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中沢けいコラム「豆の葉」
   
 

雨の夜に

2005年01月30日(日)

 どうして早稲田の裏町を歩いていたのか解りませんが、その晩、私は二人の男友達と雨の中を歩いていたのです。「こんな雨の湿っぽい夜はジャン荘にでもしけこむのがいいなあ」なんて話を二人の男ともだちはしていました。その頃に早稲田の裏町にはいたるところに小さなジャン荘がありました。

 ジャン荘にしけこむと言われても私はマージャンを知りません。それに人数は3人です。だから、マージャンは無理です。が、そのとき、白く振る雨の向こうから黒っぽい傘を差した男がこちらに向かって歩いてきました。傘の下をみれば、同じ年頃の学生風の顔でした。

「君、我々とマージャンをしませんか」

 やにわに男ともだちの一人が、黒っぽい雨傘に声をかけたのです。傘が少し揺れて、傘の主が笑っているのが解りました。

「いや、心配しなくてもいいです。この子はまったくの初心者で、この子にマージャンの手ほどきをするのを手伝ってもらいたいだけなんです」

 「えっ」と思いましたが、交渉はすでに始まっていてともだちに恥をかかせたくなかったので、「うんうん」と頷いていました。ほんとうにあたりは暗くて静かな晩でした。

「ジャン荘なら、僕、知っているところがありますよ。そんなに高くないし」

 交渉はあまりにも簡単に成立してしまいました。早稲田の学生だという黒っぽい雨傘氏が連れて行ってくれたのは食料品店の二階でおばあさんとその娘(おばあさんからみれば、幾つになっても娘は娘という感じのおばさん)がやっているジャン荘でした。客は私たち四人だけ。昆布茶をおばあさんが出してくれました。

 パイの読み方も知らない私がマージャンをやったのはこのとき、一度だけでした。まあ、足手まといみたいな存在で、2時間ほどマージャンをやっていました。最初から2時間の約束だったのです。あとで聞いたら、この黒っぽい雨傘氏はけっこうな腕前の持ち主で、超初心者の私がいたので、「僕らは助かったのさ」ということでしたが、ほんとうでしょうか?

 出久根達郎さんからエッセイ集「まかふしぎ 猫の犬」(河出書房新社)をいただきました。そのなかに戦争未亡人の温泉団体旅行の話があって、このジャン荘の一夜を思い出しました。なせかじゃん荘の主は戦争未亡人みたいな気がしたのです。根拠は何もありません。学生相手のジャン荘を娘と経営している老婦人が、戦争未亡人だったというのが、珍しくはなかった時代の終わり頃のことです。

 

学生街からなくなったもの

2005年01月29日(土)

 喫茶店、ジャン荘 玉突き屋(ビリヤード)個人経営の定食屋、古本屋などなど、学生街からなくなったものです。喫茶店はチェーン店のスターバックスなどに代わりました。ジャン荘と玉突き屋はゲームセンターとテレビゲームなどのソフト販売店(こういう店を何というのか疎くなっている)になりました。それから携帯電話屋(こんな言い方があるのかな?)古本屋はブックオフなどの新古書店とレンタルビデオ屋になりました。が、最近では若い店主のいる古本屋さんが少し増えだしています。

 喫茶店やジャン荘をのぞくと友だちがいたのですが、今は携帯電話で呼び出すようです。ずいぶん変わったともいえるのですが、対応関係があるところがおもしろいなあと思います。偶然の出会いが少なくなったような気もしますが、ネットの中には昔では考えられないような偶然の出会いもあります。

 大学も卒業式は三月ですが、これから入学試験が始まるので、実質的な登校は一月の学年末試験が終わった時で最後になるという四年生も多いでしょう。ですからこの季節、ひっそりと昔を思い出したりします。

文章の書き方 ダイエット 禁煙

2005年01月26日(水)

 しばらく前のことになりますが、アマゾン・コムからダイレクトメールが送られてきました。

 「文章の書き方 ダイエット 禁煙」の三つに関連した書籍のおすすめでした。正直言って「ありゃま」です。なんでこの三つの組み合わせになったのだろう?

