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中沢けいコラム「豆の葉」
   
 

遠き山に日は落ちて

2012年09月23日(日)

 初島は熱海から船で30分ほどのところにある小島です。小さな港があります。港のふちには、釣やダイビングのお客さんを相手にした食堂が並んでいます。

 食堂でお昼を食べ、塩湯だという温泉にのんびりと浸かり、夕方の最終の船で熱海に戻ってきました。

熱海のカモメ

2012年09月20日(木)

 法政文芸の編集委員の諸君と熱海へ出掛けたのは9月半ばのこと。その時はこのまま永遠に夏が続くのではないかと疑われたほどの暑さでした。それからわずか2か月で東京はすっかり冬の気配です。椚や欅、それに銀杏が赤、黄色に染まる暇のないような冷たい雨が降っています。

 北京では50年ぶりの大雪とか。万里の長城で遭難した日本人観光客がいたというニュースも入ってきました。ソウルもたいへん冷え込みが厳しいそうです。

 熱海沖の初島へ渡り、海水の温泉に浸かってのんびりしていたのが、わずか2か月前とは信じられません。初島の海水の温泉はなかなか快適で、冬でも太陽のしたで、はだかでのんびり過ごせそうです。(2012・11.6記)

スリップウェア

2012年09月19日(水)

 バーナード・リーチが作陶を始めて今年で100年目だそうです。バーナード・リーチはイギリスの外交官の息子として香港で生まれました。幼少期にしばらく日本で過ごしたこともあったそうです。イギリスで美術を勉強してから日本へ戻り、柳宗悦らに出会い、民芸運動の中心的人物の一人となります。「西洋と東洋の感覚の結婚」をめざしました。

 スリップウェアは工業化する以前のイギリスの作陶方法で、釉薬を流しかけする(スリップさせる)素朴な陶器です。私が最初にスリップウェアに出会ったのは、城戸朱里さんたちと横浜の骨董市へ遊びに行った時でした。「これは本物のスリップウェアだね」と骨董市に出ていた四角い武骨な御皿を見せてもらいました。

 7月、神田の「千鳥」でスリップウェアの技法を使った御皿を3枚買いました。横浜の骨董市で見たものよりもずっと薄手にできているもので、柄は武骨なスリップウェアの特徴がよく出ていました。この技本は最近また作陶をする人に注目されているという話をその時、聞きました。

 島根の玉造温泉で1泊して、翌日、電車を待っている時に駅前に出ていた「湯町窯」の看板に骨董市で見たスリップウェアとそっくりな焼物の写真がありました。それで、電車を待つ間にちょっと寄りこんだところが、たいへん魅力的な品物がそろっていることに驚きました。お話を聞くとスリップウェアの技法は、昭和の初めにバーナード・リーチから直接に教わったものだそうです。昭和の初め、まだ、町でコーヒーなんか飲んだことがある人はいなかったのに、コーヒーカップの作り方を教えてもらったとのこと。横浜の骨董市で見たスリップウェアは武骨過ぎる感じがしましたが、湯町窯のスリップウェアは、良い具合に日本の土と風に馴染んでいました。豆を食べたり、栗を食べたり、芋を食べたりしたくなる器です。

 写真は櫛目の小皿と、櫛目で小さな魚を描いた小皿です。

 数えてみるとそれからもうすぐ90年になろうとしているのですが、その間、長閑に作り続けられた器は、大きさも厚みも色合いも、しっくりと手に馴染んでくるものでした。家に持ち帰って使うと、ますます、馴染みがよくなってきました。

日御碕

2012年09月17日(月)

 出雲へはゼミの合宿に付き合いました。今年は休暇中ですが、合宿はちょうど日程があったので、出雲の後半だけおつきあい。昨年、伊勢神宮でしたから、出雲へも行ってみたかったのです。

 というわけで出雲大社でゼミ生諸君と合流。例によって、各自、現地集合というやり方で、聞いてみれば、利用した交通機関もばらばら。飛行機で出雲空港へ降りたのは私だけでしたが。翌日もまた、それぞれに帰って行きました。私が「韓竈神社に行ってみたい」と言うと、何人かが同行を申し出てくれました。が、その先が困ったです。日御碕に行きたいという人と、玉造温泉へ行きたいという人がいて、方向が正反対。ああ、どうしようと思いながらもせっかく出雲へ来たのだから、どっちかを選ぶのもつまらない気がして、とうとう、両方行くことにしました。

 この日はへんなお天気。あっちこっちで大雨が降っていた様子で、電車は雨のために遅れが出ていました。空も曇り模様。幸いなことに、大雨には遭遇せず、雨をよけながら移動できました。大社湾を囲む山の上にはたくさんの風力発電の風車が並んでいました。

