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中沢けいコラム「豆の葉」
   
 

伊藤さん、日本は急に寒くなりました。

2010年09月28日(火)

 東京だけじゃなくって熊本も寒くなっている様子です。こちらにお帰りになるときは、どうぞ気をつけてくださいね。だって、涼しいってのがなくって寒くなったのですから。くそ暑い→寒いなのです。

ツイツイ ツイッター。

2010年09月28日(火)

 あれ? 豆蔵ちゃん留守なのかな?
 ※留守でした。(豆)

 トップページに「文学界」10月号に姜英淑さんの「海岸のない海」の翻訳が載っていることをお知らせして下さいとお願いしたのだけど? 翻訳者は吉川凪さん。

 ツイッターを始めたのは「豆畑の友」のお問い合わせフォームが故障して、それがきっかけでした。だいたい、PC関係の新しい機能とかシステムってのは、使い始めると、しばらくは「中毒」することになります。私はあまり機械好きではないんだけど、この「中毒」期間だけは、機械好きな人の気持ちが想像できます。で「わあ。」と驚いている姜英淑さんをツイッターで見つけたのは、いつだったか? 日本語もハングルも混在で表示できるのには、驚きました。中島京子さんが、姜英淑さんと英語でやりとりをしているのを見て、日本語の解る姜英淑さんなら、ローマ字でもいけるかと試みたところ「HA,HA,HA」のお返事が即座に来ました。さらに豆蔵ちゃんにグーグルの翻訳機能を教えてもらって、こちらの書込みを韓国語に翻訳可能になって(どんな韓国語だか解らないけど)そんな具合にやりとりができるようになりました。「へえ」の連続。

 で、ついついツイッターを見ているとフォローした小説家、評論家が並んで「原稿が書けない」「原稿を書かなくちゃ」って、つぶやいているというよりも大連呼。そういう追い詰められた心境を知らないわけじゃあないから、「ああ、これはたいへん」と眺めているうちに、自分の原稿の締め切りを忘れる始末。なんだかなあ? なんだかなあ? これっていいような悪いような、不思議な1ヶ月でした。

英雄の作り方2

2010年09月24日(金)

 イギリス小説だと「シャーロック・ホームズ」が有名ですが、フランスだと「怪盗ルパン」。この二つの国の人気小説が、探偵と怪盗になっているところは、国民性を感じさせておもしろいと思います。で、島国日本はイギリスぽいのかなと思いつつ、考えてみると、歌舞伎の世界には「ねずみ小僧」とか「石川五右衛門」など大泥棒が大活躍。文楽では、近松門左衛門の心中物があり、こちらは横領犯など。「名探偵明智小五郎」が登場するのは近代になってからですが。江戸川乱歩も怪盗、怪人はたくさん書いています。

 さて、「秋葉原無差別殺傷事件」の犯人を英雄視する視線は、かならずしもマスメディアの拙速で作り出されただけでなく、なんとなく、世の中の人の心がそのような英雄を求めていたという側面があることを「英雄の作り方1」で書きました。「ネットでは加藤智大被告は神」とか「神」の一字を分解して「加藤は ネ 申す」とか「加藤を神格化しろ」などの書込みが見られることをフォーラム神保町の聴講者の方から教えてもらいました。通常、犯罪報道などの勉強会や検討会では、虚構を排除して事実を見詰めようとするという方向で思考を重ねて行きます。が、私は秋葉原無差別殺人事件に、事件の周辺にいる人々が「虚構」を求めていることを感じとりました。フィクションの作者としての直感です。

 この直観力がもっと強ければ、今頃、大勢の人に楽しんでもらえるエンターテイメント(娯楽作品)を大急ぎで書いているところなのですが、残念ながら、そういう資質には恵まれていなかったようです。娯楽作品を書く資質には恵まれませんでしたが、フィクションそのものを否定する気はさらさらありません。人間の精神にとってフィクションは重要な役割を果たしていると信じています。それで今回の秋葉原無差別殺傷事件の周辺にいる人々を見ているとフィクション、つまり虚構に飢えているという側面があるように思えました。「アエラ」の記事はそのあたりの雰囲気を報じていますが、まだ、虚構に飢える人々の気持ちというスジに絞りきれていなかったのかもしれません。だって、これは通常のジャーナリストの態度とは逆に虚構そのものを肯定しなけば、見えてこない現象なのですから。講師の中島さんを混乱させたのも、私がそのあたりの指摘で突然、ベクトルの向きを逆転させたためだと反省しています。時々、思考のベクトルを逆向きにしてみるのが好きなんです。だからノンフィクションの作家にならずに、フィクションを選んだのでしょう。

 で、そのフィクションを求める力と言うか、エネルギーが微弱な感じがしています。微弱陣痛という言葉が浮かびました。お産の時、陣痛は来るのだけれども、微弱なまま、長時間にわたって続き、陣痛のクライマックスが来ない症状を言います。微弱な陣痛が長時間続くと母体は疲労しきってしまいますし、ひどいときには、母子ともに死に至ることもあるそうです。現代では陣痛促進剤などを使いますから、微弱陣痛で死亡なんてことはめったにないでしょう。
 お産はそういう手当てがあるのですけれども、虚構を求める社会的心理が微弱陣痛状態のままになったら、どういう現象が起きるのか? それが私の興味でした。

 ピカレスク・ロマンの虚構が作れない社会というのは裏を返すと、例えば、優れた為政者も生み出せない社会ということになりはしないでしょうか? 英雄の作り方を忘れてしまった社会。いや、英雄の作り方を思い出そうとして、なかなか思い出せない社会。そんなイメージです。もっとも村上春樹の「1Q84」の青豆は殺人者なのだから、ピカレスク・ロマンはとうに成立しているとも言えなくもないのだけれど? あの小説はなんとなく、ピカレスク・ロマンという感じがしないのは、なぜだろう?