 ダイレクトメールはこれまで購入した本のデータをもとに送られてくるのだそうですが、なぜ、太っていて煙草を吸って、時々、文章の書き方に悩んでいるなんてことがわかってしまうのでしょう?これは今年最初の謎。

毎日、告訴するって言われても

2005年01月25日(火)

 年明けから毎日、手を変え品を変えて架空請求のメールが来ます。メルアドが「Kokuso」になっていたりして人を脅そうとする雰囲気がありあり。本文も読まずに消去していますが、気持ちのいいものではありません。

 以前はエッチページの迷惑メールが多かったのですが、こっちはまだ苦笑いしながら、消去できましたが、「告訴」は穏やかじゃない。それに、うっかりクリックすると、それだけで、こちらの情報が流れ出してしまうのも不愉快です。毎日、告訴するって言われてもなあ。ああ鬱陶しい。

うつぼを食す

2005年01月24日(月)

 東京湾アクアラインのパーキングエリア「海蛍」でうつぼの干物を見つけました。館山の相浜産です。うつぼを食べる習慣があるのは紀州の一部と房州の相浜とは聞いていましたが、見つけたのは初めてです。

 土佐の高知を旅行したときにも、うつぼ料理の看板を高知市内で見ました。タクシーの運転手さんに「昔から食べているのかしら?」と聞いてみましたが、「最近だね」という答えでした。もっとも、住んでいる村が違うと食習慣が違うということがありますから、昔から食べていなかったということに、必ずなるわけでもなさそうです。広く知られてようになったのは最近ということでしょう。黒潮の流れにそって伝わった食習慣が隣りの村には伝わらないということもあるのです。

 うつぼ。食べてみました。なかなか濃厚な味。食べられるのは冬の間の脂が乗っている時期だけだそうです。かわはぎの味にぷりぷりとした食感を加えたような味でした。この干物を鍋物などに使うこともあるのだそうです。しかし、細く切らなければいけないのですが(1センチ幅)これがなかなか骨が折れました。特に皮がつるつるして切りにくいのです。よほど切れ味の良い包丁がなければ、この仕事は難儀。

豆畑の友記念日

2005年01月23日(日)

 1月22日は「豆畑の友記念日」でした。思い起こせば一年前、ここの管理人のながしろばんりさんが見本のホームページを作ってきたのでした。旧「豆畑の友」がそれです。以前からホームページをご覧いただいている皆さんは引越し前の素朴なページをご存知と思います。

 トピックス欄の写真はそのときに、ながしろばんりさんが携帯電話のカメラ機能を使って撮影したものでした。その記念日を目前にした18日になぜかネット接続もメールの送受信もできなくなってしまいました。プロバイダー側のミスと解るまでに2日間、プロバイダー側のミスを解ってからまた2日間が復旧までに必要でした。やれやれ。

 なにはともあれ「豆畑の友」は旧バージョンから数えて一年目を迎えました。当初の計画の半分もまだ進んでいませんが、これからもどうぞよろしくお願いします。

宝石になるはずの傷

2005年01月17日(月)

 昨日のこころの傷が宝石になる話の続きです。もう30年も前ですが、文学の世界でだ傷はみんな作品になるみたいな雰囲気があって、これが嫌だった。長い大事にして宝石になっているならいいんだけど、なまなましく血が流れているみたいな傷まで、作品になるって言われてもねえ、困ってしまう。

 で、そのうちに心理学や精神分析学がはやりだして、今度は「傷」はみんな治療対象になっちゃって、これも嫌だった。治せばいいってもんでもないでしょう。例えば盆栽や庭園の木が全部、まっすぐにすくすく育った木で曲がりもなければ、瘤もない木だったらぜんぜんつまらないわけで。

