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中沢けいコラム「豆の葉」
   
 

最近の中国について

2015年08月25日(火)

 写真は昨年のフランスの東北の海岸地方を旅行した時に撮影した英雄の銅像。誰だったかは忘れちゃいました。銅像はイギリスの方向を指さして海の風に吹かれていました。

 中国について。中国は軍備拡張していると報道されている。とくに海軍拡張は著しいものがあるそうだ。それは間違いではなさそうだ。海洋資源を巡っての領土的野心もゼロとは言えない。
 中国の軍備拡張の報道を聞くたびに考えていたのは、軍の近代化に着手しようとしているのではないかという疑い。中国の人民解放軍は、それぞれの将軍が手勢を率いる「水滸伝」の世界からまだ抜け出ていないのだという話を聞いたのは天安門事件(第二次天安門事件 1989年6月)の時だった。この時、水上勉さんは北京飯店滞在中で、長安大街(通りの名前)を戦車が進んでくるのをホテルの部屋から目撃したとのこと。
 天安門事件では北京郊外で軍どうしの衝突もあったという「噂」もしきりに流れていた。そんなこんなで、中国の人民解放軍はまだ近代化が不充分で、言ってみれば「水滸伝」の世界に近いという話を聞いた。軍管区ごとの独立採算性という話もその頃、聞いたんだったかな。かれこれ25年前。
 一口に軍の近代化と言っても、そのためにはある一定の教育を均質にしなければならない。日本で言うところの義務教育の徹底で、これには膨大な経費がかかる。まず教員の養成、教育内容の整備、教材の整備、それやこれやを費用をして捻出して初めて軍の近代化も可能になる。日本や韓国のようにある程度の規模の国にはそれができても、総人口の把握さえ難しい大国ではその負担はめまいがするくらい大きそうだ。
 話を軍の近代化に戻すと、陸軍よりも海軍のほうが近代化(中央集権的コントロールができる軍)の進み方が早いのではないか。海洋資源に対する野心はその副産物ではないかという仮定を立てて中国の報道を読んでいた。陸軍は海軍よりも、社会制度に忠誠を誓う近代的な制度よりも将軍(つまり人に)に忠誠を誓う水滸伝的世界が強固なのではないだろうか。
 天安門事件の終息の時、中国各地から集まった将軍たちがひな壇にならび、拍手でケ小平を迎えた。江沢民はあの場面の中から登場した中国の指導者だ。江沢民は水滸伝に出てくるような将軍たちから支持されている。ところが若い世代の習近平は、中央の命令ひとつで、制度的に動ける近代的な軍を作ろうとしているということであれば、この二つの対立の様相がなんとなく想像できる。
 誤解を恐れずに言えば、水滸伝に出てくるような将軍たちと、米国大統領のように軍をシビリアンコントロールしたい米国留学組が、江沢民と習近平を押し立てて対峙しているということになってないだろうか。
 誰か中国報道を専門にしている人、この見立てが当たっているかどうか教えてください。

神田「ささま」のお干菓子

2015年08月23日(日)

 神田「ささま」のお干菓子です。

 高校の修学旅行の時、近鉄奈良駅の近くのお菓子屋さんでお干菓子をひと箱買いました。赤と白の鹿の子模様と銀色の二色の箱は今でも古切手入れとして使っています。もっと小さな子供の頃は、金沢八景にあった武蔵屋さんで「すあま」を買ってもらうのが好きでした。餡子が入っていては嫌なんです。「すあま」でなければ許せない。おうどんは「うどんかけ」で澄んだお汁でなければ許せないという子どもでした。デパートの食堂のメニューに「うどんかけ」がなくって「天麩羅うどん」から天麩羅を取り除いてもらっても、汁に油が浮いているのが嫌で大激怒(4歳児だったので大泣き)したくらいでした。横須賀のサイカ屋デパートの食堂でした。

 あら、なんの話だったかしら。

 そうそうお菓子の話です。

 神田の「ささま」は東京の出てきて初めて和菓子を買ったお菓子屋さんでした。子ども時分にはうどんの汁の大激怒するくらい好みがはっきりしていたのですが、金沢八景から房総の館山へ越してみると、うどんかけを配達してくれるお蕎麦屋さん(金沢八景駅前の越後屋さんと決まってました)もなければ、すあまを並べたお菓子屋さんもなくって、そう気難しいことも言ってられなくなりました。餅菓子屋さんは那古観音の階段下に1軒あって、そこのうぐいす餅が好きになったのは中学生の頃かしら。でも、餅菓子はあっても金花糖はありませんでした。

 子どもだけがなんだか寂しい気がしていたのではなくって母も寂しかったようです。ある時、不意に上等のねりきりが食べたいと、突然、言い出したのでした。いつのことだったか。それ以来「ねりきり」とはなんぞや? という疑問にとりつかれた次第。婦人公論のグラビアで神田の「ささま」に行けば折々の「ねりきり」があることを知っていて、たまたま明治大学の2部に入学したので、目と鼻の先をこれ幸いと「ささま」へお菓子を買いに行った日からずっとお菓子を買ってきました。