なんなんだ。この騒ぎは!

2010年09月22日(水)

 「公文書偽造事件を調べていた主任検察官が、証拠偽造で逮捕された」って、理解しがいた事件というか、何というか、一番の疑問は「なぜそこまでして、事件を成立させたかったのか?」ということです。主任検察官によるFDデータ偽造が報じられたのが今朝。主任検察官が最高検に逮捕されたのが夜に入ってから。

 まさか関連はないと思うけれども、21時過ぎ、つまりNHKのニュースが半分ほど過ぎた頃にツイッターにアクセスしようとすると、ホームに大きなhの文字が出てアクセス不能。10時過ぎに豆蔵君から「どうもツイッターにアクセスしないほうがいいですよ」というメールが来ました。豆蔵君情報によると、携帯などからは問題なくアクセスできるらしい。どんなことが起きているのか機械音痴の私にはわかりかねますが、ツイッターの脆弱な部分を攻撃されたとのことでした。最初はウィルスかと思ったのですけど、ウィルスではないってことで、なんだか奇妙なことがおきているらしいです。

 今夜あたりツイッターで「検察官によるFDデータ偽造事件」の感想を、有名な人のものも、無名な人のものも聞いてみたいものだと思っていたのに。「まさか関連はないだろうけれども」と言うのは「もしかしたら関連があるの?」の意味の裏返し。

 加藤陽子の『それでも、日本人は「戦争」を選んだ 』を読んでいたら、太平洋戦争中の戦死者の数は新聞の地方版には掲載されたけれども、全国版には載らなかったとありました。みんな大本営発表を信じ込まされたとは聞いていましたけれども、そんなふうに、情報を細かく分けてしまうという手段をとっていたなんてのは初めて知りました。情報操作として手が込んでいるし、現代でも使えそうな手段だなと感じました。さらに戦争末期になると民需に応じる会社の株価が上昇したともありました。情報操作、情報統制をしても「口コミ」は生きているのです。と言うよりも情報操作、情報統制をすればするほど「口コミ」はよく機能するものなのかもしれません。民需の株価が上がったと言うのは「長谷川巳之吉」を読んだときに、戦争末期に出版各社が空前の利益を上げていたと知ったときと同じ驚きがありました。

 だから「たぶん関連はないだろうけれども」「もしかしたら関連はあるの」なのです。

英雄の作り方1

2010年09月21日(火)

 9月16日のフォーラム神保町のことで気になっていることをもうひとつ。

 会場でコメントするときに資料の中にあったアエラの「加藤よ裏切ったな」という記事を少し悪く言いすぎたとあとから、やや思い直しました。この記事はネットにもあったもので、検索すればたぶん今でも読むことができます。秋葉原無差別殺傷事件の公判を傍聴した人が被告に裏切られたと感じていることを報道しているものです。記事そのものは、この事件を見詰める人の視点を切り取ったもので、良い記事だと思います。ただタイトルのつけ方が曖昧なので、私の印象がぶれてしまいました。

 これまでの事件報道ですと、メディアが安易な解釈に走り、そのイメージが広がってしまうというパターンが多く、時にはメディアの安易な解釈が、読者や視聴者のメディアに対する軽蔑を招くことも多々ありました。10年くらい前に護国寺で起きた「お受験殺人事件」と呼ばれた事件も第一報から「あ、固定観念で報道している」と感じられた事件でした。メディアはお受験加熱のために、よその子を殺すという行動に出た母親の事件として報道しましたが、実際はお受験をする小学校は抽選で入学者を選んでいるのですから、そういうストーリーは成り立たないのです。この場合は情報の享受者のほうが事情をよく知っていて、報道に対して冷ややかな反応をしていました。

 「秋葉原無差別殺傷事件」の場合は当初、メディアは派遣切りにあった青年の凶行という報道をしました。これは第一報の段階ではそう間違いではないと思います。しだいに詳細がわかってくると、当初にイメージされた事件とは異なるものがあることもわかってきます。
 が、この事件ではメディアの情報の享受者の中に、最初のメディアが建てたイメージに添って犯人に英雄的な存在になって欲しいと願う人がいることです。アエラの記事はそうした現実を報道している記事としては良い記事だったと思います。私は、タイトルの中にこの記事は
「犯人」を問題としている記事ではなく「犯人に英雄を見ようとしている人」を取り上げているのだということを印象付ける何か一言が欲しいなあと、そう思いました。そうじゃないと、私は事件報道というと、すぐに犯人について書かれたものという思い込みで読んでしまいますから。(この項目 続く)

丘の上の花屋さん

2010年09月20日(月)