 日御碕でお昼。「雲丹は嫌いだ」という学生にむりやり雲丹を食べさせるという暴挙。それから韓竈神社へ。延喜式に乗っている製鉄の神様ということで興味を持ちましたが、行ってみると、なんと山道から急な石段の上り坂で、最後は幅45センチの岩の割れ目を通って小さなお社の前へ出るという神社でした。なんでも秘密のパワースポットとテレビで紹介されてから、お参りする人が増えたとのことで、この日も若い人のグループがいました。携帯の電波が通じない山の中。45センチの岩の割れ目にもし挟まったらたいへんなことに!学生諸君が同行してくれたのが、たいへんありがたく感じられる神社でした。挟まらなくってほんとに良かったと、本気で思いました。ネットで調べたら肥満の人は参拝不可能だと書いてありました。

 古代の神社は、たいてい、たいへん住良さそうな場所にあります。沖縄の御嶽も、心地良い風の吹く場所です。韓竈神社はその名前が延喜式に乗っているそうですが、場所は解らず、今の場所は江戸時代になってできた様子なので、山伏のような、山岳信仰の考えで盛んになってから鎮座したのかなと考えながら、山道を下りてきました。

 最期に玉造温泉へ。日帰り温泉でひろ風呂浴びたら、もう電車に乗るにはぎりぎりの時間。なんらか泊まりたくなっちゃいました。玉造温泉に。で、学生諸君を駅まで送って「じゃあね」とばかりに、私だけ玉造温泉に一泊しました。これも17年ぶりです。前に泊まった時は柳美里さんと一緒のお部屋でした。

出雲大社

2012年09月16日(日)

 95年の秋。日韓文学者会議のあと、韓国の詩人、作家のみなさんと出雲大社に行きました。17年ぶりということになります。前回、出雲大社に来た時には、この大きなしめ縄にコインがたくさん刺さっていたのを覚えています。最近はパワースポットブームとかで、若い人がたくさんお参りするとのこと。たしかに夏休みのカップルが目につきました。縁結びの神様だからかもしれません。

 出雲大社のそばにできた島根県立古代出雲歴史博物館の銅剣は圧巻でした。関東だったら、1本出土しても大騒ぎになりそうな銅剣が358本も出て来たのです。358本の青銅の剣が、ぴかぴかするレプリカで壁面に展示されているのは圧巻でした。銅鐸も大小取り混ぜて、眺めきれないくらいたくさんに展示されていました。

 領有権問題で大騒ぎになった竹島は島根県の島です。ある意味で出雲は国境の町と言えるでしょう。出雲の博物館と朝鮮半島の慶州の博物館の展示物がよく似ています。それは双方の交流のあとをそのまま物で物語っています。古代人が銅剣や銅鐸を大事にしていた頃は、もちろん、日本も韓国もなだなくって、現代とは異なった地理感覚で人は移動していたことでしょう。大社湾の水平線のかなたには白い積乱雲が並んでいました。水平線に積乱雲が並んでいるうちは「まだ夏です」とタクシーの運転手さんが言っていました。出雲へは羽田から飛行機で移動したのですが、考えてみると、ここでは関東平野の東京よりも朝鮮半島の古都の慶州のほうがずっと近いのです。古事記に、海を渡ってきた人が、死んだはずの兄にそっくりの人物を見つけておどろくという話があったのを思い出しました。

よくしゃべる荒焼(あらやちー)の壺

2012年09月12日(水)

 やちむん通りの雰囲気がここ数年ですっかり変わったと見ていたのは6月です。それから2か月。あらまと驚いたのは、やちむん通りと、平和通りの市場の間に大きな道路が一本開通していました。平和通りの迷路のような市場から骨董屋さん、古道具屋さんの前を通ってやちむん通りへという流れが、道路一本で寸断され、やちむん通りは市場と切り離されてしまいました。孤立した感じがします。

 以前はやちむん通りを歩くとあらやちー(荒焼)の壺や甕をたくさん売ってました。もともとは泡盛などをいれる器です。それからシーサーがたくさん並んでいた時期もありました。赤い塗料を塗ったようなお魚の柄の器が並んでいたこともあります。今は、ものやさしい菊紋や水玉の焼物が増えています。こんなに流行があるとは知りませんでした。

 あらやちーの壺は前々から欲しいと思ってはいたもののなかなか高価で、しかも実用品ではないので手が出ませんでした。そのうちにと、見るだけにしているうちに数が減ってきたので、今度は一大決心。お店の棚の下で埃をかぶっていた壺をひとつ求めました。民藝から現代風なクラフトへという流れの中で取り残されたような壺でした。持ち帰るには重すぎるでの宅急便で自宅まで送ってもらいました。

 荷をほどいてみると、壺にはちょっとした歪みがありました。この歪みができた時、心地よい風でも吹き込んだのかなと想像しました。作る人のちょっとした手の動きが残っているのをおもしろく感じたのでした。するとなにやら壺がむにゃむにゃと喋っているような。そんな感じがする物品は骨董屋さんで買ってきたものには時々あるのですが、今物では珍しいのです。

 おや、おや、こいつはお喋りだと思うと、またむにゃむにゃ、何を言っているかまでは解らないのですが、なんだかむにゃむにゃ言っているのだけは耳に聞こえてきます。朗らかなおしゅべりさんです。なんだか仲良くなれそう。

