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中沢けいコラム「豆の葉」
   
 

伊藤比呂美さんから朗読会出演承諾のお返事がきました。

2005年06月29日(水)

 じゃん!伊藤比呂美さんから第2回目の「豆畑の朗読会」出演について快諾のお返事をいただきました。

「朗読はもちろんです。
来年の三月といったらまだまだ先ですが、それまでに腕をみがいておきましよう。
(というか詩をかいておきましょう)」

 というわけでぴかぴかの詩を読んでもらえそうです。

だいたひかる

2005年06月29日(水)

 一度だけ、テレビで見たんですが、で、かつ、それほど強烈な印象というのでもないのに、時々、だいたひかるが「どうでもいいですよ」と歌いだすことがあります。もちろん私の頭の中で。

 ♪もしもし 亀よ 亀さんよ♪

 が流れているうちはいかに「亀の呪い」にのろわれていようと、淀んだ川の流れが再び急流に差し掛かるように、なんとかなるのですが・・・。だいたひかるはまずい。ちゃらちゃらとふあふあの間のちゃらふあな声で

 ♪どうでもいいですよ♪

 と歌いだされると、これはかなり重症の「亀の呪い」どころか一歩も前に進まなくなっちゃう「うさぎ眠り」状態。たくさん、原稿を書いている時っていろんな症状が現れるものなのです。

亀の呪い

2005年06月28日(火)

 原稿をあせって書いていると、焦れば焦るほど、ああ「亀の呪い」にかかっているなあって、感じる時があります。いつもより「遅い」どうしてこんなに「遅いんだ」って感じで。

 これが「亀の呪い」現象です。なんてね。冗談言っている場合じゃないんだけど。

 ♪もし、もし亀よ 亀さんよ、どうしてそんなにのろいのか♪

 まあ、そんな具合なんです。亀さんの歌を歌っているからって仕事をしてないと思わないで下さい。なにしろこれが「亀の呪い」をとく一番良い方法なのですから。

井戸の話

2005年06月27日(月)

 館山の家のすぐそばにつるべ井戸のある家があったのをふっと思い出しました。黒いタールを塗ったトタン板で屋根も壁も作った小さな家でした。家の戸口はひとつ。戸口の前につるべ井戸がありました。

 一度だけその家の庭に忍び込んで、つるべ井戸にあったバケツを落としてみたことがありました。からんかんかんかんと、派手な音をたててバケツは井戸の底に下りて行きました。井戸の覗き込んでみると、底には黒い水がたまっているように見えたのと、バケツの落ちる音がよく響いたので、誰か大人が出てくるのではないかという不安で、ついにバケツを引き上げることはできませんでした。

 その頃は私の家でも井戸水を使っていました。家の中にはモーターで井戸の水を引きこんでいましたが、外では手押しポンプで水をくみ上げていました。ポンプの柄を両手でつかんでじゃんじゃん水を出すと、今日のようにあつい日はほんとに気持ちが良いものでした。

 井戸水は夏は冷たく、冬は暖かいのです。

うさぎとトランペット2刷り

2005年06月26日(日)

 おかげさまで「うさぎとトランペット」もたくさんの方に読んでいただているようです。品切れになっている本屋さんもあったようですが、6月25日つけで2刷りが出ました。もう本屋さんに並んでいることだと思います。

 それから「楽隊のうさぎ」新潮文庫版も4刷りが出る予定になっています。こんなにたくさんの方に読んでもらえてうれしいです。

 ついでに朗読会の追加のご報告。ネットの演劇サイトに「豆畑の朗読会」のことが載ってました。「まったくうまさはなく、作品の良さが伝わって来ない」という評価でしたが、裏町の小さな画廊の朗読会を見ていただいていたんだなあとなんだか感心してしまいました。サイトの名前を覚えていればよかったのですが、ごめんなさい、忘れました。プロの役者さんと比べられるなんて!オリンピック選手と比べられた水泳初心者の心境でした。

エルメスの茶碗

2005年06月25日(土)

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 エルメスのマグカップをプレゼントされたのは電車男ですが、こちらは私が自分で買ったエルメスの茶碗。ナイルというシリーズのひとつですが「ライスボール」という表示があったので茶碗もあながち間違いではないでしょう。日本向けのパーツかもしれません。
 エルメスは革製品やスカーフが有名で磁気はいまひとつ魅力を感じませんでしたが、この茶碗、写真では見にくいかもしれませんが、横から見ると内側のハスの花の茎が、ぐるりと回って、外側の葉の茎と繋がっているように見えます。そんなマジックに騙されてつい買ってしましました。これで紅茶を飲んでいます。