 考えてみると餡子好きなのですね。で、大阪へ行っても京都へ行ってもお菓子を買ってます。お干菓子は持ち歩きに便利なので、よく買います。FBでお干菓子シリーズをやろうかなとつぶやいたら賛成していただきました。で、これから時間のある時にお干菓子シリーズをやります。お茶のお稽古がなかったら、こんな高価なお菓子はもう滅びてしまったかもしれません。そう言えば近頃「すあま」も見なければ「うどんかけ」を配達してくれる蕎麦屋さんもなくなってしまいました。

山の上ホテルの白玉小豆氷

2015年08月17日(月)

 山の上ホテルの白玉小豆氷。困惑するほど巨大でした。
 ちょっと考えてから側面のしゃりしゃりとスープスプーンで削ぎなっがら食べました。それから頂上の餡子をちょこっとずつ食べて、白玉が落下しないように注意しつつ、グラスの底へ氷を溶かしこむ戦法(笑。
 全部食べ終わった時は少々寒くなっていていましたが、この日はデモクラテレビ出演のために上着を持っていたので助かりました。
 白玉小豆氷を食べてから錦華公園の方へ出ました。錦華公園は日の丸をつけた竿が山のように積まれていました。で、機動隊さんが公園を取り囲んでいました。靖国通りの角で「錦華公園はこちら→」のプラカードを持った誘導さんがいて、九段方面から大勢の人が錦華公園の方角へ曲がって行きました。あとで分ったことですが、靖国神社で開かれた「首相や閣僚に靖国神社参拝を求める団体が集会を開き、そのあとでデモをする予定で大勢の人が移動していたようでした。神田神保町は警察車両と機動隊さんでいっぱい。
 東京堂で買い物をしてから「チェッコリ」に顔を出し、それから靖国神社まで九段の坂を上ってみました。もうほんとにどこもかしこも機動隊さんと公安さん、それに右翼団体らしき人がいっぱい。日本中から右翼団体に所属している人が集まってきているようで、機動隊さんに道を訪ねている右翼さんもいました。
 左翼の「反天連」と右翼の「頑張れ日本」の両方のデモ隊が通り過ぎて九段下が騒然としたそうです。その頃、私は靖国神社拝殿前の行列があまり長そうだったので、お参りは次の機会にして、「器の花田」さんでお買い物。靖国神社は法政大学の隣なので、よく通りかかるのです。「器の花田」さんで粟の絵が描いてある小皿を1枚買いました。山の上ホテルの白玉小豆氷。困惑するほど巨大でした。

湖西のみち

2015年08月14日(金)

 今から30年ほど前に琵琶湖を車で一周したことがあります。旅行雑誌の取材でした。1年間、いろいろな土地へ出かけましたが、琵琶湖の湖西はもっとも印象が深い土地でした。時折、大阪からサンダーバードで金沢へ行く時も湖西を通過するたびになんとも言えない魅力を感じていました。
 近江今津の図書館で館長さんとお話をしていたら、司馬遼太郎の「街道をゆく」の第一回が「湖西のみち」だったという話題が出ました。京都から近江今津まで湖西線を辿るうちに「小野」という駅をみつけました。小野妹子の生地だとのことです。毎週、大阪芸術大学へ通っていますが、大阪芸術大学のある河内の喜志は、聖徳太子廟があり、小野妹子の墓所もあります。琵琶湖から瀬田川、宇治川、淀川、大阪湾へ出て、また大和川をのぼるかもしくは石川をのぼるかして聖徳太子のもとまで行くその道程をちょっと思い浮かべました。それで司馬遼太郎の「街道をゆく」1を読んでみる気になりました。以下は「街道をゆく」1で見つけた一節。

「『朝鮮人なんてばかばかしい』
という、明治後できあがった日本人のわるい癖に水を掛けてみたくて、私はこの紀行の手はじめに日本列島の中央部にあたる近江をえらび、いま湖西みちを北へすすんでいるのである」
司馬遼太郎「街道をゆく1 湖西のみち」
1971年 週刊朝日
「健康な制度上の批判勢力と競争勢力を持たない体制のー国であれ、その他の集団であれー独裁者はすべてお伽の王さまなのである」
司馬遼太郎「街道をゆく1 長州路」