 まあ、そんな感じだったんです。傷を宝石にする魔法を忘れたら芝居だって文芸だって、おもしろくなくなっちゃうってことです。

刺青奇遇(いれずみちょうはん)

2005年01月16日(日)

 また「かの字」の話です。勘九郎日記でお父さんの勘三郎が亡くなったときの感想で次のようなものがありました。

 「普通の人なら忘れてしまいたい心の傷を、まるで宝石のようにたくさん抱えて生きてきたから、演技がほかの人より光ったのだと思う」

 ああ、そうだ。そうだ。と思わず頷きたくなったのは文学にも普通なら忘れてしまえばいい心の傷が、まるで宝石のようになるところがあって、それが好きで本を読むのが楽しかったのを思い出したからです。

 災害はあるたびに「心の傷のケア」と言われます。それはそれで結構なのですが、心の傷を宝石にするような感覚がちょっとなくなってしまっているのが残念です。

 勘九郎の芝居でまた見たいぜひ見たいと思うのが長谷川伸の「刺青奇遇」です。とくに幕切れで、やくざにぼこぼこに殴られた主人公が舞台中央でのびている場面は忘れがたいものがあります。背景にはほのぼのと明けて行く春の空があって、風はまだ冬の名残で冷たい。主人公の肌にそういう冷たい風が吹き付けるのがわかるような幕切れです。この幕切れにはカーテンコールは必要なくて、ただ、幕が下がってもまだ、背景の春の空が見ていたこちらにまとわり付いてくるような感じがあるのが好きです。

 長谷川伸と言えば「瞼の母」というくらいに、「瞼の母」が有名ですが、「瞼の母」よりも「刺青奇遇」のほうが現代の観客向きなのではないでしょうか?

 舞台中央で主人公がのびて幕切れになる芝居では「研辰の打たれ」もそういう終わり方をします。こちらのほうは研辰という人物がどこかぜんまい仕掛けの人形みたいなところがあるせいか、カーテンコールがあったらいいなあと思います。私が見た時は、最後にひとひら葉っぱが落ちてきました。これが偶然なのか演出なのかわかりません。芝居では時々、そういう偶然もあります。で、今度の勘三郎襲名披露では「研辰の打たれ」を再演するそうですから、ぜひ、最後のところで葉っぱが落ちてくるかどうかを確かめたいと思います。

 同じ役者が同じスタイルの幕切れを演じても、カーテンコールが欲しい芝居とカーテンコールはないほうがいい芝居があります。見ているほうが、主人公に感情移入してしまう芝居はカーテンコールが必要ないし、役者の演技を楽しむ芝居は、どうしたって最後に役者さんそのものを見たいという気持ちになります。そらから考えてみると、野田秀樹さん(「研辰の打たれ」の演出家)の芝居はカーテンコールのある西洋演劇に自然と近づいているということになるのでしょうか。

今度は青森から雪のたよりです

2005年01月14日(金)

 青森のめだかの学校の事務局から雪の様子を知らせていただきました。以下コピーです。

「ようやく降雪も落ち着きを見せはじめましたが油断はなりません。昨夕、用事のための目的地まで、普段ならクルマで20分ほどのところ、2時間かかりました。 青森市街地のほぼすべての道路が渋滞で、「逃げ場を失った」とでも申ましょうか、断面がU字になった、たとえればスノーボード競技場のようになった道路をクルマがすれ違おうとするのですから冷や汗ものです。」

 街じゅうがスノーボードの競技場みたいというのも凄いです。2001年の豪雪の時に青森にいたのですが、冬型の気圧配置がゆるんで少し暖かくなると、今度は雪が溶け出して、坂道は滝みたいになっていました。

 青森の皆さん、そして雪の多い地方の皆さん、どうぞお怪我などなさいませんように

カルフォルニアの雨

2005年01月13日(木)