 丘の上の花屋さんの様子がおかしいなあと、覗いていたのは7月のはじめでした。最初は定休日でもないのにお店が閉まっていて「どうしたのだろう?」と不思議でした。そのうち、どんどん、花が枯れて行くのです。花屋さんのお店は小さくって、シャッターもないお店です。閉まっているときは、緑色のネットが張ってあるだけなので、お店の中をよく見ることができます。

 最初は切花が枯れ、それから苗物の元気がなくなり、観葉植物さえかさかさし始めた頃には、お店全体が雑然とした枯れ色に染まりました。「しばらく休業します」の張り紙が出たのは、そうした頃でした。張り紙が出て2、3日すると、枯れた花が片付けられていました。

 今年の夏の猛暑は、残っていた鉢物さえみんなダメになってしまいました。ネットの向こうのお店の中にお花はすっかりなくなって、がらんとしたまま8月が過ぎて行きました。前を通るたびにいったいどうなっちゃうんだろうと、心配になっていました。
 
 花屋さんの御主人が、お店で鋸を使っている姿を見たのは先週のことでした。ご主人に何かあったのかと心配していましたから、ちょっとほっとしました。最初の日は熱心に鋸を使っているので、そのまま通りすぎました。どうやらお店の模様替えをするようです。次の日に通りかかると、ちょうどこちらを向いた時だったのでちょっと会釈しました。事情を聞いていいのか、悪いのか、少し迷いましたが「どうかなさったのですか?」と聞いてみると、お母さんのお加減が悪かったとのことでした。今日、通りかかると、今度はきれいなワンピースを着た女の人が花屋さんのご主人と立ち話をしていました。きっとお店の前を通る人は「どうしちゃったのだろう」と気になっていたに違いないのです。

 買物に行った成増駅前の商店街で、お婆さんが二人で手をつないでシャッターに張られた張り紙を見ていました。シャッターの張り紙はひどく乱雑な張り方をされていて、いったい何の張り紙だろう?と不思議に思って近くに行ってみました。シャッターが下りていたのは日本振興銀行の支店でした。チェーン店の飲み屋さんやコンビニが並んでいる一画にそんな銀行が出来ているなんて初めて知りました。お婆さん二人は手をつないで張り紙を読んでいるのです。
 ひとりのお婆さんが、債権者説明会が開かれる会場の名前を読み上げて「なんだかこれもニセモノみたいな名前ねえ」とつぶやくと、もうひとりのお婆さんは「全部ニセモノなのかしら」と嘆息していました。
 張り紙は「支店閉鎖のお知らせ」「預金保護について」「債権者説明会の告知」など5枚ほど。こんな光景は映画でしか見たことがありませんでした。手をつないでいたお婆さんは、この銀行にお金を預けていたのかしら?小学生が手を繋いで初めて街に出てきたみたいな様子のお婆さんふたりでした。

 買物を終えて、再び花屋さんの前をとおりかかると、ご主人がお店の扉にニスを塗っていました。どうも、今度はお店に扉がつくようです。
「きれいになりますね」
 声をかけると
「明日からまた開きますから、どうぞ、よろしく」
 というお返事でした。また、お花がたくさん並んだ花屋さんに戻るのかと思うとちょっとうれしくなりました。それにしても成増にあったお豆腐屋さんとか、魚屋さん、八百屋さん、小間物屋さんなど、顔なじみになったご主人や奥さんのいたお店は、いつのまにか、見なくなってしまいました。お店の人たちはどうしているのでしょう。

形而上学の不在

2010年09月19日(日)

 フォーラム神保町の中島岳志氏による「秋葉原無差別殺人事件」のリポートについて、ゆっくり考えています。後から反芻するように考えるのが癖なのですけれども。事件のディテールには考えさせられることが幾つもあるのですけれども、なによりも気になっているのは「形而上学の不在」という現象です。

 形而上学と言ってもそう難しいことではなくって、例えば加藤被告が強く持っていた存在承認の欲求ですが、なぜそれが「存在とは何か?」という疑問の方向へ発展しなかったかというような事柄をさしています。一般の報道では、派遣の仕事を断られたために凶行へ及んだということになっていますが、実際はもう職場を辞めたくなっていたようです。一般に言われているような派遣切りが理由ではなく、むしろ職場を解雇されるのが、短期的に延期になったことが彼を苛立たせた様子も見てとれます。存在承認の欲求が大きい人は往々にして風来坊になるということを中島さんのリポートの帰りに聴講者の人とお話しましたが、そこで思い出すのは「フーテンの寅さん」でした。また加藤被告が掲示板を荒らされたことが一番の原因だと裁判に話していることを聞いて私は「寄席芸人の心理」という言葉を使って会場で感想を述べました。観客とともにセンス(趣味)と感覚を共有する空間を作り出すことを喜びとする演者によって、それは存在を否定されたにも等しいことになるのでしょう。言葉を変えれば「殺された」と感じうる現象です。

 自分で気になっていたのは、この事件のレポートを聞いた感想に「フーテンの寅さん」や「寄席芸人」と言った喜劇の属する言葉が出てくることでした。事件の重大性に比べてあまりにもアンバランスな例えです。その理由が解らなかったのですが、「形而上学の不在」ということを考えてみると、なんとなく、自分の感じていたことが解りかけてきました。

