでしょう。
文学作品はなにか人生の問題を解決するためのものではなくて、喜怒哀楽すべてを鑑賞に耐えるものとして表現しようという意図を持って製作されています。
作者がその意図をどれだけ明快に持っているかどうかはまた別問題ですが。ともかく鑑賞に堪えるものとして表現しようとする努力だけはどんな作品にも施されています。
鑑賞するだけで、あとはどうなるのだ言うような人には文学作品を鑑賞する資質がないということになります。逆に鑑賞に堪えないというのは作品に対する最大の侮辱になるわけです。学文学作品を鑑賞する資質に欠けているのに、「鑑賞に堪えない」という批評用語だけを覚えて振り回されると、これはもう手に負えないのです。
こちらは、殺人事件ではなくてせいぜい学校の評価をどうつけるかというようなことですから、まあ、「ああ困った」と唸っているより仕方がないし、教師が唸っているうちにどんどん鑑賞の能力を磨いてしまうので大学生です。でも時々、頭がおかしくなりそうという気分になることも事実です。
55 20040915 プロ野球中継 プロ野球のリーグ再編問題がいろいろと言われていますが、ある時期から夕暮れの飲み屋や食堂で野球中継の音を聞かなくなりました。いったいいつ頃からでしょう?
今のダイエーの王監督が巨人軍を引退する時にニュースは西荻の「ダンテ」という喫茶店で、誰かが読んでいたタブロイド誌で知りました。「ダンテ」の向かいに「初音」というラーメン屋さんがあって、そこではラジオの野球中継が流れていました。「ダンテ」を出て「初音」に行くとお客さんたちが王選手の話をしていたのをよく覚えています。
よく覚えていると言えば、長島選手が巨人軍を引退する時のことも記憶に鮮明です。まだ中学生でしたが、中間テストが終わって、写生会に出かけていました。館山港で船舶を写生しながら、ずっとラジオで野球の試合を聞いていました。「巨人軍は不滅です」という挨拶を長島がしたのはこのときでした。お天気の良い秋の日でした。
水道橋の会社に勤めて、明治大学の2部に通っていた頃には、後楽園スタジアムはドームではなかったので、球場のライトが点等すると、「あ、これは一限に間に合わないなあ」と思ったものでした。野球ファンではないのですが、そんなふうにあっちこっちに野球をその中継が記憶の背景として残っています。まるで昔の写真の背景に写りこんでいる景色のように。
54 20040913 写真は嫌いだあ 自分の写真をみると嫌だなあと思うことがしばしば。身体の小さい人と写るのが嫌い。だって、こっちがううんと大きく見えちゃうんだもの。
子どもの時は同じ歳の子どもと比べてううんと小さかったので、自分では今での小さいと思い込んでいるところがあります。でも写真をみると「デカイ」というギャップに耐えられ無い。だから写真はキ・ラ・イです。でも撮って欲しいし、だからと言って小さくなるのは嫌だし。
最近ますますドラえもん化しているし(顔とお腹が大きくなる現象)ああ、写真は嫌いだ。
53 20040912 北朝鮮と中国 お昼のHNKニュースで北朝鮮北部で大きな爆発があったとことが報じられました。韓国のメディアが北京からの情報として伝えたようです。爆発があったのは9日のことで、この日は北朝鮮の建国記念日でした。
最初は核実験が疑われていましたが、これはアメリカ、韓国、ロシアなどの政府によって否定されています。核実験であれば放射能などの影響が出ますから、たぶん、核実験ではないでしょう。次に取りざたされたのは反政府活動があったのではないかという推測です。こちらのほうはまだ否定も肯定もされていません。龍川の列車爆発事故の3倍の規模ということで、軍用車両の爆発事故や軍需工場もしくは武器庫の事故ではないかとも言われています。
朝鮮日報の日本語サイトが掲げていた両江道キンヒョンジク郡付近の写真では現場は山岳地帯です。中国国境からは20キロないし30キロほどのところです。このあたりには軍関係の施設や基地が多く、韓国側からは攻撃しにくい地域とされたいたそうです。
とろこで12日には平壌で金正日総書記が中国の李長春政治局常務委員と会談しています。龍川の列車事故の時もニュースは北京から流れてきました。事故現場は中朝国境から30キロほどでした。龍川の列車事故は金正日総書記が北京を訪問した帰りでした。あの時は私は直感的に中国の関与を感じたのですが、今度も符号しているような気がします。もっとも爆発になんらかのかたちで中国が関与していたとしてもそれが明るみに出ることはないでしょう。