 詩人の伊藤比呂美さんがカルフォルニアの雨について知らせてくれました。以下、メールのコピーです。

「けさは、もう朝からまっ青なカリフォルニアのおてんきです。

でも年末からきのうまで大雨の長雨で、すごくす・て・きだった。何もかも濡れていて寒くて。
植物はやたらにのびさかって。
 ロンドンから来た人はロンドンみたいだというし、ハンブルクから来た人は(多和田さん)ハンブルクみたいだというし、とにかくカリフォルニアみたいじゃなくてと・て・もよかった(わたしはカリフォルニアの青い空と乾いた空気と咲き誇る四季なしの花が大嫌い)

ところが、きのう、長雨がたたって、うちのバルコニーが落ちました。
 もともと腐っていたのがさらに腐って、しかも濡れ落ち葉がたまって重たくなってついに。。。。

 このあたりでのいちばんの大被害だと思う(あとはあちこちで浸水冠水して道路が封鎖になったくらい)直前まで下にいたのであやういところだった。加州大雨で邦人大けが、なんて新聞にのるところだった。」

 大晦日から降っていたとすると10日間も雨降りだんたんですね。もうそんな冬の長雨なんて、耐えられない。アメリカは夏にフロリダを何度も台風に襲われて、今度はカルフョルニアで低気圧が居座っているのですね。こういうお天気を楽しんじゃう伊藤さんっておもしろいです。低気圧が居座るのは北極からの寒気が強いせいだそうですが、同じ寒気が日本の北海道や東北には豪雪をもたらしています。

荒れる成人式?

2005年01月12日(水)

 スタッフルームで成人式のことが話題となっています。報道では今年の成人式は全体に穏やかになったということですが、実際はちょっと荒れていたなというところも結構あったようです。またたくさんの警官を動員してあれないように防いだという地域もあったとのことでした。青森や沖縄ではまた逮捕者が出るという騒ぎもあったそうです。

 ところでこの荒れる成人式は、成人した人々が子どもっぽいからこんなになるんだという論調が主流ですが、私は去年あたりから首をかしげています。と言うのも高校を卒業した人の就職率がたいへん低い時期が続いていたからです。昨年はやや改善したというものの、決して楽観できる数字ではありませんでした。

 荒れるには荒れる新たな理由があるのではないでしょうか?どうも報道は紋切り型がひとつできると、事態が変化していても、その変化を追うことが少ないように思えます。成人式でばか騒ぎをした人の話を聞いてみたい気がします。成人式だけではなく、日ごろの生活や考えていることなども聞いてみたいです。高校の卒業生の半分が大学に進学する時代に就職難に出会うというのは、どんな感情を呼び覚ますのでしょうか?

勘九郎日記 かの字

2005年01月11日(火)

 今年も年賀状書きが間にあわなくて、またまた「寒中見舞い」を書いています。たくさん書くと、だんだん退屈になってきて「勘九郎日記 かの字」(集英社)を読んでいました。

 なぜだか解らないのだけれども、勘九郎の聞き書きを読んでいると、いつも、私は昔の家の中を思い出します。いろんな人が尋ねてきたり、どういう関係がわからないけれども、おもしろい人が住んでいたりした昔の家の雰囲気です。お線香の匂いと出汁の匂いと、それにお正月だと燗をしたお酒の匂いなんかもした古い家のことです。語り口がそういうものを思い出させるのでしょうか?人が怒ったり泣いたり癇癪をおこしたりする感じがすごくそういうものを思い出させます。

 初舞台を「昔話桃太郎」で踏んで以来の様々な思い出の中には父勘三郎が怒る場面もあれば、どのの家でもありそうな親子げんかの話もあり、お母さんとの意地の張り合いもありで、それらの話が思い出という「優しさ」に包まれているところが「かの字」の良いところです。親子兄弟がぶつかり合って「傷」ができるのではなくて新しい「芸」ができて行くところが爽快です。

孫の成人式

2005年01月10日(月)