去年の「豆の葉」

2005年06月24日(金)

 去年(2004年)長崎で小学生が犯人の殺人事件があった時に「豆の葉」に何か書いたかなと見直してみました。なんとも凄惨な事件なので書きようがないという感じだったみたいです。

 話は変わりますが、イラクを占領していたアメリカが主権移譲をしたのは昨年の6月末でした。抜き打ちの主権移譲で、日本政府も事前には知らされてなかったのです。これに腹をたてて、自衛隊をイラクから引き上げる時期を明確にしたほうがいいということを書いていました。それから一年。イラクのサマーワで自衛隊を狙った爆発事件がおきました。

 今年12月には自衛隊を撤退させるという話がちらりほらり出ています。かなり確実な計画のようです。イラクへの派遣を反対した民主党も、撤退の時期について、政府にどのくらい迫ったのでしょうか?なんかだ、あまり議論もなかったように思えるのですが。

 飲酒議員を問題にしてみたり、審議拒否をしてみたりそんなことばかりが目だってしまうのは、報道の仕方が悪いのでしょうか?

6月って

2005年06月23日(木)

 朗読会が愉快だったんで、あんまり深刻なことを書きたくないなあって思ってます。でも6月って、なんだかすごく深刻な少年事件が多いような気がするのは、気のせいでしょうか?今日の新聞の夕刊に載っていた少年の親殺しの事件の一覧を見ると6月に限らないのですが・・・。

 夕方、成増の駅のほうに買い物に行ったら、新聞記者が中学生や高校生の談話をとってました。私は車の運転席からそれを見ていたので、どんな話をしていたのかはわかりません。でも、新聞記者の身なりがよくなったなあと思わず感心。支局の人か社会部か、いずれにしても若い記者でしょうけれども、昔よりもおしゃれになってます。

 そう言えば、JR西日本の事故の時、ものすごい居丈高な発言をして問題になった某新聞の記者も背広はけっこういいのを着てたなと思い出しました。背広っていう衣服は不思議で、緊張感があると安物でも上等に見えたりするんで、そのせいでちょっと良く見えているのかもしれないんですが・・・。やや複雑な感じ。

 アメリカでおきたカード情報流失事件はそれこそ一時間ごとに、日本での被害額も百万単位、千万単位、億単位とどんどん膨れ上がっています。これもなんだかこれだけじゃあ済まない感じ・・・。こっちのほうはご近所の大事件じゃなくてうちの中の大事件かもしれないってところが嫌です。新聞に載る億単位の被害額と比べれば少ない金額でもうちの家計じゃ大打撃ってことだってあるから。

 空梅雨だけど、ちょっと曇り空っぽい6月です。

板橋管理人殺害事件

2005年06月22日(水)

 おとといの大事件にはこんな名前が付いた様子です。山口県光市の高校で教室に爆弾が投げ込まれた事件があったばかりですが、この事件も少年事件と見られています。両親を殺害したあとで、部屋に都市ガスを充満されてタイマー付きの時限発火装置を使って爆発させたようだと報道されています。行方不明になっていた長男が群馬県草津市で保護され、警察は逮捕状を請求しているという報道が流れています。(22日午前)

 今の都市ガスは突然、ガスが大量に噴出するとボールで噴出孔をふさぐ仕組みになっているのだそうです。ですから爆発をさせるには時間をかけて少量のガスを出してから発火させなければ爆発しないということでした。ガス漏れ警報装置もきっとついていたでしょう。

 爆発についての知識を豊富に持っていたということでしょうか。ネットの検索システムを使えば、それほどの苦労なくこうした知識を手に入れることができるのは想像できます。同じ知識を図書館などで手に入れようとすると大勢の人の目を意識しなければならないのですが、ネットだとひとり孤独に知識を手に入れることができます。

 私も中学から高校それに大学生の前半くらいまでは、一人でいるのが好きでした。学校で群を作るような感じの仲間が嫌いでした。ただ、最近では人間は一人で知識を得たり、ものを考えたりするのはよくないことじゃないかなあと考えるようになりました。友でも敵でも師でも後輩でも、ともかく誰がそばにいるだけで、自分を暴走から救い出せるのではないかしら。逆にみんなでなんとなくつられて暴走してしまうなんてこともあるにはあるのですが・・・。

個人情報保護法

2005年06月21日(火)