52 20040911 建物の運命 昨日、書いた不思議な運命の建物の話の続きです。今は葬儀用のセレモニーホールになっているある建物は、7、8年も借り手がなかった挙句に、銀行の差し押さえられたということでした。その建物はT字路の突き当たりにあります。
T字路はかなり大きな道で、信号が無ければ交通にも不便が出る場所です。駅からは近いのですが、T字路の突き当たりでは信号の関係で、建物の前に車を止めたりはできません。ここはもともと和風の個人住宅が建てられていたそうです。そのもそれほど古い建物ではなかったようで、個人住宅が取り壊された時には、その家を建てた大工さんが涙を流して見詰めていたという話でした。
木造の個人住宅をわざわざ取り壊して、一階を貸し店舗、二階を貸し事務所に、3階に住居を作るという鉄筋コンクリートのビルを建てたところ、7、8年も借り手は一人も現れず、とうとう銀行に不良債権の担保物権として処理されることになったようです。その間の銀行は利子をとっていたのでしょう。それにしてもなぜそんな立地の悪いところに銀行はお金を貸したのかと不思議になる話です。
日本じゅうのあっちこっちでそんな運命の建物を多くの人が目にしているのだろうと思います。建物には人の運命も付随しているわけですから、ため息のでる話でした。葬儀用のセレモニーホールはそんな立地の悪いところでもやって行けるというのも、なんだか複雑な心境を呼びます。こういうのをバブルの遺跡というのでしょうか?
51 20040910 夜はこれから 漸く、暑さが通り過ぎようとしています。秋は夜が楽しい季節です。
3年ぶりくらいに自分の部屋を大々的に片付けてます。片付けというよりも発掘作業です。2002年にインドを訪問した時に松浦理英子さんにとってもらった写真が出てきました。デリー郊外の中世の遺跡です。インドの作家に「インドでは若い人はどこでデートをするのか」と尋ねたら「遺跡で」という答えが帰ってきて笑ったことがありました。男女関係に厳しい社会なので、二人で静かに過ごすには遺跡くらいしか場所がないということでした。
その遺跡ですが、デリーの南側の郊外には中世以来の遺跡が幾つもジャングルに埋もれています。日本だと同じ土地の地下に遺跡が埋まっているのですが、インドでは、遺跡は南から北へ街が北進した様子がそのまま地表のジャングルの中に残っています。私はカメラを持たないので、松浦理英子さんに写真をとってもらいました。河原弘通さんにいただいた赤いハスの写真の隣にインドの遺跡の写真をピンで留めました。
話は変わって、葬儀用のホールというのが最近、街に増えました。これは、あっちこっちで金融機関が潰れたり、不良債権の補填のために売られたビルで葬儀用のホールになってところが多いことを知りました。その中には不思議な運命の建物もあることを話に聞きました。インドの遺跡と葬儀用のホールがどうるながるのか解りませんけど、なんだか、ひとつながりになりそうな気がしている宵の口です。
50 20040908 まだ風が吹いている 台風が通りすぎて、まだもまだ風が吹いています。それにかなり暑くなりました。
9月の暑さというのは、これでもか、これでもかとお日様に我慢比べをされているようなところがあります。
さて、この風が止んだらベランダの植木鉢に水をやることにします。台風の風のすごいところはそれが潮風だということです。海から巻き上げた塩分を台風は内陸の町まで運んで来てしまいます。植木鉢の植物もその潮で茶色く変色してしまいますから、水で洗い流すのです。
それにしても今度の台風の風は長時間です。せっかく芽吹いた薔薇の芽がこれでダメになってしまうかもしれません。
49 20040906 火山、地震に津波それから台風 昨夜の紀伊半島の二度目の地震では、気象庁がこれまでにない経験としてやや困惑していたことが新聞に出ています。