「今日は孫の成人式」
 朝、ゴミを出しに行くエレベーターの中でうれしそうな顔でそう言うおばあちゃんに会いました。おばあちゃんと言っても、この方、いつも多少流行を取り入れたすてきなファッションを見せてくれるので、あまり「おあばちゃん」という気はしません。

 成人式で「おめでとうございます」を言うにしてもおばあちゃんに言うのが、一番晴れがましい感じがします。「それはおめでとうございます」と言ったとたんに相手の方の笑顔で、言葉がぴかぴか輝くような感じがします。エレベーターが一階につくと、今日は着物を着るというお孫さんのためにおばあちゃんは猛烈ダッシュで駐車場まで走って行きました。そのブーツ姿がちょっとカッコイイ。

 お祝い事って、祝ってもらう人だけのものではないのですね。祝うほうもちょっと幸福になるというのがお祝い事なのではないでしょうか。お孫さんの成人式までお元気でいられたのは何よりです。おばあちゃん、おめでとう。

東京を構成する小さな丘

2005年01月09日(日)

 夏目漱石の小説を読んでいると崖下の家というのがたびたび出てきます。目白から早稲田あたりは神田川に沿うように高台と川岸の低地に別れています。

 田中角栄邸がある目白は高台で、夏目坂を下ると早稲田ですが、今度、池袋から小石川を抜けて神田神保町まで歩いてみて、高台からだんだんと平地へと降りてゆく感じが実感できました。

 東京は西北の方向が高台になっていて、なだからに海へと下って行く街です。お正月三が日は、晴れわたり、富士山まで見えましたが、そういう遠い山々の手前になだらかな岡があるという地形です。

 30年前に東京に住むようになった時には、そういう土地の起伏が建物にすっかり隠れてしまっていたので、とりとめのない都市のように思えました。昔の小説を読んでいると、高低差の感覚があるのに驚くことが多かったのですが、実際、そういう景色を人が見ていたのでしょう。

池袋から神田まで歩いてきました。

2005年01月08日(土)

 日本大学芸術学部大学院生の諸君と、池袋から御茶ノ水まで歩いてきました。今日はまた寒くなりましたが、昨日はぽかぽか陽気で歩くにはちょうど良い日でした。

 池袋のジュンク堂で待ち合わせて、雑司が谷墓地から鬼子母神へ。そこから目白通りを抜けて忍ばす通りに入り護国寺へ出ました。護国寺では大熊重信のお墓を見物し、皇族墓地である豊島ヶ岡墓地の入り口を横目に見ながら春日通りへ出て小石川植物園に至りました。

 小石川植物園は元小石川養生所です。ここの入場券の販売はちょっと変わっていて、正門向かいのたばこ屋さんで入場券を売っています(300円)。たばこ屋さんで入場券を買い、正門にいる守衛さんに半券を切ってもらってから、園内へ。梅がだいぶ咲いていました。

 小石川植物園から伝通院へ。ここは徳川家康の生母の於大の方や家康の娘で豊臣秀頼に嫁いだ千姫のお墓があります。よく時代劇や時代小説に出てくるお寺です。徳川家にゆかりがあるのに、徳川家のお墓に入るのは少し差し障りがあった女性が葬られているところが、なんとくな親しみをもたれた理由かもしれません。実際、芝の増上寺や護国寺よりもやさしい感じのするお寺です。

 伝通院から後楽園に降りて、神田神保町まで歩きました。江戸時代を研究するのが目的ではなくて、現代小説の空間の扱い方を研究するフェールドワークでした。電車(地下鉄を含む)に乗っている人と、足で歩いている人の都市における空間感覚の違いを実感してもらいまいた。

取材力の低下

2005年01月07日(金)

 3番目の理由に挙げた取材力の低下という事柄ですが、取材力が低下する理由は多様です。昨日の新聞に50年ぶりに国語力の調査をするという記事がありましたが、読解力が弱くなれば、当然、取材力も弱くなるわけで、これは取材力以前の問題。