 ご近所の大事件もさることながら、アメリカでおきた個人情報の流失事件は日本のカード利用者にも大きく影響しそうな様子です。ひょっとすると私にもかかわりがでてくるかもしれません。ビザもマスターも利用者のひとりですから。

 個人情報保護法というのはもともとこうした事態に備えるものであったはずですが、なんだカヘンテコリンなことになっています。以下、個人情報保護法が施行されてからの「なんだそれ!」

 明治大学へ必要があって成績証明を取りに行きました。3月31日までは私は明治大学政治経済学部非常勤講師でもありました。もちろん、学部の職員さんとは顔見知り。どころか、学生時代から知っている顔です。で、「本人証明」が必要ということで、ううん、困ってしまいました。お互いに本人であることは充分、わかっているんですが・・・。なんだそれ!

 マンションの敷地内に放置されたバイクの持ち主を知るために市役所に問い合わせをしました。「個人情報なのでお教えできません」というお返事。かわりに市役所から持ち主へ連絡してくれるということでした。同じマンションの住人の持ち物であることまではわかっているのですが、それ以上は教えられないのだそうです。
 なんだそれ!

 火災や地震などの災害の時に備えて、マンションにどのような人が住んでいるのか知りたいのですが、これが個人情報ということでなかなか調べられません。ご老人はいるのか、介護の必要な人はいるのか、小さい子はいるのか、こういうことが解ってないと集合住宅では、災害時に対応がむずかしくなってしまいます。でも個人情報保護法が・・・。
 なんだそれ!

 この法律は施行前から欠陥や不備がたくさん指摘されてました。ほんとうはデジタル社会の中で個人の情報をどう守るかが法律の目的であったのに、ジャーナリズムから政治家のプライバシーを守る方向へ、奇妙なかたちで改変されました。
 これが最大のなんだそれ!です。

 こんな法律を作るとそのうちに誰も法律を守ろうて思わなくなっちゃうよ。

大事件

2005年06月20日(月)

 大事件と言ってもまだ私はヤフーのニュースで見ただけなんですが、うちの近くでビルの管理人さん夫婦が殺されて、さらに、部屋に灯油をまかれ、ガス菅が切断されて、爆発するというものです。

 息子が現場を通りかかってもうすごくかわいい新聞記者の女の人がいたと興奮してました。事件に興奮したのか、かわいい新聞記者に興奮したのかよくわかんないのですが・・・。

 それにしても物騒になったもので。うちの子供たちを出産した産院のすぐ目の前です。

(追記)どうも息子は爆発直後に自転車で現場を通りかかったらしい。まだ消防車がぞくぞくと集まっていたみたいです。で、目の前で非常線の黄色いテープを張られてアルバイト先へ行く道をふさがれてしまったという話でした。

(追記)21日の新聞では15歳の長男の行方がわからなくなっているとのことでした。あああ。

マンションの草刈しました

2005年06月19日(日)

 今年はマンションの自治会長を引き受けてしまいました。いまさら、女性で初めてなんて、珍しくなくなりましたが、案外、自治会長なんてのはまだ女の人が少ないのです。で、私の住むマンションでも女性の自治会長は初めてです。

 今日は毎年恒例の草刈でした。マンションの敷地全体の草刈をしました。あじさいの花の盛りで、これを刈られてはつまらないので、あじさいの花が終わったら、私が刈り取るということで、残してもらいました。

 草刈が終わってから、小さな子どもたちが荷物を運ぶキャスターで遊んでいたので、子どもを乗せたまま倉庫にキャスターを仕舞うふりをしました。
「倉庫の中に仕舞って、鍵をかけちゃうと真っ暗だよ」
 と冗談を言うと、なにやら足元にしがみつく暖かな体温。小さな男の子が青い顔で
「お姉ちゃんを倉庫にしまっちゃだめだ」
 と本気で怒っています。ちょっぴり倉庫に入ってみたかったお姉ちゃんが、「大丈夫、大丈夫」と言っても男の子は口を「へ」の字にして怒ってました。

 で、とうとう泣き出しそうになり、お姉ちゃんが
「一緒に倉庫に入ろう」
 と言っても首を横に振ります。やあ、つまんない冗談を言ってしまいました。小さな子って、冗談が通じないのですね。結局、どうしたかというと、キャスターの上にいた子どもたちの期待にこたえて倉庫に突入しました。いつもはは入れない倉庫に入って大喜びのおともだちを置いて、お姉ちゃんはあわてて泣いている弟のところに飛んで行きました。そして泣いている弟をお姉ちゃんはおんぶしていました。