 掲示板上の「ネタ」がしだいに「ベタ」になって行くというのは中島さんのリポートにあった内容です。ところで「ネタ」はなぜ「ベタ」になって行くのでしょうか?「ネタ」は虚構、「ベタ」は実際と一般的な言葉に置き換えて考えてみると、「ネタ」が「ベタ」になる過程の手前に「ネタ」とは何か、つまり虚構とは何かという問いかけが現れても不思議ではないのです。実際的な行動の手前で現れることが予想される形而上学への入口が閉ざされていた、あるいは扉は開いていたのだが、形而上学が不在だったというイメージが湧いてきました。

 喜劇は、形而上学への回路を一時的に塞いで、生真面目で硬い気分から人を救い出すという機能を持っているのですが、秋葉原事件でなぜか喜劇の比喩が頭に浮かぶのは「形而上学の不在」が逆説的な形で事件全体に介在しているからではないでしょうか? 事件全体というのは、加藤被告一人が、そうしたものを抱え込んでいたのではなく、あまり社会という言葉を使いたくないのですけれども、社会が広範に「形而上学の不在」という現象を抱え込んでいたことが凶行へ向かう遠因になっているという印象を持っています。

 形而上学の入り口は「問い」でしょう。その「問い」に答える何かがなかったのです。「問い」に答えるのは「答え」ではなく「問いを承認すること」だとすると「問い」というのは、我々が日常の言葉では「生きる意欲」と呼んでいるものにたいへん近いのではないでしょうか?

昨日のフォーラム神保町

2010年09月17日(金)

 昨日はフォーラム神保町で中島岳志さんと御一緒させていただきました。中島さんありがとうございました。私はフォーラム神保町の世話人をやるのは初めてで不手際が多くて申し訳りませんでした。お許しを。

 テーマは「秋葉原無差別殺傷事件」の加藤智大被告についての詳細なレポートでした。中島さんは裁判を傍聴し、被告の住んでいた土地も訪問して、この事件のデティールに沿って「何が起きたのか」を検証しようとしています。フォーラムは時間超過するくらいで、その様子は書ききれませんが、フォーラム神保町のHPに加藤被告の同僚であったと言う方が聴講したレポートを書いてくださるとのことでした。

 私が感じたことを以下三点にまとめます。

 まず第一番目は加藤被告のつかう「本音」と「本心」の違いです。ネットの掲示板に書いたブラックな発言やジョークは「本音」だといい、しかしそれは「本心」ではないと裁判で発言したと報道にありました。中島さんのお話でこの「本音」と「本心」の違いがよく理解できました。「本音」はどうやら、センス(趣味)や価値観
をさしている言葉のようです。本心のほうは意志を意味していると解してよさそうです。ネットの掲示板を被告は「本音」を吐露できる場所だと捉えていたことは報道されています。それがあたかも寄席芸人の心理に例えることができるようなものだと中島さんの報告で解りました。寄席芸人のたとえは事件の凄惨さとはアンバランスえですが、私が言いたかったのは、同じセンス(感覚)同じ価値観を共有できる空間を観客とともに楽しみいたい演者の心理ということです。寄席芸人の対極にイメージしていたのはテレビタレントでした。テレビの演者は直接に観客(視聴者)を見ることはありませんし、視聴者がどんなセンスと価値観を持っているのかを演じながら感じることはできません。

 二つ目は被告が強い承認欲求を持っていたという点です。これは報道からも感じ取っていました。で、帰途、聴講者の人と話題にしたのですが「職場をやめることを望んでいた」という中島さんのご指摘は正しいだろうという話です。職場を首になって凶行に及んだのではないのです。人間は不思議なもので、存在している人は「空気のように」無視してしまうのに、不在の人は「不在によって存在を強く感じる」ということがあります。だからおうおうにして承認欲求の強い人は、風来坊になったりするものだというお話をしました。

 三つ目は、この事件を見ている新聞なら読者、テレビなら視聴者にたいする私の興味です。今までなら報道が安易な解釈で拙速に走ったと感じられることが、この事件では報道を受ける側が、なにかそこに「英雄」を見たいという欲望を持っていることが感じられるというところに、関心が向きました。もっとも、この視点は、被告の行動に関心を向けていた中島岳志氏を面食らわせてしまったようです。いきなりの方向転換をしましてすみませんでした。

ほんもののビリケンさんに出会う。

2010年09月16日(木)

 ほんもののビリケンさんは通天閣の上にいました。奇妙は木の彫刻。なんでもアメリカの女性が夢にみたものを木像にしたのだそうです。

 通天閣を訪れた人が足の裏をなぜるものだから、足の裏がV字谷のように磨り減っていました。これは写真にとっておけばよかったなあと、後悔。

観光地は俗悪?