最初の地震ですが、私の家では7時のNHKニュースを見ていました。テレビ画面に地震があったことを告げる速報が出るほうが先で、それからゆっくりと建物が揺れだしました。電波で情報が伝わる早さのほうが、地面を伝わってくる振動よりも早いのはあたりまえかもいしれません。しかし地震情報のあとを追いかけるような、ゆっくりした揺れに、あらためて地面というものも生きて動いているのだなあと感じさせられました。地球のプレートというのはこんなものだよとからかわれているような最初の地震でした。
二度目の地震は最初の地震よりの小さな揺れがしばらく続きそれから大きな横揺れに変わりました。おおきな横揺れに変わるまでの時間が最初の地震より長かったようです。身体で感じる揺れの程度は最初と同じくらいでした。居間に行ってテレビを見るとNHKのアナウサーは最初の地震の時よりもあきらかに緊張していました。
浅間山が爆発したのは先週ですが、今週はこれから大型の台風の襲来も予想されているところに地震で気象庁はさぞかし大忙しだろうと思います。幸い、浅間山の噴火も地震もさしたる被害はでませんでしたが、日本列島の災害の見本市をやられているような感じです。まさか地球が防災訓練に協力しているなんてことはないでしょうが。
48 20040905 白いシャツ 季節のかわりめ。夏から秋へと、冬から春への時期には白いシャツを着るのがとても気持ちがいい時期があります。台風が近づいていて、ちょっと空気が湿っぽいのですが、今頃になると白いシャツが着たくなります。
先日、聞いたファンファーレ・チォカリーアのおじさんたちのシャツは真っ白というわけではなくて、何度も洗濯をしたくすんだ白でしたが、身体によく馴染んでいて、いいなあと思いました。
海辺の漁師町では夏場は、白いステテコにしろい前開きのシャツそれにパナマ帽というのでお出かけスタイルでしたが、あれとフェンファーレ・チォカリーアのおじさんたちのシャツはそっくりです。気分としてはね。でもステテコと前開きシャツにパナマ帽で私が町を歩こうとは思わないなあ。
今度の台風は18号と19号がアベックで来るみたいですね。先日、「アベック」と言ったら、「ああ、なんて古い表現なんだ」と呆れられてしまいましたが、なぜか台風は「アベック」じゃないと感じがでません。まちがっても「カップル」なんて言えないし、「ペア」もなんだか今ひとつヘン。ともあれ、夏の終わり、白いシャツの季節です。台風があんまりひどい被害をもたらしませんように。
47 20040903 香りの来訪者 夜はさすがに涼しくなりました。8階の家でも騒がしく鳴く虫の声が窓を開けているとよく聞こえてきます。クーラーよりも自然の風は身体に優しいので、くつろげます。昨晩も夕食の時は外の風を家に入れていました。
すると、甘い香りが風にのってやって来ました。パイプ煙草の香りです。きっと隣のご主人がベランダでパイプを楽しんでいるのでしょう。香りのおすそ分けです。チョコレートフレーバーでした。
ちょうど、こちらも食後ののんびりした時で、香りの来訪者は大歓迎でした。外の風をひとりで楽しみたくなるような夏の終わりの晩でした。
最近は受動喫煙なんて言葉もあって、喫煙者は形見が狭く、ベランダでしか煙草がすえない蛍族なんて言葉もあります。もし、隣家が強固な非喫煙者だったらベランダでの喫煙も苦情の対象になるでしょう。ほんとうお隣さんとの関係は難しい。遠くの何の関係もない人と喧嘩をするなんていう人はいないのですから、隣こそむずかしいのは当たり前でしょう。
ロシアとは北方領土問題、中国とは尖閣所要問題、韓国とは竹島問題、太平洋を挟んだアメリカとな日本国内の基地問題。こんなふうにならべてみると島国の日本もなかなか国境を接している国とは、解決の難しい事柄を抱えているものですなと、なぜか、パイプの煙に誘われて途方もないことを考えていました。
46 20040902 アメリカの国力 アメリカ大統領選挙が近づいてきました。そのニュースを見ていたふっと思ったのですが、アメリカの国力は弱まりを見せているのではないでしょうか。
そう感じたのは強いアメリカが極端に強調されているからです。この点では共和党も民主党もあまりかわりありません。人も国も弱くなっている時ほど強さを強調したがるものなのだと思います。
原油価格の高騰が伝えられていますが、それに加えてテロに備えての厳戒態勢、イラク戦争にかかる出費と数え上げて行けば、どこれもこれも生産性が乏しいのにお金のかかることばかりが続いているのではないでしょうか?