 あの坊やには、私が太った鬼婆に見えたことでしょう。しかも腰には草刈鎌の入ったケースをさげていたし。倉庫の中で「なんておいしそうな子どもたちだろう」と舌なめずりをして包丁を磨いているデブ鬼婆の夢をあの坊やは見るかもしれません。きっとその鬼婆はパナップル模様のアロハを着ているに違いありません。

朗読会のハプニング

2005年06月18日(土)

 どのくらいの大勢の人の前で朗読をしたことがありますか?という質問に谷川俊太郎さんは
「僕、20000人」
 と答えました。こういう答えをする時の谷川俊太郎さんは、黒っぽい骸骨がかくかく答えるような感じがします。近代文学館の朗読会の時のことです。
「20000人!」
 いったいどんな場所でそんなに人を集めたのだろうと想像も付かないで驚いていると
「辻仁成のライブでね」
 種明かしをしてくれました。

 近代文学館の自作朗読会は詩人や作家の映像資料を残しておくという目的で開かれています。私が出た時は谷川俊太郎さんと安岡章太郎さんが一緒でした。

 で、この朗読会でちょっとしたハプニングがありました。朗読が終わってから会場の観客とのやりとりがあったのですが、ひとりのご婦人が谷川さんに詩を読んでもらいたいと差出したノートがありました。
 ノートにはベントレーに寄りかかった谷川さんの写真に添えて一編の詩が書き写されていました。

「あ、これ、僕の詩じゃないよ」
 一読、谷川さんがそう言い出したので会場は緊張してしまいました。
「確かに写真は僕だけど、詩は僕の詩じゃないよ。しかし、これはひどい詩ですね」
 こうしてますます緊張は広がって行きます。ステージにいた私もどうしたらいいのだろうとどきどきしてました。

 谷川さんは声を少し大きくして、その詩を読みます。
 「あの娘をペットにしたくて」
 小林旭が歌っていた自動車唱歌だと谷川さんが読み進むうちに気がつきました。でも、「「いやあ、これはひどい」と言いながら、谷川さんが読み進んで行くので言い出すことができません。結局、谷川さんはその詩を全部、読んでしまったのです。朗読っていう感じではありませんでしたが、まあ、終わってみると結果として朗読になってました。それにしても30年も谷川俊太郎の写真といっしょに自動車唱歌を谷川俊太郎の詩だと信じていた人がいるんですね。

 このときの朗読会の様子はあとでビデオにして家に届けてもらいました。このビデオを見たうちの子どもたちが、その時は、中学生くらいだったのですが「ええっ、谷川俊太郎って生きているんだあ」をおおいに驚いていました。教科書に載っていたのでもう死んじゃっているんだと思い込んでいたみたいです。人気のある詩人というのは、間違われたり、死んだことにされたり、いろいろとたいへんだなという話でした。

インドの朗読会

2005年06月17日(金)

 朗読会って詩人はよくやる人もいるけれども、作家はあまりやりません。ただ、例外的に外国の作家のシンポジウムを開いたりする時は、お互いの作品の音の感触を確かめるために自作を読みあったりします。その場合、あらかじめ読む部分の翻訳を相手に渡してあります。

 インドのカルカッタで松浦理英子さんが自作朗読をした時は、英語の翻訳を読んでました。日本語の自作朗読だと、とてもじゃなくけれども、顔から火がでちゃうくらい恥ずかしいっていうことで、英語の翻訳のほうは選んだということでした。で、ただ英語の翻訳を読むだけじゃ寂しいので、小熊英二さんが「音」を付けることになりました。

 小熊さんは歴史学者ですが、ミュージシャンでもあるとのこと。で、急遽、音を付けるのにどうしかたというと会場のあるものを片っ端から叩いていました。カバンとかソファーとか鉄の柱とか、ともかくいろいろ叩いてみて、松浦さんの作品の内容に即した音がでそうなものを探して、朗読とあわせて行きました。会場はカルカッタ市内の出版社が経営している本屋さんでした。

 このリハーサルの様子がすごくおもしろかったのを覚えています。おもしろいから日本でもやってみたらどうかというと、松浦理英子さんは「絶対やだあ!」という返事でした。その気持ち、解ります。