2010年09月15日(水)

 観光地は俗悪って固定観念はいつできてしまったんだろう? だいぶ前だったような気がします。それこそ、第一次レジャーブームで、どこに行っても大勢の人がいて「押すな、押すな」状態だったとき。私は10歳以下です。親が嘆くことを耳で聞いて、素直にああそうなんだと思い込んだという感じです。それから、20歳前後になって、観光地はどこに行っても「かったるい」というポーズをとる人がかなり周りにいて、それも影響しているかしら。ただのポーズじゃなくって、実際、なんだか「かったるい」場所が多かったのも事実です。一時の熱気が去って、廃墟は目立つし、やる気のなさそうなドライブインの看板のペンキははげているし、せっかくの景色は、中途半端な工事のために台無しになっているしで、ろくなことはないってことになってました。

 遊園地もどこか荒んでいたし、動物園は動物がノイローゼになっているし、植物園は枯れた植物が点在しているし、思い出してみるとオイルショックの頃でした。
で、観光地は俗悪って固定観念が揺らいだのは、東京ディズニーランドが出来たとき。東京ディズニーランドはお客さんにも、「おとぎの国の住人」になることを要求する遊園地で、ここで観光地は俗悪って冷めたポーズをとることは許されないというか、そういうポーズをとること自体が大人気ないというか、場合によってはほかのお客さんの気分を台無しにする醜悪な行為だと、大げさに言えば、そう思いました。

 なんだろう? 人が集まって楽しむ場所を馬鹿にするとインテリっぽいというのか、そういうポーズが流行っていることに違和感を感じだしたのです。「東京ディズニーランド」が出来た頃の違和感を思い出すと、今でもご飯の中に小石が入っていたようにぎしぎしした嫌な感じがします。それは、上等なレストランに行ったのに「ここは気取っているからいやだ」とか、ひどいときには「無用な気取りだ」なんて偉そうに言い出されるみたいな場合に感じるそれと似ています。そういうぎしぎし感って私の親の世代(今の70代)よりも10歳くらい下の世代(今の60代)の人に感じることが多い感覚でした。

レジャーブーム

2010年09月13日(月)

 レジャーブームを検索したら毎日新聞の1961年の記事が出てきました。スキーにいったり、海水浴に出かけたり、そういう人が多くなった時期はそんな頃から始まっていたんだと、改めて、新聞記事に添えられた写真を眺めてしまいました。

 私の生まれた家は横浜の釣船屋でしたから、このレジャーブームの恩恵をまともに受けました。ただ、母はちょっと嘆いていました。なにを嘆いていたかというと「遊びと仕事の区別が付かないお客さんがふえちゃった」と言うのです。釣をしたら、釣船代以上の釣果が欲しいと言うお客さんが多くなったという嘆きです。漁師が自分の生業として釣をするんじゃないのだから、成果よりも海に出て魚を釣るという行為を楽しんで欲しいんですけど、そうも思いとおりの釣果がでないと文句がでるようになったそうです。ちょっとぼやいてみせるくらいなら、期待はずれの代償として笑えるんですけれども、他のお客さんが不愉快になるほど怒る人もいたりしたようです。時々「今まで遊んだことがない人は仕方がないかな」とつぶやいていました。

 それで10年に一度は「お前なんかお客じゃない」というお怒り爆発があって、これは我が家の語り草。母の「お客じゃない」宣言が出るとそれまでお客さんとして扱っていた人が、ただのふつうの人になるというわけ。お客さん扱いをされていた御仁は「御代はいらない」かわりに、猛烈な怒りの攻撃にさらされることになるのです。当の御仁は言うまでもなく、巻き込まれる子ども、つまり私や弟それに父もたいへんな被害にあうわけです。ほんとうに恐ろしい。けれども、うちの息子や娘は、このお祖母さんの逸話を、伝説として私から聞いて、それぞれ、アルバイト先や職場でクレイマー対応に苦慮した経験を持っているので、おもしろいレジェンドになっています。就活をした学生からも面接でクレイマー対応ができるかどうかを、ずいぶん念入りに聞かれたという話を聞きます。世の中、無理難題を吹きかけるクレイマーって、多いのでしょうね。

 「クレイマー、クレイマー」というメリル・ストリープが主演していた映画を見たのは、ちょうど息子が生まれた頃でした。はて? なんでレジャー・ブームの話がクレイマーの話になったのでしょうか? あ、野暮なお客の話からだった。

箱根細工

2010年09月12日(日)

 昭和天皇崩御の時は、バブル経済真っ只中でした。熱海はひどく寂れていて、レジャーブームの時に出来た大型ホテルが廃墟になっているところもありました。それに比べると芦の湯は、落ち着いた避暑地の雰囲気がありましたから、その頃の私には、やや敷居の高い感じがしなくもないところでした。松坂屋で泊めてもらったのは、獅子文六が好んで使ったというお部屋。お風呂付の離れでした。お風呂は檜の湯殿に檜の湯船。一人で入るにはちょうど良い大きさでした。今でこそ、部屋にお風呂が付いているという贅沢な温泉宿も珍しくなくなりましたが、その頃は、女性で一人のお客というだけで、気が引けました。「旅」という雑誌の取材だったのです。だから、こんなに良いお部屋に泊めてもらえるのだなと、一人合点していました。

 獅子文六が好んだというだけあって、どこへも行かずに引きこもるに居心地の良い離れでした。で、テレビには何が映っていたかと言えば、昭和天皇が崩御したために、急にできた休日をスキーやスケートで楽しむ人々の姿です。歌舞音曲は遠慮ということで、テレビ放送は天皇崩御のニュース一色でしたけれども、スキー場やスケート場は大賑わい! ジュリアナ東京で、扇を振って踊っていた頃ですから、温泉なんて、もう時代遅れという雰囲気でした。日帰り温泉などが人気になるのは、バブル崩壊以降のことと記憶しています。