アメリカは強いという思い込みは日本にもありますし、アメリカの国力が弱まっているのではないかなどというと観念的な反米感情からそう言っているように聞こえるかもしれません。各種のニュース画面を見ていてそう感じただけです。
45 20040901 異常潮位 昨年、沖縄に行った時に沖縄タイムスの記者から聞いた話ですが、沖縄ではここのところ毎年、異常潮位に悩まされているそうです。海の潮が高くなって、海辺の村が浸水する異常潮位です。県知事選挙でも異常潮位対策が話題になったといいます。
南太平洋の島が水没の危機にあるという話を伝え聞いたのはもう10年も前です。異常潮位は北上する傾向にあり、沖縄の次は、昨年、広島の宮島が潮位の高まりのために浸水していました。今度の高松で、台風の接近と満潮時間が重なったために高潮が起きたのは異常潮位の北進とは無関係なのでしょうか?
そう言えば京都議定書はどうなってしまったのかなと思いました。アメリカが批准しないままになっていたのではないでしょうか?今の外務大臣が就任した時にアメリカの批准に向けて努力をしていたのをかすかに覚えていますが、その後はイラク戦争で、すっかり影が薄くなってしまいました。
日本は島国です。地球温暖化というのは、異常潮位などももたらすのですから、京都議定書はかなり切実な課題であるはずなのですが。
時間さえあれば沖縄や広島の宮島の異常潮位というものを見てみたいなあと思っています。海がじわじわと陸に上がってくる光景は、きっとあまり怖くはないのだろうと想像しています。潮の満ち引きですから時間さえ過ぎればまた引いて行きます。そのあまり怖くない光景がじわりじわりと広がった時に、人間の力では対抗できないとような大きな力になって行くのではないでしょうか。
44 20040831 ながしろばんりさんの朗読会 9月5日にながしろばんりさんが朗読会を開くようです。ご興味のある方はスタッフルームのほうをお尋ねください。メールをいただければキーワードをお知らせします。
ながしろばんりさんはこのホームページの管理人さんです。
43 20040829 世界最速のブラスバンド 世界最速のブラスバンドと言われるルーマニアの
「ファンファーレ・チォカリーア」
の演奏を隅田トリフォニーフォールで聞いてきました。すごくエネルギッシュな演奏で、トランペットなどはこれでもかこれでもかという高音の連発。ずっとリズムを打っていたホルンは、途中で歌も歌えば、悪踊りも踊るという体力。
パイプオルガンが備えつけてある音楽ホールで聞くよりも、遠くのほうからやって来る音楽をわくわくしながら聴きたいなあという吹奏楽でした。子どもが夢中になって楽隊のあとを付いて行き神隠しにあうようなそんな感じです。
ホールでの演奏が終了したあとで、ロビーに突然、現れた彼らが、即興演奏をしてくれました。この即興の音がとても素敵でした。肺活量も凄いけれども、ウェストサイズもすごいおじさんたちのノリノリの演奏です。音楽とは関係ないけれども、こういう人たちの
シャツの着方ってとても素敵です。なんの変哲もない白いYシャツなんですが。
42 20040826 気力減退 夏ばてで気力減退。でもなぜか歩くのはとても楽しくて、仕事を放り出して歩いています。近所の公園は元は米軍の高級将校の住宅地だった場所です。その頃の樹木をそのまま公園の木にしました。
米軍の将校住宅だった時は植木もアメリカ風に刈り込まれていました。沖縄でも米軍基地はアメリカ風に刈り込まれています。どんなのがアメリカ風かと言えば樹木の容姿に関係なく同じ形に切りそろえるのです。米軍から返還されたそろそろ30年になる家の近くの公園の樹木はこの30年で、すっかり日本の樹に戻りました。でも、横に枝を張り出したマテバシイの樹だけは、背の伸びる時期を過ぎていたのでしょう。今でも太い幹から枝が横に張り出して、マテバシイらしからぬ姿をしています。