 カルカッタは石を投げれば詩人に当たると言われる町で、自作の詩を読む朗読会は野外で、時には20000人くらいの人を集めて開かれることもあるそうです。

 ううん、20000人はすごいなあ。詩人の谷川俊太郎さんも20000人の前で朗読をしたことがあるそうです。こちらは後楽園ドーム。それもすごい。

なりまさる

2005年06月15日(水)

 大学の研究室の扉を開けたまま、夜の授業が始まる前に、生協で買ってきたパンを食べてました。すると廊下ととことこと横切ったスーツ姿の男性がいました。「誰かのところに来たお客さんだなあ」と見送りながら、ずいぶん立派なスーツの着方をしているなと感心してました。扉の前を通り過ぎたかと思うと、すぐにその男性がとことこと引き返してきました。

 数年前に卒業したK君でした。確か高校の先生をしているはずです。大学にいたときよりもずっと自信の重みみたいなものが感じられる顔をしてました。にっこりしたK君の顔を見て
「まあ、ずいぶん立派になって」
 なぜか私はパンを食べながらなのも忘れて、そう言ってしまいました。こんなにスーツが似合うようになるとは想像もしてませんでした。

 N君はなにを思ったか5月の末からずっとスーツを着て学校に登校しています。就職活動かなと思ったのですが、本人はまったく就職する気はないでそうです。実際、就職活動もしてません。でも、なんだかスーツの気分なのだそうです。イメチチェン。そう言っています。スーツの方向にイメチェンするような自信が付いたみたいです。

 M君は相変わらずのんびりやってますって言うのですが、なんとなく影のようなものが横顔に浮かぶようになりました。それが、詰まらない自信家の曇りない表情よりもよっぽど人としてのぬくもりを感じさせるところがあります。何があったのか、聞き出したいような気がするのですが、まあ、そう無闇に話したりはしないでしょう。秘密が出来た人の顔です。

 古典語に「なりまさる」というのがあります。源氏物語などにはよく出てくるのです。成長して立派になったと現代語に訳すしと、とっても詰まらないのです。M君の影や、N君の本人にしか根拠がわからない自信や、K君の昔と変わらない微笑がその「なりまさる」という言葉の意味をよく体現しているようです。

 それにしてもみんな大学をを卒業するとどんどん「なりまさ」って世の中の真ん中のほうに押し出して行く勇気がついてゆくようです。

伊藤比呂美さんから

2005年06月14日(火)

 この間、丸谷才一さんの話を書いたら「綾とりで天の川」(文芸春秋刊)を送っていただいて「うふふ」だったのですが、今度はご本人の許可なく豆畑の朗読会2回目は伊藤比呂美さんをお迎えしますって言ったら、その伊藤比呂美さんから御著書が送られてきました。

 ああ、びっくり。びっくり。聞こえてたのかな。

  「レッツ・すぴーく・Englsh」
        岩波書店刊

 です。装丁は岩波書店というよりも学習研究社風。
 それって、どんなんじゃと言われそうだけど、岩波書店の装丁をイメージして書店で探したら絶対みつかりません。「ア、アイム ファイン」って言っている女の子の漫画が載っている黄色い表紙です。

 内容は一言で言えばブロークンイングシッリュの本。やあ、これは便利だ。外国からのお客様の時に、通訳がどこかに行ちゃって、二人でとり残されても、この本を読んでいれば大丈夫。非英語圏からのお客様でも大丈夫。正しい英語は通じなくても、ブロークンはなぜか非英語圏のお客様には通じるのです(これは経験済み)

 伊藤比呂美さん、すごく、すごく役にたつ本を送ってくださってどうもありがとう。もし見ていたらスタッフ・ルームに書き込みを下さい。朗読会大好評でした。次の朗読会には絶対に出て下さい。

豆蔵師匠 さつまあげを持って現る

2005年06月13日(月)

 豆蔵さんと朗読会の反省会をひっそりやりました。というよりもおもしろかったから、懲りずにまたやろうってな話でした。例によって江古田の「尾志鳥」で生中で乾杯。で、さつまあげを頂戴しました。

 ちゃんと保冷在が入っていたところをみると、これは豆蔵さんのお母さんのご配慮でしょうか。さつまあげ、おしかったです。桜海老とねぎの入っているやつをさっそくいただきました。

愉快でした。

2005年06月12日(日)