 麻の葉の柄の箱根細工の葉書入れを買ったのは、この時のことでした。箱が好きなんです。葉書入れは今でも使っています。それから、一番安い秘密箱を二つ。これは子どものためのお土産。秘密箱はパズルのようなものですが、家の子はまだ小さくって、秘密箱をうまくあけられずに、そのうち壊して放り出してしまいました。箱根細工は古めかしい一時代前のお土産になっていました。そのまま時代の波にもまれて消えて行ってしまうのはおしいような細工で、それから箱根に行くたびに、あまり大きくない物を買い求めていました。

 それがこのごろ、すこし様子が変わってきました。あれ!今までの箱根細工と様子が違うものが出来てきたなと、最初に感じたのは、箱根細工のマウスパッドを見つけた時でした。さて、それが何時のことかと聞かれるとあまりはっきり覚えていないのですけど、たぶん、ここ10年のうちです。模様も色も柄も、なんとなく、それまでの見慣れたものと違って、どこか今めかしくなった箱根細工が出てきました。箱根細工が出来たのは150年前、つまり幕末の頃のことだそうです。工芸品もまったく新しい意匠が生み出されずに、前例踏襲している時期と、新しい意匠が生み出される時期というものがあります。どうも箱根細工は、新しい意匠が生み出される時期にさしかかっているかのように見えます。

 150年前には西洋人が箱根にやって来て、お土産用に作られた箱根細工を買い、ヨーロッパに送ったとのことでしたけれども、今、箱根に来ているのは、西洋人もいますが、中国や韓国などの東洋人も大勢います。箱根の山のいたるところに美術館が点在し、そこは洋の東西を問わずに大勢の観光客が歩き回るなんてことは、歴史上初めてのことでしょうから、そういう環境がどんな意匠を生み出すのかを、楽しみにしています。ご当地キティちゃんとは違う、新しい意匠がそこから登場してくることでしょう。

 お土産好きな私としては、ご当地キティちゃんも悪くはないのですけれども、もう少し、大人の趣味と言うか、まあ、うまい言葉が見つからなくって困っていますけれども、自分の生きた時代の大人の趣味の意匠が出てくることを願っています。ご当地キティちゃんと、ご当地ハイチュウには、家の子どもが小学生だった時に、ずいぶんお世話になりましたが。 

箱根行ってきました。

2010年09月11日(土)

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 今週はずっと箱根にいました。芦の湯に2泊。塔ノ沢に1泊。それから桃源台に1泊しました。

 芦の湯に行くのは、昭和天皇が崩御して以来。昭和天皇崩御の日、新幹線に乗って熱海で降り、バスで芦ノ湖まで行って箱根神社を見て、芦の湯に泊まりました。さびしい冬の日でした。霧に包まれて何も見えなかったのを覚えています。

 芦の湯2日目にロープウェイを使って大涌谷へ。高いところは怖いから、飛行機もなるべく大きなやつに乗るのですけど、久々のロープウェイの怖いこと。怖いこと。途中で止まったらどうしようと想像するだけで、胸が苦しくなってしまいます。わずか8分がどきどきでした。大涌谷は初めて。ロープウェイが緑の尾根をひとつ越えると、そこは、なだれる土砂が黄色く染まった大涌谷でした。ロープウェイの中にも硫黄の匂いが流れ込んできました。あちらこちらから白い水蒸気が噴出しているところもあり、ああ、怖い、怖い。
 でも、噴出した温泉で茹でた黒卵はおいしくいただきました。茹でたてはかすかに金属の味がしました。
 同行した藤村先生と黒卵を剥いていたら、周囲を動画撮影の外人さんに囲まれていました。紅毛碧眼。何人なのか解りませんが、8人くらいがそろって黒卵を剥く手元を撮影していました。黒い殻から白い卵が出てきたところを、がぶりと噛んで「ほら、卵だよ」と見せるつもりが、どうしたわけか、白身の多い卵で、再度、がぶりとやって、黄身を見せました。手元を撮影した外人さんが頭を何度も上下させたのは、きっと「ありがとう」のつもりだったのでしょう。何も言わないシャイな感じは米国人でもなければ仏国人でもなし、ましてやおしゃべりなイタリア人でもなさそうだし、ドイツ人でもないとなると、いったいどこから来た人だったのでしょう?
 大涌谷の駐車場には、エアポートリムジンも入っていました。

 翌日は朝から土砂ぶり。どうも台風の影響らしいと気付きながら、ポーラ美術館からラリック美術館に回りました。

 ポーラ美術館は展示換えのために割引料金。大雨なのにけっこうお客さんがいました。美術館前のバス停に透明な屋根があり、この屋根は三角形を二つ並べたような形をしていて、雨をよくよけるのに感心。箱根はいつの間にか美術館だらけになりましたが、昔は植物園がたくさんあったのを思い出しました。箱根だけじゃなくって観光地と言うと必ず植物園があったのはなぜでしょうか? 観光地の植物園が廃墟同然になっているのを時々見かけますけれども、美術館はそうはならないのかしら?