気力は減退しているのだけれども体力は回復しているので、公園の樹木を見て歩いています。
41 20040808 「誰も知らない」見てきました カンヌで主演男優賞を受賞した「誰も知らない」を見てきました。初日です。午後四時からの回を見たのですが、舞台挨拶があったためか40分遅れの開演でした。午前中に7時の最終回までの切符が売り切れてしまったようです。観客は若い女性が多いように見受けました。予告や広告は全部カットでいきなり本編の上映でした。
1987年に戸籍のない四人の子どもたちが暮らしていたことが解った事件は、私も興味を持っていました。一番小さな子が死んでしまったことから、この子どもたちの存在が解ったのです。家の中を探せばその当時の新聞の切り抜きがあると思います。
映画では焦点は一番上の男の子に当てられています。上映後、「厳粛」と言ってもいいようなしいんとした空気が客席に流れてしました。言葉では説明しにくいので、見てもらうのが一番だと思います。
12、3歳くらいの男の子の成長っていうのはすごいなあとため息が出るくらいのものです。映像がすごくリアルなのですが。同時にピュアで透明で、美しいので、リアリズムのあり方とはなんだろうと考えてしました。
ところで実際の事件では、私は母親がどうやって子どもを生んだのかに興味を持っていました。出生届けを出さずに子どもを四人も生むのはなみたいていではありません。行政サービスを受けることができないのですから、出産後をどのように乗り切ったのかの気になります。都市の中に棲家を変えた山姥みたいな話だなと思ったものです。昔話に出てくる山姥は金太郎のお母さんです。そのあたりは映画では省略されていあますし、また映画の主題でもありません。
母親役のYUOはたいへん評判がいいということでした。なんとなく許せてしまう。あるいは置き去りにされた子どもたちが母親を思うような気持ちと同じ気持ちにさせてしまうところがYUOの演技にはあって、一番上のお兄ちゃんの柳楽優弥と良いコンビでした。
40 20040807 銭洗弁天 夏の鎌倉を散歩してきました。鶴岡八幡宮の源平池では、紅白のハスが今を盛りに咲いていました。いつのまにか白いハスが増えてしまったみたいです。
鶴岡八幡宮から佐助のトンネルを通って銭洗弁天へ。佐助はそのあたりの地名でもあるのですが、これはもとは人の名前なのでしょうか?いつも不思議に思っているのですが、あとで調べようと思うだけで、すぐに忘れてしまします。
銭洗弁天は佐助を山のほうに入った不便なところにあるので、初めて行きました。弁天様が祭られている岩穴の清水でお金を洗うと、お金がたくさんに増えると言われています。小さなお社で、もしお金を洗うなどという習慣がなかったらとっくに忘れられてしまった神社かもしれません。
お金はざるに入れて洗います。一万円札を洗う人もいるそうです。五百円玉を洗ってみました。お金がきれいになったような感じがしました。となりでお金を洗っていた男の人が「マネーロンダリングだな」とつぶやいていたのには、思わず笑ってしまいました。奉納された絵馬を見ていたら「宝くじが当たりますように」というお願いがあって、なんとなく「なるほど」とうなずいてしましました。境内には「洗われたお金は有意義なことにお使いください」という張り紙がありました。有意義って人によって感じ方が違うのだろうなあとしばしせみ時雨の声を聞きながら考え込んでしいました。
湿った山道に開いたトンネルの向こうにある銭洗弁天は、沖縄の「ウタキ」に似ていました。周囲を山に囲まれ、洞窟には清水が湧き出しているので、きっとここは大昔に人は住んでいた場所にちがいないと思いました。清水が湧き出している涼やかさが、夏の午後にはとても清涼に感じられて、隠れ家か何かに忍び込んだような気がしました。こういう場所を人が暮らしていた時はまだお金なんて必要ない時代だったのでしょう。いったい一番最初にざるにお金を入れた洗ったのは誰だったんでしょうか?