 豆畑の朗読会にご出演の皆さん、ご参加の皆さん、おかげさまでたいへん愉快な朗読会を開くことができました。どうもありがとうございます。

 朗読会の様子はマニエニストQさんに書いてもらうことになっています。トピックス欄に掲載します。しばしお待ち下さい。

 ここではその準備や周辺のことを少し書きます。私は午前中、朝日ニュースターの「パック・イン・ジャーナル」に出演して(生放送ですから)それから神田小川町に回りました。小川町画廊では、もう出演者の皆さんがそろって準備が進んでいました。集英社のYさんが会社に行く途中だと言って覗いてくれたのですが、いつもは真っ白な画廊にパイプ椅子が並んで、すっかりライブの会場になっているので「まあ!」と驚いていました。

 狭すぎず、広すぎずちょうど良い感じでした。「え、こんなところなの、なんかもっと喫茶店みたいな感じなのかと思ってました」というのはあやこさんです。三々五々に皆さんお集まり。さて、もうすぐ五時というところで、突然、♪夕焼け小焼けで 日が暮れて♪とチャイムが鳴り出して、あまりのタイミングに皆さん大笑い。
 
 5時になると千代田区の流すチャイムが響いてくるのを、私も含めて、みんな知らなかったのです。ちょうど良い開始の合図になりました。夏至が近いので5時と言ってもまだ街は明るく、遊びほうけている子どものためのチャイムで始まった朗読会でした。さて、朗読会が始まると道を行く人がおや、これはなんだろうという顔をした画廊の中を覗きこんでいました。なにしろ、ふだんは静かな画廊に人がいっぱいなんですから、さぞや不思議な眺めだったことだろうと思います。

 こうして愉快な朗読会の時間はまたたくまに進んで行きました。その様子はトピックス欄で改めてご紹介します。

本日小川町画廊で朗読会開催

2005年06月11日(土)

 本日、図書新聞小川町画廊で朗読会を開きます。予約はしてないけれど、行きたい。急に閑ができた。気が変わったなどなど、そういった方にもぜひぜひお越しいただきたいです。

 ご出演のみなさん、準備はよろしいでしょうか?
 
 それでは午後に、図書新聞小川町画廊でお会いしましょう。

明日は朗読会です。

2005年06月10日(金)

 原稿プロセッサのインジゲーターに助けられました。1100字の原稿をどういうわけだか800字と勘違いしたのです。短い原稿をふつかに分けて書くと、時々こうした錯誤を起こします。紙の原稿用紙の時にはやらなかった間違いです。で、ふっとインジゲーターの棒グラフを見て、目標値までの空白が四分の一ほど残っているの気付きました。

 「あれ!」と思わなければ今頃、原稿の書き直しに大騒ぎになっているところでした。で、いよいよ、明日の土曜日6月11日は朗読会です。豆蔵さん、準備は進んでいるでしょうか?魚子(ななこ)さんとまだ絡み合っている最中ですか?私のほうは準備万全どころか、まだ何もしてません。明日、午後に図書新聞小川町画廊に行きます。それから、なんとかします。はい。相変わらずどたどたです。すみません。

 朗読会は近代文学館で、谷川俊太郎、安岡章太郎のお二人とご一緒させたいただい以来のことです。うまく行くかしら?

瀧と油揚げ

2005年06月09日(木)

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 なんだか妙な組み合わせですが、ま、油揚げがおいしかったのでお許しいただくことにしましょう。瀧はホウメイノタキと言ってました。岩山の間をくぐって流れる広瀬川です。何段もの瀧が続いています。雪解けの水と梅雨の雨水で数量が増してしました。どうどうと轟く瀧の音の響きが、豊かな山の緑の中に消えて行くのは気持ちの良い眺めでした。

定義如来の油揚げ

2005年06月08日(水)

 作並温泉は仙台の奥座敷なんていわれる温泉です。2年ほど前の冬、韓国の作家の伊大寧氏を作並温泉に案内したことがありました。もちろん、その時は冬景色。今度は新緑の作並温泉に行ってきました。

 作並温泉の近くにある定義如来は、近郷近在の信仰を集めているお寺です。おみやげに変わったものをふたつみつけました。ひとつは飴。古事記風に言えば「成り成りて成り余れるところ」と「成り成りて成り足らざるところ」をかたどった飴です。子宝祈願と安産祈願のお寺の縁起物のようでした。そうふざけたものではなくて、真面目に良い子が授かりますようにという願いがこめられているのでしょう。陰陽石のことは耳にしたことがありますが、飴は初めて見ました。