 ラリック美術館へ行くと「今日は台風のため4時で閉館します」とのこと。せっかく来たのだから大急ぎで回ろうと、美術館に入りました。で、法政文芸の編集委員の女性二人が仲良くしゃべっている背後の窓の外で、大風に揺らぐ木々が滝のような雨に打たれているのを見て、内心、こりゃまずいかなと不安になったものでした。「嵐を呼ぶ女たち」というようなタイトルをつけたくなる光景でした。案の定と言うか、危機に気付くのが遅いというか、登山電車は運行停止。道路もあちらこちらで冠水。こりゃたいへんと、なんとか湯元まで戻ってくると小田急のロマンスカーも止まっていました。ローカルは運行していると言うので、法政文芸の編集委員諸君をローカルに乗せて、私は塔ノ沢の福住楼へ。6月に蛍を見に来た宿です。蛍が飛んでいた早川は、ごうごうと濁流が渦巻き、いまにも庭先に水が上がってきそうな勢いでした。
 温泉の湯にも、泥水が入ってにごってしまったとのことで、お湯を汲みなおしている最中だと女中さんに教えてもらいました。

 で、テレビをつけてみると、あふれ出しそうな酒匂川の中に取り残されたおじさんが、木に登って助けを待っている中継映像が目に飛び込んできて、びっくり。さらには台風が静岡県御殿場市付近で、熱帯低気圧になったと知って、さらに仰天。だって箱根は神奈川県ですが、御殿場市の隣なのですから。日本海側に抜けた台風は勢力が弱まるとタカを括っていたので、なおさらの驚きでした。静岡県は海側から台風に襲われることはあっても陸地側から台風が進入するなんてことは、想像を絶してました。思わず携帯をひっつかんで、法政文芸学生編集長を呼び出してみると「みんな、電車に乗って帰りましたよ」と言う返事。そう言う彼は、小田原泊まり。しばらくしたら、宿を見つけましたという電話をくれました。その頃には、止まっていた新幹線も走り出していました。と、ここまでは、法政文芸の編集委員諸君との合宿の話。

 台風の翌日は、ゼミ合宿で桃源台へ移動。「桃源台集合」ってちょっとなあ、たいへんと思ってはいましたが、横浜市内に同じ名前の団地があるとは知らずにいました。私も以前、福岡の別府(べふ)と大分の別府(べっぷ)を取り違えて、熊本近代文学館の皆さんに大騒ぎをさせたことがありましたが、同じことが起きたのです。検索って、ふつう人が考えるのと違う答えを出しちゃうことがあるのですね。おまけに東名は前日の台風の影響が残っていて、高速バスの到着はいつになるのか解らないし、箱根の道路もあっちこっちで渋滞。そんなわけで、全員そろうまでにいろいろありましたが、午後から仙石原へ。すすき野原を歩きました。タクシーの運転手さんに聞いたところだと、今年のすすきは穂が出るのがいつもの年よりも早いのだそうです。こんなに暑いのにどうなっているのでしょう。

 で、例によって、またまたノープランで、明日はどうしようと、宿に帰って相談しました。
「ロープウェイが怖いの」
 そう言うと、なぜか幹事はかわいい顔をして
「じゃあ、ロープウェイに乗りましょう」
 って、おいおいです。しょうがないなあ。

 桃源台から大涌谷までのロープウェイは管理保守のために運転休止中なので、バスで大涌谷へ。大涌谷と早雲山を往復をロープウェイでしました。で、早雲山への行きは、男子学生と同じゴンドラ。怖がらせようとするのを「これ、これ、いけません」と静止して降り、帰りは全員で同じゴンドラに乗ることに。なぜか、女の子というか、女子学生のほうが怖い感じのツボを心得ていて、どきっとするような台詞を絶妙なタイミングで吐くのでした。ああ、怖いと思いながらも、こっちもだんだんやけくそになってくると、なぜか、周囲の景色が見えてきました。すると、2日前は、あんなに黄色かった大涌谷なのに、黄色い部分が少なくなっていました。土砂が流れ落ちたあとの、Vの字の谷のくっきりとした茶色をしていました。台風の大雨で、すっかり谷の硫黄が流されたようなのです。「れこはすごいや」と思わず見とれてしまいました。で、
「先生、あれは何ですか?」
 と真下を指差されて、思わず
「なに? なに?」
 と覗き込んだら、目がくらくら、胸はどきどき。ひどいや、学生といるときの教師の習性を利用するなんて。なんか答えなくちゃいえけないような気がしているものだから、思わず覗き込んじゃったのでした。困った、けれども、なかなか知恵者のおもしろいお嬢さんたちです。と、まあ、みんなで大笑い。またまた黒卵をみんなで食べました。1個食べると寿命が7年延びるそうです。そんなわけで箱根に5日もいました。ロマンスカーで新宿へ戻ると、都会の匂いが珍しくなっていて、まっすぐに家には帰らず、ちょっと新宿で遊んで帰りました。新宿も少しだけ秋になっていました。

日本海に沈む夕日

2010年09月06日(月)

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 日本海に沈む夕日の写真を山形の佐藤先生から送っていただきました。佐藤先生、お返事ができなくって申し訳ありません。携帯でメールを打つのが苦手なんです。ごめんなさい。

 今日から10日まで箱根です。私も何かきれいな写真を撮ってきたいのですけど、またいつもの癖でぼうっと眺めているだけで写真を撮るのを忘れるかもしれません。

大阪に行ってきました。

2010年09月05日(日)