銭洗弁天からひさしぶりに大仏さんの顔を拝んでついてに長谷の観音様にもお目にかかってきました。子どものころ、親に連れてきてもらったことのある神様や仏様というのは、なんだかちょっと親戚のうちに顔を出したような感じがするものです。懐かしい人に会った時の感じに似ています。
39 20040802 厄日かな? 机の上にあったインク瓶に手を伸ばした時、あ、倒れそうだなと思った瞬間、インク瓶は横倒しになっていました。これが昨日の午前中の出来事。机の上はブルーブラックのインクの海。
晩御飯のあと、ひと眠りしていると息子が「水槽のポンプが逆流しちゃってさ」と言ってきました。最初は寝ぼけまなこで聞いていたのだけれども、そのうち彼の部屋は水浸しということに気づいてあわてました。なぜ水槽のポンプが逆流してのかを、息子は説明するのですが、どうも要領を得ません。たぶん言いにくいことが、ひとつか二つあるのです。
水槽にはエビユキーズという名前の海老が三匹すんでいるのですが(三匹でエビユキーズです)海老たちも畳の上をぴちぴちはねていました。
マンションの8階なのに床上浸水状態。なんだか憮然としてしまいました。彼の部屋はとても寝られる状態ではないので居間に寝るということになりました。それで、彼が居間に掃除機をかけていると今度は電源が落ちてしました。ますます憮然。なにしろパソコンは起動していたので。憮然としていると、なぜかピアノの上にあった弟の結婚式の写真が、かたりとピアノの裏に落ちました。ああ、今日は厄日みたい。という昨日でした。
38 20040731 ミャンマー人と間違えられる 先週の土曜日のことでした。ともだちが入院している東京医科大学病院にお見舞いに行きました。ロビーで女の人から声をかけられたのですが、なんだか解らない言葉で話しかけてきます。「何語だろう?」と首をしばらくかしげてました。それで、とりあえず日本語で「今日は暑いですね」と言ってみました。
「日本語が上手ですね」といわれたので、ははんこれは何か間違っているなあと思いました。
「ネイティブですから」と言って笑ったら、とたんにその女性は困った顔になってしまいました。ちょっとあわてています。
「いえ、ミャンマーの人だと思ってのです。ごめんなさい。」
「じゃあ、今のはミャンマー語ですか?ミャンマー語の勉強をしているのですか?」
「少しだけミャンマーにいたことがありまして」
たいへん恐縮した様子でそう言っていました。ミャンマー人に間違えられてたのは初めてでした。なんだかちょっと気まずいので、その人にミャンマーのことを少しだけ教えてもらいました。
そういえば、韓国の出かける前に銀座の鳩居堂へお土産を選びに行ったら、そばにいた人から英語で話しかけられたので、片言の英語で答えておきましたが、きっとあの人もどこか別の国の人と私のことを思い込んでいたふしがありました。この時はなんだかだましたようで、その人が売り場から居なくなるまでに日本語を使わずに済ませました。でも何人だと思ってのかな。聞いてみたら意外な答えが帰ってくるかもしれないなあと思いました。
37 20040726 桔梗と赤いかさと黄色い長靴 中学生の時の夏休みの宿題にスケッチをしてくることというのがありました。家の庭先に桔梗がたくさん咲いていたので、それをスケッチしました。琳派風というと大げさですが、背景を水色に、桔梗の花を紫で、花芯を黄色に塗ろうと考えていました。
めずらしくこのスケッチが美術の先生に褒めてもらえてうれしかったのですが。そのあとがいけません。ここに黄色の長靴と赤いかさを描くともっとよくなるよと、画面にかさと長靴が加わってしましいました。水色の大空が急に小さくなった感じで、この絵をどう仕上げたていいのかさっぱり解らなくなってしまいました。