あおい島バナナ

2012年09月03日(月)

 先月、那覇からソウル・仁川へ飛んで、1ヶ月ぶりの那覇でした。牧志の公設市場を覗くと、青いバナナがたくさん、並んでいました。写真は沖縄産の島バナナですが、フィリピン産の青いバナナもたくさん並んでいました。島バナナはフィリピン産よりも小さくずんぐらもっくらした形をしていますが、味はフィリピン産よりも甘みと酸味の混じりあいが絶妙とのことです。

 今頃がバナナの収穫期なのかしら?それにしても青いバナナばかりだと不思議に思っていたところ、与那覇恵子さんから「沖縄はお盆なの」と教えてもらいました。陰暦の7月14日、15日、16日青いバナナはお盆のお供え物に欠かせないそうです。青いバナナが黄色くなる頃、ご先祖様は「にらいかない」に帰り、お供えからお下がりの黄色いバナナと食べるとのこと。東京でお盆のお供えに使うほおづきも、青い実が熟して黄色くなるとご先祖様があの世から帰ってくるのだと言われていますが、バナナのほうがなんだか「おいしそう」な感じです。しかし、もともとの土地を離れて暮らす人にとってはお盆の先祖供養はけっこうたいへんです。

 従軍慰安婦のことで、韓国の若い世代が祖母の世代の「名誉回復を考える」ことに興味を持ったと書きましたが、先祖供養のことなどを考え合わせると、それはけっして理解できないようなことでもないような気がするのです。韓国は儒教の考え方が強いからだという説明も耳にしますが、それはそうかもしれませんが、同じような感覚を持っていたのに、先祖の土地から離れてしまった日本では「あんまり考えたくないこと」だったのかなと青いバナナを眺めていました。それで「昔の人のことは忘れるようにした」と、そんな気持ちの動きがあったのは想像できることです。

 9月8日は私の父の命日です。ここのところしばらくお墓詣りもしてません。弟任せにしてます。弟に聞いたらお寺さんがお墓をきれいにしてくれてあったとのこと。以前はお墓のお守りと言えば、誰も興味関心を持ってくれずに一人で孤軍奮闘しているような気になったこともありましたから、弟と弟のお嫁さんにすっかりお任せというのも「なんだかいいなあ」で肩の荷が下りたような感じです。もうちょっと涼しくなったら、房総半島先端のお寺に行ってこようかなと、考えつつ、つい青いバナナを買ってしまいました。黄色くなるまでに1週間くらいかかるそうです。

那覇の空

2012年09月02日(日)

 首里城は赤いお城として有名です。以前の那覇は、もっと内陸へ海が入り込んでいたそうですから、泊の港へ入ってきた船の乗組員は、赤い首里城をきっと頼もしく眺めたことでしょう。浦賀へ現れたペリーの一向もまず琉球へ立ち寄り、当時の日本の国情を調べたそうですから、きっとペリーも洋上から赤い首里城を眺めたに違いありません。久しぶりに首里城まで行きました。復元工事はまだ続いていて、正殿の後ろ側に控える王族の居住部分が新しく作られていました。

 写真は南殿の屋根。赤い瓦と白い漆喰、それに青い空のコントラストが見事だったので、カメラを向けたのですが、あの空の広々とした感じはなかなかカメラのは収まりません。那覇と東京を行ったり来たりするうちに、なんとなく日本の国境のイメージが湧いてきました。定規で引いたような国境ではなく、国と国の間に中間領域が存在しているような国境のイメージです。

 平家物語は「祇園精舎の鐘の声〜」で始まる無常をとく物語と言われています。那覇の街を歩いていたら、平家物語の冒頭が唐天竺の「祇園精舎」から始まることがひどく意味深く聞こえてきました。平家は瀬戸内海の海上交通の権利を抑えた一門であり、遠く唐天竺までその力が繋がっていることがなければ、あの物語の冒頭はないのだなあという気がしてきたのです。中学校の時に無常を説く物語と教えられた時には「祇園精舎」は仏教思想の現れという意味の響きしかなく、抹香臭いお寺の匂いしか感じませんでしたが、那覇では唐天竺の祇園精舎への海上の道が夢想されました。

 祇園精舎の鐘の声所行無常の響きあり
 沙羅双樹の花の色盛者必衰の理を現す

 祇園精舎への鮮やかな海上の道が見えてくると、沙羅双樹の花の色も、南海に咲く熱帯植物の色の濃さが目に浮かびます。平家の栄華はそのような色鮮やかなものだったのでしょう。おかげで俊寛が鬼界ヶ島に流されたのも、なにやら意味深く思えてくるのでした。

 首里城の北殿には、沖縄サミットが開かれた時の晩餐会のメニューと、当時の森首相の写真がありました。晩餐会で使われた食器類の展示も。それを眺めていると、そばにいた参観者のおばあさんが「この頃は日本も良かったよねえ」と嘆息していました。沖縄サミットは2000年7月。20世紀最後の年の夏の初めに開かれたのでした。

   
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