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 東京も暑いけれども大阪も暑い。

 日本の大都市は、たいてい空襲を受けています。それで古い建物も焼けています。それに、建物自体が木造建築なので、時代とともに立て替えられ、街の様子も変わっています。が、もともとの地形は、けっこう残っていることに、あるとき、気づきました。東京も、江戸時代の初期の頃からの地図から順番に地図を眺めて行くと、おおよその市街地の展開の様子が飲み込めます。高い場所から実際の都市の眺めを見ると、土地の高低差がはっきり見えて来て、古い街の様子を想像することができます。大阪は、そこまでつぶさに見てはいないので、まだ飲み込めていないところもあります。古い地図を集めているところです。レプリカですけど。

 2日ばかり、大阪を歩き回って、少しですが、感覚的に大阪の市街地の全体を掴むことができました。まず大阪城。ここは石山本願寺があったところだと、2年ほど前に訪れたときに知ったのですけれども、本を読んでいるときには、具体的な場所ってほとんど考えずに読んでいるものなんだなあと、自分で驚きました。大阪城から水上バスに乗り、淀屋橋まで行って、今回は大阪城まで戻りました。暑くてくたびれていたから、その日は鶴橋の市場で焼く肉を食べて終わり。昨年もお世話になった今里の旅館に今年もお世話になりました。鶴橋は、中の島図書館で見た版画だと、鶴が集まるので鶴橋と言ったようです。もろこ汁が名物だったと、版画の解説に書かれていました。鶴橋から近鉄に乗って今里に出ようとして、方向を間違え上本町に行ってしまいました。
 なるほど、上本町というのは鶴橋の隣の駅なわけねと、大阪城から天王寺にかけての台地が大阪でもっとも古い土地だと、教えてもらったことが、身体の感覚としてもやや理解できました。

 翌日は四天王寺夕陽丘から出発。夕陽丘って、新しく出来た団地の名前のような感じがしてましたが、そのあたりから見る夕日の景色が絶景だということで、古くからそう呼ばれていたようです。湿地と海が交じり合っているような場所に突き出した台地の先端に、朱塗りの伽藍が立ち並んでいる様子はさぞ見事なものだったのでしょう。昨年の春、四天王寺で演じられる雅楽と舞楽を見たとき、石の舞台のかなたへ陽が沈んで行くのを見ました。赤い夕陽が沈み切るか、切らないかの頃合に、かがり火に火が入り、火の粉が舞い飛びました。天地と繋がる芸能のスケールに驚きました。

 さて、ここからは歌謡曲ツァー。まず「王将」の新世界へ。動物園前で地下鉄を降り、立ち飲み屋さんや碁や将棋を指す人を見ながらジャンジャン横丁を通り抜け、通天閣へ。初代通天閣は明治45年に立ったのを「へえ、そうなんだ」と説明を読んで、意外に思いました。今の通天閣は2代目。登るのは今度が初めてでした。ここの見晴らしの良さは、絶品。ふっと気付いたのですけれども、通天閣から見る景色って、もしかしたら、四天王寺が、大伽藍を誇って海上からやってくる船に乗った人々に「ああ、難波津に着いた」と安心させていた時代の面影を残しているのかもしれません。西に六甲山、東に生駒山をはっきり見ることもできました。街並みの向くには大阪城の天守閣も。

 「動物園前」から「淀屋橋」に出て「中の島ブルース」の中の島へ。府立中の島図書館へ。明治37年に開館した建物です。今の天王寺公園のところで第5回内国勧業博覧会が開かれたのが明治36年。初代通天閣は明治45年に立っているのですから、明治の末年の大阪は好景気に沸いていたはずですが「はて、それはどうしてなのだろう? どのような政策が功を奏したのだろう?」とふつふつ疑問が湧いてきました。蔵屋敷の集まった近世の大阪から糸偏(繊維産業)の取引で賑わう大阪の間について、私は何も知らないのです。
 午後の陽盛りの時間を図書館で潰して、夕刻に「道頓堀ラブソディー」の道頓堀へ。絵葉書には必ず出てくるグリコの看板はまだ点灯していない時間でした。道頓堀から「月の法善寺横町」の水掛け不動へ。上司小剣の「鱧の河」とか織田作之助「夫婦善哉」などは大正から昭和初期にかけての、なんばが舞台です。今の大阪城が出来たのは昭和4年だとのことでした。

 明治末年に賑わいだした大阪が、それが大正から昭和初期に小説に描かれるようになり、第二次世界大戦で空襲を受けた大阪が復興して歌謡曲に歌われたのが1960年代。昭和の中期と考えてみると、なんとなく時代の流れがイメージできてきました。

 3日目は今里から大阪港に出ました。天保山は新しい大阪だと聞いていましたが、私は昨年の春、別府から船に乗って朝焼けの大阪に到着して以来です。その時は、早々に地下鉄に乗って市街へ出てしまったので、天保山は車窓から見ただけ。ジンベイ鮫が2匹もいる海遊館に行きました。大きな(5階建てか? 4階建てか?)がまるごと巨大水槽になっている水族館にびっくり。
 この道程は法政大学のゼミ生諸君が一緒だったのですが、その中のひとりが
「先生、これはなんですか?」
 と質問した先を見れば、岡本太郎作「太陽の塔」の模型がありました。1970年の大阪万国博覧会のシンボルだった太陽の塔は、今でも千里に行けば立っているはずです。

   
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