今でも、そのときの感じが残っていて、創作クラスの人の原稿に手を入れるのは嫌だなあと億劫になることがあります。ううん。教えるほうに回ると黄色の長靴と赤いかさを描いた先生の気持ちもわかるのですが。
36 20040725 トラジ、トラジ、トラジ 韓国の市場ではトラジをよく見かけます。トラジは桔梗のことです。食べるのはどうやら根っこの部分みたいです。桔梗は日本でもよく見かける夏の花ですが、どういうわけか食べるというは話はあまり聞きません。
慶州はここのところ雨降り続きだったと言います。新潟や福井に豪雨をもたらした梅雨前線の延長が朝鮮半島にもかかっていたのです。韓国では梅雨をチャンマ(長雨)と呼びます。私が慶州に行った時は幸い久しぶりのお天気となりました。(晴れ女は誰だ?)
晴れれば暑いのですが、川の土手にはオミナエシがたくさん黄色く群れていました。また、あちらこちらに桔梗の花が、白と紫で入り混じりながらさいていました。昔「トラジ、トラジ」と繰り返しのある歌を聴いたことがあるのですが、いったいどんな歌だったかそれ以上は覚えていません。でも、故郷の桔梗の花を懐かしむ内容だったと思います。
紫の花だけでなく、白い花も混じると、とたんに華やかな感じがする桔梗でした。この桔梗、東京近辺では平将門の愛妾の名前が「桔梗」で、将門はその桔梗に裏切られて敗戦に追い込まれたそうです。それで将門塚には桔梗が生えないという伝説を聞いたことがあります。
35 20040724 生活韓服 大急ぎで韓国を旅行してきました。
日本で着物のことを洋服に対して和服といいますが韓国でも、洋服に対して、チマ・チョゴリやパジ・チョゴリのことを韓服といいます。韓服は結婚式などのお祝いの時やお葬式に着ることが多いのですが、日常的に着られるようにデザインを工夫した生活韓服が数年前から流行しています。
夏の生活韓服は蝉の羽のように薄くすけるように織った麻などの生地がとても涼しそうに使われています。今度はたった2泊3日でソウルから慶州、またソウルに戻るという大急ぎの旅でしたが、生活韓服を着た若い旅行者をよく見かけました。男性用もあります。染めや織りに伝統的技法をつかったり、天然染料を使っているので優しく見えます。
この夏用の生活韓服が一着欲しかったのですが、残念ながら選んで買う閑がありませんでした。来年の夏はぜひソウルに夏用の生活韓服を買いにいかなくちゃ。
34 20040716 商品名 小説を書いていると意外な言葉が特定の企業の商品名であることに気づくことがあります。有名なところではテトラポットでこれは一般には「波消しブロック」と言うのだそうです。ファミコンも特定企業の商品名で「テレビゲーム」が一般的な名詞です。教科書に載せる文章になると、こうした特定の商品名を使わないという基準がもっと厳しくなります。
教科書ですから特定の商品名は使わないというのはもっともな気がするのですが、実際に原稿を書いてみると意外な単語が商品名であるのに驚いたり、困ったりします。例えば、バンドエイド。これは子どもの頃からなんとなくそう言ってきました。救急絆創膏なんて言い方はしませんでした。サビオという商品もあって、それを使っている時も、呼び方はバンドエイドでした。きっとサビオのほうが薬局においてある地方ではバンドエイドではなくてサビオの名称のほうが一般的な呼び方だったところもあるかもしれません。
調べてみれば、商品を作った企業はなくなってしまったけれども、商品名は一般的な名詞として残ったいるものなんていうものはきっとあるに違いないのです。もしそういう単語を知っていたら教えてください。