 そういった取材力以前の問題もあります。テレビについてここ数年見聞きしたところから言うと、「下請け化」と言ったらいいのでしょうか?番組瀬作会社と放送局が分かれているというケースが多くなりました。放送局の時自社製作の番組ではなく、番組制作会社が製作した番組を放送しているのは、ドラマなどばかりではないのです。ワイドショーや報道番組でも番組製作会社は活躍しています。これが放送局に対して立場の弱い「下請け」になってしまうことも珍しくないようです。

 番組制作会社が単なる「下請け」にならないためには視聴率をとるという対抗手段が一番です。ニュースのワイドショー化と言われる現象の背景には、こうした番組制作のシステムの変化があったと言えるでしょう。
 また自社製作の報道番組の中でフリージャーナリストから提供されたニュースを使うこともあります。これもだんだん増えてきました。で、こうした「下請け」あるいは「外注」が増えると局内に現場を知らない管理者が出てきてしまいます。現場を知らない管理者というのは困ったことに新しい事態に対処できないことが多いのです。どなたか、こうした番組制作のシステムの変化について具体的に調べていただけるといいなと思います。これは放送局自体が自己検証することが望ましいのかもしれません。

 今回のインド洋津波は今までにない経験だったと言えるでしょう。単に甚大な自然災害だというだけでなく、国内の災害報道ではカバーできない外国の災害だったこと。邦人の被災者がたいへんに多く、また安否確認が困難を極めたこと。中東から北朝鮮に至る「不安定な弧」と呼ばれる新しい外交上の重要地域の中心地で起きたこと。タイのバーツの暴落から始まったアジア経済危機に見られるように、経済関係が緊密化していることなどの事情が加わっていること。こうしたタイプの災害は今までテレビというメヂィアが体験して来なかったものでした。そういう未体験の災害について、その重大さの判断が少し遅れたというのが、テレビ報道の少なかった理由ではないでしょうか?

ニュースが少なかった3つの理由

2005年01月05日(水)

 メディア対応の鈍さ遅さには年末年始であったことのほかに3つの原因が考えられます。

1、プライバシーへの配慮
2、誤報への恐れ
3、経済、政治、外交の取材力の衰え

 この三つは関連しているように思われます。ジャーナリズムとりわけテレビの報道番組がワイドショー化したと言われるようになったのはおおよそ20年前です。

 きっかけになった事件は「ロサンジェルス疑惑の銃弾」事件と呼ばれる保険金詐欺事件でした。また、それより少し遅れて消費税の導入や、リクルート事件はニュースとワイドショーが結びつきやすい要素を持っていました。

 95年の阪神大震災のときにはまだそれほど激しいメディア批判はありませんでした。が、あとになってヘリコプター取材の危険や騒音による救助活動の阻害などが問題とされました。そして、同じ年のオウム事件ではテレビや活字メディアで流された情報に激しい批判が浴びせられました。

 メディア批判がさらには激しく火を吹くのは97年です。この時はテレビ朝日の政治部長「自民党を潰す」という発言が国会で問題になってのですが、私の感覚では、金融危機などの表面化で、それまでの言論のミス・リードが一般の視聴者や読者にもかなり理解されるようになったのではないかと思います。この年はタイのバーツの暴落をきっかけとしてアジアの金融危機が起きた年でもあります。

 メディア批判の声が高くなると共に左翼批判の声も高くなりました。が、どこにどのようなミス・リードがあったのかという検証はあまりされませんでした。むしろ批判はプライバシーの保護や誤報への非難という理解されやすいところで広がって行きました。メディアスクラムというものが報道被害の代表のように言われ始めたのは2000年前後であったと思います。

 こうした雰囲気の中でメディア、とくにテレビはプライバシーの保護や誤報には神経質に気を使うようになってきています。この気の使いかたはどちらかといえば「問題をおこさない」というかたちで、消極的な方向へ流れがちなのも事実です。モザイクを使用した画面が圧倒的に増えたことからもそれが伺えます。