 それから油揚げ。油揚げを入れた袋に「三角定義」としゃれていましたからそんなに古くからの名物ではないのかもしれません。ふつうの油揚げよりも厚いのです。しかし、厚揚げのように中がしっとりしているのではなく、さくさくしています。少し凍らせてから、揚げているのかもしれません。中がスポンジ状になっているところが、凍り豆腐と似ていました。子ども連れ家族連れの参詣者がたくさんいる境内では、この油揚げを焼いて、少々のねぎを載せたものを売っていました。

 これがなかなかおいしい。あぶったくらいで食べるのです。それに、握りこぶしのような大きな丸いおにぎりに味噌を塗ってあぶったものも、人気がありました。素朴で単純ですが、味噌もお米もおいしいのです。地元の人々がお参りしている定義如来でした。

原稿用紙5

2005年06月06日(月)

 仙台文学館で公演してきました。その帰りに山形の上山にある斎藤茂吉記念会に寄ってきました。仙台文学館では与謝野晶子展が開かれています。与謝野晶子展でも斎藤茂吉記念館でも気になるのは原稿用紙!

 与謝野晶子も斎藤茂吉も現在と同じ型の20×20の原稿用紙を使っていました。明治40年代にはこうした形式の原稿用紙が使われるようになっているようです。

 「超漢字原稿プロセッサ」の開発段階では20×20の字つめで縦書きができるというのは基本的な条件でした。20×20だと、分量の目安を掴みやすいからです。しかし、その時は桝目にはそれほど感心を払ってはいませんでした。ワープロで桝目のあるものが使いにくかったので、桝目はいらないという考えもありました。私もどちらかと言えば、桝目はいらないのではないかと思っていました。

 ところが、その後、桝目にも意味があるんだということに気付かされる事件がおきたのです。某大学の卒業制作の字数を20×20の原稿用紙何枚というふうに数えずに、純粋に字数でカウントするというウワサが流れて、詩の製作を考えていた学生がまっさおな顔で相談に来ました。詩は空白も表現のひとつです。いや、詩だけではなく散文でも、どこで一行アキを入れるか、カギカッコの下を空白であけるか、それともそのまま文章をつなげて書くか、これも表現の一部分です。

 ワープロやパソコンがなければ、提出された卒業制作を純粋に字数で数えてみようなんてことも考え出さなかったでしょう。で、その話が伝わってきた時、遅まきながら原稿用紙の空白も表現の一部だと気付いたのです。
つまり桝目にも意味があるのです。

 原稿用紙の桝目が必要かどうか侃々諤々の議論の結果、どちらも選べるという方式に落ち着きました。が、その時の議論を思い出すとぶんに感覚的で、欲しいか、欲しくないか、好きか嫌いかに終始して、原稿用紙の桝目の意味などには及んでいませんでした。

 物書きの手近にある紙は原稿用紙ですから、斎藤茂吉も原稿用紙に手紙を書いています。気楽な手紙の用紙として原稿用紙を使うときは、斎藤茂吉も桝目を無視して使っています。書簡の時の書き方(正書法)をしているのです。これまでなんどもいろんな文学館を訪れることはありましたが、こんな興味で展示を眺めたのは初めてでした。資料というものは、何かひとつの目的だけで、見られるとは限られないのですね。

原稿用紙4

2005年06月04日(土)

 ふだん、原稿を大量に書いている人でも、たとえば学者や研究者のような人でも、原稿用紙が正書法を支えてきたのだということをあまり意識していないことに最近、気付きました。むしろパソコンやワープロの便利さのほうが目を引くのは当然のことです。

 ところで、ある時期まで、大学でレポート提出について説明するすると、必ず「手書きですかワープロでもいいですか」という質問がありました。その次は「縦書きですか、横書きですか?」という質問が出ました。レポートは手書きの縦書きのみしか受け付けないという先生が文学系の授業には、かなりいたようです。

 最近はレポートは「ワード」で製作したものしか受け付けないというふうにアプリケーションまで指定する先生もいます。レポートの内容にもよるでしょうけれども、アプリケーションまで指定してしまうのは、あまり感心しないなという気がします。ここ数年で、手書き縦書きのみという指定から急速にアプリケーションの指定まで変化してきているのです。世の中全体で原稿用紙を使っていた経験が急速に薄らいできているのです。

 正書法の混乱とか乱れという問題が生じてくるのは、原稿用紙を使った経験が乏しくなってからでしょう。もともと活版印刷導入といっしょに自然発生的に出来たものだから、使う道具の変化とともに変化してもいいと考えるか、ここで正書法を整備して、無闇な変化を防ぐほうがいいと考えるか議論の分かれるところでしょう。