33 20040714 街の中と口の中 思わず「なんと横着な」と言っていましましたが、朝食を済ませた娘がテーブルの前で歯を磨いていました。なんでも二度目の歯磨きだそうです。
獅子文六がフランス人は朝のカフェ・オーレの味を損ないたくないために朝食を済ませてから歯磨きをし、イギリス人はきれいな口で朝ごはんを食べたいために朝食前に歯磨きをすると書いていました。
そのことを娘と話していると彼女は日本人は朝食の前と後の両方で歯磨きをすると言うのです。だとすると、日本人のごはんの味よりの清潔好きということになる笑うと、「口の中はきれいにするのに、街の中はごちゃごちゃだね」と皮肉を言うのでした。
街並みが美しくないということと、口の中をきれいにするというのが並ぶとなんとなくみょうな気がしました。
32 20040713 セミプロの哲学 パック・イン・ジャーナルは生放送の番組終了後に出演者どうしで雑談をしているとなかなかおもしろいことがあります。時には番組の中の激論が控え室まで持ち越しになることもあります。10日は放送中も穏やかでしたが、番組終了後の話題も、野球の一リーグ制移行で穏やかでした。幸い強烈な近鉄ファンもいなければ、頑固なアンチ巨人の出演者もいなかったので、関西の事情に詳しい評論家の八幡和郎さんから、関西経済のお話を伺うという展開になりました。
八幡さんは野球もサッカーと同じように二部リーグ制にしたほうがいいというお考えです。そういう話の中で、「セミプロの哲学」という話題が出ました。アマチュアでもなかければプロでもない。ちゃんとお金がとれることができるけれども、お金を目的にしないセミプロの哲学というものがあればいいというご意見にはまったく同感でした。
野球もサッカーのような二部リーグ制が良いのかどうかは別の議論としても、その話を聞くうちに文学も似たようなものだなあと思いました。同人誌というセミプ集団があって、プロの作家にも緊張感が生まれるという状態が崩れたのは、文芸誌が新人賞で作家を出すようになってからです。
私自身が同人誌を知らない新人賞から出てきた作家なのであまりなことは言えませんが、セミプロという存在とセミプロの哲学を失った結果の損失は、一般に考えられている以上に大きいのかもしれません。もっとも、私が小説を書くようになった1970年代後半頃には同人誌も勢いを失っていて、弊害のほうが大きいというようなこともよく耳にしました。話として聞くだけでなく、「これは困ったことだ」という光景も目にしたこともあります。それでもその頃は、セミプロの哲学と聞いて思い出す作家が幾人もいました。プロが脱帽する人々でした。
31 20040711 パック・イン・ジャーナル 10日、パック・イン・ジャーナルに出演しました。今夜は選挙特番だそうです。私は選挙特番はおうちでゆっくり眺めさせてもらいます。
今回の選挙は投票率が低いのではないかと言われています。実際、投票率は低いかもしれません。でも、それがそのまま、政治に対する関心が薄いということになるかと言うとそうでもないとうな感じがします。関心はあるけれどもどうしていいのか解らないというのが、ほんとうのところではないでしょうか?今回は投票率が低いと自民が強いという図式が壊れる選挙になるかもしれません。
パック・イン・ジャーナルでは野球が1リーグになるかもしれないという話題も出ました。なんだかこの話も年金問題の手順前後に似ているなあと思っています。もっとも私は原元巨人軍監督が高校生だった時からのファンなので、巨人軍監督をやめさせた時から、巨人軍オーナーには良い感情を持っていません。
どんな人でもこの世をおさらばする時が必ず来るのですから、後に残る人に対する敬意と遠慮は示してもらいたいと思います。それでこそ老人は尊敬されるのだと思います。