 この頃、司馬遼太郎はなにかに「怒って」いるようです。それがなにかは書かれていませんが、「怒っている」という表現は「長州路」の文中に出てきます。
 ちなみに朝日文庫で43巻ある「週刊朝日」人気連載シリーズの司馬遼太郎「街道をゆく」の第2巻は「韓(から)のくに紀行」。釜山の倭館(江戸時代の日本の出先機関)などを訪ねる。32歳まで産経新聞の記者でした。
 亡くなられたのは1996年。1971年に始まった「街道をゆく」は亡くなられた1996年まで25年間続きました。司馬遼太郎さんが亡くなられてもう19年もたったことに驚いています。
 「街道をゆく」の第一回「湖西のみち」のあとは「竹内街道」。これは大阪芸術大学のすぐわきを当麻の方向へ行く満です。小野妹子も通ったかもしれません。司馬遼太郎さんの御母堂の御実家が葛城みちにあったそうですから、山の向こうとこちら(大阪がわ)とは言え、大阪芸術大学のある河内ともなにがしかの縁を感じました。

 写真は琵琶湖に浮かぶ竹生島。竹生島へ渡る船の窓から撮影しました。

近江今津のアイスティー

2015年08月08日(土)

 朝日新聞8月4日オピニオン欄。ジョン・ダワー氏インタビューで朝鮮戦争当時、ダレス米国国務長官が日本に再軍備を迫ったことが語られている。米国は日本が憲法を改正し再軍備するだろうと考えていた様子。しかし「専守防衛」の「自衛隊」で妥協が諮られた。押し付け憲法と言うが、占領下で作られた憲法をその後の70年の歴史の中(国際情勢の変化)で自分の(自国の)ものにしてきた。ジョン・ダワーの「敗北を抱きしめて」(岩波書店)はいわば日本国憲法を自国独自のものにする過程を克明に描き出している。ジョン・ダワー「敗北を抱きしめて」でいささか実感とズレを感じるところがあるのは「天皇」についての記述だ。ケネス・ルオフ「国民の天皇 戦後民主主義と天皇制」(岩波現代文庫)が補ってあまりある研究をしている。
 朝日新聞8月5日朝刊オピニオン欄。加藤陽子氏インタビュー。日中戦争から太平洋戦争へ。「国が国民を存亡の危機に陥れた」戦争とは何であったのかを語る。国体を守る戦争から「個」の尊厳への変化。加藤陽子氏が栄光学園高校の生徒とともに第一次世界大戦後から日中戦争へのプロセスを研究した「それでも、日本人は戦争を選んだ」(朝日出版社)は高校生の質問および問題の立て方が秀逸。なんとなくわかっているつもりのことを、構造的にとらえ直す(説明しなおす)契機を作り出している。戦争を語り継ぐとしばしば言われるが、遠く離れて初めて見えてくるものもあるので、研究者と高校生の対話はそれをうまく引き出しているのが「それでも、日本人は戦争を選んだ」(朝日出版社)であった。
 朝日新聞8月6日朝刊・オピニオン五百旗頭真氏インタビュー。米国の「力」(軍事)と「利益」(経済)と価値(政治的理想)について輪郭線のはっきりした見方を示す。田母神俊雄氏がアパグループ主催の懸賞論文「日本は侵略国家であったのか」で政府見解とは異なる論文で航空幕僚長の職を解任された直後に、五百旗頭真氏が防衛大学校校長に就任された。防衛大学校の教育プログラムを改めたと聞く。日韓双方の交流もそのなかに含まれた。
 戦後70年として朝日新聞の掲載したジョン・ダワー氏、加藤陽子氏、五百旗頭真氏のインタビューは現在の学術水準からみて妥当なものだと思われる。それに比べて、8月6日に出された「慰安婦問題、米研究者らに反論 日本の学者110人声明」は特異な見解と言わなければならない。そして、この特異な見解が安倍内閣の背景に存在している。このような声明には専門家はそれぞれの立場から反論してもらいたい。

 近江今津の琵琶湖の岸のカフェでアイスティーを飲みながらケネス・ルオフの「国民の天皇 戦後民主主義と天皇制」を読んでいた。ネットを離れてまとまったものを読む心楽しさがあった。

関西のうなぎ

2015年08月05日(水)

 関東は腹開きで、蒸してからかば焼きに。関西は背開きで頭つきで蒸さずにかば焼き。うなぎの調理法が変わるのは東海道のどのあたりでしょうか。浜松はまだ東京風に腹開きで蒸した鰻をかば焼きにしていました。
 鰻は絶滅が危惧されているそうです。
 7月末から8月あたまにかけて、京都、大阪、滋賀、神戸と巡り歩いていました。
 関西のうなぎを初めて食べました。かば焼きに焦げ目がついて香ばしく、これはこれで美味しいなと。
 写真は琵琶湖のほとりの近江今津の魚屋さん。駅の改札正面で鮒ずしを売っていたのには、驚嘆しました。これがとてもおいしい鮒ずしで、鮒すしを買うためにだけ近江今津へ出かけてもいいなと思うくらいでした。湖西線は古代からの北国街道で旅をするにはいい場所です。

   
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