 プライバシーの保護と報道の自由はバランスをとることが難しいふたつの概念です。取材力は弱くなっていることは、こうした批判のためにテレビ局がスポイルされたためとは言えないと思います。報道番組がワイド・シショー化した過程で、進行したもうひとつの現象があります。(この項、明日に続く)
 

スマトラ地震インド洋津波とテレビ

2005年01月04日(火)

 スマトラで地震が起きたのは26日の日曜日でした。あいにくこの日からテレビも新聞も年末年始の進行になるところが多いのです。加えて地震があった現地からの情報は乏しいでしょうし、邦人の安否確認も難しい状況
であったにちがいありません。

 それにしても、地震・津波関連のニュースがテレビ、新聞ともに少なすぎるように感じます。かなりの数の邦人の犠牲者が出ていると予想されているにもかかわらず、テレビは予定された年末年始の番組を放送していました。邦人犠牲者が500人以上と予想されるにもかかわらずです。もっともこの数字も1月3日になって外務省に安否不明と連絡があったものをまとめた数字です。

 失われた人命から言えば阪神大震災以来の大災害となる可能性もあるのに、テレビ局のこの対応には首をかしげざるおえません。さらにこの災害は外交問題も含んでいて、より複雑な様相を持っています。

 日本政府の対応はかなり早いものがありました。ちょうど任務を終えてインド洋を航行中の自衛隊の艦船が派遣され、医療チームが現地入りし1月1日には5臆ドルの援助を発表しています。また津波監視システムの構築などを1月6日にジャカルタで開かれる緊急首脳会談で提案するとしています。もっともメディアが通常の番組で、大騒ぎをしていたら、この反応さえ遅いと非難されたかもしれません。

 今回のメディア対応の遅さ鈍さは単に年末年始という時期であったためにおきたものでしょうか?どうもそれだけではなさそうです。(この項、明日に続く)

(番外)スマトラ地震募金

2005年01月03日(月)

 アマゾン・コムで新年午前零時からスマトラ地震の募金を集めています。募金額は5ドル以上1万ドルまでです。募金先は日本赤十字です。

 どうしたわけか、ドルでの募金になっています。おそくらアメリカのアマゾンのシステムを日本でも利用しているためでしょう。募金のページからアメリカのアマゾン・コムのホームページにジャンプすることができます。

 年末年始の報道が手薄な時期と、現地の混乱で情報が入りにくいという事情が重なって、あまり強い印象はないかもしれませんが、邦人の犠牲者の数から言えば中越地震よりもはるかに大きな被害が出ています。
 おそらく今日、明日あたりにはさらに深刻な被害の状況が明らかになってくるでしょう。

21年前の冬

2005年01月03日(月)

 東京で大晦日に雪が積もったのは21年ぶりだそうですが、ある個人的な出来事のために私は21年前の冬についてよく記憶しています。

 確かに大晦日に小雪が舞い、雪がうっすらと積もりました。夜に入ってからでした。で、その年が明けた翌年のお正月から3月まで、東京で雪が降った日は27日間もありました。おおよそ三日に一度は雪が降っていた計算になります。

 ロッキード事件の判決がでそろったあとだったので、「これほどの降雪は新潟3区の恨みに違いない」なんて冗談がありました。いや、つまらないことを覚えているものです。

 大晦日に降った雪は、北側の空き地ではつるつるに凍っています。さて、これから暖かい冬になるのやら、雪の多い冬になるのやら。関東で雪が振るのは、太平洋側を低気圧が通過する時ですから、暖かい冬と雪の多い冬はあまり矛盾なく出現したりします。

謹賀新年

2005年01月02日(日)

 あけましておめでとうございます。今年が皆様にとって良い年となりますようにお祈りいたします。

 

   
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