原稿用紙3

2005年06月03日(金)

 丸谷才一さんの話を書いたら、その丸谷さんから新著を頂戴しました。「綾とりで天の川」(文芸春秋刊)です。また烏帽子大紋のお礼状をで大騒ぎなんてことはないのですが、偶然の符合が「うふふ」でした。

 書簡体も明治の頃から比べればずいぶん変化しています。夏目漱石の「それから」で大助が兄嫁に口語文の手紙を書いたらどうですかと勧めていますが、その頃はまだ手紙は候文で書くのが当たり前だったのでしょう。

 手紙の文章やその書き方の決まり(正書法)も活字化を前提にした原稿用紙の書き方にしだいに影響を受けて現在のような形に変化してきました。ただ、多くの人は自分の書いた文章が活字になることなどはないので、あまり原稿用紙の書き方などは意識しません。さらに言えば手紙の書き方がだんだんに、筆で書く文語文の正書法から鉛筆や万年筆で書く原稿用紙の正書法へ変化したことなどまったく見落としているのです。

 手紙は苦手だなあと感じている人はたくさんいて、電話が出てくると、かなりの用事が電話で済むようになってしまいました。そこにファックスが出てきて、さらに電子メールが登場して、追いかけるように個人のホームページやブロクが登場してきました。で、原稿用紙は過去の産物ということになるのかもしれませんが、原稿用紙が作った日本語の正書法はどうなるのでしょうか?

 ワープロが出てきてから、文章の段落の頭を一文字分空白にするという決まりが相当に無視されるようになりました。名前の知られた大出版社の発行する雑誌でもそうした様子が見られます。また、この文章のそうですが、段落ごとに一行の空白を作るのは、電子メールが出てきてからの習慣です。まだ決まりというほどではないのですが、かなりの人がこうした書き方を用いています。さらに文頭の一文字を大きくするレイアウトも、以前は雑誌や本などの紙面のデザインであって、正書法とは関係のない事柄でしたが、パソコン画面に直接にそうした修飾を入れることができるとなると、これも正書法のひとつに数えられる時が来るかもしれません。

原稿用紙2

2005年06月02日(木)

 なにやら、昨夜はぐらぐらとそんなに大きくない地震が続きました。東京湾が震源とか。大丈夫かな?と不安になります。

「地震で発見。送る。」というお葉書を丸谷才一さんからいただいたことがあります。なんという簡潔さ。服装に例えれば、海水パンツ一丁という感じです。確かにやや大きめな地震のあったあとでした。でも何を発見したのか?送るというのだからそのうち送られてくるだろうと待つこと、一日。金子武蔵「ヘーゲルの国家観」が送られてきました。昭和19年発行の本です。

 そう言えば、さるパーティで丸谷さんにお目にかかったとき、その本を探しているというお話をしたのです。
「僕のうちにあるはずなんだけど」と丸谷さん。地震で本の山が崩れて発見したというわけです。発見したので進呈しましょうというお葉書でした。

 さて、問題はここから始まります。御先方が海水パンツ一丁の潔さと言え、こちらが「届いた。あんがと」では済みません。なにしろその頃、私は明治大学の学生だったので、服装で言えば烏帽子大紋(忠臣蔵で浅野の殿様が着ているやつ)くらいの礼状を書かなくちゃとものすごく緊張。ううん、困った。困った。手紙ってすごく億劫なものでした。とくに形式を踏まなくてはいけない手紙はもっともっと億劫で、どんどん日が過ぎて行きます。

 それはこれまで、事項の挨拶などの形式と候文の血統を引いているような手紙独特の文体のためだと考えていました。どうも、そこに江戸時代から引き継がれている手書きの正書法も混じっていると考え出したのはこのごろです。烏帽子大紋という比喩が似つかわしいのも、そうしたことを考えているからです。

 そもそもふだん原稿用紙に書いているのとは違う正書法を用いているとは、考えてもみなかったのですが、例えば段落を分けるなどということも手紙ではあいまいに住みます。段落の文頭を一字空けるのも、桝目がないのですから、とくに考える必要はありません。そのかわりに行分けや、文字の位置に気を配る必要が出てきます。原稿用紙が出来てからも、手紙では、それより古い正書法が脈々と生き残っていたということになります。

 丸谷さんへのお礼以上は困ったあげくに「手紙の書き方」という実用本の文例そのままと書き写したものを差し上げたというふうに記憶しています。

   
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